カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の18件の記事

2009年12月15日 (火)

羽毛田発言の愚

当ブログは、原則として時事問題を扱わないが、マスコミの馬鹿さ加減にあきれて今回だけは一言申し上げる。(暇だなあ!)
読売新聞によれば「宮内庁に意見1千件超、羽毛田長官支持が多数」だそうだ。
いきさつは、皆承知のことだからいちいちいわないが、この論調では、国民は皆宮内庁長官の発言を支持しているということになる。
国民の一人である僕としては、断固支持できない。
第一の理由は、客が来る前に「来てもらっては迷惑」ととられる発言だからである。
日本政府が「歓迎します」といったかどうかはともかく「陛下はお会いになります」と返事をしたのだろう。
客の方としてはその気になったのだが、訪問する前に何だか騒ぎになっていて自分が行くのは迷惑なのかと考えてもおかしくない。僕ならそう考える。そんなに騒いでいるなら辞めようかと考える。しかし、相手の政府が「いい」といったのに取りやめるという理由も根拠もこちらにはない。
困った揚げ句に、やっぱり行こうと決めるが心にわだかまりが出来る。不快である。僕なら行ったら嫌みの一つも言ってやろうかと思うかもしれない。
このぐらいのことは、一般の社会に置き換えて考えたらすぐに分かりそうなものだが、羽毛田長官とはきわめて非常識なひとである。
客が気持ちよく帰ったあとで「こういうことがあった」と国の名前を言わないで、発言するならまだしもである。

第二の理由は、百歩譲って客が来る前にこういう発言をしなければならない緊急の何かがあったのかという点である。大急ぎで官房長官のごり押しに抵抗したことを天下に知らせる必要があったかといえば、なにもない。これではただ「見栄を切って見せた」だけのようなものだ。余計な波風を立てただけだ。国に恥をかかせたようなもので愚かである。

第三の理由は、宮内庁とはどんな役所かといえば日本国政府の中の一行政機関であって、その役所がこのような政府批判を一般に向かってするべき立場にはない。天に向かってつばしているようなものだ。
第一「一ヶ月前ルール」とか言うものは国民が決めたことではない。自分たちが勝手に決めておいて、政府内部でそれを破ったからといって騒いでいる。しかも「日本国の象徴」を政治利用する恐れうんぬんという。そんなに重要な「一ヶ月前ルール」なら決める前に天下に公表しておいてくれればよかった。但しそんなことを世界に公言したら物笑いの種になるだけだ。
はっきりいえば、いまそんな「決まり」を突然持ち出されても、国民はあずかり知らぬことである。国民はただ「陛下の体調を慮って」日程を調整していただいていることを願っているのみだ。国民に成り代わってそれをやっていただいているものと思っている。重要なことはそれだけである。
この「一ヶ月前ルール」というのも考えてみればおかしなものである。半年前に決まっていることだって一週間前に体調が悪くなることだってあるし、体調がよく、時間もとれると判断したら訪問を受ける場合があってもしかるべきではないか。
しかも、この場合羽毛田長官は「曲げて、陛下にお願いした」のだから政府の一員としてみずから「ルール」をやぶったのである。
それから考えても「一ヶ月前」は一応原則として、決めたものではないのか。来るもの拒まずが原則なら、日程を調整することこそ宮内庁の役人の仕事だ。こんな内輪の話を公言するべきではなかったのだ。
「政治利用」を判断するのは役人ではない。しかも、もし政党や政治家や政府が「政治利用」するとしたら国民が見ている。それは、国民が許さない。

以上の理由で、羽毛田発言は非常識で不適切であったと国民の一人として僕は考えている。
あまりマスコミの論調に騙されないようにしないといけない。

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2007年12月23日 (日)

ミシュラン東京だって?

「ミシュラン東京」なる本がでたので一時話題になったが、まるで潮が引くように今では誰も口にしなくなった。本屋に行っても並んでいないから、大した数を印刷しなかったのであろう。数は出さなくとも採算は合うと考えたのか、予想外に売れたから今大車輪で印刷しているのかどっちかわからない。どっちにしろ、こうも素早く下火になっては、もう一度火をおこそうとしても苦労するだろう。
80年代の半ばに、ということはバブルの頃であるが、一度グルメ案内がブームになったことがある。多少高くても実際に行って食べて見たいというニーズが懐具合のいい連中始め下々にも広がった。なにしろ証券会社の新入社員の女子でもボーナスの封筒が立ったといわれるくらいである。教養よりも色気よりも食い気に走ったのは自然の成り行きだった。この時は、うまいものを食わせる店を「地域ごと」に紹介するというもので、どちらかといえば繁華街の店の場所案内、はやい話がハンディな「地図帳」であった。つまりは小金を手にした連中が俄にうまいものを探そうとしたからどこにそれがあるのかうろうろしたということだろう。したがって、料理のジャンルも多様、高級店もあれば庶民感覚の店も混在していた。ただし、高級料亭やホテルのレストランなどは「うまいに決まっている」と思ったのか、編集者の手の届くところではなかったのかあまり選ばれていない。本質的には「地図」なのだから昭文社という地図専門出版社がもっとも力を入れていたし、よく売れていた。デザイナーが描いた見ばえのいいだけの地図なぞは役に立たないものだが、さすがに昭文社、地図は正確の上に簡潔な装丁がよかった。確か毎年「年度版」と称して出していたが、気がついた時にはいつの間にかやめてしまっっていた。なにしろ「地図帳」だから毎年更新することもないのである。そのうち「失われた十年」に突入して、グルメどころの騒ぎではなくなった。
こういう本はもともと江戸時代から盛んに出版されてきた一種の情報本である。代表的なものに「吉原細見」と言う案内本があった。知っているものでないと書けない本だから、書いているのは、大概が暇人である。江戸の御代はともかく、明治からコッち暇人の代表格は小説家である。小説家といえば聞こえはいいが、だいたい良家の子女は、関わりのないようにそばに近づかないというやくざまがいの連中でろくなものがいない。そのロクでないものを長年養ってきた文藝春秋社がこういう本を得意としてきた。毎年のように料理屋案内を出していたことを知っているものは少ないだろう。暇な連中が、料理屋の話をするのを取り巻きが面白がって買っていた程度には売れていたが、それに「地図」を付けなかったのはうかつであった。いやついてはいるが、ホンの付け足しで、店の回りしか分からないようになっていて不親切であった。それでブームに乗り遅れた感があったが、金持ち喧嘩せず、泰然としたものだった。まさか「お前らのいけるところではない」と言うつもりではなかったろうと思うが、東京の街は駅からの地図がないとたどり着けない。実際の役に立てようという気はハナからなかったのだ。この本は今でも毎年出ているようで、この間見かけたから手に取って見るといまでは地図などどこにも出ていなかった。店の名前に五六行のコメントがあるだけという味も素っ気もない料理屋案内である。
なんだか目立たないようにそっと出している風情があるのは、昔から日本の男は食い物に言及しなかったということにたいして、多少の恥じらいがあるのかもしれない。真っ昼間からあそこの何はうまいとかどこそこの何が食いたいとか言うものは男の風上にも置けなかったのである。それが、バブル到来と一緒に崩れて、うまいものをうまいといって何がわるいという風潮になった。池波正太郎などという元株屋は泡銭で食ったうまいものの記憶をたどって臆面もない文章を書いてよく売れた。立川談志など、どういう料簡か、ありゃなにも分かっちゃいないとけなしているが、一応東京の老舗どころは押さえてあるから誰も文句は言えない。文句をつけた談志のほうも食い道楽だったなどという話は聞いたことがない。第一、「あそこのなになにはうまい」などと談志がいうのは見たくも聞きたくもないと思う。
それにしても、どうせ食のことを書くなら、どこそこのウナギは旨いとかあそこの寿司を食いてえとかつまらないことを気分にまかせて書いていないで、もう少し教養を磨くことを考えてもらいたいものだ。そこへいくと戦前の連中は徹底していた。「美味求真」の木下謙次郎、「食道楽」の村井弦斎、巣鴨の監獄で暇をもて余して「味覚」を書いた大河内正敏、上げれば切りがないが、これらは背景になっている教養と追求心が並大抵ではない。戦後になって吉田健一や邱永漢も面白いエッセーを書いているが、彼らにはかなわない。
80年代半ばといえば、僕も随分とあちこち尋ね歩いてこのうまいものとやらに出会ってきたが、池波正太郎が取り上げた店などは、数から言えば大したことはないのであっという間に制覇した。それどころか社用も兼ねていたから気がついたら昭文社発行の本に取り上げられた店は大概ね尋ねていた。そのうちにものの味も分からないような若い女やガキどもが、生意気なことを言うようになって、すっかりいやになってしまった。僕のグルメブームなどはこの時期であらかた終っていたといってよい。その後90年代になると五年ばかり料亭とすし屋を月に4軒くらい取材して原稿をかいていたから、それが仕上げになって、いまでは、食い物屋の話などしたくもない。なにやせ我慢だろう、店を訪ねる金がないのだろうと言われそうだが、本気で料理屋の料理など別に食いたいとも思わなくなった。
なにしろ毎日のメニューを考え、買い出しに行き弁当を三人分作ってきたのだから、主婦を料理人とは言わないが、料理が主婦の仕事だというなら僕は今やその両方を勤める主夫だといっても過言ではない。日本料理の職人がグラタンを作れと言われたらおっかなびっくりだろうが、僕にとってはマカロニグラタンなど手作りホワイトソースからはじめて目をつぶったって作って見せる。芋の煮っ転がしだろうがコンニャクの煮付けだろうがピザパイだろうがお茶の子さいさいである。キッシュにシュウマイ、トムヤムクン、パンにまんじゅう、チョコレートパフェなんでもござれである。魚をこしらえるのだって厭わない。妙齢のご婦人を連れて料理屋で密会、なんてことからはすっかり足を洗っったわけだから、これで料理屋に行く必要があるだろうか。
究極のグルメとは自分で料理が出来ることである。料理は難しいかというと、何事も経験だというのがたいていのことの真実の一端を示しているくらいに何といったって経験がものをいう。だから中学を卒業してすぐに料理人になるのが一番だと今でも信じている親方がいる。確かに人間、失敗から学んで成長するというのは本当である。試行錯誤して味をからだに覚え込ませることも大事な修業である。しかし、不思議なもので、一杯飲み屋に毛の生えたような店で修業をすると酒のつまみは作れるが、エビ新嘗のお椀とかヒラメの昆布締めに、サヨリの酒盗干しなどという手間のかかる料理は死んでも作れないものだ。経験とはいってもそんなもので、上を知らないと話にならない。それにバカには料理は出来ない。毎日同じものを作っているならバカの一つ覚えでもいいが、食わされる方も厭きるし、第一自分が厭きてしまうだろう。創意工夫をするから料理は面白いし、奥も深くなっていくものなのだ。ただ経験を積めばいいのでない。中身が重要、その重要な中身を時間を短縮してつまりは勉強をして身につけることも出来るから、経験だけだといいきれるわけでもない。それにセンスがいる。それこそ天性のものでもあるが、ある程度までは師匠のを盗むという手もある。ただし、家族に食わす料理でそんなことまで必要はないからなくてもかまわない。
僕の経験からいくと、料理は素材である。素材がよければ何でもうまい。肉も魚も鮮度がいいに越したことはないが、よすぎるのでも困ることがある。いや大概は困る。というのも肉にしても魚にしても身のたんぱく質がうま味の成分アミノ酸に変化するのに時間がかかるからである。魚の方が早いのだが、それにしたってたとえばフグは一日置いた方がいいとか鯛でもヒラメでも柵にとってから冷蔵庫で一日くらい寝かした方がうまいといわれる。確かに釣ってきたばかりの魚の刺し身は歯触りがいいだけで味も素っ気もないことが多い。マグロにしたって少し置いておいた赤身などねっとりとしたうま味が感じられてトロなど足下にも及ばない。トロは油っ気が強いから、舌触りでごまかされているが、本来あれは味のないものである。油は酸化が早いからさっさと食べた方がいいということもあって、熟成したうま味とはほど遠いものなのだ。
肉については、ある豚カツ屋のはなしだが、鮮度のよい肉を仕入れるのは当たり前として、驚いたことに客に出すまで一週間もかけるということだ。肉はすぐに切り身にされて、一日分の分量に塩コショウしたらバットに入れて冷蔵される。このバットが常に冷蔵庫に七個ある。つまりは一週間経ったものを順繰りに取りだして今日の販売分にするというわけである。こうすると肉の熟成度合いがちょうどよくなって、コクも香りも歯触りもよそとは違う逸品ができ上がるという。
野菜は鮮度が命とはどこかの宣伝文句だが、まったくその通りで、この間鉢で育てたピーマンを料理して食わしたら、娘がこのピーマンの死亡推定時刻は二時間前だろうと見事に当てた。それほどスーパーで売っている野菜との違いが歴然としているものなのだ。 これは科学的なことは知らないけれど、植物は切ったところですぐに細胞は死なないからではないかと思う。長く保管しても熟成する理由がないからただ単に酸化したり水っケが抜けたりしてまずくなる一方なのだろう。
待てよ。僕は「ミシュラン東京」の話をするつもりだった。とんでもない回り道をしたものだ。
ともかく、この本はいろいろな意味で画期的だったらしい。まず東洋では始めて、世界では22番目に取り上げられたということ。フランス版とか英国版などは全国を一冊におさめているが、日本は東京一都市だけである。京都や大阪は入っていない。それから、三つ星が八店というのは一都市にしては多い。(ちなみにNYは三店)二つ星が二十五軒に一つ星が百十七軒というのは他と比べると格段に多い数字だという。「東京は世界一級の美食の町」と出版元が言ったらしいが、何を今更という感じである。二十年ほど前に、パリに住んで、日本のデパートにもブティックを持っていたZ・サンデフォードが言っていたが、東京の食はバラエティがあっておいしいけれど香港にはかなわないといっていた。世界中をまたにかけて往来しているものがいっているのだから本当だろう。して見ると、これから香港版が出るとなればどうだろう。だいたい、欧州の料理は獣肉と小麦それに乳製品ででき上がっている。緯度が高いからとれる野菜にも限りがある。東南アシアから東アジアにかけての気候や地勢からいって、素材のバラエティにも相当の差があるといっていい。たとえば発酵食品のバリエーションを比較して見たらいい。納豆、茶の葉、醤油、みそ、熟れ鮨・・・。植物の根を水にさらして澱粉を取る方法と同じものを欧州に探して見つかるだろうか?まあ、はっきりいえば、食については始めから勝負がついている。審査をした連中がどんな者たちか知らないが、驚いたとすれば正直な気持ちだっただろう。
それにしても、三つ星候補といわれながら選ばれなかった店はかなり悔しがっていたようだ。欧州では、死活問題になるとかいっているが、東京ではどうだろう。今どきミシュラン片手に食べ歩くほど情報に困っていないのだからまあ、黙って見守るしかないのではないか。
とはいえ、こういう風潮を批判するものもいて、こんなものを有り難がる必要はまるでないのだという。この間、劇作家の川村毅のブログにその代表的な意見が書いてあったので紹介しよう。
「で、たこ焼き、焼きそば食ったんだけど、東京ミシュランって結局東京に来た外国人向け、もしくは外国人への接客用だな。あんなもん参考にする普通の東京人がいるかね。で、これを演劇に置き換えて考えてみたらむらむら頭にきだした。ヨーロッパだかのわけのわかんねう批評家が東京の舞台を見まくったと称して、舞台のランク付けをしてるってことだろ。冗談じゃねえや。てめえらの審美眼がそんなに絶対なのかよっていいたくなる。」だそうである。
まあ、そんなところだろう。
あっという間に話題はもえつきてしまったわけだ。「ミシュラン東京」は来年も出すのかね。
どっちにしろこの間歯医者に言ったらほとんど残った歯も役立たずになっているといって思いっきり抜かれてしまった。母親の遺伝だが、亡き母を恨むわけにもいかず、歯がなくなって急に老け込んでしまって、ミシュランどころの話じゃないことを書こうと思って書きはじめたのに延々と余計なこと書いてしまった。梅干し爺になって、もはや終点を通り過ぎ、車庫に入っている。そろそろ年貢の納め時だが、納める年貢もない。

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2007年12月22日 (土)

アボカド

Dsc00346今日アボカドを植えた。十五年後に十五メートルになるはずである。いや、それは冗談。南国の植物だから日本ではそうはいかない。うまく育ってくれ!
この夏の終り、十年以上育てたアボカドが枯れてしまった。原因はよく分からない。はっきりしているのは植え替えたのが悪かったのだ。葉っぱがしなびて来始めたので水をやったり土を変えたりいろいろやって見たが、水が上がってこない。為す術も無く見ていたら一ヶ月ほどで完全に乾いてしまった。植え替えた時がご臨終の時であとは死体の面倒を見ていたに過ぎなかった。枯れた葉の色が少し赤みがかった不思議な色をしていた。捨てる気にもならずそのまましばらく放置していた。
種から育てたのだから、はじめは鉢は小さくてよかった。下北沢のしゃれた雑貨屋で見つけたスペイン風の絵が付いた鉢と皿を買ってきて、家の回りの土を入れて植えた。そして、特別に山から汲んできた水をやった、ということは塩素の入っていないミネラル水をやったということだ。だんだん大きくなって高さ四五十センチまでなると、横に一本の枝が出てきてそちらにも葉がついた。上に葉ができると下のは黄色く色づいてやがて自然に落ちる。そうしてやや頭でっかちに育っていったのだが、幹が細くて葉の重みがあるから絶えず曲がっている。それでも十年以上持ったのだから何と強靭な幹であったことか。どっちみちバランスがすこぶる悪くなっていたからいつかは植え替えないとと思っていたが、この夏、そのチャンスが巡ってきた。
Yが突然ハーブの苗木を集め出したので、放っておくわけにもいかず僕(と娘)が玄関先に鉢を並べて面倒を見はじめた。始まりはチューリップの球根であった。今年のはじめ頃Yがオランダの取引先から球根をもらった。春先に植えて花が咲いたら写真を送ってくれと言うことだったらしい。それで何かくれるのかと思ったら、ホームページで紹介するというだけのことだった。うまい具合に花は咲いたが、植え方が素人の悲しさで写真に撮ってもきれいに見えない。もちろん花のせいではなくて、並び方の見かけがどうもだらしなくて気に入らなかった。写真は、他の人が育てたものと一緒にホームページに載った。ただ載っただけで称賛の言葉もお礼の言葉もない。そっけないものだ。物流会社のことだから愛想を振りまく必要もない。
それで花と言うか植物というものを育てることにYは俄然興味を持ったのだろう、チューリップが終って空いた鉢に植えるハーブを買い出したというわけである。そのうちハーブだけではなく、ハイビスカスや観葉植物まであっという間に所狭しと鉢が置かれることになった。真夏のことで毎日水をやらないとすぐしおれてしまう。そんなことをしているうちに、アボカドを植え替えるなら今だと思ったのである。
あのスペイン風の鉢はなかなか外れなかった。土の密度がかなり高かったのだ。ようやく外れたので、今考えれば土のまま大きな鉢に移せばそれですんだと思うが、十年以上鉢の中にあった根っこがどうなっているか興味が湧いてきて土を落としてしまった。果たして、根はこぶしを握ったような形に縮こまっていた。ぐっと四方八方に広がっていて欲しかったが逆だった。こんなところまで持ち主に似やがってと、ひがんだがどうしようもない。たっぷり水をやってこれで伸び伸び育つだろう、しめしめと思っていた。それからまもなく枯れはじめに気がついたというわけである。
そこで、非常に悔しいと思って、意地でももう一度育ててやると決心した。決心はいいが、種がないとなんだって育たない。種はアボカドの中にある。とり出すにはアボカドの果肉を食べないといけない。そこでこの夏から秋にかけてはアボカドのサラダを山ほど食べることになった。何故山ほど食わなければならないか?種は、すべてが芽を出すとは限らないからである。サラダといってもマヨネーズとあえてディップ風にするのや、薄くスライスしてお刺し身のようにいただくのや、エビとブロッコリーと混ぜてドレッシングであえるのやいろいろやらないと厭きるものである。アボカド料理で本一冊書けそうな勢いで様々試みた。
ここで、アボカドの育て方を知らない人のために教えて進ぜよう。
いや、その前に、僕が何故こんなことを知っているのかについて説明しておこうと思う。
今から三十年ほど前に遡る。当時僕は会社でコーヒーのプロダクトマネージャーというものをやっていた。コーヒーの販売促進のためにノベルティを様々開発して購買者にサービスするとかブランドイメージを醸成するとかも仕事の一つであった。ここであまりひとが経験しないことを様々やったのが財産になっているがそれはまたいつか書くとして、販促とイメージ醸成を兼ねて、雑誌といっても小冊子を発行して定期的に商品につける企画をたてて実行した。タイトルを「Better Home & YUBAN」といった。ギンガムチェックの下地に米国50年代風の古き良き時代のおばさんが描かれた表紙で当時としては装丁も内容もしゃれた小冊子であった。一回に数十万部も印刷したからそれなりのインパクトはあった。ところが、こういうものにあまり理解がなかったのか、あの野郎の遊びだろうといわれてたった二号でやめさせられた。
アボカドの育て方は、その小冊子の記事の中にあったものである。アボカドと小鉢をセットにして箱に入れ、プレゼントにする話があった。箱の中のメモには確かこう書いてある。「アボカドを食べたら残った種の三方向に妻楊枝をさして水を張った瓶に、種のお尻が浸かるように置きましょう。一ヶ月ほどで種が割れて下から根が出てきます。それから待つこと一ヶ月ほどで今度は上に芽が出てきます。二枚の葉が開いたら幹の半分ほどのところで切り落とします。やがて幹の別のところから芽が伸びてくるので、そうなったら鉢に植えます。そうして十五年経ったら十五メートルほどに成長して、アボカドが実を付けるでしょう。気長にお楽しみ下さい。」
ところが、種の状態がよくないと待てど暮せど根は生えてこない。一ヶ月先になって見ないと分からないのだから、食べた尻から妻楊枝をさしてジャムの空き瓶にのせて水を張るのだ。もちろん今回もそうした。分かったことは、種が小振りで痩せているものは大概根がでない。大きく太った種がひと月ほどで尻が割れてきて、見る見るうちに根が生えてきた。芽は出ないが根がどんどん新しく生えてくる。なんだかクラゲの足のようになったと思ったら今度は上が割れて芽が伸び出した。実際やったあと思ったね。それから一ヶ月は待ったと思う。そうしてようやく鉢に植える日がきたと言うわけなのだ。
頼むぞ!育ってくれよ。

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2007年11月26日 (月)

低山徘徊派?

2007年は「北岳登山十周年」にあたるから、記念登山をしようと去年からいわれ続けていた。あれから十年も経ってしまったのかと、感慨が湧かないでもない。
あの時は、何気なく山に登ろうと誘ったらそれがどんなことか理解していなかったYが「いってみよう」とついてくることになったのだ。生まれて初めての山登りが日本第二の高峰北岳(3,193m)であったと考えれば、何と無謀なことだったか。その顛末はどこかに書いたような気もするが、もう一度簡単に振り返っておこう。
その頃の僕は人よりは少々遅いが、ほぼ普通の早さで登ることが出来た。Yは初めてのことでもあって遅れぎみについてくる。朝七時に登りはじめて夕方には下りてこれるだろうという見通しだった。しかし、広河原から標高差千七百メートルを往復するのである。やや無謀な計画だったかもしれない。まず雪が残っている大樺沢に沿って登る。二股に別れるところからどちらにルートをとっても一段と厳しい北岳上部の急傾斜を登ることになる。右にたどると沢道から離れ、草すべりといってお花畑で有名な場所を通る。名前だけ聞けば優雅に楽しめると勘違いしそうだが、何の何の、自分の身体を持ち上げることがこんなにつらいことかと思うほどきつい。頂上に向かう稜線(約2,400m)に出たのがちょうどお昼ぐらいで、二倍近い時間がかかってしまった。肩の小屋までもうすぐだと思ったが、腹がへっていたので昼食にした。他の人たちもここまで上って一息つこうと思ったようで、道の両側に座り込んでいる。すでに森林限界を超えているから見通しはよい。再び登りはじめ、小一時間ほどして大勢の人でにぎわう肩の小屋に着いた。地図を見て頂上はすぐだと思い込んでいたが、ここからは岩場の登りが延々と続く。ようやく頂上を踏んだのは午後三時頃であった。ここからもとの道を引き返すべきであったが、きちんと調べていなかったので安易に別ルートを選んでしまった。頂上から間ノ岳(3,189m)方面に向かい、稜線にある北岳山荘から左に下りて八本歯のコルを目指す。登ったルートとは大違いで、大きな岩がごろごろして歩きにくい。左手には有名な岩壁北岳バットレスがそびえ、岩登りをしている人たちのロープが何本も見える。そのあたりから石が落ちてくるから注意をしろと言う看板に何度も出会う。大岩の下りが終ったところで木のはしごが現れる。これがほとんど垂直のような足下の見えないところを下りていくのでこわい。鎖も出てくる。要するに絶壁を下りているのだ。この恐ろしい壁を一時間以上かけて下りた。ようやく地面に立ったと言う実感が湧いたところが大樺沢の最上部の雪渓であった。ここが午後五時。夏の日はまだ明るい。そこからは雪渓の上をゆっくりと下るだけなので、つらいところはないが、Yの足取りはいっこうに早くならない。
広河原まで後一時間くらいと思われるところで日が暮れた。その間何度も見回りとおぼしき山男がやってきて、小屋へ泊まるように言っていく。それでも薄明かりの中を下り続けた。道が沢を左に渡っているところでパニックになった。ルートを見失ったのである。おまけに時々空がぴかぴか光った。雷雨がやって来ると思ったのである。今思い出すと、あのぴかぴか光ったのは南アルプス林道を走ってくる車のヘッドランプだった。それにあのルートは登ってくる時に覚えていたはずだった。沢を左に見て登りはじめるが、やがて山崩れにあったように道が阻まれる。実際に以前のルートは崩れてきた土砂で埋まったらしい。そこから沢を渡って迂回路が造られたものだった。これが分かっていれば、ヘッドランプをつけていたのだから何とか道は発見出来たはずだが、雷に打たれるのはかなわんと思って、下りてきた道を登り返し、潅木に蔽われた場所を見つけて、夜明けを待つことにした。ビバークである。何とかなると思っていたが、午後十時頃から寒くなってきた。コンロで湯を沸かして温かいものを飲むなどしてごまかしていたが、汗で濡れた衣類がいっこうに乾かないので寒く感じる。雨具を着込んで寝ようとしたが寝られるものではない。雨も降る気配はなく、真正面に標高2,778mの高嶺のシルエットがくっきりとみえる。午前〇時頃下から物音が近づいてくるので一瞬動物かと思ったが、果たして人間だった。向こうもこんなところに人がいるとは思っていなかったのでびっくりしたようだったが、肩の小屋に用事があるといって恐ろしく速い足取りで登っていった。腕に着けた万能時計で気温を確認すると24度くらいだったから凍死するほどのことはないと思っていたが、夏とはいえ、山の上の夜は寒いものである。午前四時、身支度をはじめ陽が差しはじめた沢道を下りてきた。
こういうことがあったから忘れられない山行きになった。あれから十年経ったのだからもう一度記念登山を、という気持ちは分からないでもない。しかし、十年経って山は変わりないが、人間のほうは十年分リッパに年を取った。去年は、両神山で敗退している。二週間も足にきた。やるなら両神山ではないかという思いもあるが、再び敗退の恐れがある。それほど体力に自信がなくなったのだ。それに今年は心身ともに衰弱している。すっかり老人になってしまった。なんだかんだ言ってごまかしていたら、Yは非常に怒り出した。僕ははじめから不同意であったはずだが、決めたことを実行しないと機嫌が悪くなる人種はいるものだ。
取りあえず広河原までいって見ようと思って9月ごろだったか出かけたのだが、何と夜叉神峠から先はマイカー乗り入れ禁止になっていた。北岳は遠くなったのだ。
そこで、足慣らしのつもりで、近場の低い山を選んで提案した。北岳とは比べようもないが、中央道の行き帰りに気になる山があった。大月の手前にある扇山(1,138m)と百藏山(1,003m)である。扇山は東京から甲府に向かうと談合坂SA付近の右に見える、それこそ扇を開いたようなゆったりとした山容の山である。そこから少し走ると並ぶようにして三角錐の形のよい山がある。それが百藏山である。
十月の終わりに扇山に登った。あいにく雨で、展望も利かない中を二時間くらいかけてゆっくりと登った。一年ぶりだったので不安はあったが、心配していたわりには楽に登れた。といっても北岳の時代とは完全に逆転していて、Yに比べると僕の足取りは極めてのろい。人の二倍はかかっているだろう。しかし、時間はかかったがこの度は足にも来なかった。それで味をしめたので、二週間後に百藏山にいこうと誘った。この日は天気が良くて、絶好の山行きになった。午前九時頃に百藏山登山口と書かれた看板の公衆便所脇に車を止めて、真新しい浄水場の中を上りながら舗装された道を歩いていくと、私設美術館の門がある。近づくと犬が吠えるからこんな山の上に誰か住んでいるのだろう。そこを大きく回り込んで建物の上にでるとそこで道は終っている。駐車場のような広場の隅から山道に通じている。沢の音を足下に聞きながらしばらくいくと水が流れ出している場所につきあたる。そこを左に渡ってジグザグの道が付いている。歩きやすい、整備された道である。ハイキング日和なのに誰とも会わない。どうせ人気のない山なのだろうとYは嫌みを言うのだが、何を言われても仕方がない。それほど汗もかかずに一時間くらいで何とか稜線にでた。そこからはなだらかな道を少し歩けば頂上である。「えっ、これだけ!」Yは驚いている。不満らしい。これはまいった。計画したものとして、男としてもつらい。普通はここから扇山へ向かうルートがワンセットになっているのだが、老人の足には無理である。頂上からは富士山がきれいに見える。おまけに中央道もよく見えるから、ちょっとした街の高台にある公園にきたような気がしないでもない。人気のない頂上で恒例の果物を頬張り、コーヒーを飲んでいると俄に騒々しくなった。あっという間に十数人が頂上にきていた。しかも続々とやって来る。人気のある山なのだ。下りようとして稜線の道の出会いのところにでると大勢の人が休んでいる。さらに登ってくるものの中には外国人も見える。おそらく中央線の猿橋駅に着いた列車から降りた人たちなのだろう。選択は間違っていなかっただろうといったが、「ふん」と言う顔をしていた。
こうして、取りあえず北岳登山十周年の今年は過ぎてしまった。来年はいけるかどうか分からない。このまま低山徘徊派になってしまうかもしれない。

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2007年7月23日 (月)

「水と生きる」展

この間、Yに強力に誘われて行きたくもなかったが、サントリー美術館に行ってきた。佐治敬三がどういう料簡で作ったものかは知らないが、彼のコレクションならたいしたものだという話を聞いたことがない。時流に乗った広告作りは得意だったが「熊襲」も「蝦夷」も一緒くたにするようでは美術品の目利きというわけにもいかないだろう。せいぜいこれまでに洋酒につけた景品、ノベルティ、ポスターの類いを陳列しているのではないかと高をくくって何の興味もなかったが、近頃出来た「東京ミッドタウン」の中にあるというので多少食指が動いた。この「タウン」は六本木の防衛庁が市谷に移転した跡地を三井不動産が入手し、周辺の民家を買い合わせて再開発したものである。隣りにあった公園を抱き合わせにして、広い庭らしきもので余裕を示したところは、三井らしいやりかたで殊勝である。森ビルなどの新興勢力とは格が違うところを示したかったのであろう。何故こんなところにサントリー美術館が?と思ったが、赤坂にあったのがここに移ってきたものらしい。さすが時流を逃さないサントリーのやることである。今度、新しい再開発地が出来たら、またそこへ移転する気でいるのだろう。
日曜ということで、都心はがらがらなのに、ここだけは駐車しようと思っても長蛇の列である。TVで宣伝しているものだから、遠くから見物にきているのだろう。並ぶのも業腹だったが、他に場所もない。30分以上待ってようやく入れた。だだっ広い地下をぐるぐる回って、これではまた外へ出てしまうではないかと心配になり始めたころようやくスペースを手に入れた。あの大きくて高い建物の下を全部使ってパーキングにしてある。これでは効率が悪い。そう思って中に入ったらアンケートをとっている。駐車場についてどう思うかと聞いているのだ。不動産屋のくせにこう言う管理はからきしダメなことを自覚しているらしい。今どき自走式の駐車場も珍しいが、それならそれで研究者がいるだろうから相談すればいいのだ。アンケートで散々悪態をついた上に四時間分のサービス券を手に入れたのはラッキー、だった。
展示は「水と生きる」と題したもので、主宰者の言い分は次の通りである。
「日本の豊かな自然環境の源といえる『水』をテーマに、日本美術に見出される様々な『水』の表現をご覧いただきます。そこに見られる、日本人の水に対する独自の完成(ママ)や水に託した心情表現を通して、水を大切にしてきた、日本の水の文化をたどります。暮らしに欠くことのできない身近な水から、日本の伝統を振り返ります。」
要は「水」を題材にした日本美術を集めたものだというのである。館蔵品から約180点を選択したというから実に安易である。目玉は円山応挙の「青楓瀑布図」くらいのものだが、これは自分の持ち物だというのに何故か展示期間がせいぜい三週間弱と短い。当然僕が行ったときにはなかった。入場して最初にあったのは屏風。大阪の町らしい絵に淀川が描かれている。へたな絵で風格もなにもない。長い絵巻物の絵も大して感心したものではなかった。いやはっきり言えば愚作である。蒔絵(あまり、品がない品物)と陶器が僅かに見られる作品だった。しかし、水とどういう関係があるかといえば、柄に水がはいっているだけで水がテーマという訳ではない。なんだか苦肉の策というか「水」は単なるこじつけである。広重の版画が何枚か並べてあったが皆雨が降っていたのには思わず笑ってしまった。確かに暮らしの中の「水」には違いないが、こんなものを数枚並べたものを美術館で鑑賞することになるとは思っても見なかった。あまりあほらしくてそこには近づかないようにした。この美術館は照明がなっていない。通路が暗いのはまあ仕方ないとしても、作品に当てる光が弱い。ショーケースの上をのぞくとアクリル板が曇っている。照明の専門家をいれて改造したほうがいいと思った。隈研吾が設計したという館内は二階建てになっていて、上からはいって下の階からでる。下の階には板を並べたゆるやかな階段で吹き抜けになっているところへおりる。ここは外の光が存分に入るようになっていて明るい。北欧の彫刻家がガラスの塊を細工した作品を展示していた。これはなかなかユニークで作品のレベルは高い。独立した展示として評価出来るものであった。
「水と生きる」といってもあんな脈絡もないものを並べられるとなんだか見たものががらくたに見えてくるものだ。東京都水道局がやってももっと筋の通ったものを見せるのではないか?
館蔵品を見せるというのでは、数カ月前に三井美術館を見た。さすがに三井高利以来の財閥が集めたものである。国宝級の鼠志野の茶碗、屏風は言うに及ばず、刀剣のコレクションがすごい。特に中国の書に特化して集めた古書や掛け軸は他に例を見ない。「水と生きる」などというこしゃくなテーマを掲げなくても、ここでは展示作品自体がそれだけで世界観を示しているようなものだった。はっきり言えば「鼠志野の茶碗」一個を見るために入場料は惜しくはないということである。
佐治敬三が骨董屋の親父につかまされたものだからといって、今さら骨董屋のまねをしてもいいものが集まるはずはない。ウイスキーも単に焼酎と並べられて売られる時代である。あの臭い焼酎よりはサントリーのだるまの方が飲みやすいと思うが、世の中は分からないものだ。この焼酎を使ってウイスキーにしたという噂が絶えなかったのだから世の中の浮気を責めるわけにも行くまい。それで多少は財を成したのだから、これからサントリーがやることはパトロンになることだ。筋のいい作家に投資をすることである。この場合、広告のデザインをやっているものや広告の文案家などにそれを代行させなどしたら「くず」をつかむことになるから警告しておく。ああいうものどもは「俗」という限界を超えることが出来ない。「水と生きる」などと格好だけはいいが、「水」とは何かと考えたこともなければ、人間と水の切実な関係を考え抜いたこともない。また、刀鍛冶が額に受けるほむらを感じたこともなければ、画家が身をよじるようにして色を発見するようなことも理解しないだろう。サントリーが広告などという浮ついた愚にも付かないものに拘泥する限り、その美術館はがらくたの山になることは請け合いである。
まあ、そんなことを考えながら一時間くらいを過ごして外にでると、そこはショッピングモールになっていて大勢の人が三々五々歩いている。オープンの時TV局が入って大いに報道したものだから目当てのショップもあったのだろう。しかし、僕らにとっては横文字だらけで聞いたこともないような店ばかりが並んでいる。たまに「やらと」などというのれんを発見して安心したりしていたが、なかなか店内に入る気がしない。何の店か分からない上に皆なんでも高そうである。一個何百円もするチョコレートを食べたいとは思わない。食いたい奴は食ってもいいが、それよりもそんな店に客が続いてくるものか心配である。どうせ欧州の金持ち相手の店に決まっているから日本では長く持つまい。と思って眺めると、このフロアー全体にそういう懸念がただよっている。金持ちの年寄りが増えるではないかというむきもあるが、そういう年寄りで間に合うとは思えない。皆冷やかしできているようなものだから、時が経てば閑古鳥が鳴く、というようなことにならなければいいがと願うばかりである。
こう言う超高層ビルは世界中どこに行ってもこの調子である。一種の流行かもしれないが、マクドナルドがはいっているかいないかの違いはあるが、ショッピングモールの上にオフィス、その上に高級ホテル、アネックスとして高級住居といったものでまあ、面白くもなんともない。六本木ヒルズは仕事以外で行ったことはないが、たぶんこの調子だろう。表参道ナントかはまだ行ったことがない。こんなところに行っても腹が立つだけだと思うから行かない。バカな世の中になってしまった。
家から都心に向かう時、井の頭通りを通る。代々木上原の駅を越えると高台になっていて正面にこの東京ミッドタウンがひときわ高くかすんで見える。ああ、あれが赤坂方面か、というランドマークになっている。
ああいう建物は一体どのくらい持つものかと考えた。五百年か、千年か?いや、そんなには持つまい。
一度設計したものに聞いて見たいものだ。

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2007年7月19日 (木)

吉本隆明

僕は吉本隆明のいい読み手ではない。少年時代「言語にとって美とはなにか」を読もうとしたが歯が立たなかった。その後学生時代だったか「共同幻想論」の連載を読んで(なにか雑誌に載っていたと思う)彼が何を考えているか分かった、ような気がした。その後、「心的現象論」を書いたが僕は読んでいるうちにどうでもよくなって途中で投げ出した。いくつか論争をしているものを読んで、歯切れのよさと胸がすくような啖呵は、清水幾太郎と双璧だと思った。僕は「荒地」派の詩人たちの中でも吉本の生硬な言葉遣いはあまり好きになれなかった。むしろ、鮎川信夫、田村隆一の詩に親しんだ。熱狂的なファンが多いことは知っている。
後年ある時、ビール会社の広告に関わっていて、起用タレントの候補を提案するように言われたことがある。すでに、業界では百人を超えるタレント・著名人が出ていてかなりユニークなキャラクターでなければ目立たない。僕は吉本隆明がいいだろうと提案した。その時の広告代理店の部長の顔が忘れられない。一瞬後ずさりして顔の前に手をかざしそれを左右に振って「それは勘弁」といったのだ。どういう意味かは俄には判然としなかったが、余程嫌がられているのかと改めて思った。僕が担当者なら居酒屋で若い者を相手にジョッキをかざしてうまそうに飲んでいる姿を出してやるのにと思った。それで、吉本ファンは雪崩を打ってブランドスイッチだ。と思ったのだがそう甘くはない。まともな世間が吉本隆明をどう思っているか、思い知らされたわけである。ついでに広告屋としての僕の感覚も疑われるはめになって、まもなくビールの仕事を失ってしまった。
その後も本屋に行くたびに彼の新刊本が並んでいて随分旺盛なものだと感心していたが、立ち読みしてすぐにやめた。テーマが面白くない、いっていることが難解、この時代においてどうでもよいことを難しく言っているだけという印象だった。それでもあれだけ書く時間があり、それを読む読者も継続的に存在するというのは驚異ではある。
彼が戦後思想の評論家として活躍したのはせいぜい70年代までで、その後どんな影響力があったか、僕は知らない。この稿を書く気になったのは、呉智英先生が「吉本隆明は老残をさらしている」と書いているのが目に入ったからだ。本当は吉本が老残をさらしていることは十年くらい前から感じていたから、今さらどうでもよかったが、それを老残とはしないで、持ち上げている者たちが周辺にいることが奇異に思えてどういう連中かこれもさらしておいた方がいいだろうと思ったのだ。以下は、呉智英の文「『吉本の幻像』の罪」(産経新聞05年4月)。
「週刊朝日」の書評欄で高橋源一郎が絶賛しているので、吉本隆明の新刊「中学生のための社会科」を読んで見た。年寄り笑うないく道じゃと古諺には言うものの、老残もここまできたかとあきれた。
劈頭、詩の話である。宮沢賢治、伊東静雄らの詩が引用される。おや社会科のはずだったのにと思うが、まあよしとしよう。さてその解説だ。例えば伊東静雄の詩について「アジア内陸語と似ても似つかぬ大洋州の島々の言葉をクレオール化している日本語の特徴」とある。これ、中学生にわかるか。大学生だってこの一節を理解させるのに一時間の講義が必要だ。その一方で伊東静雄がどういう詩人なのかについては全然説明がない。
第二章が老齢の話。糖尿病だの、前立腺肥大だの、自分の体験が語られているが、これらの病気について何の解説もない。第三章でやっと国家と社会だが、例によって「ロシア革命の理念哲学はレーニンの『唯物論と経験批判論』だ」てな調子だ。ロシア革命が何年にどういう経緯で起きたということから書かなきゃ中学生に分からんだろう。
丁度十年前オウム真理教事件が日本中を震撼させた時、吉本隆明は本紙産経新聞で麻原彰晃を高く評価すると発言し、その現実感覚の欠如を露呈させた。同時に吉本思想の中核たる「大衆の原像』が「大衆の幻像』にすぎないことも明白になったのだが、「中学生の原像』まで「中学生の幻像』だったわけだ。
この本の帯では加藤典洋、長谷川宏がまた絶賛。こういう取り巻きたちの振りまく「吉本の幻像』が思想界の退廃に拍車をかけているのだ。ここまで呉智英の文。
出てくる取り巻き(持ち上げている連中)は長谷川宏、加藤典洋、高橋源一郎である。このうち加藤と高橋は団塊の世代、全共闘世代である。吉本なら何でもオーケーという信奉者が多いのはこの世代である。つまらないものは始めから読まない主義だから「中学生のための社会科』など読む気にもならないが、呉智英の怒りは非常によく理解出来る。僕が読んだら同じように感じただろう。それを持ち上げる連中のファン意識はどうだ。少しは頭を使え。

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2007年7月18日 (水)

電信柱

別役実は何故「電信柱」にこだわるのか?「電信柱」があって「風が吹いて」いれば、そこは別役の世界である。この間「犬が西向きゃ尾は東」の劇評を書いていて、そういえばこの「電柱」について論じたものに出会ったことはなかったなと思った。誰か分析したものがあるのか、いまだ聞いたことはない。この電柱は何本も連なって立っているものの一本なのか?ただ一本舞台上の荒野に、あるいは淋しい街中に象徴的に立っているものなのか?別役の電信柱は不可思議な光景である。どうして彼が劇に「電柱」を登場させるのか、自分でなにか言うほど別役を知っているわけではないから、僕にとっては引き続き謎のままである。
劇評を書きながらそういえばもう一人「電信柱」にこだわっている人物がいたと思い出した。関連があるかどうかを検討して見たが、どんな接点も発見出来ないので、言及するのを控えた。せっかく思い出したので、ここで取り上げて見ようと思ったのである。丸谷才一である。彼は数十年前から日本の景観を壊すものとして電線の架空すなわち電信柱の存在をことあるごとに告発してきた。わが家の近所は電柱に電線だらけである。カラスが電線に乗っていて時々白い糞をする。迷惑な話だが、彼が言うのは、カラスの糞はともかくあれが日本の風景を台無しにしているということだ。東京の幹線道路ではすでに電線は地下に埋められていて電柱は街中にはない。とりあえずあのすっきりした風景に比べれば、うちの近所(渋谷区)の路地で空を見上げた時の電柱やらその上のトランス、電気、電話、CATV、有線放送、その他錯綜した電線がのたうって景色をこわしていることは言うまでもない。電信柱に文句を言うついでに、街並みすなわち建物にも統一感がなくて、おまけに屋上や壁面、至るところに看板や広告がくっついているというので、東京の景観は世界でも最悪だと先生はおっしゃるのである。
晩年の司馬遼太郎は、バブルで土地の値段が高騰し、血眼で土地を買いあさる連中の姿に日本人は品性がなくなったといって嘆いた。その上、最晩年には我慢し切れなくなって、土地の公有制を唱え出した。「明日からお前の土地は天皇陛下のものである。」とでもやったら面白かっただろうなと、僅かな土地の切れッ端しかもたない僕は思ったものだ。丸谷才一も近頃ではいっこうに改善しない状況に業を煮やしたのか、司馬遼太郎ほど極端な夢想ではないが、けっこう過激なことをいっている。もともとこの架空電線のことも日本の都市の景観の無秩序なところも当たっているだけに、言われた方は不愉快になるものだ。建築屋とか行政に携わる連中には耳の痛いところであっただろう。「また、丸谷センセがいっている」式の陰口がいくらもささやかれてきた。僕もいつだったか「丸谷才一の電柱景観論」とちょっとバカにした言い方をしている評論家がいたのを覚えている。それについては「東京その他の醜さについて語ることは、近代日本の対外的愚行への反省と同じように嫌われるらしく、自虐的都市論などと批判するむきもある。」(「石原都知事に逆らって」07年、朝日新聞社「袖のボタン」所収)と本人も分かっておいでだ。
これほどの正論が、何故嫌われるかといえば、二つの理由が考えられる。第一に外国と比べることである。第二に、日本の都市景観に対する無関心は、その方面の美的センスが欠けていることに原因があると指摘することである。昔は「先進国と比較する」ことは到達すべき目標となって励みになったが、今は「後れを取っている」と言われることが不愉快な時代である。また、日本人の美意識には欠陥があるといわれてもそういう実感がない。つまりへ理屈に過ぎないのではないかと感じてしまう。
彼は外国の行政官の都市計画をほめそやす。例えばナポレオンの甥であるルイ・ボナパルトはパリの町を改造したいがために皇帝になったようなもので、芸術作品としての都市造りに見事成功したと評価する。また「電線地中化率はロンドンとパリでは100%、ベルリンでは99%、ニューヨークでは72%なのに、東京二十三区では5.2%。・・・」(「うちの美と外の美」「袖のボタン」所収)と嘆いて、これらの都市を訪れた日本人は何百万人もいるのに一体どこを見てきたのだと怒っている。そして、その原因は日本人は古来、「内と外を区別して伝統的に内を重んじ外を軽んじてきた。」ことにあるという。つまり家の内側から外を見るという視点が重要で、外から建築のたたずまいなどを見るということをしてこなかった。典型的なのは「坪庭」で、家の中から自然を鑑賞して楽しむような美的感覚が日本の伝統的な感性であったというのだ。「内を大事にするかわり外は顧みない。それが現代日本の都市の醜さの一因であることは認めなければならない。」(「うちの美と外の美」)として突然、柳宗悦を持ち出し、彼の民芸運動は素晴らしかったが、その関心は内向きのことだけで、都市の外観などに言及したことは一度もないと批難している。
ここまで来ると、いよいよ丸谷センセも八つ当たりだなと、一種、司馬遼太郎晩年を彷彿させる。日本人の美意識は「外」に関心がないというのはいくら何でもいい過ぎだろう。彼が少年時代まで暮らした鶴岡は藤沢周平描くところの「海坂藩」のモデルになった城下町である。僕はここは通過しただけで街の様子は詳しくは知らない。しかし津軽藩の城下町弘前に5年暮らしたからその経験で言うと、都市造りのコンセプトは極めて明確にあって、秩序があり景観にも気配りが成されていた。昔の上士、下士の屋敷跡もほぼそのまま残っていて、それぞれ身分にふさわしい門構えが並んで時代の精神を感じさせるものであった。鶴岡は譜代の酒井家十六万七千石の城下町である。津軽十万石より豊であったのだから、街並みもさぞやと思われる。そういうことをすっかり忘れて日本人の美意識に文句をつけるのは如何なものか?
丸谷センセは「半年前石原都知事は、『東京は救いようがないよ。これを都市計画が出来る街にしろとか、外人がきてびっくりするような街にしろとか。そりゃ大震災でも来て焼け野原になりゃ、多少、そりゃ、建て直すんだろうけれども』とのべた。なんだか他人事みたいな、やけのやんぱちの発言である。もっと着実に、具体的に、冷静に対処しなければならないのに。」(「石原都知事に逆らって」)と落ち着き払っているが、本人がやけになって日本人の美意識を批判するようではもはやヒステリー状態といわざるを得ない。都市計画で重要なのは城下町がそうであったように、明確なコンセプトである。むしろそれを示すのが先ではないか?あるいは、銀座通りの道に突き出た看板を全部撤去せよ、という主張はわかるがそれを具体的にどうやるかが問われているのである。京都市は条例で看板の設置が厳しく規制されるようになった。要するに何をやるにもこういう手続きが必要な世の中なのですよ、丸谷さん。
下水道の普及率は今や67%なのだそうである。驚いた。昭和40年、8%、昭和60年でもわずか36%だったのがここまできている。国が金を補助したのが効いているのだろう。電線地中化も金がなければ出来ない。道路はこれ以上いらないようだから、ガソリン税を割いてこれに当てる方法もあるだろう。そう言うことに賛同する国会議員に働き掛けることも必要になる。具体的にムーブメントとして存在させないとなにも始まらないということだ。
もっと根本的な問題が存在する。都市をどう作るかコンセプトが重要だといったが、日本の近代化のなかでうまく取りこめなかったものがあって、それが原因で、コンセンサスを得られそうな明確な都市イメージを描けないのではないかと僕は考えている。それは「公共」という概念である。『市民』と言う概念にも通じる。丸谷才一がいっている『内と外』の分裂が起きるのは近代化以降のことである。日本式の「公共」生活が形成されるのはまだ先のことのように感じるが、近代化の延長としてそれを引き受けなければ、丸谷センセのように狂い死にしそうになるだけではないか?

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2007年6月 1日 (金)

「勧進帳」パリ、オペラ座へ行く話

「下周村」(新国立劇場ー劇評参照)の作者の一人、李六乙は川劇の名優の息子ということだ。その川劇なるものが何であるかはさっぱり見当もつかないが、他に呂劇、評劇、京劇、歌劇などあるというからいくつもある伝統芸能の一つなのだろう。中でも話劇というのは、わが国で新劇といっているものにルーツがあるそうだから、もっと元をただせば西欧演劇に行き着くものである。ほう、そうか話劇というのか、話をしながら劇が進むのだから話劇、と感心した。話劇には初めて女性が参加したことも画期的だった。
李六乙は、伝統的な劇にも造詣が深いのだそうである。だから、芝居のほうに川劇の歌というのが出てきた。歌には違いないが、どんな特徴があるともいえない歌だった。京劇の女形のしぐさを見せる役者もいた。これは映画「霸王別姫」を見たことがあったので、それに違いないと思ったのだが、ひょっとしたら他にもいろいろと仕組んであったのかもしれない。日本人が見てもわからなかっただろう。
それで思い出したのだが、この三月に市川團十郎、市川海老蔵親子がパリのオペラ座で公演をしたことについて「少しく」書こうと思っていたら、これを取材したNHKのHi-vision放送の録画をいつの間にか消してしまっていたことに気付いた。消したのは残念だったが、海老蔵の若さについてひとこといいたかったのは確かだ。
この公演のきっかけになったのは、オペラ座の芸術監督のブリジット・ルフェーブル女史が海老蔵の襲名披露公演を見たことだったらしい。これに感銘を受けた彼女の招請で一年半ほどの準備期間を経て実現されたものである。
依頼を受けた團十郎は、躊躇したという。パリオペラ座で歌舞伎、というのは、日本の歌舞伎座でオペラを上演するようなものだろう。おそらくフランスでは賛否両論議論があるに相違ない。それをはねのけて公演を成功させるためにどうするか、相当なプレッシャーがあったと團十郎は至極正直な感慨を口にしている。
出し物は荒事の市川家を代表する「勧進帳」と舞踊の美しさを見せる「紅葉狩り」が決まり、フランス語による口上も入れることになった。問題は花道である。オペラ座に花道はない。「勧進帳」は、幕を閉めた後、弁慶が見栄を切り六方を踏んで去るところが最後の見せ場になっていて、花道がないのは具合が悪い。客席をつぶすといっても花道だけに留まらない大工事になって、それは避けたい。問題はまだあった。オペラ座の舞台は前のめりに五度の傾斜がついていて、歌舞伎の舞台になれたものには、はなはだやりづらい。これは何とか上に板を敷いてならした。ところが舞台の前にはオーケストラピットがあって、段差が激しくなったためにかえって客席との間が空いてしまった。そこでオケピの上半分ぐらいのところまで板を敷いて一段低い舞台にしつらえた。役者はここへおりて芝居をすることもあるから客席と近くなって効果的だった。そこで海老蔵はオケピの客席と分ける腰板の真ん中に三尺ほどキレた出入り口があるのを利用して花道を造ろうといい出した。舞台から板を渡してその切れ目から客席の真ん中の通路に駈け出ようというのである。アイディアではあったが、舞台から板を渡すといっても、実際にやって見るとかなりの傾斜角であった。
ところでこの公演は、團十郎の弁慶に海老蔵の富樫は当然のことになっていたが、海老蔵が病から回復したばかりの父親を気づかって、交代でやろうと提案、国内公演であればそんなことは許されなかった筈だが、団十郎がこれを了承し、団十郎の富樫に海老蔵の弁慶という前代未聞の舞台が実現することになった。
海老蔵は真ん中の花道を使おうといったが、團十郎はその傾斜で六方を踏むのは自信がないといって了としない。第一足をくじいて公演が出来なくなったら皆に迷惑をかけると諌める側に回った。海老蔵は、六方を踏みながら袖に引っ込むのでは芝居にならないといって、自分が弁慶の時は客席の真ん中の通路を駈け出ると実際にやって見せる。歌舞伎に演出家はいない。座長が演出も兼ねる。役者が怪我をしたら座長の責任だ。團十郎は考えた末にそれを受け入れた。海老蔵のいうように最後は客席に向かって引っ込む方が迫力があっていいのだが、花道は、客の頭の高さにあって全身が見えるようになっているのに対して、客席の通路では上半身しか見えないから効果のほどはどうか?まあ、それでも見栄を切って客席へ飛び込む方がいいかも知れないな。
舞台稽古をはじめる前に東京で描いた背景の松をホリゾントに下げて見ると、いわゆる松羽目ものの松の色が少し派手なのと枝ぶりに不自然なところがあると團十郎からダメが出て大慌てで修正する場面があった。舞台稽古をはじめて見ると今度はブリジット・ルフェーブル女史から照明が明るすぎると指摘された。団十郎は日本でやっている明るさはこの舞台には合わないのではないかと思っていたらしいが、やっぱりそうかと納得したようだ。照明は40%程度に抑えられ、コントラストがはっきりした。
緊張のうちに本番が始まった。團十郎の弁慶に海老蔵の富樫で、勧進帳聴聞の前後が抜き取られて映された。病み上がりではあったが、もともと切れ味のいい芝居ではないので貫録があれば十分、というのが團十郎の弁慶でこれはもう文句のないところである。富樫は細面の顔に烏帽子が大きすぎて少し格好がつかなかったが、若さがあふれていてこれもまあまあの出来だった。僕がこれまで見た「勧進帳」で強く記憶に残っているのは(といっても大概はTV中継で観たものだが)亡くなった羽左衛門の富樫に松緑の弁慶だ。羽左衛門は何といっても立ち姿がいい。痩身で背が高い。それに声だ。低く太い落ち着いた声が身体の中でこだましているようだった。「勧進帳聴聞の上は疑いやあるべからず。さりながら事のついで問い申さむ・・・」今でも耳に残っている。松緑の身のこなしは切れ味がよかった。舞踊が基本にあることは一目で分かる。いちいち注いでくれる酒の瓢をめんどうとばかりに二つとも取り上げて、塗り物の盆に両手で空けて豪快に飲み干す場面は、いかにも酒好きのしぐさで、このあたりは若いものには出来ないなと思わせた。
それで海老蔵の弁慶はどうだったかというと、どういうわけかほとんど映像がない。見え切る場面の前後と、あとは問題の六方を踏みながら客席に飛び込むところぐらいのものだ。ところが、それだけで。わかった。あの若さで弁慶をやらしたらダメだ。一見して形は出来ているが、力任せで料簡が出来ていない。かといって、酒の味が分かる年ごろのふりをしてもそれはすぐに嘘だとバレる。海老蔵の弁慶の絵は編集でカットせざるを得なかったのであろう。
問題はフランスの観客がどう見たかである。評判は聞いていない。ただし、公演は連日大入満員だったというから、一応満足したことだろう。
それにしても、随分チケットは高いものだ。ある人は、340ユーロ払ったが、チケットには130ユーロと書いてあったという。シャンペン付きだが日本円にして5万円を越えている。フランスの金持ちはこの程度なら平気なのだろう。
中国の京劇を持っていったらどういう反応になるのだろうか。

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2007年5月20日 (日)

再び政談(今度の選挙)

政談はやらないと言っているのに、大好きな友人が仕掛けてくるので仕様がないから付き合っている。
今度の参議院選挙は自民党の圧勝だろうと言うの である。本当ならつまらないことになるなあ、とがっかりだが、果たして本当なのか?彼がいうには、先の知事選で明らかなように、無党派層が選挙のゆくへを 決定的にするだろうということだ。この無党派層の正体を見ると、実はニートやフリーターや下層にいる若者たち、貧乏からはい上がれない社会的敗者なのだそ うだ。ずーっと負け続けているばかりだから、せめて選挙だけは勝ち組にのって鬱憤を晴らそうとするらしい。だから勝ち組になりそうな自民党に投票するとい うわけである。ほんとうかなあ。根拠はあるのか聞いて見たら、あると言う。意識調査をやったのだ。自分の回りにいる若者にいろいろ聞いて見たら、そのよう な事実が浮かび上がってきたようだ。回りが全部負け組と言うわけでもあるまいが、彼の感触では若者は自民党に投票するらしい。しかも、自民党は、負け組で はなくて勝ち組の若者たちにも食指を伸ばしているのだそうだ。自民党員としての囲い込みである。
昔は若いものを政党に勧誘するのは民青や社青同と 決まっていたが、近頃では自民党もやっているらしい。自民党は、政官民癒着の構造を鉄壁のものにしてきた張本人だから、この利権構造を餌に、いくらでも若 者を勧誘することができる。いまどき民青だの社青同だのに加わったからといって、勝ち組になれる保証など一つもない。せいぜい労働組合の書記か、だら幹に なるのが落ちで、下手をすれば一生貧乏暮らしを強いられる。そこへいくと自民党員の若者には政治家のコネのある大会社に就職するチャンスが巡ってくること はなはだ多し、ということになっているらしい。うーむ、そういう手があったなあ。実際彼の回りには、某テレビ局や某大手メーカーに就職が決まった若者がい て、これは事実であると胸を張っていうのだ。政府の許認可事業に関係する業界を希望するものが有利になるのだろうな。
この記事を読んだ若者は、思 想信条などどうでもいいから一度このことをじっくり検討したらいい。昔は自民党員ですといったら恥ずかしかったが、なに、いまでは堂々たるものだ。米国で 共和党員か民主党員か宣言したところで痛い目に遭わされるようなことはないように事情は日本も同じだろう。
これでは野党など束になってかかって も、かなうまい。彼がいうには民主党が余りにもだらしないから、今度の参議院選もだめだろうという。もっとも大きな問題は、党首の小沢一郎がドブ板選挙な どといって地方回りばかりで表面に出てこないことだという。そんな古典的な選挙では勝てないといっているのが若手の枝野幸男で、かなり正面切って批判して いるらしい。しかし、この枝野は政策が自民党に極めて近いらしくて、いつ保守にくら替えしてもおかしくない人物だという。民主党が寄せ集めで、政策を一つ にまとめるのは至難の業らしいが、二大政党の一つになるにはどんな妥協も惜しまないとやっているのが見え見えで、こんなに不正直な政党も見たことがない。 二大政党になれば、何かいいことがあるみたいにマスコミは大宣伝するが、その意味も見えなければ、民主党が大政党になる兆しもさっぱり見えてこない。いっ そもう一度分裂してがらがらポンした方がいいのではないかとわが国民は思っているのではないか。
ただし自民党が政権についている限り、明治以来何 の改革もなくあちこちでくさりかけている、いや、すでに腐っている様々なエスタブリッシュメントがそのまま手付かずになってしまうからこれが困る。自民党 に二世三世四世、世襲議員が多いのは、それを支えているそれぞれ地方の利権の構造があるからで、それが壊れない限り世の中は変らないとしたものだ。
面白くもない時代が続くことになって、いやになるがそれが政治だからどうしようもない。
いずれにしても、選挙が近づいてきたら、自民党候補の応援アルバイトの口を探して見たらと、友人は若者たちにいっているそうな。それを考えて見るのもいいのではないか。思想信条のことなど、その後で考えたらいい。

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2007年5月16日 (水)

「納豆ダイエット」事件の本質

関西テレビが「納豆ダイエット」のデータ改ざんをやった事件の時に、「嘘はいけない」「やってもいないことをやったように見せかけてはいけない」と至極もっともな指摘があって、関係者一同が謝罪して一件落着したようになっている。僕はこの時、ことの本質はそんなところにはないとここに書こうと思って、その暇が無く放っていた。
そうこうしているうちに、「寺山かぶれの演劇好き」と称する妙ちきりんな男から変ないちゃもんをつけられたので、このことを思い出した。
僕は70000ヒットの報告の文にこう書いたのだ。関係箇所だけ引用する。
「また最近、暇にまかせて、あちこちのページ、ブログをのぞいて見ましたが、
なかなか皆さん盛んで、いろいろな見方があるものだ感心しています。
中には、戦前の学者が使うような古風な言い回しで、晦渋・難解な論文をものにする人や僕のような鈍感で頭の血の巡りが悪いものにはとうてい歯が立たない理解の困難な批評もあって、とまどうこともあります。」

おそらくこの部分に対してなのだろうが、次のような批判があった。

「僕は映画監督の森達也さんと同世代で彼の作品も好きなのですが、森さんはブログであの馬鹿げた納豆ダイエット騒動の背景に「わかりやすさを求めるこの国の民意」があると指摘しています。わかりやすさの強迫が、ドキュメントで守られてきたまっとうな倫理(過剰演出を抑えるために吹き替えを禁じ手にしてきたこと)を済し崩しにしたと。お分かりでしょうがわかりやすさは絶対的な価値ではない。」

僕の上の文と、唐突にを関連付けて論じることにそもそも無理があるのだが、あえて解釈すると「晦渋・難解な論文」や「理解の困難な批評」にとまどうということは、僕が「分かりやすさ」を求めているからだと、結びつけたらしい。「僕は何をいっているのか?何を言いたいのか?分からない劇評に出会ってとまどっている」といったのだが、それは読んでも分からない日本語の文章では困るという意味である。
上の批判がピンずれしていることはあきらかである。

ところがこのとき、この森達也がいっているらしい「わかりやすさを求めるこの国の民意」なるものが「納豆ダイエット騒動」の背景にあるという指摘に「何をしたり顔に、分かったようなことをいいやがって」と腹が立ったのだ。「この国」とはなんだ。「わが国」と言え。それはともかく、わが国の大衆は「分かりやすさを求めて」いて、テレビはその要求を強迫観念のように感じていたから、表現の「倫理」を曲げてまで物事を「分かりやすく」伝えようとしたのだといいたいらしい。

ここには、二つの大誤解がある。
一つは、「ドキュメントで守られてきたまっとうな倫理」が存在すると思っていることである。
ドキュメントというものは、たとえば、なにもない砂漠の中に一筋の道が延びていてその果ては陽炎にかすんでいる風景をカメラが写し出しているとする。ナレーションは、「数千年に渡る人々の営み、悠久の時を刻んでシルクロードは西へ延びています。」と重なっていて、これは「遥かなるシルクロード」を描いたドキュメンタリーの一場面として見ることが出来る。ところが、実はその場所で、カメラマンが僅かに頭を左にふると、そこには巨大な石油コンビナートが建設中という近・現代の象徴のような光景がくりひろげられている。これでは「遥かなるシルクロード」にはふさわしくない風景だと作り手は思うだろう。したがってここは撮影しない。
すなわち、ドキュメンタリーであろうとニュースであろうと人間が切り取ってきた風景である。人の手で選び取られた映像を見せられるのである。だから、隣に巨大石油コンビナートが在るか無いかは分からないが、あるかもしれないと言う疑いは常に存在する。撮影する側、ドキュメンタリー作品を作る側に倫理があろうとなかろうと、それをどう思うかは見る側の問題なのだ。「過剰演出を抑えるために吹き替えを禁じ手にしてきた」というがこの程度の倫理ならなし崩しにしようとたいした問題にはならない。『過剰演出を押さえ」なければならないことの方に作り手の問題が在るだけで、そんなものは見る側は百も承知なのである。
もう一つの誤解は、「わかりやすさを求めるこの国の民意」があると思っていることである。
これには好都合の事例があるのでそれを取り上げよう。
自民党と民主党である。二大政党にして政策を選択出来るようにするのが理想だと言う掛け声のもとにマスコミは二つの違いを鮮明にしろと盛んにいってきた。「分かりやすさ」を要求してきたのである。あれか、これかどっちかを選ベといわれたら、ことごとく政策が二項対立している方が選びやすい。「分かりやすさ」とはAかBか違いがはっきりしていていずれか選べることにほかならない。
ところが、実際には自民党と民主党の間には政策が似通っていることもあれば、正反対のことまでさまざまあり、一刀両断には出来ない分かりづらさが存在する。二大政党が理想だと思い込んでいるマスコミは、いよいよもって国民に違いを分かりやすくしろと叫ぶ。(田原総一朗などはその代表格)
ここにいたって、明らかになるのはもともと分かりにくいものを無理やり「分かりやすくしろ」といっているのは国民ではなくてマスコミだったことである。国民は、マスコミも随分無理難題をいっているなあ、大丈夫なのかなあと思って見ているだけである。その証拠に「憲法改正」は是か非か?という新聞社のアンケートに多くは「改正はいいが海外派兵は反対だ」と政党間の意見にまたがる回答を寄せている。(これには異論もあるだろうが)自分の問題として捉えていることの一つの証であろう。
はっきりと言っておく。わが国民は「分かりやすさ」など求めていない。大事なことは自分の頭で考えようとしている。そのために情報は欲しい、そう思っている。あれか、これかと選択肢を突きつけられなければなにも考えられないなどいうのは、国民をバカにしている証拠である。むしろマスコミは、いろいろな意見をたくさん紹介しろといいたい。
国民をバカにしているのは、上の「倫理」にも共通する。国民に迎合して、ドキュメンタリーの作り手が倫理を守らないというのは言いがかりも甚だしい。「分かりやすさ」を要求しているのは作り手自身でありマスコミ自身ではないか。こういう思い上がりはいい加減にしてもらいたいものである。

ということでようやく僕が語りたかった「ことの本質」に取りかかることができそうだ。
この「ねつ造」事件の背景には、「分かりやすさを求める民意」などは一つもないし、あったとしても本質的な問題ではない。
もっと大事なことは経済の問題である。日本の産業構造の問題であり、雇用の問題であり将来の問題がこの事件によって見えてくるのである。
こういう問題は、いつか必ず明るみに出ると思ってきたが、それは何故かと言えば構造上そうならざるを得ない形になっているからで、ある意味では遅すぎたと思うくらいだ。ところが、騒ぎが収まってしまうと、誰も言及しなくなってしまったのは、追求するとTV局の経営の根幹に関わってくるからだろう。雇われコメンテーターがいい出すはずもない。
一体この「納豆ダイエット」の制作費はいくらだったのか?米国の大学教授に取材しなかったのにあたかも取材したように見せかけた理由は二つ考えられる。一つは、その費用がなかった。米国にカメラクルーを飛ばして取材するだけの金がなかった。もう一つ考えられるのは、作り手のディレクターがでっち上げでかまわない、つまり「倫理」を踏み外した、あるいはそれだけのモラルハザードを起こしていた、ことである。どちらも原因は潤沢な制作費がなかったことで起きたと考えられるのである。

では制作費はどういう仕組みで決まるのか。まずTV局がスポンサーから制作費として受け取る金を100としよう。キー局はこれを自分の子会社である制作会社に50で渡す。50はなにもしないで自分の懐に入れる。この子会社はほぼ専属の子会社に25で渡す。この子会社も何もしない。次に制作現場を担当している弱小制作会社に12.5で発注する。弱小制作会社は自分の利益を半分取って、残りの6.25を制作予算にまわす。大概はフリーのディレクターがこの予算で仕事にかかることになる。契約によっては金を使わなければその分自分のものになる。出来るだけ金をつかわない番組作りが行われる。

昔はTV番組を作っていることは尊敬された。しかし、長い間に低賃金と過酷な労働条件で長く勤める職場ではなくなった。魅力のない職場であることから優秀な人材も集まらなくなった。モラルが低下するのは当たり前である。
これはどこのTV局も同じであって、もう何年も前からの構造的な問題なのである。だからまた同じことが起きるだろう。

この子会社に次から次仕事をおろしていくやり方は、TV局だけではなく、製造業にもサービス業にも蔓延している。親会社は何もしないで口銭ばかりを取って太っていく。実際に仕事をしているところは低賃金に重労働でモラルも上がらない。これが日本の産業の実態なのである。階層社会とはよくいったもので、このおろしていく仕組みにぴったりあった階層ができつつあると言っていい。
資本主義は放っておけばこうなるものだ。行き着く先は、とんでもない格差社会で、家の中に三つくらい鍵をかけてガンで武装しなければ強盗から身を守られない時代がやって来るに違いない。

「納豆ダイエット」の事件の背景には恐ろしい社会問題があったのである。
「分かりやすさを求めるこの国の民意」などとえらそうに高みの見物を決め込んでいるのではドキュメンタリーの作家としてどうかね。
もうちょっとことの本質を見抜く目を養ってこいよ。わかったか!

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