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2021年9月 3日 (金)

劇評「反応工程」

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率直に言って、僕にはつまらない劇であった。劇評などしてもしょうがないと思っていたら、家人に何度も催促されるものだから、書くことにした。従って、以下はつまらない劇評である。

 

 

「宮本研は、天才である。」と昔、いまはもう亡くなった友人が言っていた。劇など見ない奴と思っていたのに驚いたのを覚えている。
「美しきものの伝説」「明治の柩」「夢-桃中軒牛右衛門の」と並べてみると、僕も同意する。特に「美しき・・・」は僕の大好きな戯曲だ。これは、大正ロマンを彩った人々の群像劇で、宮本研の傑作だと思っている。
この「反応工程」も群像劇だ。宮本研は、登場人物の多い劇を得意としているように見える。

 

 

 

話は変わるが、僕の生まれた街は人口六万五千程の地方都市で、ものごころついた昭和三十年代には、すでに勤労者劇団というものがあって、時々公演していた。学校の教員や電力会社の工員、銀行員や写真館、商店主、工場の職工など結構な人数で、照明や大道具も本格的なものであった。
いきさつは忘れてしまったが、ある時、たしか僕がいた高校の演劇部と合同公演があって、初出演の僕に、彼らの一人がメークアップを手伝ってくれた。このとき僕は悩める青年といった役柄だったが、いきなり顔をキャンバス代わりとばかりに様々な色に塗り重ねられた。この方が照明の下ではそれらしく見えるのだと言われて、なるほどプロ(?)は違うものだと感心したことを覚えている。

 

勤労者劇団は、労働運動とともに当時、どこの街にもあった。(と、思う。)
宮本研は、終戦後、九州大学の演劇部で活動したあと、国家公務員の傍ら東京でこの勤労者劇団に関わって、そのための戯曲の書き下ろしをはじめている。
そのあたりの事情を宮本研が書いている。
「わたし自身の演劇との関わりは、敗戦直後、九州のある大学に入り、ちょうどその頃活動を開始したばかりの学内の演劇サークルと接触し、入会し、その末端にぶら下がりながら、切符を売り、ポスターを貼り、公演の裏方や照明係をやったりと言う経験から始まっている。役者をやる気はなかったその頃すでに、小説を書いたり評論をやったり、それらが小さな雑誌や新聞に活字になったりもしていたから、やるとすれば、やはり、戯曲を書きたいということではなかったかと思うのだが、書くとすれば新劇だ。しかし、新劇などというものは見たことも聞いたこともなかった私としては、しばらくは大学演劇部の雑用係を務めつことしかなかったわけである。・・・・・・ 
東京に出てきたのは、一九五一年の頃で、上京した初っぱなに、血のメーデー事件というのがあった。東京もまた、と言うより、日本中がざわざわとしており、老いも若きも声高に叫び、走り回っていた。そんな時代であり時代の環境であった。・・・・・・
それから数年、東京の片隅に、働きながらコーラスなどを楽しんでいる小さなサークルがあり、それが今度お芝居をやろうと言うことになり、どうやったらいいか分からないのでめんどうを見て欲しいという話があり、それがのちに麦の会という名で呼ばれることになるグループとの出会いであった。・・・・・・」(エッセイ「そこからの出発、そこへの回路」より)
この麦の会のために戯曲を書いていたが、宮本研にとっては憂鬱であった。「今度は僕の書きたいことを書かせてくれるかい。」と言って生まれたのが、この「反応工程」であったという。
自分の書きたいものといっても、「麦の会」という集団を前提にしているという点では、やはり、群像劇だったのだ。これは「わたし自身の戦中戦後の体験を私なりに総括してみようと思って」書いたといっている。
つまりこの劇は、宮本研が、終戦間際に学徒勤労動員で働いた工場での体験を元に描いたものである。昭和二十年八月十五日に向かう数日間(8/5〜8/10)が空襲で幕を閉じると、続く終幕が、いきなりその七ヶ月後の昭和二十一年三月なのは、その間の彼の「精神の空白期間」を物語るもので、「老いも若きも声高に叫び、走り回っていた」戦後の喧噪とは彼一人別の地点にいたことを窺わせるという点で、この世代の「八月十五日」とは若干異質なものを感じさせるところだ。
これにはあとでまた触れる。

 

さて、学徒勤労動員で派遣された工場とはどんなところだったのか、劇はその説明から始まる。
会社の勤労課員、太宰(内藤栄一)が動員学徒の中学生、木戸(河原翔太)にこの会社は、三池炭鉱からでる石炭を原料に各種化学工業製品を生産する三井石炭化学コンビナートに属する会社であることを説明する。
舞台は、五階建ての工場の四階の一隅にある反応工程の現場。奥、下手寄りにやかんや湯飲みが置かれた木机と長椅子の休憩所、畳の小あがりがあってここが仮眠室となっている。手前下手には上の回廊に通じる鉄パイプの階段があり、下から登ってくる出入り口になっている。上手には大きな機械設備、反応釜の一部が見えていて、その手前に階下に通じる階段があり、設備の後方にも上下に連動した設備を行き来する階段があるらしい。
太宰の説明によると、「コークス炉にぶち込まれた石炭は乾留装置にかけられてガスとコークスとコールタールの三つに分離される。これが何百という種類の染料、薬品、爆薬に化ける。」
この現場は、反応工程といって、ジ・エチレングリコール(様々の製品に変わる汎用性の高いポリエチレン樹脂の原料)部門の最初の工程で、ここを終わった中間製品が下の蒸溜工程に落とされ、さらにその下の精留工程に流されて、化学変化しながらさまざまな薬品や製品になっていくのである。
木戸がこの工程でつくっているのはロケット砲の発射薬だときいているというと、ひとには言わない方がいいと窘められる。ここは軍需指定工場なのだ。
そこへ見習い工の矢部(八頭司悠友)がやって来て、七時から工程開始と告げる。
しかし、この工程は連続九回も失敗しているということで、確立した技術ではないらしい。それもそのはずドイツからもらった図面だけでこれをやっているのだから手探りなのだろう。
以前、他の劇評で書いたことがあったが、ドイツは、戦時中すでに石炭から石油をつくり出す技術を確立していて、必要量の10%程度を生産していたようだ。日本は生産できても1%にも満たなかったから、さらに高度に精製されたロケット燃料を工場生産するなどは望むべくもなかったのであろう。
軍需工場だから空襲で破壊される恐れはあった。数日前、八幡製鉄所がやられたばかりだ。しかし、この職場の日常にはまだ緊迫感は感じられない。
登場人物をスケッチ風に説明しておこう。
ベテランの責任工、荒尾(有福正志)は、この工場で三十年以上のキャリアがあり、大正時代にあった大きな労働争議(ストライキ)にも参加している。黙々と仕事をこなす職場の重鎮といった職人である。
その娘の正枝(天野はな)が「見張り」つまり現場事務所で働いている。
荒尾の下には、見習い工の矢部の他に少し年かさの徴用工、柳川(若杉宏二)がいる。
木戸は中学生だが、他に高等学校からの動員学徒が三人、この劇のいわば狂言回しの役割を与えられている。
田宮(久保田響介)は、職場でも評価が高い優等生で学徒動員のリーダー格である。資本主義や労働運動についての太宰の考えに感化されつつあり、太宰から借りたレーニンの著作を密かに職場の自分の棚に隠し持っている。田宮には妹、節子がいて、時々兄を訪ねて工場にやってくる。
影山(奈良原大泰)は田宮と同郷で、小学校からいっしょだった。影山に、ついに赤紙が来た。戦争が終わろうとしているこの時期に、である。職場では「おめでとう」と言われてそのまま入隊すると思っていたら、躊躇している。田宮が止めるのも聞かず、行方不明になってしまう。兵役拒否をしたのだ。
田宮たちの高等学校の助教授、清原(神農直隆)が行方不明の影山の捜索をしている憲兵(神保良介)をともなって、職場にやってくる。憲兵の求めに応じ、寮の捜索の結果、田宮の部屋から問題の思想書が二三冊見つかったというので、田宮に質に来たのだ。田宮は私物だと言い張るが、他に関係者がいるとにらんだ憲兵が誰から借りたものかいえばそれ以上追求しないという。しかし、田宮は学生が本を読んではいけないのかと清原に迫り、権力に阿るのは教師の態度とも思えないと清原を追求する。このままでは進学に支障が出るから持ち主を言った方がいいと誰彼に言われるが、田宮は太宰の名を明かすことはしなかった。
彼らのもう一人の同級生、林(清水優)は、清原から問題を起こした田宮に代わって班長をやるようにいわれるが、それは困ると田宮に文句を言うようなごく普通の男である。
他に、この会社の係長、牟田(高橋ひろし)と反応工程職長、猿渡(平尾仁)が時々現れ、現場がこれら会社側の人々によって監督されていることがわかる。猿渡は、いまは遊んでいるインディゴ染料の設備を動くように整備しておくようにいうが、軍需品でもない染料の生産を何故しようとするのか。
こうした職場の日常は、体験したものにしか書けない細々としたやりとりの集積であるが、この一見のどかな風景の背後に広島の新型爆弾やB29による爆撃など深刻な現実が迫っていた。
影山の故郷では、母親が息子の逃亡を恥じて縊死し、父親は市役所を辞めたという。影山はまだこれを知らない。
林が工場の敷地で影山と会うと、しばらく隠れていたが、明日会社に出てきて召集に応じると言った。
その日、清原が田宮、林にも召集令状が来たと言って憲兵をともなってやってくる。
その時、空襲警報が鳴り響き、機銃掃射が工場の壁を貫き、爆弾の響きが聞こえてきたと思ったら空襲が始まった。
田宮の問題の本は、自分が貸したと太宰が申告してきたので逮捕したと憲兵。姿を現した影山を憲兵が連行しようとしたたかに殴打。その中で影山が「見張り」で自分がやっていた仕事は、戦争が終わったあとの計画だったと明かす。つまり、影山は少しの間、隠れていれば戦争に行かなくてすむことを知っていたのであった。
田宮は清原助教授が持ってきた赤紙を目の前で破り捨て、影山を憲兵に売ったと清原の態度を厳しく詰る。しかし、憲兵に影山が現れると告げたのは林であった。
この騒ぎのなか、現場事務所からあがってきた正枝が、防空壕から田宮に用事があるといって飛び出た林の背中に機銃掃射があびせられ、また、憲兵にひかれていった影山が三階から飛び降りて死んだ、と告げる。
空襲の大音響の中、正枝と田宮はひしと抱き合って離れない。

 

この第三幕の終盤は、怒濤のような進行で、一個のセリフに一個の重い現実が対応しているにもかかわらず、それらがまるで夢の中の出来事のような感覚で展開する。それが、作者、宮本研の意図だったのか、あるいは演出の凡庸さなのかはわからなかったが、何か大急ぎでものがたりを終えたいという性急さを感じたところだった。
続く終幕は、前に書いたように翌年、昭和二十一年三月に飛んでいる。

 

復員姿の田宮が久しぶりに職場を訪ねてきていた。
GHQの指令で各企業に労働組合が結成され、この職場でも近く役員選挙があるというので太宰が立候補の準備をしている。
大学へ進学したかと思った太宰が訊ねると、田宮はいま、故郷へ戻って百姓をしている、何かをするという気分になれないという。

 

「どうしてって訳じゃないないんですが、なにかこう・・・まわりが霞んでしまって、自分がどこにいるんだか、どっちを向いているんだか、何をしたいんだか・・・さっぱり見当がつかないんです。いままで、なにか、積み木細工のうえにあぐらをかいてたみたいで、それがグヮラグヮラ壊れてみると、何からどう手をつけていったらいいのか、どこをどう歩いていったらいいのか、さっぱり見当がつかないという感じ。・・・」

 

見習い工の矢部が、いきいきと組合活動に取り組もうとしている。
荒尾がやってきて、何もなかったら今夜泊まりに来いという。
その前に、「『見張り』に寄ってみるか?」
田宮が頷く。
「ばってん、前の『見張り』は焼けて無うなった。」
田宮がここを去った明くる日、『見張り』は直撃弾を受けていた。
荒尾が、ぽつりとつぶやく。
「正枝は死んだたい。」
・・・・・・立ちすくむ田宮。
かすかな歌声と工場からサイレンの音が鳴り響いている中、溶暗。

 

 

 

終戦と言う現実が、田宮に生きる方向感覚を失わせてしまっている。労働運動や社会主義の理念は、太宰とひそひそ話す話題であった。その本もひとに隠れて読むものだった。
しかし、いま目の前にあるのはその理念が宿った生きた身体であり、その目的に力強く歩み始めたひとびとのエネルギーである。
田宮の実感は、これでいいのだろうか?この現実を、オレは受け止めて肯定的に生きていけるのだろうか、と言う戸惑いである。
これこそ作者の真情を投影したものであり、宮本研の戦後の出発点であったということができる。

 

宮本研は「8・15と私の原理」という短いエッセーの中で、こう書いている。
劇の中にあった、会社が染料の生産設備を動かす準備をしていたことを引いて、

 

「戦争の大義はすでに残骸と化していた。タテマエの世界は瓦解し、ホンネが白昼を横行しはじめていた。国家の原理が死に、私の原理が顔を見せ始めていたのである。
天皇の放送。誰も泣かなかったはずである。泣きようがないのだ。途方もない徒労感。何百万の同胞を失ったのは悲しいけれど、でもこれでよかった。これしかなかったのだというのが、それぞれの世代の、それぞれの場所での「八・一五」であっただろう。人々は黙々と生活の中に帰っていき、その日から、私たちの「戦後」が始まるのだ。
『民主主義』と『日本国憲法』の時代である。占領軍がいた。オールマイティである。彼らはこの二つのものを私たちの前に提示した。有無は言わせぬ勢いである。戦争に負けるというのはこういうことなのかという思いが胸をよぎったりする。しかし、人々は何のためらいもなく、この二つのものを受け入れてしまう私たちは無節操だったのだろうか。軽薄だったのだろうか。」

 

このエッセイの中には、劇の最終幕そのもののような心境の吐露があり、この劇が間違いなく宮本研の体験であり実感であったことが分かる。

 

「・・・しばらくして、私は戦争中の動員工場を訪れてみた。工場がどうなっているか、いっしょに働いていた職長や責任工、見習い工の人たちはどうしているか、会ってみたかったのである。工場は操業を開始していた。いつかの遊休設備も整備を終わり、操業開始の直前であった。働いていた職場に顔を出してみると、みんながいて、歓迎してくれたのだが、私を驚かせたのは、工場に「労働組合」というものができ責任工や見習い工それに職長までが「組合員」であり「労働者」であることだった。みんないきいきとしていた。戦争中の思い出話がでた。みんなよく笑った。私だけがなんとなくしょんぼりとしていて、その理由を聞かれたりした。理由は言えなかった。自分でもよく分からなかったからである。」

 

宮本は、
「途方もない徒労感。でも、これしかなかったのだというのが、それぞれの世代の、それぞれの場所での「八・一五」であっただろう。」と書いているが、このとき「オレは「遅れてきた」と認識した皇国少年もいた。戦争に参加できなかったことを嘆いたのである。
大江健三郎の『遅れてきた青年』は、兵隊として散華することを夢見ていた少年が、戦後になってそれ故に喪失感や焦燥感に駆られるというものがたりを書いて自分の世代のある種、憂鬱をえがいた。
この差は微妙である。
1926年生まれの宮本研は、終戦時、二十歳前後で、すでに大人であった。しかも、この年代は最も戦死者の多い世代である。一方、大江は1935年(昭和10年)生まれで、終戦時はまだ小学生だ。
大江健三郎は、宮本研の世代が経験した運命の過酷さと社会の劇的変化、それが精神に突きつけた試練を一種の羨望を持ってながめていたのである。
まさに宮本が言うように『それぞれの世代の』終戦であった。
宮本は書いていないが、この世代にはもうひとつ言い分があるはずだ。と、僕は思っている。
「この戦争は、俺たちがはじめたわけじゃない。」
彼らは満州事変のとき、まだ六歳である。
大人が始めた戦争の始末は自分たちで付けろ、とは言わないが、いい加減ものごころついたときは心の片隅でそう思わなかったはずはない。それが、最も戦死者の多い世代になってしまった。
「天皇の放送。誰も泣かなかったはずである。泣きようがないのだ。途方もない徒労感。」
この言葉には、より年少だった大江の世代とは違って、当時の大人たちに対する批判がこもっているように僕には思える。
(A級戦犯については議論のあるところだろうが、戦争を始めた世代なりの責任はとったかたちだろう。)

 

 

 

さて、この劇評の最初に「僕にはつまらない劇であった。」と書いた。
思想書狩り、兵役拒否、赤紙、憲兵の乱暴狼藉、企業の狡猾さ、ここには戦前の典型的な理不尽がある。現代から見れば、とても容認できない出来事ばかりである。大江健三郎は、そこにある種の郷愁を覚える程のかすかな経験を持っていたが、戦争が終わったばかりの日本に生まれた僕たちの世代はそれを全く持っていない。
「天皇を神だと思え」といわれたらその時代をいくらかでも経験したものならば、どういうことか分かると思うが、僕たちの世代は「天皇=神」を実感として受け止めることができない。従ってどうすればいいのか戸惑うばかりである。
同様に、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったことを「よかった」とか「押しつけられた」とか「戦前が正しい」とかの議論ができない。なぜなら、生まれたときすでに、日本国憲法の下で生きていたのだから。
登場人物に感情移入して「神皇正統記」を講じていた口で「デモクラシー」を教えようとする助教授に怒りを覚えても、すぐに分かるのは、それを「嘘つき」とか「背徳」と正義感だけで批判するのは子供じみたふるまいだ、ということである。
憲兵が一般人に乱暴を働くというのも、召集令状もいまはない。おとぎ話のように馬鹿馬鹿しくもいまとは裏返った世界である。それらは歴史的出来事として評価すべきものであり、それではそもそもこの劇全体が、僕にとっては歴史的出来事なのであって、しかも生きた時代の違う他人が経験した出来事なのだ。
これをどう、思えばいいのだろう。
僕らは、「途方もない徒労感」を味わったこともなく、「遅れてきた」実感もなく、つまり、人生の出発点で誰しもが否応なく考えざるを得ない「何か」を持たない、のっぺらぼうのつまらない人生だった、と言うことを際立たせるという意味で、僕にとっては二重につまらない劇だったのだ。

 

 

 

戦後、長い間、問題だったのは、宮本たちの世代が提起した「戦争は二度とごめんだ」という護憲論とそれに対する「押しつけられた憲法」論であった。
以前、同世代の加藤典洋が、日本国憲法は「押しつけられた」感じがするという議論をしていたことを、経験したことでもないのにどうして言えるのか?と批判したことがあった。(「取り残されたものたちへ 加藤典洋「戦後入門」の無残(準備編)
加藤は僕らの世代に共通のある種の典型であったが、それは、自分が経験したことのように宮本らの世代が提起した「戦後的議論」に自ら加わっていたことで、その視点は借り物にすぎなかった。
加藤は、立ち位置から言って、彼らに巻き込まれたと言うこともできるが、それでは、加藤とともにこの世代は何を主張すべきだったのか?
「原点」に学生運動がある、ということは言えるかも知れない。
しかし、60年安保は、大江の世代たちのエリート学生がリードした観念的革命論で、どこにもリアリティはなかった。選挙では圧倒的に自民党が多数派だったのである。68年〜70年の学生運動も様々な議論はあるが、どこにも革命の機運などないのに観念的世直し論にただ酔いしれただけであった。
これを、エマニュエル・トッドは「ユース・バルジ」と言って若年層の人口比が30%程度になると社会は不安定になると言ったが、世界中のベビーブーマーが暴れたこの危機も、世界は空前の経済成長を持って難なく切り抜けた。実際、我が国の経済成長は1975年にピークを迎え、そこからなだらかな下降線をたどるのである。
僕は以前、英国の同世代の作家サー・デヴィット・ヘアが書いた「The Breath of Life」の劇評でこんなことを書いた。
「マデリンは、60年代をアラバマとUCバークリーで過ごし、一度は世界の変革を夢見たたインテリである。・・・マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」といった。我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。5年の抗議、黙従の30年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。
あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。」(劇評「ブレス オブ ライフ~女の肖像」)
我々の原点には異議申し立て、抵抗という疑似革命運動があった。しかし、それも五年ほど続いてあとは黙りこむしかなかった、結局、後世の歴史家はこの世代は空前の豊かさと繁栄を連れてきた、ということはそれを享受したものだと記すに違いないというのである。
「原点」。そこへ行こうと向かってもそこだと思う地点には、何もない。探しても探しても何もない。それが僕たちの世代である。

 

 

タイトル 反応工程
観劇日 2021/7/22
劇場 新国立劇場
主催 新国立劇場
期間 2021年7月12日〜25日
作 宮本 研
原作/翻訳
演出 千葉哲也
美術 伊藤雅子
照明 中川隆一
衣装 中村洋一
音楽 藤平美保子
出演 "天野はな 有福正志 神農直隆
河原翔太 久保田響介 清水 優
神保良介 高橋ひろし 田尻咲良
内藤栄一 奈良原大泰 平尾 仁
八頭司悠友 若杉宏二

 

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2021年8月11日 (水)

劇評「1911年」

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昔、大学の本部事務棟が封鎖されたというので、駆けつけると、教室から運び込まれた大量の机と椅子が、ロビーの天井まで積み上げられ、バリケードになっていた。わずかに人一人が身体を横にすれば何とか進めそうな隙間をみつけて、入ると、内部はジグザグに曲がりくねっていて、容易には向こうにたどり着けない構造になっている。
一体、こんなものを構築する技を、誰がどこで学んできたものか、あるいは外部から招き入れたものか、いずれにしても、ずいぶんと手慣れたものの仕業に違いないと思ったものだ。
中で演説の真似事をしていたら、一人の学生が突然ふざけているといって、長い竹竿の先で叩いてくる。理由もよく分からないから、その変なやつにはずいぶん閉口したことを覚えている。機動隊が導入される数ヶ月の間、本部は解放区になり大学は機能停止した。・・・・・・もう半世紀も前のことになった。

 

 

シアタートラムの舞台は、アーチ型の出入り口がついた袖が少し出張っていて、その間の空間が本舞台になっている。天井近くまでの高さで前側と後を分ける様に木机と椅子を積み上げ、あの大学本部のバリーケードよりは遥かにまばら(奥の方は見えている)な仕切りになっている。下手寄りに一人分の出入り口があり、これは彼岸と此岸をわずかに結ぶ隘路のようであり、木机と椅子は当時の法廷の雰囲気を想起させるものでもあり、時に全体が前方に迫り、時に後退して情動を象徴する。この美術の長田佳代子のもくろみは成功していると思った。

 

一人の老人が舞台に浮かび上がり、「私は人を殺した」という苦渋に満ちた独白から劇は始まる。
元東京地裁判事、田原巧(西尾友樹)で、自分は大逆事件で、多くの被告が冤罪であるという確信を抱きながら、1911年当時自らその中にいた司法のヒエラルキーに抵抗できなくて、12人の死刑執行を許してしまったと言う告白である。
我が国が敗戦を迎えるまで、大逆事件の全貌は、厚いベールに包まれていたが、この告白によって、ようやくその裁判の様子を明らかにする端緒が生まれたというのだろう。
続いて、編笠を被った十二人の死刑囚が舞台奥に浮かび上がると、次々に名前を呼び上げられ、下手の出入り口から舞台前に現れ、上手袖に消えていく。
1911年1月24日、死刑は執行されたという衝撃的な事実が告げられる。

 

田原巧がその上司である潮常太郎判事(佐藤弘幸)とともに、予審判事として事件の担当を命じられたとき、検察から受けた公訴提起の被告名簿の筆頭に幸徳傳次郎の名があったことに驚く。事件は、信州明科の製材工場で行われた爆裂弾の実験が明らかになり、これが天皇暗殺を企てるものたちの仕業であったと、田原たちは認識していたからだ。信州の事件に無政府主義者、幸徳秋水の関与があったとは聞いていなかった。
この予審判事という制度はいまはない。
予審判事とは、検察から提起があった被告事件について必要な事項を取り調べ、公判に付するか否か決定する権能である。(公判において、予審判事の調書は、検事調書と違って、絶対的な証拠と取り扱われるから極めて重要であったが、弁護人の立ち会いもない密室で行われたから問題は多かった。)
検察から送致された事件は、全国の社会主義者や無政府主義者らが共謀して天皇暗殺を企てたものとなっていたが、田原たち予審判事が調べても、被告が共謀した証拠は出てこなかった。
劇は、検事総長松室致(林隆三)のもとで取調を行う武富済検事(島田雅之)、小原直検事(近藤フク)が被告を恫喝し脅迫、自白を強要する凄まじい取調ベがあったことを描いていく。これを了解し、むしろ主導していたのは司法省刑事局長兼大審院次席検事、平沼騏一郎(浅井信治)である。平沼はのちに総理大臣になる政治家であり、大逆事件のシナリオに最も深く関わっていた一人であったと描かれている。
田原たちに加えられる圧力は、検事局からだけではなかった。事件を担当した大審院判事、末広厳石(岡本篤)は国家の意思を忖度するよう陰に迫り、裁判長、鶴丈一郎(吉田テツタ)、大審院長横田国臣(青木柳葉魚)も証拠に基づいた公平な裁判を行う気はさらさらなかった。
被告で唯一登場したのは幽月管野寿賀子(堀奈津実)で、天皇睦仁は人民にとって必要ない存在だと計画の一部を認めたが、本件全体の構図は検察のでっち上げだと主張した。
数人の有力弁護人も採用されているが、劇には事件のなりゆきに衝撃を受けた与謝野鉄幹が推薦した若い平出修(菊池豪)が登場し、熱弁をふるうも、影響はなく、粛々と裁判は進行する。これはもはや裁判とは言えず、あらかじめ設定されていた政策の一種、国家による政治ショーであった。
裁判が結審したところで、元老山県有朋(谷中恵輔)が登場し、この陰惨なイベントの黒幕であったと劇は明かす。「これは天皇のご意思であり」それを受けて自分が行ったことだという。
何故あなたはこれをやったかという天からの質問にはこう応える。
「それはワシが権力だからだ。」と。
自由と平等を掲げた明治維新を成し遂げたあなた方の精神に照らしてこれを恥ずかしいとは思わないかという批難にも、「権力というものは、手放してはならないものだ」といって、山県が天皇に名を借りて社会の支配にこだわったと言う印象が示される。
判決後すぐに、予審判事や検事からも恩赦による減刑が求められた。取調を行った司法官たちもこれはやり過ぎだと認識していたのだろう。しかし、半数が無期に減刑を認められ、半数の十二人に対してはそのままわずか六日後に執行された。十二人の氏名と執行時間が読み上げられ、最後に翌日執行になった菅野寿賀子が「われ主義のために死す、万歳」と叫んで、刑場に消える。
・・・・・・
舞台は開幕時に戻って、いまは老人となった田原巧元予審判事が、昔の裁判を悔いているところへ、一人の若い女性が現れる。新日本夫人同盟の女性解放運動家で、菅野の様な犠牲の上に、ようやくいま婦人の様々な権利が認められる様になったという明るい声に田原は、救われた様な表情になり、終幕を迎える。

 

 

この劇は、大逆事件を「裁判」と言う視点で捉え、予審判事の葛藤を通して、政治の司法への介入および蹂躙を描いたものと言える。
裁判は、信州明科の事件が、無政府主義者らの計画したものとされ、その逮捕者は、東京、和歌山県新宮、大阪、岡山、熊本など全国の数百名に及んでいるが、劇では死刑判決を受けた被告それぞれにどんな事情があり、その関連性がいかにでっち上げられたかを論証しようとしているわけではない。

 

結局、黒幕の元勲山県有朋に「わしが権力だからだ」と言わせたところを見ると、この裁判の欺瞞性は、司法組織を手足の様に使って、一人の権力者が一部の人間の思想活動を合法的に弾圧したところにあるといいたいようだ。
権力があれば何でも出来る。これは劇の主張だから、それはそれで成立する見解であろう。
そのように、大逆事件は権力側のでっち上げだった。いまは、新憲法下でああいう弾圧はできなくなった。めでたし、めでたし、というので歴史を描いたとするのは、半世紀後の1960年代になって行われた、被告の名誉を回復しようと言う訴えで、昔の特殊な環境の下で行われた裁判の是非を問うことは出来ないといういまの司法の見解とあまり変わらないことになる。

 

 

この劇が、大逆事件の歴史的意味を問おうとしているとして、それに足りないところがあるとすれば、何故権力側が明らかなでっち上げ(司法制度をゆがめてまでも)を行ってまで、無政府主義者や社会主義者たちを根絶に近い弾圧をする必要があったか、その背景が説明されていないことと、大逆事件はその後の知識層の政治的文化的活動に甚大な影響を与えたという点では、それが終わったと同時に始まったとも言えるが、その歴史的意義に触れていないことである。

 

劇中、山県有朋に代表されるような国家権力は必ず人民を弾圧するという前提が自明である(国家は暴力装置)とするならその理由を問うのはナンセンスである。事件が何かの終焉を告げるものならばその後がどうなろうとは問われまい。
しかし、近代国家として出発してから約半世紀、法治国家を標榜する身としては国民にその正当性について何の説明もなく権力を行使することは出来ないし、事件後の世間の空気が一変したならば、事件の意義を問うことは歴史を検討する作業として当然のことであろう。

 

もちろん、舞台劇としてそれを表現するには限界はあるが、歴史を扱う視点には両面から見る公平性とその歴史的意義の評価は欠かせないものである。
つまり、この劇の言う司法壟断事件は、何故起こったのか?という問いに、幽月菅野寿賀子らの「思想」を権力が弾圧したとみるだけでは、幕末の井伊直弼が攘夷論(思想)を唱えるものを片っ端から捕らえて死罪にした構図と同じ権力と見えるのである。

 

 

先日、香港で24才の若者が「香港を解放せよ」などと書いた旗を掲げて治安警察に突っ込んで逮捕された事件で、国家安全維持法違反の罪(テロリスト行為と国家分裂を扇動した罪)で禁固9年を言い渡された。
我が国はじめ欧米などの民主主義国家では、反政府的あるいは反社会的な何かを書いた旗をもって騒いでも逮捕されることはない。バイクで突っ込んだら暴力行為や傷害罪に問われることはあっても、九年も獄につながれることはまずない。我々の側では「香港解放の旗」で国家が分裂するとは誰も思わないからだ。分裂させようと思うものがいたとしても、旗を振る作戦でそれが実現できると思うものはいない。
ところが、中国共産党は旗を掲げただけでも国家分裂の扇動だと司法組織挙げてこれに対抗しようとする。
何故か?
いうまでもなく、不安だからである。
香港の自由と民主主義を認めれば、それが蟻の一穴となって、中国共産党員八千万人が君臨する国家組織は根底から崩れると思っているのだ。経済発展は遂げたが、沿岸部、内陸部の格差や一党独裁、特権階級の存在への不満は潜在し、その内部矛盾がいつか爆発すると言う不安が中国共産党内部にあるからだ。この力学は、国際社会からの圧力が強まれば強まるほど、あるいは外に対して自らその圧力を高めれば高めるだけ、内部に対する統制の圧力も上昇するという定式にあてはまる。
ひとの「思想」や「言論」を取り締まると言うことはすなわち恐怖の裏返しである。

 

 

さて大逆事件が起こった百年前、我が国はどうであったか?
その五年前、からくも日露戦争に勝利した我が国は、ようやく列強の仲間入りしたという高揚感から大衆運動も盛んになり、社会主義を標榜し普通選挙を要求する政治運動や労働組合結成の動きも見られる様になっていた。これを殖産興業の国是に反するものとして山県有朋内閣は1900年、治安警察法を制定し、ストライキを違法とするなど労働運動を徹底的に取り締まった。

 

このときの我が国の立ち位置はどうであったか。
時代は少し遡る。
この劇でも一言だけ触れられているが、大津事件のことである。ここでは、二つのことを述べておきたい。
まず、この事件は、1892年(明治24年)ロシア皇太子ニコライが来日中、琵琶湖の大津で警備中だった巡査に切りつけられ怪我を負った。これで、大国ロシアが攻めてくると大騒ぎになり、戦争になることを心配した政府は、ロシアの要求でもあった即刻犯人の巡査を死刑にすることで解決しようとした。それほど、有り体に言えば、ロシアが怖かったといえる。つまり、司馬遼太郎が「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」と書いたあの国が二十年ほど経ってようやく一人歩きできる様になった頃だった。ひとつめは、この日本の国力、立ち位置の認識。

 

これが江戸時代なら幕府が独断で死罪にすることはできたが、近代日本では行政が司法に介入することは出来ないとされていたから裁判にかけなければならない。罪状は殺人未遂あるいは傷害罪だが、その最高刑は無期懲役である。政府は、大逆罪を適用して、起訴せよと司法に迫ったが、裁判長、児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」という立場を貫き、刑法に外国皇族に関する規定はないとして、政府の圧力をはねのけた。
三権分立を貫こうとした司法官らの見識と、我が国で法治主義の確立がなったと言うことが二つ目。(大逆事件は、この法治主義を知りながら、それを蹂躙したという点でもいかに政府の社会主義・無政府主義に対する恐怖が大きかったかを物語る。)

 

かくして、大国の間でようやく認められる様になり、近代国家としての体裁も実質も備えられつつあるという時代であった。

 

そうした中で、新たに発生した工場労働者の待遇を巡る労使の対立が、国家経営のあり方を異にするイデオロギーの対立となったため資本側に立つ国家は労働運動が暴動や政府転覆に発展しない様、取り締まる必要に迫られた。
世界を見回しても、先進国は同じ事情を抱えていて、体制内で改善を目指す社会民主主義とは妥協の余地もあったが、無政府主義、暴力革命を目指すマルクス主義などとは厳しく対立した。
我が国では、1901年、幸徳秋水らを発起人とする初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが伊藤内閣はこれを禁止、1904年には社会主義協会も解散を命じられ政党運動は徹底的に弾圧された。1906年、西園寺公望内閣になると、はじめて合法的な社会主義政党「日本社会党」の結成が認められたが、これは暴力革命を目指す幸徳らの「直接行動派(硬派)」と議会を通じて政権を窺う「議会政策派(軟派)」に分裂、結局、暴力革命の直接行動派を警戒した政府によって、一年後には解散させられている。
また、世界を見ても、労働運動の政治への反映は大きくなり、これらの思想活動は国際的な組織を形成しつつあり、連携して内部崩壊を企てる危険も想定された。実際、日露戦争のさ中、ロシアで発生した労働者のストライキや戦艦ポチョムキンの反乱(軍隊の反乱)などロシア第一革命の混乱を目にして、暴動から革命に発展する危険性は大きいことを政府は確認している。
一方、欧州バルカン半島の諸国をめぐり各国の緊張関係が極度に高まっており、第一次大戦前夜のこの時期に国内の不安を取り除いておきたいという政府の考えは自然であったであろう。

 

マクロな視点はここまでにして、この時期、我が国の社会主義運動はどうだったのか。
政府による弾圧に次第に追い詰められて行く中で、1908年6月に「赤旗事件」がおこる。
これは、筆禍事件で獄中にいた同志が出獄するというので硬派、軟派が共同でひらいた歓迎会が終わろうとしているとき、硬派が突然「無政府共産」「社会革命」などと書かれた赤旗を取りだし軟派が止めるのも聞かず革命歌を歌いながら振り始めたので、警戒に当たっていた警官ともみ合う騒ぎになった事件で、山川均、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村ら(菅野寿賀子も逮捕者の中にいたが、のちに釈放)数名が逮捕された。この事件で、比較的社会主義に寛容だった西園寺内閣に批判が集まり、翌月にはこれがため辞任に追い込まれ、以後新内閣の弾圧はいっそう峻烈になっていった。

 

「寒村自伝」によるとこの事件は、「郷里の土佐に静養中、この事件の報に接した幸徳秋水氏は、市ヶ谷拘置監の私たちに慰問のハガキを寄せて「悲愴極まる無政府党の宣言式」と称した。・・・・・・実は大杉(栄)と私がいたずら半分に計画したことで、必ずしも意識して「悲愴極まる無政府党の宣言式」をやったわけではない。」
旗を振ってもみ合っただけだからせいぜい二三ヶ月の拘禁とふんでいた彼らであったが、懲役一年半から二年半という長期刑になったのは意外であった。
この裁判で判決を言い渡す裁判長の手が震えていたと、寒村は書いているが、旗を振っただけで、一年も二年も懲役というのは、司法に政府から圧力があったという意味であろう。香港の事件が九年というのはいかに長いかが分かる。

 

それはともかく、硬派は主要な活動家を失い、軟派も同様、演説は禁止、出版物は発禁、「警察の非常識極まる監視」(『寒村自伝』)と次第に活動の場を奪われ、「火の消えたような有様」(同上)で政府の厳しい迫害に、不満は鬱屈していった。

 

赤旗事件の後、大逆事件の序章ともとれるある文書が米国から送られる。
Photo_20210811113401「寒村自伝」から引用しよう。
「赤旗事件の直後、幸徳氏が在米中に組織したサン・フランシスコの日本社会革命党から、『睦仁足下に与う』と題する印刷物が密輸入され、その一部は当局の手にも入った。それは明治天皇に向かって同志を迫害する無道圧政を糾弾し、他日の復讐を宣言した大不敬の内容であったから、さなきだに反動的な桂内閣は、折りもあらば社会主義運動を殲滅しようとする決意を固め極力取り締まりを厳にしたのである。」(P202)

 

社会主義運動に対する「恐怖」に極限の「憎悪」が加わった瞬間であった。憲法で「神聖不可侵 の存在」と定められた天皇に復讐とは、もはや国家の敵以外の何ものでもない。社会主義者がこの理屈を知らないはずはなく、これは覚悟のうえだったのだろう。
このような状況になれば、どんな組織体でも跳ね上がりは出てくるもので、実際に天皇暗殺を実行しようとするものが現れた。
信州明科の事件である。時の政府はこれを千載一遇の機会と捉えて、国内の無政府主義・社会主義者を一掃しようと全国で数百名を逮捕し、そのうち二四人を起訴した。社会主義者側としては政府の挑発にまんまとのせられた形である。
裁判が終わると、残されたものは判決文だけであり、弁護人にも関係書類を返却せよと命じたと言うから、この裁判の内容は知られたくなかったのであり、海外からも思想弾圧と批難される中、法治国家であると言う面目はかろうじて保っていたかったのである。
書類が残っていない限り、真相は明らかとは言えないが、状況から数人の計画したことに、関係のない大部分の者が巻き込まれた事件であることはほぼ間違いない。
最も近くにいた荒畑寒村のみ立てでもそれである。
少し長いが、この劇では詳細が語られることがなかったので「寒村自伝」から引用する。
「・・・判決文によれば、被告らは社会主義者に対する政府累年の弾圧、なかんずく赤旗事件の被告に加えられた 過酷な刑罰、及び爾後の苛察竣厳な迫害に憤慨し、幸徳は郷里から上京の途次、各地の同志を歴訪して天皇の暗殺、暴力革命の必要を説いた。
四十二年六月、愛知県亀崎の製鉄所から長野県明科の大林区署製材所に 転職した宮下(太吉)は、上京して幸徳、管野、新村(忠)、古河らと天皇暗殺の陰謀を図り、幸徳は奥宮から爆弾の製法を得てこれを宮下に伝えた。 
宮下は紀州新宮の医師大石方に滞在中の新村に依頼して必要な薬品を入手し、新田、新村 (善)の協力を 得て爆弾を製造し、ひそかに山中でその効力を実験した結果、四十三年の天長節当日、天皇の行幸を期して大逆を企てるに決した。 
この陰謀が未前に発覚したのは、長野県の松本警察署が、要視察人の宮下が新田に依頼して使途不明のブリキ罐二十四個を製作し、且つ薬研を用いて薬品を粉末にした事実を内偵察知した一方、職工長宮下の部下で親交ある清水某が宮下から火薬の木箱を託された上、陰謀をうちあけられて驚いて製材所長に密告したためであった。一説によれば、宮下は清水の妻と情交があり、その女に秘密を明かしたのが発覚の端緒となっ たともいわれる。 
事件の辯護に当った今村力三郎氏は、後日に著わした『刀言』の中で、奥宮健之は幸徳に異志あることを知ってこれを当時、穏田の怪行者と称せられた飯野吉三郎に告げ、飯野はこの事実を内務当局に報告したと 推測せられ得る事情がある。」

 

ここにある「穏田の怪行者と称せられた飯野吉三郎」については少し説明が必要だろう。
飯野は、日本のラスプーチンと言われた祈祷師、宗教家で、(怪しげな香具師とも)皇室に近い、実践女子を創立した同郷の下田歌子を通じて、上流階級に食い込んでいた。この飯野の密告によって大逆事件の全容は発覚(?)したと寒村は推測しているが、これにどういう事情があったのか、昭和38年(1963年)6月の衆議院法務委員会での質疑応答の中にこういうのがあった。
社会党の猪俣浩三とは我々世代にはなじみの政治家だが、委員会で参考人の大逆事件研究家の神崎清にこう質問している。

 

「私はいま正確な年月日をはっきりしませんが、昭和の七、八年ごろからあと四、五年くらい、青山の穏田にあります飯野吉三郎という人物、穏田の神様といわれておって、新しい人はわかりませんが、古い政治家は知っておると思います。ある特別の事情があって、この人物と相当長い間つき合っておりました。そのときに、この飯野吉三郎なる人物が私に言うには、あの幸徳秋水の大逆事件というのは、ぼくが告発したのだ、あれによって日本の無政府社会主義者を一掃するチャンスをぼくが与えたのだ、それはぼくのところにいまおるそれがし――私はそのとき名前を覚えておったのですが、いま忘れてしまったのです。これは書生か執事かみたいになって飯野のうちに寄宿していた人物があるのです。どうも若く見えるけれども年は四十前後じゃないかと思うのです。これがスパイをやっておって、これが生きた証拠となってあの事件はできた。そうして明治天皇を救うて、日本の皇室を安泰にしたのだ、だからぼくは日本の皇室にとっては大忠臣なんだ。しかるに皇室がぼくに対する待遇ははなはだよろしくないというような気炎を上げておりましたが、幾らか御内帑金が来ておるようなことを言うて、紋章のついたキリの箱みたいなものを見せて、これが宮内省からくるのだというようなことを言うて見せた。自分に対する待遇がよろしくないというのは、金が少ないという意味であるか、もう少し自分を重く用いろという主張か、わかりませんが、そういう気炎をたびたび上げておりました。私も興味を持っていろいろ聞いたのですが、いま大半忘れておりますけれども、とにかくあの事件は自分があばいた、自分のところにおる人物が生き証人となってつくり上げられたということを言っておりましたことだけはっきり覚えている。こういうことに対して、大逆事件の歴史的な研究をなさっておる神崎さんに、その研究の中にこの飯野吉三郎なる人物が登場するかどうか、登場するとすれば一体どういう役割をしたように歴史的にはなっておるのであるか。いま実はあなたの説明を聞いて思い出したわけです。これをお尋ねいたします。」
これに対して神崎清は次のように応えている。
「飯野吉三郎は穏田の怪行者といわれ、ロシア皇室のラスプーチンと比較される男でございますが、この飯野は確かに大逆事件の黒幕に姿が出てくるのでございます。飯野は秋水を何とか手なづけるというようなことで、秋水がたずねて行ったりしておりますが、しかし一緒に伊勢神宮に参拝しようじゃないかというときには、私は伊勢には行かないといって、秋水は、はっきり断わっております。そうしてこの告発云々に関係があると思われますのは、秋水が、奥宮健之という自由民権運動の老壮士に、自由党時代の爆裂弾の製法について聞いたりしております。そうしますと、奥宮健之が飯野のところへ参りまして、この秋水がこういう不穏な計画をやっておる、自分に一万円金をよこせ、そうすれば秋水を下野外遊させる、そうして事件をうまくおさめるということで売り込みに行っております。そうしますと、この飯野は、すぐ内務省警保局長有松のところへ電話をかけて、奥宮はこういうことをネタに金を要求してきておるが、どうしたものであろうか。それに対して有松警保局長は、これは金をやる必要はない、しかし情報連絡をして情報だけはとっておけ、そういう指令をしておることが事件記録の中にも、参考人に呼ばれた飯野の供述の中に出ております。
それからもう一つ関係があるというのは、なくなった白柳秀湖という歴史家の説でありますが、これはあの事件をさかのぼっていくと、社会主義新聞で、「目白の花柳郷」という記事で、つまり下田歌子とこの飯野吉三郎のスキャンダルについていろいろあばき立てた。それで飯野は非常に恨みに思っていた。それで、あることないこと訴えてあの事件をつくり上げていったというようなことを話しておられるのを聞いたことがございます。しかし、これは大逆事件外伝というようなものであって、事件の本質にタッチしておるというふうには私どもは考えておりません。」

 

再び、「寒村自伝」の記述に戻る。
「そして内務当局は、長野県の警察から宮下らの爆弾実験の報を得、まだ関係者 の範囲や目的などがわからないで疑惑につつまれていたが、飯野の密告によってはじめて事件の全貌を知ることが出来、ここに逆徒を一網打尽し得たるものならんか、と書いた。奥宮は社会主義者以外の唯一の被告で、彼が真にスパイであったか、或いは幸徳の懐柔策を飯野に図って却ってその売るところとなったか、この事件にまっわる永久の謎であるが、これもまた事件発覚の端緒に関する一説である。いずれにせよ、以上のような経緯はあくまでも裁判所の解釈に過ぎない。然るにこの裁判は、今村氏が 『幸徳事件の回顧』の中で、 『私は今に至るもこの二十四名の被告人中には、多数の冤罪がふくまれていたと信じています。天下の耳目を錯動したあれ程の大事件に、辯護人の申請した証人は残らず却下して、全被告を死刑に処したのですから、裁判所は予断をいだき、公判は訴訟手続上の形式に過ぎなかったと、私は考えていました。厳刑酷罪を もって皇室に忠なるものとする固陋な裁判官には、辯護人の辯護など耳に入らないのであります』と痛憤し ているように、実に偏頗不公平を極めいた。従ってその判決が、事件の真相を伝えていたとはとうてい信ぜられない。
大逆事件は全然無根拠でないとしても、その陰謀はわずかに三、四人の計画にとどまり、他の約二十人は 政府がこれを奇貨として社会主義運動の活動分子を、一挙に殲滅しようとした奸策の犠牲に外ならないとい う意味では、たしかにフレーム・アップといわざるを得ないのである。 この事件は裁判所によって、幸徳秋水が首謀者とされているが、実際上の中心人物は宮下太吉、管野須賀子、新村忠雄、古河力作らで、殊に宮下は陰謀の発意者であった。彼については前にも記したが、天皇制に 対する国民の根ぶかい迷信を見て、天皇といえども同じ血の出る人間にすぎないことを国民に示し、その偏見謬想を打破するのでなければとうてい社会主義を実行することは出来ないと信じ、天皇暗殺を決意したといわれる。彼は明科におもむく途次、幸徳を訪うてまず管野に決心を語って同意を得、その推挙した新村、古河を加えて計画を謀議したことが大逆事件の発端であった。 
管野らが容易に宮下の説に賛同したのは、既記の如く赤旗事件以後、特に秘密出版『睦仁足下に与う』を 見て驚愕した政府が、社会主義者を一掃して危険思想を根本的に亡ぼそうとする、徹底的な弾圧政策に憤慨激昂した結果に外ならない。しかし今日のような大衆運動の全然存在せず、社会主義運動が少数の先駆者的 グループに限られ、しかも言論の自由を奪われていた当時の状況では、彼らが合法的、大衆的な反抗を組織する可能性は皆無であった。迫害に対する悩恨と無力の絶感が、彼らをして最後の一匹を個人的テロリスムに求めようとするに至ったのは、人間心理の当然の帰結といわねばならぬ。 
これは大逆事件が、二十数人のほとんど全国的な組織的陰謀といわれるにもかかわらず、その計画が何ら積極的な目的をもっていない事実を説明する。たとえば、新村忠雄の陳述によれば、彼は管野から天皇を斃 して人心の動揺に乗じ、『小革命』を起す計画を聞いて同意したがその小革命とは要するに、『先年東京にあ った電車の焼打ぐらいなことをやって、人心を新たにするつもりであった』に過ぎず、『もとより政府顛覆 の意志がない訳ではないが、到底その力がないから小革命を起すぐらいな考え』であったというに止まって いる。彼らが天皇個人の暗殺によって、ただちに天皇制を打倒し得るというような素朴な観念を有していたとは、もとより考えられない。だが、天皇の暗殺と電車の焼打とではまるで提灯と釣鐘のような矛盾で、む しろ自暴自棄的な計画の感をまぬがれないのである。 
主謀者と認められた幸徳と、事件の中心であった管野、宮下、新村らとの間にすらその観念に多大の相違 が存したことは、幸徳が磯部、花井、今村の三辯護士にあてた意見書によっても明らかである。彼は『検事 局及び予審廷の調べで、直接行動といふことは暴力革命とか爆弾を用ひる暴動とかいふことと、ほとんど同義に解せられてみる。......議会は欧米いたる処に腐敗してある。故に議会を相手にしないで、直接行動をや ろうといふのが今日の労働組合の説である。直接行動なら何でもやる、といふのではない。......故に真接行動をただちに暴力革命と解し、直接行動論者であるといふことを今回の事件の有力な原因に加へるのは、理 由なきことである。』 (『直接行動の意義の一節』」)と述べた。 それなら、彼の革命観は如何というに、革命とは旧来の制度組織が朽廃衰弊の極、崩壊し去って新しく社会組織が起り来る作用をいい、社会進化の大段落を表示する言葉である。故に厳密な意味では、革命は自然に起こり来るもので、一個人や一党派で起こし得るものではない、と述べている。 」(P212~P214) 

 

まことにその通りで、旗を振ったり手製の炸裂弾を爆発させたりするだけで、世の中が変わるほど、この世界は柔には出来ていないのである。
思想運動という得体の知れない力を過大評価した政府が、これに執拗に弾圧を加え消滅させようとしたのに対し、一部が自暴自棄的な計画をたていわば暴発して起きた悲劇と言うべきか。国家が、あるいは民主主義が未成熟な時代には起こりうることで、これ以降、言論にかけて物事を諮ろうとする風潮がおきて大正デモクラシーにつながるのだから、近代国家としての成長の一過程であったと言うことも出来る。(劇ではこの視点が欠けていた。)
しかし、それから先もこの国家は、相変わらず思想運動や労働運動を認めず、植民地を求めて、国際社会から孤立して、そしてついには力尽きた。
民主主義を学ぶにはあまりにも大きな代償であったと言うより他ない。

 

 

劇に登場した幽月管野壽賀子については、様々な言説があり、寒村が赤旗事件の入獄中に秋水の下に去った妻壽賀子への思いに懊悩するところやその人物評価など、また、裁判後の文化人や教育者に与えた事件の影響についても触れておきたいことがあるが、長くなったのでまた別の機会にしたい。
また、最初に述べた大学本部封鎖のあと、赤軍派に身を投じた友人がいたが、革命の機運などどこにもないと思って必死に止めた。あれもまた暴発ではなかったか?
いつの時代にもかけられた圧力と同じ力で反発しようと言うものは現れる。中国は、今のところそれに気づいているようには見えない。

 

最後に、昭和38年の衆議院報法務委員会での神崎清の発言を紹介して終わりにしよう。ただし、これは研究者としての神崎の総括とも言うべき長い発言なので、部分だけにする。全部の発言はこの後に付すので、興味のある人は読んで欲しい。大逆事件のあらましを理解できるはずだ。

 

「・・・・・・この十一月十九日の天皇暗殺の共同謀議が、こういうふうにメスを入れて空中分解いたしますと、もう大石誠之助の紀州グループ、それからそれにつながる大阪グループ、それから松尾が顔を出しておりますが、熊本グループ、坂本清馬、こういう人たちは一切無関係になってしまう。ただ残るのは、宮下太吉、管野スガ、新村それに古河、この四人にしぼられてまいりまして、秋水の関係は微妙ではございますが、どうも断定しにくい。秋水は天皇制を当時において批判をしておりました。天皇は大地主である。大資本家である。収奪をしておる。やがて民の怨府になるであろうということを言い、また軍国主義を非難し、軍備を全廃しなければならぬというふうに説いておりました。それが権力階級の忌諱に触れたようでございます。宮下にしても、管野にしても、天皇個人に恨みがあるわけではない。しかし、天皇は神であるという国民の迷信を打破しなければならぬ。天皇は神でなくて、人間であるということを示すためにということで、迷信打破から極端なテロリズムに走ったということでございますが、天皇は神でないというその主張は、終戦後の天皇みずからの人間宣言の中に生きておる。また新村忠雄は、親や君に踏まれる必要はないと言って、忠孝の道徳の強制を否認して、個人の自由、権利を主張いたしておりましたが、この新村の思想も、また新憲法の個人の尊厳、基本人権の中で生きてきているわけでございます。
 こうして大逆事件の被告十二人は絞首台に葬られましたけれども、歴史的に見ると、戦後に生まれた新憲法の捨て石になった人たちではないか。新憲法は外国の押しつけだと言う人もあるようですけれども、主権在民、基本人権、戦争放棄という民主主義思想の、この人たちは貴重な種であった。大逆事件以後、日本に何が起こったかといえば、言論出版の自由の弾圧、教育の反動化、日韓合併、大陸侵略、そうして太平洋戦争の破滅を迎えたわけでございまして、大逆事件の被告の人たちは先覚者、その犠牲者である。先覚者の悲劇であったと申し上げたい。
 私は、日本の為政者たるものは、この歴史の教訓をくみ取って、社会の進歩、国民の自由と人権を押えるような愚かなまねを再び繰り返してはならないというのが私の結論であり、希望でございます。」

 

 

 

 

《昭和38年の衆議院法務委員会での神崎清参考人の発言》

 

「事件は、明治四十三年五月二十五日信州明科の工場で爆裂弾をつくる材料、ブリキかんであるとか、塩酸カリであるとか、そういったものがばらばらに発見された。労働者の宮下太吉がまず逮捕されて取り調べるうちに自供が始まった。明治天皇暗殺計画に関する自供でございまして、事の重大に驚いた長野地検から、これは大審院の特別権限に属する事件であるというので松室検事総長に連絡したわけでございます。
それから大審院が取り上げて、五月三十一日大逆罪の七十三条を適用するその予審請求が行なわれたのでありますが、その予審請求の請求書の付属文書として「被告事件ノ摘示」という、これは裁判記録の中から出てまいったのでございますが、わずか五行くらいの簡単なものでございます。
「被告幸徳伝次郎外六名ハ、他ノ氏名不詳者数名ト共ニ、明治四十一年ヨリ至尊ニ対シ危害ヲ加ヘントノ陰謀ヲ為シ、且其実行ノ用ニ供スル為メ、爆裂弾ヲ製造シ、以テ陰謀実行ノ予備ヲ為シタルモノトス」ただそれだけの青写真でございました。このいきさつは、当時この事件の捜査主任をつとめていた小山松吉検事が昭和三年に当時の思想検事を集めて講演をしたその筆記の中に出てきておるのでありますが、秋水については、秋水ほどの人物がこの事件に関係のないはずはないという推定のもとにということをはっきり書いてございます。証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するようになったのでありますと書いてございます。
森近運平にしましても、邪推といえば邪推でありますが何ごとでもかかわりのある点は調べてみる必要があるから、それで起訴したということになっております。坂本清馬につきましても同様で、熊本において同地方の主義者の動静を知っておりましたから有力なる材料を得た、坂本清馬もまた共犯たる罪証ありとこれを起訴したのであります。ところが罪証については幾ら記録をさがしましても、それを裏づけるようなものがございませんし、御本人は罪状をあくまで最初からしまいまで否認したのでございます。ですからどうも推定の要素が非常に多くて、初めから予断を持って、政治的な目的を持って犯罪者を製造してかかったのじゃないかというような疑いが持たれるわけでございます。
当時は何か大きい事件があったということで、様子がわからなかったのでありますけれども、六月五日ごろになりまして内務省の有松警保局長が新聞発表をいたしまして、被告は大体七人以内である、これ以上拡大しないといってそこで線を引いた発表がございましたが、同時に小山検事のほうからは、日本においては一人の社会主義者の存在も許さない、撲滅するのだという、非常に強硬な声明が出まして、それ以来事件はぐんぐん拡大していった。実態的に見ますと、どうもその七名以内というところに大逆事件の実質的部分が含まれていて、あとはどうもふくらましていった、でっち上げていった要素が非常に多いわけでございます。
 当時この事件を指揮いたしました平沼騏一郎検事の回顧録がございますが、毎朝六時に、時の総理大臣柱公爵の私邸に行って、前日のできごとを報告していた。非常に連絡を密にして、法務大臣を乗り越えて検事自身が総理大臣の指揮を受けていた。どうも法律以上の力がこの捜査及び裁判に影響している。影響しているというよりも支配しているというか、食い込んでおる。どうも政治裁判のにおいがきわめて濃厚になっております。御承知のように桂内閣は元老山縣軍閥の内閣と言われ、社会主義鎮圧方針をとっておった。その走狗として、手足として検事局が使われていた、そういう印象を打ち消しがたいのでございます。
 そうして予審段階から公判に入ったわけでございますが、一ヵ月くらいの非常にスピード裁判でございまして、判決文はなかなかりっぱな名文でございます。しかしながら、私どもが判決を分析してまいりますと、重大な欠陥、致命的な欠陥が発見される。これは松川事件の骨法にならって、ここに出ている共同謀議というものを洗ってみると一体どういうことになるかというところからメスを入れてまいったのでございますが、この判決の骨子になるところ、この大逆事件の共同謀議の成立、これは判決も平沼論告も全く同じでございまして、四十一年の十一月十九日巣鴨の平民社の幸徳秋水それから大石誠之助、森近運平、これが相談をした。
そうして「赤旗事件連累者ノ出獄ヲ待チ、決死ノ士数十人ヲ募リテ、富豪ノ財ヲ奪ヒ、貧民ヲ賑シ、諸官衙ヲ焼燬シ、当路ノ顕官ヲ殺シ、且宮城ニ逼リテ大逆罪ヲ犯スノ意アルコトヲ説キ、予メ決死ノ士ヲ募ランコトヲ託シ、運平・誠之助ハ之ニ同意シタリ。同月中、被告松尾卯一太モ亦、事ヲ以テ出京シ、一日伝次郎ヲ訪問シテ、伝次郎ヨリ前記ノ計画アルコトヲ聴キ、均シク之ニ同意シタリ」ということで天皇暗殺の共同謀議が成立したというふうに事実認定をしておるのでありますが、しかしながら、幸徳秋水が公判廷で自由陳述に際して述べた陳述によりますと、そういう話は、内容は実はこうだった。
一場の革命夢物語、茶飲み話にすぎなかったということを明らかにしております。「大石・松尾・森近等ト話シタルハ、不景気カ二、三年来続キ、凶民ノ騒ギマデモ起リ、富豪ノ財ヲ貧民ノ手ニ収用シ、登記所ヲ焼キ、所有権ヲ解放ス。然レバ、権力階級モ遠慮シ、平民モ自覚スルデアラウ。其時ノ用意ニ確リシタルモノヲ選シ置ク必要ガアルデアラウ。官署焼払モ二重橋等ハ、興ニ乗ジテ話ガ出タリ。大石ノ如キ長老ニ、壮士ノ如キ命懸ノ仕事ヲ強フルノ意ナシ。森近ト坂木トハ同居セシモノ故、改メテ同意・不同意ヲ求ムベキ理ナシ。」そういう陳述をしております。この中で富豪の財を収用したり登記所を焼いたり貧民を扇動したり物騒なことを書いてございますが、これは法律的に申せば、どんな騒ぎがあっても強盗、殺人、放火から騒擾内乱に至るまでの各種の法律に触れるかもしれないけれども、七十三条とは全く関係がないわけでございます。七十三条の場合にはどうしても危害の意思があったかなかったかというところへしぼられてまいるわけでございます。
 そのときの状況は森近の聞き取り書き、これは無視された聞き取り書きの中にこんな記事が出ております。「幸徳ハ、其時吾々暴動者一同テ二重橋カラ押入リ、番兵ヲ追ヒノケ、宮中ニ入リテ仕舞ヘハ、軍隊カ来テモ、宮中ヘ向ッテ鉄砲ハ打ツマイカラ安全デアル、ト申シマシタ。私は其時、」私はというのは森近でありますが、「前以テ以後ハ無政府共産ニスルト云フ詔勅ヲ書イテ持参シ、天皇ニ談判シテ印ヲ押シテ貰ヘハ、日本歴史ハオ仕舞ニナリ、面白イテアラウ、ト申シマスト、幸徳ハ、唯左様ナ詔勅テハイカヌカラ、更ニ今日迄ノ政治ハ誤ッテ居ルカラ、以後ハ無政府共産トシ、一平民トナリテ衆ト共ニ楽ヲ倶ニスル、ト云フ天皇詔勅ヲ出サネハナラヌ、」と申しております。ですから、これは二重橋に押し入ってくる。それは穏やかでないかもしれませんけれども、天皇に対する危害の意思は全然なくて、せいぜい政治交渉である、ひざ詰め談判であったわけでございます。秋水はそのことを法廷で述べた。「計画トシテ話シタルニアラス。或ハ貧民カパンヲ呉レト言フテ、王宮に迫りタル事モアレハ、日本ニテモ二重橋ニ迫ルカモ知レヌト言ヒタルノミ。二重橋ニ迫ルトハ、危害ヲ意味セズ。示威運動モ請願モアルト云ヒシニ、是ハ書カス」と、取り上げられなかったということを訴えておる。私はここに一番大きな問題点がある。検事にしろ判事にしろ、二重橋ということとを、あくまで頭からこれは危険行動である、天皇暗殺であるというふうにきめてかかったものと思われます。
 この十一月十九日の天皇暗殺の共同謀議が、こういうふうにメスを入れて空中分解いたしますと、もう大石誠之助の紀州グループ、それからそれにつながる大阪グループ、それから松尾が顔を出しておりますが、熊本グループ、坂本清馬、こういう人たちは一切無関係になってしまう。ただ残るのは、宮下太吉、管野スガ、新村それに古河、この四人にしぼられてまいりまして、秋水の関係は微妙ではございますが、どうも断定しにくい。秋水は天皇制を当時において批判をしておりました。天皇は大地主である。大資本家である。収奪をしておる。やがて民の怨府になるであろうということを言い、また軍国主義を非難し、軍備を全廃しなければならぬというふうに説いておりました。それが権力階級の忌諱に触れたようでございます。宮下にしても、管野にしても、天皇個人に恨みがあるわけではない。しかし、天皇は神であるという国民の迷信を打破しなければならぬ。天皇は神でなくて、人間であるということを示すためにということで、迷信打破から極端なテロリズムに走ったということでございますが、天皇は神でないというその主張は、終戦後の天皇みずからの人間宣言の中に生きておる。また新村忠雄は、親や君に踏まれる必要はないと言って、忠孝の道徳の強制を否認して、個人の自由、権利を主張いたしておりましたが、この新村の思想も、また新憲法の個人の尊厳、基本人権の中で生きてきているわけでございます。
 こうして大逆事件の被告十二人は絞首台に葬られましたけれども、歴史的に見ると、戦後に生まれた新憲法の捨て石になった人たちではないか。新憲法は外国の押しつけだと言う人もあるようですけれども、主権在民、基本人権、戦争放棄という民主主義思想の、この人たちは貴重な種であった。大逆事件以後、日本に何が起こったかといえば、言論出版の自由の弾圧、教育の反動化、日韓合併、大陸侵略、そうして太平洋戦争の破滅を迎えたわけでございまして、大逆事件の被告の人たちは先覚者、その犠牲者である。先覚者の悲劇であったと申し上げたい。
 私は、日本の為政者たるものは、この歴史の教訓をくみ取って、社会の進歩、国民の自由と人権を押えるような愚かなまねを再び繰り返してはならないというのが私の結論であり、希望でございます。」

 

タイトル

1911

観劇日

2021716

劇場

シアタートラム

主催

劇団チョコレートケーキ

期間

2021年〜2021

古川健

原作/翻訳

 

演出

日澤雄介

美術

長田佳代子

照明

松本大介

衣装

藤田友

音楽

和田匡史

出演

浅井伸治 岡本 篤 西尾友樹 青木柳葉魚 菊池 豪 近藤フク 佐瀬弘幸 島田雅之 林 竜三 谷仲恵輔 吉田テツタ 堀 奈津美

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2021年6月17日 (木)

劇評「斬られの仙太」余波

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劇評「斬られの仙太」は、少し書き足りないと思ったが、長くなりそうなので、いい加減なところでアップしてしまった。
幕末のイデオロギーをリードした水戸藩の『尊皇攘夷』思想と藩内の天狗党、諸生党の内部対立などの背景について、僕の知る限りのことを記しておこうと思ったのである。もちろん、よけいなお世話でもあるからやめてしまったのであるが・・・・・・。

 

しばらくして、他の人の劇評はどうなっているか見ているうちにこんな記述に出会った。

 

「この戯曲が持つ政治組織批判は、今回の舞台でも表面に出たが、武士たちの演者が少々重みに欠けるために浮ついた政治組織に見えなくもない。

 

一つ新たな発見があった。それは愚かさの恐ろしさである。
仙太は天狗党の中で利用されて、最後には彼らの身を、名誉を守るために斬られるのだが・・・
仙太が無知故に利用されていることが前景化した。
もちろんその後、また仙太は殺人に協力するから、結局彼の思考に浮かんだ疑問はかき消されてしまう。
この辺りが三好作品の弱点であろうが、今回の舞台でその仙太の疑念が舞台上に浮かび上がったのは、よかったと思った。

 

今、わたくしたちの国はがけっぷちにいる。どこへ向かうかは選挙民に掛かっている。
しかしネックは、国民の愚かさだ! これはなかなか変わらない。
そして仙太のようにわが身の周りにしか生きる道を見出さなくなってしまうのだ。」   (「井上理恵の演劇時評」4/10/21)

 

これを読んで、僕は思わずのけぞった。
面白い劇評に出会うことなど何年に一度もないくらいだが、これほど奇天烈な批評にもなかなかお目にかかれないものである。

 

要約すると、
「仙太は無知で愚かゆえに利用された。しかし、この舞台では状況に疑問を持っていたことも少しは表現されたからよかった。ところでいま、我が国は、一つ間違えば崖下に落ちてしまう危うい状態にある。しかし、国民は(仙太のように)愚かだからこれに気が付かない。自分のことしか考えられないのである。」
つまるところ、「我が国民は、無知で愚かであり、それ故政治的に利用されている。」ということになる。また、「どこへ向かうかは選挙民に掛かっている。」と言っているところを見ると、選挙民は、ご自分の選択肢とは違う、あるいは反対の選択肢に投票すると嘆いている風にもみえる。
これは村山知義が「ファッショ的、アナーキズム的な傾向。卑俗劇、リアリズムの探求と正反対、新国劇のジャンルに属する。」とこの劇を批評したのと立場を同じくするものだろうか?

 

これは危険思想ではないか。
突き詰めていけば、愚かでないわたし以外の愚かな国民は死んでもかまわないという極論に向かうベクトルを持っている。
そう、邪魔になった博徒は殺してもいいと考える、天狗党のイデオロギーをあなた自身が体現しそうである。天に唾する如き思想を内在させた奇妙奇天烈な批評の構造といわざるを得ない。

 

それはともかく、この批評家は「仙太は無知だったために、利用された。」と考えているようだが、それは正しておかねばならないと思った。
なぜなら、天狗党の中には、仙太の他にも大勢の「仙太」つまり、腕の立つ博徒が参加していたと言う事実があるからだ。他にも、百姓、商人など武士以外のものが多数「自主的に」参加していたのであり、彼らが皆無知だったと言えるのか?

 

話は横道にそれるが、NHKの大河ドラマのことである。
ここ数年好みのテーマでなかったから見なかったが、今年は「渋沢栄一」なので欠かさず見ている。以前から、渋沢のマーケティング精神は、世界最高水準と考えていたからだ。ウォール街の強欲どもに「論語と算盤」を翻訳して配ったらいい、と思うくらいである。

 

渋沢は、水戸藩とは何の関係もない利根川中流域近くの武蔵国血洗島で生まれ育った。親の仕事を手伝ううちに、封建社会の本質に触れ、これを糺す必要を痛感する。折しも、黒船が江戸前に現れ武力を背景に開国を迫ると言う時世である。「外国に侵略される」という恐怖と不安が日本中に蔓延している。「夷狄は攘ち払うべし(攘夷)」と思うのはごく自然の成り行きであるが、では、誰がどうやって、誰のために攘夷を行うのか、という点では答えが見いだしにくいのである。つまり、血洗島は幕府直轄の天領であったから、渋沢たちの攘夷は幕府とともに行うというのがこの時代の原則であった。
この時勢の変化に敏感だった島津や鍋島などの藩主は、我が藩を夷狄から守るため、それぞれ備えをはじめるが、それらはあくまで藩を単位とする防備であった。
水戸の第九代藩主、徳川斉昭(水戸烈公)も、長大な海岸線を持つ自藩の防御を固めるために、砲台を建設したり、大砲や銃を鋳造するための製鉄炉を建設し、洋装した軍隊を編成して軍事訓練するなど攘夷に備え、幕府の重役としても急進的な攘夷を主張する一人であった。
渋沢たちが攘夷に貢献しようとすれば水戸藩に参加すればいい、と現代ではなるが、封建社会ではそうはいかない。
全国には、こうした恐怖と不安を解消するためには攘夷しかないと考える青年が無数にいる。農村といえども商品経済の発展とともに豊かになりつつあり、渋沢の少年時代に見るごとく、教育程度も高く、社会意識にも目覚めたものたちである。
この持って行き場のない「思い」に横串を刺したのが、水戸学の「尊皇」であった。
「尊皇」という思想の下に「攘夷」があれば、天領の渋沢も水戸の百姓も肩を組んで夷狄を撃退できるのである。
渋沢たちは、高崎藩の城を奪うとか。横浜の異人居留地を襲撃するとかの計画を立てるが、これは、尊皇というイデオロギーのもとで自らを正当化することによってできたことである。
尊皇と攘夷を一体化した思想、この発見が我が国近代化のはじまりとは大概の歴史書にあるとおりで、その輸出元として水戸藩は全国の志あるものに尊敬された。
このようにして強固だった封建社会を突き破る地下のマグマが、尊皇攘夷という一点に集中して吹き出したことを鹿島茂は、これこそ一点突破全面展開という、昔の社靑同解放派のスローガンの示唆するところだ言っている。(「ドーダの近代史」朝日新聞社)

 

共鳴した長州の桂小五郎が、烈公の墓参と称して水戸に来て、筑波挙兵を企てていた藤田小四郎に千両の軍資金を提供すると約束し、その半分の五百両を置いて帰ったのは、この同盟の証であった。劇の中で、甚伍左と水戸浪士、長州藩士が議論していたのはこの同盟が空手形になっているということにあった。

 

藤田小四郎はわずか二十二歳の若者である。
ドラマの中では筑波挙兵前の鬱々とした日々、渋沢たちと酒場で出会ったことになっていた。(のちに渋沢が、小四郎の人となりを語っているところを見れば、接触があったことは事実だろう。)
小四郎は、水戸学のイデオローグとして尊敬を集め、水戸烈公の信頼厚いブレーンであった藤田東湖の妾腹の子である。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にこの妾というのが変わった女だったという記述があって、面白い。(劇評「私たちは何もしらない」で「簡潔かつ論理的で頭の良さがにじみ出ている」と書いた山川女史は、水戸藩の学者、青山家の出である。)

 

「東湖の正妻はいたって温厚な女性で、三人の男子を産んだ中で長男は夭折、二男の健二郎、三男の大三郎はいずれも母親似の目立たない存在だった。大三郎と同年の生まれで妾腹の小四郎は、その母が恐ろしく気の利いた役に立つ女ではあったが知り合いの中ではきちがいだと言われたくらい、気の強い出過ぎもので、気が向かなければ昼時までも布団を被って起き出さず、うっかり起こそうものなら、とんだ口をきいて、人前で主人に赤恥をかかせるようなことも希でなく、持て余した東湖が、妾の分際で贅沢をするとか言う口実をつけて暇を出した女だった。」
(「幕末の水戸藩」山川菊栄、岩波文庫)

 

東湖の戸惑う姿を想像するとおかしいが、妾のことは置いて、藤田小四郎はじめ天狗党とはどんな連中が立ち上げたものかである。

 

実は、この文の冒頭で「少し書き足りないと思った」と書いたが、藤田らが挙兵した天狗党と68年から72年の連合赤軍で終わるあのムーブメントが僕の中で一瞬同期(synchronise)したことがあって、と言うのも、「尊皇」というイデオロギーは水戸藩のルーツに関わる特殊性を持ちながら、世直しの「檄」としては十分であり、学生が唱えた革命の檄としての「反帝、反スタ、世界同時革命」などのスローガンといい、それを主導した世代も共通するという点で、歴史は繰り返すという感慨を抱いたということを書いておこうと思ったのだ。

 

 

山川菊栄の記述は続く。
「小四郎が母親に似て目から鼻へ抜けるような、抜けすぎるほど利口で、才走った子ではあったが、早熟で調子外れのところもあり、あの調子で果たして大成するものかしらと頭をかしげるものも多く、東湖は自分が早く死ぬようではあの子は周囲のものの手に余るだろうと心配していたという。小四郎は十四歳で父に死別したが、家禄五百石を長兄が継ぎ、母は実子と同様に扱ってくれ肩身の狭い思いはせずに済んだ。体格は立派だったが、色の黒いおかめのような顔なので、あだ名をおかめと呼ばれていたが、原一之進の塾でも弘道館でも小山の大将でハバをきかせていた。文武ともに優秀だったからでもあろう。同じ門下に小四郎より二三歳年下の田中愿藏があり、これは郷医猿田玄碩の子。一之進は天狗党檄派だったが、才人で、広く人気を呼び塾生も百人を超し、藩内第一の勢いだと延光(青山菊栄の外祖父の兄で学者)が息子への手紙に書いているくらいである。」

 

小四郎は、烈公引退後を継いだ藩主慶篤の上洛の際に、原一之進、田中愿藏も、ともに随行したことがあり、京の尊皇攘夷運動に直接触れ、自分が志士たちの尊敬を集める東湖の倅であることを誇らしく思って帰った。原一之進は、そのまま京にいて、やがて一橋慶喜に仕えるから、大河ドラマにも登場することになるだろう。
この天狗党檄派というのは、これより前、孝明天皇から水戸藩に下されたという(攘夷の)密勅の返還を巡って、天狗党内部で激しい対立があり、そのまま有効と主張したのが檄派、返還すべきとしたのを鎮派と呼んだものである。他の原因でもしばしば分裂・合従を繰り返しており、筑波挙兵は、檄派が行ったことだが、のちに鎮派も合流するので、細かくみれば時期によってその構成は変わる。
「斬られの仙太」が関わるのは、天狗党の筑波挙兵からだが、途中、水戸藩門閥派の諸生党が実権を握り、尊攘派を弾圧しはじめたため天狗党は諸生党と軍事的に対峙せざるを得なくなる。これを機に、参加していた多くの脱藩浪人や百姓町人が水戸藩の内紛には関わらないとして、天狗党から去ったが、仙太は内戦のさなかに檄派に呼び戻され仕舞いには京を目指す進軍に加わるのである。

 

天狗党がひろく人々の耳目を集めたきっかけは、他でもない、元治元年(1864年)三月の筑波山における挙兵である。
藤田小四郎は、若輩であることから奉行の田丸稻之衛門に首領を頼んで、はじめ六十二人が筑波山神社に集まり、幕府に攘夷を迫るために挙兵すると宣言した。この中に田中愿藏もいる。たちまちこれに賛同した農家や街場の若者たちが続々と集まりピークには千人以上の大集団になった。

 

この若者たちは、あの劇評家が言うように仙太と同様「無知」であったのか。そうではあるまい。尊皇攘夷という理屈はともかく、「斬られの仙太」開幕の場面にあるような理不尽な身分制度を打ち壊して世の中を変えたい、つまり、一点突破全面展開を狙って、それが出来る千載一遇の機会と思って参加したのではないのか。仙太が江戸に出て剣術を習ったのも世直しの助けになることを意識したに違いない。まさに「世直し」は時代のテーマだったのだ。

 

しかし、若い藤田らには誤算があった。
関東一円をまわって遊説した藤田に応えた多くの商人や豪農が浄財を喜捨したが、それでこの集団を養う金をまかなうと言っても限度がある。たちまちこれが問題になった。

 

山川菊栄が、田中愿藏の名を特に上げたのは、この若者が軍資金を調達するために行った数々の無謀な行為が、天狗党の名を貶め、幕府の怒りを買ったばかりか、彼らの旗揚げに肯定的だった民衆の気持ちを恐怖と憎悪に変えた張本人だったからである。

 

藤田ら一行は旗揚げの直後、烈公の位牌を担いで、日光東照宮を目指した。攘夷は家康の遺訓であると主張し、東照宮を占拠すれば幕府の追討軍といえども容易に手出しできまいという読みであったが、先回りした日光奉行が警備を固め拒否したため参拝だけしてここを去り、下野太平山(ここには神社があり宿所も確保できる)に滞留した。ほどなく筑波山に帰るが、そのころから近辺の村々や宿場に出没して恫喝まがいの軍資金の調達が盛んになる。
特に、六月五日の田中愿藏らによる栃木宿の襲撃は凄惨を極め、民衆の怒りを買った。
田中愿藏が指揮する隊は、他国の十代の若者も多く、服装も華美で、身分によって髪型が違うことに反発し皆漸ばら髪にした一見異様な不良集団のように見えた。

 

その宿場襲撃の模様を記録文学の吉村昭が活写している。

 

「その日は、朝のうち雨が降っていたが、やがて雨脚が細くなってやみ、薄日がさしてきた。栃木町では、雨があがるとともに人馬や駕籠の往来がしきりになった。・・・・・・
八ツ(午後二時)頃、町の東にある木戸口あたりで、突然、陣鉦と陣太鼓をはげしく打ち鳴らす音が起こった。その音に、歩いていた町の者や旅人は足をとめ、家々から人が路上に飛び出した。法螺貝を吹く音もきこえ、それは近龍寺裏門の前の道から、町の中を南北に通じる街道に近づいてくる。人々の眼に、行列の先端が街道にあらわれるのが映った。行列は、街道を南にむかって進んでくる。町の者たちは、馬にまたがっている男の顔を眼にして、顔色を変えた。それは田中愿蔵で、立烏帽子に華麗な陣羽織を身につけ、紅栗毛の馬上で身をゆらせている。馬の両側には、半弓を手にした小姓がつきしたがっていた。総勢八十名ほどで、槍を手にし鉄砲をかつぎ、旗差し物をひるがえし、二つ巴の紋のついた長持ちをかついだ者もいる。いずれも十代から二十歳ぐらいまでの若者ばかりであった。「ザン切り組だ」というささやきが、町の者たちの間で起こった。
・・・・・・
前方の道の中央に、下駄をはいた男が一人立っているのが見えた。男は、道の端に身を寄せることもなく、放心したような眼をこちらにむけている。・・・・・・
かれは、かたわらを歩く隊員に、「行く手をさえぎる無礼者がいる。あの者を斬れ」と、叫んだ。うなずいた若い隊員が刀をひきぬき、男にむかって走り出した。うつろな眼をして立っていた男は、刀をふりかざして突き進んでくる隊員の姿に驚き、道ぞいにある酒造業の住吉屋勘兵衛の家に走りこんだ。・・・・・・隊員は、酒蔵の中を探しまわり、うずくまっている男を見いだした。「立てい」という声に立ちあがった男の左腕に、隊員の刀がふりおろされた。腕が土間に鈍い音を立てて落ち、悲鳴をあげて立ちすくむ男の右腕に、さらに刀がたたきつけられた。男は、土間に倒れた。隊員の顔は青白く、眼が異様に光り、息は荒かった。体がふるえていた。血刀をさげて酒蔵を出た隊員の眼に、座敷から台所におりようとしているその家の娘ゑい十四歳の姿が映った。初めて人を斬ったその隊員の感情ははげしくたかぶっていて、錯乱したかれはゑいに走り寄ると、二太刀斬りつけ、肩をいからせて家の外に出た。
・・・・・・突然の血なまぐさい変事に、住吉屋の前には人がむらがり、医師も駈けつけた。両腕を斬り落とされた男は、激しい呻き声をあげていた。医師も手をつけられず、そのうちに声が低くなり、息絶えた。ゑいは、肩と背にかなり深い斬り傷を負わされていた。両親が座敷にはこんだが、すでに意識はうすれていた。医師は必死になって治療をほどこしたが、その甲斐もなく息が間遠になり、やがて絶えた。両親は、ゑいの顔を抱き、腕をつかんで泣き叫んだ。二人の町民が斬殺されたことに、栃木町は騒然となった。・・・・・・」

 

この後、田中は軍用金二万両を要求するが、拒否されると、

 

「・・・・・・隊員たちは家の中にも入って火をつけ、杉皮でふいた屋根にも松明を投げあげる。たちまち街道の両側にならぶ家々から炎がふき出し、物のはじけるすさまじい音がひびき、街道に黒煙が充満した。田中は、馬を走らせながら、「火を消そうとする者は殺せ」と、叫んだ。
・・・・・・田中は、町の北部にある上町と中央の中町が炎につつまれると、部下に命じて引太鼓を打たせた。その引きあげ合図に、隊員たちは町の南部の下町に集まった。田中は、道の両側にならぶ下町の家々にも火をはなたせ、それらが火炎をあげるのを見とどけて南の木戸をぬけ、川にかかった素杉橋を落として追っ手のくる道を断った。栃木町をはなれた田中は、南下する途中、沼和田村川間(栃木市河合町)の街道ぞいの民家約五十軒にも火をはなたせ、隊員は小山宿の方向にむかって夜の闇の中に消えていった。」(吉村昭. 「天狗争乱 」)

 

栃木宿ではこの襲撃で230余りの家屋が焼失する甚大な被害を受けた。その後も、彼らは、真壁、足利、桐生などの宿場でも商家や陣屋を恫喝し、ことわられると金品を強奪し町家に火を放った。

 

この報告を受けた筑波山の田丸稻之衛門は怒りに震え、田中をいったんは謹慎処分とするが、田中は不満で、以後単独行動をとるようになる。
しかし、これによって天狗党に対する世間の風向きは完全に変わってしまった。田丸らは協議の上、田中を除名したことを公表するが、民衆の天狗勢への批判と反感が変わることはなかった。
一方、幕府が諸藩に追討を命じると、それまで尊攘派の武田耕雲斎らをかばう姿勢だった藩主慶篤が、門閥派の圧力に屈し、諸生党に追討を命じることによって、水戸藩内の内戦の様相を呈してきたのである。武士だけではない。天狗党に対する自衛の為の鄕士や農民らの組織が各地に出来、天狗党に資金提供した商家や豪農の打ち壊しがおこなわれ、諸生党に荷担する民衆も現れて、水戸藩領全体が、夏空の下で沸騰するような有様になった。

 

いつの時代にも田中愿藏のような跳ね上がりはいるもので、これが人心を離れさせ、運動も急速にエネルギーを失っていくのは連合赤軍の事件にも似ている。

 

 

さて、この文は「仙太は無知だから利用された。国民も愚かで無知だ。選挙に利用されている。」という劇評について書き始めた。
このムーブメントに参加した多くの「仙太たち」も武州の渋沢栄一たちも、外国から侵略を受ける事態を憂慮した、というのが動機であることはいうまでもない。幕府がそれを断行しないために、もはや侍などあてに出来ない、自ら身体を張って実行すべきと考えたのだ。

 

とはいえ、攘夷を実行するにも、実際には戦力に圧倒的な差があることを認識していたとは言えないし、諸生党との戦争のさなかに、いわゆる尊攘派が失脚する七卿落ちがあって、京の大勢は薩摩など公武合体派がとってかわる状況になっていたことを知らなかったと言う意味では無知で、愚かだったともいえるだろう。
しかし、それは天狗党の行動全体に言えることで、多くの民衆が参加した動機は、そんな政治状況よりも外国に侵略される「不安と恐怖」にあり、その解消である。

 

三好十郎が、「越前、木ノ芽峠」の場で、実際の天狗党にはなかった、武士たちの裏切り(武士の延命のために百姓町人を犠牲にした)をわざわざ設定したのは、「指導層」は大衆運動のエネルギーを利用して、それがいらなくなればいつでも平気で大衆を裏切るものだ、ということを示したかったのだろう。あの当時、スターリンがカーテンの向こうで何をしていたかどれだけ知っていたかは分からない。共産党は反革命と称してこれを粛清するが、そんなものは「指導層」の勝手な言い分で、それならこっちはこっちで自分の身を守る、それには自分で物事を考えて判断するしかないと言いたかったのが、最終の「真壁在田んぼ」の場だったのだ。
「斬られの仙太」は無知どころか、権力の構造と弱点を突いて、民衆が生きる知恵を伝えようとしていたのである。

 

 

この後、「尊皇」というイデオロギーは水戸藩のルーツに関わる特殊性、と書いたことについて言及するつもりであったが、またの機会にする。
いささか焦点惚けの文章になってしまったが、容赦を請う。

 

 

 

 

 

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2021年6月12日 (土)

Twitter:劇評「キネマの天地」

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とりあえず。速報!

 

夕べ、「キネマの天地」(新国立劇場)を見た。
死因がいつの間にか「心臓マヒ」から「青酸カリ」にすり替わっていたミステリー。
これでは映画女優たちが性悪のジコチュウのただのバカだ。アガサ・クリスティになり損ねた井上ひさし、高校生並みの習作。
いまどき、こんなものをよくも選んだものだ。

 

タイトル

キネマの天地

観劇日

2021611

劇場

新国立劇場

主催

新国立劇場

期間

6/106/27

井上ひさし

原作/翻訳

 

演出

小川絵梨子

美術

池宮城直美

照明

美香

衣装

前田文子

音楽

加藤

出演

高橋惠子 鈴木 杏  趣里 那須佐代子 佐藤 誓 章平 千葉哲也

 

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2021年5月29日 (土)

Twitter「東京ゴッドファーザーズ」

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とりあえず。
夕べ、新国立劇場「東京ゴッドファーザーズ」を見た。
ホームレスが、捨て子の親を探して東京中を走り回る話。
混沌と言うより話がいい加減。マンガ。でたらめ。
目立ったのは、叫んでばかりいるおかまの松岡君。
おとなの鑑賞に耐える代物じゃない。

 

 

 

タイトル:東京ゴッドファーザーズ
観劇日:2021年5月28日
劇場:新国立劇場
主催:新国立劇場
期間:5/12〜5/30
作:土屋理敬
原作/翻訳:今 敏
演出:藤田俊太郎
美術:乘峯雅寛
照明:日下靖順
衣装:前田文子
音楽:けんのき敦
出演:松岡昌宏 / マキタスポーツ / 夏子 / 春海四方 / 大石継太 / 新川將人 / 池田有希子 / 杉村誠子 / 周本絵梨香 / 阿岐之将一 / 玲央バルトナー

 

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2021年5月19日 (水)

劇評「斬られの仙太」

 

Photo_20210519151801 三本続くシリーズ「人を思うちから」其の壱、がこの芝居である。
「人を思うちから」がこのシーズンを束ねる興行のコンセプトであるとプロデューサーは言っている。
はて、「人を思うちから」とはなにか。
人を思うのになにか力がいるのか?
あるいは、人を思うという名の力があるというのか?
頭の中が疑問符だらけになってしまった。あるいは僕の頭にこれを理解するロマンチックが足りないのか?
手がかりを探してみたら、「ご挨拶」の中にみつかった。
「(選ばれた作品は)人が人を思いやることや人のために動くことなど、人が心に持っている「誰かを思うちから」によって、何かが少しずつ変わっていくものがたりでもあります。」とある。
これは、誰かを思えば、何かが変わっていく「念力」のようなものを謂っているのだろうか。
わからん。
戯曲の側からその意味を探ろうにも「斬られの仙太」が「誰かを思ったら何かが変わった」ものがたり、とは正反対に百姓の仙太郎も水戸の天狗党も幕末という激動の時代に巻き込まれ、誰かを思うどころか、自分の意思も他人のそれも何一つ思いを遂げられなかったものがたりではないか。
これでは手がかりにも何にもならない。
別のところで、小川の発言があった。
「“人を思う”にはいろいろな意味がありますが、私はアメリカから帰ってきて、日本人は非常に人のことを思える人たちなんだと感じました。欧米といえば個人主義で、独立心や個性も大事ですが、こういう素敵な側面を我々が日本人が持っていることを改めて提示できたら」と思ったとある。
これを簡単に言えば、日本人は欧米人に比べて「他人のことを思いやる情に於いて、厚い」と感じたということだろう。
本当にそうか?は、この際置くとして。
すると、「人を思う(I think a person to be it)」ではなくて「人を思いやる(I am considerate of a person)」という対象に対する情動を含むフレーズでなければ適切な意味は伝わらない。
「人を思いやる・ちから」なら「強く思いやる」とか「思いやる」ことで其の対象に強く働きかける、などの意味に到達する可能性は大いにあるだろう。しかし、「人を思う」とは「誰が」も「誰を」も示唆しない無機的な文にすぎない。
このプロデューサーは、以前にも「ことぜん」という訳の分からないシリーズ名を展開したことがあったが、これはなんのことはない「個と全」のことだった。「個と全」では身も蓋もないと思ったのか、ひらがなにして気取ってみたのだろう。こういう思わせぶりなキャッチフレーズには何の思想的「ちから」もないと忠告しておく。むしろこういう事にはプロのコピーライターを雇うことにした方がよい。

 

とんだ寄り道をした。「人を思うちから」がこもっているという劇のことである。
三好十郎は、プロレタリア作家として出発したが、途中マルクス主義に、とりわけ社会主義リアリズムに疑問を感じて変節した作家である。「転向」と言って、あの頃は、批判したり、反省したり、深刻に悩んだりする問題だったが、これはマルクス主義が絶対だという前提が当時のインテリゲンチャ(知識階層)の間にあったからで、考えを変える、つまり宗旨替えなど、「君子豹変す」という言葉もあるくらいだから、生きていればありうる話で、別に責められることでもない。
水戸天狗党もまた、当時の日本中を席巻した「尊皇攘夷」と倒幕という暴力が結びついたイデオロギーを命を懸けても惜しくない絶対の真理だと思い込んでいた集団のひとつで、三好がこれを取り上げたのは、この狂信性が共産主義の十分なアナロジーと思って使った?のかもしれない。後に紹介する教条主義者村山知義の批評に、過剰とも思える反応があったことを思えば、あながち的外れとも言えないのではないかと思っている。
この芝居は、彼がちょうど全日本無産者芸術連盟(ナップ)から脱退を表明した直後に書かれている。この終幕を見て僕はいささか驚いた。
それは、エピローグのようにつけられた後日譚である「明治十七年の真壁村の田んぼの場」だが、ここで三好は思いきり政党政治を批判し、アナーキズムともとれる思想を主人公のセリフで展開している。まるで決別宣言のように啖呵を切ったのである。

 

 

「♬利根の、利根の川風よしきりの、声が冷たく身を責める・・・・・・」
名曲「大利根月夜」であるが、この元になった講談や浪曲に名高い「天保水誤伝」は、この芝居の時代より二十年ほど遡る。笹川の繁蔵や飯岡の助五郎が侠客の一家を張って子分を集め、縄張り争いを繰り広げていたものがたりは、子供の頃、週替わりで劇場に通った東映時代劇でなじみだった。その頃から股旅物と言ってTVの時代になっても常に人気の演目だったが、それは一匹狼のアウトローが「あっしには、関わりのねえ事でござんす。」とか言いながらつい関わってしまう義理と人情の世界がわかりやすく感情移入しやすかったからだろう。これが近頃、時代のせいなのか、それともヤクザの渡世人の、とか言ってもあれは要するに「反社」のことだからというのか、見かけなくなったのは、惜しいことである。
なぜ、三好十郎は、其の作品群からは特異な大衆的ともいえる博徒のものがたりを書いたのか?
それは、このあと彼が、東宝の前身である写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)の脚本家になっているところを見れば、あるいは「映画」を意識したのかも知れない。実際これは戦後になってから、昭和24年に藤田進主演で、昭和44年には仲代達矢(山本薩夫監督)で映画化されている。
戯曲としては、歌舞伎狂言のように十場と言う半日がかりの上演時間を要し、出演者も八十人あまりという大作は、このご時世になっても、舞台で見せるには躊躇せざるを得ない規模である。
そこを新国立劇場と演出の上村聡史は、半分の長さにカットし、花道や背景の大道具を省略し、一人何役もこなすという荒技でやって見せた。こうまでして、「人を思うちから」を見せたかった理由をこの舞台から見いだすことは出来なかったが、話の筋だけは理解して欲しいという切実な思いは伝わった。
十場のうちカットした場は一つもなかったが、それぞれ主要なシーン以外は捨象されているので、感情や詠嘆など人の気持ちを味わう余裕などなく、ようやくあらすじが追えるという慌ただしさで、まるでぶつ切りの映画を観るようであった。
その中で、最もわかりにくかったのは劇の背景にある「天狗党」の行動と水戸藩の内部抗争の様相、仙太郎の思想的な関わりであった。ただし、これはもともと戯曲にある欠陥といっていいから半分以上は三好十郎に責任があるというべきかもしれない。
そのあらすじを説明しておこう。 

 

一.下妻街道追分土手上
飢饉が続き、重税にあえぐ真壁新田の百姓代表三人が、たまらず免租を願い出るが、それを強訴ととがめられ、百叩き御所払いの御仕置にあうというので、見物が集まっている中、御所払いだけは御赦免願い出ようと、代表の一人である仙右衛門(木下政治)の弟、仙太郎(伊達暁)が街道筋で、嘆願書に署名を求めて叫んでいる。
そこへ、武士の身なりの二人と年配の博徒一人が通りかかる。
水戸浪士加多源次郎(小泉将臣)と長州藩士兵藤治之(今國雅彦)。他の一人は、一本刀素足に草鞋、身なりにも態度にも普通の博徒には見えない名字帯刀御免の郷士あがりと見える者、実は利根の甚伍左(青山勝)である。
加多源次郎が足を止め、事情を聞くと、ここは二千五百石の旗本の領地で、仕置きを行っているのは、代官所の役人と博徒で十手をあずかる北条の喜平一家の子分連中。
代官の御所払いを解くには二十両もってこいという無理な要求に、加多は、百姓は國の基い、それをいじめるにもほどがあるというので、刀を抜こうとするが、京に向かう大事の前だと兵藤に止められ、ならばと、筆を執って一筆嘆願書に署名して仙太郎に渡す。
別れ際、甚伍左は「兄さんに甘いものでも」といいながら財布から一両小判をとりだして仙太郎の手に握らせる。感激して見送ったあと嘆願書を確かめると、そこには「天狗組一党」とあった。

 

二.陸前浜街道、取手宿はずれ
その四年後。御所払いのあと、江戸に出た仙太郎は剣術の腕を目録以上に磨いたうえに、博打打ちになって二十両の金を作り、百姓に後戻りするために故郷の真壁村を目指して利根川を越えたところ。遠くから「エーじゃないか」の打ち壊しの騒ぎが聞こえてくる茶屋で、ここまで連れ立ってきた暗闇の長五郎(佐藤祐基)と別れの盃をかわしているところへ、数人の子供を連れた娘がやって来る。聞けば、これから植木村と同様飢饉にあえぐ近郷三カ村の者で救済を願うために江戸に押し出すというのだが、世間は「エーじゃないか」の大騒ぎ、子供連れで無事にたどり着けるとも思えない。仙太郎は、懐から財布ごと娘の手に二十両を握らせて、村へ帰れと諭す。事情を聞いているうち、娘はお妙(浅野令子)といって、甚伍左のひとり娘だったのだ。

 

三.十三塚峠近くの台地
筑波山の尾根続きにある十三塚峠付近の山中で、天狗党の加多と今井が隠密裏に地理を確かめているところへ、やくざ者数人が賭場荒らしを追いかけてきたといって息せき切ってやってくる。すると、目の前に寺銭の入った箱を抱えた仙太郎が現れ、追っ手に囲まれる。金は植木村に届けようという料簡である。ふたりの侍は見物を決め込んでいたが、仙太郎に刀を貸して加勢。追っ手が斬られて逃げると、仙太郎の腕が立つのを見込んで、加多は、旗揚げが近い天狗党に加わるよう誘うが、仙太郎は侍のようなことはしたくないとことわる。天狗党には侍だけではない、近郷の百姓はじめ神官僧侶博徒の類まで大勢の町人が集まっていることをその時仙太郎は初めて知った。加多は忘れていたが、四年前の真壁村の嘆願書に署名してくれた水戸の藩士を仙太郎は覚えていた。この男はきっと筑波山にやってくると加多は確信するのであった。

 

四.植木村お妙の家
お妙は、何人もの子供のめんどうを見ているため、百姓仕事は段六(瀬口寛之)が手伝っている。そこへ仙太郎を探して、赤子を背負ったくらやみの長五郎が現れる。お妙は取手宿でこの男と会っている。仙太郎が、賭場荒らしの時に、長五郎の恩有る人を斬って逃げたから、残された子を背負って追ってきたというのだ。他を当たってみるという長五郎に、背中の赤子を置いて行けとお妙。仙太郎を仇とする子供でも、渡世人の手で育てるのではなんとも不憫でならない。長五郎がそれに応じて、去ろうとした時、近所の百姓衆のあとに続いて、武器を持った数人の暴徒が家の中に入ってくる。天狗党だが、軍用金 を出せという。金などあるわけがない。そこへ、通りがかりの者だと言って、水戸藩士、今井が入ってきて、賊の正体を暴いて追い払う。1_20210521101901 偽天狗党の押し込み強盗が流行っていたのだ。今井は、玉造文武(館)の者と名乗り、甚伍左を連れに来たという。(玉造文武館は藩校の一つで、天狗党の拠点となった)甚伍左は、京で薩摩など公武合体派と関係している事が疑われているらしい。お妙は父が粛清されると心配するが、今井には事情はよく分かっていない。段六が仙太郎の幼なじみと分かると、その仙太郎が今は筑波山にいるという。それを隠れて聞いていた暗闇の長五郎が飛びだして、驚いた今井と対峙するが・・・・・・。

 

五.筑波山麓道
天狗党本体が、日光東照宮を占拠してこもろうという目的で、出かけた留守部隊が筑波山の麓に屯所を置いて、富裕な商人などから軍資金を集めている。幕府が近傍の常野十二藩に天狗組追討の命令を発したが、戦はまだ散発的な衝突で終わっている。敵からぶんどった刀の束を肩にかけてここを通りかかった仙太郎を呼び止める者がいる。段六が暗闇の長五郎が命を狙っていることを知らせに来たのだ。その際、仙右衛門が斬られて死んだことを、しかもそのいきさつを聞けば、夜の闇に紛れて誰とも知らず、自分の手で兄貴ををあやめたことを知ったのだ。この稼業が嫌になったところへ加多と水木という藩士がやってきて、井上という隊士と同道し、江戸にいる甚伍左と水戸浪士吉村軍之進と長州の兵藤を暗殺するよう命令される。仙太郎は、水戸藩の内紛ばかりで、民百姓のことは考えてないと批判し、ことわるが、天狗隊の掟に背く訳にいかぬと言う言葉に渋々引き受けることに。仙太郎に疑いを持った水木と加多はいざとなればたかが博徒の一人や二人切って捨てるまでと話合う。

 

六.江戸薩摩ッ原の別寮
薩摩藩が知り合いから借りている屋敷の一室で、長州藩士兵藤と水戸浪士吉村、甚伍左、それに天狗党の井上が座って、もはや議論がつきて疲れたような様子。要するに、井上の言い分は、水戸が蜂起すれば長州がそれに呼応して武器弾薬など加勢するという約束を果たしていない。これは裏切りではないか、水戸を馬鹿にしているというものである。これたいして、兵藤は、状況は日々刻々変化しており、諸藩の連合を画策したがうまくいっていない。それを理解しようとしないのは水戸の責任だ。しかも、藩主慶篤公は天狗党追討を幕府に願い出るとは内乱の兆しではないか。このうえは、時期を待って雄藩を糾合し志を遂げようというものである。吉村も長州には長州の事情があると理解を示し、甚伍左もしきりに議論しても無駄だからやめようというが、しかし、井上は初めから、斬るつもりで来ているのだかららちが明かない。外がざわついたと思ったら見張りの者が斬られた物音。それを機に井上が抜刀して兵藤に斬りかかり、吉村が止めに入るところへ座敷に飛び込んできたのが仙太郎。ここで大立ち回りが始まり、兵藤が斬られて倒れたところで灯が消えて闇の中。甚伍左は、兵藤がこれからの國にとって大事な人だったのに、なんて馬鹿なことをしたんだと仙太郎を思慮のないただのデク人形だと詰る。この襲撃の前後に屋敷周りの見張り役として芸者お蔦(陽月 華)がからんでいる。2_20210521101901

 

七.読売
鈴の音も賑やかに江戸の街に瓦版屋が現れ、水戸天狗党の現在を報じる。それによると、元治元年三月筑波山で旗揚げした天狗党は、四月には日光東照宮に向かったが入山を拒否され、やむなく下野太平山(しもつけおおひらさん)に寄宿する。天狗党は暴威を振い、民家に放火し、宝蔵を奪うというので、幕府は若年寄、田沼意尊に天狗追討を命じ、常野十二藩の約三万人が対峙するが、相手も命がけでらちが明かない。
黒船がやって来て通商交渉しているときに尊皇攘夷もないものだが、民百姓の暮らしが立たない有様では世直しも必定だからとを支持するものも多い。そのうちに水戸藩不届きと、幕命により尊攘派の家老武田耕雲斎らが隠居謹慎、それで対立する諸生組(水戸藩門閥派)が実権を握る。
このもめごとを質すために藩主の名代として、宍戸藩(水戸の支藩)主、松平頼徳が水戸城に向かうが、武田耕雲斎はじめ侍や百姓町人まで随行したために、諸生組が警戒し、松平頼徳の入城を拒んだ。このため水戸城下では大砲を撃ち合うほどの戦闘となって、膠着状態が続いている。さあ、これからどうなるやら。

 

八.植木村お妙の家のなか
仙太郎と芸者お蔦がお妙の家にいる。大砲の音や銃声が時々響いて、戦闘が続いている様子である。今井が仙太郎を水戸城下那珂湊の天狗隊のもとへ呼び戻そうと訪ねてきているが、侍同士の内輪喧嘩に関わらないと仙太郎は動こうとしない。今井が出たあと、仙太郎も天狗党につないでくれといってきたものたちに会いに出る。そこへ貧血を起こしたお妙が段六に担がれて入ってきて、お蔦が、看病しながらお妙に仙太郎と一緒になったらどうかというが、それより子供たちの将来が案じられるという。帰ってきた仙太郎がお妙にオレの女房になってくれと不意に一言。その返事も聞けぬ間に、加多が飛び込んできて、今井から話は聞いたが、いっしょに水戸へ来いという。そこへ肩口に包帯を巻いた甚伍左がふっと入ってくる。緊張する加多に、湊へ行ってはならない、あれは罠だと甚伍左がいう。幕府は表向きは籠城派制圧のためといって那珂湊沖に軍艦を派遣したが、その実は水戸藩の幕府における勢力をそぎ、勤王派も両方を一気に叩き潰す魂胆だというのだ。加多は、それであっても水戸へ向かうという。その時大音響とともに幕軍の撃った大砲の弾がこの家に着弾、奥の部屋にいたお蔦が折れてきた梁に胸を突かれて瀕死の重傷。明日江戸へ帰るといっていたのに仙太郎が介錯して果てる。加多、仙太郎、甚伍左は、生きて再びあえると思うなと、有り金をお妙に預け、仙太郎をあてにしてやってきた数人を引き連れて、水戸城下那珂湊に向かう。

 

九.越前、木芽峠
那珂湊の戦い以来、武田耕雲斎を総大将とした天狗党千名あまりは、水戸の北方からまわりこんで中山道に出ると、一橋慶喜がいる京を目指した。途中散発的に抵抗に遭ったが、大垣の手前まで来て、待ち受ける幕府連合軍との戦闘を避けるために北に進路を変え、十二月の道なき山中を越前に向けて進むと、いまはようやく琵琶湖近くの木ノ芽峠までやって来た。
山中で加多と水木が、仙太郎の来るのを待っている。
天狗党の中に士分以外の百姓町人が混じっていると、ただの暴徒の群れととられ、寛大な処置は執られまいと水木たちは考えている。武田、藤田ら幹部を助命し、志を将来につなぐには、仙太郎ら町人を切り捨てねばならない。しかし、武田耕雲斎、藤田小四郎にその考えはみじんもなく、これは密かに水木や加多たちが行っていることである。
仙太郎がやってくる。加多が甚伍左の行方を尋ねると、反射炉(烈公が築いた製鉄所)の激闘のあと池之端で死にかけているのに出くわし、お妙を頼むと言って息絶えたという。加多は仙太郎を斬るに忍びなく、ここから真壁へ帰れという。加多の様子が変だと気が付いた仙太郎が、そういえば、何人か人知れず姿を消したのはお前らが殺したなというと、加多は頼むから死んでくれという。
仙太郎が叫ぶ。「犬畜生!士なんぞ、うぬ等の都合さえよければ、ほかの者はどうでもいいのだっ!御一新だと!阿呆っ!うぬ等がいい目を見たいための、うぬ等が出世したいための御一新だっ!だまされた!犬畜生っ!犬畜生っ!」
水木の撃った銃声がこだまし、仙太郎の身体がガクンと揺れる。加多が一太刀浴びせると、叫び声を上げながら崖下へ落ちた様子。加多が首に刀の切っ先をあて、「お先に、ごめん。」といって果てる。

 

十.真壁在水田
明治十七年、夏。田んぼで菅笠を被った男たちが作業をしている。近所の百姓衆が、上州方面から自由党の壮士たちがやって来て、ここらの山にこもって反政府運動をやろうとしている。それを県の役人やら警官が取り締まろうというので村は騒然としてきたと噂している。
そこへ慌ただしく刀を手にした壮士風の男たちがやって来て、仙太郎の家はどこかと訊ねる。壮士らの話では、その後仙太郎は、真壁へ戻って、お妙と一緒になり、子供たちも成長した様子。昔筑波山にこもって戦った仙太郎に、兵糧や運搬などで世話を焼いてもらいたいようだが、菅笠の百姓は、たぶん協力しないと言う。お前達、百姓になり代って藩閥政府の専横をぶち倒そうというのに手を貸さないことはあるまいと仙太郎の家の方に走り去る。
お妙と、若い娘がお茶とふかし芋を運んでやってくる。ここで、菅笠の百姓たちが、仙太郎と段六、それにあの暗闇が背負ってきた赤ん坊が成長したいまは滝三であることが分かる。お妙が育てた子供の一人が、自由党と行動を共にしているというのを段六は批判的だが、仙太郎は、何でもやってみなければ分からないという。仙太郎の考えは、慾得なしの立派な人でさえも頭ん中の理屈だけでことをやっているものだから、いざとなれば、食うや食わずの貧乏人のことは忘れてしまうがオチだ。政治家も組合も寄り合いも信用できない。下々の貧乏人が自分で考えて、しだすことでなけりゃ、貧乏人は利用されるだけで、貧乏人にはなんの役にも立たない、というもの。
自由党の壮士たちを追いかけて警官と地主がやってきて、自由党に協力したら自分の土地から出て行ってもらうと警告する。仙太郎は、自分が耕しているのだからこの土地に価値があるのだと主張して一歩も引かない。
地主たちが去ったあと、世の騒ぎから超然として、仙太郎たちは田んぼ仕事を続ける。

 

— 幕 —

 

 

劇の中で、背景となった天狗党の動きは、丁寧に説明されているわけではないので、それを少し補って、説明した。
それを知らなければ話の筋を追えないというものではないが、筑波山の旗揚げから本隊が日光東照宮を目指して果たせず、下野太平山に滞留ののち水戸城下で、諸生党(門閥派)と戦争状態になると言うめまぐるしい展開があったことに、仙太郎が翻弄されたことは事実で、多少せりふにその事情が織り込まれているとしても、演出家にそれを強調する意識がなく、細かいことは想像するしかなかったのではないか。
ただし、昭和九年の観客にとっては、あるいは天狗党の顛末はよく知られており、この戯曲のような切れ切れの情報で十分だと作者は考えたのかも知れない。
というのも、約七十年前の天狗党の事件について、人々の記憶の中にまだ生々しく存在した可能性はある。彼らは関東各地で頻繁に軍資金を調達したが、その商家や豪農に証文や記録が、またそれをことわったために家を焼かれ襲撃された宿場や村には詳細な被害の記録が残されており、周辺では語り継がれていた。また、京を目指して中山道を千名もの軍団が移動すれば、街道筋の小藩との折衝や宿泊、食糧調達など地域ぐるみの大仕事になり、各宿場で、その動きは克明に記録され記憶に残った。
明らかなのは、現代の観客が、天狗党についての知識をそれほど多く持っているとは考えられないことであった。
劇中「太平山(たいへいざん)」に向かうというせりふがあったので、一瞬、秋田市郊外の太平山(標高1170m)の他に同じ名前の山があったのかと感じたが、これは栃木県では有名な「太平山(おおひらさん)」(標高341m)のことだった。
劇をやるものだって、この調子だから、天狗党の動向を示すせりふも一種の符丁みたいにしか聞こえなかった?のではないかと思っている。

 

これは、仙太郎が「世直し」という言葉に反応し、天狗党に期待した事はあったが、この劇では「尊皇攘夷」というイデオロギーに共感したという点はほとんど強調されなかったために、その関係は実は希薄に見えたのである。このため天狗党についてはアウトオブフォーカスの背景(武士の世界における勢力争いの一つ)として存在するにとどまった。
では、仙太郎と天狗党を結びつけていたものは何か?
兄の赦免願いに署名と見舞いの小判一枚をもらったことに恩義を感じた、その縁で繋がっていたのである。つまり義理と人情がどこまでもついて回っていわば腐れ縁になったことだと僕らには見えるのだ。
これはやくざ映画のパターンではないか?
その通りで、劇作家で演出家、村山知義は、治安維持法違反の獄中から帰還して、すぐこの劇を知り、この日本共産党員は「ファッショ的、アナーキズム的な傾向。卑俗劇、リアリズムの探求と正反対、新国劇のジャンルに属する。」という激烈な批評を新聞に載せたのである。
何故これほどムキになって、批判しなければならなかったかは明らかであろう。ナップから抜け、プロット(日本プロレタリア劇場同盟)からも脱退したばかりの三好十郎が、天狗党を日本共産党のアナロジーと見たて、不信感をあらわにしたと思ったからだ。天狗党が博徒を自分の都合のいいように使って最後は切り捨てると言うものがたりに、階級闘争や社会主義リアリズムのコンセプトは何もない、浪曲「天保水滸伝」のような義理人情のしがらみを描いた、とるにたりない通俗的な娯楽劇にすぎないと切ってみせたのである。
終幕の仙太郎のセリフに「理屈だけで社会のこと考えているものは、底辺のことには気が行かない。最下層にいるものにとっては、政治家も組合も寄り合いも信用ならない。自分だけがたよりだ。」というのがあるが、これを党中央批判およびアナーキズムと受け取ったのであろう。転向者に対して、容赦のない批難である。
ただし、三好十郎も、ものがたりをより主題に近づけるために、事実を曲げて創作したところがある。
最後の見せ場、第九場「越前、木ノ芽峠」である。
幕府に寛大な措置を願い出るためには、天狗党に百姓町人が存在しては、一揆、あるいは暴徒の反乱と受け取られかねない。加多や水木たちは、武田耕雲斎、田丸稻右衛門、藤田小四郎ら幹部らを助命し、志の実現を将来に託すために、降伏前に天狗党から武士以外を消去しようとしたということになっているが、残された資料で見る限り、こうした事実はない。
那珂湊の戦いから隊列を整えて中山道を進むうち、武田耕雲斎は、盗みや住民に対する暴力、隊としての秩序を乱すものには厳しく対処する旨徹底し、離脱に関しては本人の判断にまかせる、つまり、止めないと通告している。
途中何人かは隊列を離れたが、何万もの幕府軍が前方に迫り、あるいは追尾している中を逃れることが出来たのは少ない。それよりも、越前で、加賀藩に降伏したとき、多数の百姓や子供、町人、一人の女性(峠越えの前までは二十人あまりの)まで数百人の規模で残っていたのである。それらがいなければ、水戸藩士らが助命されたというのはどこにも根拠がない。幕府は追討命令を発しており、頼りにしていた一橋慶喜もかれらを厳しく批難していた(少しでも甘い態度を見せれば、幕府の意向に背くものと批難され、政敵、薩摩などにより失脚させられるおそれがあった。)ので、いずれ断罪されることは必至であった。ただし、三百人以上も斬首の刑というのは、この時代になって、いささか異常ではある。諸生組によって牢に閉じ込められていた武田耕雲斎はじめ幹部の家族も、妻子、幼い孫までも斬首されるという痛ましいこともおきた。これを知った薩摩藩の大久保一蔵は、「政権の末期症状」だと日記に記している。
これほど激烈な内紛があった藩は他にない。
水戸藩は、真っ先に「尊皇攘夷」を掲げ、「世直し」に向けて最先端を走っていたはずなのに、維新が成ったときはすでに力尽きて、その存在は影も形も残っていなかった。

 

 

この公演は、長さを半分に、役者も一人何役もこなすという方法で、上演されたが、そのハンディキャップをあまり感じさせずにやりきったことは評価できる。書き割りはなく、やや強い傾斜の八百屋形式も、この省略形には合っていて、長い時間を稽古にあてたのか、殺陣はもちろん、所作、せりふなど舞台としての完成度も高かった。
キャスティングは、フルオーディションということであるが、我が国ではまだめずらしく、それがどう言う方法で行われたのか、詳細を知りたいところである。ただし、それに特に不満があることではない。
目立ったところでは、お妙の浅野令子が可憐な演技を見せ、芸者お蔦の陽月 華が意外にも達者な役者だったと認識を新たにした。また、甚伍左の青山 勝は、はじめて見たが、なかなかの貫禄で、キャスティング全体をまとめる存在感であった。段六の瀬口寛之もはじめて見たが、最も素朴な百姓の姿を見事に造形していたとおもう。
仙太郎の伊達 暁には多少の迷いがあったのではないかと思った。それは、水戸藩士との距離の取り方である。これは演出家の責任でもあるが、イデオロギーなのか義理人情なのか、あるいは武士と百姓の階級闘争なのか、その心の葛藤、相克がもっとくっきりと表現されるべきであった。そのためか、大衆が知っているヒロイックなやくざのキャラクターと比べると曖昧で地味に見えたのだが、それはこの劇にとっては、あまりふさわしくないと僕は考えている。

 

 

タイトル
観劇日 2021/4/17
劇場 新国立劇場
主催 新国立劇場
期間 2021 年4月6日〜25日
作 三好十郎
原作/翻訳
演出 上村聡史
美術 乘峯雅寛
照明 沢田祐二
衣装 宮本宣子
音楽 国広和毅・加藤 温
出演 青山 勝 浅野令子 今國雅彦 内田健介 木下政治 久保貫太郎 小泉将臣 小林大介 佐藤祐基 瀬口寛之 伊達 暁 中山義紘 原 愛絵 原川浩明 陽月 華 山森大輔

 

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2021年3月27日 (土)

劇評「帰還不能点」その二

Photo_20210327165501 日華事変と大東亜共栄圏

さて、引用した三田村の記述によると、国民政府、孔祥熙行政院長と松井石根大将の委嘱を受けた茅野長知の交渉がまとまり、近衛首相、板垣陸相の了解を得た上で、茅野が居正と交わした最終の和平合意案を持って東京の近衛、板垣のもとを再訪したら、彼らの態度が一変していた。「汪兆銘が無条件和平を望んでいるので、日本側に和平の必要はなくなった」というのである。この情報は「松本重治が、高宋武を連れてきて」近衛や板垣にもたらされたものだという説明であった。
茅野長知が、漢口政府=賈存得との下交渉の結果を近衛、板垣の了承を得て、上海へ帰国したのが昭和13年5月17日頃である。このとき、おそらく偶然なのだろうが、松本重治と会ったので、情報交換(松本が別ルートで和平交渉に動いていたことは茅野も知っていた。)の意味で、茅野が自分たちの交渉の進捗状況も話したのだ。松本重治はこのとき、日本政府が茅野−孔祥熙和平案の推進を了承したことを知ったのである。
その後、居正との和平案を持って茅野が訪日したのは、昭和13年6月28日である。その約一ヶ月の間に何があったのか。
7月29日付の松本藏次にあてた茅野の手紙によると、汪兆銘その他二三十名の一致協力によって、蔣介石下野を実現できると言う情報があったので、そっちを優先させたようだと言うのである。はたしてこれが、松本重治−高宋武の工作によるものなのかどうか。松本は蔣介石下野などと言うことを本気で信じていたのだろうか。
しかし、三田村は、茅野が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与えたという茅野の考えを、その後の展開と照らし合わせると真実だと思っている。

 

 

これより4ヶ月ほど遡る昭和13年3月5日、上海にある同盟通信中南支総局、総局長松本重治の机上にある電話が鳴った。
「シゲちゃん、誰だか分かるかい。」
こういう声には覚えがある。「宋武だろう」
「そうだ。会って話がしたいから、来てくれないか」
すぐにフランス租界に車を飛ばし、指定された場所にいくと、そこは空き家だった。暖房もないがらんとした部屋で、高宋武は一人で待っていた。ふたりは外套も脱がずに話し始める。・・・・・・

 

 

松本重治−高宋武の工作は、茅野−孔祥熙ルートよりも先行していた。しかし、茅野が賈存得との会談内容を近衛、板垣に報告し了解を得て上海へ戻ってきた5月17日のあとに、茅野からこの進捗状況を聞いた松本重治は、どう思っただろうか。
いずれにしても、茅野−孔祥熙のラインは、蔣介石下野などと言う無理筋とは無縁で、双方の顔が立つ無理のない和平案である。自分たちが先行しているのにとんだ邪魔が入ったと思っただろうか。それとも、茅野−孔祥熙のラインで和平が進んだら、戦争は終わってしまう、それは困る、と思っただろうか。

 

あの日本政府側の翻意した一ヶ月間の松本重治の行動が分かる資料があれば、何が日本の運命をかえたできごとだったのか確認出来ると思っていたら、都合よく1985年(昭和60年)4月から12月まで週刊エコノミストに連載された「昭和史としての一証言」をまとめた本を図書館で見つけ出した。これは、同時通訳からキャスターをへて、のちに参議院議員となる国広正雄が、84歳になった松本重治にインタビューした記録である。他にも複数の回想録はあるようだが、とりあえず、茅野−孔祥熙和平案について、どのように考えたか知る事が出来れば満足と思って、この本を調べてみた。

 

国広正雄は近衛の声明について自分の見解を述べたあと、松本の和平工作について語ることを促す。
国広の発言:「爾後、国民政府を相手にせず」の声明には、日本と提携できる振興政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整する、とまで述べられています。おまけに「相手にせず」と言うことは、否認よりも一段と強い措置で、国民政府を抹殺するのである、と言う説明を追加しています。和平条件を釣り上げ、中国側が飲めないようにしてしまっただけでなく、国民政府との和平交渉自体が出来ないようにするなんて愚かしさの極みと思うんですが、これで蔣介石はいよいよ抗日戦強化に追い込まれます。・・・・・・」
松本によると、困ったのは国民政府外交部で、日本政府から相手にされなくなると外交のすべがなくなってしまう。そこで日本との交渉窓口を探るために漢口政府外交部司長の高宗武がこっそり上海にやって来た。それがあの電話だったのである。
松本はいずれ高宋武から連絡があると思ってた節がある。というのも二ヶ月ほど前の昭和13年1月17日、満鉄南京事務所の西義顕から電話があり、上海のパレスホテルに行ってみるとそこに、満州国外交部上海事務所長の伊藤芳男と高宋武の部下で国民政府外交部亜洲司日本課長の薫道寧がいたからだ。
薫道寧は、横浜で育ち学校も大学まですべて日本で学んでおり、日中の将来を憂える熱血漢だった。西と伊藤はこれに共鳴して、和平の道を探る相談のつもりで松本を呼び出したというのである。
松本は、薫道寧を日本に潜行させ、しかるべき人に会わせて和平の道筋を付けるという西の提案に協力することにして、さて、日本側の誰に会わせるか。思案した結果、参謀本部謀略課長の影佐禎昭大佐を日本側の窓口にすることを提案する。外務省筋よりも、その方がよいと判断したのは、影佐は日中和平は重要と考えている将校で、西、伊藤とも志を同じくする旧知の仲であった。それに、影佐夫人の母親は松本の妻、花子の実家にとっては身内と同様で、影佐が上海勤務の二年間、家族ぐるみの付き合いがあった。
まず西が露払いとして日本に行き、薫道寧を迎え入れる準備をした上で、昭和13年2月17日に横浜のホテルで影佐との会見が実現した。上海パレスホテルの相談から一ヶ月という短期間であった。
薫道寧は影佐によって日本側の和平派の人々と会見することが出来、最後に影佐は国民政府の重鎮であり、日本の士官学校同窓の何応欽、張群にあてた「日中両国が裸になって抱き合う気持ちになりたいものだ」という意味の親書を薫道寧に持たせたのである。
これを薫道寧が持ち帰って、高宋武、伊藤、松本が顔をあわせたのが、3月16日、西の香港到着を待って、3月27日、影佐親書の扱いをどうするか五人で相談した結果、これを使って高が蔣介石を説得すると言う結論になった。
高は、まず汪兆銘にこれを見せると周仏海など国民党内部の和平派が元気づいた。さらに彼の判断で蔣介石にも見せることになった。
4月16日、高と薫道寧二人が香港に来て、満鉄の西と会い、蔣介石は、何応欽、張群から返事を出すことを禁じたが、敵将に手紙を送ることに感銘を受けた、これまでに示している条件なら和平の用意がある、日本が停戦すれば、和平交渉に入るという蔣介石の意向が伝えられる。西、伊藤は、4月27日、東京に急行し、それを伝えようとしたが、これより先4月7日、徐州作戦が開始されていて停戦和平どころではない状況に変わっていた。
徐州作戦は必ずしも成功とは言えず、5月26日、近衛首相は内閣改造で局面を打開しようとはかる。
6月10日、高宋武が、日本側の態勢が変わったのを機に、直接東京に乗り込んで、日本側の和平派と交渉するつもりだがどう思うか、と言う相談が松本に寄せられる。蔣介石は高の日本行きは反対であったが、周仏海が責任をとるというので決心したのである。つまり高は蔣介石の了解を得ないでこれをしようとしていたのだ。
高宋武と松本重治は何回か会って、次のようなシナリオを書いた。
まず、日本が撤兵を声明する。そこで、中国側は汪兆銘が下野を声明する。野に下った汪兆銘は和平運動を起こす、戦争をやめたいと思っている雑軍の将領たちが汪兆銘の和平運動に結集する、そこまで来ると蔣介石は長期抗戦が出来なくなり、責任をとって下野することも有り得る。それから先は一時汪兆銘が蔣介石に変わるが、最後には蔣介石が政権に戻って、将・応のコンビで事態を収拾する。
6月に影佐大佐は参謀本部から陸軍省軍務課長に転任していたので、これは政治政策面の要にあたるポストで、撤兵の方法や日程などシナリオを日本側で実行する役割としては好都合であった。
高の日本行きには満州国外交部の伊藤が同行することになった。

 

 

「二人が予約したエンブレス・オブ・ジャパン号の出航は忘れもしない7月3日真夜中でした。それに乗船するためには、ガーデン・ブリッジを通らなければならないが、そこは日本の陸戦隊の哨兵が厳重に警戒しています。高が哨兵に誰何され、身分を知られるとたいへんです。
そこで、私は一策を考えつきました。エンブレス・オブ・ジャパン号まで、同盟の社旗を立てた自動車で、高を送ることにしました。また、私の従軍記者のバッチを高に付けさせました。私の帽子を被らせ、私の名刺を高のポケットに入れさせました。哨兵は左側に立っているので、車に左側の席に私が座り、車がガーデン・ブリッジの哨兵の前を通るとき、車のスピードをわざと落とし、私は「同盟通信」と大声で叫びました。難関突破です。」

 

昔々、子供の頃、何かの映画で見たシーンと思うのだが、その頃僕は、日中関係とその戦争について漠然としか知らなかったので、たぶん意味が分かっていたとは思えない。大半の日本人がこのあたりの歴史についてはよく知らないのではないか。
それはともかく、高が、蔣介石を相手にせずと言われた以上、汪兆銘を交渉相手にするという選択肢しかないと日本側を説得して回り、これが功を奏した結果になったというのである。
7月21日、高宋武は伊藤とともに横浜から上海へ戻る。茅野ー孔祥熙ラインでは、高宋武が二枚舌を使っていたことが漢口政府に伝えられると逮捕状が出たとあるが、松本のインタビューには、高宋武の逮捕と言う記述はどこにも見当たらない。
松本重治が他の和平工作ルートについてどんな感想を持っていたか、国広正雄が聴いている。
宇垣外務大臣と孔祥熙行政院長との交渉は、香港に駐在していた秘書の蕎輔三と香港総領事の中村豊一(緒方貞子の父親)の間で行われていたが、宇垣の出した条件は、蔣介石が下野すれば日本は撤兵するというものだった。これに対して、孔祥熙は、いま蔣介石が下野すれば中国はめちゃめちゃになってしまう。代わりに自分が下野するというのではどうかというので、それでは話にならんと暗礁に乗り上げた。
国広正雄が「中国側としてはとても蔣介石の下野は飲めないと言うことぐらいは、宇垣さんにも分かっていたはずだと思うんですが・・・・・・。」つまり、松本−高宋武の和平案にも、蔣介石の下野と言うアイディアは入っているではないかと言う意味であるが、これに松本は次のように答えている。
「蔣介石はこれまでに何回も下野しているんです。満州事変のあとでも、東北三省を日本にとられた責任をとって下野した。しかし、すぐ政権に帰ってくるのです。そういうことからすれば、蔣介石は、ちょっとの間だけ下野すればいいではないか、と言う考えが日本側にあったようです。」
松本はこれを8月下旬に耳にしていた。別ルートとしては、同じ頃、国民参政会議の委員、張季鶯が蔣介石、張群の意向を持って、朝日新聞特派員の神尾茂や香港に来ていた矢田志知太郎公使と会っていたことや、緒方竹虎と張季鶯の間を神尾茂が取り持っていることを知り得たといっている。
ところが、このくだりに、茅野−孔祥熙のラインで交渉が煮詰まっていたことを知っていながらこれについての言及はまったく見当たらないのである。
このとき、国広正雄が三田村武夫の著書を知っていれば、この点をただしたはずであったろうが、惜しいことであった。
このあと、松本重治は腸チフスにかかって12月ごろまで入院することになり、交渉は、高宋武に梅思平を加えた国民政府がわと日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫とに引き継がれていった。この両者間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪兆銘がこの後に重慶を脱出してハノイに向かい、近衛は、昭和13年12月22日に対中国和平における3つの方針
一、善隣友好、
二、共同防共、
三、経済提携)を示した。
しかしこの声明からは、「2年以内の撤兵」という合意要件が欠落していた。汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪兆銘から全ての職務と党籍を剥奪した。第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。
松本重治はいっている。
協議記録にはっきり書き、中国側があれほど強く望んでいた「二年以内に撤兵」という下りがなかった。近衛は、北支の一部、内蒙古には防共の意味で一定期間駐留するが、それ以外に中国全土から二年以内に引き上げるという原文を書いた、と言うことだが、実際には「撤兵」の文字がなかった。軍部が注文を付けて、その二文字を削ったのだ、と。
「撤兵」の文字は停戦和平の条件として中国側の切望することであったが、これがなかったために、汪兆銘は日本によって完全にはしごを外されたような結果になった。松本は、軍が「撤兵」を拒んだように言っているが、近衛が書いた原文を軍の誰が改竄できるのだろうか。また、改竄などすれば、戦は終わらず、軍にとって何の益があるだろうか。
戦争の継続を望むものがやったとしか考えられないではないか?
松本は、尾崎や西園寺、犬飼、笠信太郎らと近衛を囲む「朝飯会」のメンバーであり、その意識があったかどうかは分からないが、結果としては戦争継続に手を貸してしまったのである。この九州電鉄経営者の息子に反省の色を見いだすことは出来ない。

 

はじめに戻って、「以後国民政府を相手とせず」であるが、国広正雄の言うとおり、「和平条件を釣り上げ、中国側が飲めないようにしてしまっただけでなく、国民政府との和平交渉自体が出来ないようにするなんて愚かしさの極み」であると僕もそう思った。
国民政府を分裂させて、蔣介石に敵対する勢力と交渉するといっても蔣介石が存在する以上、戦を継続するか、蔣介石と和平交渉するかしかないのではないか。この「相手とせず」も輿論に押されて思わず出た言葉かも知れないが、戦争を継続させたいものにとっては、願ってもないことであっただろう。

 

 

三田村武夫はこの22日の近衛声明について次のように書いている。
「この二十二日の近衛声明は一体何人の筆になったものか、当時の書記官長風見章氏は、その内容も文章も近衛が独自で決めて出したものであり、最初の文案は中山優(満州国建国大学教授、中村註)氏の執筆であったと記憶するといっているが(文芸春秋二十四年十一月号六十二頁)、実際はその構想も、文案も尾崎秀実の筆になったものである。」
このあと、三田村の記述は、尾崎の証言の紹介に移るのだが、そのまえに、江崎道朗(評論家)が書いた本(「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」)の中で、それを推定させる証拠として、ゾルゲ事件上告審の犬養健弁護関係書類に含まれていた犬養手記があると言っているのでそれを紹介しよう。
松本らと高宋武ルートの工作に参加していた犬飼健の調書である。
「《「近衛声明原案を尾崎は牛場首相秘書官と共に執筆したり。この時、執筆はせざりしも同室に在りて意見を述べつつありし者に西園寺公一と岸秘書官有り。この声明案は文章等に付陸軍方面に異論有り。異論の有する事を影佐軍務課長より風見書記官長に対して述べた結果、更に一つの試案を中山優氏が書き、首相の意見を加え、最後に之を基として陸海立会の上にて清書したるものが、一二月二二日発出の近衛声明なり」「但し、当夜は同じ首相官邸に勤務せる横溝情報部長にすら秘密にし居たるに拘わらず、尾崎は何時風見書記官長より諮問あるやも計られずとして首相秘書官室(近衛声明執筆の室)の真下の自室に夜まで居残りいたり」》」
江崎道朗は「犬養手記が正しいとすれば、最初の文案は中山優ではなく尾崎と牛場によるものだ。近衛声明文案作成に際して、尾崎は、前述の風見書記官長の戦後の発言が示すよりもはるかに重要な役割を果たしていたことになる。」といっていて、三田村の記述と一致する。
要するに、軍の方に「撤兵」に対する異論があるという事実を利用し、尾崎秀実は、声明発表の前夜、首相秘書官室軍の真下の自室に待機、「撤兵」の文字を削除する機会をうかがっていたというのである。
尾崎が、そうまでして工作しなければならなかった理由は、この戦争を終わらせてはならなかったからである。

 

三田村武夫の記述に戻ろう。
「この問題に関し、尾崎秀実はその手記で次のように述べている。
「昭和十三年春頃より当時同盟通信上海支局長であった松本重治と、南京政府亜州司長高宗武との間に日支間の平和回復に関する努力が行われていました」。「十三年春には高宗武が秘かに渡日し、下相談が進められ、松本重治等の斡旋により、近衛内閣も直接工作に携り、松本重治の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の当事者としてこれに参加するに至りました。私はこの工作には直接参加しなかったのですが、犬養、西園寺等と友人関係にあることや、近衛内閣の嘱託であったことから、この間の情況をしばしば耳にし、又同人等より、この工作に付き意見を求められておりました。」といい、汪兆銘工作が始まってからは、犬養は当初よりこれに関係し、爾来支那問題に終始して来たのであります。」「犬養は私をよき相談相手として種々意見を求めておったのであります」といっている。
この尾崎の手記は、前にも一言した如く、政治的な考慮から、関係者への影響を考え多分にボヤケタ所があるが新政権工作の中心人物はむしろ尾崎秀実であったのである。
彼はまた別の検事調書の中で、「日本と蒋介石との直接交渉は早くより香港を中心として小川平吉、茅野長知氏、軍関係者、外務省関係者など夫々別な路線を通じて工作が行われて居ったことは新聞記者仲間の話、現地での聴き込み、反対の立場に立つ汪兆銘運動関係者の話等から聞いて居た―。」といっているが、反対の立場に立つ汪兆銘派とは犬養、西園寺、松本重治の線であり、実は尾崎自身であったのだ。
何故かく断言するか、それには理由がある。彼は既にしばしば述べた如く、共産主義社会の実現に全生命を賭し、一切を犠牲にして傾倒して来た真実の共産主義者であり、日華事変から太平洋戦争へ、そして敗戦への現実的進行は、彼がその手記に描き出した第二次世界戦から世界共産主義革命への構想と余りにも一致しているからである。
近衛内閣は十一月三日声明及び二十二日声明で「東亜新秩序建設」という用語を用い、これを事変処理のスローガンとして来たことは周知の通りであるが、この新秩序なる概念は、尾崎によれば、共産主義的秩序を意味したものである。
彼の手記を重ねて引用するならば、「帝国主義政策の限りなき悪循環、即ち、戦争から世界の分割、更に新たなる戦争から、資源領土の再分配という悪循環を断ち切る道は、国内における搾取、非搾取の関係、国外に於いても同様の関係を清算した新たなる世界的体制を確立する以外にはありません。
即ち世界資本主義に変わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められるのであります。然もこれは必ず実現しきたるものと確信したのであります。」「日本自身は、私の以上の如き考え方からすれば頗る敗退の可能性を多く含んだ国ということになります。(かつて、日本は対米英戦の緒戦に於いては一応必ず勝利を占めるが、六月後にはその情勢が不利となってくるという意味)勿論戦争は飽く迄、世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるものでありますから、欧州での英独対抗の結果というものが亦直接問題となるのでありましょう。つまり東西何れの一角でも崩壊するならば、やがて全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。
この観点から見る場合、独逸とイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり独逸なりが簡単に崩れさって米英の全勝におわるのでは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の対立は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝におわらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以て、ソ連、支那と結び、別な角度から英米対抗する体勢をとるべきであると考えました。
この意味において日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の開放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己開放を、東亜新秩序創建の絶対要件であるということをしきりに主張しておりましたのは、かかるふくみをこめてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者とも殆んど矛盾することなく主張されるのであります」といっている。
又彼は、「日、ソ、支、三民族国家の緊密有効なる提携を中核として、更に、英、米、仏、蘭等から開放された印度、ビルマ、泰、蘭印、仏印、フィリピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として、前述の三中核と、政治的、経済的、文化的に緊密なる提携に入るのであります。この場合各々の民族共同体が、最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、その民族の独立と、東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を一応自ら選び得るのであります、尚この東亜新秩序社会に於いては、前記の東亜民族の他に、蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満州民族共同体等が参加することが考えられるのであります。
申す迄もなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすものでありますから、世界新秩序完成の方向と、東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります」と言っている。要するに、尾崎の所謂東亜新秩序とは、アジア共産主義社会の実現を意味し、世界共産主義社会完成の方向と矛盾してはならないのである。
この目的達成の為には、日本や独逸が簡単に敗れ去ることは好ましいことでなく、亦日本と蒋政権と和平して、日華事変に終止符をうつことも困ることであり日本帝国主義と蒋介石軍閥政権と更にアメリカ帝国主義、イギリス帝国主義が徹底的に長期全面戦争を戦い抜かねば都合が悪いのである。
この尾崎の構想をもって日華事変の先行きを判断すれば、日本政府と重慶政府との和平を成立せしめないために何等かの手を打つことが必要であり、その為の手段として考えられたものが汪兆銘の新政権樹立工作と見るべきである。
即ち日本政府及軍部と一体不可分の関係に立ち、新政権を作り上げることにより、汪兆銘を敵国通謀者とし、反逆者として逮捕命令を発した重慶政府との和平交渉を永久に遮断するを打ち込んだものであり、日本政府と汪兆銘政権が、共同防共を闘争目標として掲げたことは、国共合作の上に立つ重慶政府を対照とした苦肉の策と見るべきである。
この尾崎をよき相談相手としてその意見を徴し、彼の構想の上に作られた南京政府が如何なる性質のものであるかは説明を要しないであろう。この謀略の犠牲となった汪兆銘は、昭和十九年十一月十日、名古屋帝大病院で淋しく死んで行った。彼もまた近衛と同じように見えざる影の糸にあやつられて悲劇の主役を演じたロボットだったのである。」

 

三田村武夫によれば、日華事変泥沼化のこの狂騒劇のシナリオを書いたのは、コミンテルンに忠実なる共産主義者、尾崎秀実であった。

 

次に、「大東亜共栄圏」について、具体的にどんな像を結ぶのか僕には分からなかったと言ったが、この引用の中にあるとおり、大東亜という地図上に、「共産主義国家」という補助線を添えることによってそれが、浮かび上がるというものだったのである。

 

また、軍部の唱える大東亜共栄圏にも共産思想が紛れ込んでいることを三田村は指摘している。
「軍部内に食い込んだ謀略活動であるが、この問題は本篇の主要課題であるから別に詳しく述べることとし、ここでは元陸軍省兵務局長田中隆吉氏の意見を引用する程度にとどめておこう。
田中氏は、その著『日本軍閥暗闘史』の中で「支那事変の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(これを私は転向右翼と名づけた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。
陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向右翼との握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展したことは、やがて三国同盟の締結となり、大政翼賛会の創設となり更に翼政会の出現となり、我が日本を完全なる全体主義国家に変貌せしめた。
しかも太平洋戦争の勃発は、憲法を無視する推薦選挙の暴挙を生み、国民から言論結社の自由を奪い、ここに世界史に稀にみる軍部独裁の政治体制を確立したのである。この政治体制は陸軍が転向右翼の戦術に乗ぜられたものでなくて何であろう。
統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派の内部に巣喰い、彼等転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にも殆んど無智な軍人が、サーベルの威力により、その付け焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗ぜられたのは当然の帰結である」(同書八三頁八四頁)と言っている。
筆者は、この田中氏の見解に、そのまま賛成するものではないが――例えば、彼が陸軍部内の所謂統制派のみに責任を負わせ、自分はその圏外に在るが如き態度を取っている点、更に彼の言う転向右翼は、実は転向を擬装したほんものの共産主義者であったり、その転向右翼の背後に尾崎秀実の巧妙な理論指導があったこと、また尾崎秀実と武藤軍務局長の間には特に緊密な連絡があったことを見落しているが、しかし彼は兵務局長になる前に兵務課長をして居り、永く憲兵の総元締をして居ったから陸軍内部の思想傾向にも、外部との連絡関係にも相当深い知識を持っていた筈である。
その田中氏が、武藤軍務局長を中心とする政治軍人の背後には共産主義者の理論指導があり、軍閥政治軍人はこの共産主義者の巧妙にして精緻なる祖国敗戦謀略に踊らされたのだと言っていることは、特に重視する必要がある。
この点に関し、近衛公は前掲上奏文(後に紹介する。中村註)の中で「軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(これを右翼というも可、左翼というも可なり、右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存じ候」と言っている。

 

三田村は、衆議院議員の中野正剛らと東絛内閣打倒運動を行って、東絛の放った特高警察と憲兵に追い回される事になるが、そうしたさ中の昭和18年4月の或る日、荻外荘に近衛を訪ね、戦局、政局の諸問題につき率直な意見を述べて懇談した事があった。
「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする――」と述懐した。
彼はこの経験と反省を昭和20年2月14日天皇に提出した上奏文の中で、次のように述べている。
「――つらつら思うに、我国内外の情勢はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存ぜられ候――」「――翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなわち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵概心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍に御座候。
右の内、特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候、少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じおるものの如く、軍部革新論の基調も、またここにありと存候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義的主張を受け入れ易き境遇にあり、また彼等は軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれおるを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論をもって彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
そもそも、満州事変、日華事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるはこれ等軍部内の意識的計画なりしこと、いまや明瞭なりと存じ候。満州事変当時、彼等は事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実に御座候。
日華事変当時も、『事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる』と公言せしはこの中心的人物に御座候。これら、郡内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。
このことは、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り、交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思いあたる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。
不肖はこの間二度までも組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんがため、出来るだけこれ等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何としても申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と言っている。

 

つまり、近衛は、過去十ヶ年間、日本政治の最高責任者として、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘って交友を持って来た自分が、静かに反省して到達した結論は、「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することの出来なかったのは、自分の不明の致すところだ」と言うのである。言いかえれば、自分はこれら革命主義者のロボットとして踊らされたのだと告白しているのだ。」

 

尾崎秀実が忠実に従ったコミンテルン第6回大会(1928年、昭和3年)の決議や第7回大会における人民戦線戦術などにも触れておきたいが、劇評から離れてしまうのでこれ以上はやめておく。

 

劇に話題として登場する松岡外相については、日独伊三国同盟や日ソ不可侵条約など必ずしも明快な理由を見いだせないことがあるといっていたと思うが、それには、この外相の就任時から側にぴったり寄り添っていたのが西園寺公一だったと言うことで、見えてくるものがあるだろう。
また、三田村は、例の「爾後、蔣介石政府を相手にせず」のあと、長期戦になるのを歓迎する論文を書いた一人として三木清をあげているが、これについて、一言触れておきたい。三田村はこのように書いている。
「この政府声明に呼応し、同月十九日付読売新聞夕刊一日一題欄に「長期戦の覚悟」と題する三木清の論文があらわれたことは注目に値する。彼はその中で「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から既に予測されていたことである。今更改めて悲壮な気持になることはない」「長期戦の覚悟として必要なのは強靭性である。長期戦となれば、いきおい局面は複雑化し、思いがけない事の起こって来る可能性もふえるわけであるが、これに処して行くには強靭な精神が必要である」といっている。三木清が共産主義思想の把持者で、その為に彼は昭和十七年治安維持法違反として検挙され、獄中で悲惨な死を遂げたことは周知の通りである。終戦後彼は戦争に反対したが故に軍閥政治の犠牲となって獄死したかの如く伝えられたが、この読売紙上の一論文でも明らかな如く、まっさきに長期戦を支持したのは彼等一連の共産主義者のグループであった。」
「人生論ノート」の三木清にも意外な過去があったのだ。林達夫の追悼の意味が分かるような気がした。

 

ここで、作家の古川健に、質問しておく。
いま、日本は、米国、豪州、インドとともに進めている安全保障協力体(クアッド)に英国が参加することを支持する一方、英国は米国、カナダ、豪州、ニュージーランドと機密情報を共有する「ファイブ・アイズ」に日本が参加することを提案している。君ならどう答えるか。過去を詮索するのもいいが、こういうことを考えるのも劇作の使命と思わないか?

 

三田村の尾崎秀実に対する真情を紹介して終わりにする。
「コミュニストとしての尾崎秀実、革命家としての尾崎秀実の信念とその高き政治感覚には最高の敬意を表するものであるが、然し、問題は一人の思想家の独断で、八千万の同胞が八年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失うことが許されるか否かの点にある。同じ優れた革命家であってもレーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して闘っている。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものをもっていたとしても、十幾年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を狩り立て、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進して来たのだ。正義と人道の名に於いて許し難き憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。」

 

戦前の共産主義とその運動を観察してきた三田村武夫のため息にもにた感慨である。
「絶対に正しいことなんてないのだ」と考える僕も同じように感じる。

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2021年3月22日 (月)

劇評「帰還不能点」

Photo_20210322205701特に見たい芝居でなかったので、劇場には行っていない。感想を聞きたいと家人に言われたので、Web上に設定された有料サイトVIMEOで見た。この劇団の芝居は、アウシュビッツの元ゾンダーコマンドを扱った「あの記憶の記録」をTVの中継録画で見ただけである。このときの批評は、すでにアップしている。(劇評

今どき、ナチスのホロコーストを蒸し返して何を言いうのかと期待したが、答えはヒューマニズムという平凡な動機だったので、いささか失望した。アフリカ、中東やボスニア、新疆ウイグル自治区にみられる現代のホロコーストに、ヒューマニズムで立ち向かうことなど無力ではないかという批評に耐えられるだけの主題を持たなければ、あるいは経験者のインタビューやドキュメンタリーを超えるなにかがなければ、単に歴史事実を舞台で見せただけのことである。

資料を読むとこの劇団は、我が国に限らず、戦前の歴史を扱ってきたようだが、この芝居も、太平洋戦争開戦前に「総力戦研究所」が米国には勝てないと判断していたことを取り上げ、戦争回避の分岐点があったにもかかわらず、そのまま突き進んでしまった事を取り上げている。むろん、帰還不能点がどこであっても、結果としては帰還しなかったのだからそれを議論すること自体、あまり意味がないと思えるが、「どこかで引き返していたら」と考える真情は理解出来る。しかし、敗戦というあまりにも大きな結果に比較すれば、それがどこであっても、いまとなってはどうでもいいこと、何の参考にもならないのではないのか。

ところで、総力戦とは何かと言えば、軍事面のみならず国家の経済、技術開発、情報など国家の持てる力を総動員して戦うことである。ナポレオンの時代(1815年前後)には、せいぜい大砲と小銃を持って兵士が直接戦闘するという戦い方であったが、第一次世界大戦における戦車や毒ガスといった化学兵器、機関銃など武器の格段の進歩により、相手を上回る総合的な軍事力が必要になったため、以降の戦争は膠着状態を耐えられるだけの戦時総力戦にならざるをなくなった。

「総力戦研究所」とは、昭和15年(1940年)に作られた内閣総理大臣直轄の研究機関で、官僚、軍人、民間から選抜された若手エリートたちが、国防の方針と経済活動の指針を考察し、国力の増強をはかることを目的とし、国家総力戦体制に向けた教育と訓練を行うものである。彼らは入所後すぐに模擬内閣をつくり、日米戦争を想定した机上シミュレーションを行った。いわゆるロールプレイイングと言う手法で、出身母体を背景にした閣僚の役割を担う研究生たちは、想定情況と課題に応じて兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など軍事・外交・経済についてさまざまなデータを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦にならざるえず、その負担に我が国の国力は耐えられない。戦争末期にはソ連の参戦も想定され、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能という「日本の敗北」という結論を出した。これは現実の日米戦争の展開とほぼ合致するものであった。

対米開戦3ヶ月前の東条首相、近衛文麿はじめ政府、軍の要職が出席した「総合研究会」の最後に、東条英機は次のような意見を述べている。劇にもそのまま取り上げられているので、紹介しておこう。

「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」

何事にも懐疑的な東絛英機だったが、これではいきなり冷や水を浴びせられれたようなもので、この「空気を読めない」若者たちの結論は大いに気に入らなかったものとみえる。このまま戦争に突入すれば勝てないと言っているのに、戦はやってみないと分からないというのである。総力戦だから、負ければ国が滅ぶ、つまり主権を失って国民全体が敵国に隷属するという事態なのに、やってみなければわからないというのは一国の宰相として極めて無責任ではないか。しかも口外してはならないと、国民には知らせなかった。都合の悪いことは隠す。しかもこんな重大事を隠すなんて、何というかもう、「頭にくる」ではないか。その通り。お怒りはごもっともだが、それが夜郎自大、帝国陸軍を覆うメンタリティだった、と言えばどなたもがっかりするかも知れない。諸君が、この無責任な連中の子孫だと言うことをこの際、肝に銘じておいた方がいい。

ところで、この「総力戦研究所」については、猪瀬直樹がかなり詳細に取材しており、そのドキュメンタリーをもとに91年12月、フジテレビでドラマ化したことがあった。猪瀬直樹の「空気と戦争」(文春新書)の中に詳しいが、(このブログで取り上げたから参照して欲しい)僕は、残念なことにこの番組を見ていない。何しろ30年前のことだからこれを見つけ出すのは容易ではなかろう。同じころ猪瀬は、東工大で満員の学生を前に、この事実の特別講義を行ったのだが、軍隊の階級を説明するのも苦労したほどで、当時の学生にとって、敗戦のことなど遙か昔の話になっていたのである。
猪瀬の言いたいことは、はっきりしている。新聞もラジオも世間の「空気」が開戦やむなしに傾いているときにでも、冷静に科学的に状況を分析して敗戦を予測した一群の人々がいた事を示して、「空気」にあらがうことの難しさと、世間の興奮と高揚の中でも僅かながら論理と知性の輝きが見えたことは救いではなったかということであった。僕としてはこういうことでも発見されない限り、戦前の、特に昭和初期の日本人はバカばっかりだったと嘆くところであった。

さて、この劇は敗戦から五年ほど経った、夏のある日、東京の闇市跡にある居酒屋が舞台である。ここは、総力戦研究所に日銀から参加していた山崎の未亡人が営む居酒屋で、今日は、研究所に参加していた八人が、ここで旧交を暖める同期会をしようと集まって来る。山崎は二年前に病死しており、その追悼も兼ねている。

はじめに、総力戦研究所におけるロールプレイングの様子がスケッチ風に描かれて、どんな風にそれが行われたかを示してみせる。ここ居酒屋では静かに酒を酌み交わして思い出話をするものかと思ったが、ロールプレイイングの延長のような調子で、互いに役割を変えながら、居酒屋だというのに当時の出来事を吟味・批評しながら演じてみせるという、なんだかあり得ないほど賑やかな展開となっていく。これを作者の古川健は「実際の歴史の流れを題材としておりますが、あくまで<創造>(中村、註)の産物であることをお含み置きください。」とことわっている。いくらなんでも歴史を創造するのはいかがなものか。

それはともかく、総力研究所の様子とその後の現在にいたるまでの出来事に対する批評を同時に示す方法としては工夫の跡が見られると言いよう、話の対象が対支那政策や日独伊三国同盟、近衛首相や松岡外相といった歴史上の出来事や人物であるため、わけしり顔の床屋が客と世間話をするような調子に聞こえて、これは大がかりな一種の床屋政談だな、と言う感がした。
登場人物は、それぞれ出身母体である、陸軍大臣や海軍大臣などを演じるのだが、誰がどれであってもその個性が際だって問題になるわけでない。
しかし、まあ知り得た範囲で役名と役割の対照が出来るようにしておこう。

 

吉良孝一(浅井伸治) (内務省) 吉岡恵一(内務省地方局)
岡本篤(岡田一郎) (衆議院速記局課長、のち国会図書館庁)
市川仁(青木柳葉魚) (海軍大臣)(海軍省・海軍少佐)
千田高(東谷英人)  (外務大臣)(外務省東亜局)
城政明(粟野史浩)  (陸軍)(陸軍省・陸軍大尉)
久米拓二(今里真)  (総理大臣) 産業組合中央金庫調査課長)
庄司豊(緒方晋)  (文部大臣)(東京女子高等師範学校教諭)
木藤芳男(村上誠基)  (財務次官)(大蔵省主税局)
山崎道子(黒澤あすか) (夫:日本銀行資金調整局書記)

 

それで、どんなことが取り上げられていたかと言えば、主だったところで、満州事変(昭和6年)から日支事変(昭和12年)に至る軍部と日本政府の行動と見解、松岡外相の国際連盟脱退(昭和8年)と日独伊三国同盟、ユーラシア大陸ブロック構想と日ソ不可侵条約、何度も首相として引っ張り出された、近衛文麿の政策と性格などである。また、経済的な事案では、米国による石油やゴムをはじめとする軍需物資の禁輸措置、(必需物資としてゴムが強調されていたが、この時期には、すでに合成ゴムが航空機の部品に採用されており、また主要な産地であるインドシナの宗主国フランスはビシー政権で、確か日本軍が進駐を通告したら阻止しない旨の返答があって、それほど深刻さを感じていたとは思えない。)これを南方に求めた軍部の動きなど、誰もが教科書で知りうる歴史的事実をならべて、登場人物たちが批評を加えている。
それがどうした、というものだが、それだけでは、総力戦研究所の諸君がいくら科学的にデータを示して米英と戦争しても勝てないと言っているのに、東絛の見解に見られるように日本の為政者は聞く耳を持たなかったというだけのことではないか。
ところが、劇の終盤で、二つのことが明らかになる。
日銀出身の山崎は、昭和二十年三月十日の東京大空襲で、妻子を殺され独り身となったあと闇市である程度の財を築いた。ある日、世の中に絶望していた戦争未亡人と出会いこれを助けた。このときすでに山崎の身体は病に侵されており、未亡人は看病するために結婚を申し出た、それがこの居酒屋の主人だといういきさつがあった。山崎は、負けるという判断が正しかったのに止められずに妻子を失った事を悔やんでいたというのだ。話に多少無理があるとはいえ、米国との戦を阻止できていればこんなことにはならなかったと、そのことにことに責任を感じていたと認識出来る。総力戦研究所が残した一種の後遺症と作者は言いたかったのかも知れない。
また、衆議院(事務局)から参加した岡本篤は、原爆投下直後の広島の惨状を目にすることがあった。それによって自分たちがいかに無力であったかを思い知らされ、戦争はいかなる事があってもしてはならないと思ったと述懐する。

 

なんと、昭和史のあらましを舞台でみせて、その結論が、これか?
こんな人道主義を歌いあげるような調子では、総力戦研究所を描いて、社会事象を科学的に捉えてデータをもって分析する態度が政策決定においていかに重要かを示して見せた猪瀬直樹の見解よりも遥かに後退しているではないか。

 

若い連中までも、「戦争はいけない。二度と戦争をしていけない。」と言う戦中派と同じ場所で同じ事を言っているようでは、先が思いやられると僕などは思ってしまう。誰が戦争などしたいものか。いかに戦争を避けるか命がけに考え、行動する必要がある時に、「戦争は嫌だ」などと思考停止してどうする。
こういう床屋政談で満足している若者たちには、同じ事象を別の側面から見ることを薦めたい。

 

この先は、劇評と直接関係すると言えないが、昭和史について考えていたことを少し付け加えておく。あるいは、古川健にこの劇の次に書くべきネタを提供することになるかも知れない。

 

僕は昭和史を調べているうちに、二つの疑問を持った。
ひとつは、劇にも登場する盧溝橋事件(昭和12年7月)に端を発する日支事変のことである。はじめ早期和平を唱えていたはずの近衛首相が、昭和13年1月、突然「今後、国民政府を相手にせず」と発表した。僕はこれが、我が国の太平洋戦争にいたる泥沼の戦争に入り込んで行くきっかけになったとみて、この唐突感の否めない決定が、誰によって何故、どのようになされたのか不思議だった。
もうひとつは、「大東亜共栄圏」である。
支那をはじめ当時の東南アジアはすべて西欧列強の支配下にあり、これを日本の手で解放、アジアが一つになる。日本がこの地域の盟主としてとりまとめていくという概念は壮大で、魅力的なスローガンではある。しかし、いまのEUのような国家連合体をこの「共栄圏」の理想的なイメージと描いたとして、当時ですらそれが現実的だったか、甚だ疑問であった。フィリピンがありベトナム、インドネシア、マレーシアと泰、ビルマ他、人種も違い、それぞれの宗教があり、歴史がある。これらの国々を一つのコンセプトでひとくくりにしたのが「大東亜共栄圏」だとすれば、それはただ単に観念上の概念であり、一個の共同体として具体的なすがたを描くことは出来ない。攻め入って旧宗主国を追い出し、日本が取って代わるというのであれば夜郎自大な軍部の考えそうなところだが、しかし、軍部でさえも具体的にどういうことだと疑問を呈するものがいたということであった。一見、合理的に見える、しかし実像を結ばないこの概念はどこからやって来たのか不思議だった。

 

まず、日支事変における蒋介石国民党政府との和平交渉打ち切りの決定であるが、かなり前に、これには尾崎秀実が関わっているという情報を得ていたが、尾崎、あるいは尾崎たちが具体的にどのように行ったのかを知ることは出来なかった。歴史研究者でもないからそのままにしていたら、最近、三田村武夫(1899年〜1964年)の著作を読んで、この交渉に関わった当事者の話として詳細を知ることが出来た。和平交渉は水面下で双方真摯な態度で進められていたのであった。

 

そのまえに、三田村武夫とはどう言う人物か。
日支事変(昭和12年)当時、三田村は衆議院議員であった。前歴は、昭和3年、内務省警保局勤務の官僚からキャリアをスタートし、4四年後、拓務省管理局に転じ、事変の一年前の選挙に初出馬するも落選、翌年、当選し、戦後レッドパージにあった五年間をのぞいて昭和39年に亡くなるまで衆議院議員であった(途中何回か落選)。
内務省警保局とは、三田村によると「所調三・一五事件(昭和3年、共産党員およびいシンパ一斉検挙。小林多喜二の同名小説で描かれた)以来、日本の思想界を「赤一色」に塗りつぶし、思想国難の叫ばれた時代、社会主義運動取締の立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に調査研究する事務」を取り扱う組織である。そのあと勤務した拓務省管理局においても、三田村は、朝鮮、満州、中国を舞台とした国際共産党の活動に関し、表裏両面の調査研究にたずさわる。この頃は、満州事変後の政治的激動期で、国際的には第二次世界大戦の危機が叫ばれ、国内的には軍部の政治的進出が甚しく積極化し、その裏面では、コミンテルンの極東攻勢が著しく前進態勢を取って来た時代であった。
戦前の世相を扱った芝居で劇団の責任者が当局に呼びつけられて墨を塗られた脚本を前に、油を絞られるという場面を目にしたことがあると思うが、三田村の仕事は、あのような現場で威張り散らす役割ではなく、思想団体が発行する文書などを元に共産主義の理論とその行動を研究し、特高警察や思想犯取り締まり機関に必要な措置を連絡する研究者の立場であった。
ある時、官立大学の責任者が、自分の学生たちをどんどん取り締まって、留置場にぶち込んでくれというから、こういう不見識な教育者にはあきれてしまったと言う。人にはものを考える自由がある。端的に言えば、共産主義を正しいと考える者がいることを認めない訳にいかぬ、と言うのが三田村の態度であった。
当時の治安維持法その他の思想犯取り締まりの要諦は、国体の護持、すなわち天皇制否定にあり、それさえ認めれば転向したことになると言う具合で、学生たちは厳しい取調に耐えたあと留置場を出る頃にはマルクス主義の強固な信奉者、あるいはそのシンパとなっているという事例を多く目にしたという。これら官立大出のインテリは、そのまま官公庁など社会の要職につくことを考えれば、逮捕留置拷問などあまり上策とは言えないと思っていた。

 

さて、日支事変の発端となった事件、すなわち蔣介石軍との衝突が起きた盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件が起きたとき、三田村はすでに衆議院議員である。

 


これは日本軍がこの付近で演習中に中国軍から発砲があり、数日間に双方数十名の戦死者を出す散発的な小競り合いが続いたが四日後には現地司令官による協定を持って一旦休戦したものである。

 

その著作「戦争と共産主義」(1950年)から引用しよう。

 

「昭和十二年(一九三七年)七月七日北支事変の勃発したとき、丁度第一次近衛内閣が軍部と革新陣営の興望を担って成立した直後で、総選挙後初めて召集された特別議会の開会中であった。そこで国会の議論は期せずしてこの北支事変に集中されたのであったが、政府は不拡大、局地解決の方針を繰り返して声明するだけで、軍部の本当の腹がどうしてもわからない。七月末の或る日、閣議でこの軍部の腹が問題となり、大谷拓相が、「陸軍は大体どの辺で軍事行動を止めるつもりか」と切り出したところ、杉山陸相は黙っていて答えない。閣議の席は変に重苦しい空気になった。そこで米内海相が、「大体永定河と保定(数キロメートルの範囲、中村註)の間の線で止める予定だ」と言うと、杉山陸相は顔色を変えて、「こんなところで、そういう事を言っていいのか」と海相を怒鳴りつけたそうだ―という話しが、政界消息通の話題にされていた位、何か、もやもやした訳のわからない雰囲気であった。その頃筆者は、友人の陸軍省軍事課長田中新一大佐(後の中将)を訪ね、「本当に陸軍の腹はどうなんだ、真実のところを聞かしてくれ」と談じ込んだことがある。すると田中大佐は、「正直なところ俺にもよくわからん。現地の連中がどこまで腹をきめているかもよくわからん。君一つ現地に行って天津軍の幕僚と話し合ってみてくれんか」と言い出した。そこで筆者は特別議会の終わった翌日即ち八月九日単身で東京を出発し、途中朝鮮に立寄り南総督(次郎大将)に会い、新京に廻って関東軍の東條参謀長(英機―当時中将)に会って意見を聞き、八月十六日天津に着き、九月一日まで現地に滞在して軍首脳部に会見し率直に現地軍の腹を聞いてみた。当時天津軍司令部の高級参謀をして居った大木戸大佐、岡本大佐などには田中大佐の意見も伝えて相当突っ込んだ話しもしてみた。もちろん軍事上の機密だから明確には言わなかったが、その時の現地軍の腹は、保定の線以上に出る意思のないことだけは明瞭であった。東條関東軍参謀長は、えらく気負い立った態度で、「断固やる」と言っていたが、天津軍幕僚連は、「土肥原兵団が青島港外まで来ているが、うっかり揚げると戦線が拡大して困る」などと言っていたことを記憶している。」

 

つまり、このとき陸軍は、この小競り合いを本格的な戦争まで発展させる気はなかったとみてよい。

 

しかし、これより半年ほど前、昭和11年12月、国民党配下の張学良が、中国共産党討伐を激励するために西安に来ていた蔣介石を拉致監禁し、内戦をやめて抗日民族統一戦線を結成するなど8項目を要求する事件が起きた。張学良のクーデターと言われたこの事件を、一人スクープしたのが当時同盟通信社の上海支局長であった松本重治で、彼は中国における豊富な人脈を通じてこのことを知った。中国は報道を禁じたが、独自のルートでこれを打電したため、日本の謀略ではないかと疑われる。
この記者は、再び意外なところに登場するので、この松本重治の名を記憶しておいて欲しい。この新聞記者の、中国だけでない国内における人脈も注目に値する。神戸中学時代の後輩に、吉川幸次郎、今日出海、親戚にあたる白洲次郎がおり、一高時代の同期に親戚の牛場友彦、岡崎嘉平太、尾崎秀実。そして東京帝国大学法学部で先輩に、末弘厳太郎門下の俊英、蠟山政道、我妻栄、木村亀二がおり、同い年の叔父の松方三郎(松方正義の子息)、西園寺公一(公望の孫、マルクス主義者を公然と名乗り、のちにゾルゲ事件に連座して、逮捕拘禁、公爵家廃嫡)はごく親しい間柄、といった政財界の中枢につながる華々しい人脈の中にいる人物であった。
8項目の要求を蔣介石は拒絶したが、中国共産党から周恩来(かつての部下)や夫人の宋美齢などが西安に飛んで説得し、結局これに合意したため国共合作が成立していた。中国共産党は、蔣介石を暗殺しようとしていたが、国際共産主義コミンテルン(スターリン)が日本と国民党を本格的な戦争に導くためこれを利用しようと殺害を止めたのである。
蔣介石(西安事件で拉致され、討伐対象だった中国共産党と共闘することになった)による対日抗戦総動員令による徹底抗戦の呼びかけによって、上海はじめ中国各地の日本人にたいする攻撃がやまず、これに対抗するのに日本軍も数万の戦死者を出している。
初めは軍同士の小競り合いだったが、その後は、市民に対する攻撃と防衛が続き、互いに宣戦布告も無しにずるずると戦争が拡大していったのである。そして、昭和12年11月、日本軍が国民党政府の南京に迫ると、蔣介石は首都を重慶に移転する事を決め、12月7日に南京をあとにする。
このあと、和平工作はいろいろなルートで行われたが、中国側に信頼される仲介役人物としては、辛亥革命で孫文を助けた宮崎滔天らの人脈がもっとも和平の実現性が高いと言えるだろう。選ばれたのは萱野長知であった。
三田村の著作から和平工作が失敗したいきさつを引用する。少し長いが、萱野の側近で行動を共にした松本蔵次から聞いた話として臨場感があり、あえて要約をしない。

 

「日華全面和平工作を打ち壊した者
――終戦後、新聞紙上にも報道されたが、ここで昭和十三年春、即ち蒋政権相手にせずの政府声明直後に試みられた日華全面和平工作と、これを失敗に導いた裏面の事情を明らかにしておこう。
犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄にあった茅野長知氏は、日華事変勃発後間もなく、昭和十二年十月、当時の支那派遣軍司令官松井石根大将の依嘱に依り、上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて、独自の立場から、事変処理の裏面工作に奔走し始めた。
この時茅野老の秘書兼協力者として終始行動を共にしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に投じ、後、宮崎滔天の一門に参加し、殆んどその半生を支那問題に捧げて来た松本蔵次氏であった。
茅野老は終戦後既に故人となったが、以下は筆者が松本蔵次氏を訪ね、直接聞いた和平工作の経過と、この和平工作を誰が如何にして打ち壊したかの真相である。
昭和十三年三月の末、中国側の要人賈存得(ペンネーム、国民政府行政院長兼財政部長孔祥熙(夫人は蔣介石夫人宋美齢の姉である、中村註)の恩人の息子で、同院長の意を体し、日華和平工作に奔走していた人物)という人物が松本蔵次氏に連絡をとって来た。そこで松本氏が上海のカセイホテルで会ってみると、賈存得は率直に「このままで行けば日支共倒れとなり、亜細亜全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」と言った。
松本氏はこの賈存得の意見を茅野老に伝え、協議した上で四月二十日頃、前と同じようにカセイホテルで第二回の会見を行った。この時茅野老の出した和平条件は、満蒙問題の承認(満州国の独立承認と、内蒙於ける日本の立場の承認)であり、中国側の条件は、日本軍の全面的撤兵であったが、この日本軍の撤兵については、日本側が原則的に承認すれば、実際問題としての時期、方法等の具体的処置については、日本側の希望もいれて協議する用意があるという意見であった。
そこで現地軍の意向を一応碓かめておくこととなり、松本氏は賈存得と同行して、特務機関の臼田大佐と会った。臼田大佐も、漢口政府が真剣に全面和平を考えるならよかろうということになったが、さて具体的にこの工作を如何にして進めるかという問題になると、賈存得は「日本側の言うことは、何時でも信用が出来ないから、責任ある者の書面をくれ」といい出した。そこで臼回大佐は「それでは僕が書こう」というと、賈は、「臼田大佐の名前は漢口政府で誰も知らない。誰も知らぬ人の書面など信用しない」という。「それなら特務機関長原田少将の書面にしよう」と臼回大佐が言うと、賈はまた、「原田少将の名も知らない。信用しない」という。そこで松本氏が「茅野長知の書面でどうか」といったところ、賈は非常に喜んで、「茅野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で、茅野先生を知らぬ者は一人もありません」といった。この時臼田大佐は、「あっけにとられたような顔をしていた」と松本氏はいっているが、この賈存得の言葉には深くあじわうべきものがある。臼田大佐の名も、原田少将の名も知らないといったのは、名前を知らないということよりも、軍部の者のいうことは信用出来ないという意味で、茅野先生なら名刺でもよいといったのは、信用の出来る人物と話したいという意味だ。
そこでそれなら茅野先生に直接会おうということになり、四月二十一日か二日、賈存得と茅野老の会見となった。
この会見で茅野老は、孔祥熙宛に二尋余に及ぶ日華全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて賈に託した。茅野先生なら名刺でも結構ですといっていた賈は躍りあがって喜び、この手紙を持ってすぐ香港に行き、当時香港にいた孔祥熙夫人(宋美齢の姉、中村註)と同道、夫人の自家用飛行機で漢口に飛び、五月初め孔祥熙行政院長の長文の返書を以て上海に帰って来た。
この孔祥熙の手紙は、茅野老宛のものであったが、内容は日華和平の条件、其他今後の日華問題処理に関する詳しい意見を孔院長自身の筆で書いたものであったが、内容は勿論蒋介石とも協議したもので
一、日華双方共即時停戦すること
二、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
三、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的にはこれを承認するが、具体的には日華両国で協議すること等であった。
そこで茅野老は、この孔祥熙の書面を携え、日本政府及び、軍部と協議するため、五月六日上海を出発し、九日東京に着いた。東京に着くと軍部では、現地軍からの連絡で茅野老が軍の非行でも暴く為に帰ったものと誤解したらしく、茅野老の行動を警戒し始め、まず影佐大佐が老を呼び出してどなりつけ、又憲兵隊に呼び出して調べたりしたが、そんなことを気にするような老ではなく、茅野老は小川平吉(政治家で弁護士、中村註)氏とも協議した上で、板垣陸軍大臣、近衛首相と談判し、全面和平の実現に努力したのである。その結果板垣も、近衛もこの茅野老の交渉と孔祥熙の提案を承認し、この線で日華双方共、和平実現に努力することとなった。
そこで茅野老は、五月十七日か八日頃東京を出発、上海に行き、上海に到着と同時に賈存得に連絡した所、丁度その頃、親日派要人の暗殺事件などあって、賈との会見に警戒を要したため、二三日空費したのである。
その頃、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治氏(ここで松本が登場する、中村註)が、丁度上海にいた。松本氏は前から近衛とも親交があり、当時日華和平交渉はいくつかの線で試みられており、松本氏もその一人であることをかねて聞いていた茅野老は、賈存得との会見を待っている間に、松本氏と会って、香港方面の事情を聞き、また茅野老からは、賈存得との交渉経過をありのままに松本重治氏に話した。あとで茅野老は、この松本重治氏との会見を、「運命の日だった」と述懐していたそうであるが、歴史の方向は僅かなところで全く思いもよらぬ方向に切り変えられるものである。
松本重治氏の真意が何処にあったかは別として、この松本氏に茅野老が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与えたことは事実のようである。この点については後で一言する。

 

かくて賈存得と会ったのが二十三、四日頃、話はすぐ行動に移され、茅野老、松本蔵次氏、賈存得、それに和知大佐を加えた一行四人は、五月二十六日船で上海をたち、香港に向かった。二十九日香港着、中村総領事の出迎えを受け東京ホテルに入り、早速漢口政府との交渉に入った。

 

これは後でわかったことであるが、この頃松本重治氏は東京に帰っておった。
六月十二、三日頃、居正(国民政府考試院長)夫人が、香港の宿舎に茅野老を訪ねて来た。茅野老はこの居正の娘を養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本も中国も区別はなかった。この居正夫人は孔祥熙行政院長の代理として来たのである。一人は生みの親、一人は育ての親、この二人が一人は日本を代表し、一人は中国を代表して、両国の運命を決する重大問題を談じたのである。
両者の間に話はすぐまとまった。その要領は
一、日華双方から正式に代表を出して、即時全面和平のとりきめを行うこと
一、中国側の代表は、主席孔祥熙行政院長、副主席居正、何應欽、他に戴天仇又は張群の五名とする
一、日本側は近衛首相又は宇垣外相を主席とし、陸、海軍の代表を加えて構成する
一、場所は、香港港外、日本側軍艦を用いて洋上会見とする
一、日華両国代表によって行うとりきめ内容は、日華双方とも、即時停戦命令を発することに署名すること
一、停戦後の条件は、両国の間で具体的に協議すること等であった。
このとき居正夫人は茅野老に対して「茅野さん、これでいいでしょう。戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側から言えば、中国政府の代表としてこの五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか。捕虜にしたのも同然でしょう。これで日本側の面目が立つでしょうし、中国側もこれだけの政府首脳部五人が頭をそろえて日本側の軍艦に乗り込み、日本に停戦を承認させたということだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります」といっている。実に堂々たる政治交渉である。これで話は決まった。

そこで六月二十一日、茅野、松本(蔵次)、中村総領事の三人はエンプレス・ジャパン号で香港を立ち、上海に帰って来た。その頃上海には松本重治氏が東京から帰って来ており、国民政府外交部亜州司長をしていた高宗武も来て居った。この両人が何をしていたかは後の話になる。

 

茅野老と松本蔵次氏は、すぐ船の手配をして六月二十八日東京に着いた。
着京と同時に茅野老はまず板垣陸相に会って、右の居正夫人との交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。ところが板垣陸相の態度は前と全然変わっており、板垣は「中国側に全然戦意なし、この儘で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」という。そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には七段構えの長期抗戦の用意が出来ている。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおったところ、板垣は「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武(蔣介石の側近で知日派の外交官、中村註)をつれて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなった。無条件和平論が高まっており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だという話をして行った。軍の幕僚連もこの情報を信じているから、君のとりきめた話は、折角だが、とりあげることは出来ない」というのだ。
板垣の意見に憤慨し、且つ失望した茅野老は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、亦、軍の態度がそうなった以上仕方がないといい出した。

 

丁度その頃、松本蔵次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及陸軍と連絡ある連中に会って話してみたが、何れも板垣、近衛と同様の意見で固っており、日本の政府及陸軍の、この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまったことがわかった。
そこで松本蔵次氏は茅野老を東京に残したまま先発し、七月始め長崎から上海に船で行き、十日か十一日の夜、賈存得に会って板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝えた。すると賈は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行六階に設けられていた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。すると漢口政府からすぐ返電して来たが、それによると、高宗武が東京から漢口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国が飽迄抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵するという秘密電報が入っていることがわかった。

つまり高宗武は日華双方に全く正反対の情報を送って、折角ここまで進んで来た和平交渉を打ち壊してしまったのである。高宗武が何故こんなことをやったのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会わしていること、又この松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であったこと(この点は彼の手記にも出ている)、更に同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健及汪兆銘新政府のたて役者として登場する統制派幕僚の一人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、この高宗武の背後に容易ならぬ遠謀深慮が潜んでいたことを窺い知ることが出来る。
高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引出し工作に転じて行くのである。

 

しかし、尚全面和平の希望を捨てず、東京に残って政府、軍部と折衝を進めていた茅野老は七月二十九日付で、先発した上海の松本蔵次氏宛に出した手紙の中で、「天運未だ来らず、近衛、宇垣両相の決断出来ず遂に今日に及び申し候。その理由、漢口政府外交部司長の職にありたる高宗武という者、軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、汪兆銘、張群其他二、三十名の協力一致を以って余儀なくせしめる方法ありと申し入れたるを以て、小生等の提案より至便なる故この方法に賛成して、我等の提案を後廻しにしたものの如し」といっている。

 

かくて、せっかくの日華和平交渉も実現の一歩手前で打ち壊されてしまった。漢口は陥落し、国民政府は重慶に移ったが、高宗武の言うごとく、蒔介石政権は手を挙げず、茅野老のいうごとく、七段構えの長期戦態勢に入った。

 

然し茅野老は飽迄も重慶政府との和平交渉に望みを捨てず、八月始めに上海をたち、賈存得と共に再び香港に渡り、重慶工作に専念した。松本蔵次氏は上海の茅野公館を足場とし、香港、上海間の連絡に当たっておった。バイアス湾上陸の行われた頃、松本氏は茅野老との連絡の為、上海より船で香港に行った。
この船は独逸から受けとった何とかいう船だったと松本氏は言っているが、この船に偶然乗り合せたのが尾崎秀実と西園寺公一であった。松本氏は尾崎とも面識があり、尾崎が船中で西国寺相手に西さん、西さんと何事かしきりに話し合っていたといっている。この頃松本重治氏も香港に行っており、{数文字欠け、中村註}に飛んで行った高宗武との連絡に当たっていた。松本蔵次氏は、香港滞在一週間位で上海引き返して来たが、帰りの船中でも、尾崎、西園寺と一緒であったといっている。暫くして汪兆銘が重慶を脱出し、河内(ハノイ)にきたことが報ぜられた。そして東京の近衛との間に連絡がつけられ、十二月二十二日あとで述べる、かの所謂近衛声明となったのである。」

 

要するに、蔣介石の側近で左派の汪兆銘を裏切らせ、これを中心に日本の傀儡政権を作ると言う陰謀を実現しようとしていたのである。これは昭和15年、南京に新国民政府樹立、主席となって実現するが、何の力もなかったのは周知である。

 

ここでは「松本重治氏の真意が何処にあったかは別として、この松本氏に茅野老が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与えたことは事実のようである。」などとなんだか奥歯にものの挟まったような言い方をしているが、この本が書かれたのは戦後五年も経っている頃だから、まだ存命だった松本重治に直接どういうつもりだったか聞けばいいものを、と思ってしまうが、実はこの本自体、GHQによって発禁扱いになっていたのである。GHQが何故発禁にしたか理由は定かではないが、、戦前のルーズベルト政権の中にもソ連のスパイがうようよしていたと書いているからからそれが関係していたのかも知れない。
長くなりそうなので、ひとまず、あとに続く。

タイトル

帰還不能点

観劇日

2021228

劇場

東京芸術劇場(Webサイト)

主催

劇団チョコレートケーキ

期間

 

古川健

原作/翻訳

 

演出

日澤雄介

美術

長田佳代子

照明

松本大介

衣装

藤田友

音楽

佐藤こうじ

出演

浅井伸治 岡本篤 西尾友樹 青木柳葉魚 東谷英人 粟野史浩 今里真 緒方晋 村上誠基 黒澤あすか

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2021年2月 8日 (月)

劇評「ザ・空気Ver.3」追記

 

V3_20210208170601 「追記」

 

この劇で扱った「日本学術会議」についてだけ縷々述べて、肝心の劇がどうだったのか書かずじまいだった。少し付け加えておく。
横松の告白は衝撃的だった。ところが、たちまち「これを報道してはまずいのではないか」と言う「空気」が醸成されて、関係者の間で葛藤がはじまる。
世の中の一部では「任命拒否の理由をいえ」と怒りに燃えさかっているところへ「選考したのは私である。」と名乗り出るのは衝撃には違いない。その衝撃の強さについては容易に想像できる。「空気」は次第に「真実を追求する」よりも「なかったことにする」へ傾いていくのであるが、ここのところの劇の展開にはやや杜撰なところがあって、説得力に欠ける。
もともと、「ザ・空気Ver.2」が首相と大新聞政治記者の癒着をからかう政治漫談だったように、この「Ver.3」もマンガだと思えば別に目くじら立てるほどのことでもないが、いくつか妙なところがある。
まず、任命拒否の理由は、横松の説明と、証拠書類と称しているペーパーから推量するに、任命選考のためにいくつかの項目を設定し、各対象者に点数を付けた結果である(その下位にあたるものが任命拒否された)とされているが、すぐに気が付くことがある。今回推薦された対象者は、自然科学、人文・社会科学合わせて百五名であり、元社会部新聞記者が人物評定できそうな対象は、せいぜい三分の一程度ではないか。元社会部の記者が自然科学分野の科学者を評定した結果が信頼にたると思う者がいたとしたらそいつは阿呆である。それが世の中の常識というものだ。
すると、横松のような立場の選考に加わったものが複数いることになる。横松の「オレがやった。」というのは正確にいえば嘘になる。「オレもやった。」となれば、とりまとめた最終責任者がいることになって、横松の証言は「関わった」と曖昧な表現にならざるを得ない。つまり、六人排除を決定したのは横松ではない。
また、点数を付けたと言うが、百五名に点数を付けて六名の下位者を決定づけるのは、普通は至難であり、しかもその中に最も割合の高い自然科学分野が一人も含まれないのは統計学上奇妙ではないか。
このように、横松証言は、俄には信じがたいところがあって、説明が必要なところである。
また、横松が翻意する過程も極めて単純である。
後輩である自殺したキャスター桜木が、「記者魂を取り戻せ」と言っているような気がして、「昔を思い出した」というのだが、それならそもそも、なぜ、横松はこの政府の仕事を引き受けたのか。現在、世間が騒いでいる「任命拒否問題」は、新聞記者魂からいって許されざる所業であったのか。どこが、背徳の行為だと横松は考えたのか。
横松が社会部の記者で様々の事件に遭遇してきたとすれば、この政府から依頼された仕事が違法なものかどうかを真っ先に確しかめたはずである。もし、後に訴追されるようなことならば、ことわるか、保証を取り付けるかするだろう。僕はそんな剣呑な仕事に近づいたことはないが、僕だったら必ずそうする。違法でないとすれば、どこが問題だと考えられたのか。問題はあっても引き受けた理由は何であったか。
その前に、何故政府はこの仕事を横松に依頼したのか?横松は「日本学術会議」とどのような関わりがあって、この仕事にふさわしい人物として選ばれたのか?任命拒否をする人物選定が記者魂にもとる行いと判断する理由は何か?
横松という人物が、「日本学術会議」の人選に関わった背景の説明とその行為が残りの短い人生とこれまで築いてきた名声と引き換えにしても告白しなければならない程深刻な国民に対する背信行為であると判断した理由はなにか。あるいは、「報道の自由」を犯したと考える理由は何か?横松の思考過程が描かれていないのである。
いや、これはマンガだからそんなに内面描写を詳細に言わなくても・・・・・・。それはその通りかも知れない。しかし、この要素の記述はものがたりが文学として成立するための重要ファクターである。世間の騒ぎに対する期待の回答が現れた衝撃の影に、それは見えなくてもいいものになってしまっていた。
それに対して、番組スタッフのうろたえようは、理解出来る。
実際にこういうことがあれば、現場は混乱するに違いない。
しかし、冷静に考えれば、これは横森が自らの責任において発言することであり、番組がその場を提供したことは事実だが、発言内容について責任が問われることではない。
問題があるとすれば、発言内容についての裏をとっているかどうかを問われた場合、放送までの時間が多少なりともあったことを考慮すれば、番組の落ち度ととして指摘を受ける可能性がある。もしも横松の示したペーパーを政府関係者が虚偽であると言った場合、それに耐えうる反論の手立てがあるか。あるいは、個人情報保護法の範囲を逸脱しないように一般に証拠を示すことが出来るか、判断しなければならない。これは、一次的には星野の責任であり、最終的には編成局長、TV局経営幹部の責任となる。
これがもし、週刊誌であれば、おそらく五十万部程度の増刷は可能になり、数億円から数十億円の利益が見込まれる特ダネ記事であり、一も二もなく、公表するはずだ。万が一訴えられて裁判になっても費用など知れたものである。しかし、TV番組が特ダネを放送しても、視聴率が上がったり、広告収入が増えるということはない。つまり、収益上はTV局の増収に何も貢献することはないし、局として裏どりのない報道をしたことの責任を問われかねないのである。少なくても、横松が「日本学術会議」の議員を選出する任に当たった信憑性のある背景の確認は、星野の立場であれば当然行うべきであり、作者の立場でもこの説明は欠くべからざるものではないか。
新聞社はそれほどいい加減なことはしないということを経験したことがある。
僕は、会社勤めをしているときに、ある商品開発をほぼ一人で行ったことがあるが、それまでの商品分野とはまったく異なる商品であったために、完成してテスト販売の段階になっても経営トップがなかなか認可しようとしない。イライラして待っているうちに、PR会社の若者が僕の許可を得ずにプレスリリースをある記者会のポストにまいてしまった。とりわけ、我が社が新しい分野へ進出するというニュースだったために、複数の新聞社から広報担当の役員に問い合わせがあって、事態が発覚した。その日、僕は出張中で急遽呼び戻されたが、帰った時には、Executiveルームの大騒ぎが一段落したあとだった。役員は、商品開発は終わって販売の準備中であるが、リリースの配布は誤りで、正式の発表は後日になると答えたらしい。すると新聞社は「商品が出来ているのであれば、嘘ではないだろう。うちは記事にする」と言ったところや「人騒がせな」といって記事にしなかったところなどいろいろの反応であった。つまり、新聞記者は記事を書くにあたって、署名こそしない場合でも裏どりはするものなのである。
僕の方はどうなったかといえば、翌日すぐに、責任をとって辞表を提出した。すると、担当常務は目の前で辞表をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱行きにし、「これから新聞社を回って、説明してくるわ。あとのことは、我々にまかせておいて。」とおとがめなし。この商品はその後確かにテスト販売されて僕もしばらくかかりきりにめんどうを見たが、他の商品開発に回っているうちに、プロジェクト自体が他社に売られ、いまでも僕が開発したデザインと機能のまま販売されている。
TV局といえども同じことで、放送内容に責任がある以上、その情報の根拠を確かめておく必要はある。星野にその時間がない場合は、最低限「これは横松が自分の判断で告白することであり、番組としては内容について詳細には承知していない」と逃げを打っておいて放送する手はあるが、しかし、それでもなおTV局の責任が回避されるものでもない。あとは、放送することによって国民がえられる情報価値が、そのリスクを上回って高いのかどうかである。この場合、誰が、どのように、どう言う基準で任命者の選択をしたのか明らかにしろという国民の待望する声に対しての回答にあたるから、これは十二分に高い情報価値だと言えるだろう。報道に携わっているものとしては決断すべきことであった。
ところが、この騒ぎを聞きつけたTV局の幹部たちが自宅や出先から続々と局に集まってくると言う。「これは政府を窮地に立たせるおそれがある。どう扱うかの戦略がないまま進めるのではまずい。いまはやめておいた方がいいだろう」と言う無言の圧力として星野を追い詰めていく。
さて、星野の決断やいかに。

 

 

永井愛は、公演パンフレットに「編集権」の説明コラムを載せている。「編集権」というのは新聞社の経営権と編集権を分離し、経営権側が編集・表現内容にその経営的経済的理由によって介入することを忌避するために確立されたものである。背景には、戦後,新聞労働者による社内民主化運動のなかで,従業員が新聞製作の中核をにぎる状況が生じたため,これを憂慮したGHQの方針転換もあり,新聞編集の実権を取り戻そうとする経営者とのあいだで,紙面編集の権限をめぐる紛争が続いたことがある。戦後すぐというある意味特殊な条件下でおきた相当に古い話なのだ。
つまり、多くの新聞社はどこの国でも私企業であり、経営者がいて従業員がいる。記者は通常Employeeだが、従業員が書く記事内容について経営者が口だし出来ないようにするのが「編集権」の確立である。これによって経営者が反対しても記者が書く原稿は新聞に掲載されねばならないはずというのだ。
しかし、記者と新聞経営者(TV局と報道記者)の関係は構造的にEmployeeとEmployerであることに変わりはなく、いざとなれば、記者を馘首することが出来た。記者たちが株主になるとか経営者になることでこの関係を是正する方法も試みられたが、時とともに他の業界もそうだが、この労使の対立の様相は曖昧になっていった。
それよりもむしろ、新聞であればその収入の約半分が、TV局にいたってはほぼ100%が広告収入であり、そうしたビジネスモデルとしては、広告主との関係の方があまり表には出ないがクリティカルだと言える。

 

要するに、永井愛が言う「編集権」とは戦後すぐの新聞業界における労使紛争を起源とするマルクス主義的世界観という背景があり、いまその古色蒼然たるはかりをとりだして、この星野とTV経営陣との対立に当てはめてみてもマンガとして面白いが、現在の労使の関係はそれほど単純な相克関係にあるわけでない。明らかに報道の自由を阻碍した経営者がいたら輿論は容赦なくこれを叩くに違いないし、それは長い目で見れば経営にもダメージを与えるに違いない。そんな会社があったとすれば危機管理能力のない経営者として経済界から断罪されるだろう。現代マーケティングは、国際情勢や政治、科学や倫理にいたるまで全方位的に気配りしなければならないとしているのである。

 

それにつけても思い出すのは1972年におきた西山事件である。
沖縄返還に際して、米国が沖縄の地権者に支払うべき費用を秘密裏に日本が肩代わりしたと言う情報を手に入れた当時の社会党が政府を追求する。このとき証拠として毎日新聞社記者、西山太吉から提供された外務省極秘電文のコピーが示された。この事実は大きな反響を呼び、世論は密約を交わした日本政府を強く批判した。政府はこのコピーが本物であると認めたが、しかし密約はなかったものと否定した。一方で情報源がどこかを調べ上げた佐藤栄作内閣は、これを情報漏洩事件として東京地検特捜部に告発する。西山が情報目当てに既婚の外務省事務官に近づき、「情を結んだ」として、情報源の事務官を国家公務員法の機密漏洩の罪で、西山を同法、教唆の罪で逮捕した。これにより、報道の自由を盾に、取材活動の正当性を主張していた毎日新聞は、かえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。       
起訴理由が「国家機密の漏洩行為」であるため、審理は当然にその手段である機密資料の入手方法に終始し、密約の真相究明は東京地検側からは行われなかった。密約に触れる事は「記憶にない」とか「守秘義務」を楯に証言を拒むことがしばしばで、西山が逮捕され、社会的に注目される中、密約自体があったかどうかの追及は完全にどうでもよくなってしまった。また、取材で得た情報を自社の報道媒体で報道する前に、国会議員に提供し国会における政争の材料とさせたこと、情報源の秘匿が不完全だったため、情報提供者の逮捕を招いたこともジャーナリズム上問題となった。その後、公務員は有罪を認めたが、西山の裁判は最高裁まで続いて、結局、取材の違法性と報道の自由には制限があると言う趣旨の有罪判決をもってこの事件に幕がおり、西山は記者を辞めて故郷へ帰ったのであった。
毎日新聞にとって、これが致命的なダメージとなって発行部数が、全国紙と呼べないほどの規模に減少するきっかけになっている。
いやしくも報道に携わるものならば学習するはずの事件である。あるいは、報道番組を制作するものとして、こういうものの記憶が星野の頭をよぎったかも知れない。
それよりも、なによりも永井が復権させようとしている「編集権」であるが、例え邪悪な経営者から記者の権利を守ったとしても、新聞を読むものが、こうまで少なくなりつつあるのでは、たいした意味はないのではないか。たいした意味のないことにこだわるのはこの世代の特徴だから仕方がないが、この二十年で一般紙の発行部数は三割ほど減少し、広告費にいたっては四割も減って、この減少に歯止めがかからない状態にある。
いっぽう、若者がニュースを入手する手段はほとんどスマホになり、このスマホからいくらでもニュースを発信することが出来る時代になった。情報を発信するメディアは変わりつつある。
これからの時代、記者の特権である「編集権」などというありもしない権利の「復権」などどうでもよくて、警戒しなければならないのは、いくつもの独裁国家に見られるようにSNSなどの電波を操作されることである。
いまや、記者に限らず目の前で起きている事件の実況を世界同時に受発信できる時代である。
「編集権」という言葉にはウヨク・サヨクが対立していた時代の古くさい匂いがつきまとっていますよ、永井さん。

 

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2021年1月26日 (火)

劇評「ザ・空気 ver.3」

V3 Twitterで言おうとして、いささか品がないかと思って、やめたつぶやき。

 

「がっはっはっはっは。ツイッターやインスタグラムやブログやメール配信の時代に、『編集権』だと?『オーケー、ブーマー。』新聞とTV だけが報道機関と思っていたら20世紀に取り残されたやつと言われまっせ。」

 


 

いまから50年も前の話になるが、ある時、新しく赴任してきた倫理学の助教授が、不思議な笑みを浮かべて、トイレットペーパーの話をし出した。
彼は、雑用を振られる新参者の常としてまず、学生寮の自治会との交渉役を任されたのだが、その頃の自治会といえば、大概、選挙運動が巧みな民青が牛耳っていた。当時、民青といえば「諸要求運動」である。戦後すぐの徳球率いる過激な革命運動を日本共産党が六全協(第六回党大会)で平和路線へ転換して以降、身近な問題の解決を権力に迫るという平和的だがねちっこい戦略を反権力闘争として展開することになったのだ。
反権力と言っても最終的には権力を倒すのが目的ですぞ、皆さん。
むろん、授業料値上げ反対やカリキュラムの改善などの他に政治的なISSUEも取り上げたが、社会的におぼこい若者たちのオルグには、誰にも分かりやすいテーマも必要だった。
寮の食事を改善する運動などに巻き込まれて、彼らは、次第に己れの階級的出自に目覚めていくのである。
それで、助教授殿に対する自治会執行部の要求は、トイレットペーパーの配給を増やせ!というものであった。現在の使用量は、一回に約1メートルと設定されているようだが、実際には平均約1.2メートル使用している。ついては、大学当局は一人、一回20センチ分の追加をすべきであり、我々はこれを要求するものである、と、まあ先生は言われたのであった。
何事も実証しなければ、気が済まない助教授としては、数日間、自分でこれを試してみた。すると、何と学生の言うことはピタリと当たったのである。我々数人しかいない哲学専攻の学生を相手に、やや感激の面持ちで、これを報告したのであるが、「落とし紙の寸法に関する実証論的倫理学序説」などという講義でもされてはかなわんと、「先生、彼らの居室では、ナプキン・ぞうきん代わりに一人三個ぐらいは隠し持っているのをご存じですか?」と心配顔で言ったものだ。
僕は、寮などと言う集団生活に金輪際適さない性格だが、彼らに昼食として毎日配られる6枚切り食パン4枚とジャムにマーガリンの小袋が結構な数、余っているのを知っていたから、それ欲しさに時々学生寮を訪ねていて、そのトイレ事情や日々の暮らしには通じていた。授業に出て、そのまま昼食にはちょっと贅沢に学食でカレーライスなど食う学生がいたからだが、その恩恵にあずかったのは僕だけではない。この余剰パンは貧乏なアパート暮らしの学生にとっては救いの神だったのである。トイレットペーパーなど、民青の大学当局という権力に対する一種の嫌がらせにすぎなかった。

 

同じ頃、早稲田大学の自治会大会でも一人の学生が立ち上がって、こう言ったという。
「それじゃあなにか。学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃(ほうはい)として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ」(僕のブログ「新崎智のこと」から引用)
これは、例の「きつね目の男」宮崎学が書いた「突破者」(96年)の中にある文章である。周知のように京都のやくざの親分の家の末子として生まれた宮崎は、当時早稲田大学法学部の学生で、意外にも民青系自治会の役員だった。
「日韓闘争では 早大の他党派の連中や、東大を初めとする他大学の日共系学生とも知り合いになったが、そのなかでも傑出してユニークだったのは新崎智である。・・・ある総会で執行部が運動方針を発表した。・・・その方針を執行部が発表した途端、新崎が猛然とかみついてきた。論旨は、理念や指導性不在の大衆迎合主義的政治主義であるということだったと思う。執行部を散々批判したあとで、」いったのが、おまん小話だったのだ。
この新崎智は、まもなく漫画家水木しげるの書生を十年もつとめることになる呉智英の本名である。

 

このときよりさらに十数年遡る昭和24年、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的として、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とする「日本学術会議」が設立される。戦争協力の反省のもとに占領軍GHQの肝煎でできたのであるが、身分は国家公務員でありながら「そのときどきの政治的、行政的便宜というようなことの掣肘を受けることのないように、高度の自主性」が保証されていた。
そこまではいいのだが、この会議の議員200名を選ぶ方法が、国会議員などと同じような「選挙」であったために、普段は清廉な科学者然としている方々が、ルールも定かでない中、代議士顔負けのなりふり構わない(中にはいわゆる汚い手を使うことも・・・・・・)選挙運動を展開するはめになった。選挙人は三年任期の第一回目が44,000人、1984年に選挙をやめて推薦制に改正される直前には240,000人に増え、現在、科学者と名乗るものは870,000人いるという。
こういう選挙となれば、学生自治会の執行部を乗っ取ることがしばしばあったように、民青いや日本共産党が自家薬籠中のものとしていたのはすでにご案内の通りである。ただし、共産党の関与が露骨に分かる団体を名乗るのは戦術上不利なので、婦人団体には「新日本婦人の会」、文学者は「新日本文学」などの名を冠するように科学者の団体は「新日本科学者」、ではなくて「民主主義科学者協会」と名乗っていた。新と旧で科学者はどう違うか?という突っ込みに適切な答えが見つからなかったのか、当時、社会主義国には「民主主義人民共和国」を名乗るものが多かったために「民主主義」は、それにあやかったものだろう。
いや、待てよ。こういう書き方はクレームが来るかも知れないので、もとい、これらの団体は、日本共産党と「友好関係にある」といわれているということに訂正しておいたほうが無難だろう。クワバラ、クワバラ。

 

昔の話をしてもしようがないが、こういう選び方をした結果は目に見えている。組織票を集めたものの勝利。民青が自治会を乗っ取るのと似て・・・、ということは恐ろしく偏向することになり、「左翼の巣窟」といわれるのも宜なるかなと言う状態になって、さすがに改善が叫ばれるようになった。社会党や共産党と歩調を合わせるように政府のやることなすことはすべて反対の態度は、当然としても、社会党や共産党の提案と同じく、一つでも有効だったためしはない。これでは存在の意味が問われることになる。
1984年に内閣総理大臣、中曽根康弘が、選挙をやめて推薦制度にすることを提案したため大騒ぎになったが、結局、推薦名簿を内閣がそのまま認めるという条件を会議側が飲んで、実現することになった。中曽根は「会員名簿を内閣が認証するのは形式的なこと。」といってしまったのだが、「いやしくも国家公務員に任命するのに任意団体の推薦にめくら判を押すだけでいいのか。国民の税金を使うのに誰もメンバーチェックしないでいいのか!」と、与党も野党も騒ぎ出す・・・・・・、訳ないや、ね。与党は言い分が通って安堵し、野党は墓穴を掘るような挙に出るわけがない。中曽根康弘も、内閣法制局もこの政治的取引が、国民を、ということは法を無視した恣意的な決定であることに気づいていなかったのだ。
しかし、推薦制度というのは任期を終えた議員が後任を推薦することができるというものだったために、一旦確保された議席は世襲のように特定のグループによって引き継がれ、指定席化するという弊害がおきた。その後、行政改革検討の対象になったりしたが、それでも、今日までそのまま存続してきたのは、誰も大して関心を持たなかったせいである。その理由は、予算を見れば一目瞭然である。
2020年の予算は、総額10億5000万円で、その60%は、50人いる常勤の事務局人件費と事務費で消える。つまり事務員に給料を払うためだけの組織、みたいなぁ・・・。民間ならこういう非効率な組織ではとっくに倒産している?みたいなぁ・・・。
各国アカデミーとの交流および拠出金がたったの2億円、会員の会議出席のための日当、旅費で3億円である。細かく見ると、会員手当つまり日当が合計で総額7500万円だから一人頭37万円/年、連携会員2,000人で総額1億3,000万円、一人65,000円/年で、しかも、「手当や旅費支払いの一時凍結や受領辞退」を事務局から会員に依頼する状況だというから、はっきり言えば、こんな馬鹿馬鹿しい報酬で真面目にやってられるか!と僕などのゲスは言いたくなるのである。
ゲスでない政治学の五十旗頭真先生は、BSのある番組で「僕も十年ばかり会議にいました。あまり・・・なにも・・・やったことも・・・たいして・・・さっぱり・・・・・・」あとはムニャムニャ、モゴモゴと聞こえなかったが、「こんなものどうでもいいわい。」といっているように僕には思われた。
これでは政府が兵糧攻めをやっているとしか思いようがないではないか。予算はそのままに、あと職員が二十人ほど必要だと言って送り込んだら、手弁当でやるしかない。そんなにまでしてやることがあるのか?そんなにまでして政府の金が欲しいのか?

 

ところが、安保法制が施行される2016年に、こんな組織でも政府としては看過できない(だろう)決定をしている。
この年、日本学術会議に「安全保障と学術に関する検討委員会」という特別委員会が設置され(たったの12人で構成)、2017年3月に「軍事的安全保障研究に関する声明」が出される。きっかけとなったのは、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)である。これは「政府による研究への介入」と断定され、声明によって研究者のこの制度への参加の自粛が要請された。要するに「軍事目的に転用」される疑いがありうるものを研究してはいけない、というわけで、これが、全国の研究機関に行きわたったおかげで、実際に、実施されるはずだった研究が中止に追い込まれる事例も生まれた。
北海道大学の工学研究院、村井祐一教授(流体力学)のチームは、船の水中抵抗を減らし高速化することなどをテーマとする研究へ三年間の予定で資金提供を受けていたが、最後の一年分を大学によって辞退させられた。よく分からない団体が「声明」を趣旨とするのぼり旗を学内に大量に立てて、中止を迫ったらしい。
新崎智ではないが「するとなにかぁ? 水素エンジンの研究は、将来これが戦闘機の推進力に使われる危険性があるので憲法違反である。直ちにやめろとトヨタ自動車およびそれに協力する大学研究者らの前でピケを張るだとか、軍事転用可能な気象衛星やGPSの為の衛星を打ち上げるのはやめろと三菱重工やJAXAや関係する大学研究者に抗議するのかぁ?
この二十一世紀の時代に、ばかげたことをいうんじゃないよ。」
と、いいたくもなるじゃないか。
しかし、「声明」発出の5カ月後に、「安全保障と学術に関する検討委員会」が公表したレポートによれば、「安全保障技術研究推進制度」で研究費を得た大学所属の研究者は一人もいないうえに、多くの大学でこの制度への応募を禁じる方針が導入された。この声明は確かに日本学術会議名で出ているが、これを決めた「安全保障と学術に関する検討委員会」の構成メンバーの中核は、わずか数人であったらしい。
もはや笑うしかない。いまやどんな研究でも軍事に転用される可能性があり、軍事が民事に貢献することだってある。(これをいわゆる「デュアルユース」という)インターネットやGPSがもとは軍事技術であることは小学生でも分かることだわ。「流体力学」の研究をやめろというのは学問の自由を疎外していないとでもいうのか?
ね。こうまで馬鹿馬鹿しい団体(というより、一角を占めている連中)なんだという認識が出来上がったところで、さて、ようやく劇までたどり着いたようだ。


 

前回の「ザ・空気Ver.2」は、国会記者会館を舞台に、大物新聞記者と総理の癒着を巡る政治漫談だったが、今回は、再びTV局の報道番組制作現場に舞台を移し、日本学術会議の6人、任命拒否問題とコロナ対応策をテーマに、やはりジャーナリズムと政府およびTV局の関係について、縷々考えさせる時事内容になっている。
僕の劇評など読んでいるものは少数に違いないからネタバレなどに気遣いしたことはないが、今度の興行は、三月まで全国ツアーが続くというので、見ようと思っている人が、偶然目にするかも知れない。だから、そう言う人の楽しみを奪うことにならないように書こうと思う。
それには登場人物を紹介するのが一番良さそうだ。
その前に、ここは某TV局のBSニュース解説番組「報道9(ナイン)」の出演者控え室兼打ち合わせに使われている会議室で、夜の番組開始に向けて一人の政治ジャーナリストが待機している。
現在、BSフジの「プライムニュース」、BS-TBS 「報道1930」、BS日テレ「深層NEWS」とこのBS3局で毎晩(月〜金)放送しているところを見ると、ニュース解説番組というのは、それなりの視聴者を獲得しているのだろう。まあ、メインキャスターがいて、女性アナウンサーのサブキャスターが隣に鎮座し、サイドにコメンテーターが配置される番組、あれを制作している現場、と思って頂いていいと思う。
政治ジャーナリストは、横松輝夫(佐藤B作)で、政府寄りのコンテーターとして、今日は政府に批判的な女性ジャーナリストと対峙することになっている。横松は、癌の治療から生還して久しぶりのTV出演となるが、この日、直前の検温で37度4分の微妙な熱(37度5分なら発熱外来あるいは保健所行きだが)が検出されている。
応対しているのは、アシスタントディレクターの袋川昇平(金子大地)で、この番組の制作現場をまかされている下請け会社のアルバイトである。アルバイトと言っても、それは「非正規雇用」と言う雇用形態の話で、現場の末端であらゆる雑用に通じ、それをこなすことのできる、れっきとした制作スタッフである。零細下請け会社でも、十年もこき使われるのを我慢して、運がよければチーフディレクター(TV局社員ディレクターの下で現場の指揮をまかされる。)に昇格し、ようやく結婚できそうな収入を得るチャンスがある。しかし、過酷な労働を強いられ、しばしば所構わず床に座り、寝転がり、時には床の上で眠ってしまうこともあるためTV局の床は、彼らの健康を慮ってビニールタイルをフェルトに貼り替えたほど、というのは冗談!
そのチーフディレクターは、新島利明(和田正人)で、微妙な熱の持ち主がコロナに感染しているのではないかと心配で、とりあえず別室でリモート出演してもらうことを伝えようと、うろうろしている。もしも番組から感染者が出たら、一大不祥事である。その場合、どう考えても責任をとらされるのは下請けの自分たちだ。
しかし、猫の首に鈴を付けるのは、やはりチーフプロデューサーの星野礼子(神野美鈴)しかいない。
星野は、一貫して政府に批判的な番組作りを続けてきたが、それが政府の意向を忖度するTV局幹部の不興を買って、アーカイブ室に異動が決まっている。アーカイブ室とは、資料室とか記録保管庫とかと同じで普通は左遷先と思うが、TV局の場合、どの程度のものか僕は知らない。とはいえ、閑職には違いがないのだろう。
三人の制作スタッフを兵隊の位で言えば、袋川が二等兵、新島は絶対に将校になれない下士官(さしずめ軍曹クラス)、星野は、少佐で退役が決まった将校といったところか。
星野はそんなわけで、立ち位置の違う横松との関係はうまくいっていない。久しぶりに顔を合わせても慇懃無礼な皮肉の応酬で、横松は自分はコロナに感染してないとリモートを承知しない。
そこで、サブキャスターの立花さつき(韓英恵)から横松を説得してもらうことにする。横松は立花と会うと、さりげなく身体を触ったり、機嫌がよくなるのを知っていたからだ。
他に、番組のメインキャスター中川(吉田ウーロン太)が声だけで出演する。

劇は、まず、コロナに対する政府の無能・無策ぶりを批判し、一体この状況をどうしてくれるんだと、毎日毎日一年間同じことを繰り返してきたワイドショーその他報道番組と、同じ論調を繰り返す。これは永井先生が悪いわけでなく、日本のジャーナリズムが何の知恵も考えもなく同じことを繰り返しているせいだ。
感染拡大を止めるには、緊急事態制限を早く出せ。・・・いや、主権の制限をする権利を政府に与えるな。・・・GoToをはやくやれ!いや、やめろ!いやあれで助かった、一息ついた。・・・コロナで死ぬか、無収入で死ぬかだ。・・・一店舗六万円では、焼け石に水。もっときめ細かく対応すべきだ。・・・病院はあるのに、医療崩壊とはどういうことだ。夏の間に病床の準備が出来なかったのか。・・・オリンピックはやるのか、やらないのか。
管首相は、原稿読んでるだけで真情が伝わらない。無策だ。無能だ。もう交代だ。やめろ、やめろ!
とまあ、ここまでひどくはないけれど、劇を見る限り、永井先生も同感らしい。
僕は、だいぶ前から、TVでこの話題が出るたびにチャンネルを変えている。同じことの繰り返しだから、もううんざりなのだ。
政府も無能だけど、TVを作っている連中も同じくらい無能である。
第一、感染拡大は政府のせいではない。この感染症を年寄り以外は怖がらなくなったせいである。これがペストやコレラやデボラ出血熱なら、街から人っ子一人いなくなるだろうけど、新型コロナの正体が分かってくると、よほどのことがない限り(我が国においては)死ぬことはないと皆高をくくってしまっている。緊急事態宣言を出したところで、去年の春の1.5〜2倍の人出である。
これを書いているいま、飲食店の時短要請の話題でしきりだ。飲食店が悲鳴を上げているという、インタビュー特集のような状態だが、では、飲食店がかわいそうだから時短要請はやめろと言いたいのか?
そうではなさそうだ。つまり、報道している方も無策なのである。
しかし、飲食店はかわいそうである。自分の店がウイルスに汚染されているわけではないからだ。それには細心の注意を払っているに違いない。問題は、ウイルスを持ったお客が店にやって来て、他の客に移していることだ。PCR検査(他の検査でもいい)陽性の人は来店お断り、あるいは検査陰性の証明書を示すということにすれば、店は通常営業でかまわないはずではないか。
家庭内感染も多いというので、家の中でもマスクをしろという。冗談じゃない。家族という濃厚接触をマスクごときで押さえることが出来るかどうか。馬鹿も休み休みにしろと言いたい。家族に疑いがあるなら、PCR検査をして安心するのが一番ではないか。
旅館やホテルも同じこと、○○も××もおなじこと、つまり、感染者を見つけて隔離することを繰り返していけば感染者と接触する機会がどんどん減っていく。昔は感染者を見つけることは容易ではなかった、いまは簡単な検査で分かるようになっている。こんな単純なことをどうしてできないのか?一年前から不思議でしようが無い。
マスコミが追及すべきは、管総理の無策ではなくて、何故検査をしないのか・・・、専門家が何を言おうと、検査をしろというキャンペーンを張ることがマスコミの役割ではないか。それを様々な言い訳をしてやろうとしない勢力に荷担している。
言いたいことは山ほどあるが、老人のたわごとだと言われるのが落ちだ。これ以上は、言わないでおこう。

 

 

さて、劇に戻ろう。
いま、横松がいる出演者控え室兼打ち合わせに使われている会議室は、『ザ・空気』(2017年)で、名前だけ登場した桜木正彦が自殺した場所であった。桜木は報道番組のアンカーであったが、政府に批判的な態度を保守系の団体に攻撃され、TV局上層部との軋轢もあって、自ら命を絶ってしまったのだ。
この桜木と横松は同じ新聞社で、社会部の先輩と後輩であった。横松が新聞記者とはどういうものか一から桜木に教え込んだ。報道部の同僚だった星野はそのことを桜木から聞いていた。
この思い出話がはじまるあたりから、劇は急に説教じみてくる。
若い頃は、政府をはじめあらゆる権力にも立ち向かって真実を追究してきた、あなたが、いまは、権力を擁護する立場にいる。それって、おかしくない?
癌を克服してようやく復帰してきた身には応える言葉である。そういえば、横松は思い出した。赤坂の飲み屋で飲んでいるとき、桜木から電話がかかってきたことがあった。いま思えば、桜木が亡くなった頃だからひょっとしたらこの会議室からだったかも知れない。用件はいわず、何か言いたげな様子だったが、挨拶程度で電話は切れた。あれは、桜木が死ぬ前に「ジャーナリスト魂を取り戻してくれよ横松さん。」と言っていたのかも知れない。
と、まあ、元大新聞社社会部の変節漢は、権力の横暴や不正、無責任に立ち向かった若い頃を思いだしたのである。残り幾ばくもない人生を権力に抵抗する正義漢でいようときめた、らしいのだが・・・・・・。
実は、これが迷惑な話に発展する。
横松の告白によれば、管内閣が『日本学術会議』の会員候補者105人のうち6人を任命しなかった事案には自分が関わっていたと告白したのだ。候補者には、横松によって、安保法制に反対したとか政策に批判的だとか業績だとかの項目に点数が付けられ、マイナスの多いものが任命拒否された。その証拠書類も持っている。今夜、番組でそれを告白するというのである。
これはいままさに世間で話題沸騰している大事件で、明るみに出たら政府がひっくり返ることは間違いない大スクープになる。
さあ、どうするか?

 

2020年9月末、管内閣が発足した直後、推薦者のうち6人が任命されなかったことが判明すると、日本学術会議が、推薦名簿はそのまま任命される約束だから法律違反である。理由を説明し、名簿通り任命せよと言ったが、内閣府は人事を見直すことはないとして、10月1日99人が会員に任命された。10月5日、管首相は、任命をしなかった理由を「(日本学術会議の)総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」と説明し、個別の人事については応えられないとした。
「安保法制に反対したからだろう」と言う憶測がとんだが、それなら他にもいる。何故、あの六人なのか?日本学術会議も野党も取り消しを迫ったが、政府は同じ答えを繰り返すだけであった。
中曽根時代の政府見解と異なる決定で、違法だとする見方に対して、弁護士で元大阪市長の橋下徹は、政府に任命権があると認められる以上、違法な決定とは言えないが、国民に丁寧に説明する責任はある、と発言した。
しかし、訴訟沙汰にもならず、暮れになる前までに、コロナの第二波が大きくなったこともあって、いつの間にか騒ぎは沈静化していったのだ。

 

劇は、政府と仲のよいTVコメンテーターに学者の評定をやらせたというが、国民の一人としては、そう言う単純な話には見えない。
2020年の春頃から「デュアルユース」とか「千人計画」という言葉が特に政界から聞こえてくるようになって、何のこっちゃと思っていたのだが、あの頃からすでにこの任命拒否は準備されていたとみてよい。10月は半数の改選が行われる時期と決まっていたからこれは予定の行動だった。
もう少し広い視野に立てば、緊迫してきた東アジア情勢、米国のコミットメントの不確実性(トランプのような自国ファーストへの政策転換)などを背景に、我が国の安全保障体制は、可能な限り、自前で行うべきと言う基本戦略を元に、英国で言えばMI5 、米国で言えばFBIあるいはCIAのような情報捜査機関が、我が国のなかで極秘裏に立ち上がり、それと気づかれないように輿論を誘導する計画を立てたのだ。
こんなものがバレたら「特別高等警察」の再来だと言って大騒ぎになるに決まっている。「公安警察」だって社会のダニみたいな扱いなのだから、ことは慎重に運ばれねばならない。
日本学術会議の中に「安全保障と学術に関する検討委員会」が出来て、政府が研究に介入するのは憲法違反だと指摘して、防衛省の計画は頓挫してしまった。これは日本国の基本戦略とは相容れないものだ。「検討委員会」のメンバーや決定プロセスを分析すれば、少数の法学者グループがこれを誘導したことが分かる。たいしたことは出来ないと思っていたら日本学術会議は、こういう邪魔をする力を持っていた。それにしても、支那がやっている「千人計画」に参加することには異を唱えないのは不当であり売国的態度ではないか。というわけで、この機会に特定グループを日本学術会議から除外することにした。
さて、それと気づかれずに、政府側には落ち度がないと分かるように事を運ばねばならない。
そこで、春頃から研究テーマの「デュアルユース」はあたりまえの時代だ、と言う認識を一般に広める一方、支那の「千人計画」に参加している日本人研究者が存在するのは問題ではないかという情報を流布する。また「日本学術会議」の歴史、特に左翼の巣窟であったという事実や今日その役割は終えていること、あるいは政府から独立させるべきなど切れ切れに噂話的に流しておく。
政府側の防御としては、任命拒否が違法にあたらないか?その法的根拠を確認。国民にはどのように説明するか「説明文」と「Q&A」を用意し、安保法制に反対したものなどの拒否理由の憶測を排除する状況証拠をつくる。「日本学術会議」のあり方検討委員会を与党の中に立ち上げる。
いつも後手後手に回って批判されることが多い政府にしては、まあまあ、手際の良さを見せたが、これが日本版MI5のなせる技であった。
こうした準備万端整えて、10月1日を迎えたのである。

 

特定グループとは、いうまでもなく「民主主義科学者協会」である。このグループは、「新日本婦人」や「新日本文学」などの各団体と同様いまは見る影もなく衰えているが、日本学術会議では、一定の指定席を得てきた。「9条を守れ」と言うかけ声は、「美しい邦日本」「瑞穂の国」などと言う安倍晋三を保守反動と批難することは出来るだろうが、時代がすっかり変わっていることを知らずに1945年に帰れ!というのも立派な保守反動ではないか。「トイレットペーパー」の「諸要求」と同じく役にも立たないただの嫌がらせを、未だに繰り返している。保守反動は、静かに退場すべきである。
6人のうち、3人は元「民科」理事であり、一人はその席の後継である。あとの二人は、政治的には毒にも薬にもならないといっていいが、任命拒否くらいに目くじら立てて抗議する必要もない地位にある。つまり、6人すべてに共通する要素はない。これは、日本版MI5が用意した目くらましである。また、橋下徹は、国民に分かりやすく説明しろといったが、これをどう説明すればいいのか?説明などできるわけがない。しかし、「総合的、俯瞰的な活動を確保」するというのが日本版MI5が用意した解答で、また個別人事評価は公表しないのが世の常識である。これでは、前に進みようがない。
こうした、僕のようなぼんくらにも分かりやすい作戦だったのに、マスコミは何故このことを追求しなかったのか。
政府が法を犯したのでもない。学術会議は学問するところではないから学問の自由を疎外したのでもない。「特定のグループ」を除外したと主張すれば「特定のグループ」の存在を自ら認めることになり、政治団体との関係が取り沙汰される。これはデリケートな話題になって、扱いにくい。
おそらくそんなところだろう。

 


 

永井愛の時事問題を扱う手つきは、まるで二十世紀的である。政府は悪で大衆を欺す者である。正義は、われら大衆にあり、大衆を代表し、その利益を守るのは新聞やTVの報道である、と言うわけだが、この時代、新聞やTVをみるものが急速に、少なくなっていることを認識しているだろうか。大衆が情報を得るメディアは多様化している。
電通が自社ビルを売りに出そうとしている。僕は、電通と何十年も仕事をしてきたが、この会社は明治時代、全国で地方紙が発行されはじめたときに出来ている。売りに出すのは画期的と言えるだろう。何故か?一つにはひとの働き方変わるということ。もうひとつはメディアのビジネスモデルが変容しようとしていることが分かる。
いままさに過渡期だから、どのように変わるかを我々「ブーマー」が見届けることは出来ない。しかし、まるで後戻りするのがいいという考えに賛成するわけには行かぬ。

 

 

 

タイトル ザ・空気 ver.3
観劇日 2021/1/15
劇場 東京芸術劇場
主催 二兎社
期間 2021年1月8日〜31日
作 永井愛
原作/翻訳
演出 永井愛
美術 大田 創
照明 中川隆一
衣装 竹原典子
音楽 市来邦比古
出演 佐藤B作 和田正人 韓英恵 金子大地 神野三鈴  

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