2011年にこのブログで「『現代文学論争』(小谷野敦)を読んで考えたこと」と題して書いたことに関連して、思うところがあり、今その長くなりそうな稿を準備している。
「現代文学論争」は小谷野敦が集めた文学者による論争を紹介するもので、他人の喧嘩が大好きな僕はただの野次馬のつもりで手にとったものだ。むろん、文学史的に意味深いなんてことはほぼ何にもないものであった。
なかで、「湾岸戦争」に反対する当時の知識人たちと評論家の加藤典洋との間に「論争」があったことを知ったのだが、あの、世にもくだらない「反戦新聞広告」を出した連中にたてついた加藤とは何者かと思って、彼の書いたものを入手して読んだことがあった。
(詳細は、「『現代文学論争』(小谷野敦)を読んで考えたこと」の抜粋をこの後再掲するので、確認してください。)
「関連して、思うところ」とは、いささか複雑なのだが、端的に言えば、
あそこで取り上げた加藤典洋が、最近(2015年)自己の問題意識の集大成として書き上げた新書にして600ページを超える大作「戦後入門」の結論というか提案で、自衛隊を一部災害救助用に残し、ほぼすべて国連の指揮下に差し出すといっていることに愕然としたのがきっかけである。
いま、若者たちの間で、団塊の世代は「時代に取り残されたもの」と囁かれている。なぜ囁きかといえば、自分たちが正しいと頑固に思い込んでいるものに、何を言っても無駄だと思っているからだ。
言い方を変えるなら、右翼と左翼の対立という構図でものを考える世代と、そこに何のリアリティも感じない若い世代が存在し、その間では所詮議論はかみ合わないといってもいい。
もっといえば、第二次世界大戦がつくった戦後の世界秩序が終焉し、世界史が新たな局面を迎えているときに、未だに「戦後」の延長上に世界の未来を描こうとしている類の時代錯誤を若者たちが相手にするはずはないのである。
加藤は団塊世代であり彼がそれを代表しているという証拠はないが、「戦後」という時間とその中で展開された言論を共有するという意味では、団塊の中に加藤と近似する心情を抱いているものが一定程度いてもおかしくはない。
加藤は、この著作の結論を急いだ理由として、現政権へのカルト的集団「日本会議」の影響を指摘するなど、政治の戦前回帰型右傾化への憂慮を明らかにしているが、長く「戦後」の社会を二分してきた「右翼と左翼」という「言論空間」にいただけあって、その主張はいまでいういわゆる「サヨク、リベラル」の言論と軌を一にするように見える。
「サヨク、リベラル」は、いかにして憲法の平和主義を実現するかを考えるいわゆる護憲派である。
つまり「平和憲法」を守るという態度の延長上に国連の権能に最大の期待を寄せるという議論は一応まっとうなものと思われるが、この議論の欠陥は国連の存在構造の哲理が説かれていないというところにあり、この程度のことではその主張が現実を無視したタダの観念論的希望に過ぎないということである。
また、戦前回帰への懸念についても、いかにもサヨク的な過剰反応で、「日本会議」や「神社本庁」がめざす戦前的社会が再来するなどはこれもまた彼らの観念的希望に過ぎないことは少し考えればわかりそうなものだ。
高度成長とともに家父長制の家族形態はすでに崩壊しており、もし戦前に回帰するとしても彼らを待ち受けるべきはずの天皇中心の牧歌的農村―瑞穂の国などはもはやどこにも存在しないのである。
つまり、ウヨク的・サヨク的の議論に決定的に欠けているのは、左翼がいうところの下部構造が変わった結果、日本人の生活意識(上部構造)がどのようなトレンドを描いて変化しているかについて一顧だにしていないところにある。
これについては、いずれ、2018年6月に出版された見田宗介「現代社会はどこに向かうか」(岩波新書)で示されたデータと分析を紹介し、「戦後」的議論が遙かに遠いところへいってしまったことを示そうと思う。(ただし、いっておくが、この新書は見田宗介の生煮えな仮説を披瀝した岩波のやっつけ仕事が如実に表れた中途半端なもので、出版業界の堕落ぶりを示すものであった。それは置いておいて・・・・・・)
いずれにせよ、団塊世代は「自分たちは間違っていない」という確信のもとに、国連中心主義などと言う時代のテーマとはおよそかけ離れた議論を大まじめに600ページも費やして主張する。
これを「時代に取り残されたもの」と若者たちが冷笑しているのである。
このことについて、加藤およびその同調者たる団塊の世代に「どの時点で道を踏み間違え停滞したか」を示して、あたかも神風特別攻撃隊という世にも愚劣な作戦を若者に強いた将校然として、国連などという魑魅魍魎の手に我が国民を差し出す権利など誰にもないことを心底理解してもらわねばならない。
とりあえず、以下に、加藤典洋と湾岸戦争反対を表明した知識人との論争について僕がどう考えたか、再録して置こうと思う。
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2011年1月のブログ 再掲
14.湾岸戦争から『敗戦後論』論争 1991ー99 については、少し複雑である。
ここで取り上げられているのは、『湾岸戦争』が始まろうとしている時に日本の文学者有志数名によって出された反戦「声明」についての論争とそれを受けた形で提出された加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる議論である。
湾岸戦争の『声明』についてははっきり記憶している。ある朝新聞を開いたら全五段のメッセージ広告が載っていたので『やれやれ勘違いな連中がいる』と思った。
まず、これは前の世代(の文学者たち)がベトナム戦争に反対した行動に対するコンプレックスがなせる技だと感じたのだ。戦争になって、存在感を示すチャンス到来と思ったのだろう。
これについては以前『必読書150の時代錯誤』に次のように書いたことがある。
「今ごろこんなこと(「必読書150」の出版)をやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対!」と叫んだ連中だけの事はある。何故反対かといえば、よく聞こえない声で、平和憲法があるからだとのたまったのである。古今東西の古典で頭が充満している日本の知識人のレベルとはこんなものだ。まあ、古典を勉強するよりは中東の歴史を勉強したほうがいいのではないか、とその時はあきれてしまったが・・・。」
これは論争になると直感的に思ったが、あまりのばかばかしさにすっかり興味を失っていた。
それから、2000年代に入ってまもなくだったと思うが、あるとき神田の古書市を漁っている時、加藤典洋が「戦後」論を書いて論争になったことを知った。加藤は同世代であったがはじめて目にする評論家で、そのときの評判ではこれまでの「戦後論」とはひと味違う視点で戦後を議論していて、右翼からも左翼からも批判を浴びているというものだった。遅ればせながら読んでみようとしたが、古本屋街では見つからなかったのでアマゾンに二三冊注文して読んだ。
加藤の主張は、押しつけられた憲法ならもう一度あらためて選び直すべきだということと、侵略戦争で死んだ兵士は犬死にだったが、それだからこそアジアの戦争の死者たちよりも先に弔うべきだというものであった。
これだけでは何か唐突のような感じもしたが、当時はまあそういう視点があってもいいかと思った。実は期待していた議論ではまったくなかったので半分はがっかりした。その後別のところで戦前の左翼は戦略的ではなかったと書いて、はじめて新しいことを言ったという印象を受けたのだが、一体どこに問題意識があるのか未だによく分からない。
ところが、一連の「敗戦後論」論争のきっかけになったのが、湾岸戦争の時の『声明』だったことをこの本ではじめて知った。
なるほど、この『声明』を受けて、加藤が声明に署名した連中は『平和憲法があるから反対だと言ったのだな』と書いたことに端を発していたなら、加藤がこのような反論に対する反論ーつまりは『敗戦後論』を書くのはもっともだと思った。
この「声明」と『敗戦後論』のことを書きたかったので、この稿を起こしたのだが、それはあとにして、目次の残りの項目のことを書いておく。(以下、中略)
「その2」
『現代文学論争」(小谷野敦、ちくま叢書)の中の目次「14.湾岸戦争から『敗戦後論』論争 1991ー99」 について思うところがあって、前回稿を起こしたといった。
その中で、2000年代の初め頃に加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論争を遅ればせながら発見して、何か新しい視点で『戦後』を語っているのかと思って期待したが、実は半分がっかりしたと書いた。そのとき何を期待したのだったか、そのことを書き付けておこうと思う。
それは、このブログの「『ハーバード白熱教室』に寄せて 政治と哲学」で、現代における哲学の積極的な活用について書くと約束しておきながら果たしていないことへの回答にもなるはずである。いや、この『敗戦後論』の論争はむしろそれを説明する格好の素材を提供してくれているといってもよい。
この際、それを整理して何をどう考えるべきか検討し提案しようと思う。
取りあえず、発端となった文学者の『声明』について、紹介しておこう。
声明1
私は日本国家が戦争に加担することに反対します。
声明2
戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。 一九九一年二月九日
2は発起人16人が名を連ね、1はその16人を含む43人が署名している。
従ってまず16人の名をあげると、
柄谷行人、中上健次、島田雅彦、田中康夫、高橋源一郎、川村湊、津島佑子、いとうせいこう、青野聰、石川好、岩井克人、鈴木貞美、立松和平、ジェラルディン・ハーコート、松本侑子、森詠 である。
1の署名者は省略する。
「湾岸戦争」というのは、1990年8月2日にイラクが突然隣国クウェートに戦車350両の機甲師団10万人で攻め入って、一週間後には併合を発表してしまったことに端を発する。
なぜイラクがそんな暴挙に及んだのかをなるべく短く言うと、まず、クウェートがオスマン帝国のバスラ州の一部であったことが、サダム・フセインのクウェート侵攻の下敷きになっている。
アラビアのロレンスで知られるオスマントルコとの闘いに勝利した英国がアラブを委任統治領にしたとき、英国はすでにバスラ州の一部であったクウェートを切り離して保護領にしていた。当然のことながら石油の利権を確保したのである。
イラクは1932年に独立、王国となったが、1958年軍事クーデターによって共和制が敷かれる。その政権も63年にバース党によって奪われ、やがて79年に大統領に就任したサダム・フセインの独裁政権につながる。翌年からイランとの国境をめぐる紛争が勃発し、89年まで続くが、この戦争によってイラク経済は追い詰められる。(イランに追い出された米国が、サダム・フセインに大量の武器供与を行って助けたことが、モンスター独裁者を生むことになった。)
一方、クウェートは1961年に英国から独立したが、世界最大級の油田を有し、ペルシャ湾に面した良港をもってアラブでも有数の豊かな国になった。
人口約300万人、国民一人あたりのGDPは4万ドル(先進国並み)、税金はなしで医療、教育は無償である。クウェート人は、一日の労働時間は約4時間で、下働きは外国人出稼ぎ労働者が引き受けるという王侯貴族のような生活ぶりである。
一方のイラクは人口約3千万人、一人あたりGDP約3500ドルとクウェートの10分の1以下、イランとの戦争で油田は壊滅状態、唯一の輸出品である原油価格は当時最安値を続けるという最悪の状態であった。
イラーイラ戦争で経済的に窮したフセインは、おそらく羨望と嫉妬が動因となって『あそこは、もともと俺のものだ。いまなら無防備だから攻め込んで盗ってしまえる。」そう思ったに違いない。内々に米国に『盗ってしまうが文句あるか』と打診したところ『国境問題にかかわる気はない』と言ったのに安心して、電光石火侵略したのであった。今時のやくざも顔負けのとんでもないやり方である。独裁政権というものは平気でこういうことをするものある。
クウェートはすぐさま亡命政府を作って『出て行け』と国連に訴えたが、もたもたしてらちがあかなかった。この間フセインは、イスラエルを批難してアラブ対ユダヤの構図にすり替えようとしたり、クウェートにいた日本人を含む外国人を人質に取ってイラク本国の攻撃されそうな建物に監禁して『人間の盾』にするという暴挙に出た。(12月までに全員解放)これにはさすがに国際社会の批難が殺到して、ついに国連が1991年1月15日までに撤退するよう決議、最後通牒を突きつけた。
多国籍軍には米国、英国、エジプトなど30カ国以上が派兵、1月17日に攻撃が開始された。日本は、国際紛争を武力で解決することを永久に放棄しているので、時の首相海部俊樹は、戦費130億ドルを供出することを申し出ることになった。
イラク軍は一応抵抗したが、もともとあまり戦う気がなかったから2月27日にクウェート市を解放、3月3日には停戦協定を結んで一応の終結を見た。
さて、『声明』はこの戦争のさ中、二月九日にだされている。
そうした状況を背景に置いてみると、いかにもとんちんかんで、なんのためにこのまもなく終わろうとしているタイミングにわざわざ『戦争反対』の「声明」を出さねばならないのか理解に苦しむのである。
僕がこれを新聞で発見して『ばかばかしい』と思ったのは、日本が派兵しているわけでもないのに、なぜわざわざ戦争に『荷担』するのは反対だというのか、しかも何紙出したか知らないが新聞の紙面を買うのに一千万円以上は使っているはずである、とんだ無駄をするものだということであった。さらに言えば、これは現に交戦しているイラクと多国籍軍の戦争にはかかわらないことを宣言したものである。その理由を、かつて日本が戦争で迷惑をかけたことを反省した結果、いまは平和憲法を持っているからだというのである。しかもそれは世界にとって最も根源的なものーつまりは範とするものだと言っている。
これを小谷野は『現代文学論争』の中で、いじめっ子の比喩を使ってもっともな批判している。
「『僕はかつてA君をいじめたことを反省し、今後、誰が誰をいじめようと、干渉することなく、誰かを助けるために働かず傍観し、いじめず、かついじめの一切にかかわらない』と宣言しているようなもので、むろん今でも、護憲論者というのはこれと同じことを言っているのだが、さらにその上には、もし日本が侵略にあったらどうするのかという思弁すら抜けているのだから、救いようがない。」(260頁)
今度、読み返してみて、『声明』2の長文には、『文学者』が書いた割には教養が全く感じられないとあらためて思った。
教養というのは語られた言葉の一つ一つに根拠があって、読むものを諄々と説き聞かせる力があることである。ポツダム宣言受諾の詔勅を完成させた安岡正篤などという漢籍に通じた教養などいらないが、せめて事実に忠実な真情あふれ出た文言にまとめあげる文才は欲しかった。
いまさら、どうでもいいことではあるが、間違いは正しておかねばならない。
第一に、小谷野も指摘していることだが「第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人」とは事実ではない。
まず、第二次世界大戦とは(便宜的に)連合国と枢軸国が世界規模で戦った戦争の総称であり、大日本帝国が戦った終戦にいたる15年続いたあの戦争の総称は通常「大東亜戦争」という。なお『太平洋戦争』とは、米国が戦後、日本国民に対し『大東亜戦争』の使用を禁じ、これを強制的に言いかえさせた呼称である。僕は、米国の強制力がない現在は二つの言い方のうち『大東亜戦争』の方に歴史におけるリアリティを感じて、使うことにしている。
また、『最終戦争』は昭和15年に、石原完爾が発表した論文と講演で使われた言葉で、石原は戦争史を概観し、いずれ一発で大都市を殲滅するような最終兵器が現れ、これを持って互いに総力戦を戦った後に恒久平和がやってくるといった。それを戦うのは東亜の王道と西欧の覇道であり、その戦争に勝つのは東亜の王道でなければならない。最終戦争の時期は、今から二、三十年後(つまり昭和35年か昭和45年頃に)に訪れるはずだという意味のことを言ったのである。
石原は、長距離を飛ぶジェット機や小型携帯電話などを予測していたからおそらく原子爆弾のことを考えていたのだろう。この当時、米国は艦隊をハワイに集結させて、盛んに日本を威嚇、挑発していたのであったが彼は、日米開戦は避けるべきだと主張していた。軍人でありながら、彼我の力の差がありすぎることを知っていたからであった。
そういう事情で、我が国にこれ以外の意味で『最終戦争』の言葉を使った事例はなく、大日本帝国が『最終戦争』を戦ったなどという事実はない。
第二に、「アジア諸国に対する加害への反省」が憲法に反映しているといっているが、「加害者」としての議論が起こってくるのは戦後だいぶたってからで、憲法が草案される時分に『加害への反省』という言葉に対応する議論は見あたらない。これはもっとずっと後になって、賠償の話が持ち上がった時に出てくるのである。敗戦でうちひしがれている時に、そんな心の余裕があるはずはないと文学者なら思いそうなものだ。
第三に「二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。」も根拠はどこにあるのだろうか?
これは第一次世界大戦後のことを言っているのではないか?一千万人以上の戦死者を出して戦った第一次欧州戦争は、終わってみるとその惨禍に驚いて、戦争は二度とごめんだとしてパリ講和条約に集まったのだが、そのときは確かに戦争放棄の憲法を想像したかも知れない。
しかし、第二次世界大戦が終わってみると、ここで言う西洋人の前にソ連という新たな脅威が現れた。そういう時期に武力を放棄するなどという発想も平和への「祈念」も浮かぶはずはないのである。真っ先に浮かんだのは原爆を落とし合う石原完爾言うところの最終戦争たる第三次世界大戦のことであろう。
「西洋人自身の祈念」に該当する西洋人自身の言葉なり宣言なりがどこかにあるというならそうでもあろう。「平和への祈り」なら毎日坊主がやっていると言っても無駄である。しかし、そんな証拠もないなら、西洋人にとっても勝手に心の中を斟酌されて迷惑な話である。
この文言は、外国人が『宣言』を読む場合が想定されていたと川村湊がいっているようだが、30以上の国々が多国籍軍を形成していることに冷や水を浴びせるようなもので、柄谷ともあろうものがとんだ恥さらしをしたものである
はっきり言えば、この憲法は、占領軍の米国流民主主義を至上のものとするとりわけ若い人生経験も少ない軍人や軍属、学者たちの良心、彼らのいわば浮世離れした理想を文章にしたもので、そういう意味ではよくできた憲法なのである。本国に帰れば二億丁もの武器を各家庭が隠し持っているのを合法だとしているのに、武装しないのが進歩的民主的だというのである。
米国政府が目的としたのは、あまり物事を深く考えずに戦後処理として、日本から武器を取り上げるための口実を作ったに過ぎない。なぜ深く考えなかったかといえば、まもなく朝鮮半島が共産勢力に盗られそうになって、大慌てで日本再軍備を画策したのがその証拠である。
1950年になって、占領軍は日本が丸裸では自分の負担が増えるばかりだから警察予備隊を作れと命令した。時の吉田首相は、軍隊を養うのでは復興が遅れると言っていやがったが、泣く子も黙るマッカーサーの命令だからしたがった。朝鮮で負け戦が続くといよいよ不安になって、二年後には保安隊に増強し、その二年後にはめでたくどこから見ても軍隊である「自衛隊」になったのである。
憲法を草案した張本人が、憲法違反をとがめ立てしないのだから時の政府としては、誰にも文句を言われる筋合いではない。しかもこのときはまだ占領中であった。野党が四の五の言ったところで「はい、止めましょう」というものでもない。これが、憲法違反だ、いや合法だと途方もなく長い間日本人にとってただただ不毛な議論を繰り返す種になってしまった。
ついでだからいうが、この湾岸戦争のときにはじめてマスコミにデビューしたものがある。「軍事評論家」である。それまで、軍事に関する専門的なコメンテーターがTVに出ることはなかった。僕はそういう職業が成立することをこの時はじめて知ったのだが、それほどまでに『軍事』についてはタブーだったのである。おそらく、『軍事評論家』なるものは、いかにも好戦的で暴力的な風貌を持っている者とおおかたの想像するところだったと思うが、NHKが登用した江畑謙介が冷静沈着、該博な知識と分析で説得力のある解説を見せてくれたおかげで、その後何人もの『軍事専門家』が何事もなくマスコミに場所を得ていったのである。
さかのぼると、1963年(昭和38年)の「三矢研究」の時は、大騒ぎになった。自衛隊が内部で、戦術の想定研究つまりオペレーションリサーチを行ったことが外部に漏れて、野党が追及した事件である。自衛隊と言うか軍隊ならごく当たり前のことだったが、それがけしからんというのである。このとき僕はまだ高校生だったが、どうしてこんなことが騒ぎになるのかばかばかしい世の中だと思った。
『自衛隊』は存在するのに、与党は「あれは軍隊じゃない」といい、野党の頭の中では『存在してならない』ものとなっているからこんな当たり前のことが争いになるのだが、そういいながら何事か起こる訳でもないという「ごまかし」と頑迷な観念論の実はなれ合う様を誰も不思議としなかった幸福な時代だったのである。
この時以来『軍事研究』は、建前上やってはいけないことになったし、マスコミも「軍事」について取り上げるのを禁忌とした。それから三十年近くたった湾岸戦争をきっかけに、ようやく禁が解かれることになったというわけである。
さて、『声明』の杜撰さについては、このくらいにして本題の「『敗戦後論』論争」に入ることにする。
ここでは、今更『論争』をなぞるのはいかにも古証文をくくってみせるようなもので、すでに小谷野が「たいした意味はなかった」と言っていることだから、省略する。
そこでまず、加藤典洋がで、どんなことを言ったのか『キーワード』を上げて簡単に説明し、そのあとで僕なりの意見を重ねることにしようと思う。
『敗戦後論』には、前書きのようにして、加藤の小学生時代の逸話が語られている。あるとき学校の遠足でいった場所で他校の遠足と一緒になり、学校の代表のような形で一人ずつ出て相撲を取ることになった。自分の学校の代表が「土俵際に詰められ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした。と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。」自校の生徒はどっと拍手をして喜んだ。自分もつられて拍手をしたが、そのときの後ろめたさを忘れられないというのである。
相撲が一瞬にして柔道になったことが、そしてその技で勝ったことに拍手した自分が、許せないと加藤少年は思った。
日本国憲法についても、そんな感じを持つという。
成長して後、憲法の成り立ちを勉強した時に、この思い出がよみがえったのだそうだ。つまり、日本国憲法は他人によって押しつけられたものであるにもかかわらず、我が国民にとって至上のものであるというのは「うしろめたい」気がするというのである。
これは「声明」2の最初の「戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。」と言う文言に対応している。
加藤は、日本国憲法の成立過程を文献を上げて証拠立てし、偽りのルーツによる『汚れ』(一種の心持ちの悪さのこと)を正すには、あらためて日本国民の手によって憲法を選択し直さなければならいと主張する。
この日本国憲法について、どう考えるか、というのが『敗戦後論』によって触発された僕の第一の主題である。
これは一義的には『戦争放棄』のことであるが、その延長には『天皇の戦争責任論』と天皇制の問題がある。憲法を採択し直すというのであれば当然のことであるが、この二つがテーマとなる。
さらに、加藤は一連の論争の中で、日本の加害責任論に対抗する形で、日本は大儀のない侵略戦争を戦ってアジアに迷惑をかけたと認めた上で、アジアにおける戦争の死者を悼むより前に、日本の戦争による三百万の死者を悼むべきではないかと述べた。この背景には、当時韓国人従軍慰安婦が日本政府を相手に賠償請求した事件があり、他にも、中国から南京虐殺や重慶空爆など旧日本軍の暴挙を批難する動きがあったためにそれに対応したものになっている。これは、政治問題としての『アジアに対する謝罪』と『靖国問題』につながっている。加藤は、この問題が生じる原因として、自民党の代議士に代表される保守派と野党や市民運動・リベラル派に代表される二つの対立軸にあると言った。つまり、日本人はジキル氏とハイド氏の二つの人格に分裂して戦後を生きてきたといったが、この発言は、侵略を認めたくない右翼からも謝罪を優先する左翼リベラルからも非難されることになったのは当然であった。
これは、いわば『敗戦国の責任の取り方』論であり、不毛な議論を繰り返してきた左右どちらの陣営にとっても、どう決着をつけるか、つまり分裂した人格を一つにまとめるという第二の主題を提示している。
加藤は、少年の頃の潔癖さを未だに持ち続けている立派な人格で、日本国憲法に対してある『汚れ』を感じているが、その第九条は守るべきであるという意見の持ち主である。
加藤は憲法が発布された後に生まれ、たまたま『勉強して』その成立過程には不純なものがあると感じたが、それで何か不都合があったかと言えば、そういうことでもなさそうだ。僕も、彼と同世代で後に憲法の成立については実にドラマティックないきさつがあったことを「勉強した」が、これが汚れていると感じるほどの感受性をあいにく持ち合わせていなかった。
だから、憲法とは立法府がこれに抵触する法律を作ってはいけない、行政府がこれに違反する政策を行ってはいけないと言って、国家権力を規制するための規範であり、国民の側から見れば、国民の総意を一気にそこにゆだねている成文化された「国家=構成する国民」というものの正体であり、その枠組みであると普通に理解してきた。
この精神に照らして、僕は、加藤のような居心地の悪さを感じなかったし、憲法が僕らの生活を圧迫していて、邪魔になると感じたことは一度もなかった。もしも、国民が憲法は「我らが総意」を汲んでいないというのであれば、これは手続きは大変だが、変えられるようにできあがっている。僕は、そのときがいつかは来るかも知れないと考えている。しかし、今に至るもその必要性を僕は未だ感じたことがない。
さて、加藤のいう憲法を選び直して「汚れ」を祓うとは具体的にどういうことか。その方法は、いくつか考えられる。まず、現行憲法を廃して新憲法を日本人の手で創案する、というのが(原点に返ることになって)、加藤にとっては好都合に違いない。しかし、彼は九条はあってもいいと言っているのだから、それ以外の条項を検討して、新たに創案することが考えられる。それでいくと、いずれにしてもどれを残してどれを変えるかという議論になる事は必定である。
それが、現在ある改憲論とどこが違うのかと言えば、単に改憲の動機が違うだけで、結果としてやることは一緒と言うことになるのではないか。何のことはない、加藤の提案は、これまで延々と続いてきた九条(天皇論も含む)をめぐる改憲論に還元されてしまうのである。
こんな単純なことをご大層に何頁にもわたって書き付けるのが文学者である。
加藤は、「勉強して」分かったことをあたかも自分が経験したことのように物語って「戦後」の出発点が「汚れ」「ねじれている」(「戦後」が「戦前」と連続していないと言うことか)ことを嘆いて見せた。憲法を押しつけられた経験者、さしずめ白州次郎あたりの、あるいは捕虜引き揚げ船で「しょったれた日の丸」を見て「これが戦に負けた日本の姿だ」と国と自分に毒づいた大岡昇平の衣装を身にまとって見せる。川村湊は、どうしたらこういう芸当ができるか不思議だと言ったらしいが(「現代文学論争」)勉強をしすぎて対象が憑依するというのはないものでもない。戦争帰りの教師が、日の丸、君が代はごめんだと生徒に教えると、あたかも戦場でひどい目にあった兵士たる教師が憑依して、経験したこともないのに日の丸、君が代を憎むがごとくである。
こう言うのは「勉強ができる」ものほど陥りやすい錯誤である。僕の子供の頃は、日の丸、君が代は保守反動の象徴としてインテリのよく尊敬するところではなかった。おかげでインテリでもないくせに未だにこの二つには多少の感情がゆれる。がしかし、「国家」に死ぬ目に遭わされた経験もない若い教師が、日の丸に頭を下げず、君が代を歌わないというふるまいには、けしからんとは思わないが、ある種の痛々しさを感じるものである。痛々しさとは、こんなつまらぬものに、職業を賭け家族の生活の安寧を賭けるほどの意味はないと思うからである。
こういうものがつまらぬ意地だと見えるのは、そのうらにある組合の運動方針の根拠たる「国家」とは何かという定義と認識がくだらない屁理屈だからである。
危機存亡の時でもないのに、「押しつけられた憲法は汚れている」などというどうでいいことにこだわるのもそうだが、「日の丸」「君が代」などと言う今更ながらの事柄につまらぬ意地を張って生活と命まで賭けるという日本人の精神構造の、この頑迷というか建前論の屁理屈好きの朱子学的習性は、もはや宿痾と言ってもいいレベルではないか。
僕は、「日の丸」が絶えず自分のそばにぶら下がっていなければ日本国民たる自覚がなくなるほど自分の精神が危ういものとは思っていないので、家で国旗掲揚などと言う七面倒なことをする気はない。しかし、必要とあらば頭を下げて敬意を払うことを拒むものでもない。「君が代」については、「君の世がいやさかであれ」という歌詞が嫌いだというむきもあるが、これを歌うからと言って僕は自分が天皇の臣下であると思ったことは一度もない。こんなものは一種のたとえ話、物語、古い文学にすぎない。日本が近代化する過程でどうしても必要だった道具立ての一つで、今となっては骨董品の輝きを発してむしろ美しいとさえいえる、などと書いたら喜ぶむきがあるかも知れないな。国歌というものが何がし、なければいけないなら「君が代」にこだわることもないが、あえて青筋立てて否定するほどのことではない。言わずもがなだが、我が国の国歌としてふさわしい代案があるなら、何時でも検討したらいいと思っている。またこういうと、加藤のような潔癖症や朱子学的空理空論を唱える輩が出てきてやかましいことになるのがやっかいではあるが。
ところが僕は、他人と同じことをするのが大の苦手で、なるべく国歌斉唱の場に遭遇しないようにしているが、やむを得ず同席することになれば口パクで済ましている。これは対人恐怖症という精神の傾向性がそうさせるので、決して思想的な背景があるわけではない。あるいはまた、子供の頃にさんざん「日の丸」「君が代」論を聞かされたせいで、この言葉に対する心的外傷が未だ癒えず、つまり古傷がうずいているのかも知れない。
中途半端だがひとまず、中断。
再び、はじめる。
「日の丸」「君が代」などと言うあらぬ方角へ暴走してしまったが、話を元へ戻そう。
日本国憲法である。
とりわけ、「声明」がすべての戦争に反対だという根拠を、我が国の憲法第九条においているのだから、この問題からはじめよう。
今さら、条文を確認する必要もないが、これは日本は軍隊や武器などの戦力を持たないし、国際紛争を解決する手段として武力を使わないことを国家が決めて国民に宣言し、その国家の主権者たる国民がそれを認めていると言うことを意味している。
ところが、武力は永久に放棄すると言っておきながら、’50年、警察予備隊設置から自衛隊まであっという間に再軍備をしてしまったために、これは憲法に違反すると野党が反対し、左翼・リベラルが騒いた。
自衛隊は、階級の呼称を工夫したり、上陸用の戦力を持たないなどの部隊編成上のいいわけを用意し、軍法会議も持たないといった一種の偽装を施して軍隊ではないとした。政府は、憲法九条が自衛のための戦力まで放棄しているわけではないとの解釈で合憲と主張したが、数多く訴えられた裁判の下級裁判所では時々違憲の判決もでた。当然である。自衛隊は、陸、海、空軍をそろえた陣容から、その保有する武器のどこからどう見ても軍隊である。
これを政府は軍隊ではないといい、反対派は「憲法を守れ」といって果てしない対立・論争になった。
護憲派の言い分は、日本は戦争や軍隊を放棄したのだから戦力たる自衛隊は要らない、憲法九条に違反しているというものだ。それに対して改憲派は、ならば憲法を改定して自衛隊を合憲にしてしまおうというのである。
護憲派に対して改憲派が、もしも日本が他国に侵略されたらどうするのかと迫ると、「いや、話し合いで解決する」という。話し合いが着かない場合はと問われると、「とにかくそうなる前に話し合いだ」と言ってそれ以上前へ進まない。侵略されて武力がないならやられっぱなしになるのは当然だが、そういうことは「考えなくていいこと」にしようというのだ。
森嶋通夫などは「侵略されてもしようがないじゃないか、なに、五百年もたてば血が混じって日本人だか何人だか分からなくなる」といったが、自分を守る武力を持たないと言うことは、そういうことを覚悟することだという意味である。
南米のことを思い出して言っているのだろう。人類はすでにこういうことをしているのである。
護憲派にそういう覚悟があるとは思えないし、それを言ったとたんに皆離散してしまうだろう。とにかく何が何でも憲法九条を守ろうと、これはすでに理屈抜きの宗教になっている。
一方、改憲派は武力を持って国際貢献できる「普通の」国になると言う比較的穏健なのから「核武装しなければ」正常な国際関係は成立しないという過激なものまで様々である。
こちらも、どの程度が「普通」なのか、たとえば国連軍のようなものを想定しているといっても国連の意向が我が国の利害と一致しない場合もあるかもしれない。そもそも国連が大国の利害を調整できるのかあやしいところ大である。
また、核武装と言ってもいざ実現しようと思ったら、米国は核拡散防止条約を楯にいやな顔をするだろうし、アジア諸国はとたんに青筋立てて批難しはじめるだろう。やってやれないこともないが、どう考えてもあまりいいことはなさそうだ。隣国が領土問題などで脅しをかけてきて、どうにもたまらなくなったら考えても遅くはない。何しろ、水爆を作る材料は始末に困るほど我が国は所有しているし、いざとなったら一夜にして水爆の十個や二十個を作れる能力があることくらい知らせておく必要はあるのかも知れない。
水爆というのは原爆を起爆剤にして水素原子の核融合をやるのだが、これは太陽が日常やっていることそのままなので、たとえば日本列島なら十発もあれば壊滅するという威力のものだ。世界には、と言っても米国とロシアだが、これが何千発も残っていると言われている。実際これを使ったら地球がおかしくなるのは確実で、 こう言うのを脅しに使えるといっても、誰も本気で攻撃に使う気になるものはいないだろう。
ところが、国家と国家の間にはいざとなれば殺し合いをするという可能性は存在する。弱肉強食が国家の存在原理だと言うことを忘れてはならない。
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