劇評「三人の密偵」(劇団チョコレートケーキ)
配信で見るはめになったものだ。今更張作霖でもなかろう!)密偵と言うのは所謂スパイのことである。
劇に登場するスパイは、ジョン・ル・カレやフリーマントル、フレデリック・フォーサイなどの小説に登場するような冷徹で、機敏でスマートでプロフェッショナルな男たちではない。小説に比べて、現実世界は、そんなものでもなかろう、とは言え、互いに「オレは○○の諜報員だ」と利害の一致しない立場を名乗りあっていて、しかもこれらの機密情報を聞き出そうとするものが、互いに兄弟である。ということになると、英国の作家たちは「オーマイガット!」と唖然とするだろう。身内だから情報は取りやすいとも言えるが、素性が知られている以上、互いに何を掴まされるか、知れたものではない。これが、CIAとMI6にモサドと言う組み合わせなら利害は基本的に対立しないが、CIAとKGBがアヘン窟で密会となると、高度な情報分析に加えて心理分析も重要になる。インテリジェンスの世界を知っていれば、そう考えるのが常識だろう。とりわけ、これらのスパイたちを操る上層部の人間は、兄弟から得た情報の真実性を判断するのに苦労するはずだ。ただし、何が起きそうかと言うことが、誰にも予想できるなら、その補助線があれば、状況を判断するのがより容易になるだろう。
もうひとつの疑問は、このスパイたちが追いかけている「情報」が、関係者一同にとって、生死を分ける重大事なのか、ということである。つまり、その情報がなければ、味方が危機存亡の事態になるとか、局面が大きく変わるとか言う類のものなのかということである。
話を劇の内容にしたがって、具体的言っていこう。
この劇団の芝居は、歴史的事実を中心に据えて、それに関わった人間たちを描いたものがほとんどのようだ。
この芝居も、満州軍閥、張作霖爆殺事件(1928年)の前後を背景に、それぞれ所属を異にする三人の諜報活動家が満州、奉天の隠れ家で相まみえるという話であった。(劇は、それぞれ二人がからむ三本の芝居で構成される。)
三人のスパイの立場とは、まず、一人目は蔣介石軍の情報部員、王英三(西尾友樹)である。二人目は、商社の会社員を装っている関東軍の諜報員、森高逸二(浅井伸治)。最後は、帝国陸軍参謀本部の情報将校、池内武一(岡本篤)である。
この三人はそれぞれ姓は異なるが、父親が同じ三兄弟である。
末弟である王英三は、中国人の母親と帝国陸軍将校、池内某との間に生まれた子で、幼い頃に池内家に引き取られ日本で育った。二男、森高逸二は、商社を経営する森高家の養子になり、長男、武一は父親のあとを追って軍人になった。
蔣介石の国民党軍のスパイである三男、王英三の関心、得たい情報は「関東軍は、張作霖を今後も奉天軍閥としてその存在を認めるつもりがあるか?」ということである。この情報を、関東軍のスパイである二男と、陸軍参謀本部の情報将校である長男から聞き出したい、というのが会見の目的であった。
この頃の張作霖軍閥は、北京まで出張ってきたものの蔣介石の国民党軍に追い出され=北伐、(1926年)、拠点を再び奉天へ戻そうとしていた。張作霖はもともと満州馬賊からのし上がった二十万の兵力を持つ軍閥で、支那東北地方を支配していたが、自らを大元帥と言い、支那全土をうかがうようになると、関東軍との利害が衝突するようになって、その関係は微妙になっていた。
つまり、関東軍が満州に足場を築くのに利用した張作霖が、今後は抵抗勢力になることはあきらかであった。つまり、張作霖という「邪魔者は消せ!」が関東軍のときの要請であった。
では、万が一、関東軍が張作霖を排除した(消した)時、蔣介石の国民党にとって、どんな影響があるか。
多数存在する軍閥の一つが消滅することは、国民党にとって悪い話ではない。また、張作霖排除によって国民党軍が直ちに日本と交戦状態になるとは考えにくい。
つまり、この時期、関東軍が張作霖の存在を排除したい事情は誰の目にも明らかであった。それが実現すれば、関東軍の満州支配はやりやすくなるのも容易に想像がつく。その状況が、国民党にとって、最大のクリティカルイシューだったかと言えば、起こりうることを並べてみても、たいしたことにはならないのがわかる。
しかもこの時期の国民党は、支那統一の正当性を確保したとはいえ、各地に残る軍閥、ソ連の支援を受けている共産党との主導権争いに注力する必要があり、満州を支配しようとする関東軍と対峙する余裕はない。(このときの首相田中義一と蔣介石の間には密約があったという)
実際、起こってみれば、「爆殺」というセンセーショナルなやり方だった事をのぞけば、その結果は予測したとおりになった。張作霖は馬賊の棟梁だったが(文盲
という噂があった)息子、張学良を欧州に留学させて、後継者にした。これが、恨みを晴らす為に関東軍と一戦交えようとはせず、革命成就のために国民党軍に合流すると決めてしまった。国民党にとっては願ってもない結果ではないか。関東軍が張作霖を暗殺するのではないかという王英三の「焦燥」は、そのとおりになったが、その結果は、国民党の利益になって終わったといえる。
と言うことは、「張作霖排除」という客観情勢にあって、それがどんな形で実行されようと、結果は相当程度予測可能だったのである。しかも、自分たちに不利にはならないと言う確信はあったはずだ。「いつ、どんな方法で?」は、知らなくても、近いうちに起きるだろうことが予想される、と言う意味で、もはや政治的には何の価値もない情報であった。
この三人のスパイたちが、諜報的にあまり価値のない情報をとろうとしていたのは、その後の歴史を見ても明らかだろう。
最近、ベネズエラで起きた出来事はこれに似ている。
マドゥロ大統領は、国民を弾圧する独裁者で、米国に麻薬を送りつける犯罪者と米国は名指ししていた。また、ロシアや中国に接近し、それらの南米大陸への足がかりを提供している。米国にはマドゥロを排除する理由がいくつもあった。
ある日、米国は秘密の作戦によって、マドゥロを生け捕りにして、無力化した。それにより、中国とロシアは致命的なダメージを受けたか?といえば、石油の供給源の一つと複数ある南米への足がかりの一つを失ったに過ぎない。
米国は他国の権力者の排除を周到に合法的に行ったが、1928年の張作霖爆殺事件は、線路が上下に交差する地点を選び、通過する客車の屋根の方向から大量の爆薬を爆発させるというもので、列車の運行時刻を調べ上げ、客車を特定するなど緻密といえばいえるが、やり方はいかにも乱暴で、政治的言い分けもなにもできなものであった。(真相はあきらでないが、おそらく河本大作一人の頭で組み立てたものだろう。)
総じて、張作霖排除は関東軍の戦略であり、それがどのように実践されるか、は諜報員が入手すべきクリティカルイシューではない。つまり、それが「いつ」か、「どんな方法」かを知らないことが、国民党軍にとって、致命的なダメージになるというものではない。早い話しが、もともと張作霖がどうなろうと蔣介石の知ったことではないのである。
と言うことは、この劇は、三人の密偵の、スリリングな情報戦のように装っているが、中身は、ただ単に、それぞれの立場で見た「張作霖爆殺事件」という歴史事実を描きたかった、と言うことなのだろう。
では、彼ら(劇団)はこの歴史的出来事をどのように捉えて、どういう立場から評価をし、歴史の出来事を批評しようとしたのか。
国民党の密偵である王英三(西尾友樹)せりふを通して、分かるこの事件の評価は、とりあえず二つある。
第一に、張作霖暗殺は、国民党と関東軍の敵対関係を決定的なものにする(した)。第二に、兄弟の父親がいったという「支那と日本は仲良くしなければならない」と言うことに(激しく)同意する立場である。
また、関東軍の密偵、森高逸二(浅井伸治)は、河本大作の計画を察知し、これを制御できない陸軍参謀本部の参謀将校である兄、池内武一(岡本篤)を責め、結果として日本政府は自らの国際的孤立を招いたとする歴史評価を表した。
さらに、この劇では、兄弟である三人の密偵に共通するものを象徴的に表現している。それは、それぞれが、懐深く隠し待っているロザリオである。
この三人がどういういきさつがあって、いつからなのか不明だが、カソリックのクリスチャンであると言うことである。説明がなかったから想像するしかないが、これには二通りの解釈が成り立つだろう。
まず、国民党、関東軍とそれぞれ立場は違うが、信仰という点では共通の価値を信じており、肉親の絆は強い、つまり、父親の「日本人と支那人は・・・・・・。」の言をロザリオにたくしている。(キリスト教的隣人愛)あるいは、戦争という過酷な現実を、揺るぎない信仰心(理想)によって乗り越えられるという思い、を表現しているのではないかとも考えられる。(他の解釈も成立するかもしれないが、いずれにせよ、唐突であり、歴史事実とは無関係のことだから困惑してしまう。)
こうした描き方を通して分かるのは、この事件が、明らかな国際法違反であり、満蒙問題は徹底した話し合いで解決すべき課題だった、というものである。これは、国民党軍密偵、王英三と二男、森高逸二の主張する所であった。この論調は、戦後の国際協調の時代における大東亜戦争評価の典型的なものである。つまり「こうあるべきだった」が先に立って、現在の価値観で歴史を断罪しようとする態度である。
冷戦時代を通じて、東西の力が均衡しているときは国際協調はかろうじて保たれた。(理想主義が実現していた。)もっとも国連の常任理事国は第二次大戦の戦勝国五つで構成されるといういびつなもので、しかもそれぞれ拒否権があるために何も決められない組織である。
戦後の日本の知識人には、国連至上主義のような事を唱えるものが多数いた。(今も少なからず存在するが)
代表格は、政治家の小沢一郎である。また、団塊の世代の加藤典洋などは、晩年、自衛隊の大多数の部分を国連軍に差し出すべきだとまで言うようになった。(拙稿「取り残されたものたち」を参照)
日本の左翼知識人がどう言おうと、国連軍が出来たためしはないし(朝鮮戦争のとき米軍がこれを名乗ったことはある)、今後もその気配すらない。
つまり、第二次大戦以降の、各国の力の均衡が保たれていた時期が終わると、各国は自分の思惑で、ことを主張しはじめ、行動するようになる。
実は、近代国家とは、もともとが本質的に対立するものであり、国連がそれをまとめるなどと言うのは幻想に過ぎないのであった。
トランプ大統領に、ベネズエラやイラン侵攻は国際法違反であり、国連憲章に違反するといっても、国連が逮捕状を発行することも出来なければ、裁判すら始められない。
時間を、張作霖暗殺の時代に巻き戻そう。
三人の密偵の父親が、「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と言っていたことをこの兄弟はよく覚えていて、それに忠実であろうとしていた。それは理解出来る。ただし、この父親は、辛亥革命以前の世界を生きた世代であり、清が崩壊し、袁世凱が主導権を握ったあとの支那を前提にしていない。孫文の後 支那各地を支配する多数の軍閥が、日米英ソビエト各国の後ろ盾を頼りに覇権争いを繰り広げているのである。
確かに、辛亥革命の成就のために、日本人は孫文はじめ、革命の戦士たちの亡命に手を貸し、資金援助も惜しまなかった。
僕はかつて、宮本研の「夢・桃中軒牛右衛門の」の劇評で、そのことに触れたことがあった。桃中軒牛右衛門は、なぜ「雲」右衛門ではなく「牛」なのか?それは、この劇の主人公宮崎滔天が、孫文の武装蜂起に関わって失敗、失意のまま帰国して、浪曲師になろうとしたためであった。師匠のように雲ではなく、草を食むだけののろまと自分を卑下したのである。この時期の日本人が、どれだけ、支那人の革命思想に共鳴し、身を粉にして協力したかは、今となっては、「夢」だったかと思えるくらいのものである。つまり、密偵の父親世代が、支那の革命に奔走していた時代があったのだ。
そのことの一端を僕は、この劇評で、書いている。
神田の古本屋で見つけた東洋文庫の「三十三年の夢」(宮崎滔天著)には、宮本研の戯曲に登場する滔天の妻、槌の口述筆記が載っている。
槌の言葉はこう始まっている。
「滔天が支那革命運動に志したのは明治二十年ごろからのことと記憶します。その頃滔天は兄の彌蔵とともに、世界の現状の不合理をあらためるには、まず支那の革命を実行して、その力で世界を理想的に改革することが一番自然であり、最も実現可能だと考えたのでした。それで兄の彌蔵と滔天とは、その頃誰でも希っていた栄達や安逸を終生捨てる覚悟を決め、将来支那に永住して、その運動に没頭する考えを決めました。その時は、私は二人を助けて飯炊きをする約束でした。・・・」(「三十三年の夢」宮崎滔天)
熊本民権党を率いて西郷軍に合流し、獅子奮迅の働きをして戦死した長兄八郎の影響が兄弟にはあっただろうが、妻となった槌までがその覚悟であったとは。なるほど、あれだけ夫に家を空けられて、貧乏生活を強いられても凛としていられたのは「飯炊きをする約束があった。」からだった。明治期の女の強さとはこうしたものである。
また、東洋文庫の解説を書いた衛藤瀋吉は、冒頭、清末革命運動研究家で、イスラエルのシフリン教授との雑談を紹介している。
彼はこういった。
「どうしてこうもたくさんの日本人が中国革命に夢中になったのか。中にはミヤザキみたいに兄弟そろって私財まで持ち出して情熱を注ぎ、しかもなんら報いるところを求めていない・・・」外国人から見てもこれは不思議な光景に映ったであろう。衛藤瀋吉自身も「明治の人たちの異常なほどの大陸問題に関する情熱と行動力をいったいどう歴史学の中に組み入れたらよいのであろうか。」とやや戸惑い気味である。
いずれにしても、これらの運動の中に欲得ずくのところがまったく見えない、純粋に大義と理想を追い求めた若い情熱だけが今日から見れば奇跡のように輝いて見えるのである。坂本龍馬の人気があるのも、変革に当たってこの無私という態度が、いまだに日本人の心の琴線を揺さぶるところがあるからなのだ。
「民族の若返り(Re-generation)ともいうべき明治のエネルギーは一つの驚異である。」(衛藤瀋吉、前述の解説)といえるが、これはおそらく長い封建社会が醸成し磨き上げた「武士」というものの倫理がその土台になって出来たものだろう。
劇のせりふにも出てくるが、滔天が支那革命を志した根本的な願望は「天下の乞食に錦を着せ、車夫や馬丁を馬車に乗せ、水飲み百姓を玉の輿、四海兄弟無我自由」であり、このような社会の到来を求めたのであった。今日、世界を見渡してこの「志」が実現したとは到底いえるものではない。
「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と三兄弟の父親が言ったことは、そのような時代背景をおいて見れば理解出来る。しかし、清が倒れて以後の支那は、各地の軍閥が覇権争いを始めて、収集がつかない状態になっていくのである。しかも各軍閥には米英ソ日などの援軍がついて侵略の機会をうかがっており、誰と「仲良くする」かなど定まる所を知らない状態であった。
この劇が、描こうとした歴史的事実とそれを評価する視点について、以下のようにまとめることが出来る。
張作霖爆殺事件は、力による現状変更であり、明らかに国際法違反である。従って日本のこの行為は誤りであった。ついで、理由は明らかでないが、「日本人と支那人は仲良くしなければならない」と言う主張である。また、キリスト教的人類愛に基づいて敵と対峙せよ!(?)という倫理観を披瀝しようとする。
僕は、この劇が、どんな主張をしようと否定も肯定もするするつもりはない。
しかし、この劇には決定的に欠けている視点がある。
それを指摘してこの劇評を締めくくることにする。
先頃、イスラエルと米国は、核開発を続けるイランを空爆して国家元首を爆殺した。歴史は繰り返すと言うが、張作霖爆殺と似てはいないか? あれよりもっと盛大で規模は大きいが、国家が敵対するものを実力で排除したと言うことではその構造は同じである。
イラン侵攻は、国連憲章に反する、国際法違反だと批難する国もあるが、その点では、張作霖暗殺事件もあの時代、同様の反応であった、この劇は。それを捉えて関東軍の暴走だったと批難する立場である。
しかし、僕らは、イランが核開発を継続し、テロ支援など中東の不安定化を惹起していたことを知っている。また、遡れば石油利権にからんで、素性の怪しいパーレビを国王に据えて独裁を許していたが、それがイスラム革命によって、反米政権が成立し、今日に至っていることも知っている。
また、イスラエルにとってもイランの核武装は許容不可能なことであり、力尽くでもこれをやめさせる必要がある。
つまり、イスラエルと米国には、イラン侵攻は、自衛のための戦争だと言うことである。
国際法違反だと指摘されることが、行為者側にとっては自衛のための実力行使になり、それは「力による現状変更」であっても許されるはずだということになる。
いや、その前に、そもそも「国際法」とは何か?
法という以上、条文があり、罰則があり、警察機能と裁判所に刑務所がなければ、国際法を実際に機能させることは不可能だ。しかしながら、こんにち国際法と言う時、脱法行為は容易であり、罰則も経済的制裁以上になることは希である。
これは、百年近く前の、張作霖暗殺事件のときと構造的には何も変わっていない。
なぜこうなるのか?
それは簡単である。国際法で言う「国際」とは実体のない存在だからである。
それには近代国家の成り立ちを見ればはっきりする。
なるべく簡単に言おう。
近代国家とは、国境によって囲まれた国土とその中に住む住民とによって構成される。これが一体のものである保証は、住民全体の意思を国家に仮託することによって成立する。この意思とは、民主主義の概念の生みの親であるジャン・ジャック・ルソーが言う「一般意思」のことで、住民の意思の総体にたいして超越的である。我々はこの超越的な意思の存在を認め、国民として国家を認証している。
従って、国家がさだめた法に従い、近代国家という機能の中を生きるのだ。
「国際」にはこの「一般意思」が存在しない。国際法が単なる条文いすぎないのは、こういう理由によるから、実際には無効なのだ。(何年か前に、東浩紀がこの「一般意思」の概念を情報化社会の到来を背景に、ヴァージョンアップすべきと主張し「一般意思2.0」を書いている。)
この劇に欠けている視点とは、今日のイスラエルと米国が、イラン侵攻した理由は、我々にとって極めて明示的であるのに対して、張作霖暗殺事件に関するそれは、明確には語られていないことだ。日本の侵略ということは定着しているが、なぜ河本大作らは、どういう状況下で、何を必要としてこの事件を起こしたのか?いわば、加害側の事情は、一切取り上げない。。
劇は、これを国際法違反と切り捨てるが、この事件を引き起こした人々の意思は.取り上げなくてよいというので、歴史を正しく認識することになるだろうか。
国際法違反だ、日本は悪いことをした、日本と支那は仲良くすべきだった、と言う見方で終わるのでは、当時の状況も関係者それぞれの立場も何も見えてこない。これは、歴史を語ろうとする者の態度ではなかろう。
張作霖が北京を出発する時刻を知り、何両目の客車に乗って、その列車が奉天郊外のある地点を通過する時刻を予測し、それが思惑道理に進行するかどうかを見届け、それらを相互に連絡する必要がある。これが河本大作一人でできるわけがない。今度のイラン国家元首暗殺に、モサドが深く関わっていることは、周知のことだが、張作霖暗殺に関しても、これに似た厖大な諜報活動があったはずである。
劇は、この役割を関東軍の意を受けた商社マンの二男にあてたが、彼は事件の計画からは遠い位置にいて、これを国際法違反と批難するばかりであった。
実際に、河本大作の下で諜報活動に携わったものがいたはずである。「密偵」を主題に歴史を語ろうとするなら、この立場の密偵を入れなければ不十分である。
河本大作らが、これをどのように実行したのか詳細は明らかでないが、当時の満州における諜報活動の主力は「満鉄調査部」であった。彼らの情報網無しに、張作霖暗殺事件はなかったと考えられるのだが、劇は、この点を見逃している。
満鉄調査部は、おそらく河本の計画に深く関わっていたに違いない。しかも、それが実行されれば、日本は国際社会から批難され孤立することが確実であることを認識していたと推定される。それでも、満鉄は満鉄の利害を考慮して河本に協力したのであろう。
この満鉄の立場を劇で描ききっていれば、張作霖暗殺という歴史的出来事はもっと立体的に見えてきたはずである。
しかもこの後、日本は国際的に非難を受け、孤立を深めていくが、その三年後には国民党軍との衝突を機に満州全域の占領に歩を進め、そのまま満州国樹立まで突き進んでしまうのである。
今一度、話を整理しよう。
このときの支那は、蔣介石の国民党に統一されたが各地を支配する軍閥が多数残存しており、実際上は分断状態であった。張作霖暗殺は、この状況を利用して満州占領の足がかりを得ようとした意図が日本側にあった。その後の満州事変によってこれが実行され、それは石原完爾の「五族協和、王道楽土」の「満州国」樹立へとつながる。
戦後我が国は、これらを日本の大陸侵略のいわば「黒歴史」として、全否定するのが通例となっている、
この劇も、歴史をこうした戦後の価値観で割り切ろうとするが、それでは、当時の状況がはっきり浮かび上がってこない。
この劇団の他の芝居もまた、この構図は変わらない。しかし、そのような自虐的な視点だけからは歴史の真実は浮かび上がってこない。「戦後」も八十年経った今、この劇団の若い世代の人たちには、歴史についての、「近代国家」の本質を捉えた(国際協調は重要だが、その本質は構造的矛盾である)冷静な議論を望みたい。
観劇日 2026年2月
劇場
主催 劇団チョコレートケーキ
期間
作 古川健
原作/翻訳
演出 日澤雄介
美術 長田佳代子
照明 松本大介(松本デザイン室)
衣装 藤田 友
音楽 佐藤こうじ
出演 "『導火線』 王英三/西尾友樹 池内武一/岡本篤
『IGNITION』 森高逸二/浅井伸治 王英三/西尾友樹
『誘爆』 森高逸二/浅井伸治
池内武一/岡本篤
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