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2023年12月26日 (火)

ミシュランガイドと丸谷才一それに『竹葉亭」

       —その昔、男は食い物の話なぞしなかった—

 

51zvzz5zugl_ac_ul640_ql65__20231226232201 丸谷才一が亡くなってから十年になる。
そういえば我が国ではじめて「ミシュランガイド」が出たあたりの時分(2007年11月)、彼は、この”ガイド”の店を紹介する文章を批判してたな、と思いだした。
そう思ったら、走馬灯のように(他に言い方を思いつかない)いろいろな思いが浮かんで、俄にそのいろいろを書き付けたくなった。
(ぼくも、この年に、「『ミシュラン東京』だって?」と言う記事を載せているので、後で紹介する。)

 

丸谷才一の文章があるのは、たくさんあるエッセー集の中の一つだったと見当を付けて、夜中のことだったが本棚をひっくり返して探してみた。この「我がミシュラン論」と言う文章は、2009年12月発行の「人形のBWH」に所収されていた。
どんな風に批判されていたか、知りたいだろうと思うので、後ほど長い引用をしようと思う。

 

その前に、いま「ミシュランガイド」はどうなっているのか?
何年も前にすっかり興味を失ってから、その動静はたまにTVなどで知るだけで、最新のことは知らない。といっても、数年前から、対象とする地域が、東京だけでなく、大阪や京都その他の日本中の都市に拡がって、それぞれに一冊ずつ発行されていたり、ラーメン屋とかそばや、イタリア料理、フレンチなどと料理種別にも一冊として扱うと言うことになっているらしいとまでは知っていた。

 

「ミシュランガイド」は、フランスのタイヤメーカーがパリ万博(1900年)を機に販売促進用としてはじめた出版物だから何をどうしようと会社の勝手だが、もともとホテルやレストランの格付けをやって、勧進元としては長い間にそれなりの権威を築いてきたものだ。ところがラーメン屋とかおにぎり屋も対象というのは『権威』の前でいかがなものか、宗旨替えではないかといささか心配になる。

 

聞くところによると、この出版物はミシュランタイヤの売上の1%程度を占めるにすぎないが、別に道楽でやっている訳じゃないから、これ自体のマーケティングが必要になった結果ということなのかも知れない。

 

最近のことは、ホームページを見るとそれなりのことは分かる。毎年コンセプトを変えるわけにゆかない出版物だから新しいイベントの報告や新規の店の紹介など内容には工夫を凝らしている。
こっちは丸谷才一先生に従って、店の紹介文だけに興味があるのだから、後はどうなっているかなど関心の外である。
このホームページには、さすがに紹介文はダイジェストだけで、全文読むなら大枚3500円を払って本を購入しなければならない。馬鹿馬鹿しいから図書館で、と思ったが、これが貸し出し中で今日の段階では入手していない。批評を試みる対象としてこれでもまあ、いいのでは。というのは、このダイジェスト版でも突っ込みどころ満載だからである。

 

このホームページに掲載された紹介文をいくつか上げておこう。ランダムに選んだもので、これらの店には何の思い入れもない。
 
天麩羅 なかがわ/Tempura Nakagawa
中央区築地 2-14-2, 東京, 104-0045, 日本
★ ★ ★ · 天ぷら
・ミシュランガイドのビューポイント

 

昔ながらの仕事を貫く師匠から学んだ天ぷら。種は魚介を中心とし、高温の油で揚げる。車海老は程良い火入れで香ばしく、二尾目はレアで甘みを生かす。穴子は焼くように揚げて胡麻油の風味を重ねる。「天ぷらは脱水作業」というのが持論。衣の中で蒸し、焼くことで食材の水分を抜き、旨みを引き出す。

 

鮨處 やまだ/Sushidokoro Yamada
中央区銀座 7-2-18 3F, 東京, 104-0061, 日本
★ ★ ★· 寿司
・ミシュランガイドのビューポイント

 

兄弟で切り盛りする息の合った振る舞い。兄がつけ場に立ち、弟は裏方に徹する。品書きは15貫の握りのみ。種と酢飯の調和で完結するため、つまみや生姜は出さない。魚は寝かせて旨み引き出す熟成した種が中心。焼き椎茸、北寄貝の胡椒風味といった珍しい種も。味の流れに変化を与え、自らの発想で進化させる。

 

先斗町 鮨 いし屋/Pontocho Sushi Ishiya
京都市中京区鍋屋町 210, 京都, 604-8015, 日本
★ ★ · 寿司
・ミシュランガイドのビューポイント

 

先斗町通、細く西に伸びる24番路地の奥に暖簾が掲げてある。すしと一品料理を自由に楽しめ客の要望に応えてくれる。和牛の炭火焼や、牛肉とうにの巻物など、すし屋で牛肉を味わえるのは珍しい。食べ頃を見計らった鮪も楽しみ。種類豊富な品書きは、割烹店の役割を果たす。もちろん、おまかせもおすすめ。

 

鰻家/Unagiya
大阪市淀川区西中島 4-5-22, 大阪, 532-0011, 日本
★ · うなぎ
・ミシュランガイドのビューポイント

 

関西では主流の地焼き鰻を供する店。鰻を蒸さずに焼くため、皮目の香ばしい風味が特長。仕入れる鰻は身質を重視し、産地は絞らない。鮮度にも気を配り、注文を受けてから生きた鰻を割き始める。手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。店主の職人技を見ながら鰻重が運ばれてくるのを待ちたい。

 

焼鳥 髙はし/Yakitori Takahashi
中央区日本橋 2-10-11 2F, 東京, 103-0027, 日本
★ ★ ★ · 焼鳥
・ミシュランガイドのビューポイント

 

渋うちわで炭火を操る主人。修業先で学んだ近火の手法を実践しながらも、自らの焼鳥を目指す。部位ごとにタレと塩を使い分ける。しっかりとした肉質を生かすため塩味が多く、種が大振りなため満足感がある。焼鳥の醍醐味は鶏もも肉にあるというのが持論。一串目に供する理由がそこにあった。

 

                     △

 

これらについての批評は後ほどにして、2008年の「ミシュランガイド東京」日本デビューの頃に遡る。
丸谷才一は、このとき書いた「我がミシュラン論」で、どんなことを言っていたのか。

 

「それにしてもすごい人気でしたね、ミシュラン。 わたしは早速手に入れてもらつてちらちらと目を通し、苫笑ひした。」
昔、朝日新聞の企画で小中高の教科書批判をしたとき、文学者の文に比して教科書編集者の書いた文章がひどかったことに似ているから苦笑いになったというのである。

 

「さて、ミシュランの文体はどんな 具合に悪いか。一つには欧文脈といふのか 閲係代名詞入りみたいな名詞の上にゾロゾロ長くのっかつてゐる主語や目的語入りの文章が多いのね。 このせいで頭にはいりにくくて悪文になる。

 

たとへば、これは現代風フランス料理ガストロノミ—フランセーズタテル ヨシノ(一つ星 )の紹介の冒頭。

 

バリのレストラン「ステラ マリス」と芝公園にある「キュイジーヌ フランセーズ タテル ヨシノ」のオーナーシェフを務める吉野健が、「バークホテル」で2003年に開業したフレンチレストラン。汐留エリアのランドマ—クといわれる「汐留メディアタワ—」で、 同ホテルのフロントロビーと同じ階に位置する。

 

「吉野健」の上が長いし、「汐留メディアタワー 」の上が長い。そのくせ情報それ自体は大したことない。」

 

これはもうおっしゃるとおりである。

 

「もう一つ、そば会席「翁 」(一つ星 )の出だし。

 

歴史ある更科そば店の八代目直系にあたる女将が独立し、料理長と共に切り盛りしている、 そばが名物の日本料理店。料理長は、先代にそばの文化を教え込まれた。その場で手打ちをし た後、茹でたてのそばだけを供している。

 

読んでて厭になる下手な文章だが、それにしても「茹でたて」でないそばを出すそば屋があるものかしら。不思議な気がします。

 

和食「石かわ 」(二つ星 )はこんな調子。

 

上記の住所で 年間営業していたが、「石かわ」の若き店主は 年末に神楽坂6-37へ店を移転する。掲載されている写真や地図は移転前のものとなり、電話番号は変更しない。 移転後も、今までと全く変わらない季節料理を供する。店主は東京の割烹料理店で 修行を積んだ 。メニューはおまかせで、コース料理は魅力的な内容でまとめられている。以来、足繁く訪れる常連客のお目当ては、割烹の伝統を受け継ぎながらも他所では朱わえない逸品の数々。一貫したもてなしの精神と、店主の味づくりに対するひたむきな熱意こそ、この店の最大の特色 といえるだろう。

 

これで約三分の二。引越しの話がゴタゴタしてゐて、面倒くさくなるでせう。気持がすっきりしない。たとへば「以来」とは何以来なのか。「常連客」とは「足繁く訪れる」者に決ってるぢ やないか。こんな文章では、とても出かける気にならない。」

 

ここで、丸谷先生、突然、文春の料理屋案内本を取り上げて比較する。

 

「その点、さすがは文藝春秋、『東京いい店うまい店』の文章は段違ひにうまい。今までこの本の文章に感心したことなんかなく、ただ単に、『東京いい店うまい店』はかういふ調子で書くとだけ思ってゐたのだが、ミシュランと比較してみるとすごかった。」

 

この『東京いい店・・・」については、僕も「『ミシュラン東京』だって?」で言及しているが、丸谷才一先生が言うように「すごかった」などとはちっとも思わなかった。

 

「たとへば鰻の竹葉亭本店。

 

竹葉亭本店

中央区銀座 〔味〕
〔値段〕 ★★★★★ 〔サービス〕 ★★★★★
昭和通りを扶んで、三井ガ—デンホテル銀座の前あたりを東側に一筋人ったとこ ろにある。
幕末創業の歴史を誇るうなぎ屋の名門で、由緒ある庭を眺めながらのお座敷で 鰻を焼きものとする会席料理を、また、気軽ににはいれる椅子席では鰻お丼や幕の内弁当など、老舗の味を楽しめる。
高級店でありながら鰻飯は本來丼で出すものと、お重を使わないのはおもしろい。 その鰻お丼は鰻の目方に応じて二種類。 竹の模様をあしらった器もしゃれていて、上品に焼きあがった鰻がすっきり納まっているのはいかにも銀座のうな丼といった風情である。鰻以外に季節の一品などもあり、値段も手頃。池波正太郎氏が好んだという鯛茶漬けが人気で、昼時などはこれを目当ての客も多い。 この椅子席も夜は予約が必要だ。

 

読みやすいし、事柄がすつきりと頭にはいるし、竹葉へ行つてウナ丼を食べたくなるでせう。 わたしはあの店の椅子席で一杯やるのが好きなんです。これ 池波さんに教へられた。ただし、 ハウスワインがもうすこし吟味してあるともつといいね。

 

ついでに念のため、ミシュラン『・・・2008』の 竹葉亭(一つ星)を全文( 定休 日や営業時間や所書きや電話番号を省いた形で)引用する。

 

 

江戸未期に創業したうなぎ料理の店。銀座八丁目にあるのが本店で、現在の主人が七代目。
創業した頃は『刀預所』だつたが、二代目からうなぎ料理を始め、1876(明治九年)年の『廃刀令』でうなぎ料理の専門店となった。
年期の入った建物は物は、1924年(大正十三年)に新富町から移転して以来のもので、昭和の戦禍を受けずに残った貴重な建造物。オフィスピルに囲まれた日本家屋の点内はすべて座敷で、二階が大広間になっている。離れには茶室もあり、茶道具の骨董品も置かれている。
京都の庭園の石組み職人が手懸けたという小さな中庭もある。 美術や骨董とこの店の関わりは、うなぎ研究家で美術家でもあつた 二代目に始 り三代と四代は粋人北大路山人との親交もあつた。店内にさりげなく置かれた当時の器や美術品は、いまも力強く存在感を表している。
竹葉亭のうなぎは、ふっくらとした肉厚が特徴。秘伝の技法で拵えるタレにも定評がある。 おすすめ料理の白焼きは、さつばりとわさび醤油で味わう。自然体で日本の情緒を寿ぎ、愛でることの出来る店。和服を着た女性従業員の応対やサ—ピスも親切だ。座敷は予約が必要 。入りロが别になつているテーブル席では、うな丼が昼夜ともに 手ごろな価格から楽しめる。

 

これぢやあ、とても、銀座八丁目へ行ってウナ丼といふ気にならないでせう 。ブロとアマの相違である。
竹葉が (カタナアヅカリドコロ? )だつた話なんて何もおもしろくない。第一、刀預所がどういふものなのか、説明してない。 これはわたしもすこし調べてみたがわからなかった。
つまり辞書その他にはない言葉だから、筆者としてぜひとも一言 すべき所なのに 。鰻屋が昔は刀預所 だつたなんて雑学的的歴史趣味は肝心の事情ががはっきりしなければ、別にどうつてことはない。 ハアさうですかである。 書いた当人だって、あまりおもしろいと思はず、ただ紙面を埋めるため文字を連ねてゐるのだらう これぢや読者が引きこまれるはず、ないぢやありませんか。
そこへゆくと文春版は、読者に情報を提供しよう、実のあることを伝へようといふ気になつて書いてゐる。それがまともな態度です。」

 

「 『東京いい店うまい店J とミシュラン東京とをくらべて 一番大事な違ひは、文章の巧拙の差ではない。前者は伝へるべき内容を持ってゐるから、書かうといふ気力がある。後者は伝へる中身がないから、書く気がない。
精神があつて言葉が生じるといふのは、吉田健一『文学概論』のはじめに書いてある大原則で、文章心得の基本。
ミシュラン日本版はまづこのことから考え直さなくちゃならない。」

 

では、ミシュラン日本版の文は何を伝えるべきなのか?と僕も考えざるを得ない。
普通に考えれば、その店がミシュランの「基準」に合っていることを読者が納得するように書けばいいのではないか?『基準』とは『★』のことだ。
その★は昔から以下のように決まっているらしい。

 

★★★:そのために旅行する価値のある卓越した料理 
  ★★:遠回りしてでも訪れる価値のある素晴らしい料理 
   ★:近くに訪れたら行く価値のある優れた料理

 

これでは、自動車に乗って、なるべく長距離を移動してタイヤを消耗してくれると言うことが基準になっているように見える。タイヤメーカーとしては至極まっとうな基準だが、しかし、三つ星の店のすぐ近くに住んでいる人にとって、その店は『旅行するほどの距離にないから」三つ星の店には該当しないし、早い話しが、近所の店は皆一つ星に分類される。となれば、この『基準』は一つが三つにでも二つにでもなるという『矛盾』をはらんでいると、少々意地悪を言いたくなる。
つまり、この基準では「店がどの距離にあるか」という違いをのぞけば「卓越した料理 」「素晴らしい料理」「優れた料理」の違いと言うことになるだろう。

 

しかし、実際これをどう表現したらいいのだろう。僕なら間違いなく途方に暮れる。どう書いたらいいか分からない中身なら、丸谷先生の言うとおり、中身はないに等しいのではないか?
それでは困る。
せめて、一つ星と三つ星の違いが分かるように書いてくれないと、と思うが、もともとの基準があの通り曖昧なのだから、書く方も、取材したことを適当に並べるしかない。そうして、読者は『気』のないものを読まされることになっている。

 

タイヤメーカーとしては、そこまで厳密に文章で料理屋を評価する義理はない、ミシュランという「権威が格付けしたのだから」店の紹介文などあればいいだけで、読者がどう思おうとどうでもいいわい、と言いたいのだろう。(ただし、ホームページでは、一問一答形式で、評価の方法や調査員に関する情報を発信していて、権威の裏付けをしようとはしている。)

 

こういうものを読まされる方も、どう理解していいか途方に暮れるだけだ。

 

最初に掲げておいたミシュランガイドのホームページには個別の店のリストがあり、それぞれ短い文章が載っている。これは本文の要約だろう。(本文は、本を買って読め。)これからして『気』のない典型例になっているのは、2008年当時丸谷才一先生が指摘したときから何も改善しようとしなかった証拠である。もう一度同じものを上げる。最初の

 

 
天麩羅 なかがわ/Tempura Nakagawa
★ ★ ★ · 天ぷら

 

昔ながらの仕事を貫く師匠から学んだ天ぷら。種は魚介を中心とし、高温の油で揚げる。車海老は程良い火入れで香ばしく、二尾目はレアで甘みを生かす。穴子は焼くように揚げて胡麻油の風味を重ねる。「天ぷらは脱水作業」というのが持論。衣の中で蒸し、焼くことで食材の水分を抜き、旨みを引き出す。

 

天ぷら屋の職人は、誰でも最初はどこかの店に入って師匠から仕事を学ぶものである。魚介を中心にしない天ぷら屋はおそらく存在できない。高温の油も脱水作業もいちいち言うまでもなく、これは天ぷら屋一般を説明する文であり、「天麩羅なかがわ」がいかに優れて星三つなのか、まったく説明していないし、説明する『気』がない。
同じことは、大阪の 鰻やにも言える。
鰻家/Unagiya
★ · うなぎ

 

関西では主流の地焼き鰻を供する店。鰻を蒸さずに焼くため、皮目の香ばしい風味が特長。仕入れる鰻は身質を重視し、産地は絞らない。鮮度にも気を配り、注文を受けてから生きた鰻を割き始める。手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。店主の職人技を見ながら鰻重が運ばれてくるのを待ちたい。

 

「注文を受けてから生きた鰻を割き始める」鰻屋は真面目に仕事をしているといえる。しかし、これは美食の店に選ぶ最低条件であり、これが一つ星の説明にはなっていない。「手際良く串打ちし、赤く燃えた備長炭を操りながら焼く。」あたりまえだ。こうしなければ鰻は焼けない。もはや『旨い不味い』とは何の関係もなく、どこの鰻屋でもやっている仕事を説明しただけである。

 

焼鳥 髙はし/Yakitori Takahashi
★ ★ ★ · 焼鳥

 

渋うちわで炭火を操る主人。修業先で学んだ近火の手法を実践しながらも、自らの焼鳥を目指す。部位ごとにタレと塩を使い分ける。しっかりとした肉質を生かすため塩味が多く、種が大振りなため満足感がある。焼鳥の醍醐味は鶏もも肉にあるというのが持論。一串目に供する理由がそこにあった。

 

東京だけに限ったとしても、一杯飲み屋はじめ焼き鳥を出す店は4〜5千軒あるいはそれ以上になるだろう。(電話帳に『焼き鳥屋』で登録しているのは2千軒以上)その中で三つ星に評価される理由には誰もが関心を持つはずだ。その関心に応えられるだけの筆力でそれを説得できなければ食通(そういうものがいたとしたら)に馬鹿にされるだけだと思わないのかね。と、僕はこの文を読んで思った。

 

それでは、『東京いい店うまい店』はいまどうなっているか?
『食べログ』のある時代にけなげにも頑張っているのか、と思ったら、最新版は『2015〜16年版」で文春e-bookとあるからどうも縮小傾向にあるのだろう。しかし、この本の「はじめに」では、写真をやめて文章量を増やしたことを強調している。
「・・・ネットグルメ評価が店の盛衰を決めるいま、写真映えが能く、分かりやすい味の料理を出す店が評価される傾向になっています。自分の舌で評価できず、情報に左右されるグルメも多い。それに対して本書はあえて写真を排し、選定に関わった覆面探偵の諸氏には、言葉のみで店の良さを読者に伝えていただくため、・・・文章量を大幅に増やしました。」
ますます丸谷先生(生きていたら)の覚えがめでたくなるというものだ。

 

僕はこの本をずいぶん昔から知っていて、何度も読んだことはあるが、一度も買おうとしたことがない。
何故か?
ここで、いま僕が入手できる『東京いい店うまい店』(「お箸編」2009〜2010年版)から一例を紹介しよう。

 

「赤坂璃宮 銀座店(広東料理)
中国料理の最高の美味は淸淡にあるとは、昔から様々な文献で言い尽くされている。ただし、うまさの芯は強く、輪郭が涼しくなくてはならぬとか。それをもって本物の洗練とするならば、譚彦彬氏の料理こそまさにそれ。何の汚れもない澄み切った味を供することにかけて、並ぶものがない。それが銀座らしい色合いの交詢ビル五階、モダンで格式のある設えで展開されている。
広東料理の真髄である『合鴨の窯焼き』『窯焼きチャーシュー』『地鶏の醤油漬け』『皮付き豚バラ肉の焼き物』の『焼き物四種盛り合わせ』で肉のうま味と食感を味わいつくし、『赤ハタの蒸し物絹傘茸のせ』などは新しい銀座の醍醐味だ。頂湯のグレードはまさにベストワン。まるで精密機械のような精緻な組み立ての味覚を楽しむ快楽がここにある。」

 

どうです?
誰を相手に書いているのか?知らないが、ようするにあの油を多用する中華料理をさっぱりとした味わいに仕上げるのがいいと言いたいのだろう。それが本物の洗練だとか輪郭が涼しいとか『様々な文献で言い尽くされている」なんて、ついぞ僕の耳に入ったことがない。日本人である僕は、そういう味の中華は好きだが、中国人がそういっているなんて、ホントかいな。邱永漢はそんなこと言ってなかったぞ。そうまで『知ったかぶり』をいうならどこの誰が言っているのか、根拠を示せ。といいたくもなるじゃないか。もうひとつ、「何の汚れもない澄み切った味」とはどういう味だ。「気取ってんじゃないぞ!」ったくもう。

 

と言う具合に、はっきり言うが、その文章がしゃら臭いのである。
この本は「いい店うまい店を紹介する」のが目的である。それなのに、店も料理もそっちのけ。まるで文士気取りがいきがって『どうだ、オレの文章は小説家みたいだろう。』と顎をしゃくっているようで実に不愉快。
料理のうまさなど、個人がその舌で感じるものである。他人に自分の感覚を押しつけるようなもの言いはただ迷惑である。自分の感じたままをさりげなく伝えて、共感してくれたら幸福であるという謙虚な態度が、料理のうまさを伝えるものには必要だと僕は思っている。
文春が、こういう本を出す背景には、戦前から小説家が食い物について書くものには暇人や役に立たないという意味でやくざな連中など一定の読者が期待できると分かったからで、だから態度が文士になる。文章量を増やすと言っているが、この調子ならいっそう『生意気さ』が増すに違いない。

 

ところで僕も先に上げた『竹葉亭』について書いたことがある。
公平を期すために、取り上げよう。
1995年ごろから5年ほど、僕は、ヒゲタ醤油「本膳」の雑誌広告の制作にコピーライターとして参加していた。
これは、『旬と出会う日本料理名店探訪」(毎日新聞社のグラフ誌掲載)というシリーズと同時に進行していた「関東実力派すし店めぐり」(週刊文春掲載)という広告のために、お店を訪問して料理の写真を撮り、料理長にインタビューをして記事にするという仕事であった。

 

広告の目的ははっきりしている。
まず、ヒゲタ醤油『本膳』は、一流の店で使われている高級な醤油であることを一般に訴求する。
次に、広く料理店での『本膳』の採用を促進するために、仕入れ担当者である各店料理長に商品をアピールする。(普通の醤油より高価なため、一般消費者より、料理専門店の購買を期待していた)同時に料理と料理店を紹介し、店の広告の役割とする。店に客がたくさん来たら、『本膳』もたくさん使ってもらえるだろう、と言うわけである。
さて、こういう前提で、僕はどう書いたか?

 

「『旬と出会う日本料理名店探訪」
Photo_20231226231601 「竹葉亭」(木挽町)

 

江戸の末期、新富町で開業、いまのご主人で六代目という、うなぎの老舗である。震災後移転したが、意外にもこの木挽町界隈だけは、空襲の戦火からまぬがれた。現在の建物は、一部を除いて、七十年以上になる。とりわけ離れのお座敷は、昔の尺寸で作ってあるせいか、座るとしっくりと身体がなじんでくつろげる。
庭もいい。
百年はこえていそうな漆の木を中心に、となりには隠れ蓑という乙な名前の高い木が、下生えの笹や灌木、石灯籠や古井戸、竹矢来の塀などとともに素っ気なく、いかにも粋な風情を醸している。こうした情趣を愛する人は多く、中でも魯山人が足しげく通ったことはよく知られていて、あのような厳しく鋭い眼力にかなう数少ない料理屋のひとつと言える。
本格的な料理との組み合わせはごく早い時期に、うなぎを蒸す長い時間の繋ぎに出した付け出しから発展したという。万事手をぬかない主義がうなぎ懐石を生み出したのだ。いま、その日本料理を担当しているのが野沢徳治料理長である。昭和二十四年に入ってうなぎを修行し、一旦外に出て、江戸料理の名門をいくつかあるいた。このとき、飾らない実質本位の伝統的な関東風の技と味を身につけ、五年経って再び戻ってきたのである。
写真の角皿と割山椒は魯山人である。演出がむずかしいといわれる器を、これだけさりげなくあっさりと使いこなすには、料理の技量を超えた、ある成熟した境地が必要なのではないかと思う。五十年近い包丁人生だからこそ出来ることか。平成七年秋、東京都知事賞受賞。」

 

ずいぶん「気」のない文ではないかと言われそうである。

 

目的のうち、料理長を紹介して経歴を顕彰したこと、庭に一見の価値がある老舗であるとを伝えることは出来ている。これで満点というわけにもいかないが、必要な要素は最小限組み込んである。ところが、中身が薄いと感じられるのは、料理についての言及がきれいに避けられている印象なのだ。
何故こんなことになったか。
それはこの店の鰻と日本料理という二面性をどうもうまく伝えられないという感じを持ったからだ。
鰻を割いて串に刺し、蒸して焼いて出来上がるまで、三十分あるいは小一時間程度だが、待つ身には長いと感じることもある。その時間の埋め合わせに軽い食前酒のつもりでお銚子一本くらいならと言う気になるかもしれない。その付け出しと言って、日本料理のお膳が出てくるようではいささかトゥマッチで困惑するではないか。そばがゆであがるまでの間に板わさとかだし巻き、奴豆腐をつまんで一杯、というのと同じで、これからとびきり旨いうな重をいただくのに、腹に入れておけるのは、せいぜいが上新香程度というものだ。ぼくなら胡瓜の浅漬けをつまんでちびちびやって待つところだ。

 

それに、もうひとつ違和感を感じたことがあった。
鰻の蒲焼きは江戸時代の発明としては秀逸と言っていいほどの飯と相性のいい料理である。つまりは飯の上にのせた段階で完璧な完成形である。
ただし、これが川魚であるところは、日本料理としっくり合わない。川魚を専門にする料理屋はあるが、これまで取材した料亭の懐石、会席に川魚が登場したことはない。しばらく井戸水に入れて泥を吐かせる手間は独特の技術で、そのため板前にとって、川魚は、鯛や平目とは別次元のものである。
食べる立場としても、これをタレのしみこんだ飯といっしょに口に放り込むのでなければ、鰻の蒲焼きだけを口にしても、その快楽は半減どころではなかろう。
つまり、日本料理の献立の中のどこに入れてもこの鰻ははみ出してしまうのである。
その二つが同居する料理屋にどう言って客を呼び込むのか?
丸谷先生が、『 わたしはあの店の椅子席で一杯やるのが好きなんです。』と書いたのに倣って、座敷や庭には触れず、うな重の食前酒に言及してお茶を濁すか、「鰻懐石」を言葉を尽くして説明するか?
そんなめんどうなコピーは誰も読んでくれないと思ったから、幸い北大路魯山人の器があったので、分かりやすい話に流れたというわけである。
写真の料理の蒲焼きだけ盛り付けた皿は豪勢に見えるが、一口食べた途端に飯が欲しくなるはずだ。すると、他の皿の料理は無理をしても腹に収めねばならない。TVに登場するデブの大食漢なら別だが、デブは粋と対極にあるものだ。健康にも悪い。
他にも、時たま「すし懐石」が看板の店に遭遇すると、僕は同じように軽いめまいを感じることが常である。
かくのごとく、料理屋のことを褒めるのは骨の折れる仕事なのだ。

 

 

極論すれば、「ミシュランガイド」は番付の勧進元として店を取り上げ、星を付けたところで仕事は終わっている。店に客が来ようと来まいと関心がないから文章にも関心がない。『東京いい店うまい店』は覆面取材はミシュランと同じだが、文章にはこだわる。でも、本が世に出たらそこで、おしまい。読んだお客が店におしかける(一度行ってみろなどとそんな書き方をしていない)、なんてことはあまり期待していない。

 

こういう仕事で、最もうれしいのは、めったにないことだが、広告(あるいは紹介文)の効果が如実に現ることである。これを僕が、「関東実力派すし店めぐり」(週刊文春掲載)で一度経験した。
日本橋の小さな寿司店のことである。付け場は女人禁制、鮪は生に限るという、昔気質の頑固者がご主人。その取材広告が週刊文春に載った二三日後のこと。夕方、仕込みをしていたところへ、一人の客が飛び込んできた。手には広告の掲載誌を丸めて握っていたそうである。
後日、訪ねたヒゲタの部長に聞いたことだが、このお客は日本にむかう飛行機の中で、その週刊誌の記事広告を目にしたそうだ。是非ともこの寿司屋に行きたいと思って、矢も楯もたまらず成田からタクシーを飛ばしてきた、と言ったらしい。
20年以上前のことだから、どんな広告文だったか、店の名前もすっかり忘れてしまっているが、出だしはかすかに記憶している。

 

「春子とかいてかすごと読む。掌大の小鯛を三枚におろし、塩をしたあと軽く酢で締める。大鍋の底に鯛の片身を炒りつけてほぐし、淡口とみりんで味を調えると、ほのかな桜色のそぼろが出来上がる。小鯛にこいつをひとつまみ噛ませて握るのが季節にふさわしいこの一貫・・・・・・」

 

僕は学生の頃、数寄屋橋の東芝ビル(いまは建て変わっている)にあったレストラン四季の中の「天一」でアルバイトをしていた。天ぷら屋のことはこのときいろいろ経験したが、それはともかく、隣には鮨の「久兵衛」があった。
昼時が過ぎて客足が途切れると、「久兵衛」の小僧さんが、忙しくなる。仕込みの時間なのだ。厨房は別だが、行き来は簡単にできた。ある昼下がり、手のついた大鍋を火にかけて、その底を盛んにこすっているのを見かけて何をしてるのか訊ねたことがある。それは鯛の身の繊維がほぐれるように鍋の底で炒りつけている手間暇のかかる作業であった。寿司屋の修行は天ぷら屋の何倍もかかるというのもうなずけることだと思った。

 

                    △

 

さて、「ミシュランガイド東京」が出てまもなく、僕はこのブログに「ミシュラン東京だって?」という文を載せた。その全文をもう一度掲載する。
丸谷才一の「我がミシュラン論」もその頃書かれたが、僕の目にとまったのは「人形のBWH」の中だから一年後である。
これを読んで、どうやら賛同するものが少なからずいると判断した僕は、ミシュラン社に手紙を書いた。店の選択はまかせるが、説明文を書かせてはくれまいか?とこれまで書いたものをいくつかコピーして送ったのである。しばらくして返事があった。「そう言うことはしていません。」素っ気ない応えだった。

 

 

ミシュラン東京だって?        2007年12月

 

「ミシュラン東京」なる本がでたので一時話題になったが、まるで潮が引くように今では誰も口にしなくなった。本屋に行っても並んでいないから、大した数を印刷しなかったのであろう。数は出さなくとも採算は合うと考えたのか、予想外に売れたから今大車輪で印刷しているのかどっちかわからない。どっちにしろ、こうも素早く下火になっては、もう一度火をおこそうとしても苦労するだろう。

 

80年代の半ばに、ということはバブルの頃であるが、一度グルメ案内がブームになったことがある。多少高くても実際に行って食べて見たいというニーズが懐具合のいい連中始め下々にも広がった。なにしろ証券会社の新入社員の女子でもボーナスの封筒が縦に立ったといわれるくらいである。教養よりも色気よりも食い気に走ったのは自然の成り行きだった。この時は、うまいものを食わせる店を「地域ごと」に紹介するというもので、どちらかといえば繁華街の店の場所案内、はやい話がハンディな「地図帳」であった。

 

つまりは小金を手にした連中が俄にうまいものを探そうとしたからどこにそれがあるのかうろうろしたということだろう。したがって、料理のジャンルも多様、高級店もあれば庶民感覚の店も混在していた。ただし、高級料亭やホテルのレストランなどは「うまいに決まっている」と思ったのか、編集者の手の届くところではなかったのかあまり選ばれていない。

 

本質的には「地図」なのだから昭文社という地図専門出版社がもっとも力を入れていたし、よく売れていた。デザイナーが描いた見ばえのいいだけの地図なぞは役に立たないものだが、さすがに昭文社、地図は正確の上に簡潔な装丁がよかった。確か毎年「年度版」と称して出していたが、気がついた時にはいつの間にかやめてしまっっていた。なにしろ「地図帳」だから毎年更新することもないのである。そのうち「失われた十年」に突入して、グルメどころの騒ぎではなくなった。

 

こういう本はもともと江戸時代から盛んに出版されてきた一種の情報本である。代表的なものに「吉原細見」と言う案内本があった。そこを知っているものでないと書けない本だから、書いているのは、大概が暇人である。江戸の御代はともかく、明治からコッち暇人の代表格は小説家である。小説家といえば聞こえはいいが、だいたい良家の子女は、関わりのないようにそばに近づかないというやくざまがいの連中で、ろくなものがいない。

 

そのロクでないものを長年養ってきた文藝春秋社がこういう本を得意としてきた。毎年のように料理屋案内を出していたことを知っているものは少ないだろう。暇な連中が、料理屋の話をするのを取り巻きが面白がって買っていた程度には売れていたが、それに「地図」を付けなかったのはうかつであった。
いや、ついてはいるが、ホンの付け足しで、店の回りしか分からないようになっていて不親切であった。それでブームに乗り遅れた感があったが、金持ち喧嘩せず、泰然としたものだった。まさか「お前らのいけるところではない」と言うつもりではなかったろうと思うが、東京の街は駅からの地図がないとたどり着けない。実際の役に立てようという気はハナからなかったのだ。
この『東京いい店うまい店』という本は今でも毎年出ているようで、この間見かけたから手に取って見るといまでは地図などどこにも出ていなかった。店の名前に五六行のコメントがあるだけという味も素っ気もない料理屋案内である。

 

なんだか目立たないようにそっと出している風情があるのは、昔から日本の男は食い物に言及しなかったということにたいして、多少の恥じらいがあるのかもしれない。真っ昼間からあそこの何はうまいとかどこそこの何が食いたいとか言うものは男の風上にも置けなかったのである。
それが、バブル到来と一緒に崩れて、うまいものをうまいといって何がわるいという風潮になった。
池波正太郎などという元株屋は泡銭で食ったうまいものの記憶をたどって臆面もない文章を書いてよく売れた。立川談志など、どういう料簡か、ありゃなにも分かっちゃいないと池波をけなしているが、一応、東京の老舗どころは押さえてあるから誰も文句は言えない。文句をつけた談志のほうも食い道楽だったなどという話は聞いたことがない。第一、「あそこのなになにはうまい」などと談志がいうのはまったく信用にならないし、そんな話は見たくも聞きたくもない。

それにしても、どうせ食のことを書くなら、どこそこのウナギは旨いとか、あそこの寿司を食いてえとかつまらないことを気分にまかせて書いていないで、もう少し教養を磨くことを考えてもらいたいものだ。

 

そこへいくと戦前の連中は徹底していた。「美味求真」の木下謙次郎、「食道楽」の村井弦斎、巣鴨の監獄で暇をもて余して「味覚」を書いた大河内正敏(この人は、殿様で、理化学研究所の創業者)、上げれば切りがないが、これらは背景になっている教養と追求心が並大抵ではない。戦後になって吉田健一や邱永漢も面白いエッセーを書いているが、彼らにはかなわない。

80年代半ばといえば、僕も随分とあちこち尋ね歩いてこのうまいものとやらに出会ってきたが、池波正太郎が取り上げた店などは、数から言えば大したことはないのであっという間に制覇した。それどころか社用も兼ねていたから気がついたら昭文社発行の本に取り上げられた店は大概ね尋ねていた。

 

そのうちにものの味も分からないような若い女やガキどもが、生意気なことを言うようになって、すっかりいやになってしまった。僕のグルメブームなどはこの時期であらかた終っていたといってよい。
その後90年代になると五年ばかり料亭とすし屋を月に4軒くらい取材して原稿をかいていたから、それが仕上げになって、いまでは、食い物屋の話などしたくもない。なにやせ我慢だろう、店を訪ねる金がないのだろうと言われそうだが、本気で料理屋の料理など別に食いたいとも思わなくなった。

なにしろ毎日のメニューを考え、買い出しに行き弁当を三人分作ってきたのだから、主婦を料理人とは言わないが、料理が主婦の仕事だというなら僕は今やその両方を勤める主夫だといっても過言ではない。日本料理の職人がグラタンを作れと言われたらおっかなびっくりだろうが、僕にとってはマカロニグラタンなど手作りホワイトソースからはじめて目をつぶったって作って見せる。芋の煮っ転がしだろうがコンニャクの煮付けだろうがピザパイだろうがお茶の子さいさいである。キッシュにシュウマイ、トムヤムクン、パンにまんじゅう、チョコレートパフェなんでもござれである。魚をこしらえるのだって厭わない。妙齢のご婦人を連れて料理屋で密会、なんてことからはすっかり足を洗っったわけだから、これで料理屋に行く必要があるだろうか。

究極のグルメとは自分で料理が出来ることである。料理は難しいかというと、何事も経験だというのがたいていのことの真実の一端を示しているくらいに何といったって経験がものをいう。だから中学を卒業してすぐに料理人になるのが一番だと今でも信じている親方がいる。確かに人間、失敗から学んで成長するというのは本当である。試行錯誤して味をからだに覚え込ませることも大事な修業である。しかし、不思議なもので、一杯飲み屋に毛の生えたような店で修業をすると酒のつまみは作れるが、エビ新嘗のお椀とかヒラメの昆布締めに、サヨリの酒盗干しなどという手間のかかる料理は死んでも作れないものだ。経験とはいってもそんなもので、上を知らないと話にならない。

 

それにバカには料理は出来ない。毎日同じものを作っているならバカの一つ覚えでもいいが、食わされる方も厭きるし、第一自分が厭きてしまうだろう。創意工夫をするから料理は面白いし、奥も深くなっていくものなのだ。ただ経験を積めばいいのでない。中身が重要、その重要な中身を時間を短縮してつまりは勉強をして身につけることも出来るから、経験だけだといいきれるわけでもない。それにセンスがいる。それこそ天性のものでもあるが、ある程度までは師匠のを盗むという手もある。ただし、家族に食わす料理でそんなことまで必要はないからなくてもかまわない。

僕の経験からいくと、料理は素材である。素材がよければ何でもうまい。肉も魚も鮮度がいいに越したことはないが、よすぎるのでも困ることがある。いや大概は困る。というのも肉にしても魚にしても身のたんぱく質がうま味の成分アミノ酸に変化するのに時間がかかるからである。魚の方が早いのだが、それにしたってたとえばフグは一日置いた方がいいとか鯛でもヒラメでも柵にとってから冷蔵庫で一日くらい寝かした方がうまいといわれる。確かに釣ってきたばかりの魚の刺し身は歯触りがいいだけで味も素っ気もないことが多い。マグロにしたって少し置いておいた赤身などねっとりとしたうま味が感じられてトロなど足下にも及ばない。トロは油っ気が強いから、舌触りでごまかされているが、本来あれは味のないものである。油は酸化が早いからさっさと食べた方がいいということもあって、熟成したうま味とはほど遠いものなのだ。

肉については、ある豚カツ屋のはなしだが、鮮度のよい肉を仕入れるのは当たり前として、驚いたことに客に出すまで一週間もかけるということだ。肉はすぐに切り身にされて、一日分の分量に塩コショウしたらバットに入れて冷蔵される。このバットが常に冷蔵庫に七個ある。つまりは一週間経ったものを順繰りに取りだして今日の販売分にするというわけである。こうすると肉の熟成度合いがちょうどよくなって、コクも香りも歯触りもよそとは違う逸品ができ上がるという。

野菜は鮮度が命とはどこかの宣伝文句だが、まったくその通りで、この間鉢で育てたピーマンを料理して食わしたら、娘がこのピーマンの死亡推定時刻は二時間前だろうと見事に当てた。それほどスーパーで売っている野菜との違いが歴然としているものなのだ。 これは科学的なことは知らないけれど、植物は切ったところですぐに細胞は死なないからではないかと思う。長く保管しても熟成する理由がないからただ単に酸化したり水っケが抜けたりしてまずくなる一方なのだろう。

待てよ。僕は「ミシュラン東京」の話をするつもりだった。とんでもない回り道をしたものだ。
ともかく、この本はいろいろな意味で画期的だったらしい。まず東洋では始めて、世界では22番目に取り上げられたということ。フランス版とか英国版などは全国を一冊におさめているが、日本は東京一都市だけである。京都や大阪は入っていない。それから、三つ星が八店というのは一都市にしては多い。(ちなみにNYは三店)二つ星が二十五軒に一つ星が百十七軒というのは他と比べると格段に多い数字だという。
「東京は世界一級の美食の町」と出版元が言ったらしいが、何を今更という感じである。二十年ほど前に、パリに住んで、日本のデパートにもブティックを持っていたZ・サンデフォードが言っていたが、東京の食はバラエティがあっておいしいけれど香港にはかなわないといっていた。世界中をまたにかけて往来しているものがいっているのだから本当だろう。して見ると、これから香港版が出るとなればどうだろう。

 

だいたい、欧州の料理は獣肉と小麦それに乳製品ででき上がっている。緯度が高いからとれる野菜にも限りがある。東南アシアから東アジアにかけての気候や地勢からいって、素材のバラエティにも相当の差があるといっていい。たとえば発酵食品のバリエーションを比較して見たらいい。納豆、茶の葉、醤油、みそ、熟れ鮨・・・。植物の根を水にさらして澱粉を取る方法と同じものを欧州に探して見つかるだろうか?まあ、はっきりいえば、食については始めから勝負がついている。審査をした連中がどんな者たちか知らないが、驚いたとすれば正直な気持ちだっただろう。

それにしても、三つ星候補といわれながら選ばれなかった店はかなり悔しがっていたようだ。欧州では、死活問題になるとかいっているが、東京ではどうだろう。今どきミシュラン片手に食べ歩くほど情報に困っていないのだからまあ、黙って見守るしかないのではないか。

とはいえ、こういう風潮を批判するものもいて、こんなものを有り難がる必要はまるでないのだという。この間、劇作家の川村毅のブログにその代表的な意見が書いてあったので紹介しよう。

「で、たこ焼き、焼きそば食ったんだけど、東京ミシュランって結局東京に来た外国人向け、もしくは外国人への接客用だな。あんなもん参考にする普通の東京人がいるかね。で、これを演劇に置き換えて考えてみたらむらむら頭にきだした。ヨーロッパだかのわけのわかんねう批評家が東京の舞台を見まくったと称して、舞台のランク付けをしてるってことだろ。冗談じゃねえや。てめえらの審美眼がそんなに絶対なのかよっていいたくなる。」だそうである。
まあ、そんなところだろう。

あっという間に話題はもえつきてしまったわけだ。「ミシュラン東京」は来年も出すのかね。
どっちにしろこの間歯医者に言ったらほとんど残った歯も役立たずになっているといって思いっきり抜かれてしまった。母親の遺伝だが、亡き母を恨むわけにもいかず、歯がなくなって急に老け込んでしまって、ミシュランどころの話じゃないことを書こうと思って書きはじめたのに延々と余計なこと書いてしまった。梅干し爺になって、もはや終点を通り過ぎ、車庫に入っている。そろそろ年貢の納め時だが、納める年貢もない。

 

 

 

 

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2023年10月15日 (日)

再び、薄田泣菫「茶話」(富山房百科文庫)について

2007年頃に書いた「茶話」について思い出したので再掲します。

「天声人語」は朝日、「編集手帳」は読売「余禄」は毎日、皆、新聞第一面にあるコラムである。昔は「天声人語」が大学入試にでるといって朝日は宣伝した。「社説」ほど裃付けずに、時事的な話題を匿名の一人称で語るという新聞の中では独特の位置にある読み物である。その時の新聞社で、最も筆の立つ編集委員が担当することになっているという。文章の達人が書くのだから大学入試にでてもおかしくないというわけだ。今も取り上げる入試があるかどうかは知らないが、ここ十年ほど読んでいた限りでは感心するものはあまりなかった。特に、教養をひけらかすだけのもの、道徳を説くものなどは「何を偉そうに」と僕だけでなく、そこいらの反感を買いそうだと思った。ほのめかしやたとえ話もわざとらしくて、発想が貧困だった。だいたい近頃の書き手は教養がない。学問がない。聞いたこともないような本の引用をして、それを読んだ、読みこなした印象がないことがままある。そんなものを有り難がって、若い者の頭を悩ませるのはほとんど害毒を流すに近い。昔は、高等遊民にもなりきれない貧乏文士やなりそこないの学者を新聞社が引き受けた。こういう連中は世の荒波にもまれているから書くことに心棒が一本通っていて、おのずから個性がにじみ出る。学校出て、高給を食んでぬくぬくと新聞社の看板の下で生きてきたものが、昔の記者(社会的には役立たずという意味でやくざ同様)の口まねをしてもお里は知れているというものだ。

 

いつごろから新聞にこういうコラムが出来たのかはよく知らないが、非常に早い時期に(最初は大正四年)それとおぼしき記事を連載していたものがいる。いまとなっては、こんなに皮肉で洒脱で風刺が利いていて、そこはかとなくおかしい文章は見ることがない。薄田泣菫である。大昔、国語の教科書にでていたから名前だけは覚えている人もいるだろう。その時は島崎藤村、土井晩翠以降の象徴詩を継いだ詩人たちの一人としてであった。詩作をやめた後、小説から随筆に転じて国民新聞社、帝国新聞社、大阪毎日新聞社を渡り歩いた。この時に連載した「茶話」と言うコラムがそれである。名詞代わりに(もちろん泣菫の)初期の短いのを紹介しよう。

 

「私の故郷(くに)は瀬戸内海の海っ辺(ぱた)で、ヂストマと懶惰漢(なまけもの)と国民党員の多いところだが、今度の総選挙では少し毛色の異(ちが)った人をといふので、他(よそ)の県で余計者になった男を担ぎ込み、それに先輩や知人の紹介状をくっつけてさも新人のやうに見せかけてゐる。ゴオゴリの「死霊」を読むと、名義だけは生きてゐるが、実はとっくに亡くなっている農奴を買収し、遠い地方へ持ち込んで、そこで銀行へ抵当(かた)に入れて借金をする話が出てゐるが、今の選挙界の新人もちょっとそれに似てゐる。」もうひとつ。

 

「フランク・ハリスと言えば聞こえた英国の文芸家だが、(ハリスを英人だといえばあるいは怒り出すかもしれない、生まれは愛蘭土で今は亜米利加にいるが、自分では巴里人(パリジャン)のつもりでいるらしいから)今度の戦争について、持ち前の皮肉な調子で、「独逸はきっと最後の独逸人となるまで戦ふだらう、露西亜人もまた最後の露西亜人となるまで戦ふだらうが、ただ英吉利人はーーーさうさ、英吉利人は最後の仏蘭西人がといふところまではやるに相違ない」と言ってゐる。流石(さすが)にハリスで、よく英吉利人を見てゐる。」とまあこんな調子である。

 

あまり感じない人にとってはご愁傷様だが、僕は読んでいておかしくて笑い転げていた。こういう感覚のものが何年にもわたって連載されたのだ。もちろん博覧強記、古今東西あらゆることに通じていて、それを時事と絡めて極上の読み物にしている。

 

子供の頃こういうものが書きたくて(ということはどこかで出会っていたのかもしれない)新聞部にいたことがあった。いかんせん実力がともなわない子供のことで、まね事のように書いたものを回りが笑ってくれたが、国語の教師は「ふん、面白いだけで、意味がない。」と木で鼻をくくったような態度であった。別に自信があってしたことではなかったので、あまり応えなかったが、「俺が書くものには意味がない」ということが気にかかった。してみるとその教師は某有名官立大学文学部出のキレ者で、四角いあごに大きめの目、浅黒い顔の上の刈上げた頭にはいっぱい「意味」がつまっているのだろう、そのために意味のないものには感情が動かされなかったのだ。それから一生懸命僕の頭にも「意味」を詰め込もうとしたが、それほど出来がよくもないせいでいまだに半分も満たされずにいる。

 

不思議なもので、後年この教師とよく似た顔の人と出会ったが、やはり木で鼻をくくったようなつまり笑顔というものがない人だった。いうまでもなく某有名官立大学文学部出でこういう顔にありがちなパターンなのかきっと頭が「意味」で充満していたにちがいない。あまり一杯でゆとりがないからかえって反応が鈍くなるのかもしれない。不思議だ!
こういう人に上のような文章を読ませたら、きっとこれのどこが面白いかじっくり分析の上解説してくれると思うが、聞きたい人には参考になると思う。

 

ところで(突然ですが)薄田研二を知っているだろうか?東映時代劇の悪役専門の役者で痩身に四角い小顔、くぼんだ目にこけた頬という一目見たら忘れられない容姿である。大概はそういう役者と思っているが、当時子供の僕は物知りの母親から「あれはもと、高山徳右衛門といって、築地小劇場から飛び出て、後に原爆でなくなった丸山定夫、仲みどりらと劇団を結成したり、演劇研究所をつくった新劇の大立者」と聞かされていたから、そこらの歌舞伎出身とは違ってちょとした芸術家、インテリに見えていた。

 

Images_20231015214801 幸い薄田泣菫の顔写真を見たことがない僕は、「茶話」を読む時この薄田研二の顔を思いだしている。彼はあまり表情を動かさない単なるきむずかしい爺さんに見えるのがいい。これが文机の前で面白くもないといった顔で鼻の頭を掻いたりしながら原稿用紙のマス目を埋めている様子を想像して読むと感じが出るのである。

 

新聞の話に戻るが、そんなわけで「茶話」のようなコラムがあったら夜が明けぬうちに表へ出て新聞配達がやって来るのを待つところである。むかし、アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」が「デパ」という新聞に連載された時がそれであったという。話の続きが読みたくて皆争って新聞を買ったのだ。新聞社も売れるから話を延ばしてくれといったために、巌窟王捕らわれの日々が長くなった(と言うのは冗談)。

 

件のごとく、小説を新聞の販売促進に使うというのは150年前からやっていることで、珍しくもないが近頃では惰性でやっているとしか思えない。読んでいるものどれだけいるのか?たまに、男と女の究極の愛などというフィクションが新聞小説のカンフル剤のように現れるが、ああいう疲れる話で息を吹き返すとはとても思えない。

 

社説など新聞社自身がもういらないのではないかといっているぐらいだし、「天声人語」、「編集手帳」も「余禄」も別に読みたくもないが、では何で、新聞なんて取っているのかといわれると、はてと考えてしまう。
結局、広告だね。広告を見るともなしに見る。そのために新聞が存在する。ニュースは、系列のキー局に配信してスポンサー付きで放送してもらう。その方が速報性がある。従来の紙面は広告で構成してただで配布。すると僕らは、年間5万円ほど払っている新聞代を節約出来ると言う寸法である。
(完本「茶話」上中下 薄田泣菫 富山房百科文庫)

 

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2023年9月12日 (火)

映画監督 伊丹十三さんの思い出

Photo_20230912170201 「テーブルデザイニング」(世界文化社)は、1987年=昭和62年から全部で五巻出された本である。実は、この本は、僕が勤めていた会社がスポンサードしてつくった。
制作にあたって、僕も関わっている。(巻頭の辞は僕が書いた。)第1巻がでた後、ほどなく僕は会社を辞めた。会社は、やめてからも残りの巻の制作を手伝えと言ってくれたので、今度はフリーランスの立場で最後まで参加することが出来た。この本は全国の図書館で扱ったはずなので、いまでもいくつかは残っているのではないかと思う。
第一巻の編集の最中に、僕の上司が「伊丹さんに巻頭エッセイを書いてもらったらどうか?」と提案してきた。伊丹さんは、すでに面白い文章を書くことで定評があった。書いてくれたらこの上ない。僕の上司は、コピーライターの草分けで、どう言う訳か伊丹さんの映画「タンポポ」にエキストラで出演していた。伊丹さんは、ドキュメンタリーやCMなどをつくっていたから広告やTV制作の縁で、親しくしていたのだろう。
ある日、僕と上司、それにカメラマンと連れだって、伊丹さんが当時住んでた世田谷区赤堤の自宅を訪ねた。本の主旨は伝わっていたと見えて、普段使いの器など用意して待っていてくれた。
たくさんある器だが、目を凝らしてみると、金継ぎをしているのがいくつか見えると思う。僕はこの時はじめて金継ぎというものを知って、日本人の感性に驚きなんと美しいものかと思った。伊丹さんは、写真手前にある小振りの、コバルト色の器を手に取ると、穏やかな口調で、中東の沙漠の国で手に入れたもので相当に古いものだという。お気に入りの一つだったのだろう、なでるように扱っていた。ひとつひとつ器の説明を受けているうちに、後ろのふすまが開いて宮本信子さんが起き出してきたので、それを潮に辞することにした。
届いた原稿は、読んでいただいたら分かると思うが、クロード=レヴィストロースを横に置いても勝るとも劣らない「思想性」を放っている見事なものであった。
あれから、すでに三十年以上もたった。
この間、ふと思い出して本棚から取りだしてみたら、このままにしておくのは勿体ないと思うようになった。著作権侵害だと言われそうだが、言われたら言われたときのこと、ここに掲載して読んで頂こうと思う。

 

 

 

食卓論
映画監督 伊丹十三

 

Photo_20230912170902 子供の頃、父親が亡くなってからは大変貧乏をしたもんだが、食卓なんてものは貧乏だから貧しいってものでもないのだよ。うちの母親は20代をお茶だけに明け暮れた変りものであったから、たとえ食卓に上るのがひと椀の白いめしと汁と目刺しだけであってもね、梅一輪ついた小枝を添えるとかね、味噌汁の上に蕗の薹をぱっと散らすとかね、食卓の中に小宇宙を作ることは上手であったよ。
その頃、湯はアルマイトのやかんを七輪にかけて沸したな。炭がある時は炭で沸かすのだが、金がない時は炭のかわりにそこらで木っ端を拾ってきて燃やすさ。だから、うちのやかんは、煤で真黒にいぶされているのが常であった。
ところがある時、母親はその黒地のやかんをナイフでこさげて絵を描くことを思いついたのだな。しばらくごりごりとやっていたと思ったら、見事な狩野永徳風の梅を彫り出した。黒地にアルマイトの金色がなかなかよく映えてね、
漢詩が2行添えられておったな。

 

去歳荊南梅雪に似たり。

 

今年薊北雪梅の処し。

 

このやかんは、われわれにこの世の憂さを忘れさせて2、3日は食卓の傍らにあったが、やがてまた湯を沸すのに使われて、もとの真黒なやかんに戻っちまった。今は私の頭の中だけにある、というわけさ。

 

こんな風にして育てられたから、わしは食器にはうるさいぞ。使っているのは古い伊万里が主であるが、これは年に2度、東京美術倶楽部の売り立てへ出かけて、ぱっと2∼3百万衝動買いをするのさ。それは素早いものだよ。わしは骨董の目利きでもなんでもないが、好きなものはあちらから目の中へとびこんでくるのだ。
買ったものはもちろん毎日使う。子供も赤ん坊の時から古伊万里さ。食べ終ったら子供に台所まで運ばせる。全く音を立てずに置いたら100点だってほめてやるのさ。お陰でうちの子は食器だけは大事にするな。この間、下の子がお嫁さんの条件というのを話すのを聞いていたら、プッ、食器を大切にする人っていいやがったよ。

 

若い頃は関西料理なども随分動強したが、結局はものにならずじまいであった。仏蘭西料理の盛り付けというのがわしには苦手でな。仏蘭西人の料理人の盛り付けは、パりの街さながら、皿の中心に肉や魚を盛って、そのまわりに放射状にアスパラガスやアンディーブを飾ったりするであろう。食器だってそうだ。初めからしまいまで同じデザインで統一されておる。要するに連中はすべてにおいて人間を超えた秩序を志向するのだ。世界を隅から隅まで構成しようという権力への意志が食卓にまであふれかえって、わしを息苦しくさせるのだ。

 

Photo_20230912171001 そこへゆくと日本人の食卓はやさしいな。自然に対してへりくだっておる。
放射状やシンメトリーや格子模様などで自然をねじふせようというのではなく、日本人の感じる自然のたたずまいを、そのまま食卓に反映させようとする。
日本人は中心をずらしてしまう。中心より重心を大切にするのじゃ。大切なのは微妙なバランスや動きの中に、自然のいとなみを宿らせることである。そういう意味で、日本文化というのはチラシの文化だな。チラシというのはあれは偉大なものじゃ。しかと見てみい。ちゃんと一つの小宇宙を形成しているであろうが。

 

もう一つ、わしは別段国粋主義者ではないが、日本人の特技をいうなら、日本人はモノにココロをこめるということができるのだ。日本の男たちはゴルフのクラブでも車でも心をこめて磨いたりしおる。心をこめることによってモノは単なるモノではなくなるのだ。
寿司屋のカウンターは単なる白木の板ではない。あれは寿司屋の心のこめられた、モノ以上の、何か神聖なるものなのだ。そして、寿司屋が心をこめて切った鮪のひと切れは、単なる魚の死肉の一断片ではない。寿司屋の心こめたる包了さばきで生き生きと蘇った命ある何ものかなのだ。

 

さて、日も䫗いてきた。山の斜面に樹樹が揺れ、遠く海が光る。子供たちの遊ぶ声が風にのって切れぎれに響く。客たちはそれぞれ好みのを手に、法螺を吹きあっている。そろそろ老妻とともに厨房に入るとするか。われらの手は材料の摂理に従って動き、心は自ずとモノたちにこもる。
こうして出現した小宇宙の中に、われらはしばしの生を遊ぶのである。

 

 

中村註:
僕らのとき、国語の時間は「現代国語」と「古文」と「漢文」に別れていた。いま、大学の試験がどうなっているか知らないが、漢文も入っているのかどうか、いずれにしても、世の中から漢文の素養が聞こえてくることなど全くなくなった気がしている。
それはともかく、
伊丹さんのお母さんがやかんのすすを削って書いた漢詩の一節について知りたいと思った人がいたのではないか、そう考えたので下に注釈のようにして解説しておこう。これは唐の玄宗皇帝のとき燕国公に封ぜられた帳説(洛陽の人、667〜730)の作で、梅花と雪を詠った句である。

 

題は「幽州新歳作」。
去年の岳州(南国)の春では梅花が雪のように咲いていたが
今年この幽州(現在の北京付近、北国)で迎える春は寒くて梅花のように雪が降る
と始まる詩の最初の二行をとったもので、やかんの腹にすらすら梅と漢詩を書き付けられるとは、お母さんの並々ならぬ教養がわかるというものだ。

 

全編は以下の通り。
少し前まで、篆刻をしたり書を稽古したり「唐詩選」などを取りだして勉強しようとしたこともあったが、いまはトンとそちらには気が行かなくなってしまった。

 

去歳荊南梅似雪   去歳荊南、梅雪に似たり

今年薊北雪如梅   今年薊北、雪梅の如し。

共知人事何嘗定   共に知る。人事何ぞ嘗て定まらん。

且喜年華去復來   且らく喜ぶ。年華去りて復た来たるを。
邊鎮戍歌連夜動  邊鎮の戍歌  連夜 動き,
京城燎火徹明開  京 城の燎火  徹明して 開く。
遙遙西向長安日  遙遙として 西のかた  長安の日に向ひ,
願上南山壽一杯  願はくは 南山の壽(じゅ) 一杯を 上(たてまつ)らん。

 

 

 

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2020年11月25日 (水)

中房温泉「山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」

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「常念岳」登山の記録でプロローグのようにして、直接関係ない二つのことに言及している。一つは、安曇野に関する映画のシナリオを準備したこと、もうひとつは燕岳登山口にあたる中房温泉に興味があったことである。
そのうち、中房温泉に関わるものを抜き出して多少手を加え。再掲する。

 

 
数年前、泉康子の「ドキュメント(宝島社)を読んだ。偶然本屋で見つけたのだが、ドキュメンタリーでありながら一編の推理小説を読むような面白さであった。

 


 昭和61年12月28日、信州安曇野から燕岳、大天井岳、喜作新道を経由、槍ケ岳を目ざして縦走(北アルプス表銀座縦走ルート)に出かけた「のらくろ岳友会」の三人のパーティが、1月4日の予備日を過ぎても予定していた上高地方面に下山してこなかった。彼らは昭和62年元旦のご来光を槍ケ岳の上で仰ごうという数年来の目的を果たそうとしていたのだが、登山開始の日から悪天候が続いていたため、あるいは遭難したのではないかと懸念された。
その予定は、 次のようなものであった。



Photo_20201125161101 12月28日、大糸線有明駅から宮城までタクシーで入り、中房温泉を経て日本三大急登の一つ合戦尾根に取り付き、尾根の中間地点にある合戦小屋(2,380m)前で幕営。
翌29日には合戦小屋から燕山荘(2,680m)に登り、縦走路を南に大天井岳(2,922m)を目ざし、頂上直下の大天荘で幕営。
30日は大天井岳を登り返し頂上から喜作新道を西にたどって「ヒュッテ西岳」(2,680m)前に幕営。
翌31日は西岳(2,758m)から東鎌尾根(槍ケ岳から伸びる)にとりつき槍ケ岳に登り、槍の冬期小屋で幕営。
明けて1日、槍から南へ(穂高連峰の主稜線上にある)大喰岳(3,101m)そして南岳(3,033m)と通り、そこから主稜線を離れて横尾尾根を梓川まで下り横尾で幕営。
翌2日、梓川沿いに上高地を経て沢渡へ下山する。

 






 3_20201126160701 こう書かれても北アルプスに不案内な人には何が何だか分からないかもしれない。北アルプスのこのあたりの山域を分かりやすく言うと、穂高岳(3,190m)から槍が岳(3,180m)につながる山脈は長野と岐阜をわける飛騨山脈の主脈であるが、上高地に流れ下る梓川を挟んで長野県側にもう一つの山脈が向かい合って走っている。それが常念山脈である。主峰は無論常念岳であるが、南から北へ蝶ケ岳(2,664m)、常念、横通岳(2,767m)、東大天井岳(2,814m)、大天井岳(最高峰)、燕岳、北燕岳(2,756)、東沢岳(2,497m)、餓鬼岳(2,647m)と稜線をたどる。この山脈と飛騨山脈の槍ケ岳をつないでいるのが、大天井岳から南西に延びている喜作新道である。喜作新道からは西岳(2,758m)に至り、槍から伸びている四つの尾根の一つ、東鎌尾根を通って槍ケ岳に登るのである。
彼らがたどろうとしているルートは、表銀座コースといって中房温泉ー燕山荘から槍ケ岳方面を目ざすもっともポピュラーな縦走路である。
三人の内二人は日産自動車、一人は本田技研の若い社員である。1月5日、ただちに「のらくろ岳友会」の仲間は捜索隊を組んで下山ルートの上高地に入ると、冬期間も開いている木村小屋に陣取った。小屋の主人は「今年の天候はくるくる変わった。三十日は晴れたがその夜から元旦まで大荒れの天気で、ベテランでも行動には迷ったかもしれない。」冬山の経験は十分あったと聞いて、「よし、まだ生きている可能性は十分ある」と捜索隊にむかって力強くいった。
木村小屋と共にその捜索の前線基地になったのが彼らの出発点である中房温泉だった。長野県警のヘリに加えて本田技研が自社の所有する双発のヘリコプターを飛ばして新雪が積もった縦走ルートをくまなく捜索する。
1月6日午前十時頃、河童橋の方から小柄な下山者が一人現れた。彼の証言によると、1月3日午前十時頃、自分が槍を目指して大喰岳(おおばみだけ)を下り始めたとき三人のパーティにあった。彼らは東鎌尾根から槍ヶ岳をやってきたと言って、大喰岳を登っていった。風雪がひどく三人の風貌については覚えていない、ということであった。このパーティが『のらくろ岳友会」の三人だったのか?

 

しかし、その後は何の手がかりも得られずに数日がむなしく過ぎ、彼らの遭難は明らかとなった。捜索隊のメンバーたちはまもなく現地の拠点を一旦解散するが、それから遺体回収に向けて執念の捜索が始まる。
中房温泉から槍ヶ岳を目指したパーティ、逆に上高地側から槍に登って中房温泉に下山する登山届けを提出したパーティを調べ上げ、全国に飛んで証言を集める。それによると、この山域は日本海から東進してきた低気圧が居座り、彼らが出発した日からすでに気温マイナス30度、強風が吹き荒れ視界がきかない中をラッセルしながら、やっとの思いで進む状態であった。
大天井岳から喜作新道に入るか否か躊躇しながら、大天荘で停滞していたパーティがいくつかあった。その先のルートは、岩に張り付いた雪が氷になっている険悪な岩峰が続くのだ。
天候の変わり目を読んで運よく槍に到達したパーティが四隊、中房へ引き返したのが七隊、常念にエスケープしたのが六パーティということがわかった。
彼らの情報を突き合わせると、のらくろの三人は喜作新道へは足を踏み入れていないと推量された。ということは、彼らは燕山荘から常念岳に至る稜線上のどこかで遭難し、遺体は雪に埋もれている。
三月になって、「のらくろ岳友会」の有志が再び中房温泉に集まり、捜索を開始した。山はまだ冬山の装いである。彼らが急いだのは雪が解けて、沢に流されると岩と水にもまれてまともな姿では出てこないことが分かっていたからだ。・・・・・・

 

燕山荘から大天井岳にいたる稜線のどこかで足を踏み外し、あるいは強風にあおられて滑落したか? しかし、三人が同時に落ちてそのまま遭難とは考えにくい。
なんとか大天井岳直下の小屋にたどり着いたとすれば、他のパーティと同じように天候の回復を諦めてエスケープすることにしたのではないか? すると、そこから常念岳へいたる東大天井岳から横通岳頂上を通る稜線が捜索対象となる。さらに、常念方面へ進んだとして、どこへ下山しようとしたのか?
横通岳を降りていくと常念に上り返す鞍部に大きな小屋がある。しかし、ここは冬期間閉鎖だ。ここから常念頂上までは約四百メートルを上り返すことになるが、この常念乗越には安曇野方面へ下山する一の沢ルートが交わっている。ところが、この鞍部は穂高-槍の飛騨山脈方面からくる風の通り道であり、下山ルート側へ大量の雪が吹きだまって雪崩の巣を形成する最悪の場所なのだ。
ここを避けるとすれば、常念頂上に登り、本沢を下るか、前常念岳を経由して二の沢を下るか、いずれにしても雪崩の危険は軽減する。
果たして遺体は出てくるのか?
中房温泉を基点にした捜索が続く・・・・・・。

 

 

泉康子の簡潔で乾いた文体が、冬山の緊迫した様子を描き出し、その構成は刑事顔負けともいえる情報収集と推理を重ねて間然するところがない。非常に面白いドキュメンタリーであった。後半の捜索拠点となった中房温泉へ行ってみたいと思ったのは、それがあったからである。

20190610

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2019年4月24日 (水)

取り残されたものたちへ③

Image_3_1 民青の呪縛 

安彦良和「革命とサブカル」をめぐって

 

前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。

その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。 この空虚の在りようについて、いかにもこの世代に共通の「時代に取り残された」精神構造が見えると思ったので、 最近若い世代が書いた「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)などを参照しながら三つ目の指摘というか提言(よけいなことかもしれないが)をしようと考えた。

 

 

Photo 彼は、ソ連崩壊を何年も前から予測していたが、その事態が90年代初頭に現実のものになると「・・・出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」と書いている。つまり、ソ連崩壊についてどう受け止めればいいのか分からなかったという空白の部分と学生時代に経験した「空っぽの寂寞感」という空虚である。ソ連崩壊についてはともかく、後者に対する思いは狂おしいまでに切実である。

『諸兄へ』の中で彼はこう書いている。「病死した同学年の活動家氏の遺稿集、追悼文集を出したときに、追悼だけでいいのかと言う座りの悪い思いをした。追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」彼は「あの時代」には(流されてしまいそうな、聞こえなくなりそうな)「巨きな意味」があったと思っている。

しかし、その「意味」とは何だと自問したとき、どうやらそこには「空っぽの寂寞感」という「巨きな空虚」だけが見つかったのである。彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?自分がしたことは何であったのか?あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

果たして、この聞き書きの旅で、その「巨きな意味」は見つかったのか?インタビュアーである安彦には、それが何か分かるかも知れないという漠とした目的はあったであろう。

彼の建てた前提は、こうである。ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。その出来事を「現在」から見ると、それは「何らかの因果関係」を持ちながら「いま」につながっているはずである。なぜならそれが「歴史」というものであり、人生はその中に位置づけられるのだから。つまり、「あの時代にあった(はずの)巨きな意味」を了解できれば、「いま」がどういう時代か、自分がどこにいるか、何よりも自分の人生とはなんだったのか分かるかも知れない、と言う思いである。

この聞き書きの旅で、何が分かったかは、安彦にあらためて聞くしかないだろう。編集者にその気があれば、ロングインタビューもいいかもしれない。

僕としては、個別の聞き書きについてそれぞれに多様な人生模様が垣間見えるといった感想はあるが、この稿は、それに言及することが目的ではない。(一言だけいうなら、インタビュー記事としては蟻塚亮二のが、最も面白く出来ていた。)あえていうなら、安彦の思いと聞き書きの相手との間にある微妙なズレがいったいどこからやってくるのか、そのことを明示しようと思っている。

とりあえず、全体的な印象を言えば、聞き書の相手は、安彦の意図に気づいてない訳でないことはわかっている。ただ、いかんせん四十年という年月は、それぞれの人生をまったく違うところに運んでしまっていた。

工藤敏幸は、「過去は置いてきた」といい、西田洋文は「あれは個人的なことだった」ととまどいながら応えている。安彦は「出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。」といったが、四十年という歳月は、その「一定の時間」には、おそらくそれぞれの人生にとって十分すぎるほど長かったのである。

つまり、当時は見えていなかったものが、今ではすでに了解可能なものになっているのだが、しかし、安彦は「この『巨きな時代』は、当時あった戦争や『革命』、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだった」といって、そこに格別に「巨きな意味」を求めるのである。

 

 

「当時あった戦争」とはベトナム戦争のことであろう。この戦争には世界中で反対運動が起こり、我が国でも政党から市民運動まで長い間米国の軍事介入に抗議が続いた。むろん、こうしたアピールが米国に届き、政策決定に影響を及ぼすことを期待してのことであったが、この世界中で費やされたのべ何百万いや何千万人ものエネルギーは、驚くほどのこともないが、全くの無意味、無駄であった。

この広汎な長期にわたる抗議の声を米国政府が一顧だにしなかったことは明らかである。1971年に国防長官マクナマラが辞表を出したとき、米国はすでに二万七千の戦死者を出していた。統計学の専門家として第二次大戦を戦った冷徹な政治家は、南ヴェトナムがこの戦争に勝利することはないという確信を抱いたのである。米国は直ちに収束に向けて手を打つべきだったが、テキサスのカウボーイ、ジョンソンは意地になって北爆を開始、勝つことのない戦争の負ける方法を探るために、さらに三万の戦死者と五年の歳月を費やしてしまったのである。

これらの事実は2004年のドキュメンタリー、最近の映画「ペンタゴン文書」で描かれたものによったが、まことに出来事というものは、一定の時を経ないとその意味は見えないものである。当時「ベ平連」に参加したものは、安彦のように、「それでもあれには巨きな意味があったはずだ」と思えるのだろうか。そのヴェトナムはいま西側からの投資を受け、経済成長率で中国を抜く発展を遂げている。

 

 

僕が海外に行き始めた八十年代半ばにはまだ、成田空港三キロメートル手前に検問所があった。バスや自家用車を止めて荷物検査をするためである。それほど、当時この空港は攻撃される危険があったということだ。羽田に変わる国際空港を首都圏につくるにあたって、数軒の農家が土地を譲らずこの地権者に革新政党や労働組合、新左翼学生が加わって激しい建設反対運動がおきた。いわゆる三里塚闘争である。

これも多数の死者を出しながら長く続いた闘争であったが、部分開港からしだいに沈静化して、いまでは国際空港の地位をかつて奪った羽田と争うに至り、そうした過去の影すら見えるところはない。

政治の傲慢さは問題だったが、公共のためにわずかに「譲る」という気持ちがあれば、あれだけの「無駄な」エネルギーを消費することはなかったのではないかと、いまにして思えるのだが、「三里塚」に参加したという日角健一は、いまでも成田空港を目の前にして、その存在を爆破したいほど苦々しく思うのであろうか。

 

 

六十年安保闘争を率いたブント全学連は昭和十年代の生まれの、東大、東北大、京大、など旧帝国大学系の学生が多くを占めていた。首相、岸信介が自衛隊出動まで考えるほど連日の激しい示威行動だったが、強行採決、自然成立の後はまるで潮が引いたように静かになった。この選良たちは「アカシアの雨に打たれて死んでしまいたい」とばかりにどこかへ雲散霧消してしまったのである。後にその中心にいた西部邁は「当時、安保条約の条項なぞ読んだこともなかった」といっている。

大学改革の運動は、僕の知る限り、六十年代半ば、欧州のある古い大学で一人の女子学生が取得単位のことで教授に抗議したことを嚆矢とする。それをきっかけに学生の抵抗はまず欧州全体に、そして米国、日本へと広がったのである。この背景には、第二次大戦後の平和への期待によって世界中で起きたベビーブームがあった。「一族で初めての大学生」(鹿島茂の言)が多数生まれ、高等教育の大衆化がはじまると当然のように旧態依然たる大学の権威主義や形式主義は批難の的になった。私立大学の授業料値上げ反対や大学経営者の不正糾弾、東大医学部医局問題など学内の改革に向けた学生の運動はそれなりの成果を見せたが、後半、新左翼各派の草刈り場になって突出した一部は暴力革命をめざすものへと過激化した。まもなく政治的イシュウがなくなり、空前の経済成長ということもあって学生運動は沈静化していく。

連合赤軍」については聞き書きの中で関係者が詳細に語っているからここでいうことはない。あえていうなら、情勢分析も目的も戦略もない児戯に等しい「革命ごっこ」の代償がいかに高くついたか、ため息が出るばかりである。当時、警視庁広報課長だった國松孝次はあさま山荘事件をふり返って「警察官は撃たれても犯人の学生は無傷で逮捕という方針」だったことを若干の悔しさをにじませて語った。世界とは異なるいかにも日本的な対応であったが、つまり彼らは自らが望んだ「革命家」とはほど遠い『子供』とみられていたのである。

 

 

「全世界的な若者運動」の一つに米国の公民権運動があった。人種差別に反対する黒人たちを全米の、最終的には世界中の学生や著名人が参集して支援した運動である。それを率いたキング牧師は暗殺されるが、長い戦いをへて公民権を認める法律が成立する。ただし、この問題が法と理性で解決できるものでなかったことはその後を見れば明らかである。

 

英国の劇作家、サー・デヴィット・ヘアは僕らと同じ年齢である。戯曲「Breath of life 女の肖像」(新国立劇場、劇評)に登場した女性は、若い頃英国人の留学生としてこの運動に参加し、カリフォルニア大学バークレー校では、おそらくコミュニズムの影響下で世界の変革を夢み、フラワーチルドレンやヒッピーとも接触している。

劇評の終わりに僕は、次のように書いた。「・・・・・・僕は、翻訳を試みながらこの戯曲に通奏低音のようにして聞こえてくるある音が、それは時々ボケタ古い映像をともなっているのだが、気になっていた。

燃えているスクールバス・・・・・・警官の振り回す棍棒に逃げ惑う群衆・・・・・・その向こうから次第に大きく聞こえてくる演説の声・・・ I have a dream that one day this nation will rise up and・・・・・・学生が叫んでいる・・・ハンドマイクの声・・・・・・B52爆撃機の姿・・・ナパーム弾が炸裂するジャングル・・・・・・戦争反対!闘争勝利!というシュプレヒコール・・・・・・火炎瓶と放水車の衝突・・・・・・

100%永遠でなければ価値がない。

100%手に入れられずば、それはいらない・・・・・・

100%勝利するまでは、絶対にやめない・・・・・・

100%骨の髄まで革命戦士ならずば、与えられるのは死、死、死。遺体の山。

 

マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」と言った。我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。5年の抗議、黙従の30年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。

あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。

サー・デヴィット・ヘアが生まれたのは、ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)生誕の100年後である。不肖、僕も同じ世代だ。これは、Life being what it is, one dreams of revenge.      Gauguin

人は、生きながらえてなお復讐を夢見るものだ。 ゴーギャン  〔中村訳〕という、この戯曲につけられたエピグラフに由来する。)

我々は、昨日は20世紀にいたが、今日は21世紀にいる。だが、われわれが互いに22世紀を見ないことは確かである。我々は無理にでも長らえて復讐を夢みるが、せいぜい夢みるだけのことだ。しかし、その夢もどこかへ飛んでいってしまう。例の「ハト、ハト飛んだ」の遊戯のように・・・・・・」(ゴーギャン” Avent et Après”より ただし、ゴーギャンのフレーズを百年ずらした。 )

この劇は、デヴィット・ヘアの『Breath of life 生命の息吹』には違いないが、そのうらに、彼と僕らの長く深い『ため息』が隠されていたのである。」

 

「5年の抗議、黙従の30年」とは、いいかえれば「変革を夢見て行動した日々とそれを封じて生きた長い年月」をいうのであろう。しかし、われわれは、世間的には「豊かな時代を連れてきた世代」と見られている。後世の歴史家は、そのようにとらえるに違いない、事実、当時の先進諸国のなかでも特に我が国経済は、この世代の壮年期の中核期間を含んで、90年代初頭のバブル崩壊まで空前の好景気を続けるのである。安彦がいう「追悼では、あの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」という言葉は、おそらくこのことを指している。

つまり、「われわれが目指したものは『変革』であり、『豊かさ』ではない。変革を夢見て行動した日々にこそ真実があり、いまここにあるのは偽りの豊かさなのだ。『世界の変革』こそ、いまもなお生き続けているはずの『巨きな意味』の源泉であり、「黙従の30年」とは「偽りの」豊かさに耐えてきた年月ではなかったのか。」という問いである。

「病死した活動家氏」の追悼だけでおわるのでは、「わたしたちの世代の死亡通知」を天下に告知するようなものではないか?そう思って、彼は『諸兄へ』で、『世界の変革』に意味はあったのだと言う発語を同世代のものたちに促したのである。「『革命』とサブカル」というタイトルを今頃になっても、つまりあえて『革命』を持ち出し、なお平然と冠した理由であろう。

 

 

思春期というものは、社会性に目覚める時期である。これから船出する社会というものはどんなものか。いま目の前にある出来事をどう考えればいいのか。社会のとらえ方、様々な思想や幅広い情報の中で何と出会い、何を選び取るかは一生を決めかねない重大事である。全共闘運動に関わった学生の考え方は様々だが、一つの共通項があった。それは、「反日共」である。日本共産党は相容れない仇敵である。

ところが、日共によってはじめて、われわれの生きる社会が矛盾に満ちていることを気づかされ、共感を持ったものは意外に多い。民主青年同盟は、世界中の共産党が抱えている党員への登竜門で、ここが十代の対象をオルグ(組織化=活動に引き込む)するのだが、当時共産主義への入り口は、ほぼここ一つであった。民青のメンバーは日本共産党の指導の下、その綱領と政策を学習し忠実に従わねばならない。「革命とサブカル」の聞き書きには、安彦をはじめ青砥、植垣など民青をやめたものが多数登場する。つまり、この社会の矛盾を解決するためには変革=革命が必要だとする思想に出会い、それに魅了され、それが唯一の真理と思った。しかし、その後日本共産党の方針に反対あるいは違和感を覚え、別のやり方でそれをめざすために離反したのである。

安彦の「置いてきた寂寥感」の正体は、自らの思想の原点にあるこの「革命」である。世界は変革されねばならない。資本と労働の階級対立を解消し、平等で自由な社会を実現するためであり、それが歴史的必然であるのは、史的唯物論が「科学」だからである。(聞き書きの中に、マルクス思想が科学だという安彦の発言が散見される。)

この思春期に自分の心に根付いた確信は、「社会主義側の完全敗北による冷戦終結」にもかかわらず、「しかし、マルクスは正しい」といういわばマルクス原理主義となって、いまなお有効だと思われているのである。以下に引用する「聞き書き」のある部分に「ソ連邦」の敗北はその発端であるボルシュイズムにあったという発言などをみれば、革命はいまでも再度やり直されるべき社会科学的命題だといわんばかりなのはそれを思わせる。そうではないかも知れないという疑念がどこかにありながらそれを捨てきれない。それ以外の思考方法を知らないからだ。

 

人が何をどう考えようと自由だが、マルクスが生きた十九世紀半ばに解決されねばならなかった問題のほとんどは、いまではほぼ克服されている。(あとでとりあげる「サピエンス全史」でも述べられているが、飢えや戦争よりもいまや甘い「砂糖」(糖尿病)が死因の一位である。)むしろ、いま人類は、これから迎える成長なき時代(利潤を生み出すフロンティア喪失の時代)を生きる、これまで経験したことのない新たな生き方を模索する必要に迫られている。「マルクスは正しい」という原理主義、すなわち「宗教」を捨てるのは容易には出来るものではない。が、しかし、それに身を預けていてもむなしいだけではないか。

 

 

革命が、宗教か否かで議論する場面が「聞き書き」の中に現れる。普通、立ち会いの編集者は、出席者の議論を方向付けるとか発言を促すとか黒子の役に徹して自身の意見を表明するなどないものだが、この文は、「編集部」が出席者に議論を挑むというこの種の対談にはあまりみられないかたちで進行する。ここで「編集部」といっているのは杉山尚次のことだと思われるが、杉山は明らかに出席者たちとは対立している。しかも、話の流れを自分に引き寄せていて、それが意図的だったかどうかはわからないが文脈が乱れて少し異様に映る。編集者としてはちょっとした瑕疵になったが、「マルクス信仰」を引き出したのは怪我の功名であった。

 

「革命とサブカル」P89より

安彦 この間のインタビューの印象的な最後の言葉が、「共産党が悪いんですよ」。いいフレーズで終わったなと思って、それで締めにしているんだけど、考えてみれば、ずいぶん投げやりなフレーズなんだよね。

青砥 つまり自分たちは失敗した。その失敗の元凶は何処にあるかというと、自分たちの資質の問題もあるけれど、唯一の左翼としての共産党がしっかりしてくれなかったから、俺らがこんなことをしなきゃ行けなかったんじゃないか、そう言う気持ちは、ちょっとあるよ。

安彦 どこから期待外れになったのかな?

青砥 根を深く掘れば、やっぱりロシア革命からはじまったと言うことが、そもそもダメなんだろうね。ロシア革命自体は必然的で、時代の希望ではあったけどな。

安彦 そこは一致するね。だから俺はボルシュビキ(ロシア革命時、レーニンが率いていた革命党、共産党)はだめ。レーニンから駄目になったと思う。

青砥 ボルシュビズムが駄目なんだって、僕は思います。ボルシュビズムのどこが駄目なのか、いろいろ考えるけど、この前中澤はいいことを言った。デモクラシーは人類の財産だ、と。それはそう思う。いろんなフェーズがあるけどな。

安彦 そもそもトロツキーはボルシュビキじゃないでしょ。もともとは。それでよかった。

―(編集部)前衛が領導していく先は、理想の共産社会を実現するんだってビジョンがあるわけですね。その段取りは、政治権力を握って、独裁的になるけれどもプロレタリアートの権力をつくって、そこで社会関係を全部改革する仕組みを作り、しかる後国家を死滅させる、共産社会に移行するというようなシェーマがあるわけです。その過程で、「分かっている人」が「分かっていないやつ」を教えていくってことになりますよね。その構造って、ほとんど宗教にならないですか?

中澤 それは宗教という社会的な一部の構造と、社会全体を構成する生産諸関係等の中で起こってくる社会革命との違いがまずあるね。革命は国民国家的にも世界的にもすべての階級階層を巻き込むから、そのプロセスは数百万数千万の政治的力で、実例の力で説得し、教えていくことになる。宗教ではない。

―でも「信じる力」といいかえたって、あまり変わらない。

青砥 そこは悩ましいところ何だよ。宗教と違うのは、革命は社会関係を変えれば人間は成長して、それに応じた新しい人間関係をつくるのが基本だよね。宗教はそうじゃない。宗教は、要するに教えがあって、魂の救済があれば、それでみんな幸せになるという考えでしょ。社会関係なんて関係ないんです。

―ただ、目覚めていない人間をして、組織化していくわけじゃないですか、宗教は。

中澤 組織化していくのは、それはそうです。社会主義はこの概念に含まれている解放のエネルギー、人間解放の問題を軸に組織化してゆく。

オルグする側、される側、いずれも人間の交通形態としてある。オルグする側はもちろん主体的な意識的な活動であり、人間性をかけたたたかいでもある。オルグされる側もそこで人間としての立脚点を要求される。この人間の問題こそが、社会―資本主義経済諸関係の中で非人間化され。阻碍されていたことからの自己回復の戦いとなっていく出発点になる。だから宗教ではない。

―その構造は同じじゃないですか?

青砥 社会主義の運動の中で目覚めてないのをオルグするというのは必要だけど、もっと大事なのは、社会環境を変えていくということだ。

中澤 社会環境を変えるというのは、目覚めていない人たちに何をもたらすかってこと。金であったり物質的なものを含めて、すべてをもたらす。そういう意味で、実例の力。

青砥 権力奪取の過程ではいろいろあるんですよ。で、社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。でも誰一人として、それの解答を出せてない。だから社会環境を変える運動と、社会環境を変えたら実際にその人間が成長していくのかと言うことのについては、何も関係ないといった方がいいと思う。

安彦 社会主義について、あるいは共産主義について、マルクスは非常に理想主義的に提示していた。

青砥 もともとコミュニズムというのは、あるいはコミューン主義というのはプルードン主義(フランスに思想家プルードンのアナーキズム的な思想)でも考えていた。でもプルードン主義が失敗したから、共産党、前衛党をつくってやんなきゃ行けない、そのために経済分析もしなきゃ行けないって言う、そう言う考えでしょ、基本的には。

中澤 プルードン主義に対する反発。

青砥 だからプルードン主義で世の中が変われば、こんないいことはない。でもそれは無理だと。

安彦 マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。そこに前衛党なんて概念はない。それをレーニンが持ち込んだわけだから。そこから「外部注入」とか戦略論とか、人為的な要素が入ってくる。そうするとそれはもう科学じゃないわけだ。「思想」がどんどん方法論化していく。

 

 

三人三様、編集部の杉山を入れれば四人と言うことになるが、いまや「革命」ということに対してそれぞれ微妙な距離をとって向き合っていることが分かる。

杉山の言い分は、前衛が領導するという共産党のあり方は、宗教の勧誘活動とおなじで、マルクス信仰の内部へ囲い込もうとするだけのものではないかと言うことだが、それに対して中澤は革命原理が正しいことを実証することによって社会全体を説得できるという。

青砥は、社会環境を変えれば、人間も成長し変わると考えるのは楽観的で、むしろ人間の内面に注目すべきだと今は考えているといって、マルクスとは距離を取っているように見える。

これに対して安彦だが、マルクスの思想は科学であり、実践論で間違いを犯したというある種典型的なマルクス原理主義を表明しているところは注目に値する。つまり、「革命」という実践には留保を与え、原理は有効としているのである。

いずれにしても杉山は宗教だといい、一方は原理の正しさを「科学」だからとしている。しかし、マルクスの唱えた原理ははたして「科学」といえるのだろうか。

 

ユヴァル・ノア・ハラリは1978年生まれの若い学者である。

彼のユニークな視点は、われわれ人間を動物の進化の過程で現れたいわば霊長類のひとつの亜種「サピエンス」であり、並行的に存在したネアンデルタール人が三万年前に絶滅したあと地球をおよそ七万年にわたって支配している存在、と捉えているところである。

つまり、他の動物に比べて異様に発達した脳が特徴的で、集団を形成して生活する動物がわれわれサピエンスなのだ。

彼のベストセラー「サピエンス全史」に以下のような記述が見つかる。

 

「人間の崇拝

過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことをいっているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代と言うことになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

 

イスラム教はもちろん共産主義とは違う。イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は、神の存在を信じていなかったからだ。だが、仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。仏教徒はその自然の法則がゴータマ・シッダールタによって発見されたと信じているのに対して、共産主義者はその法則がカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・イリイチ・レーニンによって発見されたと信じていた。両者の類似性はこれにとどまらない。共産主義にも他の宗教と同じで、プロレタリアートの必然的勝利でまもなく階級闘争の歴史は幕を閉じると預言するマルクスの『資本論』のような、聖典や預言の書がある。共産主義にも、五月一日や十月革命の記念日のような祝祭日があった。マルクス理論に精通した神学者がいたし、ソ連軍のどの部隊にも、コミッサールと呼ばれる従軍牧師がいて、将兵の敬虔さに目を光らせていた。共産主義にも殉教者や聖戦、トロッキズムのような異端説もあった。ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒に離れず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた。」(「サピエンス全史」下、P32)

 

 

これでは、一見ソ連の共産主義は外形的に宗教と同じと皮肉られているように見えるが、批判の核心は「共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。」という部分である。

「信じている」ことを外から「それは、真実でない」と否定するのは簡単だが、それは本人にとっては、ただ単に悪魔が耳元で囁いている声にすぎない。信仰を捨てる道は、信じてきた論理体系=人間的秩序が何らかの欠陥をもっている、あるいはすでに無効であるなどという内なる声に導かれて得心する他にない。マルクス主義は「科学」である(から真実)、と信じている以上、それが「科学」でないことを自ら証明することはむずかしい。

 

しかし、今日「科学」といえるものは、「相対性原理」や「量子力学」のような言語も地域も宗教も思想も超えた万人が肯定せざるを得ない数式で表される原理以外にない。たとえマルクスが、人間の歴史を階級闘争と見なし、資本と労働の階級対立はやがて革命的に解消され、共産社会が実現するといったとしても、それを数式で表すことは出来ない。いや、卓越したマルクス主義数学者がその「科学」を数式に表現できたとしても、それはあまりに変数が多いゆえに数学的に意味をなさないものになるはずだ。なぜなら、歴史というものは、われわれの人生がそうであるように偶然に満ちているものであり、未来もまた偶然によってできあがっていないとは言えないからである。

 

 

安彦は、「聞き書き」の中で「マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。」と発言しているが、これは、信仰からまだ抜けきらないでいることを表している。

それに対して青砥は、やはり「聞き書き」の中で次のようにのべており、マルクス信仰から抜け出したことを示唆している。

「社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。」

安彦が、青砥の翻意の過程に興味を示さなかったのは、信仰から抜け出せないでいるのだから仕方ないが、杉山尚次がこれを見逃したのは編集者として痛恨の失態ではなかったか?

杉山は、自ら「マルクス主義=宗教論」を仕掛けておいて、その結論を導く場所について無自覚であった。

つまり、「それは宗教ではないか?」という問いは「あなた方はマルクス信仰に冒されている。従って、普通の市民として生きていくには、そこから脱する必要がある。どのようなプロセスで信仰から抜け出すことができるか、それが問題だ。」という考えを内在させている。

その応えの有力な方法の一つは、「某はこのようにして、信仰を捨てたという事例」を示すことであろう。

杉山は、青砥がどのように「足をすくわれ」て、「いまはそうじゃない」と考えるにいたったのかを追求し語らせることによって、自らが仕掛けた問いに対する答えの場所を示すことが出来たはずであった。

もっとも、安彦がこのことにまるで気づいていないのでは、踏み込みが足りなかった杉山を責める訳にもいかない。

 

 

僕は、先のブログで「学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。」と書いた。そのことについて、ほんの少しばかり述べて終わりにしようと思う。

僕が高校生の頃、六歳上の姉は、まもなく初の最年少、女性市会議員になりそれからおよそ三十年続けた日本共産党員であった。そのため社会問題研究会(実は民青)から入会は当然と言わんばかりの執拗な勧誘を受けた。

その頃、社会主義に関心がなかったわけではないが、むしろ僕には「自分とは何か」と言うことが問題で、自分のまつろわない性格もあって、彼らと接触することはなかった。最も親和性を感じたのは、大江健三郎を通じて出会ったフランスの実存主義で、高校の三年のうちに、ジャン・ポール・サルトルは主観主義的にすぎると結論づけて、大学の哲学科でモーリス・メルロー・ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。

学生運動に関わったのは、権威に対する異議申し立てであって、革命を目指したわけではなかったが、唯物史観は否定出来ないものと感じていた。

マルクス主義がおかしいと実感しはじめたのは、僕がマーケティングの仕事をしていたときのことだった。需要を創造し続ける技術によって資本の矛盾は解決されるのであった。マルクスの射程は現代にまで及んでいなかったというこのあたりの考えは、別にまとめた(「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」)ので、ここでは言及しない。

 

 

学生の頃、たまに青砥が僕のアパートにやってくることがあった。彼は本棚に背中を預けてこたつに入った。何を話したかまるで覚えていないが、はっきりと言えることがある。あの本棚には、人文書院のサルトル全集の何冊かとジョルジュ・ルカーチ「歴史と階級意識」が入っていた。

杉山尚次は、全国に数え切れないほどいるはずの「安彦良和」たちのために青砥幹夫のロングインタビューをするべきだろう。青砥の苦悩の軌跡を世に問う責任が杉山にあるといっておく。

もっともそれを青砥が受けてくれるという見込みはないが・・・・・・。

 

 

 

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2019年4月23日 (火)

再掲「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」要約

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要約「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」

地方再生のマーケティング戦略― 中 村  隆 一 郎

 

前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。

2010年にデジタル出版した「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」のなかに、今とはどういう時代かという僕自身の時代認識を書いたことがあった。いま「取り残されたものたちへ③」を準備しているが、それに関連する原稿として、ここに再掲しておくことにした。同書は新書版としてデジタル出版したもので数十部売れたが、そのままになっている。

本の紹介のために用意した要約があるのでそれを掲載しておこうと思う。

 

目次

はじめに

地場産業の再構築に挑む                      

水を売る話                            

「まちづくり」会社で商品開発はできない              

マーケティング発想ということ                   

1.「まちづくり」が「まち」に閉塞感をもたらすー戦略なき政策       

2.加工食品のアイディア開発と事業構想                 

3.現状はどうなっているのか地方都市の様相              

4.どういう「まち」になるのか再生の戦略目標             

5.活用できる資産は何かー資産の棚卸し                 

6.市場をどこに求めるかー環日本海構想について             

7.なにを売るかー商品開発と事業開発                  

 「寿司桶」の輸出フィージビリティスタディということ     

 「ミネラルウォーター」の輸出地方から世界へ           

 世界の水事情                          

 ねらわれる日本の水源林                     

 世界のボトルウォーター市場                   

 「水」の輸出構想                        

8.「いま」とはどういう時代かーわれわれはどこへ行こうとしているか?  

 マーケティングの主題と言うこと                 

 わたしはどう考えてきたか                    

 NAMのことー国家とはどういうものか              

 資本主義のいま                        

9.地方再生の戦略なにからはじめるか                

 

 

 

要約

「二一世紀の水は二〇世紀の石油同様の価値があり,国の富を左右する貴重な商品だ」といわれている。大陸の中心地域では都市化の急激な進行や、農業用水、工業用水の需要が爆発的に増えたことにより帯水層の枯渇がほぼ確実になっている。しかし、資源としての水を輸出できる国は、世界中を見渡してもそれほど多くはない。我が国が世界有数の水資源大国であるにもかかわらず、現在その商品性に気づいているものはきわめて少ない。

 

本書は、地方再生のマーケティング発想とはどうあるべきか、その方法論について述べたものであるが、そのなかで、疲弊した地方経済の再生のために、この水資源を活用する具体的な方法を提案している。

 

一般に、人口二、三十万人以上の全国に四〇ほどある「中核都市」とされる地方都市は、なんとか自律的経済を営むことができているが、問題は、人口五万人前後の地方の小都市である。日本の人口の六割はそうした地方に住んでいるのだが、地場産業の縮小または消失などで経済活動の中核部分が弱っている。何をどうそのためにしたらいいのか。それがわからない。途方に暮れて方向を見失っているというのが、いまの地方都市の姿である。

 

本書は、そのような状況を抜け出して、どこにも頼る必要のない自律した「まち」になるための方法を,一つの事例を通して示そうと言う試みである。

自律とは、あらためて地場産業を再興あるいはあらたに起業して、経済的基盤を安定、発展させようという戦略のことである。その前提となる自治体自身の再構築も視野に入れている。

ただし、事例と言ってもそれは実際に実行されたものではない。

ある地方都市のデータを集めてその状況を把握した上で、「それならこういう考え方もある」という仮の企画を立てたものである。

それは、企業が事業開発を行うときの「マーケティング手法」を、この地方の再生に当てはめてみるという思考実験なのだが、仮説とはいえ、具体的で実行可能な企画,構想になっている。官民一体となって再び地場産業を根付かせるという目標を共有し、その実現を具体的に提言するものである。

ここには、そのために何をどう考えたらいいか、いくつかの実例を示した。

しかも、この考え方は「地方」を限定しない。日本の同じような境遇にある地方都市に当てはめて考えることができる、一つのモデル方程式になっている。変数に「地方特有の」の条件を代入すれば自ずと解答は出てくる。

問題のとらえ方、課題の抽出、その解決に動員できる資産の棚卸し、時代認識および対応するニーズの発見、事業モデルの構築、資金の調達、組織作りと運営など、冷静にじっくり考え抜けば,おのずから道は開ける。そうした考え方の手法を読み取っていただきたいと思っている。

実は、まだ問題はその先にある。

事業戦略ができて、それを実行しようと思った時に,地方には決定的に不足しているものがある。たとえば、販売チャネルについての知見や経験、外国に販売する時のチャネルおよびノウハウ、製造技術や機械に関する知見、リサーチの方法等々である。

しかも、その費用を捻出するのはむずかしい。

しかし、ここであきらめるのは早い。

すでに定年退職した団塊の世代の出番である。団塊の世代は,その知識と経験を豊富に持っている。高度成長からバブル期を牽引し、長期低迷期を耐えた。これは我が国の、というより我が地方の資産である。なぜなら彼らのルーツは故郷にあるからだ。しかし、このまま何もしないなら資産は生かされず、年をとって朽ちていくだけだ。

団塊の世代よ。故郷に帰れ!

いま、故郷は傷んでいる。

 

 

再生の考え方を要約すれば、まず自分たちの「まち」におけるもっとも優先順位の高い課題から手をつけなければならない。それは雇用機会を増やすことにほかならないが、それには自分たちで事業を興すことしかない。どんな事業にするかは、自分たちの持っている資産の棚卸しから始める。現在持っている資源がなにかを明確にし、それがどんな事業に結びつくのかを注意深く検討する。そしてその規模を見積もり、必要なものが何かを明確にする。その際、自分たちの自立が目的だから、自立できる規模や自立するための目標を掲げることが肝要である。

 

この事例で検討された地方都市の棚卸しであがったものは、まず、農産物や収穫される魚介類,特産品である。これを一定程度の事業まで育成するにはどうしたらいいか。その方法を考える。また、この地方は藩政時代から木材の集散地として栄えた歴史を持っており、木材とその加工技術が蓄積されている。これを再興する方法を考える。さらに、世界自然遺産の観光資源とその地下に眠る大量のミネラルウォーターである。また、四万トン級の船が停泊できる港と山間部にある空港が十分活用されていない資産として存在する。

これらをもとにどのような事業が考えられるか?

ここで重要なのはマーケティング発想ということである。自分たちの持っている事業のシーズと世界を見渡した時に見えてくるニーズをいかに合致させるかは、あくまでも川下発想でなければならない。ここでは一つの事例として、世界的な寿司ブームを前提に「寿司桶」の輸出を検討している。また、今世紀は「水」戦争の世紀になりそうだという世界的な見通しに基づいて、豊富に存在する水をボトルウォーターとして輸出する事業を提案している。水は船で港から運ぶのがもっとも効率的である。こうした地理的条件を満たす地方都市は水資源国日本には少なくない。ザッとあげるだけでも、鳥海山麓、立山連峰伏流水の富山県、白山水系、大山水系、鹿児島、屋久島、高知、紀伊半島南部、静岡などである。

れらの事業について、その市場の背景を詳細に検討、どのような事業体にして、またどのようなマーケティング戦略に基づいて実行していくのかを具体的に提案している。

 

その戦略を考える際、どの地方都市にとっても「マーケティング発想」が重要だとすでに述べたが、その原点にあるのは「今とはどういう時代か」という認識である。これは二つの意味で重要である。ひとつは、自分たちの事業が世界的な資本主義の方向性に合致しているかを確認することで効率的な事業運営ができることにある。もうひとつは、特に団塊の世代に対してであるが、ともすればマルクス的な国家と資本主義に対する「幻想」を捨てきれずに社会に対して斜に構えるところがあることをこの認識によって否定したいと考えるところにある。すなわち、「需要」というファクターを自らの手で生み出すことができる資本主義というモデルをマルクスは知らずに死んだ,すなわち、資本主義は自らの矛盾(マルクスが指摘したような)を克服できなければそれ自身が滅びることを知っており、当面の間その矛盾克服の方向性で進む以外に生き延びる道がないことを認識している。資本主義が生み出す矛盾を自ら解決しようとする時代、それが「いまという時代」だという認識があれば、資本主義的社会に積極的に関わる思想的足場ができるということである。

このような考え方で、団塊の世代には積極的に地方再生に関わって貰おうという狙いがあり、地方発の事業こそ結果として国全体の経済を押し上げる礎になる。

こうして、地方再生の事業を考える大きなフィールドができあがる。

あとは、本書の事例を参考にして自分たちの地方再生のために、独自の変数を代入するだけとなる。何から始めるかは、自分たちが検討して決める。支援が必要な時は、団塊の世代に相談する。そのための組織は用意するつもりである。

 

もはや迷走する政治も、がん細胞のように増殖したパラサイト公務員集団も一切頼ることはできない。地方が自立できなければ、日本はこのまま朽ちていくだけだ。いまこそ地方再生を、住民自らの手で行う時がきた。グローバリゼーションに対抗する住民資本主義の樹立が結局は世界を救うことになる。

中村 隆一郎 

 

 

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2019年1月29日 (火)

// 取り残されたものたちへ ②

20190125_132924 安彦良和「革命とサブカル」の空虚

前回は、加藤典洋は「戦後」にとらわれるあまり、絶対平和などというフィクションの世界へ迷い込んで、時代からおおいに取り残されたことをいった。それはこの世代が自分の過去に縛られ、現実の変化と向き合うことをしなかった結果の、いまとなってはなんとも無残な姿であった。

今度取り上げるのは「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)である。

ただし、今回はごく一部に言及するだけで、全体の批評は差し控えている。

実はこの本の成立過程を少しばかり知っているので、こういうものを書くのにはいささか複雑なものがあるのだが、ある必要があってあえて書くことにした。

この本の「はじめに」の中にこういう記述がある。

「数年前、病死した同学年の活動家氏を追悼して、有志が文集を出すと言うことになった。

その時、「追悼」というかたちに僕は違和感を持った。「追悼」、というだけで良いのかという、座りの悪い思いだった。

追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。人生を終えていく者に、よけいなざわめきはいらないという気持ちが、当然送る側の身には宿るからだ。しかし、それではあの時代の意味は聞こえない。

『諸兄へ』という所収の文章を僕が書いたのはそういう事情からだった。」

つまり、 この『諸兄へ』という文章は、追悼というだけでは満足できなかったので、あらためて、自分たちの思いを綴った「回想」を本としてだそうと、追悼文集に参加した者を含む学生時代の友人たちに呼びかけたものである。

実は、僕はくだんの「追悼の文集」を出そうと誘った有志の中の一人だった。

従って、「回想」を書こうと呼びかけられた一人ということになる。ただ、学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。だから最初からギブアップし、「追悼の文集」でもそうしたように編集ソフトで制作だけ手伝う事にしたのである。

(この後、この本の成立に関係することなので2011年にデジタル出版された「追悼の文集」について説明しておきたかったのだが、関係者の了解を得ていないので、割愛することにする。)

ことわっておかねばならないが、この文は『諸兄へ』という呼び掛けの内容を検討するだけのもので、他のことは一切関係が無い。

まず、『諸兄へ』の全文を紹介しておこう。

諸兄ヘ

安彦良和

今年、二〇一四年の夏も過ぎた。

夏は戦争の語られる季節である。今年の短い夏も例外ではなかった。年老いた戦中派たちは、まるで往く夏を惜しむように彼等の戦争体験を語り、彼等の生きた時代を語り、語り部としての一夏を終ろうとしている。

もちろん、戦中派は夏にのみ昔日を語っているわけではない。それがあたかも夏の風物詩であるかのようなのはメディアがそう仕立てあげるからだ。が、そうであるにせよ、彼等世代の声を聴く季節はやはり夏がふさわしい。例えば、この文を書いている今日、九月十五日の新聞は李香蘭の死を告げている。老いた語り部達の年齢層に見合う九十四才という歳で、彼女は夏に死んだ。感慨を覚えざるを得ない。

いつたい、戦中派達はいつごろから時代体験を語りだしたのだろう。

戦中派、といえば我々の父・母の世代である。当然、我々とは濃い接触があつたし、父母ならずとも、子供時分から我々の周りには、戦争期をくぐってきた大人達が多勢いた。しかし、我々は果して彼等から大量の体験情報が発せられるのを聞いてきただろうか。

そうだつた、とは言えない。圧倒的な数の体験者たちと、過去のどのような時代をも圧倒する、まさに、世界と国家との存亡を左右するような過酷な時代情況を考えるならば、彼等世代の子供であつた我々が見聞きしてきた情報は信じがたいほどに少量だったと言い得るのではないか。

間違いなく、我々の父母は、戦中派は寡黙だったのだ。その寡黙な殻を破って、もはや少数になって老いた体験者たちが多弁になっている。老いてやっと今、語り部の任をかつて出ようとしている。僕にはそう思える。

時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。むしろ、一定以上の時を経てこそ体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になるのではないか。そう思っている。

近い例を引く。

三年前の災害は記憶に新しいが、新しいなりに早くも「風化」が懸念されている。確かに記憶の鮮度は相当に落ちたが、それは「風化」とは違うものだ。外傷の痛みが失せて傷口にかさぶたが出来るようなもので、それは人間の持つ、謂わば自衛本能の一種の顕れではないのか。

逆に、話題の『吉田調書』の一端などから、大津波の惹き起したあの原発事故が、実は「東日本の壊滅」をも招きかねない規模のものであつたことを、今、我々は知り得ている。知り得て、あらためて体験の重大さにおののくのである。「歴史」とは、そのようにして生き残り、選択され、重みを増した事々の堆積物を言うのではないか。

再び、体験者や当事者達が間もなく消え行こうとしている「戦争」に話を戻す。

我々世代はかつて『戦争を知らない子供達』と呼ばれ、そう自称もした。が、そのことにひけ目を感じてはいなかつた。我々の生まれる直前に終結し、従って我々が直接には知らない「戦争」は父母の世代や、それよりさらに以前の祖父母の世代が犯した間違いの産物であり、それにかかわりを持たない自分達は父母や、祖父母たちよりも純な優越性をすら持っている一一―そう思っていたのではないか。

「戦争を知らない子供達サ」という無邪気な自称と開き直りには、そういう自惚れがこめられていた。そういう「子供達」の一人であつた僕自身にも、はっきりそういう自惚れがあつた。父母とは違う、祖父母のように蒙味でもない。そういう、今にして思えば思いあがった確信のもとに、僕は思春期を終えて「社会的に生きる」青春期を選んだ。諸兄も多くそのようであつたのではないか。

なんのことはない。戦後、わずか二十数年という経年では戦後史は熟成し得る筈もなかったのだ。それだけの話だ。

父母は依然として口をつぐむか、余りにも巨きかつた体験の重さに呆然としており、戦後という時代の層は、いまだ時代と呼べる厚みを獲得していなかった。しかし、我々は戦争以前という忌まわしい過去と幸いにも切れている自分たちの時代をいかにも過信していた。『戦後民主主義』という旧左翼的にリベラルな物言いに生理的な違和感は覚えつつも、やはり自分達には旧い世代を凌駕し得る能力があると思い込んでいた、のではないか。

そういう思い込みの是非を問おうとは思わない。元来若気とは思いあがりと表裏一体だし、青臭さを気にし過ぎているような若者は若者ですらないからだ。

だが、当時そういう若者であつた我々も、それから四十数年を生きた。薄かつた戦後史にも厚みが加わり、ようやくそれは歴史と呼びうる質量に達し、熟成に似た経年変化を示しつつあるように思える。

我々もまた、語るべきことを語り始めるべきではないのか。いや、それよりも以前に、語るべきなにものを我々が持っているか、そのことについて考え、来し方をふり返ってみる時が来ているのではないか。そう思って僕は数年前から或る提案をし、今こうして、甚だ遅きに失したような文章を書いている。

思えば、我々の世代も寡黙だった。

我々に名づけられた様々な世代名の中から『全共闘世代』というひとつを取り出して今後自称するなら、それに対応し、先行した「六十年安保世代」に比しても、我々はほとんど何らの発言もせずにここまで来たと言っていい。この沈黙は何を意味するのか。

もちろん、無邪気な若者を相手に「オジサンも昔は一」などと他愛のない与太話をする必要はない。そういう「告白」を好み、既に散々口を汚してきたような人たちは、もともとこれを書いている相手として念頭にない。

僕なりの結論を言ってしまうなら、『全共闘世代』の沈黙を、僕は概ね肯定的に考えている。それは、我々の体験の空疎さではなく、むしろ、重さ、巨きさの証しだと考えている。

もちろん、先に述べた父母の世代、『戦中派世代』の体験の実体的な重さには、それは比すべくもない。実体的、ということでいえば、戦中派に続く所謂『焼け跡・闇市派』の体験の重さにも、それは遠く及ばないだろう。何しろ我々は空腹を記憶していない。空襲の恐怖も、死と隣り合わせの引き揚げ体験もない。それらの痛切な体験を持たぬことを、『戦争を知らない』という居直りで以って「引け目なし」と清算したのが、先に言ったように我々世代のアイデンティティそのものであるからだ。

父母や小父、小母の世代を『戦中派』として区別し、兄や姉達の世代を『60年安保世代』として「もう古いのだ」と切って捨てた我々は、では何を見、何を希み、何を目指して生きていこうとしていたのか。そして、そういう志向がその後、どういう事情でどうなった

のか。僕は僕自身の人生の中で、切れ切れにではあれそれを僕なりに考えてきた。僕が今これを書きつつ念頭に置いている諸兄も、それは同様であると思う。

諸兄と僕の人生は弘前での四年間でのみ交わる。60余年の人生のうちでの、わずか四年間、である。しかし、僕はそれを短い、限定されたものとは思わない。すでに我々の世代の呼び名を『全共闘世代』として選びとつた時点で、僕は同世代のイメージの核に、数十人の弘前の群像を据えてしまっている。「諸兄」とは、その中の、僕ごときの提案に対して聞く耳を持ってくれる人を指している。

更に私的な結論を云う。

諸兄と僕の人生が交わった弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。弘前には無論空襲もなく、飢餓もなく、殺し合いも激しい争いもなかったが、世界には戦争があり、「革命」があり、史上空前といっていい全世界的な若者運動があった。

そうした大きなうねりとの一体感こそが、言ってしまえば『60年安保闘争』との根本的な違いとして無条件に我々が是認した要素だった。しかし、巨大な時代の、巨大なうねりの中に位置づけたにしては、我々の運動と呼べるものはなんと小さなものだったことか。

個別『弘大闘争』なるもののみをイメージして言っているのではない。我々をも翻弄した東大闘争や全国全共闘運動、ベトナム反戦運動や成田。三沢闘争の反基地闘争、青砥。植垣氏をはじめとする数名を巻き込んだ『連合赤軍事件』等々、あの時代の、諸々の運動や事件のすべてを統合したとしても、過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

はたして「巨大な時代」は、当時すでに予感することが可能だった大変化を20数年後に全世界にもたらす。言うまでもない。社会主義側の完全敗北による冷戦終結、である。

過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

先の『革命』の方は見間できなかったが、のちの大事件『崩壊』の様は世界中にテレビ配信され、僕もそれを連日お茶の間のテレビで観た。

意外、ではなかつた。『ベルリンの壁崩壊』でさえ予想外ではなかつた。「巨きな時代」の中での「小さな闘争」を通じて、既に一つの時代の終わりは予想出来ていたからだ。出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。

私見に走りすぎたかもしれない。が、僕は諸兄の反論や異論を期待しつつ敢えて結論めいた発言をしている。要するに、諸兄を挑発している。

寡黙であつた諸兄に発語を促したいからだ。現役世代から徐々に降りつつあるとはいえまだまだ若い我々が「老いた語り部」を気取る必要はない。が、しかし、「語りJは一朝一夕でなるものでもない。二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも、今、この時点での語りは、多種多様、かつ広範であった方がいい。

人は皆一回きりの人生を生きるしかない。しかも、その生きる時期や場所を、誰も、長い歴史や広い世界の中から好きに選び取ることはできない。ならばその一回きりの人生の後処理をおろそかにしてはなるまい。ふり返り、位置づけ、時代とともに検証してみてはどうか。

僣越を承知で、敢えて諸兄に問うものである。

< 2014年 9月15日>

この文の大半は、安彦良和の大げさに言えば歴史観である。

しかも、それはあまり重要ではない。

ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからないものだということを繰り返し述べている。

「時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。」「体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になる」などという俗諺にも感情的で問題はあるが、殆ど意味の無い戦前と戦後の世代間の違いをいうなど、同じことを全体の四分の三も費やして執拗にくりかえす必要があったのだろうか。

この点、一言だけ言っておくが、歴史とは記憶と記録である。記憶は一代限りで消えていくものだ。これを比喩的に言って、風化という。風化させない方法は物語として伝承するしかない。最も重要なのは「記録」することである。デモクラシーを維持し守護する根幹はアーカイブにある。これは、主としてソーシャルサイエンスに分類される歴史。

百歩譲って、発酵して酒や味噌や醤油になる歴史があるとすれば、それは歴史小説や叙事詩のようなヒューマンアーツに属する歴史と言うことだろう。

またこうも言える。

出来事は時が経つにつれ、その周辺が視野に入り、周辺との関係が明らかになるかどうかは別にして、次第にそのパースペクティブの中に収まっていくものだ。歴史は過去に遡行すればするほど視野が広がるが、細部は見えなくなっていくものでもある。

この文の前半は、そのようにして、自分が経験したことの意味を問い、いまとの関係を確認しようと言う呼び掛けだと受け止めることができる。

そして次に、個人的な心境を語る。

安彦良和にとって、そのパースペクティブに収まっている風景はロシア革命とソ連の崩壊だという。

「過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。」

加藤典洋は、自分の経験したこともない「戦前」を土台に、いわば砂上の楼閣を築いたが、「戦前」よりも遥かに縁遠い「ロシア革命」を自己の思想の原点とするのは一種異様な風景とも言える。

この「巨きな時代」は、当時あった戦争や「革命」、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだったという。

「巨きな時代」は、あるいはポストモダン思想が「大きな物語」が有効だった時代といったことを指しているのかも知れない。

そのことと「弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。」というフレーズがどういう関係なのか少し論理的にあやしいところもあるが、とりあえず彼にとってソ連の崩壊は直近の大事件だったことが分かる。

ただし、これは20年も前から予測が出来たことだという。

ところが、次のフレーズはこの文の中でも最も不思議な記述として目にとまる。

「出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」

予測したら、予測通りになった場合にどう対処するかをあらかじめ考えるのはごく普通の態度ではないか。これは予測通りになったらうろたえていることを意味している。

あるいは「社会主義側の完全敗北」を認めたくないということなのか。

ここでは「心の準備」がどういうことか、うかがい知ることは出来ない。

しかし、そんなことよりも、「大事件」と強調しているソ連の崩壊に較べて「弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感」のほうが、自分の経験としてはるかに強く心に残っているというのである。

恐ろしく感情の量の多い饒舌な文章であるが、そんな中にたったひとこと、ここに本音がこぼれていたのである。

彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?

自分がしたことは何であったのか?

あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

一方、ソ連崩壊後すでに三十年になるが、それについての言及はない。あたかも時間がそこで止まっているかのように見えるのである。

安彦には、二つの空虚があるらしい。

さて、これは「寡黙であつた諸兄に発語を促したいから」書いたものである。

しかし、「二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも」とか「ふり返り、位置づけ、時代とともに検証」とか、この文を読んで何を書けば「回想」文集にふさわしい「回想」になるのかは、結構むずかしい。

そこで、かくいう呼び掛け人自身が自分の人生を語ろうとするとき、欠かせないと思われることはどんなものになるか、項目にしてみよう。

1,「ロシア革命」を知ったのはいつだったか。それについてどう思ったか。

2.その根拠であるマルクス主義のどこに魅了されたのか。

3.学生運動にはどういうきっかけとスタンスでかかわったか。

4.それはどんな結果に終わり、その総括をするとすれば?

5.社会人になって、政治的なことへの関心はどうなったか。

6.ソ連邦の崩壊に際して「事態を受け入れる準備がなかった」とはどういうことか。

7.そのとき、マルクス―レーニン主義(そのイデオロギー)についてどう思ったか。

8.ソ連崩壊後の世界をどう受け止め、何をめざしていくべきと考えたか。

おおよそこのようなことについて押さえることになるだろう。

「革命とサブカル」がその応えであるというには、それができあがったいきさつを知っているものとしてはかなり酷なことだといっておこう。

しかし、ソ連崩壊の後にやって来たのは「サブカル」の時代だといっているように見えるのは、あまりに安易でいただけない。

最後にもう一度ことわっておかねばならないが、これは、「革命とサブカル」の批評ではない。「回想」本が出来るようにと思って、よけいなお世話をした。

いっぱい書いていっぱい削ったから、何が何だか分からなくなったけれど、とりあえずアップしよう。

文句があったら書き込みでもメールでもしてくれ!

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2017年12月22日 (金)

「国家とはなにか」(萱野稔人)の続き 竹田青嗣 の「欲望論」がすごい!

9月に書いた『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」には続きがあるように書いてしまったが、あれからずいぶん間が開いてしまった。

ただ、もともと、あの論旨は飛躍しすぎでアップするのが不本意でもあった。と言うのも、本の批評になっていない上に、唐突にルソーから東浩紀の「一般意思2.0」を引っ張り出そうというのではいかにも乱暴に過ぎる。ドゥルーズ・ガタリの『哲学とはなにか』を引用して、あの『アンチ・オイディプス』の著者の意外に素朴で単純な一面を揶揄しているときだけ満足だったが、あとのことはほとんど上の空だった。

言い訳がましいが、半年以上前に加入した「囲碁・将棋チャネル」でしょっちゅう早碁棋戦を見ているなかで、書いたものだから、心ここにあらずで相当にせっかちなもの言いになってしまった。反省するコトしきりである。(いまや、囲碁番組は欠かせない習慣になっている。)

「一般意思2.0」に言及する前に、確かめておこうと彼のたぶん最初の論文「存在論的、郵便的」に目を通した。途中から恐ろしくややこしい論議になって読解するのに難儀したが、最終的にはジャック・デリダの「差異と反復」に同意しているわけではないことが分かって、さすが東のことだと思った。「差異と反復」ではただ袋小路に入り込むしかないではないか。デリダを取り上げるのは時代の趨勢ではあったが、その選択眼の勘の悪さは、指摘しておいてもいいだろう。ただし、ややこしい議論というのは、元になったデリダの書き方で、それに引きづられたのはやむを得ない。ドゥールーズとガタリもそうだが、むずかしく書けば有り難がると言う風潮は困ったもので、それもポストモダン思想の流行が沈静化すると同時におさまった。ついでに、「ものを考える」ということが世の中から消えてしまったような静けさで、聞こえてくるのは、先の見えない時代を前に周章狼狽しているささやきだけである。

「一般意思2.0」は、ルソーのそれをバージョンアップといっても、それほど厳密な議論をしているわけではない。が、考えるヒントにはなると思った。

ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念で、たとえば、国民投票の結果を「一般意思」とは言えないと言うのだから、果たして実体があるのかどうか。しかし、ともかくそんなことは問えないのである。

東はパソコンを持ち歩く世代らしく、これを「ビッグデータ」が実体あらしめるものにするかも知れないと発想したのだ。なるほどAIを利用することで様々な問題解決の糸口くらいは見つけられる、かもしれない。

あたりまえと言えば言えるが面白い着想だと思って、「その2」で紹介しようと思ったのだ。

ところが、それも日が経つにつれて怪しくなった。

よく考えると「AI」も実は得体の知れないものではないか?

確かに、機器の進歩にはめざましいものがある。

プロの囲碁棋士にコンピュタ―が勝つには百年かかると言われていたが、ついこの間グーグルが開発したソフトが世界最強の棋士に勝った。四百年前からこれまでに残っている棋譜を機械に読み込んで、必勝パターンを計算するがそれでは時間がかかりすぎるので、ショートカットする方法を編み出して、時間を短縮した。将棋はもっと前にプロ棋士を抜いていて、この世界だけでも想像以上のスピードでAIは人間の能力に近づいていることが実感できる。2045年にはAIが人間の知能を追い越し、その先がどうなるかが「45年問題」と言って人間にとって新たな課題になっているらしい。

この間、新国立劇場「プライムたちの夜」(11/24)を見たが、これはAIロボットすなわちアンドロイドの話であった。

このときの僕のツイッター。

――夕べ、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た。AIやアンドロイドは、所詮人間の慰みもの、おもちゃに過ぎないことを証明した馬鹿に甘い米国の戯曲。こんな高価な「おもちゃ」を持ったり高額な精神分析医にかかれない貧乏人の方がよほど幸福だと再認識させる。

「プライムたちの夜」(宮田慶子演出)。戯曲の「薄さ」に輪をかけた退屈な舞台。役者はそれぞれ頑張っていたが、なすすべもないと言った有様。もっとアンドロイドの薄気味悪さが強調されたら舞台に緊張感がただよってきたはず。演出が甘い。浅丘るり子は意外にうまい役者だった。香寿たつきの変わり身は見事。――

専門家に言わせると、現在のアンドロイドの知能は六歳程度らしいが、劇を見ていて、AI=機械に「感情」はあるのかとふと疑問に思った。ツイッターでいっている「薄気味悪さ」とは感情表現のことだが、感情は果たしてデータの集積と類推で外化出来る類のものか本源的な検証が必要ではないかと直感している。例えばさしあたりフロイト的な心理学を参照しながら感情表現を組み立てたとして、そんなものをまともに相手にはしたくないものだ。最近流行の脳科学にしても、感情を同じ位相でとらえたという話は聞いたことがない。

そもそも、AIがコンピュータ制御である以上、背後にプログラムあるいはアルゴリズムと言った言語、分節化した論理=疑似言語が存在する。それはどのようなコンセプトの元に書かれているのかが問われねばならないだろう。東も「翻訳機械が何故そのような翻訳をしたか説明できない」とかいって、AIの根本的な信憑性の問題を指摘しているようだが、「ビッグデータ」から取り出す「一般意思」の信頼性はともかく、トランプのようなあるいは金正恩のような政治家がおとなしくその結果に従うかは保証の限りではなかろう。

「45年問題」とスローガンばかりが先走りしていて、本当のところは明るみに出されていないのは「45年問題」の問題である。

いまさら「『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」に言及するのも妙な話とは思うが、あの構成は以下のようでなければならなかった。

*萱野は最初になんの前提もなく、「国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたって、国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である」と定義した。これは有名な「国家とは暴力装置である」というマックス・ヴェーバーの議論に全面的に依拠している。

*「国家」をめぐる議論をこれほど単純な「概念」に仕立てるのは勝手だが、結局のところ、これでは暴力を行使するものと行使されるもののの二項対立がいつまで経っても解消されない。行使される側にいる圧倒的多数のわれわれにとって、この「暴力」にどう立ち向かうのかあるいはどう制御するかは「国家は暴力装置だ」という「概念」をうち立てるよりもはるかに重要な議論である。

*つまり、萱野の議論は、万人が万人の敵、自然状態の人間と先人たちが言ったあの時点へ戻したことと同じなのだ。

*そこで、いきなり「一般意思2.0」へ行くのではなく、一度カントからヘーゲルを参照すべきであった。「国家とはなにか」と問うならば、むしろ近代的な国家や法や道徳の論理が生まれ出る過程をこそを論じるべきだった。

そんなことが気になっていたが「その2」を書く気にもなれず、早碁を見る日々を過ごしていた。

そうして、あの、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た日。早めに着いたのでオペラシティの本屋に立ち寄った。そこで、出版されたばかりの竹田青嗣 「欲望論」全二巻を発見したのだ。

二冊買ったら9,000円。高いし、持ち帰るには重い。そこで、持っていた図書カードに少し足して「欲望論 第一巻『意味の原理論』」を購入した。

翌日から読み出したらこれがとまらなくなった。まるで推理小説でも読むような勢いで700ページを一気に読んでしまった。

やったあ!

早くフランス語に翻訳してやったらいい。

木田元先生が「ハイデガーは人が悪い」と言っていた意味がよく分かるし、また、「反哲学史」は、反西欧哲学史のことだというのがここではそれが増幅されて確認できる。

竹田青嗣 、40年の集大成。これは、特にポストモダン思想に傾倒した比較的若いものたちにきっと読んでもらいたい一冊だ。

いま、「欲望論 第二巻『価値の原理論』」に取りかかっている。

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2016年9月22日 (木)

宮城公博「外道クライマー」を読んだ

Photo 宮城公博「外道クライマー」を読んだ

文章が面白いという噂を聞きつけて読む気になった。

宮城公博は1983年生まれの33才、自ら「沢ヤ」と称して、もっぱら沢登りを主体に冒険的な登山をする人物らしい。

沢を遡行するのは頂上へ至る最も効率的なルートだが、水は流れても人が通れるとは限らない。背丈よりも高い滝が現れることもある。深い雪解け水の淵が行く手を阻むこともあるだろう。

また谷が狭くなったところを奔流が流れ下る峡谷を「ゴルジェ」というが、こういう危険きわまりない場所は濡れた岸壁にぶら下がってトラバースするか、よじ登ってこれを高巻きながら進むしかない。

高度な登攀技術や道具が必要なのはもちろん、道なき道を行く藪漕ぎや荷揚げの体力も必要で、当然誰にも出来ることではない。

本の冒頭に掲げられた用語解説に「沢ヤ」とは、「沢登りに異常なこだわりをもった偏屈な社会不適合者」とあるが、これにはどうも二つの意味があるようだ。

ひとつは、クライマーのくせに、山の頂上を踏むことが必ずしも登攀の第一義的な目的ではないらしいということである。

もうひとつは、「沢登りに異常なこだわりをもつ偏屈」が何故か「社会不適合者」になってしまうという点である。

きつい、汚い、危険が大好きというのは、世のため人のためになれば立派な職業だが、これがもっぱら自分の趣味というのでは単なるスキ者である。それどころか、危険が現実のものになったら世間にとっては迷惑以外の何ものでもない。自らを社会不適合者といって自嘲気味なのは、その趣味がなんとなく社会の規範、どころか登山の常識から逸脱しているという自覚があるのだ。

僕は、こういう冒険を批判しようと思わない。人間が自然相手に命のやりとりをするという行為に善悪などはないというのが僕の考えだ。(ただし、自己責任で勝手にやるがいいという突き放した言い方には与しない。遭難したらはた迷惑と思っても最善を尽くして救助するのが人間の務めというものだ。)

ただ、宮城のこの自嘲気味のトーンには裏があった。

この本の第一章である。

1

「・・・・・・2012年七月十四日の午前八時、那智の滝、その左の岩稜部、滝壺から約八十メートルの高さに私はいた。私の右十メートル先の空間には、垂直に流れ落ちる巨大な水の束があり、風にあおられた水の飛沫がときおり頬を触りにきていた。・・・・・・」

第一章のタイトルは「逮捕!日本一の直瀑、那智の滝」である。

つまり、熊野那智大社のご神体であることは承知の上で、沢ヤ仲間三人と結託してその初登に挑戦したのである。さすがに後ろめたかったようで、夜中に登って明け方には降りてくる計画だった。ところが、滝の上部の岩盤は一枚岩でオーバーハング気味、手こずっているうちに夜が明けてしまった。

開き直って、なおも上をめざしたが、観光客に見つかり宮司に通報される。ハンドマイクからあたりに鳴り響く宮司の怒声にたじろいで、すごすご引き返したところを逮捕されたのであった。新宮警察からはその日のうちに帰されたが、この罰当たりな行為に世間は大騒ぎになった。神社には後日、頭を丸めて謝りに行ったものの、結局、宮城は、つとめていた福祉関係の職を失うことになる。

「社会不適合者」とは、こういうおっちょこちょいな側面もあるだろうが、普通の都会暮らしは性に合わないという基本的な自覚がそういわせるのだろう。

僕が子供の頃は、ヒマラヤにまだ未踏の8000メートル峰があって、登山といえば、初登頂が最も価値が高かった。新聞の見出しに「マナスル登頂!文相から感謝状」とあったのを覚えているが、一番乗りには今どきでは考えられない「国家の威信」がかかっていたのである。

この時代、キャラバン隊が大量の荷物を何日もかけて運びあげ、数十人の隊員の中から、選ばれた二三人がアタックするという、いわゆる「極地法」があたりまえだったが、それでは、苦労して途中まで登っても、頂上を踏めない隊員が大勢でる。

未踏の山がなくなると、莫大な金とマンパワーが必要なわりに不満がうずまく「極地法」は評判が悪くなり、「単独または少数で短期間に、しかも無酸素で」というより厳しい条件(アルプスの山々を登る方法という意味でアルパインスタイルという)で登るのが評価されるようになった。

これも「8000m級高峰」や「七大陸最高峰」制覇とあらかたすんでしまうと、次は、難易度の高い岩壁や氷壁のバリエーションルートで頂上をめざすようになり、そのための用具も整ったが危険の度合いははるかに増して、その冒険的な価値はかろうじて維持されている。

とはいえ、それも、たとえば谷川岳一の倉沢登攀史にみるように一応の到達点にきているとも言える。

一の倉沢の岩壁は「勤労者山岳会」が設立された1960年ごろから盛んに挑戦されるようになった。これは我が国の登山の大衆化がはじまったときと一致する。

土曜日の勤務が終わったあと、上野から越後方面に向かう夜行列車に乗り、明け方群馬―新潟県境にある土合におりて、地下駅から400段の階段を上って20分ほど歩くととりつきに立てる。自家用車などない時代にこれほど便が良い冒険の舞台があっただろうか。

岩壁は峻険で、オーバーハングしている難所も多数あり、これを登るには、おそらくまだ技術が未熟で道具も調っていなかったため多くの遭難者を出した。ロープに宙づりになったまま息絶えた遺体を回収することが出来ず、自衛隊の狙撃手を動員した遭難事故を記憶している人は多いだろう。

この壁は、20年もすると、何本もの困難な厳冬期バリエーションルートが開かれ、縦に登る新ルート開拓が限界に達すると、あれほどの死者を出した難壁を今度は横に易々と横断する者まで現れる。

やがて移動手段が車の時代になったこともあって、一の倉沢から次第に人影が少なくなっていったのだが、それにしてもこの壁は、昭和6年の統計開始以来今日まで800名を超える命を奪って、いまようやく静けさをとりもどしているのだ。

このようにして、一種の大衆化によって、冒険的行為の世間的価値が陳腐化することは避けられないことである。

冒険者たちは、山から北極海やカナダ、グリーンランドなどに人跡未踏の地を求めるようになる。しかし、スポンサーを集め、衛星電話やGPS機器を携帯、空輸補給をうけるなど先端技術を最大限活用して目的を果たすことが、はたして英雄的行為なのかという疑問も大きくなった。

エベレストでは、金さえ払えば誰でも頂上を踏めるという営業登山が始まり、何よりも、グーグルアースの時代に何が冒険なのか(角幡唯介)という基本的な疑問が意識されるようになる。

これは、冒険が栄誉をともなった時代の終わりであり、登山が必ずしも賞賛を期待できない極めて個人的な営為であるという認識の始まりであることを意味している。

危険な登攀も氷海の横断も目標達成そのものよりは、季節の選定や電子機器を意図的に排するなど、いかに困難な条件の下で行われたか、そのプロセスが問われるようになったのである。

この本の構成は、「那智の滝登攀」事件にはじまるが、そのあと一冊の大半は「タイのジャングル四六日間の沢登り」で占められている。奇妙なことに、その「タイの沢登り」は「その一」から「その三」まで三分割されていて、間にそれとは関係のない台湾と日本の「沢登り」の記録が挿入されている。

普通の山登りなら、頂上までの道程は一直線に時間が進むから分割して語るなどはナンセンスである。だから最初に目次を見て、おいおい、だいじょうぶなのかぁ?と頭をかしげた。

ところが、この本を読み終わった時点で、三分割はまったく違和感がなかった。無論、沢登りにも始まりと終わりはある。しかし、沢ヤの時間は必ずしも頂上(目的)に向かって一直線に進もうとはしない。むしろ何処の時点を輪切りにしても、そこには違った冒険の様相が現れ、それが連続し、終わりはあってもそこがゴールではないという、不思議な冒険なのだ。そのアナーキーな感覚は、多分に著者の性格と文章によるところが大きいともいえるが、実際その内実も時制も無秩序に進行するのである。

「征服されるべき頂上」があれば、明確に時間は前へ前へと進行するのがあたりまえだが、しかし、沢ヤは「征服」しようとも「屈服」しようともしない。

その第三章「日本最後の地理的空白と現代の冒険」にこうある。

「日本発祥の沢登りには、合理的でスポーツ的要素の強い西洋的アルピニズムとは違う独自の趣がある。」

藪をかき分け、道のない渓をたどり、シカ、イノシシ、カエル、ヘビ、アブと多くの生きものや自然の神秘的な造形との出会いがある沢登りは、アルプスのような氷河と岩峰で作られた無機的な世界ではかなわない。・・・・・・焚き火に酒、釣りに山菜採り・・・登山の道中、寄り道して山頂にたどり着けなくても沢ヤならそれを優先する。

宮城公博は、沢登りを明確に自覚的に次のように定義している。

「この価値観の根底には、日本古来続く沢を中心とした里山での生活が存在している。それこそが合理性を追求する西洋的アルピニズム登山との大きな違いであり魅力だろう。」

1983年生まれの宮城が「日本の里山」に言及しているところが注目に値する。

里山とは、もともとその周辺に暮らす村人が自由に使える共同体管理の山域、入会地のことをいった。人々は長い間日々の暮らしのためにそこで燃料や食糧を調達し、寄り合いの行事や祭祀を行ってきた。ところが、明治維新(各藩所有の山林を勝手に無理矢理国有化したとたんに入会地訴訟が無数に起きた)からこっちどんどん私有地化して消滅してきたいまや「なつかしい」日本の原風景なのだ。

宮城は、自分の沢ヤとしての行為には(断絶したはずの)里山で育んだDNAがあると言っている。宮城は自分の登山のスタイルを日本の近代登山の歴史に照らして、どのようにも位置づけられないと気がついて、その由来を求めるうちに昔の「里山」を「発見」したのだろう。この点で宮城の教養が並々ならぬものだと言っておかねばなるまい。宮城にとっては、ごく自然の心境に違いないが、ここ150年あまり西欧的合理主義に傾いた我が国においては、この若者の感性が一種の土着の思想への回帰現象に見えて、なるほど時代はめぐるという思いがするのである。

渓流は、地図の上では一本の細い線である。これをたどればいつかは山頂に至り、下ればやがては人里にでるのだが、実際にその場に身を置けば、自分がどこにいて、先に何があるのか見えるわけではない。沢ヤの前にあるのは、次に何が現れるか分からない予測不能の、いわば不連続に連なる光景である。しかも、それは常に危険をはらんでいる。何でもないような岩壁や渓流でも一瞬の油断が命にかかわる。

ただひたすら頂上をめざし、「征服」して終わる登山と違って、人跡未踏の沢を遡行し、山に登り、また沢を下りてくるという山行の過程すべてが一つの冒険であると考えているのが「沢ヤ」なのだ。

そこに決まったルールなどあるはずもないが、しかし、数週間に渡ることもある山行に持って行ける荷物には限度があり、結果として実にストイックにならざるを得ない。

タイの渓谷に分け入る前に、準備した装備をみれば、それは如実に表れている。

食糧は、米と調味料とお茶に若干の甘味類ぐらいのもので、おかずは山菜や魚や蛙などを現地調達する。ガスコンロはかさばるので、道中すべて焚き火。寝袋は同じ理由で断念し、軽量のテントにタープとシュラフカバー、それに銀色のウレタンマットをしいて夜を過ごすことにする。

登攀用のロープは40mと20mを二本、ハーケン5枚にカムとナッツ5枚、カラビナ25枚、これだけで5、6Kg になる。どんなに切り詰めても、食糧と合わせれば20Kgは超えるだろう。岩場と渓流ではザックの外に結わえて運べるものはない。 時にはぶん投げ、流れに浮かべることを前提にすべてを一個の荷物にまとめる必要がある。

万が一のために無線や衛星電話を携帯するという選択枝もあるが、宮城はこれを「自然に対してフェアじゃない」、むしろ冒険という行為を汚すものだと断定する。遠征費にスポンサーをつけるなどは論外である。

他人の助けと懐を当てにしないのが、沢ヤのルールであり原則だというのである。なるほど、それは里山から一歩足を踏み出して、神の住まう領域に入り込もうとするものの矜持であろう。

昔の修験道に励む山伏を彷彿とさせるが、むろん宮城の言葉ではない。

「勧進帳」の弁慶のせりふを思い出した。

「それ、修験の法と言っぱ、いわゆる胎蔵、金剛を旨とし、険山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の、慈眠を垂れ、あるいは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を、成仏得脱させ、日月星明天下泰平の祈祷を修す。さるが故に、内には、慈悲の徳を修め、表に、降魔の相を顕し、悪鬼外道を、威伏せり。これ、神仏の両部にして、百八の数珠に、仏道の利益を顕す。」

宮城がやっていることといえば、「剣山悪所を踏み開き」「難行苦行の功を積」む行為からちょうど「信仰心」の分だけ差し引いたようなものではないか。

自然と一体になるという点では修験道を思わせるが、無心にはならないところが大きく異なる。目前の状況および次なる行動を判断するために脳はフル回転で言葉を紡ぎ出し、身体は本能をむき出しにする。いや、修験道といえども同じことには違いない。実は登山だって、何処を登ろうが登っている行為自体は修験道と似たようなものだともいえる。つまり、自然と向き合えば、否応なく自己を対象化せざるを得ない状況に人は追い込まれるのである。おそらく修験道は、そこであらわになった自己を信仰の力を借りて修めようとするのであろう。

いまや、沢ヤも登山家も、その自己対象化のドラマを語らなければ、他人に知られることはない時代になった。

僕らは、「次に何が現れるか分からない予測不能の、一瞬の油断が命にかかわる危険をはらんだ道行き」をまるで冒険者とともに進んでいるように感じながら、その孤独な心の内にわき起こるドラマを味わうことが出来る。

実は、物語は「すでに」過去の出来事であるにもかかわらず、まるで同時進行しているように感じられるのは、冒険者が自己対象化の名人であり良い書き手だからである。

話がだんだん理屈っぽくなるのでこの辺で、最もおかしかったエピソードを紹介して終わりにしよう。

タイのジャングルもかなり後の方になると食糧も乏しくなり、次第に痩せて体力もなくなっていく。ある日、大蛇を発見して大喜びする。敵も然る者で岩陰に逃げ込むのをようやくしっぽを掴んで引きずり出そうとするが、恐ろしい力でびくともしない。仕方がないから半分でも頂こうと見えているしっぽの部分にナイフを立てる。硬くて歯が立たないが、久しぶりの食糧だと思ってしばらくバカ力で格闘すると、ようやく少しだけ切ることが出来た。大蛇はなんと腸を引きずりながら大急ぎで逃げていったのである。

あまりに面白かったので、一気に読んでしまったが、これで「沢ヤ」というものに引きずり込まれてしまった。

そこで、他に書き手はいないのかと探したら、服部文祥に出会った。服部は、僕が知る前に、すでにTVなどでも知られた存在だったようで、今頃になって、といわれても返す言葉がない。

この宮城公博のような沢登りと登山のあり方を熟考して、沢ヤの思想とスタイルを創りあげたのはこの服部文祥を持って嚆矢とする、のではないかと僕は思った。

この後、僕は服部文祥の以下の著作を読むことになる。

「百年前の山を旅する」(新潮社)

「サバイバル登山家」(みすず書房)

「狩猟サバイバル」(みすず書房)

「ツンドラサバイバル」(みすず書房)

いずれも、面白く読んだ。

いつか機会があれば、これも紹介したいと思っている。

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2015年12月 1日 (火)

「反・知性主義(に陥らないための70冊)」が流行なの?

 渟風 中村隆一郎
                               Weblog :私の演劇時評

  Essay

  2015年12月1日

「反・知性主義(に陥らないための70冊)」が流行なの?

このところ「反・知性主義」という言葉をよく目にするようになった。

昔、知性の代表である大学教授や大学そのものの権威が現実と著しく乖離しているといって、全共闘は「大学解体」を叫んだ。

解体されなかったが、まもなく、不思議なことに大学はごく一部の「高学歴」大学とそうでないものに分類され、おおかたは権威どころか遊園地になり卒業証書発行所になった。全共闘のおかげではない。ただ単に、時代が変わったからだ。

しかし、今頃になってまたぞろ、あのシュプレヒコールが復活しつつあるのかと思って目にとまったのである。

 

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ところが、今度の「反知性主義」は主としてインターネットの中の話らしい。Web上で行われる様々な議論や言説の中に「反知性主義」がはびこっているのが嘆かわしいということなのだ。

特に、この「匿名―無責任」という特殊な空間にできあがる「空気」に反対する意見は「インテリぶってやがる=知性主義」の烙印を押されて攻撃を受け排斥される傾向にあるという。

つまり、話題の「反知性主義」とは、知性の抜け殻となった似非権威はいらないとした全共闘とは逆に、「知性=インテリジェンス」そのものを否定しているのであり、知性など持ってはいけないと主張する立場のことになる。「知性」とは何か?という大問題はさておいて、我々は「知性の反対、バカでいいのだ」とするのだから、反知性主義とは、結局バカ肯定論ということにならないかね?と老人は思うのである。

きっと、そうなのだろう。

感情的で短絡的な意見、単なる受け売り、過激思想、差別や偏見などなどよく吟味し考えれば生産的な議論かどうか見分けがつくはずなのに、なにしろバカ肯定論は楽で安直、あまり頭を使わないから表層をなでてるだけのことに気づかずに事は済んだと思い込むのである。結果として、これが知性はいらないとする反知性主義だ、とまあ、世間ではそう結論づけたと推測できるのである。

Web上のいわばバーチャルな世界の議論が、こうして実社会(紙媒体)の中にはみ出てきて問題にされるのは、その言説が社会全体にそれなりの影響力を持つようになったからだろう。確かに、Web上の呼び掛けでデモや集会が行われるようになったのは周知のことである。「アラブの春」にしてもインターネットが政治の民主化をもたらすという楽観を世界に振りまいた。

ところがご承知の通り、現実世界では、そう易々と事は運ばなかった。もともと言説の根っこに匿名で無責任という構造がある以上、権力と対峙しても底が抜けている分そんなに出力=パワーは出ないものだ。それに最も大きな問題は、中国のような情報ネットの元を権力者に握られている国では大衆の鬱憤晴らしにはなるが何も起きないことになる。つまりガス抜き。過度な期待は禁物である。

それに、僕は仕事上昔からパソコンを使っていても、スマートフォンを持ったことがない。その上、携帯電話も通話とCメール以外の機能は必要ないと確信している。ということで、僕にとってWebでの言論は必ずしも身近なものではない。したがって、Web上に「反知性主義」がはびこって害をなすといわれても、それは何を大仰な、「バカ!」と一言で済ませられる類のことではないのかという気になってしまうのだ。

どうもこれは出版業界が仕掛けたな!という匂いがぷんぷんである。

こんなことを考えたのは、この間百貨店をぶらぶらしているとき「反知性主義に陥らないための70冊」という本が目に入ったからだ。近頃知性のかけらも感じられない本屋が多いのに知性肯定論が堂々と並べてある。さすが、「丸善」の特設コーナーであった。

ぺらぺらめくっていたとき、約束の時間だとメールが来たので慌てて出てきた。

この手の読書案内は「必読書150」の例に違わず、選び方が安直で紋切り型、紹介文も短い上に全体としてひどくつまらないものが多い。この本もまったく期待していなかったが、目次をザッと見たところ何人か興味がそそられる書き手が記憶に残った。

一人一冊を推薦し、2頁程度のコメントが付けられていて、ジャンルは様々だ。

呉智英さんの名前が見えたので、それが気になって、図書館で探してみた。しかし、新刊本だったらしく何処も未だ入れていない。仕方がないからばかばかしいとは思いつつも、Amazonで手に入れた。

以下は、そのとりとめもない感想である。

呉智英さんが取り上げているのは、ロゲルギストの科学エッセイ集「物理の散歩道」全五集。日常的な物理現象を選んで、その科学的意味や背景を誰にも分かるように平易な言葉で教えてくれる随筆風小篇を集めたものである。

ロゲルギストとはロゴス(知性・言葉)とエルゴン(仕事)を組み合わせた集団ペンネームで、メンバーは木下是雄(中公新書「理系の作文技術」)他計七人。曰く『いずれも錚々たる科学者であり教養人である。』

この第一集は一九六三年に出ている。彼らは、月に一度さまざまな物理現象について歓談する集まりを持っていて、つまり、古き良き時代の科学者サロンという趣の集まりだが、そこで話されたことを持ち回りでエッセイにまとめ、雑誌「自然」(中央公論社)に発表していた。それに目を止めた岩波が、いくつか選んで一冊にし、続編五集までを次々に出版したのであった。以来版を重ね、2008年には「新装版」としてソフトカバーに一新、2009年にはちくま学芸文庫に入るなど、書き手はすでに物故者が多いにもかかわらず半世紀の長きにわたり売れ続けている隠れたロングセラーである。

呉智英さんは、何故これを推奨したか?

書き出しはこうである。

「森本あんり『反知性主義』は、アメリカの反知性主義の土壌に、旧来の知の権威への反発と平等の理念があると指摘していて非常に興味深い。日本の反知性主義にもほぼ類似の現象が観察できるからだ。」

(森本あんり『反知性主義』については、社会学者、橋爪大三郎が推薦していて、やや詳しい解説があるので、後に紹介する。)

その「日本の反知性主義」とはどんなものか?

呉智英さんは「知的権威への反発と平等の理念が高揚した時代」つまり僕がはじめにいった『全共闘』時代のことだが、「反知性主義の深淵は、どうやらこの時代に求められるようだ。」といっている。アメリカのは知らないが、全共闘時代のことなら体験済みだ。

あまり詳しくいう気はないが、知性の代表者たる当時の大学も大学教授も権威にあぐらをかいているだけで、価値観が変容していく社会に対し現実対応能力もなければ新しいことを提案する意欲も実行力もないと見なされた。代表的なものに東大医学部医局問題などがある。

医学部の話になったついでに。直接関係ない話だが、昭和五十年代あたりまでも、むずかしい手術や治療などには教授から助教授、講師、助手に至るまでなにがしかの謝礼を治療費とは別に包んだ。医学部の権威とは絶大なもので、数十万円かかるのは常識であった。「白い巨塔」の化けがはがれたいまでは差し出しても受け取らない、だろう?)

ここで、思い出すことがある。学生の頃、もう五十年近く前のことだから本名を出しても怒られはしないと思ってのことだが・・・・・・。安彦良和のことだ。歳は同じだが僕の方が学年は一年下。当時彼はガリ版刷りの個人新聞を発行する志も意識も高い学生の一人であった。特に親しい間柄というわけでもなかったが、僕はその新聞に二回ほど寄稿している。何しろ五学部合わせても一学年700人前後だから学部を超えた交流があり新聞は賑やかだったと思う。当時としてはめずらしくセクトのような檄文などはなく政治一辺倒でもなかった。

この学校では、旧制高等学校の大正時代に建てられた木造校舎が残っていて、教授の居室が割り当てられている。ある日、戸口の前の廊下で部屋の主が大勢の学生に囲まれているのを目にした。見ていると、輪の中心にいた安彦が激高していきなり教授の襟首をつかんで怒鳴った。両手で持ち上げるようにして身体を揺すったのだ。普段は、物静かで老成した雰囲気の彼が豹変している。「権威(これが陰湿な嫌がらせをよくやった)」に理不尽な何かをされたのだろう。理由は何だったか記憶からすっかり抜け落ちているが、(同じ光景を目にした中澤君も何故だったのか記憶にないといっている。)その戸口の上の柱から黒地に白文字で「文部教官」と書かれた表札が突き出ているのを見ながら、その時僕は時代が変わるという実感を得たのであった。いま思えば、あれが僕らの「反知性主義」だった。

安彦さんはまもなく大学を去った、らしい。(その後虫プロをへて機動戦士ガンダムのキャラクターデザイン、漫画家となったことは知っている方も多いと思う。)

呉智英さんは、しかし、妙なものを事例として取りだしている。

「・・・一九七二年の連合赤軍事件は、こうした時代を背景に出現したが、・・・その指導者永田洋子の手記『十六の墓標』に、彼女が下級”兵士”に言ったこんな言葉が記されている。『わたしたちみたいに単純バカになって早く過去を総括しちゃってよ』。また、一九七一年に出た永山則夫『無知の涙』は、まさしく無知の涙であるにもかかわらず、知的権威への反発と平等の理念を奉ずる人たちに、かえって無知の涙であるがゆえに強く支持された。」

これをもって「日本の反知性主義」というのでは、「旧来の知の権威への反発と平等の理念」とは単純バカと、無知のススメ、になってしまう。

「・・・・・・とはいうものの私はこの二著を推薦したいわけではない。ここには索漠たる空虚感があるだけだからである。」

反知性主義のポーズはいいが、その先で「知性」そのものが雨散霧消、溶解しているというのが、索漠たる空虚感なのだろう。

そこで、「いまは忘れられつつあるかつての知性がどんなものであったかを紹介したい。」となって「物理の散歩道」につながるのであった。反知性主義に陥らないためには知性そのものに回帰しようというための少しややこしい論理の散歩道ならぬ筋道だったのだ。

それより、ここで、僕の心にとまったのは、永田洋子の「十六の墓標」である。「単純バカになって早く過去を総括」、そんなことが書いてあったのか。連合赤軍の関連図書はほぼ一つも読んでいない。表紙を見ても生理的に受け付けない。いまだに吐き気すら覚える。だから「十六・・・・・・」もタイトルは知っているが読む気がしなかった。

「単純バカになって早く過去を総括」することが真の革命戦士になることだと永田は本気で考えていたのだろう。(呉智英はご丁寧に彼女が薬大を出ていること「=薬大でても単純バカか!」を注として指摘している。)

マルクス主義者に共通して言えることだが、「自分の考えは資本主義社会の堕落した価値観に汚されている」という強迫観念がその意識の中に潜在している。日本人だけでなくフランス人でもイタリア人でもコミュニストに特有の感覚だと、近頃では確信している。

自分が真であると思っても、それは資本主義社会の中にある存在が真であるといっているだけで、我々の側における真ではない、となる。では真とはどこにあるのか?

自分を成立させているのは紛れもなく社会である。私と社会は図と地の関係にある。それは別のものでありながら同時に切り離すことが出来ない。互いが別であると同時に同じなのだ。

そのようにして別々には出来ない、解決不能の問題にかかわらず、共産社会という彼岸を設定したときからその矛盾は、コミュニストの意識にキリスト教の原罪のようにのしかかってくるのである。

この強迫観念を麻痺させる方法の一つは発狂することであり、もう一つが単純バカになることであった。つまり器械のように何も考えない兵士になることが永田洋子の理想だったのだろう。何か、もがいて闘っているうちに彼岸は向こうからやってくるという楽観主義に陥るというのも単純バカのなせる技であった。

彼らが非合法活動に入ったあたりの昭和44年の春先だったと思う。僕は駆け落ちまがいのことをしでかして、隠れて銀座の天一で皿洗いをしていた。そこへ休憩時間に電話がかかってきて「赤軍だけど、兵士として出頭しろ。」といわれる。その何日か前、世田谷の友人のアパートに転がり込んでいたところに青砥幹夫がやって来て「もぐる」と言うからバカなことやるなと必死で止めたが、バイトにいっている間に消えていた。その関係だろうと直感した。

「兵士としてならことわる。将軍ならいってもいいが・・・・・・」と応えたら「フン」といって電話は切れた。兵士なら上官がいるだろう。バカにこき使われるのはごめんだ、という感覚は後の反抗的会社員生活でも継続した。生来のものだから仕方がない。万に一つもないが、ふらふら行っていたら今頃生きてはいなかった。

話は脱線するが、この天一(銀座四季店)のバイトの時の店長が、いずれ店を持つという噂だったから、いつか訪ねてやろうと思っていた。かなり後になって、銀座天亭の越田さんだったことが分かって、それじゃあ、「ちわーすっ!」などと気軽に行ける店じゃないなあと思った。当時は、いつもにこにこしていて優しい人だった。僕が今日でおしまいという日に、「それじゃ、俺がひとつ、特製かき揚げ丼を作ってやろう」となって、贅沢なまかない飯にあずかったのが、あの頃の思い出のひとつである。

ついでだからもう一つ思い出話をしておこう。連合赤軍事件が生理的にダメな最も大きな理由は「十六の・・・」に金子みちよの墓標が含まれていることがある。

天一のバイトの数ヶ月前に、横浜国大の友人宅に寄宿して、一夏土方のバイトをしたことがあった。ある夜、南太田のアパートで友人とくつろいでいたときのことだ。もう十一時をまわった頃、外から「越後君いる?」というくぐもった女の声が聞こえた。と思った次の瞬間、勢いよく板の引き戸が走った。そこには、小柄でどちらかといえばかわいらしい顔だちの、しかし、僕のそれまでの人生の中で初めて出会ったとびきりの美少女が廊下の暗がりを背景に漱石風にいえば「すっくり」と浮かび上がっていた。さすが横浜、大都会は違うなあ、それにしてもこんな夜中に・・・と、田舎者はあっけにとられていた。それが金子みちよであった。

やや興奮気味の様子で「吉野君は何処?」と誰かを探している様子。越後君はもう亡くなった僕の友人だが、その頃吉野君の家庭教師のアルバイトを彼が地下に潜るというので、引き継いでいたのだ。「知らない。」と応えると、その気の強そうな顔を少し曇らせてすぐに引き返していった。いうまでもなく吉野君とは浅間山荘で捕まったあの男である。

薄暗い裸電球の明かりに照らしだされたあの記憶の中の姿は、僕の飾りすぎた幻想に過ぎないかも知れないが、いずれにせよ、たった一度の一瞬だっただけに強く印象に残ったのであった。

それが、数年後のある朝、僕はまだ学生だったが、朝刊にでかでかと殺されていたことが報じられていたのである。なぶり殺しであった。しかも彼女は身ごもっていたらしい。僕は、朝食の最中だったが、あまりの衝撃に思わず吐きそうになった。連合赤軍の文字に吐き気を覚えるようになったのはその時のトラウマかも知れない。

話を元に戻そう。

「・・・・・・それよりも、いまは忘れられつつあるかつての知性がどんなものであったかを紹介したい。」

反知性主義に陥らないために「知性とはこういうもの」という認識が大事なことは言うまでもない。

その事例が「物理の散歩道」だというのだが、そこにどんなことが書かれているか残念ながら極く一端が紹介されているだけで内容はよく分からない。

「電子機器には増幅装置が組み込まれている。増幅装置の最も原始的な形は、水道の蛇口からしたたり落ちる水である。」

と紹介されているが、これで僕が想像したのは、「蛇口から落ちる水の雫が、(スローモーションで見たとき)下の水たまりに落ちてくぼみができ、そのカーブに水玉が砕け散る音が反響して次々に空間に広がっていく」イメージだった。だから夜中の学校の洗面所にこだまするあの怖いポトーンポトーンという音のことかと思ったのである。

ところが、「物理の散歩道」を読んでみるとおよそそんなこととはまったく関係のない話であった。

増幅されるものは「音」に限らない。例えば、人の感覚では感じない小さい変化を大きくして伝えるセンサーのようなものだって増幅装置と言えるのである。

「蛇口からしたたり落ちる水」、これがどういう状態の水なのかといえば、実はこうである。

まず、蛇口をひねって勢いよく水を出す。それから徐々に蛇口を閉じていくと、蛇口と流し台の間に出来る水の柱は次第に細くなり、やがて落ちてくる水の勢いが弱まると水の柱は中間から見え方が銀色に変わり、だんだんに下の方から切れて水玉(水の表面張力が勝ると)になりはじめ、ポトポトしたたり落ちた末に蛇口を閉め切ると水は止まる。それでもパッキンがいかれていたりすると水は蛇口から少しずつにじんで、それが表面張力でいったんは貯まって丸くなろうとするが自重に絶えきれず落ちて規則的な音を響かせる。

「増幅装置の最も原始的な形」といっているのは、この一連の動作の中の極めて微妙な一瞬、つまり「蛇口を閉めていって、流し台との間に出来た水柱の下の部分に水玉が出来るか出来ないかという微妙なシタタリオチル(=とは表現しないはずだが)状態」の水柱が増幅装置になるという実験の話なのだ。

この状態の水柱は、外からの音や振動によって見かけの状態が微妙に変化する。一方、電子機器の増幅装置は、弱い電気を強い電気に変えるとか、電子の流れを切ったりつないだり、あるいは電波を強めたり変化させたりしている。このモデルと水の柱のふるまいを近似していると見て、それを検証するプロセスが書かれている、というのが大まかにいえば、その内容であった。

ただし、コヒーラーとかカーボンマイクロフォンとかの構造と機能、真空管やトランジスタ(半導体は未だ話題になっていない)の機能についての説明は、やや専門的で分かりやすいとは言いがたい。電気や電子、増幅器の基本的な知識が乏しい文系頭には、正直なところ、さほど感動的ということはなかった。

紹介するなら「線香花火」のほうがよかった。ぱちぱちはじける火花の中で何が起きているか、関心があるのは僕だけじゃないような気がする。こよりの先に火をつけてからあたりに彼岸花の咲いたような最高潮、次第に弱くなってぱやぱやと消えていく一連の流れ。最後に火の玉だけになっても容易に落ちないのは何故なのか?化学式を使って、解説する技にはさすがと思わせるものがある。

欲を言うと、そもそも較べるのはナンセンスかも知れないが、寺田寅彦の随筆は、ずぶの素人にも分かりやすいし、文章に味わいがあってこっちも同時に読むのを僕なら薦める。

別に難癖を付けているわけではない。「かつての知性」だから説明がややぞんざいになっても仕方あるまい。(呉智英さんに許された紙数が少なすぎた。)

それよりも、この本を推薦した最も大きな理由は、ここに宿っている精神が「反知性主義」の「旧来の知の権威への反発と平等の理念」とはいささか異なったものにならざるを得ないという皮肉に気づいて欲しいというものであった。

「私はこの種の科学エッセイが好きであった。『分かること』が好きだったからである。これは『分からせる』ことと対になっている。つまり啓蒙主義である。もちろん、啓蒙は一億万民に対して可能なのではない。啓蒙は啓蒙可能な人に対してのみ可能であるその意味で、実は閉鎖主義でありエリート主義である。」

背後に知性が感じられない「反知性主義」などというものが何ほどのものか、と言っているのである。もっともな話である。

それなら、反知性主義といわず、実質をともなわない知識偏重である知識主義に対して反知識主義とでもいいかえたらよろしかろうと思うのだが、「反知識主義に陥らないための」となったら今度は知識主義がイイとなって何処までも矛盾するのである。

元々の英語、Anti-intellectualismを反知性主義と翻訳したときからの混乱ではないかと思うのだが、その本家本元、米国におけるAnti-intellectualismが何か、確かめておこう。

橋爪大三郎さんがこの「・・・・・・必読書70冊」で推奨していているのが森本あんりの『反知性主義』である。

この本によると、反知性主義には米国移民がはじまった頃の宗教事情に背景があるといっている。

どういうことか?

「カルヴァン派の敬虔な人々が上陸したニューイングランドで、信仰をともにする人々が、視える聖徒(ビジブル・セイント)の社会を構成した。信仰が視える(観察可能)とは、とても大胆な仮定である。信仰は、神の恩恵なので、自分の努力で手に入れることが出来ない。信仰は神からやってくる。その「回心」体験が得られない人々は、半途契約(ハーフウエイ・コブナント)を結び半人前の扱いに甘んじた。

教会の牧師の説教は、人々を信仰に導くか?

大学でヘブライ語やギリシャ語を学び、聖書学や神学に詳しいインテリの牧師は、理屈っぽくて、説教がつまらない。一方、学歴もなく経歴も怪しげな巡回説教師、話術が巧みで、聴衆は涙を流し感動に打ち震えるようやく回心を経験する人々も続出する。

これこそイエスの望んだ福音宣教ではないのか。信仰に役立たない、知性主義の牧師はダメ。教養や専門知識ではなく、普通の人々の常識が、この社会をつくり、この国を支える。アメリカ建国の理念、自由と民主主義の土となるのが、もともとの反知性主義なのである。」

これに対して、フランスは革命によって信仰ではなく哲学と理性が善いものになった。だからアメリカのような反知性主義のための場所がない。教養や専門知識を欠いた一般大衆は、発言権がない。日本も同じ、理性主義だ。マルクス主義=共産党にも反知性主義の場所はない。すると、硬直した官僚支配にならざるを得なくなる。

橋爪先生は、それに対応するには、一般社会の常識にのっとって物事を進めていますか?と素朴に問いを投げかけることではないか。反知性主義は、知性に対する感情的な反発、のことではない。知性と反知性主義のベストミックスを、生み出す知恵を望みたい、と実にもっともなことを言っている。

ここでも、我が国における反知性主義の騒ぎは一体何なのだ、という疑問が提出されている。

どうやら結論が出たと思うのでここらで止めようと思ったが、最後にこの米国建国の頃の牧師の話を思い出したので書いておかう。

以前書いた劇評「るつぼ」のことである。

アーサーミラーの代表作で、メイフラワーから少したった十七世紀の終わりごろにマサチューセッツ州セイラムで起きた魔女狩りが題材になっている。

物語の発端を僕は劇評の中でこう説明した。

「劇の中で明らかになっていったことを縫い合わせると、 事の発端は、村の少女たちが夜中密かに森の中に集まって、降霊会に似た遊びをしているところを一人の大人に見とがめられたことであった。

娘たちと同齢の男の噂話に熱中しているうちに興奮して裸になるものや中にいた黒人奴隷が見知っていたブードゥー教の儀式のまねごとに興じるなど、少女たちは背徳的な行為と知りながらピューリタン的禁欲の抑圧的な日常から解放される快感に酔い、騒いでいた。リーダーはアビゲイルという頭の切れる美しい17才の少女である。

それを村の教会のパリス牧師(檀臣幸)に見つかってしまったのだ。

少女たちは散り散りにその場から去った。

気を失った十歳になるパリス牧師の娘ベティ(奥泉まきは)が、取り残されていた。」

このハリス牧師が、魔女など何処にも存在せず、少女たちのバカ騒ぎにすぎないことを百も承知しながら、村人の実力者のいいなりなってしまったわけがあった。

「・・・・・・ともかく年端のゆかない二人の少女が一種のショック状態なのだと分かっているパリス牧師が、躍起になって火消しを図ろうとする。最初は、悪魔などいないという冷静な態度であった。

ただし、森の中で見た事実を言うわけにはいかない。自分の身内がかかわっているからだ。それに、パリス牧師はセイラムで問題を抱えていた。この商人あがりの牧師は、 ハーヴァード出のインテリなのによそ者だからといって尊敬されていなかった。

さらに、村の実力者パットナムが、以前身内をこの教会の牧師にしようとして失敗したことから、パリス牧師を快く思っていないことを知っている。

かねてより村との約束と食い違う、牧師としての待遇に自分が不満を持っていることは村人も周知であったから、口実さえあればいつでも教会を追われる危険があった。」

米国社会で、いまでもハーヴァード出の牧師がそういう扱いをされるのかどうかは知らない。

しかし、当時は明らかな「高学歴」でも一目置かれる、なんてことがなかったのがこれで見て取れる。

僕は、パリス牧師が何故これほど説得力がないのか実は不思議に思っていたが、米国における「反知性主義」が隠れていたとは知らなかった。

いずれにしても、我が国のWeb上の言論が反知性主義であるとしても、攻撃されている知性主義のほうがサッパリみえてこないのは、橋爪先生が言うとおり、「反知性主義は、知性に対する感情的な反発」に過ぎないのではないかという気がする。感情的な反発には適当な対応方法があるだろう。

それを大まじめに扱っているふりをする我が国の出版界は、たいした詐欺師である。

(Webの匿名性=無責任を指摘した手前、本名を出さざるを得なくなった。迷惑をかけたとしたらここで誤っておかないと。ごめんな。中澤君。)

 

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