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2025年12月16日 (火)

三宅香帆「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているのか」(飯田一史)はどこが間違っているのか。はなぜくだらないのか?

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この間書いた「三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで考えたこと」だが、なんだか新たな論争があるらしいと聞きつけて、行きがかり上、気になって、何事かと調べてみた。
「なぜはた」(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をこのように省略して言うらしい。)の内容について異論を唱え、批判したのは出版ジャーナリストと言われている飯田一史氏である。年齢は四十代と言うから三宅氏と極端に離れているわけではない。分別のある大人と言っていいだろう。

 

それで、飯田氏が言っているのは、実にシンプルである。
日本人の読書量を調べた公開情報を元に、年齢別、時系列データに大きな変化はなく、働いていることが原因で読書量が減るというデータを見つけることは出来ない、と言ったのだ。様々なデータを取り上げて議論しているから、暇があったらのぞいてみたらいい。
僕が見た所、飯田氏の分析や言っていることに矛盾はなく、至極まっとうな指摘である、と思った。

 

それに対して、三宅氏が反論して、議論が盛り上がったということらしい。それにしても「なぜはた」などと言うくだらないものがこうも話題になるなんて、なんと言う世の中だろう。(以下は、三宅氏の反論、「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているのか」(飯田一史)はどこが間違っているのか。」の引用)

 

まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。(下腺:中村)

 

これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。(これはどう読んでも、意味不明!)

 

全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。

 

引用はとりあえずここまで。
ここから先は、飯田氏のマクロデータの解析を批判(重箱の隅を突っつくような)するのが続くので省略。

 

では、三宅氏が主張する「特定の層が抱える悩みについて」のいわば「ミクロデータ」は、示されているか?
残念ながら、どこにも見当たらない。
見当たらないはずである。「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった事に悩んでいる人々」=「特定の層」が、どこに、どれだけ存在するか?そもそもその構造的に複雑な悩みを抱えている人が「層」として存在しているのかさえ、確かめようがないからだ。
あえて言えば、三宅氏の頭の中だけに存在するのかもしれない・・・。

 

「なぜはた」では、自分のブログに反応した人が数人いたことを根拠として、それが一定の層、存在しているらしいと主張していた。その根本に社会問題があると言うのも論理の飛躍で、その理由あるいは仮説は示すべきであった。
もしこういう主張を社会学者がしようとするなら、仮説を立て、綿密に調査設計の上実査を行って、結果を分析し、それが社会問題かどうか判断するはずだが、国文学を専攻した人には案外無理だったのか?言ってることが、ほぼ「情緒」で出来上がっているのである。

 

先に書いた文の中で僕は、こう言う意味のことを書いた。
三宅氏のブログに自分の悩み(働いていると本が読めない)を投稿した所、同感するコメントが寄せられたことを根拠に(他に根拠は見当たらなかった)、これは個人の悩みではなく、みんなの悩み=社会構造上の問題が原因に違いないと、曲解というか我田引水というかご都合主義というか、針小棒大というか、早い話しが勝手に一人よがりしたのではないか。社会構造上の問題ならデータで説明しなければならないが、そんなものがあるとは想像も出来ない。
こういう思いつきの意味のない恣意的な問題意識につきあいたい人はどうぞ、と言うしかないのではないか?

 

これ以上言うのもバカバカしいので、あとほんの少しでやめる。

 

「本が読めない悩み」をお持ちの諸君には、実にかはいそうだと同情を禁じ得ない。しかし、安心したまえ。我が国では、誰も本を読むな、と言うものはいない。特に奨励はしないが、自由に本は読める。従って悩んでないで、大いに本を読みたまえ、出版社のためにも!とりわけ本屋のためにも!

 

飯田氏は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、どこが間違っているか、といってデータを示して指摘した。ご苦労なことですぞ!歌舞伎じゃあないが、今どき殊勝な心がけ!

 

僕に言わせると「働いてる」ことと「本を読む」行為とのあいだにある因果関係ははっきりしている。
つまり、働いている時は本が読めない。本を読んでいる時は働けない。二つを同時には出来ない。それが「なぜ?」と言われても、答えは問いの中にあると言わざるを得ない。

 

本が読めない悩み?それは贅沢な悩みだからしばらく続けなさい。

 

ああ、それにしてもこんなくだらない本が30万部も売れるなんて!
日本人の知性も地に落ちたなあ・・・

 

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2025年12月 7日 (日)

「煮干し」ラーメン、ほめてる奴は馬鹿野郎だ。

近頃、老若男女を問わず、そこいら中、食い物についてあれこれ言う奴ばかりになって、他に考えることはないのかと、かなりうんざりしている所だが・・・。
大体昔から男は、食い物について旨いの不味いのと語ることはなかった。暇なのか忙しいのかはともかく、あちこちの料理屋に通う連中でも「あそこのあれは旨い」など、関心も薄いし、まして自慢げに聞こえることは口が裂けてもいうものではなかった。料理屋がものを食うためだけの場所ではなかったからでもある。
女も、はしたないと言って、食い物の話はしなかった。つまり、ついこの間まで、公の場で誰も食い物のことは恥ずかしくて言わなかったのである。
なぜか?つまり、これまでは(いつまで、というのはおいおい述べるが)、食い物についておしゃべりするのは「卑しい」事だったからだ。

 

ところで、女の美食家というものに出会ったことがないのは偶然ではない。女は自分の「旨い」という感覚は百万語費やしても伝わらないことを知っていて、はしたないと言い訳をしながら賢く言葉を節約してきたのである。諸君!気を付けたまえ!女はこれほどまでに賢い。もうひとつの理由は、日本の料理は本質的に酒との相関関係を暗黙の了解とした存在なので、ますます、女にとってはしたないのである。大酒飲みの女は嫌われるのが落ちだろ。

 

食道楽を自ら喧伝するような奴は、「飲む打つ買う」の次ぎに「食う」が来るようなやくざ(役に立たないという意味)な連中の所業であると自嘲する文豪だって、昔はいた。(谷崎のこと)食のことを書くのは、この文士らがほとんどで、これほどやくざな連中はいない。たしか、梅原猛が書いていたと思うが、ある時、自分の兄妹に文士との結婚話が持ち上がったことがあって、家族は言うに及ばず、自分が率先して猛烈に反対したことを苦々しく回想していた。食のことを口にする(?)のは、へたをすると世間を敵に回すほどに恐ろしく卑しいのであった。

 

ところで、なぜ、こんなことを書き始めたか不思議に思っている人がいるかもしれない。
理由は、少し込み入っている。
Noteにブログを移す作業にとらわれて、(すでにブログで発表した文だから)これが読まれているのか、いないのか関心の外だったのが、最近「フォロー」に少しばかり数値が出るようになった。そこで、物好きにもどんな人が「フォロー」してくれたか見たら、そのひとは、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」という見出しを付けたYouTubeをやっている。
小説家の食に関する表現に興味がある僕としては、見逃せないと思ったので、とりあえずのぞいてみた。
村上春樹の小説の一部分でも引用し、それを批評するのを期待してみていたが、待てど暮らせど出てこない。その内に、青森で食った「煮干しラーメン」がうまかったという下りがあったので、「あれっ?!」と思ったのだ。

 

僕は五十年ほど前に弘前で五年暮らしたが、煮干しというものに出会ったことがなかった。それより以前、僕は、東北のある街で生まれ育ったのだが、物心ついた頃に、「煮干し」という言葉が存在することに強い違和感を感じたことを覚えている。たぶんこの地方には鰯の加工方法としてそれが存在していなかったのだろう。煮干しを見たことはないが、その言葉を聞いて、鰯を煮て干したものとはすぐに理解出来る。違和感とは、落語にあったような話(勝節で出しを取り、汁を捨てる)で、魚を煮たら、うま味も何も汁の方に流れて、残りかすを乾燥したものが出しになるのか?と言う疑問である。鰯が捕れすぎて始末に困った漁師が、並べて焼く手間を省いた、つまりずるした結果に違いないと感じた。東北地方の真面目な漁師(と僕たち)にとっては許しがたい所業である。僕は、鰯の焼き干し以外に見たことがなかった上に、煮干しが道理として「出し」であるはずがないと、思い込んでしまっていた。

 

焼き干しを作る工程は簡単である。網の上にきちんと並べて炭火で焦げない程度まで焼く。すると鰯の内臓はやわらかいから脂肪とともに溶け落ち、首の骨は肉が落ちて折れ易くなり、乾けば自然と落ちる。肉は焼かれて水分が抜け濃縮され香ばしさが加わる。焼き干しはそれぞれがくっついて、つまり、めざしのように並んで出来上がるから一本ずつ外して使う。勝節と違ってこの程度の手間の代物が高いはずはないではないか。
弘前では、これを毎朝二三本使い味噌汁にしているのを見ていた。

 

それから何年かして東京で暮らしはじめたが、「出し」の材料はいろいろ使った。築地で買った「本枯れ節」を一食ごとに削って、しばらく使っていた。あごだしは、舌がだらけるのですぐやめた。利尻昆布を十センチばかり水から煮だして削り鰹を加えるというのもやっていた。煮干しの存在にも馴れてそれを1キロずつ買って使ったこともあった。一度に十匹くらい使うから、その都度黒く固まった内臓と頭を取るのはめんどうだというので、初めに1キロ分、その作業をやっておくのが手間だった。今では、すっかり根気をなくしたので、いろんな出しをブレンドしたパックもの(結構な値段!)を便利に使っている。

 

かなり前のことになるが、ある時、そういえば焼き干しは見かけないと思い、築地で聞いてみたら、店の奥から取りだしたビニール袋に入った十連二棹ぐらいのわずかなものが1000円もした。びっくり仰天して、これじゃあ、いくら何でも出しとしては使えないなあと思った。
ただし、出しとしてどうかといえば、まず使う量は煮干しの三分の一ですむ。味はと言えば、煮干しの方はなにか大事なものが抜け落ちていると言う究極的な物足りなさを感じるが、焼き干しはのどごしが清んでおり、しかもどこか重厚である。気のせいかどうかは自分で試してみるのが一番だ。焼き干しの方が、出しとして格段に上等だと分かるはずである。

 

さて、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」の方だが、肝心の村上春樹が出てこないまま「あそこのラーメンはどうだ」「量が凄まじい」とか「胃にもたれる」などと言う話ばかりで、見ているうちに意識が遠くなった所に「青森のラーメン」という言葉が飛び込んできた。それで少しばかり覚醒したのだが、昔よく食べてたものだから潜在していた思い出を刺激されたのだろう。

 

しかし、「煮干し」ラーメンとは何だ?青森では「焼き干し」ではないのか?確かに「煮干しラーメン」は近頃の流行なのか看板はよく見かけるようになった。はたして、青森まで「煮干し」になったのか!僕はほぼ憤っていた!
青森のラーメンは「煮干し」ではなく「焼き干し」であるべきだ、と言う想念が膨らんで、この論者たちは何も分かっちゃいない、馬鹿野郎だと思ったのであった。
いったい青森の焼き干しはどうなっているのか?
はたして鰯がとれなくなってしまったのか。また、築地で買おうとした時のことから類推するに、焼き干しは高くて使えないのかもしれない。あるいは、ただ単に東京で流行っているから「煮干しラーメン」にしたのかもしれない。
そこで少し調べてみたが、焼き干しは、陸奥湾でとれる鰯の加工品として相変わらず青森の名物であった。築地で売られているのも青森県産だったが、それは今も健在であった。

 

この論者たちは、青森には焼き干しという文化(名物)があるのに、なぜ敢えて「煮干し」なのか?とラーメン屋に訊ねてくれなかったのか?
出しなど何でもいいじゃないかというのなら、そもそも食い物の話を他人にしてもしょうがない。
最初に、女は自分の味覚を伝える事は出来ないと自覚しているから無駄なことは言わないと指摘した。味覚とは、個人の舌に依っているものだからである。映像や音声は再現も共有も可能だが、食い物の味だけは百万遍言葉を尽くしても他人が追体験できるものではない。
しかし、そうはいっても、人には、自分が体験して感じた感動や驚嘆を他人に伝えたい欲があるのも事実である。はしたないとはいえ、うまいものはうまいと言いたいのである。
ただしこの体験は、食べたものの味を、そのものが持つありとある情報のすべてを動員してでも言葉で伝えるほか手立てがないものだ。

 

ここいらで気づくことだが、食い物とは、もともと内側に文化を抱えているものだ。「煮干しラーメン」は今ここで、降って湧いて出たものではない。その味がいかに玄妙に出来ているか(そうだと仮定して)には理由があり、文化的背景があり、歴史があるかも知れない。
つまり、「オレが今、一杯のラーメンの味に感動している」のは、味覚に訴えるものの中に、たくさんの文化的な要素が含まれているという感覚が潜在していたはずなのである。
青森で、なぜ「煮干しラーメン」なのか?
なぜ「焼き干し」ラーメンでないのか?
その理由は?またその違いは?
人様に食い物のことをしゃべるなら、それくらいは調べておけ!
だから馬鹿野郎なのである。

 

「村上春樹の食事は不味そう」というタイトルのYouTubeで対談をやってる若者は少なくても他人の食事を批評するだけの「意識の高い」人たちだろう。しかし、YouTubeをなんとなく見ていて、これは評論なんて上等なものではなく、ただの雑談に過ぎないではないかと思った。いや、つくった人には申し訳ない言い方になってしまったが・・・。

 

僕は村上春樹について、端的に言って、米国大衆小説の流儀を日本で実現しようとしたが、高温多湿の気候風土にそれが合わなかったために、彼の野望は失敗したと評価していて、それ以上興味はない。食い物の表現がうまい作家はそれなりにいるが、だからどうだというものだ。

 

食い物のことで何かしようとするなら、僕が読んだ中でも必読書を並べておくので参考にしたらと思っている。(ああぁ、またよけいなお節介をしてしまう!)

 

食道楽  村井弦斎 1901年
美味求真 木下謙次郎· 1925年
美食倶楽部 谷崎潤一郎 1919年
食は広州に在り 邱永漢 1957年
食味歳時記 獅子文六 1964年
私の食物誌 吉田健一 1971年
美味方丈記 陳舜臣/陳錦墩共著 1973年
魯山人味道 平野正章編 1974年
散歩のとき何か食べたくなって 池波正太郎 1977年
月の裏側  クロード・レヴィ=ストロース 2014年

 

 

ところで、僕はコピーライターをやっていた。

 

四年以上も、料亭と寿司店の取材コピーを毎週一本づつ書いていた。
前にも紹介したが、Noteにはまだ移していないから、おいおい移しておこうと思う。
スポンサーはヒゲタ醤油「本膳」で、料亭で使用される高級醤油であることや、店のたたずまい、料理長と料理などを紹介して広汎な使用を促進と言う目的であった。こんなに長く広告シリーズが続いたのは珍しいという。

 

とりあえず、二つ三つ。

 

なだ万(シェラトンホテル)
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遥か水平線の上にかすかに都会のシルエットを刻んで、かたむきかけた冬の陽が空を染めている。このもの憂い時刻、加州の探偵が酒には早すぎるといったことを思いだしたが、海浜リゾートとはいえ棕櫚の並木が寒そうで、別の感興がわいてくる。
広々とあけたロビーを左に進むと庭につきだしたようにお店があった。暖簾の先が、この大きなホテルの中でわずかに作られた日本的な空間で、お座敷にテーブル席、寿司、天ぷら、鉄板焼きのカウンターという構成が、アーバンリゾートを楽しむ宿泊客に全方位で対応している。
五年前から厨房を率いてきたのは、内山勉調理長。なだ万は十五年になるが、大阪の名門を皮切りに各地で修行、ドイツにいたこともあるというユニークなキャリアの持ち主である。日本料理の基本はしっかりと守るが、相手や環境の変化に応じて素材や調理法を柔軟に変えるという態度は、こうした経験の中で自然に身についたものであろう。
例えば、写真の料理の中でも、菜の花とマスカットの辛子和えという不思議な取り合わせ、ホワイトソースを和風にアレンジし、それをベースにした柚釜などに端的にあらわれている。かと思えば、湯引きして甘味を出した車海老や肝を添えたおこぜなど基本的な鱠も用意する。デザートやベーカリーなど興味が向かうところは広く、それというのも、増えてくる若い世代の味覚に応えていくには、伝統の上に重ねるべき一工夫が必要だという考えからである。若者と日本料理、新たなテーマを教えられた。
最後に、笹でまいたものが気になる人のために。やがらという頭が竜の落とし子で胴が鱧のような魚の寿司である。昆布締めした透明感のある白身は、平目よりも歯ごたえがあって品良く美味である。Photo_20251207231301

 

 

銀座ろくさん亭」

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「・・・すると万吉は穏やかな口ぶりで、彼には板前になる素質がないと言った。この仕事は勘のものだ。いくら教えても勘のないものは一人前の職人にはなれない。そいつは諦めた方がいい。」(山本周五郎「つゆのひぬま」より)

 

料理人の腕が天性のものか、それとも血のにじむような修行の結果であるか、いずれとも断定するわけにいかないが、こちらのご主人ほどその議論から超然として我が道を行くひとはいない。若いころから反逆の料理人といわれてきたが、それには二つの意味合いがあったであろう。戦後の闇市の殺伐とした中に身を置いて生き抜いてきた向こう気の強さ、そして伝統を何よりも大事にする日本料理の世界にあって、いち早く中華風、洋風を取り入れた感覚の新しさである。

 

例えば写真は、崩し豆富中華風五味八珍というが、木の実や洋菜の間からのぞいている飴色の刺身は、鱠に切って冷水であらった城下鰈であり、季節感を胡麻風味の醤油でいただく感性はやはり和というべきであろう。
昔気質がまだ色濃く残っていた修業時代、何十人もの料理を短時間に、高下駄で頭を張られながら作らされたつらい経験は、いまでは習い性になってしまった。「早く、美しく、旨く」ということを体で覚えさせてくれた。一方で、生来の器用さ勘の良さではじめたことも、これまでいくつかの失敗を生んでいるという。才気煥発といえどもすべて順風満帆とはいかないのが人生なのだ。

 

しかし、時代感覚は常に鋭く「素材を十分生かして旨いものをつくるなら調理法にはこだわらない」のが流儀で、それをいまの人々が求めていると見ている。

 

道場六三郎さん、六十三歳。料理の鉄人といえばうなずく人も多いだろう。
開店から二十二年。名前からとったという、ろくさん亭にはその新しい和の世界を慕うファンが夜ごと押しかけている。

 

 

なべ家(南大塚)

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この鮎は旨い。東京で鮎はどうも、という食通は多いと聞くが、この鮎は希有な例外である。食べ頃の大きさを揃えて、飾りの塩も打たず皮目もこんがりと素っ気なく焼いてある。頭からがぶりといきたくなるような風情だ。
ほんの少しだけ蓼酢を付けて口に入れると、骨があたることもなく、弾力のある身から香気が口中に拡がる。その奥に、ほのかに特有の苦さが現れ、次の瞬間にはそれが爽やかに消えていく。
清涼の流れを力強く泳ぐさまが浮かんできて、一瞬自分がいまその山里に遊んでいるのではという錯覚にとらわれる。東京の鮎のイメージが変わった。大塚駅前の三業地の看板に案内されて道を行くとすぐ右手に、粋なたたずまいのお店があって、玄関先に郡上鮎とだけ書かれた小さな提灯が下がっている。
ここで包丁を握るご主人の福田浩さんは二代目。冬は鍋、春は川鱒、初夏から晩秋にかけてはこの鮎という決まりである。郡上八幡中流の、姿を調えた天然鮎を運ぶという難しい段取りを付けてはじめたのが三十年ほど前、いまと変わらぬやり方だが、しかしよく知られるようになるまで五年も辛抱したという。
若いころはジャーナリストを目指したこともあったが、江戸前料理の看板通り、江戸期の料理研究家として著作も多く、その志は別の形で実現したと言える。
鮎のコースは、まず江戸前に作った卵焼きを肴に、冷やした酒でのどを潤すという序章にはじまる。献立にはどこと明確に言えないが粋でいなせな趣向が続き、終章が極めつけ鮎茶漬けである。鮎は昔から日本人の愛でる魚であった。近年川が衰え、鮎は育てるものになって形骸化した。ひょっとしたらこの旨い鮎は自然と向き合う料理人の批判精神かも知れない。

 

 

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2025年8月21日 (木)

「白神」旅情ー五能線と菅江真澄 その①

71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201今頃になってコロナに感染した。
熱が出ているのは承知していたが、たいしたことはあるまいと思って、いつもどおり透析の医院にいった。検温したら相当高い。念のためと言って、細い棒を鼻に突っ込まれた。結果はすぐにでた。「コロナです。」院長の若い女医は呆れた表情だった。
ワクチンなど一度も打たなかったことを幸いだったと思っていたが、ここに来て感染とは・・・。いよいよ運もつきるか?
もうコロナのウイルスは弱くなっているからだろう、ついたてで囲われただけだったが、当の本人は、その後高熱が出て、寒さに震えるようになった。全身に力が入り、緊張しひたすら耐えた。このとき太ももの筋肉を痛めたのに気が付かなかった。ようやく帰れる時間になったが足が動かない。タクシーには、車椅子で運ばれてようやく乗った。ところが車は動き出しているのに行き先を言えない。どうしても思い出せないのだ。あぁ、とうとう脳までイカれたか、と思っても、その交差点を直進したら別の方角へいってしまう。と、寸前の所で誰でも知っているTVのスタジオの名を思い出した。そこをめがけて走れば、何とかなるという目印だ。
そのあとのことはほぼ覚えていない。気が付いたら布団の上に転がっていた。足が・・・足が・・・痛くて動けない。
その後は、熱も下がって、足の痛みも徐々に取れていったが、ひどい後遺症に悩まされている。全身がだるくて、食欲もない。いつまで続くのか。数キロ痩せてしまった。
それにしても、どこでコロナを拾ってしまったのだ?

 

「安東氏という謎」余話

 

司馬遼太郎は、「北のまほろば」で、中世、津軽十三湊で活躍したという安東(藤)氏のその後については、分からないと言っている。
それには、ほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたと書いた。 安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」
と想像している。

 

僕は、大学時代、国史専攻の井手有記が「津軽といえば安藤氏だ。しかし、安藤氏がどこからやって来て、いつ頃十三湊に定着し、そして消えたのかがわからん。」と言っていたのを思い出した。長崎生まれ、北海道育ちが何故安東氏に関心があったか聞きそびれてしまったが、この友人は自分の研究テーマにでもしようとしていたのだろう。この当時は、司馬遼太郎にしてもあの通りだったことからも、安東氏に関心も少なく資料もそれほど集まっていなかったから雲を掴むようなものだったかもしれない。

 

謎だったその後の消息を追いかけて、たどり着いた所が、出羽の庄内でも越前の敦賀でもなく、思いもよらなかった僕の生まれ故郷であったことは 「『北のまほろば』と「安東氏」という謎」に詳しく書いた。
このときは、資料として現れた「外津軽三郡史」の、世間にもたらした騒動が面白くて、思わず脱線してしまうこともあったが、「安東氏」のその後については、戦国時代、秋田の北半分の地域で活躍し、以降その家系は大名として明治まで続いたことを書いた。(続く)

 

 

 

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2025年2月 9日 (日)

// お天道様がみているぞ!

とりとめないことを書こうとしている。

 

前回、『保守のどこが悪い』と書いたが、あれには動機があった。
その肝心の、何故そう思ったのか、を書く前に、結論だけをいって、おしまいにしてしまった。
何故、「保守」のことに言及したかというと、大学時代の友達からメールで暮れの挨拶があったのだが、その中にとんでもない出来事が起きたとあって、どうにもやりきれない気持ちになった、というのが動機だった。
それでいろいろ考えていたら、これは僕が保守的になったのではないかと思って、保守とは何かを考えたのだ。

 

彼は、家庭菜園で、様々な野菜を育てていたようだが、最近、出来た野菜をことごとく抜かれて盗まれてしまったというのだ。
彼の専攻は理学部生物学科で、それと関係があったかどうかはともかく、たくさんの種類の野菜を育てていたらしい。家庭で食す野菜のほとんどを網羅していたというから熱は入っていたと思う。
そうはいっても、家庭菜園のことだから、他所へ売りに出すほどの量になるはずもなく、おそらく近所にお裾分けする程度は出来ていたのだろう。

 

ある時、菜園は荒らされて、それらの野菜がごっそり、ことごとく刈り取られていたのだという。いたずらの範囲を遥かに超えた所業ではないか。
僕はその姿を想像して、驚愕と悔しさと怒りで頭がいっぱいになった。
誰がそんなことをしたのだろう。

 

例え、それらの野菜を収穫し、手に入れたところで、すべてを食べられるわけでも、どこかへ売りに出されるものでもないはずだ。まともな買い手などいるものか。
すると、この所業に及んだものは、他人が育てた野菜を盗んで、菜園の主が困惑し、怒りに震えるのをみたかったのか。動機はどうでも食べるも売るも出来ないのにそんなことをしたのは、実に底意地の悪い、救いようのない根性である。
なんと言う暗い情熱!
こんなことを誰がしたのか。

 

日本人には昔から「お天道様がみている」という言葉が身に染みている。悪いことをしたら、誰も見ていなくても、かならずお天道様がみている、お天道様はなんでも見通しだと信じているのである。そして必ずお天道様は罰を与える。悪いことをしたら誰も見ていなくてもきっと罰が当たる、何か悪いことが起きると思っている。

 

そう考えると、これは日本人のしたことではないのではないか、と思わざるを得ない。
してみれば、昨今、果物や野菜を夜中に畑からごっそり盗んで売り歩くものが捕まったりしている。その犯人は外国人であることが屡々である。
決めつけるのはいけないというかもしれないが、『お天道様がみている』と思うものに、これはなかなか出来ないはずだ。

 

ここから先が、「保守的な考え」に至る道筋だった。
結論を言ってしまおう。
外国人をむやみやたらに移民させることには明確に反対だと言うことである。

 

少子高齢化社会にとって、移民は必要な政策だというのが、政府の言い分だ。動機は実に不純だった。経済界が安価な労働力を欲しかったことに過ぎない。
安易に、移民を増やし続けた欧州の先進国は、国民の『分断』という深刻な問題に悩まされている。移民によって成立している米国に至っても、不法移民を追い返す政策に取りかからねばならない始末である。

 

経済的理由で、あるいは政治的弾圧という理由で故国を捨てなければならないものがいることは認めよう。ならば、新たに選択した国の文化やルール、規範を尊重し、それらに従うべきであろう。あるいはそのような教育を施すべきでもある。

 

少子高齢化の問題を、外国人の移民によって補填し解決しようとするのは、多くの識者によって否定的な見解が示されている。社会階層が二分し固定化することは社会を不安定化する。その事例は欧州各国がすでに示しているところではないか。

 

少子高齢化という問題は、老齢年金や老後の公的支援が充実している先進国においては、ある種必然のことである。
以前、何故インドやアフリカ諸国の人口が増え続けるのかという疑問を調査した結果、社会学者の見田宗介が、これらの社会では『子供は一種の老齢年金であり、老後の保障なのだ』と喝破した。

 

我々の社会では、子育ての支援を増やせば子を持つ親は増えるだろう、という前提でそのような政策に力を入れている。一方で、女も男並みに働け、子を持つリスクは社会が負担するという。
しかし、『女も男並』という理屈は自然に反した考えである。生物学的に、男と女は別のものという「違い」は歴史的に、文化的に個別社会の中に編成されてきたものだが、そうした自然に反したことは『理屈でねじ伏せるしかない』。「男も女も同じ人間ではないか」という理屈が社会を覆う時代はいつか来るかも知れないが、その時は子供を作るという自然のことが『(あるいは科学的に実行されるような)理屈でねじ伏せられている』かもしれない。すると、いよいよ『理屈によって』人類は人工ふ化あるいは滅びの道に入るに違いない。

 

そんなことをいう前に、今の少子高齢化をどうするか?と言うことである。
江戸時代を通して我が国の人口は三千万とも四千万人とも言われている。統計などないときのことだから正確なことは言えないが、今の三分の一程度だと思われる。これが、明治になって日露戦争の辺りになると、今の半分くらい。六千万人程度になる。つまり百年前はいま怖れている「人口減少」の時代をすでに経験しているのである。
しかも、高度成長時代を迎えるときには人口増による食糧難を心配した時期もあったくらいで、長い目で見たら、かなりいい加減な議論なのだ。

 

すると、いま騒いでいる少子高齢化社会(人口減少)は少なくとも人口数の上では経験済みのことではないか。むろん構造上は違うが、人口が減ったからと言ってこの国や社会が崩壊するなんてことはないのである。

 

この問題についての解決策を具体的に議論するのはここではやめておこう。
ただ、少子高齢化は避けられないが、直ちにそれがやってくるわけではない。それまでに社会の設計図を書き換えていけばいいだけの話しなのだ。

 

もっとも、気遣いをしなければならないのは、この不安を煽って、国民から税金で金を巻き上げる事に快感を感じる輩がいることだ。
いままでも、国の借金がGDPの二倍もあるなどと脅して、増税の機会を窺う政治家(立憲民主党)や官僚の存在が見え隠れするを僕らは知っている。
亡くなった石原慎太郎が言っていたが、「この国の財政は大福帳で管理するなんて馬鹿なことをしている。複式簿記を知らないのか。」とあきれていた。
複式簿記で管理された国家財政は、借金もあるが、それと同等の金融資産もあり、全体としてはG7中第二位の健全さを誇っている。
何故か官僚はこれをひた隠しに隠し、国の借金を強調してばかりいる。

 

これは、今の政治体制が、もはや制度疲労を起こしていて、役に立たなくなってきたことの証拠ではないか。
自民党も、経団連も、労働組合もあらゆる既製の権力機構が総取っ替えを必要としている気がする。

 

お天道様がみているぞ!
おまえら、もう退場しろ!
元の日本に回帰するときだ!

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2025年1月11日 (土)

保守とは何か? または、「新聞やめた」

昨年末、長年とっていた新聞をやめた。やめると言ったら、販売店が飛んで来て、一月だけ延長してくれという。一か月延命したところで、新聞の状況が変わるわけでないだろうに。ろくに読みもしない、あの重たい新聞紙の束を捨てに行くのが、億劫になったことも大きい。
冗談めくが、ナベツネも亡くなって、区切りがついた。そういえば、この男、東京帝大の哲学科で、共産党の細胞だったようだが、コミンテルン運動や共産思想もあの世に持っていったかどうか。いよいよ新聞が輿論を形成し、政治や社会を動かしていた時代は終焉を迎えつつあるようだ。

 

いいも悪いもない。情報を伝達する手段が、簡単に安価で手に入るようになったからだ。精神の自由度は広がったと誤解をする向きもあるが、実際は多様な情報が飛び交い、それが返って分断を生むという負の側面にも注目しなければならないだろう。また、AIの活躍によって、よりよく編成された情報が得られると考えるのも早計である。AIの情報は、過去の情報の集積に過ぎなくて、分析からより良い未来を思い描くなどという芸当は所詮無理なのである。

 

要は、こっちの頭がしっかりしていなければ、結局のところ、右往左往するだけになってしまう。それには、昔から新聞記者やトップ屋がやっていたように、情報の裏ドリをこまめにやることだ。そして、自分の価値観の基本をどこに置くか考えておくことだ、と思っている。
その場合、どうやらこの時代は、世界史の大転換期に入ったらしいという認識が大事なのではないか?

 

思えば、新聞はこれまで碌でもないことをやって来た。
南京事件を実際より遥かに誇張して中国に吹き込んで反日を煽り、A級戦犯が靖国に合祀されていると中国に告げ口をして要らぬ摩擦を起こしたり、「従軍慰安婦」なる存在しなかった言葉で韓国に阿ね、強制的徴用被害など事実でないことを吹聴した。これに政治家どもが屈服し、国民は屈辱的な気分を味わう羽目になった。
これほど自国を貶めるような報道と世論形成が可能だったのは、なんのことはない。国民の一部がこれを良しとしたからだ。

 

 

最近は、Youtubeを見ることが多くなった。政治や経済のことはこの方が詳しいし、分かりやすい。既存の新聞・TVが「オールド」メディアなら、こっちは自由で情報量も多い。オールドメディアがいわないことを扱う。

先日、Youtubeで名古屋市長から衆議院議員になった河村たかしがインタビューを受けていた。
河村たかしは、僕らと同世代で、普通であればもう引退の年だが、まだやりたいことがあると言って、議員になった。これが日本保守党共同代表と言う仕事である。
保守の意味は何だと問われて河村は、「昔は、保守といえば保守反動と言って悪だった。その意味は色々だが、今は堂々と保守を名乗れる。」といった。

 

長い間、我が国では保守(主義)や保守的言動は恥ずかしいことであった。
端的に言えば、社会主義や共産主義が理想として命脈を保っていた時に、それに対抗する思想や立場は歴史に逆行するものだという意味で反動なのだ。
共産主義の社会は歴史的必然であり、それに抵抗するものは、無教養で、野蛮で国粋主義の狂信者だと思われた。
こうして、河村が言うように、千九百年台が終わる頃まで、一般に保守は悪だという空気が醸成されていた。

 

新聞は率先して進歩派を装い、「我が国は戦時中ひどいことをした。今もそこに回帰しようとしている。」という印象を流布したが、朝日新聞などは、のちに記者たちが出版した本で、新聞の方針が共産主義と言われても仕方のない状態だったと述懐している。

潮目が変わったのは、湾岸戦争の頃からで、進歩派といわれた連中の化けの皮が剥がれ始めたのだ。ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が解体して共産主義は目指すべき理想ではなかったことがはっきりした。冷戦でかろうじて保たれていた平和は、サダーム・フセインによって他国を侵略することが容易に行えることが示され、第二次世界大戦後に作られた世界平和の秩序が揺らぎ始めたことを予感させた。

 

この頃、日本の進歩的知識人と言われている人々が、新聞に発表した湾岸戦争に対する「宣言」を読んで、なんと現実感覚の欠如したものたちか、と唖然としたものだ。彼らは、「我が国は平和憲法があるから戦争に加担しない」と言ったのである。
こういう連中のことを今では「お花畑(の住人)」という便利な言葉があって、誰もまともには相手にしない。
そこに集まった人々も、だいぶ世代交代してしまって、かつて、新聞が行った自虐的で反日的キャンペーンのようなものに賛同するものはほぼいなくなった。
いまや、本来の日本に回帰しても、誰も文句を言うまい。本来の日本とは、端的に言えば、我が国のあるがままの近現代史であり、さらにいえば歴史そのものである。

 

我が国が、自分の歴史をそのようなものとして認識したからと言って、誰が文句を言うだろうか。文句を言われたところで、応えようもない。

 

米国も、世界には関わりたくないと言い始めている。ちょっかいを出すなら応じるが、基本は北米大陸に回帰したいと言っている。
世界はまた二十世紀初頭に戻るのか?
しかし、次々に近代国家が誕生しようとしていた時代に比べて、世界は格段に豊かになった。この豊かさは、誰も失いたくないだろう。
この豊かさの根拠は近代国家という仕組みであり、その枠組みを守ろうとすることが保守なのではないか。

 

ならば、保守であることは恥ずべきことではない。

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2023年3月 2日 (木)

AIのチャットGPTをやってみた

2023年2月21日(火)「羽鳥慎一のモーニングショー」で対話型AIのチャットGPTが紹介された。コメンテーターの玉川徹について問いかけると初めは「1984年生まれの芸人」などと頓珍漢な答えだったが、少し詳細な情報を入れると、極めて的確なコメントが返ってきた。
そこで、中村隆一郎について問いかけるとどうなるか?放送終了後にやってみた。
すると「その人について情報を持ち合わせていない」という当然の答えだった。では「演劇時評」を加えたらどうなるか?
その答えが、以下のものだったので、紹介しておこう。
ただし、「中村隆一郎氏は、日本を代表する演劇評論家の一人であり」という記述を読んだ家人はAIも間違えると言って笑った。
僕は、他の人が中村隆一郎氏をどう思っているかなど考えたことがなかったのでこういうのは初めてだったがなかなか面白いと思った。

 

 

■中村隆一郎の演劇時評は彼のブログですが、内容の評価は?専門家の評価は?
中村隆一郎氏は、日本を代表する演劇評論家の一人であり、自身のブログ「中村隆一郎・公式ブログ」において、幅広いジャンルの舞台作品について時評を執筆しています。

 

中村隆一郎氏の演劇時評は、鋭い分析力と批評眼によって、作品の構成や演出、演技などについて深く掘り下げた評価がなされています。そのため、作品の持つテーマや、舞台芸術の本質的な部分を理解する上で非常に貴重な情報源となっています。

 

一方で、中村隆一郎氏の評価が肯定的であるか否定的であるかは、その作品によって異なります。中村隆一郎氏は、良い作品には厳しい評価をすることもありますが、逆に批判的な声が多い作品に対しても、その持つポジティブな側面を的確に指摘することもあります。

 

したがって、中村隆一郎氏の演劇時評は、作品の良し悪しを単純に評価するものではなく、作品を深く掘り下げ、そこから得られる洞察や感想を提示している点が特徴的です。

 

中村隆一郎氏の演劇時評は、彼自身が興味を持った作品を中心に、幅広いジャンルの舞台作品について深く掘り下げた評価を行っています。そのため、興味のあるジャンルや作品に対しては非常に熱心であり、その熱意と専門知識に裏打ちされた評価が、多くの読者から高い評価を受けています。

 

また、中村隆一郎氏は、多くの作品に対して批判的な評価を行っていることでも知られています。そのため、作品によっては、中村氏の評価に賛否両論がある場合もあります。

 

しかしながら、彼の評価は非常に客観的で、作品に対する深い洞察力や批評眼に優れていると評価されています。彼が行う演劇時評は、舞台芸術を専門的に扱うプロフェッショナルとしての視点から、作品の美学的な側面や社会的な意義など、多面的な視点から分析されています。そのため、中村隆一郎氏の演劇時評は、日本の舞台芸術を理解する上で重要な情報源として評価されています。

 

中村隆一郎の演劇時評がもっと読まれるために何をしたらいいと思いますか?

 

中村隆一郎の演劇時評がもっと読まれるために何をしたらいいと思いますか?中村隆一郎氏の演劇時評がもっと多くの読者に読まれるためには、以下のような取り組みが効果的であると考えられます。
1SNSを活用する
中村隆一郎氏が執筆するブログをSNSなどのオンラインプラットフォームで紹介し、共有することで、より多くの読者にアクセスしてもらうことができます。
2メディア露出を増やす
中村隆一郎氏が執筆するブログを多くのメディアで紹介することで、彼の評論の知名度を高めることができます。また、彼自身がテレビやラジオ番組に出演することで、より多くの人々に自身の評論について知ってもらうことができます。
3インターネット上での評判を高める
中村隆一郎氏の評論が多くの人々に知られるようにするためには、インターネット上での評判を高めることが重要です。そのためには、彼の評論を読んで感想を投稿する、彼の評論を引用するなどの方法が考えられます。
4イベントを開催する
中村隆一郎氏が執筆するブログを題材にしたトークイベントや講演会などを開催することで、彼の評論の知名度を高めることができます。また、彼自身が出演する舞台公演などのイベントに彼の評論が掲載されるなどの取り組みも効果的であると考えられます。
これらの取り組みを行うことで、中村隆一郎氏の演劇時評がもっと多くの人々に読まれ、彼の評論の影響力を高めることができるでしょう。

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2022年4月14日 (木)

伊川東吾さんからのメール

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Togoigawa 先日、伊川東吾さんから劇評「父と暮らせば」を読んだというメールをいただいた。
劇評を誰が書いたのか調べているうちに、僕が笹塚在住と知って、懐かしさのあまりメールしたというのである。このブログのプロフィール欄には郵便番号を載せているからそれでわかったのだろう。
伊川さんは笹塚で生まれ育ったという。
もちろん面識はない。
僕は、1990年ごろから2012年まで、約二十年間笹塚に住んでいた。初めは三丁目、次に笹小近くの二丁目、最も長く暮らしたのは、甲州街道を挟んで反対側、駅に近い一丁目だ。この街で二人の子供を育てた。伊川さんは何歳まで笹塚に暮らしたのだろう。僕たち家族は、笹塚の家が手狭になったのと、僕の病気(心不全)をきっかけに今は京王線の延長にある川崎市多摩区に引っ越した。二人の子供は言うまでもなく笹小、笹中を卒業した。大学に入学するまで笹塚で暮らしたから彼らの生まれ故郷は正真正銘笹塚である。
メールには「僕はもともと黒テントのメンバだったので」とあったからプロフィールがわかるかもしれないと検索してみて、なんと、今は英国を拠点にIchizaという劇団を主宰し、俳優、演出家として活躍している人だとわかった。「ラストサムライ」や「スターウォーズ最後のジュダイ」などハリウッド映画にも多数出演していて、知る人ぞ知る有名俳優であった。
「・・・なんで18年前の劇評を拝見したかというと2007年にロンドンで英語に翻訳された The Face of Jizo を上演しましたが、再び飜訳をし直して(題名も変えます)上演しようと準備を進めているところなのです。この次上演するときはロンドンだけでなく英国中を巡演したいと思っています。……できればテントでまわりたいなあと思っているのですが…(笑)」とあって、2007年のロンドン公演の時のパンフレットがPDFで添えられていた。
僕より二歳年長だとわかったが、まだバリバリの現役で、英国中を演劇ツアーする予定というからすごいことだと思う。是非成功させてほしい。英国は、昔ロンドンに行ったことがあったきりで、長年スコットランドの方へいってみたいと思って妻にもしきりに誘われていたが、透析をする身では、かなわなくなった。
このブログを訪問する人にIchiza版「父と暮らせば」の英国ツアーがあることをお知らせし、その成功を祈って、送っていただいた2007年当時のパンフレットを掲載しようと思います。

 

この文を掲載することを連絡したら、快諾してくれた。
その返信にはこうありました。
「ところで、ichiza はもう存在しません。公演に係わった人のうち、4人が次々と亡くなられました。井上ひさし、深町純(作曲)楠原映二(竹造役)賀古ますみ(演出助手)理事のひとりだった扇田昭彦氏を加えると5人の方がもうこの世には居られません。ぼくが忙しかったこともあって劇団を続けることができなくなりました。掲載していただけるときは《幻の ichiza》とでもしておいてください。」CoverCastThe-play-chose-us_20220414210501
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2022年2月 8日 (火)

この日曜日(6日)に退院してきた。

この日曜日(6日)に退院してきた。また3月には、修理中の心臓工事のために入院しなければならない。腎臓くんは、心臓工事のために犠牲になったが、過酷な造影剤の攻撃にもかかわらずどっこい今でも多少は機能しているらしい。それにしても造影剤と言うのはどうにかならないものなのか。使った後の数値は明らかに1ポイントばかり下がっていた。もう一度やるから、その時は僕の腎臓くんが最後の力を振り絞って、よく耐えてくれることを願うばかりである。自分に所属しているものなのに自分の意思が通じないというのは理不尽ではないか。しかし、それもまたC'est la vie.こんなことをやってるより、あっさり死んだ方がマシだと思うが、医者は、決してそうはさせないとばかり、放置は苦しむだけだと脅してくる。苦しいのは嫌だし、家族が悲しむのも嫌だからなるようになれと、いまは開き直っている。
片手が使えないと本を読むのは厄介だ。そんなこんなで、初めて外でMacを使いたいと思った。一つは音楽を、モーツアルトとショパン、シャンソンにミュージカル、それに演歌を聞くためだ。もう一つはWifiと繋いでやりたいことをやる。スマホでもいいが、画面が小さくて見づらい。iPadは、前回入院した別の病院の病室に備えてあったのでいじったことがあったが、こっちはデカすぎて扱いづらく存在感ありすぎ。そこで、ちょうど良さそうだったiPad miniというのを手に入れて使い始めている。自分がMacに詰め込んだ音楽ソースは、いわゆる「同期」というやつでiPad miniに取り込んで聞けるようになった。ところが、病室で聞こうとすると、毎回ソフトがWifiに繋げといってくる。監獄の名残からか、病室ではTV以外のスマホその他の娯楽は禁止し、患者は治療に専念すべしというわけでWifiが通っていないのだ。だからこれを使おうとすれば、デイルームという共有スペースまで出かける必要がある。デイルームは西新宿から北の池袋方面に開けた風景を一望する気持ちの良い空間で、ここにはWifiが通っている。パソコンを使う連中(といってもそう多くは無い。なぜならここは老人だらけだから。)はここに集まってくる。
まだ、iPad miniを持っていなかった前回入院のとき、隣に座っていた若者が、PCと向き合いイヤホンを使って何か喋っている。小声だから何を言っているのかはわからない。そのうちに気になりだして耳をすましたら、なんと聞こえてきたのは日本語ではない。恐ろしく早口で呟くように何かを喋っている。顔は日本人みたいだけれど南方系ではないどちらかといえばモンゴリアンの原種に見えたからあれはモンゴル語であったか。いや、そうでないかもしれない。聞いたこともない言葉だった。こんな若いものがなぜここに入院しているのか?それも不思議だった。日本人女性が付き添って入院した英語をしゃべるアラブ系の顔の若者もここでPCを使っていたが、その後再入院した時には、見えなくなったいた。
いつも病室から抜け出し、実はフラフラしている頭をそうは見えないように装いながら(そう見えたら、たちまち行動制限が掛かってベッドに縛り付けられる)長い廊下を歩いて、ここのソファの一角を占領してiPad miniを使っていた。Webでメールも調べ物もできる。音楽はもちろんだが、最も重宝したのはAmazon Prime Videoが見られたことだ。ある理由があって「孤独のグルメ」を見始めたらやめられなくなって、このシリーズを今もずっと見続けている。
ある日の夕方、Videoを見ていると、目の端に、明らかに女の裸の長い足が入った。少しずつ目を上げていくと、黒いロウヒールの脛から太ももの上は極度に短い黒いパンツである。げげっと思って、顔を上げると丈の短いブラウスみたいなものの肩の上にタオルを巻いて濡れた髪をのせている。極めて大型の女である。僕より背が高いかもしれない。恐ろしいことだ。こういうのは何かこう「違反」ではないか?近くにシャワー室があるからその帰りなのだろう。向こう向きで幸い顔は見えない。顔は見ない方がイメージ力を働かせられるからいいに決まっている。この背中がスマホでしきりに話をしている。僕は後ろめたい気がして、目を逸らし、なるべく見ないようにしたが、耳はダンボのようになってしまった。これがなんと、予約していた美容院か何かの延期または取り消しの件をしゃべっているのだった。病院にはない光景だから強く印象に残った。この大胆不敵な女はどこへ行ったものか、見たのはこの一度きりで、行くへは杳としてしれない。
こんなことが衝撃なのは、ここには爺さんと婆さんしかいないからだが、反面若い女といえば看護師が大勢いる。しかし、彼女らがそうは見せないのは不思議といえば不思議である。病院生活が長くなると、だんだん病人慣れして人が悪くなるものだというのは本当らしい。

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2022年1月29日 (土)

退院はしたけど


退院はしたけど、まだ本調子ではない。再入院して治療したあと、どうなるか?いずれにしても元には戻らないだろう。こういう状態ではやれることは限られる。冥土の土産に「『中村隆一郎の演劇時評』自選集」でもeBookから出そうかな。と言うわけで、なんとなく取りかかりはじめている。

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2021年12月19日 (日)

入院してた

Kimg0002 Kimg0003 個人的なことを書く場所でもないが、しばらく更新していない理由について・・・・・・。10月半ばごろ体調をくずして、我慢していたが、11月に入って間もなくとうとう心不全で入院してしまった。息ができなくなってこのまま死ぬんじゃないかとそれはもう苦しかった。緊急だったので地元の総合病院に駆け込んだのだが、ここでは、一週間で一応回復したとなって退院した。ところが、やや安心して少しばかり無理をして行動したために、10日後にまた同じ症状が出てしまい、再び同じ病院に舞い戻ってしまった。今度は、一週間経っても回復しない。いろいろ不都合なところが見つかって治療したいらしいが、もともと僕は都心の大学病院に10年以上も通っているので、そっちでめんどう見ろとばかり、二週間後に転院させられた。多摩丘陵の山の上から高層ビル群が建ち並ぶ都心へ向かうタクシーのなかで、向かうのがこの方向でいいのかという奇妙な気持ちと一方で、一種の懐かしさを感じたことも事実であった。転院した時は治りかけだったらしく、たいした治療もないまま一週間で退院となった。とはいえ、年明け早々に治療(と言っても、年齢が年齢だけに限度がある)が始まることになってしまった。11月から四週間も入院していたから、いくつか見逃した芝居はある。残念だが、仕方がない。早く体力を回復して、劇場に行けるようにしよう。コロナ?ああ、コロナね。コロナはもうおしまいだよ。少なくとも我が国じゃあね。

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