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2020年11月25日 (水)

中房温泉「山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」

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「常念岳」登山の記録でプロローグのようにして、直接関係ない二つのことに言及している。一つは、安曇野に関する映画のシナリオを準備したこと、もうひとつは燕岳登山口にあたる中房温泉に興味があったことである。
そのうち、中房温泉に関わるものを抜き出して多少手を加え。再掲する。

 

 
数年前、泉康子の「ドキュメント(宝島社)を読んだ。偶然本屋で見つけたのだが、ドキュメンタリーでありながら一編の推理小説を読むような面白さであった。

 


 昭和61年12月28日、信州安曇野から燕岳、大天井岳、喜作新道を経由、槍ケ岳を目ざして縦走(北アルプス表銀座縦走ルート)に出かけた「のらくろ岳友会」の三人のパーティが、1月4日の予備日を過ぎても予定していた上高地方面に下山してこなかった。彼らは昭和62年元旦のご来光を槍ケ岳の上で仰ごうという数年来の目的を果たそうとしていたのだが、登山開始の日から悪天候が続いていたため、あるいは遭難したのではないかと懸念された。
その予定は、 次のようなものであった。



Photo_20201125161101 12月28日、大糸線有明駅から宮城までタクシーで入り、中房温泉を経て日本三大急登の一つ合戦尾根に取り付き、尾根の中間地点にある合戦小屋(2,380m)前で幕営。
翌29日には合戦小屋から燕山荘(2,680m)に登り、縦走路を南に大天井岳(2,922m)を目ざし、頂上直下の大天荘で幕営。
30日は大天井岳を登り返し頂上から喜作新道を西にたどって「ヒュッテ西岳」(2,680m)前に幕営。
翌31日は西岳(2,758m)から東鎌尾根(槍ケ岳から伸びる)にとりつき槍ケ岳に登り、槍の冬期小屋で幕営。
明けて1日、槍から南へ(穂高連峰の主稜線上にある)大喰岳(3,101m)そして南岳(3,033m)と通り、そこから主稜線を離れて横尾尾根を梓川まで下り横尾で幕営。
翌2日、梓川沿いに上高地を経て沢渡へ下山する。

 






 3_20201126160701 こう書かれても北アルプスに不案内な人には何が何だか分からないかもしれない。北アルプスのこのあたりの山域を分かりやすく言うと、穂高岳(3,190m)から槍が岳(3,180m)につながる山脈は長野と岐阜をわける飛騨山脈の主脈であるが、上高地に流れ下る梓川を挟んで長野県側にもう一つの山脈が向かい合って走っている。それが常念山脈である。主峰は無論常念岳であるが、南から北へ蝶ケ岳(2,664m)、常念、横通岳(2,767m)、東大天井岳(2,814m)、大天井岳(最高峰)、燕岳、北燕岳(2,756)、東沢岳(2,497m)、餓鬼岳(2,647m)と稜線をたどる。この山脈と飛騨山脈の槍ケ岳をつないでいるのが、大天井岳から南西に延びている喜作新道である。喜作新道からは西岳(2,758m)に至り、槍から伸びている四つの尾根の一つ、東鎌尾根を通って槍ケ岳に登るのである。
彼らがたどろうとしているルートは、表銀座コースといって中房温泉ー燕山荘から槍ケ岳方面を目ざすもっともポピュラーな縦走路である。
三人の内二人は日産自動車、一人は本田技研の若い社員である。1月5日、ただちに「のらくろ岳友会」の仲間は捜索隊を組んで下山ルートの上高地に入ると、冬期間も開いている木村小屋に陣取った。小屋の主人は「今年の天候はくるくる変わった。三十日は晴れたがその夜から元旦まで大荒れの天気で、ベテランでも行動には迷ったかもしれない。」冬山の経験は十分あったと聞いて、「よし、まだ生きている可能性は十分ある」と捜索隊にむかって力強くいった。
木村小屋と共にその捜索の前線基地になったのが彼らの出発点である中房温泉だった。長野県警のヘリに加えて本田技研が自社の所有する双発のヘリコプターを飛ばして新雪が積もった縦走ルートをくまなく捜索する。
1月6日午前十時頃、河童橋の方から小柄な下山者が一人現れた。彼の証言によると、1月3日午前十時頃、自分が槍を目指して大喰岳(おおばみだけ)を下り始めたとき三人のパーティにあった。彼らは東鎌尾根から槍ヶ岳をやってきたと言って、大喰岳を登っていった。風雪がひどく三人の風貌については覚えていない、ということであった。このパーティが『のらくろ岳友会」の三人だったのか?

 

しかし、その後は何の手がかりも得られずに数日がむなしく過ぎ、彼らの遭難は明らかとなった。捜索隊のメンバーたちはまもなく現地の拠点を一旦解散するが、それから遺体回収に向けて執念の捜索が始まる。
中房温泉から槍ヶ岳を目指したパーティ、逆に上高地側から槍に登って中房温泉に下山する登山届けを提出したパーティを調べ上げ、全国に飛んで証言を集める。それによると、この山域は日本海から東進してきた低気圧が居座り、彼らが出発した日からすでに気温マイナス30度、強風が吹き荒れ視界がきかない中をラッセルしながら、やっとの思いで進む状態であった。
大天井岳から喜作新道に入るか否か躊躇しながら、大天荘で停滞していたパーティがいくつかあった。その先のルートは、岩に張り付いた雪が氷になっている険悪な岩峰が続くのだ。
天候の変わり目を読んで運よく槍に到達したパーティが四隊、中房へ引き返したのが七隊、常念にエスケープしたのが六パーティということがわかった。
彼らの情報を突き合わせると、のらくろの三人は喜作新道へは足を踏み入れていないと推量された。ということは、彼らは燕山荘から常念岳に至る稜線上のどこかで遭難し、遺体は雪に埋もれている。
三月になって、「のらくろ岳友会」の有志が再び中房温泉に集まり、捜索を開始した。山はまだ冬山の装いである。彼らが急いだのは雪が解けて、沢に流されると岩と水にもまれてまともな姿では出てこないことが分かっていたからだ。・・・・・・

 

燕山荘から大天井岳にいたる稜線のどこかで足を踏み外し、あるいは強風にあおられて滑落したか? しかし、三人が同時に落ちてそのまま遭難とは考えにくい。
なんとか大天井岳直下の小屋にたどり着いたとすれば、他のパーティと同じように天候の回復を諦めてエスケープすることにしたのではないか? すると、そこから常念岳へいたる東大天井岳から横通岳頂上を通る稜線が捜索対象となる。さらに、常念方面へ進んだとして、どこへ下山しようとしたのか?
横通岳を降りていくと常念に上り返す鞍部に大きな小屋がある。しかし、ここは冬期間閉鎖だ。ここから常念頂上までは約四百メートルを上り返すことになるが、この常念乗越には安曇野方面へ下山する一の沢ルートが交わっている。ところが、この鞍部は穂高-槍の飛騨山脈方面からくる風の通り道であり、下山ルート側へ大量の雪が吹きだまって雪崩の巣を形成する最悪の場所なのだ。
ここを避けるとすれば、常念頂上に登り、本沢を下るか、前常念岳を経由して二の沢を下るか、いずれにしても雪崩の危険は軽減する。
果たして遺体は出てくるのか?
中房温泉を基点にした捜索が続く・・・・・・。

 

 

泉康子の簡潔で乾いた文体が、冬山の緊迫した様子を描き出し、その構成は刑事顔負けともいえる情報収集と推理を重ねて間然するところがない。非常に面白いドキュメンタリーであった。後半の捜索拠点となった中房温泉へ行ってみたいと思ったのは、それがあったからである。

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2019年4月24日 (水)

取り残されたものたちへ③

Image_3_1 民青の呪縛 

安彦良和「革命とサブカル」をめぐって

 

前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。

その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。 この空虚の在りようについて、いかにもこの世代に共通の「時代に取り残された」精神構造が見えると思ったので、 最近若い世代が書いた「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)などを参照しながら三つ目の指摘というか提言(よけいなことかもしれないが)をしようと考えた。

 

 

Photo 彼は、ソ連崩壊を何年も前から予測していたが、その事態が90年代初頭に現実のものになると「・・・出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」と書いている。つまり、ソ連崩壊についてどう受け止めればいいのか分からなかったという空白の部分と学生時代に経験した「空っぽの寂寞感」という空虚である。ソ連崩壊についてはともかく、後者に対する思いは狂おしいまでに切実である。

『諸兄へ』の中で彼はこう書いている。「病死した同学年の活動家氏の遺稿集、追悼文集を出したときに、追悼だけでいいのかと言う座りの悪い思いをした。追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」彼は「あの時代」には(流されてしまいそうな、聞こえなくなりそうな)「巨きな意味」があったと思っている。

しかし、その「意味」とは何だと自問したとき、どうやらそこには「空っぽの寂寞感」という「巨きな空虚」だけが見つかったのである。彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?自分がしたことは何であったのか?あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

果たして、この聞き書きの旅で、その「巨きな意味」は見つかったのか?インタビュアーである安彦には、それが何か分かるかも知れないという漠とした目的はあったであろう。

彼の建てた前提は、こうである。ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。その出来事を「現在」から見ると、それは「何らかの因果関係」を持ちながら「いま」につながっているはずである。なぜならそれが「歴史」というものであり、人生はその中に位置づけられるのだから。つまり、「あの時代にあった(はずの)巨きな意味」を了解できれば、「いま」がどういう時代か、自分がどこにいるか、何よりも自分の人生とはなんだったのか分かるかも知れない、と言う思いである。

この聞き書きの旅で、何が分かったかは、安彦にあらためて聞くしかないだろう。編集者にその気があれば、ロングインタビューもいいかもしれない。

僕としては、個別の聞き書きについてそれぞれに多様な人生模様が垣間見えるといった感想はあるが、この稿は、それに言及することが目的ではない。(一言だけいうなら、インタビュー記事としては蟻塚亮二のが、最も面白く出来ていた。)あえていうなら、安彦の思いと聞き書きの相手との間にある微妙なズレがいったいどこからやってくるのか、そのことを明示しようと思っている。

とりあえず、全体的な印象を言えば、聞き書の相手は、安彦の意図に気づいてない訳でないことはわかっている。ただ、いかんせん四十年という年月は、それぞれの人生をまったく違うところに運んでしまっていた。

工藤敏幸は、「過去は置いてきた」といい、西田洋文は「あれは個人的なことだった」ととまどいながら応えている。安彦は「出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。」といったが、四十年という歳月は、その「一定の時間」には、おそらくそれぞれの人生にとって十分すぎるほど長かったのである。

つまり、当時は見えていなかったものが、今ではすでに了解可能なものになっているのだが、しかし、安彦は「この『巨きな時代』は、当時あった戦争や『革命』、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだった」といって、そこに格別に「巨きな意味」を求めるのである。

 

 

「当時あった戦争」とはベトナム戦争のことであろう。この戦争には世界中で反対運動が起こり、我が国でも政党から市民運動まで長い間米国の軍事介入に抗議が続いた。むろん、こうしたアピールが米国に届き、政策決定に影響を及ぼすことを期待してのことであったが、この世界中で費やされたのべ何百万いや何千万人ものエネルギーは、驚くほどのこともないが、全くの無意味、無駄であった。

この広汎な長期にわたる抗議の声を米国政府が一顧だにしなかったことは明らかである。1971年に国防長官マクナマラが辞表を出したとき、米国はすでに二万七千の戦死者を出していた。統計学の専門家として第二次大戦を戦った冷徹な政治家は、南ヴェトナムがこの戦争に勝利することはないという確信を抱いたのである。米国は直ちに収束に向けて手を打つべきだったが、テキサスのカウボーイ、ジョンソンは意地になって北爆を開始、勝つことのない戦争の負ける方法を探るために、さらに三万の戦死者と五年の歳月を費やしてしまったのである。

これらの事実は2004年のドキュメンタリー、最近の映画「ペンタゴン文書」で描かれたものによったが、まことに出来事というものは、一定の時を経ないとその意味は見えないものである。当時「ベ平連」に参加したものは、安彦のように、「それでもあれには巨きな意味があったはずだ」と思えるのだろうか。そのヴェトナムはいま西側からの投資を受け、経済成長率で中国を抜く発展を遂げている。

 

 

僕が海外に行き始めた八十年代半ばにはまだ、成田空港三キロメートル手前に検問所があった。バスや自家用車を止めて荷物検査をするためである。それほど、当時この空港は攻撃される危険があったということだ。羽田に変わる国際空港を首都圏につくるにあたって、数軒の農家が土地を譲らずこの地権者に革新政党や労働組合、新左翼学生が加わって激しい建設反対運動がおきた。いわゆる三里塚闘争である。

これも多数の死者を出しながら長く続いた闘争であったが、部分開港からしだいに沈静化して、いまでは国際空港の地位をかつて奪った羽田と争うに至り、そうした過去の影すら見えるところはない。

政治の傲慢さは問題だったが、公共のためにわずかに「譲る」という気持ちがあれば、あれだけの「無駄な」エネルギーを消費することはなかったのではないかと、いまにして思えるのだが、「三里塚」に参加したという日角健一は、いまでも成田空港を目の前にして、その存在を爆破したいほど苦々しく思うのであろうか。

 

 

六十年安保闘争を率いたブント全学連は昭和十年代の生まれの、東大、東北大、京大、など旧帝国大学系の学生が多くを占めていた。首相、岸信介が自衛隊出動まで考えるほど連日の激しい示威行動だったが、強行採決、自然成立の後はまるで潮が引いたように静かになった。この選良たちは「アカシアの雨に打たれて死んでしまいたい」とばかりにどこかへ雲散霧消してしまったのである。後にその中心にいた西部邁は「当時、安保条約の条項なぞ読んだこともなかった」といっている。

大学改革の運動は、僕の知る限り、六十年代半ば、欧州のある古い大学で一人の女子学生が取得単位のことで教授に抗議したことを嚆矢とする。それをきっかけに学生の抵抗はまず欧州全体に、そして米国、日本へと広がったのである。この背景には、第二次大戦後の平和への期待によって世界中で起きたベビーブームがあった。「一族で初めての大学生」(鹿島茂の言)が多数生まれ、高等教育の大衆化がはじまると当然のように旧態依然たる大学の権威主義や形式主義は批難の的になった。私立大学の授業料値上げ反対や大学経営者の不正糾弾、東大医学部医局問題など学内の改革に向けた学生の運動はそれなりの成果を見せたが、後半、新左翼各派の草刈り場になって突出した一部は暴力革命をめざすものへと過激化した。まもなく政治的イシュウがなくなり、空前の経済成長ということもあって学生運動は沈静化していく。

連合赤軍」については聞き書きの中で関係者が詳細に語っているからここでいうことはない。あえていうなら、情勢分析も目的も戦略もない児戯に等しい「革命ごっこ」の代償がいかに高くついたか、ため息が出るばかりである。当時、警視庁広報課長だった國松孝次はあさま山荘事件をふり返って「警察官は撃たれても犯人の学生は無傷で逮捕という方針」だったことを若干の悔しさをにじませて語った。世界とは異なるいかにも日本的な対応であったが、つまり彼らは自らが望んだ「革命家」とはほど遠い『子供』とみられていたのである。

 

 

「全世界的な若者運動」の一つに米国の公民権運動があった。人種差別に反対する黒人たちを全米の、最終的には世界中の学生や著名人が参集して支援した運動である。それを率いたキング牧師は暗殺されるが、長い戦いをへて公民権を認める法律が成立する。ただし、この問題が法と理性で解決できるものでなかったことはその後を見れば明らかである。

 

英国の劇作家、サー・デヴィット・ヘアは僕らと同じ年齢である。戯曲「Breath of life 女の肖像」(新国立劇場、劇評)に登場した女性は、若い頃英国人の留学生としてこの運動に参加し、カリフォルニア大学バークレー校では、おそらくコミュニズムの影響下で世界の変革を夢み、フラワーチルドレンやヒッピーとも接触している。

劇評の終わりに僕は、次のように書いた。「・・・・・・僕は、翻訳を試みながらこの戯曲に通奏低音のようにして聞こえてくるある音が、それは時々ボケタ古い映像をともなっているのだが、気になっていた。

燃えているスクールバス・・・・・・警官の振り回す棍棒に逃げ惑う群衆・・・・・・その向こうから次第に大きく聞こえてくる演説の声・・・ I have a dream that one day this nation will rise up and・・・・・・学生が叫んでいる・・・ハンドマイクの声・・・・・・B52爆撃機の姿・・・ナパーム弾が炸裂するジャングル・・・・・・戦争反対!闘争勝利!というシュプレヒコール・・・・・・火炎瓶と放水車の衝突・・・・・・

100%永遠でなければ価値がない。

100%手に入れられずば、それはいらない・・・・・・

100%勝利するまでは、絶対にやめない・・・・・・

100%骨の髄まで革命戦士ならずば、与えられるのは死、死、死。遺体の山。

 

マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」と言った。我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。5年の抗議、黙従の30年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。

あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。

サー・デヴィット・ヘアが生まれたのは、ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)生誕の100年後である。不肖、僕も同じ世代だ。これは、Life being what it is, one dreams of revenge.      Gauguin

人は、生きながらえてなお復讐を夢見るものだ。 ゴーギャン  〔中村訳〕という、この戯曲につけられたエピグラフに由来する。)

我々は、昨日は20世紀にいたが、今日は21世紀にいる。だが、われわれが互いに22世紀を見ないことは確かである。我々は無理にでも長らえて復讐を夢みるが、せいぜい夢みるだけのことだ。しかし、その夢もどこかへ飛んでいってしまう。例の「ハト、ハト飛んだ」の遊戯のように・・・・・・」(ゴーギャン” Avent et Après”より ただし、ゴーギャンのフレーズを百年ずらした。 )

この劇は、デヴィット・ヘアの『Breath of life 生命の息吹』には違いないが、そのうらに、彼と僕らの長く深い『ため息』が隠されていたのである。」

 

「5年の抗議、黙従の30年」とは、いいかえれば「変革を夢見て行動した日々とそれを封じて生きた長い年月」をいうのであろう。しかし、われわれは、世間的には「豊かな時代を連れてきた世代」と見られている。後世の歴史家は、そのようにとらえるに違いない、事実、当時の先進諸国のなかでも特に我が国経済は、この世代の壮年期の中核期間を含んで、90年代初頭のバブル崩壊まで空前の好景気を続けるのである。安彦がいう「追悼では、あの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」という言葉は、おそらくこのことを指している。

つまり、「われわれが目指したものは『変革』であり、『豊かさ』ではない。変革を夢見て行動した日々にこそ真実があり、いまここにあるのは偽りの豊かさなのだ。『世界の変革』こそ、いまもなお生き続けているはずの『巨きな意味』の源泉であり、「黙従の30年」とは「偽りの」豊かさに耐えてきた年月ではなかったのか。」という問いである。

「病死した活動家氏」の追悼だけでおわるのでは、「わたしたちの世代の死亡通知」を天下に告知するようなものではないか?そう思って、彼は『諸兄へ』で、『世界の変革』に意味はあったのだと言う発語を同世代のものたちに促したのである。「『革命』とサブカル」というタイトルを今頃になっても、つまりあえて『革命』を持ち出し、なお平然と冠した理由であろう。

 

 

思春期というものは、社会性に目覚める時期である。これから船出する社会というものはどんなものか。いま目の前にある出来事をどう考えればいいのか。社会のとらえ方、様々な思想や幅広い情報の中で何と出会い、何を選び取るかは一生を決めかねない重大事である。全共闘運動に関わった学生の考え方は様々だが、一つの共通項があった。それは、「反日共」である。日本共産党は相容れない仇敵である。

ところが、日共によってはじめて、われわれの生きる社会が矛盾に満ちていることを気づかされ、共感を持ったものは意外に多い。民主青年同盟は、世界中の共産党が抱えている党員への登竜門で、ここが十代の対象をオルグ(組織化=活動に引き込む)するのだが、当時共産主義への入り口は、ほぼここ一つであった。民青のメンバーは日本共産党の指導の下、その綱領と政策を学習し忠実に従わねばならない。「革命とサブカル」の聞き書きには、安彦をはじめ青砥、植垣など民青をやめたものが多数登場する。つまり、この社会の矛盾を解決するためには変革=革命が必要だとする思想に出会い、それに魅了され、それが唯一の真理と思った。しかし、その後日本共産党の方針に反対あるいは違和感を覚え、別のやり方でそれをめざすために離反したのである。

安彦の「置いてきた寂寥感」の正体は、自らの思想の原点にあるこの「革命」である。世界は変革されねばならない。資本と労働の階級対立を解消し、平等で自由な社会を実現するためであり、それが歴史的必然であるのは、史的唯物論が「科学」だからである。(聞き書きの中に、マルクス思想が科学だという安彦の発言が散見される。)

この思春期に自分の心に根付いた確信は、「社会主義側の完全敗北による冷戦終結」にもかかわらず、「しかし、マルクスは正しい」といういわばマルクス原理主義となって、いまなお有効だと思われているのである。以下に引用する「聞き書き」のある部分に「ソ連邦」の敗北はその発端であるボルシュイズムにあったという発言などをみれば、革命はいまでも再度やり直されるべき社会科学的命題だといわんばかりなのはそれを思わせる。そうではないかも知れないという疑念がどこかにありながらそれを捨てきれない。それ以外の思考方法を知らないからだ。

 

人が何をどう考えようと自由だが、マルクスが生きた十九世紀半ばに解決されねばならなかった問題のほとんどは、いまではほぼ克服されている。(あとでとりあげる「サピエンス全史」でも述べられているが、飢えや戦争よりもいまや甘い「砂糖」(糖尿病)が死因の一位である。)むしろ、いま人類は、これから迎える成長なき時代(利潤を生み出すフロンティア喪失の時代)を生きる、これまで経験したことのない新たな生き方を模索する必要に迫られている。「マルクスは正しい」という原理主義、すなわち「宗教」を捨てるのは容易には出来るものではない。が、しかし、それに身を預けていてもむなしいだけではないか。

 

 

革命が、宗教か否かで議論する場面が「聞き書き」の中に現れる。普通、立ち会いの編集者は、出席者の議論を方向付けるとか発言を促すとか黒子の役に徹して自身の意見を表明するなどないものだが、この文は、「編集部」が出席者に議論を挑むというこの種の対談にはあまりみられないかたちで進行する。ここで「編集部」といっているのは杉山尚次のことだと思われるが、杉山は明らかに出席者たちとは対立している。しかも、話の流れを自分に引き寄せていて、それが意図的だったかどうかはわからないが文脈が乱れて少し異様に映る。編集者としてはちょっとした瑕疵になったが、「マルクス信仰」を引き出したのは怪我の功名であった。

 

「革命とサブカル」P89より

安彦 この間のインタビューの印象的な最後の言葉が、「共産党が悪いんですよ」。いいフレーズで終わったなと思って、それで締めにしているんだけど、考えてみれば、ずいぶん投げやりなフレーズなんだよね。

青砥 つまり自分たちは失敗した。その失敗の元凶は何処にあるかというと、自分たちの資質の問題もあるけれど、唯一の左翼としての共産党がしっかりしてくれなかったから、俺らがこんなことをしなきゃ行けなかったんじゃないか、そう言う気持ちは、ちょっとあるよ。

安彦 どこから期待外れになったのかな?

青砥 根を深く掘れば、やっぱりロシア革命からはじまったと言うことが、そもそもダメなんだろうね。ロシア革命自体は必然的で、時代の希望ではあったけどな。

安彦 そこは一致するね。だから俺はボルシュビキ(ロシア革命時、レーニンが率いていた革命党、共産党)はだめ。レーニンから駄目になったと思う。

青砥 ボルシュビズムが駄目なんだって、僕は思います。ボルシュビズムのどこが駄目なのか、いろいろ考えるけど、この前中澤はいいことを言った。デモクラシーは人類の財産だ、と。それはそう思う。いろんなフェーズがあるけどな。

安彦 そもそもトロツキーはボルシュビキじゃないでしょ。もともとは。それでよかった。

―(編集部)前衛が領導していく先は、理想の共産社会を実現するんだってビジョンがあるわけですね。その段取りは、政治権力を握って、独裁的になるけれどもプロレタリアートの権力をつくって、そこで社会関係を全部改革する仕組みを作り、しかる後国家を死滅させる、共産社会に移行するというようなシェーマがあるわけです。その過程で、「分かっている人」が「分かっていないやつ」を教えていくってことになりますよね。その構造って、ほとんど宗教にならないですか?

中澤 それは宗教という社会的な一部の構造と、社会全体を構成する生産諸関係等の中で起こってくる社会革命との違いがまずあるね。革命は国民国家的にも世界的にもすべての階級階層を巻き込むから、そのプロセスは数百万数千万の政治的力で、実例の力で説得し、教えていくことになる。宗教ではない。

―でも「信じる力」といいかえたって、あまり変わらない。

青砥 そこは悩ましいところ何だよ。宗教と違うのは、革命は社会関係を変えれば人間は成長して、それに応じた新しい人間関係をつくるのが基本だよね。宗教はそうじゃない。宗教は、要するに教えがあって、魂の救済があれば、それでみんな幸せになるという考えでしょ。社会関係なんて関係ないんです。

―ただ、目覚めていない人間をして、組織化していくわけじゃないですか、宗教は。

中澤 組織化していくのは、それはそうです。社会主義はこの概念に含まれている解放のエネルギー、人間解放の問題を軸に組織化してゆく。

オルグする側、される側、いずれも人間の交通形態としてある。オルグする側はもちろん主体的な意識的な活動であり、人間性をかけたたたかいでもある。オルグされる側もそこで人間としての立脚点を要求される。この人間の問題こそが、社会―資本主義経済諸関係の中で非人間化され。阻碍されていたことからの自己回復の戦いとなっていく出発点になる。だから宗教ではない。

―その構造は同じじゃないですか?

青砥 社会主義の運動の中で目覚めてないのをオルグするというのは必要だけど、もっと大事なのは、社会環境を変えていくということだ。

中澤 社会環境を変えるというのは、目覚めていない人たちに何をもたらすかってこと。金であったり物質的なものを含めて、すべてをもたらす。そういう意味で、実例の力。

青砥 権力奪取の過程ではいろいろあるんですよ。で、社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。でも誰一人として、それの解答を出せてない。だから社会環境を変える運動と、社会環境を変えたら実際にその人間が成長していくのかと言うことのについては、何も関係ないといった方がいいと思う。

安彦 社会主義について、あるいは共産主義について、マルクスは非常に理想主義的に提示していた。

青砥 もともとコミュニズムというのは、あるいはコミューン主義というのはプルードン主義(フランスに思想家プルードンのアナーキズム的な思想)でも考えていた。でもプルードン主義が失敗したから、共産党、前衛党をつくってやんなきゃ行けない、そのために経済分析もしなきゃ行けないって言う、そう言う考えでしょ、基本的には。

中澤 プルードン主義に対する反発。

青砥 だからプルードン主義で世の中が変われば、こんないいことはない。でもそれは無理だと。

安彦 マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。そこに前衛党なんて概念はない。それをレーニンが持ち込んだわけだから。そこから「外部注入」とか戦略論とか、人為的な要素が入ってくる。そうするとそれはもう科学じゃないわけだ。「思想」がどんどん方法論化していく。

 

 

三人三様、編集部の杉山を入れれば四人と言うことになるが、いまや「革命」ということに対してそれぞれ微妙な距離をとって向き合っていることが分かる。

杉山の言い分は、前衛が領導するという共産党のあり方は、宗教の勧誘活動とおなじで、マルクス信仰の内部へ囲い込もうとするだけのものではないかと言うことだが、それに対して中澤は革命原理が正しいことを実証することによって社会全体を説得できるという。

青砥は、社会環境を変えれば、人間も成長し変わると考えるのは楽観的で、むしろ人間の内面に注目すべきだと今は考えているといって、マルクスとは距離を取っているように見える。

これに対して安彦だが、マルクスの思想は科学であり、実践論で間違いを犯したというある種典型的なマルクス原理主義を表明しているところは注目に値する。つまり、「革命」という実践には留保を与え、原理は有効としているのである。

いずれにしても杉山は宗教だといい、一方は原理の正しさを「科学」だからとしている。しかし、マルクスの唱えた原理ははたして「科学」といえるのだろうか。

 

ユヴァル・ノア・ハラリは1978年生まれの若い学者である。

彼のユニークな視点は、われわれ人間を動物の進化の過程で現れたいわば霊長類のひとつの亜種「サピエンス」であり、並行的に存在したネアンデルタール人が三万年前に絶滅したあと地球をおよそ七万年にわたって支配している存在、と捉えているところである。

つまり、他の動物に比べて異様に発達した脳が特徴的で、集団を形成して生活する動物がわれわれサピエンスなのだ。

彼のベストセラー「サピエンス全史」に以下のような記述が見つかる。

 

「人間の崇拝

過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことをいっているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代と言うことになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

 

イスラム教はもちろん共産主義とは違う。イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は、神の存在を信じていなかったからだ。だが、仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。仏教徒はその自然の法則がゴータマ・シッダールタによって発見されたと信じているのに対して、共産主義者はその法則がカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・イリイチ・レーニンによって発見されたと信じていた。両者の類似性はこれにとどまらない。共産主義にも他の宗教と同じで、プロレタリアートの必然的勝利でまもなく階級闘争の歴史は幕を閉じると預言するマルクスの『資本論』のような、聖典や預言の書がある。共産主義にも、五月一日や十月革命の記念日のような祝祭日があった。マルクス理論に精通した神学者がいたし、ソ連軍のどの部隊にも、コミッサールと呼ばれる従軍牧師がいて、将兵の敬虔さに目を光らせていた。共産主義にも殉教者や聖戦、トロッキズムのような異端説もあった。ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒に離れず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた。」(「サピエンス全史」下、P32)

 

 

これでは、一見ソ連の共産主義は外形的に宗教と同じと皮肉られているように見えるが、批判の核心は「共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。」という部分である。

「信じている」ことを外から「それは、真実でない」と否定するのは簡単だが、それは本人にとっては、ただ単に悪魔が耳元で囁いている声にすぎない。信仰を捨てる道は、信じてきた論理体系=人間的秩序が何らかの欠陥をもっている、あるいはすでに無効であるなどという内なる声に導かれて得心する他にない。マルクス主義は「科学」である(から真実)、と信じている以上、それが「科学」でないことを自ら証明することはむずかしい。

 

しかし、今日「科学」といえるものは、「相対性原理」や「量子力学」のような言語も地域も宗教も思想も超えた万人が肯定せざるを得ない数式で表される原理以外にない。たとえマルクスが、人間の歴史を階級闘争と見なし、資本と労働の階級対立はやがて革命的に解消され、共産社会が実現するといったとしても、それを数式で表すことは出来ない。いや、卓越したマルクス主義数学者がその「科学」を数式に表現できたとしても、それはあまりに変数が多いゆえに数学的に意味をなさないものになるはずだ。なぜなら、歴史というものは、われわれの人生がそうであるように偶然に満ちているものであり、未来もまた偶然によってできあがっていないとは言えないからである。

 

 

安彦は、「聞き書き」の中で「マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。」と発言しているが、これは、信仰からまだ抜けきらないでいることを表している。

それに対して青砥は、やはり「聞き書き」の中で次のようにのべており、マルクス信仰から抜け出したことを示唆している。

「社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。」

安彦が、青砥の翻意の過程に興味を示さなかったのは、信仰から抜け出せないでいるのだから仕方ないが、杉山尚次がこれを見逃したのは編集者として痛恨の失態ではなかったか?

杉山は、自ら「マルクス主義=宗教論」を仕掛けておいて、その結論を導く場所について無自覚であった。

つまり、「それは宗教ではないか?」という問いは「あなた方はマルクス信仰に冒されている。従って、普通の市民として生きていくには、そこから脱する必要がある。どのようなプロセスで信仰から抜け出すことができるか、それが問題だ。」という考えを内在させている。

その応えの有力な方法の一つは、「某はこのようにして、信仰を捨てたという事例」を示すことであろう。

杉山は、青砥がどのように「足をすくわれ」て、「いまはそうじゃない」と考えるにいたったのかを追求し語らせることによって、自らが仕掛けた問いに対する答えの場所を示すことが出来たはずであった。

もっとも、安彦がこのことにまるで気づいていないのでは、踏み込みが足りなかった杉山を責める訳にもいかない。

 

 

僕は、先のブログで「学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。」と書いた。そのことについて、ほんの少しばかり述べて終わりにしようと思う。

僕が高校生の頃、六歳上の姉は、まもなく初の最年少、女性市会議員になりそれからおよそ三十年続けた日本共産党員であった。そのため社会問題研究会(実は民青)から入会は当然と言わんばかりの執拗な勧誘を受けた。

その頃、社会主義に関心がなかったわけではないが、むしろ僕には「自分とは何か」と言うことが問題で、自分のまつろわない性格もあって、彼らと接触することはなかった。最も親和性を感じたのは、大江健三郎を通じて出会ったフランスの実存主義で、高校の三年のうちに、ジャン・ポール・サルトルは主観主義的にすぎると結論づけて、大学の哲学科でモーリス・メルロー・ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。

学生運動に関わったのは、権威に対する異議申し立てであって、革命を目指したわけではなかったが、唯物史観は否定出来ないものと感じていた。

マルクス主義がおかしいと実感しはじめたのは、僕がマーケティングの仕事をしていたときのことだった。需要を創造し続ける技術によって資本の矛盾は解決されるのであった。マルクスの射程は現代にまで及んでいなかったというこのあたりの考えは、別にまとめた(「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」)ので、ここでは言及しない。

 

 

学生の頃、たまに青砥が僕のアパートにやってくることがあった。彼は本棚に背中を預けてこたつに入った。何を話したかまるで覚えていないが、はっきりと言えることがある。あの本棚には、人文書院のサルトル全集の何冊かとジョルジュ・ルカーチ「歴史と階級意識」が入っていた。

杉山尚次は、全国に数え切れないほどいるはずの「安彦良和」たちのために青砥幹夫のロングインタビューをするべきだろう。青砥の苦悩の軌跡を世に問う責任が杉山にあるといっておく。

もっともそれを青砥が受けてくれるという見込みはないが・・・・・・。

 

 

 

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2019年4月23日 (火)

再掲「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」要約

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要約「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」

地方再生のマーケティング戦略― 中 村  隆 一 郎

 

前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。

2010年にデジタル出版した「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」のなかに、今とはどういう時代かという僕自身の時代認識を書いたことがあった。いま「取り残されたものたちへ③」を準備しているが、それに関連する原稿として、ここに再掲しておくことにした。同書は新書版としてデジタル出版したもので数十部売れたが、そのままになっている。

本の紹介のために用意した要約があるのでそれを掲載しておこうと思う。

 

目次

はじめに

地場産業の再構築に挑む                      

水を売る話                            

「まちづくり」会社で商品開発はできない              

マーケティング発想ということ                   

1.「まちづくり」が「まち」に閉塞感をもたらすー戦略なき政策       

2.加工食品のアイディア開発と事業構想                 

3.現状はどうなっているのか地方都市の様相              

4.どういう「まち」になるのか再生の戦略目標             

5.活用できる資産は何かー資産の棚卸し                 

6.市場をどこに求めるかー環日本海構想について             

7.なにを売るかー商品開発と事業開発                  

 「寿司桶」の輸出フィージビリティスタディということ     

 「ミネラルウォーター」の輸出地方から世界へ           

 世界の水事情                          

 ねらわれる日本の水源林                     

 世界のボトルウォーター市場                   

 「水」の輸出構想                        

8.「いま」とはどういう時代かーわれわれはどこへ行こうとしているか?  

 マーケティングの主題と言うこと                 

 わたしはどう考えてきたか                    

 NAMのことー国家とはどういうものか              

 資本主義のいま                        

9.地方再生の戦略なにからはじめるか                

 

 

 

要約

「二一世紀の水は二〇世紀の石油同様の価値があり,国の富を左右する貴重な商品だ」といわれている。大陸の中心地域では都市化の急激な進行や、農業用水、工業用水の需要が爆発的に増えたことにより帯水層の枯渇がほぼ確実になっている。しかし、資源としての水を輸出できる国は、世界中を見渡してもそれほど多くはない。我が国が世界有数の水資源大国であるにもかかわらず、現在その商品性に気づいているものはきわめて少ない。

 

本書は、地方再生のマーケティング発想とはどうあるべきか、その方法論について述べたものであるが、そのなかで、疲弊した地方経済の再生のために、この水資源を活用する具体的な方法を提案している。

 

一般に、人口二、三十万人以上の全国に四〇ほどある「中核都市」とされる地方都市は、なんとか自律的経済を営むことができているが、問題は、人口五万人前後の地方の小都市である。日本の人口の六割はそうした地方に住んでいるのだが、地場産業の縮小または消失などで経済活動の中核部分が弱っている。何をどうそのためにしたらいいのか。それがわからない。途方に暮れて方向を見失っているというのが、いまの地方都市の姿である。

 

本書は、そのような状況を抜け出して、どこにも頼る必要のない自律した「まち」になるための方法を,一つの事例を通して示そうと言う試みである。

自律とは、あらためて地場産業を再興あるいはあらたに起業して、経済的基盤を安定、発展させようという戦略のことである。その前提となる自治体自身の再構築も視野に入れている。

ただし、事例と言ってもそれは実際に実行されたものではない。

ある地方都市のデータを集めてその状況を把握した上で、「それならこういう考え方もある」という仮の企画を立てたものである。

それは、企業が事業開発を行うときの「マーケティング手法」を、この地方の再生に当てはめてみるという思考実験なのだが、仮説とはいえ、具体的で実行可能な企画,構想になっている。官民一体となって再び地場産業を根付かせるという目標を共有し、その実現を具体的に提言するものである。

ここには、そのために何をどう考えたらいいか、いくつかの実例を示した。

しかも、この考え方は「地方」を限定しない。日本の同じような境遇にある地方都市に当てはめて考えることができる、一つのモデル方程式になっている。変数に「地方特有の」の条件を代入すれば自ずと解答は出てくる。

問題のとらえ方、課題の抽出、その解決に動員できる資産の棚卸し、時代認識および対応するニーズの発見、事業モデルの構築、資金の調達、組織作りと運営など、冷静にじっくり考え抜けば,おのずから道は開ける。そうした考え方の手法を読み取っていただきたいと思っている。

実は、まだ問題はその先にある。

事業戦略ができて、それを実行しようと思った時に,地方には決定的に不足しているものがある。たとえば、販売チャネルについての知見や経験、外国に販売する時のチャネルおよびノウハウ、製造技術や機械に関する知見、リサーチの方法等々である。

しかも、その費用を捻出するのはむずかしい。

しかし、ここであきらめるのは早い。

すでに定年退職した団塊の世代の出番である。団塊の世代は,その知識と経験を豊富に持っている。高度成長からバブル期を牽引し、長期低迷期を耐えた。これは我が国の、というより我が地方の資産である。なぜなら彼らのルーツは故郷にあるからだ。しかし、このまま何もしないなら資産は生かされず、年をとって朽ちていくだけだ。

団塊の世代よ。故郷に帰れ!

いま、故郷は傷んでいる。

 

 

再生の考え方を要約すれば、まず自分たちの「まち」におけるもっとも優先順位の高い課題から手をつけなければならない。それは雇用機会を増やすことにほかならないが、それには自分たちで事業を興すことしかない。どんな事業にするかは、自分たちの持っている資産の棚卸しから始める。現在持っている資源がなにかを明確にし、それがどんな事業に結びつくのかを注意深く検討する。そしてその規模を見積もり、必要なものが何かを明確にする。その際、自分たちの自立が目的だから、自立できる規模や自立するための目標を掲げることが肝要である。

 

この事例で検討された地方都市の棚卸しであがったものは、まず、農産物や収穫される魚介類,特産品である。これを一定程度の事業まで育成するにはどうしたらいいか。その方法を考える。また、この地方は藩政時代から木材の集散地として栄えた歴史を持っており、木材とその加工技術が蓄積されている。これを再興する方法を考える。さらに、世界自然遺産の観光資源とその地下に眠る大量のミネラルウォーターである。また、四万トン級の船が停泊できる港と山間部にある空港が十分活用されていない資産として存在する。

これらをもとにどのような事業が考えられるか?

ここで重要なのはマーケティング発想ということである。自分たちの持っている事業のシーズと世界を見渡した時に見えてくるニーズをいかに合致させるかは、あくまでも川下発想でなければならない。ここでは一つの事例として、世界的な寿司ブームを前提に「寿司桶」の輸出を検討している。また、今世紀は「水」戦争の世紀になりそうだという世界的な見通しに基づいて、豊富に存在する水をボトルウォーターとして輸出する事業を提案している。水は船で港から運ぶのがもっとも効率的である。こうした地理的条件を満たす地方都市は水資源国日本には少なくない。ザッとあげるだけでも、鳥海山麓、立山連峰伏流水の富山県、白山水系、大山水系、鹿児島、屋久島、高知、紀伊半島南部、静岡などである。

れらの事業について、その市場の背景を詳細に検討、どのような事業体にして、またどのようなマーケティング戦略に基づいて実行していくのかを具体的に提案している。

 

その戦略を考える際、どの地方都市にとっても「マーケティング発想」が重要だとすでに述べたが、その原点にあるのは「今とはどういう時代か」という認識である。これは二つの意味で重要である。ひとつは、自分たちの事業が世界的な資本主義の方向性に合致しているかを確認することで効率的な事業運営ができることにある。もうひとつは、特に団塊の世代に対してであるが、ともすればマルクス的な国家と資本主義に対する「幻想」を捨てきれずに社会に対して斜に構えるところがあることをこの認識によって否定したいと考えるところにある。すなわち、「需要」というファクターを自らの手で生み出すことができる資本主義というモデルをマルクスは知らずに死んだ,すなわち、資本主義は自らの矛盾(マルクスが指摘したような)を克服できなければそれ自身が滅びることを知っており、当面の間その矛盾克服の方向性で進む以外に生き延びる道がないことを認識している。資本主義が生み出す矛盾を自ら解決しようとする時代、それが「いまという時代」だという認識があれば、資本主義的社会に積極的に関わる思想的足場ができるということである。

このような考え方で、団塊の世代には積極的に地方再生に関わって貰おうという狙いがあり、地方発の事業こそ結果として国全体の経済を押し上げる礎になる。

こうして、地方再生の事業を考える大きなフィールドができあがる。

あとは、本書の事例を参考にして自分たちの地方再生のために、独自の変数を代入するだけとなる。何から始めるかは、自分たちが検討して決める。支援が必要な時は、団塊の世代に相談する。そのための組織は用意するつもりである。

 

もはや迷走する政治も、がん細胞のように増殖したパラサイト公務員集団も一切頼ることはできない。地方が自立できなければ、日本はこのまま朽ちていくだけだ。いまこそ地方再生を、住民自らの手で行う時がきた。グローバリゼーションに対抗する住民資本主義の樹立が結局は世界を救うことになる。

中村 隆一郎 

 

 

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2019年1月29日 (火)

// 取り残されたものたちへ ②

20190125_132924 安彦良和「革命とサブカル」の空虚

前回は、加藤典洋は「戦後」にとらわれるあまり、絶対平和などというフィクションの世界へ迷い込んで、時代からおおいに取り残されたことをいった。それはこの世代が自分の過去に縛られ、現実の変化と向き合うことをしなかった結果の、いまとなってはなんとも無残な姿であった。

今度取り上げるのは「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)である。

ただし、今回はごく一部に言及するだけで、全体の批評は差し控えている。

実はこの本の成立過程を少しばかり知っているので、こういうものを書くのにはいささか複雑なものがあるのだが、ある必要があってあえて書くことにした。

この本の「はじめに」の中にこういう記述がある。

「数年前、病死した同学年の活動家氏を追悼して、有志が文集を出すと言うことになった。

その時、「追悼」というかたちに僕は違和感を持った。「追悼」、というだけで良いのかという、座りの悪い思いだった。

追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。人生を終えていく者に、よけいなざわめきはいらないという気持ちが、当然送る側の身には宿るからだ。しかし、それではあの時代の意味は聞こえない。

『諸兄へ』という所収の文章を僕が書いたのはそういう事情からだった。」

つまり、 この『諸兄へ』という文章は、追悼というだけでは満足できなかったので、あらためて、自分たちの思いを綴った「回想」を本としてだそうと、追悼文集に参加した者を含む学生時代の友人たちに呼びかけたものである。

実は、僕はくだんの「追悼の文集」を出そうと誘った有志の中の一人だった。

従って、「回想」を書こうと呼びかけられた一人ということになる。ただ、学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。だから最初からギブアップし、「追悼の文集」でもそうしたように編集ソフトで制作だけ手伝う事にしたのである。

(この後、この本の成立に関係することなので2011年にデジタル出版された「追悼の文集」について説明しておきたかったのだが、関係者の了解を得ていないので、割愛することにする。)

ことわっておかねばならないが、この文は『諸兄へ』という呼び掛けの内容を検討するだけのもので、他のことは一切関係が無い。

まず、『諸兄へ』の全文を紹介しておこう。

諸兄ヘ

安彦良和

今年、二〇一四年の夏も過ぎた。

夏は戦争の語られる季節である。今年の短い夏も例外ではなかった。年老いた戦中派たちは、まるで往く夏を惜しむように彼等の戦争体験を語り、彼等の生きた時代を語り、語り部としての一夏を終ろうとしている。

もちろん、戦中派は夏にのみ昔日を語っているわけではない。それがあたかも夏の風物詩であるかのようなのはメディアがそう仕立てあげるからだ。が、そうであるにせよ、彼等世代の声を聴く季節はやはり夏がふさわしい。例えば、この文を書いている今日、九月十五日の新聞は李香蘭の死を告げている。老いた語り部達の年齢層に見合う九十四才という歳で、彼女は夏に死んだ。感慨を覚えざるを得ない。

いつたい、戦中派達はいつごろから時代体験を語りだしたのだろう。

戦中派、といえば我々の父・母の世代である。当然、我々とは濃い接触があつたし、父母ならずとも、子供時分から我々の周りには、戦争期をくぐってきた大人達が多勢いた。しかし、我々は果して彼等から大量の体験情報が発せられるのを聞いてきただろうか。

そうだつた、とは言えない。圧倒的な数の体験者たちと、過去のどのような時代をも圧倒する、まさに、世界と国家との存亡を左右するような過酷な時代情況を考えるならば、彼等世代の子供であつた我々が見聞きしてきた情報は信じがたいほどに少量だったと言い得るのではないか。

間違いなく、我々の父母は、戦中派は寡黙だったのだ。その寡黙な殻を破って、もはや少数になって老いた体験者たちが多弁になっている。老いてやっと今、語り部の任をかつて出ようとしている。僕にはそう思える。

時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。むしろ、一定以上の時を経てこそ体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になるのではないか。そう思っている。

近い例を引く。

三年前の災害は記憶に新しいが、新しいなりに早くも「風化」が懸念されている。確かに記憶の鮮度は相当に落ちたが、それは「風化」とは違うものだ。外傷の痛みが失せて傷口にかさぶたが出来るようなもので、それは人間の持つ、謂わば自衛本能の一種の顕れではないのか。

逆に、話題の『吉田調書』の一端などから、大津波の惹き起したあの原発事故が、実は「東日本の壊滅」をも招きかねない規模のものであつたことを、今、我々は知り得ている。知り得て、あらためて体験の重大さにおののくのである。「歴史」とは、そのようにして生き残り、選択され、重みを増した事々の堆積物を言うのではないか。

再び、体験者や当事者達が間もなく消え行こうとしている「戦争」に話を戻す。

我々世代はかつて『戦争を知らない子供達』と呼ばれ、そう自称もした。が、そのことにひけ目を感じてはいなかつた。我々の生まれる直前に終結し、従って我々が直接には知らない「戦争」は父母の世代や、それよりさらに以前の祖父母の世代が犯した間違いの産物であり、それにかかわりを持たない自分達は父母や、祖父母たちよりも純な優越性をすら持っている一一―そう思っていたのではないか。

「戦争を知らない子供達サ」という無邪気な自称と開き直りには、そういう自惚れがこめられていた。そういう「子供達」の一人であつた僕自身にも、はっきりそういう自惚れがあつた。父母とは違う、祖父母のように蒙味でもない。そういう、今にして思えば思いあがった確信のもとに、僕は思春期を終えて「社会的に生きる」青春期を選んだ。諸兄も多くそのようであつたのではないか。

なんのことはない。戦後、わずか二十数年という経年では戦後史は熟成し得る筈もなかったのだ。それだけの話だ。

父母は依然として口をつぐむか、余りにも巨きかつた体験の重さに呆然としており、戦後という時代の層は、いまだ時代と呼べる厚みを獲得していなかった。しかし、我々は戦争以前という忌まわしい過去と幸いにも切れている自分たちの時代をいかにも過信していた。『戦後民主主義』という旧左翼的にリベラルな物言いに生理的な違和感は覚えつつも、やはり自分達には旧い世代を凌駕し得る能力があると思い込んでいた、のではないか。

そういう思い込みの是非を問おうとは思わない。元来若気とは思いあがりと表裏一体だし、青臭さを気にし過ぎているような若者は若者ですらないからだ。

だが、当時そういう若者であつた我々も、それから四十数年を生きた。薄かつた戦後史にも厚みが加わり、ようやくそれは歴史と呼びうる質量に達し、熟成に似た経年変化を示しつつあるように思える。

我々もまた、語るべきことを語り始めるべきではないのか。いや、それよりも以前に、語るべきなにものを我々が持っているか、そのことについて考え、来し方をふり返ってみる時が来ているのではないか。そう思って僕は数年前から或る提案をし、今こうして、甚だ遅きに失したような文章を書いている。

思えば、我々の世代も寡黙だった。

我々に名づけられた様々な世代名の中から『全共闘世代』というひとつを取り出して今後自称するなら、それに対応し、先行した「六十年安保世代」に比しても、我々はほとんど何らの発言もせずにここまで来たと言っていい。この沈黙は何を意味するのか。

もちろん、無邪気な若者を相手に「オジサンも昔は一」などと他愛のない与太話をする必要はない。そういう「告白」を好み、既に散々口を汚してきたような人たちは、もともとこれを書いている相手として念頭にない。

僕なりの結論を言ってしまうなら、『全共闘世代』の沈黙を、僕は概ね肯定的に考えている。それは、我々の体験の空疎さではなく、むしろ、重さ、巨きさの証しだと考えている。

もちろん、先に述べた父母の世代、『戦中派世代』の体験の実体的な重さには、それは比すべくもない。実体的、ということでいえば、戦中派に続く所謂『焼け跡・闇市派』の体験の重さにも、それは遠く及ばないだろう。何しろ我々は空腹を記憶していない。空襲の恐怖も、死と隣り合わせの引き揚げ体験もない。それらの痛切な体験を持たぬことを、『戦争を知らない』という居直りで以って「引け目なし」と清算したのが、先に言ったように我々世代のアイデンティティそのものであるからだ。

父母や小父、小母の世代を『戦中派』として区別し、兄や姉達の世代を『60年安保世代』として「もう古いのだ」と切って捨てた我々は、では何を見、何を希み、何を目指して生きていこうとしていたのか。そして、そういう志向がその後、どういう事情でどうなった

のか。僕は僕自身の人生の中で、切れ切れにではあれそれを僕なりに考えてきた。僕が今これを書きつつ念頭に置いている諸兄も、それは同様であると思う。

諸兄と僕の人生は弘前での四年間でのみ交わる。60余年の人生のうちでの、わずか四年間、である。しかし、僕はそれを短い、限定されたものとは思わない。すでに我々の世代の呼び名を『全共闘世代』として選びとつた時点で、僕は同世代のイメージの核に、数十人の弘前の群像を据えてしまっている。「諸兄」とは、その中の、僕ごときの提案に対して聞く耳を持ってくれる人を指している。

更に私的な結論を云う。

諸兄と僕の人生が交わった弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。弘前には無論空襲もなく、飢餓もなく、殺し合いも激しい争いもなかったが、世界には戦争があり、「革命」があり、史上空前といっていい全世界的な若者運動があった。

そうした大きなうねりとの一体感こそが、言ってしまえば『60年安保闘争』との根本的な違いとして無条件に我々が是認した要素だった。しかし、巨大な時代の、巨大なうねりの中に位置づけたにしては、我々の運動と呼べるものはなんと小さなものだったことか。

個別『弘大闘争』なるもののみをイメージして言っているのではない。我々をも翻弄した東大闘争や全国全共闘運動、ベトナム反戦運動や成田。三沢闘争の反基地闘争、青砥。植垣氏をはじめとする数名を巻き込んだ『連合赤軍事件』等々、あの時代の、諸々の運動や事件のすべてを統合したとしても、過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

はたして「巨大な時代」は、当時すでに予感することが可能だった大変化を20数年後に全世界にもたらす。言うまでもない。社会主義側の完全敗北による冷戦終結、である。

過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

先の『革命』の方は見間できなかったが、のちの大事件『崩壊』の様は世界中にテレビ配信され、僕もそれを連日お茶の間のテレビで観た。

意外、ではなかつた。『ベルリンの壁崩壊』でさえ予想外ではなかつた。「巨きな時代」の中での「小さな闘争」を通じて、既に一つの時代の終わりは予想出来ていたからだ。出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。

私見に走りすぎたかもしれない。が、僕は諸兄の反論や異論を期待しつつ敢えて結論めいた発言をしている。要するに、諸兄を挑発している。

寡黙であつた諸兄に発語を促したいからだ。現役世代から徐々に降りつつあるとはいえまだまだ若い我々が「老いた語り部」を気取る必要はない。が、しかし、「語りJは一朝一夕でなるものでもない。二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも、今、この時点での語りは、多種多様、かつ広範であった方がいい。

人は皆一回きりの人生を生きるしかない。しかも、その生きる時期や場所を、誰も、長い歴史や広い世界の中から好きに選び取ることはできない。ならばその一回きりの人生の後処理をおろそかにしてはなるまい。ふり返り、位置づけ、時代とともに検証してみてはどうか。

僣越を承知で、敢えて諸兄に問うものである。

< 2014年 9月15日>

この文の大半は、安彦良和の大げさに言えば歴史観である。

しかも、それはあまり重要ではない。

ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからないものだということを繰り返し述べている。

「時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。」「体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になる」などという俗諺にも感情的で問題はあるが、殆ど意味の無い戦前と戦後の世代間の違いをいうなど、同じことを全体の四分の三も費やして執拗にくりかえす必要があったのだろうか。

この点、一言だけ言っておくが、歴史とは記憶と記録である。記憶は一代限りで消えていくものだ。これを比喩的に言って、風化という。風化させない方法は物語として伝承するしかない。最も重要なのは「記録」することである。デモクラシーを維持し守護する根幹はアーカイブにある。これは、主としてソーシャルサイエンスに分類される歴史。

百歩譲って、発酵して酒や味噌や醤油になる歴史があるとすれば、それは歴史小説や叙事詩のようなヒューマンアーツに属する歴史と言うことだろう。

またこうも言える。

出来事は時が経つにつれ、その周辺が視野に入り、周辺との関係が明らかになるかどうかは別にして、次第にそのパースペクティブの中に収まっていくものだ。歴史は過去に遡行すればするほど視野が広がるが、細部は見えなくなっていくものでもある。

この文の前半は、そのようにして、自分が経験したことの意味を問い、いまとの関係を確認しようと言う呼び掛けだと受け止めることができる。

そして次に、個人的な心境を語る。

安彦良和にとって、そのパースペクティブに収まっている風景はロシア革命とソ連の崩壊だという。

「過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。」

加藤典洋は、自分の経験したこともない「戦前」を土台に、いわば砂上の楼閣を築いたが、「戦前」よりも遥かに縁遠い「ロシア革命」を自己の思想の原点とするのは一種異様な風景とも言える。

この「巨きな時代」は、当時あった戦争や「革命」、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだったという。

「巨きな時代」は、あるいはポストモダン思想が「大きな物語」が有効だった時代といったことを指しているのかも知れない。

そのことと「弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。」というフレーズがどういう関係なのか少し論理的にあやしいところもあるが、とりあえず彼にとってソ連の崩壊は直近の大事件だったことが分かる。

ただし、これは20年も前から予測が出来たことだという。

ところが、次のフレーズはこの文の中でも最も不思議な記述として目にとまる。

「出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」

予測したら、予測通りになった場合にどう対処するかをあらかじめ考えるのはごく普通の態度ではないか。これは予測通りになったらうろたえていることを意味している。

あるいは「社会主義側の完全敗北」を認めたくないということなのか。

ここでは「心の準備」がどういうことか、うかがい知ることは出来ない。

しかし、そんなことよりも、「大事件」と強調しているソ連の崩壊に較べて「弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感」のほうが、自分の経験としてはるかに強く心に残っているというのである。

恐ろしく感情の量の多い饒舌な文章であるが、そんな中にたったひとこと、ここに本音がこぼれていたのである。

彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?

自分がしたことは何であったのか?

あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

一方、ソ連崩壊後すでに三十年になるが、それについての言及はない。あたかも時間がそこで止まっているかのように見えるのである。

安彦には、二つの空虚があるらしい。

さて、これは「寡黙であつた諸兄に発語を促したいから」書いたものである。

しかし、「二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも」とか「ふり返り、位置づけ、時代とともに検証」とか、この文を読んで何を書けば「回想」文集にふさわしい「回想」になるのかは、結構むずかしい。

そこで、かくいう呼び掛け人自身が自分の人生を語ろうとするとき、欠かせないと思われることはどんなものになるか、項目にしてみよう。

1,「ロシア革命」を知ったのはいつだったか。それについてどう思ったか。

2.その根拠であるマルクス主義のどこに魅了されたのか。

3.学生運動にはどういうきっかけとスタンスでかかわったか。

4.それはどんな結果に終わり、その総括をするとすれば?

5.社会人になって、政治的なことへの関心はどうなったか。

6.ソ連邦の崩壊に際して「事態を受け入れる準備がなかった」とはどういうことか。

7.そのとき、マルクス―レーニン主義(そのイデオロギー)についてどう思ったか。

8.ソ連崩壊後の世界をどう受け止め、何をめざしていくべきと考えたか。

おおよそこのようなことについて押さえることになるだろう。

「革命とサブカル」がその応えであるというには、それができあがったいきさつを知っているものとしてはかなり酷なことだといっておこう。

しかし、ソ連崩壊の後にやって来たのは「サブカル」の時代だといっているように見えるのは、あまりに安易でいただけない。

最後にもう一度ことわっておかねばならないが、これは、「革命とサブカル」の批評ではない。「回想」本が出来るようにと思って、よけいなお世話をした。

いっぱい書いていっぱい削ったから、何が何だか分からなくなったけれど、とりあえずアップしよう。

文句があったら書き込みでもメールでもしてくれ!

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2017年12月22日 (金)

「国家とはなにか」(萱野稔人)の続き 竹田青嗣 の「欲望論」がすごい!

9月に書いた『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」には続きがあるように書いてしまったが、あれからずいぶん間が開いてしまった。

ただ、もともと、あの論旨は飛躍しすぎでアップするのが不本意でもあった。と言うのも、本の批評になっていない上に、唐突にルソーから東浩紀の「一般意思2.0」を引っ張り出そうというのではいかにも乱暴に過ぎる。ドゥルーズ・ガタリの『哲学とはなにか』を引用して、あの『アンチ・オイディプス』の著者の意外に素朴で単純な一面を揶揄しているときだけ満足だったが、あとのことはほとんど上の空だった。

言い訳がましいが、半年以上前に加入した「囲碁・将棋チャネル」でしょっちゅう早碁棋戦を見ているなかで、書いたものだから、心ここにあらずで相当にせっかちなもの言いになってしまった。反省するコトしきりである。(いまや、囲碁番組は欠かせない習慣になっている。)

「一般意思2.0」に言及する前に、確かめておこうと彼のたぶん最初の論文「存在論的、郵便的」に目を通した。途中から恐ろしくややこしい論議になって読解するのに難儀したが、最終的にはジャック・デリダの「差異と反復」に同意しているわけではないことが分かって、さすが東のことだと思った。「差異と反復」ではただ袋小路に入り込むしかないではないか。デリダを取り上げるのは時代の趨勢ではあったが、その選択眼の勘の悪さは、指摘しておいてもいいだろう。ただし、ややこしい議論というのは、元になったデリダの書き方で、それに引きづられたのはやむを得ない。ドゥールーズとガタリもそうだが、むずかしく書けば有り難がると言う風潮は困ったもので、それもポストモダン思想の流行が沈静化すると同時におさまった。ついでに、「ものを考える」ということが世の中から消えてしまったような静けさで、聞こえてくるのは、先の見えない時代を前に周章狼狽しているささやきだけである。

「一般意思2.0」は、ルソーのそれをバージョンアップといっても、それほど厳密な議論をしているわけではない。が、考えるヒントにはなると思った。

ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念で、たとえば、国民投票の結果を「一般意思」とは言えないと言うのだから、果たして実体があるのかどうか。しかし、ともかくそんなことは問えないのである。

東はパソコンを持ち歩く世代らしく、これを「ビッグデータ」が実体あらしめるものにするかも知れないと発想したのだ。なるほどAIを利用することで様々な問題解決の糸口くらいは見つけられる、かもしれない。

あたりまえと言えば言えるが面白い着想だと思って、「その2」で紹介しようと思ったのだ。

ところが、それも日が経つにつれて怪しくなった。

よく考えると「AI」も実は得体の知れないものではないか?

確かに、機器の進歩にはめざましいものがある。

プロの囲碁棋士にコンピュタ―が勝つには百年かかると言われていたが、ついこの間グーグルが開発したソフトが世界最強の棋士に勝った。四百年前からこれまでに残っている棋譜を機械に読み込んで、必勝パターンを計算するがそれでは時間がかかりすぎるので、ショートカットする方法を編み出して、時間を短縮した。将棋はもっと前にプロ棋士を抜いていて、この世界だけでも想像以上のスピードでAIは人間の能力に近づいていることが実感できる。2045年にはAIが人間の知能を追い越し、その先がどうなるかが「45年問題」と言って人間にとって新たな課題になっているらしい。

この間、新国立劇場「プライムたちの夜」(11/24)を見たが、これはAIロボットすなわちアンドロイドの話であった。

このときの僕のツイッター。

――夕べ、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た。AIやアンドロイドは、所詮人間の慰みもの、おもちゃに過ぎないことを証明した馬鹿に甘い米国の戯曲。こんな高価な「おもちゃ」を持ったり高額な精神分析医にかかれない貧乏人の方がよほど幸福だと再認識させる。

「プライムたちの夜」(宮田慶子演出)。戯曲の「薄さ」に輪をかけた退屈な舞台。役者はそれぞれ頑張っていたが、なすすべもないと言った有様。もっとアンドロイドの薄気味悪さが強調されたら舞台に緊張感がただよってきたはず。演出が甘い。浅丘るり子は意外にうまい役者だった。香寿たつきの変わり身は見事。――

専門家に言わせると、現在のアンドロイドの知能は六歳程度らしいが、劇を見ていて、AI=機械に「感情」はあるのかとふと疑問に思った。ツイッターでいっている「薄気味悪さ」とは感情表現のことだが、感情は果たしてデータの集積と類推で外化出来る類のものか本源的な検証が必要ではないかと直感している。例えばさしあたりフロイト的な心理学を参照しながら感情表現を組み立てたとして、そんなものをまともに相手にはしたくないものだ。最近流行の脳科学にしても、感情を同じ位相でとらえたという話は聞いたことがない。

そもそも、AIがコンピュータ制御である以上、背後にプログラムあるいはアルゴリズムと言った言語、分節化した論理=疑似言語が存在する。それはどのようなコンセプトの元に書かれているのかが問われねばならないだろう。東も「翻訳機械が何故そのような翻訳をしたか説明できない」とかいって、AIの根本的な信憑性の問題を指摘しているようだが、「ビッグデータ」から取り出す「一般意思」の信頼性はともかく、トランプのようなあるいは金正恩のような政治家がおとなしくその結果に従うかは保証の限りではなかろう。

「45年問題」とスローガンばかりが先走りしていて、本当のところは明るみに出されていないのは「45年問題」の問題である。

いまさら「『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」に言及するのも妙な話とは思うが、あの構成は以下のようでなければならなかった。

*萱野は最初になんの前提もなく、「国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたって、国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である」と定義した。これは有名な「国家とは暴力装置である」というマックス・ヴェーバーの議論に全面的に依拠している。

*「国家」をめぐる議論をこれほど単純な「概念」に仕立てるのは勝手だが、結局のところ、これでは暴力を行使するものと行使されるもののの二項対立がいつまで経っても解消されない。行使される側にいる圧倒的多数のわれわれにとって、この「暴力」にどう立ち向かうのかあるいはどう制御するかは「国家は暴力装置だ」という「概念」をうち立てるよりもはるかに重要な議論である。

*つまり、萱野の議論は、万人が万人の敵、自然状態の人間と先人たちが言ったあの時点へ戻したことと同じなのだ。

*そこで、いきなり「一般意思2.0」へ行くのではなく、一度カントからヘーゲルを参照すべきであった。「国家とはなにか」と問うならば、むしろ近代的な国家や法や道徳の論理が生まれ出る過程をこそを論じるべきだった。

そんなことが気になっていたが「その2」を書く気にもなれず、早碁を見る日々を過ごしていた。

そうして、あの、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た日。早めに着いたのでオペラシティの本屋に立ち寄った。そこで、出版されたばかりの竹田青嗣 「欲望論」全二巻を発見したのだ。

二冊買ったら9,000円。高いし、持ち帰るには重い。そこで、持っていた図書カードに少し足して「欲望論 第一巻『意味の原理論』」を購入した。

翌日から読み出したらこれがとまらなくなった。まるで推理小説でも読むような勢いで700ページを一気に読んでしまった。

やったあ!

早くフランス語に翻訳してやったらいい。

木田元先生が「ハイデガーは人が悪い」と言っていた意味がよく分かるし、また、「反哲学史」は、反西欧哲学史のことだというのがここではそれが増幅されて確認できる。

竹田青嗣 、40年の集大成。これは、特にポストモダン思想に傾倒した比較的若いものたちにきっと読んでもらいたい一冊だ。

いま、「欲望論 第二巻『価値の原理論』」に取りかかっている。

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2016年9月22日 (木)

宮城公博「外道クライマー」を読んだ

Photo 宮城公博「外道クライマー」を読んだ

文章が面白いという噂を聞きつけて読む気になった。

宮城公博は1983年生まれの33才、自ら「沢ヤ」と称して、もっぱら沢登りを主体に冒険的な登山をする人物らしい。

沢を遡行するのは頂上へ至る最も効率的なルートだが、水は流れても人が通れるとは限らない。背丈よりも高い滝が現れることもある。深い雪解け水の淵が行く手を阻むこともあるだろう。

また谷が狭くなったところを奔流が流れ下る峡谷を「ゴルジェ」というが、こういう危険きわまりない場所は濡れた岸壁にぶら下がってトラバースするか、よじ登ってこれを高巻きながら進むしかない。

高度な登攀技術や道具が必要なのはもちろん、道なき道を行く藪漕ぎや荷揚げの体力も必要で、当然誰にも出来ることではない。

本の冒頭に掲げられた用語解説に「沢ヤ」とは、「沢登りに異常なこだわりをもった偏屈な社会不適合者」とあるが、これにはどうも二つの意味があるようだ。

ひとつは、クライマーのくせに、山の頂上を踏むことが必ずしも登攀の第一義的な目的ではないらしいということである。

もうひとつは、「沢登りに異常なこだわりをもつ偏屈」が何故か「社会不適合者」になってしまうという点である。

きつい、汚い、危険が大好きというのは、世のため人のためになれば立派な職業だが、これがもっぱら自分の趣味というのでは単なるスキ者である。それどころか、危険が現実のものになったら世間にとっては迷惑以外の何ものでもない。自らを社会不適合者といって自嘲気味なのは、その趣味がなんとなく社会の規範、どころか登山の常識から逸脱しているという自覚があるのだ。

僕は、こういう冒険を批判しようと思わない。人間が自然相手に命のやりとりをするという行為に善悪などはないというのが僕の考えだ。(ただし、自己責任で勝手にやるがいいという突き放した言い方には与しない。遭難したらはた迷惑と思っても最善を尽くして救助するのが人間の務めというものだ。)

ただ、宮城のこの自嘲気味のトーンには裏があった。

この本の第一章である。

1

「・・・・・・2012年七月十四日の午前八時、那智の滝、その左の岩稜部、滝壺から約八十メートルの高さに私はいた。私の右十メートル先の空間には、垂直に流れ落ちる巨大な水の束があり、風にあおられた水の飛沫がときおり頬を触りにきていた。・・・・・・」

第一章のタイトルは「逮捕!日本一の直瀑、那智の滝」である。

つまり、熊野那智大社のご神体であることは承知の上で、沢ヤ仲間三人と結託してその初登に挑戦したのである。さすがに後ろめたかったようで、夜中に登って明け方には降りてくる計画だった。ところが、滝の上部の岩盤は一枚岩でオーバーハング気味、手こずっているうちに夜が明けてしまった。

開き直って、なおも上をめざしたが、観光客に見つかり宮司に通報される。ハンドマイクからあたりに鳴り響く宮司の怒声にたじろいで、すごすご引き返したところを逮捕されたのであった。新宮警察からはその日のうちに帰されたが、この罰当たりな行為に世間は大騒ぎになった。神社には後日、頭を丸めて謝りに行ったものの、結局、宮城は、つとめていた福祉関係の職を失うことになる。

「社会不適合者」とは、こういうおっちょこちょいな側面もあるだろうが、普通の都会暮らしは性に合わないという基本的な自覚がそういわせるのだろう。

僕が子供の頃は、ヒマラヤにまだ未踏の8000メートル峰があって、登山といえば、初登頂が最も価値が高かった。新聞の見出しに「マナスル登頂!文相から感謝状」とあったのを覚えているが、一番乗りには今どきでは考えられない「国家の威信」がかかっていたのである。

この時代、キャラバン隊が大量の荷物を何日もかけて運びあげ、数十人の隊員の中から、選ばれた二三人がアタックするという、いわゆる「極地法」があたりまえだったが、それでは、苦労して途中まで登っても、頂上を踏めない隊員が大勢でる。

未踏の山がなくなると、莫大な金とマンパワーが必要なわりに不満がうずまく「極地法」は評判が悪くなり、「単独または少数で短期間に、しかも無酸素で」というより厳しい条件(アルプスの山々を登る方法という意味でアルパインスタイルという)で登るのが評価されるようになった。

これも「8000m級高峰」や「七大陸最高峰」制覇とあらかたすんでしまうと、次は、難易度の高い岩壁や氷壁のバリエーションルートで頂上をめざすようになり、そのための用具も整ったが危険の度合いははるかに増して、その冒険的な価値はかろうじて維持されている。

とはいえ、それも、たとえば谷川岳一の倉沢登攀史にみるように一応の到達点にきているとも言える。

一の倉沢の岩壁は「勤労者山岳会」が設立された1960年ごろから盛んに挑戦されるようになった。これは我が国の登山の大衆化がはじまったときと一致する。

土曜日の勤務が終わったあと、上野から越後方面に向かう夜行列車に乗り、明け方群馬―新潟県境にある土合におりて、地下駅から400段の階段を上って20分ほど歩くととりつきに立てる。自家用車などない時代にこれほど便が良い冒険の舞台があっただろうか。

岩壁は峻険で、オーバーハングしている難所も多数あり、これを登るには、おそらくまだ技術が未熟で道具も調っていなかったため多くの遭難者を出した。ロープに宙づりになったまま息絶えた遺体を回収することが出来ず、自衛隊の狙撃手を動員した遭難事故を記憶している人は多いだろう。

この壁は、20年もすると、何本もの困難な厳冬期バリエーションルートが開かれ、縦に登る新ルート開拓が限界に達すると、あれほどの死者を出した難壁を今度は横に易々と横断する者まで現れる。

やがて移動手段が車の時代になったこともあって、一の倉沢から次第に人影が少なくなっていったのだが、それにしてもこの壁は、昭和6年の統計開始以来今日まで800名を超える命を奪って、いまようやく静けさをとりもどしているのだ。

このようにして、一種の大衆化によって、冒険的行為の世間的価値が陳腐化することは避けられないことである。

冒険者たちは、山から北極海やカナダ、グリーンランドなどに人跡未踏の地を求めるようになる。しかし、スポンサーを集め、衛星電話やGPS機器を携帯、空輸補給をうけるなど先端技術を最大限活用して目的を果たすことが、はたして英雄的行為なのかという疑問も大きくなった。

エベレストでは、金さえ払えば誰でも頂上を踏めるという営業登山が始まり、何よりも、グーグルアースの時代に何が冒険なのか(角幡唯介)という基本的な疑問が意識されるようになる。

これは、冒険が栄誉をともなった時代の終わりであり、登山が必ずしも賞賛を期待できない極めて個人的な営為であるという認識の始まりであることを意味している。

危険な登攀も氷海の横断も目標達成そのものよりは、季節の選定や電子機器を意図的に排するなど、いかに困難な条件の下で行われたか、そのプロセスが問われるようになったのである。

この本の構成は、「那智の滝登攀」事件にはじまるが、そのあと一冊の大半は「タイのジャングル四六日間の沢登り」で占められている。奇妙なことに、その「タイの沢登り」は「その一」から「その三」まで三分割されていて、間にそれとは関係のない台湾と日本の「沢登り」の記録が挿入されている。

普通の山登りなら、頂上までの道程は一直線に時間が進むから分割して語るなどはナンセンスである。だから最初に目次を見て、おいおい、だいじょうぶなのかぁ?と頭をかしげた。

ところが、この本を読み終わった時点で、三分割はまったく違和感がなかった。無論、沢登りにも始まりと終わりはある。しかし、沢ヤの時間は必ずしも頂上(目的)に向かって一直線に進もうとはしない。むしろ何処の時点を輪切りにしても、そこには違った冒険の様相が現れ、それが連続し、終わりはあってもそこがゴールではないという、不思議な冒険なのだ。そのアナーキーな感覚は、多分に著者の性格と文章によるところが大きいともいえるが、実際その内実も時制も無秩序に進行するのである。

「征服されるべき頂上」があれば、明確に時間は前へ前へと進行するのがあたりまえだが、しかし、沢ヤは「征服」しようとも「屈服」しようともしない。

その第三章「日本最後の地理的空白と現代の冒険」にこうある。

「日本発祥の沢登りには、合理的でスポーツ的要素の強い西洋的アルピニズムとは違う独自の趣がある。」

藪をかき分け、道のない渓をたどり、シカ、イノシシ、カエル、ヘビ、アブと多くの生きものや自然の神秘的な造形との出会いがある沢登りは、アルプスのような氷河と岩峰で作られた無機的な世界ではかなわない。・・・・・・焚き火に酒、釣りに山菜採り・・・登山の道中、寄り道して山頂にたどり着けなくても沢ヤならそれを優先する。

宮城公博は、沢登りを明確に自覚的に次のように定義している。

「この価値観の根底には、日本古来続く沢を中心とした里山での生活が存在している。それこそが合理性を追求する西洋的アルピニズム登山との大きな違いであり魅力だろう。」

1983年生まれの宮城が「日本の里山」に言及しているところが注目に値する。

里山とは、もともとその周辺に暮らす村人が自由に使える共同体管理の山域、入会地のことをいった。人々は長い間日々の暮らしのためにそこで燃料や食糧を調達し、寄り合いの行事や祭祀を行ってきた。ところが、明治維新(各藩所有の山林を勝手に無理矢理国有化したとたんに入会地訴訟が無数に起きた)からこっちどんどん私有地化して消滅してきたいまや「なつかしい」日本の原風景なのだ。

宮城は、自分の沢ヤとしての行為には(断絶したはずの)里山で育んだDNAがあると言っている。宮城は自分の登山のスタイルを日本の近代登山の歴史に照らして、どのようにも位置づけられないと気がついて、その由来を求めるうちに昔の「里山」を「発見」したのだろう。この点で宮城の教養が並々ならぬものだと言っておかねばなるまい。宮城にとっては、ごく自然の心境に違いないが、ここ150年あまり西欧的合理主義に傾いた我が国においては、この若者の感性が一種の土着の思想への回帰現象に見えて、なるほど時代はめぐるという思いがするのである。

渓流は、地図の上では一本の細い線である。これをたどればいつかは山頂に至り、下ればやがては人里にでるのだが、実際にその場に身を置けば、自分がどこにいて、先に何があるのか見えるわけではない。沢ヤの前にあるのは、次に何が現れるか分からない予測不能の、いわば不連続に連なる光景である。しかも、それは常に危険をはらんでいる。何でもないような岩壁や渓流でも一瞬の油断が命にかかわる。

ただひたすら頂上をめざし、「征服」して終わる登山と違って、人跡未踏の沢を遡行し、山に登り、また沢を下りてくるという山行の過程すべてが一つの冒険であると考えているのが「沢ヤ」なのだ。

そこに決まったルールなどあるはずもないが、しかし、数週間に渡ることもある山行に持って行ける荷物には限度があり、結果として実にストイックにならざるを得ない。

タイの渓谷に分け入る前に、準備した装備をみれば、それは如実に表れている。

食糧は、米と調味料とお茶に若干の甘味類ぐらいのもので、おかずは山菜や魚や蛙などを現地調達する。ガスコンロはかさばるので、道中すべて焚き火。寝袋は同じ理由で断念し、軽量のテントにタープとシュラフカバー、それに銀色のウレタンマットをしいて夜を過ごすことにする。

登攀用のロープは40mと20mを二本、ハーケン5枚にカムとナッツ5枚、カラビナ25枚、これだけで5、6Kg になる。どんなに切り詰めても、食糧と合わせれば20Kgは超えるだろう。岩場と渓流ではザックの外に結わえて運べるものはない。 時にはぶん投げ、流れに浮かべることを前提にすべてを一個の荷物にまとめる必要がある。

万が一のために無線や衛星電話を携帯するという選択枝もあるが、宮城はこれを「自然に対してフェアじゃない」、むしろ冒険という行為を汚すものだと断定する。遠征費にスポンサーをつけるなどは論外である。

他人の助けと懐を当てにしないのが、沢ヤのルールであり原則だというのである。なるほど、それは里山から一歩足を踏み出して、神の住まう領域に入り込もうとするものの矜持であろう。

昔の修験道に励む山伏を彷彿とさせるが、むろん宮城の言葉ではない。

「勧進帳」の弁慶のせりふを思い出した。

「それ、修験の法と言っぱ、いわゆる胎蔵、金剛を旨とし、険山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の、慈眠を垂れ、あるいは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を、成仏得脱させ、日月星明天下泰平の祈祷を修す。さるが故に、内には、慈悲の徳を修め、表に、降魔の相を顕し、悪鬼外道を、威伏せり。これ、神仏の両部にして、百八の数珠に、仏道の利益を顕す。」

宮城がやっていることといえば、「剣山悪所を踏み開き」「難行苦行の功を積」む行為からちょうど「信仰心」の分だけ差し引いたようなものではないか。

自然と一体になるという点では修験道を思わせるが、無心にはならないところが大きく異なる。目前の状況および次なる行動を判断するために脳はフル回転で言葉を紡ぎ出し、身体は本能をむき出しにする。いや、修験道といえども同じことには違いない。実は登山だって、何処を登ろうが登っている行為自体は修験道と似たようなものだともいえる。つまり、自然と向き合えば、否応なく自己を対象化せざるを得ない状況に人は追い込まれるのである。おそらく修験道は、そこであらわになった自己を信仰の力を借りて修めようとするのであろう。

いまや、沢ヤも登山家も、その自己対象化のドラマを語らなければ、他人に知られることはない時代になった。

僕らは、「次に何が現れるか分からない予測不能の、一瞬の油断が命にかかわる危険をはらんだ道行き」をまるで冒険者とともに進んでいるように感じながら、その孤独な心の内にわき起こるドラマを味わうことが出来る。

実は、物語は「すでに」過去の出来事であるにもかかわらず、まるで同時進行しているように感じられるのは、冒険者が自己対象化の名人であり良い書き手だからである。

話がだんだん理屈っぽくなるのでこの辺で、最もおかしかったエピソードを紹介して終わりにしよう。

タイのジャングルもかなり後の方になると食糧も乏しくなり、次第に痩せて体力もなくなっていく。ある日、大蛇を発見して大喜びする。敵も然る者で岩陰に逃げ込むのをようやくしっぽを掴んで引きずり出そうとするが、恐ろしい力でびくともしない。仕方がないから半分でも頂こうと見えているしっぽの部分にナイフを立てる。硬くて歯が立たないが、久しぶりの食糧だと思ってしばらくバカ力で格闘すると、ようやく少しだけ切ることが出来た。大蛇はなんと腸を引きずりながら大急ぎで逃げていったのである。

あまりに面白かったので、一気に読んでしまったが、これで「沢ヤ」というものに引きずり込まれてしまった。

そこで、他に書き手はいないのかと探したら、服部文祥に出会った。服部は、僕が知る前に、すでにTVなどでも知られた存在だったようで、今頃になって、といわれても返す言葉がない。

この宮城公博のような沢登りと登山のあり方を熟考して、沢ヤの思想とスタイルを創りあげたのはこの服部文祥を持って嚆矢とする、のではないかと僕は思った。

この後、僕は服部文祥の以下の著作を読むことになる。

「百年前の山を旅する」(新潮社)

「サバイバル登山家」(みすず書房)

「狩猟サバイバル」(みすず書房)

「ツンドラサバイバル」(みすず書房)

いずれも、面白く読んだ。

いつか機会があれば、これも紹介したいと思っている。

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2015年12月 1日 (火)

「反・知性主義(に陥らないための70冊)」が流行なの?

 渟風 中村隆一郎
                               Weblog :私の演劇時評

  Essay

  2015年12月1日

「反・知性主義(に陥らないための70冊)」が流行なの?

このところ「反・知性主義」という言葉をよく目にするようになった。

昔、知性の代表である大学教授や大学そのものの権威が現実と著しく乖離しているといって、全共闘は「大学解体」を叫んだ。

解体されなかったが、まもなく、不思議なことに大学はごく一部の「高学歴」大学とそうでないものに分類され、おおかたは権威どころか遊園地になり卒業証書発行所になった。全共闘のおかげではない。ただ単に、時代が変わったからだ。

しかし、今頃になってまたぞろ、あのシュプレヒコールが復活しつつあるのかと思って目にとまったのである。

 

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ところが、今度の「反知性主義」は主としてインターネットの中の話らしい。Web上で行われる様々な議論や言説の中に「反知性主義」がはびこっているのが嘆かわしいということなのだ。

特に、この「匿名―無責任」という特殊な空間にできあがる「空気」に反対する意見は「インテリぶってやがる=知性主義」の烙印を押されて攻撃を受け排斥される傾向にあるという。

つまり、話題の「反知性主義」とは、知性の抜け殻となった似非権威はいらないとした全共闘とは逆に、「知性=インテリジェンス」そのものを否定しているのであり、知性など持ってはいけないと主張する立場のことになる。「知性」とは何か?という大問題はさておいて、我々は「知性の反対、バカでいいのだ」とするのだから、反知性主義とは、結局バカ肯定論ということにならないかね?と老人は思うのである。

きっと、そうなのだろう。

感情的で短絡的な意見、単なる受け売り、過激思想、差別や偏見などなどよく吟味し考えれば生産的な議論かどうか見分けがつくはずなのに、なにしろバカ肯定論は楽で安直、あまり頭を使わないから表層をなでてるだけのことに気づかずに事は済んだと思い込むのである。結果として、これが知性はいらないとする反知性主義だ、とまあ、世間ではそう結論づけたと推測できるのである。

Web上のいわばバーチャルな世界の議論が、こうして実社会(紙媒体)の中にはみ出てきて問題にされるのは、その言説が社会全体にそれなりの影響力を持つようになったからだろう。確かに、Web上の呼び掛けでデモや集会が行われるようになったのは周知のことである。「アラブの春」にしてもインターネットが政治の民主化をもたらすという楽観を世界に振りまいた。

ところがご承知の通り、現実世界では、そう易々と事は運ばなかった。もともと言説の根っこに匿名で無責任という構造がある以上、権力と対峙しても底が抜けている分そんなに出力=パワーは出ないものだ。それに最も大きな問題は、中国のような情報ネットの元を権力者に握られている国では大衆の鬱憤晴らしにはなるが何も起きないことになる。つまりガス抜き。過度な期待は禁物である。

それに、僕は仕事上昔からパソコンを使っていても、スマートフォンを持ったことがない。その上、携帯電話も通話とCメール以外の機能は必要ないと確信している。ということで、僕にとってWebでの言論は必ずしも身近なものではない。したがって、Web上に「反知性主義」がはびこって害をなすといわれても、それは何を大仰な、「バカ!」と一言で済ませられる類のことではないのかという気になってしまうのだ。

どうもこれは出版業界が仕掛けたな!という匂いがぷんぷんである。

こんなことを考えたのは、この間百貨店をぶらぶらしているとき「反知性主義に陥らないための70冊」という本が目に入ったからだ。近頃知性のかけらも感じられない本屋が多いのに知性肯定論が堂々と並べてある。さすが、「丸善」の特設コーナーであった。

ぺらぺらめくっていたとき、約束の時間だとメールが来たので慌てて出てきた。

この手の読書案内は「必読書150」の例に違わず、選び方が安直で紋切り型、紹介文も短い上に全体としてひどくつまらないものが多い。この本もまったく期待していなかったが、目次をザッと見たところ何人か興味がそそられる書き手が記憶に残った。

一人一冊を推薦し、2頁程度のコメントが付けられていて、ジャンルは様々だ。

呉智英さんの名前が見えたので、それが気になって、図書館で探してみた。しかし、新刊本だったらしく何処も未だ入れていない。仕方がないからばかばかしいとは思いつつも、Amazonで手に入れた。

以下は、そのとりとめもない感想である。

呉智英さんが取り上げているのは、ロゲルギストの科学エッセイ集「物理の散歩道」全五集。日常的な物理現象を選んで、その科学的意味や背景を誰にも分かるように平易な言葉で教えてくれる随筆風小篇を集めたものである。

ロゲルギストとはロゴス(知性・言葉)とエルゴン(仕事)を組み合わせた集団ペンネームで、メンバーは木下是雄(中公新書「理系の作文技術」)他計七人。曰く『いずれも錚々たる科学者であり教養人である。』

この第一集は一九六三年に出ている。彼らは、月に一度さまざまな物理現象について歓談する集まりを持っていて、つまり、古き良き時代の科学者サロンという趣の集まりだが、そこで話されたことを持ち回りでエッセイにまとめ、雑誌「自然」(中央公論社)に発表していた。それに目を止めた岩波が、いくつか選んで一冊にし、続編五集までを次々に出版したのであった。以来版を重ね、2008年には「新装版」としてソフトカバーに一新、2009年にはちくま学芸文庫に入るなど、書き手はすでに物故者が多いにもかかわらず半世紀の長きにわたり売れ続けている隠れたロングセラーである。

呉智英さんは、何故これを推奨したか?

書き出しはこうである。

「森本あんり『反知性主義』は、アメリカの反知性主義の土壌に、旧来の知の権威への反発と平等の理念があると指摘していて非常に興味深い。日本の反知性主義にもほぼ類似の現象が観察できるからだ。」

(森本あんり『反知性主義』については、社会学者、橋爪大三郎が推薦していて、やや詳しい解説があるので、後に紹介する。)

その「日本の反知性主義」とはどんなものか?

呉智英さんは「知的権威への反発と平等の理念が高揚した時代」つまり僕がはじめにいった『全共闘』時代のことだが、「反知性主義の深淵は、どうやらこの時代に求められるようだ。」といっている。アメリカのは知らないが、全共闘時代のことなら体験済みだ。

あまり詳しくいう気はないが、知性の代表者たる当時の大学も大学教授も権威にあぐらをかいているだけで、価値観が変容していく社会に対し現実対応能力もなければ新しいことを提案する意欲も実行力もないと見なされた。代表的なものに東大医学部医局問題などがある。

医学部の話になったついでに。直接関係ない話だが、昭和五十年代あたりまでも、むずかしい手術や治療などには教授から助教授、講師、助手に至るまでなにがしかの謝礼を治療費とは別に包んだ。医学部の権威とは絶大なもので、数十万円かかるのは常識であった。「白い巨塔」の化けがはがれたいまでは差し出しても受け取らない、だろう?)

ここで、思い出すことがある。学生の頃、もう五十年近く前のことだから本名を出しても怒られはしないと思ってのことだが・・・・・・。安彦良和のことだ。歳は同じだが僕の方が学年は一年下。当時彼はガリ版刷りの個人新聞を発行する志も意識も高い学生の一人であった。特に親しい間柄というわけでもなかったが、僕はその新聞に二回ほど寄稿している。何しろ五学部合わせても一学年700人前後だから学部を超えた交流があり新聞は賑やかだったと思う。当時としてはめずらしくセクトのような檄文などはなく政治一辺倒でもなかった。

この学校では、旧制高等学校の大正時代に建てられた木造校舎が残っていて、教授の居室が割り当てられている。ある日、戸口の前の廊下で部屋の主が大勢の学生に囲まれているのを目にした。見ていると、輪の中心にいた安彦が激高していきなり教授の襟首をつかんで怒鳴った。両手で持ち上げるようにして身体を揺すったのだ。普段は、物静かで老成した雰囲気の彼が豹変している。「権威(これが陰湿な嫌がらせをよくやった)」に理不尽な何かをされたのだろう。理由は何だったか記憶からすっかり抜け落ちているが、(同じ光景を目にした中澤君も何故だったのか記憶にないといっている。)その戸口の上の柱から黒地に白文字で「文部教官」と書かれた表札が突き出ているのを見ながら、その時僕は時代が変わるという実感を得たのであった。いま思えば、あれが僕らの「反知性主義」だった。

安彦さんはまもなく大学を去った、らしい。(その後虫プロをへて機動戦士ガンダムのキャラクターデザイン、漫画家となったことは知っている方も多いと思う。)

呉智英さんは、しかし、妙なものを事例として取りだしている。

「・・・一九七二年の連合赤軍事件は、こうした時代を背景に出現したが、・・・その指導者永田洋子の手記『十六の墓標』に、彼女が下級”兵士”に言ったこんな言葉が記されている。『わたしたちみたいに単純バカになって早く過去を総括しちゃってよ』。また、一九七一年に出た永山則夫『無知の涙』は、まさしく無知の涙であるにもかかわらず、知的権威への反発と平等の理念を奉ずる人たちに、かえって無知の涙であるがゆえに強く支持された。」

これをもって「日本の反知性主義」というのでは、「旧来の知の権威への反発と平等の理念」とは単純バカと、無知のススメ、になってしまう。

「・・・・・・とはいうものの私はこの二著を推薦したいわけではない。ここには索漠たる空虚感があるだけだからである。」

反知性主義のポーズはいいが、その先で「知性」そのものが雨散霧消、溶解しているというのが、索漠たる空虚感なのだろう。

そこで、「いまは忘れられつつあるかつての知性がどんなものであったかを紹介したい。」となって「物理の散歩道」につながるのであった。反知性主義に陥らないためには知性そのものに回帰しようというための少しややこしい論理の散歩道ならぬ筋道だったのだ。

それより、ここで、僕の心にとまったのは、永田洋子の「十六の墓標」である。「単純バカになって早く過去を総括」、そんなことが書いてあったのか。連合赤軍の関連図書はほぼ一つも読んでいない。表紙を見ても生理的に受け付けない。いまだに吐き気すら覚える。だから「十六・・・・・・」もタイトルは知っているが読む気がしなかった。

「単純バカになって早く過去を総括」することが真の革命戦士になることだと永田は本気で考えていたのだろう。(呉智英はご丁寧に彼女が薬大を出ていること「=薬大でても単純バカか!」を注として指摘している。)

マルクス主義者に共通して言えることだが、「自分の考えは資本主義社会の堕落した価値観に汚されている」という強迫観念がその意識の中に潜在している。日本人だけでなくフランス人でもイタリア人でもコミュニストに特有の感覚だと、近頃では確信している。

自分が真であると思っても、それは資本主義社会の中にある存在が真であるといっているだけで、我々の側における真ではない、となる。では真とはどこにあるのか?

自分を成立させているのは紛れもなく社会である。私と社会は図と地の関係にある。それは別のものでありながら同時に切り離すことが出来ない。互いが別であると同時に同じなのだ。

そのようにして別々には出来ない、解決不能の問題にかかわらず、共産社会という彼岸を設定したときからその矛盾は、コミュニストの意識にキリスト教の原罪のようにのしかかってくるのである。

この強迫観念を麻痺させる方法の一つは発狂することであり、もう一つが単純バカになることであった。つまり器械のように何も考えない兵士になることが永田洋子の理想だったのだろう。何か、もがいて闘っているうちに彼岸は向こうからやってくるという楽観主義に陥るというのも単純バカのなせる技であった。

彼らが非合法活動に入ったあたりの昭和44年の春先だったと思う。僕は駆け落ちまがいのことをしでかして、隠れて銀座の天一で皿洗いをしていた。そこへ休憩時間に電話がかかってきて「赤軍だけど、兵士として出頭しろ。」といわれる。その何日か前、世田谷の友人のアパートに転がり込んでいたところに青砥幹夫がやって来て「もぐる」と言うからバカなことやるなと必死で止めたが、バイトにいっている間に消えていた。その関係だろうと直感した。

「兵士としてならことわる。将軍ならいってもいいが・・・・・・」と応えたら「フン」といって電話は切れた。兵士なら上官がいるだろう。バカにこき使われるのはごめんだ、という感覚は後の反抗的会社員生活でも継続した。生来のものだから仕方がない。万に一つもないが、ふらふら行っていたら今頃生きてはいなかった。

話は脱線するが、この天一(銀座四季店)のバイトの時の店長が、いずれ店を持つという噂だったから、いつか訪ねてやろうと思っていた。かなり後になって、銀座天亭の越田さんだったことが分かって、それじゃあ、「ちわーすっ!」などと気軽に行ける店じゃないなあと思った。当時は、いつもにこにこしていて優しい人だった。僕が今日でおしまいという日に、「それじゃ、俺がひとつ、特製かき揚げ丼を作ってやろう」となって、贅沢なまかない飯にあずかったのが、あの頃の思い出のひとつである。

ついでだからもう一つ思い出話をしておこう。連合赤軍事件が生理的にダメな最も大きな理由は「十六の・・・」に金子みちよの墓標が含まれていることがある。

天一のバイトの数ヶ月前に、横浜国大の友人宅に寄宿して、一夏土方のバイトをしたことがあった。ある夜、南太田のアパートで友人とくつろいでいたときのことだ。もう十一時をまわった頃、外から「越後君いる?」というくぐもった女の声が聞こえた。と思った次の瞬間、勢いよく板の引き戸が走った。そこには、小柄でどちらかといえばかわいらしい顔だちの、しかし、僕のそれまでの人生の中で初めて出会ったとびきりの美少女が廊下の暗がりを背景に漱石風にいえば「すっくり」と浮かび上がっていた。さすが横浜、大都会は違うなあ、それにしてもこんな夜中に・・・と、田舎者はあっけにとられていた。それが金子みちよであった。

やや興奮気味の様子で「吉野君は何処?」と誰かを探している様子。越後君はもう亡くなった僕の友人だが、その頃吉野君の家庭教師のアルバイトを彼が地下に潜るというので、引き継いでいたのだ。「知らない。」と応えると、その気の強そうな顔を少し曇らせてすぐに引き返していった。いうまでもなく吉野君とは浅間山荘で捕まったあの男である。

薄暗い裸電球の明かりに照らしだされたあの記憶の中の姿は、僕の飾りすぎた幻想に過ぎないかも知れないが、いずれにせよ、たった一度の一瞬だっただけに強く印象に残ったのであった。

それが、数年後のある朝、僕はまだ学生だったが、朝刊にでかでかと殺されていたことが報じられていたのである。なぶり殺しであった。しかも彼女は身ごもっていたらしい。僕は、朝食の最中だったが、あまりの衝撃に思わず吐きそうになった。連合赤軍の文字に吐き気を覚えるようになったのはその時のトラウマかも知れない。

話を元に戻そう。

「・・・・・・それよりも、いまは忘れられつつあるかつての知性がどんなものであったかを紹介したい。」

反知性主義に陥らないために「知性とはこういうもの」という認識が大事なことは言うまでもない。

その事例が「物理の散歩道」だというのだが、そこにどんなことが書かれているか残念ながら極く一端が紹介されているだけで内容はよく分からない。

「電子機器には増幅装置が組み込まれている。増幅装置の最も原始的な形は、水道の蛇口からしたたり落ちる水である。」

と紹介されているが、これで僕が想像したのは、「蛇口から落ちる水の雫が、(スローモーションで見たとき)下の水たまりに落ちてくぼみができ、そのカーブに水玉が砕け散る音が反響して次々に空間に広がっていく」イメージだった。だから夜中の学校の洗面所にこだまするあの怖いポトーンポトーンという音のことかと思ったのである。

ところが、「物理の散歩道」を読んでみるとおよそそんなこととはまったく関係のない話であった。

増幅されるものは「音」に限らない。例えば、人の感覚では感じない小さい変化を大きくして伝えるセンサーのようなものだって増幅装置と言えるのである。

「蛇口からしたたり落ちる水」、これがどういう状態の水なのかといえば、実はこうである。

まず、蛇口をひねって勢いよく水を出す。それから徐々に蛇口を閉じていくと、蛇口と流し台の間に出来る水の柱は次第に細くなり、やがて落ちてくる水の勢いが弱まると水の柱は中間から見え方が銀色に変わり、だんだんに下の方から切れて水玉(水の表面張力が勝ると)になりはじめ、ポトポトしたたり落ちた末に蛇口を閉め切ると水は止まる。それでもパッキンがいかれていたりすると水は蛇口から少しずつにじんで、それが表面張力でいったんは貯まって丸くなろうとするが自重に絶えきれず落ちて規則的な音を響かせる。

「増幅装置の最も原始的な形」といっているのは、この一連の動作の中の極めて微妙な一瞬、つまり「蛇口を閉めていって、流し台との間に出来た水柱の下の部分に水玉が出来るか出来ないかという微妙なシタタリオチル(=とは表現しないはずだが)状態」の水柱が増幅装置になるという実験の話なのだ。

この状態の水柱は、外からの音や振動によって見かけの状態が微妙に変化する。一方、電子機器の増幅装置は、弱い電気を強い電気に変えるとか、電子の流れを切ったりつないだり、あるいは電波を強めたり変化させたりしている。このモデルと水の柱のふるまいを近似していると見て、それを検証するプロセスが書かれている、というのが大まかにいえば、その内容であった。

ただし、コヒーラーとかカーボンマイクロフォンとかの構造と機能、真空管やトランジスタ(半導体は未だ話題になっていない)の機能についての説明は、やや専門的で分かりやすいとは言いがたい。電気や電子、増幅器の基本的な知識が乏しい文系頭には、正直なところ、さほど感動的ということはなかった。

紹介するなら「線香花火」のほうがよかった。ぱちぱちはじける火花の中で何が起きているか、関心があるのは僕だけじゃないような気がする。こよりの先に火をつけてからあたりに彼岸花の咲いたような最高潮、次第に弱くなってぱやぱやと消えていく一連の流れ。最後に火の玉だけになっても容易に落ちないのは何故なのか?化学式を使って、解説する技にはさすがと思わせるものがある。

欲を言うと、そもそも較べるのはナンセンスかも知れないが、寺田寅彦の随筆は、ずぶの素人にも分かりやすいし、文章に味わいがあってこっちも同時に読むのを僕なら薦める。

別に難癖を付けているわけではない。「かつての知性」だから説明がややぞんざいになっても仕方あるまい。(呉智英さんに許された紙数が少なすぎた。)

それよりも、この本を推薦した最も大きな理由は、ここに宿っている精神が「反知性主義」の「旧来の知の権威への反発と平等の理念」とはいささか異なったものにならざるを得ないという皮肉に気づいて欲しいというものであった。

「私はこの種の科学エッセイが好きであった。『分かること』が好きだったからである。これは『分からせる』ことと対になっている。つまり啓蒙主義である。もちろん、啓蒙は一億万民に対して可能なのではない。啓蒙は啓蒙可能な人に対してのみ可能であるその意味で、実は閉鎖主義でありエリート主義である。」

背後に知性が感じられない「反知性主義」などというものが何ほどのものか、と言っているのである。もっともな話である。

それなら、反知性主義といわず、実質をともなわない知識偏重である知識主義に対して反知識主義とでもいいかえたらよろしかろうと思うのだが、「反知識主義に陥らないための」となったら今度は知識主義がイイとなって何処までも矛盾するのである。

元々の英語、Anti-intellectualismを反知性主義と翻訳したときからの混乱ではないかと思うのだが、その本家本元、米国におけるAnti-intellectualismが何か、確かめておこう。

橋爪大三郎さんがこの「・・・・・・必読書70冊」で推奨していているのが森本あんりの『反知性主義』である。

この本によると、反知性主義には米国移民がはじまった頃の宗教事情に背景があるといっている。

どういうことか?

「カルヴァン派の敬虔な人々が上陸したニューイングランドで、信仰をともにする人々が、視える聖徒(ビジブル・セイント)の社会を構成した。信仰が視える(観察可能)とは、とても大胆な仮定である。信仰は、神の恩恵なので、自分の努力で手に入れることが出来ない。信仰は神からやってくる。その「回心」体験が得られない人々は、半途契約(ハーフウエイ・コブナント)を結び半人前の扱いに甘んじた。

教会の牧師の説教は、人々を信仰に導くか?

大学でヘブライ語やギリシャ語を学び、聖書学や神学に詳しいインテリの牧師は、理屈っぽくて、説教がつまらない。一方、学歴もなく経歴も怪しげな巡回説教師、話術が巧みで、聴衆は涙を流し感動に打ち震えるようやく回心を経験する人々も続出する。

これこそイエスの望んだ福音宣教ではないのか。信仰に役立たない、知性主義の牧師はダメ。教養や専門知識ではなく、普通の人々の常識が、この社会をつくり、この国を支える。アメリカ建国の理念、自由と民主主義の土となるのが、もともとの反知性主義なのである。」

これに対して、フランスは革命によって信仰ではなく哲学と理性が善いものになった。だからアメリカのような反知性主義のための場所がない。教養や専門知識を欠いた一般大衆は、発言権がない。日本も同じ、理性主義だ。マルクス主義=共産党にも反知性主義の場所はない。すると、硬直した官僚支配にならざるを得なくなる。

橋爪先生は、それに対応するには、一般社会の常識にのっとって物事を進めていますか?と素朴に問いを投げかけることではないか。反知性主義は、知性に対する感情的な反発、のことではない。知性と反知性主義のベストミックスを、生み出す知恵を望みたい、と実にもっともなことを言っている。

ここでも、我が国における反知性主義の騒ぎは一体何なのだ、という疑問が提出されている。

どうやら結論が出たと思うのでここらで止めようと思ったが、最後にこの米国建国の頃の牧師の話を思い出したので書いておかう。

以前書いた劇評「るつぼ」のことである。

アーサーミラーの代表作で、メイフラワーから少したった十七世紀の終わりごろにマサチューセッツ州セイラムで起きた魔女狩りが題材になっている。

物語の発端を僕は劇評の中でこう説明した。

「劇の中で明らかになっていったことを縫い合わせると、 事の発端は、村の少女たちが夜中密かに森の中に集まって、降霊会に似た遊びをしているところを一人の大人に見とがめられたことであった。

娘たちと同齢の男の噂話に熱中しているうちに興奮して裸になるものや中にいた黒人奴隷が見知っていたブードゥー教の儀式のまねごとに興じるなど、少女たちは背徳的な行為と知りながらピューリタン的禁欲の抑圧的な日常から解放される快感に酔い、騒いでいた。リーダーはアビゲイルという頭の切れる美しい17才の少女である。

それを村の教会のパリス牧師(檀臣幸)に見つかってしまったのだ。

少女たちは散り散りにその場から去った。

気を失った十歳になるパリス牧師の娘ベティ(奥泉まきは)が、取り残されていた。」

このハリス牧師が、魔女など何処にも存在せず、少女たちのバカ騒ぎにすぎないことを百も承知しながら、村人の実力者のいいなりなってしまったわけがあった。

「・・・・・・ともかく年端のゆかない二人の少女が一種のショック状態なのだと分かっているパリス牧師が、躍起になって火消しを図ろうとする。最初は、悪魔などいないという冷静な態度であった。

ただし、森の中で見た事実を言うわけにはいかない。自分の身内がかかわっているからだ。それに、パリス牧師はセイラムで問題を抱えていた。この商人あがりの牧師は、 ハーヴァード出のインテリなのによそ者だからといって尊敬されていなかった。

さらに、村の実力者パットナムが、以前身内をこの教会の牧師にしようとして失敗したことから、パリス牧師を快く思っていないことを知っている。

かねてより村との約束と食い違う、牧師としての待遇に自分が不満を持っていることは村人も周知であったから、口実さえあればいつでも教会を追われる危険があった。」

米国社会で、いまでもハーヴァード出の牧師がそういう扱いをされるのかどうかは知らない。

しかし、当時は明らかな「高学歴」でも一目置かれる、なんてことがなかったのがこれで見て取れる。

僕は、パリス牧師が何故これほど説得力がないのか実は不思議に思っていたが、米国における「反知性主義」が隠れていたとは知らなかった。

いずれにしても、我が国のWeb上の言論が反知性主義であるとしても、攻撃されている知性主義のほうがサッパリみえてこないのは、橋爪先生が言うとおり、「反知性主義は、知性に対する感情的な反発」に過ぎないのではないかという気がする。感情的な反発には適当な対応方法があるだろう。

それを大まじめに扱っているふりをする我が国の出版界は、たいした詐欺師である。

(Webの匿名性=無責任を指摘した手前、本名を出さざるを得なくなった。迷惑をかけたとしたらここで誤っておかないと。ごめんな。中澤君。)

 

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2011年10月 3日 (月)

角幡唯介の新刊二冊を読んだ

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角幡唯介「空白の五マイル」が面白いというので、本屋に行ったら最新刊の『雪男は向こうからやってきた』しかおいてなかったからそれを先に読んだ。(読み終わってすぐに「空白の・・・・・・」を手に入れたけど。)
『雪男・・・・・・」は、角幡がイエティ・プロジェクト・ジャパンと称する雪男捜索隊に加わって、2008年八月から十月にかけてヒマラヤに滞在したときのドキュメントである。早大探検部以来、チベットの秘境、ツアンポー峡谷の空白の地図を埋めるという目的にとりつかれていた彼自身は、雪男のような未確認生物に興味を持ったことはない。新聞記者を辞めたばかりのタイミングでもあり知人の誘いにのった形である。Yukiotoko_2そんなことだから出かける前の数ヶ月の間に、文献を漁り、雪男を見たあるいは足跡を発見したという人を訪ねて入念な取材をしながら心の準備をしている。

 

登山家の芳野満彦、田部井淳子、今井通子などのほか、ルバング島で小野田少尉を発見した鈴木紀夫の妻にも会っている。鈴木は、ルバング島の後、雪男捜索にのめり込み、何度も挑戦したあげく雪崩にあって命を落としている。
この鈴木紀夫に角幡は、格別な思いを持ったように見える。鈴木は、ルバング島の残留日本兵発見によって一躍冒険家としての名声を手に入れたかに見えたが、しかし、実際には主客は逆転していた。ときに鈴木は「小野田さんによって『発見』された鈴木」と自嘲気味に自己紹介することがあったという。
何度もヒマラヤの同じ場所に足を踏み入れ、雪崩が頻発する谷とわかっていながら雪に埋もれるというのは一体どうしたことか?ルバング島のあと鈴木は結婚して子供までいた。無謀なことをあえてする年でもない。そのとき鈴木の目に探していた雪男の姿が写ったのか?あるいはまた・・・・・・。冒険家の死はなぞをうむ。

 

そのころ、僕らと同じいわゆるヒッピー世代の若者は、世界中ふらふらさまよっていた。今思えば、同世代の鈴木が、なぜルバング島に出かけたのか不明であった。あのときは、たまたまたどり着いたところで元日本兵と出会っただけだと思っていたので、少なくとも僕は、鈴木を世に言う冒険家などとは思わなかった。実際には、山にこもっていた二人の日本兵が銃を持って、時折麓の村を襲っていたと言うから、会いに行くのは危険であった。したがって、マスコミも世間も冒険家として認めたかどうかはともかくその勇気はたたえた。
その後、雪男探検をしていると分かって、どこかしら滑稽なものを感じていたが、意外にも本人は大まじめだった。その「発見」が名誉挽回、こんどこそ本物の冒険家の証になるはずだったというわけである。

 

角幡は、新聞記者を辞めて職業としての冒険家に否応なくなろうとしているとき、これから向かおうとしているヒマラヤの山中に消えた鈴木の人生について考えざるを得なかった。むろんそれと自分が重なると言うことではない。何か冒険家という業のようなものを鈴木の生き方に感じたのかも知れない。

 

そういえば、昔、植村直己の書いたものを続けざまに読んだことがあった。おそらくすべて読んでいる。細かいことは忘れてしまったが、彼が何故最期になった厳冬のマッキンリーに単独登頂を試みたのか、確か未だになぞのはずである。その必然性もなかった。その四年前に目指した二度目のエベレスト遠征で、登攀途中、若い隊員を死なせてしまったことが尾を引いていたと言うものもいるが、その心の内は誰にも分からない。冒険家の死はなぞなのである。

 

今唐突に思い出したが、今給黎教子がヨットで単独世界一周をして帰還したときだったと思う。彼女はおそらくそのときは無名であった。集まった記者たちに金を請求したことが報道されたので記憶に残った。前代未聞の有料記者会見だったのである。このときは、強い違和感を覚えた。女性初(?)の単独世界一周だったのかも知れないが、誰が頼んだわけでもなく、勝手に行った行為であり、メディアが報道しなければそれまでの話である。冒険には違いないが、アマチュアが趣味でやったことにすぎない。話を聞きたいなら金を払えと言うのでは、「知られたくない。そっとしておいて欲しい。」と言っているようなものである。
このときテレビに映った今給黎の顔は、見にくくゆがんでいるように見えた。金も暇もかけたのだから急いで取り戻そうとしているように写った。本人にその気はなかったかも知れないが、有料だと言われたとたんに冒険は不純なものになった。金のために命を張ったのである。
いま、今給黎はヨット教室をやったり講演などで忙しくしているらしいが、若い頃の冒険の上に生活を築いていることを考えれば、あの「有料」記者会見などをやる必要もなかったのである。あれは彼女のキャリアの汚点であろう、(と思って事情を確かめようとしたら、少なくともWeb上にこの記録は痕跡すら残っていない。ひょっとして、記憶違いか幻だったかも知れないから、知っている人がいたら教えて欲しい。)

 

ところで、この文は書評を試みているわけではないことを早めに言っておく必要があった。「雪男は向こうからやってきた」と「空白の五マイル」の書評ならWeb上にもたくさんあるので、僕がとやかく言うべきものでもない。
言いたいことは二つである。
まず一つは、上にも少し触れたが、冒険家という職業が成立するのは何故か?ということについて、一言言いたいということである。そんな小難しいことを一言で済ますわけにいかないのだが、こんなところで体系的に語るわけにもいかないので、角幡のブログに書かれていた見解に沿って話そうと思う。
もう一つは、角幡の記述と文体の問題である。これについては、ほとんどの書評がほめている。新聞記者を五年もやっている男をつかまえて、今さらお前が何を言う、というむきもあるかも知れない。むろん水準以上で、だから売れていることを認める。しかし、僕には不満がある。その点を話そうと思う。

 

まず、角幡のブログ(9/22付)に書いてあることである。
「日本山岳会会報「山」と産経新聞に掲載された国立民族学博物館小長谷教授の文章について」と題されたものである。
この文章の末尾には「小長谷さんの文章を読むと、知的でない人間がリスクに酔って、勢いで冒険し、賞をとった、との論旨に読めてしまう。読者にバカだと思われるのは癪なので、一応、自分が普段考えていることを簡単に記した。」とあって、これは抗議の意味を込めたものである。

 

「今日、日本山岳会から「山」という会報が送られてきた。私は同山岳会の会員ではないので、なぜかなと思ったが、私の『空白の五マイル』が梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞したことを記事にしたので送ってくれたらしい。

その記事に小長谷有紀さんという、国立民族学博物館教授の方が書いた文章が掲載されていた。読んでみると、この文章には、いくつか看過できない点がみられる。日本山岳会の会報くらいなら、黙って見過ごしてもいいが、もともと産経新聞(8月4日朝刊)に掲載された記事らしいので、一応指摘しておく。文章は『空白の五マイル』が梅棹賞などを受賞したことと、本のおおまかな内容を伝えて、次のように続いている。

 

本人のブログには「書くことを前提に冒険行為をした場合、原稿に書くことを常に意識して行動するため、行為がどうしてもそこにひきずられてしまう。わたしの場合は書くことを前提に探検や冒険をするので、よって行為としては純粋ではない」とある。
彼にとって、探検と冒険は同義であり、どちらも純粋だが、書く目的があると不純になるというわけだ。さしずめ、結婚を前提としたおつきあいは純愛にはならないということか。
梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される。」

 

角幡は、これに不満だったために、二つのことを指摘している。
まず、自分は「探検」と「冒険」を同義に扱っていない、ということ。
これについてはもともと別の意味を表す言葉だから当然と言えば当然である。小長谷教授の筆が走った勇み足である。「結婚を前提に・・・」云々という一見もっともらしいたとえも位相の違うものを並べてピントがずれている。そこに漂う揶揄するような匂いは不快だったかも知れないが、角幡もあまりこだわる必要もなかった。
次に、「行為は書く目的があると不純になる。」といったことについて、おおよそ次のようなことを補足として言っている。
登山家は頂上を目指すのが目的で、書くのはあとから結果をなぞることになる。従って、目的が書く行為から独立しているから純粋といえる。一度の行為で一冊の本にすることを目的にしている自分としては、「設定自体が物語ることを前提に規定される」場合があるのはやむを得ない。それを純粋でないというならそのとおりで、 行為と表現の間には微妙な関係が生じざるをえない。

 

言っていることは理解できるが、これが少しいいわけがましく聞こえるのは、「一度の行為で一冊の本」が目的という言葉に、読むものも角幡自身も引きずられているからである。つまり、本を書くことが目的で、探検ないし冒険はその手段であると誤解されかねないのだ。授賞記事がやや皮肉っぽい語り口をおびたのは大人げないともいえるが、小長谷有紀が引っかかったのはどうもそこにありそうだ。
もともと小説家である開高健が、巨大魚を釣りにあまり人の行かない秘境に出かけるというのなら、そういう言い方も成立する。しかし、さすがに開髙も「一冊の本を書くために」冒険の旅に出るとはいわなかっただろう。彼は「純粋に」釣りが好きだった、ということは端から見てもよく分かった。
開髙が旅に出て、そこで出会った出来事や見たこと、感じたこと、考えたことを本にすれば、それには一定の数の読者がついていて本は確実に売れた。本を書くために冒険するという「たとえ」も嫌みなく成立したといえる。
しかし、それは「たとえ」であって、彼における釣りは「純粋」に彼の欲求であり、幸か不幸か、対象=目的は「幻の」「巨大」希少魚でなければならなかった。
「幸」の部分は、対象魚が凡百の釣り好きをはるかに超えていることであり、「不幸」は、趣味の域をはるかに超えた金がかかることである。

 

昔、ニューヨークが世界で最も危険な街と言われていた頃、住んでいた友人が「そのとおりだが、一方で、ニューヨーカーは、この顔の皮膚がひりひりするような、肩のあたりが張ってくるようなあぶない感覚がたまらないのだ。」といっていた。人間は、そういうじんわりと漂う恐怖が必ずしも嫌いではないらしい。
冒険家の感覚は、それとは次元が違うかも知れないが、ときに自然と一体になり、ときに自然と対峙して命のやりとりをするという究極の「リスク」を味わう苦痛を客観的に見られる能力を持っていることは確からしい。

 

角幡が「高い給料をくれる」朝日新聞を辞めた理由は、推量するに、個人としてこの「究極のリスク」を犯すことを大新聞社は許さないと判断したからだろう。将来は欧州か米国のどこかの支局長を務め、やがて論説委員になって高みから世に警鐘を鳴らし、高い収入と社会的地位、安定した老後を確保して一丁あがりのような人生は、想像すらできなかったに違いない。山一つ超えたところに何があるのか、それを確かめて進むのが俺の生き方だと思ったときに、人もうらやむ境遇をおそらく躊躇なく捨てた。
目の前には学生時代にやり残したツアンポー渓谷がある。単独でやるだけの費用は持っている。しかし、それをやりきって、その先に何があるのか考えもしなかった。とはいえ、これから先毎月の給料はどこからも振り込まれない。どうやって暮らしを立てようか?
考えてみれば、自分は五年間新聞記者として記事を書いてきた。かせぐと言う意味で、実績と言えるものは文章を書くこと以外にない。自分の行為を本に書いて、それが売れれば何とか暮らしが立つと考えるのはごく自然の成り行きであろう。

 

角幡は、出発点において、開髙健でも梅竿忠夫でも本多勝一でもなかった。彼らの境遇とは対極にあって、徒手空拳で自分のやりたいことに挑み、あとは朽ち果てるかも知れなかった。名もなく朽ち果てないためには本を書くこと以外思いつかなかったのである。
そしていつしか自分の行為=探検、冒険と本を書くことが切り離すことができなくなり、本を書かなければ「行為」は成立しないとまで思い込んだ。しかし、行為そのものこそ真実で、それを言葉で表現することの間に生ずるある種の乖離、それは何につけ書くことにつきまとう必然的な「差異=隙間の存在」と言ってもいいのだが、その本質的な関係を「不純」と思ってしまったのだろう。
そんなところに不純も純粋もない。登山も探検も冒険も行為である。書いたものはそれを伝える表象で、たとえば映像ですらも体験そのものではない。その間を補完するのはただ一つ、読み手、受け手の想像力だけである。

 

小長谷有紀も教授と言うくらいだからいい加減分別のある年だと思うが、若い角幡が「不純」と言ったところで、そんなところに拘泥して皮肉混じりに混ぜっ返すのもいかがなものか。
批判はこれくらいにしようかと思ったが、次の文には少し問題があると思うので付け加えておこう。
「 梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される。」といっていることである。

 

探検や冒険が「衝動」という素朴で子供じみた欲求に根ざしているという認識が間違っているとは言わない。また、それを何らかの方法で伝えたいという気持ちが生ずるのも頷ける。ただし、その「言辞」が正しいのは、少年少女向けという限りである。

 

実際は、探検や冒険はそのうらに侵略や軍事や商売が隠れている場合があり、登山にしても国威発揚や功名心とか、その動機が必ずしも俄にわいた「衝動」だけとは限らないことをすでに僕らは知っている。登山や冒険は、その多くは結果だけが伝えられるが、到達のプロセスにおいてどのくらいの金がかかったかは誰も知らない。そしてそれがどんな方法で調達されたかほとんど誰も問題にしない。GPSを使って位置を知り、飛行機で補給を受けて達成される冒険もある。角幡も言っているが、グーグルアースのある時代に何が探検か?と。
また、登山家や冒険家が同時に読むにたる本を書けるだけの文章家であることが希有であろうことも僕らは経験上知っている。小西政継がグランドジョラス北壁を登りながら、この体験は是非書きたいと思ったかも知れないが、一人でできる技ではない。出版社や編集者やその他誰やらプロ集団がよってたかってできた本であろう。思うに長谷川恒夫や加藤保男、植村直己しかりである。
開髙健は文章家だが、彼の冒険のためにコックを雇い通訳とガイドに、CF撮影隊までつれて秘境にでかけた。彼がやったことは、その連中相手の際限ないおしゃべりと魚がいるらしい場所までつれていかれたボートの上で、ウイスキーをやりながら竿の先に魚がかかることをひたすら待っただけのことである。

 

僕は、それらを批判する気があって言うのではない。どんな便利な機械を使おうとどんなに金をかけようとまた、本人がひねり出した文章でなくても、その探検や冒険が不純だなどとは思わない。
ナイーブな好奇心が純粋で、技術もないのにただ伝えたいと思う心だけが純粋ならば、そこからの逸脱は不純と言うことになる。世の中はそんなに単純なものではない。今給黎教子は有料記者会見で世のひんしゅくを買ったが、かかった金をどうしてくれるんだというはしたない本音がでただけで、成し遂げたことが正当に評価されたから今日があるのだろう。また「オーパ!」はその怠惰な冒険にもかかわらず版を重ねたのである。
それらが評価されるのは、純粋だからではない。不純な動機や欲得も含めて様々な事実が重なり合ってできた結果を、金を出して消費するだけの価値があるか、俄仕立てのタレントが書く「小説」よりは、その「事実」の方が面白いと思えるか、あるいはどれだけ「快挙!快挙!」とはやし立てたかといった要素が複雑にからみあって、それは探検や冒険に「なる」のだ。

 

「純粋に愛でる」などという小長谷のような言い方には、探検や冒険に「純粋」があるかのような、あるいはそれを要求するようなニュアンスがある。小長谷にしてもその師匠である梅竿にしても、「純粋」であることが可能だと思うところがいかにも学者の脳天気なところで、長年税金で仕事をしていると、物事をやるには金を稼ぐとか集めるとかの苦労が存在することに気づかなくなるものだ。
「梅棹忠夫・山と探検文学賞」の主旨はそれでいいが、純粋さを気にするあまり、「一冊の本を書くために」といった動機に言いがかりをつけるような野暮なことはしないでもらいたい。

 

冒険家という職業が成立するのは、確かに子供じみた「純粋な」衝動がきっかけになるかも知れないが、むしろそれを実現するコストを資本主義的システムの中でどう調達するかという現実的な、生臭いと言ってもいい問題にかかっているといえる。たとえ、それがあったところで、冒険や探検の価値が下がるなどと誰が批判するだろうか?われわれの社会の成熟度はそんなことを許容しないほど低くないはずである。
さらにいえば、グーグルアースの時代の探検や冒険は変質していくかも知れないが、「行きたい、見たい、知りたい」衝動がなくなるとは思えない。しかし、それが個人の体験にとどまるかぎりでは、それは世間的には存在しないことになる。 外に向かって表現され伝えられてはじめて、「事実」が誕生するのである。そして、それが価値をうむのもまた資本主義的なシステムに運命づけられているといえるが、それでもなお、人がその物語に関心を寄せ、探検や冒険に感動する理由は、それが自然と対峙して命のやりとりをするドラマであり、その行為こそが究極の人間的自由の表現であると思えるからある。

 

(この角幡のブログで翌日、小長谷有紀が女性であることに気づいて「昨日は言い過ぎた」という反省の弁を書いていた。

 

「…女性だったら印象はぜんぜん違う。たとえばさっき批判した最後の「リスクといえば、わたしたちは今、山にのぼらずとも、十分に大きなリスクとともに生きていることを強いられている」という部分も、そうだよなあ、女性的なやさしい発想だよなあ、と納得できた。「純粋に愛でた」という部分も、そりゃそうだ! となったのだが……。」

 

僕としても、産経新聞の記事にあたってから書くべきと思って探したが、どうやっても見つからなかった。だから、小長谷が書いたものを確かめていないので、角幡が引用した部分だけでこれを書いたとことわっておきます。それでも、「山に登るリスクと生きているだけでもリスク」という言葉には、そんなバカな比較があるものかと思うが…)

 

つぎに、不満があるといった方である。
幸い、角幡唯介は文章家である。彼の探検や冒険を描いたものに筆を入れようという出版社も編集者もいないだろう。
「雪男は向こうからやってきた」は、前にいったとおり、事前調査は徹底している。特に、関係者へ直接会って取材を行う場面は、さすがに新聞記者らしい手腕で、その文は簡潔にして明快、刑事物の小説を読むような謎解きのスリルがある。資料の並べ方も、読者が雪男探索の100年の歴史を概括的に頭の中に描けるようになっている。
問題は、探検の場所に入ってからである。
ダウラギリⅣ峰を目指すルート上にあるという捜索エリアは、添付されている地図を見ればわかるが、文中の現在地がこの地図上のどこにあるのか、回りの様子はどうなのかという点が文章からはわかりにくい。実際に読者がそこに身を置いたら何が見え、行動にどんな難儀があるのか実感しにくいのである。
この場所と少し下のジャングルとの位置関係やジャングルの様子、集落との距離など読者の頭の中に関係地図が自然に描かれるように書かれていない。書き手が、移動した自分の回りを標準レンズだけのカメラで写すような描写は、読んでいて疲労感があるのだ。
現代人は映像によるプレゼンテーションになれているので、言葉によって自分の中にその映像を再現しようとする。普通の読者が行ったこともないところだから、かなり言葉を選んで描写しなければ、不完全な映像ができあがって不満がつのる。

 

精読していっていることではないので、単にこっちの頭が悪いだけのことかも知れない。ただし、「空白の五マイル」のほうも現在地がどこなのかかなりわかりづらい。こっちは、大まかな地図さえ頭の中に描けない秘境のことだから何がどうなっているのか添付の地図に何度も戻りながら読むしかなかった。
特に道のない藪こぎの場所では、植生がどうなっているのかあまり説明がないので、以前見たことのある南方のジャングルをなたで切り開いて進むような場面を違うだろうなと思いながら取りあえず想像しながら読むことになった。シャクナゲが特徴的に登場するが、これは普通われわれは花として知っている植物で、これが薪になるような灌木であることを知らなかった。ほかにも植物はあったはずだが、筆者の興味はシャクナゲ以外には向かわなかったと見える。

 

この状況の描写は、ただでさえ難しい技だから次回以降に期待するのであるが、反面行動中の心理描写となれば俄然訴えてくるものがある。特に最終章、「二十四日目」の飢えと死が迫ってくる緊迫した様子は、はらはらどきどきの連続で読者の胸をしめつけ、一気に読ませる力がある。
むろんそれが、探検や冒険の話の醍醐味なのだが、この大団円をどう準備するかが途中の風景描写や舞台装置の説明にかかっているというところもあるので、一冊の本にするなら、緻密に計算してかからないといけない。

 

それが、この二つの本ではなかなかできなかったのではないかと同情する面もある。
二冊とも、実際に行動する場面と取材や集めた資料の説明部分のバランスが非常に悪い。理想を言えば、関連情報を一とした場合、実際の行動は二ないし三ぐらいの量になるべきだが(この場合は説明資料が二であってもいい)そうはなっていない。
おそらく、三百ページが出版社のあらゆる意味での見積もりの限界だったのだろう。三百ページを前提とすれば、このテーマの場合、行動部分をかなり圧縮せざるを得なかったのではないかと想像される。
文庫版にするときにでも増やしたらどうかと思う。
(よけいなことだが、ついでだから、この手のものを集英社が得意とは思えないといっておこう。)

 

以上、書きなぐってしまったが、結論として僕が言いたいことはただ一つである。

 

角幡唯介という若いドキュメンタリー作家の誕生を寿ぎ、彼の探検と冒険が長く続くように祈る。
そして、それが持続するために僕らができることは、彼の書いた本が出版されるたびにそれを購入して読むことである。
がんばってくれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2011年2月24日 (木)

「ミレニアム」を読んだぞ!

Millenium 「ミレニアム1 ドラゴンタトゥーの女」(「ミレニアム」シリーズ3部作の1、スティーグ・ラーソン、早川書房 2008)を読んだ。ついでにシリーズ全部を読んでしまった。

 

経済誌「ミレニアム」の編集者で記者のミカエル・ブルクヴィストは、スウェーデン有数の企業グループを率いる実業家ヴェンネルストレムの不正を追及する記事を掲載、逆に名誉毀損で訴えられる。ニュースソースには、ねつ造されたものが含まれており、ミカエル・ブルクヴィストは、反論するまもなく敗訴、禁固三ヶ月と罰金刑の判決を受けて控訴を断念する。
長年培ってきた記者生命が危うくなり、雑誌に対する信用も傷ついた。ヴェンネルストレムの反撃は、広告主への無言の圧力となって「ミレニアム」の経営にもおよんだ。
そうした中、密かにこのミカエルの身辺調査をするものがあった。警備会社ミルトン・セキュリティと契約するフリーランスの調査員リスベット・サランデルである。身長150cm体重40kgあまりのがりがりにやせたまるで女の子供の体躯、耳と鼻と舌にピアス、背中にドラゴンのタトゥをいれ黒い革ジャンを羽織って歩くといういでたちだが、その中身は頭脳明晰で文章能力に優れ、そのうえ凄腕のハッカーでもある。しかし、無口で著しく社交性に欠け、孤独で一風変わった生活をしている。
やがて、ミカエル・ブルクヴィストに、かつてスウェーデンの代表的な企業グループを率いて今は引退したヘンリック・ヴァンゲル前会長から奇妙な依頼が舞い込んだ。ヴァンゲルグループは、今でこそ勢いを失っているが、かつては大戦前からスウェーデン各地に様々な事業を展開し、国の経済発展に貢献してきた。
ストックホルムから電車で三時間あまり北上したヘーデスタ市と橋一本でつながっているへーデビー島にヴァンゲル一族は住んでいる。
暮れも押し詰まったある日、ミカエルはここを訪ねた。依頼というのは、ヴァンゲル家の歴史を書いて欲しいというものだった。それは表向きの理由で、実は38年前に失踪した兄の孫娘ハリエット・ヴァンゲルの行方を捜して欲しい、いや、自分としてはもうすでに死んでいるものと思っているが、もしそうなら誰がなぜ殺したのか調べて欲しいというものだった。ヘンリック・ヴァンゲルは、このなぞを追跡してすでに半生を費やしていた。
調査期限は刑期である三ヶ月の期間も含む一年の間、延長も有り得る。報酬は、罰金刑の金額を払ってもなお十分手元に残るだけのものを支払うというもの。何よりも、この仕事を成し遂げたらヴェンネルストレムを追い込むだけの情報を提供しようという条件が魅力であった。
世間的にみても「ミレニアム」の編集部から一時的にせよ離れた方がいい。引き受けない理由は何一つ見あたらなかった。年が明けてまもなくミカエル・ブルクヴィストは、ストックホルムから事件の舞台となったへーデビー島に移り住む。

 

小説「ミレニアム」は、スウェーデンのジャーナリスト、スティーグ・ラーソンが初めて書いたミステリー三部作で、この「ドラゴンタトゥーの女」はシリーズ第一作である。
島への唯一の通路である橋が通行不能になると言う、いわば密室殺人あるいは密室行方不明事件と言う要素と、名門一族の歴史と複雑な人間関係に過去の連続殺人事件が絡むという、やや古典的ではあるが本格ミステリーの要素で構成されている。

 

こういうものを読むのは何しろ随分久しぶりで、なぜその気になったかと言えば、書評で面白いと紹介されていたのに出会ったこと、その後本屋で大量に平積みされているのを発見したことからであった。純文学の評判のいいのは、大概信用ならないから全く読まないが、ミステリーはその限りにあらずである。それでも少なくともここ十年ぐらいは興味の外にあった。だから、ミステリー好きには「おい、おい」と言われそうだが、フォーサイスやジョン・ル・カレ、クィネル、アーチャー、フリーマントル、ロバート・B・パーカーなどの時代から一歩も進んでいない。記憶に新しいところでは評判につられて読んだ「ダヴィンチ・コード」一冊ぐらいか。

 

この「ドラゴンタトゥーの女」は、作家のデビュー作らしく、取りあえず型にはめて書こうとしたところが出ていて、道具立てはかなり古典的、例によって聖書の記述も取り入れられているところはいかにも西欧の謎解きミステリーである。
そこは、どうも僕の好みではないが、背中にドラゴンタトゥーを彫っている、喧嘩とコンピュータにめっぽう強いヘビメタ風ファッションの小柄な女性リスベット・サランデルが、なにやら曰くありげな過去を背負っていて、まか不思議な魅力を発散しているところがいかにも小説的で面白い。
実際、ミカエルが主人公だとして始まった話は、シリーズ2と3ではリスベット・サランデルの存在そのものが物語の中心となって、スウェーデンの人権問題や反民主的陰謀をえぐり出す社会派冒険ミステリーとなっていて、十分なリアリティを確保している。シリーズ1の古典的ミステリーとは似ても似つかぬこの展開は、ジャーナリストである作者スティーグ・ラーソンがむしろここで本領を発揮したと言うことであろう。

 

これ以上ミステリーとしての面白さを紹介する記事は、すでにたくさんあるのでそちらにまかせることにして、僕はこの小説を読んで実に意外に思ったことがあったので、そのことについて書き付けておこうと思う。どうも僕らは、スウェーデンについてはなにも知ってはいなかったらしい。
この本の扉には、スウェーデンの成人女性の四割以上が、同居する男性または親しい関係にある男性に恒常的な暴力を受けていると書かれている。もちろん物理的な暴力とは限らない。大きな声でののしり脅すと言うのも立派な暴力であるからこれも含む。あの身体のでかい欧州人が興奮したら、それだけで凶器になるという考え方もなり立つかも知れない。
スティーグ・ラーソンは、政治的には極端な国家主義やネオナチ、移民排斥運動などの行動的な極右に対して常に反対を表明してきた左翼リベラル派としてヨーロッパでは知られた人物であった。そして、長年ジャーナリストとして、この男性の女性に対する暴力に反対する意思表示を続けてきたという。 二つは当然関連している。
その背景にはスウェーデン人の間に根強く潜在する男尊女卑の考え方があるというのだ。

 

男尊女卑と言えば、我が国でも戦前までの社会をやり玉に挙げて、 戦後の民主主義社会ではもっとも克服されるべき悪しき価値観の一つであった。「おんなこども」などと表記したら警察こそ来ないまでも、どこやらの人権団体や弁護士、政治家などが飛んできて糾弾されかねない大事になる、かもしれない。差別用語の言葉狩りというのは形式主義で潔しとしないが、ともかく我が国ではあからさまな男尊女卑は無教養のそしりを受けなければならないものとして定着した感がある。 戦争に負けたからよかったことの一つに数えてもいいくらいである。
戦争に負けなかったせいでもあるまいが、スウェーデンでは男の方が女よりもえらいと未だに思っているらしい。しかも、理由はともかく身体の大きい男がひ弱な女に暴力をふるって平気である。「葉隠」にどう書いているか知らないが、武士道精神から言って許されることではないという気がする。

 

あの北欧の、社会保障のもっとも進んだ国、世界中が範とするべき福利厚生の制度を実現したスウェーデンにおいて、半分近いカップルがDVの状態にあるなんて、俄には信じられない思いである。
僕の家の回りには狭い通りを挟んで十軒ほどの家があり、特に親しい者もいないが、道で会えば挨拶する程度の知り合いである。以前、子供が小さい頃、近所に大事にしていたRV車のボンネットを砂でこすったのはお前の息子だろうと怒鳴り込んできたばばあ、もとい老齢の女性がいたが(これはえん罪で実に不愉快だった)今は引っ越して、おおむね回りは Good neighborhood と言ってよい状況である。家の中で何が起きているかなんて知らないが、向かいのベンツが止まっている家やその一軒おいて隣のAir Mac を飛ばしている家や二軒隣の若夫婦の家、その隣の外国人一家の家でDVがあったとすれば分からないはずはない。顔にあざを作ってうつむき加減に歩いている奥さんを見たこともなければ、怒鳴り声を聞いたことも警察が呼ばれたのも見たことはない。
もしここがスウェーデンだったら、僕は確実に四軒ぐらいのDVが行われている家を発見していたことになるのである。それが異常だと思うかどうかはスウェーデン国民の判断に任せざるを得ないのだが、少なくともスティーグ・ラーソンは、その状態を許せないとして、物語を書き進めていく土台の部分にこれを持ってきたのである。
「ドラゴンタトゥーの女」では、若い女が忽然と姿を消した背景にDVを配した。また、リスベット・サランデルの謎めいた過去に、実は母親に対するその夫の壮絶な暴力があったことを続くシリーズの中で明らかにしていく。
50年代の輝ける米国のライフスタイルにあこがれ、やがてそれがチャンスの国ではあっても恐ろしい格差社会であり、戦争好きの勝手な国だと知れて幻滅した。その後、僕らの前に登場した「ゆりかごから墓場まで」の高福祉国家、かつフリーセックスの国スウェーデンは、それこそ僕らの理想とするところではないかと思わせた。
ところがである。どんなものにも光と影はあるものだ。なあんだ、スウェーデンだって一皮むけば僕らとたいした差はないではないか。いや、今時男尊女卑を克服できないなんて、遅れてる!
そう思いたくもなるが、しかし、僕らは明治以来西欧が理想で、それを仰ぎ見るくせがあった。今度はさげすんでもいいと言うことではない。光り輝く部分があれば、その影に隠れる部分もあるというだけのことで、人間にたいした差はもともとないと思えばいいと言うことである。
実態については「ミレニアム」三部作を読んでいただきたい。

 

「フリーセックス」は一時北欧について何かものを言う場合に、にたにた笑いとともに口の端に上ったものだが、それが何を意味していたのかサッパリ分からなかった。今思えば、単に性教育が進んでいただけのことを性的放縦を期待し誤解したのかも知れない。
米国の性革命は60年代に起きたが、これはウーマンリブの運動に代表されるように男女同権を主張するものが主流であった。学生運動の時代と重なる。当然我が国にも多大な影響があった。中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)というのが活躍して随分世間を騒がせたが、結局嵐のように過ぎ去って後にはなんとなくむなしさしか残らなかった。
このあとイヴァン・イリイチの「シャドーワーク」がでて、ヴァナキュラーなジェンダーが議論され、最近では脳の研究が進んでフェミニズムの世界も変容していくが、これらの運動によって、少なくとも世界の先進国においては、女性蔑視の傾向は確実に改善の方向へ向かうことになったといってよい。

 

「ミレニアム」について、フリーセックスを云々する気はさらさらないが、異常なほど互いに貞節を要求する米国流の男女関係に比べれば、主人公ミカエルの行動は実に軽々としている。それがスウェーデン流なのかどうかはわからないが、この本を読んで驚いたもう一つのことがらである。

 

ミカエル自身は娘を一人もうけて離婚している。学生時代から一緒だった編集長エリカとは彼自身が結婚している間も関係が続いていた。エリカには美術専攻の夫がいて、ミカエルとの関係はこの夫公認である。つまり、妻が他の男と寝ていることは許している。これがまたそれぞれ離れられないない仲というなんだか複雑な人間関係なのである。ミカエルの妻は、この状態に耐えられなくて離婚したことになっている。
ミカエルは、エリカとの関係を保ちながらヴァンゲル家の女性たちのうち二人とも別々の時期に親密な関係になる。リスベット・サランデルとも関係するが、これはものの弾みという感があって持続しなかった。 さらに、事件を追及する中で出会った女性警部から誘惑され、あっさりとその気になるのだがこの関係はエリカとは別に長く続きそうな予感がする。
リスベット・サランデルの方は、気が向けばレズビアンの友人と夜をともにすることがあり、旅行先のホテルで行きずりの男を誘惑したり、街で出会った年下の男とも関係する。
こういうことをつらつら考えると、男も女も、性欲には実に忠実に正直に行動しているということであり、ハリウッド映画などにみる倫理観、くだくだ浮気の理由を考えるような後ろめたさはほとんど感じない。そういう感情が全くないわけではないと思うが、ともかくこういう感情のハードルは低い。
このハードルの低いところが、ひょっとしたら、フリーセックスということなのかもしれないと、この本を読んで感じた。

 

作者スティーグ・ラーソンは、「ミレニアム」三部作を書き上げたあと、2004年に心筋梗塞で突然なくなってしまう。世界三十カ国以上で翻訳され一千万部を売り上げるベストセラーになったが、彼は本の出版も、この大成功も見ることなく逝った。
最初、五部までを構想していたが、残されたパソコンには第四部の草稿が入っているらしい。
三十五年間一緒に暮らしたエヴァ・ガブリエルソンには一銭も印税が支払われなかったと言うが、この草稿をめぐって、ラーソンの遺族と争いになり、第四部の出版は絶望的と言うことである。続けて読みたいところであったが、惜しいことである。

 

 

 

 

 

 

 

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2011年1月27日 (木)

「現代文学論争」と加藤典洋の戦後論

本屋で「現代文学論争」(小谷野敦、筑摩選書)というのを見つけて立ち読みしていたら立っていられなくなったので、まじめに読むことにした。

これは、75年に同じ筑摩書房から叢書として刊行された臼井吉見の『近代文学論争』の後を受ける形で、70年代から今日までの約四十年のあいだかわされた主要な文学論争をとりあげて、経緯を説明のうえ論評を加えるという内容の本である。

イデオロギーの対立が厳しく激しかった時代は、保守派と革新派、革新派の間でも党派性の対立などがあって文学者の間でも論争が絶えなかった。メディアもよく取り上げていたし、僕らとしては、はらはらしながら実はそれを楽しんだ。

論争というのは、よく考え抜かれた議論の闘いもあったが、たいていは売り言葉に買い言葉、時には人間性丸出しの闘争になることもあった。複数の参加者が入り乱れ意外な方向に展開すると言うことでは論争だけで十分に小説的であった。『火事とけんかは江戸の華』と言われるように人のけんかを見物することほど楽しいことはない。僕はあの頃から実は論争を見物するのが大好きだったのである。

70年代はじめに就職したのでこの本で取り上げられている年代には、文学に関心はあったが論争になるような文壇事情を知るほどのかかわりを持てなかった。高度成長からバブルがはじける頃まで忙しく会社勤めをしていたからそれどころではなかったのだ。

だから、目次を見て明らかに内容まで知っているものは、二三項目に過ぎなかったが、僕自身の空白の時間に何があったか興味津々であった。

目次を紹介すると以下の項目である。

1.江藤淳の論争 1960-86

2.「内向の時代」論争 1970-74

3.フォニイ論争 1973-74

4.「堺事件」論争 1975ー2002

5.方法論(三好谷沢)論争 1977

6.『事故のてんまつ』事件 1977

7.『死の灰詩集』論争から「反核」論争へ 1983-85

8.筒井康隆の戦い 1984-94

9.「たけくらべ」論争 1986-2005

10.「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」論争 1985ー2005

11.『こゝろ』論争 1986-88

12.『春琴抄』論争 1989-93

13.永山則夫文芸家協会入会論争 1990

14.湾岸戦争から『敗戦後論』論争 1991ー99

15.宮沢賢治論争 1996-99

16.『純文学」論争ー笙野頼子論争 1998ー

17.柳美里裁判とその周辺 1994-2003

このうち、6.『事故のてんまつ』事件 1977 というのは大分後になって(90年代初め頃)岳父から臼井吉見の『事故のてんまつ』一冊をもらったことで知った。

その本には新聞記事の切り抜きが何枚か挟んであったので、これが川端康成の遺族から死者の名誉を毀損すると訴えられて絶版になったことがわかった。川端が72年に突然自死した時はなぜなのかサッパリ理解できなかったが、これで何となく真相が分かったような気になった。

8.筒井康隆の戦い 1984-94 は教科書に取り上げられた作品のことだったので、大々的に報道され、作者が断筆宣言をするという騒ぎになった。断筆宣言がどうして作家の抵抗になるのか理解しがたいと思ったが、筒井の小説は三ページと読み進められなかったこともあって、その後の展開については興味を失った。最初に、筒井康隆を教科書で取り上げなければならないとした編集者の見識はどうかと思ったが、ともかく発端となった作品が差別かどうかで論争になったことはいまも記憶に残っている。

13.永山則夫文芸家協会入会論争 1990 これは、報道されたので、記憶にある。どうせ殺人者だからという議論だろうが、監獄に入っていようといまいと、文芸家に代わりはないはずだ。すんなり入会させない文芸家協会というのはどういう団体かと思った。論争の内容までは記憶になかった。

14.湾岸戦争から『敗戦後論』論争 1991ー99 については、少し複雑である。

ここで取り上げられているのは、『湾岸戦争』が始まろうとしている時に日本の文学者有志数名によって出された反戦「声明」についての論争とそれを受けた形で提出された加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる議論である。

湾岸戦争の『声明』についてははっきり記憶している。ある朝新聞を開いたら全五段のメッセージ広告が載っていたので『やれやれ勘違いな連中がいる』と思った。まず、これは前の世代(の文学者たち)がベトナム戦争に反対した行動に対するコンプレックスがなせる技だと感じたのだ。戦争になって、存在感を示すチャンス到来と思ったのだろう。

これについては以前『必読書150の時代錯誤』に次のように書いたことがある。

「今ごろこんなこと(「必読書150」の出版)をやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対!」と叫んだ連中だけの事はある。何故反対かといえば、よく聞こえない声で、平和憲法があるからだとのたまったのである。古今東西の古典で頭が充満している日本の知識人のレベルとはこんなものだ。まあ、古典を勉強するよりは中東の歴史を勉強したほうがいいのではないか、とその時はあきれてしまったが・・・。」

これは論争になると直感的に思ったが、あまりのばかばかしさにすっかり興味を失っていた。

それから、2000年代に入ってまもなくだったと思うが、あるとき神田の古書市を漁っている時、加藤典洋が「戦後」論を書いて論争になったことを知った。加藤は同世代であったがはじめて目にする評論家で、そのときの評判ではこれまでの「戦後論」とはひと味違う視点で戦後を議論していて、右翼からも左翼からも批判を浴びているというものだった。遅ればせながら読んでみようとしたが、古本屋街では見つからなかったのでアマゾンに二三冊注文して読んだ。

加藤の主張は、押しつけられた憲法ならもう一度あらためて選び直すべきだということと、侵略戦争で死んだ兵士は犬死にだったが、それだからこそアジアの戦争の死者たちよりも先に弔うべきだというものであった。

これだけでは何か唐突のような感じもしたが、当時はまあそういう視点があってもいいかと思った。実は期待していた議論ではまったくなかったので半分はがっかりした。その後別のところで戦前の左翼は戦略的ではなかったと書いて、はじめて新しいことを言ったという印象を受けたのだが、一体どこに問題意識があるのか未だによく分からない。

ところが、一連の「敗戦後論」論争のきっかけになったのが、湾岸戦争の時の『声明』だったことをこの本ではじめて知った。

なるほど、この『声明』を受けて、加藤が声明に署名した連中は『平和憲法があるから反対だと言ったのだな』と書いたことに端を発していたなら、加藤がこのような反論に対する反論ーつまりは『敗戦後論』を書くのはもっともだと思った。

この「声明」と『敗戦後論』のことを書きたかったので、この稿を起こしたのだが、それはあとにして、目次の残りの項目のことを書いておく。

17.柳美里裁判とその周辺 1994-2003 については、何か騒いでいるなという認識はあったが、何かは知らなかった。柳美里という作家は、在日と言うことをはっきり言っていたこともあってデビューした当時から何かと話題になっていた。しかし、僕としては小説を読めなくなっていたので作品については何も知らない。

この騒ぎは、小説のモデルになった実在の人物から内容の改訂を申し入れられ、一部は受け入れたものの、言うことが二転三転して仕舞いには出版差し止めを主張されたと言うことらしい。

このモデルの奇妙な態度をじっくりと眺めながら、裏にある事情について小谷野が推理しているが、ここがこの本のハイライトであり、小谷野敦の面目躍如たるところになっている。

15.宮沢賢治論争 1996-99 は、全く気がつかなかった。

しかし、いつかは出てくる議論だろうと言う予感はあった。宮沢賢治は聖人扱いされてそれが過熱気味であったからだ。冷静にきちんと評価される必要があった。ところが、この論争を確認した限り、本質的な文学論争とは到底いえないような誹謗中傷まがいが横行していることにはがっかりした。国柱会の熱心な信者であったことで、ただの国粋主義者と断じるものもいるとは驚きである。

16.『純文学」論争ー笙野頼子論争 1998ー は、全く気がつかなかったが、読むとすさまじい罵詈雑言の応酬で、女のヒステリーを相手にすると消耗することこの上ない、俺だったらさっさとしっぽを巻いて退散するだろうなと思った。とりわけ「純文学」なんて議論してもなにか生産的な結論が期待できるわけでもないのだから、暇つぶしにはいいが、大の大人がやることではない。

演劇の世界でも、商業演劇と小劇場でやる芝居の内容は違うと言ってよい。どっちがよくてどっちが悪いと言うことでもなく、どっちも観客が存在する限り、やり続けられるのである。『純文学』だって、観客という意味では、風前の灯火かも知れないが読む者がいる限り書く者がいて、書く者がいる限り読むものは出てて来るものである。文字で書く芸術とはどういうものであるべきかなんて難しいことを追求する人がいて、それを読む人と一緒に『純文学』という世界をつくるのであれば、何ら余人の邪魔するところではない。

とにかく女とけんかする男はとてつもなく勇気があるか、さもなくば単なるバカである。

長くなったので、湾岸戦争文学者の『声明』と『戦後論』については、次回にしよう。

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『現代文学論争」(小谷野敦、ちくま叢書)の中の目次「14.湾岸戦争から『敗戦後論』論争 1991ー99」 について思うところがあって、前回稿を起こしたといった。

その中で、2000年代の初め頃に加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論争を遅ればせながら発見して、何か新しい視点で『戦後』を語っているのかと思って期待したが、実は半分がっかりしたと書いた。そのとき何を期待したのだったか、そのことを書き付けておこうと思う。

それは、このブログの「『ハーバード白熱教室』に寄せて 政治と哲学」で、現代における哲学の積極的な活用について書くと約束しておきながら果たしていないことへの回答にもなるはずである。いや、この『敗戦後論』の論争はむしろそれを説明する格好の素材を提供してくれているといってもよい。

この際、それを整理して何をどう考えるべきか検討し提案しようと思う。

取りあえず、発端となった文学者の『声明』について、紹介しておこう。

 声明1

 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

 声明2

 戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。

われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。                         一九九一年二月九日

 

2は発起人16人が名を連ね、1はその16人を含む43人が署名している。

従ってまず16人の名をあげると、

柄谷行人、中上健次、島田雅彦、田中康夫、高橋源一郎、川村湊、津島佑子、いとうせいこう、青野聰、石川好、岩井克人、鈴木貞美、立松和平、ジェラルディン・ハーコート、松本侑子、森詠 である。

1の署名者は省略する。

「湾岸戦争」というのは、1990年8月2日にイラクが突然隣国クウェートに戦車350両の機甲師団10万人で攻め入って、一週間後には併合を発表してしまったことに端を発する。

なぜイラクがそんな暴挙に及んだのかをなるべく短く言うと、まず、クウェートがオスマン帝国のバスラ州の一部であったことが、サダム・フセインのクウェート侵攻の下敷きになっている。

アラビアのロレンスで知られるオスマントルコとの闘いに勝利した英国がアラブを委任統治領にしたとき、英国はすでにバスラ州の一部であったクウェートを切り離して保護領にしていた。当然のことながら石油の利権を確保したのである。

イラクは1932年に独立、王国となったが、1958年軍事クーデターによって共和制が敷かれる。その政権も63年にバース党によって奪われ、やがて79年に大統領に就任したサダム・フセインの独裁政権につながる。翌年からイランとの国境をめぐる紛争が勃発し、89年まで続くが、この戦争によってイラク経済は追い詰められる。(イランに追い出された米国が、サダム・フセインに大量の武器供与を行って助けたことが、モンスター独裁者を生むことになった。)

一方、クウェートは1961年に英国から独立したが、世界最大級の油田を有し、ペルシャ湾に面した良港をもってアラブでも有数の豊かな国になった。

人口約300万人、国民一人あたりのGDPは4万ドル(先進国並み)、税金はなしで医療、教育は無償である。クウェート人は、一日の労働時間は約4時間で、下働きは外国人出稼ぎ労働者が引き受けるという王侯貴族のような生活ぶりである。

一方イラクは人口約3千万人、一人あたりGDP約3500ドルとクウェートの10分の1以下、イランとの戦争で油田は壊滅状態、唯一の輸出品である原油価格は当時最安値を続けるという最悪の状態であった。

イラーイラ戦争で経済的に窮したフセインは、おそらく羨望と嫉妬が動因となって『あそこは、もともと俺のものだ。いまなら無防備だから攻め込んで盗ってしまえる。」そう思ったに違いない。内々に米国に『盗ってしまうが文句あるか』と打診したところ『国境問題にかかわる気はない』と言ったのに安心して、電光石火侵略したのであった。今時のやくざも顔負けのとんでもないやり方である。独裁政権というものは平気でこういうことをするものある。

クウェートはすぐさま亡命政府を作って『出て行け』と国連に訴えたが、もたもたしてらちがあかなかった。この間フセインは、イスラエルを批難してアラブ対ユダヤの構図にすり替えようとしたり、クウェートにいた日本人を含む外国人を人質に取ってイラク本国の攻撃されそうな建物に監禁して『人間の盾』にするという暴挙に出た。(12月までに全員解放)これにはさすがに国際社会の批難が殺到して、ついに国連が1991年1月15日までに撤退するよう決議、最後通牒を突きつけた。

多国籍軍には米国、英国、エジプトなど30カ国以上が派兵、1月17日に攻撃が開始された。日本は、国際紛争を武力で解決することを永久に放棄しているので、時の首相海部俊樹は、戦費130億ドルを供出することを申し出ることになった。

イラク軍は一応抵抗したが、もともとあまり戦う気がなかったから2月27日にクウェート市を解放、3月3日には停戦協定を結んで一応の終結を見た。

さて、『声明』はこの戦争のさ中、二月九日にだされている。

そうした状況を背景に置いてみると、いかにもとんちんかんで、なんのためにこのまもなく終わろうとしているタイミングにわざわざ『戦争反対』の「声明」を出さねばならないのか理解に苦しむのである。

僕がこれを新聞で発見して『ばかばかしい』と思ったのは、日本が派兵しているわけでもないのに、なぜわざわざ戦争に『荷担』するのは反対だというのか、しかも何紙出したか知らないが新聞の紙面を買うのに一千万円以上は使っているはずである、とんだ無駄をするものだということであった。さらに言えば、これは現に交戦しているイラクと多国籍軍の戦争にはかかわらないことを宣言したものである。その理由を、かつて日本が戦争で迷惑をかけたことを反省した結果、いまは平和憲法を持っているからだというのである。しかもそれは世界にとって最も根源的なものーつまりは範とするものだと言っている。

これを小谷野は『現代文学論争』の中で、いじめっ子の比喩を使ってもっともな批判している。

「『僕はかつてA君をいじめたことを反省し、今後、誰が誰をいじめようと、干渉することなく、誰かを助けるために働かず傍観し、いじめず、かついじめの一切にかかわらない』と宣言しているようなもので、むろん今でも、護憲論者というのはこれと同じことを言っているのだが、さらにその上には、もし日本が侵略にあったらどうするのかという思弁すら抜けているのだから、救いようがない。」(260頁)

今度、読み返してみて、『声明』2の長文には、『文学者』が書いた割には教養が全く感じられないとあらためて思った。

教養というのは語られた言葉の一つ一つに根拠があって、読むものを諄々と説き聞かせる力があることである。ポツダム宣言受諾の詔勅を完成させた安岡正篤などという漢籍に通じた教養などいらないが、せめて事実に忠実な真情あふれ出た文言にまとめあげる文才は欲しかった。

いまさら、どうでもいいことではあるが、間違いは正しておかねばならない。

第一に、小谷野も指摘していることだが「第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人」とは事実ではない。

まず、第二次世界大戦とは(便宜的に)連合国と枢軸国が世界規模で戦った戦争の総称であり、大日本帝国が戦った終戦にいたる15年続いたあの戦争の総称は通常「大東亜戦争」という。なお『太平洋戦争』とは、米国が戦後、日本国民に対し『大東亜戦争』の使用を禁じ、これを強制的に言いかえさせた呼称である。僕は、米国の強制力がない現在は二つの言い方のうち『大東亜戦争』の方に歴史におけるリアリティを感じて、使うことにしている。

また、『最終戦争』は昭和15年に、石原完爾が発表した論文と講演で使われた言葉で、石原は戦争史を概観し、いずれ一発で大都市を殲滅するような最終兵器が現れ、これを持って互いに総力戦を戦った後に恒久平和がやってくるといった。それを戦うのは東亜の王道と西欧の覇道であり、その戦争に勝つのは東亜の王道でなければならない。最終戦争の時期は、今から二、三十年後(つまり昭和35年か昭和45年頃に)に訪れるはずだという意味のことを言ったのである。

石原は、長距離を飛ぶジェット機や小型携帯電話などを予測していたからおそらく原子爆弾のことを考えていたのだろう。この当時、米国は艦隊をハワイに集結させて、盛んに日本を威嚇、挑発していたのであったが彼は、日米開戦は避けるべきだと主張していた。軍人でありながら、彼我の力の差がありすぎることを知っていたからであった。

そういう事情で、我が国にこれ以外の意味で『最終戦争』の言葉を使った事例はなく、大日本帝国が『最終戦争』を戦ったなどという事実はない。

第二に、「アジア諸国に対する加害への反省」が憲法に反映しているといっているが、「加害者」としての議論が起こってくるのは戦後だいぶたってからで、憲法が草案される時分に『加害への反省』という言葉に対応する議論は見あたらない。これはもっとずっと後になって、賠償の話が持ち上がった時に出てくるのである。敗戦でうちひしがれている時に、そんな心の余裕があるはずはないと文学者なら思いそうなものだ。

第三に「二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。」も根拠はどこにあるのだろうか?

これは第一次世界大戦後のことを言っているのではないか?一千万人以上の戦死者を出して戦った第一次欧州戦争は、終わってみるとその惨禍に驚いて、戦争は二度とごめんだとしてパリ講和条約に集まったのだが、そのときは確かに戦争放棄の憲法を想像したかも知れない。

しかし、第二次世界大戦が終わってみると、ここで言う西洋人の前にソ連という新たな脅威が現れた。そういう時期に武力を放棄するなどという発想も平和への「祈念」も浮かぶはずはないのである。真っ先に浮かんだのは原爆を落とし合う石原完爾言うところの最終戦争たる第三次世界大戦のことであろう。

「西洋人自身の祈念」に該当する西洋人自身の言葉なり宣言なりがどこかにあるというならそうでもあろう。「平和への祈り」なら毎日坊主がやっていると言っても無駄である。しかし、そんな証拠もないなら、西洋人にとっても勝手に心の中を斟酌されて迷惑な話である。

この文言は、外国人が『宣言』を読む場合が想定されていたと川村湊がいっているようだが、30以上の国々が多国籍軍を形成していることに冷や水を浴びせるようなもので、柄谷ともあろうものがとんだ恥さらしをしたものである

はっきり言えば、この憲法は、占領軍の米国流民主主義を至上のものとするとりわけ若い人生経験も少ない軍人や軍属、学者たちの良心、彼らのいわば浮世離れした理想を文章にしたもので、そういう意味ではよくできた憲法なのである。本国に帰れば二億丁もの武器を各家庭が隠し持っているのを合法だとしているのに、武装しないのが進歩的民主的だというのである。

米国政府が目的としたのは、あまり物事を深く考えずに戦後処理として、日本から武器を取り上げるための口実を作ったに過ぎない。なぜ深く考えなかったかといえば、まもなく朝鮮半島が共産勢力に盗られそうになって、大慌てで日本再軍備を画策したのがその証拠である。

1950年になって、占領軍は日本が丸裸では自分の負担が増えるばかりだから警察予備隊を作れと命令した。時の吉田首相は、軍隊を養うのでは復興が遅れると言っていやがったが、泣く子も黙るマッカーサーの命令だからしたがった。朝鮮で負け戦が続くといよいよ不安になって、二年後には保安隊に増強し、その二年後にはめでたくどこから見ても軍隊である「自衛隊」になったのである。

憲法を草案した張本人が、憲法違反をとがめ立てしないのだから時の政府としては、誰にも文句を言われる筋合いではない。しかもこのときはまだ占領中であった。野党が四の五の言ったところで「はい、止めましょう」というものでもない。これが、憲法違反だ、いや合法だと途方もなく長い間日本人にとってただただ不毛な議論を繰り返す種になってしまった。

ついでだからいうが、この湾岸戦争のときにはじめてマスコミにデビューしたものがある。「軍事評論家」である。それまで、軍事に関する専門的なコメンテーターがTVに出ることはなかった。僕はそういう職業が成立することをこの時はじめて知ったのだが、それほどまでに『軍事』についてはタブーだったのである。おそらく、『軍事評論家』なるものは、いかにも好戦的で暴力的な風貌を持っている者とおおかたの想像するところだったと思うが、NHKが登用した江畑謙介が冷静沈着、該博な知識と分析で説得力のある解説を見せてくれたおかげで、その後何人もの『軍事専門家』が何事もなくマスコミに場所を得ていったのである。

さかのぼると、1963年(昭和38年)の「三矢研究」の時は、大騒ぎになった。自衛隊が内部で、戦術の想定研究つまりオペレーションリサーチを行ったことが外部に漏れて、野党が追及した事件である。自衛隊と言うか軍隊ならごく当たり前のことだったが、それがけしからんというのである。このとき僕はまだ高校生だったが、どうしてこんなことが騒ぎになるのかばかばかしい世の中だと思った。

『自衛隊』は存在するのに、与党は「あれは軍隊じゃない」といい、野党の頭の中では『存在してならない』ものとなっているからこんな当たり前のことが争いになるのだが、そういいながら何事か起こる訳でもないという「ごまかし」と頑迷な観念論の実はなれ合う様を誰も不思議としなかった幸福な時代だったのである。

この時以来『軍事研究』は、建前上やってはいけないことになったし、マスコミも「軍事」について取り上げるのを禁忌とした。それから三十年近くたった湾岸戦争をきっかけに、ようやく禁が解かれることになったというわけである。

さて、『声明』の杜撰さについては、このくらいにして本題の「『敗戦後論』論争」に入ることにする。

ここでは、今更『論争』をなぞるのはいかにも古証文をくくってみせるようなもので、すでに小谷野が「たいした意味はなかった」と言っていることだから、省略する。

そこでまず、加藤典洋がで、どんなことを言ったのか『キーワード』を上げて簡単に説明し、そのあとで僕なりの意見を重ねることにしようと思う。

『敗戦後論』には、前書きのようにして、加藤の小学生時代の逸話が語られている。あるとき学校の遠足でいった場所で他校の遠足と一緒になり、学校の代表のような形で一人ずつ出て相撲を取ることになった。自分の学校の代表が「土俵際に詰められ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした。と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。」自校の生徒はどっと拍手をして喜んだ。自分もつられて拍手をしたが、そのときの後ろめたさを忘れられないというのである。

相撲が一瞬にして柔道になったことが、そしてその技で勝ったことに拍手した自分が、許せないと加藤少年は思った。

日本国憲法についても、そんな感じを持つという。

成長して後、憲法の成り立ちを勉強した時に、この思い出がよみがえったのだそうだ。つまり、日本国憲法は他人によって押しつけられたものであるにもかかわらず、我が国民にとって至上のものであるというのは「うしろめたい」気がするというのである。

これは「声明」2の最初の「戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。」と言う文言に対応している。

加藤は、日本国憲法の成立過程を文献を上げて証拠立てし、偽りのルーツによる『汚れ』(一種の心持ちの悪さのこと)を正すには、あらためて日本国民の手によって憲法を選択し直さなければならいと主張する。

この日本国憲法について、どう考えるか、というのが『敗戦後論』によって触発された僕の第一の主題である。

これは一義的には『戦争放棄』のことであるが、その延長には『天皇の戦争責任論』と天皇制の問題がある。憲法を採択し直すというのであれば当然のことであるが、この二つがテーマとなる。

さらに、加藤は一連の論争の中で、日本の加害責任論に対抗する形で、日本は大儀のない侵略戦争を戦ってアジアに迷惑をかけたと認めた上で、アジアにおける戦争の死者を悼むより前に、日本の戦争による三百万の死者を悼むべきではないかと述べた。この背景には、当時韓国人従軍慰安婦が日本政府を相手に賠償請求した事件があり、他にも、中国から南京虐殺や重慶空爆など旧日本軍の暴挙を批難する動きがあったためにそれに対応したものになっている。これは、政治問題としての『アジアに対する謝罪』と『靖国問題』につながっている。加藤は、この問題が生じる原因として、自民党の代議士に代表される保守派と野党や市民運動・リベラル派に代表される二つの対立軸にあると言った。つまり、日本人はジキル氏とハイド氏の二つの人格に分裂して戦後を生きてきたといったが、この発言は、侵略を認めたくない右翼からも謝罪を優先する左翼リベラルからも非難されることになったのは当然であった。

これは、いわば『敗戦国の責任の取り方』論であり、不毛な議論を繰り返してきた左右どちらの陣営にとっても、どう決着をつけるか、つまり分裂した人格を一つにまとめるという第二の主題を提示している。

加藤は、少年の頃の潔癖さを未だに持ち続けている立派な人格で、日本国憲法に対してある『汚れ』を感じているが、その第九条は守るべきであるという意見の持ち主である。

加藤は憲法が発布された後に生まれ、たまたま『勉強して』その成立過程には不純なものがあると感じたが、それで何か不都合があったかと言えば、そういうことでもなさそうだ。僕も、彼と同世代で後に憲法の成立については実にドラマティックないきさつがあったことを「勉強した」が、これが汚れていると感じるほどの感受性をあいにく持ち合わせていなかった。

だから、憲法とは立法府がこれに抵触する法律を作ってはいけない、行政府がこれに違反する政策を行ってはいけないと言って、国家権力を規制するための規範であり、国民の側から見れば、国民の総意を一気にそこにゆだねている成文化された「国家=構成する国民」というものの正体であり、その枠組みであると普通に理解してきた。

この精神に照らして、僕は、加藤のような居心地の悪さを感じなかったし、憲法が僕らの生活を圧迫していて、邪魔になると感じたことは一度もなかった。もしも、国民が憲法は「我らが総意」を汲んでいないというのであれば、これは手続きは大変だが、変えられるようにできあがっている。僕は、そのときがいつかは来るかも知れないと考えている。しかし、今に至るもその必要性を僕は未だ感じたことがない。

さて、加藤のいう憲法を選び直して「汚れ」を祓うとは具体的にどういうことか。その方法は、いくつか考えられる。まず、現行憲法を廃して新憲法を日本人の手で創案する、というのが(原点に返ることになって)、加藤にとっては好都合に違いない。しかし、彼は九条はあってもいいと言っているのだから、それ以外の条項を検討して、新たに創案することが考えられる。それでいくと、いずれにしてもどれを残してどれを変えるかという議論になる事は必定である。

それが、現在ある改憲論とどこが違うのかと言えば、単に改憲の動機が違うだけで、結果としてやることは一緒と言うことになるのではないか。何のことはない、加藤の提案は、これまで延々と続いてきた九条(天皇論も含む)をめぐる改憲論に還元されてしまうのである。

こんな単純なことをご大層に何頁にもわたって書き付けるのが文学者である。

加藤は、「勉強して」分かったことをあたかも自分が経験したことのように物語って「戦後」の出発点が「汚れ」「ねじれている」(「戦後」が「戦前」と連続していないと言うことか)ことを嘆いて見せた。憲法を押しつけられた経験者、さしずめ白州次郎あたりの、あるいは捕虜引き揚げ船で「しょったれた日の丸」を見て「これが戦に負けた日本の姿だ」と国と自分に毒づいた大岡昇平の衣装を身にまとって見せる。川村湊は、どうしたらこういう芸当ができるか不思議だと言ったらしいが(「現代文学論争」)勉強をしすぎて対象が憑依するというのはないものでもない。戦争帰りの教師が、日の丸、君が代はごめんだと生徒に教えると、あたかも戦場でひどい目にあった兵士たる教師が憑依して、経験したこともないのに日の丸、君が代を憎むがごとくである。

こう言うのは「勉強ができる」ものほど陥りやすい錯誤である。僕の子供の頃は、日の丸、君が代は保守反動の象徴としてインテリのよく尊敬するところではなかった。おかげでインテリでもないくせに未だにこの二つには多少の感情がゆれる。がしかし、「国家」に死ぬ目に遭わされた経験もない若い教師が、日の丸に頭を下げず、君が代を歌わないというふるまいには、けしからんとは思わないが、ある種の痛々しさを感じるものである。痛々しさとは、こんなつまらぬものに、職業を賭け家族の生活の安寧を賭けるほどの意味はないと思うからである。

こういうものがつまらぬ意地だと見えるのは、そのうらにある組合の運動方針の根拠たる「国家」とは何かという定義と認識がくだらない屁理屈だからである。

危機存亡の時でもないのに、「押しつけられた憲法は汚れている」などというどうでいいことにこだわるのもそうだが、「日の丸」「君が代」などと言う今更ながらの事柄につまらぬ意地を張って生活と命まで賭けるという日本人の精神構造の、この頑迷というか建前論の屁理屈好きの朱子学的習性は、もはや宿痾と言ってもいいレベルではないか。

僕は、「日の丸」が絶えず自分のそばにぶら下がっていなければ日本国民たる自覚がなくなるほど自分の精神が危ういものとは思っていないので、家で国旗掲揚などと言う七面倒なことをする気はない。しかし、必要とあらば頭を下げて敬意を払うことを拒むものでもない。「君が代」については、「君の世がいやさかであれ」という歌詞が嫌いだというむきもあるが、これを歌うからと言って僕は自分が天皇の臣下であると思ったことは一度もない。こんなものは一種のたとえ話、物語、古い文学にすぎない。日本が近代化する過程でどうしても必要だった道具立ての一つで、今となっては骨董品の輝きを発してむしろ美しいとさえいえる、などと書いたら喜ぶむきがあるかも知れないな。国歌というものが何がし、なければいけないなら「君が代」にこだわることもないが、あえて青筋立てて否定するほどのことではない。言わずもがなだが、我が国の国歌としてふさわしい代案があるなら、何時でも検討したらいいと思っている。またこういうと、加藤のような潔癖症や朱子学的空理空論を唱える輩が出てきてやかましいことになるのがやっかいではあるが。

ところが僕は、他人と同じことをするのが大の苦手で、なるべく国歌斉唱の場に遭遇しないようにしているが、やむを得ず同席することになれば口パクで済ましている。これは対人恐怖症という精神の傾向性がそうさせるので、決して思想的な背景があるわけではない。あるいはまた、子供の頃にさんざん「日の丸」「君が代」論を聞かされたせいで、この言葉に対する心的外傷が未だ癒えず、つまり古傷がうずいているのかも知れない。

中途半端だがひとまず、中断。

再び、はじめる。

「日の丸」「君が代」などと言うあらぬ方角へ暴走してしまったが、話を元へ戻そう。

日本国憲法である。

とりわけ、「声明」がすべての戦争に反対だという根拠を、我が国の憲法第九条においているのだから、この問題からはじめよう。

今さら、条文を確認する必要もないが、これは日本は軍隊や武器などの戦力を持たないし、国際紛争を解決する手段として武力を使わないことを国家が決めて国民に宣言し、その国家の主権者たる国民がそれを認めていると言うことを意味している。

ところが、武力は永久に放棄すると言っておきながら、’50年、警察予備隊設置から自衛隊まであっという間に再軍備をしてしまったために、これは憲法に違反すると野党が反対し、左翼・リベラルが騒いた。

自衛隊は、階級の呼称を工夫したり、上陸用の戦力を持たないなどの部隊編成上のいいわけを用意し、軍法会議も持たないといった一種の偽装を施して軍隊ではないとした。政府は、憲法九条が自衛のための戦力まで放棄しているわけではないとの解釈で合憲と主張したが、数多く訴えられた裁判の下級裁判所では時々違憲の判決もでた。当然である。自衛隊は、陸、海、空軍をそろえた陣容から、その保有する武器のどこからどう見ても軍隊である。

これを政府は軍隊ではないといい、反対派は「憲法を守れ」といって果てしない対立・論争になった。

護憲派の言い分は、日本は戦争や軍隊を放棄したのだから戦力たる自衛隊は要らない、憲法九条に違反しているというものだ。それに対して改憲派は、ならば憲法を改定して自衛隊を合憲にしてしまおうというのである。

護憲派に対して改憲派が、もしも日本が他国に侵略されたらどうするのかと迫ると、「いや、話し合いで解決する」という。話し合いが着かない場合はと問われると、「とにかくそうなる前に話し合いだ」と言ってそれ以上前へ進まない。侵略されて武力がないならやられっぱなしになるのは当然だが、そういうことは「考えなくていいこと」にしようというのだ。

森嶋通夫などは「侵略されてもしようがないじゃないか、なに、五百年もたてば血が混じって日本人だか何人だか分からなくなる」といったが、自分を守る武力を持たないと言うことは、そういうことを覚悟することだという意味である。

南米のことを思い出して言っているのだろう。人類はすでにこういうことをしているのである。

護憲派にそういう覚悟があるとは思えないし、それを言ったとたんに皆離散してしまうだろう。とにかく何が何でも憲法九条を守ろうと、これはすでに理屈抜きの宗教になっている。

一方、改憲派は武力を持って国際貢献できる「普通の」国になると言う比較的穏健なのから「核武装しなければ」正常な国際関係は成立しないという過激なものまで様々である。

こちらも、どの程度が「普通」なのか、たとえば国連軍のようなものを想定しているといっても国連の意向が我が国の利害と一致しない場合もあるかもしれない。そもそも国連が大国の利害を調整できるのかあやしいところ大である。

また、核武装と言ってもいざ実現しようと思ったら、米国は核拡散防止条約を楯にいやな顔をするだろうし、アジア諸国はとたんに青筋立てて批難しはじめるだろう。やってやれないこともないが、どう考えてもあまりいいことはなさそうだ。隣国が領土問題などで脅しをかけてきて、どうにもたまらなくなったら考えても遅くはない。何しろ、水爆を作る材料は始末に困るほど我が国は所有しているし、いざとなったら一夜にして水爆の十個や二十個を作れる能力があることくらい知らせておく必要はあるのかも知れない。

水爆というのは原爆を起爆剤にして水素原子の核融合をやるのだが、これは太陽が日常やっていることそのままなので、たとえば日本列島なら十発もあれば壊滅するという威力のものだ。世界には、と言っても米国とロシアだが、これが何千発も残っていると言われている。実際これを使ったら地球がおかしくなるのは確実で、 こう言うのを脅しに使えるといっても、誰も本気で攻撃に使う気になるものはいないだろう。

ところが、国家と国家の間にはいざとなれば殺し合いをするという可能性は存在する。弱肉強食が国家の存在原理だと言うことを忘れてはならない。

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