佐々木孝丸と「代々木大山公園」の話(第二節)
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佐々木孝丸が、雑司ヶ谷の秋田雨雀の家の近所から代々木に引っ越したのは「種まき社」同人となったころだから大正十年のことだったと思う。
「新しく借りた代々木の家は大山公園に近い三角橋のほとりで、庭なども相当に広く、門構えの、ひとり暮らしには勿体ないちょっとした中流むきの借家であった。」(佐々木孝丸「風雪新劇志」)
この「大山公園」が、二年前まで僕が二十年ほど暮らした笹塚の家から近い散歩コースになっていたために、「その借家がどのあたりにあったのか俄に興味を持った」と書いた。何しろ、あの「インターナショナル」が、翌大正十一年の秋、日本ではじめて歌われた「農家の藪」があった場所である。これが、四十五年前の学生が知っていたらみんなで石碑でも建てに行ったところかも知れないのだ。
その大山公園は、小田急線代々木上原の駅から北の方角、幡ヶ谷方面に登っていく坂道の途中にある。登り切ったところはT字路になって東京消防庁の訓練施設(消防学校の一部)に突き当たる。道は突き当たる手前を小さな橋で渡るのだが、川は暗渠になっているから、このT字路の信号機に「常盤橋」という看板が見えてもそこに橋があったか気づかないかもしれない。
川というのは玉川上水のことである。
暗渠の上はずーっと緑道になって、幡ヶ谷ー初台方面にのびている。
はて、「三角橋」はどのあたりにあるのかしら?と思ってざっと調べてみたが、玉川上水をたどってみても見つからない。
「三角橋のほとり」という以上は、川がなければならない。では、大山公園の付近に玉川上水以外の川が流れているのか?
あのあたりをくまなく歩いたわけではないから外に川があるのかも知れないと思って、目を皿のようにして地図を見たが、大山公園のあたりに玉川上水の外、川など見つからない。
これはおかしいと思って、「もとい」とばかり、笹塚から詳細に玉川上水を追いかけて見ることにした。
玉川上水は、代田橋方面から笹塚駅の南に向かって、家の軒先が触れるような住宅地の間を流れてくる。途中、開渠になっているところがあって、人ひとりようやく通れる小道から金網越しに覗くと錦鯉が悠然と泳いでいるのが見える。結構な水量と透明な流れにはこの川は今も生きているというちょっとした感動を覚えるものだ。
駅近くに来るとさすがに暗渠になっていて、これが南口に突き当たらんばかりに近づいたとたん、北東に向かっていた流れを俄にV字ターンとばかり、真南へ変える。変えてすぐに、京王線と平行して通っている一方通行路にかかった橋、これを「第三号橋」というらしいが、その下を出たところで再び開渠となる。
ここから百七十メートルばかり、雑草の生えた土手の間をか細い流れが南に向かっている。土手に桜の木が何本かあって、春になると一時花やかになるが、すぐに草が生い茂りとても「さらさら行く小川」(あの童謡はこのあたりの風景を歌ったものらしい、と近所の誰かが言っていた。)という風情ではない。駅の手前では錦鯉が泳いでいるというのに、どういうわけかここまで来る間に流れはずいぶんやせ細ってしまう。
金網で仕切られている土手の両側に道はあるが、西側の小道は途中から車が通れないほど狭くなっていて、僕の住んだ家はその先にあった。駅から歩いてせいぜい五分程度である。桜が終わってしばらくすると土手の草を刈る機械のきーんと言う音が聞こえて、緑色の生臭いにおいが漂ってくる。雑草の生命力は相当なもので、放っておけば、川面が見えないどころか、下手をすると小動物が住み着いてジャングル状態になりかねない勢いである。
この音とにおいが漂ってくると、ああ、今年ももうすぐ夏だなあと言う感慨がわいたものだ。
家の前の道を南に向かうとまもなくT字路に突き当たる。その左に、昔は結構な門構えの屋敷があって、古い木造家屋の屋根とうっそうとした庭木の人気のない様子が塀越しに見えた。聞けば、持ち主はどこぞの大名につながる家系の裔らしく、老婦人がひとり住んでいるという噂はあったが、その近くに僕が住み始めてまもなく機械が入ってあっという間に取り壊されてしまった。
川と隣接している跡地には、八階建ての立派なマンションが建って、分譲がはじまったと思ったらすぐに完売してしまった。何しろ駅から近いのが取り柄である。
T字路からこのマンションを左に見て少し東に進むと「笹塚橋」を渡る。駅近くの「第三号橋」から開渠というのは、この「笹塚橋」から二、三十メートルほど先までである。「笹塚橋」に立って下流をながめると、流れは鉄格子で仕切られた暗闇のむこうに消えている。
右側の一角が階段になって土手の下におりることができるのだが、入り口の鉄柵には鍵がかかっている。この部分を地図で見ると、ちょうどこの階段にあたる右側三分の一程度が、不思議なことに水が流れていることになっている。つまり地図によると、階段がなく、その少し先まで開渠ということになっているのだ。そのため、左側の暗渠に入る流れと、地図で見る右の流れが二筋あるように見える。 何故、グーグルマップがこうなっているのかはわからないが、右の階段のコンクリートが比較的新しいところを見ると、最近になって、この二手に分かれる流れの一方を階段でふさいだのかも知れない。
すぐ近所に暮らしていたのに、そんなことにはまったく関心がなかったから、この橋を通るたびに、ただ、薄暗い暗渠の入り口をどんよりとした印象で見ていただけだった。
玉川上水は「笹塚橋」をくぐったとたん、渋谷区笹塚一丁目から世田谷区北沢五丁目へと地番を変える。つまり「笹塚橋」を渡る狭い一方通行路が区の境界線になっているのである。
そこから上水の西側は、金網の近くまで住宅が迫ってきていて、人ひとりが通れる小道がついているだけだ。東側も金網で仕切られているが、車の往来はできる狭い道路になっている。(この道は午後三時から七時までの間、僕の家に帰る唯一の迂回路になる)玉川上水の上は、蓋をした分だけまわりより一段高くなって、植栽も目立たず、殺風景な印象の土におおわれた通路である。ただ、夏になると上水と平行して通る北五商店街から中野通方面に抜ける橋のたもとに、櫓がかかり、商店街主催(だろうと推察するが)の盆踊りがあったりして多少賑やかになる。ただし、この商店街自身が商店街を名乗るにはおこがましいほど店数もなく、あたりは人影も少ない、いたって地味なところだ。
この橋は、世田谷区と渋谷区を結ぶ重要な橋なのに、何故かどこを探しても名称がない。名無しの橋である。
上水はさらに南下して井の頭通り方面に向かう。西側はびっしりと住宅が並び、上水を東西に横切る橋はどこにも見あたらない。名無しの橋から先「玉川上水第二緑道」の東側は狭くなって歩道が伸びているだけである。やがて、広大な特別養護老人ホームの裏をまわって進むと緑道は不意に中野通に出てこれを東に向けて渡る。つまり玉川上水は、井の頭通りの大山交差点方面へ抜けると見せかけて、その手前を今度は北東方面にUターンするのである。
最近、二十年以上も通っている歯医者に行く用が出来て久しぶりに笹塚に行ったついでにここを歩いてみた。余談だが、二十年かかって、僕の歯の大半を抜いてくれた(頼んだわけじゃないが)歯医者だから今さら変える気にもならない。愛想はないが電車賃が気にならないほど腕はたしかで、昔百万もかけて入れた金属を、なんじゃこれは!とこともなげにべりべりはがし、どこかにやってしまったが、そのあと費用は驚くほど安いから文句は言えない。
それで、第二緑道を歩くと、両側は車が通らないから静かで何となくのんびりした気分になる。ちょうど特別養護老人ホームの裏手にあたるところに看板が出ていて、トイレは老人ホームの中にあるからそこでやってくれと書いてある。
のんびりついでに用を足したくなっていたので、その老人ホームとやらがどんなところか覗いてやろうという好奇心満々で裏口の大きな自動扉を開けて入った。こういうところは金持ちの終の棲家だから、防犯はしっかりしているはずだと思っていたが、とおりすがりのものがトイレを借りに入っても、誰も関心を持たないらしい。
それにしても、実にゆったりとした設計で、運動のマシンが様々揃っている空間があったり、職員のいるスペースにも余裕が感じられる。居住施設は二階にあるのだろう、昼寝の時間だったからかも知れないが、老人の姿はほとんど見えなかった。こんなところで何不自由なく老後をすごせたらなんぼか楽だろう、なあんて全然思わなかった。こういうところは、老人だらけで不愉快なだけだ。親の面倒を見たくない子供にとっては、願ってもない施設だろう。
もとい。
第二緑道の出口、中野通から幡ヶ谷方面に向かう道の交差点に「五条橋」とあるのは、そこに玉川上水を渡る橋があるからだ。ただし、橋らしきものは見あたらず、中野通りを渡ったところに石の柱が二本立っているのは「北沢橋」のなごりで、その向こうに「四条橋」があり、「五条橋」は次に大山町の住宅街から延びてくる道にかかっている。さらに「六条橋」があって、次が代々木大山公園から登ってくるT字路にかかった橋、あの最初に書いた交差点「常盤橋」である。
代々木大山公園のあたりは、もともと国有地だったのか、かつては高等師範学校時代かあるいは東京教育大になってからか、その体育学部があったところに国際協力機構(JICA)の施設や独立行政法人「製品評価技術基盤機構」それに東京消防庁の消防学校やらその寮、グランドなどの施設ができている。また、背後には江戸時代からあったという火葬場の場所に、いまは立派な代々幡斎場の建物がたっていて、住宅が密集している間に忽然と姿を現すのには意外の観がある。
JICAの宿泊施設の前の道が玉川上水を渡るは「相生橋」、その先代々幡斎場へ向かう道にかかっている橋は「代々幡橋」、さらに西原小学校に突き当たる道にかかっている「山下橋」(この橋は山下汽船に由来する)次に上水を渡るだけの「美寿々橋」、そして、京王線「幡ヶ谷」駅方面から来る道にかかっているのが「二字橋」と続いて、玉川上水は甲州街道沿いを初台方面に向かっていく。
佐々木孝丸が「大山公園にほど近い三角橋」と言っているのが、幡ヶ谷をこえるとさすがに「ほど遠く」なってしまって、それ以上調べてみたが、「三角橋」は新宿に至るまで現れなかった。
ところで、話を元へ戻すようで恐縮だが、笹塚駅目指して流れてきた玉川上水が、突然真南にV字ターンするのを、長年そのすぐそばに暮らしていたというのに不思議とも何とも思っていなかったのが、この「三角橋」探索を機会に「何故か?」と思うようになった。
そう思ってみると、そのわけはすぐに判明した。
笹塚駅を北に出ると、すぐに甲州街道である。この甲州街道に立って新宿方面をみるとかなりの坂道を下ることがわかる。道はどんどん下がって、やがて中野通との交差点、幡ヶ谷と接するところが最も低くなり、それから先はまた東に向かって上り坂になるのだ。甲州街道本線は、この低地に高架を渡して中野通と立体交差している。そのくらいここはくぼんだ土地なのである。
この低地は、江戸時代から牛ヶ窪といわれたところで、この文を書くのに大いに参考にしたブログ「時空散歩」には、「この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。」とある。
たしかに、ここを通るたびに、「牛窪地蔵尊」と書かれた幟がはためいて、ビルの谷間にひっそりとしかし現代的なデザインのほこらがあったのは覚えていた。そこにこんな由来があったなど、二十年間知るよしもなかった。太古、北前船が停泊する東北の港町から風に吹かれてやってきたデラシネの目(僕の号は、あまり人には言っていないが「渟風」だ。)には、いつかどこかで見たようなぼんやりとした風景の一つに映っていた。
面白いことに、調べもだいぶ後になって、文明開化のあと、牛乳の需要が高まったことを受けて、このあたり一帯(たぶん、今の新宿中村屋の工場から幡ヶ谷の玉川上水北側あたりまで)には牧場が最盛期で十一もあって、毎日新鮮な牛乳を東京市中まで届けていたという。あくまでも、牛に縁がある土地らしい。
余談だが、僕が笹塚に移り住んだ頃は、この低地から中野通が甲州街道を越えて南側に延びてきたあと、まるで通せんぼをするようにぴたりと道一面に塀が立ちはだかっていた。つまり、中野通は行き止まりだったのである。
僕は、この道がいつまで経っても開通しないので、大いに迷惑を被った。塀の間から中を覗くと、家はとっくに立ち退いているらしいが、もっと先に問題があるのか整地すら進んでいない。
中央区にあった僕の事務所までいくのに、まず一方通行を中央区とは反対の方向に相当程度走ったあげく、違う道を同じくらい戻って甲州街道に出る必要があった。「行きはよいよい帰りは怖い」とはよくいったもので、帰りは一方通行で元の道を通れないから、今度は違う一方通行の狭い商店街を通ることになる。
ところが、この商店街は、午後三時から午後七時まで通行止めになる。コンクリートの土台にさした進入禁止のマークが道の真ん中におかれてムカッとくるほど愛想もなにもない。ここを通ったらわずか百メートル先に家があるというのに、である。
そうなると、中野通の塀の手前にあるまるで迷路のように細い道(車がすれ違うためには、他人の家に頭を突っ込まなければならない)を教習場のクランクよりはるかに難しいハンドルさばきで通って遠回りしなければ、我が家にはたどり着けないのである。
風邪で高熱を出しながら通ったときなど、ぼーっとしていたせいで道に張りだした電柱に車の横っ腹をこすったこともあるくらいだ。
これをずうっと迂回して例の大山公園から登ってくる「常盤橋」の方から戻る経路もあるが、当時は中野通がまだ工事中で(つまり塀の向こう)通るのが面倒だった。
たしか、2008年頃だったと思うが、これが大山の交差点まで開通して、実に立派な道路になった。ようやく、あの迷路に入り込まずによくなった上に、中央区にいくのに、井の頭通りに出て青山通りを行く方がよほどましで、渋滞にも遭わずにいけることが分かって、もっぱらこのルートを使うようになった。表参道を通るから気分がいいし……。
話を元へ戻そう。
玉川上水が笹塚駅に突き当たって南に進路を変えたのは、この牛ヶ窪があったせいである。甲州街道と中野通の交差点に水を溜めると南北に細長い楕円の池が出来るはずだ。玉川上水は、正確にその池の岸辺をたどり低地を回り込んでいたのである。
自然の川は、低いところを求めて流れるが、人工の川はそうは行かない。取水口の羽村から新宿大木戸まで十一里(43km)この間の高低差100m弱である。つまり1kmにつき僅か2mあまりを下げるという神業に近い土木工事である。窪地を避け、精妙ともいえる高低差を測って流すという難事業を一年もかけずに成し遂げたというから江戸時代の人々の技能がいかに優れていたかがわかる。しかし、夜、提灯をかざした人々を並べて土地の傾斜を測ったという言い伝えが残っているくらいで、実際にどうやったのかはよくわかっていないという。
さて、「三角橋」であるが、玉川上水にかかった橋でないとすると、このあたりに昔あった橋かも知れないと考えた。橋がある以上川がなければならない。すると川があった証拠が見つかれば手がかりになる。
そこで、グーグルマップで調べてみた。代々木大山公園は坂道の途中にあるといったが、たしかに、一帯は小田急線代々木上原駅北側に向けて傾斜している。駅は、南側が代々木上原というくらいだから高く、北側が渋谷区西原と渋谷区大山町に属する一段低い土地の境目、崖のようなところにある。
幡ヶ谷方面から西原の南にかけて住宅の間にいくつもそれらしき小道はあったが、暗渠であるかどうか判別できないし、あれは、高低差を知るにはほぼ役に立たない。
そのうちに、現在の住宅を取り除いた地形だけが分かる地図でもないかと探していたら、このあたり一帯は高台から南に向かっていくつか谷が切れ込んでいて、大山公園の裏手あたりが「狼谷」と呼ばれていたことが分かった。「牛ヶ窪」で股裂きの刑が行われていた頃この谷には狼がうろついていたというのだろう。その谷から幾筋かの小さな流れがわき出て、それが現在の代々木上原駅北側の低地に流れ込み、代々木上原の台地に阻まれて現在の代々木八幡の駅方向に集まり「宇田川」となって渋谷に流れ、やがて「渋谷川」となったらしい。
してみると、JICAの施設の中庭とおぼしきところに池が見えるが、それがここに言うわき水かも知れないと思った。
とはいえ、谷から湧いて出る川などわざわざ橋を架けるほどの流れになるだろうか?跨いでも通れるくらいの流れに橋を架けてご大層に「三角橋」など名付けるものだろうか?「三角橋のほとり」といかにも立派な具体的な橋が存在していそうな表現なのだ。
この頃になって、どうも俺は方向違いをおこしているらしいと思うようになった。
というのも、「三角」はどこかで見た記憶があったからだ。「三角」の次が「橋」だったかどうか覚えていなかったが、交差点の標識であった。ならば、調べはつきそうなものだ。と考えたとたん、「三角」の場所を思い出した。
山手通りを目黒方面から笹塚に向かって帰るとき、途中松濤あたりの三叉路から左へ向かって小田急線東北沢駅に向かう道がある。長い間、地下に高速道路を通す工事が続いてよく渋滞した場所である。左折してまもなく日本近代文学館、旧前田侯爵邸の門がみえる。通りの右側は、代々木上原二丁目で、左は目黒区駒場。まっすぐ行くと少し道が狭くなり右へカーブしている交差点があって、そこを進むと東北沢の駅脇にある小田急線の踏切を渡って井の頭通りに出る。
道が狭まるのと踏切を越えるのが難儀でここを通るのに躊躇することもあったが、なにしろ近道であった。
その難儀な場所に入り込む手前の交差点が「三角」なんとかであったことを思いだした。ところが、そんなところが佐々木孝丸が言っている「三角橋」であるはずはない。そのわけは、それが「三角橋」なら「代々木大山公園」はあまりにも遠いのだ。直線距離にしても800m以上はある。その間に小田急線の踏切があり、井の頭通りを跨いでさらに住宅街を突っ切っていくことになる。
「大山公園近くの三角橋」とあっさり書いているが、昔のひとの感覚でいったとしてもとても「近い」とは言えない距離がある。
それに、川がないではないか?
では「三角橋」の地名は何か川に関係しているのか?
この交差点は三叉路になっている。もう一つは井の頭線「池の上」駅に向かう細い商店街と交差しているのである。
いくら調べても、川に関する情報は出てこないし、商店街も三叉路だから「三角橋」なのだろうといういいかげんなことでお茶を濁している。
そんなことだから、とりあえず、大正十年頃にここ「三角橋」に立ったら「代々木大山公園」はどのあたりに見えて、それが「近い」と言えるほどの距離に感じるかどうか確かめることだと思った。
大正時代のこのあたりの地図を探し出すのはそう容易ではなかった。国土地理院が保管している大正十年の地図のうち「世田谷」の区分図に、うまい具合に対象の部分は含まれていた。それで確認しようとしたが、解像度が悪くて細かいところが分からない。国土地理院に赴くとコピーを購入できることになっているらしいが、九段まで行くのもおっくうだから取りあえず分かるところまで確認することにした。
その地図によると、代々木上原は山林の間に畑が点在し、家はまだまばらであった。小田原急行が営業を始めるのは昭和二年のことで、井の頭通りも和田堀の給水場から渋谷まで水道管を埋設する工事と、せっかく掘り返すのだからその上を道路にしようと言う計画が進行中で、まだそれらしい道ははっきりしていない。
家屋は、現在の代々木上原の駅の周辺の道沿いに何軒か建っていて、たしかに「三角橋」とおぼしきあたり(現在の上原二丁目あたり)に住宅の影がいくつか見える。道の向かい側の駒場には東京帝国大学農学部の校舎と農場が広がっているばかりで人が住んでいる気配はない。
汽車に乗って大きな町を離れていくと家屋が途切れ始めて田畑が目立つようになり、やがて家は田畑、山林の間に点々と見えてくるという。あの郊外から田舎にかけての風景が、代々木の高台に展開していたと言うことなのだろう。
大発見でもないが、現在の小田急線代々木上原駅の北側には建物らしきものはなにもなく、地図によればここは山林ばかりが広がっている。そのために等高線がはっきりと見え、あの、代々木大山公園を右に見て幡ヶ谷方面へ登っていく道路は両側の高台から落ち込んでくる谷筋に沿ってつけられていたのである。谷は東側からこの道の途中に合流するもう一本があって、昔、狼がうろうろしていたという狼谷はそのどちらかであっただろう。
いずれにせよ、今の大山公園にあたるところに少なくとも「公園」らしき場所は見あたらないのである。
すると、今の代々木大山公園はいつごろできたものか?
佐々木孝丸が大正十年に引っ越してきた「三角橋」がその渋谷区上原二丁目と目黒区駒場四丁目、それに世田谷区北沢一丁目の接触する三叉路付近であったとして、「大山公園に近い」と書いた当の「公園」はどこのことをいったのか?
それとも、「大山公園」が代々木の別の場所にあって、そこにほど近い「三角橋」が他にあるとでもいうのだろうか?
いくらなんでもそれはないだろう。
ひとまず「三角橋」はここだと決めつけなければ、話は進まない。
それで、大正十年に「代々木大山公園」の姿が見えない以上、現在の公園はいつできたものか?あちこち調べてみた。
すると、この公園はなんと、戦時中の昭和十八年に出来ていたのである。大正十年頃、「大山公園」は影も形もなかったのだ。しかもおかしなことに、この公園の地番は東京都渋谷区西原2丁目53-1なのだ。何故、「代々木西原公園」ではなく、通りの向かい側である大山町の名称をつけたのか、謎である。
それよりも、佐々木が言っている「大山公園」は、明らかにこの公園のことではなかったというのは大げさに言えばショックだった。「三角橋」がおおよそ見当ついたとたんに今度は「大山公園」が消えてしまったのである。
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それで、やっかいなことに大正時代に遡って「大山公園」を探し出さねばならなくなった。「大山公園」と引けば、「代々木大山公園」ばかりがやたらに出てきて、らちが明かない。これは困ったとと思っていたら、何かの会社の沿革に「これが大山公園の跡」と言う記述に出会った。
それがまた大発見であった。
大山町を散歩で通ったり車で通ったりするときに実に不思議な大邸宅があった。一軒一軒は松濤よりやや小規模といっても高級住宅街で名の知られた町である。その中でもひときわ目を引く大きな屋敷があった。御影石を磨いたような立派な石材を十メートルは超えていそうに恐ろしく高く積み上げた塀に囲まれて、それが東西150メートル南北に100メートルもぐるりと廻っているのである。途中僅かに壁が入れ子になったようなところの奥に出入り口が見えるが、執事か女中でも密かに通る隠し扉のようで、他といったら360度まるでとりつく島がない。北西の端っこにあるひっそりとした玄関は数寄屋風で石造りの塀には不釣り合いだが、高額な固定資産税を払っている他人様の趣味に文句は言えない。それで表札は?と探しても無駄であった。
どうせ、枕を高くして寝られない悪党か金持ちが住んでいるに違いないと思っていた。
昔、荻窪に住んでいた頃、近所にうっそうとした木々に囲まれた大きな屋敷があって、石柱で出来た門構えと右翼の大立て者を思わせる表札が異様な威圧感を醸していた。今にも足駄に袴、白シャツ姿の書生が飛び出して、何の用だと因縁を付けられそうな気がしたものだ。
それに較べると、こっちは思想性は希薄でIT成金くらいの軽輩を思わせる構えで、因縁どころか、うろうろしているところを監視カメラで捉えられて、狙撃でもされそうな冷たく怖い雰囲気である。
この屋敷が、その昔大山公園だったところだというのである。
そうだと知って、いろいろ調べてみると、代々木上原の駅北西の窪地は「大山公園」の池があったところ、また、そこから五十メートルほど北に行った例の谷底にあたるところに、どういうわけか現在も場違いな交番があって、そこもまた池の跡だという記事にも出会った。
すると、この大邸宅というのは「大山公園」の中核部分に過ぎず、もっと広い範囲で公園になっていたのであろう。
そうか、佐々木孝丸が「代々木の大山公園」といったのは、その「公園」のことをいったのだ。佐々木が昭和三十六年、著書にそう書いたとき、別の「代々木大山公園」が渋谷区西原2丁目に存在することを知らなかったか、あるいは、大正年間に「大山公園」と言えば、ここのことを指しているのは自明であろうとしたものか?
いずれにしても、ここであったなら、「三角橋」からは500mくらいで、当時は小田急線も、井の頭通りも細々と出来たばかりで、住宅もまばらだったろうから、目と鼻の先といえるくらい「ほど近い」距離だったに違いない。ずいぶん紛らわしい書き方をしたものである。
それで、今度はこの「大山公園」がどういうものだったのかを調べにかかった。
取りあえず、どういう範囲に公園は広がっていたのか?
国土地理院所蔵の大正十年発行「世田谷」の地図には「大山公園」の記載はなく、このあたり一帯は家屋の影もなくただの山林を示しているに過ぎない。
そこで、大正時代の地図を他に探してみたら、測量は必ずしも正確ではなさそうだったが、大正十年より少し前の地図が見つかった。
それによると、「場葬火」(現在の代々幡斎場)のすぐ下に「園山大」とあって、もしこれが「大山公園」の中心なら、現在の「代々木大山公園」にもかかっていることになる。しかし、大山町のあの大邸宅が中心だとするなら、この地図では、北側、つまり玉川上水寄りに偏りすぎていることになる。これはどう見ても適当に「大山園」はこのあたりと示したに過ぎないように思える。
いったい、この「大山園」はどの程度の広さがあったのか?この地図ではまったく不明であった。
ただ、ここで、一つ解決したことがある。
「三角橋」の下を川が流れていたのだ。
玉川上水は、現在の杉並区和泉のあたりにあった荻久保という低地を避けるために一旦代田橋寄りに流れを変え、ついで笹塚駅に突き当たってV字ターンで南下する。一旦開渠になって笹塚橋の向こうで再び暗渠になるが、その先で水路が別れ、一本は玉川上水、もう一本は北沢から三角橋方面にながれて農科大学の塀に沿って下っていくのである。
また、三角橋付近でもう一本池尻に向かって南下する水路も見られ、まさしく「三角橋」は川の三叉路でもあったのだ。
他にも、狼谷を水源として一旦代々木上原駅方向に流れ、谷に沿って代々木八幡方向に向かって宇田川となる川も確認できる。
あとになってブログ「時空散歩」でわかったのだが、笹塚橋の向こうで二手に分かれる水の流れは「三田用水」と言うらしい。
この「時空散歩」から引用する。(よく調べてあって感心した。)
「笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。
(註:グーグルマップの笹塚橋をこえて暗渠になる手前で流れが二手に分かれているように見えるのは、そのせいだったか?)
三田上水
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水
が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。
三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口>北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)>東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り>井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り>西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る>別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)>起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)>高輪3丁目交差点あたりで二つ
に分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。」
どうです。詳しいでしょう。
佐々木孝丸が住んだ「三角橋のほとり」は間違いなくここだと断定してよいだろう。
そもそもこのあたりは江戸時代、将軍が鷹狩りをした場所で、駒場という地名はその馬をおいたことに由来するという。
ここから先は、「まちの記憶」(辻野京子、2003年8月、個人出版)に詳しいので、全面的に寄りかかって書くことにする。
明治になって、この一帯を木戸孝允が所有した。
「木戸孝允書翰集には、明治9年(1876年)12月の品川弥二郎宛ての手紙の中に「駒場、代々木合わせ八万坪ほどの地所二千七百にいたしもらい度云々」という下りがあり、『一昨年には三千円にもつき候ものが、値が下がり』と嘆いています。」
というわけで、桂小五郎も晩年には少々せこいことをいっていたようだが、ものの本によるとその後、青木周蔵に所有が移った。
青木は、ご案内の通り、大津事件の時の外務大臣で、演劇の方では三谷幸喜の「その場しのぎの男たち」で、滑稽で情けない男と描かれていたが、実際は陸奥宗光とともに不平等条約の改正に尽力した。
それより前、青木はドイツに医学留学し、後に専攻を法律と経済に変更したため召還されそうになったが、留学生は近代日本建設のために広く学問を吸収すべきという持論を展開し、ついには学生でありながらベルリン公使館の書記官、後に公使としてつとめた。
辻野京子さんは言う。
「彼は、当時ヨーロッパの貴族の大土地所有の事態を目の当たりにして、森林と荒蕪地によるプロシャ流農林業に感化され、折しも大名家の土地が放置されていた東京で、農場用にと土地の購入に努めました。」
なるほど、青木周蔵は、欧州貴族風農場経営をしたかったのだ。
ところが、辻野さんによると、
「実父三浦玄仲にあてた明治9年の書簡の中に「木戸家の地面は強く所望いたし候と言えども、い
ささか不都合に候間、決して不目立様にて~」とあり、結局この土地は青木周蔵の実弟、三浦泰輔のものになったようです。この人もドイツ農学校に留学し、帰国後、代々木村字富ヶ谷と上目黒村駒場に大農式農業、牧畜を行ったとされているからです。」
というわけで、青木周蔵はどうも手元不如意だったらしく、後に那須高原に土地を得て、望みを叶えたらしい。
この青木周蔵の弟、三浦泰輔がどういういきさつでこの土地を手放したものか不明だが、大正2年になって、鈴木善助なる人物がこの場所に広大な庭園をつくり一般に解放したのが「大山園」であった。
「大山園」がどんなものであったか、唯一残っている資料「東京府豊多摩郡誌」に次のような記述がある。
「代々木大山、西原に跨がり面積七万六千余坪、中央の庭園は二万坪に超え四周みな松林翆緑頗る濃やかに園内の楓桜春秋の色嫋やかなり、大正二年十月公衆のために解放して以来、園内三カ所に四阿を設け又到る所に休憩台を配し略ぼ公園の趣を成せり、夏期は南崖に男滝女滝をかけて銷暑に資す、蓋し郊外一日の清遊地たるを失はざるも、地やや僻して遊覧の客多からざるは惜しむべし。」
明治39年に開園した横浜本牧の「三渓園」と、自然を生かした景観は似たようなものだったと想像できるが、「大山園」はあれを上回る規模であった。
七万六千の平行根は約276、つまり二百七十六間=約500mである。現在の大山町と西原の一部を含む広大な公園が、あの「三角橋」の目と鼻の先にあったのだ。
鈴木善助がどういう来歴の持ち主か不明であるが、昭和10年には芝新門前町に住んで、まだ西原、新町にいくらか土地を所有していたようである。
鈴木のあと、紀伊徳川家の徳川頼倫をへて、大正の中頃には山下汽船の山下亀三郎が所有した。
山下は、浮沈の激しい事業家だったが第一次世界大戦の海運業で成功を収めたいわゆる船成金で、大山園を含む大山から西原にかけた十万坪を400万円で購入し、最初は城のような大邸宅を構えるつもりであったらしい。
しかし、自分の成金趣味を反省したのか途中で嫌になり、宅地として分譲することにした。
これが実現するのは、関東大震災のあと、都心から人が移り住むようになってからで、とりわけ昭和二年の小田急線開通によって加速された。
堤康次郎と山下亀二郎の関係はよくわからないが、大山町分譲は昭和十年から「コクド」と山下が組んで造成、販売が行われた。
山下は、閨閥を作るのに熱心でその関係は賢きあたりにまで及んでいたので「プリンス」が大好きな堤が近づいたのかも知れない。(というのはげすの勘ぐりか?)
それで「大山園」を何回かに分けて、分譲したのが今の渋谷区大山町だったのだ。現在の「代々木大山公園」は、その境界あたりになるから、ひょっとしたら、「大山園」の一部に含まれていたので、地
番は西原だが「大山園」に敬意を示す意味で名称を残したのかも知れない。
ところで、あの謎の大邸宅は、実は山下亀二郎が別邸とするために売らずに自分で確保した土地であった。
戦後、レバノン人の貿易商A・H・デビスの手に渡り、現在はなんと、某アパレル会社社長邸になっているということがわかって、長年のどにつかえていたものがとれたように感じている。
某アパレル会社は多数の店舗を構えているが、せいぜい二十代から三十代の店員ばかりで、年寄りというものを見かけたことがない。ということは、年をとると店舗からいなくなって、どこか別の事務所にでも行くのかと思ってみても、それは考えづらい。つまりは年寄りはきっとやめざるを得ないのだろうと
考えるのが自然だ。
案の定、この会社の離職率は相当高いと評判で、一説によるとブラック企業といわれているらしい。
こういう薄情な経営者は、やはり塀を高くして住まなきゃならないと思うものなのだろう。
新宿中村屋などとは格が違うといっても、なんだかむなしくなる世の中だ。どのみちさっさといなくなる身だからどうでもいいが、近頃この会社が日雇いの非正規社員を正社員にしたというニュースを耳にして、たまにはいいこともするものだと思った。
儲けた金をせっせと社員に配って、厚生年金も保険も負担しなければ、そのうち豪邸にも住めなくなる(かもしれない)とおそれをなしたのか?
そう、儲けを配らねば資本主義はやっていけないことを政府も認める時代だ。
佐々木孝丸が、「立て!飢えたるものよ……」と代々木大山公園近くの農家の藪のなかでうたった時代とは隔世の感がある。
その農家がどのあたりにあったかという関心から出発した過去への旅だったが、「大山園」があまりに大きく広かったために、また、わずか百年にも満たない間のあまりの変わりように、近代とは我々日本人にとって何であったかという思いに茫然とたじろいでいる。
一時期は、金で何でも買えるとか、会社は株主のものとか、時価総額とかうかれたこともあったが、それがつまらぬ考えだとわかったのか、経済学者とか評論家とかがTVに登場することも少なくなったのはいいことだ。
何が起きるか分からないが、ただ、この先、再び「飢えたるもの」が出ない世の中であって欲しいと願うばかりである。
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