関西テレビが「納豆ダイエット」のデータ改ざんをやった事件の時に、「嘘はいけない」「やってもいないことをやったように見せかけてはいけない」と至極もっともな指摘があって、関係者一同が謝罪して一件落着したようになっている。僕はこの時、ことの本質はそんなところにはないとここに書こうと思って、その暇が無く放っていた。
そうこうしているうちに、「寺山かぶれの演劇好き」と称する妙ちきりんな男から変ないちゃもんをつけられたので、このことを思い出した。
僕は70000ヒットの報告の文にこう書いたのだ。関係箇所だけ引用する。
「また最近、暇にまかせて、あちこちのページ、ブログをのぞいて見ましたが、
なかなか皆さん盛んで、いろいろな見方があるものだ感心しています。
中には、戦前の学者が使うような古風な言い回しで、晦渋・難解な論文をものにする人や僕のような鈍感で頭の血の巡りが悪いものにはとうてい歯が立たない理解の困難な批評もあって、とまどうこともあります。」
おそらくこの部分に対してなのだろうが、次のような批判があった。
「僕は映画監督の森達也さんと同世代で彼の作品も好きなのですが、森さんはブログであの馬鹿げた納豆ダイエット騒動の背景に「わかりやすさを求めるこの国の民意」があると指摘しています。わかりやすさの強迫が、ドキュメントで守られてきたまっとうな倫理(過剰演出を抑えるために吹き替えを禁じ手にしてきたこと)を済し崩しにしたと。お分かりでしょうがわかりやすさは絶対的な価値ではない。」
僕の上の文と、唐突にを関連付けて論じることにそもそも無理があるのだが、あえて解釈すると「晦渋・難解な論文」や「理解の困難な批評」にとまどうということは、僕が「分かりやすさ」を求めているからだと、結びつけたらしい。「僕は何をいっているのか?何を言いたいのか?分からない劇評に出会ってとまどっている」といったのだが、それは読んでも分からない日本語の文章では困るという意味である。
上の批判がピンずれしていることはあきらかである。
ところがこのとき、この森達也がいっているらしい「わかりやすさを求めるこの国の民意」なるものが「納豆ダイエット騒動」の背景にあるという指摘に「何をしたり顔に、分かったようなことをいいやがって」と腹が立ったのだ。「この国」とはなんだ。「わが国」と言え。それはともかく、わが国の大衆は「分かりやすさを求めて」いて、テレビはその要求を強迫観念のように感じていたから、表現の「倫理」を曲げてまで物事を「分かりやすく」伝えようとしたのだといいたいらしい。
ここには、二つの大誤解がある。
一つは、「ドキュメントで守られてきたまっとうな倫理」が存在すると思っていることである。
ドキュメントというものは、たとえば、なにもない砂漠の中に一筋の道が延びていてその果ては陽炎にかすんでいる風景をカメラが写し出しているとする。ナレーションは、「数千年に渡る人々の営み、悠久の時を刻んでシルクロードは西へ延びています。」と重なっていて、これは「遥かなるシルクロード」を描いたドキュメンタリーの一場面として見ることが出来る。ところが、実はその場所で、カメラマンが僅かに頭を左にふると、そこには巨大な石油コンビナートが建設中という近・現代の象徴のような光景がくりひろげられている。これでは「遥かなるシルクロード」にはふさわしくない風景だと作り手は思うだろう。したがってここは撮影しない。
すなわち、ドキュメンタリーであろうとニュースであろうと人間が切り取ってきた風景である。人の手で選び取られた映像を見せられるのである。だから、隣に巨大石油コンビナートが在るか無いかは分からないが、あるかもしれないと言う疑いは常に存在する。撮影する側、ドキュメンタリー作品を作る側に倫理があろうとなかろうと、それをどう思うかは見る側の問題なのだ。「過剰演出を抑えるために吹き替えを禁じ手にしてきた」というがこの程度の倫理ならなし崩しにしようとたいした問題にはならない。『過剰演出を押さえ」なければならないことの方に作り手の問題が在るだけで、そんなものは見る側は百も承知なのである。
もう一つの誤解は、「わかりやすさを求めるこの国の民意」があると思っていることである。
これには好都合の事例があるのでそれを取り上げよう。
自民党と民主党である。二大政党にして政策を選択出来るようにするのが理想だと言う掛け声のもとにマスコミは二つの違いを鮮明にしろと盛んにいってきた。「分かりやすさ」を要求してきたのである。あれか、これかどっちかを選ベといわれたら、ことごとく政策が二項対立している方が選びやすい。「分かりやすさ」とはAかBか違いがはっきりしていていずれか選べることにほかならない。
ところが、実際には自民党と民主党の間には政策が似通っていることもあれば、正反対のことまでさまざまあり、一刀両断には出来ない分かりづらさが存在する。二大政党が理想だと思い込んでいるマスコミは、いよいよもって国民に違いを分かりやすくしろと叫ぶ。(田原総一朗などはその代表格)
ここにいたって、明らかになるのはもともと分かりにくいものを無理やり「分かりやすくしろ」といっているのは国民ではなくてマスコミだったことである。国民は、マスコミも随分無理難題をいっているなあ、大丈夫なのかなあと思って見ているだけである。その証拠に「憲法改正」は是か非か?という新聞社のアンケートに多くは「改正はいいが海外派兵は反対だ」と政党間の意見にまたがる回答を寄せている。(これには異論もあるだろうが)自分の問題として捉えていることの一つの証であろう。
はっきりと言っておく。わが国民は「分かりやすさ」など求めていない。大事なことは自分の頭で考えようとしている。そのために情報は欲しい、そう思っている。あれか、これかと選択肢を突きつけられなければなにも考えられないなどいうのは、国民をバカにしている証拠である。むしろマスコミは、いろいろな意見をたくさん紹介しろといいたい。
国民をバカにしているのは、上の「倫理」にも共通する。国民に迎合して、ドキュメンタリーの作り手が倫理を守らないというのは言いがかりも甚だしい。「分かりやすさ」を要求しているのは作り手自身でありマスコミ自身ではないか。こういう思い上がりはいい加減にしてもらいたいものである。
ということでようやく僕が語りたかった「ことの本質」に取りかかることができそうだ。
この「ねつ造」事件の背景には、「分かりやすさを求める民意」などは一つもないし、あったとしても本質的な問題ではない。
もっと大事なことは経済の問題である。日本の産業構造の問題であり、雇用の問題であり将来の問題がこの事件によって見えてくるのである。
こういう問題は、いつか必ず明るみに出ると思ってきたが、それは何故かと言えば構造上そうならざるを得ない形になっているからで、ある意味では遅すぎたと思うくらいだ。ところが、騒ぎが収まってしまうと、誰も言及しなくなってしまったのは、追求するとTV局の経営の根幹に関わってくるからだろう。雇われコメンテーターがいい出すはずもない。
一体この「納豆ダイエット」の制作費はいくらだったのか?米国の大学教授に取材しなかったのにあたかも取材したように見せかけた理由は二つ考えられる。一つは、その費用がなかった。米国にカメラクルーを飛ばして取材するだけの金がなかった。もう一つ考えられるのは、作り手のディレクターがでっち上げでかまわない、つまり「倫理」を踏み外した、あるいはそれだけのモラルハザードを起こしていた、ことである。どちらも原因は潤沢な制作費がなかったことで起きたと考えられるのである。
では制作費はどういう仕組みで決まるのか。まずTV局がスポンサーから制作費として受け取る金を100としよう。キー局はこれを自分の子会社である制作会社に50で渡す。50はなにもしないで自分の懐に入れる。この子会社はほぼ専属の子会社に25で渡す。この子会社も何もしない。次に制作現場を担当している弱小制作会社に12.5で発注する。弱小制作会社は自分の利益を半分取って、残りの6.25を制作予算にまわす。大概はフリーのディレクターがこの予算で仕事にかかることになる。契約によっては金を使わなければその分自分のものになる。出来るだけ金をつかわない番組作りが行われる。
昔はTV番組を作っていることは尊敬された。しかし、長い間に低賃金と過酷な労働条件で長く勤める職場ではなくなった。魅力のない職場であることから優秀な人材も集まらなくなった。モラルが低下するのは当たり前である。
これはどこのTV局も同じであって、もう何年も前からの構造的な問題なのである。だからまた同じことが起きるだろう。
この子会社に次から次仕事をおろしていくやり方は、TV局だけではなく、製造業にもサービス業にも蔓延している。親会社は何もしないで口銭ばかりを取って太っていく。実際に仕事をしているところは低賃金に重労働でモラルも上がらない。これが日本の産業の実態なのである。階層社会とはよくいったもので、このおろしていく仕組みにぴったりあった階層ができつつあると言っていい。
資本主義は放っておけばこうなるものだ。行き着く先は、とんでもない格差社会で、家の中に三つくらい鍵をかけてガンで武装しなければ強盗から身を守られない時代がやって来るに違いない。
「納豆ダイエット」の事件の背景には恐ろしい社会問題があったのである。
「分かりやすさを求めるこの国の民意」などとえらそうに高みの見物を決め込んでいるのではドキュメンタリーの作家としてどうかね。
もうちょっとことの本質を見抜く目を養ってこいよ。わかったか!
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