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<title>中村隆一郎の演劇時評</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>演劇評論、劇評、演劇時評、演劇･舞台についての評論。
クソ面白くもない劇評、何を言いたいのか曖昧模糊な新聞コラム、興行主と明らかな共犯関係の劇評家、やたらに理屈っぽく知識をひけらかす無意味な評論、これらは、粉砕の的である。
舞台をまともに批評できなければ、作り手がやがて途方に暮れるであろう。演劇と劇評は車の両輪である。</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
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<dc:date>2026-04-11T09:02:25+09:00</dc:date>


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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-000113.html">
<title>懐かしき恋人の歌（ジャック･ブレル　1967年　）</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-000113.html</link>
<description>懐かしき恋人の歌（曲：ジャック･ブレル　訳詞: 矢田部道一　1967年　）
 
ゆるやかな月日が　僕を包んでいるしあわせに囲まれ　僕は暮らしているだけどふと気がつくと　二十歳の日々をふり返っているあれからもう長い月日が過ぎ去っているのにOh mon amour 限りない優しさで　君を愛しんだ日々Je t’aime 今でも君が好きだ
 
愛し合う二人が　なぜ別れたんだろう諍いの嵐が　吹き荒れた日もあ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>懐かしき恋人の歌（曲：ジャック･ブレル　訳詞: 矢田部道一　1967年　）</p>
<p> </p>
<p>ゆるやかな月日が　僕を包んでいる<br />しあわせに囲まれ　僕は暮らしている<br />だけどふと気がつくと　<br />二十歳の日々をふり返っている<br />あれからもう長い月日が過ぎ去っているのに<br />Oh mon amour <br />限りない優しさで　君を愛しんだ日々<br />Je t’aime 今でも君が好きだ</p>
<p> </p>
<p>愛し合う二人が　なぜ別れたんだろう<br />諍いの嵐が　吹き荒れた日もある<br />何もかも捨てて　僕は飛び出し　また<br />また帰ってきた　君もまた　幾度荷物をまとめ<br />飛びだしただろう<br />mon amour <br />限りない優しさで　君を愛しんだ日々<br />Je t’aime 今でも君が好きだ</p>
<p> </p>
<p>仕合わせな月日を君は過ごしている<br />仕合わせな月日を僕は過ごしている<br />なのにどうして　<br />二十歳の日々をなつかしむのだろう　<br />優しさにあふれ　おそらく君も思い出すだろう<br />Oh mon amour <br />限りない優しさで　君を愛しんだ日々<br />Je t’aime 今でも君が好きだ</p>
<p> </p>
<p><iframe width="500" height="280" src="https://www.youtube.com/embed/3MONSd0H1tY?si=dDytPNjNkspd2vTk" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen=""></iframe></p>
<p>La chanson des vieux amants （懐かしき恋人たちの歌）</p>
<p>Bien sûr, nous eûmes des orages<br />Vingt ans d'amour, c'est l'amour fol<br />Mille fois tu pris ton bagage<br />Mille fois je pris mon envol<br />Et chaque meuble se souvient<br />Dans cette chambre sans berceau<br />Des éclats des vieilles tempêtes<br />Plus rien ne ressemblait à rien<br />Tu avais perdu le goût de l'eau<br />Et moi celui de la conquête</p>
<p> </p>
<p>Mais mon amour<br />Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour<br />De l'aube claire jusqu'à la fin du jour<br />Je t'aime encore tu sais<br />Je t'aime</p>
<p> </p>
<p>Moi, je sais tous tes sortilèges<br />Tu sais tous mes envoûtements<br />Tu m'as gardé de pièges en pièges<br />Je t'ai perdue de temps en temps<br />Bien sûr tu pris quelques amants<br />Il fallait bien passer le temps<br />Il faut bien que le corps exulte<br />Finalement, finalement<br />Il nous fallut bien du talent<br />Pour être vieux sans être adultes</p>
<p> </p>
<p>Oh, mon amour<br />Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour<br />De l'aube claire jusqu'à la fin du jour<br />Je t'aime encore, tu sais<br />Je t'aime</p>
<p> </p>
<p>Et plus le temps nous fait cortège<br />Et plus le temps nous fait tourment<br />Mais n'est-ce pas le pire piège<br />Que vivre en paix pour des amants<br />Bien sûr tu pleures un peu moins tôt<br />Je me déchire un peu plus tard<br />Nous protégeons moins nos mystères<br />On laisse moins faire le hasard<br />On se méfie du fil de l'eau<br />Mais c'est toujours la tendre guerre</p>
<p> </p>
<p>Oh, mon amour<br />Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour<br />De l'aube claire jusqu'à la fin du jour<br />Je t'aime encore tu sais<br />Je t'aime</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2026-04-11T09:02:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-6f28c1.html">
<title>劇評「三人の密偵」（劇団チョコレートケーキ）</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-6f28c1.html</link>
<description>配信で見るはめになったものだ。今更張作霖でもなかろう！）
 
密偵と言うのは所謂スパイのことである。劇に登場するスパイは、ジョン・ル・カレやフリーマントル、フレデリック・フォーサイなどの小説に登場するような冷徹で、機敏でスマートでプロフェッショナルな男たちではない。小説に比べて、現実世界は、そんなものでもなかろう、とは言え、互いに｢オレは○○の諜報員だ｣と利害の一致しない立場を名乗りあっていて、し...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/c524783430629d42880129809c0a179_20260316045101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="C524783430629d42880129809c0a179_20260316045101" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/c524783430629d42880129809c0a179_20260316045101.jpg" alt="C524783430629d42880129809c0a179_20260316045101" width="149" height="212" align="right" border="0" /></a>配信で見るはめになったものだ。今更張作霖でもなかろう！）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">密偵と言うのは所謂スパイのことである。<br />劇に登場するスパイは、ジョン・ル・カレやフリーマントル、フレデリック・フォーサイなどの小説に登場するような冷徹で、機敏でスマートでプロフェッショナルな男たちではない。小説に比べて、現実世界は、そんなものでもなかろう、とは言え、互いに｢オレは○○の諜報員だ｣と利害の一致しない立場を名乗りあっていて、しかもこれらの機密情報を聞き出そうとするものが、互いに兄弟である。ということになると、英国の作家たちは｢オーマイガット！」と唖然とするだろう。身内だから情報は取りやすいとも言えるが、素性が知られている以上、互いに何を掴まされるか、知れたものではない。これが、CIAとMI6にモサドと言う組み合わせなら利害は基本的に対立しないが、CIAとKGBがアヘン窟で密会となると、高度な情報分析に加えて心理分析も重要になる。インテリジェンスの世界を知っていれば、そう考えるのが常識だろう。とりわけ、これらのスパイたちを操る上層部の人間は、兄弟から得た情報の真実性を判断するのに苦労するはずだ。ただし、何が起きそうかと言うことが、誰にも予想できるなら、その補助線があれば、状況を判断するのがより容易になるだろう。<br />もうひとつの疑問は、このスパイたちが追いかけている「情報」が、関係者一同にとって、生死を分ける重大事なのか、ということである。つまり、その情報がなければ、味方が危機存亡の事態になるとか、局面が大きく変わるとか言う類のものなのかということである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">話を劇の内容にしたがって、具体的言っていこう。<br />この劇団の芝居は、歴史的事実を中心に据えて、それに関わった人間たちを描いたものがほとんどのようだ。<br />この芝居も、満州軍閥、張作霖爆殺事件（1928年）の前後を背景に、それぞれ所属を異にする三人の諜報活動家が満州、奉天の隠れ家で相まみえるという話であった。（劇は、それぞれ二人がからむ三本の芝居で構成される。）<br />三人のスパイの立場とは、まず、一人目は蔣介石軍の情報部員、王英三（西尾友樹）である。二人目は、商社の会社員を装っている関東軍の諜報員、森高逸二（浅井伸治）。最後は、帝国陸軍参謀本部の情報将校、池内武一（岡本篤）である。<br />この三人はそれぞれ姓は異なるが、父親が同じ三兄弟である。<br />末弟である王英三は、中国人の母親と帝国陸軍将校、池内某との間に生まれた子で、幼い頃に池内家に引き取られ日本で育った。二男、森高逸二は、商社を経営する森高家の養子になり、長男、武一は父親のあとを追って軍人になった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">蔣介石の国民党軍のスパイである三男、王英三の関心、得たい情報は「関東軍は、張作霖を今後も奉天軍閥としてその存在を認めるつもりがあるか？｣ということである。この情報を、関東軍のスパイである二男と、陸軍参謀本部の情報将校である長男から聞き出したい、というのが会見の目的であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この頃の張作霖軍閥は、北京まで出張ってきたものの蔣介石の国民党軍に追い出され＝北伐、（1926年）、拠点を再び奉天へ戻そうとしていた。張作霖はもともと満州馬賊からのし上がった二十万の兵力を持つ軍閥で、支那東北地方を支配していたが、自らを大元帥と言い、支那全土をうかがうようになると、関東軍との利害が衝突するようになって、その関係は微妙になっていた。<br />つまり、関東軍が満州に足場を築くのに利用した張作霖が、今後は抵抗勢力になることはあきらかであった。つまり、張作霖という｢邪魔者は消せ！｣が関東軍のときの要請であった。<br />では、万が一、関東軍が張作霖を排除した（消した）時、蔣介石の国民党にとって、どんな影響があるか。<br />多数存在する軍閥の一つが消滅することは、国民党にとって悪い話ではない。また、張作霖排除によって国民党軍が直ちに日本と交戦状態になるとは考えにくい。<br />つまり、この時期、関東軍が張作霖の存在を排除したい事情は誰の目にも明らかであった。それが実現すれば、関東軍の満州支配はやりやすくなるのも容易に想像がつく。その状況が、国民党にとって、最大のクリティカルイシューだったかと言えば、起こりうることを並べてみても、たいしたことにはならないのがわかる。<br />しかもこの時期の国民党は、支那統一の正当性を確保したとはいえ、各地に残る軍閥、ソ連の支援を受けている共産党との主導権争いに注力する必要があり、満州を支配しようとする関東軍と対峙する余裕はない。（このときの首相田中義一と蔣介石の間には密約があったという）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">実際、起こってみれば、｢爆殺｣というセンセーショナルなやり方だった事をのぞけば、その結果は予測したとおりになった。張作霖は馬賊の棟梁だったが（文盲<br />という噂があった）息子、張学良を欧州に留学させて、後継者にした。これが、恨みを晴らす為に関東軍と一戦交えようとはせず、革命成就のために国民党軍に合流すると決めてしまった。国民党にとっては願ってもない結果ではないか。関東軍が張作霖を暗殺するのではないかという王英三の「焦燥」は、そのとおりになったが、その結果は、国民党の利益になって終わったといえる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">と言うことは、｢張作霖排除｣という客観情勢にあって、それがどんな形で実行されようと、結果は相当程度予測可能だったのである。しかも、自分たちに不利にはならないと言う確信はあったはずだ。｢いつ、どんな方法で？｣は、知らなくても、近いうちに起きるだろうことが予想される、と言う意味で、もはや政治的には何の価値もない情報であった。<br />この三人のスパイたちが、諜報的にあまり価値のない情報をとろうとしていたのは、その後の歴史を見ても明らかだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">最近、ベネズエラで起きた出来事はこれに似ている。<br />マドゥロ大統領は、国民を弾圧する独裁者で、米国に麻薬を送りつける犯罪者と米国は名指ししていた。また、ロシアや中国に接近し、それらの南米大陸への足がかりを提供している。米国にはマドゥロを排除する理由がいくつもあった。<br />ある日、米国は秘密の作戦によって、マドゥロを生け捕りにして、無力化した。それにより、中国とロシアは致命的なダメージを受けたか？といえば、石油の供給源の一つと複数ある南米への足がかりの一つを失ったに過ぎない。<br />米国は他国の権力者の排除を周到に合法的に行ったが、1928年の張作霖爆殺事件は、線路が上下に交差する地点を選び、通過する客車の屋根の方向から大量の爆薬を爆発させるというもので、列車の運行時刻を調べ上げ、客車を特定するなど緻密といえばいえるが、やり方はいかにも乱暴で、政治的言い分けもなにもできなものであった。（真相はあきらでないが、おそらく河本大作一人の頭で組み立てたものだろう。）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">総じて、張作霖排除は関東軍の戦略であり、それがどのように実践されるか、は諜報員が入手すべきクリティカルイシューではない。つまり、それが「いつ」か、｢どんな方法」かを知らないことが、国民党軍にとって、致命的なダメージになるというものではない。早い話しが、もともと張作霖がどうなろうと蔣介石の知ったことではないのである。<br />と言うことは、この劇は、三人の密偵の、スリリングな情報戦のように装っているが、中身は、ただ単に、それぞれの立場で見た｢張作霖爆殺事件｣という歴史事実を描きたかった、と言うことなのだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">では、彼ら（劇団）はこの歴史的出来事をどのように捉えて、どういう立場から評価をし、歴史の出来事を批評しようとしたのか。<br />国民党の密偵である王英三（西尾友樹）せりふを通して、分かるこの事件の評価は、とりあえず二つある。<br />第一に、張作霖暗殺は、国民党と関東軍の敵対関係を決定的なものにする（した）。第二に、兄弟の父親がいったという「支那と日本は仲良くしなければならない」と言うことに（激しく）同意する立場である。<br />また、関東軍の密偵、森高逸二（浅井伸治）は、河本大作の計画を察知し、これを制御できない陸軍参謀本部の参謀将校である兄、池内武一（岡本篤）を責め、結果として日本政府は自らの国際的孤立を招いたとする歴史評価を表した。<br />さらに、この劇では、兄弟である三人の密偵に共通するものを象徴的に表現している。それは、それぞれが、懐深く隠し待っているロザリオである。<br />この三人がどういういきさつがあって、いつからなのか不明だが、カソリックのクリスチャンであると言うことである。説明がなかったから想像するしかないが、これには二通りの解釈が成り立つだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">まず、国民党、関東軍とそれぞれ立場は違うが、信仰という点では共通の価値を信じており、肉親の絆は強い、つまり、父親の「日本人と支那人は･･････。」の言をロザリオにたくしている。（キリスト教的隣人愛）あるいは、戦争という過酷な現実を、揺るぎない信仰心（理想）によって乗り越えられるという思い、を表現しているのではないかとも考えられる。（他の解釈も成立するかもしれないが、いずれにせよ、唐突であり、歴史事実とは無関係のことだから困惑してしまう。）<br />こうした描き方を通して分かるのは、この事件が、明らかな国際法違反であり、満蒙問題は徹底した話し合いで解決すべき課題だった、というものである。これは、国民党軍密偵、王英三と二男、森高逸二の主張する所であった。この論調は、戦後の国際協調の時代における大東亜戦争評価の典型的なものである。つまり｢こうあるべきだった｣が先に立って、現在の価値観で歴史を断罪しようとする態度である。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">冷戦時代を通じて、東西の力が均衡しているときは国際協調はかろうじて保たれた。（理想主義が実現していた。）もっとも国連の常任理事国は第二次大戦の戦勝国五つで構成されるといういびつなもので、しかもそれぞれ拒否権があるために何も決められない組織である。<br />戦後の日本の知識人には、国連至上主義のような事を唱えるものが多数いた。（今も少なからず存在するが）<br />代表格は、政治家の小沢一郎である。また、団塊の世代の加藤典洋などは、晩年、自衛隊の大多数の部分を国連軍に差し出すべきだとまで言うようになった。（拙稿｢取り残されたものたち」を参照）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">日本の左翼知識人がどう言おうと、国連軍が出来たためしはないし（朝鮮戦争のとき米軍がこれを名乗ったことはある）、今後もその気配すらない。<br />つまり、第二次大戦以降の、各国の力の均衡が保たれていた時期が終わると、各国は自分の思惑で、ことを主張しはじめ、行動するようになる。<br />実は、近代国家とは、もともとが本質的に対立するものであり、国連がそれをまとめるなどと言うのは幻想に過ぎないのであった。<br />トランプ大統領に、ベネズエラやイラン侵攻は国際法違反であり、国連憲章に違反するといっても、国連が逮捕状を発行することも出来なければ、裁判すら始められない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">時間を、張作霖暗殺の時代に巻き戻そう。<br />三人の密偵の父親が、「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と言っていたことをこの兄弟はよく覚えていて、それに忠実であろうとしていた。それは理解出来る。ただし、この父親は、辛亥革命以前の世界を生きた世代であり、清が崩壊し、袁世凱が主導権を握ったあとの支那を前提にしていない。孫文の後　支那各地を支配する多数の軍閥が、日米英ソビエト各国の後ろ盾を頼りに覇権争いを繰り広げているのである。<br />確かに、辛亥革命の成就のために、日本人は孫文はじめ、革命の戦士たちの亡命に手を貸し、資金援助も惜しまなかった。<br /></span></span></span>
<p> </p><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/photo_20260325005501.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="Photo_20260325005501" title="Photo_20260325005501" style="margin: 3px;" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/photo_20260325005501.jpg" width="150" height="220" align="right"></a>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕はかつて、宮本研の｢夢・桃中軒牛右衛門の」の劇評で、そのことに触れたことがあった。桃中軒牛右衛門は、なぜ「雲」右衛門ではなく｢牛｣なのか？それは、この劇の主人公宮崎滔天が、孫文の武装蜂起に関わって失敗、失意のまま帰国して、浪曲師になろうとしたためであった。師匠のように雲ではなく、草を食むだけののろまと自分を卑下したのである。<br />この時期の日本人が、どれだけ、支那人の革命思想に共鳴し、身を粉にして協力したかは、今となっては、｢夢｣だったかと思えるくらいのものである。つまり、密偵の父親世代が、支那の革命に奔走していた時代があったのだ。<br />そのことの一端を僕は、この劇評で、書いている。<br />神田の古本屋で見つけた東洋文庫の｢三十三年の夢」（宮崎滔天著）には、宮本研の戯曲に登場する滔天の妻、槌の口述筆記が載っている。<br />槌の言葉はこう始まっている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「滔天が支那革命運動に志したのは明治二十年ごろからのことと記憶します。その頃滔天は兄の彌蔵とともに、世界の現状の不合理をあらためるには、まず支那の革命を実行して、その力で世界を理想的に改革することが一番自然であり、最も実現可能だと考えたのでした。それで兄の彌蔵と滔天とは、その頃誰でも希っていた栄達や安逸を終生捨てる覚悟を決め、将来支那に永住して、その運動に没頭する考えを決めました。その時は、私は二人を助けて飯炊きをする約束でした。･･･」（｢三十三年の夢」宮崎滔天）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">熊本民権党を率いて西郷軍に合流し、獅子奮迅の働きをして戦死した長兄八郎の影響が兄弟にはあっただろうが、妻となった槌までがその覚悟であったとは。なるほど、あれだけ夫に家を空けられて、貧乏生活を強いられても凛としていられたのは「飯炊きをする約束があった。」からだった。明治期の女の強さとはこうしたものである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">また、東洋文庫の解説を書いた衛藤瀋吉は、冒頭、清末革命運動研究家で、イスラエルのシフリン教授との雑談を紹介している。<br />彼はこういった。<br />「どうしてこうもたくさんの日本人が中国革命に夢中になったのか。中にはミヤザキみたいに兄弟そろって私財まで持ち出して情熱を注ぎ、しかもなんら報いるところを求めていない･･･」外国人から見てもこれは不思議な光景に映ったであろう。衛藤瀋吉自身も「明治の人たちの異常なほどの大陸問題に関する情熱と行動力をいったいどう歴史学の中に組み入れたらよいのであろうか。」とやや戸惑い気味である。<br />いずれにしても、これらの運動の中に欲得ずくのところがまったく見えない、純粋に大義と理想を追い求めた若い情熱だけが今日から見れば奇跡のように輝いて見えるのである。坂本龍馬の人気があるのも、変革に当たってこの無私という態度が、いまだに日本人の心の琴線を揺さぶるところがあるからなのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「民族の若返り（Re-generation）ともいうべき明治のエネルギーは一つの驚異である。」（衛藤瀋吉、前述の解説）といえるが、これはおそらく長い封建社会が醸成し磨き上げた「武士」というものの倫理がその土台になって出来たものだろう。<br />劇のせりふにも出てくるが、滔天が支那革命を志した根本的な願望は「天下の乞食に錦を着せ、車夫や馬丁を馬車に乗せ、水飲み百姓を玉の輿、四海兄弟無我自由」であり、このような社会の到来を求めたのであった。今日、世界を見渡してこの「志」が実現したとは到底いえるものではない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と三兄弟の父親が言ったことは、そのような時代背景をおいて見れば理解出来る。しかし、清が倒れて以後の支那は、各地の軍閥が覇権争いを始めて、収集がつかない状態になっていくのである。しかも各軍閥には米英ソ日などの援軍がついて侵略の機会をうかがっており、誰と｢仲良くする｣かなど定まる所を知らない状態であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この劇が、描こうとした歴史的事実とそれを評価する視点について、以下のようにまとめることが出来る。<br />張作霖爆殺事件は、力による現状変更であり、明らかに国際法違反である。従って日本のこの行為は誤りであった。ついで、理由は明らかでないが、「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と言う主張である。また、キリスト教的人類愛に基づいて敵と対峙せよ！（？）という倫理観を披瀝しようとする。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は、この劇が、どんな主張をしようと否定も肯定もするするつもりはない。<br />しかし、この劇には決定的に欠けている視点がある。<br />それを指摘してこの劇評を締めくくることにする。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">先頃、イスラエルと米国は、核開発を続けるイランを空爆して国家元首を爆殺した。歴史は繰り返すと言うが、張作霖爆殺と似てはいないか？　あれよりもっと盛大で規模は大きいが、国家が敵対するものを実力で排除したと言うことではその構造は同じである。<br />イラン侵攻は、国連憲章に反する、国際法違反だと批難する国もあるが、その点では、張作霖暗殺事件もあの時代、同様の反応であった、この劇は。それを捉えて関東軍の暴走だったと批難する立場である。<br />しかし、僕らは、イランが核開発を継続し、テロ支援など中東の不安定化を惹起していたことを知っている。また、遡れば石油利権にからんで、素性の怪しいパーレビを国王に据えて独裁を許していたが、それがイスラム革命によって、反米政権が成立し、今日に至っていることも知っている。<br />また、イスラエルにとってもイランの核武装は許容不可能なことであり、力尽くでもこれをやめさせる必要がある。<br />つまり、イスラエルと米国には、イラン侵攻は、自衛のための戦争だと言うことである。<br />国際法違反だと指摘されることが、行為者側にとっては自衛のための実力行使になり、それは｢力による現状変更｣であっても許されるはずだということになる。<br />いや、その前に、そもそも「国際法」とは何か？<br />法という以上、条文があり、罰則があり、警察機能と裁判所に刑務所がなければ、国際法を実際に機能させることは不可能だ。しかしながら、こんにち国際法と言う時、脱法行為は容易であり、罰則も経済的制裁以上になることは希である。<br />これは、百年近く前の、張作霖暗殺事件のときと構造的には何も変わっていない。<br />なぜこうなるのか？<br />それは簡単である。国際法で言う｢国際｣とは実体のない存在だからである。<br />それには近代国家の成り立ちを見ればはっきりする。<br />なるべく簡単に言おう。<br />近代国家とは、国境によって囲まれた国土とその中に住む住民とによって構成される。これが一体のものである保証は、住民全体の意思を国家に仮託することによって成立する。この意思とは、民主主義の概念の生みの親であるジャン・ジャック・ルソーが言う｢一般意思｣のことで、住民の意思の総体にたいして超越的である。我々はこの超越的な意思の存在を認め、国民として国家を認証している。<br />従って、国家がさだめた法に従い、近代国家という機能の中を生きるのだ。<br />「国際」にはこの｢一般意思｣が存在しない。国際法が単なる条文いすぎないのは、こういう理由によるから、実際には無効なのだ。（何年か前に、東浩紀がこの｢一般意思｣の概念を情報化社会の到来を背景に、ヴァージョンアップすべきと主張し｢一般意思2.0｣を書いている。）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この劇に欠けている視点とは、今日のイスラエルと米国が、イラン侵攻した理由は、我々にとって極めて明示的であるのに対して、張作霖暗殺事件に関するそれは、明確には語られていないことだ。日本の侵略ということは定着しているが、なぜ河本大作らは、どういう状況下で、何を必要としてこの事件を起こしたのか？いわば、加害側の事情は、一切取り上げない。。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">劇は、これを国際法違反と切り捨てるが、この事件を引き起こした人々の意思は.取り上げなくてよいというので、歴史を正しく認識することになるだろうか。<br />国際法違反だ、日本は悪いことをした、日本と支那は仲良くすべきだった、と言う見方で終わるのでは、当時の状況も関係者それぞれの立場も何も見えてこない。これは、歴史を語ろうとする者の態度ではなかろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">張作霖が北京を出発する時刻を知り、何両目の客車に乗って、その列車が奉天郊外のある地点を通過する時刻を予測し、それが思惑道理に進行するかどうかを見届け、それらを相互に連絡する必要がある。これが河本大作一人でできるわけがない。今度のイラン国家元首暗殺に、モサドが深く関わっていることは、周知のことだが、張作霖暗殺に関しても、これに似た厖大な諜報活動があったはずである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">劇は、この役割を関東軍の意を受けた商社マンの二男にあてたが、彼は事件の計画からは遠い位置にいて、これを国際法違反と批難するばかりであった。<br />実際に、河本大作の下で諜報活動に携わったものがいたはずである。｢密偵｣を主題に歴史を語ろうとするなら、この立場の密偵を入れなければ不十分である。<br />河本大作らが、これをどのように実行したのか詳細は明らかでないが、当時の満州における諜報活動の主力は｢満鉄調査部｣であった。彼らの情報網無しに、張作霖暗殺事件はなかったと考えられるのだが、劇は、この点を見逃している。<br />満鉄調査部は、おそらく河本の計画に深く関わっていたに違いない。しかも、それが実行されれば、日本は国際社会から批難され孤立することが確実であることを認識していたと推定される。それでも、満鉄は満鉄の利害を考慮して河本に協力したのであろう。<br />この満鉄の立場を劇で描ききっていれば、張作霖暗殺という歴史的出来事はもっと立体的に見えてきたはずである。<br />しかもこの後、日本は国際的に非難を受け、孤立を深めていくが、その三年後には国民党軍との衝突を機に満州全域の占領に歩を進め、そのまま満州国樹立まで突き進んでしまうのである。<br />今一度、話を整理しよう。<br />このときの支那は、蔣介石の国民党に統一されたが各地を支配する軍閥が多数残存しており、実際上は分断状態であった。張作霖暗殺は、この状況を利用して満州占領の足がかりを得ようとした意図が日本側にあった。その後の満州事変によってこれが実行され、それは石原完爾の｢五族協和、王道楽土｣の｢満州国」樹立へとつながる。<br />戦後我が国は、これらを日本の大陸侵略のいわば「黒歴史」として、全否定するのが通例となっている、<br />この劇も、歴史をこうした戦後の価値観で割り切ろうとするが、それでは、当時の状況がはっきり浮かび上がってこない。<br />この劇団の他の芝居もまた、この構図は変わらない。しかし、そのような自虐的な視点だけからは歴史の真実は浮かび上がってこない。「戦後」も八十年経った今、この劇団の若い世代の人たちには、歴史についての、｢近代国家｣の本質を捉えた（国際協調は重要だが、その本質は構造的矛盾である）冷静な議論を望みたい。<br /></span></span></span>
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<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"> タイトル 三人の密偵<br />観劇日 2026年2月<br />劇場 <br />主催 劇団チョコレートケーキ<br />期間 <br />作 古川健<br />原作／翻訳 <br />演出 日澤雄介<br />美術 長田佳代子<br />照明 松本大介（松本デザイン室）<br />衣装 　藤田 友<br />音楽 佐藤こうじ<br />出演 "『導火線』　王英三／西尾友樹　池内武一／岡本篤<br />『IGNITION』　森高逸二／浅井伸治　王英三／西尾友樹<br />『誘爆』　　森高逸二／浅井伸治<br />池内武一／岡本篤<br />"</span></span></span></div>
<p> </p>
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</div>
</div>]]></content:encoded>


<dc:subject>劇評</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2026-03-16T04:53:34+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-c137f8.html">
<title>「ミシュランガイド」と丸谷才一　それに『竹葉亭」</title>
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<description>
—その昔、男は食い物の話なぞしなかった—
 
丸谷才一が亡くなってから十年になる。そういえば我が国ではじめて「ミシュランガイド」が出たあたりの時分（2007年11月）、彼は、この”ガイド”の店を紹介する文章を批判してたな、と思いだした。そう思ったら、走馬灯のように（他に言い方を思いつかない）いろいろな思いが浮かんで、俄にそのいろいろを書き付けたくなった。（ぼくも、この年に、「『ミシュラン東京』だ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/photo_20260307131301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20260307131301" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/photo_20260307131301.jpg" alt="Photo_20260307131301" width="150" height="203" align="right" border="0" /></a></p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>—その昔、男は食い物の話なぞしなかった—</strong><br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">丸谷才一が亡くなってから十年になる。<br />そういえば我が国ではじめて「ミシュランガイド」が出たあたりの時分（2007年11月）、彼は、この”ガイド”の店を紹介する文章を批判してたな、と思いだした。<br />そう思ったら、走馬灯のように（他に言い方を思いつかない）いろいろな思いが浮かんで、俄にそのいろいろを書き付けたくなった。<br />（ぼくも、この年に、「『ミシュラン東京』だって？」と言う記事を載せているので、後で紹介する。）<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">丸谷才一の文章があるのは、たくさんあるエッセー集の中の一つだったと見当を付けて、夜中のことだったが本棚をひっくり返して探してみた。この「我がミシュラン論」と言う文章は、2009年12月発行の「人形のBWH」に所収されていた。<br />どんな風に批判されていたか、知りたいだろうと思うので、後ほど長い引用をしようと思う。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その前に、いま「ミシュランガイド」はどうなっているのか？<br />何年も前にすっかり興味を失ってから、その動静はたまにTVなどで知るだけで、最新のことは知らない。といっても、数年前から、対象とする地域が、東京だけでなく、大阪や京都その他の日本中の都市に拡がって、それぞれに一冊ずつ発行されていたり、ラーメン屋とかそばや、イタリア料理、フレンチなどと料理種別にも一冊として扱うと言うことになっているらしいとまでは知っていた。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「ミシュランガイド」は、フランスのタイヤメーカーがパリ万博（1900年）を機に販売促進用としてはじめた出版物だから何をどうしようと会社の勝手だが、もともとホテルやレストランの格付けをやって、勧進元としては長い間にそれなりの権威を築いてきたものだ。ところがラーメン屋とかおにぎり屋も対象というのは『権威』の前でいかがなものか、宗旨替えではないかといささか心配になる。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">聞くところによると、この出版物はミシュランタイヤの売上の1％程度を占めるにすぎないが、別に道楽でやっている訳じゃないから、これ自体のマーケティングが必要になった結果ということなのかも知れない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">最近のことは、ホームページを見るとそれなりのことは分かる。毎年コンセプトを変えるわけにゆかない出版物だから新しいイベントの報告や新規の店の紹介など内容には工夫を凝らしている。<br />こっちは丸谷才一先生に従って、店の紹介文だけに興味があるのだから、後はどうなっているかなど関心の外である。<br />このホームページには、さすがに紹介文はダイジェストだけで、全文読むなら大枚3500円を払って本を購入しなければならない。馬鹿馬鹿しいから図書館で、と思ったが、これが貸し出し中で今日の段階では入手していない。批評を試みる対象としてこれでもまあ、いいのでは。というのは、このダイジェスト版でも突っ込みどころ満載だからである。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">このホームページに掲載された紹介文をいくつか上げておこう。ランダムに選んだもので、これらの店には何の思い入れもない。<br />　<br />天麩羅 なかがわ／Tempura Nakagawa<br />中央区築地 2-14-2, 東京, 104-0045, 日本<br />&#x2605; &#x2605; &#x2605; · 天ぷら<br />・ミシュランガイドのビューポイント<br />昔ながらの仕事を貫く師匠から学んだ天ぷら。種は魚介を中心とし、高温の油で揚げる。車海老は程良い火入れで香ばしく、二尾目はレアで甘みを生かす。穴子は焼くように揚げて胡麻油の風味を重ねる。「天ぷらは脱水作業」というのが持論。衣の中で蒸し、焼くことで食材の水分を抜き、旨みを引き出す。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">鮨處 やまだ／Sushidokoro Yamada<br />中央区銀座 7-2-18 3F, 東京, 104-0061, 日本<br />&#x2605; &#x2605; &#x2605;· 寿司<br />・ミシュランガイドのビューポイント<br />兄弟で切り盛りする息の合った振る舞い。兄がつけ場に立ち、弟は裏方に徹する。品書きは15貫の握りのみ。種と酢飯の調和で完結するため、つまみや生姜は出さない。魚は寝かせて旨み引き出す熟成した種が中心。焼き椎茸、北寄貝の胡椒風味といった珍しい種も。味の流れに変化を与え、自らの発想で進化させる。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">先斗町 鮨 いし屋／Pontocho Sushi Ishiya<br />京都市中京区鍋屋町 210, 京都, 604-8015, 日本<br />&#x2605; &#x2605; · 寿司<br />・ミシュランガイドのビューポイント先斗町通、細く西に伸びる24番路地の奥に暖簾が掲げてある。すしと一品料理を自由に楽しめ客の要望に応えてくれる。和牛の炭火焼や、牛肉とうにの巻物など、すし屋で牛肉を味わえるのは珍しい。食べ頃を見計らった鮪も楽しみ。種類豊富な品書きは、割烹店の役割を果たす。もちろん、おまかせもおすすめ。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">鰻家／Unagiya<br />大阪市淀川区西中島 4-5-22, 大阪, 532-0011, 日本<br />&#x2605; · うなぎ<br />・ミシュランガイドのビューポイント<br />関西では主流の地焼き鰻を供する店。鰻を蒸さずに焼くため、皮目の香ばしい風味が特長。仕入れる鰻は身質を重視し、産地は絞らない。鮮度にも気を配り、注文を受けてから生きた鰻を割き始める。手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。店主の職人技を見ながら鰻重が運ばれてくるのを待ちたい。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">焼鳥 髙はし／Yakitori Takahashi<br />中央区日本橋 2-10-11 2F, 東京, 103-0027, 日本<br />&#x2605; &#x2605; &#x2605; · 焼鳥<br />・ミシュランガイドのビューポイント<br />渋うちわで炭火を操る主人。修業先で学んだ近火の手法を実践しながらも、自らの焼鳥を目指す。部位ごとにタレと塩を使い分ける。しっかりとした肉質を生かすため塩味が多く、種が大振りなため満足感がある。焼鳥の醍醐味は鶏もも肉にあるというのが持論。一串目に供する理由がそこにあった。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　△<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これらについての批評は後ほどにして、2008年の「ミシュランガイド東京」日本デビューの頃に遡る。<br />丸谷才一は、このとき書いた「我がミシュラン論」で、どんなことを言っていたのか。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「それにしてもすごい人気でしたね、ミシュラン。 わたしは早速手に入れてもらつてちらちらと目を通し、苫笑ひした。」<br />昔、朝日新聞の企画で小中高の教科書批判をしたとき、文学者の文に比して教科書編集者の書いた文章がひどかったことに似ているから苦笑いになったというのである。<br />「さて、ミシュランの文体はどんな 具合に悪いか。一つには欧文脈といふのか 閲係代名詞入りみたいな名詞の上にゾロゾロ長くのっかつてゐる主語や目的語入りの文章が多いのね。 このせいで頭にはいりにくくて悪文になる。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">たとへば、これは現代風フランス料理ガストロノミ—フランセーズタテル ヨシノ(一つ星 ）の紹介の冒頭。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">バリのレストラン「ステラ マリス」と芝公園にある「キュイジーヌ フランセーズ タテル ヨシノ」のオーナーシェフを務める吉野健が、「バークホテル」で2003年に開業したフレンチレストラン。汐留エリアのランドマ—クといわれる「汐留メディアタワ—」で、 同ホテルのフロントロビーと同じ階に位置する。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 110pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「吉野健」の上が長いし、「汐留メディアタワー 」の上が長い。そのくせ情報それ自体は大したことない。」<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これはもうおっしゃるとおりである。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「もう一つ、そば会席「翁 」（一つ星 ）の出だし。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">歴史ある更科そば店の八代目直系にあたる女将が独立し、料理長と共に切り盛りしている、 そばが名物の日本料理店。料理長は、先代にそばの文化を教え込まれた。その場で手打ちをし た後、茹でたてのそばだけを供している。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">読んでて厭になる下手な文章だが、それにしても「茹でたて」でないそばを出すそば屋があるものかしら。不思議な気がします。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">和食「石かわ 」（二つ星 ）はこんな調子。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">上記の住所で 年間営業していたが、「石かわ」の若き店主は 年末に神楽坂6-37へ店を移転する。掲載されている写真や地図は移転前のものとなり、電話番号は変更しない。 移転後も、今までと全く変わらない季節料理を供する。店主は東京の割烹料理店で 修行を積んだ 。メニューはおまかせで、コース料理は魅力的な内容でまとめられている。以来、足繁く訪れる常連客のお目当ては、割烹の伝統を受け継ぎながらも他所では朱わえない逸品の数々。一貫したもてなしの精神と、店主の味づくりに対するひたむきな熱意こそ、この店の最大の特色 といえるだろう。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これで約三分の二。引越しの話がゴタゴタしてゐて、面倒くさくなるでせう。気持がすっきりしない。たとへば「以来」とは何以来なのか。「常連客」とは「足繁く訪れる」者に決ってるぢ やないか。こんな文章では、とても出かける気にならない。」<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここで、丸谷先生、突然、文春の料理屋案内本を取り上げて比較する。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「その点、さすがは文藝春秋、『東京いい店うまい店』の文章は段違ひにうまい。今までこの本の文章に感心したことなんかなく、ただ単に、『東京いい店うまい店』はかういふ調子で書くとだけ思ってゐたのだが、ミシュランと比較してみるとすごかった。」<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この『東京いい店･･･」については、僕も「『ミシュラン東京』だって？」で言及しているが、丸谷才一先生が言うように「すごかった」などとはちっとも思わなかった。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「たとへば鰻の竹葉亭本店。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">竹葉亭本店<br />—<br />中央区銀座 〔味〕<br />〔値段〕 &#x2605;&#x2605;&#x2605;&#x2605;&#x2605; 〔サービス〕 &#x2605;&#x2605;&#x2605;&#x2605;&#x2605;<br />昭和通りを扶んで、三井ガ—デンホテル銀座の前あたりを東側に一筋人ったとこ ろにある。<br />幕末創業の歴史を誇るうなぎ屋の名門で、由緒ある庭を眺めながらのお座敷で 鰻を焼きものとする会席料理を、また、気軽ににはいれる椅子席では鰻お丼や幕の内弁当など、老舗の味を楽しめる。<br />高級店でありながら鰻飯は本來丼で出すものと、お重を使わないのはおもしろい。 その鰻お丼は鰻の目方に応じて二種類。 竹の模様をあしらった器もしゃれていて、上品に焼きあがった鰻がすっきり納まっているのはいかにも銀座のうな丼といった風情である。鰻以外に季節の一品などもあり、値段も手頃。池波正太郎氏が好んだという鯛茶漬けが人気で、昼時などはこれを目当ての客も多い。 この椅子席も夜は予約が必要だ。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">読みやすいし、事柄がすつきりと頭にはいるし、竹葉へ行つてウナ丼を食べたくなるでせう。 わたしはあの店の椅子席で一杯やるのが好きなんです。これ 池波さんに教へられた。ただし、 ハウスワインがもうすこし吟味してあるともつといいね。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ついでに念のため、ミシュラン『･･･2008』の 竹葉亭（一つ星）を全文（ 定休 日や営業時間や所書きや電話番号を省いた形で）引用する。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">江戸未期に創業したうなぎ料理の店。銀座八丁目にあるのが本店で、現在の主人が七代目。<br />創業した頃は『刀預所』だつたが、二代目からうなぎ料理を始め、1876（明治九年）年の『廃刀令』でうなぎ料理の専門店となった。<br />年期の入った建物は物は、1924年（大正十三年）に新富町から移転して以来のもので、昭和の戦禍を受けずに残った貴重な建造物。オフィスピルに囲まれた日本家屋の点内はすべて座敷で、二階が大広間になっている。離れには茶室もあり、茶道具の骨董品も置かれている。<br />京都の庭園の石組み職人が手懸けたという小さな中庭もある。 美術や骨董とこの店の関わりは、うなぎ研究家で美術家でもあつた 二代目に始 り三代と四代は粋人北大路山人との親交もあつた。店内にさりげなく置かれた当時の器や美術品は、いまも力強く存在感を表している。<br />竹葉亭のうなぎは、ふっくらとした肉厚が特徴。秘伝の技法で拵えるタレにも定評がある。 おすすめ料理の白焼きは、さつばりとわさび醤油で味わう。自然体で日本の情緒を寿ぎ、愛でることの出来る店。和服を着た女性従業員の応対やサ—ピスも親切だ。座敷は予約が必要 。入りロが别になつているテーブル席では、うな丼が昼夜ともに 手ごろな価格から楽しめる。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これぢやあ、とても、銀座八丁目へ行ってウナ丼といふ気にならないでせう 。ブロとアマの相違である。<br />竹葉が （カタナアヅカリドコロ？ ）だつた話なんて何もおもしろくない。第一、刀預所がどういふものなのか、説明してない。 これはわたしもすこし調べてみたがわからなかった。<br />つまり辞書その他にはない言葉だから、筆者としてぜひとも一言 すべき所なのに 。鰻屋が昔は刀預所 だつたなんて雑学的的歴史趣味は肝心の事情ががはっきりしなければ、別にどうつてことはない。 ハアさうですかである。 書いた当人だって、あまりおもしろいと思はず、ただ紙面を埋めるため文字を連ねてゐるのだらう これぢや読者が引きこまれるはず、ないぢやありませんか。<br />そこへゆくと文春版は、読者に情報を提供しよう、実のあることを伝へようといふ気になつて書いてゐる。それがまともな態度です。」<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「 『東京いい店うまい店J とミシュラン東京とをくらべて 一番大事な違ひは、文章の巧拙の差ではない。前者は伝へるべき内容を持ってゐるから、書かうといふ気力がある。後者は伝へる中身がないから、書く気がない。<br />精神があつて言葉が生じるといふのは、吉田健一『文学概論』のはじめに書いてある大原則で、文章心得の基本。<br />ミシュラン日本版はまづこのことから考え直さなくちゃならない。」<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">では、ミシュラン日本版の文は何を伝えるべきなのか？と僕も考えざるを得ない。<br />普通に考えれば、その店がミシュランの「基準」に合っていることを読者が納得するように書けばいいのではないか？『基準』とは『&#x2605;』のことだ。<br />その&#x2605;は昔から以下のように決まっているらしい。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">&#x2605;&#x2605;&#x2605;：そのために旅行する価値のある卓越した料理  　　&#x2605;&#x2605;：遠回りしてでも訪れる価値のある素晴らしい料理  　　　&#x2605;：近くに訪れたら行く価値のある優れた料理<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これでは、自動車に乗って、なるべく長距離を移動してタイヤを消耗してくれると言うことが基準になっているように見える。タイヤメーカーとしては至極まっとうな基準だが、しかし、三つ星の店のすぐ近くに住んでいる人にとって、その店は『旅行するほどの距離にないから」三つ星の店には該当しないし、早い話しが、近所の店は皆一つ星に分類される。となれば、この『基準』は一つが三つにでも二つにでもなるという『矛盾』をはらんでいると、少々意地悪を言いたくなる。<br />つまり、この基準では「店がどの距離にあるか」という違いをのぞけば「卓越した料理 」「素晴らしい料理」「優れた料理」の違いと言うことになるだろう。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">しかし、実際これをどう表現したらいいのだろう。僕なら間違いなく途方に暮れる。どう書いたらいいか分からない中身なら、丸谷先生の言うとおり、中身はないに等しいのではないか？<br />それでは困る。<br />せめて、一つ星と三つ星の違いが分かるように書いてくれないと、と思うが、もともとの基準があの通り曖昧なのだから、書く方も、取材したことを適当に並べるしかない。そうして、読者は『気』のないものを読まされることになっている。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">タイヤメーカーとしては、そこまで厳密に文章で料理屋を評価する義理はない、ミシュランという「権威が格付けしたのだから」店の紹介文などあればいいだけで、読者がどう思おうとどうでもいいわい、と言いたいのだろう。（ただし、ホームページでは、一問一答形式で、評価の方法や調査員に関する情報を発信していて、権威の裏付けをしようとはしている。）<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">こういうものを読まされる方も、どう理解していいか途方に暮れるだけだ。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">最初に掲げておいたミシュランガイドのホームページには個別の店のリストがあり、それぞれ短い文章が載っている。これは本文の要約だろう。（本文は、本を買って読め。）これからして『気』のない典型例になっているのは、2008年当時丸谷才一先生が指摘したときから何も改善しようとしなかった証拠である。もう一度同じものを上げる。最初の<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">　<br />天麩羅 なかがわ／Tempura Nakagawa<br />&#x2605; &#x2605; &#x2605; · 天ぷら<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">昔ながらの仕事を貫く師匠から学んだ天ぷら。種は魚介を中心とし、高温の油で揚げる。車海老は程良い火入れで香ばしく、二尾目はレアで甘みを生かす。穴子は焼くように揚げて胡麻油の風味を重ねる。「天ぷらは脱水作業」というのが持論。衣の中で蒸し、焼くことで食材の水分を抜き、旨みを引き出す。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">天ぷら屋の職人は、誰でも最初はどこかの店に入って師匠から仕事を学ぶものである。魚介を中心にしない天ぷら屋はおそらく存在できない。高温の油も脱水作業もいちいち言うまでもなく、これは天ぷら屋一般を説明する文であり、「天麩羅なかがわ」がいかに優れて星三つなのか、まったく説明していないし、説明する『気』がない。<br />同じことは、大阪の 鰻やにも言える。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">鰻家／Unagiya<br />&#x2605; · うなぎ<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">関西では主流の地焼き鰻を供する店。鰻を蒸さずに焼くため、皮目の香ばしい風味が特長。仕入れる鰻は身質を重視し、産地は絞らない。鮮度にも気を配り、注文を受けてから生きた鰻を割き始める。手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。店主の職人技を見ながら鰻重が運ばれてくるのを待ちたい。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「注文を受けてから生きた鰻を割き始める」鰻屋は真面目に仕事をしているといえる。しかし、これは美食の店に選ぶ最低条件であり、これが一つ星の説明にはなっていない。「手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。」あたりまえだ。こうしなければ鰻は焼けない。もはや『旨い不味い』とは何の関係もなく、どこの鰻屋でもやっている仕事を説明しただけである。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">焼鳥 髙はし／Yakitori Takahashi<br />&#x2605; &#x2605; &#x2605; · 焼鳥<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">渋うちわで炭火を操る主人。修業先で学んだ近火の手法を実践しながらも、自らの焼鳥を目指す。部位ごとにタレと塩を使い分ける。しっかりとした肉質を生かすため塩味が多く、種が大振りなため満足感がある。焼鳥の醍醐味は鶏もも肉にあるというのが持論。一串目に供する理由がそこにあった。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">東京だけに限ったとしても、一杯飲み屋はじめ焼き鳥を出す店は4〜5千軒あるいはそれ以上になるだろう。（電話帳に『焼き鳥屋』で登録しているのは2千軒以上）その中で三つ星に評価される理由には誰もが関心を持つはずだ。その関心に応えられるだけの筆力でそれを説得できなければ食通（そういうものがいたとしたら）に馬鹿にされるだけだと思わないのかね。と、僕はこの文を読んで思った。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それでは、『東京いい店うまい店』はいまどうなっているか？<br />『食べログ』のある時代にけなげにも頑張っているのか、と思ったら、最新版は『2015〜16年版」で文春e-bookとあるからどうも縮小傾向にあるのだろう。しかし、この本の「はじめに」では、写真をやめて文章量を増やしたことを強調している。<br />「･･･ネットグルメ評価が店の盛衰を決めるいま、写真映えが能く、分かりやすい味の料理を出す店が評価される傾向になっています。自分の舌で評価できず、情報に左右されるグルメも多い。それに対して本書はあえて写真を排し、選定に関わった覆面探偵の諸氏には、言葉のみで店の良さを読者に伝えていただくため、･･･文章量を大幅に増やしました。」<br />ますます丸谷先生（生きていたら）の覚えがめでたくなるというものだ。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕はこの本をずいぶん昔から知っていて、何度も読んだことはあるが、一度も買おうとしたことがない。<br />何故か？<br />ここで、いま僕が入手できる『東京いい店うまい店』（「お箸編」2009〜2010年版）から一例を紹介しよう。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「赤坂璃宮　銀座店（広東料理）<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">中国料理の最高の美味は淸淡にあるとは、昔から様々な文献で言い尽くされている。ただし、うまさの芯は強く、輪郭が涼しくなくてはならぬとか。それをもって本物の洗練とするならば、譚彦彬氏の料理こそまさにそれ。何の汚れもない澄み切った味を供することにかけて、並ぶものがない。それが銀座らしい色合いの交詢ビル五階、モダンで格式のある設えで展開されている。<br />広東料理の真髄である『合鴨の窯焼き』『窯焼きチャーシュー』『地鶏の醤油漬け』『皮付き豚バラ肉の焼き物』の『焼き物四種盛り合わせ』で肉のうま味と食感を味わいつくし、『赤ハタの蒸し物絹傘茸のせ』などは新しい銀座の醍醐味だ。頂湯のグレードはまさにベストワン。まるで精密機械のような精緻な組み立ての味覚を楽しむ快楽がここにある。」<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">どうです？<br />誰を相手に書いているのか？知らないが、ようするにあの油を多用する中華料理をさっぱりとした味わいに仕上げるのがいいと言いたいのだろう。それが本物の洗練だとか輪郭が涼しいとか『様々な文献で言い尽くされている」なんて、ついぞ僕の耳に入ったことがない。日本人である僕は、そういう味の中華は好きだが、中国人がそういっているなんて、ホントかいな。邱永漢はそんなこと言ってなかったぞ。そうまで『知ったかぶり』をいうならどこの誰が言っているのか、根拠を示せ。といいたくもなるじゃないか。もうひとつ、「何の汚れもない澄み切った味」とはどういう味だ。「気取ってんじゃないぞ！」ったくもう。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">と言う具合に、はっきり言うが、その文章がしゃら臭いのである。<br />この本は「いい店うまい店を紹介する」のが目的である。それなのに、店も料理もそっちのけ。まるで文士気取りがいきがって『どうだ、オレの文章は小説家みたいだろう。』と顎をしゃくっているようで実に不愉快。<br />料理のうまさなど、個人がその舌で感じるものである。他人に自分の感覚を押しつけるようなもの言いはただ迷惑である。自分の感じたままをさりげなく伝えて、共感してくれたら幸福であるという謙虚な態度が、料理のうまさを伝えるものには必要だと僕は思っている。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">文春が、こういう本を出す背景には、戦前から小説家が食い物について書くものには暇人や役に立たないという意味でやくざな連中など一定の読者が期待できると分かったからで、だから態度が文士になる。文章量を増やすと言っているが、この調子ならいっそう『生意気さ』が増すに違いない。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで僕も先に上げた『竹葉亭』について書いたことがある。<br />公平を期すために、取り上げよう。<br />1995年ごろから5年ほど、僕は、ヒゲタ醤油「本膳」の雑誌広告の制作にコピーライターとして参加していた。<br />これは、『旬と出会う日本料理名店探訪」（毎日新聞社のグラフ誌掲載）というシリーズと同時に進行していた「関東実力派すし店めぐり」（週刊文春掲載）という広告のために、お店を訪問して料理の写真を撮り、料理長にインタビューをして記事にするという仕事であった。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">広告の目的ははっきりしている。<br />まず、ヒゲタ醤油『本膳』は、一流の店で使われている高級な醤油であることを一般に訴求する。<br />次に、広く料理店での『本膳』の採用を促進するために、仕入れ担当者である各店料理長に商品をアピールする。（普通の醤油より高価なため、一般消費者より、料理専門店の購買を期待していた）同時に料理と料理店を紹介し、店の広告の役割とする。店に客がたくさん来たら、『本膳』もたくさん使ってもらえるだろう、と言うわけである。<br />さて、こういう前提で、僕はどう書いたか？<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「『旬と出会う日本料理名店探訪」<br />「竹葉亭」（木挽町）<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">江戸の末期、新富町で開業、いまのご主人で六代目という、うなぎの老舗である。震災後移転したが、意外にもこの木挽町界隈だけは、空襲の戦火からまぬがれた。現在の建物は、一部を除いて、七十年以上になる。とりわけ離れのお座敷は、昔の尺寸で作ってあるせいか、座るとしっくりと身体がなじんでくつろげる。<br />庭もいい。 百年はこえていそうな漆の木を中心に、となりには隠れ蓑という乙な名前の高い木が、下生えの笹や灌木、石灯籠や古井戸、竹矢来の塀などとともに素っ気なく、いかにも粋な風情を醸している。こうした情趣を愛する人は多く、中でも魯山人が足しげく通ったことはよく知られていて、あのような厳しく鋭い眼力にかなう数少ない料理屋のひとつと言える。<br />本格的な料理との組み合わせはごく早い時期に、うなぎを蒸す長い時間の繋ぎに出した付け出しから発展したという。万事手をぬかない主義がうなぎ懐石を生み出したのだ。いま、その日本料理を担当しているのが野沢徳治料理長である。昭和二十四年に入ってうなぎを修行し、一旦外に出て、江戸料理の名門をいくつかあるいた。このとき、飾らない実質本位の伝統的な関東風の技と味を身につけ、五年経って再び戻ってきたのである。<br />写真の角皿と割山椒は魯山人である。演出がむずかしいといわれる器を、これだけさりげなくあっさりと使いこなすには、料理の技量を超えた、ある成熟した境地が必要なのではないかと思う。五十年近い包丁人生だからこそ出来ることか。平成七年秋、東京都知事賞受賞。」<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ずいぶん「気」のない文ではないかと言われそうである。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">目的のうち、料理長を紹介して経歴を顕彰したこと、庭に一見の価値がある老舗であるとを伝えることは出来ている。これで満点というわけにもいかないが、必要な要素は最小限組み込んである。ところが、中身が薄いと感じられるのは、料理についての言及がきれいに避けられている印象なのだ。<br />何故こんなことになったか。<br />それはこの店の鰻と日本料理という二面性をどうもうまく伝えられないという感じを持ったからだ。<br />鰻を割いて串に刺し、蒸して焼いて出来上がるまで、三十分あるいは小一時間程度だが、待つ身には長いと感じることもある。その時間の埋め合わせに軽い食前酒のつもりでお銚子一本くらいならと言う気になるかもしれない。その付け出しと言って、日本料理のお膳が出てくるようではいささかトゥマッチで困惑するではないか。そばがゆであがるまでの間に板わさとかだし巻き、奴豆腐をつまんで一杯、というのと同じで、これからとびきり旨いうな重をいただくのに、腹に入れておけるのは、せいぜいが上新香程度というものだ。ぼくなら胡瓜の浅漬けをつまんでちびちびやって待つところだ。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それに、もうひとつ違和感を感じたことがあった。<br />鰻の蒲焼きは江戸時代の発明としては秀逸と言っていいほどの飯と相性のいい料理である。つまりは飯の上にのせた段階で完璧な完成形である。<br />ただし、これが川魚であるところは、日本料理としっくり合わない。川魚を専門にする料理屋はあるが、これまで取材した料亭の懐石、会席に川魚が登場したことはない。しばらく井戸水に入れて泥を吐かせる手間は独特の技術で、そのため板前にとって、川魚は、鯛や平目とは別次元のものである。<br />食べる立場としても、これをタレのしみこんだ飯といっしょに口に放り込むのでなければ、鰻の蒲焼きだけを口にしても、その快楽は半減どころではなかろう。<br />つまり、日本料理の献立の中のどこに入れてもこの鰻ははみ出してしまうのである。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その二つが同居する料理屋にどう言って客を呼び込むのか？<br />丸谷先生が、『 わたしはあの店の椅子席で一杯やるのが好きなんです。』と書いたのに倣って、座敷や庭には触れず、うな重の食前酒に言及してお茶を濁すか、「鰻懐石」を言葉を尽くして説明するか？<br />そんなめんどうなコピーは誰も読んでくれないと思ったから、幸い北大路魯山人の器があったので、分かりやすい話に流れたというわけである。<br />写真の料理の蒲焼きだけ盛り付けた皿は豪勢に見えるが、一口食べた途端に飯が欲しくなるはずだ。すると、他の皿の料理は無理をしても腹に収めねばならない。TVに登場するデブの大食漢なら別だが、デブは粋と対極にあるものだ。健康にも悪い。<br />他にも、時たま「すし懐石」が看板の店に遭遇すると、僕は同じように軽いめまいを感じることが常である。<br />かくのごとく、料理屋のことを褒めるのは骨の折れる仕事なのだ。<br /></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">極論すれば、「ミシュランガイド」は番付の勧進元として店を取り上げ、星を付けたところで仕事は終わっている。店に客が来ようと来まいと関心がないから文章にも関心がない。『東京いい店うまい店』は覆面取材はミシュランと同じだが、文章にはこだわる。でも、本が世に出たらそこで、おしまい。読んだお客が店におしかける（一度行ってみろなどとそんな書き方をしていない）、なんてことはあまり期待していない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">こういう仕事で、最もうれしいのは、めったにないことだが、広告（あるいは紹介文）の効果が如実に現ることである。これを僕が、「関東実力派すし店めぐり」（週刊文春掲載）で一度経験した。<br />日本橋の小さな寿司店のことである。付け場は女人禁制、鮪は生に限るという、昔気質の頑固者がご主人。その取材広告が週刊文春に載った二三日後のこと。夕方、仕込みをしていたところへ、一人の客が飛び込んできた。手には広告の掲載誌を丸めて握っていたそうである。<br />後日、訪ねたヒゲタの部長に聞いたことだが、このお客は日本にむかう飛行機の中で、その週刊誌の記事広告を目にしたそうだ。是非ともこの寿司屋に行きたいと思って、矢も楯もたまらず成田からタクシーを飛ばしてきた、と言ったらしい。<br />20年以上前のことだから、どんな広告文だったか、店の名前もすっかり忘れてしまっているが、出だしはかすかに記憶している。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「春子とかいてかすごと読む。掌大の小鯛を三枚におろし、塩をしたあと軽く酢で締める。大鍋の底に鯛の片身を炒りつけてほぐし、淡口とみりんで味を調えると、ほのかな桜色のそぼろが出来上がる。小鯛にこいつをひとつまみ噛ませて握るのが季節にふさわしいこの一貫･･････」<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は学生の頃、数寄屋橋の東芝ビル（いまは建て変わっている）にあったレストラン四季の中の「天一」でアルバイトをしていた。天ぷら屋のことはこのときいろいろ経験したが、それはともかく、隣には鮨の「久兵衛」があった。<br />昼時が過ぎて客足が途切れると、「久兵衛」の小僧さんが、忙しくなる。仕込みの時間なのだ。厨房は別だが、行き来は簡単にできた。ある昼下がり、手のついた大鍋を火にかけて、その底を盛んにこすっているのを見かけて何をしてるのか訊ねたことがある。それは鯛の身の繊維がほぐれるように鍋の底で炒りつけている手間暇のかかる作業であった。寿司屋の修行は天ぷら屋の何倍もかかるというのもうなずけることだと思った。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　△<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">さて、「ミシュランガイド東京」が出てまもなく、僕はこのブログに「ミシュラン東京だって？」という文を載せた。その全文をもう一度掲載する。<br />丸谷才一の「我がミシュラン論」もその頃書かれたが、僕の目にとまったのは「人形のBWH」の中だから一年後である。<br />これを読んで、どうやら賛同するものが少なからずいると判断した僕は、ミシュラン社に手紙を書いた。店の選択はまかせるが、説明文を書かせてはくれまいか？とこれまで書いたものをいくつかコピーして送ったのである。しばらくして返事があった。「そう言うことはしていません。」素っ気ない応えだった。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 110pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ミシュラン東京だって？　　　　　　　　2007年12月<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「ミシュラン東京」なる本がでたので一時話題になったが、まるで潮が引くように今では誰も口にしなくなった。本屋に行っても並んでいないから、大した数を印刷しなかったのであろう。数は出さなくとも採算は合うと考えたのか、予想外に売れたから今大車輪で印刷しているのかどっちかわからない。どっちにしろ、こうも素早く下火になっては、もう一度火をおこそうとしても苦労するだろう。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">80年代の半ばに、ということはバブルの頃であるが、一度グルメ案内がブームになったことがある。多少高くても実際に行って食べて見たいというニーズが懐具合のいい連中始め下々にも広がった。なにしろ証券会社の新入社員の女子でもボーナスの封筒が縦に立ったといわれるくらいである。教養よりも色気よりも食い気に走ったのは自然の成り行きだった。この時は、うまいものを食わせる店を「地域ごと」に紹介するというもので、どちらかといえば繁華街の店の場所案内、はやい話がハンディな｢地図帳」であった。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">つまりは小金を手にした連中が俄にうまいものを探そうとしたからどこにそれがあるのかうろうろしたということだろう。したがって、料理のジャンルも多様、高級店もあれば庶民感覚の店も混在していた。ただし、高級料亭やホテルのレストランなどは｢うまいに決まっている｣と思ったのか、編集者の手の届くところではなかったのかあまり選ばれていない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">本質的には｢地図｣なのだから昭文社という地図専門出版社がもっとも力を入れていたし、よく売れていた。デザイナーが描いた見ばえのいいだけの地図なぞは役に立たないものだが、さすがに昭文社、地図は正確の上に簡潔な装丁がよかった。確か毎年「年度版」と称して出していたが、気がついた時にはいつの間にかやめてしまっっていた。なにしろ「地図帳」だから毎年更新することもないのである。そのうち｢失われた十年｣に突入して、グルメどころの騒ぎではなくなった。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">こういう本はもともと江戸時代から盛んに出版されてきた一種の情報本である。代表的なものに｢吉原細見｣と言う案内本があった。そこを知っているものでないと書けない本だから、書いているのは、大概が暇人である。江戸の御代はともかく、明治からコッち暇人の代表格は小説家である。小説家といえば聞こえはいいが、だいたい良家の子女は、関わりのないようにそばに近づかないというやくざまがいの連中で、ろくなものがいない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そのロクでないものを長年養ってきた文藝春秋社がこういう本を得意としてきた。毎年のように料理屋案内を出していたことを知っているものは少ないだろう。暇な連中が、料理屋の話をするのを取り巻きが面白がって買っていた程度には売れていたが、それに｢地図｣を付けなかったのはうかつであった。<br />いや、ついてはいるが、ホンの付け足しで、店の回りしか分からないようになっていて不親切であった。それでブームに乗り遅れた感があったが、金持ち喧嘩せず、泰然としたものだった。まさか｢お前らのいけるところではない｣と言うつもりではなかったろうと思うが、東京の街は駅からの地図がないとたどり着けない。実際の役に立てようという気はハナからなかったのだ。<br />この『東京いい店うまい店』という本は今でも毎年出ているようで、この間見かけたから手に取って見るといまでは地図などどこにも出ていなかった。店の名前に五六行のコメントがあるだけという味も素っ気もない料理屋案内である。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">なんだか目立たないようにそっと出している風情があるのは、昔から日本の男は食い物に言及しなかったということにたいして、多少の恥じらいがあるのかもしれない。真っ昼間からあそこの何はうまいとかどこそこの何が食いたいとか言うものは男の風上にも置けなかったのである。<br />それが、バブル到来と一緒に崩れて、うまいものをうまいといって何がわるいという風潮になった。<br />池波正太郎などという元株屋は泡銭で食ったうまいものの記憶をたどって臆面もない文章を書いてよく売れた。立川談志など、どういう料簡か、ありゃなにも分かっちゃいないと池波をけなしているが、一応、東京の老舗どころは押さえてあるから誰も文句は言えない。文句をつけた談志のほうも食い道楽だったなどという話は聞いたことがない。第一、｢あそこのなになにはうまい｣などと談志がいうのはまったく信用にならないし、そんな話は見たくも聞きたくもない。 <br />それにしても、どうせ食のことを書くなら、どこそこのウナギは旨いとか、あそこの寿司を食いてえとかつまらないことを気分にまかせて書いていないで、もう少し教養を磨くことを考えてもらいたいものだ。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そこへいくと戦前の連中は徹底していた。｢美味求真｣の木下謙次郎、｢食道楽｣の村井弦斎、巣鴨の監獄で暇をもて余して｢味覚｣を書いた大河内正敏（この人は、殿様で、理化学研究所の創業者）、上げれば切りがないが、これらは背景になっている教養と追求心が並大抵ではない。戦後になって吉田健一や邱永漢も面白いエッセーを書いているが、彼らにはかなわない。 <br />80年代半ばといえば、僕も随分とあちこち尋ね歩いてこのうまいものとやらに出会ってきたが、池波正太郎が取り上げた店などは、数から言えば大したことはないのであっという間に制覇した。それどころか社用も兼ねていたから気がついたら昭文社発行の本に取り上げられた店は大概ね尋ねていた。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そのうちにものの味も分からないような若い女やガキどもが、生意気なことを言うようになって、すっかりいやになってしまった。僕のグルメブームなどはこの時期であらかた終っていたといってよい。<br />その後90年代になると五年ばかり料亭とすし屋を月に4軒くらい取材して原稿をかいていたから、それが仕上げになって、いまでは、食い物屋の話などしたくもない。なにやせ我慢だろう、店を訪ねる金がないのだろうと言われそうだが、本気で料理屋の料理など別に食いたいとも思わなくなった。 <br />なにしろ毎日のメニューを考え、買い出しに行き弁当を三人分作ってきたのだから、主婦を料理人とは言わないが、料理が主婦の仕事だというなら僕は今やその両方を勤める主夫だといっても過言ではない。日本料理の職人がグラタンを作れと言われたらおっかなびっくりだろうが、僕にとってはマカロニグラタンなど手作りホワイトソースからはじめて目をつぶったって作って見せる。芋の煮っ転がしだろうがコンニャクの煮付けだろうがピザパイだろうがお茶の子さいさいである。キッシュにシュウマイ、トムヤムクン、パンにまんじゅう、チョコレートパフェなんでもござれである。魚をこしらえるのだって厭わない。妙齢のご婦人を連れて料理屋で密会、なんてことからはすっかり足を洗っったわけだから、これで料理屋に行く必要があるだろうか。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">究極のグルメとは自分で料理が出来ることである。料理は難しいかというと、何事も経験だというのがたいていのことの真実の一端を示しているくらいに何といったって経験がものをいう。だから中学を卒業してすぐに料理人になるのが一番だと今でも信じている親方がいる。確かに人間、失敗から学んで成長するというのは本当である。試行錯誤して味をからだに覚え込ませることも大事な修業である。しかし、不思議なもので、一杯飲み屋に毛の生えたような店で修業をすると酒のつまみは作れるが、エビ新嘗のお椀とかヒラメの昆布締めに、サヨリの酒盗干しなどという手間のかかる料理は死んでも作れないものだ。経験とはいってもそんなもので、上を知らないと話にならない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それにバカには料理は出来ない。毎日同じものを作っているならバカの一つ覚えでもいいが、食わされる方も厭きるし、第一自分が厭きてしまうだろう。創意工夫をするから料理は面白いし、奥も深くなっていくものなのだ。ただ経験を積めばいいのでない。中身が重要、その重要な中身を時間を短縮してつまりは勉強をして身につけることも出来るから、経験だけだといいきれるわけでもない。それにセンスがいる。それこそ天性のものでもあるが、ある程度までは師匠のを盗むという手もある。ただし、家族に食わす料理でそんなことまで必要はないからなくてもかまわない。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕の経験からいくと、料理は素材である。素材がよければ何でもうまい。肉も魚も鮮度がいいに越したことはないが、よすぎるのでも困ることがある。いや大概は困る。というのも肉にしても魚にしても身のたんぱく質がうま味の成分アミノ酸に変化するのに時間がかかるからである。魚の方が早いのだが、それにしたってたとえばフグは一日置いた方がいいとか鯛でもヒラメでも柵にとってから冷蔵庫で一日くらい寝かした方がうまいといわれる。確かに釣ってきたばかりの魚の刺し身は歯触りがいいだけで味も素っ気もないことが多い。マグロにしたって少し置いておいた赤身などねっとりとしたうま味が感じられてトロなど足下にも及ばない。トロは油っ気が強いから、舌触りでごまかされているが、本来あれは味のないものである。油は酸化が早いからさっさと食べた方がいいということもあって、熟成したうま味とはほど遠いものなのだ。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">肉については、ある豚カツ屋のはなしだが、鮮度のよい肉を仕入れるのは当たり前として、驚いたことに客に出すまで一週間もかけるということだ。肉はすぐに切り身にされて、一日分の分量に塩コショウしたらバットに入れて冷蔵される。このバットが常に冷蔵庫に七個ある。つまりは一週間経ったものを順繰りに取りだして今日の販売分にするというわけである。こうすると肉の熟成度合いがちょうどよくなって、コクも香りも歯触りもよそとは違う逸品ができ上がるという。 <br />野菜は鮮度が命とはどこかの宣伝文句だが、まったくその通りで、この間鉢で育てたピーマンを料理して食わしたら、娘がこのピーマンの死亡推定時刻は二時間前だろうと見事に当てた。それほどスーパーで売っている野菜との違いが歴然としているものなのだ。 これは科学的なことは知らないけれど、植物は切ったところですぐに細胞は死なないからではないかと思う。長く保管しても熟成する理由がないからただ単に酸化したり水っケが抜けたりしてまずくなる一方なのだろう。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">待てよ。僕は「ミシュラン東京」の話をするつもりだった。とんでもない回り道をしたものだ。 ともかく、この本はいろいろな意味で画期的だったらしい。まず東洋では始めて、世界では22番目に取り上げられたということ。フランス版とか英国版などは全国を一冊におさめているが、日本は東京一都市だけである。京都や大阪は入っていない。それから、三つ星が八店というのは一都市にしては多い。（ちなみにNYは三店）二つ星が二十五軒に一つ星が百十七軒というのは他と比べると格段に多い数字だという。<br />「東京は世界一級の美食の町」と出版元が言ったらしいが、何を今更という感じである。二十年ほど前に、パリに住んで、日本のデパートにもブティックを持っていたZ・サンデフォードが言っていたが、東京の食はバラエティがあっておいしいけれど香港にはかなわないといっていた。世界中をまたにかけて往来しているものがいっているのだから本当だろう。して見ると、これから香港版が出るとなればどうだろう。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">だいたい、欧州の料理は獣肉と小麦それに乳製品ででき上がっている。緯度が高いからとれる野菜にも限りがある。東南アシアから東アジアにかけての気候や地勢からいって、素材のバラエティにも相当の差があるといっていい。たとえば発酵食品のバリエーションを比較して見たらいい。納豆、茶の葉、醤油、みそ、熟れ鮨･･･。植物の根を水にさらして澱粉を取る方法と同じものを欧州に探して見つかるだろうか？まあ、はっきりいえば、食については始めから勝負がついている。審査をした連中がどんな者たちか知らないが、驚いたとすれば正直な気持ちだっただろう。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それにしても、三つ星候補といわれながら選ばれなかった店はかなり悔しがっていたようだ。欧州では、死活問題になるとかいっているが、東京ではどうだろう。今どきミシュラン片手に食べ歩くほど情報に困っていないのだからまあ、黙って見守るしかないのではないか。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">とはいえ、こういう風潮を批判するものもいて、こんなものを有り難がる必要はまるでないのだという。この間、劇作家の川村毅のブログにその代表的な意見が書いてあったので紹介しよう。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「で、たこ焼き、焼きそば食ったんだけど、東京ミシュランって結局東京に来た外国人向け、もしくは外国人への接客用だな。あんなもん参考にする普通の東京人がいるかね。で、これを演劇に置き換えて考えてみたらむらむら頭にきだした。ヨーロッパだかのわけのわかんねえ批評家が東京の舞台を見まくったと称して、舞台のランク付けをしてるってことだろ。冗談じゃねえや。てめえらの審美眼がそんなに絶対なのかよっていいたくなる。」だそうである。 まあ、そんなところだろう。 <br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">あっという間に話題はもえつきてしまったわけだ。｢ミシュラン東京｣は来年も出すのかね。 どっちにしろこの間歯医者に言ったらほとんど残った歯も役立たずになっているといって思いっきり抜かれてしまった。母親の遺伝だが、亡き母を恨むわけにもいかず、歯がなくなって急に老け込んでしまって、ミシュランどころの話じゃないことを書こうと思って書きはじめたのに延々と余計なこと書いてしまった。梅干し爺になって、もはや終点を通り過ぎ、車庫に入っている。そろそろ年貢の納め時だが、納める年貢もない。<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここまで、2007年にかいたもの。<br />この間、残っていた歯の最後の一本が抜けてしまった･･････<br /></span></span></span></p>
<p> </p>
<p> </p>]]></content:encoded>



<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2026-03-07T13:16:32+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-55936f.html">
<title>三宅香帆「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているのか」（飯田一史）はどこが間違っているのか。はなぜくだらないのか？</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-55936f.html</link>
<description> この間書いた「三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで考えたこと」だが、なんだか新たな論争があるらしいと聞きつけて、行きがかり上、気になって、何事かと調べてみた。「なぜはた」（『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をこのように省略して言うらしい。）の内容について異論を唱え、批判したのは出版ジャーナリストと言われている飯田一史氏である。年齢は四十代と言うから三宅氏と極端に離れて...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/20251215-235053_20251216000801.png" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="20251215-235053_20251216000801" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/20251215-235053_20251216000801.png" alt="20251215-235053_20251216000801" width="400" height="126" border="0" /></a> <br />この間書いた「三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで考えたこと」だが、なんだか新たな論争があるらしいと聞きつけて、行きがかり上、気になって、何事かと調べてみた。<br />「なぜはた」（『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をこのように省略して言うらしい。）の内容について異論を唱え、批判したのは出版ジャーナリストと言われている飯田一史氏である。年齢は四十代と言うから三宅氏と極端に離れているわけではない。分別のある大人と言っていいだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それで、飯田氏が言っているのは、実にシンプルである。<br />日本人の読書量を調べた公開情報を元に、年齢別、時系列データに大きな変化はなく、働いていることが原因で読書量が減るというデータを見つけることは出来ない、と言ったのだ。様々なデータを取り上げて議論しているから、暇があったらのぞいてみたらいい。<br />僕が見た所、飯田氏の分析や言っていることに矛盾はなく、至極まっとうな指摘である、と思った。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それに対して、三宅氏が反論して、議論が盛り上がったということらしい。それにしても｢なぜはた｣などと言うくだらないものがこうも話題になるなんて、なんと言う世の中だろう。（以下は、三宅氏の反論、「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているのか」（飯田一史）はどこが間違っているのか。」の引用）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく<span style="text-decoration: underline;">社会構造上の問題</span>であることを論じた本です。（下腺：中村）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。（これはどう読んでも、意味不明！）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">引用はとりあえずここまで。<br />ここから先は、飯田氏のマクロデータの解析を批判（重箱の隅を突っつくような）するのが続くので省略。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">では、三宅氏が主張する「特定の層が抱える悩みについて」のいわば「ミクロデータ」は、示されているか？<br />残念ながら、どこにも見当たらない。<br />見当たらないはずである。「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった事に悩んでいる人々」＝「特定の層」が、どこに、どれだけ存在するか？そもそもその構造的に複雑な悩みを抱えている人が｢層｣として存在しているのかさえ、確かめようがないからだ。<br />あえて言えば、三宅氏の頭の中だけに存在するのかもしれない･･･。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「なぜはた」では、自分のブログに反応した人が数人いたことを根拠として、それが一定の層、存在しているらしいと主張していた。その根本に社会問題があると言うのも論理の飛躍で、その理由あるいは仮説は示すべきであった。<br />もしこういう主張を社会学者がしようとするなら、仮説を立て、綿密に調査設計の上実査を行って、結果を分析し、それが社会問題かどうか判断するはずだが、国文学を専攻した人には案外無理だったのか？言ってることが、ほぼ「情緒」で出来上がっているのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">先に書いた文の中で僕は、こう言う意味のことを書いた。<br />三宅氏のブログに自分の悩み（働いていると本が読めない）を投稿した所、同感するコメントが寄せられたことを根拠に（他に根拠は見当たらなかった）、これは個人の悩みではなく、みんなの悩み＝社会構造上の問題が原因に違いないと、曲解というか我田引水というかご都合主義というか、針小棒大というか、早い話しが勝手に一人よがりしたのではないか。社会構造上の問題ならデータで説明しなければならないが、そんなものがあるとは想像も出来ない。<br />こういう思いつきの意味のない恣意的な問題意識につきあいたい人はどうぞ、と言うしかないのではないか？<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これ以上言うのもバカバカしいので、あとほんの少しでやめる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「本が読めない悩み」をお持ちの諸君には、実にかはいそうだと同情を禁じ得ない。しかし、安心したまえ。我が国では、誰も本を読むな、と言うものはいない。特に奨励はしないが、自由に本は読める。従って悩んでないで、大いに本を読みたまえ、出版社のためにも！とりわけ本屋のためにも！<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">飯田氏は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているか、といってデータを示して指摘した。ご苦労なことですぞ！歌舞伎じゃあないが、今どき殊勝な心がけ！<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕に言わせると「働いてる」ことと｢本を読む｣行為とのあいだにある因果関係ははっきりしている。<br />つまり、働いている時は本が読めない。本を読んでいる時は働けない。二つを同時には出来ない。それが｢なぜ？」と言われても、答えは問いの中にあると言わざるを得ない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">本が読めない悩み？それは贅沢な悩みだからしばらく続けなさい。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ああ、それにしてもこんなくだらない本が30万部も売れるなんて！<br />日本人の知性も地に落ちたなあ･･･<br /></span></span></span>
<p> </p>
</div>]]></content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-12-16T00:09:35+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f2feca.html">
<title>「煮干し」ラーメン、ほめてる奴は馬鹿野郎だ。</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f2feca.html</link>
<description>近頃、老若男女を問わず、そこいら中、食い物についてあれこれ言う奴ばかりになって、他に考えることはないのかと、かなりうんざりしている所だが･･･。大体昔から男は、食い物について旨いの不味いのと語ることはなかった。暇なのか忙しいのかはともかく、あちこちの料理屋に通う連中でも「あそこのあれは旨い」など、関心も薄いし、まして自慢げに聞こえることは口が裂けてもいうものではなかった。料理屋がものを食うためだけ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">近頃、老若男女を問わず、そこいら中、食い物についてあれこれ言う奴ばかりになって、他に考えることはないのかと、かなりうんざりしている所だが･･･。<br />大体昔から男は、食い物について旨いの不味いのと語ることはなかった。暇なのか忙しいのかはともかく、あちこちの料理屋に通う連中でも「あそこのあれは旨い」など、関心も薄いし、まして自慢げに聞こえることは口が裂けてもいうものではなかった。料理屋がものを食うためだけの場所ではなかったからでもある。<br />女も、はしたないと言って、食い物の話はしなかった。つまり、ついこの間まで、公の場で誰も食い物のことは恥ずかしくて言わなかったのである。<br />なぜか？つまり、これまでは（いつまで、というのはおいおい述べるが）、食い物についておしゃべりするのは「卑しい」事だったからだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、女の美食家というものに出会ったことがないのは偶然ではない。女は自分の「旨い」という感覚は百万語費やしても伝わらないことを知っていて、はしたないと言い訳をしながら賢く言葉を節約してきたのである。諸君！気を付けたまえ！女はこれほどまでに賢い。もうひとつの理由は、日本の料理は本質的に酒との相関関係を暗黙の了解とした存在なので、ますます、女にとってはしたないのである。大酒飲みの女は嫌われるのが落ちだろ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">食道楽を自ら喧伝するような奴は、「飲む打つ買う」の次ぎに「食う」が来るようなやくざ(役に立たないという意味)な連中の所業であると自嘲する文豪だって、昔はいた。（谷崎のこと）食のことを書くのは、この文士らがほとんどで、これほどやくざな連中はいない。たしか、梅原猛が書いていたと思うが、ある時、自分の兄妹に文士との結婚話が持ち上がったことがあって、家族は言うに及ばず、自分が率先して猛烈に反対したことを苦々しく回想していた。食のことを口にする（？）のは、へたをすると世間を敵に回すほどに恐ろしく卑しいのであった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、なぜ、こんなことを書き始めたか不思議に思っている人がいるかもしれない。<br />理由は、少し込み入っている。<br />Noteにブログを移す作業にとらわれて、（すでにブログで発表した文だから）これが読まれているのか、いないのか関心の外だったのが、最近「フォロー」に少しばかり数値が出るようになった。そこで、物好きにもどんな人が「フォロー」してくれたか見たら、そのひとは、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」という見出しを付けたYouTubeをやっている。<br />小説家の食に関する表現に興味がある僕としては、見逃せないと思ったので、とりあえずのぞいてみた。<br />村上春樹の小説の一部分でも引用し、それを批評するのを期待してみていたが、待てど暮らせど出てこない。その内に、青森で食った「煮干しラーメン」がうまかったという下りがあったので、「あれっ？！」と思ったのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は五十年ほど前に弘前で五年暮らしたが、煮干しというものに出会ったことがなかった。それより以前、僕は、東北のある街で生まれ育ったのだが、物心ついた頃に、「煮干し」という言葉が存在することに強い違和感を感じたことを覚えている。たぶんこの地方には鰯の加工方法としてそれが存在していなかったのだろう。煮干しを見たことはないが、その言葉を聞いて、鰯を煮て干したものとはすぐに理解出来る。違和感とは、落語にあったような話（勝節で出しを取り、汁を捨てる）で、魚を煮たら、うま味も何も汁の方に流れて、残りかすを乾燥したものが出しになるのか？と言う疑問である。鰯が捕れすぎて始末に困った漁師が、並べて焼く手間を省いた、つまりずるした結果に違いないと感じた。東北地方の真面目な漁師（と僕たち）にとっては許しがたい所業である。僕は、鰯の焼き干し以外に見たことがなかった上に、煮干しが道理として「出し」であるはずがないと、思い込んでしまっていた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">焼き干しを作る工程は簡単である。網の上にきちんと並べて炭火で焦げない程度まで焼く。すると鰯の内臓はやわらかいから脂肪とともに溶け落ち、首の骨は肉が落ちて折れ易くなり、乾けば自然と落ちる。肉は焼かれて水分が抜け濃縮され香ばしさが加わる。焼き干しはそれぞれがくっついて、つまり、めざしのように並んで出来上がるから一本ずつ外して使う。勝節と違ってこの程度の手間の代物が高いはずはないではないか。<br />弘前では、これを毎朝二三本使い味噌汁にしているのを見ていた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">それから何年かして東京で暮らしはじめたが、「出し」の材料はいろいろ使った。築地で買った「本枯れ節」を一食ごとに削って、しばらく使っていた。あごだしは、舌がだらけるのですぐやめた。利尻昆布を十センチばかり水から煮だして削り鰹を加えるというのもやっていた。煮干しの存在にも馴れてそれを1キロずつ買って使ったこともあった。一度に十匹くらい使うから、その都度黒く固まった内臓と頭を取るのはめんどうだというので、初めに1キロ分、その作業をやっておくのが手間だった。今では、すっかり根気をなくしたので、いろんな出しをブレンドしたパックもの（結構な値段！）を便利に使っている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">かなり前のことになるが、ある時、そういえば焼き干しは見かけないと思い、築地で聞いてみたら、店の奥から取りだしたビニール袋に入った十連二棹ぐらいのわずかなものが1000円もした。びっくり仰天して、これじゃあ、いくら何でも出しとしては使えないなあと思った。<br />ただし、出しとしてどうかといえば、まず使う量は煮干しの三分の一ですむ。味はと言えば、煮干しの方はなにか大事なものが抜け落ちていると言う究極的な物足りなさを感じるが、焼き干しはのどごしが清んでおり、しかもどこか重厚である。気のせいかどうかは自分で試してみるのが一番だ。焼き干しの方が、出しとして格段に上等だと分かるはずである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">さて、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」の方だが、肝心の村上春樹が出てこないまま「あそこのラーメンはどうだ」「量が凄まじい」とか「胃にもたれる」などと言う話ばかりで、見ているうちに意識が遠くなった所に「青森のラーメン」という言葉が飛び込んできた。それで少しばかり覚醒したのだが、昔よく食べてたものだから潜在していた思い出を刺激されたのだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">しかし、「煮干し」ラーメンとは何だ？青森では「焼き干し」ではないのか？確かに「煮干しラーメン」は近頃の流行なのか看板はよく見かけるようになった。はたして、青森まで「煮干し」になったのか！僕はほぼ憤っていた！<br />青森のラーメンは「煮干し」ではなく「焼き干し」であるべきだ、と言う想念が膨らんで、この論者たちは何も分かっちゃいない、馬鹿野郎だと思ったのであった。<br />いったい青森の焼き干しはどうなっているのか？<br />はたして鰯がとれなくなってしまったのか。また、築地で買おうとした時のことから類推するに、焼き干しは高くて使えないのかもしれない。あるいは、ただ単に東京で流行っているから「煮干しラーメン」にしたのかもしれない。<br />そこで少し調べてみたが、焼き干しは、陸奥湾でとれる鰯の加工品として相変わらず青森の名物であった。築地で売られているのも青森県産だったが、それは今も健在であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この論者たちは、青森には焼き干しという文化（名物）があるのに、なぜ敢えて「煮干し」なのか？とラーメン屋に訊ねてくれなかったのか？<br />出しなど何でもいいじゃないかというのなら、そもそも食い物の話を他人にしてもしょうがない。<br />最初に、女は自分の味覚を伝える事は出来ないと自覚しているから無駄なことは言わないと指摘した。味覚とは、個人の舌に依っているものだからである。映像や音声は再現も共有も可能だが、食い物の味だけは百万遍言葉を尽くしても他人が追体験できるものではない。<br />しかし、そうはいっても、人には、自分が体験して感じた感動や驚嘆を他人に伝えたい欲があるのも事実である。はしたないとはいえ、うまいものはうまいと言いたいのである。<br />ただしこの体験は、食べたものの味を、そのものが持つありとある情報のすべてを動員してでも言葉で伝えるほか手立てがないものだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここいらで気づくことだが、食い物とは、もともと内側に文化を抱えているものだ。「煮干しラーメン」は今ここで、降って湧いて出たものではない。その味がいかに玄妙に出来ているか（そうだと仮定して）には理由があり、文化的背景があり、歴史があるかも知れない。<br />つまり、「オレが今、一杯のラーメンの味に感動している」のは、味覚に訴えるものの中に、たくさんの文化的な要素が含まれているという感覚が潜在していたはずなのである。<br />青森で、なぜ「煮干しラーメン」なのか？<br />なぜ「焼き干し」ラーメンでないのか？<br />その理由は？またその違いは？<br />人様に食い物のことをしゃべるなら、それくらいは調べておけ！<br />だから馬鹿野郎なのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「村上春樹の食事は不味そう」というタイトルのYouTubeで対談をやってる若者は少なくても他人の食事を批評するだけの「意識の高い」人たちだろう。しかし、YouTubeをなんとなく見ていて、これは評論なんて上等なものではなく、ただの雑談に過ぎないではないかと思った。いや、つくった人には申し訳ない言い方になってしまったが･･･。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は村上春樹について、端的に言って、米国大衆小説の流儀を日本で実現しようとしたが、高温多湿の気候風土にそれが合わなかったために、彼の野望は失敗したと評価していて、それ以上興味はない。食い物の表現がうまい作家はそれなりにいるが、だからどうだというものだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">食い物のことで何かしようとするなら、僕が読んだ中でも必読書を並べておくので参考にしたらと思っている。（ああぁ、またよけいなお節介をしてしまう！）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">食道楽　　村井弦斎　1901年<br />美味求真　木下謙次郎· 1925年<br />美食倶楽部　谷崎潤一郎　1919年<br />食は広州に在り 邱永漢 1957年<br />食味歳時記　獅子文六　1964年<br />私の食物誌　吉田健一　1971年<br />美味方丈記　陳舜臣/陳錦墩共著 1973年 <br />魯山人味道　平野正章編 1974年<br />散歩のとき何か食べたくなって　池波正太郎　1977年<br />月の裏側 　クロード・レヴィ=ストロース　2014年 <br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、僕はコピーライターをやっていた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">四年以上も、料亭と寿司店の取材コピーを毎週一本づつ書いていた。<br />前にも紹介したが、Noteにはまだ移していないから、おいおい移しておこうと思う。<br />スポンサーはヒゲタ醤油「本膳」で、料亭で使用される高級醤油であることや、店のたたずまい、料理長と料理などを紹介して広汎な使用を促進と言う目的であった。こんなに長く広告シリーズが続いたのは珍しいという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">とりあえず、二つ三つ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<strong><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">なだ万（シェラトンホテル）</span></span></span></strong></div>
<div>
<div style="text-align: center;"><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/1f8a603412048x1365.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="1f8a603412048x1365" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/1f8a603412048x1365.jpg" alt="1f8a603412048x1365" width="500" height="400" border="0" /></a></div>
<div style="text-align: center;"><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/81203295.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="81203295" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/81203295.jpg" alt="81203295" width="338" height="224" border="0" /></a>  </div>
 <span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br />遥か水平線の上にかすかに都会のシルエットを刻んで、かたむきかけた冬の陽が空を染めている。このもの憂い時刻、加州の探偵が酒には早すぎるといったことを思いだしたが、海浜リゾートとはいえ棕櫚の並木が寒そうで、別の感興がわいてくる。<br />広々とあけたロビーを左に進むと庭につきだしたようにお店があった。暖簾の先が、この大きなホテルの中でわずかに作られた日本的な空間で、お座敷にテーブル席、寿司、天ぷら、鉄板焼きのカウンターという構成が、アーバンリゾートを楽しむ宿泊客に全方位で対応している。<br />五年前から厨房を率いてきたのは、内山勉調理長。なだ万は十五年になるが、大阪の名門を皮切りに各地で修行、ドイツにいたこともあるというユニークなキャリアの持ち主である。日本料理の基本はしっかりと守るが、相手や環境の変化に応じて素材や調理法を柔軟に変えるという態度は、こうした経験の中で自然に身についたものであろう。<br />例えば、写真の料理の中でも、菜の花とマスカットの辛子和えという不思議な取り合わせ、ホワイトソースを和風にアレンジし、それをベースにした柚釜などに端的にあらわれている。かと思えば、湯引きして甘味を出した車海老や肝を添えたおこぜなど基本的な鱠も用意する。デザートやベーカリーなど興味が向かうところは広く、それというのも、増えてくる若い世代の味覚に応えていくには、伝統の上に重ねるべき一工夫が必要だという考えからである。若者と日本料理、新たなテーマを教えられた。<br />最後に、笹でまいたものが気になる人のために。やがらという頭が竜の落とし子で胴が鱧のような魚の寿司である。昆布締めした透明感のある白身は、平目よりも歯ごたえがあって品良く美味である。<a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/photo_20251207231301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20251207231301" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/photo_20251207231301.jpg" alt="Photo_20251207231301" width="500" height="440" border="0" /></a> <br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>銀座ろくさん亭」</strong><br /></span></span></span>
<p><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/rokusann_20251207231301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Rokusann_20251207231301" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/rokusann_20251207231301.jpg" alt="Rokusann_20251207231301" width="450" height="317" border="0" /></a></p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「･･･すると万吉は穏やかな口ぶりで、彼には板前になる素質がないと言った。この仕事は勘のものだ。いくら教えても勘のないものは一人前の職人にはなれない。そいつは諦めた方がいい。」（山本周五郎「つゆのひぬま」より）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">料理人の腕が天性のものか、それとも血のにじむような修行の結果であるか、いずれとも断定するわけにいかないが、こちらのご主人ほどその議論から超然として我が道を行くひとはいない。若いころから反逆の料理人といわれてきたが、それには二つの意味合いがあったであろう。戦後の闇市の殺伐とした中に身を置いて生き抜いてきた向こう気の強さ、そして伝統を何よりも大事にする日本料理の世界にあって、いち早く中華風、洋風を取り入れた感覚の新しさである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">例えば写真は、崩し豆富中華風五味八珍というが、木の実や洋菜の間からのぞいている飴色の刺身は、鱠に切って冷水であらった城下鰈であり、季節感を胡麻風味の醤油でいただく感性はやはり和というべきであろう。<br />昔気質がまだ色濃く残っていた修業時代、何十人もの料理を短時間に、高下駄で頭を張られながら作らされたつらい経験は、いまでは習い性になってしまった。「早く、美しく、旨く」ということを体で覚えさせてくれた。一方で、生来の器用さ勘の良さではじめたことも、これまでいくつかの失敗を生んでいるという。才気煥発といえどもすべて順風満帆とはいかないのが人生なのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">しかし、時代感覚は常に鋭く「素材を十分生かして旨いものをつくるなら調理法にはこだわらない」のが流儀で、それをいまの人々が求めていると見ている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">道場六三郎さん、六十三歳。料理の鉄人といえばうなずく人も多いだろう。<br />開店から二十二年。名前からとったという、ろくさん亭にはその新しい和の世界を慕うファンが夜ごと押しかけている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>なべ家（南大塚）</strong><br /></span></span></span>
<p><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/nabeya_20251207231401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Nabeya_20251207231401" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/nabeya_20251207231401.jpg" alt="Nabeya_20251207231401" width="500" height="343" border="0" /></a></p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この鮎は旨い。東京で鮎はどうも、という食通は多いと聞くが、この鮎は希有な例外である。食べ頃の大きさを揃えて、飾りの塩も打たず皮目もこんがりと素っ気なく焼いてある。頭からがぶりといきたくなるような風情だ。<br />ほんの少しだけ蓼酢を付けて口に入れると、骨があたることもなく、弾力のある身から香気が口中に拡がる。その奥に、ほのかに特有の苦さが現れ、次の瞬間にはそれが爽やかに消えていく。<br />清涼の流れを力強く泳ぐさまが浮かんできて、一瞬自分がいまその山里に遊んでいるのではという錯覚にとらわれる。東京の鮎のイメージが変わった。大塚駅前の三業地の看板に案内されて道を行くとすぐ右手に、粋なたたずまいのお店があって、玄関先に郡上鮎とだけ書かれた小さな提灯が下がっている。<br />ここで包丁を握るご主人の福田浩さんは二代目。冬は鍋、春は川鱒、初夏から晩秋にかけてはこの鮎という決まりである。郡上八幡中流の、姿を調えた天然鮎を運ぶという難しい段取りを付けてはじめたのが三十年ほど前、いまと変わらぬやり方だが、しかしよく知られるようになるまで五年も辛抱したという。<br />若いころはジャーナリストを目指したこともあったが、江戸前料理の看板通り、江戸期の料理研究家として著作も多く、その志は別の形で実現したと言える。<br />鮎のコースは、まず江戸前に作った卵焼きを肴に、冷やした酒でのどを潤すという序章にはじまる。献立にはどこと明確に言えないが粋でいなせな趣向が続き、終章が極めつけ鮎茶漬けである。鮎は昔から日本人の愛でる魚であった。近年川が衰え、鮎は育てるものになって形骸化した。ひょっとしたらこの旨い鮎は自然と向き合う料理人の批判精神かも知れない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
</div>]]></content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-12-07T16:06:16+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-ba9a36.html">
<title>youtube 投稿
「あれから二週間(君とラ・ボエーム)」</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-ba9a36.html</link>
<description>
youtube
投稿
「あれから二週間(君とラ・ボエーム)」作詞作曲：井関真人
　　　　　　　　　　　　　　　

 
以下の文章は、この曲をAIに解釈させ、映像を創造するとしたらどうなるかを試したものだ。とりあえず、文章で表現したものだが、作品の一部は、AIにつくらせた映像である。すごい時代になったと思うが、これでいいのかという気もする。

 
　  描かれた心情と状況の分析...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p>youtube</p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">投稿</span></span></div>
<p><br />「あれから二週間(君とラ・ボエーム)」作詞作曲：井関真人<br /><br /><br /></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　<br /><iframe width="500" height="281" src="https://www.youtube.com/embed/LPousJNCcpE?si=PlUMrcfprPakGJWA" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen=""></iframe></p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">以下の文章は、この曲をAIに解釈させ、映像を創造するとしたらどうなるかを試したものだ。とりあえず、文章で表現したものだが、作品の一部は、AIにつくらせた映像である。すごい時代になったと思うが、これでいいのかという気もする。</span></span></div>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">　&#x1F3AD; 描かれた心情と状況の分析（AIの分析）</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この歌詞は、恋人同士の別れと、その後の再会、そして復縁に至るまでの、冬の夜の情景を描いています。全体として、切なさと諦念が漂う中で、最終的に深い愛情と安堵が勝る、劇的な展開を見せています。</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">1. 別れの描写（1番）</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">項目 描写された内容 読み取れる心情・状況<br />状況 彼女が家を訪れたが、小さな声で気まずそうに立っている。マスカラが流れ、泣いた跡がある。 別れを切り出す直前、または別れを悟った彼女の不安と悲しみ。<br />関係性 「わがままな君を受け入れてきた」「それが長くは続かなかった」 これまでの関係に疲弊や限界を感じていた。主人公（僕）は受け身だが、関係の終焉は受け入れている。<br />結末 「お別れだ 今日で」と主人公が告げ、彼女はだまって立ち去る。 決定的な別れ。主人公は諦念、彼女は沈黙の中に悲哀を抱えている。<br />Google スプレッドシートにエクスポート<br />2. 再会の描写（2番）</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">項目 描写された内容 読み取れる心情・状況<br />状況 二週間後の冬の夜、また彼女がうつむいてたたずんでいる。「寒いわ」という言葉。 寒さや孤独、後悔から、彼女が耐えきれず戻ってきた。再会へのためらいと心細さ。<br />主人公の行動 ためらう君を抱き、冷めたコーヒーを暖め入れた。謝る君に口づけした。 彼女を拒絶せず、包み込むような優しさと深い愛情。物理的な「寒さ」と心の「冷え」を暖め直す行為。<br />復縁の象徴 「野菊のように 愛しく見えた」 彼女の弱さや無垢さが、かえって主人公の愛を再燃させた。復縁が成立したことによる安堵と愛の深まり。<br />Google スプレッドシートにエクスポート<br />3. 結び（サビ）</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">項目 描写された内容 読み取れる心情・状況<br />表現 「君とふたりで 歌う ラ・ボエーム」を繰り返す。 **ラ・ボエーム（La Bohème）**は、プッチーニのオペラで、パリの貧しい芸術家たちの、切なくも熱烈な恋愛と友情を描いた作品です。<br />心情・状況 この「ラ・ボエーム」を歌うことは、二人の関係を劇的で、切なく、しかし熱い愛として捉え直していることを示唆しています。二人の愛が、**試練（別れ）**を乗り越え、ボヘミアン的な（自由で、少し不安定だが情熱的な）愛として再スタートしたことを象徴しています。<br />Google スプレッドシートにエクスポート<br />&#x1F31F; まとめ</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この歌は、一時的な別れを経て、冬の寒さと孤独を共有することで、かえって二人の愛の深さを確認し合ったという、劇的で感傷的な復縁のストーリーを描いています。</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">メインの心情: 切なさ（別れ） → 愛情と包容力（再会と受容） → 安堵と情熱（復縁）</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">描かれた状況: 「わがまま」による別れと**「冬の夜」の再会**。</span></span></div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">テーマ: **「冷めた愛を暖め直す」こと、そして「弱さを見せた相手を受け入れる」**ことによる、真実の愛の達成。</span></span></div>
</div>
<p> </p>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この歌がどのような曲なのか、もしよろしければ曲名やアーティスト名を検索してみましょうか？</span></span></div>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">以上。</span></span></div>
<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">すごいでしょう。</span></span></div>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
</div>]]></content:encoded>


<dc:subject>音楽</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-11-04T20:07:02+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-c07e59.html">
<title>村上春樹の立ち位置</title>
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<description> 僕がかつて書いた「『井上ひさしさん、お別れの会』（丸谷才一）の近代文学史」　と言う文章の中に村上春樹について書いた部分があるが、なぜ彼はノーベル賞に遠いのかがわかるかもしれないので、今回はそこを抜き書きして紹介しようと思う。
 
丸谷才一が、｢お別れの会｣で読んだ追悼文の中で、井上ひさしの日本文学史における立ち位置を確かめようとして、平野謙の見解を参照している。平野謙は、１９３０年代初頭の日本文...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/41z6b4xhtjl_ac_ul640_ql65_.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="41z6b4xhtjl_ac_ul640_ql65_" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/41z6b4xhtjl_ac_ul640_ql65_.jpg" alt="41z6b4xhtjl_ac_ul640_ql65_" width="150" height="210" align="right" border="0" /></a> 僕がかつて書いた「『井上ひさしさん、お別れの会』（丸谷才一）の近代文学史」　と言う文章の中に村上春樹について書いた部分があるが、なぜ彼はノーベル賞に遠いのかがわかるかもしれないので、今回はそこを抜き書きして紹介しようと思う。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">丸谷才一が、｢お別れの会｣で読んだ追悼文の中で、井上ひさしの日本文学史における立ち位置を確かめようとして、平野謙の見解を参照している。<br />平野謙は、１９３０年代初頭の日本文学について芸術派と私小説とプロレタリア文学が並び立っていると見ている。丸谷才一は、この図式は現在にもあてはまるのではないかと考えた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「芸術派にあたるのはモダニズム文学で、代表は村上春樹の、アメリカ批評の用語で言えばロマンスでしょう。私小説は、作者身辺の事情に好んで材を取るという 意味で大江健三郎ではないか。そしてプロレタリア文学を受け継ぐ最上の文学者は、井上ひさしに他ならない。その志は一貫して権力に対する反逆であり、常に 弱い者の味方だった。」<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕はこの見解に違和感を覚えたので、多少の異を唱えたのであるが、その主な理由は以下のようなことであった。<br />大江健三郎は『個人的な体験』以来確かに『作者身辺の事情に材をとる」ようになったが、それには個人的なものを普遍へと昇華させようという意思が見られ、それ杖私小説の枠には入りきれない、と言ったのである。また、プロレタリア文学の要件は、イデオロギーにあるが、井上ひさしの作品に、それはまったく見られない。従って、『反権力』だからと言って、プロ文の系譜に入れるには無理があるといったのだ。<br />そして、芸術派であるが、平野謙は、これをイデオロギーに囚われない、いわばプロ文には反対の作家たちをまとめる名称として提示した。それがモダニズム文学として現代に継承されていると丸谷は指摘したのである。その代表が、村上春樹だと言ったのだが、では、モダニズム作家にはほかに誰がいるのかといえば、思い当たる節がない。村上春樹はだれも仲間のいない孤高の作家ではないか？では、モダニズム文学とは何か？「アメリカ批評の用語で言えばロマンス」だというがなにを意味するのか、もはや理解不能である。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そして、以下が、芸術派とモダニズム文学、そして、村上春樹に対する僕の見解である。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、言おうか言うまいか迷っていたことがあったが、ここまで書いた以上思い切って述べることにする。 私小説とプロレタリア文学について「現在に当てはめる」のは無理があると言った。では残る「芸術派」についてはどうかと言うことである。 <br />村上春樹についてはあまりまともに読んでいないので、書くのをやめようと思ったのだが、村上春樹と芸術派が対応関係にあるのかということなら一言言っておこうと思った。つまり、それで「平野謙が見た戦前の図式」が「現在にはあてはまらない」という僕のささやかな仮説の証明にとって必要十分条件を満たすというわけである。 <br />（以下は、閑談と思っていただきたい。）<br />村上春樹の出発点にあるのは、明らかに現代の米国文学である。それもフォークナーやジョン･スタインベックなどの正統的米国文学あるいはヘミングウエイらのロストジェネレーションと呼ばれる作家たちの伝統とは一線を画すと言ってもいいマイナーなジャンルの小説の影響を受けて小説を書き始めたのだ。 <br />典型的には、「ニューヨーカー」に短編を寄稿していた作家たちの作品、たとえばサリンジャー、カート･ヴォネガット、ジョン･アービング、ジョン･アップダイク、アーウイン･ショーといった一連の都会派小説といわれるものである。最近レイモンド･チャンドラーの翻訳をしたところを見ると、米国ミステリーやハードボイルドにも関心があることをうかがわせる。 <br />おそらく村上春樹は、こういう小説がなぜ日本にないのだろうかと疑問に思い、それなら一つ俺が書いてみようと思ったに違いない。その気持ちは、実はアーウイン･ショーを耽読した時に僕が感じたことでもあった。いや、むろん本気ではなかったけれど、米国大陸の乾いた風土でなら可能かも知れないが、我が国のような高温多湿の気候では成立しないかなどと考えていた。 <br />こういうものを戦前の日本文学に見つけ出そうにも皆無である。無理矢理こじつければ井伏鱒二か太宰かと言うことになるが、潮流と言うにはあまりに心細い流れである。つまり、芸術派すなわちモダニズムと言ったところで、所詮私小説にもプロ文にも分類できないものを集めてまとめてみせただけで、何が本流なのかわかりにくいのである。 <br />わかりにくいが、逆に追いかけて現在の（といってもすでに二、三十年は経過してしまったが）米国の都会派小説は、平野謙が見ていた三十年代のモダニズムのどこにつながるのか考えてみてもいい。 <br />あの当時の日本文学の、いや平野謙当人のと言ってもいい、視野の中に欧州文学はあっても米国文学があったとは思えない。日本文学史は、米国文学に関心がなかったのである。 <br />少しせっかちなまとめ方をすると、日本において、米国文学のしかもそのマイナーな部分を面白がって、その影響のもとに創業して成功したのは村上春樹が最初で、それは日本文学史の伝統にはないオリジナルの位置にある。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、日本文学史が米国文学に関心がなかったのは、日本に「芥川賞」と「直木賞」があったからだ。この二つの賞は、希代のマーケティング･プランナーである菊池寛の発明だが、もう役割はとっくにすんでいるどころか我が国小説界に悪しき毒素を振りまいている。 <br />かつて、ある出版社が現代日本文学全集を編むことになって人選をはじめたら、三島由紀夫がいいだした。松本清張を入れるなら俺は降りる。そこを何とかと言っても断固たる態度で聞き入れてくれない。大衆小説と純文学を一緒くたにされたくないという三島の考えだろうが、少なくとも清張は芥川賞作家である。柴練や五味耕祐（受賞しているが、あとで剣豪小説と占いに転向？した）とは違うのだ。結末は確か清張が苦笑しながら降りることを承知したのであった。 <br />米国文学にはこんなくだらない分類はない。しかし、日本文学史は、大胆なことを言いますと、米国文学を全体としてなんとなく「直木賞」のジャンルにみていた。有り難くなかったのである。だから相手にしていなかった。村上春樹だって最初は遠巻きに見られていたし、芥川賞だってくれてやらなかったではないか。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">文芸誌の衰退ぶりについてはすでに述べたが、三十年代の文学地図を片手に現代文学の案内をしているようでは回復の兆しは見えないと言うべきだろう。何でも衰退しているものの処方箋を考えるくせがあるもので、考えてみたのだが、文芸誌にとって必要なことは、ジャンルはあまり気にしないで、面白がる第三者をたくさん育成することだろう。つまり、小難しい文学談義はやめにして、批評家を育てることだ。もうひとつは、哲学、思想界にすんでいる人々との交流を盛んにして、作家と批評家の思想を鍛錬することである。 そして、もはや影も形もない文壇なるものにとらわれない広い視野で文学史を編み直した方がいいと思う。（当事者でもないのに余計なことを言ってしまった。）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">村上春樹の言動にたいして関心はなかったが、最近、エルサルム賞を受賞したことをニュースで知った。これはイスラエルが与えるものだから、イスラム圏を敵に回すおそれがあって、考えどころだったが熟慮の末に受けることにしたと言うことらしい。<br />そこでの挨拶が見事であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">＜挨拶文＞ 　「受賞の知らせを受けたとき、ガザで戦闘が続いていたこともあり、この地を訪れることを警告されていました。私は自問しました。イスラエルを訪れることは適切なのだろうか？どちらか一方の側に味方する行為にならないだろうか？<br />　じっくり考えました。そして、来ることにしたのです。多くの作家がそうであるように、私も他人に言われたことと反対のことをするのが好きなのです。これは、作家としての習性なのです。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を信用することができません。だから私は見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。私が話したかったのはこういうことです。<br />　もし、硬くて高い壁があって、そこに卵が投げつけられていたら、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。<br />　なぜか？なぜなら、我々はみな卵だからです。かけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。我々は、誰もが高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一人の人間としてやるべきではないと思うようなことまでやらせようとするシステムのことです。<br />　<br />私が小説を書く目的は一つしかありません。それは、個人の中の無二の神性を描き出すことです。唯一無二であることを祝うためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから、私は生きること、愛することの物語を書くのです。人々を笑ったり泣いたりさせるように。<br />　我々はみな同じ人類であり、独立した人間であり、壊れやすい卵です。壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて、あまりに冷たいのです。壁と戦うには、我々は魂を一つにし、温めあい、力を合わせなければなりません。システムに主導権を握らせてはいけません－システムに我々がどんな人間かを規定させてはいけません。我々がシステムを規定するのです。<br />　あなた方に感謝します。イスラエルの皆さん、私の本を読んでくれてありがとう。何か意義深いことを分かち合えたら、と思います。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。」<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">井上ひさしの作品が「一貫して権力に対する反逆であり、常に弱い者の味方だった。」という評価に一脈通じるものがあると思いませんか。<br />この一点で、村上春樹をプロレタリア作家の裔と言ってもいいくらいだ。（いや、これは冗談！）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここまでが、僕の「『井上ひさしさん、お別れの会』（丸谷才一）の近代文学史」の中の文章である。<br />ところで、村上春樹がノーベル賞を取るのではないかと長年期待されてきたが、一向にその気配がない。そのうちに、ボブ・ディランが受賞するという椿事が起きていったい何事か？と思われたが、その後平静さは取り戻された。<br />で、村上春樹の受賞だが、なぜ人々の待望の声にもかかわらず、ノーベル賞の選考会はこれを決定しないのか？というのはだれにも疑問である。<br />これまでの日本人の選考については、確たることはないが、まことしやかに言われていることがある。<br />それは、日本の推薦と日本国内の評判だというのである。<br />例えば三島由紀夫は、推薦に値する作家に違いないが、国内の評判に多少瑕疵が見られるという理由で、見送られたとうことが噂されていた。右翼的な言動が祟ったのかもしれない。その点、川端康成と大江健三郎は何位抵抗もなく受賞にこぎ着けたのだろう。<br />さて、では村上春樹はどうか？<br />国内で、彼を推薦するものは果たしているか？ファンと称するものはごまんといるが、ノーベルの委員会が期待するアカデミーの世界で見ると、ほぼそれが見当たらない。文学として研究するものはいても、それが権威までにはなっていないのだ。<br />では、評判はどうか？<br />村上春樹の小説は、アメリカ文学という我が国ではマイナーな系譜に属しており、それは必ずしも純文学とは捉えられていないと言う事情がある。つまり、純文学と言えないものは娯楽作品の類になり、内容がどうあれ評判は一段低いものにならざるを得ない。<br />もうひとつ、村上文学に対する批評が少ない。優れた批評があって始めて、小説は文学になるのだが、そのような有効な批評を僕は知らない。<br />そう言うことが、村上春樹が受賞に遠い理由ではないかと僕は考えている。<br /></span></span></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-10-02T01:28:11+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/09/post-d383ad.html">
<title>三宅香帆「なぜ働いていると　本が読めなくなるのか｣　を読んで考えたこと。</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/09/post-d383ad.html</link>
<description> 「京都に行ってくる。」と娘が言うものだから、何事かと思ったが、「推し」の作家だか評論家の講演イベントがあるとのことだった。帰ってから感想を聞いたが、対談の相手に不満があったようだ。YouTubeでもやっているから見たら、といわれてたので、何日か後に見てみると、評論家にしてはかなり若い女性だった。しゃべりは、思いついたことがそのまま速射砲のようにでてきて、まとまりがない。話しの中から論理的に何事か...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/71qjwlkdxcl_ac_ul640_ql65_.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="71qjwlkdxcl_ac_ul640_ql65_" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/71qjwlkdxcl_ac_ul640_ql65_.jpg" alt="71qjwlkdxcl_ac_ul640_ql65_" width="150" height="245" align="right" border="0" /></a> 「京都に行ってくる。」と娘が言うものだから、何事かと思ったが、「推し」の作家だか評論家の講演イベントがあるとのことだった。帰ってから感想を聞いたが、対談の相手に不満があったようだ。YouTubeでもやっているから見たら、といわれてたので、何日か後に見てみると、評論家にしてはかなり若い女性だった。<br />しゃべりは、思いついたことがそのまま速射砲のようにでてきて、まとまりがない。話しの中から論理的に何事かを受け止めようとしたが、無理と分かって、途中で諦めてしまった。YouTubeもいろいろとは言え、この年齢のものは見たことがなかったから、「いまどき」とはこんなものかと感心した。<br /></strong></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>その内に、「推しが新書を出しているから読んでみる？」と娘が机の上に置いていった。表紙に「集英社新書、30万部突破！2024年年間売上1位」とあった。しばらく新書など見たことがなかったが、「なぜ働いていると　本が読めなくなるのか｣という、こんないい加減なタイトルでも本が売れることに驚いてしまった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>タイトルのことだが、まず、一般的に、この世の中「働いている」人だらけだから、まず自分のことかと思うに違いない。次ぎに、なぜ自分は「本が読めなくなる」のか、と言う疑問は、｢本を読みたいが、読めなくなった」人にとっては、関心のある所かもしれない。<br />問題は、｢本を読みたいが、読めなくなった」人がこの世にどれだけの数、存在するか？である。普通の人は、本を読みたいと思ったら、自由に読むことができるではないか。だから、｢本を読みたいが、読めなくなった」人というのは、普通とは違う、ある意味病的で異常であり、何らかの（精神的）障害を抱えているのかもしれない。これはもう精神科の医者が担当する領域である。と同時に圧倒的に数は少ない。<br />こんなむずかしいことをいわなくても、「働いていても」本を読む人は多い。僕も勤め人だったが、本を読むことになんの支障もなかった。従って、｢なぜ本が読めないか｣といわれても、その経験がないから、理由を知りたいとは思わない。多くの人は、こんなくだらない謎解きに興味を示すはずはないと僕は思う。つまり、仕事が忙しくて本を読む暇がない（「そういう気分にならない」、も含めて）としても、本を読むかどうかは自分が決めれば済むことであり、それが「なぜだ？」と、それ以上のなにかを期待するのはよほどのことだろう。要するに、反応するターゲットが少ないと思われるタイトルは出版物として不利だと言っているのだ、ところがどっこい、それに反してベストセラーという。なにが受けたのかぼくには理解不能である。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>そのタイトルの理由は、この後すぐに判明した。<br />この本の前書きに、著者は大学を卒業して就職したが、暇があればスマホを見てしまう生活で、気がつくと一年も本を読んでいなかった、と書いている。本をじっくり読む（そういう癖があるそうだ）ためには仕事がじゃまになり、三年半で会社を辞めた、とある。<br />「なぜ、働いていると、本が読めなくなるか」は、実に著者個人の経験そのものであり、本人にとってはそれなりに深刻な問題だったのだ。ほんとうは、タイトルの最前列に「わたしは」をつけるべきだった。（笑うしかないな。）<br />しかし、恐ろしいことに、この個人的な体験は、その後著者によって、社会現象に拡大され、｢労働｣と｢文化｣の対立という社会科学的テーマに発展させられていくのである。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>著者は、ある時自分のブログで｢仕事を続けていると、本が読めない」と書いた。すると、「私も、私も、私の場合バンド活動だけど」と、次々に同感の投稿が寄せられたという。なんのことはない、「仕事をしてると自分の好きなことが出来ない。」とわがまま言ってるだけだけどね。<br />ここで普通は、そういう意見を統計的にまとめた情報はないか探すものだが、同感の投稿にすっかり気を良くした著者は、数字の裏付けもないまま、私の悩みは社会全般の悩みに違いない、と思い込んだ。本を、じっくり読む癖があると書いている割りには、実に杜撰である。読んでいると、あれ、この根拠になる数字は？調査はしたのか？と気がつくものだが、じっくり、とはこのことも含まれるのだよ。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>ここから先、この社会現象の原因は、社会を構成する根源的問題に通底するとばかりに、議論を発展させる。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>つまり、この実に個人的な問題を、社会現象に仕立てた上で、突如として一般的な「労働」と「文化」の対立というコンセプトにアウフヘーベン（弁証法的に止揚）し、両者は同時に成立するかという議論に格上げしようする。たかが、「働いていると本が読めない」と言うことが労働と文化の対立だ、とは笑えるほど大げさではないか？<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>こうなると思い出すのは「社会主義リアリズム」である。国際共産主義のソビエトが唱えた芸術運動で、「文化」は「労働」に資する形で共存するというものだった。こういう理屈に従えば、勤め人は自分の仕事の役に立つ本を選択して精読に励むべしとなる。立派に共存しているではないか。「労働」と「文化」（＝読書）の融合の理論を打ち立てる概念操作はのはそのように、結構骨の折れる作業だが、元が、文化と言いよう、自分の趣味、読書、ホビーということだから、それに高邁な理屈がいるものか！とするのが自然で、こんなこと考えるだに馬鹿馬鹿しいのである。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>ところが著者は、いまを生きる多くの人が、「働きながら文化的な生活を送る」、つまり労働と文化の両立に困難を抱えているというのである。（憲法学者みたいことを言うなあと思いながら･･･。）その構造は、著者によると「文化」（＝自分の趣味嗜好やホビーのような文化的活動）が「労働」（＝会社勤め）によって搾取されているということになる。「労働」ときたから「搾取」という言葉が浮かんだかもしれないが、これを翻訳すると「趣味の時間がだいじなのに、会社に勤めているとそれが難しい」となる。しかし、この際搾取など関係ない。会社が優先なのは、馬鹿でも分かるあたりまえではないか？<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>労働者は、自分の労働力を売って資本家から対価を得て、消費をする。（その際「労働」から搾取しているのは資本家だ！｢労働が搾取するのは難しい」我ながら、古典的！）労働には対価が、つまり収入があって、それを元手に労働者は家賃を払ったり衣服を整え食費を工面したり、自分の生活全般を維持するが、趣味趣向、ホビー一般を、「労働」と比較対抗させるのは勝手だが、それは何の収入も生まない。もし、収入を生むなら、それは労働の範疇であり、話しは違ってくる。<br />収入がなければ、趣味も読書もクソもない。だったら働くしかないではないか。財産や貯金がいっぱいあって、読書して暮らしていけるならそうすればいい。多くのひとは、読書よりも、自分の暮らしが成り立つことに第一義的な関心を持つものである。はっきり言えば、多くの人にとって、読書なんてどうでもいいものの筆頭ではないか。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>それにもかかわらず著者は、「現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にすることで成立している。」と「24時間働けますか」的な意味不明なことを断言し、「労働と文化的生活の両立が出来ないことに皆が悩んでいる」と主張する。それは、困難で切実な悩みだと言うが、僕が見た所、政府が進めた働き方改革も定着し、映画館や、ゲーセン、カラオケ、サブスク映画その他楽しみはいくらでもあり、どこかの国のようにSNSが禁止されたり、スマホが制限されたり、禁書もない、その他見わたしても文化的側面で国民の多くが不満を持って悩んでいるようには見えない。<br />新宿歌舞伎町で、「あなたは、労働と文化的生活の両立が出来ないことに悩んでいますか？」とアンケートしたら、著者が根拠とする数値がとれるだろうか？<br />少なくとも「皆が悩んでいる」というフレーズは相当に怪しい、つまり、著者は根拠薄弱のまま我が田に水を引いていないか？と心配である。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>しかし、我がジャンヌ・ダルクは、声高らかに、この本はまず、「私たちはなぜこんな悩みを抱えているのか」という問いに挑むと宣言する。<br />手がかりは、「我が国の近代以降の働き方と、読書の関係だ」と宣う。ここから急に分かりづらくなるのだがこの際、我がジャンヌ・ダルク閣下に従うほかあるまい。（論理的に考えると、こっちの頭がおかしくなるので、とりあえず、｢おっしゃるとおり、読むしかない。）<br />彼女曰く。文化の中でも読書は歴史が長く、明治の昔から日本人は読書を楽しんできた。読書は人生を豊かにするほか、自己啓発の感覚とも結びついて（？）いる。だから労働と読書の関係の歴史を追いかけることによって「なんで現代は、こんなに労働と読書が両立しづらくなっているのか」の答えが導き出せるはずだというのである。これ、分かるかなあ。わかんねえだろうなあ。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>どうやら昔は今ほど悩んでいなかったということらしいが、私めに言わせれば、近代化に伴って、本という情報源に加えて多様な媒体が出現することにより、書籍の役割が相対的に低くなるのは時代の流れだと思えば答えは自ずから出るはずだ、（つまり、出版は衰え、書店はなくなり、本も消えていく）と思うが。ついよけいなことを言った。<br />（前に進める前に、気になっていることについて一言。「労働と読書」をならべて書くのはやめてほしい。「労働」は翻訳言葉で、具体形ではなく概念を表す。一方「読書」は単に本を読むことを指している。この際「労働」は単に、会社勤めや働くこと働き方を指しているのだからそのように二つのレベルを揃えるべきだ。それは物書きのお作法である。）<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>進めよう。<br />そして、この本の最終的な狙いは、「どうすれば労働と読書が両立する社会を作れるか」という難題に挑むことだというのである。どっ天びっくりだあ！「働いていると本を読めない」という極めて個人的な悩みから出発して、途中いい加減にアウフヘーベンしたが、たどり着いた所は、「働きながら本を読める社会」を実現するという社会改造論であったとは。<br />しかし、これも変な話しだ。「働きながら本を読める社会」は実現していないかあ？共産党が本を読むなとでも言っているのか？それなら、革命だ！えっ、共産党に革命なの？時代だなあ。ああ、頭がおかしくなりそうだ。<br />ともかく世直しらしいから、政治家諸君には是非聞いてもらった方がいい。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>そのあと、本書の本文は、日本の近代以降の労働史、読書史を並べて俯瞰し、歴史上どうやって働きながら本を読んできたのか、現代人はなぜそれに困難を感じているのか、という問題について考える、という。<br />「近代以降の労働史、読書史を並べ」とはさすがジャンヌ・ダルク。大胆にも日本労働史という爆弾抱えた危険なものに挑戦し（へたに書くとヤバイ）、「読書史」という誰が読書したというのかわからない｢日本読書新聞｣も真っ青の難題に挑戦、そのなれの果てである現代人の悩みを解決するとは！さすが、われらがジャンヌ・ダルク。行け行けジャンヌ！<br />ここで、ジャンヌ閣下の外せない言葉が「働きながら本を読む」だと確認しておこう。ところが、｢本を読む｣という行為に「働きながら」をくっつけたいのは成り行き上分からないでもないが、こんなものただ邪魔なだけだ。誰が読もうが本は本だ。勤め人だった自分が本を読めない、だから勤め人全体が本を読めないと拡大解釈するのは妄想が過ぎるのではないか。<br />この本全体が、自分のことを、他人や社会全体に拡大して、それが真実と思い込んだもはや誇大な「妄想」で出来上がっているものだといっても過言ではない。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>本編は、約束通り、明治以降の労働史と読書史なるものを並べて俯瞰すると言うもので、つまり働いているものがどんな本を読んできたか調べて並べてある。こんなものは自分（僕の）の生きてきた歴史だから章のタイトルを見たら内容は想像できる。どうせ、どっかで調べて書いてあるのだろうからこの際、ちら読みであとは省略しても良かろう。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>しかし、ここまで書いて、今度は、僕の方に深刻（でもないか）な疑問が生じて、夜も寝られなくなった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>昔、｢私は、読書がやめられない。活字中毒なんです。」と言う人に会ったことがある。確かに鞄の中に数冊の本があって、暇さえあれば読んでいるようだった。活字を目に入れることが快感なのだろう。「本を持ってなければ、近くに落ちているスーパーのチラシの文字を読んでいる始末で、お恥ずかしい次第です。」と言っていた。どんな本を読んでいるのか聞いたら、｢それはもう、多種多様、いろんな本です。ええ、小説もあればエッセイ、論文、歴史書、詩集などなどその時の気分に合わせて手当たり次第に選んでいます。｣<br />読んだ内容を覚えているかと問うと、しばらくは記憶しているが、次第に薄れていくものらしい。<br />こういうのは一種の病気で、気の毒だったが、本なら何でもいいと言うのも｢読書｣の一形態であると認識せざるを得なかった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>我がジャンヌ・ダルクも｢読書｣｢読書｣とうるさいくらいだが、果たしてどんな本を読んでいる、あるいは読みたいと思っているのだろうか。と言うことが心配で夜も寝られない位になってしまった。<br />我が閣下のことだから、まさか活字中毒者のように本であればなんでもいいということではなかろう。<br />しかし、この本を通じて、ただの一度も、自分が読んでいる、あるいは読みたい本のタイトルを目にしたことはなかった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>「サラリーマンがどんな本を読んできたか」などという手垢にまみれたテーマで本を書くために、巻末に付けられた相当数の本は、必要があって、目的があって読んだものである。<br />いっておくが、｢読書｣では、すでに本を選び終わっている。肝心なのは書を読む前に、書を選んであり、書を手に取る動機である。書は、調べる、知る、味わう、楽しむ、感動するなどなど我々の欲望を満たしてくれる。最初に、本に対して兆す快楽の予感、それが本を読むことの最も重要な動機である。誰もが本を読むわけではない。では最初の予感がいつ訪れるのか？<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>昔、本の読み方として書いたものが、比較的よく読まれた。<br />この稿にまとめようと思ったのは、｢読書｣｢読書｣と本なら何でもいいという印象を受けまくってきたから、そのアンチテーゼとして、是非読んでもらいたいと思った。<br /></strong></span></span></span></p>
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<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong><span style="font-size: 14pt;"><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/image_20200519044201_20250915175601.jpeg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Image_20200519044201_20250915175601" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/image_20200519044201_20250915175601.jpeg" alt="Image_20200519044201_20250915175601" width="150" height="230" align="right" border="0" /></a> 必読書150の時代錯誤</span><br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>必読書１５０　著者：柄谷行人　浅田彰　岡崎乾ニ郎　奥泉光　島田雅彦　すが秀美　渡部直己 <br /> <br />帯に「これを読まなければサルである！」とある。この本を本屋で見て、バカな連中がいるものだと思っていたらWeb上では話題になっていると分かった。必読と上げられているのは、プラトン、アリストテレスからマルクス、他に日本の思想家など人文科学50冊、海外文学と日本文学が50冊、加えて参考テクスト70冊が上げられている。（後ろにリストをつけておいた）<br />昔「世界の名著」という全集があってずいぶん売れた。小振りだが厚みがあって箱入り、立派なものだった。中央公論社の懐は大いに潤ったが、日本国民の教養レベルが上がったとはついぞ聞いた事がない。それもそのはず、あんな小難しいものを五十何巻も読めるはずがない。読んだところで中身が分かるものでもないし、分かったからそれがどうしたというものだ。売れたのは応接間の本棚を飾るのにちょうどよかったからだ。客に見せてこけおどしをやろうという悪しき教養主義がはびこった時代である。高度成長とは一面そういう事でもあった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>集めたものの大半は、岩波文庫に入っている。ほとんど古典となっているもので、読まないよりは読んだほうがいいに決まっているが、この連中の選び方の安易な事が露骨にでている。つまり、岩波教養主義といえばいいのか、「世界の名著」主義といえばいいのか、頭の構造は岩波茂雄あるいは文明開化の時代とたいした違いはないように思える。つまりこれは古典的なエリート養成の方法論に何の疑いも持たず従っただけの事である。昔の旧制高等学校の生徒なら喜んで丸暗記でもしただろう。後で自慢出来るからだ。しかし、自慢の種を教える事ならサルでもできる。<br /> <br />今ごろこんなことをやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対！」と叫んだ連中だけの事はある。何故反対かといえば、よく聞こえない声で、平和憲法があるからだとのたまったのである。古今東西の古典で頭が充満している日本の知識人のレベルとはこんなものだ。まあ、古典を勉強するよりは中東の歴史を勉強したほうがいいのではないか、とその時はあきれてしまったが･･･。<br />この連中は近畿大学の教師らしいが、学生相手に「これを読まなければサルだ」などと脅している。こういう浮世離れした連中に「サル」だと言われても、あまり気にしないほうがいいと学生諸君にはいっておきたい。しかし、聞き捨てならないのは、自分の教え子を取りあえずサルだと思っているらしいことだ。サルだと思われる節があるのかないのか、とりあえず、かわいそうに、教師にサルだと思われているとは。大学生の年ごろは、妙にませた若者もいるにはいるが、たかだか二十年かそこいらしか生きていないのだから、教師の年代から見たら無教養で、経験不足で使い物にならないと見えるのは当たり前である。そこを何とか引き上げるのが教師の責務だろう。<br /> <br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>そこで、教師とはどんなことをするものかという見本みたいな話があるから、なるべく短く紹介しよう。呉智英の経験ばなしで、感動ものである。<br />呉智英先生は、某大学で三日間の集中講義を頼まれた。三日で一年分の単位を出そうというのであるから朝から夕方までぶっ続けである。しかも労力の割に報酬が少ない。悪条件である。しかし「マンガ論」だから義務感でやむなく引き受けた。もう一つ悪い条件があった。「大きな声ではいえないが、（ここから小文字で）そこの大学は偏差値が40台なのである。（小文字終わり）差別は正しい、学歴差別は特に正しいと公言する私としてはそんな大学で教えたくない。」しかし、引き受けた以上はやらざるを得ない。やる以上は水準を落としたくない。困った困った。とまあ、やる事になって教室に入ると悪い予感が的中した。四十人ほどの学生のうち、頭が黒いものは男女とも半分以下。スキンヘッドも二三見える。耳にピアスが男女とも半分で、ほぼ全員が机の上にウーロン茶。<br />えらい事になったと思いながら、ともかくはじめた。出来るだけメリハリを付けて。細かい論証は省いて面白いところだけ強調して。学生たちは無反応。彼らの常識を覆すような話をする。他の大学だったら学生がはっと驚いている様子が分かるのだが、ここでは無表情。しきりに面白い話をするがやはり無表情。居眠りするものがいないのがせめてもの救いだ。こうして一日目が終わった。<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>二日目は開き直って、今日のはもっと難しいぞと宣告した。マンガ論の講義だからといって諸君はチョロイと思ったか知れんが、漫画を読む事とそれを考察する事は同じではない。学生たちはえーっと声を上げた。始めて反応らしい反応。「フランス革命と最高存在の祭典だの、千年王国思想としての民衆運動だの、形相因と目的因だの、成島柳北のルサンチマンだの、そんな話ばかりなのだ。」（こういう講義なら僕も聴きたいね。）つまり、マンガ論といってもマンガをかみ砕いて講壇から話すのではなく、「そのマンガに何が読み取れるか、マンガを読み解くためには何を知っておかなければならないか、それを講義するのである。」<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>三日目、もっと難しい話になるといったら、学生はまたえーっと声を上げる。「徂徠学の出現が宣長の国学に強い影響を与え、それが近代的文芸批評の下準備をした、という事が分からないと、エロマンガを取り締まる事の是非も論じられないのだよ･･･」（いあヤーこれは難しそうだ。）という事をとうとうと論じたのである。<br />そして昼休み、出席カードを回収していて不思議な事に気がついた。一日目、受講者四十三人。二日目、受講者四十三人。三日目、受講者四十三人。三日間学生は一人も脱落していなかった。最終時間は、レポートの作成と感想を書く事に費やした。学生のほぼ全員がむつかしかったけれど面白かったと書いてきた。中学や高校で習った事と正反対の事を三日間聞かされたので驚いたけど、非常に有意義だったと書いて来た学生も多かった。中にこの講義を受けれて○○大学にきてよかったと書いたのもあった。バカ「受けれて」じゃなく「受けられて」だろうと悪態をつきながら呉智英先生は深く感動していた。<br /><br />そして激しい義憤が湧き上がるのを覚えた。『彼らが三日間笑う事も表情を変える事もなかったのは、中学高校の六年間、彼らは学校の授業で、知的な興奮を覚えたり、笑ったりする習慣がなかったからなのだ。偏差値40台というのはそうした青春時代を送るという事なのである。彼らは始めて「知る」と言うことが面白い事なのだと知ったのだ。私は、しかし、この義憤をどこのだれにぶつけてよいものか、今に至るまでよく分からないのである。」（「四十台の青春」2001年12月「犬儒派だもの」に所収）<br />この学生たちの何人かは、フランス革命に興味を持ったかもしれない。そのうちの何人かは関連書籍を買いに走ったかもしれない。あるものは成島柳北について調べる気になったかもしれない。<br /> <br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><strong>読書とはそのようにして始まるものだ。「知る」と言うことが面白い事だと教える事が出来れば、いつかは古典にたどり着く事がありうるだろう。「サル」に対して教師が教えるべきはただ一つそのことだけである。<br />もっといいたい事はあるが、長くなったのでこの辺でやめる。（あっ、○○大学は近畿大学ではありませんよ。どっかの山の中にある大学らしい。）<br />一言追加。<br />この文明開化時代の西洋かぶれどもにリストに対する文句を言って置こう。<br />ドゥルーズ＆ガタリ『アンチ・オイディプス』を必読書に入れるのは間違い。「千のプラトー」もそうだが、こんなに長々とおしゃべりをしているからフランスは二度も戦争に負けたのです。<br />木田元「反哲学史」を入れないのは日本の哲学の現在を理解していない証拠。<br />むかついてきたので、ここでやめるわ！<br />（むかついて、やめたが、後日、「反哲学史」について説明した文章があるので、引き続き読んでいただきたいと思う。こちら）<br /></strong></span></span></span></p>
<p> </p>]]></content:encoded>



<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-09-15T18:00:26+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-8bb8a0.html">
<title>「白神」旅情ー五能線と菅江真澄　その①</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-8bb8a0.html</link>
<description>今頃になってコロナに感染した。熱が出ているのは承知していたが、たいしたことはあるまいと思って、いつもどおり透析の医院にいった。検温したら相当高い。念のためと言って、細い棒を鼻に突っ込まれた。結果はすぐにでた。｢コロナです。｣院長の若い女医は呆れた表情だった。ワクチンなど一度も打たなかったことを幸いだったと思っていたが、ここに来て感染とは･･･。いよいよ運もつきるか？もうコロナのウイルスは弱くなって...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201.jpg" alt="71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201" width="150" height="207" align="right" border="0" /></a><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">今頃になってコロナに感染した。<br />熱が出ているのは承知していたが、たいしたことはあるまいと思って、いつもどおり透析の医院にいった。検温したら相当高い。念のためと言って、細い棒を鼻に突っ込まれた。結果はすぐにでた。｢コロナです。｣院長の若い女医は呆れた表情だった。<br />ワクチンなど一度も打たなかったことを幸いだったと思っていたが、ここに来て感染とは･･･。いよいよ運もつきるか？<br />もうコロナのウイルスは弱くなっているからだろう、ついたてで囲われただけだったが、当の本人は、その後高熱が出て、寒さに震えるようになった。全身に力が入り、緊張しひたすら耐えた。このとき太ももの筋肉を痛めたのに気が付かなかった。ようやく帰れる時間になったが足が動かない。タクシーには、車椅子で運ばれてようやく乗った。ところが車は動き出しているのに行き先を言えない。どうしても思い出せないのだ。あぁ、とうとう脳までイカれたか、と思っても、その交差点を直進したら別の方角へいってしまう。と、寸前の所で誰でも知っているTVのスタジオの名を思い出した。そこをめがけて走れば、何とかなるという目印だ。<br />そのあとのことはほぼ覚えていない。気が付いたら布団の上に転がっていた。足が･･･足が･･･痛くて動けない。<br />その後は、熱も下がって、足の痛みも徐々に取れていったが、ひどい後遺症に悩まされている。全身がだるくて、食欲もない。いつまで続くのか。数キロ痩せてしまった。<br />それにしても、どこでコロナを拾ってしまったのだ？</span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-size: large;">「安東氏という謎」余話</span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">司馬遼太郎は、｢北のまほろば｣で、中世、津軽十三湊で活躍したという安東（藤）氏のその後については、分からないと言っている。<br />それには、ほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌（つまり一族の内輪揉め）によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたと書いた。 安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、</span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」<br />と想像している。</span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は、大学時代、国史専攻の井手有記が「津軽といえば安藤氏だ。しかし、安藤氏がどこからやって来て、いつ頃十三湊に定着し、そして消えたのかがわからん。」と言っていたのを思い出した。長崎生まれ、北海道育ちが何故安東氏に関心があったか聞きそびれてしまったが、この友人は自分の研究テーマにでもしようとしていたのだろう。この当時は、司馬遼太郎にしてもあの通りだったことからも、安東氏に関心も少なく資料もそれほど集まっていなかったから雲を掴むようなものだったかもしれない。</span></p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">謎だったその後の消息を追いかけて、たどり着いた所が、出羽の庄内でも越前の敦賀でもなく、思いもよらなかった僕の生まれ故郷であったことは 「『北のまほろば』と「安東氏」という謎」に詳しく書いた。<br />このときは、資料として現れた「外津軽三郡史｣の、世間にもたらした騒動が面白くて、思わず脱線してしまうこともあったが、｢安東氏｣のその後については、戦国時代、秋田の北半分の地域で活躍し、以降その家系は大名として明治まで続いたことを書いた。（続く）</span></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>]]></content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-08-21T12:13:48+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-7ee4f7.html">
<title>「北のまほろば」と「安東氏」という謎（その７）安東愛季と能代檜山</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-7ee4f7.html</link>
<description>（どういうわけか、この「その７」がアップされずにいた。自分でNo.を間違えたのかと思っていたが、今度確かめてアップが『保留』になっていたことが分かった。安東愛季という戦国武将や北秋田一帯の歴史という肝心のことが書かれているので、慌ててアップすることにした。）

△
 
前回、「北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。」と書いたが、実際は、北海道に逃れたあと、十三湊、安藤康季・義季父子が捲土重来と...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Kaku Gothic ProN;"><strong>（どういうわけか、この「その７」がアップされずにいた。自分でNo.を間違えたのかと思っていたが、今度確かめてアップが『保留』になっていたことが分かった。安東愛季という戦国武将や北秋田一帯の歴史という肝心のことが書かれているので、慌ててアップすることにした。</strong></span></span></span><span style="font-family: 'Hiragino Kaku Gothic ProN'; font-size: 10pt;">）</span></p>
<div style="text-align: center;"></div>
<div style="text-align: center;">△</div>
<p> </p>
<div style="text-align: left;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">前回、「北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。」と書いたが、実際は、北海道に逃れたあと、十三湊、安藤康季・義季父子が捲土重来とばかり、北海道渡島半島において軍勢を調え、津軽西浜に上陸、南部氏に戦いを挑んでいる。<br />しかし、そのさ中、岩木山麓で康季が病死し、義季もまた攻め込まれて自刃して果て、義季に子がなかったため、十三湊下国安藤氏嫡流の血が途絶えたのであった。時に、1453年（「応仁の乱」の十年ほど前になる）、およそ200年にわたる十三湊を中心とする安藤氏の繁栄に一旦終止符が打たれることになった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「北のまほろば」が書かれたとき、安藤氏嫡流がこのようにして滅んでいたことを司馬遼太郎は認識していなかった。<br />安藤氏には、さらに、この続きがあった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「新羅之記録」（江戸時代に松前藩が編纂した自藩の歴史書）によれば、それより少し前、安藤一族の内、南部に攻め込まれて敗退し捕虜となった安藤政季は、母親が南部と縁続きだったことにより、下北半島の田名部に土地を与えられて、留まった。南部の人質、または傀儡である。南部の狙いは、岩木山麓で討ち死にした康季・義季父子に代わって政季を十三湊下国安藤家惣領として、これを支配下に置くことで、安藤氏が足利氏より獲得している地頭領の代官職および、蝦夷沙汰職代官の名誉と大きな利権を（間接的に）手に入れることが出来るというものである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところが、安藤政季は、安藤宗家の安藤康季・義季父子の死を伝え聞くと、南部の支配から逃れ、安藤氏再興を祈して、1454年、蠣崎蔵人など少数の重臣を連れて密かに田名部（宇曽利）を脱出、対岸の夷島へ渡った。「安藤氏　下国家四百年ものがたり」（森山嘉蔵著2006年、無明舎出版）によると、夷島の沿岸部約十カ所に館を構えて守っていた、かねて安藤氏由縁の守護豪族に安藤宗家の継承を宣言する。そして、夷島の支配拠点を調えて、対立するアイヌなどへ備えることになった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、まえに「鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。』と書いたが、それは、応永初期（1400年頃）のことで、夷島（渡島半島）でアイヌの反乱（度々起きていた）を鎮圧した安藤氏の一族、下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を室町幕府から委ねられ、湊家＝上国家を興したとしている。<br />つまり、下国家が北海道に逃れる前に、安藤氏の版図が拡大した時期に、すでに安藤氏の一部が秋田地方に入っていたと言うのである。また、「安藤氏　下国家四百年ものがたり」（森山嘉蔵著）によると、当時、出羽国においては群雄割拠の騒乱状態にあり、手を焼いた時の室町幕府が十三湊安藤氏の一族、安藤鹿季に出羽を治めるよう命じた。安藤鹿季は二百騎を連れて小鹿島に、あるいは雄物川河口、又は土崎湊に拠点を築いて上国湊安藤氏を名乗ったというが、上述の「秋田『安東氏』研究ノート」（渋谷鉄五郎）によると、其れ以前に安藤氏の気配は小鹿島やその周辺にあり、鹿季が拠点とした場所もはっきりしないらしい。いずれにしても上国家の氏祖は鹿季となっており、このころ、南部の勢力の攻勢が激しく、孫惟季の代になっても止まなかった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「秋田『安東氏』研究ノート」には、例の『市浦村史」から取ったらしい小鹿島を中心に深浦から雄物川河口までの地図を引用して場所を特定しようとしたり、著者の故郷である土崎に対するやや過剰な思い入れなどにより、冷静さを欠いているきらいがある。結局、安藤鹿季が土崎湊安藤氏を開いたということだけは、事実らしい。<br />この上国湊安藤氏が土崎湊に拠点を置いたのはいつ頃のことか分からないが、のちに、男鹿半島の付け根、水戸口付近の脇本という小高い丘に大きな城を構えて居たのは、戦国時代の名城として城跡が残っていることをみれば、平地の海辺で守りにくい土崎に長くいたとは考えにくい。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ともかく、南部の攻勢に手を焼いた鹿季、そしてその孫、惟季は、十三湊安藤氏の惣領をつなぎ、いまは夷島に逃れている安藤政季に書状を送り、出羽に来て宿敵南部と戦い恨みを晴らそうではないかと誘った。（「安藤氏　下国家四百年ものがたり」）<br />蝦夷にいて、南部と渡り合おうにも直接海路で軍勢を運ぶのは不利である。すでに秋田で南部と戦っている一族といっしょに陸路南部へ押し上げれば勝機がないわけではない。と、考えたかもしれない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">安藤政季は、自らの重臣（代表的な人物、蠣崎蔵人、武田信宏、河野政通、相原政胤、いずれも後に、蝦夷で大成）にはかり、出羽移住を決断するが、その時事件が起こる。<br />夷島におけるアイヌの反乱、コシャマインの戦い（1457年）である。（二百年後に書かれた文献にあるという。）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">アイヌは、鉄を持たない民であった。鉄器を手に入れるには倭人と取引をしなければならならない。<br />僕が小学生ぐらいのときに、鉛筆など細木を削る道具をマキリといった。二つ折りの刃渡り10センチほどの小刀で、今の言葉でいえばナイフである。<br />マキリがアイヌ語だったことは今回初めて知った。（ただし、語源は日本語らしい）アイヌ語のマキリは、もう少し用途が広く「短刀」を意味するようだ。<br />ある時、アイヌの青年が、今の函館付近にあった倭人の鍛冶屋に、このマキリを買いに来た。安いの高いの品質がどうのと言い合っている内に、倭人がこのマキリを使ってアイヌの青年を刺し殺してしまうという事件が起こる。<br />この殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に、両者の間にくすぶっていた敵対関係があらわになり、アイヌはコシャマインを首領に、安藤氏および室町幕府の軍勢と戦争状態に入る。<br />胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内十までを落としたものの、1458年（長禄2年）に花沢館主蠣崎季繁（安藤家の重臣、上ノ国守護職）によって派遣された家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。<br />アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後（安藤氏の痕跡はこのような形で残った）もアイヌの大規模な蜂起は起こっている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この騒動が一段落したのを見て、安藤政季は、出羽転住を決め、軍勢を連れて、出羽の国、小鹿島へ上陸する。（政季の転出はこの一年前に行われたという記録もあるらしい。）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<div style="text-align: center;">△</div>

<p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">男鹿半島の先端部分には噴火口のあとがいくつもあり、ここは地下からマグマが噴出して日本海の沿岸にできた島なのだということが分かる。その後、北の米代川から流れ下った砂が、海流の関係なのだろう、島と陸地の間に堆積し長い砂州でつながることになった。一方、南側は雄物川からのびた砂州が、海流が弱く完全にはつながらなかったため、わずかな開口部をもって島と陸地の間の海が残った。そこへ河川が流入してできたのが、広大な汽水湖、八郎潟で、戦後悪化していた食糧事情解決のためにこれを干拓して農地にするまでは、琵琶湖に次ぐ我が国第二の大きさを誇る湖だった。</span></p>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">昔、このあたりを小鹿島といった。<br />この小鹿島から『後三年の役』に参戦した豪族がいたことは前に書いたとおりで、早くからここを拠点にした者がいた。<br />おそらく、雄物川河口から八郎潟の汽水域、小鹿島にかけての領域に拠点を置いていた上国家に対して、安藤政季は、それより北、南部と手を組んでいた葛西秀清が盤踞する地域を狙った。北は深浦から白神山地、米代川河口、八郎潟にかけて、河北千町（河北郡の千町歩という意味か？）と言われる広大で豊かな土地である。<br />米代川河口から十キロほど入ったところの支流、檜山川を遡上すると標高百五十メートルほどの小高い丘があらわれる。<br />安藤政季はここ桧山を拠点と決めた。<br />このころから、理由はよく分かっていないらしいが、政季は、安藤を安東とあらためたという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「安東氏　下国家四百年ものがたり」によると、<br />この安東政季は、毀誉褒貶の多い人物で、葛西秀清との死闘のさ中、冬の白神山地を越えて、南部に奪われた氏祖の地、藤崎奪還を目指して同族を攻撃する無理をしたり（桧山に敗退）、部下を理由もなく処刑するなど安東氏棟梁としての「信」を問われる行動があり、ついには白神山地を流れ下る藤琴川が米代川と合流する辺りで家臣の長木大和守の謀反にあって倒れる。<br />あとを継いだのは、嫡男、安東忠季である。それから七年の戦いを経て、葛西秀清を滅ぼし、桧山の霧山に城郭などを築いて城としての形を整えはじめる。世は戦国時代の始めであり、日本中が血で血を洗う国盗り物語で溢れていた。そうした中、忠季は、河北千町という広大な領地を治めるようになったのである。こうして、領地が安定したので、桧山安東家の菩提寺として1504年頃、日照山国清寺（いまは廃寺、その時期は明らかでない）を建立している。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その後、下国桧山家四代は、尋季の嫡男、舜季(きよすえ)が継いでいる。ここに、湊上国安東鹿季九代の孫堯季の娘が嫁いできたとの記録がある。これは、時代を経るに従って、桧山家の勢力が小鹿島付近で、上国湊家の所領を侵すなど小競り合いがあった状態を解消し、両家融和を図るために取られた措置であった、と考えられている。<br />舜季は、蝦夷地で起きた紛争を解決し、松前守護職である蠣崎氏を臣下として、この地の支配権を間接的ながら確立している。蝦夷地の統御態勢を固めた舜季は、1553年桧山城で没する。<br />舜季のあと継いだのは、嫡男で、その時十五才の愛季（ちかすえ）であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その頃、一方の湊安東堯季は、足利将軍の御扶持衆で、左衛門佐に任官する国人大名であった。（中央政権に一目置かれる存在？）堯季は、足利幕府管領の細川家から数多い奥羽の諸将のうち、七人だけの「謹上書衆」（書状の最初に「謹上」を付ける礼儀）に遇されてもいた。堯季には嫡子がなく、下国桧山家から養子として愛季の弟を迎えている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">安東愛季は、戦国の世も最盛の頃に、桧山屋形を継いだことになる。<br />継承して三年後の弘治二年（1556年）、愛季は海に乗り出すことにして、まず手始めに、家臣の清水治郎兵衞に命じて能代の湊づくり、町づくりに手をつける。能代の湊は米代川の河口にあったものと思われるが、一定程度の大きさの船が寄港するには、おそらく浚渫工事が必要だっただろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そして、能代湊の整備を終えると日本海に進出した。庄内の「大宝寺屋形」の武藤氏の一族、砂越入道也息軒の娘を正室に迎え、永禄五年（1562）には也息軒を通して、越後の上杉謙信と親交した。また、越前の守護大名朝倉義景にも使者を出し、日本海交易の道筋を付ける。このことにより、小鹿島、能代沖を航海する庄内、越後、越前の商船の安全と海上の交通交易を水軍力を持って保障するようになり、土崎湊、能代湊に商船の出入りが頻繁になったのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">材を蓄え戦力の充実を図った愛季が、次に企てたのは領土を拡張することである。<br />桧山から見て北東の米代川中流域から上流域にかけて拡がる「比内千町」といわれる沃野、さらには米代川、長木川の秋田杉、そして多様な鉱物資源を産出する北部比内地方がある。それを手に入れるにはここを支配している比内郡主、浅利則祐を排除する必要がある。<br />安東愛季は、浅利則祐と不仲で領主の座を奪おうと考えていた弟の勝頼を手懐け、永禄十年、勝頼の手引きで、則祐を襲った。この攻撃で、則祐を自害に追い込むと、浅利家の当主に勝頼を据え、次いで臣下にした。こうして、愛季は比内郡の統括権を手に入れ、事実上この地域（大館を中心とする）を桧山安東家の領有としたのである。 <br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">愛季が次ぎに目指したのが、比内郡の東に隣接する鹿角郡攻略である。ここは、南部領であった。先祖以来、執拗に南部氏の攻撃を受けてきた安東氏にようやく訪れた復讐の機会である。<br />愛季は、比内郡扇田城（大館の南）に入って鹿角攻めの戦略を構築しはじめる。まず、鹿角郡内の地侍、土豪に浸透し、密かに反南部氏の同盟を結ばせる。さらに、比内の浅利勢、阿仁地方の嘉成右馬守勢と図って、南部領侵攻の準備を調える。<br />そうして永禄九年（1566年）八月、鹿角郡境の巻山峠を越えたところに、鹿角の芝内勢が合流、出羽の大軍が南部領になだれ込んだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">南部領を守備する鹿角郡の各城館勢の救援に、三戸南部晴政は岩手郡内の国人領主に出陣の檄を飛ばす。激しい攻防合戦の中で、南部方は石鳥谷城、長峰城が落城、ようやく残った長牛城に立てこもり、ここで越年した。<br />年明けの永禄十年二月、愛季が率いる桧山軍六千の大軍は、積雪を侵して長牛城を攻撃。これを見た南部晴政は一族一門の南部北氏、南部東氏などのすべてを動員し、大援軍を繰り出して反抗する。それを見た、安東勢は直ちに全軍の兵を引いた。この素早い対応も戦術の内であった。<br />こうして、この年の十月、三度目の攻撃によって、ついに長牛城を陥落させ、鎌倉末期・南北朝期以来の南部領鹿角郡を安東領とした。これによって愛季は、先祖康季の屈辱を晴らし、戦国武将として近隣にその武威を示したのである。<br />大南部の面目を傷つけられた南部晴政は、翌永禄十一年三月、継嗣の田子信直、その父で剛勇の誉れ高い石川高信、一族の勇将九戸政実を副将とし、南部の総力を挙げた一大軍勢を整えて鹿角に攻め入った。この大軍を前にしては、安東勢力に荷担した鹿角の土豪地侍も防戦のしようも無く、次から次へと降伏し、鹿角郡は一年にして取り戻されたのである。<br />せっかく占拠した鹿角郡を一年で取り戻されたとはいえ、三度にわたっての永禄の鹿角合戦こそ、北奥の雌雄と目される糠部の南部晴政、出羽安東愛季が、一族の面目をかけての大激戦であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、戦国武将として評価されるには朝廷から下されるそれなりの官位が重要であったが、京都での公家工作は、室町時代以来「京都後扶持衆」である湊安東家の任務であった。「言継卿記」（戦国期公家研究の重要資料）の山科言継は、戦乱で凋落している朝廷のために、地方武将からの献上品の進貢に働き、その代償として地方の人たちの欲しがる官位を与えることに走り回っていた公家である。<br />永禄十二年、愛季は浪岡北畠家の権威を借りて、家臣の南部弥左衛門を上洛させ、山科言継に近づけさせた。こうして、権威の中心である京都で、北奥に位置する桧山屋形安東愛季の名が公家の間に知られていった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">京都での愛季の評判は湊家の家臣に大きな動揺を与えずにおかなかった。また愛季の兄弟がふたりも続いて湊家の当主の座（養子）についていることも不安要素であった。<br />このような事情で、湊家の危殆を感じてきた家臣の一部が、永禄十三年、豊島城主の畠山刑部将補重村（畠山重忠の末裔）を先方にして、当主茂季（愛季の実弟）への謀反を起こした。<br />この報を受けた愛季は、急遽して豊島城の畠山重村を攻めた。桧山精兵の襲撃に一蹴された重村は、妻の実家である由利郡の仁賀保氏を頼って逃げ込んだ。湊家の桧山攻撃抑制もあって、愛季は、弟でもある湊家当主の茂季を豊島城に移して、南方面からの攻撃の守備とし、自らが湊城にはいって湊安東家の実権を掌握した。桧山安東氏が湊安東家を吸収する形での統一ということであった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">元亀四年（1572年）七月十九日、織田信長は自ら将軍位に付けた十五代足利義昭を京都から追放した。天下の政権は名実ともに信長の掌中に握られようとしていた。全国の武将は、いまや信長の一足一投から目が離せない時代になっていた。（元亀四年七月天正に改元）<br />天正二年、愛季は北方産の駿馬と弟鷹（だい、大鷹の雌）を献上した。日本海は出羽と都を繋ぎ、情報伝達と物品運搬の道でもあった。使者に立つのは、愛季の外交役南部弥左衛門である。<br />その二年後の天正四年、「去々年弟鷹十聯、同去年ニ居到来、誠ニ御遼遠ノ懇志悦斜ナラス候」とあり、さらに添え書きに「御太刀一腰紀新太夫相送り候」とある。信長の満足した感情の表れた返書と、名刀紀新太夫を送られた愛季は、丁寧な御礼書きと北の梅の珍品である上等な海獺の皮を十枚送り届けている。天守閣を備えた居城の安土城を琵琶湖畔に築造して、天下布武を自認している覇者信長への返書は、「去々年御鷹師サシ下サレソノ意ニ及候トコロ御祝着ノ由、今度御書ノ過分に預リ、忝存ジ候。殊ニ太刀紀新太夫之ヲ給リ、末代マデ重宝致スベク候、ナオ羽柴筑前守上聞ニ達スベク候」とある。<br />つまり、安東愛季は、織田信長と昵懇の仲になっていた。<br /></span></span></div>
<div style="text-align: left;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"></span></span></div>
<div style="text-align: left;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN; font-size: small;">（続く）</span></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>「北のまほろば」と安東氏という謎</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-02-27T02:43:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-23efd3.html">
<title>// お天道様がみているぞ！</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-23efd3.html</link>
<description>とりとめないことを書こうとしている。
 
前回、『保守のどこが悪い』と書いたが、あれには動機があった。その肝心の、何故そう思ったのか、を書く前に、結論だけをいって、おしまいにしてしまった。何故、「保守」のことに言及したかというと、大学時代の友達からメールで暮れの挨拶があったのだが、その中にとんでもない出来事が起きたとあって、どうにもやりきれない気持ちになった、というのが動機だった。それでいろいろ考...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">とりとめないことを書こうとしている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">前回、『保守のどこが悪い』と書いたが、あれには動機があった。<br />その肝心の、何故そう思ったのか、を書く前に、結論だけをいって、おしまいにしてしまった。<br />何故、「保守」のことに言及したかというと、大学時代の友達からメールで暮れの挨拶があったのだが、その中にとんでもない出来事が起きたとあって、どうにもやりきれない気持ちになった、というのが動機だった。<br />それでいろいろ考えていたら、これは僕が保守的になったのではないかと思って、保守とは何かを考えたのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">彼は、家庭菜園で、様々な野菜を育てていたようだが、最近、出来た野菜をことごとく抜かれて盗まれてしまったというのだ。<br />彼の専攻は理学部生物学科で、それと関係があったかどうかはともかく、たくさんの種類の野菜を育てていたらしい。家庭で食す野菜のほとんどを網羅していたというから熱は入っていたと思う。<br />そうはいっても、家庭菜園のことだから、他所へ売りに出すほどの量になるはずもなく、おそらく近所にお裾分けする程度は出来ていたのだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ある時、菜園は荒らされて、それらの野菜がごっそり、ことごとく刈り取られていたのだという。いたずらの範囲を遥かに超えた所業ではないか。<br />僕はその姿を想像して、驚愕と悔しさと怒りで頭がいっぱいになった。<br />誰がそんなことをしたのだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">例え、それらの野菜を収穫し、手に入れたところで、すべてを食べられるわけでも、どこかへ売りに出されるものでもないはずだ。まともな買い手などいるものか。<br />すると、この所業に及んだものは、他人が育てた野菜を盗んで、菜園の主が困惑し、怒りに震えるのをみたかったのか。動機はどうでも食べるも売るも出来ないのにそんなことをしたのは、実に底意地の悪い、救いようのない根性である。<br />なんと言う暗い情熱！<br />こんなことを誰がしたのか。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">日本人には昔から「お天道様がみている」という言葉が身に染みている。悪いことをしたら、誰も見ていなくても、かならずお天道様がみている、お天道様はなんでも見通しだと信じているのである。そして必ずお天道様は罰を与える。悪いことをしたら誰も見ていなくてもきっと罰が当たる、何か悪いことが起きると思っている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そう考えると、これは日本人のしたことではないのではないか、と思わざるを得ない。<br />してみれば、昨今、果物や野菜を夜中に畑からごっそり盗んで売り歩くものが捕まったりしている。その犯人は外国人であることが屡々である。<br />決めつけるのはいけないというかもしれないが、『お天道様がみている』と思うものに、これはなかなか出来ないはずだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここから先が、「保守的な考え」に至る道筋だった。<br />結論を言ってしまおう。<br />外国人をむやみやたらに移民させることには明確に反対だと言うことである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">少子高齢化社会にとって、移民は必要な政策だというのが、政府の言い分だ。動機は実に不純だった。経済界が安価な労働力を欲しかったことに過ぎない。<br />安易に、移民を増やし続けた欧州の先進国は、国民の『分断』という深刻な問題に悩まされている。移民によって成立している米国に至っても、不法移民を追い返す政策に取りかからねばならない始末である。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">経済的理由で、あるいは政治的弾圧という理由で故国を捨てなければならないものがいることは認めよう。ならば、新たに選択した国の文化やルール、規範を尊重し、それらに従うべきであろう。あるいはそのような教育を施すべきでもある。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">少子高齢化の問題を、外国人の移民によって補填し解決しようとするのは、多くの識者によって否定的な見解が示されている。社会階層が二分し固定化することは社会を不安定化する。その事例は欧州各国がすでに示しているところではないか。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">少子高齢化という問題は、老齢年金や老後の公的支援が充実している先進国においては、ある種必然のことである。<br />以前、何故インドやアフリカ諸国の人口が増え続けるのかという疑問を調査した結果、社会学者の見田宗介が、これらの社会では『子供は一種の老齢年金であり、老後の保障なのだ』と喝破した。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">我々の社会では、子育ての支援を増やせば子を持つ親は増えるだろう、という前提でそのような政策に力を入れている。一方で、女も男並みに働け、子を持つリスクは社会が負担するという。<br />しかし、『女も男並』という理屈は自然に反した考えである。生物学的に、男と女は別のものという「違い」は歴史的に、文化的に個別社会の中に編成されてきたものだが、そうした自然に反したことは『理屈でねじ伏せるしかない』。「男も女も同じ人間ではないか」という理屈が社会を覆う時代はいつか来るかも知れないが、その時は子供を作るという自然のことが『（あるいは科学的に実行されるような）理屈でねじ伏せられている』かもしれない。すると、いよいよ『理屈によって』人類は人工ふ化あるいは滅びの道に入るに違いない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そんなことをいう前に、今の少子高齢化をどうするか？と言うことである。<br />江戸時代を通して我が国の人口は三千万とも四千万人とも言われている。統計などないときのことだから正確なことは言えないが、今の三分の一程度だと思われる。これが、明治になって日露戦争の辺りになると、今の半分くらい。六千万人程度になる。つまり百年前はいま怖れている「人口減少」の時代をすでに経験しているのである。<br />しかも、高度成長時代を迎えるときには人口増による食糧難を心配した時期もあったくらいで、長い目で見たら、かなりいい加減な議論なのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">すると、いま騒いでいる少子高齢化社会（人口減少）は少なくとも人口数の上では経験済みのことではないか。むろん構造上は違うが、人口が減ったからと言ってこの国や社会が崩壊するなんてことはないのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この問題についての解決策を具体的に議論するのはここではやめておこう。<br />ただ、少子高齢化は避けられないが、直ちにそれがやってくるわけではない。それまでに社会の設計図を書き換えていけばいいだけの話しなのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">もっとも、気遣いをしなければならないのは、この不安を煽って、国民から税金で金を巻き上げる事に快感を感じる輩がいることだ。<br />いままでも、国の借金がGDPの二倍もあるなどと脅して、増税の機会を窺う政治家（立憲民主党）や官僚の存在が見え隠れするを僕らは知っている。<br />亡くなった石原慎太郎が言っていたが、「この国の財政は大福帳で管理するなんて馬鹿なことをしている。複式簿記を知らないのか。」とあきれていた。<br />複式簿記で管理された国家財政は、借金もあるが、それと同等の金融資産もあり、全体としてはG7中第二位の健全さを誇っている。<br />何故か官僚はこれをひた隠しに隠し、国の借金を強調してばかりいる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これは、今の政治体制が、もはや制度疲労を起こしていて、役に立たなくなってきたことの証拠ではないか。<br />自民党も、経団連も、労働組合もあらゆる既製の権力機構が総取っ替えを必要としている気がする。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">お天道様がみているぞ！<br />おまえら、もう退場しろ！<br />元の日本に回帰するときだ！<br /></span></span></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-02-09T17:50:11+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-1ddd8f.html">
<title> 保守とは何か？ または、「新聞やめた」</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-1ddd8f.html</link>
<description>昨年末、長年とっていた新聞をやめた。やめると言ったら、販売店が飛んで来て、一月だけ延長してくれという。一か月延命したところで、新聞の状況が変わるわけでないだろうに。ろくに読みもしない、あの重たい新聞紙の束を捨てに行くのが、億劫になったことも大きい。冗談めくが、ナベツネも亡くなって、区切りがついた。そういえば、この男、東京帝大の哲学科で、共産党の細胞だったようだが、コミンテルン運動や共産思想もあの世...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div style="text-align: left;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">昨年末、長年とっていた新聞をやめた。やめると言ったら、販売店が飛んで来て、一月だけ延長してくれという。一か月延命したところで、新聞の状況が変わるわけでないだろうに。ろくに読みもしない、あの重たい新聞紙の束を捨てに行くのが、億劫になったことも大きい。<br />冗談めくが、ナベツネも亡くなって、区切りがついた。そういえば、この男、東京帝大の哲学科で、共産党の細胞だったようだが、コミンテルン運動や共産思想もあの世に持っていったかどうか。いよいよ新聞が輿論を形成し、政治や社会を動かしていた時代は終焉を迎えつつあるようだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">いいも悪いもない。情報を伝達する手段が、簡単に安価で手に入るようになったからだ。精神の自由度は広がったと誤解をする向きもあるが、実際は多様な情報が飛び交い、それが返って分断を生むという負の側面にも注目しなければならないだろう。また、AIの活躍によって、よりよく編成された情報が得られると考えるのも早計である。AIの情報は、過去の情報の集積に過ぎなくて、分析からより良い未来を思い描くなどという芸当は所詮無理なのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">要は、こっちの頭がしっかりしていなければ、結局のところ、右往左往するだけになってしまう。それには、昔から新聞記者やトップ屋がやっていたように、情報の裏ドリをこまめにやることだ。そして、自分の価値観の基本をどこに置くか考えておくことだ、と思っている。<br />その場合、どうやらこの時代は、世界史の大転換期に入ったらしいという認識が大事なのではないか？<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">思えば、新聞はこれまで碌でもないことをやって来た。<br />南京事件を実際より遥かに誇張して中国に吹き込んで反日を煽り、A級戦犯が靖国に合祀されていると中国に告げ口をして要らぬ摩擦を起こしたり、「従軍慰安婦」なる存在しなかった言葉で韓国に阿ね、強制的徴用被害など事実でないことを吹聴した。これに政治家どもが屈服し、国民は屈辱的な気分を味わう羽目になった。<br />これほど自国を貶めるような報道と世論形成が可能だったのは、なんのことはない。国民の一部がこれを良しとしたからだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<div style="text-align: center;">△</div>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">最近は、Youtubeを見ることが多くなった。政治や経済のことはこの方が詳しいし、分かりやすい。既存の新聞･TVが「オールド」メディアなら、こっちは自由で情報量も多い。オールドメディアがいわないことを扱う。<br /><br />先日、Youtubeで名古屋市長から衆議院議員になった河村たかしがインタビューを受けていた。<br />河村たかしは、僕らと同世代で、普通であればもう引退の年だが、まだやりたいことがあると言って、議員になった。これが日本保守党共同代表と言う仕事である。<br />保守の意味は何だと問われて河村は、「昔は、保守といえば保守反動と言って悪だった。その意味は色々だが、今は堂々と保守を名乗れる。」といった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">長い間、我が国では保守（主義）や保守的言動は恥ずかしいことであった。 <br />端的に言えば、社会主義や共産主義が理想として命脈を保っていた時に、それに対抗する思想や立場は歴史に逆行するものだという意味で反動なのだ。<br />共産主義の社会は歴史的必然であり、それに抵抗するものは、無教養で、野蛮で国粋主義の狂信者だと思われた。<br />こうして、河村が言うように、千九百年台が終わる頃まで、一般に保守は悪だという空気が醸成されていた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">新聞は率先して進歩派を装い、「我が国は戦時中ひどいことをした。今もそこに回帰しようとしている。」という印象を流布したが、朝日新聞などは、のちに記者たちが出版した本で、新聞の方針が共産主義と言われても仕方のない状態だったと述懐している。<br /><br />潮目が変わったのは、湾岸戦争の頃からで、進歩派といわれた連中の化けの皮が剥がれ始めたのだ。ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が解体して共産主義は目指すべき理想ではなかったことがはっきりした。冷戦でかろうじて保たれていた平和は、サダーム・フセインによって他国を侵略することが容易に行えることが示され、第二次世界大戦後に作られた世界平和の秩序が揺らぎ始めたことを予感させた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この頃、日本の進歩的知識人と言われている人々が、新聞に発表した湾岸戦争に対する「宣言」を読んで、なんと現実感覚の欠如したものたちか、と唖然としたものだ。彼らは、「我が国は平和憲法があるから戦争に加担しない」と言ったのである。<br />こういう連中のことを今では「お花畑（の住人）」という便利な言葉があって、誰もまともには相手にしない。<br />そこに集まった人々も、だいぶ世代交代してしまって、かつて、新聞が行った自虐的で反日的キャンペーンのようなものに賛同するものはほぼいなくなった。<br />いまや、本来の日本に回帰しても、誰も文句を言うまい。本来の日本とは、端的に言えば、我が国のあるがままの近現代史であり、さらにいえば歴史そのものである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">我が国が、自分の歴史をそのようなものとして認識したからと言って、誰が文句を言うだろうか。文句を言われたところで、応えようもない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">米国も、世界には関わりたくないと言い始めている。ちょっかいを出すなら応じるが、基本は北米大陸に回帰したいと言っている。<br />世界はまた二十世紀初頭に戻るのか？<br />しかし、次々に近代国家が誕生しようとしていた時代に比べて、世界は格段に豊かになった。この豊かさは、誰も失いたくないだろう。<br />この豊かさの根拠は近代国家という仕組みであり、その枠組みを守ろうとすることが保守なのではないか。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 11pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ならば、保守であることは恥ずべきことではない。<br /></span></span></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2025-01-11T19:31:15+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-6fbf50.html">
<title>「北のまほろば」と「安東氏」という謎（その８、最終）</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-6fbf50.html</link>
<description>秋田空港は、昭和三十六年開港のときは、雄物川河口の海岸にあって、僕は一度降りたことがあったが、滑走路が短い上に、日本海からの強風の影響を受けやすかった。それで、1981年（昭和五十六年）、秋田市の中心から南東二十キロほど離れた山の中を切り抜いて新しくつくった。その少し北に雄物川の支流、岩見川が西に流れている。その川がつくったであろう北の河岸段丘に豊島城があった。いまは宅地の中の空き地で、痕跡は見ら...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">秋田空港は、昭和三十六年開港のときは、雄物川河口の海岸にあって、僕は一度降りたことがあったが、滑走路が短い上に、日本海からの強風の影響を受けやすかった。それで、1981年（昭和五十六年）、秋田市の中心から南東二十キロほど離れた山の中を切り抜いて新しくつくった。その少し北に雄物川の支流、岩見川が西に流れている。その川がつくったであろう北の河岸段丘に豊島城があった。いまは宅地の中の空き地で、痕跡は見られないが、戦国時代によくあった土塁をまわした典型的な山城であった。ここから雄物川を南東に遡上すれば、やがて大曲・横手盆地が拡がっている。角館の戸沢盛安や平鹿郡小野寺領、さらにその背後に南部の勢力が控える地域である。<br />湊上国安東氏は、雄物川河口の土崎湊や小鹿島の脇本城などの拠点を守備する前線として、今の秋田市南東二十キロのここに城を築いた。豊島城である。<br />この城は、後に安東氏の命運に関わる事件の舞台になった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、愛季は、織田信長の後押しもあって、戦国の世に勇猛の名声を示すことになっていく。<br />天正五年、愛季は、朝廷から「従五位下」の官位を贈られた。先祖に長髄彦という天皇家に反抗した者がいたのは承知の上であった。織田信長の配慮である。明らかに、信長に気に入られたのだ。<br />「信長公記」天正七年の条に、奥羽の諸将から続々と献上品が贈られていると記述があるが、それらの使者の接待役を愛季家臣南部宮内少輔がつとめたとあるらしい。翌天正八年（1582年）愛季は、「従五位上侍従」に任ぜられた。<br />こうしたなか、信長が、家臣にならないかと誘ったことがあった。愛季は、これまで我が家は、他家に仕えたことがない、といってことわったという。信長は、苦笑して済ましたらしい。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">同じ頃、津軽との接触があった。<br />元亀二年（1571年）南部氏の一角を担っていた津軽鼻和の大浦為信が、南部氏への反旗を翻した。<br />石川城（弘前近郊）を襲い、南部高信（津軽総代官）を殺害し、津軽独立を宣言する。ついで、和徳城を落城させ、翌年三戸南部の牙城である平賀郡の大光寺城を攻めたが、これに苦戦していた。<br />南部氏を攻めている大浦勢に対して、愛季は、天正三年、鹿角の地侍大湯五兵衛昌光に為信への加勢を命じた。当時貴重な鉄砲隊まで派遣するという力の入れようだった。<br />ところが、南の出羽檜山安東氏の動きを警戒していた大浦為信は、庄内の大宝寺義氏と密約を取り交わし、背後から愛季の津軽侵攻を牽制しようとした。そうした中、天正七年七月、為信は、安東氏と縁の深い浪岡御所（藤崎の北）の公家武将北畠顕村を襲った。不意を突かれ、抵抗する間もなく浪岡は落ちて、北畠顕村とその正室（愛季の娘）は檜山に逃れた。<br />庄内勢との対応に追われた愛季は、その後、津軽と接触したが、押し返され、そのまま檜山の北進の意思は停止した。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この年、豊島城を守備していた愛季の弟、茂季（湊安東氏に養子にはいった）が病没した。茂季には通季という嫡男がいて、本来なら湊安東氏を継ぐべき存在だが、愛季は、自分の嫡男、業季を湊城主に据え、湊家の所領を桧山に吸収してしまう。本城の檜山城主には、二男の実季をあて、自らは男鹿の脇本城に入って両家の指揮を執るようになった。通季にしてみれば、叔父のこの措置に対する不満があったが、直ちに何事か起きる気配はなかった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">天正九年（1581年）になって、俄に比内の浅利勝頼が反旗を翻した。大浦為信にそそのかされたものであった。ただちに愛季自ら出陣し、勝頼は大館城を明け渡して和睦に応じた。<br />同じ年、庄内の大宝寺氏が由利郡の討伐を企てて、出陣するにあたり、大浦為信に背後から安東氏を牽制するよう出羽攻めを依頼する内容の手紙を出している。<br />由利郡は、安東氏と大宝寺領にはさまれた地域で、由利十二頭という豪族たちがいて、離合集散を繰り返していた。安東氏としてはこの緩衝地帯を失うわけに行かない。この由利攻めを聞きつけた蝦夷地の蠣崎季広守護職嫡男慶広（これが後に分かるが、なかなかのくせ者）が援軍を率いて愛季陣営に参加してきた。<br />戦は一進一退、決着がつかないまま過ぎた。愛季は、天下の情勢を俯瞰して、力のある武将と連合することを考え、これまでまったく縁のなかった、山形の最上義光に、ともに庄内の大宝寺を攻めることを提案する書状を送った。<br />これに対して、ようやく天正十一年春、最上義光から庄内を攻撃する旨の返書が来るが、その前に、大宝寺勢が、由利郡に攻め込んで、由利衆がこれを撃退する。すかさず安東勢の主力が由利郡になだれこむと、最上勢がこれに応え、さらに仙北郡の小野寺勢も加わり、大宝寺義氏を攻め立てた。このとき突然、大宝寺陣営に内乱が起きる。義氏重臣の前森蔵人が、義氏居城尾浦城を包囲したのである。突然のことで、義氏もなすすべなく、自害して果てる。このとき、愛季は、勢いのあまり、深く郡境を越えて酒田まで攻め込んでいる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">このとき、比内の浅利勝頼の動きが怪しいとの情報が入ったため、愛季は急ぎ檜山に戻った。愛季の優れたところは、四方に間者を放って、情報を集めていた形跡があり、そのあたりが並の戦国大名と違ったところとの評価がある。<br />天正十一年三月一夕、愛季は、勝頼を檜山に招いて酒宴を行った。座は和気藹々と進んだが、突然愛季の家臣が勝頼の首をはねる。一緒に居た嫡男は、慌てて津軽に逃げ込んだ。<br />庄内屋形の大宝寺義氏を自刃に追い込んだ愛季の名は、出羽南部の庄内にも轟いた。一方、北奥羽の雄、南部信直は、大浦為信による津軽独立、一族の九戸政実による宗家無視（南部氏にはこの類の内紛が絶えなかった）の動きなど南部氏衰退とみられはじめた。これに敏感に反応した陸奥の斯波一族や鹿角の毛馬内氏・花輪の地侍たちが愛季に近づいてきた。<br />「湊・檜山合戦覚書」という書物が残っているらしいが、そこには「･･･愛季公の時、南部領の内、斯波・雫石・鹿角・花輪伯耆守・毛馬内殿頭なり。これらを従え礼に来たり。仙北は淀川（大曲の北西部）を切り取り･･･」とあり、北奥の諸将は「斗星の北天にあるにさも似たり」と恐れ入っていたという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">年々歳々領土を拡大、武将をなびかせてきた愛季だが、天正十年、湊城主にしていた嫡男業季が十六才の若さで病没した。落胆している暇はない、すぐに二男の実季を跡目として湊城に配した。また、同年六月には京の本能寺で、愛季を厚遇していた織田信長が、明智光秀に討たれてしまった。これを山崎で討った羽柴秀吉から挨拶ともいうべき書状が届いている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">天正十五年（1587年）五月、角館城主の戸沢盛安が平鹿郡小野寺領の沼館を襲撃した。これは小野寺勢と最上勢が雄勝郡境の有家峠で合戦し、対峙している間隙をついたものであった。この動きがさらに近隣諸郷の六郷・本堂･前田などの国人小領主に独立の野心を抱かせて、出羽仙北は騒然とした様相を呈するようになった。同年、八月、戸沢盛安の動きに抑圧を加えるため、愛季は仙北の淀川に出陣した。盛安は刈和野に陣を構え、この地で三日の間、激烈な戦闘が繰り広げられた。世に言う「唐松野の合戦」である。両軍とも大きな損傷を負った。<br />この大合戦のさなかに愛季は発病した。密かに脇本城に帰ったが、祈りもむなしくこの城で息を引き取った。剛勇を誇った一方で、絵画をたしなみ歌を詠むという戦国武将には珍しい優雅で心にゆとりある側面を見せた人生だった。享年四十九。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">愛季のあとを継いで安東惣領家の当主になったのは嫡子、湊城主安東実季である。このときまだ弱冠十三才であった。<br />唐松野の陣を守っているさなか、秀吉の天下統一を前にした九州攻めのとき、「関東奥羽惣無事令」が発令された。秀吉が天下人として私戦をやめさせる命令を出したのだ。戦国の世が終わろうとしていた。<br />この令は最上義光を通して奥羽諸将に伝えられたが、まだ徹底しなかった。そして、愛季の死が明らかになるとともに安東実季のまわりがざわめいてくる。<br />雪のために陣を解いて角館に帰っていた戸沢盛安勢が、愛季逝去の情報を得て、再び刈和野方面へ出陣してきた。明確に、「関東奥羽惣無事令」違反である。しかし、この最中に、秀吉の令が行き渡り、戸沢勢をはじめとする仙北勢が兵を引き上げた。<br />ところが、この戦場に近い豊島城にいる安東通季の動きが怪しいとみて、実季陣営は動けなかった。通季は、実季のいとこにあたり、本来であれば、父のあとを継いで湊安東家の棟梁になるはずだったが、叔父の愛季が強引に湊家を檜山安東家に吸収合併してしまった。むろん、これを通季およびその家臣は快く思っていなかった。裏で、角館の戸田盛安が通季と通じていて実季討伐を画策していたことが分かると、急ぎ湊城に帰るが、そこを通季の家臣らが包囲した。<br />実季に取っては、十四才の初戦であった。<br />湊城は通季らに奪われ、実季は、脇本城に後退した。しかし、脇本城は、まわりに旧湊家の勢力が多く、守りに十分ではないため、実季とその主力勢は、阿仁一帯など北側に味方が多い檜山に移り、ここで籠城することにした。南側は、羽後街道の潟渡（いまの鹿渡）と鵜川に砦を築いて守った。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">通季と戸沢盛安が集めた軍勢は、南部信直や鹿角の大湯勢、毛馬内勢、五百を含む寄せ集めとは言え、檜山勢の十倍はあった。<br />実季は、なりふり構わず救援を求め、ようやく由利衆が応じて包囲網の背後から通季勢に襲いかかった。同時に、秀吉政権の重鎮、越後の上杉景勝が実季救援の姿勢に傾くという情報が拡散されると、もともと連携の薄い通季勢の小領主たちは、雪崩を打って、解散、帰郷してしまった。これらの状況を見ていた通季の弟が実季方に寝返る。これまでとみた主軸の戸沢盛安はさっさと陣をとき角館に帰還してしまう。通季は、檜山城外から潟渡と鵜川を経由して八郎潟を逃げたが、実季の家臣に追われ、ついには海路をたどって南部信直のもとに走って、この騒動は終わった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この内紛は、太閤秀吉の通達違反であり、秀吉から実季に出頭命令が下って、所領召し上げ、存亡の危機が迫る。実季は、上杉景勝の縁で、石田三成に使者を送り、取りなしを依頼した。ちょうどこの頃、米沢の伊達政宗と会津の蘆名義広の争い、庄内における最上義光が抱える紛争があり、それに比較して、安東実季の内紛はものが小さいと判断され、豊臣政権の上杉･石田ラインの斡旋により、秋田本領安堵をされたのであった。<br />この上杉･石田ラインは、徳川政権になった世では、仇と成すのであるが･･････。<br />実季は、これを機会として土崎湊を臨む高台に城を築いてそこを本拠とする。 この後、豊臣政権は実季に南部の一角、九戸討伐を命じ（これは短期間に終わる）、朝鮮出兵の間に名護屋城守備を命じたりしているが、これが終わり、檜山に帰還すると、浅利との確執が再燃する。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">名護屋出陣の費用負担分に浅利の未払い分が見つかり、トラブルになった。浅利は湊家の支配下から独立を狙って中央工作を続けていたのだが、これもその一環であったと思われる。中央から仲裁が入り、不足分を実季が負担することで、いったんは収まった。ところが、津軽の大浦為信に後押しされていた頼平は、この問題を蒸し返して豊臣政権に訴え出た。檜山側に家臣扱されたくないというので、争いは絶えなく、何度も交戦したが、この騒ぎが豊臣中央政権の政治問題化することになってしまう。双方が呼ばれて、吟味された結果、浅利の未払い分が確認され、それにもかかわらず訴え出るとは不届き至極、と言う裁定がでる。ところが不思議なことに、この裁定が出る前に浅利頼平が、大阪城内で急死してしまうのである。<br />これにより、永年にわたる係争の地であった比内（後の北秋田郡）の領有が確定され、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そして秋田（南秋田郡）・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡（河辺郡）を有する大名として、所領は減らされたが安堵の朱印状は秀吉の手から直接渡された。こうして大館城（大館市）・脇本城（男鹿市）・馬場目城（五城目町）などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築くことになった。<br />だが同時期に、松前の蠣崎慶広が秀吉に謁見していて、その巧みな工作により、鎌倉以来安東家の被官身分として松前守護職を任じている蠣崎氏（慶長四年＝1599年、松前氏と改姓）に蝦夷ヶ島主を認める朱印状が発行され、安東家は四百年間維持してきた権利を誇りとともに取り上げられてしまった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">時代の変化を感じ取ったのか、実季は、太閤の奥州仕置後、安東の名をあらためて、古い官職名である秋田城介を号して（後に正式に付与される）秋田氏を名乗ることになった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">こうして、遠く11世紀に起源を持つ安倍氏を氏祖とする「安東氏」は「秋田」氏となって、歴史から消えていったのである。僕にとっての「安東氏という謎」もとけて、長かった謎解きの旅も終わった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<div style="text-align: center;">△</div>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">TVで司馬遼太郎の「北のまほろば」のドキュメンタリーを見ていたときに、大学時代、国史専攻の井手有記君からきいた「津軽といえば安東だろう」と言う言葉を思い出し、そういえば、安東氏は十三湊で消えたあとどうなったんだろうと思って、その謎を探しに出かけた旅だった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">結局、たどり着いたのは、なんと、僕の故郷だった。<br />井手君が謎だといったときは、そのことに、まったく気づいていなかった。<br />「猿の惑星」という映画があったが、あれは、たどり着いた惑星にN.Yの「自由の女神」の残骸があったという結末だった。まるで、あの惑星は地球だったというどんでん返しと似て、僕にとっての半世紀前の「安東氏という謎」の答えは、意外にも僕自身の足下にあったのだ。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">檜山は、僕の生まれたところから十キロも離れていない。<br />昔から古い城跡（と言われる山）はあったが、その主が安東氏とは知らなかった。いまになって思えば、誰も教えてくれなかったのが不思議である。高校時代、たぶん多宝院というお寺だったのだろうと思うが、その住職の子息に一年先輩がいて、その友人だった先輩に誘われて訪ねたことがあった。訪ねることを母に言ったら、あの寺の廊下は「うぐいす張り」といって、歩くと鳥の鳴き声がするはずだと教えてくれた。「忍びのもの」対策である。古刹という趣で、半日居ても厭きなかったという記憶が残っている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">なぜ、檜山の城の主が安東氏であったことを知らなかったのか？<br />城の歴史さえ、誰も教えてくれなかった。何故なのか？<br />もちろん、僕の子供の頃は、戦後間もない頃で資料も乏しく、さほど研究が進んでいなかったのだろう。それにしても、我が生まれ故郷にとって、檜山の過去は、歴史の彼方に消え去った幻という印象であった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そのもっとも大きな理由は、関ヶ原のあと、常陸の佐竹氏が秋田氏の所領にに移封され、おそらく玉突きのようにして、常陸の宍戸に転封されたことではないか。「国盗り物語」の時代の最後部を経験した実季にとって、これはかなり納得のいかない措置だったに違いない。しかし、もはや家康に異を唱えられる時代ではなかった。<br />宍戸に出立するとき同道した家臣はわずか百名ばかりであったという。残された秋田をはじめ県北部の家臣たちはほとんどが、帰農したのだろうという研究がある。時代が変化したと同時にやって来た新しい領主は、古い歴史に対して、自分の物語を上書きすることをはじめなければならない。<br />檜山には、佐竹氏の一族が入り、戦国の世の記憶は過去へ押しやられた。かくて、江戸期の無風時代が檜山の歴史をますます風化させたのかもしれない。<br />（ただし、佐竹氏の歴史などもトンと記憶がない）<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">戦国時代の風を色濃く残した性格の実季は、幕府への不満から、一時期遠い祖先の姓、伊駒を名乗ったり、戦国時代の気骨を示すことが多く、幕閣から突如として伊勢国朝熊（三重県伊勢市朝熊町）へ蟄居を命じられた。<br />不仲であった嫡男の俊季は、あらためて、陸奥三春（福島県三春市）五万五千石に移封され、母親が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹（織田信長の妹の家系）にあたることも幸いして家督継承が認められ、大名、秋田氏として以後幕末、明治までと同地で存続した。<br />秋田実季は、寛永7年以降約三十年にわたり、伊勢朝熊の永松寺草庵で、長すぎた蟄居生活をおくったのち、万治2年（1660年）、同地にて死去した。享年八十五。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されているという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、前に取り上げた「東日流外三郡誌」だが、これを書いたのは和田喜八郎の先祖で、和田長三郎吉次と三春藩主、秋田孝季という触れ込みであった。この秋田孝季は実季の子孫に当たる実在の人物で、この殿様が、先祖の家系図を調べ上げて幕府へ報告したのは事実である。『秋田家系図』といわれるものを編纂した人である。もっとも、和田長三郎吉次と共著というのはいかにも無理があり、和田喜八郎は、のちに秋田孝季とは土崎在住の別人だといっていたらしい。和田は、このあたりの事情にも通じていたというのは驚きである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">一方、佐竹氏は、土崎湊近くにあった秋田氏の居城には入らず、少し内陸に入った神明山（標高四十メートル）に久保田城を整備して居城とした。仙北地方は、角館の戸沢盛安が新庄に移封されたため、角館には横手とともに佐竹の一族が配される事になった。<br />また、深浦から須郷崎にかけての地域は昔から安東領であったが、そのとき比内から大館にかけての地域を大浦（津軽）為信が支配していたので、佐竹はこの土地を大浦との間で交換することにした。今の秋田—青森県境の通りになったのだ。<br />このことも僕は知らなかった。<br />僕の家族は昔から青森県境を越えて深浦辺りまでよくいっていた。海水浴やキャンプなどである。須郷崎とは白神山地の山脈が海へ落ち込む髙地の延長にあって、ここを越えるのは多少難儀である。それにもかかわらず、この五能線沿線は能代から深浦辺りまでどこか親和性を感じる土地柄であった。大間越という集落（青森県）から五能線で通っていた高校の同級生もいた。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、秋田の竿灯祭りは有名だが、秋田市民の内、一部だろうが、あれは佐竹が持ち込んだものだからというので、そっぽを向いているものがいるという。<br />僕は、佐竹氏が移封されて後、秋田でどんな政治を行ったのか、噂すら聞いたことがなかった。木に竹を接いだようなもので、殿様に違いないが、典型的他国者と感じられながら江戸期を過ごしたのではないか？平賀源内が鉱山開発のことを佐竹の殿様に講じるために久保田城を尋ねたというエピソードが記憶にあるだけで、佐竹に関して知っていることは、ほぼない。<br />秋田の人は、佐竹家由縁の人をのぞけば、多かれ少なかれそんな調子ではないかと想像している。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">昔、僕の家は、中村筑前守十八代の末裔だといっていた。十八代とは、佐竹氏移封より遥か以前のことになる。安東氏または、同時代の豪族の家臣だったのか。従兄弟が調べてみたら、仕事は右筆だったらしいということだった。<br />誰に聞いたのか記憶は定かではないが、明治十七年、大館近傍生まれの祖父は次男坊で、長男である十八代目が、明治新政府の呼び掛けに応じたのか、たぶん、祖父の成人前に夷島（渡島半島）の七重浜に移住することになった。偶然かもしれないが、安東氏由縁の土地である。長持ちに、刀や槍や武具がたくさん入っていて、それをごっそり持っていったらしい。次男坊は置き去りにされた。<br />その祖父が亡くなったとき、七重浜から十九代を継いだらしい中村筑前守憲忠がやってきて、神式から仏式に改宗した叔父の葬式に戸惑っているのを大学生の僕がみていたのを思い出す。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「安東氏　下国家四百年ものがたり」を書いた森山嘉蔵氏（昭和二年生まれ）は、深浦で、長年校長先生をやった郷土史家である。<br />この本は、国史学の研究論文とは違い、直接古文書などの資料にあたってはいるが、自治体のまとめた郷土史などを丹念に読み込んで、安東氏の全貌を浮きぼりにしようとした労作で、僕はこの原稿を書く上で、ほとんどの部分、この本を参照した。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その森山氏にしても、なんと、初めは『安藤氏という謎』だったようだ。<br />本の「あとがき」で安東氏研究の動機について、興味深い記述をしている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「深浦･吾妻沢の六所の森に三基の板碑が建立されている。<br />小学生の頃から目にしている石碑だが、その古い苔むした石碑に『康永四年乙酉二月二十九日･･･』の紀年号の彫られているということを、『深浦町史』（昭和九年発刊）で知ったのは戦時中であった。この三基は深浦町（旧大戸瀬村）関集落･折曽乃関の板碑四十二基と同じ鎌倉後期から室町期にたてられた板碑で、その頃、津軽一帯を支配していた『安藤氏』一族などの供養塔であることを知ったのは、『西津軽郡史』編纂に参画していた昭和二十七年頃と思っている。<br />初めて耳にした『安藤氏』であったが、日常的な繁忙の中に忘れ去っていた。もっとも、『西津軽郡史』（昭和二十九年発刊）所載大山梓氏の安藤氏論述は一読したがよく分からなかった。･･････」<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">康永四年といえば、1346年、鎌倉幕府が倒れて、南北朝時代のことである。深浦の在所にこんな古い碑があったとは驚きだが、それが安藤氏一族のものであることを知ったのは戦後十年もたった頃で、この時はじめて「安藤氏」を耳にしたというのである。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">深浦は十三潟のかなり南にある古い湊だが、南北朝時代はまだ、十三湊安藤氏がここを支配していたであろう。その後、十五世紀半ばには葛西秀清が、この地を含む「河北千町」を支配していたが、1456年、南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が葛西秀清を破って桧山城を築いたときから、再び深浦に安藤氏が現れるのである。<br />そのことも含めて、安藤氏については知らなかったということなのだろう。<br />それ以降、この地方にも研究者がボチボチ増えてきて、森山氏もその仲間入りをすることになったが、いまでも、安東氏については確然としないものを感じると述懐している。<br />調べれば調べるほど謎は深くなるといった趣なのかもしれない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">十三湊の富山大学の発掘調査や戦国の世を駆け抜けた記録など、歴史の中に埋もれかかった『安東氏という謎』を掘り起こして、明らかにして行こうという人が増えていると森山さんは感じている。これからますます研究が進んで、安東氏のものがたりは輪郭があざやかになっていくに違いない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そこで最後に提案がある。<br />僕はもう故郷には戻れない身（人工透析）になってしまったので、だれかに、戦国武将で、信長とも対等に渡り合った『安東愛季』の物語を語って、町おこしをしてもらいたい。簡潔にまとめたユーチューブがあったので、それを添付してこの稿を終わりにしよう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><iframe width="480" height="270" src="https://www.youtube.com/embed/yxVP6pTt_Bg?si=kGe-VsL4rT3Ca-02" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen=""></iframe></span></span></span>
<p> </p>
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<iframe width="480" height="270" src="https://www.youtube.com/embed/eFfnhCMf2fs?si=bmXDfRLHPw95_3cA" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen=""></iframe></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>「北のまほろば」と安東氏という謎</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2024-03-26T10:35:49+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-0d51a7.html">
<title>「北のまほろば」と「安東氏」という謎（その６）</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-0d51a7.html</link>
<description>話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。
 
ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。<br />そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。<br />すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると、それを市浦村が村史の資料編として刊行したことによって、真贋論争を引き起こしたが、1990年代までは、はっきりとした結論が出ないまま、一部では真書と信じられてきたようだった。政治家の安倍晋太郎、晋三氏が石塔山荒覇吐神社を参拝した1987年頃には、学者の世界はともかく、明らかに一般の世間では論争があることすら知らなかったと推察できる。政治家が何の疑いも持たず、本州最北端の山の中の神社を訪ねたというのがその証拠であろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕が、うわさ、つまり、十三湊で繁栄した安東氏が津波に襲われ一夜にして跡形もなく流され滅びてしまったという噂を聞いたのが、いつだったか記憶にないが、実は、これも「東日流外三郡誌」に書かれていることのようだった。いつのまにか、すり込まれていたくらい、その影響は深く広く浸透していたというべきだろう。他にも「秋田、安東氏研究ノート」がそうだったように、「東日流外三郡誌」の引用であることが常識と化して流通していることが存在する可能性は高いのではないかと思った。<br />2000年前後になって、市浦村は富山大学人文学部考古学教室に依頼して十三湊の発掘調査を何回か継続的に実施している。市浦村は、1975年から刊行された「村史」に対する疑いを自ら晴らす責任を感じたからに違いない。それだけ「安藤氏」については、分からないことだらけであったということだろう。何回にもわたって行われた発掘調査の報告書にザッと目を通したが、調査の徹底と安東氏の繁栄ぶりは想像以上であったことが分かる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これ以降はインターネットの世界が急速に拡がり、斉藤さんの調査報告はもちろん、情報にアクセスすることが容易になったせいもあって、偽書であることはほぼ一般にも認定されていると言ってよい。とはいえ、一部では未だに和田文書を公開しているサイトもあり、関心は根強いといってもいいのではないか。<br />これは斉藤さんも言うように、古代史への尽きない興味に対して、和田文書の内容が、こうあればいいのにと言う潜在的な願望に応えた形で構成されているからかもしれない。和田喜八郎は、それを巧みに利用し、金に換えていった天才的な詐欺師だったというべきだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は国史の専門家ではないが、一応「史料批判」は、歴史を語るときは必須条件と思っていたので、つい脇道にそれてしまった。脇道で垣間見えたことは、歴史資料というものは、思うほど多くはなく、その流れは、あたりまえかもしれないが、推定でつないでいくしか方法がないものだということであった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<div style="text-align: center;">△</div>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ここで、安藤氏の行方をたどるために、先に取り上げた「続群書類従」の記述まで、遡行しよう。<br />「小太郎季俊（則任の孫、季任の子＝安倍頼時から数えて四代目）は文治五年（1189年）奥州合戦（平泉藤原氏と源頼朝の戦い）の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」（弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫）とあるが、頼朝はこれより前、1185年に朝廷から「守護・地頭の設置」の権利（文治の勅許）を得ているから、平泉攻めの後、参戦した安藤季信を津軽一帯の守護にしたのだろう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「藤崎町史」によると、同じ文治年間（1185年から1189年）の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄（奥州平泉藤原氏三代秀衡の弟）が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、繁栄していた。しかし、三代秀直（ひでなお）の頃、執権・北条義時（北条家二代）が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季（さだすえ）を外三郡（津軽半島）の蝦夷管領に任命、貞季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築いた。 この貞季が津軽守護、安藤季信から数えて何代目にあたるのかは、調べていない。いずれにしても、このときはまだ、安藤（東）氏は十三湊へ進出していない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">ところで、小泊とは、十三潟の北、津軽半島の真ん中辺りから日本海に突き出た小さな半島にある港で、北に開けたわずかな平地は山に囲まれた天然の城柵といってよいところだ。福島城から見たら、目の上のたんこぶのような位置にある。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">僕は、学生の頃、アルバイトでペプシコーラのルートカーに乗っていたことがあったが、その仕事で小泊に行ったことがある。<br />半島の付け根の山道を横断して、北の方角に降りていくと、林の隙間から突然、鏡のように静かな海面が現れる。それは小さな漁港だった。昼時で、商売先の家の玄関で弁当を使わせてもらうことにして、上がり框に坐っていたら、奥から家の人が何やらお盆に載せて運んでくる。小さな丼の水の中にサイコロに切ったものがたくさん入っている。なにもないけど、飯のおかずにといって置いていった。一口食べてみる。水はただのうすい塩水だった。クリーム色の賽の目の身が何かの貝だとすぐに気づいた。アワビの水貝というものを生涯初めて口にしたのがその時だった。あの夏の昼下がりに味わった冷たい歯触りの美味は、五十年以上前のことなのに、いまでもありありと思い出される。<br />小泊といえば、フォークシンガーの三角寛が生まれたのも、ここだ。吉幾三といい津軽はユニークな音楽人を輩出する。<br />　<br />戻ろう。<br />小泊に城柵を設けたことに秀直は激怒し、早速これを攻め落とし、その後、貞季の居城・藤崎城に向けて進軍した。寛喜元年（1229年）、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかる。この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いを「萩野台の合戦」という。当初は十三藤原軍優勢だったが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安藤氏が勝利する。<br />以上のような記述が「藤崎町史」には見えるが、根拠になる資料がなにかについては分からなかった。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「萩野台の合戦」で勝利した安藤氏は、1229年以降、藤原氏にとって代わって、十三湊に進出したのではないかと推測されるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していないという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「萩野台の合戦」とは別に、「北畠顕家安堵状」によると、この鎌倉末期から南北朝時代にかけての安東氏の支配領域は、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭代職となっており、現在の青森県地方（＝津軽半島および下北半島）のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。この中に十三湊も藤崎も見当たらないが、湊、津軽西浜がそれだという説もあるらしい。具体的な記述が見られない事情についてはよく分かっていないという。<br />なお、南部氏はすでに八戸近辺に拠点を築いている時期であり、その関係についてもこの時期はっきりとはしていない。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">記録によると、1268年（文永5年）になって、この地方のエゾ（蝦夷）が、蜂起して、代官職である安藤氏が討たれるという事件が起こる。原因は、執権北条家の得宗権力の拡大で、収奪が激化したことにより、土着の民が反旗を翻したことにあった。また、日蓮宗の日持ら僧による北方への仏教布教が進んだことや、勢力を拡大しようとする元朝が盛んに樺太アイヌ征討を行っていることが遠因であったことが指摘されている。 <br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">更に1318年（文保2年）、以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長（安藤又太郎）と従兄弟の安藤季久（安藤五郎三郎）との間の内紛に、1320年（元応2年）出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家（外の浜安藤氏）から太郎家（西浜安藤氏）に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">1322年（元亨2年）、紛争は得宗家公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等には、内管領の長崎高資が対立する二家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。<br />1325年（正中2年）、北条得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。（なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関（現青森県深浦町関）、季久は外浜内末部（現青森市内真部）に城を構えて争ったとする説と、その反対であるとする説がある。）深浦町は、十三潟の遙か南、秋田県境に近い港町であり、そこから青森市までという広い版図の中を安東氏が治めていたことになる。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年（嘉暦元年）には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年（嘉暦2年）には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知を再び派遣し、翌1328年（嘉暦3年）には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを季長の一族に安堵したものと考えられている。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この安藤氏の乱（あんどうしのらん）は、御内人の紛争を得宗家（北条家）が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。後世に成立した史書においては、安藤氏の乱、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解がある。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。対して、津軽に残った惣領家は「下国家」と称する。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。そうした中、安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていたという。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に十三湊まで追いつめられその後夷島（北海道）に逃れた。南部氏は、時の室町幕府に巧妙に取り入り、領土を安堵されつつ地位を築いていったもので、さらに秋田の鹿角郡、田沢湖から横手辺りまで進出しようとしていた。つまり、安藤氏が築いた版図を遥かに超えて出羽領まで占領しようとしていたのだ。<br />十三安藤氏は、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。ここで、十三湊を拠点として栄えた安藤氏は、北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。 <br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「北のまほろば」で、安藤氏が十三湊から姿を消したとあるのは、一族がもともと植民地のようにして領有していた北海道の渡島半島に逃れた時のことであった。<br /></span></span></div>]]></content:encoded>


<dc:subject>「北のまほろば」と安東氏という謎</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2024-02-26T06:23:55+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-f5678b.html">
<title>「北のまほろば」と「安東氏」という謎（その５）</title>
<link>http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-f5678b.html</link>
<description>田沢湖町の四柱神社とは、生保内の街の東（田沢湖とは反対側の）の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。訂正しておこう。
 
そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。写真では、杉木立の中に小振り...</description>
<content:encoded><![CDATA[<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">田沢湖町の四柱神社とは、生保内の街の東（田沢湖とは反対側の）の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。<br />前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。<br />訂正しておこう。<br /></span></span></span>
<p> </p>
<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。<br />写真では、杉木立の中に小振りながら新しい立派な社が鎮座している。遷座式の時に四十五万円かけたものらしい。<br />神社の前にはそんなに古くない、由来を示す看板が立っている。<br />それにはこう書かれていた。</span></span></span></div>
<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/photo_20241119062601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20241119062601" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/photo_20241119062601.jpg" alt="Photo_20241119062601" width="450" height="336" border="0" /></a> <br />
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「四柱神社由緒<br />所在地　田向塒森<br />旧稱　　荒脛巾太郎権現<br />　祭神　伊邪那岐尊　伊邪那美尊<br />　　　　天照大神　素戔嗚尊<br />外宮の神として<br />　秋葉山（火の神）天の神<br />　大山祇神（山の神）地の神<br />　馬頭観音　<br />　神社上手に泉あり　水の神<br />以上の諸神を現在は祭祀して居るが、、前記のように、もともとは荒脛巾神を祀ったものである。荒脛巾神とはすなわち安日彦王であり、また自然を祭った神でもある。天、地、水、これが古代祖先の信仰した神であった。当神社は信仰厚い氏子の手で、その神を失うことなくこれまで守り信仰してきたものである。<br />その間には、事あるごとに数多くの奇蹟があり、地元民の信仰をさらに深くしている。<br />当神社の祭主は、始めは生保内城（古舘）の安倍一族と考えられ前九年の役（1063年）で安倍一族が滅びた後、地元民がこの神を地元の守り神として信仰してきた。<br />明治の始め神社神道の勃興という大きな曲面にあたり、地元神の名を掲げるに憚るところがあり、止むを得なく前記の現際神の四柱神を届出し四柱神社となったものである。<br />なお、当神社の創建は養老二年（718年）となって居るが、実際はもっと以前から祭られて居ったものと考えられ、その証としては神社の近辺から無数の縄文土器類の出土がある。<br />現在は、田向、野村、相内端の産土神として氏子八十六名あり、例際日は毎年八月十四日で盛大に行われている。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　四柱神社氏子一同」</span></span></span></div>
<div><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"><br /></span></span></span><a href="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/photo_20241119062101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20241119062101" src="https://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/images/photo_20241119062101.jpg" alt="Photo_20241119062101" width="450" height="336" border="0" /></a>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">つまり、もともと荒脛巾太郎権現を祀っていた（それと天皇家の祖先がいっしょに並べられているのは少しおかしいけど）ものだが、明治の廃仏毀釈の時、荒脛巾神では天皇家に対して具合が悪いから、天と地と水に、馬頭観音を加えて四つにし、四柱神社として届け出たということらしい。ということは、四柱神社と言う神社名は、明治以降のものだった。<br />ここで、「当神社の祭主は、始めは生保内城（古舘）の安倍一族と考えられ」という一文はいつ「考えられ」たものか？　『丑寅日本記』の記述が根拠になっているとすれば、これはでたらめである可能性が高い。それと関連する安倍一族が持ち去ったご神体が帰ってきたことには一言も触れていないのは、不思議だ。もっとも祀られている青銅製のご神体は素性が怪しいなどと書けるものでもないだろうが。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">田沢湖町がまんまとのせられた、この事件はどんないきさつで起きたのか。前回の繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。<br />斉藤さんによると。こうだ。<br />遷座式（1992年）の五年前、1987年に新青森空港開港記念と銘打って、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれた。そこに田沢湖町の町史編纂室の職員が来ていたことから、和田家文書と田沢湖町役場の接点ができあがる。何故、秋田県から五所川原にわざわざやって来たかは不明である。和田が招待したのかも知れない？<br />このガラクタが並べられたという特別展の中身は、その後、田沢湖町で開かれることになる『東北王朝秘宝展』とほぼ同じであった。 ガラクタだが、和田が恭しく由緒を語り、それらしく装ってならべれば、なんとなく秘宝に見えたのだろう。何しろ疑うようなそぶりを見せると和田は、恐ろしく怒ったという。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">そして、四柱神社のある生保内地区に関する「新史料」が出てきたのは、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』の翌年の1988年。さらに不思議なことに、1991年にはより詳しい新史料である『丑寅日本記』が見つかったとして、和田がわざわざ田沢湖町まで持参した。それがそのまま『田沢湖町史資料編』に収録され、遷座式の根拠ともなった。 　<br />当時、田沢湖町の関係者には和田から次々と関係文書が送りつけられてきた。箔づけのために、古田教授が外三郡誌を賞賛する講演を行ってバックアップしていたことは先に説明した。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">和田が、四柱神社のことを知ったのは、青森県五所川原で田沢湖町、町史編纂室の職員と会ったときなのか、それとも田沢湖周辺は、安倍貞任らの「前九年の戦」役の場であり、「後三年の役」の清原氏の支配地であったことを知っていたのか？<br />どちらにせよ、後から見ると、これはすべて調べ尽くされ、安東氏につながる「…秘宝展」から『丑寅日本記』発見と遷座式に至る一連のプロジェクトがあらかじめ準備計画され仕掛けられたものと見えるのである。和田が田沢湖町と触れた瞬間から、組み上げられていった物語であり、計画だったことはほぼ間違いないという人もいるという。それにしても、こういう壮大な嘘を思いつく知性には並々ならぬものが感じられる。<br />さすが吉幾三という異才を生み出す土地柄である。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">その「遷座式」の実況を斉藤さんがまるで見ていたような新聞記者らしからぬ名文で表現しているところがある。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">「話しは1992年8月8日秋田県東部の田沢湖町に遡る。<br />いつもなら山間の深い闇に沈み、音一つしない生保内地区が、その夜だけは異様な興奮に包まれていた。道の辻辻にはかがり火がたかれ、大勢の住民が沿道にずらりと並んでいた。中には、両手を合わせ拝むような仕草を見せるお年寄りもいた。･･････<br />午後八時半。ほら貝が鳴り響き、たいまつが怪しく揺れる中、平安絵巻を思わせる鎧と白装束に身を包んだ男たち十五人が姿を現す。一行の中程には神輿が据えられ、「ご神体」が大切に祀られていた。御輿が向かう先は、生保内地区に古い言い伝えが残る四柱神社。一行は二十分ほどで、こんもりした森のなかに広がる境内に到着した。侍大将にふんする先導役が、鳥居の前に張られたしめ縄を威勢のよい掛け声とともに切り落とす。境内のかがり火が一段と燃え盛った。 　<br />そのかがり火を前に、稚児役の少女が御輿から厳かに御神体を取り出す。氏子ら住民の視線が一斉に御神体に注がれる。御神体は二十センチほどの青銅製で、住民の目には仏様のようにも映った。 　<br />少女は神社の階段を慎重に一歩、また一歩進む。そして、木目も新しい神殿にうやうやしくささげると、儀式は最高潮に達した。先導役が高らかに宣言する。 「ここに鎮座し、われわれをお守りください」 　<br />御神体が九百三十年ぶりに、遠く青森から帰ってきた瞬間だった。それまで神官姿で儀式全般を指揮していた初老男性の目が異様に輝いた。<br />彼は腰に刀まで差す入念な出で立ちで、この儀式に力が入っていることは誰の目にも明らかだった。それもそのはず、奉納されたご神体は彼が責任者を務める五所川原の石塔山荒覇吐神社からはるばる運ばれたものだった。」（斉藤光政. 戦後最大の偽書事件　「東日流外三郡誌」 ）<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">和田喜八郎が、神職の白装束で腰に刀まで差して、一世一代の大芝居を打ったのは大成功だった。ご神体がどう見ても仏像にしか見えないと言うことから多少疑いを持った人がいなかったわけではないが、このときは和田が決めた段取り通り、儀式は厳かに執り行われ、遷座の催しには誰もが満足した、ようだ。<br />この遷座式のために氏子たちが集めた費用は120万円余だったらしい。<br />ここでも、和田の演出家としての才能には並々ならぬものがうかがえる。<br />この後が実に面白い。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">遷座式の後、石塔山荒覇吐神社に御礼参りをしようと田沢湖町の氏子代表五人が飯詰山中を訪れる。夜中に神社で神事が行われるというので、バスの中で仮眠を取って待っていたところへ、ようやく探し当てたという態で人がやって来た。自分たちは、岩手県山田町の僧とイタコだが、神様のお告げがあるのでそれをお伝えしに来たという。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">四柱神社の氏神、荒脛巾太郎権現がイタコの口を通して現れ、このたびは、氏子たちのおかげで無事本宮に帰ることが出来て非常に喜んでいる。これからは皆さんの安泰と子孫繁栄のために尽くすと告げ、何度も御礼をいったという。また、イタコの口から八幡太郎義家が現れて、前九年、後三年の役では安倍一族をさんざん痛めつけたことを氏子たちに謝り、これからは皆さんを守護すると約束して帰った。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">これを読んで、僕は大笑いをした。<br />和田喜八郎の「演戯性」が遺憾なく発揮された出来事と言ってよいのではないか？<br />夜九時の真っ暗な山の中である。氏子たちはバスの中、とはいえ、外の暗がりから聞こえてくる、うなるようで判別つきにくいイタコのご託宣は、本物らしく聞こえたに違いない。源義家が登場して謝罪したというのには思わず吹き出してしまったが、その場で聞かされたものは、古代の将軍の言葉が聞けて大いに満足だった、かもしれない？<br />それにしても、何故山田町なのだろう？盛岡の遥か東の海岸線にある港町から、津軽の山の中にはるばるやって来たわけがあったのだろうか？。あるいは『丑寅日本記』に関連の記述があるのだろうか。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">このお礼参りは、和田が仕掛けたものだろう。<br />遷座式の大成功に気を良くした和田が、なお田沢湖町を惹きつけておこうとしたのだ。例の縄文時代の遮光式土偶を持ち込むのはこの二年後であった。<br /></span></span></span>
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<span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">この田沢湖町遷座式の前、1987年に新青森空港開港記念との『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれたと書いた。これはまた五所川原市立図書館10周年記念行事でもあったというから、和田は五所川原市にも食らいついていたらしい。<br />このとき、のちに発見される『丑寅日本記』の信憑性を補うような出来事があった。<br />1987年7月、安倍晋太郎・晋三親子と岡本太郎が、互いの先祖、安倍氏の墓として石塔山荒覇吐神社を訪れ、参拝したという。いまでも参拝の記念碑が残っているらしい。この時期はまだ、「東日流外三郡誌」に疑義が出されてはいなかったから、政治家親子はこの神社の由来を確かめもせずに本州の端っこの山の中まではるばるやって来たのだ。<br />おかげで、ただの水と山の神を祀る祠だった、石塔山荒覇吐神社は、愈々箔がついて、それらしくなっていったのである。<br /></span></span></span>
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</div>]]></content:encoded>


<dc:subject>「北のまほろば」と安東氏という謎</dc:subject>

<dc:creator>隆一郎</dc:creator>
<dc:date>2024-02-01T17:02:40+09:00</dc:date>
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