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2007年8月 4日 (土)

「空気と戦争」の空気 続き

続き
高橋健夫はこの「燃料大観」で戦前、自分が陸軍省燃料課にいた時のことを書いていた。旧制中学のころ人造石油というものがあることに出会い、夢中になった高橋少年は、昭和十三年に東京帝大理学部化学科をでて商工省燃料研究所に入る。その頃石油のとれないわが国ではすべて輸入に頼ってきたが、支那大陸侵略の報復として米国が石油の禁輸を実施しはじめていた。石油がなければ、戦車も飛行機もトラックもあらゆる武器が使えなくなる。極めて重要な軍需物資であった。そこで、まもなく高橋は人造石油の専門家として陸軍に呼ばれ燃料担当の将校として勤めることになったのである。人造石油とは、石炭を高温高圧の状態において液体化する技術であるが、その頃の日本ではまだ生産量は僅かであった。(ドイツは必要量の10%程度を賄う生産量であったらしい)勤めはじめてまもなく上司と一緒に当時の陸軍大臣、東条英機に報告にうかがった。石油が一滴も入ってこなくなるというと、人造石油はどうなっているかという。生産量を言うと想像以上に少なかったことでがっかりした様子。国策会社まで作って、生産に励んでいるはずだったが実際には思ったほどうまくいっていなかった。ではどうするかというので、インドシナ、インドネシアから持ってくるしかないのではというと、東条は「ドロボウせい。というわけだな?」とじろりと睨まれたというのである。この時期陸軍大臣は、オランダ領のインドネシアから石油を持ってくるという意味は、攻め入ってオランダを追いだし、その施設を使って石油を汲み出すことだと認識していた。「ドロボウはいけません」といったというから誠に正常な神経だといわざるを得ない。叱られたと思った高橋の記憶に長く残った。「燃料大観」にどこまで書かれているか分からないが、高橋はその後、85年に回顧録を出して、かなり詳しく陸軍の将校の立場から見た燃料事情を書いているらしい。猪瀬はこの内容を講義した。東工大の学生は、この高橋中尉の話を聴いて、軍人が極めて冷静に議論を進めていることに驚いたという。旧軍人といえば血相変えて怒鳴り合っているか部下を殴りつけていると思いがちだが、もともと彼ら士官学校や兵学校出は戦前社会では旧制高等学校出に匹敵するエリートである。このセカンダリーエリートという立場が災いした面もあるが、理屈が通れば納得するだけの知性は備わっている。
「昭和16年夏の敗戦」と題したTV番組は、当時期間限定で設立された「総力戦研究所」というものの活動内容を描いたものらしい。この年の夏に内閣府が計画したもので、永田町のヒルトンホテル(後キャピトル東急)があった向いのくぼ地に俄作りの建物を用意してはじめられた。ここには軍人の他に、満鉄社員、通信社の記者、日本製鉄、三菱鉱業、日本郵船などの民間会社から年齢三十五歳くらいまでの俊英が集められた。ここで模擬内閣が作られ、各担当所管の戦略が練られ、日米開戦のシュミレーションが行われたというわけである。もっとも重要な課題はやはり油であった。当時国内の備蓄がどの程度あるかは政府内のどこも把握していなかったために、軍の機密事項だった数値を聞き出し、民間のものと足し合わせてはじめて在庫がわかった。この数値に基づいて開戦時の作戦行動と油の消費量を割り出すと、加えて南方から石油が供給されるという前提なら、緒戦を戦うことは出来ると判断された。しかし、一旦戦端を開けば油の供給元は南方のみに限られる。ジャワから日本まで船で運ぶ以外にないのだから当然途中で米軍の潜水艦、駆逐艦におそわれる。その損耗率はいくらかという数値は海軍になかった。第一次大戦時の英国商船の損耗率は十%だったことが分かると、その数字を当てはめた。この数値は誰も信じてはいなかったが、他に根拠のある数字はなかった。実際には穴の空いたバケツで油を運んでいるような有り様になったことは周知である。
結論としては、最初は勝利しても長期の戦争継続は不可能、つまり負けるというものであった。ところが、緒戦勝利なら、切りのいいところで休戦に持ち込めば負けはないという考えは、生まれやすい。特に軍人は戦に持ち込みたいのだからこう言う考えに傾くのは必定である。やって見て後は野となれ山となれというわけだ。このようにして次第に、開戦へという「空気」が生まれ、気がついた時には誰も反対出来ないような雰囲気として大きくなっていくのである。
TVドキュメンタリードラマは、この若者たちが、数値を元にときに激高することはあっても、情況を冷静に的確に捕らえ、開戦を避けるべきだという結論を出すに至るが、もはや遅すぎたというものであった。
猪瀬は、この合理性を越えて集団を支配する「空気」と言うものの存在を指摘して、東工大の学生である高橋中尉の後輩たちにどんな状況下においても、あくまでも客観的に合理的に判断を下すように心がけなければ、国を誤ると教えたのである。
「空気」の存在については山本七平が「『空気』の研究」を書いて昔から日本人の心にこの独特の心性があったと主張している。最近「KY」という言葉を若い者が使う。「空気読めよ」という意味である。その場の雰囲気に合わない態度を非難する場合に使う。空気を読んでそれに迎合するように振る舞う。そういう人が何人もいたらその場の「空気」は形成されるといってもいい。集団がいなくなれば「空気」も胡散霧消してしまうようなものなら、たいした罪は無い。しかし、集団があれば必ず「空気」は形成されると思ったほうがいい。
猪瀬は、国を誤ったのはこの「空気」のせいだったといいたかったようだが、よく考えるとそれは結果論に過ぎない。空気というものは台風のようなもので、自分もその渦の中に入っていたら、抵抗出来ないものである。なにかの意思決定はたいていがこの「空気」の存在に促されて行っているものなのである。高橋中尉が、いかに合理的な主張をしようとも、抵抗出来なかったもの、そして後から振り返って見てその存在が明らかになったもの、それが「空気」なのである。
僕は若者に「空気」と言うものが存在していて、それが必ずしも合理性に基づいて形成されるものでないと教えることに反対はしない。実社会に出れば驚くべきことにほとんどそういうことの連続だから、あらためて教える必要のないことでもあるが。
若い学生に教えるにはそれよりも大事なことがある。日本が必ず負ける戦争に踏み込んで、何故予定通り負けたかについては、「空気」などという情緒的な理由ですまされないものがあったとむしろ教えるべきである。
「空気」と言うものは、そのエネルギーに相当するような強いオータナティブがなければ変えられるものではない。泥沼の日中戦争を解決してどのような結果を招来したいか。日米の戦争を回避してどのような関係を築くべきか。というのが当時の極めて直接的な代替案であった。軍部でその代替案を作って孤立したのは石原莞爾であった。石原は優秀であったが惜しいことに人望がなかった、というよりは自ら拒否した。そのエネルギーをもってしても空気に勝てなかったのである。
僕が考えているのは、それとは違ってもう少し抽象的なことである。
明治維新は、外国に植民地にされまいとする明確な戦略があった。満州事変や支那事変は支那を植民地にしようとするやや中途半端な戦略があった。その間にあった第一次世界大戦とパリ講和条約の文明史論的な位置づけを日本のアカデミズムも外交官も文化人も誰もしなかった、あるいは見誤った。
いや、西欧というものが「なんであるか」ほとんど知らなかったのではないかと思う。アラブ諸国についてはコーランの翻訳すらなかったことに気づいた大川周明が大急ぎで研究、イスラム聖職者に接触した。国際音痴の証拠に日本ひとりが植民地獲得に「狂奔」していたのであるから。
学生諸君には、空気に流されるなといってもいいが、それは流されるから空気なのであって、抵抗は難しいものである。むしろ国際的な「空気」を読んで日本を文明史論的なスケールの時間において、その進路のいくつかのオータナティブを考えておくこと、をすすめたい。戦後60年経って、ようやく「国際」と言うことがわかってきたのだから、あの当時の情況を教科書にして「空気」に抵抗せよと言うことに何程の意味があろうか。

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2007年8月 2日 (木)

「空気と戦争」(猪瀬直樹)の空気

猪瀬直樹の「空気と戦争」(文春新書)を読んだ。本屋で立ち読みしていたら疲れたので買って帰って一気に読んでしまった。東工大の学生を相手にした超満員の講義、というその文句に惹かれた。若者に何を話したのか興味が湧いたのだ。それに「日本の進路決定の陰に、二十代、三十代の若者たちの戦いがあった。」と書いてある。はてそんなことがあったとは聞いたことがない、と思って読む気になったのである。
講義録ではないから、実際にどんな語り口だったのかは分からない。ただ、最初に91年12月に作った長編のTV番組を見せたというから学生は話に入りやすかったであろう。自分が取材して書いたドキュメンタリーをフジテレビがドラマ化したもので、話によると2、3ヶ月に渡って行われた講義の内容そのものであった。ただし、現在の学生にはドラマを見る予備知識がないことを心配していくつか説明をしなければならなかった。
一つは、戦前の話だから当時の世相を理解してもらう必要があると考えた。山本夏彦に「戦前真っ暗史観」と言う言葉がある。猪瀬もこれを引いているが、山本に言わせると戦後の左翼のおかげで、戦前は言論弾圧や物資の統制、軍部の独裁などで一貫して世相は暗かったと宣伝されているが、実際はそうではなかった。確かに戦争末期の昭和十九年に入ると本土が狙われはじめて暮らしは厳しくはなったが、せいぜい終戦までの一年あまりで、それまでは軍部や政権中枢は言うに及ばず庶民にいたってもものもいえないような重苦しい雰囲気はなかった。山本は治安維持法の取り締まり対象になったのは全国で五千人程度、多く見積もってもせいぜい一万人程ではなかったかといっている。この連中には、いつでも逮捕投獄の危険があったから、暗い時代であったことは間違いない。しかし、当時はまだ戦争といっても遠い支那大陸のどこかで行われていることであり、国内経済も世界恐慌の影響から脱してむしろ景気はよくなっていた。昭和十五年ごろに結婚した僕の両親は、宮城県石巻市でおくった新婚時代は牛肉のすき焼きが食卓に上っていたといっている。猪瀬は、まず戦前のイメージが軍国主義一辺倒の暗い時代ではなく、日米開戦前の緊迫した状況下においても客観的なデータに基づく議論が可能であったことを現代の学生に教えたのであった。
次に、解説が必要だと感じたのは、軍隊の階級のことである。自衛隊は軍隊ではないという政権の主張を裏付けるものとして、内部の命令系統の序列を表す呼称を旧日本軍の呼び方とは違うものにした。二曹、一尉、三佐、空将とか言うものがそれであるが、戦後長い間自衛隊内部のことは報道の自主規制があったものと見えて外部に伝えられることは少なかった。それで、二等兵、上等兵、軍曹とか大尉、少佐、中将などという呼称が外国の軍隊では戦前のままに使われているにもかかわらず、その序列がどうなっているのか若い学生には認識がないことを心配したのである。本を読んでいればこれくらいの知識は身につくと思うが、近頃ではそうも行かないらしい。そこで猪瀬は、「裸の大将」山下清を持ち出した。山下は、少し知恵遅れであったが放浪癖のある画家で、物事を軍隊の位で判断することが出来た。少佐は大尉よりも上で少将よりは下ということが分かっていて、何かと「軍隊の位で言えば・・・」といって比較した。猪瀬自身は、「軍旗将棋」で覚えたと書いている。僕らも遊んだことがあるが、兵隊の他にタンクや地雷などの武器もあって、敵陣に踏み込む場所二ヶ所で会いまみえて勝ち負けを決めて前進し、相手の軍旗を手に入れるという将棋に似たゲームであった。軍隊の階級、呼称を教えておかなければ話が理解出来ないとは、厄介な世の中になったものだ。
いよいよ本題にはいる。
猪瀬が三十年ほど前に、神田の古本屋で見つけた「燃料大観」という分厚い本を買ってきてめくっていたら、他とはちょっと違った調子の文章が目にとまった。高橋健夫「陸軍と燃料」。論文のようであり、回顧録あるいはエッセイのようでもある。
(ここで歯が痛くなったので続きはまた明日)

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