カテゴリー「劇評」の69件の記事

2009年12月 1日 (火)

劇評 「教会の見える川辺で」

Kyokai
急逝した父親が残した小さなホテルを、二人の姉妹のうち妹の麻衣子( 境ゆうこ )が引き継いでいる。舞台はそのホテルのロビー。上手にソファと電話台、下手手前には狭いフロントがある。
三年ほど前の雨の日に、ふらりと現れた北村と名のる男(小松幸作)がそのまま居着いて雑用をこなしている。妹がこの男に惚れたのだ。他にアルバイトの子を傭って十分やっていける程度のホテルである。
近所のスーパーの息子(鈴木達也)が写真好きで、このホテルの日常を撮った作品を雑誌に投稿したところ入選して掲載された。それからホテルに無言電話がかかってくるようになる。
一方、姉、環(松岡洋子)の方は子供のいる男に嫁いで何年かになるが、その女の子がもう高校生だというのに若い男(橋本拓也)と浮気をしている。その相手というのが、妹の高校時代のあこがれの的だった。姉はそれを知っていて男を誘った節がある。
若い男は、水槽+熱帯魚のセールスが仕事で定期的に町にやって来る。ホテルを定宿にし、ついでにここを逢引の場所にしていた。
長逗留している客の若い女( 柳沢麻杜花)は、作曲家と称している。ただし、明らかに他人の曲を自分が作ったといってあっけらかんとしているところをみると少し精神を病んでいるのではないかと思える。両親と死別して祖母に育てられ、病気がちな少女時代をおくったなど不幸な生い立ちを語るのも作り話かも知れない。多少物語に酔っているところがみえる。
無言電話が来るようになって、まもなく見覚えのない若い男が様子を窺っているのが目撃される。
実は、この男は北村の元同僚で、町工場で働いていたときに金庫から有り金を奪って逃走した共犯であった。震災のどさくさでうまく逃げおうせたのだが、金を山分けしたあと二度と会わない約束だった。それが、雑誌に載ったホテルの写真に北村が写っているのを見て、金をせびりにやってきたのだ。
泥棒など出来そうに見えないきゃしゃな体つきの北村だが、小金を与えると二度と来るなとすごんで見せる。それから、謎だった彼の過去が次第に明らかになっていく。この男は愛人と心中事件を起こして相手を死なせている。
やはり雑誌に載った写真を見て、死んだ心中相手の妹がホテルに訪ねてきてそれがわかる。この妹の言うことには、始めから金を取るつもりで心中を偽装したのだという。他にも血なまぐさい事件を起こしているらしい。
すべてが麻衣子に知られてしまい、北村は精神的に追いつめられていく。
一方、長逗留の頭がややおかしい女の方の過去も明らかになる。ホストに入れあげ、そのホストが憎む社長を殺してしまったのだ。女の留守中に部屋を掃除していたら、引き出しの中から拳銃がでてくる。
おふくろが言ったという言葉、100万回生きた猫のように、「死んでも死んでもまた生き返るから、この世の一つ一つは大した事ない。」 ということを信じていたのか、結局、北村はこの拳銃を使って近所の川原で頭を打ち抜いて死んでしまう。
最後は、長逗留の狂った若い女が「欲望という名の電車」のブランチよろしく、車に乗せられ去っていく。残された麻衣子が「私、こうなることは分かっていたわ・・・」とチェーホフばり(「三人姉妹」のイリーナ)のせりふで幕が下りる。

なんともおどろおどろした話で、しゅう史奈の從來の作風とはかけ離れた印象の作品だった。
從來の作風というのは、同じ殺人事件を扱うにしても登場人物の内面を深くえぐりだし、その社会的背景についての緻密な分析があった。むしろ、社会的な問題意識が動因となって劇を進行させる傾向が強かった。そうしたものを扱う手つきの独特の「やはらかさ」が、しゅう史奈の個性であり魅力であった。
この作品は、北村という男の血塗られた過去があばかれる過程を描いたものである。事件そのものよりは、犯罪者が罪の意識にさいなまれて自らを裁き、自ら死を選ぶという物語になっている。それはそれだけで完結しているといっていいが、そのことに一体どれだけの意味があるのだろう。
ひょっとしたら、題名に「教会」とあるのは、北村の死に宗教的な何かを込めようとしたのかもしれない。 確かに内面の葛藤を描いてはいるが、 しかしそれにしても、自死という選択に到るまでの苦悩というにはあまりにも説得力がなかった。
その原因は、北村が何故に何度も犯罪を繰り返したのか動機がよく描かれていないからである。盗みや、心中未遂などに金がからんでいるところを見ると動機は金が欲しかったということだろうが、何故そんなに金に執着したのだろう。
また、転がり込んだホテルの雑用係として何事もなく三年も過ごしているのは妙なものである。零細企業の金庫破りという手口から見ても、適当な時期に金を盗んで消えてもよさそうな気もするのだ。様々な疑問が起こるのはやはり、北村の生い立ちや犯罪に走った動機がよく分からないところに起因している。

そもそも、発端からどうにも納得のいかない設定であった。
素人が応募する写真雑誌にホテルと北村の映像が掲載されたことによって、北村の過去を知っている者たちが現れる。このことがなければ、何事も起きなかった。
この設定は、推理小説の古典的な手法でさほどめずらしくない。水上勉の「飢餓海峡」は、新聞で古い知りあいの善行が写真入りで紹介されたのを偶然目にして訪ねていくという話であった。あの小説も設定にいくつか無理があると指摘されたものだが、とりあえず何百万部も発行されている新聞(しかも顔写真)のことだから、そういうことがあっても不思議ではない。
ところが、この劇では新聞ではなくて写真雑誌ということになっている。こんにち写真雑誌、それも素人の応募作品を載せる類いの雑誌がいくつあるか知らないが、発行部数はどう考えても合わせて数万部ぐらいのものだろう。全国にぱらぱらとまかれた数万部の写真マニアが手に取る雑誌の、ホテルを主題にした写真の中に写っている人物と格別の関係にあるものが、二人もそれを目にしたということである。こういう偶然が起きる確率の計算方法を誰かに教えてもらいたいものだ。
その前に、過去を隠して生きているどころか窃盗犯であり心中事件の片割れである北村は写真に敏感でなければならない。
先日、指名手配を二年半も逃れて捕まった男が、同僚との集合写真では巧みに陰に隠れて写っていた。
北村は、スーパーの息子がうろうろ写真を撮っていたことには気付いていたはずである。何故やすやすと写真に撮られるという馬鹿なことをしたのか?しかも、顔がかなりはっきり写っていなければ人物を同定することなど出来ないはずなのに、無防備にさらしてしまったのだ。説明が必要なところである。

心中事件にしても、相手が死んでしまった現場から金の入ったかばんを持っていなくなったことになっているが、日本の警察はこういうことを見逃す程ドジだとは知らなかった。窃盗事件も似たようなものだ。金を山分けして逃げたのだが、明らかに指名手配されているはずの事件である。
あとで、スーパーに来た車いすの老人が、飾ってあった入選作の写真を見つけて騒ぎだしたという挿話があったが、あれは金を盗まれた零細企業の経営者だというつもりなのだろう。しかし、これも確率を計算したくなる逸話である。

また、若い男と浮気をしている姉のエピソードが主筋とどう関係しているのかも判然としない。
女子高生の娘が継母の浮気現場のホテルに現れて、家に帰ってくれと無言で迫るところなど、崩壊しつつある家庭を何とか修復しようと願う子供のけなげさが、なんともあわれである。その前で、年下の男にしなだれかかり、甘えて見せる環の態度に凄涼たる家族関係が見えてくるのだ。
だがしかし、これにもまた何故という思いが残る。
環とその夫はどんないきさつで一緒になったか、必ずしもはっきりとは描かれていない。さらに、この夫との間にどんないさかいがあって、環が浮気をはじめたのかも判然としていないのである。そのために、①義理の娘との折り合いが悪い。②夫の仕事が忙しくて相手にされない。③夫に愛人がいる。④夫に性的な或は他の不満がある。などと原因をあれこれ想像しながら見るはめになった。
確かにこの家族の人間関係には胸が塞がれる思いがする。そのような感情に駆られたのは事実だが、冷静に考えるとこのエピソードを物語の中のどこに位置づけたらいいのかとまどうのである。

きわめつきは、長逗留の女が拳銃を持っていたことである。グランドホテル形式という劇作の方法があって、あれはいろいろな泊まり客が登場してそれぞれの人生を面白おかしく描くという趣向だが、中に拳銃を持っていてもおかしくない人物が交じっていることはあるだろう。
しかし、たった一人の若い女の泊まり客が拳銃を持っていたとするなら、どこでそれを手に入れたのか?何故、何のために持っているのか?説明が必要なところである。そもそも、この素性がはっきりしない女の存在も劇の主筋にどう関係しているのかあいまいである。うがった見方をすれば、最後に北村が拳銃自殺をするために便宜上登場させた人物だったということもできるのではないか。
そのようなご都合主義が随所に見られて、これまでの作品に比べるときわめて粗っぽい構成になっていると感じた次第である。

これについては「私・・・こうなることは分かっていたわ・・・・・・」と僕も言いたい。

実は、この劇団はYがひいきにしているところがあって昨年の「愛しい髪、やさしい右手」も見ている。作風が少し変わったと思ったのはこの作品からで、しゅう史奈には何か心境の変化があったのだろうと感じた。というのも最初にも書いたが、これまでは事件を描いてもその背景や社会的な問題に関心が向けられていたのに、「愛しい髪・・・」のテーマは「芸術家の才能」であった。ずいぶんな変わりようである。
自分には才能がないのではないか?という思いは芸術家に絶えずつきまとう不安である。また、他人の才能をうらやむ気持ちも芸術家を悩ませる心の葛藤である。
山崎正和にはそうしたテーマの戯曲がいくつかあるが、中でも「 芝居〜朱鷺雄の城 〜」は三島由紀夫への少し屈折したオマージュであった。しゅう史奈にもこうしたテーマを書きたくなる事情が生まれたのだろうと推測したのである。
このときパンフレットか何かに、テレビドラマの脚本を書いてオンエアされるというようなことが書いてあったので(いま確かめたらどこにもなかったので記憶違いかも知れない)なるほどそれかと思った。シナリオライターで食っていけるかどうかはともかく、名声は得られるだろう。それが持続できれば、小劇場で汲々としていることも無くなるはずだ。よかった、よかったとその時は思った。

「愛しい髪・・・」は、実話をもとにしたというだけあって、この芝居のようなご都合主義というのは見られなかった。
劇評を書こうと思って、ディテールを説明するのに少し自信がなかったので、上演台本を譲って欲しいというメールを打った。ところがいつまで待ってもなんの連絡もなかったので、とうとう書かずじまいになってしまった。
それから一年たった。今年は事情があって観劇を控えていたが、Yがこの劇団だけは見ようといって切符を用意した。
下北沢/シアター711という劇場は、どちらかといえばマイナーな映画やドキュメンタリーを上映する小さな映画館である。だから客席は映画用のゆったりしたシート席になっている。
会場に入って驚いた。シート席の廻りに粗末なストールを補って座席を増やしているのはいいが、立派なシート席のほぼ半分に「招待席」「関係者席」の白い紙がべったりと貼られていたのだ。少し早めに行ったから僕はシート席に座れたが、金を払ってみるものが端に追いやられるのはなんとも理不尽ではないかと思った。座席が立派なのと粗末なのと落差があまりに激しいのでそう感じたのかも知れないが、背もたれ一杯に客を拒絶するように貼ってあるのを見て、まったくデリカシーに欠ける連中だと腹が立った。
あとからその席に座ったのは、何となくテレビ関係者のような気がしたがどうであったか。僕の邪推かも知れないが、この芝居の雑さ加減はちょうどテレビドラマのようなものではないのか?
僕はテレビドラマをあまり見ないが、その理由はいつもそのリアリティのなさにがっかりするからだ。結末にたどり着くためにはどんなご都合主義でも許される。感情移入させる部分は豊富に挿入されるから、筋立てなどごまかされてしまう。消費されるーつまり見たら次から次消えてしまう物語だから無責任でも済まされるのである。

しゅう史奈がテレビドラマに進出するのはいいことだが、その世界に引き込まれて消費されるだけの物語を書くようになってはいけない。この芝居がその兆候だとしたら、その才能を惜しむものである。
題名: 教会の見える川辺で
観劇日: 2009年11月2日(月)
劇場: 下北沢シアター711
主催: 海市工房
期間: 2009年10月28日〜11月4日
作: しゅう史奈
演出: 小松幸作
美術: 吉野章弘
照明: 村上秀樹
衣装:
音楽・音響: 熊野大輔
出演者: 境ゆうこ 松岡洋子 ながえき三和 
鶴岡悦子 通地優子 橋本拓也 鈴木達也 
柳沢麻杜花 政修二郎 小松幸作

| | コメント (0)

2009年11月 4日 (水)

劇評「冒険王」

Bokeno
左右の壁際に二段ベッドが二づつ、手前に上段を取り去ったベッドが一つある。小さなテーブルと腰かけが数個、開いた空間を埋めていて、奥に狭い出入り口が切ってある。ベッドの手すりには大小色とりどり、泊まり客のタオルがかけてあって、いかにも粗末な木賃宿風である。客のいるベッドでは、リュックを調えていたり本を読んでいたり、ただ横になっているなどそれぞれが思い思いの時を過ごしている。
出入り口から左手に進むとこの建物の玄関があって、比較的にぎやかな通りに面しているらしい。その通りを少し行くと欧州と亜州の境界をつなぐ橋が見えるという。つまり、ここはイスタンブールの街中で、見えるのはポスポラス海峡を渡る橋のことである。
ところが、この宿に泊っているのは日本人の若者ばかりで、彼らのうちの一人が硝子のカップにいれた砂糖たっぷりのトルコ風紅茶(チャイというらしい)を作っては、しきりに飲んでいるという光景がなければここが外国だとは気がつかない。
Bokeno02_3
何人かはベッドの上でくつろいでいるが、何人かの出入りがある。上手奥の上段に毛布にくるまった男は我関せずと寝ている。何があろうとそこを動かないつもりらしい。
それぞれの交わす会話を聞いていると、顔見知りも多く各人が抱えている事情にも有る程度通じていることが分かる。
ここは、欧州や中東辺りをふらふらしている日本の若者が集まってはまた四方に散っていく一時滞在の場所なのである。
ギリシャを拠点にしている一人の男は、観光ビザが切れるたびに国外に出なければならないので、たびたびここにやって来るという。エーゲ海を挟んで対岸のここは便利なのだろう。アテネの街角で針金を曲げた指輪や装身具を地べたに並べて売っているらしい。かなりの間なんとなくそうして暮らしているという。この男、実は元高校教師である。何年か前に突然教師をやめると妻子を残して外国に出たのであった。(あとで妻がここを見つけだして訪ねてくるという愁嘆場があったりする。)
インドから帰ってきた男は、どういう原因か肝炎をもらってきたようだ。身体の調子がいまいちで元気がないが、この期に及んでも帰国など思いもつかないようだ。
東欧に国境の事情を見にいったものもいる。ソ連に入ろうという強固な目的があったわけではなく、どの程度のむずかしさか調べてみようというのである。調べてどうしようということでもない。また、ヨーロッパの街をあちこちさまよっているというものや、アラブ諸国の事情に通じているものもいたりする。一方、日本の情報についてもよく知っていて、故国の動静に関心がないわけでもなさそうだがどこか他人事のようである。
観光にやってきた女子大生が紛れ込んでくるところを見ると、この時代になると目的もなくうろうろするバックパッカーだけではなくなっている、つまり学生の物見遊山が可能な経済状況になっていることが分かる。
また、終盤近くには昔ここにいたという青年が、婚約者を連れて訪ねてくる。やがて欧州を離れてニューヨークに流れていったあといまの恋人と出会って結婚することになったという。放浪生活に終止符を打つ記念の婚約旅行のつもりらしい。劇中日本に戻ろうというのは彼ぐらいのもので、あとは皆、ここで一時的に停滞し、またどこかへさまよい出るつもりでいる。

物語の時期は1980年の初夏とある。
平田オリザは、1979年都立駒場高校定時制二年16才の時に休学し、自転車による世界一周旅行にでた。この時の経験をもとに書かれた戯曲と考えるのが普通と思うが、初演はそれからだいぶ立った1996年である。この間世界は激動の時を通過している。ベルリンの壁、ソ連の崩壊、湾岸戦争など幾重にも重なった時間の像を透過して、おそらくどうしても1980年のこの安宿にフォーカスしたかった何かがあったのである。96年の時点から照射された光は、16年の歴史の層をくぐりぬけて像を結ぶ。当然のことながら、1980年の出来事はそれなりにデフォルメされているはずである。何故そうまでして格別何事が起きるでもない物語として、あの日々の出来事を書かねばならなかったのか。

というのも、平田は冒険旅行から帰ってまもなく、『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』と言う長いタイトルの旅行記を書いている(残念ながら、入手出来なかった)が、それはここにあるようなのんびりしたものだったとは考えられないからだ。この時代に十六、七才で一人で外国をうろつくなどという行為は「冒険」以外の何ものでもない。しかし、このイスタンブールには「冒険」といえるもののかけらも見いだすことは出来ない。自分の経験はこんなものだったと披瀝しているとすれば、奇妙な矛盾ではないかと思うのである。

ここに登場する青年、若者たちには、一様に外国にやってきて何をしようという目的が見当たらない。日本を飛びだした理由はそれぞれ持っていそうではあるが、それほど強い動機があったとも思えないのである。
いっとき「自分探し」という言葉が流行ったが、それだといってしまえばそうかもしれない。どこかにほんとうの自分がいると考えるのはちょっとしたロマンティックな幻想で、それに釣られてつい放浪の旅に出る。それが異国なら、なおさら「自分」を見つけやすい、と考える。ここに集まってくる連中もそう思ったのかもしれない。今の自分に不満があって、もっと自己充足できる境遇を探すというのは理解できないわけではない。ただ、じっくり考えればわかりそうなものだ。探している主体である自分がなにもので、自分の何を探すのか(対象となる自分)が分かっていなければ「自分探し」など単なる徒労である。どこかに落ちている「自分」を拾ってくるようなものなら人生はもっと楽になるだろう。そんな無駄なことが出来るのは金と暇があるからで、とりあえず日々の暮らしに追われていないというのは、誠に結構な身分ではある。
いずれにしても、何故彼らが国を出て何年もの間ユーラシア大陸の西側半分を行き来し、帰国しようともしないのか、わからないのである。

不思議なことはもうひとつある。何故ここには日本人しかいないのか?いや、その答えは分かっている。日本人の青年だけがここに来るからだろう。ユースホステルのような世界中の若者が利用する安宿は他にもあるはずだが、日本人が大勢いるところなら、言葉の問題はない。情も通じる。情報も得やすい等々多くの利点がある。これこそ島国根性ではないかと指摘する向きもあるかもしれない。しかし、それをいっても何にもならないし、何も同国人が群れるのは日本人特有のスタイルだとする根拠はどこにもない。
むしろここから見えてくることは、まずこの近辺にそれだけ大勢の日本人バックパッカーがいるということである。この時点でのドルはおそらく今の2.5倍くらいはしただろうが、日本人の懐具合はそれを越えて豊かになりつつあった。外国旅行が大衆化しかかっていたのである。
さらにいえば、せっかく外国にいるのに現地の人々はじめ他の外国人と接触した話が聞かれないのは不思議なことである。ここを一歩でたら日本語の通じない世界だからといって、まったく会話もなく過ごせるわけもない。外国人の同じような年ごろのバックパッカーと出会わないことでもあるまい。しかし、彼らの態度は、観光客とは違うよそよそしさで異国の景色を見ているようで、現地の人々が話の中に登場することはない。外国にいながら、ここには文化的差異に関する批評というものが存在しないのである。
平田オリザはもともと生な政治の話はとりこまないが、この劇でも少なくとも安宿は実に平和であった。しかし当時の中近東は、いわゆるイラーイラ戦争の緊迫した政治情勢にあり、イスタンブールがどんなポジションにあったかどうか別にして、登場人物にとってはそれすらもたいして興味が湧かない問題だったのだ。
むしろ、発売されたばかりの「ウオークマン」の機能についてあれこれ会話が交わされるという場面を挿入する事によって「ああ、あの時代ね」というリアリティを作り出している。このときソニーはまだ画期的な製品を世に送り出す力があったとあらためて思い起こすのであった。
一体、このひとたちは何故ここにいるのだろうか?
おそらく日本という「日常性」を離れたかったのに違いない。しかし、ここにあるのはそうした日常性そのものではないのか?ならば、日本に帰った方がもう少し居心地がいいのではないかと思うが、それもしようとしない。
終幕近く、長く滞在していた男が突然荷物をまとめると重そうなリュックをベッドの端においてベルトに腕を通し、「えい」とばかりに立ち上がる。「出かけるんですか?」の声に「うん」とうなづく。しかし、どこへ?
彼らはこれから先も意味もなく宙ぶらりんのままさまよい続けるように見受けられるのである。

平田オリザは、なぜ自分の「冒険」時代をこのように描いたのか?
おそらく、1996年の時点で16年というフィルターを通して覗いた1980年がこのように見えたということなのだろう。
1996年といえば、「失われた十年」のまっただ中である。バブルの崩壊から不良債権処理の停滞、不景気と閉塞感の中で起きたオウム事件などの国内問題、さらに、湾岸戦争の多国籍軍に対する多額の拠出金にもかかわらず評価は低く、国際的にも存在感を失っていた。80年代のバブル期には「Japan as No.1」まで登りつめ、明治の近代化以来追いつき追い越せとひたすら走り続けてきた日本が、とうとう西欧に追いついたと思った。その矢先に目標を見失うと同時に自信まで失ってしまったのだ。

平田オリザにとって、西洋と東洋の境界で停滞していたあの安宿の日本人と、現在(16年後)の姿が重なるように見えたのではないか。あのときは、世界とはどういうものか?何事も経験だという「冒険」心で出かけたものだった。その時点ではそれが正しいと思った。しかし、今振り返ると、一体西欧のあるいはアラブやペルシャの何が分かったのか、逆に言えば世界の中で日本とはどういうものか、何も分からずにいたのではないか。外国にいても日本人だけで群がり、自分たちだけの小さな社会を作って閉じこもっていただけではないのか。
そうして、何かを見たつもりになっていたものが、気がついた時には進路を失って戻ることも進むことも出来なくなっていた。動機が何であったかも忘れ、何をするべきか考えることも出来ない。
そのような物語としてならば、かつての「冒険譚」を世に問う価値があると思ったのではないか。「冒険王」のタイトルロゴが表裏反転しているのは、そういう意味だったのだろう。

この物語は、しかし、もう一つ別の視点からとらえることも出来る。
劇を観ながら、僕にとってはそこを起点に考えた方がむしろわかりやすいと思っていたので、それについて少し書いておこうと思う。
それは、1980年の出来事をさらに過去にさかのぼって、そもそも若者たちの「冒険」が始まった時点に立って、そこからこの劇を照射してみるということである。

小田実の「なんでも見てやろう」は1968年である。これは一つのきっかけになっていると考えられるが、そうはいっても、誰でも外国に行けるという時代でもなかった。
先日ディスカウントチケットのHISのCMで「四十年前、ロンドン往復のチケットは70万円でした」というフレーズを聞いたが、この時の大卒初任給が二、三万円くらいのものだったから、想像を絶する高さである。だから、普通の人が外国に行く場合は、貨客船がもっとも安い手段であった。船なら外国旅行に行けないわけでもなかったが、小田実の影響があったからといって、にわかに冒険旅行が増えたわけではない。

ここから先はかなり大胆な仮説になるが、言ってしまえば、世界的な学生運動の終焉をきっかけとして、そのさなかにあった先進諸国の若者たちが別天地を目ざしたことがはじまりであると僕は考えている。別天地を信じたというよりはむしろ、ここ(先進諸国)にはもはや希望がないと思ったのだ。
その精神的構造は、例えばフランスにおける学生運動を考えてみると理解できる。
フランスでは66年アルザス地方の名門ストラスブール大学の管理体制の民主化要求に端を発した抗議行動が、68年にはナンデール大学(仏中部)、ソルボンヌ大学(パリ)に飛び火し、学生の自治や制度改革要求とベトナム反戦、「プラハの春」(国家による民衆の弾圧)などをからめた反体制運動として発展する。パリの文教地区カルチェラタンで火炎瓶闘争を繰り返す学生達の行動に同調した労働組合が立ち上がり、反政府運動として盛り上がりを見せるが、ついに五月二十一日には国の主要機関が停止するというゼネラルストライキが決行される。時のド・ゴール政権はこれを弾圧したが抗しきれず、議会を解散して総選挙を行い、文教政策の転換など大幅な譲歩を余儀なくされた。世に言う「五月革命」である。
この運動を通じて、社会主義革命の一歩手前まで行ったという実感を持った若者たちは多かったはずである。つまり、頭の片隅にはソ連のような覇権主義全体主義を否定して、それとはまったく別の社会主義がイメージされていた。それが時の権力によって巧みにいなされ、労働者や市民が主役の社会体制がつくられるというかすかな希望は消えたのである。
ドイツやイタリアでも同じように大学の改革運動から始まった。米国も大学の改革から火がついたが、ベトナム反戦、公民権運動などがからんで各地の大学のキャンパスは長い間騒然としていた。日本における学生運動については周知の通りである。
こうした「異議申し立て」の激しい季節を通過した若者たちのメンタリティには、改革が出来なかった挫折感と現実(先進国の)を忌避する心情が生まれた。運動が収まると、現実には大多数が体制に組み込まれていったのだが、なかに別の生き方を模索する若者も現れた。ヒッピーやフラワーチルドレンの誕生には、こうした背景がある。


やがてこの若者たちが、西欧近代合理主義とはなるべく無縁の遠い土地を目ざして旅をすることが始まる。こうしたバックパッカーが増えると、当然たまり場のようなところが発生する。カトマンドゥ、ゴア、カブールが三大聖地と言われ、サンフランシスコ、LA、欧州でもアムステルダムやコペンハーゲンに彼らのコミュニティができた。

こうした若者たちの中の一人とされるのは、本人にとって不本意な事は重々承知しながら、十年後に現れるこの劇の登場人物たちとは甚だしく心のありようが違っていると思われたので、この時代の若者の一つの例として紹介しようと思う。

司馬遼太郎は「街道をゆく」シリーズのなかで、しばしば旅の案内人、コーディネーターの人となりについて言及しているが、わざわざ一人のために一章をもうけているのは第三十九「ニューヨーク散歩」だけではないだろうか?よほど興味深かったのである。

この第二章「平川英二氏の二十二年」は、ニューヨークの地理が分からないので、仮の拠点にと提供された平川氏の自宅に案内されるところから始まる。
「・・・ある夜、ホテルのバーで平川氏と酒を飲んだ。・・・無口で、一問に一答しか戻ってこない。能代高校を出て一九七〇(昭和四十五年)年、横浜の大学の外国語学部を卒業した。子供のころから世界放浪を夢見た。
大学を卒業すると同窓の恵美子さんと結婚し、一九七二年、生まれたばかりの赤ちゃんをつれて、カルカッタに旅立った。放浪という理想への旅立ちだった。
さまざまな野や人里をへて、ついにアフガニスタンに入った。
小さな村にとめてもらって夫妻が荒野に立っていると、向こうに砂塵が上がり、疾駆してきた中世の騎士のような男が、突っ立っていた平川氏の腕から赤ちゃんをすくい上げ、赤ちゃんを馬上高く掲げながら夫妻のまわりを祝福するように何度かまわった。
やがて男は赤ちゃんを抱いたまま砂塵だけをのこして去ってしまった。
平川氏は、とられてしまった、と思い、なすすべもなく立っていたらしい。ずいぶん時間がたってから、男が再び騎馬でもどってきて、赤ちゃんを返した。
理由は今でも分からないらしい。あまりの可愛かったので部族の連中に見せようとしたのか、それともいきなり欲しいと思ったものの、村の長老にしかられて返しにきたのか、あるいは、赤ちゃんを抱いて疾駆すれば赤ちゃんの未来に幸せが来るという風習でもあるのか、私はこの最後の想像を信じたいが。
『空想家だったのです』
平川氏は、自分自身のことをそういう。
日本海に沈む夕陽が、あまりに美しかったせいかも知れない。
能代高校時代は、読書家だった。書物が、霧のように異文化の美しさを吐きだしてきて、平川少年を包んだ。
このため偏差値教育から外れ、トマス・E・ロレンス(アラビアのローレンス)の『知恵の七柱』に感溺したり、シェイクスピアを原書で読もうとしたりした。・・・ともかくも入試のための勉強を軽蔑するようになった。
・・・(大学を)卒業後、KDDに就職し、夜間オペレーターになった。ただし、パートタイムだった。二年後に退職し、世界放浪に旅立ったのである。
ベンガルのカルカッタからバスを乗りついでの放浪だった。ときに地方鉄道をつかった。インドをあるき、ネパール王国のカトマンズに行き、またインド北部のヒンズー教の大聖地ペナレス(ワーラーナシー)にも入って、しばらくとどまった。おそらくこの地を流れるガンジス川の岸で赤ちゃんを沐浴させたのに違いない。その後、中世そのもののようなアフガニスタンに入る。そこで、右のご難になる。
西へ向かう。
すべて陸路だった。諸方で短い滞在を重ねつつ、少しずつ西へゆき、ついにオランダのアムステルダムに達した。
そこから東へ引き返して、イスラエルやトルコのイスタンブールに入り、ふたたびインドにもどった。
北インドのダルムサラ(Dharmsala)という村で滞在した。
いま地図でその村を探してみた。
東方にヒマラヤ山脈が東西に走り、その西端が次第にひくくなる。再び小山脈になって隆起しているのが、ザスカル山脈である。
そのダルムサラに、チベット人の難民がいて、集落をなしていた。
ヒマラヤ山脈の北側がチベット高原である。おだやかなチベット民族は、ラマ教の解脱を見果てぬ理想として、この酸素の少ない高地に住んできた。
近年、中国の勢力が伸び、チベット一帯を中華人民共和国西蔵自治区として強力に抱き込んだため、インドに逃れる人たちが少なからず出た。
その一部が、ダラムサラの難民たちだった。平川氏一家はその難民にまじって数ヶ月を過ごした。素晴らしい安息の日々だったという。・・・」

その後、故郷にもどった平川氏は、高校の臨時の英語教師になるが「教員という役人の暮らしが適わず」一年で辞め、英語塾を始める。それから三十一歳の時に奨学金を得て、ニューヨーク州立大学に留学し、卒業してそのまま米国にとどまった。しばらくして、司馬遼太郎の案内人という仕事がまわってきたのである。(米国での話はこの章の中に詳しく書かれているので、興味のある方は読んでいただきたい)

学生の「異議申し立て」に遠因があるという文脈で、彼を取り上げるのは適切ではなかったという思いはある。先に「本人にとっては不本意だろう」と書いたのは、彼が社会変革を夢見て挫折したという体験を持っているなどとは司馬遼太郎の文を探しても見当たらないからだ。

実はこの平川英二氏は、僕とは幼稚園から小中高校と一緒で、会社の株主にもなってもらっている友人ある。
「ニューヨーク散歩」に出てくる「知恵の七柱」(T・E・ロレンス)を高校時代に見せられて「東洋文庫」の判型を初めて目にしたことをいまでも鮮明に覚えている。
偏差値教育や、受験戦争に駆り立てられ、社会に出れば出世競争に巻き込まれ、ひとに欲に左右される生活が待っている。十代で、足るを知る人生で何が悪いものかと達観しているところがあった。しかし、それだけに世界に対する関心は深く当時からかなりの博識であった。ただ、昔から何か徒党を組んで事をなそうというのを嫌う性格だったから、彼が学生運動に積極的であったかどうかは疑問のところだ。 とはいえ、少なくともこうは言うことが出来ると思う。僕らの世代は戦後の政治の季節を通過し、先進諸国が同時に迎えた若者の「異議申し立て」の時代を通過したのであり、影響の大小にかかわらず相通ずる心情を共有していることは否定出来ない事実である。
「子供のころから世界放浪を夢見た」とあるが、彼は少しばかり早熟であって、あの頃になってようやく世界が彼に近づいてきたといえるのかもしれない。
彼は司馬遼太郎には語っていないが、旅の中で多くの同世代の外国人と交流があった。
ある時、めったに人に頼みごとなどしない彼から電話があり、この旅で知りあった英国人が日本に行くから会ってやってくれというのだ。しばらくして、南アフリカに住んでいるこの英国人から連絡があった。子供が産まれるのだが、南アは治安が悪く日本で暮らすことを検討しているという。結局、彼は季節が逆転する北半球に移動するのは妊婦に負担が重いと考え、オーストラリア移住を決めたのであったが、彼もまた、かつて漂泊の思いに駆られて英国をあとにした同世代のかつての若者であった。

1980年のバックパッカーのルーツは、ヒッピーにあったと述べてきたが、彼らのムーブメントはそう長くは続かなかった。
ハッシッシ(マリファナの樹脂)やLSDは、サイケデリックアートはじめ様々のサブカルチャーを生んだが、ドラッグの取り締まりが厳しくなると同時に彼らのコミュニティは次々に解体されていった。1975年にベトナム戦争が、サイゴン陥落という結果で終結すると反戦というメッセージも実際上は意味がなくなってしまうのである。そうして急速に「異議申し立て」の根拠が希薄になっていく。
一方で、バブルにつながっていく好景気が始まっていた。
このころ、百万円をためて二人でスペインに行った若者のことを聞いたことがある。スペインの地方都市で家を借りて、一年ぶらぶら遊んで暮らすというのである。気が向いたら針金を曲げて作ったアクセサリーを路上に並べて売ったりすることもあるという。こうなると、「プロテスト」などというものではなく、もはや金持ちが外国に遊びに行く感覚である。事実この後、強い円を背景に、海外旅行者が急速に増えて行く。バックパッカーそのものの影も薄くなっていくのである。
この劇は、その最後の光芒を見せていたのだということである。

僕は、これを何度目かの上演に当たる2008年の秋に見ているわけだが、平田オリザは上演に当たって本をいじることはしなかったといっている。
つまり、1980年の出来事を1996年の時点に立って書いている物語を、2008年の時点で見ていることになる。平田が筆を入れる必要を感じなかったのは、なんだかんだあっても日本はまだ、厚い閉塞感の雲に覆われていてにっちもさっちも行かなくなっているということだろう。
ここ数年本屋を覗いていると、思想・哲学の棚は宗教・スピリチュアルに侵食されていくのに対して、政治と歴史はひろがる一方である。中でも歴史、特に日本の近代史の分野はよく読まれているように感じる。おそらく、日本は変わらなければならないと思っているのだ。近代とは何であったのか?そして、この先どこへ向かわねばならないのか?人々はそれをいま歴史に学ぼうとしている。
四五十代の若い学者たちもようやく社会的政治的発言をしだしたように見える。
いつか再演のときに、作家があの最後に出発する若者のせりふを「自分は何をしに、どこへ行く」と明快にすべく変える必要があると感じることがあるかもしれない。

題名: 冒険王
観劇日: 2008/11/28
劇場: こまばアゴラ劇場
主催: 青年団
期間: 2008年11月15日~12月8日
作: 平田オリザ
演出: 平田オリザ
美術: 杉山至
照明: 岩城保
衣装: 有賀千鶴
音楽・音響:
出演者: 永井秀樹 秋山建一 小林智 能島瑞穂
大塚洋 申瑞季 古舘寛治 石橋亜希子
大竹直 熊谷祐子 山本雅幸 二反田幸平
佐藤誠 海津忠 木引優子 近藤強 

| | コメント (0)

2009年5月25日 (月)

劇評「表裏源内蛙合戦」

Omotural
1970年、劇団テアトル・エコーが恵比寿の稽古場に定員八十あまりの小さな劇場を作った。そのこけら落としで上演されたのがこの作品である。
戦後すぐ(1950年)に北沢彪が中心になって活動を始めた勉強会「やまびこの会」がやがて劇団に発展したのがテアトル・エコーである。北沢は戦前、長岡輝子らとフランス喜劇を上演するグループを作ってたびたび公演していたが、その喜劇をやりたい若い連中が周りに集まってきたという。社会主義リアリズム全盛の時期だから痛いほど気持ちは分かる。あんな馬鹿にまじめなものばかりではかなわんと思ったに違いない。
そのモットーに、わが国では、喜劇が一段程度の低いもの といやしめられて来たが、“喜劇”こそ現代を映し得る演劇と信じ、その復権を目指す、とある。ルーツにはフランス喜劇(コメディ)があるから、喜劇といっても昨今のおばか、お笑いブームにはなんの関係もない。
創設以来、キノトールが座付き作者兼演出家のようにして、主として彼の作品を上演してしてきたが、井上ひさしがはじめて参加するのは69年「日本人のへそ」(熊倉一雄演出)である。この頃井上は、NHKの「ひょっこりヒョウタン島」で評判をとったにもかかわらず、この番組が「教師に対する抵抗を説いたもの」という批判を浴びて放送打ちきりになったばかりで、活動の場をほかにも広げようとしていた時期に当たる。三十六歳、まだ知名度はそれほどでもないが、浅草ストリップ小屋のコント作家に始まるキャリアは十分、書き手としては脂の乗りきった年齢といえる。
しかも、当時は東大、日大闘争から全国の大学へ全共闘運動が波及していく70年安保闘争の騒然とした社会の中で、やや下の世代になるが唐十郎(状況劇場)寺山修司(天井桟敷)鈴木忠志(早稲田小劇場)佐藤信(黒テント)らをはじめ無数の小劇団がアンチ新劇を標榜してそれぞれが独自の活動をしていた。(蜷川幸雄もこの頃、あまりさえない役柄でTVや映画に顔を出していたが、所属していた劇団青俳が分裂、岡田英次、清水邦夫らと「現代人劇場」を結成して演出家としてのスタートを切っている。)
芝居を作る側が既成の権威をこわして新しいものを目ざす一方、見る側もそれに呼応して演劇の世界は熱気にあふれていた。だから、この作品のように、四時間にも及ぶ言葉と音楽の氾濫、猥雑で下卑ていて過剰なまでの露悪趣味にもかかわらず、共感を持ってみることができたのである。それは変革が自分にとっても社会にとっても一種の正義であるという共犯意識が成立していたからだといえる。

前置きが長くなったのは、「道元の冒険」の劇評冒頭で、蜷川幸雄と井上ひさしは相性が悪いと書いたが、それをもう少し説明しておこうと思ったからだ。
というのも、この芝居も「道元・・・」とほぼ同時期に書かれており、同じように華々しい見せ場が次から次に繰り出されるにもかかわらず、しかも四時間という長丁場を半ばうんざり、げんなりしながらでも投げ出さずに見られた(何だか複雑な言い方になるが)にもかかわらず、いっこうに面白くならないまま終わってしまったという点で変わりがなかったからである。
その一つの理由は、相性の問題というよりは、むしろ時代の違いにあったかもしれない。「道元・・・」も同じことだが、なにしろあれから四十年もたってしまった。あの語呂合わせや地口、言葉遊びのあふれ返る饒舌さは、もう一方に唐十郎や寺山修司の華麗で詩的、夢幻の想像をかき立てる饒舌さをおいたときにその情熱がよりいっそうきわだつのである。「喜劇」を標榜する「テアトル・エコー」(=井上ひさし)の立ち位置と心意気とはそのようなものであった。加えて沸き立つような「異議申し立て」の世相をおいてみなければ、観客があのような長く濃密な時間に感情移入し続けられたことは理解できないかもしれない。
一方、私たちの現在は、抵抗する気さえ萎えてしまうような長い閉塞状況にあり、誰もが孤立し道を見失っている。いわば躁状態の演劇を受け入れる素地が見当たらないのである。そういうかみ合わない事情があったことは、しかたがなかった。とはいえ、それを気にも留めないで、ほぼそのまま舞台にのせて見せるという時代感覚は責められてしかるべきだろう。多くの観客は、戸惑いを覚えに違いない。

もう一つの理由は、「喜劇」というよりは「人間」というものの捉え方が蜷川と井上ではまったく違うということに原因がある。そのためにテアトル・エコーという劇団に言及する必要があった。
この芝居は、平賀源内の一代記でその生涯が克明に描かれる。あまり知られていない天才の実像を照らし出したすぐれた評伝劇であるが、背景として江戸中期の庶民の暮らしが執拗に語られる。源内の人物像を浮き彫りにするには、享保の改革で押さえつけられていた民衆のエネルギーがさまざまなところで噴出してきた時代の様相を際立たせる必要があったからである。
たとえば、新吉原の場面は、武士と町人が花魁をめぐって争うとか花魁が偽の起請文を渡して男を騙すとか生身の男と女のさまざまな駆け引きがあるのを短く重ねる。「手明かりの中に浮かび上がる花魁と遊客の淫(たわむ)れ姿」というあられもない男女交合の様子を、蜷川演出は、いかにもきまじめ、直情的に表層だけを露悪的にみせる。郭文化に対する共感もなければ、「面白うて、やがて悲しい」人間の営みの滑稽さには思いが至らない。
両国広小路の見せ物小屋や女相撲、屁こき男らが登場する場面も、にぎやかで華々しいが、地からわきあがるような祝祭としてのおおらかな笑いに乏しい。劇中における役者たちは見せ物でも放屁男でも「芸」を見せて生きている役柄であるにもかかわらず、その情熱があまり感じられない。そういうとぼけた味わいを表現できる役者を配置すべきだったが、演出家に「笑い」あるいは喜劇を作ろうという気が始めから無いのではしようがない。
井上のことだから、この「芸」を見せるべき場面は数多く仕込んであったが、特に第二幕冒頭の裏の源内(勝村政信)による長々とした講釈坊主志導軒の口上は、舌打ちしたくなるほど残念だった。これは風来山人こと平賀源内が書いた草双紙「風流志導軒伝」の主人公になったつもりで、源内の一代記を語って聞かせようというのだが、せりふは「講釈」の名調子なのにしゃべっているのが俳優のままである。解釈の違いといっても明らかに書かれたものを楽しんでいない。(小沢昭一でもつれてきたらよかった。)
初演は熊倉一雄が演出して自ら出演(裏の源内、表の源内は「ルパン三世」の声優、故山田康雄)している。もちろん僕はこれを見てはいない。彼のあの独特の間延びした声優ぶり(「ヒッチコック劇場」の吹き替えで知られる)を知っているものは多いだろう。熊倉と井上は以前からTV番組を一緒に作ってきた仲であり、この笑いの壺を心得ている、しかも、いかにも粘着質らしい二人だったから文字通りしつこくてなお抱腹絶倒の舞台を作り出すことができたに違いない。喜劇にとってまことに幸福な出会いであった。
一方、きまじめすぎる蜷川幸雄には、間延びした声もせりふのちょっとした間合いも許せない。井上の本はほとんど間断のない言葉の洪水といっていいが、そこにはもともと笑いの種が仕込まれている。それを引きだすには「すき間」を作ってやる以外にない。一瞬の間合いが笑いを生み出す。蜷川幸雄はそのすき間がおそらくこわいのだ。喜劇にとって、これは不幸な出会いという他なかった。

何故面白くなかったかという理由を延々語ってしまったのでは、話が前後してしまった。これではいったいどんな芝居なのか分からずに終わってしまいそうだから、話をざっと要約しておこうと思う。なにしろ四時間の芝居だからそれもたいへんだが、この際エレキテルぐらいしか思い出せない源内先生の生涯を知っておくのも一興かもしれない。
この芝居では、表(上川隆也)と裏(勝村政信)二人の平賀源内が登場する。裏の源内は、常に表に寄り添って、表が口にできない本音や迷いを吐いたり、表を悪へとけしかけたり、源内の複雑な内面を出して見せる。「独白」を多用するよりは葛藤が目に見えて、人格の多面性を表すには効果的な工夫であった。

劇はその誕生の場面から始まる。情景の説明ににぎやかなコーラスが入ってこの劇は全体として時代劇ミュージカルとも言うべき様相を呈している。

享保十四年(1729年)源内は、讃岐の国志度浦で産声を上げた。父は白石茂左衛門、母は初。白石家は三両一人扶持の御蔵番、これ以下はいないという軽輩の足軽で、その暮らしはぶりは文字通り、赤貧洗うがごとしであった。美人に生まれればお金が稼げるというので女子を望んでいた茂左衛門、やけを起こして付けた名前が、四方が吉になればいいやと四方吉。この子は生まれた時から妙に大人びた顔をして(実際、上川隆也が赤ん坊の衣装で登場。異様にみえた。)どことなく賢そう。
やがて白石四方吉は、一を聞いて十を知り、ついでに百まで推し量る大神童、くわえて近所でも評判の見目麗しい美少年に成長する。高松藩家老大久保家の長男、長松(後に一学=豊原功補)の学友となって「孟子」を学び、四国随一といわれるようになった神童は、八歳の時に鬼役としてお城に召し出される。鬼役とは、高松藩十二万石の跡継ぎである松平頼恭(=よりたか)(高橋努)の毒味役で、一服盛られる危険はあっても、常に側近くに控えるいわば陪臣(候補)、ついでにこの同い年の若君に「孟子」を講じて欲しいとの申し付けで、足軽の小せがれとしては幼くしてえらい出世である。

頼恭、長松と愚問愚答を重ねるうち、腰元たちが何やら際どい歌詞で歌いながら手まりをついているのを見て「女子を見ているとからだの芯が灼けてきて、デチ棒がにょっきり持ち上がることがあるが、あれは何か」との問いに、四方吉答えて「何かは分かりませぬが、そういう時は手掻きをします。」。重ねて、 頼恭が手掻きとは何かと問えば「さっぱりして腰が軽くなる。えもいわれぬいい気分になります。」というので、二人はやり方を教えろと迫る。植え込みに隠れると(といっても上半身は見えている)三人揃って手掻きを始める。卑猥な唄を背景に、なんとも驚いた所業である。こんないいことをどこで覚えたと聞かれると、四方吉は四歳の時に自分が発明したと答える。

それから十五年、それぞれ藩主となり、家老職を継ぎ、四方吉も願い出て白石姓をあらため、平賀源内と名乗っていた。平賀家は元信州佐久の豪族だったが、平賀源心の代に武田信虎・晴信親子に滅ぼされて(三千人がなぶり殺しにあったと伝えられている)奥州白石に移り、伊達氏に仕官して白石姓を名乗った。江戸初期、伊達政宗の長男(側室の子)秀宗が伊予宇和島に封ぜられたため四国に同行、やがて讃岐で帰農した。かつて信玄、謙信らと覇を競った名門が、臣下になって白石姓を名乗ったことを潔しとしない源内は、平賀家再興を夢見て改姓の件を願い出たのであった。自分なら天下を取れると密かに思っていた。いつまでも馬鹿殿様に仕え、毒味役でもあるまい。とりあえず藩の官費で長崎に留学、学問を修めていずれ名が知られたら松平藩をやめて、世に出よう。留学願いは十三歳の時から藩医について学んだ本草学を本格的に究めたいと言う理由であったが、他に学ぶべきことは山ほどあった。このあたりの表と裏の源内の掛け合いは、野心に燃える若者の自信と、ある種のあぶなっかしさをよく表している。
長崎では隠れキリシタンの探索、処刑に出会い、丸山の遊女華扇(高岡早紀)が出島からご禁制の胡椒を密かに持ち出したのが露見して百たたきの仕置きにあうのを見物。しかし、所詮はいずれも自分には縁のないもの。政治向きのことは「ああ。長崎は今日も雨だった」と唄って流してしまう。
オランダ語をきわめ、最新の医学に解剖学、薬学に化学に物理と手当たり次第に学ぶ。「風来居」の表札を掲げた茶室風の離れには、阿蘭陀絵、西洋の紋章のコレクション、阿蘭陀渡りの壁掛け、地球儀、薬草の入った唐文様の文箱など雑然と飾られていた。
一年ほどたったある日突然、大久保一学が訪ねてきた。藩の財政逼迫の折から、千両を持参したが、これを千七百両に殖やせと言うのである。慶長小判に含まれる金の重さと現在流通している文字金のそれを比較すると文字金は二分の一である。慶長金を阿蘭陀船の甲必丹=カピタン(船長=キャプテン)に持ち込めば二倍近くの文字金と交換してくれるというのである。しかし、金の密輸出はご法度中のご法度、見つかれば打ち首獄門の大罪である。大久保はその通辞・通訳を源内にやってくれというのだ。
もちろん源内は固辞した。しかし、断りきれるものではないことを知っている。そこで、条件を出した。今度は江戸で本朝随一の本草学者田村藍水先生について、いっそう道をきわめたいと江戸留学のことを願い出る。一学、しぶしぶこれを承知する。
カピタン、ヤン・ガランス(星智也)との交渉は、双方なかなか折れなくて間に入った源内がオランダ語を操って大汗をかく。この異国語(方言もふくめて)同士のやり取りは井上ひさしの得意とするところで、どつきあいに腹を抱えて大笑い。結局、五百両を七百五十両と交換することで交渉が成立する。
長崎から帰郷した頃に、妹に婿を迎えて家督を放棄している。白石姓を捨てた時から覚悟の上だったのだろう。
宝暦七年(1757)、江戸留学がかなう。
京橋越前屋三井高光(飯田邦博)の前に現れた源内は、諸国物産会の開催を熱っぽく語っている。国内の地方特産物を持ち寄って展示会を行い、商品取引を活発にして金銀の国外流出をおさえ、ひいては国益増強をはかるという主旨であるが、ついてはこれを実施する金を貸して欲しいというのだ。三井はその意義を十分に理解していながら、金は貸せないとにべも無い。家訓だというのである。越前屋の鉄則は掛け値なしの現金商売、 人に金を貸したとあれば、それを聞きつけて誰も彼も借りに来る。特に、大名貸でつぶれた商人は数知れず、三井はそんなことにはなりたくないという。
ところが、よいことを教えようと折から訪ねてきた一人の婀娜っぽい女をひきあわせる。青茶婆(高岡早紀)は鳥山検校の使いで金、それも利息金だといって七百五十両あまりを届けにきたのであった。そこから百五十両の手数料を持って帰るところをみると、どうやら三井の金をよそで運用しているのである。つまり三井は鳥山検校に金を預け、検校がそれを高利で貸して、利息から二割ほど受け取っていた。現在の銀行とサラ金の関係と同じである。汚いところは他人任せで、金持ち喧嘩せずというわけだ。
三井が、青茶婆に「この人に出世払いで五百両貸してやってくれ」と頼むと、何やらとんとん拍子に話が進んだ。青茶婆は鳥山検校の妾という触れ込みだが、源内にはどこかで見覚えがあった。別れしなにそれを思い出す。あれは、出島から胡椒を持ち帰って長崎丸山を所払いになった遊女華扇ではないか。
盲目の人々が生きていけるようにと家康の時代に作られたのが、検校を頂点とする座頭のヒエラルキーで、これは金貸しで生計を立ててもお構いなしというものであった。この時代、金貸し検校が大勢跋扈して、その高利と取り立ての厳しさは一種の社会問題化していた。情け容赦ない取り立ての様子が続く。これが後に独立した物語として作られたのが「薮原検校」で、この場面はそれを彷彿とさせる。
さて、物産会は源内の予想通り大盛況であった。各地の鉱産物農産物加工品等々が集まり、ついでに名のある人も集まってきた。杉田玄白二十四歳、阿蘭陀医学、よぼよぼの老人と青年の二人連れは国学者の賀茂真淵に本居宣長、浮世絵師、鈴木春信三十二歳にその居候、後の洋風画家司馬江漢十九歳、続いて現れた紀伊国屋文左衛門は四十年前の物故者でこれは冗談。そして最後に供のもの数名を従えて登場したのが当代一の器量人、将軍家お世継ぎ徳川家治側用人、田沼意次(六平直政)であった。とうとう幕府の大物が現れた。源内の心の中にうまれた前途有望、立身出世、安心立命などの言葉をコーラスが大合唱。しかし、意外にも田沼意次の口から漏れたのは「ときに源内、寝小便に効く薬草はあるか?」田沼が仕える徳川家治はその癖があったのだ。

物産会は何度か開催されいすれも大成功であったが、源内の懐はいっこうに暖かくならない。

舞台は三つに区切られ、それぞれの思惑が交互に照らし出される。
神田白壁町のわび住まいでは。
田沼意次の知己を得た源内は、かねての考えを実行する時がきたと思う。高松藩に藩禄仕拝辞願をだそう、つまり藩を辞めようというのである。「今の俺ならば引く手あまた、他に仕官の道があるはずだ。できれば幕府。」と内心思っている。
高松では。
「辞めさせぬといったらどうなる?」と松平頼恭。大久保一学が「田沼意次が乗り出してくるかもしれない」という。 頼恭が「江戸で大学者と評判をとった源内と幕府の実力者知恵者が組むとは嫉ましい」というので、一学はそれでは先手を打って、辞めさせるが他家へ仕官するのは禁じることにしようと決める。
江戸城では。
寝小便の家治が田沼に「あの男が欲しいと高松藩に頼もう」という。すると田沼はそれは面倒なことになる、待つのが上策と意外な答え。高松藩は、水戸光圀につながる親藩の一つで代々将軍家の政治顧問格を勤める家柄、それが他家への仕官は構うといっているのだから、将軍家であろうとただではすまないだろうというのが田沼の見解であった。成り行きを見守るとは、なるほど知恵者の考えだが、源内にとっては酷な決定であった。ひとはこのようにして権力に翻弄されるものなのだ。実力は認められながら、これまでいったいどれだけの才能が潰され世に埋もれてきたのか。世に出るとは、そもそもほんの少しの幸運あるいは偶然によるものではないかという気がしてくる。
こうして、源内はこの先、一生浪人で生きなければならなくなった。立身出世の思惑はもろくも費え去ったのである。

源内は裏長屋に蟄居している。他にやることもないから町内の版元、岡本理兵衛の注文に応じて「根無草」のような絵草紙草双紙の類いを書いている。
その前を、夥しい数の物売りが通っていく。樽屋、石見銀山売り、ホロホロ飴に七味トウガラシ、おわい屋、南瓜売り、塩売り、暦売り、乞食・・・。その中を青茶婆が訪ねてくると、「ほれた弱みだ」とかなんとかいいながら、いくらか金をおいて着物の帯を解く。いつの間にか二人はできていたのである。さらに物売りが次から次、洪水のように下手から上手へ流れる場面は圧巻である。
この時期、源内が書いたものに「風流志道軒伝」がある。浅草の辻講釈師、深井志導軒の一代記と見せて勝手な物語をでっち上げ、とんでもない法螺を吹いた滑稽本だが、これは長崎留学時代に阿蘭陀船のカピタンから借りて読んだ「ガリバー旅行記」をねた本にしたものである。スイフトも相当ひねくれた皮肉屋だからちょうど波長が合ったのかもしれないが、あの時代に「ガリバー旅行記」を読んでいたとは、やはり源内はただ者ではなかった。
「根無草」が売れに売れて千部を突破したお祝いに、源内と岡本理兵衛が幇間を伴って新吉原の引き手茶屋に上がっている。この当時、千部も売れたら吉原に繰り出せるほど儲かったのだ。そこには鳥山検校、松平頼恭がやってきていて、花魁の取り合いなどで大騒ぎになるが、ここでは郭の掟やら風俗、訛りを消すために考案された花魁言葉などについてにぎやかな挿話が重なる。こうした吉原の情景は、形を変えてさまざまな戯曲や小説に取り入れられているが、おそらくここがいわば原点である。
さらに、新し物好きの源内は錦絵を開発したといわれている。
阿蘭陀画の色彩は顔料による。顔料は鉱物を原料とするものだが、それを輸入するのは禁じられている。そこで源内は国内で調達することを考えた。白は秩父の粉錫、青は讃岐の画焼青と足尾の緑青の混ぜ合わせ、赤は相模江の島の赤梅、黄色は伊豆湯島の赫黄泥、キャンバスは麻の上下の袴を四角に切ったものといった具合である。
笠森お仙(篠原ともえ)をモデルにその阿蘭陀絵の具で肖像画を描いているところへ、鈴木春信と司馬江漢が訪ねてくる。本邦初の阿蘭陀画を描いたのはこの源内だと自慢する。すると司馬江漢が、そんなに新しいものがいいのか、と反論。一つのことを掘り下げるということがないから、あなたのやることはいつだって大衆に届かない。図星である。だが源内はまだ気付かない。
君らのやっている浮世絵は色を重ねまいとするが、阿蘭陀画のような色彩豊かな表現をしようと思ったら色を重ねることさ、そうだそれを「錦絵」と呼ぶことにしよう、などという調子である。
お仙とできていることを嗅ぎつけた青茶婆が座頭を連れて脅しに来る。「あたしと切れるなら、これまで貸した金を返してからにして。戯作が千部売れたって間に合わないくらいだからね。」一生離れないとはずいぶん惚れられたものだ。(しかし、劇の最後にほんの少し出てくるが源内はホモであったともっぱらの評判である。)
続いて源内の手になる発明品が唄でつづられるが、意外なものも多い。
平線儀は水平・垂直を図る器具、測量機は距離を測る道具である。秩父で石綿を発見して火浣布を作る。香をたくのに便利なもの、理科の実験で使った。寒暖計はオランダ人もびっくり。独特の色彩を帯びた源内焼は釉薬に工夫がある。朝鮮人参の栽培法や砂糖の製造法を編み出し、緬羊を飼育して羅紗布を開発する。恐ろしくいろいろなことに手を出したものだ。
ところがどうしたことか、江戸の人々の間では「平賀源内は山師だ」という評判である。発明品は庶民の暮らしの役には立たず、自分たちに縁のないものばかりだという。
そんなことは気にも留めず、抜け目のない源内のことだから、これらのものは皆、田沼意次のところに届けられていた。そろそろ頃合いだろうと思った源内が田沼を訪ねると、それぞれ立派な仕事だと評価はするが、しかし生きているだけでも有り難いと思わねばなるまいという。
改革の世ならば、キリシタンの妖術を使う者として磔、風紀紊乱のかどにより投獄となるべきところ、田沼の時代なればこそ許されてきたのだという。享保の改革のあとの財政建て直しを目ざした田沼政治も近ごろでは評判が悪くなっていた。自分の時代もそろそろ終焉に近いと覚っているようだ。
帰り際に政治向きのことで具申したいことは無いかと問われ、表と裏の源内が葛藤のすえ、金貸し検校の悪行ぶりは目に余る、町人武士に限らず皆困り果てているといいつける。田沼はうなづいた。

両国の広小路で見せ物見物をしていると、裏の源内が駆けつけて金貸し検校が皆首を斬られたという。田沼は進言を実行したのだ。青茶婆は今夜暁九つ、千住小塚原というので大川を舟で遡上することに。
青茶婆は、駆けつけた源内を認めた途端、にっこり笑い莞爾とした表情で斬られた。
暗がりから杉田玄白と前野良沢が現れる。腑分けを申し出ていたのだ。源内が手伝ってやろうというと、前野良沢が一冊の阿蘭陀書を出して、この本の絵図を実際の人体と比較するつもりだが、素人には無理という。
すると、それは「ターヘル・アナトミヤ」ではないかと源内。ページをぱらぱらめくり、いかにも得意そうに原文を読み上げる。それを見た二人はたじろいて後ずさり。長崎時代、暇にまかせてこの本を翻訳したことがあった。絵図も秋田藩士小田野直武に写させてある。どこか行李の隅にでもあるはずだから、何ならお貸ししましょうか、「解体新書」という題で出版したらいいでしょうと何だかずいぶん気前がいい。杉田がまさかいくらか寄越せというのではないかとの問いには医は仁術、世のため人のためになるなら喜んでお貸ししますと人が変わったようだ。青茶婆の霊がいわせているのかもしれない。
それにしても。「解体新書」の名付け親、翻訳者が源内だったとは知らなかったなあ。そういう縁があったから杉田玄白は源内の死をもっとも惜しんだと伝えられている。

こうして青茶婆のからだは源内の手で腑分けされていく。この生首が高岡早紀そっくりにできていて、なんとも奇妙な気分になった。これにはずいぶんと金がかかっただろう。しつこいくらいに腑分けが続いてげんなりしたところで、突然話が秋田に飛んだ。

安永二年(1773年)源内は、秋田藩主佐竹義敦に招かれる。劇では阿蘭陀絵を教えに行ったことになっているが、実際には鉱山開発の相談に乗って欲しいという依頼であった。長崎時代、鉱山の採掘や精錬の技術を学んだことがあったのだ。秋田にむかう道すがら飢饉に困窮した百姓たちが一揆を準備しているところに出くわす。上から来る暴力を下からはねつけようとする力は、暴力ではないという百姓たちの言い分に一理あると思いながら、手助けするわけにもいかない。
このまま秋田藩に仕官できたらどんなにいいかと思った途端、表と裏の葛藤が始まる。百姓一揆のことをいうべきか否か。とうとう点数が稼げるという裏の源内の言い分に負けて、恐れながらと家老に話してしまう。仕官もかなわず源内は空しく江戸に戻った。この時源内、四十五歳。

「土用の丑の日はウナギ」というのは源内が作った広告コピーといわれるが、劇では触れられない。ただ数多くの宣伝文句を作っていたのは事実である。ところが、秋田をしくじったあと、とんとやる気を無くしたようだ。両国「清水餅」の音羽屋多吉の頼みに応じて新発売披露の引き札を書いたが「先生の語呂合わせも少々鼻についてきましたね」といわれる始末。神田神保町の呉服屋伊勢屋善助の浴衣の売り出し方法を、という注文には踊りを提案するが、その手はもう古いといわれがく然。

エレキテルはそんな時に思いついた起死回生の策であった。長崎修行時代に破損したエレキテルを見た。そのわずかな記憶を元につくったエレキテルを将軍家へ献上、徳川家治の前でいわばデモを行うということになる。木の箱にハンドルがついた単純な静電気発生装置だったが、電気というものが何であるか知らない人々にとっては魔法の箱だった。家治の手に、箱からのびた二本のコードを握らせ、おもむろにハンドルを回すと、当然のことながら感電。ぎゃあー、ぐわあーと断末魔の叫び。
これで正真正銘山師の烙印を押されたようなものであった。

うす暗い神田白壁町の源内寓では、たった一人残った門弟美少年風の久五郎がお茶を入れている。源内は男色だったといわれるが、この劇では唯一このシーンだけがそれを示唆する。
久五郎相手に愚痴めいて、来し方を語りいまでは死んでいくだけの身だと嘆いていると、裏の源内が現れ久五郎といれかわるが、心がうつろで気がつかない。
表の源内の述懐が続く。生涯かけて実にさまざまな仕事をしてきたけれど、結局は世のためにも人のためにもならず、ただ虚名を博しただけだ。俺の一生は米を食うだけの虫に終わってしまった。
すると裏の源内がまだ勝負は終わっていない、もう一度あれこれやってみるのだとけしかける。ところが、源内の耳に届いているかどうか、視線が空中をさまよっている。と、突然刀を抜いて、消えてしまえとばかりに裏の源内をけさ懸けに斬る。ところがこの裏の源内が実は久五郎だった。気付いた時は遅かった。源内のひざの上で久五郎が息絶えると、しばらく打ちひしがれていたがふと顔を上げ、にたりと笑う。その顔にはすでに狂気が宿っていた。

伝馬町の牢に入った源内は何日も飯を口にしない。同房の男がうずくまる源内の肩に触れると虫の死骸のようにころりと倒れ、そのまま動かなくなった。

これが平賀源内の一生だった。

「美しい明日をお前は持っているか。美しい明日をこころのどこかに・・・」と 最後にうたわれるのは、源内ははたして美しい明日を夢見ていたのかという問いである。有り余る才能を持ちながら、民衆が夢見る明日を実現できなかったのでないかという非難が一方にあり、また一方には「不器用なくせに器用なふりをしている平賀源内を他人とは思えなかった」(井上ひさし=初演パンフレット)というその生き方に対する同情がある。まことに複雑で哀切きわまりない終幕であった。

四時間に及ぶ大作であったが、いっこうに面白くならなかった。その理由は喜劇になっていないからということは書いた。平賀源内とはどういう男かという興味が睡魔を遠ざけて、この一点においては実に面白かった。

役者について言えば、残念ながら表の源内の上川隆也については不満がある。まじめさは顔に表れているが表情に乏しい。そのために感情の起伏を表現できていない。「不器用なくせに器用なふりをしている」はずの源内が、そのまま不器用に見えるのでは芝居にならない。(ちょっと分かりにくいか?)
最初に上川を見たのは映画だったが、いかにも自信なさそうな顔だった。かけだしのころ「無名塾」を受けて落ちたらしい。のちに仲代達矢は上川に記憶がないと、自らの不明を詫びていたが、それほど目立たなかったのだろう。さすがに自信のなさは消えたが、しかし無表情に見えるのはやはり表現力の問題だ。仲代の目は正しかったというべきだろう。今後に期待したい。
幼い顔の上から微妙に年増の顔が広がってきて、それとせめぎあっている様は、妖艶とも清新とも言えずなんとも中途半端な風情である。高岡早紀のことだが。もし力があればもっと濃厚にやることもできたはずと思った。美人顔といえば篠原ともえの方で、これは役柄ともあっていて無難にこなしていた。
さすがに蜷川組である、脇を固めた役者は皆達者で、安心して見られた。

大衆の役に立つ仕事は何もしなかったとは言え、高松では今でも「源内先生」というらしい。妹夫婦に家督を譲ったあとも、源内は時々帰郷している。その折にでも触れた人々の尊敬の念が今日まで伝わったものであろう。また、江戸における評判が届いて故郷の人々の自慢の種になったのかもしれない。
井上ひさしは「知識人は、真の革命の中核たりうるか」(1970年、朝日新聞のインタビュー)という当時としては深刻なテーマをこの物語に込めようとしていたが、それはいかにもあの時代らしい問題意識である。
いまとなっては、源内の生きた時代がもう少し、百年とはいわずせめて五六十年でも下っていたらどうだったか?と思う。その意味でも、平賀源内は近代人だったのであろう。早く生まれすぎ居場所がなかったものの悲劇ととることもできる。また、並外れた知識と才能をもつものもやがては権力者の気まぐれに翻弄され世に埋もれていくという人間の宿命を見ることもできる。あの平賀源内においておや、である。これはそれら埋もれていった才能たちへの鎮魂歌であると見るのが、僕のしょうにはあっている気がする。

題名: 表裏源内蛙合戦
観劇日: 2008/11/14
劇場: シアターコクーン
主催: シアターコクーン
期間: 2008年11月9日〜12月4日
作: 井上ひさし
演出: 蜷川幸雄
美術: 中越司
照明: 室伏生大
衣装: 小峰リリー
音楽・音響: 朝比奈尚行
出演者: 上川隆也 勝村政信 高岡早紀 豊原功補 篠原ともえ 高橋努 大石継太 立石凉子 六平直政 アサヒ7オユキ 福本伸一 木村靖司 富岡弘 二反田雅澄 大富士 飯田邦博 塚本幸男 堀文明 田村真 星智也 澤魁士 野辺富三 蜷川みほ 今井あずさ 山崎ちか


| | コメント (0)

2009年4月21日 (火)


劇評「フユヒコ」

Fuyuhiko物理学者寺田寅彦、晩年の家庭生活を描いたもので「東京原子核クラブ」に続いて97年に書かれた戯曲である。「東京・・・」は、理化学研究所を舞台にした群像劇、いわゆるグランドホテル形式の芝居であったが、寺田も理研に関係していたからその時想を得たものと思われる。この戯曲は「赤シャツ」(=漱石)「MOTHER」(=与謝野晶子)と合わせてマキノノゾミ三部作といっている。あとの二つは見ていない。「東京・・・」は、後半の特に戦後の場面がうまく書き込まれていなくて、へなへなと腰が折れてしまった感があった。(劇評参照
それに比べると、この芝居は家庭という狭いところにフォーカスした分うまくまとまっていて、複数の戯曲賞をとったことは諾える。何よりもユーモアの質が知的で上質、構成がしっかりまとまっていて、非常によくできた芝居である。反面、学者としてあるいは文章家としての寅彦については独白、暗転時のナレーションとしてあっさりと描かれるだけである。後妻と子供たちの間で右往左往する父親像がやや喜劇的に描かれるが、これを評伝劇としてみるならば、寺田寅彦の何であるかはさっぱり浮かんでこない。後妻が「悪妻であった」という噂を確かめるという作家の意図は分かるが、この三人目の妻の像が必ずしも鮮明に描かれいないところには不満が残る。
もっとも、タイトルが「フユヒコ」であるところをみると、必ずしも評伝劇を目ざしたものではないといっているようだ。 寺田寅彦は吉村冬彦のペンネームを持っている。「冬彦」をさらにカタカナにしたのは、史実をフィクションの方に寄せようとした意思のあらわれであろう。寺田家のわずか一週間あまりの出来事を切り取ったのは、おそらく寺田の人物像よりも「家族」というものを見せようとしたのである。それが作家にとっても、時代にとっても気になるからに違いない。

寺田家の居間。座卓に座布団、正面のガラスの嵌まった障子がいかにも昭和初期である。ガラス越しに二階に通ずる階段が見えている。下手に一間のふすまがあって、その向こうは妻寺田りん(津田真澄)の部屋。上手はいちだん下がった応接間でティテーブルにピアノとチェロがおいてある。ピアノの上に大きな招き猫が鎮座しているところがおかしい。
この招き猫は、妻のりんがいらだった時に決まって五十銭銅貨を何枚か投じるといういわば欲求不満のはけ口である。夫の理学博士寺田冬彦氏(山野史人)は困惑し追いつめられるとこれを懐に抱いて頭をなでると安心を得るというなんとも便利な置物である。
りんは、博士の三人目の妻で子供たちと血のつながりはない。子供は長男康一(太田佳伸)を筆頭に、 次男秀一(五十嵐明 )次女早月(椿真由美)三女秋子(加茂美穂子)。

小さな旅行かばんを持った夫妻が家に戻ってくる。妻のりんはかなり怒っている様子で、居間の戸を開けると憤然として自分の部屋に駆け込むなり、ぴしゃりとふすまを閉めてしまう。
伊香保温泉に出かけるつもりで家をでる時、冬彦は玄関先で電報を受け取った。札幌の康一からで「折り入って話があるので、年越しには早いが明日帰る」というのであった。電報までよこしたところを見るとよほど大事なことに違いない。しかし、自分はその明日には温泉である。電報の件は言い出しにくくて、ともかく上野にむかった。ところが、それが気になって行くべきか止めるべきか迷いながら半日上野の街をうろうろした揚げ句、最後の汽車を見送ると、すごすごと家に戻ってきたのであった。
久しぶりに夫婦水入らずで温泉旅行のはずが、夫の優柔不断のために台無しになってしまった。妻の怒りももっとものことである。りんはこの怒りを隠そうともしない。わがままと非難されると「どうせこの家では私だけ他人なんだから」と辛辣である。
翌日、康一が帰ってくるというのに芝居見物と称して妻は朝から出かけている。よほどへそを曲げてしまったらしい。康一の折りいっての話というのは、この度、中谷宇吉郎(寺田の教え子)教授の推挙により、北海道帝国大学講師嘱託に決まったというのであった。それはめでたいことではあるが、何も旅行の予定を変更してまで聞かねばならない話でもなかった。しかし、後の祭りである。
温泉旅行で女姉妹だけになる間、次男の秀一が都内のアパートから留守居にやってきている。秀一はドイツ文学を専攻して今や翻訳家の卵である。家族が揃ったのでちょうど時期だし、ひとつ欧米で行われているクリスマスの祝いというものをやってみようということになるが、りんはそんなものはごめんだと帰ってこない。長男が帰省したというのに、母親は不在というのもなんだか妙なものである。りんの頑なな性格が現れている。
りんはまた江戸っ子らしいユーモアのセンスも見せる。冬彦がタバコの置き場所をしょっちゅう忘れるので、和服の袖にタバコとマッチを縫い込んでしまった。このおかしな格好は子供たちにすこぶる不評であったが、家の中だけなら誰にもみられやしないといって平気であった。

翌日、康一の講師就任の祝いが、理研の総帥大河内正親(佐藤祐四)を招いて行われる。この人は爵位のある殿様だが神経こまやかで、後妻のりんと寺田家の子供たちの仲がうまくいくように常々気配りを見せているのであった。いける口のりんと互いに酒を酌み交わすという粋なところもあったりする。
康一は大河内政親に、自分は父親と同じ物理を専攻したが、これでいいのかという疑問を感じているという。今や物理といえば相対性原理や量子論という時代に、自分のやっていることは身近な自然現象を物理的に解き明かすという地道なことばかりで、華々しい理論物理の発展ぶりを見ていると、焦りを感じるというのである。大河内は、研究対象の重要性に差があるはずはない、ただ時代のはやり廃りがあることは認めざるを得ない。研究者がそれに左右されてはいけないのではないかと、康一を諭す。大河内は、話の中にさりげなくりんが作ったはぜの佃煮のうまさをさし挟んで、康一と母親との仲を取り持とうと気を使う。二人は折り合いが悪いと思われているのだ。
宴もたけなわになって康一がバイオリン、 秀一がピアノ、冬彦がチェロと三人で合奏を披露しようという時、玄関に人の気配がする。冬彦がけげんな顔で戻ってくるといきなりまねき猫を抱いて頭をなで始める。何か心配事があるらしい。
客を帰したあと、冬彦のいうには、訪ねてきたのは「帝都日日新聞」の記者で、最近三女の秋子をめぐって二人の学生が喫茶店で取っ組み合いの喧嘩をするという事件があった由、この記事が明日の朝刊に載るが、今なら間に合うというのだ。つまり金でもみ消してもいいといっているのだが、冬彦はこれを即刻断った。断ったことが果たして正しかったかどうか、娘の将来を考えると暗澹たる気持ちになっていた。
どうも文化学院に入ったばかりの秋子の周辺で何かが起きているらしい。。文化学院は、西村伊作(大逆事件で連座したいわゆる紀州新宮グループの大石誠之助の甥)が与謝野鉄幹・晶子夫妻らと作った学校で、リベラルを標榜し当時としては珍しい男女共学であった。主旨に賛同した寺田も設立に協力している。専修学校(文部省令による規制をさけるためあえて大学にしなかった)だったが、佐藤春夫文学部長始め、教授陣もそうそうたる顔ぶれで、学生もどこにも受け入れてもらえないような個性的な若者が集まって、独特の校風があった。

翌日朝から、康一と秀二は手分けして近所の販売所から新聞を根こそぎ買い集めてまわった。秋子の目に触れないようにとの配慮である。新聞の束の置き場所に困っていた兄弟に、りんが自分の部屋に隠すように手招きする。りんにはりんなりの家族への気遣いはあるのだ。
その日、沢木が事情を説明したいと冬彦を訪ねてくるが、断固として交際は許さないと追い返し、秋子にも今後沢木に会ってはならないと厳命する。秋子は沢木に好意はあっても結婚したいという気は無い。父親の頭ごなしの言い方に言葉を失い、母の招き猫を抱えると玄関のたたきに打ちつけて割ってしまう。この時入っていた銅貨が意外に少ないことに皆頭をかしげている。秋子はそのまま家を飛びだした。
りんは「そのうち帰ってくるさ」と平気である。次女の早月は電話をかけまくって行方を追っている。暮れの寒空から雪が落ちてきた。いたずらに時が過ぎていく。
すると、夜中に突然沢木が飛び込んでくる。秋子の行き先がわかったというのだ。沢木は雪にまみれ凍傷にかかりかけていた。秋子が友人から金を借りて、軽井沢にむかったことまで突き止めたというのである。沢木はそのまま倒れ込んでしまう。
次の日秋子から「これから帰ります」という電話が入る。夕方には家に帰りつくだろうと皆安堵した。外出から帰った早月が包みを広げると中から招き猫が現れる。そこへちょうど秋子が帰ってきた。やはり大きな包みを持っている。招き猫であった。二人は顔を見合わせる。
秋子が持ってでた旅行かばんはりんのものだったが、中に「冬彦様」と書かれた箱があったという。二人で開けてみると、五十円もする舶来の銀時計であった。上野から戻ってきたあの日、旅行先で渡すはずのものだったに違いない。秋子が招き猫を割った時中のお金が意外に少なかったというのは、このせいだったのだ。二人は包みをかばんに戻してりんの部屋にそっと返しておいた。
康一が戻る。新聞を買い集めるのにお金を使ってしまったのでこれで勘弁と小さな包みを開けると出てきたのは招き猫。秀二が買ってきたのは福助人形でこれはご愛嬌。冬彦も招き猫をもって現れる。そしてとうとうりんが帰ってくると、本命が登場とばかりに巨大な招き猫が包みから取り出されピアノの上に置かれることに。「今度割ったら弁償してもらいます」。
冬彦は沢木が誠意のあるところを見せたことに感じ入って、秋子との交際を認めてもいいという気になっていた。 見舞いの電話で、編集者志望と聞いていたが就職先はあるのか?零細な出版社では家族を養っていくこともできないぞなどと心配している。岩波書店なら何とかなるから紹介状を書こうというところをみると一緒にしなければなるまいと思い始めているようだ。早月も結婚したら?とすすめるのだが、秋子はもう少しこのままでいたいと曖昧な態度である。
明けて昭和十年の正月、伊香保温泉行きをやり直そうと冬彦とりんは出かけようとしている。思い出したように、りんが「講師になったお祝いだ」といって時計の箱を康一に渡す。「冬彦様」の上に紙を貼って上から「康一へ」とかいてある。二人が出かけたあと「兄さんがもらうべきじゃない」と兄弟に言われるが、たしかに康一も複雑な気持ちである。
そこへ、不意に夫婦が戻ってくる。何があったのか、りんはかんかんに怒っている。後に続く冬彦はおろおろするばかりだ。開幕の時と同じようにりんは憤然と自分の部屋に飛び込むとふすまをぴしゃりと閉めた。
一同唖然として眺めているところへ、大河内先生が訪ねてきて今日はお土産があるなどといいながら包みを開ける。出てきたのはなんと招き猫。大河内先生、一同の視線の先を追うとそこには大小の招き猫がきちんと並んでいる。「これは失敬」と大河内先生が退散するところで幕、というわけである。

評伝劇としてはともかく、芝居としては非常によくできていて、面白かった。マキノノゾミの作品を全部見たわけではないが、秀逸といってよいのではないか。

りんの剛直な態度、多少自己主張が強くてわがままなところが悪妻たるゆえんであろうが、亭主の足を引っ張るわけでもないからこの程度ならご愛嬌というものだ。それよりも、なぜ寺田寅彦はこの妻と一緒になったのかそもそもの発端に興味を持った。しかも、この妻は三人目である。前の二人はどうしたのだろう?
そう思うと矢も立てもたまらなくなって、それを知りうる適当な本はないか探してみた。全集に当たるほど時間もない。うまい具合に2006年、岩波からでた山田一郎「寺田寅彦ー妻たちの歳月」があった。
劇評は一応締めくくって、この本でわかった寺田寅彦の妻たちについて書いておこうと思う。

最初の妻は夏子といった。明治三十年(1898)七月、親同士の話し合いで寅彦が満十九歳、熊本の第五高等学校在学中に結婚した。土佐の土地柄、早婚が習いであったらしい。とは言え花嫁は満十四歳、現在なら中学生である。祝言を挙げたが寅彦は熊本へ、夏子は高知の寺田家に残った。寅彦のたっての願いで、夏子は県立高等女学校に通うことになる。寅彦の方にも学業に差し支えがあっては困るという理由で、熊本から一度も帰郷することがなかった。あるいは熊本の気風を思えば、高等学校の生徒が幼妻と暮らすことがはばかられたのかもしれない。夏子は二年の間花婿不在のまま婚家で過ごしたことになる。ちなみに、女学校の受験勉強を見てやったのは寅彦がもっともかわいがったという甥(次姉の子)の別役亮(のちに東京帝大農学部卒業)であった。この人は劇作家別役実の祖父に当たる。また、もう一人の甥(長姉の子)である章の子に作家の安岡章太郎がいる。
やがて、寅彦が東京帝国大学理科大学に入学すると、はじめて二人きりで暮らすことになる。
夏子は「器量のよい方で、目の大きな、ぱっちりした黒い目で、背のすらっと高い人で、評判の美人でした。」(女学校時代の同級生の談)「夏子さんがいれば夜中に明かりはいらぬ。目が良う光るから。」(親類の子の談) などともいわれた。
山田一郎は、漱石の初期の短編小説「趣味の遺伝」の一節、「・・・滴るばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日陰で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。目の大きな頬の緊まった領(えり=首のこと)の長い女である。」をひいて、これが漱石の見た夏子の印象ではなかったかと推量している。
明治三十三年の暮れも押し詰まったある日、二人で出かけた縁日からもどると、突然夏子が大量の血を吐いた。結核であった。その時夏子はすでに妊娠していた。郷里の父利正は迅速に動いた。すぐに夏子を高知に戻して療養させる準備をはじめたのだ。
ー火鉢の上にて夏子と指相撲ー
まもなく別れ別れになるという二月の日記の中に現れる記述を発見して、寅彦の全集を編んでいた友人の小宮豊隆が涙ぐんだという。
高知に戻った夏子は、海岸の村々を転々としながら療養する。そして五月に長女貞子を生んだ。子供はすぐに母親から遠ざけられ、祖父母の手で育てられる。
六月の日記の中には、唯一ともいうべき夏子の心情が現れている。
「郷里より書留来る。また夏よりも手紙来る。乳の張るたび、この乳を飲ますようならば、いかに嬉しからんと思うなどといい越せり。」
寅彦はこの年の秋、帰郷している。感染を恐れた利正が夏子と会うのを禁じたが、内緒で会っていた。そのうち寅彦も体調を崩したので震撼としたが、診断はマラリアであった。この療養のために翌明治三十五年の夏まで寅彦は高知にとどまっている。
秋、十一月十六日の日記。寅彦はすでに復学して東京にいる。
「午前四時、夏危篤の報あり。次いで六時絶息の報あり。十二時新橋発急行。阪井両上送り来る。昨夜会より帰りて床に就かんとする頃、胸騒ぎひとしきりしたるが恰も夏の臨終の刻なりしと思合わされたり。この朝、第二の電報いまだ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり。」
ああ、夏がもうこの世にいない・・・・・胸騒ぎの中で寅彦はそう思ったに違いない。不思議なことだが、たとえ離れていても、愛するものの死はなぜかわかるものなのである。夏子、享年十九。一子を残したとは言え、美しくはかない人生であった。

それから三年後、明治三十八年、寅彦は寛子と再婚する。寛子は土佐高等女学校の第一期生で、この時数えの十九歳であった。兄昶二郎(山内家顧問弁護士)は寅彦と東大時代に親交があり、その妻万寿の兄上村直親(東大医学部卒)とも親しかった。さらに、夏子の親もそうだったが、親同士は戊辰戦争の戦友であった。そういう縁で、二人は見合いのようなことをして結婚することになった。
山田一郎はこれ以上ない簡潔な言い方で、寛子の人となりをまとめている。
「その生涯を見ると寛子は良妻賢母の典型といえた。学者としての夫は、理学博士、東大教授、外国留学、学士院恩賜賞受賞というように物理学界の最高峰に登った。一方で漱石門下の文人として「薮柑子集」で文壇の注目を引いた。妻としての寛子もその栄光の中にいたが、この女性はあくまで寅彦の影の人であった。そして優秀な二男二女を残して、一夜のうちに肺を侵されて急死した。三十一歳であった。」
明治四十年、長男が誕生。東京で初めて生まれたという意味で 東一と名付けられた。次いで明治四十二年、二男正二が生まれる。一年と数ヶ月の欧米留学のあと、明治四十五年に次女弥生が誕生。大正四年には三女雪子が生まれている。その兄弟がこの芝居の康一、秀二、早月、秋子に対応している。
大正二年には父利正が亡くなり、母親の亀子と長女貞子を東京に引き取って同居を始めた。
大正六年の夏ごろから寛子は体調を崩して、寝たり起きたりの生活になっている。下痢がひどく微熱も続いた。しかもこのとき五人目を懐妊していたのである。病状は一進一退を続けたが、結核菌はすでにリンパ腺にはいって全身にまわっていた。十月十八日の日記に「一夜の中に右肺全部を侵されしとのこと」とある。「酸素吸入、カンフル三回。呼吸切迫、一時永眠。」と続く。振り返ってみれば、わずか十二年の結婚生活であった。
このとき、東一と正二はまだ小学生、弥生は幼稚園、雪子は二歳であった。
その状態を誰もが心配した。
再婚話は翌大正七年の年初から始まっている。 寅彦としてはまだ早いという気もあったが、子育てについてはまるで野放しの状態だったので、 来てくれるものがあればともかく検討しようという気であった。相手を選んでいる場合ではない。 六月になって、話が具体的になってきた。寅彦は慎重に親戚中の意見を聴いてまわっている。
そうしてこの年の八月、酒井志んと三度目の結婚をすることになった。酒井家は江戸時代には浅草蔵前で札差をしていた富商で、当時志んの父親は日本橋で数軒の家作を持って豊かに暮らしていたという。志んは、戸籍上の名、紳を嫌って自分では志んまたはしんと書いた。年齢は三十三歳、寛子より一歳年長になる。
志んは「額の広い、落ち着いた賢そうな女だった」と寅彦の友人がいっている。できたばかりの府立第一高女に入った(推定)が、東大医学部を卒業し、故郷岐阜に戻って開業するという医者に乞われて東京を出た。二男をもうけたが、夫が若死にをしたために実家に戻っていたのである。寺田との再婚にあたって、この先岐阜に残してきた二人の男子と会わない約束をさせられたという。
二人の前妻が土佐の人脈の中にあったのに対して、志んは正真正銘の江戸っ子である。互いに微妙なところで生活感の違いを感じても不思議ではない取り合わせであった。しかも、寅彦はすでに四十歳に近く、二人は互いの趣味も考え方も確認するまもなく一緒になったのである。寅彦は土佐の軍人の家の出であるが、志んは東京の商家に生まれ育った。志んが歌舞伎や新派、旅行が大好きで、一方寅彦は多趣味ではあったが妻と共通するところはほとんどなかった。寅彦は気付いていないが、さまざまな齟齬が積み重なって志んは何度も黙って実家に戻っていたことがあったという。また、寅彦も名指しで書いてはいないが、志んに対する不満と思える言葉をなんどか日記に書きつけている。
ただ、いつの間にか寅彦も劇場に同行するようになり、志んが演劇雑誌に投稿した劇評に目を通すなどするようになっていったのは、志んに対する理解が進んだせいであろう。
また、一緒になってまもない頃の寅彦のメモに、志んの鋭い批評眼について書かれている。
「志ん、いわく『あなたは馬鹿にハイカラで西洋かぶれがしていると、また馬鹿に日本流の昔気質なところがありますね』またいわく『つまり勝手な人ですね。自分の都合のいい方に・・・・・・』。実際そうかもしれない。朝飯を食いながら、西洋の野菜の話をしていたのがこんな話になったのであった。」
また、寅彦が志んについて言ったことを志んがメモとして残している。
「志ん子について、寅彦の言ったこと。非常に頭が早いね。動作はスロモーだけれど。だれに似たんだろう。酒井のおじいさん(志んの父親清兵衛)が頭がいいから似たんだろう。学者のような素質がある。何しても大きいかからいいよ。何でもあまり小さくてはね。映画俳優のようなところがある、とちょっと舌を出した。」
少しづつでも共通の何かを探し、尊敬できる部分を見つけていこうとすることが賢明な生き方だと思っているようだ。互いに不満はあっても、、この芝居の昭和九年、明けて昭和十年という年まで二十年近くを一緒に過ごしたことを思えば、これもまたひとつの夫婦のあり方かもしれないという思いがする。

志んが寺田の家に入った時、三女雪子はまだ幼児であった。志んはこの子をとりわけかわいがったようである。芝居の後半は、この雪子の話である。沢木とは僕らが、辛口の評論家として知っている青地晨(本名青木滋)のことである。
青木滋は、旧制佐賀高等学校でストライキをやって放校処分にあい、上京して日大芸術科に潜り込んだが前歴がバレてここも除籍される。仕方なく、西村伊作に頼んで文化学院に入れてもらったものだが、ここで雪子と出会っている。次男正二によると雪子もまた軽度のアンファンテリブルであった。
劇中の喫茶店の騒動はフィクションで、青地によると実際は、雪子と二人で銀座の竹葉の隣にあった喫茶店で話をしているところを写真に撮られたらしい。にわかに騒々しくなったので気付いた。横恋慕した友人が新聞社にスキャンダル話としてを売り込んだのだ。その写真で寅彦がゆすられたことはほんとうのことである。
青地晨はインタビューの中で「寺田寅彦の娘と駆け落ちする」という話をしている。
「同級生の中に寺田寅彦の娘がいた。吉村冬彦というペンネームですから、三文文士の娘かなと思っていた。これと恋愛おっぱじめましてね。(笑)。親父は東大理学部の教授で、なかなかお偉方だと分かってきた。これはいかん、正式に申し込まねばダメになると思い、私の親類の工学博士に頼んで話してもらったが、全然ダメなんです。・・・・・・それでそれから三年ぐらい経ってから、「しょうがない、駆け落ちしよう」ということになって彼女が家に逃げてきた。僕はあの頃妙な道徳観があってね。一緒の家に寝るのはいかんと思い(笑)となりに親父の友達の陸軍中将がいて、僕はその監督下にあったので、その家に泊めてもらった。そのうちにもうきずものだからと(笑)親父さんが折れちゃった。・・・・・・ しかし、この女房はそれから四年しか生きなかった。脊椎カリエスで、長女を残して死んじゃった。」
読んでいてあまり愉快でないものを感じるが、青地晨という男の「含羞の裏返しの露悪趣味」だと山田一郎が擁護している。
ともかくこの騒ぎに志んと弥生が奔走して二人の結婚までこぎ着けたのであった。しかしその雪子は、終戦を待たずになくなっていた。

芝居は、昭和九年の暮れから十年の元旦までのわずか一週間の出来事を描いたものだ。もちろん「フユヒコ」一家の物語で、寺田寅彦は劇中に存在しない。しかし、りんの「悪妻ぶり」を見ているとなぜこの男はりんのような強情で激しい性格の女と結婚する羽目になったのか知りたいと思うようになった。秋子の恋愛事件の顛末もどうなったのか気になる。この物語には、フィクションとして完成していながらそういう広範な背景に誘うようなさまざまな疑問符が仕掛けられているような気がした。そういう意味でも面白く書けた戯曲だといえる。
随筆家としての寅彦を物語に取り込むことは比較的容易だったと思うが、一方物理学者としての側面も、やはり気になるところであった。いうまでもなく寺田寅彦の仕事にはさまざまな功績がある。中でも戦前において日本初のノーベル賞受賞者にもっとも近かった「エックス線回折のラウエ斑点」の研究論文があることはあまり知られていないように思う。
あまり深入りすると大河ドラマでも間に合わないくらいのシーンが次々に浮かんで来そうだからやめるが、とりあえず、りんという後妻の姿にくわえて、二人の前妻の面影をおいてみた時、この物語はよりいっそう奥行きが増して見えるような気がした。

マキノノゾミ自身による演出は、さすがに笑いの壺を心得ていて軽妙で味わい深かかった。山野史人のフユヒコは、少し固いように感じられた。津田真澄のしんの存在感が今一つだったのはおそらく本のせいだろう。マキノノゾミの迷いが若干本に出ている。早月の椿真由美も本のせいで損をした。もちろんアンサンブルもよくできていて高い水準でのことではあるが。

題名: フユヒコ
観劇日: 2008/11/07
劇場: 紀伊國屋ホール
主催: 青年座
期間: 2008年11月4日〜11月9日
作: マキノノゾミ
演出: マキノノゾミ
美術: 川口夏江
照明: 中川隆一
衣装: 三大寺志保美
音楽・音響: 高橋巌
出演者: 山野史人 津田真澄 太田佳伸 椿真由美 五十嵐明 加茂美穂子 佐藤祐四 木下政治


| | コメント (0)

2009年3月14日 (土)

劇評『山の巨人たち』

Yamano舞台の奥から手前にかけて太鼓橋のような広いアーチがむかってくる。その道は、かなりきつい傾斜でおりてくると、途中ですっぱりと切れ落ちている。その下は暗くて見えないがどうやら奈落である。役者が躓いて転んだりしたら穴の底に落ちてしまいそうだ。アーチの頂上あたり、道を挟んで同じような石造りの建物があり、小さな入り口が開いている。
そこは「ラ・スカローニャ」(不運)と呼ばれるところである。人里からだいぶ山の中に入った渓谷にある屋敷で、魔術師のコトローネ(平幹二朗)が、「ラ・スカローニャ」の住人たちと共に住んでいる。その連中は、コトローネをリーダーとする妖術使いあるいは妖精らしきものの一団で、不運という名が示す通りどこか奇妙な身体的特徴を持っている。
そこへ伯爵夫人イルゼ(麻美れい)が率いる劇団の一行がこの人里離れた屋敷を目ざしてやって来る。かつて人気の劇団も今や零落して、つてをたどってこのような山深いところに公演場所を求めなければならなくなったのだ。
コトローネは慇懃無礼に歓迎の意を表すが、その仲間たちは、落ちぶれた劇団の一行に冷ややかな態度である。どこか下界の人間をばかにしたようなところが見える。要するに、ここはもともと妖精の住む世界だが、「不運」を背負った人間が「不運」という名の異界につい迷い込んだということらしい。 コトローネが一行に宿と食べ物を提供することにして、ひとまず事態は落ち着くが、この分ではいったい劇はいつになったら上演されるのか見当もつかない。

イルゼは「伯爵」夫人ということだけあって、当の伯爵がどこかにいるはずである。と思ったら劇団の中の若い男がその伯爵本人(手塚とおる)であった。もともと劇団は伯爵が作ったもので、イルゼはその看板女優であった。よくあることで、立場が逆転して女優が君臨した。お里が知れていることから、劇団の他のものからは内心嫌われていたが、なにしろ客を集めるのは彼女だった。しかし、それも移り行く世のならい過ぎていく年月には逆らうことができない。ちかごろでは、言動にやや怪しげなところが見えていた。長く頂点に居座っているとわがままが高じて精神に問題が生じる類いのことだろう。その反面、伯爵は礼儀正しく理性的でさすがに由緒ある家柄の出であることを思わせる。伯爵に思いを寄せるものや、イルゼにすげなくされて逆恨みするものなど、劇団という生な人間の集団にありがちな関係がここにもある。

彼らとコトローネのおしゃべりは、出し物のことや人生観に至るまで広範囲におよび実に闊達であるが、どこか浮世離れをしていてどうも具体的に何を語っているのかいっこうに実感がない。ところが、コトローネのはなしにはさりげなく人生の機微に触れる言葉が折り込まれていて、それがなにとは言えないが、平幹二朗が流麗におだやかな口調でせりふ「吟じる」ものだから詩の一編を聞かされているような気がして、何となく「あれか、あるいはこのこと」をいっているのかと納得してしまうのである。もどかしさは、翻訳劇の限界だと思ってあきらめるしかないか。

とりとめもない(ただし、脇役たち個性的な連中の小さいエピソードは積み重なっていく。)話の中に伯爵夫人イルゼの異様とも言える物語が挿入される。
ある時、伯爵の知り合いでイルゼに恋い焦がれる若い詩人の男が、彼女のために書いたという未完の物語(「取り替えられた息子の物語」)を持ってきた。一旦女優をやめていたイルゼに再び舞台に立って欲しいというのが詩人の願いであった、しかし、イルゼは詩人の本心は他にあると気付いていた。「私を慕うあまり」自分のものにしたいというというのがありありとわかった。
しかし、イルゼは詩人本人よりも物語の美しさに魅せられて、その作品のためだけに再び舞台に立つことを承諾し、ぜひ完成させるように促したのだが、それがあだになった。
詩人は、張り切って作品を書き上げたが、イルゼはいっこうに自分の心を受け入れてくれない。次第にやつれて屍同然になった揚げ句自殺してしまったというのである。
こうした、イルゼが得意とする出し物をはじめ豊富な演目をいつどこで上演するのか?劇場はあるのか?などという問いはコトローネの巧みな話術にかわされて、物語は次第に夢か現実か境目が怪しいことになってくる。
劇団の連中ががとまどいながら劇の上演を実現するというただ一つの目的のために翻弄されていくと同時に観客もまたコトローネとその仲間がつくりだす奇妙な世界に巻き込まれていく。
イルゼに恋をした詩人の痛ましい話を心に留めていたコトローネは、「山の巨人」の結婚式に集まる家族たちのために「取り替えられた息子の物語」を上演しようと提案、劇団のものたちはようやくこの山奥までやってきた目的が果たせると喜んだ。ところが、コトローネの言うことには、「山の巨人たち」は文字通り「巨人」であるばかりか、気まぐれで人間に対して何をしでかすか分からないとんでもない乱暴者で、ひょっとしたらとって食われるかもしれないというのである。にわかに不安に駆られるが、もはや逃げ出すわけにはいかない。
そしてその日はやって来る。遠くからいかづちのような音が聞こえ、それが次第に地響きを伴って近づいて来る。コトローネさえも天を見上げながら 何かを恐れているように見える。一同も不安と恐怖の入り交じった表情で大音響がこだまする方向を見据えている。

ここでストップモーションとなり半明かりの中、字幕が浮かび出る。
この劇は、ルイジ・ピランデルロの未完の遺作であり、書かれたのここまでであった。続きを死の前々日に長男のステファーノ・ピランデルロが父から聞いたという。その第三幕の内容の要約がしばらく字幕で示されて終幕となる。
それによると「山の巨人たち」の前で劇は上演されることになり、コトローネ始め一同は荷車を引いて山の上にある彼らの家の庭にやって来る。「巨人たち」は実際に舞台に登場することはなく、すべて「気配」でその存在が描かれる。そして「取り替えられた息子の物語」は上演される。ところが、なぜかイルゼの芝居が巨人たちの不興を買い、イルゼがこれに対抗すると巨人たちが暴れ始め役者たちも巻き込まれて皆なぎ倒されてしまう。気がつくとイルゼが死んでいた。荷車にイルゼの亡骸を乗せて一同が山を下りるところで終わる、ということのようだ。

この現実とも幻想ともつかない不思議な世界を作り出したのはフランスの俳優であり演出家であるジョルジュ・ラヴォーダンである。彼は、ピランデルロ、とりわけこの「山の巨人たち」を得意な演目としてかの地ですでに何度も上演しているということだ。おそらくそれを知っていた鵜山仁が招聘したものであろう。美術のジャン・ピエール・ヴェルジュは、作者が舞台の重要な要素として「糸杉の老木」をあげているのを省略し、本ではわずかに欄干しか見えていない橋をあえて巨大にデフォルメして舞台奥から手間に渡した。彼岸から此岸へあるいは幻想から現実へ、過去から未来へ(しかも手前ですっぱりと切れ落ちている野は象徴的)いづれともとれる大胆でうまい表現であった。両側に作った建物の石の質感は、おそらくフランス人ならではのものであろう。
照明は演出家自身が、また衣装もブリジット・トリブイヨワが担当したところを見ると、フランスの舞台をそのまま移してきたものと思われる。

それにしてもなぜ今、この様な芝居を見せる気になったのか不可思議な気がした。
ピランデルロはノーベル賞作家であるとはいえ、七十年以上前になくなっている。日本でいえば漱石と同世代である。もちろんそれだからといって古典的で古くさいという気はしない。むしろコトローネの詩的で哲学的な言辞には、幻想的な前衛劇の雰囲気さえ感じられる。しかし、どうにも僕らの感覚とは異質のものがあって、いったいこの作品とどう向き合えばいいのか戸惑いを感じることも事実である。
あれだけ欧米の翻訳劇を取り上げた築地の連中もこの作家については存外冷たい。千田是也は「現代世界演劇2」(白水社)の巻末で次のように書いている。
「ピランデルロの芝居は、当時の検閲ではタブーであった、近親相姦がからんでいるというのでずたずたにカットされた揚げ句、《非公開》と言うことでやっと上演を許された「作家を探す六人の登場人物」(彼の代表作:中村註)の息子の役と、「各人各説」のディエゴの役を築地にいた時やっただけだ。築地があの頃めったやたらにやりまくっていた外国の《前衛劇》の中では、ピランデルロが今の《前衛劇》に一番近いのだろうが、彼の作品がほんとうの意味で今日に通じるものなのかどうか、私には疑問である。グラムシなども、彼をただ《地方方言うまくこなした劇作家》としか認めていない。《神話》とか《夢》とか《ファンタジー》とか《超現実的世界》とかいうものについての考え方が、根本的にちがうせいであろう。」もっともこの作家について立ち入って勉強したこともないからこうのべるのも口幅ったいがというのである。
ノーベル賞作家といっても新し物好きの築地がこの程度だったのだから、「感覚」の違いは当時からはっきりしていたのであろう。
「・・・にもかかわらず、この作品は「未完の傑作」と称されている。ピランデルロ自身も「現代の凶暴な世界における詩の悲劇でありと同時に、詩の、ファンタジーの勝利なのだ」と記す(マルタ・アバへの書簡)
『寓話と現実の境』で展開される1936年作の『山の巨人たち』は、まさに超現実的な境を描いた、ピランデルロの『詩と現実』そのものだ。」(パンフレットの紹介文より)
そういわれても、1971年当時千田是也が書いた感覚の違いが解消されているわけではない。
ただ、コトローネのせりふを聞きながら「あれか?あるいはこのことか?」などと考えていたと書いたが、そういう意味ではピランデルロが何を伝えたかったかということに思い当たる節がないわけではない。
僕が感じたのは、コトローネが、妖術使いあるいは妖精であると言うことにおいて、これはアイルランドで『妖精』といっているものに近いのではないかということだった。アイルランド人はカソリックの国にもかかわらず『妖精』が住んでいると信じている。それはローマ帝国によってキリスト教が伝えられる以前の古い素朴な宗教的存在の名残ではないかと考えられているが、コトローネと『不運』の住民もまた、人間とつきあい、からかいいたずらもするという点でこの妖精とよく似ている。コトローネの中には、キリスト教以前の欧州辺境の古層が見え隠れしていると思ったのである。
また、コトローネの自然観は現代のエコロジーとよく似ていて、創造主によって作られた自然という西欧の伝統的な考え方に対立しているように感じられた。日本の八百万の神といえば、時代を遡行してしまいそうだが、西欧においては、なるほどこれこそ近代精神ではないかと感心した。しかし、考えてみればピランデルロとシュペングラーは同時代人なのである。冬の時代を迎えつつあった「西洋」にたいして、コトローネのせりふはほんとうに大切なものとは何かということを伝えて、時代への警句としての役割を果たしていたのではないかとも感じた。
もちろん、状況が変わったわけではないことに留意しなければならない。現実の方は「凶暴な世界における詩の悲劇」は「詩の、ファンタジーの勝利」になっていない。もはや誰も詩を謳わなくなった。詩を詠もうとすれば『そんなことをやっている場合ではない。ぐずぐずしていると国際競争に勝てないぞ!」という警告がやってくる。それが僕らの時代なのである。

こうして僕は、ピランデルロとは何者なのかということに興味を持った。少し調べてみると、上のことになるほどと思った。
ピランデルロは、シチリア島で生まれ育っている。シチリアは周知の通りイタリア半島の南端にある大きな島である。地中海に飛びだした火山島で、峻険な山が連なっている。ピランデルロの父親は、火山から噴きだした硫黄を扱う事業を営んでいて、家は裕福であった。パルレモの高等学校からローマ大学に進学したが、担当の教授と喧嘩してドイツのボン大学に留学し、そこで哲学の学位を取った。帰国後ローマの女子高等学校で文学教授を勤めていたが、劇作を始めたのは四十八歳という遅咲きであった。
シチリヤといえば思い出すのはビスコンティの映画『山猫』である。冒頭、旗印を掲げ鉄砲を持った若者の一団が通りにあふれどこかへ移動していく緊迫した様子を二階の窓から見下ろすシーンが映し出される。若者たちは、祖国統一と貴族支配からの開放を主張して立ち上がったガリバルディの赤シャツ隊である。 何代にもわたってシチリアを統治してきたサリーナ公爵家にも、終焉の日が近づいていることを告げていた。1860年五月といえば、日本では万延元年のことである。奇しくもイタリアもまた我が国と同じ時期に近代化の波にさらされていたことになる。
この映画では、サリーナ家の人々が夏を過ごすために、山あいの村の別荘に出かける途中の風景が存分に描かれる。それを見て僕は、地図で見れば隣り合っているシチリアとイタリアだが、シチリアは独特の地形を持っていて海岸線から島の中心には容易に近づけない一個の巨大な要塞を思わせるものがあると思った。案の定ここは独立精神旺盛で、イタリアとは付かず離れずの関係を保ってきた歴史を持っている。
僕はローマ帝国の版図ということを思い描いた。アイルランドにはシーザーはやってこなかったと同じようにローマは足下にあるにもかかわらずこの島を無視して対岸を目ざしたのではなかったか?そのために、キリスト教以前の文化的古層が埋もれずに残った?もちろん、僕にはそんなことをいう根拠も資格もないのだが、『妖精』あるいは『妖術使い』ということからアイルランドを思い出したのだ。
ピランデルロは、そうした歴史と風景の中で育った。
さらに彼は、ドイツで文学と哲学を学んでいる。この時期の欧州は君臨してきたヘーゲルの影響力が小さくなって、ニーチェ、キルケゴール、マルクス、フッサールなど多様で新しい思想が取りざたされる時代である。端的に言えば汎神論的な議論が批判にさらされ新しい思想の土台が築かれようとしていたのである。
ピランデルロは、こうした欧州の思想情況に身を置いて若い日々を過ごした。
こういうことを考え合わせれば、コトローネこそピランデルロ本人だったことに気付かされるのである。

さて、平幹二朗のコトローネは穏やかにせりふを『吟じる』と書いたが、この芝居を見て『至芸』ということを考えた。歌舞伎も新派(古いなあ)も能や狂言、ありとあらゆる舞台の世界でそういわれる演者はいるだろう。しかし、歴史の浅いいわゆる「新劇」の世界で、せりふに意味を込めて観客に手渡すという点で、一つの完成形を見せてくれたのではないかと思った。滝沢修や杉村春子がいるではないかという向きもあるかと思うが、しかし、しぐさではともかくせりふ回しの妙では勝っていると思った。
他の役者は、フランス人の演出家の意図と必ずしも噛みあっていなくて存在感がいまひとつ希薄であった。こういう芝居は、あまり深刻に考えずに、あっけらかんと思いっきりやったほうがよかったのにと思わないでもない。

千田是也がいうように、感覚の違いはどうにも埋めようがなさそうだが、ピランデルロが『妖精』を中心に据えてファンタジーを現出させようとした精神は、とりわけわれわれ日本人にとっては『わが意を得たり』とでもいえばいいのか、好ましいものだと思った。僕らは、あらゆるものに神性は宿るということをごく自然に理解している。それは、幸いなことに歴史上一度も帝国によって支配されたことがないという奇跡によってもたらされたものであり、そのことを噛みしめるべきだと思った。


 
 


| | コメント (0)

2009年2月18日 (水)

劇評「おーい幾多郎」

Oikitaroこの所、やぼ用があって吉祥寺に行くことが多い。前進座の本拠地ということがあるのかどうか、劇場が多い街だ。吉祥寺シアターの名前は聞いていたがどこにあるかは知らなかった。武蔵野市がやっているという割には地味なところにあって、たどり着くのに息が切れた。

芝居は西田幾多郎の評伝劇だが、書かれたいきさつが少し変わっている。
「金沢市民芸術村」(市営)が松田正隆を講師に招いて開いた第二回戯曲講座(2002年)に参加した池田むかうの作品である。池田は東京出身だが結婚して三十年来金沢に住んでいる。経歴は不明、家庭の主婦だということらしい。
戯曲講座なるものがどんな内容なのかは知らない。松田正隆が指導したのだろうが、戯曲としてよく書かれている。いくら松田の指導がよかったからといって、普通の主婦がここまで書けるとは思えないから、おそらく普通ではないのだろう。
初演は2004年、金沢市民の手によって上演された。その後、各地で巡回公演を行ってきたが、これとは別に文学座の有志らによっても公演が行われ、ついに東京の劇場に上ったというわけである。地方から中央へという逆の流れを作ったという意味では、「地方の時代」の先駆けで、マスコミとしてはもう少し騒いでやってもよさそうなものだ。なぜかといえば、池田むかうのような普通の主婦といって侮れない才能が地方には無数に埋もれているはずで、それが目覚めるきっかけになるかもしれないからである。何も劇作にむかうこともない。あらゆるところで活躍できる可能性があるのだから、こういう情報は刺激になるだろう。とりわけ百年有余も中央にむかったために、地方の男がダメになった時代だから(偏見との誹りがあるかもしれないが)ここは一つ地方の女にがんばってもらうしかない。

それはそれでいいのだがこの劇のポスターに「あなたは今、『家族』を必要としていますか」というキャッチフレーズは、何だかピントがずれている。この劇で語られているものがいうところの「家族」だとして、それが「今」必要だといいたいのなら、それは無い物ねだりというものだ。「家族」が崩壊している時代に「必要か」と問い掛けるのはナンセンスである。
いうまでもなく西田幾多郎は「善の研究」でよく知られた哲学者である。旧制高等学校の学生の必読書とされていたが、戦後になって外国の思想書に押されて読むものは少なくなった。まったく晦渋というわけではないが、扱っている概念も語も独特で普通の読者が読み続けるのは難儀である。「善の研究」が、自身の座禅趣味や学生仲間だった鈴木大拙のイメージもあって「禅」の研究と誤解され、どこか抹香臭さもつきまとう。
同時期に活躍した河上肇には、井上ひさしが書いた評伝劇があって、こちらはやっていることがマルクス経済学や労農運動だから公私にわたって世間の関心も高い。
それくらべて西田の方は、私生活はほとんど知られていないから、堅物の孤高の哲学者という印象が強いことは事実である。
そういう事情があるから西田の「生活者の部分に着目することで、もっと身近な存在として知ってほしかった」と池田むかうが戯曲の狙いを述べるのは理解できる。この戯曲がそのようなスタンスで書かれているために、日露戦争時代の家父長制の「家族」をノスタルジックに理想化したものとしか写らないのははなはだ残念であった。

物語は、西田が明治三十二年(1899年)夏、山口高等学校から第四高等学校教授として故郷の金沢へ転任したころからはじまり、明治四十二(1909年)学習院教授として東京に転出するまでの約十年間を描いたものである。

正面に居間があり、手前は庭で踏み石を通って廊下に上がる。廊下は上手に少し張り出しながら回り込んで書斎の縁側に続いている。奥は竹林やら潅木の茂みになっている。下手も深い植栽が植わっているが、小さな引き戸の向こうは玄関に通じている。やはらかい光が当たっていて、緑の濃い昔の典型的な民家の様相である。朝倉摂の装置は涼やかな風が吹きわたっているような懐かしさを覚えるものであった。

家族は、まず母親寅三(=とさ、本山可久子)が矍鑠としている。そして妻寿美(名越志保)に幼い子供、(幾多郎に子供は八人いたが、この劇では省略しているようだ。)他に、近所に出戻りの幾多郎の姉、正(富沢亜古)が住んでいる。また弟憑次郎(鍛冶直人)は軍人になってすでに独立している。さらに、この家には二人の書生、山口(岸槌隆至)と中尾(神野崇)が出入りしている。

西田家は金沢の近郊、宇の気十か村の大庄屋であったが、父得登の代で零落している。母親の寅三は烈婦ともいうべき気性で、子供を叱咤し長男幾多郎に高等教育を施した。それが二十九歳にして四高教授である。妻の寿美は寅三の姉妹の娘で、幾多郎とはいとこ同士に当たる。(昔はこういう結婚は珍しくなかった)この寿美を得登が一度離縁にしている。理由は分からない。次男憑次郎は、金のかからない士官学校に入れ、今や帝国陸軍の将校である。

姉の正は、実家に戻って暮らしたかったらしいが、これを母親の寅三が許さず近所に家を借りて独り住まいをしているものであった。時々現れては、書生にちょっかいを出すなど女っぽい一面もある明るい性格だが、身持ちが悪い(三度の結婚に失敗している)との評判が立ち一家の長としてはその行く末が気掛かりである。
弟の憑次郎は、父親から受け継いだ豪放磊落な性格で、日清戦争後の軍拡の時代を背景に軍人になった男である。たまに実家にやってきては性格の違う兄と口論になり、取っ組み合いの喧嘩をすることもある。
幾多郎と妻寿美との夫婦仲はきわめてよく、寿美もおおらかな性格で、参禅と学問に打ち込んでいる夫に代わって家事万端を取り仕切っている。ここでは描かれていないが、一度離縁し復縁したのは、寅三と夫の得登の仲が悪かったのが原因らしい。

劇はこれらの家族関係をスケッチしながら、後に自らが「金沢にいた十年間は私の心身共に壮な,人生の最もよき時であった」と書いた穏やかな日々を描く。とは言え西田幾多郎の生涯は、このような安穏なものではなかった。
この劇で最初に不幸の影がさすのは、弟憑次郎がたびたび家に現れ何か言いたげにしてはそのまま帰るという日々が続いていることからであった。あまり考え込むタイプでもないのに口が重い。言いかけては口ごもる。さすがに寿美も幾多郎も気付いていた。ある時我慢しきれないという風に憑次郎が告白する。実は他人の借金の保証人になったところ自分が負債を抱え込むことになって、もはやにっちもさっちも行かなくなったというのである。
幾多郎は一家の長として、寿美と一緒に親戚中を駆け回り金を工面してこれをようやく解決した。それから程なく憑次郎は出征することになる。露西亜との間で戦争が避けられなくなっていたのだ。子供ができて結婚せざるを得なくなったのだが、その子もようやく二歳、下にもう一人、二人の子を残して戦地に赴くことになるのである。(この場面で、軍服のズボンをはくところがある。いきなりファスナーをあげるというのはどういうものか?あの時代、まだズボンの前はボタンで留めている。衣装係は時代考証をしっかりやってもらいたい。)

この憑次郎が、出征してまもなく二百三高地で戦死する。母親の寅三は、軍人なら安心だと思って息子を軍隊に入れたのだが、今思うともっとも危険なところにやってしまったのだと嘆く。残された妻と二人の子供を西田家が引き取ることに。
やがて、憑次郎の従卒だったという岡田(林秀樹)が訊ねてきて、弟の最後の様子を語って帰る。戦場ではよく部下を思い、果敢に戦ったが敵の弾を受けた。立派な最後だったという言葉にいくぶんは慰められたようである。ただ、ここはあまり書き込まれていないために、岡田の人物像も訊ねてきた理由も判然としなくて、憑次郎の戦死についてはかえって蛇足のように思える。

この十年前に戦われた日清戦争は、明治政府が徴兵制を敷いてから初めての海外遠征で戦死者の扱いにはきわめてナーバスになっていた。およそ一万人の戦死者があったが、全国の遺族のもとにひとりひとり政府の使者が赴いて知らせている。今でも田舎の公園などで時々見かけるが「忠勲の碑」などと書いた立派な石碑の裏を見るとこの時に建立されたものと分かる。
日露戦争のときも、まだこういう倣いがあって、従卒であった岡田が上司の最後を語るために政府から派遣されたのではないかと思われる。この後大東亜戦争、それも末期に近づくにつれて戦死者の扱いはひどくなっていく。兵は消耗品ではあるが、徴兵制に反対されたのでは軍隊が成り立たない。政府はそれを恐れたのだ。近ごろ労働者は消耗品だといって、あまり大事にされない。明治新政府が恐れたような理由があれば労働者をぞんざいに扱う事をためらうはずなのだが、どうやらどんな理由はないらしい。現代の経営者は気楽に労働者を切り捨てる。とはいえ恐れるべき「理由」が隠れて見えないだけなのだが、それに気付いていない。池田むかうにそんなことに言及しろというのはできない相談だろうから、ここに書いておく。

姉の正が書生にちょっかいを出すのを母親がとがめるのは当たり前の話だが、幾多郎も不快に思っているようだった。姪の宇良(松山愛佳)が金沢の女学校に進学するというので同居することになる。若い娘がやってきて急に華やいだ雰囲気になるが、幾多郎はどこか緊張している。宇佳が書生と接触するのも嫌がった。西田幾多郎は、生涯そういうことには厳格であったらしい。
それは、父親得登が事業に失敗し続けただけでなく放蕩の限りを尽くしたことに原因があるという。一説によると寅三と結婚する前にすでに妾がいた。夫婦仲が悪かったのは得登の女遊びが過ぎたせいだろう。
この父親の血を姉の正や憑次郎の生き方に感じていた幾多郎が、自分にもその血が流れているに違いないと思っていた。それを律するために、必要以上に厳格に振る舞ったということらしい。それが西田幾多郎の硬質なイメージを作った。

やがて、明治四十二年(1909年)学習院教授として東京に赴任することになり、金沢を去ることになる。終幕、忙しく荷物をまとめている家族の姿がある。離れがたいという思いは残るが、どこか希望に満ちて明るい。西田幾多郎、この時三十九才。公私共にもっとも充実していた時代である。

始めにも書いたが、よくできた芝居だということはできる。しかし終わってみれば、いったいこの主人公が西田幾多郎である必要があったのだろうかという疑問が湧く。劇の中の西田は家長として、問題を抱えている家族の面倒をよく見ている。妻にとってはよき夫であり、よき父である。なんだかんだ言いながら家族は一つにまとまっている。なるほど明治時代の家父長制とはこういうものなのかと思えば、何かと自己主張の強い現代の核家族よりも牧歌的で生きやすいのではないかと思われる。池田むかうもそう思っているに違いない。
しかし、ここでは肝心の西田幾多郎の「仕事」がすっぽり抜け落ちている。四高教授は分かるが、いったいこの男は何を講じているのか。二人の書生は、何者で何を教わっているのか。主人公の「公」の部分が一向に見えてこないのである。
しかも観客は、西田幾多郎の哲学とはどういうものなのか?あるいはその形成に私的な生活の影を見いだすことはできるのだろうか?などという興味をもっている。それに対する答えは何も用意されていなかった。これでは「日露戦争当時の家庭生活、ある教授の場合」である。

この芝居が、金沢の地元の劇団のために書き下ろされたという事情から、地元の出身の西田幾多郎が金沢に住んだ時期だけを切り取って見せるというのはそれなりに納得できる。そこで、没落した元地主の大家族、その家長の責任と家族の信頼といった物語ができるのも自然の流れかもしれない。しかし、それだけではいくら地元にこだわるといってもあまりに了見が狭いではないか?
代表作「善の研究」出版まではまだ数年かかるが、その内容はすでにこの四高教授時代に考えられていたものであることは疑い得ない。この時期思索することが西田の日常であったが、その「日常」を描いていなかったのは重大な欠陥であったという他ない。残念であった。

僕はこの劇を観て、にわかに西田幾多郎に興味を持った。学生時代は一顧だにしなかった西田哲学とはどういうものか知りたくなった。とは言え老齢の身では「研究」するなどという大げさなことでは身が持たない。そこで文庫本の他二三冊の解説本を読んでみたのだが、これが実に刺激的で面白かった。

この金沢時代のエピソードに限っては全集にでも当たらないと出てきそうもないが、ただ、西田はこの頃思索に疲れるとよく金沢の海に出かけたという。海といっても市街からはかなり距離があるからバスか電車に乗ってわざわざいったものだろう。ひろい海と空を眺めながら考えていると、ずいぶんはかどったということである。
例えば池田むかうには、こうしたエピソードにかこつけて西田の哲学の一端を描く、というような技を見せて欲しかった。
これに限らず、観客が面白がるような西田の発想はいくつもあって、それらをちりばめたら、劇の奥行きがぐっと増したに違いないと思う。

僕がとりあえず読んだ本は新書版ばかりであったが、中でも面白かったのは永井均(千葉大教授)の「西田幾多郎《絶対無とは何か?》」であった。これはNHK出版が出している「シリーズ・哲学のエッセンス」という叢書の中の一冊である。この叢書は、東西の哲学者を取り上げてその思想を紹介するものだが、百ページほどの小冊子である。そんなもので何が分かるかといって侮れない。内容は哲学者の伝記的な事にはほとんど触れず、書き手自身が哲学者の思想とむきあって、読み手と一緒に考えながらその哲学の核心に迫っていこうというきわめてユニークな仕掛けになっている。他のも何冊か手に取っているが同じ編集方針で、NHK出版の企画者には面白い人がいると思う。
さて、その本では最初に「善の研究」第一編「純粋経験」のことをとりあげている。しかし、そんな説明もなしに、いきなりこのように始まるのである。

1.長いトンネルを抜けるとー主客未分の経験
無私の視点
 よく知られているように、川端康成の「雪国」は、
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」
 という文章で始まっている。サイデンステッカーによる英訳では、この箇所は
The train came out of the long tunnel into the snow country.
 
と訳されている。これをそのまま訳せば「列車は長いトンネルを抜けて雪国へ入った」とでもなるだろう。英訳では主語が明示されている。一方「 国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」という文には主語がない。いったい何が、あるいは誰が、長いトンネルを抜けたのか、肝心のそのことが描かれていない。だから、この文章はそのまま英語に訳すことはできないようだ。しかし、われわれは−−つまりふだん日本語を使っているわれわれは−−川端のこの文を難なく理解するだろう。この文を読んで、こう質問する生徒がいたら、先生は驚くだろう。「長いトンネルを抜けるって、いったい何が、あるいは誰が、抜けるんですか?」
でも、いったい何が、あるいは誰が、抜けるのかーー列車?確かに事実はそうだが、そう表現してしまったのでは、この文が言わんとしているポイントは失われてしまうだろう。

この後、小説の主人公「島村」が経験したことと考え、主語をあえて島村にしてみるが、それも川端の言わんとしていることとは違うという議論を進め、「誰が?」とも「何が?」ともいえない世界があることを西田幾多郎のいう主体と客体が分離する以前の「純粋経験」だと説明する。

これで僕は英語の文は主語がなければ完成しないが、日本語は主語がなくてもかまわない。なぜこういうことが起きるのか?という新たな命題を突きつけられた気がしたが、永井=西田のいっていることはそれとは少し違う。文章のことをいっているのではないのだから。
これなどは、比較的分かりやすい概念で(とも言えないか?)劇の中にとり入れてもよさそうなことである。また、
3.西田幾多郎vsデカルト
の項も、「純粋経験」を考えの根底に据える西田と、デカルトの「我思うゆえに我在り」を比較しながら、永井自身があれこれ考えつつ西田哲学の概要を浮き彫りにしてみせるのも興味深い。
たまたま見つけたブログで知ったのだが、このデカルトとの比較について、どんな議論をしているのか群馬県立女子大学の植村恒一郎教授の書評が分かりやすいので紹介しておこう。

「永井均氏の新著が出た。非常に面白かったので、論点をいくつか抜き出してみたい。まず第1、2章では、西田の「純粋経験」に、デカルトの「cogito ergo sum」と、ウィトゲンシュタインの「感覚日記」との両面から光が当てられる。デカルトのcogito ergo sumは、当時から直観なのか論証なのかが問題になり、デカルトは論証ではないと言ったが、実際には直観と論証の両面を持っている(p41)。重要なことは、「われ思う」の「われ」という一人称が、一人称である必然性はなく、『省察』第二答弁では「彼思う」に、『哲学原理』では「われわれ思う」になっている点にある(34~7)。つまりデカルトのcogito ergo sumは、本来は「彼」に読み替えられない「私」の直接体験から出発したはずなのに、それを「論証もどき」に語ったために、私の直接体験と言語との間にある深刻な亀裂が見失われ、私と彼との違いが飛び越された一般的真理になってしまった。

このような私の直接体験と言語との一致を拒否したのが西田の「純粋経験」である。「彼」として読み替えられない「私」は言語では表現できないと、西田は考える(37)。西田の「純粋経験」を理解するために、永井氏は、西田とは逆の側からデカルトに反対したウィトゲンシュタインと比較する。ウィトゲンシュタインは、有名な「感覚日記」論で、私の直接体験と言語との深刻な亀裂をどこまでも追及した。自分だけに起こる感覚を指すための、私だけに意味を持つ言語「E」という思考実験によって、どのような直接体験もまた、「共通の言語ゲームに乗っかっている」ことを強調した。つまりウィトゲンシュタインは、言語は個人の体験に先立って、個人の体験とは独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。それに対して西田は、まったく逆に、体験は言語とは独立であり、体験だけで意味を持ちうると考える。言語と体験を何の問題もなく相即させたデカルトに対して、ウィトゲンシュタインも西田も両者を切り離し、ウィトゲンシュタインは言語の側から、西田は体験の側から、問題を出発させる(p46f)。
西田は『善の研究』において、我々に向かって「純粋経験」を一般的に語っている。純粋経験について一般的に語る言語を、西田はどこから手に入れたのだろうか? 「答えは一つしかありえない。それは純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたからであり、・・・内側から叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによってである。だから、その後の西田哲学は、一種の言語哲学として読むことができる。」(47)

このようにして永井氏は、『善の研究』(1911)の「純粋経験」論が、『自覚における直観と反省』(1917)を経て、『働くものから見るものへ』(1927)の「場所の論理学」へと発展する過程を、体験を言語に架橋する哲学的議論として読み解く。「私」とは、「事物や出来事が<於いてある>場所」である。つまり、「私」は世界と向き合う「主体」ではなく、世界がそこ「においてある場所」なのだ(67)。西田が主張した、主格ならぬ与格としての「場所としての私」は、永井氏がこれまで個人としての「私」と区別するために苦労して作り出した、あの山カッコ付きの私、すなわち<私>とオーバーラップしてくる(97)。そして、西田の後期哲学の「我と汝」論を、言語ゲームと他者の同時的成立の議論と捉えることによって、「絶対無=場所としての私」という田辺元も理解できなかった西田のテーゼに光を当てる。永井氏の独在論とも重なる第3章は、とても難解だがスリリングな魅力に満ちている。だが、急がずに順番に見ていくことにしたい。」

少し事情の分かる人なら続けて読みたいところかも知れないが、この辺でやめよう。
すでに劇評の範囲を逸脱してしまっているのだから。

最後に役者について触れておこうと思ったが、すべて文学座の俳優で巧みではあるが特に印象に残ったものはなかった。本のできが「ほんわか」とした家庭劇を目ざしたものだから、その分役者は損をしているともいえる。
それにしても、評伝劇なのだから、機会があったらもう少し筆を入れてもいいのではないか?池田むかうにはそれを勧める。その際、ここにあげた小冊子、他に岩波新書(藤田正勝)も参照されるとよい。

題名: おーい幾多郎
観劇日: 2008/10/03
劇場: 吉祥寺シアター
主催: 吉祥寺シアター
期間: 2008年9月26日~10月5日
作: 池田むかう
演出: 西川信廣
美術: 朝倉 摂
照明: 林 美保
衣装: 富原守武
音楽・音響: 中島直勝
出演者: 瀬戸口 郁 本山 可久子 富沢亜古 鍛治直人 名越志保 松山愛佳 岸槌隆至 神野 崇 鈴木弘秋 林 秀樹


| | コメント (0)

2009年1月24日 (土)

劇評「近代能楽集『綾の鼓』『弱法師』」

Kindai三島由紀夫の戯曲を二人の若手、前田司郎(「綾の鼓」)と深津篤史(「弱法師」)が演出する。

『近代能楽集』は、あちこちで上演されていることを目にしていたが、見るのは初めてである。最初に率直な感想を書いておこうと思う。
『綾の鼓』を見ながら、こんなことをしたら能=謡曲は台無しではないか、と思った。なんのために六百年も前に完成している物語を引っ張り出してこのような改ざんを加えなければならないのか。
三島由紀夫が古典としての能にくっつけた「近代」とはまさに三島が感じていた「近代」というものである。この「近代」はいかにも西欧流の文体と価値観を持っている。その文体はいわゆる翻訳調で「サド侯爵夫人」などの外国を舞台にした物語にはふさわしいが、現代日本の出来事として語るには(後で例を示すが)言葉が異様に「もたもた」している。
また、その価値観は西欧社会がまさしく近代になって獲得した「ロマンティック・ラブ」を至上のものとして掲げているように見える。近代というものが、抽象的で曖昧で不確かなものにたいして、具体的で誰にも分かりやすい明晰性を、あるいは主体の確実性を要求したのであるから、男と女の関係も厳しく対峙していることを前提にしなければならなかった。「ロマンティック」とは、「神への愛」と峻別する意味に加えて、主体性の相克にふりかける甘い粉砂糖のようなものである。

僕は、2003年12月に見た山崎正和の「世阿彌」の劇評をこのように始めている。
「将軍義満の愛妾、葛野の前(寺島しのぶ)に懸想して世阿彌(坂東三津五郎)は、これを許される。このとき義満からと言って葛野が差しだした鼓、手に取るとこれが皮の代わりに綾織を張ったもの。打てと命ぜられるが、音が出るはずもない。うって響かぬならば世阿彌、満天下に恥をさらすことになる。天の声は、今を時めく世阿彌が打てば聞こえぬものでもない、とけしかける。苦悶し躊躇する世阿彌。しかし、ついに意を決して・・・鼓は打たれた。天から義満の声、『葛野、お前には聞こえたか?』」

山崎正和が、世阿弥の作とも伝えられる「綾の鼓」を巧みに取り入れた場面のことであるが、この場合世阿弥は綾の鼓が鳴らぬことを知っている。知っていて葛野には聞こえることを願ってこれを打つ。恋とは、そういうものだということを山崎正和は伝えたかったのだ。もちろん元の話とは違う。元の話では、聞こえるはずだと信じて、庭掃きの老人は綾の鼓を打ち続けるのである。

「これは筑前の国、木の丸の皇居に仕え給うる臣下にて候。(語り手がいっている。)さてもこの所に桂の池とて名池の候に、常は御遊の御座候。ここに御庭掃きの老人の候ふが、女御の御姿を見参らせ、しづ心なき恋となりて候。このこと聞こし召し及ばれ、恋には上下を分かぬ習ひなれば、不便におぼしめさるる間、かの池のほとりの桂木の枝に鼓をかけ、老人に打たせられ、かの鼓の声皇居に聞こえば、その時女御の御姿まみえ給はんとの御事にて候ふほどに、かの老人を召して申し聞かせばやと存じ候。」

老人はこれを信じ、綾を張った鼓とも知らず 喜んでそれを手に取り御所に聞こえよとばかりに打つ。

「さてもあはれなる事かな、御庭掃きの老人、鼓の鳴らぬことを嘆き、桂の池へ身を投げ空しくなり申して候。まことに老人の心中思いやられて、我らごときの者までも、落涙仕りて候。かの老人賎しき身にて、いつの折りにか女御を見奉り、しづ恋となり申して候ふを、君きこしめし、桂の池のほとりなる、桂の木の枝に、綾にて張りたる鼓を掛けおき、この老人にこれを打たせられ、音の出で候らはば、思う望みを御かなへあらうずるとの御事にて候間、老人は喜び、綾の鼓とは夢にも知らず、罷り出でて打ち候へども、もとよりさらに鳴り申さねば、これを悲しみかように空しくなり申して候。・・・それにつき我らの推量には、かの老人賎しき身にて、よしなき恋をやめさせ御申しあろうずるとの、御謀かと存じ候。」

筑前の国に御所があった事も行幸すらあったことはない。謡曲に詠まれる場所や出来事はそもそも障りがあるとして曖昧模糊とさせるものだ。障りをそぎ落として、主題を際立たせる、というのが作劇の常套である。
老人の「しづ恋」は本当だったのだろうが、その望みはわずかに、女御の御姿を一目みたいというものにすぎなかった。謀と知って、老人は池に身を投げはかなくなるが、この物語は老人が怨霊となって女御に取りついてからの方が長い。むしろ恨みの深さが主題になっているのである。

三島由紀夫は、御庭掃きの老人を法律事務所に雇われている老小使い、岩吉(綿引勝彦)という設定にした。舞台は中央に空、真ん中から二つに分け下手をビルの三階にある法律事務所、上手は法律事務所と道を隔てて向かい合うビルのやはり三階にあるブティックである。この二つの部屋はガラス窓によって隔てられているが、互いによく見える。
岩吉は、ブティックの客の一人である華子(十朱幸代)に恋をした。自分が事務所で育てている鉢植えの桂の木になぞらえて、桂の君と呼んで、毎日ラブレターを書いた。書いて出さなかった手紙が七十通、書いては焼いた。
しかし、思い直して書いたものをこのところは事務員の加代子(内田亜希子)に届けさせている。加代子は毎夕向かいのビルに手紙を運んだ。今日で三十通目、合計百通になるのである。
ブティックでは、経営者であるマダム(多岐川裕美)をはじめ、踊りの師匠、藤間春之輔(国広富之)、戸山(奥田洋平)とその友人である外務省の役人金子(金替康博)が、奥様=華子の仮縫いのために集まっている。戸山と金子は華子の取り巻き、藤間春之輔はパトロンの華子に舞踊劇の切符を引き受けてもらおうとしている。
そこへ、加代子が百通目のラブレターを運んでくる。
一同は、老人のくせに華子に思いを寄せるとはけしからんと、この手紙を華子に手渡す前に開いてしまう。そこには「思いは日ましにつのるばかり、老いさき短い身を、ひねもすさいなむ恋の鞭の傷あとをいやすには、ただ一度の、・・・・・・ただ一度の接吻(くちづけ)・・・・・・」とあった。
いよいよ頭に来た連中は、岩吉をいじめてやろうということになり、一計を案じる。藤間春之輔が持っていた舞踊の小道具である綾の鼓に手紙を付けて投げてやり、それを打って、音がこちらに届けば、桂の君に会わせてやると伝える。
岩吉は喜んで、鼓を受け取りこれを打つ。しかし、音は出ない。何度打っても鼓は鳴らない。その姿を窓越しに見ていた一堂は体を震わせるほどの大笑い。岩吉は騙されたと知って、三階の窓から身を投げて死んでしまう。
一週間後、ブティックの暗がりに華子が現れる。亡霊となった岩吉が呼んだのだ。亡霊は華子に怨言を言う。自分は真心ゆえに愚弄されたと。しかし華子の言い分は、あなたは単に年寄りだったからからかわれただけで、私に祟るというのはお門違いだというのである。それに「あなたはまだ恋の化身とはいえませんわ。・・・・・・あなたの恋が形をとるには、もう一つ何かが足りないんだわ。今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きっと足りないんだわ。そのために死んだだけでは。」
女の中には恋の証拠がいっぱいだと華子はいう。その証拠を出したら最後、恋でなくなるような証拠がいっぱいだと。女が証拠を持っているおかげで、男は手ぶらで恋をすることができるというのである。華子は証拠の一つとして、昔三日月と呼ばれたスリだったという。腹に三日月の入れ墨がある。男に入れられたのだ。亡霊は、それを聞いて二度も自分を愚弄するのかと怒る。しかし、華子はひるまない。あなたに愛されたから私は強くなった。しかもあなたは本当の私を愛していない。すると、そんなことがあるものかと亡霊はむきになって、鼓が鳴らなかったからそういうのだろうという。
今度は鳴らして見せるといって、鼓をとりだしこれを打つ。すると鳴らないはずの綾鼓がポンと鳴る。ところが、華子は聞こえないという。これでもかと亡霊は打ち続けるが、華子には聞こえない。いや、聞こえているのかもしれない。
亡霊は、打ち続けて百まで数えるともはやこれまでと「桂の君」に別れを告げ、消え去ってしまう。華子、「あたくしにも聞こえたのに、あと一つ打ちさえしたら・・・・・・。」と、これは手紙の数にかけてある。

よくできた翻案だという向きもあるだろうが、まともに考えると随所にかなり無理がある。弁護士の小間使いがどんなものか知っているものにはちょっとどうかと思うが、法律事務所の老小使いが、向かいのビルの窓越しに時々見える「奥様」に恋をする、というのはあり得ないことでもない。しかし、その思いをラブレターにしたためて七十通も書いては焼く、それに飽き足らず、後三十通は実際に事務員の女に届けさせる、というのは度を超えている。いや、そこまではあってもいいとしよう。しかし、その内容が「 老いさき短い身を、ひねもすさいなむ恋の鞭の傷あとをいやすには、ただ一度の、・・・・・・ただ一度の接吻(くちづけ)・・・・・・」というのはどうか?老人の割には肉欲を生々しく語るではないか。そこが「近代」だというのだろうが、六百年前の庭掃きの老人が、かいま見た女御に接吻を望んだだろうか。違和感がある。六百年、接吻という習慣がないのにとってつけたようで気取っている。弁護士の小間使いがこんなふうに見栄を張ることは考えにくい。
「奥様」が実はスリで、男に騙され入れ墨までしている世慣れた女、というのはこの戯曲の唯一面白い工夫で、憤死した老小使いの夢を打ち砕いて現実の厳しさを示した。現実というのは、女としては男が勝手に恋をして勝手な想像を押し付けられてはかなわないということである。亡霊と華子のやり取りには何か意味があるように思わせぶりだが、ただ単に男は勝手な夢ばかり見て暮らしているのに、女はもっと現実的だから男の夢には付き合えないといっているだけだ。そのとおりである。実に身もふたもない結論だったのだ。こんなものに感心しているようでは、先が思いやられるのである。

さらにいえば、言葉が異様にもたついているといったのは、例えば華子の取り巻きの会話である。
金子 このじいさんは自分一人苦しんでいると思っている。そのうぬぼれが憎た
   らしい。われわれだって同様に苦しいんです。ただそれを口外するかしな
   いかの違いですよ。
藤間 私どもには慎みというものがありますからね。
戸山 僕だってこれくらいのことは知っていますよ。僕たちはみんな軽佻浮薄
   で、あのじいさんだけが本当の恋を知っているといいたそうな口ぶりが
   癪に障るよ。
金子 われわれだってこんな悪い時代に生きていて、自分をごまかすためにどれ
   だけの苦しみを重ねているか、見せられるものなら見せてやりたいよ。
藤間 古風な人はし方ありません。この世の中に恋の特別席があると思っている
   んでしょう、おそらく。

こういうせりふを目で追っているだけでは分からないが、演出の前田司郎が、ほとんどお手上げの状態で、ほぼこのままのリズムでいわせるものだから、まるで大正時代にいったような気がするのである。書かれた言葉はまともだが、芝居としてのリアリティに乏しい。前田の師匠の平田オリザが添削したらもう少し生き生きとするのじゃないかしら。

キャスティングにも問題はあった。華子の十朱幸代は久しぶりに見たが、容姿が変わっていないのには驚いた。確かに華があって美しく、一目ぼれするものがあってもおかしくない。ところが、第二場で亡霊と対峙するところでは残念ながら迫力不足であった。それは演技の質と関係する。
岩吉の綿引勝彦はミスキャストである。広い肩幅に分厚い胸、坊主頭にぎょろ目では恋などという生易しいものにはならないだろう。即刻ストーカーになって何かしでかしそうに見える。前田司郎も勝手にしてくれとしか言い様がなかったのだろう。
唯一、多岐川裕美だけは意外な一面を見せてくれて収穫だった。

「弱法師」の方は、もともとの話とはかけ離れたものにしてある。
河内の国高安の左衛門尉通俊が、讒言によって家を追いだしてしまった息子俊徳丸の二世安楽のために天王寺で施行をする。そこに盲目となって弱法師と呼ばれている実は俊徳丸が施行を受ける。弱法師は仏の慈悲をたたえ、我が国最初の仏教の寺、天王寺の縁起を語り、心眼にて景色が見えると達観する。盲目ゆえ、往来の人に当たって転び倒れたりする様子を窺っていた通俊は、すでにそれを我が子と覚っていた。夜になって自らを名乗り、恥じ入る俊徳丸を捕まえて、高安の里に帰る。とういうのが元の話である。

こちらは、息子俊徳(木村了)と空襲で別れ別れになった高安夫妻(国広富之、一柳みる)が、川島夫妻(鶴田忍、多岐川裕美)のもとにひろわれ育てられていた俊徳を見つけだし、自分のところに引き取ろうとして裁判になるという設定になっている。舞台は裁判所、調停委員の桜間級子(十朱幸代)が間に入ってどちらに引き取られるのが適当か判断しようという裁判劇の一種である。

これは現代でもありうる話で、そうとっぴな翻案でもないからたいした違和感はない。俊徳を金髪の美男にしたのは三島好みに深津篤史が気遣いをしたのだろう。
あまり言うこともないが、一つだけ指摘しておきたいことがある。
それは、十朱幸代のところでいった演技の質ということである。
高安夫妻と川島夫妻の二組の夫婦が並んで客席に向かい証言をする場面がある。
鶴田忍と一柳みる、国広富之と多岐川裕美の二組の俳優の芝居がまるで異質なのだ。鶴田は俳優座の養成所をでて主に新劇畑で仕事をしてきた。一柳みるは、玉川大学の芸術学科から劇団昴に入ってこれも主として舞台で活躍してきた。国広富之と多岐川裕美はテレビドラマ+映画出身の俳優である。
どちらがいいとかいう問題ではない。舞台においては全身がさらされているために、一つのせりふを全身で表現しなければならないし、そうしなければ観客にそのようには見えない。舞台では、うつむいて泣く時には肩を振って全身を震わせなければ泣いていると映らないのである。映画やテレビは部分を撮るから顔のアップに涙がこぼれていればそれですむ。大げさに体を震わせるのはかえってわざとらしく見えるものだ。
こういう違いがあるから、客を集めるからといって、映画やテレビでよく知られた俳優を起用するという考えは安易である。舞台という場所できちんと芝居ができるかどうか、よく検討したほうがいい。

新国立劇場の芸術監督をめぐって騒ぎがあったことは周知である。天下り役人の専横があったとかなかったとか真相は定かではないが、公演の採算を考慮するあまり、商業演劇のようなスターシステムは、上のような理由で公立の劇場にはなじまない。税金を使う施設なのに、役人と財界、演劇関係者がバラバラなのも変なものだが、観客代表、つまりは国民代表が入っていないのはもっと変だ。このことを考えないといけない。

ところで、話をもとに戻すが、三島由紀夫は「近代能楽集」を書くに当たって、「能楽の自由な空間と時間の処理や、あらわな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シチュエーションの方を現代化した」といっている。そのために謡曲全集を渉猟するのがくせになったらしいが、その基準で「現代化に適するものは」五編(後加えて計八編)にすぎなかった。四百あまりある謡曲を読んでたったそれだけのものである。
ならばなぜ、わざわざそんなことをしなければならなかったのか?
三島由紀夫はこの時三十才をわずかにこえたばかりである。小説家が尊敬されるいい時代で、すでに大家先生の呼び声は高かった。王朝趣味もあって、小説の素材を探すにはうってつけと思ったのかもしれない。
「現代化」可能と見た綾鼓では、老庭掃き人であるところの岩吉に「接吻」をせがませたところが「現代化」で、老庭掃き人の真情に「接吻」という欲情がすでに潜んでいたと解釈したに相違ない。しかし、そんなことがあるはずはない。三島のいっている「現代化」とはなんのことはない「西欧化」にすぎないものだった。それが、われわれにとっても三島にとってもただひとつの「近代」だったのだから。
要するに近代能楽集というのは謡曲に西欧的素養による解釈をほどこそうとしたものである。それに気付かなかったのは、「あらわな形而上学的主題」といっているものと西欧のアリストテレス以来の形而上学的主題にあたかも共通項があると思い込んでいるからである。そんなものがあるはずがない。
謡曲が六百年もの間ほとんど変わらずに残ってきたのは、それだけ揺るぎない強固な形而上学的主題があったからで、たかだか百年前の「近代」によって解釈も変容もされないものである。

本当は、謡曲にもとがあるといっても、もっと自由に創作されてしかるべきだと思うが、若さゆえのこだわりが邪魔をしたのであろう。その意味では、「弱法師」の方が「現代化」されていて面白いといえるのではないか?
「綾鼓」もラブレターなどという無粋なものではなくて、せめて歌を詠んだ短冊ででもあったなら、もう少しは評価してもよかった。

題名: 近代能楽集「綾の鼓」
観劇日: 2008/09/26
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2008年9月25日~10月13日
作: 三島由紀夫
演出: 前田司郎『綾の鼓』 深津篤史『弱法師』
美術: 池田ともゆき
照明: 小笠原純
衣装: 半田悦子
音楽・音響: 上田好生
出演者: 『綾の鼓』 綿引勝彦  金替康博  奥田洋平 岡野真那美 国広富之
内田亜希子 多岐川裕美 十朱幸代
『弱法師』 木村 了 鶴田忍 
一柳みる  国広富之 多岐川裕美

 

| | コメント (0)

2009年1月12日 (月)

劇評「枕草子が好き」

Makurano中目黒の山手通りから一本入ると平行して長い商店街があった。駅の後背地は住宅街だからああいう個人商店の集合体がいまだに成立している。地方ではめったに見られなくなった光景である。車で行ったから止めるところがなくて閉口した。あてずっぽうで再開発らしい超高層ビルの地下に停めたら、幸いそのすぐそばに劇場があった。近ごろではどういう加減か、東京中のあっちこっちに劇場ができて、結構なことだがなにをやっているのやら。新聞やTVの文化部も金をかけた芝居の記者発表とやらにはほいほい出かけて愚にも付かない提灯記事を書くのに、マイナーな劇場の取材なぞする気も無いのだろう。何が起きているのかさっぱりである。
大新聞もTVも自分の嗅覚を働かせて取材する記者などいないらしい。若者が「動物化」なら大企業の社員は皆「官僚化」、言い訳ばかり探して仕事は下請け任せ、自分じゃ何もしようとしないし、できもしない。どうなってんだ我が国は!まったくマスコミにしてからが、偉そうな顔して踏反り返っているが、何も知ろうとはしない、あれこそ文化果つるところだね。とまあ、いいたいことはまだあるが、とりあえず古老の気分で愚痴をこぼしてみる。

そんなこといってる場合じゃなかった。芝居のことである。
なんとも奇妙な公演であった。開幕は、騒々しいロックの響きとホリゾントに映し出される激しい動きの映像である。ところがホリ換りの御簾の奥に数人の人影?あれはなんだ。とりあえず音楽入りで「枕草子」とはどんなものかという入門編を紹介し、それが文字通り枕になっているという工夫である。
昔「ピーター・グリーナウエイの枕草子」という奇妙な映画があったが、一瞬あれを思い出した。女の裸に文字の映像を投写するというエロティックな場面が有名であった。「枕草子」のどこを探せば裸が出てくるのか?西洋人の東洋理解がばかばかしいことの見本のような映画で、そこだけよく知られている。
明かりが入ると、「る・ぱる」の三人(松金よね子 岡本麗 田岡美也子)がパソコンをのぞき込んでいる。今流行のブログを書いているらしい。この連中はどこか大企業のOLという設定である。そのうちの一人が、いきなり「春は曙・・・」と朗読を始める。一通り読み終えると今度は脇のふたりがそれに現代語で茶々を入れる。
「ひとにあなづらるゝもの」を朗読。茶々が入る。同じように「にくきもの」「過ぎにしかた恋しきもの」「心ゆくもの」と続いていく。作家の批評精神は辛辣である。それを現代の女性が解釈して批評を加える。まるで古典の勉強だ。
清少納言は、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に使えていた女官である。定子の信頼は厚い。だから宮廷の行事や政、人間関係についてつぶさに知りうる立場にいる。大きな会社には必ずいる御局、古参のOLみたいなものである。これが会社の中の出来事や人事などを歯に衣着せぬ勢いで、ああだこうだと決めつけては、ばったばったと切りまくる。実に小気味がいい。
背景になっている人間の相関図もさりげなく紹介してくれる。
飛ぶ鳥落とす勢いの藤原道長が、自分の娘彰子を一条天皇の中宮として押し付けたのだが、その彰子に仕えたのが紫式部。したがって、部下同士の仲がいいわけはない。清少納言は、当時女性としては珍しく漢詩についての素養があることを知られていたが、紫式部にはこれが気に障っていたみたい。とか、夫の橘則光と別れたのも教養が邪魔をした、とか。道長と関係があったとかなかったとか。
と、途中で一同が素になって「皆さん、ここでBGMを演奏していただいている雅楽の奏者をご紹介します。」と急にもうひとつお勉強の時間になる。御簾が上がると、烏帽子を被り正式の装束に身を包んだ十人ばかりの男女が並んでいる。笙(鳳笙)、篳篥(ひちりき)、龍笛(横笛、おうてき)他に太鼓と鉦、楽箏などそれぞれが持っている楽器が紹介される。中でも、笙は細竹が十本ほど束になった笛の一種だが、リードのところに結露すると音程が狂うというので、常に火鉢や電熱器をそばにおいて暖めながら吹くというのを初めて知った。千年以上も形を変えない世界最古の楽器だそうだ。すぐには気付かなかったが、女性が何人か含まれていることは意外だった。
東儀秀樹がどこかでいっていたが、自分の家は何代続いているかはっきりしないが、この楽器の演奏を千年以上受け継いできたことは間違いないということだ。恐ろしく長い間連綿と続いてきた文化である。それをこうしてさらに次の時代につないでいく人々が確実にいることに驚きと安心を感じた。普段雅な音楽と何気なく聞いているだけで、こんな機会でもなければ知ることのなかったことばかりであった。ひとしきりありがたいお話と演奏を聴いた後、雅楽の一同が退席し、再び朗読とそれに対するひやかしが続く。
清少納言は、優秀な女性であった。優秀すなわち幸福かといえばそんなことはなかったと生涯を推し量り、それでも世間に向かっていいたいことはいうとパソコンのキーボードをたたく。ブログはやめられないというのである。

「枕草子」に雅楽の紹介が加わるというのは、どう考えても唐突である。生田萬が構成を考えたとあるが、これでは何だか無理やり雅楽を突っ込んだとしか言い様がない。他の部分はよく考えられていて、朗読に対するコメントはOLらしく的確で辛辣、納得のいくものであった。つなぎあるいはまとめのイメージを映像に頼る傾向があったが、それはこの場合やむを得なかったかもしれない。劇中の映像というものはいい加減なものが多いが、この映像と選曲のできがなかなかによかったので雅楽さえなければ、ひとつのまとまった劇になっていた。何しろ「る・ぱる」の役者にあて書きだったのだろうから、悪くなるはずもない。生田萬の並々ならぬ力を見せた佳作といえる。

それにしても、なぜこういう劇ともイベントともつかぬものになったのか不思議に思って、もう一度パンフレットにあたってみたら、「グループ る・ぱる」の芝居とばかり思っていたものが、 エムスクウェアズカンパニー・プロデュースとあった。
この「エムズ・・・」がなにかというと、「ウッディシアター中目黒」のマネージャー森脇恵が代表を務める会社らしい。つまりは、劇場主催の公演だったのだ。

森脇の口上にいわく。
「今やブログは老若男女関らず、それぞれの個性で発信され、アクセス数のランキングも日々公開されており、それによって一個人が突然の注目を浴び、人気者としてメディアに登場する機会も珍らしい事ではなくなりました。それだけグローバルにネットワークが拡がったと言う事ですから、まさにこの時代なればこそ・・とお考えの方も多いはず。
けれど・・ぃぇぃぇ・・
1000年と少し前、正しく『ブログの女王』が日本に実在したのです!
その名は清少納言。ブログタイトルは「枕草子」。“春は曙”で始まるこの文章は、古典の教科書の定番。在学時代に暗記させられた経験をお持ちの方も多いと思われ、美しい日本語として記憶されている事でしょう。そして作家である清少納言のイメージは自ずと、教養高く、物静かで慎み深く・・と!?
 と~んでもないです!
 全300段、お読みになればきっと確信される事でしょう。確かに教養高くはあるけれど、男の事も、上司のことも、デキない奴の事だって、歯に衣着せず言いたい放題の書きまくり。好き嫌いを臆さず発信することが出来る、自由奔放で逞しいお方であったのだと。そしてまた、女性であれば気づくのです。『ぇぇっ!1000年経っても、女を取り巻く環境や、モチロン女心のトキメキだってちっとも変わってないじゃないっ!』とね・・。
 本公演は、これまで余り古典に触れた事の無い方にも親しんで頂ける様、ブログ「枕草子」を今を生きる女性の言葉に変え、朗読ではなく現代語で“語り”、美しい雅楽の調べと共に、皆様にお届けしたいと考えております。」

つまりは「枕草子」をブログと見たてれば、古典に縁のない現代人にも分かりやすいのではないかというのである。そして、浮かび上がってくるのは千年前の女性も、今と同じような環境に置かれ、同じ悩みを抱えていたということだといいたいらしい。ついでに雅楽にも親しんでもらいたいといっている。
啓蒙の精神は実に立派である。

生田萬は、この森脇恵の仕掛けた「トラップ」に引っかかったといっている。
「●はじまりは、こんな都市伝説でした。――『枕草子』を通勤電車のバイブルにしているアラフォーな女が、車内で文庫を読みふけり、「あるある・・・」とか「ないない・・・」とかひとりで「クイズ100人にききました!」をやってるらしいというのです。教えてくれたのは、ウッディシアターのマネージャーM女史。もしかしたら、ぼくを今回の企画に引きずり込むため、彼女が捏造したフィクションだったのかもしれない。でも、そう気づいたときにはすでに、ぼくは「砂の女」の蟻地獄にはまった旅人状態。『枕草子』から抜け出せなくなっていたのでした。
●伝説の電車女にならい、手当たり次第に文庫を漁ったぼくは、『枕草子』の行間からあふれる「女、生きてます!」感に圧倒されまくりました。平安と平成。千年の時の隔たり。そんなものをまるで感じさせない「女性であることのリアル」? 同時に、『枕草子』の男性の研究者がみな「清少納言ギライ」になるという、その気持ちもわかってきた。たとえていうと、「朝まで生テレビ」の激論に耳をそばだてているこちらの脇で、一緒に見ていた彼女が画面の論客たちのネクタイやスーツの着こなしのことばかり悪態をつくのにウンザリするような、そんな気持ちです。
●天下国家を論じもせず、神や仏への信仰心に真正面から向き合うこともない。『枕草子』に描かれた世界は、小さく、狭い。でも、それは宮中の後宮という隔離された特殊な小空間が強いたものであって、決して「表現」の小ささ、狭さではない。むしろ「表現」としては徹底的に表層的だと思いました。「小さな世界」の外部を夢想する代わりに、清少納言は、その内部をこれでもかとばかりに撫でまわす。デコボコや微細なヒダヒダ、温もりや冷ややかさをあますことなく語り倒す腕力が、ぼくら男どもをタジタジとさせるのです。
●時代はどれだけ変わっても、女性性は不変/普遍――などと思わせるだけのリアルを、ぼくは『枕草子』に感じていました。でも、ちがうんじゃないのかな? それは、「女って結局変わらない」なんてことではなく、たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない「女の現在(いま)」が変わってないってことなんじゃないの? と、そんな結論めいた話をM女史にすると、「そうなんです。その視点が必要だから、構成演出を女性ではなく、あえて男のあなたに頼むのです」。巧妙なトラップにかかったぼくの蟻地獄暮らしは、そうして、いよいよ現実のものとなったのでした。・・・」

生田先生は、「たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない『女の現在(いま)』が変わってないってことなんじゃないの?」と思っているらしい。それに同意した森脇女史とは、近ごろあまりはやらないフェミニズムの闘士なのだろうか?

しかし「枕草子」をブログと同じようなものとして鑑賞すれば、宮廷の日常について、そこで暮らす細々とした感想をつづったものだから、必然的に「そういう」結論に達することは間違いない。そこで、千年経っても女の立場は変わらないではないかと嘆いて見せるのはフェミニズムのテーマとしては結構ではあるが、そこから先、どうしようというのだろうか?

僕などは、むしろ「千年経っても、ひとの心はそんなに変わりはない」ことに驚きを禁じえないのだが、「女の立場」は大いに変わってしまったと思っている。いや、確かに大きく変化した。清少納言が今に生きていたら、政治や文化経済に至るまで鋭いコメントを繰り出す評論家になっているに違いない。したがって、「枕草子」からそのような狭い世界でちまちま愚痴をこぼしていた印象を受けるというのは単なる偏見でむしろ間違いである。あの時代に、あれだけの感受性で自分と世界を見ていた人間はまれである。
千年前の「ブログ」と見なすことによって、古典に親しみやすく、という啓蒙主義もはっきり言えば百害あって一利なしである。そこらのお姉ちゃんが、愚にも付かない感想を書きなぐっては消えていく消耗品みたいなものと同じにしては断じてならない。

どうも変な公演だと思っていたが、清少納言を「ブログの女王」などと見なす軽薄さ、唐突な雅楽の挿入によって啓蒙を図る性急さなど、まとまりを欠いた出し物は、森脇恵の発想で、こういう考えが浮かぶ頭は悪しき「教養主義」の権化みたいなものである。
現代における「枕草子」の意味は、いかに作者を現代人に近づけるかという点にはなくて、むしろ清少納言の批評精神、ものの見方、感受性に学ぶことである。ついでに雅楽をやるならその「鑑賞」の手引きをまじめにやることだ。楽器の紹介はその第一歩に違いないが、本丸は「鑑賞」することである。したがって、このような劇中に挿入するといった中途半端なかたちで見せるのはどうか。プロデューサーなら後日観賞会でもやって責任を全うすべきだろう。

生田萬は、まんまと森脇に乗せられて、つい「千年の間、女の立場は変わっていない」などととんちんかんなことをいわされたが、リップサービスに違いない。今後は、女の言うことには細心の注意を払うべきだ。何しろ敵は手ごわく、恐ろしく、そして少しだけ美しい(といっておこう)。銀粉蝶でいやというほど知っておろうに。

題名: 枕草子が好き
観劇日: 2008/09/12
劇場: ウッディシアター中目黒
主催: エムスクゥエアズカンパニー
期間: 2008年9月10日~9月14日
作: 生田 萬 原作:清少納言
演出: 生田 萬
美術: 伊藤麻紀 
照明: 池田圭子
衣装: 伊藤麻紀 
音楽・音響: 柳原健二
出演者: 松金よね子 岡本麗 田岡美也子

    (雅楽演奏)・・八木千暁 三浦礼美 新井悠 井坂信諒 芳賀育実 佐藤彩 清水瑞衣 金子詩香 中 保之

| | コメント (0)

2009年1月 6日 (火)

劇評「戸惑いの日曜日」

Tomadoiタイトルに「『アパッチ砦の攻防』より」とあるのは、96年の初演の時にはその題名だったものが、再演のたびに登場人物が増え続けて、とうとうタイトルを変えてしまったものらしい。そうはいっても、舞台となっているのはいわゆる億ションである「『フォートネス・アパッチ301号』のリビングルーム」で変わっていない。なぜ変える必要があったのかは不明である。
何年か前に偶然WOWOWでやっているのを見ている。その時はどっちのタイトルだったか確かめていないが、佐藤B作と伊東四朗の「攻防」が面白くて、物語はいたってシンプルだったような気がする。今度のは、やたらに関係者が多くなって騒々しくなったがそれほどやる必要があったかどうか?

マンションのリビングで、鏑木(升毅)を尋ねてきた娘ちよみ(中澤裕子)が結婚することになったと報告している。婚約者を紹介したいと呼びにいくと、入れ替わりに一人の男がゴルフバッグを担いで入ってくる。この男鴨田巌(西郷輝彦)は、鏑木を見て『君は誰だ。ここで何をしている?』という。何だか様子が変だ。

実は、鏑木は数日前までこの部屋に住んでいたのだが、事業に失敗して借金を負い、マンションを売却したのであった。それを購入したのが鴨田で、今やこの部屋の持ち主である。鏑木は慌てて、自分は近所の電気屋だが奥さんにテレビの配線を見てくれと言われてきたという。「それなら早くビデオが見られるようにしてくれ。」と鴨田。
娘から電話をもらって、見栄っ張りの鏑木が、家を売ったとは言えず日曜に会う約束をしていた。この家の奥さん、鴨田まち子(石野真子)が電気屋に配線を頼んでいるのを小耳に挟んだ鏑木が、この日電気屋になりすましてまんまと家に入り込んだのであった。亭主はゴルフとばかり思っていたら、腰が痛むといって途中で引き返してきた鴨田と出会ってしまったのだ。困ったことになった。まもなく娘が婚約者の男(小林十一)を連れて戻ってくる。

娘たちとは、どうやら鴨田をごまかして会うことができたが、それで終わりというわけにいかなかった。その時の話では、娘の母親、鏑木にしてみれば二十年前に別れた元妻(あめくみちこ)が久しぶりにやって来るというのである。また、婚約者の両親がたまたま近所に来たからちょっとご挨拶に寄りたいといってくる。逃げ出すわけにもいかず、鏑木は鴨田とその奥さんをごまかして、他人の家をわが家のように見せかける綱渡りの対応を見せる。
そのうちに本物の電気屋(小島慶四郎)が現れ、これをリビングから遠ざけると、こんどはフィリピンパブで知りあった鏑木の現在の同棲相手がやって来る。そこへ、鏑木の正体を知っている不動産屋の寺門(佐渡稔)が、なんと鴨田の妻の浮気相手として登場、いよいよ鏑木は窮地に立たされることに・・・

どたばた、はらはらさせながら大いに笑わせてくれる傑作喜劇である。まともに考えたら「ありえねー」というシチュエーションでも、とにかく強引に見せてしまうところが作家の手腕で、三谷幸喜の才能はこういう芝居にもっともよく発揮される。初演の佐藤B作と伊東四朗の組み合わせは、なんとも『おかしみ』の迫力が違っていたが、ひょっとしたらあて書きだったかもしれない。こういう究極の窮地に立たされてのらりくらりどうにかごまかしていくのは、B作得意の役どころで、一方の伊東四朗は知らんぷりして残酷なまでにぎりぎりと突っ込みを入れるのがもともとの身上である。

こんどは佐藤B作がガンの手術後の療養ということで、やむなく降板したらしいが、升毅でわるいこともなかった。難を言えば、「二枚目」過ぎる点と少しまじめに見えることくらいか?西郷輝彦は、すでにこの役を何度か経験しているようだ。伊東四朗と比べるまでもないが、俳優としての舞台経験の豊富さはそれなりに現れていて、一味違った鴨田を表現していたといえる。
石野真子、中澤裕子といったアイドル歌手出身の女優もそれぞれ役どころを得て無難にこなしていたが、細かいことをいえば、せりふと動作のお仕舞に締まりが無い。多分に演出の責任だが、こういう基本はきちんと教え込んでおかなければならない。
また、松竹新喜劇の小島慶四郎はさすがに出てきただけで「おかしさ」がそこら中に漂う怪優であった。こういうベテランを前にしては、升毅も迫力不足といわれても文句は言えないだろう。この「本物の電気屋」を見ただけでも木戸銭分はあったというべきだ。

どたばたに終始していた芝居のお仕舞を、しんみりとした人情喜劇として締めくくったところが、 三谷幸喜の偉いところで、これでサンシャイン劇場にやってきたご婦人方も満足だったろう。
こういう肩の凝らない芝居もたまには見たらいい。


| | コメント (1)

2008年12月16日 (火)

劇評「幕末純情伝」

Bakumatu
Motherf×cker、英語圏でよく使われる悪態だ。
劇評としてはこの一言で終わってもいいのだが、それでは身もふたもないから少しその理由を書いておくことにする。

春をひさぐ母親の、その生業(なりわい)の寝床の後ろで、息子の少年が母親の裸の尻を押すのだそうである。つまり息子が母親の商売を手伝っているという光景なのだ。これは登場人物の一人である高杉晋作だったか誰だったか忘れたが(この際誰でもよろしい)、その悲惨な少年時代を長々と涙ながらに語ってみせるせりふに出てくるものである。性交中の母親の尻をどうやって押すことができるのか、その姿勢は実に想像しにくい。とっさに頭の中でやりくりしてみたがとっても難しかった。
想像しにくいということは、その表現に嘘があるのだ。嘘と気付いていたかどうか、ともかくいかに惨めな少年時代だったかを表現したいために、ここは嘘があっても何でも勢いだから過激に語らねばと思ったに違いない。この底には、世界(世間といってもよい)に対する怒りであり「恨み」がある。どうだ、これだけひどい目に遭ってきたのだぞ!といっている。
しかし、ストリップ小屋のコントでもあるまいに、新橋演舞場でこういう話を聞かされると正直なところきわめて恥ずかしい思いがする。僕自身、公序良俗という点では常識よりもはるかに寛容だと思っているが、これは限度いっぱいだった。無論、規制しろなどという気は無い。ただ、不快な思いをしたのは僕だけだと願うばかりだ。

もちろん、これだけでも十分Motherf×ckerにふさわしいのだが、全体としてやっていることが単なる思いつきで支離滅裂、国家論も戦争観も憲法論やデモクラシー、フェミニズムに至るイデオロギーのような議論も錯乱の極み、一切合切男と女の愛情に還元するという乱暴な話では、評価に値するような舞台ではなかった。

観劇記録からどうして落ちたのかわからないが、1989年のパルコ劇場、初演は確かに見ている。沖田総司が実は女だったという想定は、意表をつく思いつきで、まだ二十歳そこそこの平栗あつみが主役の沖田総司に抜擢されて話題になった。やたらに刀を振り回す芝居だという記憶以外あまり覚えていないが、確か労咳の沖田総司は、勝海舟の父親が河原で拾ってきた子を育てたということだった。勝海舟は「兄上」という想定になるわけだ。その勝のもとへ坂本龍馬と岡田以蔵が現れ、海舟と龍馬、それに近藤勇、土方歳三、桂小五郎らが女である沖田総司をめぐって恋の鞘当てならぬ本物のバトルを繰り広げるというものであった。「純情伝」とあるくらいだから構造的にはややひねこびた恋愛物といえるが、宝塚を下品にして裏に返したような奇妙な感覚の芝居だった。

勝海舟と龍馬、岡田以蔵がため口を聞くというのも史実とは大いに違うので甚だしく違和感を持った。おおかたは知っているだろうが、海舟は文政六年(1823)の生まれ、天保六年(1836)生まれの龍馬よりも一廻り以上も年長で、しかも海舟は龍馬の師である。
坂本龍馬は、文久三年(1863)暮れに岡田以蔵とともに開明派の幕閣、勝海舟の屋敷を訪ねている。話し次第では勝を斬ろうと思っていたが、逆に感銘を受け弟子入りしてしまった。この時、自分らのような不心得者がいるに違いないと、用心棒に岡田以蔵を残している。ある時二人が京の街中を歩いていると、いきなり三人の浪人が海舟に斬り掛かってきた。脇にいた以蔵が、素早く一歩進むと居合抜きでこれを斃す。人斬り以蔵、面目躍如といったところだが「そんなに人を斬るものじゃないよ。」とたしなめると以蔵が「俺がやらねば先生が斬られるところだった。」と平然としていた。後にこの思い出を「以蔵の言う通りだった。後にも先にも、あの時ほど肝を冷やしたことはない」(「氷川清話」)と述懐している。

こういう話はすでに周知として、それをわざわざひっくり返して見せる。 それは隠喩やパロディ、あるいは寓話性とか、何かしらの文学的効果を狙ったものではない。そこには何の意味も無い。ここで留意すべきことは、史実にたてつくことで生まれる権威とかエシュタブリッシュメントの否定、異化効果という点である。つまり、つかこうへいにとっては「ひっくり返す」こと自体が重要だったのである。この、世間を敵に回して権威にたてつく、一種「否定」のエネルギーは、つかこうへいの心の非常に深いところに巣くっている「負債」から来ている。これがすなわち、つかの芝居の核心を形成しているものであり、彼の作品が吐き出す毒の正体である。
そのように人は居直ってしまえば、恐れることは何もなくなる。誰と誰がため口を利こうと、品性下劣だろうと時空が飛ぼうとやりたい放題である。それが結果として面白い劇になれば、客は集まるだろう。唐十郎と寺山修司が新劇をぶち壊して整地しかかったあとへやってきたつかこうへいは、彼らよりもちょっぴりだけ政治の匂いがして、そのちょっぴりさ加減が後に続く世代に受けたのである。彼は全共闘世代であり、政治の季節を通過している。
ついでに言えば、その政治の匂いの残滓みたいなものを引き継いだ最後の世代が野田秀樹と鴻上尚史である。彼らにとってさえ、すでに「戦後」は遠い過去(実感のない議論)になっていた。平田オリザに至っては、戦争は遥か遠くから聞こえてくる雷鳴のようなものになってしまう。(「東京ノート」)

二十年前の観客は、美男で有名な沖田総司が女だったという想定にどこかかき立てられるものがあって、演歌と饒舌と爆発的なエネルギーの消費とも言うべきこの祝祭にやってきたに違いない。(僕の場合はYの趣味につき合っただけ)幕末の世相と明治の維新という「革命」の香りを少々まぶしたやかましくもいじけた、司馬遼太郎風に言えば、やたらに「感情の量が多い」芝居である。
これは、映画化までされるほど評判だった。その内容は上演されるたびに、どこにオリジナルがあるかわからないほどデフォルメされ続けた。

そして今度の上演では、二十年前のものから遥かに飛躍してしまっている。
まず第一に、登場人物が一部入れ替わり、大幅に増えている。第二に、話が幕末から第二次大戦後にまで及ぶ。第三に、政治的な問題意識が比較的はっきりあらわれている。
登場人物では、坂本龍馬が女として描かれるのがもっとも変わったところだろう。高杉晋作、西郷隆盛、徳川慶喜、中村半次郎、島崎藤村らが新たに加わり、岡田以蔵と桂小五郎は消えている。
沖田総司は、賢きあたりのご落胤で労咳のため捨てられたのを近藤勇が拾って育てたということになっている。この沖田総司を石原さとみがやった。制作発表を偶然TVで見たが、このときつかこうへいに「淫乱な顔」とか「好きそうな、卑猥な顔」とか、けしかけられたと語っていた。しかし、どう見ても彼女は典型的美人顔でむしろ「色気」に乏しい。これが乳をもむとかあられもない声を上げるといってもあまり淫らに見えないどころか返って作っているところが痛々しく感じられた。
それはともかく、この近藤が沖田にほれている。西郷隆盛は息子を殺したことがもとでホモセクシャルになり、高杉は母親を米兵にレイプされ、土方歳三は妻と浮気相手の間にできた子を育て、沖田は龍馬にほれている。突然の島崎藤村は「戦陣訓」の作者として呼び出された形。ざっと、このしっちゃかめっちゃかな話が入れ替わり立ち替わり舞台に現れて、叫んで消えては大音響の唄が入るという繰り返しであった。同じようなバイオレンスに満ちたお下劣な話が次から次に現れるので退屈のあまり眠くなったが、音がうるさいから眠れもしない。仕方がないから目をつむっていた。一同が宝塚よろしく踊りに入っていよいよお仕舞だろうと期待したら、暗転からまた始まるという猛烈なサービス精神には閉口だった。若い時なら、ばか野郎!と叫んで出てきたところだが、もう年だからそんな元気もない。
びっくりしたのは、坂本龍馬が船中八策ならぬ憲法第九条を発案したことだ。ついでに女権の確立、普通選挙実現に奔走する。沖縄の自決問題、ベトナム戦争、イラク戦争に言及し、世界平和を論じるという奔放さ。ずいぶんと盛り込んだものである。

それらの議論が必ずしも成功していなかったのは、ターム=用語がすでに古風であり、議論としても手あかにまみれた観念的なものだからである。
ただし、初演はこれほど露骨に政治的ではない。
あれから二十年経った。考えてみれば、初演の89年ごろはバブルの真っ最中、Japan as No.1で皆浮かれていた頃である。思想の世界も構造主義から脱構築、ポストモダンへと思想そのものを消費する浮かれた時代へ。この芝居もそういう世相を背景にかかれているということに心を止めておきたい。
しかし、一方で昭和が終わり、ベルリンの壁が壊れソ連がペレストロイカ、グラスノスチを口にし始めていた。そして、まもなく世界が劇的な変化を遂げるのである。誰も口に出すことはなかったが、あの「革命」とは何だったのか?という一種の深い疲労感を伴うフレーズが僕らの心の中で渦巻いていた。続いて、日本は長期低迷期へ。反対に米国はグローバリゼーションという世界制覇に走り出し、それも9.11で終焉を迎えることになる。

二十年という歳月の経過を盛り込まずにおれなかった、という気持ちはわかる。幕末と現在が似ているという議論があるのも周知であろう。たとえば「自民党長期政権は幕末期の徳川政権に等しい」という見方である。この時代の転換期に何か発言すべきである。これはちょうどいい機会だと思ったに違いない。
ところがいっていることは二十年前の議論とほとんど変わらなかった。扱っている問題が「戦後」という議論に集約されることばかりなのである。まるで、時間の経過はなかったことのようである。ここに、左翼の限界がある。いや、つかこうへいが左翼というのでは少し違うかもしれない。言い直せば、左翼的議論の範疇でしかものを語っていないということである。そんなものがなんの役に立つものか。日本は「侵略しなかった」いや「侵略した」という議論と同じくらいばかばかしくも意味がないことである。
つかこうへいは、口をとがらして不平不満、ついでに卑猥な言葉を吐き出すが、頭の中身の進歩発展てえものはないらしい。

そんなことで僕は、つかと同じ世代の笠井潔とその子供=団塊ジュニアというのか?くらいの世代に属する東浩紀との公開往復書簡を読んだときのことを思い出した。(「動物化する世界の中で」集英社新書)
笠井潔は全共闘時代、あるセクトの幹部だったらしい。僕は読んだことはないが、探偵が事件を解決するミステリーが専門で、現象学だの実存主義だのなんだかんだ哲学用語を駆使して小難しい小説を書くのが特徴ということだ。当然その頭の中にはマルクスもレーニンも詰まっている。これが、流行した構造主義からポストモダンあたりの思想家を山ほど勉強して学位を取った「オタク」の専門家とも言うべき東浩紀と手紙をやり取りした。東浩紀には主としてコジェーヴおよびシジェクに寄り添って書いた「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)がある。「オタク」以降の若者を見て「動物化」ではないかというのである。動物より人間は少しましなだけだが、それでは困る。資本主義も終焉に近づくと避けられないことだと言っても、しかし、それで嘆いている風でもない。
この二人の、何がかみ合わないかといえば、まず笠井潔には「ポストモダン」が何であったのかわかっていなかった。「ポストモダン」というのは一言で言ってしまえばどうやってマルクスおよびマルクス主義を乗り越えようかとさまざまな思想家が七転八倒した有り様のことである。笠井潔の頭には、まだ唯物史観がのこっている。唯物史観だって賞味期限は来るのにそうは思っていない。つまりは、ポストモダンを取り込む手前で思考停止してしまっているのに本人が気付いていないのだ。
これではかみ合うはずがない。終いに笠井は元全共闘の活動家幹部らしくキれてしまった。幹部はよくキれたのである。このガキが何を言う、というわけだ。
僕が思うに、つかこうへいはこの笠井潔と同じではないか?二十年の間に何が起きたのかちっとも気付いていないのである。

Motherf×ckerと一言で済まそうとしたが語りすぎた。これでお仕舞にしよう。
新橋演舞場で、気分よく観劇しようとやってきたご婦人たちには実に気の毒なことをした。

題名: 幕末純情伝
観劇日: 2008/08/23
劇場: 新橋演舞場
主催: 松竹
期間: 2008年8月13日~8月27日
作: つかこうへい
演出: つかこうへい
美術: 中村知子
照明: 林順之
衣装: 宮本宣子
音楽・音響: 内藤勝博
出演者: 石原 さとみ 真琴 つばさ 吉沢 悠 舘形 比呂一 宇津宮 雅代 橘 大五郎 矢部 太郎 武田 義晴 赤塚 篤紀 岩崎 雄一 とめ 貴志 小川 岳男 トロイ 若林 ケン 早坂 実 山崎 銀之丞 清家 利一 古賀 豊 川畑 博稔 小川 智之 杉山 圭一 松本 有樹純 北田 理道 遠藤 広太 尋由帆 高野 愛

| | コメント (0)

より以前の記事一覧