カテゴリー「映画・テレビ」の13件の記事

2020年1月30日 (木)

映画「天才作家の妻-40年目の真実-」を見た。

Thewife体調が悪く、ぐったりしながら、他にやる事もないので、久しぶりに映画を見た。長いタイトルだが原題は「The Wife」(2017年)と短い。
 
ノーベル文学賞授賞の知らせを受けた米国の作家ジョセフ(ジョナサン・プライスが妻のジョーン(グレン・クローズ)を伴って、ストックホルムへ出かける話。コンコルドが飛んでいる時期だから少なくとも今から二十年ほど前の設定なのだろう。
実は、ジョセフの作品は妻との共作、というよりもそのほとんどを妻のジョーンが書いていた。ジョーンとしてはかなり複雑な気持ちである。ジョセフの度重なる浮気のストレスをぶつけてできた作品群がノーベル賞をとったのだ。もちろん今更本当のことを言うわけにいかない。
で、授賞式のスピーチでジョセフが「私の作品は妻なしには出来なかった。妻に感謝している。妻は私のミューズだ。」などと持ち上げたものだからジョーンは切れてしまって、晩餐会の席を蹴ってホテルに帰ってしまう。ジョセフは妻が何に怒っているのか見当もつかずおろおろしているうちに心臓発作であっさり逝ってしまう。
つまり、ざっと、こんな話である。
ノーベル賞授賞式前後の様子が事細かく描かれていて、「へえ、こんな風にスエーデンは受賞者をもてなすのか」と感心する場面もある。
ところで、伝記作家らしいナサニエル・ボーン(クリスチャン・スレーター)という男が付き纏い、事実を知っているというそぶりを示すのだが、ジョーンは取り合わない。そんなことを書いたら訴えることになると毅然として否定する。
まあ、それをバラしたところで誰も得しないのだからジョーンも賢明である。
 
と、ここまで書いて、この映画を見たノーベル文学賞の選考委員たちはどう思うだろうか、ということが気になり出した。
自分たちが選んだ作家の作品は、本人が書いていたわけではなかった。伝記作家が怪しいと追っかけていたにもかかわらず、それに気がついていない選考委員たちは完全にコケにされているわけだ。
この程度のおつむと調査能力の選考委員なら、村上春樹受賞を待望する皆さんも期待していいかもしれない。
スエーデン政府が製作にどこまで関与しているか分からないが、こんな話はありえないと抗議しなかったのだろうか。
まったく、これでアカデミー賞候補だって。米国人の頭って、実に単純にできているものだなあ。
 
ジョセフ夫妻の息子も作家の卵だが、父親が自分を評価していないことに不満で、ひねくれた態度というのも、この手の映画の設定によくある話で面白くもないし、要らぬエピソードだ。孫が生まれる話の方が微笑ましくて自然であった。
大体、米国人は偽作家という話がお好きなようで結構作られている。だが、話に無理がある場合が多く、これもその一つだった。
妻役のグレン・クローズがかなり評価されていたようだが、元来、僕はこの女優を嫌いだからということもあって、それほど感心しなかった。小説を書くような繊細な気質を感じないからだ。若い頃のジョーンをやった女優の面差しがなんとなくグレン・クローズに似てると思ったら、実の娘だった。アメリカ映画には時々こういうことがあるので楽しい。
伝記作家が、ジョセフの浮気をよく知っていて、「男性作家はリビドーが強いものだ」とジョーンに言うところがある。
この間書いた劇評「私たちは何も知らない」で岩野泡鳴の妻について言及したが、たしか大江健三郎が「蛮勇」と評した岩野泡鳴を見ればそれはうなづける。岩野はリビドーで、がむしゃらに女を求め、そして書いたが、ジョセフは妻が書いている間に他所でリビドーを発揮していたことになる。



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2018年1月 3日 (水)

正月のTVは最悪だ!

暮れに罹った風邪が治らず、不快な正月を過ごしている。

TVの正月特番は、ほぼくだらないので見ないことにしているが、たまたま夜中に起きたら、人をだまし、落とし穴に誘い込んで、落ちたお笑い芸人を笑うというのをやっていた。芸人にはCMの撮影だと嘘を言ってある。何故そんな嘘をつくのかと言えば、通常の番組出演料なら数十万円程度だが、CMとなれば数百万円から上は一千万円台までにもなるから出演者が期待するからだ。張り切った末に、穴に落ちてCM話も大嘘の罠だと知った瞬間の表情をとらえて楽しませるという趣向だ。

落とし穴は、砂地を二メートルほどの深さまで掘って脇壁を固めた本格的なもので、重機を使って入念に仕上げないとできないものだ。

芸人を穴に誘導しても、なかなか都合良く落ちてくれない。さんざん連れ回してようやく落ちると芸人は何が起きたか気づいたあと、案の定、頭の片隅にあった札束が消えたという顔をする。それで一同がゲラゲラ笑うのである。

これを二三人やったあげく、今度はスタジオのステージにつくった落とし穴に、芸人を欺して立たせ、床を二つに割って落とすのだが、観客にはステージの下の空間が見えている。

落ちた瞬間僕には、公開絞首刑のように見えた。

落とし穴という悪ふざけはあってもいいが、欺された者を笑いものに仕立て、その心を一顧だにしない、こういう暴挙を子供も見ている公共の電波を使ってやっているのだ。

この番組の企画書を書いた者がいる。そして、それを面白いと思ったTV局の幹部がいる。その企画書を現場で制作するディレクターがいる。重機を手配して穴を掘らせ、丹念に落とし穴を仕上げた何人もの人間がいる。人を欺してそれを大勢で楽しむための、なんという暗い情熱!

こういう情熱を僕は心から憎む。

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2016年1月13日 (水)

映画「ブリッジ オブ スパイ」映画館でのマナーに一言

T01a_168276 久しぶりに映画館に行った。いわゆるシネマコンプレックスというやつでずいぶん便利になったが、映像は明らかにデジタル、でっかいテレビを大音響で見ているようなもので、味気ないことこの上ない。

それは今さら言っても仕方のないことだが、この間は我慢のならないことがあった。

「ブリッジ オブ スパイ」という映画で、ネット予約するときはすんなりいい席が取れてTVCMを流している割には混んでいないのが意外だった。ところが休日だったせいか予告編がはじまる頃には前6列ほどを残して一杯になった。

映画がはじまるまで、CM、予告編その他を延々と見せられる。

そのうち真後ろの席の男が、本人はつぶやいているつもりなのだろうが、よく聞こえる声で映画のストーリーと解説を隣の連れ合いらしき女に話し始めたのである。

僕はTVCMは見ていたが、スパイ映画は英国ものに限るという偏見の持ち主だから、スピルバーグとトム・ハンクスのならいずれDVDで見ればいいやと思っていたので、家人に誘われなければ出かける気はなかったのであった。

いわゆる「ネタバレ」というやつは何はともあれ、映画を見る楽しみを奪う最も悪辣な行為である。これを直前に頭の後ろでやられるので、直ちにやめて欲しいと思ったが、なかなかやめない。一度振り返って意思表示をしたつもりだったが、効果無し。まだ続けるので、完全に振り返って「ウルサイ!」と言ってやった。

しかし、ときすでに遅し。

おかげで僕の頭の中にはこれから見る映画の話の骨格はほぼできあがっていた。何がはじまるのかわくわく感が全くなくなったのである。

「あの野郎、ドタマかち割ってやろか!」

映画館でやる「映画泥棒」禁止のCMに「ネタばらし」禁止を付け加えることを提案する。

いや、「よけいな私語を慎む」ように注意喚起をした方がいいかもしれない。

というのも、「ネタばらし」夫婦の隣の夫婦もまたよけいなことをべらべらしゃべっているので、これにもむかむかきてしまったからだ。

前の席6列ほどあいていたと言ったが、実はなぜか一人だけぽつんと坐っていたのだ。前の席が見やすいやつだっているに違いない。隣近所に人がいなけりゃそんな気分のいいことはないだろう。

それを見つけたバカ夫婦は「あれは、映画関係者に違いない。なぜなら映画関係者はどんなときでも必ず前の席に座るものだ。」「ああ、そう。なぜ?」「だって、映画関係者は・・・・・・。」ばかばかしくて聞いていられないことでも、聞かなきゃならないつらさ。映画館には「何もしゃべるな」と言う注意書きを掲示して欲しい。

もう一つついでに言うが、あのポップコーンはやめて欲しい。もの食う音を聞きながら映画を見るのはごめんだ。

米国流がいいと思ってのことだろうが、あんなことは世界の田舎者がやることと心得よ、だ。

腹が立つことおびただしい。それもこれも、混み合っている映画を見に行くからだと思えば、CMなんかやってる映画には行かない方がいいということか。

で、肝心の映画の方はどうだったのか?

「スパイ映画ではなかった」と言うのが感想である。

あとで、コーエン兄弟の脚本だったと知って意外だった。史実を追いかけるのに必死でスピルバーグの映画らしく映画としてはちっとも面白くなかったからである。

導入部で保険屋の弁護士が、「五人の被害者がいても、保険は一つの事故を対象に支払われる」と主張するのが伏線になっているのだが、これを聞いてなるほどと思った。これが正しいかどうかではない。保険の学問的定義はどうなっているのかと考えさせられたからだ。

例えば日航ジャンボ機事故は、一件だが、500人がなくなった。500人の補償は損害保険でカバーし切れたのだろうか?保険会社は500人だろうが50人だろうが5人だろうが一件である、したがって一件いくらだからそれを山分けしろとでも主張したのか、そんなことが気になった。

それはともかく、一人のスパイとふたりの米国人を交換するのにソ連と東独、東独と西側という二つの関係をうまく利用して対象者三人を一件と見立てることに成功したというコンセプトであった。まるで米国流保険屋の論理が世界政治にも通じる正義なのだという考え方で、スピルバーグの頭がいかに単細胞かを示しているような映画といえる。

こういう単細胞が、中東を思い通りに出来ると考えたのだが、トランプのような「反知性主義」者があれだけ人気を得たことを考えれば、米国人は「世界」も「人間」ももう少し複雑に出来ている事を学ぶべきだ。

スパイ映画は英国ものに限るというのは、このあたりの機微に通じている英国人は、ずるがしこくてデリケートな手つきで「こと」を扱うことが得意だからだ。しかし彼らも残念なことに、もはや歴史の表舞台からは後退してしまった。米国も単細胞ゆえに後退しつつある。中国とロシアはどうか?彼らが覇権を握ることがあるとすれば、独裁が継続するという条件なしにはあり得ない。いずれにせよしばらくは混沌が続き・・・・・地球温暖化が進行し・・・・・・博士の異常な愛情がたかまり・・・・・・どっかで水爆が破裂し・・・・・・・

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2015年7月30日 (木)

映画「蟻の兵隊」を見た(2007年2月の再掲)

私の演劇時評 2015年7月30日

Ari_dvd 「戦後70年」の声が巷に囂しい。しかし、「戦後70年」なんてものにこだわっているのは、「歴史」を政治的に利用しようとする中国や朝鮮半島の政治家と日本のマスコミ・政治家ぐらいのもので、僕らにとっては、たいした意味を持ってはいない。

「過去の侵略を認め、痛切なる反省」を表明するのは結構だが、今の若者にとって「痛切な」反省をするためには、例えば夫が妻の出産を疑似体験してうんうんうなるというやうな、よほどの想像力を駆使し、アドレナリン総動員で感情の量を増やし「歴史的人間」たろうとがんばったって出来るかどうか怪しいものだ。

70年も経った過去は伝承されるより記録されることによってしか「歴史」にならないものなのである。

その「崇高な」目的のために、愚劣な消耗を強いる総力戦のばかばかしさや、他民族を600万人もせっせと抹殺することができる人間の摩訶不思議、核爆弾の悲惨にたいする恐怖、それらを十分に拡散して、少なくとも文明国にとって、「戦争の世紀」20世紀はすでに過去のものなったのである。

つまり、それの本質は「反省」にあるのではない。得体の知れない恐怖の連鎖、その懐疑ともたれ合いというパワーバランスによってとりあえず、かろうじて未来はぼんやり見えているという具合なのだ。

その証拠に、世界各地で未だに絶えない小競り合いで、ジェノサイドの思想はあったものの総力戦や核の使用については、かろうじて思いとどまるという「理性」が働いていたではないか。とはいえこの先も、「反省」と「理性」が機能すると考えるのは人がよすぎるというもので、、ひと皮むけば、人間てぇものは恐ろしいことをするものだと考えておいた方が、身の安全のためにはいいと、僕なぞは考えておる。こういえば、仲良くしようと努めることが戦争を回避する唯一の道だと、のたまう輩がいるが、そんなことはあたりまえだ。誰も争いを好むものなどいない。こういう子供じみたことを真面目に言うやつほど、腹に一物もっていると考えるのがわれわれおとなの態度というものだ。

僕らが高校生の頃は、戦争帰りの教師が多かった。年齢の構成上ほとんどそうだったと言っていい。

倫理・社会の教師は、天皇を「てんちゃん」と呼んで揶揄した。自分を戦場に駆り立てた憎むべき責任者という意味だ。日教組でやっていることはおくびにも出さなかったが。地学の教師は、フィリピンのジャングルを飢えて逃げ回っているとき、顔が半分欠けた死体を見つけてしばし見つめているうちに大笑いしたという話を時々した。いまでいうPTSDだったかも知れない。この教師は、母の戦死した弟と旧制中学の同級生であった。

社会(だったと思う)の教師は、中国大陸で将校だったらしい。授業中、突如「君ら、人の首をはねるには、どうするかわかるか?」と刀を構える恰好をして見せた。これにはさすがに、教室がしらけた。誰かが「ひとごろし〜!」と叫ぶと、教師は苦笑しながら、軍刀を収めるふりをした。

保健の教師は、中国大陸の奥地で諜報活動をしていた。日干し煉瓦で作った家に寄宿したが、その家では粘土質の土地を庭ほどの大きさに掘り下げ、その空間で家畜を飼っていた。トイレは、穴の隅に斜めに二枚の板を渡し、その上においた二枚の板のあいだにしゃがんで落とした、下には豚がいて、落としたものは直ちに彼らのえさになったと笑った。いかにもスパイらしいはしっこそうな教師であった。

彼らは、「痛切な反省」をしただろうか?

逆に、自分たちの行為は正しかったと思っていたか?

この二つに一つとする硬直した価値観を僕は憎む。

以下は、十分書き切れていると言いがたいが、映画批評である。見る機会があったら是非ご覧になったらいいと思って再掲した。(二回に分けて掲示したものを今回、一つにつなげてある。)

映画「蟻の兵隊」を見た

2007年2月14日

 

ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を見た。

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終戦時、中国山西省にいた北支那派遣軍第一軍59,000名のうち約2,600人が軍の命令でそのまま現地に残された。「天皇制護持。祖国復興。」がその理由であった。つまり、日本は一旦はポツダム宣言を受諾するが後日必ず復興する、その日まで兵力をこの地に温存しておく必要があるというものであった。

前年の11月、20歳で召集された早稲田専門学校生、奥村和一もその中にいた。彼らは、蒋介石国民党軍の一翼を担っていた現地の軍閥、閻錫山(えんしゃくざん)の軍に編入させられ八路軍(中国共産党人民解放軍)と戦った。

この国共内戦は四年におよんだ。その間、残留日本兵は550名が戦死、約700名が捕虜となった。奥村和一は迫撃砲弾を受けて重傷を負い人民解放軍の捕虜となって野戦病院で終戦を迎えるが、その後の党の「学習(思想改造のための教育)」を拒んだために水路工事、炭坑など重労働に従事させられ、ようやく帰国出来たのは5年後の昭和29年のことだった。

「中共帰り」はうさんくさく見られたため日雇いなどの仕事を転々、やがて早稲田大学第二商学部に編入した。同大を中退し、業界紙の記者、「中国展」開催の会社に勤務しているうち、自分たちは「現地除隊」となっていることに疑問を感じ、日本政府にこれを質した。帝国陸軍の命令で残留したと思っていたが、政府の記録は昭和二十一年三月除隊になっていた。しかもこれでは軍人恩給の対象とならない。そこで、名誉回復の是正を求めて、当時の戦友を集め軍人恩給訴訟を起こすことにした。

そしてこれを機に山西省残留兵問題として史料探しに取り組む。奥村は防衛庁史料閲覧室、都立日比谷図書館など各地の図書館で関係資料を収集した。さらに現地・山西省各地の公文書館や検察関係庁に出向き、真相の究明に挑んだ。

奥村には「残留命令」の証明の他にもう一つどうしても確かめたいことがあった。入隊まもなくの45年2月。「肝試し」と称する初年兵教育仕上げの刺突訓練があった。罪人とされた中国人を立たせ、銃剣で刺殺する。「怖くてたまらない。目をつむったまま当てずっぽうに刺す。古年兵に怒鳴られながら何度も刺突くうちに心臓に入った。『合格』」の声。」

罪人は何人もいて、中には将校によって首を刎ねられるものもいた。しかし、奥田はそれらをまともに見ることも出来ず、彼らがどんな罪に問われたのかさえ分からなかった。

この「人を殺した」ことが奥村の脳裏から離れない。あの時何が起きていたのか?奥村はそれを知りたいと思っていた。「現地除隊」の真相は防衛庁の資料からおおよそのことが推測されたが、現地に赴いて山西省の公文書館で資料をくくっているうちに軍閥閻錫山と北支那派遣軍司令官・澄田來四郎中将との間でかわされた「密約」を証明する文書が見つかった。

当時、澄田中将は降伏の相手である閻錫山に戦犯として捕らえられておりいつでも処刑の恐れがあった。共産軍との戦いに手を焼いていた閻錫山が日本軍を利用しようとして澄田に助命と引き換えに残留を持ちかける。澄田は全軍というわけに行かないが、一部ならかまわないと妥協した。こうして残留特務団が編成されることになったのである。

この部隊に対しては、第一軍によって軍務の細則まで決めた文書とともに「軍令」として正式に発令されている。これに対抗して共産軍が鉄道などを破壊したために、引き上げについては混乱を極めていた。この異常事態を察知したものがいる。

支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は昭和21年3月9日、南京から北京経由で空路山西省省都太原に入り、澄田将軍以下北支那派遣軍第一軍の中枢と会った。総司令部の命令に違反する特務団編成を二日間に渡って難詰し、直ちに全軍を内地に引き上げるよう伝えるが全く聞き入る気配がない。ここで宮崎中佐はむなしく帰還した。断腸の思いだったことが後に判明する。

澄田らは閻錫山に軟禁状態にされていたが、共産軍の勝利が決まった途端に残留特務団を置いたままさっさと内地に引き上げている。澄田は満州の利権に深くかかわっていたようで、これを知った米国が戦犯として訴追しなかったといわれている。

一方、奥村のもう一つの気掛かりであるが、乏しい記憶をたどってようやくあの処刑現場に 立つことが出来た。当時のことを知っている人々に会って話を聞くが、自分がその兵士であることを隠そうとしない。支那の人々もすでに代替わりになっている。あの時処刑されそうになって逃げた人の息子が現れ極めて冷静に状況を説明する。

ここには鉱山があって日本軍の守備隊が駐留していた。あるとき八路軍の夜襲があって、矢倉の上で見張りをしていた現地徴用の支那人が対応したが、八路軍に同胞同士戦うことはないと説得されて持ち場を離れたらしい。朝になって帰ってきたらスパイ容疑で捕まったというのである。奥村はあきれて開いた口がふさがらなかった。何故のこのこ帰ってきたのか?!

そして、他にも何人かの戦争体験者にあって話を聞く。当時16歳の少女だった女性は日本兵に親の目の前から連れ去られ、十数人に強姦された。父親が身代金を要求されて家を売って金を作った、と淡々と語る。しかしもう過ぎ去ったことだ、私たちは未来のことを考えていかなければならないと言う穏やかな表情が印象的だ。

また、現地の検察院に残された日本兵自身が残虐行為を告白した手書きの文書にも目を通す。戦友のものもあった。奥村はそれらの文書をコピーして持ち帰り、書いた本人に渡すのだが、あるものは全部記憶していると受け取ることを拒否し、あるものは読みふけってため息をつく。認知症の妻を介護する元将校、優しい老人である。戦争とは何か?兵士とは何か?それ以上に戦場とは何か?を考えさせる場面である。

ところで、訴訟はどうなったかといえば、最高裁までいって敗訴になった。不思議なことに判決文に判事の署名がなかった。どういうわけかと電話で訪ねると事務の若い女性が言うには「物理的に出来なかった」と言う応えであった。物理的とは転勤か何かで「いない」という意味かと問うと、「そんなところだ」という極めて曖昧な返事に奥村はそれ以上追求することに萎えてしまった。

当時を知る元将校の家を訪ねるが会うことを拒否され、雨の中を帰る「蟻」にされた元兵士。その目に一滴の涙も見せなかったのが、実に印象的だった。

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この映画が作られたきっかけは、ドキュメンタリー作家、池谷薫が「戦後60年」をテーマにした映像の素材を探していて、前・日中友好協会事務局長酒井誠からこの山西省残留兵士の話を紹介されたことによる。

訴訟の判決は平成17年でごく最近のことであるが、奥村和一が真相究明に動き出したのは1990年ごろからであり、防衛庁資料にはその以前に接触していたものと思われる。

現地の档安館(公文書館)で残留部隊である「暫編独立第十総隊」の「総隊長訓」と「総隊部服務規定」を発見するのは平成12年のことであり、この映画が撮影された平成14年には「再訪」ということになる。ここのところが惜しいなあと思う。この話が現地訪問の前にあったら、映画は俄然ドラマティックな展開になったはずである。

原一男の「ゆきゆきて神軍」は4年にわたる密着取材だったからあれだけの「発見」「驚き」があったが、これは話を「発見」するタイミングがよくなかった。ドキュメンタリー作家の 嗅覚に差があることは残念だが歴然である。だからといって、このあまり知られていない山西省残留部隊問題に世間の耳目を集めた手柄は十分評価していい。

さらに言えばこの映画の成功には偶然だったと思うが、奥村和一のキャラクターが幸いした。奥村は真相を追及することにおのれの実存を賭けた。

あの若い日の自分を追い込んだものは何だったのか?そこに80歳を超えた「現在」との落差はない。奥村にとってはあの日から一直線に現在があるのだ。そこに感傷が入る余地は無い。あるのは「俺は何ものか?」と言う空を切るような問い掛けだけである。

にもかかわらず、池谷薫の視点は甘い。それは動機が不純だったことに起因する。最初に「戦後60年」というテーマがあった。

現地取材中に、あまり脈絡なく日本兵に強姦されたという老女が登場する。「恨みはない。」と穏やかに話すのが支那人の大きさと感じたが、これは意図的に挿入したと思われる。「蟻の兵隊」は被害者であったが、加害者でもあったという紋切り型の図式を見せようとしたのである。「戦後60年」にふさわしいテーマだと思ったのだろう。

しかし、昔から被害者意識と加害者意識という議論はあった。こんなものが不毛なことは明らかである。どういう立場で見ようが侵略戦争とはそういうものだからだ。

奥村はじっと聴いていたが、謝罪の言葉も涙もなかった。池谷にとっては意外でもあり、意図に反した結果だったに違いない。奥村にはこの被害女性もまた同じように苛烈な現実に投げ込まれた言わば時代の子であった。

謝罪?いったいどこの誰に対して?そんなものは政治家に預けておけばいい。奥村は、検察院に残されていた日本兵の告白書の写しをもって帰った。あまりにも酷薄で残虐な内容が書かれていた。書いた本人に渡すが、奥村の表情は変らない。あえて言えば「これがお前のやったことで、おれたちは皆こんなことやったのだ。」といっているようである。ここでも池谷は旧日本軍を告発することに失敗した。

やった本人が過去を持て余しているのは明らかだった。一方で、図らずも人間の執念のすさまじさを見せた場面があった。

支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は、昭和50年に国会でこの事件に関して証言を求められている。奥村は当然旧知である。訴訟の前後に95才でかくしゃくとした宮崎元中佐は画面に現れる。

あるとき宮崎入院の知らせを受けた奥村が新幹線で病院に向かうとすでに意識はなく死の床にいた。時々意識が戻ると付添の長女が言う。奥村は僅かに動いたところへ名乗って訴訟のことを報告しようとする。すると突然宮崎中佐がエビぞりになって起き上がろうとしながら、のどの奥底から「ウォーウォー」と叫ぶのである。おそらくあの太原での会見を思い出して必死に奥村に何かを伝えようとしているのだ。宮崎もまた、あの日、澄田将軍を説得出来なかったという「重い現実」を抱えて戦後の日々を生きてきたのであった。

この作品には山西省残留日本兵問題にかかわった人々は描かれているが、肝心の背景についてはほとんど説明がない。何故あんな奥地にまで陸軍は展開していたのか?あるいはその必要があったのか?処刑場となった鉱山はなんだったのか?閻錫山とは何ものか?についても知らないものには不親切であり、それがなければ蒋介石の国民党軍とはどんな性格のものだったかもわからない。

澄田将軍が戦犯として閻錫山に軟禁されていた事実についても説明がなければ不公平であろう。彼が我が国の軍隊を敵に売ったことは、軍人として命ごいをした卑怯千万の振るまいとともに許しがたいとしても。

戦争の記憶は風化していく。体験したものが亡くなっていくのだからそれに抗うことなど出来ない。つまりあの戦争は急速に歴史になっていくのである。歴史にいいも悪いもない。肝心なことはかくも人間とは愚かであることを知ること、そして、再び愚かなことを繰り返さないために歴史に学ぶこと、我々に出来ることはせいぜいそれだけである。751

 

2007年2月 8日 (木)

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2014年4月14日 (月)

佐々木孝丸と「代々木大山公園」の話(第二節)

 

佐々木孝丸が、雑司ヶ谷の秋田雨雀の家の近所から代々木に引っ越したのは「種まき社」同人となったころだから大正十年のことだったと思う。

 

「新しく借りた代々木の家は大山公園に近い三角橋のほとりで、庭なども相当に広く、門構えの、ひとり暮らしには勿体ないちょっとした中流むきの借家であった。」(佐々木孝丸「風雪新劇志」)

 

この「大山公園」が、二年前まで僕が二十年ほど暮らした笹塚の家から近い散歩コースになっていたために、「その借家がどのあたりにあったのか俄に興味を持った」と書いた。何しろ、あの「インターナショナル」が、翌大正十一年の秋、日本ではじめて歌われた「農家の藪」があった場所である。これが、四十五年前の学生が知っていたらみんなで石碑でも建てに行ったところかも知れないのだ。

 

その大山公園は、小田急線代々木上原の駅から北の方角、幡ヶ谷方面に登っていく坂道の途中にある。登り切ったところはT字路になって東京消防庁の訓練施設(消防学校の一部)に突き当たる。道は突き当たる手前を小さな橋で渡るのだが、川は暗渠になっているから、このT字路の信号機に「常盤橋」という看板が見えてもそこに橋があったか気づかないかもしれない。

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川というのは玉川上水のことである。

 

 

暗渠の上はずーっと緑道になって、幡ヶ谷ー初台方面にのびている。

 

はて、「三角橋」はどのあたりにあるのかしら?と思ってざっと調べてみたが、玉川上水をたどってみても見つからない。

 

「三角橋のほとり」という以上は、川がなければならない。では、大山公園の付近に玉川上水以外の川が流れているのか?

あのあたりをくまなく歩いたわけではないから外に川があるのかも知れないと思って、目を皿のようにして地図を見たが、大山公園のあたりに玉川上水の外、川など見つからない。

これはおかしいと思って、「もとい」とばかり、笹塚から詳細に玉川上水を追いかけて見ることにした。

 

玉川上水は、代田橋方面から笹塚駅の南に向かって、家の軒先が触れるような住宅地の間を流れてくる。途中、開渠になっているところがあって、人ひとりようやく通れる小道から金網越しに覗くと錦鯉が悠然と泳いでいるのが見える。結構な水量と透明な流れにはこの川は今も生きているというちょっとした感動を覚えるものだ。

 

駅近くに来るとさすがに暗渠になっていて、これが南口に突き当たらんばかりに近づいたとたん、北東に向かっていた流れを俄にV字ターンとばかり、真南へ変える。変えてすぐに、京王線と平行して通っている一方通行路にかかった橋、これを「第三号橋」というらしいが、その下を出たところで再び開渠となる。

 

ここから百七十メートルばかり、雑草の生えた土手の間をか細い流れが南に向かっている。土手に桜の木が何本かあって、春になると一時花やかになるが、すぐに草が生い茂りとても「さらさら行く小川」(あの童謡はこのあたりの風景を歌ったものらしい、と近所の誰かが言っていた。)という風情ではない。駅の手前では錦鯉が泳いでいるというのに、どういうわけかここまで来る間に流れはずいぶんやせ細ってしまう。

 

金網で仕切られている土手の両側に道はあるが、西側の小道は途中から車が通れないほど狭くなっていて、僕の住んだ家はその先にあった。駅から歩いてせいぜい五分程度である。桜が終わってしばらくすると土手の草を刈る機械のきーんと言う音が聞こえて、緑色の生臭いにおいが漂ってくる。雑草の生命力は相当なもので、放っておけば、川面が見えないどころか、下手をすると小動物が住み着いてジャングル状態になりかねない勢いである。

この音とにおいが漂ってくると、ああ、今年ももうすぐ夏だなあと言う感慨がわいたものだ。

家の前の道を南に向かうとまもなくT字路に突き当たる。その左に、昔は結構な門構えの屋敷があって、古い木造家屋の屋根とうっそうとした庭木の人気のない様子が塀越しに見えた。聞けば、持ち主はどこぞの大名につながる家系の裔らしく、老婦人がひとり住んでいるという噂はあったが、その近くに僕が住み始めてまもなく機械が入ってあっという間に取り壊されてしまった。

川と隣接している跡地には、八階建ての立派なマンションが建って、分譲がはじまったと思ったらすぐに完売してしまった。何しろ駅から近いのが取り柄である。

 

T字路からこのマンションを左に見て少し東に進むと「笹塚橋」を渡る。駅近くの「第三号橋」から開渠というのは、この「笹塚橋」から二、三十メートルほど先までである。「笹塚橋」に立って下流をながめると、流れは鉄格子で仕切られた暗闇のむこうに消えている。

右側の一角が階段になって土手の下におりることができるのだが、入り口の鉄柵には鍵がかかっている。この部分を地図で見ると、ちょうどこの階段にあたる右側三分の一程度が、不思議なことに水が流れていることになっている。つまり地図によると、階段がなく、その少し先まで開渠ということになっているのだ。そのため、左側の暗渠に入る流れと、地図で見る右の流れが二筋あるように見える。 何故、グーグルマップがこうなっているのかはわからないが、右の階段のコンクリートが比較的新しいところを見ると、最近になって、この二手に分かれる流れの一方を階段でふさいだのかも知れない。

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すぐ近所に暮らしていたのに、そんなことにはまったく関心がなかったから、この橋を通るたびに、ただ、薄暗い暗渠の入り口をどんよりとした印象で見ていただけだった。

 

玉川上水は「笹塚橋」をくぐったとたん、渋谷区笹塚一丁目から世田谷区北沢五丁目へと地番を変える。つまり「笹塚橋」を渡る狭い一方通行路が区の境界線になっているのである。

そこから上水の西側は、金網の近くまで住宅が迫ってきていて、人ひとりが通れる小道がついているだけだ。東側も金網で仕切られているが、車の往来はできる狭い道路になっている。(この道は午後三時から七時までの間、僕の家に帰る唯一の迂回路になる)玉川上水の上は、蓋をした分だけまわりより一段高くなって、植栽も目立たず、殺風景な印象の土におおわれた通路である。ただ、夏になると上水と平行して通る北五商店街から中野通方面に抜ける橋のたもとに、櫓がかかり、商店街主催(だろうと推察するが)の盆踊りがあったりして多少賑やかになる。ただし、この商店街自身が商店街を名乗るにはおこがましいほど店数もなく、あたりは人影も少ない、いたって地味なところだ。

 

この橋は、世田谷区と渋谷区を結ぶ重要な橋なのに、何故かどこを探しても名称がない。名無しの橋である。

上水はさらに南下して井の頭通り方面に向かう。西側はびっしりと住宅が並び、上水を東西に横切る橋はどこにも見あたらない。名無しの橋から先「玉川上水第二緑道」の東側は狭くなって歩道が伸びているだけである。やがて、広大な特別養護老人ホームの裏をまわって進むと緑道は不意に中野通に出てこれを東に向けて渡る。つまり玉川上水は、井の頭通りの大山交差点方面へ抜けると見せかけて、その手前を今度は北東方面にUターンするのである。

 

最近、二十年以上も通っている歯医者に行く用が出来て久しぶりに笹塚に行ったついでにここを歩いてみた。余談だが、二十年かかって、僕の歯の大半を抜いてくれた(頼んだわけじゃないが)歯医者だから今さら変える気にもならない。愛想はないが電車賃が気にならないほど腕はたしかで、昔百万もかけて入れた金属を、なんじゃこれは!とこともなげにべりべりはがし、どこかにやってしまったが、そのあと費用は驚くほど安いから文句は言えない。

それで、第二緑道を歩くと、両側は車が通らないから静かで何となくのんびりした気分になる。ちょうど特別養護老人ホームの裏手にあたるところに看板が出ていて、トイレは老人ホームの中にあるからそこでやってくれと書いてある。

のんびりついでに用を足したくなっていたので、その老人ホームとやらがどんなところか覗いてやろうという好奇心満々で裏口の大きな自動扉を開けて入った。こういうところは金持ちの終の棲家だから、防犯はしっかりしているはずだと思っていたが、とおりすがりのものがトイレを借りに入っても、誰も関心を持たないらしい。

 

それにしても、実にゆったりとした設計で、運動のマシンが様々揃っている空間があったり、職員のいるスペースにも余裕が感じられる。居住施設は二階にあるのだろう、昼寝の時間だったからかも知れないが、老人の姿はほとんど見えなかった。こんなところで何不自由なく老後をすごせたらなんぼか楽だろう、なあんて全然思わなかった。こういうところは、老人だらけで不愉快なだけだ。親の面倒を見たくない子供にとっては、願ってもない施設だろう。

 

もとい。

第二緑道の出口、中野通から幡ヶ谷方面に向かう道の交差点に「五条橋」とあるのは、そこに玉川上水を渡る橋があるからだ。ただし、橋らしきものは見あたらず、中野通りを渡ったところに石の柱が二本立っているのは「北沢橋」のなごりで、その向こうに「四条橋」があり、「五条橋」は次に大山町の住宅街から延びてくる道にかかっている。さらに「六条橋」があって、次が代々木大山公園から登ってくるT字路にかかった橋、あの最初に書いた交差点「常盤橋」である。

 

代々木大山公園のあたりは、もともと国有地だったのか、かつては高等師範学校時代かあるいは東京教育大になってからか、その体育学部があったところに国際協力機構(JICA)の施設や独立行政法人「製品評価技術基盤機構」それに東京消防庁の消防学校やらその寮、グランドなどの施設ができている。また、背後には江戸時代からあったという火葬場の場所に、いまは立派な代々幡斎場の建物がたっていて、住宅が密集している間に忽然と姿を現すのには意外の観がある。

 

JICAの宿泊施設の前の道が玉川上水を渡るは「相生橋」、その先代々幡斎場へ向かう道にかかっている橋は「代々幡橋」、さらに西原小学校に突き当たる道にかかっている「山下橋」(この橋は山下汽船に由来する)次に上水を渡るだけの「美寿々橋」、そして、京王線「幡ヶ谷」駅方面から来る道にかかっているのが「二字橋」と続いて、玉川上水は甲州街道沿いを初台方面に向かっていく。

 

佐々木孝丸が「大山公園にほど近い三角橋」と言っているのが、幡ヶ谷をこえるとさすがに「ほど遠く」なってしまって、それ以上調べてみたが、「三角橋」は新宿に至るまで現れなかった。

 

ところで、話を元へ戻すようで恐縮だが、笹塚駅目指して流れてきた玉川上水が、突然真南にV字ターンするのを、長年そのすぐそばに暮らしていたというのに不思議とも何とも思っていなかったのが、この「三角橋」探索を機会に「何故か?」と思うようになった。

そう思ってみると、そのわけはすぐに判明した。

笹塚駅を北に出ると、すぐに甲州街道である。この甲州街道に立って新宿方面をみるとかなりの坂道を下ることがわかる。道はどんどん下がって、やがて中野通との交差点、幡ヶ谷と接するところが最も低くなり、それから先はまた東に向かって上り坂になるのだ。甲州街道本線は、この低地に高架を渡して中野通と立体交差している。そのくらいここはくぼんだ土地なのである。

 

この低地は、江戸時代から牛ヶ窪といわれたところで、この文を書くのに大いに参考にしたブログ「時空散歩」には、「この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。」とある。

 

たしかに、ここを通るたびに、「牛窪地蔵尊」と書かれた幟がはためいて、ビルの谷間にひっそりとしかし現代的なデザインのほこらがあったのは覚えていた。そこにこんな由来があったなど、二十年間知るよしもなかった。太古、北前船が停泊する東北の港町から風に吹かれてやってきたデラシネの目(僕の号は、あまり人には言っていないが「渟風」だ。)には、いつかどこかで見たようなぼんやりとした風景の一つに映っていた。

 

面白いことに、調べもだいぶ後になって、文明開化のあと、牛乳の需要が高まったことを受けて、このあたり一帯(たぶん、今の新宿中村屋の工場から幡ヶ谷の玉川上水北側あたりまで)には牧場が最盛期で十一もあって、毎日新鮮な牛乳を東京市中まで届けていたという。あくまでも、牛に縁がある土地らしい。

 

余談だが、僕が笹塚に移り住んだ頃は、この低地から中野通が甲州街道を越えて南側に延びてきたあと、まるで通せんぼをするようにぴたりと道一面に塀が立ちはだかっていた。つまり、中野通は行き止まりだったのである。

僕は、この道がいつまで経っても開通しないので、大いに迷惑を被った。塀の間から中を覗くと、家はとっくに立ち退いているらしいが、もっと先に問題があるのか整地すら進んでいない。

 

中央区にあった僕の事務所までいくのに、まず一方通行を中央区とは反対の方向に相当程度走ったあげく、違う道を同じくらい戻って甲州街道に出る必要があった。「行きはよいよい帰りは怖い」とはよくいったもので、帰りは一方通行で元の道を通れないから、今度は違う一方通行の狭い商店街を通ることになる。

 

ところが、この商店街は、午後三時から午後七時まで通行止めになる。コンクリートの土台にさした進入禁止のマークが道の真ん中におかれてムカッとくるほど愛想もなにもない。ここを通ったらわずか百メートル先に家があるというのに、である。

そうなると、中野通の塀の手前にあるまるで迷路のように細い道(車がすれ違うためには、他人の家に頭を突っ込まなければならない)を教習場のクランクよりはるかに難しいハンドルさばきで通って遠回りしなければ、我が家にはたどり着けないのである。

風邪で高熱を出しながら通ったときなど、ぼーっとしていたせいで道に張りだした電柱に車の横っ腹をこすったこともあるくらいだ。

 

これをずうっと迂回して例の大山公園から登ってくる「常盤橋」の方から戻る経路もあるが、当時は中野通がまだ工事中で(つまり塀の向こう)通るのが面倒だった。

たしか、2008年頃だったと思うが、これが大山の交差点まで開通して、実に立派な道路になった。ようやく、あの迷路に入り込まずによくなった上に、中央区にいくのに、井の頭通りに出て青山通りを行く方がよほどましで、渋滞にも遭わずにいけることが分かって、もっぱらこのルートを使うようになった。表参道を通るから気分がいいし……。

 

話を元へ戻そう。

玉川上水が笹塚駅に突き当たって南に進路を変えたのは、この牛ヶ窪があったせいである。甲州街道と中野通の交差点に水を溜めると南北に細長い楕円の池が出来るはずだ。玉川上水は、正確にその池の岸辺をたどり低地を回り込んでいたのである。

自然の川は、低いところを求めて流れるが、人工の川はそうは行かない。取水口の羽村から新宿大木戸まで十一里(43km)この間の高低差100m弱である。つまり1kmにつき僅か2mあまりを下げるという神業に近い土木工事である。窪地を避け、精妙ともいえる高低差を測って流すという難事業を一年もかけずに成し遂げたというから江戸時代の人々の技能がいかに優れていたかがわかる。しかし、夜、提灯をかざした人々を並べて土地の傾斜を測ったという言い伝えが残っているくらいで、実際にどうやったのかはよくわかっていないという。

 

さて、「三角橋」であるが、玉川上水にかかった橋でないとすると、このあたりに昔あった橋かも知れないと考えた。橋がある以上川がなければならない。すると川があった証拠が見つかれば手がかりになる。

そこで、グーグルマップで調べてみた。代々木大山公園は坂道の途中にあるといったが、たしかに、一帯は小田急線代々木上原駅北側に向けて傾斜している。駅は、南側が代々木上原というくらいだから高く、北側が渋谷区西原と渋谷区大山町に属する一段低い土地の境目、崖のようなところにある。

幡ヶ谷方面から西原の南にかけて住宅の間にいくつもそれらしき小道はあったが、暗渠であるかどうか判別できないし、あれは、高低差を知るにはほぼ役に立たない。

 

そのうちに、現在の住宅を取り除いた地形だけが分かる地図でもないかと探していたら、このあたり一帯は高台から南に向かっていくつか谷が切れ込んでいて、大山公園の裏手あたりが「狼谷」と呼ばれていたことが分かった。「牛ヶ窪」で股裂きの刑が行われていた頃この谷には狼がうろついていたというのだろう。その谷から幾筋かの小さな流れがわき出て、それが現在の代々木上原駅北側の低地に流れ込み、代々木上原の台地に阻まれて現在の代々木八幡の駅方向に集まり「宇田川」となって渋谷に流れ、やがて「渋谷川」となったらしい。

してみると、JICAの施設の中庭とおぼしきところに池が見えるが、それがここに言うわき水かも知れないと思った。

とはいえ、谷から湧いて出る川などわざわざ橋を架けるほどの流れになるだろうか?跨いでも通れるくらいの流れに橋を架けてご大層に「三角橋」など名付けるものだろうか?「三角橋のほとり」といかにも立派な具体的な橋が存在していそうな表現なのだ。

 

この頃になって、どうも俺は方向違いをおこしているらしいと思うようになった。

というのも、「三角」はどこかで見た記憶があったからだ。「三角」の次が「橋」だったかどうか覚えていなかったが、交差点の標識であった。ならば、調べはつきそうなものだ。と考えたとたん、「三角」の場所を思い出した。

 

山手通りを目黒方面から笹塚に向かって帰るとき、途中松濤あたりの三叉路から左へ向かって小田急線東北沢駅に向かう道がある。長い間、地下に高速道路を通す工事が続いてよく渋滞した場所である。左折してまもなく日本近代文学館、旧前田侯爵邸の門がみえる。通りの右側は、代々木上原二丁目で、左は目黒区駒場。まっすぐ行くと少し道が狭くなり右へカーブしている交差点があって、そこを進むと東北沢の駅脇にある小田急線の踏切を渡って井の頭通りに出る。

道が狭まるのと踏切を越えるのが難儀でここを通るのに躊躇することもあったが、なにしろ近道であった。

その難儀な場所に入り込む手前の交差点が「三角」なんとかであったことを思いだした。ところが、そんなところが佐々木孝丸が言っている「三角橋」であるはずはない。そのわけは、それが「三角橋」なら「代々木大山公園」はあまりにも遠いのだ。直線距離にしても800m以上はある。その間に小田急線の踏切があり、井の頭通りを跨いでさらに住宅街を突っ切っていくことになる。

「大山公園近くの三角橋」とあっさり書いているが、昔のひとの感覚でいったとしてもとても「近い」とは言えない距離がある。

それに、川がないではないか?

では「三角橋」の地名は何か川に関係しているのか?

 

この交差点は三叉路になっている。もう一つは井の頭線「池の上」駅に向かう細い商店街と交差しているのである。

いくら調べても、川に関する情報は出てこないし、商店街も三叉路だから「三角橋」なのだろうといういいかげんなことでお茶を濁している。

 

そんなことだから、とりあえず、大正十年頃にここ「三角橋」に立ったら「代々木大山公園」はどのあたりに見えて、それが「近い」と言えるほどの距離に感じるかどうか確かめることだと思った。

 

大正時代のこのあたりの地図を探し出すのはそう容易ではなかった。国土地理院が保管している大正十年の地図のうち「世田谷」の区分図に、うまい具合に対象の部分は含まれていた。それで確認しようとしたが、解像度が悪くて細かいところが分からない。国土地理院に赴くとコピーを購入できることになっているらしいが、九段まで行くのもおっくうだから取りあえず分かるところまで確認することにした。

 

その地図によると、代々木上原は山林の間に畑が点在し、家はまだまばらであった。小田原急行が営業を始めるのは昭和二年のことで、井の頭通りも和田堀の給水場から渋谷まで水道管を埋設する工事と、せっかく掘り返すのだからその上を道路にしようと言う計画が進行中で、まだそれらしい道ははっきりしていない。

 

家屋は、現在の代々木上原の駅の周辺の道沿いに何軒か建っていて、たしかに「三角橋」とおぼしきあたり(現在の上原二丁目あたり)に住宅の影がいくつか見える。道の向かい側の駒場には東京帝国大学農学部の校舎と農場が広がっているばかりで人が住んでいる気配はない。

汽車に乗って大きな町を離れていくと家屋が途切れ始めて田畑が目立つようになり、やがて家は田畑、山林の間に点々と見えてくるという。あの郊外から田舎にかけての風景が、代々木の高台に展開していたと言うことなのだろう。

 

大発見でもないが、現在の小田急線代々木上原駅の北側には建物らしきものはなにもなく、地図によればここは山林ばかりが広がっている。そのために等高線がはっきりと見え、あの、代々木大山公園を右に見て幡ヶ谷方面へ登っていく道路は両側の高台から落ち込んでくる谷筋に沿ってつけられていたのである。谷は東側からこの道の途中に合流するもう一本があって、昔、狼がうろうろしていたという狼谷はそのどちらかであっただろう。

いずれにせよ、今の大山公園にあたるところに少なくとも「公園」らしき場所は見あたらないのである。

 

すると、今の代々木大山公園はいつごろできたものか?

佐々木孝丸が大正十年に引っ越してきた「三角橋」がその渋谷区上原二丁目と目黒区駒場四丁目、それに世田谷区北沢一丁目の接触する三叉路付近であったとして、「大山公園に近い」と書いた当の「公園」はどこのことをいったのか?

それとも、「大山公園」が代々木の別の場所にあって、そこにほど近い「三角橋」が他にあるとでもいうのだろうか?

いくらなんでもそれはないだろう。

ひとまず「三角橋」はここだと決めつけなければ、話は進まない。

 

それで、大正十年に「代々木大山公園」の姿が見えない以上、現在の公園はいつできたものか?あちこち調べてみた。

すると、この公園はなんと、戦時中の昭和十八年に出来ていたのである。大正十年頃、「大山公園」は影も形もなかったのだ。しかもおかしなことに、この公園の地番は東京都渋谷区西原2丁目53-1なのだ。何故、「代々木西原公園」ではなく、通りの向かい側である大山町の名称をつけたのか、謎である。

 

それよりも、佐々木が言っている「大山公園」は、明らかにこの公園のことではなかったというのは大げさに言えばショックだった。「三角橋」がおおよそ見当ついたとたんに今度は「大山公園」が消えてしまったのである。

 

 

それで、やっかいなことに大正時代に遡って「大山公園」を探し出さねばならなくなった。「大山公園」と引けば、「代々木大山公園」ばかりがやたらに出てきて、らちが明かない。これは困ったとと思っていたら、何かの会社の沿革に「これが大山公園の跡」と言う記述に出会った。

 

それがまた大発見であった。

大山町を散歩で通ったり車で通ったりするときに実に不思議な大邸宅があった。一軒一軒は松濤よりやや小規模といっても高級住宅街で名の知られた町である。その中でもひときわ目を引く大きな屋敷があった。御影石を磨いたような立派な石材を十メートルは超えていそうに恐ろしく高く積み上げた塀に囲まれて、それが東西150メートル南北に100メートルもぐるりと廻っているのである。途中僅かに壁が入れ子になったようなところの奥に出入り口が見えるが、執事か女中でも密かに通る隠し扉のようで、他といったら360度まるでとりつく島がない。北西の端っこにあるひっそりとした玄関は数寄屋風で石造りの塀には不釣り合いだが、高額な固定資産税を払っている他人様の趣味に文句は言えない。それで表札は?と探しても無駄であった。

どうせ、枕を高くして寝られない悪党か金持ちが住んでいるに違いないと思っていた。

 

昔、荻窪に住んでいた頃、近所にうっそうとした木々に囲まれた大きな屋敷があって、石柱で出来た門構えと右翼の大立て者を思わせる表札が異様な威圧感を醸していた。今にも足駄に袴、白シャツ姿の書生が飛び出して、何の用だと因縁を付けられそうな気がしたものだ。

それに較べると、こっちは思想性は希薄でIT成金くらいの軽輩を思わせる構えで、因縁どころか、うろうろしているところを監視カメラで捉えられて、狙撃でもされそうな冷たく怖い雰囲気である。

 

この屋敷が、その昔大山公園だったところだというのである。

そうだと知って、いろいろ調べてみると、代々木上原の駅北西の窪地は「大山公園」の池があったところ、また、そこから五十メートルほど北に行った例の谷底にあたるところに、どういうわけか現在も場違いな交番があって、そこもまた池の跡だという記事にも出会った。

 

すると、この大邸宅というのは「大山公園」の中核部分に過ぎず、もっと広い範囲で公園になっていたのであろう。

そうか、佐々木孝丸が「代々木の大山公園」といったのは、その「公園」のことをいったのだ。佐々木が昭和三十六年、著書にそう書いたとき、別の「代々木大山公園」が渋谷区西原2丁目に存在することを知らなかったか、あるいは、大正年間に「大山公園」と言えば、ここのことを指しているのは自明であろうとしたものか?

いずれにしても、ここであったなら、「三角橋」からは500mくらいで、当時は小田急線も、井の頭通りも細々と出来たばかりで、住宅もまばらだったろうから、目と鼻の先といえるくらい「ほど近い」距離だったに違いない。ずいぶん紛らわしい書き方をしたものである。

 

それで、今度はこの「大山公園」がどういうものだったのかを調べにかかった。

取りあえず、どういう範囲に公園は広がっていたのか?

国土地理院所蔵の大正十年発行「世田谷」の地図には「大山公園」の記載はなく、このあたり一帯は家屋の影もなくただの山林を示しているに過ぎない。

そこで、大正時代の地図を他に探してみたら、測量は必ずしも正確ではなさそうだったが、20110602134218大正十年より少し前の地図が見つかった。

それによると、「場葬火」(現在の代々幡斎場)のすぐ下に「園山大」とあって、もしこれが「大山公園」の中心なら、現在の「代々木大山公園」にもかかっていることになる。しかし、大山町のあの大邸宅が中心だとするなら、この地図では、北側、つまり玉川上水寄りに偏りすぎていることになる。これはどう見ても適当に「大山園」はこのあたりと示したに過ぎないように思える。

いったい、この「大山園」はどの程度の広さがあったのか?この地図ではまったく不明であった。

 

ただ、ここで、一つ解決したことがある。

「三角橋」の下を川が流れていたのだ。

玉川上水は、現在の杉並区和泉のあたりにあった荻久保という低地を避けるために一旦代田橋寄りに流れを変え、ついで笹塚駅に突き当たってV字ターンで南下する。一旦開渠になって笹塚橋の向こうで再び暗渠になるが、その先で水路が別れ、一本は玉川上水、もう一本は北沢から三角橋方面にながれて農科大学の塀に沿って下っていくのである。

また、三角橋付近でもう一本池尻に向かって南下する水路も見られ、まさしく「三角橋」は川の三叉路でもあったのだ。

 

他にも、狼谷を水源として一旦代々木上原駅方向に流れ、谷に沿って代々木八幡方向に向かって宇田川となる川も確認できる。

あとになってブログ「時空散歩」でわかったのだが、笹塚橋の向こうで二手に分かれる水の流れは「三田用水」と言うらしい。

この「時空散歩」から引用する。(よく調べてあって感心した。)

 

「笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。

 

(註:グーグルマップの笹塚橋をこえて暗渠になる手前で流れが二手に分かれているように見えるのは、そのせいだったか?)

 

三田上水
 
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水

 

が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。

 

三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口>北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)>東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り>井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り>西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る>別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)>起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)>高輪3丁目交差点あたりで二つ

 

に分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。」

どうです。詳しいでしょう。

 

佐々木孝丸が住んだ「三角橋のほとり」は間違いなくここだと断定してよいだろう。Photo_20210108234001

 

そもそもこのあたりは江戸時代、将軍が鷹狩りをした場所で、駒場という地名はその馬をおいたことに由来するという。

ここから先は、「まちの記憶」(辻野京子、2003年8月、個人出版)に詳しいので、全面的に寄りかかって書くことにする。

 

明治になって、この一帯を木戸孝允が所有した。

「木戸孝允書翰集には、明治9年(1876年)12月の品川弥二郎宛ての手紙の中に「駒場、代々木合わせ八万坪ほどの地所二千七百にいたしもらい度云々」という下りがあり、『一昨年には三千円にもつき候ものが、値が下がり』と嘆いています。」

 

というわけで、桂小五郎も晩年には少々せこいことをいっていたようだが、ものの本によるとその後、青木周蔵に所有が移った。

青木は、ご案内の通り、大津事件の時の外務大臣で、演劇の方では三谷幸喜の「その場しのぎの男たち」で、滑稽で情けない男と描かれていたが、実際は陸奥宗光とともに不平等条約の改正に尽力した。

それより前、青木はドイツに医学留学し、後に専攻を法律と経済に変更したため召還されそうになったが、留学生は近代日本建設のために広く学問を吸収すべきという持論を展開し、ついには学生でありながらベルリン公使館の書記官、後に公使としてつとめた。

 

辻野京子さんは言う。

「彼は、当時ヨーロッパの貴族の大土地所有の事態を目の当たりにして、森林と荒蕪地によるプロシャ流農林業に感化され、折しも大名家の土地が放置されていた東京で、農場用にと土地の購入に努めました。」

なるほど、青木周蔵は、欧州貴族風農場経営をしたかったのだ。

 

ところが、辻野さんによると、

「実父三浦玄仲にあてた明治9年の書簡の中に「木戸家の地面は強く所望いたし候と言えども、い

 

ささか不都合に候間、決して不目立様にて~」とあり、結局この土地は青木周蔵の実弟、三浦泰輔のものになったようです。この人もドイツ農学校に留学し、帰国後、代々木村字富ヶ谷と上目黒村駒場に大農式農業、牧畜を行ったとされているからです。」

というわけで、青木周蔵はどうも手元不如意だったらしく、後に那須高原に土地を得て、望みを叶えたらしい。

 

この青木周蔵の弟、三浦泰輔がどういういきさつでこの土地を手放したものか不明だが、大正2年になって、鈴木善助なる人物がこの場所に広大な庭園をつくり一般に解放したのが「大山園」であった。

「大山園」がどんなものであったか、唯一残っている資料「東京府豊多摩郡誌」に次のような記述がある。

 

「代々木大山、西原に跨がり面積七万六千余坪、中央の庭園は二万坪に超え四周みな松林翆緑頗る濃やかに園内の楓桜春秋の色嫋やかなり、大正二年十月公衆のために解放して以来、園内三カ所に四阿を設け又到る所に休憩台を配し略ぼ公園の趣を成せり、夏期は南崖に男滝女滝をかけて銷暑に資す、蓋し郊外一日の清遊地たるを失はざるも、地やや僻して遊覧の客多からざるは惜しむべし。」

 

明治39年に開園した横浜本牧の「三渓園」と、自然を生かした景観は似たようなものだったと想像できるが、「大山園」はあれを上回る規模であった。

七万六千の平行根は約276、つまり二百七十六間=約500mである。現在の大山町と西原の一部を含む広大な公園が、あの「三角橋」の目と鼻の先にあったのだ。

 

鈴木善助がどういう来歴の持ち主か不明であるが、昭和10年には芝新門前町に住んで、まだ西原、新町にいくらか土地を所有していたようである。

鈴木のあと、紀伊徳川家の徳川頼倫をへて、大正の中頃には山下汽船の山下亀三郎が所有した。

山下は、浮沈の激しい事業家だったが第一次世界大戦の海運業で成功を収めたいわゆる船成金で、大山園を含む大山から西原にかけた十万坪を400万円で購入し、最初は城のような大邸宅を構えるつもりであったらしい。

しかし、自分の成金趣味を反省したのか途中で嫌になり、宅地として分譲することにした。

 

これが実現するのは、関東大震災のあと、都心から人が移り住むようになってからで、とりわけ昭和二年の小田急線開通によって加速された。

 

堤康次郎と山下亀二郎の関係はよくわからないが、大山町分譲は昭和十年から「コクド」と山下が組んで造成、販売が行われた。

 

山下は、閨閥を作るのに熱心でその関係は賢きあたりにまで及んでいたので「プリンス」が大好きな堤が近づいたのかも知れない。(というのはげすの勘ぐりか?)

それで「大山園」を何回かに分けて、分譲したのが今の渋谷区大山町だったのだ。現在の「代々木大山公園」は、その境界あたりになるから、ひょっとしたら、「大山園」の一部に含まれていたので、地

 

番は西原だが「大山園」に敬意を示す意味で名称を残したのかも知れない。

 

ところで、あの謎の大邸宅は、実は山下亀二郎が別邸とするために売らずに自分で確保した土地であった。

戦後、レバノン人の貿易商A・H・デビスの手に渡り、現在はなんと、某アパレル会社社長邸になっているということがわかって、長年のどにつかえていたものがとれたように感じている。

 

某アパレル会社は多数の店舗を構えているが、せいぜい二十代から三十代の店員ばかりで、年寄りというものを見かけたことがない。ということは、年をとると店舗からいなくなって、どこか別の事務所にでも行くのかと思ってみても、それは考えづらい。つまりは年寄りはきっとやめざるを得ないのだろうと

 

考えるのが自然だ。

案の定、この会社の離職率は相当高いと評判で、一説によるとブラック企業といわれているらしい。

こういう薄情な経営者は、やはり塀を高くして住まなきゃならないと思うものなのだろう。

新宿中村屋などとは格が違うといっても、なんだかむなしくなる世の中だ。どのみちさっさといなくなる身だからどうでもいいが、近頃この会社が日雇いの非正規社員を正社員にしたというニュースを耳にして、たまにはいいこともするものだと思った。

儲けた金をせっせと社員に配って、厚生年金も保険も負担しなければ、そのうち豪邸にも住めなくなる(かもしれない)とおそれをなしたのか?

そう、儲けを配らねば資本主義はやっていけないことを政府も認める時代だ。

 

佐々木孝丸が、「立て!飢えたるものよ……」と代々木大山公園近くの農家の藪のなかでうたった時代とは隔世の感がある。

その農家がどのあたりにあったかという関心から出発した過去への旅だったが、「大山園」があまりに大きく広かったために、また、わずか百年にも満たない間のあまりの変わりように、近代とは我々日本人にとって何であったかという思いに茫然とたじろいでいる。

 

 

一時期は、金で何でも買えるとか、会社は株主のものとか、時価総額とかうかれたこともあったが、それがつまらぬ考えだとわかったのか、経済学者とか評論家とかがTVに登場することも少なくなったのはいいことだ。

何が起きるか分からないが、ただ、この先、再び「飢えたるもの」が出ない世の中であって欲しいと願うばかりである。

 

 

 

 

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2014年3月 8日 (土)

佐々木孝丸と「代々木大山公園」の話

 

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「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの (くりかえし)」

 

できあがったばかりの訳詞に節を付けて、大正期の若者たちが、はじめて、それも密かに声に出したのは、「代々木大山公園」近くの藪の中だったと、翻訳した俳優、佐々木孝丸が書いている。(あとで、本人の記述を紹介しよう。ちなみに写真は、滝沢修が飲み屋で撮ったスナップ)

 

 

この間「警告ラーメン屋の話」の中で、佐々木孝丸の自伝「風雪新劇志」を探していたが、結局、目星を付けていた神保町の古本屋では売れてしまって、目に出来なかったと書いた。

鹿島茂の「昭和怪優伝」の中で佐々木孝丸が取り上げられていたのを懐かしく思い、とりわけその経歴に驚いて詳しく知りたいと思うようになったからだ。

どうしても読みたいと思って、あれから、登録している都内やいま住んでいる市の図書館を調べたが、俳優の自伝は、どうせ代筆だろうとかファンでもなければ関心もなかろうとあまり重要視されないのか、しかも昭和三十年代発行の古い本だからどこにも見つからない。

 

諦めかけていたところ、どうせないに決まっている、ダメ元だと思って神奈川県立図書館の蔵書検

 

索をしたら、なんと、あった!

この図書館は、見かけは地味だが、以前、どこにもおいてなかった戯曲を見つけ出したところで、神奈川県広しと言えどもたった一館しかないのに収集図書には意外性がある。ところが、ここに行くには桜木町の駅からえっちらおっちら相当な高低差の山登りをしなければならないから、おっくうだ。だから、利用者も少ないのではないかと勝手な読みをしているが、穴場である。

(一体に、この横浜とか川崎という町は、被疑者に取調室からの逃亡を易々と許してしまう失態に見るように、官公庁の建物に金をかけないのは見上げたものだが、その分官僚的・権威主義的で「公僕」が住民サービスをしようとする気配などさらさら見えてこないところだ。多摩川を隔てると、こうも違うものかと東京都との落差に唖然とさせられる日々である。)

 

それで、ようやく借りだして読んだが、これはただの自伝ではなかった。島村抱月や松井須磨子、川上貞奴など新劇の黎明期の後を受け、大正から昭和にかけて、発展していく日本の演劇史そのものであるばかりか、左翼運動史、あるいは出版文壇史でもあった。

 

佐々木孝丸の出演作や履歴については「昭和怪優伝」で、上手くまとめられているからそちらを読んでいただいた方が早い。また、ナップとかプロップの戦前の左翼芸術運動の現場が活写されていて、これは鹿島茂の興味の対象からずれている分、僕が書き留めておく意味はあると思うが、そんなものに関心がある人は今時いるものか、とも思うので、紹介したいエピソードは多々あっても、面白がってくれる人が果たしているだろうか。

 

ただ、佐々木が生を受けてものごころつく頃から世に出て行く時代、その中の人々の交わりが、いかにもこころやさしく情熱的であったかを少しばかりうらやましい気持ちとともに書き留めておいてもいいだろうと思った。日露戦争が終わり、日本人が自信を深めつつあった頃、それから長い戦争に入っていく昭和初年までの十数年あまり、日本近代史に束の間訪れた青嵐の風が佐々木孝丸の周辺にも渦巻いていたのである。

 

 

何はともあれ、佐々木孝丸が、演劇の世界へ入ったきっかけがなかなかユニークなので、鹿島茂の「怪優伝」と重複は怖れず、それだけは取り急ぎ紹介しておこうと思う。

 

 

佐々木孝丸は、明治三十一年(1898年)北海道釧路の奥にある監獄の教誨師をしていた真宗の僧侶の三男として生まれた。(ここで鹿島茂は、なんと彼は19世紀の人だったのだ、と驚いている)七才になった日露戦争のさ中に、父親が讃岐の寺を継ぐことになって故郷へ戻った。十一代続いた世襲の寺であったが、檀家も少なく家は豊かではなかった。高等小学校を出ると、上の学校に行くのは許されず、京都の本山にやられて、新門跡附きのお小姓のようなことをやりながら宗門の夜学に通った。

 

そのままいけば、本山の役僧ぐらいなところで一生を終わることになっていたかも知れないが、慣れるにつれて「生き仏さま」たち一族の乱脈きわまる生活ぶりに愛想が尽き、一年そこそこで四国に逃げ帰った。

隣村の叔父の寺に手伝いにやらされて、そこの一人娘のいとこと一緒になって寺を継ぐと決められた自分の将来に承服できず、いとこに惹かれる気はあったが、ジレンマに陥って、毎日やけくそでお経をあげていた。

 

そんななか、大正二年(1913年)村の郵便局で「通信生募集」のポスターを見た。トン・ツー・トンの電信係である。修行期間は六ヶ月で、その間一切官費、卒業後は通信事務員として採用、判任官、高等官への立身の道がひらかれている。即座に決心し、親には内緒で高松へ出てこっそり試験を受けた。まもなく合格通知が来て、父親に打ち明けると、渋々承知してくれた。

高等小学一年生(今の五年生に相当)の時に実母を亡くして、翌年継母を迎えていたことが、早く家を離れたかった理由のひとつであったらしい。

 

 

研修所は神戸にあった。そこを優秀な成績で卒業すると、すぐに神戸の本局に通信事務員として、日給三十四銭で採用された。このとき、佐々木はまだ現在の中学生くらいの年齢である。しかし、この給金では、生活するのが精一杯で、 官練受験を目指す同僚と三人で自炊をはじめる。

官練というのは、逓信官吏練習所のことで、旧制中学卒業者も入学可能な専門学校(旧制の高等商業や高等工業などで、現在は国立大学)と同等レベルの教育機関で、そこから高等文官試験(いまで言うキャリア官僚試験)に多数の合格者を輩出したことで知られるエリート養成校である。

 

数学や物理の本にしがみついたはいいが、独学でやらねばならない上に、豊富な参考書を揃えるだけの余裕がないので、市立図書館へ通うことにした。この図書館通いが少年に転機をもたらした。いつしか受験勉強はそっちのけで、小説ばかり読むようになっていたのである。硯友社系統の作家たちからはじまって藤村、花袋、秋声、白鳥、独歩と手当たり次第だったが、そのうちに文学とは何か系統立てて理解しなければと反省、広告で知った「大日本文学会」が発行している「文章講習録」を取り寄せて勉強した。それには毎月会員の投書が掲載された小冊子が出ていて、その投稿がきっかけで神戸在住の会員グループが出来、「神戸文学会」と名付けて、夜な夜な誰かの家に集まって文学談義に夢中になった。そのうちに同人雑誌を発行しようと言うことに発展する。むろん、回覧雑誌であるが、それに毎回投稿し、そのころになると、内心ではいっぱし文章を書いて身を立てようと宗旨替えしていたのである。

この神戸時代に、佐々木孝丸は、地方公演にやってきた島村抱月一行と会い、松井須磨子の「サロメ」などを観劇している。おそらくこれが、新劇に接した最初ではないかと思われる。

 

その頃のある夜のこと、「キンノスケ タダ イマシス』ナツメ」という電文を受信、文学好きの仲間に触れまわって配達係に渡すのを数分遅らせてしまったことがあった。

 

三年間の勤務(義務だった)を終えて、大正六年初め、二十歳の時に上京した。

「大日本文学会」で講師をしていた読売新聞記者が、電信出身だったことを知っていたので、取りあえず相談してみようと思い、約束も何もないまま訪ねると幸い会ってくれた。このときの出会いがまもなく秋田雨雀と親しく交わるきっかけになり、次々と人脈がひらけていった端緒になるのであった。

「電信局にでも勤めながら焦らず語学をやって、みっちり基礎を作るんだね」というアドバイスに納得して、仕事を探してみると、どこも欠員だらけで、すぐに見つかった。赤坂のアメリカ大使館の向かいにある二等局で、主に外国電信を扱っていた。語学を習得しようという目的には願ってもない職場である。

 

最初「アテネ・フランセ」へ通うつもりであったが、勤務時間がやりくりできなかったので、個人教授のもとへ通った。一週一回で一時間二円、日給四十六銭の身には、月八円の月謝はいかにも痛い。一日一食で過ごしたが、二ヶ月ばかりですっかり身体が弱った。上司にわけを聞かれたので事情を話すと、それならばと言うので、ありがたいことに勤務時間を調整してくれることになった。「アテネ・フランセ」は、一週三回で月謝は二円だったから「まったく蘇生の思い」であった。

 

何故フランス語だったかというのは、「文章講習録」で田山花袋が、自然主義文学は英訳ではなくて直接フランス語で読まなければその神髄を味わうことが出来ないと書いていたことに教えられたからだ。

このフランス語をやったことが、翻訳で身を立て、「種まく人」の同人になり、そこから社会主義文芸運動へ身を投ずるきっかけになったのだ。

佐々木は、しばしば戯曲を創作しては秋田雨雀に見せており、もともと演劇に関心はあったが、秋田から有島武郎らとの講演旅行の旅先で、戯曲の朗読会に立ちあったことを聞いて、自分たちもやろうと提案し、新宿中村屋の相馬黒光のもとに有志が集まって定期的にそれを催していた。とはいえ、実際の舞台活動には至らず、 このときはまだ、俳優、演出家、佐々木孝丸は誕生していない。

 

「種まく人」は、大正十年(1921年)、小牧近江が、出身地である秋田の土崎小学校時代の同級生である、今野賢三、金子洋文などとともに土崎港で立ち上げた雑誌で、彼らが佐々木と会ったころは、三冊出したところで保証金(当時は、政治問題を取り扱う雑誌を出すときには保証金を積まねばならなかった)が払えず、休刊していた。

 

土崎は、佐竹藩時代の重要な藩港にして北前船の寄港地である。戦時中の昭和十六年に、秋田市に編入されているが、もともと古い起源を持つ港町である。

僕は四十年前、秋田に駐在する営業マンだったころ、この町で遠洋航路の船に食料品などを収める問屋に何度か訪問したことがあった。むろん、商売専門だから大正時代にこんな物語があったとは気づいていない。

 

小牧近江の経歴がユニークである。明治二十七年生まれだから佐々木より四歳年長 。東京の暁星中学を中退して、明治四十三年(1910年)土崎の有力者にして代議士だった父親の洋行についてフランスに渡り、そのままパリ大学法学部に入学、苦学して大正七年(1918年)に卒業した。その間、ロマン・ロランに傾倒、小説家アンリ・バルビュスの提唱する反戦運動=クラルテ運動に参加した。大正八年帰国。「種まく人」は、クラルテ運動の種を日本でまくという趣旨に基づいて、ロシア革命救援、非軍国主義、国際主義などを基調とする論文、特集記事を掲載、なおかつ「行動と批判」をスローガンに掲げる雑誌である。

このスローガンにある「行動」のひとつがなんと演劇活動だったのである。

 

中村屋サロンの中で、フランス(仏語)にゆかりのあるものが集まってつくった「フランス同好会(Amis de France)」で、佐々木は、初めて小牧近江と村松正俊に会っている。村松は、東大の美学を出た博学、新進気鋭の評論家で、三人は同好会が主催する「ヴェルレーヌ二十五年祭」の準備のために連れ立って行動していたが、そのときはまだ他人行儀のところがあった。

 

このイベントの中で、ヴェルレーヌの劇詩(二人の対話劇)の朗読会をやることになり、佐々木は自分で翻訳した詩の相手役に当時まだ十五、六歳の少女にすぎなかったが、関係者の間で評判の高かった水谷八重子を選んだという。天才はこの頃からすでに注目されていたのである。このとき佐々木は初めて洋服というものを身につけたといっている。小牧が貸してくれたものだった。ということは、トンツー時代も和服でやっていたのか。

 

大正十年の第二回メーデーは、芝浦から上野までデモ行進が行われた。佐々木はこれに秋田雨雀、橋浦泰雄(画家で民俗学者)らと参加したが、上野の山下まで来たときにデモ隊と警官隊が衝突、危うく捕まりそうになったのを振り切って、山の上に逃れてくると、そこに小牧と村松を発見して驚いた。

というのも、二人とも高踏的で貴族趣味の青年紳士で、デモ隊のような汗臭い俗世界に出てくるような人柄ではないと思っていたからだ。

誘われるまま、青山にあった小牧の家に行き、夕飯をごちそうになりながら話をすると、自分のような「感情的社会主義者」と違って、確固たる信念と理論を持った「筋金入り」であることが分かった。

 

「そういう人にありがちな嵩にかかって理屈をおっかぶせてくるような態度はみじんもなく、幾分東北訛りのある言葉で、磊落にくつろいで話し相手になってくれたので、あらためて、畏敬の念を抱いたのであった。」

そして、小牧から休刊中の「種まく人」を東京で再刊しようとしていると打ち明けられ、村松とともに誘われると、一も二もなく快諾した。

この当時、小牧近江は外務省の情報局に勤めていて、その役所の一室が再刊の企画本部のようになった。なんと、小牧は役人だったのである。この時代はまだ、公務員が社会主義的論調の雑誌を主宰してもおとがめがなかったらしい。

 

同人は、小牧、金子、今野をはじめ村松、佐々木、松本弘二、山田亮、柳瀬正夢の八人。雑誌社を「種まき社」と名付けた。

特別寄稿グループに、秋田雨雀、有島武郎、アンリ・バリュビス、馬場狐蝶、エドワード・カーペンター、ワシリー・エロシェンコ、江口渙、アナトール・フランス、長谷川如是閑、平林初之輔、神近市子………そうそうたる陣容である。

 

創刊号の保証金は高利貸しから借りて済ませた。ところが、印刷も出来、製本も上がった段階で、印刷屋に払う金がない。工面したが明日発売という段になって、二百円ばかり足りない。「えい、あたって砕けろ」とばかり、夜半に中村屋を訪ねて借金を申し込んだ。

売上金はすでに銀行に預けてあり、明日か明後日に来てくれと言われたが、そこのところをなんと

 

かとねばった。すると、なんと相馬愛蔵は、明朝わたす従業員の給料がとってあるからそれを融通しようと二百円ポンと貸してくれた。

今どきの事業家にこんな人物がいるだろうか?あるいは、大正という時代がそうさせたのか?

あとで話そうと思っている現代の事業家には、相馬愛蔵や黒光、梅屋庄吉など社会運動を支援した人々の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。

 

創刊号は、案の定発売禁止になった。

電通広告部を介して、翌朝新聞広告を予定していたのだが、万事頭の回転が速い小牧は急いで電通に駆け込むと、「種まく人・創刊号」という題字だけ残して、目次を削ったあとに、「発売禁止!次号すぐ出る!」と大きな活字で組み直してもらい、配信した。同時に、市内の本屋をかけずり回って、まだ押収されていない雑誌をできるだけ回収してくる。

この結果、広告を見た人々から「是非一部送ってくれ」という注文が直接「種まき社」に殺到するという珍現象を呈したのであった。

 

小牧近江の頭の回転というのはこれだけに留まらない。

創刊号の表紙に赤紙の鉢巻きを着けて、それに「世界主義文芸雑誌」というサブタイトルを入れて、外の雑誌とは明らかに視覚的な差別化をねらった。今では当たり前になった、このいわゆる本の「腰巻き」というやり方は、大正時代「種まく人」をもって嚆矢とするらしい。

 

ところで、村松正俊の父親もまた、小牧の父親と同じく犬飼木堂率いる国民党所属の代議士であった。「種まく人」に二人が入れ込んだことは、単なる偶然ではなかったのではないかと佐々木はいっている。

「というのは、今の小粒な政治家には容易に見られないような、いわゆる清貧に甘んじ、『敢然として義に赴く』といった耿々(こうこう)たる気概(たとえそれが多分に『東洋豪傑』風なものであったとしても)を二人とも、多かれ少なかれ、『浪人政客』の父親から、気質として受け継いでいたに違いないからである。」

 

この時代を担っていた人たちが「義に赴く気概」を持っていたことを知ると、現代の「小粒な」政治家も事業家も単なる「金の亡者」に見えてくると言うことを言いたいがためにあえて引用した。

 

まもなく、「種まき社」は講演と 同人総出で出演する演劇を一つにしたイベントを企画し、秋田雨

 

雀などの助言を得て長い稽古に及ぶが、いざ開催の当日になって、当局から禁止をくらって実現できなかった。

 

それからしばらくして、大正十二年の春早々、耳寄りな話が舞い込んだ。中村屋が麹町平河町で、さる大名屋敷を買ったが、そこに大きな土蔵があり、相馬夫妻がその土蔵を何か文化的なことに利用したいと例の朗読会「土の会」のメンバーに持ちかけたのである。

その結果、土蔵を改造して小劇場とし、その際、「土の会」を朗読から劇団に発展させて、そこで定期公演をするということになったのだが、佐々木もその劇団づくりに誘われ、参加することになった。

この土蔵劇場は、小劇場運動の先駆となるという意味で、劇団名を「先駆座」と名付けることになった。

それこそ佐々木孝丸が、本格的な演劇活動へのめり込むきっかけであった。

 

 

ところで、上京してしばらくは秋田雨雀の家の近所にあった駄菓子屋の二階に住んで、親しく

 

交わっていたが、手狭になったため、代々木の一軒家に引っ越しをしている。

 

「新しく借りた代々木の家は大山公園に近い三角橋のほとりで、庭なども相当に広く、門構えの、ひとり暮らしには勿体ないちょっとした中流むきの借家であった。」

 

ここに、「種まき社」の同人が集まり自ずから活動の拠点となっていった。特に妻が出産のために帰郷している間は、村松が自宅からわざわざやってきて原稿書きに使うやら、小牧ら秋田・土崎出身の連中が住み着いて、その姉妹をまかないに呼ぶなどしたものだから、しょっつる貝焼きはじめ郷土料理と秋田弁が飛び交う、さながら代々木梁山泊の様相を呈したといっている。

 

最初に掲げた「インターナショナル」の翻訳は、この代々木の家に住んでいるときにできたものである。

そのいきさつを書いている部分を引用しよう。

 

「……今日、労働者のデモや集会でおなじみの「インタナショナル」は、大正十一年の秋に、代々木の去る農家の藪の中で歌われたのが第一声だったわけで、そのときのいきさつを書き記していこう。

この歌は、もともと1871年「インタナショナル・ロンドン大海」やパリ・コミューンのあった年に、フランスの民衆詩人アルベール・ポティエが「労働者インタナショナル」に献じた詩をドゥジェイテルが作曲したもので、それが、革命後のロシアでは「国歌」のようなものになり、また、各国語に訳されて、労働者間の共通の歌になっていたものであった

種まき社では、この年十一月のロシア革命記念日を期して、日本語版「インタ」を大々的に歌いまくろうという案を立て、その歌詞の翻訳をわたしがやることになった。

「暴力論」で有名なジョルジュ・ソレル編集の「社会主義辞典」に歌詞と楽譜が載っていたの

 

で、わたしはそれから翻訳することにした。

……歌詞の翻訳ができあがると、我々は、友好団体の「前衛社」「無産階級社」「曉民会」などに檄を飛ばして、代々木大山公園近くの農家に集まってもらい、ここの藪の中で歌の練習をやった。

……ところで、わたしの翻訳が原詩につきすぎた逐次訳であった上に、一つの音符に一つのシラブルを当てはめていくという、歌曲の翻訳としては、はなはだ拙いやり方をしたのが原因だったのだろう、歌ってみると、どことなく間延びがして力強さに欠けるところがあった。……昭和の初めになってから、佐野碩とわたしと二人で、も一度全部改訳、というよりも最後のリフレインを除く外、原詩にこだわるところなく歌詞を作り直した。それが、現在歌われている「インタ」である。」

 

翌年の九月、近所に借り直した家で、旅から戻って疲れた身を休めていると昼時分になって、地面がぐらぐらっときた。慌てて家の外に飛び出ると、外にいた幼い娘(のちに千秋実夫人)が玄関の柱にしがみついて家に入ろうとする。こういう場合はかえって家の中は危ない。しかし、身を守ろうとする本能はとっさにこんな反応をするものだと大正の震災の思い出とともに妙に感心して記している。

 

この震災で代々木は大して被害はなかった。

しかし、下町は火が出て十万人余の死者をだしたことは周知の通りだが、混乱の中で起きた「亀戸事件」の全容をはじめて明らかにしたことは、詳細に足で取材して「種まき雑記」に書いた金子洋文の功績であった。

 

「余談になるが、伊藤圀夫君の家は千駄ヶ谷にあった。外をあるいていて朝鮮人と間違えられ、あわや自警団の竹槍で突き刺されようとするところを、その自警団に混じっていた酒屋の御用聞きのあんちゃ

 

んが「あ、この人は伊藤さんの坊っちゃんだ」と証明してくれたので、危うく一命をとりとめた。それで、圀さん

 

は、翌大正十三年に築地小劇場が出来てこれに参加したとき、センダガヤでコレアンと間違えられながら命拾いをしたというので、芸名を「千田是也」と名乗ることになったという話。」

 

 

さて、佐々木が引っ越した「代々木大山公園」の三角橋にほど近い一軒家、というのが実は、僕が二十年住んでいた笹塚の家から近い、いわば散歩コースにあった。そこで「インターナショナル」がはじめて歌われた場所、佐々木孝丸が暮らした家、それがどのあたりにあったかに、僕は俄に興味を持った。

 

今、笹塚に住んでいたら早速行ってみるところだったが、あいにく2年前に引っ越してしまった。

 

「代々木大山公園」は、小田急線「代々木上原」の駅から笹塚―幡ヶ谷方面に登っていく坂道の途中にある。僕は車で通り過ぎるだけだから、中に入ったことはない。道路から見える手前には樹木が多く遊具などもあるが、奥には野球場が二面もあるという広大なものらしい。隣は江戸時代からある代々幡の斎場に接している。

 

この坂道を登り切ると、暗渠になっている玉川上水を小さな橋で渡る。と、すぐに東京消防庁の訓練施設に突きあたるT字路になっている。その橋の名前はすぐに思い出せなかったが、代々木方面から登ってくる複数の道と交差している玉川上水には、その分だけ橋がある。

「三角橋」はどこかで聞いたことがあったが、その橋の中の一つに違いないと思っていた。なにしろ「代々木大山公園からほど近い橋」と言えば、玉川上水しか頭に浮かばなかったからだ。

 

ところが、この玉川上水にかかっている橋を笹塚から幡ヶ谷、新宿近くまでたどってみても「三角橋」の名は現れない。

はて、この三角橋は、どこにあるのか?いまでもあるのか?

 

さあ、そこからが、この話の第二節になっていくのだが、ちょうど時間になりました。この続きはまた来週のお楽しみ……

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2013年10月12日 (土)

映画「山猫」を見た(2004年に書いたもの)

Theleopardo_ 映画「山猫」を見た。ヴィスコンティの名作である。1963年のカンヌグランプリだからもう四十年前の作品だ。なんで今ごろと思うかもしれないが、イタリア政府が金を出して完全復刻したものを公開するのだという。あの頃の技術では退色を防ぐことが出来なかったのだ。国家事業でやるとは感心なことだ。朝日新聞がマリオンにあるホールで公開していたことは知っていたが、この日は新宿高島屋の上にあるテアトル系の映画館だった。こんな興行ならイタリア国家の収入はおぼつかないことだろう。

Yが何故か見たいと言いだし前売り券まで買っていた。休日前夜ということで112日にした。早めについて入ろうとすると番号札を貰ってそこいらで待っててくれという。そんなに超人気の映画とも思えない。しかもロビーなど見当たらないしベンチが用意されているわけでもない。ようはヘアサロンやハンバーガーバーの前にたむろしていろと言うのである。店も迷惑なことだ。こう言う不埒な客あしらいに文句を言わない方が悪いのかもしれない。その番号札やらを貰おうと前売り券を見せると、あと五百円出せという。

説明はこうだ。本日はヴィスコンティ氏の誕生日記念(本人は25年前に死去)で華道家の仮屋崎某の講演会があり、帰りにイタリアのチョコレート屋から「山猫」特別バージョンのウエハーチョコをプレゼントするというのである。僕は客を整理している黒服の男に「イベントをやるならかってにしたらいい。しかし僕はそのトークショーに興味はないしチョコレート屋の宣伝サンプリングも欲しくない。だから1500円の前売り券でみる。」といった。

本日の窓口料金は2000(普段は1800円か?)である。あと500円追加したら前売り券を買った意味がなくなる。はやい話がトークショーとチョコレートを500円で買えということではないか。いらないものの押し売りである。こう言う簡単な道理と算術についてテアトロという興行主はわかっていない。はやい話が馬鹿である。

すると黒服がイベントは映画の前にやると木で鼻をくくったような顔でいう。ただでさえ3時間という大作である。終了の時間は11時ではないか。トークショーは終わった後でやるのが常識だろう。僕は腹が立ったので今夜は止めようとYに電話をした。話し始めると目の前にYの顔があった。まあまあ、折角来たのだし、日程もとれないのだからとなだめられてしぶしぶ見る事にしたという次第。

映画館は新しくて広くて快適だ。階段状の座席が二階分くらい、スクリーンに向かって幅広に置かれていてどこからも見やすい。少し普通と違うのは最前列のしたがもう一階分下がっていてスクリーンはその下から来ている壁に設置されている。これなら最前列でも適当な距離があり十分全体が見えるはずだ。しかしその下は無駄といえば無駄な空間である。

客は200人位はいっていたと思う。がらがらだ。整理券はなんのためにあったのだ。この無意味。無神経! 

 程なく女の司会者が現れ大仰な掛け声で「假屋崎先生をご紹介します。」と叫ぶと、なんと、この下の空間から先生がちょっとした舞台にのってせり上がってきたのである。

本人は実にまともな人間らしく、この阿呆臭い演出に照れて困惑して平謝りである。映画を見に来たのに自分のような関係のないものの話につきあわせて。ごめんなさい。三十分で引っ込むので我慢して下さいねと言うわけである。この先生見かけによらずなかなかわかっていらっしゃる。気になるのは舞台の袖に突っ立っている三四人の男女である。うち一人が台本のようなものをもってインカムをつけているところを見るとこの連中、広告代理店の関係者だろう。イベントを監視しているかあるいはクライアントに対してアリバイ作りをしてる。明らかに観客にたいして関心はない。この程度のモヨウシに大袈裟に自己主張してるのを見るのは実に不愉快だ。こんなときは隠れているべきである。ディズニーランドでスーツ姿の社員がうろうろしてたら白けるだろう。

トークショーは、假屋崎本人の苦労話が少々とビスコンティの貴族ぶりに驚嘆するのが少々と目黒でやっているフラワーアレンジメントの展示会の話で終わった。(この展示会の招待券千円なりを気前よくプレゼントするというので、おそらく人のいい假屋崎の罪滅ぼしだろうと思った。)

 

さて映画の話である。

イタリアが国を挙げて復刻したというが開幕の音にはがっかりした。雑音と音程のフレがひどく、先が思いやられる。地中海のど真ん中にあるシシリー島は乾燥している。ほこりっぽい風景の中にざらざらした音というのは合うといえば合うがイタリアの技術には多少疑問を感じた。ところがそれは不思議なことに進行していくうちに次第に気にならなくなった。退色した色を復活する具合も控えめ、人物のフォーカスもごく自然で好感が持てる。それはあの時代のカラー映画の風合いを残して復刻するというコンセプトを忠実に実行したことを思わせた。米国映画のデジタル復刻版などはコントラストが強調されすぎて、キレイに見えるがかえってチープになる事が多い。アナログで仕上げたものかどうか確かめたわけでないがなかなか雰囲気はでていたと思う。サウンドトラックはそのままだったかもしれない。当時の録音技術では音源が残っていたとしても雑音を除くのは期待できなかっただろう。

物語は、何代も続いてきた貴族の一家が時代の変化を泰然として迎え入れるというもの。1860年といえば日本は万延元年、江戸末期である。イタリアも腐敗した貴族の支配にたいして祖国統一の気運が高まりガリバルディの抵抗運動がシシリーにまで及んできた。独逸もそうだが、奇しくも日独伊三国はちょうど同じころ統一戦争を経験した、つまりもっとも遅く近代化を果たした国だったのだ。欧州が日本のはるか前方を走っていたというのが大きな誤解であることを知るのは重要である。

「山猫」は随分間が開いたので、感想を書くのも気恥ずかしい。結論を言うと、ノーカット版ということでどんなものか期待していたが、いやあ、これが長かった。「山猫」家は毎年田舎の別荘に家族で避暑に出かけるのだが、騒然とした社会の動きにもかかわらず、この年もまた何事もなかったかのように出発する。ほこりっぽい山道をえんえんたどるのは景色が見えるからいいとして、最後の別の貴族の屋敷で行われた舞踏会がいつ果てるともなく長い。ここに登場するのは二百人以上はいたと思うが大部分が本物の貴族で、身に付けている正装も勲章も宝石も本物という触れ込みだ。風体、立ち居振る舞いまでなるほどと思う。テーブルに並んだ料理は豪華だが手作りの味わいがある。ひたすら食べて、その後は踊るもの、酒を飲むもの、おしゃべりするものとわかれてどれだけあるかわからない部屋の中や庭にたむろする。

珍しいのはトイレだった。さまざまな形の陶器の壺や器がそこら中に置かれていて、そのなかにするものらしい。なるほど、下水など無いのだからこうするより他ない。においを消すための工夫は当然あるものと見た。バート・ランカスターふんする主人公、公爵が貴族の時代がたそがれていく、その時の移り変わりに身をゆだねようと決意し誰もいない部屋で鏡に向かって涙する場面が自身もまた北イタリアの貴族出身であるビスコンティのメッセージであったろう。

もう一つ欠かせなかったのは、クラウディア・カルディナーレとの舞踏の場面だった。もっと若い男と踊るように言うが、ダンスの名手として名をはせたことを知っている人々に促されて彼女の手を取る。それは音楽に乗った流麗な身のこなしで、一同呆然と見とれるしかない。そのあたりで「FIN」かと思ったら、だんだんと踊るもの、飲むもの談笑するものに分かれてグループが小さくなっていく様をカメラが追いかけ、しかし終わりの無い享楽といったアンニュイな空気を写し取る。

とうとう空がしらじらとしてくる頃公爵は屋敷を去ることにした。馬車を断って徒歩で道を歩く公爵の前に一匹の猫が現れる。まだ、明りが灯った家の戸口から朝早い庶民の暮らしが覗いている。「Party's over.」である。このシーンに突然音楽がかぶって「fin」となる。納得のいく終わり方だ。しかし、ノーカット版とは実に大変なものである。見る方が。




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2010年12月24日 (金)

「あの日、欲望の大地で」(The Burning Plain)を見た。映画の新しい楽しみ方

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シャーリーズ・セロンとキム・ベイジンガーの共演と聞けば見逃す手はない。しかも、演出はあの「バベル」と「21グラム」のシナリオを書いたギジェルモ・アリアガだというから損はないはずと思ってみた。

前の二作とも、全く関係のないいくつかのエピソードが交互に現れて、やがてそれが次第に縒り合わされ最後に人間の本質を突くような重い主題があらわになるという構成である。

わずか二時間あまりの映画の中で、複数のエピソードが関連性も時制も分からぬまま半分以上進行したら、観客の頭は疑問符だらけになって混乱してしまう。ところが、それらのシーンの中にはさりげなく伏線が張られていて、見ているものは、その小さな手がかりを頼りに少しづつ謎を解いていこうとするのである。まるで大きなジグソーパズルのあちこちの部分がまだらに浮かび、つながっていくような気分である。終盤になってそのスピードは加速されていく。複数のエピソードはいまや一つにつながり、ああ、そういうことだったのかと物語の全容が見えてくる。そして、それが完成する最後のピースが嵌めこまれると同時に見ているものに深い感動が訪れるのである。

 

こういう映画の文法は別に新しいものではないが、アリアガは一つ一つのシーンをこれ以上ないまでに鋭く削ってモティーフを際立たせ、その映像合理性と言ったものが映画全体に緊張感を醸しだして、知的な印象をつくり出す。よけいな修辞法は加えず、観客に伝えるべきひとつのこと、もちろんそれを受け止めた観客の心に起こるさざ波も十分計算に入れながら、それを描いていくのである。随所に小気味のいい編集の技がしかけられており、担当したグレイグ・ウッドの才能の高さを感じさせる。

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映画はタイトルもなくいきなり始まる。北米大陸西南部の砂漠地帯、数百メートルの高さに連なる山の麓の荒野で、青空の下、燃え上がっているものがある。次のカットで、カメラが寄ると、四十フィートのコンテナ大のトレーラーハウスが炎をまとっている。このたった二つのカットからいきなり、場面は曇天の朝の薄暗い部屋に変わる。

 

たとえばこの文法は、シルビア(シャーリーズ・セロン)という女が自分のアパートで男と寝た薄ら寒いその朝、全裸でベッドから抜け出て窓を開けるシーンで表現される。その後ろ姿は、もはや若くもなく中年の体型が始まりつつある女の肉体である。それが薄青い色調の影を帯びて映し出されている。このシーンを、たぶん女性が書いたものと思うが「彼女は顔は美人だが、脱ぐとそれほどでもない」と評したブログがあった。

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ベッドで眠りこけている男に、早く出て行ってと感情のない声で言い、窓から大きな橋梁を眺めている。学校へ向かう数人の親子連れが、河畔につけた細い道を通りかかると、そのうちのひとりが乳房もあらわに道を見下ろしている女の姿に気づいて立ち止まろうとする。低層のモダンな設計だが安普請と見えるアパートの様子がその一瞬に分かる。子供の視線を追いかけてそこに見えたものに顔をしかめた女親がそそくさと一同をせき立てて通り過ぎていく。

どうやら、他に帰るべきところがある男と愛のない関係を結んでいて、自分の裸をさらしても全く感情が動かないという女であることが、この数カットで分かるようになっている。Anohi1

ここでは、女の全裸に性的な魅力があってはいけないし、官能的に見えても困るのである。エロティシズムとは対極にある肉体を表現しなくてなならない。ここにいる女は、おそらく性に対して喜びとは正反対のもの、性的行為とは一種の罰であるという認識にとらわれていることを暗示しているようだ。だから「脱ぐとそれほどでもない」というが、「それほどでもない」ように撮影する必要があった。

シャーリーズ・セロンには、ゴージャスなドレスと宝石を身につけて城のような邸にご帰還すると、身につけたものを一個づつ脱ぎ捨てていくというCFがある。長身で細身、元モデルだけあってその歩き方や仕草は性的魅力であふれている。また、まるで針のように細く高いヒールを履いたパンツルックを地面すれすれから撮ったCFもある。足の長さが際立っており長身で顔とのバランスが人並みを外れている。その強調された体型の細さをイメージしていると、あのシーンでの落差には驚くに違いない。

その同じ朝、通勤のために同僚の女性の車に乗り込もうとすると、道の向い側に見知らぬ若い男がいてこちらの様子をうかがっている。

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道には通勤の人々はいるがそれほど多くはない。NY、LA、シカゴなどの大都市のどこかという感じはない。高速道路の高架が縦横に走っていて、道の反対側にある駐車場の向こうではコンテナを連ねた貨車が低速で動いている。一体ここは何という街なのか。川には、千トンはあろうと思われる貨物船が停泊していて、交通の要衝といった趣なのだ。しかし、米国の中のどこなのかまるで見当もつかない。

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やがて、車は海岸の道路沿いにあるレストランに着いた。崖の上に立ついわゆるオーシャン・ビューが売りの瀟洒な店である。パーキングから見渡す海は、切れ落ちた高い崖が複雑に入れ込んで続いていて、冬の風に沖まで白波だって荒れている。

この海は一体どこか?高い崖の上のレストランと言えば、真っ先に思い浮かぶのは東海岸のどこか、ボストンからメイン州にかけての海岸だが、冬の曇天とはいえ光の具合がおかしい。どうしても西に向いている感じがするのだ。長年日本海を見ていて、太平洋の日の明るさに驚いたものの直感である。しかし、西海岸の崖の上とは聞いたことがない。ロスからサンディエゴにかけての海岸を知っているが、ほとんど砂浜である。一体ここはどこなのか?

女は、このレストランのマネージャーであった。そして、朝ベッドにいた男はその料理人の一人であるとわかる。

休憩のために外に出た女が、岩場の先に腰掛けている。石のかけらをもてあそんでいるようだったが、やおらスカートをたくし上げて太ももをあらわにすると、それを内側に強くこすりつけて傷を付けた。自傷行為と分かる。次に、海に突き出した崖の上に女が立っている。激しく打ち付けられた波が高いしぶきを上げている。女は何度も危うくのぞき込んで、いまにもそのまま崖の下に消えてしまいそうに見えた。

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戻ってくると、店先で帰ろうとしている客に誘われる。それを断るが、次のシーンでは、アパートの駐車場にその客と一緒に現れるのであった。自殺願望と性依存症という傾向が見られるこの女は、なにか絶望的な苦悩を抱えて生きているのである。その一部始終を、若い男が朝から車で追いかけ遠巻きに観察している。

場面は唐突に、最初の砂漠地帯に切り替わって、強い日差しとほこりっぽさを強調するように明るい黄色を基調とするトーンにかわる。焼け落ちたトレーラーハウスの残骸が映し出され、そこへ三人の少年が現れる。ひとりが「ここで、親父は女と死んだ。」とヘッドボードだけそれとわかるベッドの痕跡を見つめていう。火の回りが早くそこで抱き合ったまま焼け死んだのだ。三人のうち二人は兄弟、一人はその友達だと言うことだが、帰り道で弟、サンティアゴが友達を連れてきた兄に「親父は見せ物ではない」と腹を立てている。

父親がなくなったのに母親はその妹らと家でカードをやっている。葬儀にも出ようとしない。埋葬を終えて墓地から引き上げようとすると、なくなった女の家族が待ち構えている。その夫と、下は五六歳の女の子、少し上の男の子が二人に十五六歳の女の子と四人兄弟である。夫は、悪態をついただけで帰るが、そのときサンティアゴが最後に引き上げる年長の女の子が気に掛かって見つめていると、向こうもこちらに気がついた。

ドミノゲームのテーブルがカットインするので、一瞬サンティアゴの家に戻ったのかと思うと、そこは飛行機の格納庫であった。農場の仕事を受けて空中散布する飛行機のたまり場である。電話が鳴って仕事の依頼が入ると、二人の男が飛行機に向かう。一人は、あのシルビアをつけ回していた若い男カルロスである。そばで数人の子供たちが遊んでいたが、中のマリアに一緒に来るように声をかけると十二三歳の女の子が飛び出してくる。カルロスと一緒に飛ぼうとしている男の娘であった。娘は、ナビゲーターとして一人前の仕事を期待されているのだ。

トウモロコシ畑の作業小屋で食事の準備をしながら、父親が飛んでいるのをマリアが見ている。

次のカットは、その畑の真ん中を通る道かと思ったら、また違う場所であった。この意外性でプロットを繫いでいく映画文法もアリアガらしいところである。The_burning_plainposter

中年の男ニック(ヨアキム・デ・アルメイダ)がトラックを止めて待っているところへジーナ(キム・ベイジンガー)が車でやってくる。ニックが、いとこからトレーラーハウスを借りることができたといって、例の場所へ案内する。二人は、互いに家族がありながら、目下のところ恋愛中であった。

ここまで来てようやく主要な登場人物が出そろうことになるのだが、どうやら、二人の中年の男女が不倫の末、トレーラーハウスで焼死した事件が発端になっているらしいと分かる程度である。それぞれのプロットが現在のものなのか過去あるいはさらにその過去の出来事なのか、関連性も分からないままである。映画は、そのようにして行きつ戻りつしながら進行するのであるが、その構成は、実によく計算されていて観客の心を引きつける。それを順番に追っていくとややこしいことになるので、大急ぎであらすじを紹介することにしよう。何しろこの映画は、筋立て、映像表現の魅力は言うまでもないのだが、そのことはともかく、僕の心に浮かんだ「なぞ」を解く楽しみの方を説明したいからだ。

あの海岸のレストランはおそらく実在する。あの映像の叙情性に惹かれてどうしてもその場所を知りたいと思った。そして、ブルートーンで撮影されたあの街のしっとりとして落ち着いた様子に魅了されて、そこがどこなのかも知りたいと思った。その話は後回しにして、ともかくあらすじである。

ジーナの夫は大型トラックのドライバーのようで留守勝ちだが、夫婦仲は悪いとは思えない。手術を受け乳がんを克服したばかりというから微妙に心がすれ違ったのかも知れない。からだの弱い母親に、ハイスクールに通う長女のマリアーナ(ジェニファー・ローレンス)が家事を手伝い、まだ幼い兄弟の面倒もみている。

ジーナとニックがどこでどのようにして知り合ったのかは全く省略されているが、ともかく彼らは一刻も離れていたくないほどに愛し合っている。

ジーナは、家事の合間を縫ってトレーラーハウスに出かけ、ニックとのわずかな逢瀬を楽しんでいた。やがて、母親の異変に気がついたマリアーナは、ある日学校をサボって母親の後を付け、トレーラーハウスを発見する。

ジーナは次第にぎくしゃくしてくる家族との関係を修復しようと、ニックとの道ならぬ恋に終止符を打つと決心する。それでもニックは、毎日正午にはトレーラーハウスで待っていると告げて翻意を促した。ジーナは毎日昼になると落ち着かなかったが、思いとどまっていた。

そんなある日、とうとう渇きに耐えかねたように、ジーナはトレーラーハウスに向かってしまう。マリアーナがそれに気づいて自転車で後を追う。ハウスの寝室を覗くと、そこでは母親が全裸で男と交わっていた。マリアーナは母親の姿に衝撃を受ける。そして、彼女は二人を脅そうと思って、かねて仕掛けておいたことを実行しようと決心する。

サンティアゴは、葬儀の日に見かけた同じ年頃の女の子が気になっていた。母親が不倫の末なくなってしまった娘はひょっとしたら自分と同じ気持ちなのだろうか? その母親はどんな人だったのか? 話してみたいという欲求が抑えがたく、近所に出かけて出会うチャンスをうかがっていた。

ジーナの葬儀の日、マリアーナが一人でコンビニにやってくるのを見て、サンティアゴはその店の中で声をかける。マリアーナは覚えていた。それをきっかけに二人はつきあうようになる。互いの家に行き、どんな家族だったのかを知った。マリアーナは大胆にもサンティアゴが留守の時に訪ねて、母親と談笑している。学校の友達だとだけ紹介した。夜の沙漠に出かけ、火をたいて二人で過ごした。

やがて、サンティアゴの兄がそれを知り、母親には家を出ていけと言われる。さらにマリアーナの父親の知るところとなり、怒りに震える父親がサンティアゴを襲おうとするが、すれ違いにマリアーナを家から連れ出して二人で逃げる。その明け方、トラックで目覚めると、マリアーナが妊娠を告げる。サンティアゴは、国境の向こうを指して、メキシコにいって三人で暮らそうという。

さて、トウモロコシ畑の作業小屋で食事を作っていたマリアが、飛行機の不調なエンジン音を聞いて外を見ると、異常な低さで飛んできた父親の飛行機がそのまま畑に突っ込んで、土煙を上げる。病院に運ばれた父親の片方の足はシーツにくるまれていた。病室にカルロスだけ呼ばれると、マリアには父親がカルロスの耳元でなにやらささやくのが見えた。

翌日、カルロスがいやがるマリアをせき立てて飛行機に乗せる。二人が降り立った空港は、あのシルビアが住む街であった。モーテルに腰を据えて、どうやらマリアの母親を捜すつもりらしい。

ここで、ようやくカルロスがこの街にいるいきさつが分かるのであった。

カルロスが、客と例のコックのもめごとに巻き込まれているシルビアを助けて、アパートまで送るとシルビアは彼まで誘惑しようとする。カルロスは、シルビアがマリアーナであることに確信を持てなかったことと、何よりも英語ができなかったために、街に来たわけを言い出せず逃げるように帰る。

そして翌日、街でシルビアをつかまえて、サンティアゴと娘が待っているというと「何のことだ、自分に娘はいない、もうつきまとうのをやめて欲しい」といって、追い払うのであった。

Steelbridge
追い詰められたと思ったシルビアは、街を逃げだそうとしてコックを誘うが、彼は妻子持ちで当然躊躇する。 

その日、シルビアがマリアーナだと確信したカルロスはマリアを連れてシルビアの帰りを待っていた。その姿を見つけると、シルビアは、逃げ出す。しかし、はじめてマリアを目にしたシルビアは動揺する。

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あの日、サンティアゴとメキシコに逃げて、その後女の子を産んだが、自分と母親の血が流れていることを思えば、子供を不幸にするだけだ、自分はそばにいない方がいいと考えて、生んで二日目にサンティアゴと娘の前から姿を消したのであった。マリアーナ十七歳の頃である。それから十四年がたった。

シルビアの心の病の原因はそこにあった。そのことに気づいているシルビアは翻意する。サンティアゴが呼んでいる。そう思って娘に会おうと決心し、街を立ち去ろうとしているカルロスたちを追いかける。探し回って、ようやく宿を見つけたが、カルロスも娘もドアを閉ざしたまま会おうとしない。シルビアは、彼らの部屋のドアが開くのを待とうと自分も同じモーテルに部屋を取る。

Palmsmotel

やがて、カルロスが荷物を車に積み込むために階下に降りるのを見て部屋に飛び込み、マリアと対面する。ぎこちなく名乗りを上げわびを言うが、マリアにとっては見知らぬ他人であった。マリアを連れ去るつもりではないかと、カルロスが慌てて戻ってドアが閉まる。

そして、ブルーから明るいイエローの色調に変わり、三人がメキシコの街の空港に現れた。病院では、サンティアゴが片足を切断するかどうか瀬戸際のうえに、感染症にかかって重篤なまま昏睡状態にあった。サンティアゴは怪我を負った時に、自分が死ぬ場合のことを考え、マリアを母親に託そうとその行方を捜しメキシコに連れて帰ることをカルロスに依頼したのだった。

シルビアは二人きりになった病室で意識のないサンティアゴを前に話しかける。ここではじめてあのトレーラーハウスの事故の全貌がカットインされ、明らかになる。シルビアはその事故の原因をつくった自分を許せなかった。誰にも話せないで自分一人を責めて苦しんだ。「サンティアゴ死なないで。マリアにはあなたが必要なの・・・そして私にも。」

マリアの家に泊まることになって、サンティアゴの部屋に入ると、あの十六歳のころに手渡したマリアーナの写真が飾ってあった。

この終幕近いところに、これまでのいきさつをなぞるようにいくつかの回想シーンが短く現れ、その中にさりげなくマリアーナが子供を置いて家を出る場面や、若い二人がメキシコに行こうと話してる場面が折り込まれる。アコースティックギターの音だけで小気味よく繫がれていく映像はこれこそ映画だという具合に見事だ。ジグソーパズルの完成は近い。

翌朝、病院の廊下で待っていると、医者がやってきて「どうやら乗り越えた。足の切断も必要がない」と告げる。意識も戻ったと言われて、病室に駆け込もうとするマリアが振り返ってシルビアを誘う。それに頷いて、ほんの少しほほえむと廊下を歩いて行く後ろ姿を追って二人が病室に消えると一瞬、間があって溶暗。

十代のマリアーナとサンティアゴの二人と現在の彼らは、それぞれ異なった俳優が演じているために、話がややこしく見えるのだが、それもアリアガの工夫であった。少年と少女から大人へと十四年の歳月が流れたのである。青春の過ちに苦しみ、それを浄化するに十分な時間ではないかといいたいようだ。

シルビアの頬にほんの少し笑みがさすという終わり方も、アメリカ映画らしいと言えばいえるが、再生への希望が見えて好ましい。

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この映画を見終わって、どうしても確かめたいことができたといった。

それはまず、あの海岸にたつレストランがどこかということであった。日の傾きから西海岸のようであるが、カリフォルニアではなさそうだ。

というわけで、いろいろ調べた結果、まず、主なロケ地はポートランドだと言うことが分かった。ポートランドはメイン州にもあるが、ここはオレゴン州である。

このオレゴン州の海岸線で崖になっているところをグーグルでたどっていけばあるのではないかと思ってやってみたが、とてつもなく広いし、ストリートビューに出てくる景色は沙漠の砂が飛んでいるような赤茶けた色で情緒も何もない。効率が悪いので、映画の情報を徹底的に集めることにしたらどうやら特定することができた。

 

それは、Depoe Bay というところらしい。海岸線に沿って南北に走る国道101号線に面している。日本の国道101号線も秋田県能代市から風光明媚で有名な五能線沿いを北に向かっている。単なる偶然だが、光の具合がどこか似ている。それらしいところを狙って、拡大してみるが、何しろ映画とは似ても似つかない普通の田舎の国道だからなかなか見つからない。ごちゃごちゃやっているうちに、The Tigal Reves Seafood Restaurant という写真が見つかった。このあたりではよく知られたレストンらしい。道に大きな看板がでている。およそ百メートルくらい行きつ戻りつしながらやっているうちにとうとう見つかった。夏の海なので印象は大分違ったが、ロケ地である。

Thetigalrevesseafoodrestaurant

今度はポートランドについて調べようと思った。

アパートはセット撮影と言うこともあるので、実在しないかも知れないが、いろいろの橋が背景に出てくるのでその場所は特定できそうだ。

ポートランドのことであるが、てっきり海岸近くにあると思っていたら、百キロも内陸にあった。カナディアンロッキーから流れ下るコロンビア川の支流の一つ、ウイラメット川(Willamette River)の河畔に開けた街で、人口54万人、周辺の都市圏を合わせると約二百二十万人というオレゴン州最大の経済都市で、今なお発展を続けている。16キロ北で本流に合流した大河はオレゴン州アストリアまで流れて太平洋に注ぐ。河口は、シーフードレストランのある Depoe Bay から北に約百六十キロである。

1800年代半ば、街をつくった時の有力者が、メイン州ポートランド出身だったために同じ名前にしたと言うが、なんと安易な命名だったろうか。元々が英国の地名だから世界には三つのポートランドが存在するややこしいことになった。

川に架かる橋は、八本ほどあるがそれぞれ特徴があって、わかりやすい。アパートの窓から見える橋とシルビアがカルロスに呼び止められる河畔の遊歩道の背景にある橋は同一のものである。何度か確認して分かったこの橋は鉄骨で組んであり、真ん中の二つの塔にはさまれた部分が昇降して船を通す構造になっている。Steel Bridge という味も素っ気もない名前らしい。

そうなると、アパートから橋が見える角度を追っていくとそこにたどり着くかも知れないと思った。これが頭で考えているのと実際がどうしても合わない。窓は川に向いているように見えるが、どうも正面に橋があるようだ。東だと思っているのが南に向いているらしい。普通、建物は川と平行に建っているものだから橋が見えるはずはないのである。すると、この橋ではないのか。他の橋も当たってみたが、形状を見比べただけではとても特定できない。

 

ところがそのわけが判明した。Steel Bridge のすぐそばに上から見ると複雑な幾何学模様を描く建物群があったのである。せっかくの川と橋が織りなす景色を最大限見せようという目的で設計した結果、モダンで機能的なアパートになったという事例だろう。こういう建物ならどちらに窓があってもおかしくない。シルビアのアパートは南側に窓がある部屋だったのだ。

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ということは朝、女友達が迎えに来た道路もアパートのそばにあるに違いない。そう思って、近くの通りを探ってみたら、この一群の建物の敷地に入るところに駐車場があって、そこはシルビアがレストランの客を連れ込むシーン、カルロスが様子を探る場面で見覚えがあった。道との境界にスティールの格子の塀がある。それもそのまま同じだ。アパートは実在した。しかも敷地全体を使って撮影している。Sb

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その通りを調べると、映画では、ちょうど車が止まったところに消火栓が見える。ストリートビューで探すと、果たしてそれは駐車場の入り口付近で見つかった。そこに視点を移して車がやってきた方向を眺める。映画は望遠レンズを使っているから遠くの景色をグンと手前に引き寄せて絵として濃厚だが、確かに向こうの方に見えるのは同じ高速道路の高架らしい。それを発見した時は感激した。いま、カメラの位置と同じところに立っている、そんな気がした。

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その道には、Naito Parkway という名が付けられているのに気がついた。日本人のナイトウさんかもしれないと思って、調べてみると、やはりこれは日系人の名前に由来するものだった。サム内藤(1921~)は成功した日系二世である。父親の代にポートランドに移住して、いまも手広く商売を営んでいるようだ。河畔には市に寄贈した土地があり、春になるとさくらが咲きほこる公園になっていて、その前を通る道が Naito Parkwayだったのだ。意外なところで日本に出会うものである。

ポートランドでの主立ったロケ地は、あとカルロスとマリアが宿泊していたパームスホテルがある。これは、グーグルアースに打ち込むと簡単に分かった。アパートから橋を渡って北へ三キロばかり走った通りに面している。シルビアは車を持っていないから、レストランの仕事仲間である女友達に足代わりを頼んでいる。その女友達がフロントと交渉している入り口も通りから確認できた。

マリアたちの部屋のドアから撮った場面の奥にこの看板が小さく確認できる。

Palmsmotelgoogl

他に挿入されるカットで印象に残った建物があった。オレゴンコンベンションセンターである。アパートから撮ったものと思うが、下の写真は少し位置がずれている。

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こうして、ポートランドのロケ地を確認すると、こんどはマリアーナとサンティアゴが暮らした中西部の街はどこか探してみようと思った。向こうはメキシコだ、とサンティアゴが言っていたから国境が近い。最初はエル・パソ近郊かと思って調べたらどうもロケ地は、それより七,八十キロ北に行ったラス・クルーセスという街らしい。

燃えたトレーラーハウスがあった場所は、背景となっている山の形を追ってみて、大体の場所は推定できたが、なにしろ沙漠の真ん中だから最終確認はできなかった。

彼らの家のある周辺は、ランドマークになるようなものは全くなかったので、探しようがなかった。この街は人口が七、八万人、沙漠のど真ん中である。西側を流れるリオ・グランデ川の水を灌漑用水にして、農業が盛んである。周辺には岩山があちこちにみえるが、ここ自体が標高千メートルを超す台地なので、山々の高さは二千メートル達するものがありそうだ。

映画では、家々に植栽も多くゆったりした低層住宅が並ぶ普通の街のように見えた。ところがグーグルで見る街は砂嵐でもあったかのように赤茶けてほこりっぽい。映画の方がほんとうなのだろうが、ストリートビューで見る限り、みすぼらしい印象である。

トレーラーハウスのように見えたものは、実際にはもう一回りぐらい大きいことが分かった。というのも、街の一区画にこのトレーラーハウスと同じものが何軒も同じ方向に並べて建っているところがあって、こういう簡易住宅は、この地方の文化なのだとみてとれる。車を着ければ移動可能なのだろうが、通常のものよりも住宅としての機能が大分充実していそうだ。ジーナが、ニックにお湯が出るようにして欲しいといったのは、もともと街にあったものを運んできたからなのであり、見慣れたものが沙漠の中におかれても誰も不審には思わなかったであろう。

ここはジーナの家とニックの住む街との中間地点だという台詞があったが、ジーナの住む街の方は特定できた。ジーナの葬儀の様子を見ていたサンティアゴが、マリアーナの後を付けていくと、いったん家に戻ったマリアーナが買い物に出てくる場面がある。近所のコンビニに向かうマリアーナの後を追う。そのコンビニの名前が「Aguirri’s Mini Mart」で、それは実際に存在した。

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ラス・クルーセスでのロケ地追跡は、ここであきらめてしまった。それほどストリートビューが充実している訳でもないし、僕の興味もそこで尽きた。

海辺の崖の上に立つレストランが西海岸にあるのか、それとも予想通り東海岸のどこかなのか確かめたいというのがきっかけだった。そして、冬の曇天のもとにあったポートランドの街が魅力的であったために、いや、それとシルビアの謎めいたふるまいがない交ぜになって、一層この少しおしゃれで落ちついた風情の地方都市がどこにあるのか知りたくなった。

画面から場所を推理して、グーグルで探った末にストリートビューでその撮影現場を発見することが、無上の喜びになった。暇な奴だと笑っていただいても結構である。それもこれも、映画そのものにそれをさせずにはおれなかった面白さと説得力があったからだといえる。そんな映画には久しぶりに出会った。

 

映画ではジーナ(キム・ベイジンがー)とニックのむつみ合う場面とジーナの家族との絆が揺れ動いている場面がふんだんに出てくるが、それについてはつらいので書くのを省略してしまった。不倫というものがもたらす代償がいかに高くつらいものか、人はそれが罠とわかりかけていながら、甘美な時に誘われおぼれてしまうのである。マリアーナは、十四年もの間苦しんで、ようやく夫と娘の元に帰ることができた。マリアーナが病室に消えたあと1~2秒だけ誰もいない廊下が映って終わる。マリアーナがあちら側にいけたのはほんとうによかったと思う。


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2010年11月 6日 (土)

「情婦」いや「検察側の証人」

Zyouhu

ビリー・ワイルダーの「情婦」という映画が、面白いというので、DVDを借りてきた。タイロン・パワーとマレーネ・デートリッヒという豪華なキャスティングでビリー・ワイルダーと来たら面白くないはずはないと思ったが、何しろ古い映画なのでひょっとしたら見ていたかも知れないと少し心配だった。
それにしても「情婦」というタイトルはどうだ。アガサ・クリスティの原作にそんな題名はないと思うから、映画屋が付けたものだろう。そこで、タイトルのところで注意してみていたら、なんと「Witness For The Prosecution」つまり、「検察側の証人」というのであった。
それなら知っている。昔、舞台で岸恵子がやったのを見ている。どういうわけか記録から抜け落ちているが、確か「ル・テアトル銀座」がまだそういう名前になる前の劇場で見た記憶がある。たぶん80年代の終わりか90年代初めのことだったと思う。岸恵子の姿だけはかなり鮮明に残っているが、あとの記憶はすっかり消えている。どうしたことか?おそらく、舞台は大して面白くもなかったのだろう。映画は、老弁護士のチャールズ・ロートンが退院して看護婦付きのままオフィスに戻ってくる所から始まるが、その場面に記憶がなかったので、見ていないと直感して一安心した。
Officeにご帰還されて、依頼人に会うところまで、さすがに、ビリー・ワイルダー、間髪を入れぬ、濃厚な演出で、依頼を受けるか受けないかはらはらさせながら、以降観客を物語の中に引き込んでいく。
デートリッヒの存在感はさすがに圧倒的。
法廷劇として非常に面白い映画に仕上がっていた。
お薦めの作品です。
舞台「検察側の証人」は、なぜ面白くなかったのだろう?たぶん岸

 

Kensatu

恵子が悪女には見えなかったせいかもしれない。
ここまで書いて、前に見たのはいつ頃かと調べていたら、なんと、現在、浅丘ルリ子でやっているようだ。しかもル・テアトル銀座で、ドサ回りもしているらしい。これは宣伝になったかも知れない。
他のキャスティングは風間トオル、鶴田忍、菅野菜保之、松金よね子、渡辺徹、伴美奈子、石村みか、高嶋寛、紘貴

 

石村みかがこんなところにいたなんて。

 

 

 

 

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2007年2月14日 (水)

「それでもボクやっていない」を見た

昨日Yに誘われて「それでもボクはやっていない」を見た。「Shall we ダンス?」の周防正行作品。内容は、よく知られているように痴漢の冤罪の話だ。この映画の損なところは、始めから結論が見えていることである。痴漢の裁判の有罪率は99.3%だそうだから起訴されたらまずはほとんど勝てない。そのためでもないだろうが、取り調べる刑事は「認めたら一泊で帰す、罰金刑で済ませられる」と容疑者を誘うらしい。否認すると何日も拘留されて、早い話が日常生活が壊れてしまう。おまけに、起訴されたら莫大な裁判費用がのしかかってくる。つまり、やっていないことを証明するのはやったことを証明するより何倍もの労力がいると想像出来るから、それを考えたら認めてしまったほうがいいということもあるだろう。不運と思ってあきらめるのだ。この映画の主人公の場合、就職活動の最中で、家族もいない。しばらく拘留するといわれても、差し当たり迷惑をかける相手はいなかった。そこで、この先何が起きるか想像もできないままに頑張ってしまったのである。正義は勝つと思っていたわけだ。当然の心がけです。
しかし、正義はいつでも勝つわけではない。したがって、注意深く行動することが肝要です。だれでも痴漢と間違えられる危険性は常にある。僕は通勤時間を三十分以上かけるのはナンセンスと思っていたので、最初は乗って十七分、引っ越してからでも乗り換え一回で二十五分と短かった。危ないのは混んだ電車に長く乗る時だ。痴漢が多いのはそういう電車である。女性の傍に近寄らないのが一番だが、そばにいたら手を上げて置くことだ。この犯罪は、女性が手をつかんで「この人、痴漢!」といったら成立してしまう。まことに女は危険である。君子はあやふきに近寄らないものであります。つまり女性を避けて生きる他ない。たやすいことですよね?
日本の刑法、刑事訴訟法は戦前のものを継承しているから、いくら改正したところで、根っこの思想は変らない。御上のご威光を思い知らせてやると言う態度だから、正義が行われると思ったら大間違いである。この映画でも出てくるが、刑事裁判でしばしば問題になるのが、検察側が自分たちに不利な証拠や証言」は出さないことだ。例えば、捜査の過程で得られた被告の証言でもすべて法廷にでるとは限らない。出たものは、脅されて言わされたと言ってもいいが、出されていないものには言及のしようがない。「あのとき、私はこう言ったはずだ。調書に取られたのを覚えている。」といっても、それは探したが見つからないといってすむのである。
最近、鹿児島で起きた選挙違反の公判でこれがあった。若い検事補がやくざまがいの脅しをかけて、証言させ都合の悪い調書を隠した件である。こういうのは、裁判長が倉庫をひっくり返させて探さないと出てこない。このやくざ顔負けの検事補(実際に凶悪な顔をしていたのに驚いた)は、問題になった途端に辞表を出して弁護士になってしまった。しかも、この事件は始めからでっち上げだったのである。ないことをあったことにしてしまった。こんなことでだれが利益を受けるのかはなはだ疑問だが、実際にあってしまうのが世の中だ。
こう言う事件の背景にもなっている最も大きな問題は、司法組織全体の利益を保全することがしばしば優先されることだ。しかもその中で何が起きているか?裁判官に決定権限があるのはひとまずいいとして、これが国家の組織、立派な官僚組織になっている以上、一般の官庁や会社のように出世街道があり、派閥や学閥があったりして、それが裁定に影響することがある。もっともらしい理屈を作るのは得意だから外にはあまりわからない。
この映画では、オフィスで司法修習生を前にして担当裁判官が「君たち、刑事裁判の要諦はなんだと思う?」と問うところがあるが、「公平を期す。」とか曖昧なことを応える修習生に、この裁判官は「冤罪をうまないことです。」ときっぱりいいきる。観客はここでほっとして、彼は無罪になるかもしれないと期待しはじめる。
場面はオフィスでの出来事であるが、法服をきた一人の裁判官がこの会話を聞きながら彼らの後ろを通って上司の席に着く。うまい伏線の張り方である。
次の公判で、何の前触れもなく裁判長が交代したと告げられる。席に着いたのは、あの上司とおぼしき裁判官であった。転勤はよくあることだというが、組織の管理者として「よく無罪を出す裁判官」の存在は自分の勤務評定に影響すると考えるのは極く自然の道理である。
この裁判官は打って変わって冷徹である。ここで観客はがっかりするのだが、すぐに探していた証人が現れ、決定的な証言になると再び期待を寄せることになる。
映画は、日本の刑事裁判の問題点をいちいち指摘しながら、一喜一憂する裁判劇としての面白さもあってよく出来た佳作といった趣があった。
被告になったら、あれだけ甚大な損害を被るわけだから、それでもなおかつ裁判を望むというのは余程のことで、ここは一つ「やっていない、無罪」としてもよさそうなものだ。「やっていない」といい張って起訴されたものは頑張ったご褒美で、みんな無罪ということにしたらどうだろう。うーむ、しかし、某元大学教授の例もあるしなあ・・・。
外国で上映したところ、失笑を買った部分があったらしいが、日本の警察や裁判制度に相当な時代錯誤があるとおもったのであろう。なにしろ、警察の留置にしても、拘置所、監獄にしてもまともな人間扱いをしていないことは明らかで、それは先進国の中でも飛び抜けて評判が悪いことはよく知られている。警察の取り調べにもようやくビデオが採用されるらしいし、裁判員制度もまもなく始まる。こう言う司法改革はおそらく明治以来のことだと思うが、すべて外圧によって実行されるようになったことである。米国は、自国の民主主義を世界に輸出することが人類全体のためになると考えている点でかなり能天気な国である。一貫性がなくて迷惑な点も数多くあるが、この百年の日本の硬直した司法制度を変えるに当たって、ああだこうだと文句をつけてくれたことには感謝していい。この間まで拷問があった(と言う噂)けれど、たいしたしがらみもなかった韓国の方がさっさと米国風を取り入れている。ついでに、裁判が遅いから、法曹関係者を増やせと言うのも米国のおせっかいだ。なにしろ、弁護士の数だけでも、米国約90万人に対して日本は2万人もいない。米国の弁護士には食っていけないものもいる。日本では、地方には弁護士が一人もいない地域があって、食っていけるのは都会だけである。これ以上増やしたら当然訴訟の数も増やさないと生活していけないことになる。弁護士がいやがるのは無理もない。数年前から日本でも弁護士事務所が広告を出せるようになった。マッチポンプの前触れである。
以前僕は、民事裁判の被告と原告の両方をやったことがある。僅かな金のことで訴えてきたから弁護士を紹介してもらうと、訴えた弁護士事務所を知っていて、ここは、勝ち目があろうとなかろうと取りあえず訴えさせるのを常套手段にしている、まあ悪質な弁護士だということだった。こっちに理があったから、逆に告訴しようということで原告になったのである。このときは、自分で裁判の戦略を考え、必要な証言を集め、文書を作って提出した。弁護士がやったことは裁判の日程を決めたことぐらいで、彼らがその頭脳を使ったことはほとんどない。結果は、一年あまり続いたあげく、向こうが負けそうになったと察知して示談を申し込んできた。いくらか金を取れそうだったが、バカらしいから応じておしまいにした。結局弁護士費用だけ払わされてしまったのだ。
弁護士が増えると訴訟も「増えなければ」ならない。そんな世の中になったら住みやすいか?考えるまでもないだろう。いまの人数で足りないのなら、パイにあった数で止めておかないとたいへんなことになる。クジラにたとえるのも変だが、増えすぎたクジラは生態系を壊す。日本の生態系に合った分だけ増やすべきだろう。
映画の話に戻ろう。次の日民放のBSで、偶然この映画をニューヨーク、ロンドンで法曹関係者に見せたドキュメンタリーをやっていた。周防正行監督が試写のあとティーチインをやっている。日本の司法制度にはなじみがなかったらしく皆きょとんという感じだった。司法制度にはそれぞれの国の事情が反映されている。どうしたらいいかは、自分で決めるべきものだが、そんなのおかしいよと、外国に言われるのも一つの契機には違いない。周防正行はいいきっかけを作ってくれた。

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