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2020年12月26日 (土)

安曇野・相馬愛蔵・黒光のことなど

「常念岳」登山前後

 

最後に登った山は確か「常念岳」であった。それが2009年のことだったから、もう10年以上山に行っていない。
東日本の震災があった年、2011年の六月に身体が動かなくなって、生涯初めて入院した。それまでの二年くらいの間に近傍の山に行ったかも知れないが、記憶がないので、あれが最後だったろう。また、登ってみたい気はするけど、あのとき心臓がいかれてしまったから、たぶん、行ったら人様に迷惑をかけるだけだ。
コロナのせいで、劇場に足が向かないのはもちろん、出かけるのもおっくうになって、日々の食糧調達以外は家で本を読んだりTVをみたりしている。NHKを見ていると夜中でも何でも内外の山の映像を目にすることが多く、嫌でも山行きのことに気が行ってしまうものだ。

 

「常念岳」登山の様子は、すでに書いているが、その時プロローグのようにして直接関係のない二つのことに言及している。
一つは、この間書いたとおり、泉康子の「ドキュメント山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」(宝島社)にあった中房温泉に興味があったことである。
もうひとつは、映画のシナリオを依頼されて、ロケハンのために安曇野を走り回ったとき、常念岳を遠望したことだ。
このときの記事に多少手を加えて、再掲したいと思う。

 

 

二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。
確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとそのプロジェクトにかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。

 

安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは分からなかった。とりあえず、映画監督が撮りたいと思ったものに合わせてシナリオを書くという主体性のないまま、ロケハンをするのに同行して何度か安曇野に足を運んだ。
監督は、映画も撮っていたが、CF撮影の世界で評価が高く実績もあった。このときは安曇野という土地柄を紹介するという目的だったから、とりあえず美しい映像を撮ることを考えていて、構成に注文をつける気配はなかった。だからこちらから何か提案しなければとシナリオハンティングのつもりであちこち見て回った。

 

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 安曇野一帯を俯瞰するために犀川を渡って池田町の高台を走り、また穂高に戻って美術館や記念館や忠魂碑や遺跡などを見学した。街道沿いになんと鄙には稀な古書店(さすがは信州)を見つけていくつか資料を購入した。広大なワサビ田も見どころは多かった。その側には黒沢明が『夢』を撮影した時に作った三連の水車小屋がそのまま残されている。他にも絵になるところはいくつもあったが、しかし、それだけなら観光映画になってしまう。何か人が織りなす物語の中に、おのずから安曇野の風景が浮かび上がる映像詩のような映画になれば訪れる人にとって印象深いものになる、そう思ったのは、碌山美術館を訪れた時だった。

 

 

Image_20201226160301 石積みの小さな教会のような建物の中に、萩原守衛(碌山)の残した彫刻とデッサンが展示してあり、狭い庭にもなにか作品がおいてあったような気がする。僕は日本の近代彫刻の代表作とも言える作品『女』をいつか写真で見たことはあったが、それが新宿中村屋の相馬良(黒光)と深くかかわっていたことを知らなかった。二人の話はドラマ化されたこともあったそうで、監督もそれは承知のようだったが、おそらく安曇野の風景を描こうというこの映画と直接関係することとは思っていなかったようだ。

 

明治三十一年春、後に新宿中村屋を創業する相馬愛蔵と良は東京牛込の教会で結婚式を挙げると愛蔵の故郷、穂高に戻ってくる。愛蔵は代々庄屋をつとめた相馬家の跡継ぎである。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中に内村鑑三らのキリスト教に強い影響を受け、故郷でも近所の若者を集めて東穂高禁酒会なるものを主宰している。
禁酒会とは妙なものをつくったと思ったが、これは当時のDV対策のようなものだった。どこの田舎も似たようなものだが、農作業がないときの男どもは、酒を飲むことしか大方やることがない。飲んで酔って、仕舞いには家族やまわりのものに暴力沙汰に及んだり、始末に負えなくなることが多かった。これをやめようという誘いに布教活動を絡めた運動が禁酒会で、維新後の社会性に目覚めた青年たちが興味を抱いて参加した。

 

ところで、相馬愛蔵が新妻をともなって故郷へ帰るとき、身体が弱かった妻は、松本平を見下ろす保福寺峠の温泉で一ヶ月ほど滞留している。なぜ、東京から近い南の塩尻側から入らずに、遠回りになる東側の険しい峠を越えようとしたのか不思議に思ったのだが、このとき、全国の鉄道網は整備の真っ最中で、中央本線はまだ全線がつながっていなかった。東京から穂高に帰るには、まず高崎方面に向かう汽車に乗り、碓氷峠で上信国境を越え、官営鉄道中山道線(後の信越本線)上田駅で下車、そこから馬で標高千三百五十メートルの峠を西へ越えるのである。

 

臼井吉見「安曇野」によると、高崎からいまでは「峠の釜めし」で知られた横川まで汽車で来ると、夫妻は馬で碓氷峠を越えたことになっている。
碓氷峠は標高九百六十メートルで、横川から信州側の軽井沢まで約十キロメートルの区間を上り下りする。横川の標高は三百八十七メートル、一方の軽井沢は約九百メートルと上州側から五百メートル強の高さを、しかも最大勾配66.7%(距離1000mで高さ66.7m)という急坂を蒸気機関車で登らねばならない。信越本線は、この難所が障害になってしばらくつながらなかった。欧州高山鉄道などを参考にアプト式(車軸に歯車を付け、線路側に歯形のついたラックレールを敷いて、かみ合わせながら走る。)を採用、トンネルや橋梁を多用して山間を通し、機関車を二連結して引き、押し上げるなど工夫を凝らすことで、明治二十六年、ようやく開通したのである。一年半という異例の速さで完成させたが、その間に五百人もの犠牲者を出した難工事であった。
しかし、開通したのはいいが、機関車の煤煙がトンネル内に充満、乗務員はもちろん乗客までその被害を訴えることが多く、しばしば中継駅である熊ノ平で立ち往生するなど運行には問題が多かった。
明治三十一年、相馬夫妻が横川から馬を使って峠を越えたのは、そういう事情があったからかも知れない。

 

 

話を戻そう。
良はもともと仙台藩士の娘であるが、さまざまな苦境を乗り越えて、フェリス女学校から島崎藤村や北村透谷のいる明治女学校で学んだ、当時の田舎には珍しいインテリ女性であった。
その穂高禁酒会に通って来る十代の若者たちの中に絵が上手な男の子がいた。この萩原守衛は、東京からやってきた相馬家の美貌の嫁を遠くからあこがれをもって仰ぎ見ていた。
あるとき、彼が万水(よろずい)川を背に田の畔に腰を下ろしてまだ雪を抱いている春の常念岳をスケッチしていると、後ろから『こんにちわ』と声をかけるものがいる。振り向くとえび茶のパラソルを差した相馬良であった。萩原守衛は、突然の出来事に狼狽し胸が高鳴り、頬が赤くなるのを感じた。
それが二人の出会いであった。

 

手がかりをつかんだ僕は、事務所の机の正面に安曇野の五万分の一の地図とその横に常念岳を含む北アルプス登山地図を貼った。それから資料集めをしているうちに、小説は参考にならないと思ったが一通り当たっておこうと、臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、全五巻)を手にした。

 

結婚した相馬愛蔵と良が上田の停車場に降り立ち、そこから保福寺峠を馬で越えて松本盆地に入るところから始まる大河小説で、作者自身がそこで生まれ育ったという安曇野の情景が生き生きと描かれている。
愛蔵は友人の井口喜源治と共に禁酒会を一種の私塾のような教育活動に発展させ、参加した若者は英語や国際情勢を学び社会制度についてあつい議論を交わした。
開巻早々、日清戦争の戦死者を弔う長い葬列が白い旗をなびかせてあぜ道を行くのを、東京専門学校を終えて故郷へ帰ってきたばかりの木下尚江が見送るという場面がある。初めての外国との戦争に勝利し、徴兵した戦争の死者を手厚く葬るとともに、忠魂碑などを建立して彼らを顕彰するという余裕に明治新政府の自信が表れている。
つまりこの小説は、日本が本格的に西欧化に踏み出した時代の一地方における青春群像を追いながら、昭和の戦争そして戦後にかけての激動の時代に自身の人生を重ね合わせ、日本の近代化とは何であったかを問うたものである。僕はその面白さに、本来の目的を忘れて夢中で読みふけった。

 

しかし、まさかこんな大作を作るわけにはいかない。むろん依頼されているのは劇映画などではなくて、安曇野とはどんなところかを紹介する映像である。さりながら、何らかの方法で。例えば人の気配がする、あるいはナレーションかテロップを流す、いづれにしても百年前に新しい時代を迎えて自分たちのどんな未来を作るかを語り合ったその「話し声」がこの地から聞こえてくるような映像にしなければ、安曇野を描いたことにはならないと思った。

 

 

ところが、相馬愛藏夫妻は、程なくして安曇野を離れる。
良は長女俊子を生んだあと、稼業である養蚕や農業を手伝っていたが、健康を害して、東京で療養することになったのである。そのことを相馬愛蔵が書いている。

 

「良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒いえた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。」(「一商人として――所信と体験――」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

夫妻は、本郷赤門前にあったパン販売店中村屋を経営者の中村萬一から従業員ごと譲り受け、この経営をはじめる。
高等教育を受けたもの同士が商売をするというのは当時としてはよほどめずらしかったのだろう、「書生パン屋」と呼ばれて繁盛した。
九年後、業容を拡大する必要が生じ、新宿駅の近くに土地を得て、支店をつくることになった。
この当時のことを愛蔵は次のように書き付けている。

 

「明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒すさんだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。」(「一商人として」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

愛蔵夫妻は、あたらしい店を拠点に、菓子製造やレストラン経営を加えて業務の幅を拡げる。この間愛蔵は、一年のうち三ヶ月は帰郷して、稼業の蚕種製造の仕事や農業に気配りし、安曇野から心が離れることはなかった。

 

 

余談だが、紹介した「一商人として」は、いわば経営者が持つべき商人道として、渋沢栄一の「論語と算盤」とともにもっとも広汎に、世界中で読まれるべきものではないかと僕は考えている。

 

 

やがて、新宿の店は拡張され、住まいとともにアトリエが増設される。欧米留学からかえってきた萩原守衛(碌山)が寄宿し、他に中村彝(洋画)、高村光太郎、戸張弧雁(彫刻)、木下尚江、松井須磨子、秋田雨雀、会津八一らの文化人が集い、アトリエは相馬黒光を世話人とする中村屋サロンと呼ばれるグループの拠点となり、芸術家たちの活動を支援した。
このブログで、俳優、佐々木孝丸について書いたことがあったが、この中にも新劇草創期の佐々木たちと愛蔵・黒光夫妻との関係が出てくる。


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僕にとっては面白いエピソードなので、繰り返しになってしまうが、少し長い引用をする。詳細は、「佐々木孝丸と大山公園の話」と
「その第二節」をご覧ください。

 

「佐々木は、しばしば戯曲を創作しては秋田雨雀に見せており、もともと演劇に関心はあったが、秋田から有島武郎らとの講演旅行の旅先で、戯曲の朗読会に立ちあったことを聞いて、自分たちもやろうと提案し、新宿中村屋の相馬黒光のもとに有志が集まって定期的にそれを催していた。とはいえ、実際の舞台活動には至らず、 このときはまだ、俳優、演出家、佐々木孝丸は誕生していない。
・・・・・・ 中村屋サロンの中で、フランス(仏語)にゆかりのあるものが集まってつくった「フランス同好会(Amis de France)」で、佐々木は、初めて小牧近江と村松正俊に会っている。村松は、東大の美学を出た博学、新進気鋭の評論家で、三人は同好会が主催する「ヴェルレーヌ二十五年祭」の準備のために連れ立って行動していたが、そのときはまだ他人行儀のところがあった。
このイベントの中で、ヴェルレーヌの劇詩(二人の対話劇)の朗読会をやることになり、佐々木は自分で翻訳した詩の相手役に当時まだ十五、六歳の少女にすぎなかったが、関係者の間で評判の高かった水谷八重子を選んだという。天才はこの頃からすでに注目されていたのである。このとき佐々木は初めて洋服というものを身につけたといっている。小牧が貸してくれたものだった。」

 

「小牧近江の経歴がユニークである。明治二十七年生まれだから佐々木より四歳年長 。東京の暁星中学を中退して、明治四十三年(1910年)土崎(秋田市)の有力者にして代議士だった父親の洋行についてフランスに渡り、そのままパリ大学法学部に入学、苦学して大正七年(1918年)に卒業した。その間、ロマン・ロランに傾倒、小説家アンリ・バルビュスの提唱する反戦運動=クラルテ運動に参加した。大正八年帰国。「種まく人」は、クラルテ運動の種を日本でまくという趣旨に基づいて、ロシア革命救援、非軍国主義、国際主義などを基調とする論文、特集記事を掲載、なおかつ「行動と批判」をスローガンに掲げる雑誌である。このスローガンにある「行動」のひとつがなんと演劇活動だったのである。」

 

・・・・・・創刊号の保証金は高利貸しから借りて済ませた。ところが、印刷も出来、製本も上がった段階で、印刷屋に払う金がない。工面したが明日発売という段になって、二百円ばかり足りない。「えい、あたって砕けろ」とばかり、夜半に中村屋を訪ねて借金を申し込んだ。
売上金はすでに銀行に預けてあり、明日か明後日に来てくれと言われたが、そこのところをなんとかとねばった。すると、なんと相馬愛蔵は、明朝わたす従業員の給料がとってあるからそれを融通しようと二百円ポンと貸してくれた。
今どきの事業家にこんな人物がいるだろうか?あるいは、大正という時代がそうさせたのか? あとで話そうと思っている現代の事業家には、相馬愛蔵や黒光、梅屋庄吉など社会運動を支援した人々の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。」

 

 

話が安曇野から離れてしまった。
「常念岳」にもどろう。

 

Pixta_53632944_m695x460 あのロケハンの日、安曇野を一望できる高台にたって、山すその耕地が途切れるあたりからいきなり天を衝く高さに立ち上がって黒々と続く屏風のような山並みを見ると、畏れのようなものが沸いてきて、そこに人が登ることなど考えもしなかった。重疊として連なる山の名前を同定することもできなかったが、しかし常念だけはよくわかった。頂上から左右同形に弧を描いておりてくる美しい稜線が空を切り取って他の山々とはくっきりとわけられている。

 

萩原守衛は画家を目ざして欧米に学んだが、外国にいていつも思い出すのは常念であったといっている。また深田久弥は、臼井吉見のエッセイにある彼の小学校時代の校長がいつも教室の窓から外を差して「常念を見よ」といっていたことを引いて「松本平から見た常念岳を知っている人にはその気持ちが分かるだろう」と書いている。(『日本百名山』)

 

安曇野の人々にとって常念岳は格別の山なのである。

 

まもなく、映像を作る話は頓挫してしまった。アミューズメントパークの計画がなくなったのだ。
風景が人をはぐくみ、人が風景の中を過去から未来へ生きていく、そんな映像ができたら安曇野を訪れる人たちの旅情がいっそう深くなるのではないか。あれが相馬愛蔵の家、ここが相馬黒光と萩原碌山が出会った場所などとめぐり歩く人たちも出てくるのではないかと思ったりもした。しかし、中止になったのは内心安堵したことでもあった。

 

一体、安曇野の豊かな自然の中にそんなにぎやかな娯楽施設が必要だろうか?確かに観光客は格段に増えるだろう。この地方に落ちるお金もかなりのものになるはずだ。経済的に豊かにはなるだろうが、失うものも多かったのではないかと思う。安曇野の人たちは賢明だった。

 

 

僕はこの話を忘れることにした。集めた資料も今ではちりじりになった。ただ一枚、あの時机の前に貼った北アルプス登山地図だけがどういうわけか手元に残っていた。しかも、今日までその地図にあるどの山の頂上も一度も踏んだことはなかったのだ。まっさらな地図をたまに見ることはあったが、そこへ行こうという気にはならなかった。
理由は、まず東京からは遠いことであった。長い間、原則日帰り登山を続けたが、北アルプスでそれはおそらく無理だった。 それに、あれは山のベテランが行くところと思って臆するところがあった。岩峰が多くて危険。ザイルの結び方も知らない素人である。足を踏み外したらおそらく一巻の終わり。あこがれはあったが本気で行こうとは思っていなかった。

 

 

しかし、いろいろ考えた末に、「常念岳」を登ろうときめた。
その次第は「山登り」の項に書いたので、興味のある方は、のぞいてみて欲しい。
朝早く登り初めて、昼少し前、胸突き八丁と呼ばれる急坂の崖道を下山者と身体が触れあうくらいにすれ違いながら登ったことをいまでも覚えている。あえぎながら登り切って森林限界に飛び出ると、そこが常念乗越の鞍部であった。

 

 

 

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2020年4月17日 (金)

シャンソン「ラ・ボエーム」の映像版

井関真人「マダムシルクで“ラ・ボエーム”を」という曲の映像を作ろうとして、ある理由から躊躇しているうちに出来たものです。ある理由については後ほど。

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2020年3月30日 (月)

CDの映像版「霧のパリ 雨のブリュッセル」

昔プロデュースしたCDの映像版。第三弾!

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2020年3月28日 (土)

CDの映像「枯れ葉によせて」

前回に続いて、92年リリースのアルバムから映像版。

 

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2020年3月 2日 (月)

CDの映像版

昔、プロデュースしたCDの映像版を作ってみました。

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2018年3月22日 (木)

AIは、実はIA(Intelligence Amplifier)ではなかろうか?

この間、『一般意思2.0』のことを紹介しようとしたところで、「よく考えると『AI』も実は得体の知れないものではないか?・・・・・・世間が騒ぐ『45年問題』は、スローガンばかりが先走りしていて、本当のところは明るみに出されていない。それは『45年問題』の問題である。」と書いた。

『45年問題』というのは、端的に言えば、2045年にコンピュータの知性が人類を超える時点、「技術的特異点(シンギュラリティ)」を迎え、それから先はAIが幅をきかせるはずだからどういう世界になるか分からん!という心配である。

センセーショナルな話題だから、そうかも知れないと早合点したものも多いに違いない。ただし、ネタ元を探せば、せいぜい2、3人の数学者・専門家の言説に過ぎない。メディアのいい加減な「知性」(記事を書いている者の知能のことを言っている)にとって天才数学者が書いた論文は有り難いご託宣に聞こえるのか、あおって記事が売れればそれでいいと思ってのことか、「何も知らない大衆」が、だから信じたくなるのは仕方ないともいえる。

たしかに、この間言ったとおり、AIが囲碁のプロ棋士に勝つには百年かかると言われていたのが、去年グーグルの開発したソフトが世界最強の棋士に勝った。人工知能の発達は想像以上のスピードで人間の能力に近づきつつあると実感できる出来事である。これなら、あと四半世紀もしたら、AIは自分でものを考え出し(つまり「技術的特異点」を超え)、人間はそれに従って生きていれば良いという時代になるかも知れない。

それで幸福なら結構な話だが、人間が人工知能にあごで使われるようになったらどうしよう。今でも有名大学出が卒業証書をかざせば、とりあえず恐れ入るくらいだから、器械とは言え、天才のその上を行く頭のいい奴には、かなわないとなるのだろうか?

こっちはまもなくこの世からおさらばする身だから、いらぬ心配だが、おろおろしててもはじまらないからホントかどうか考えてみた。

この間、棋聖戦の生中継のなかで王銘琬九段が岩波から新書を出したと宣伝していたので、岩波新書も五年に一篇ぐらいはいいものを出すワイと思って読むことにした。王銘琬九段は囲碁プログラムの開発に協力してきた経験からAI囲碁とプロ棋士の感覚の違いについて語るにふさわしい数少ない棋士の一人である。

新書と単行本に加えて、ついでだからとおもって「アルファ碁はなぜ人間に勝てたのか」(斉藤康己・京都大学教授、ベスト新書)を手に入れた。

実は、これを読んで、僕は内心「何がシンギュラリティだ。数学者なんてものも所詮専門馬鹿にすぎないなあ」と思ったものだ。

僕は、碁は少しばかりやるが、コンピュータプログラムはずぶの素人だ。だから僕が理解出来る範囲のことに基づいて、AIに関して言いたいことを述べようと思う。もちろん斉藤教授の新書に全面的に依拠してのことである。

とりあえず、AIはどのようにしてプロ棋士に勝ったのか?

囲碁や将棋、チェスといったゲームのコンピュータプログラムは、基本的に「ゲームの木」というものでなりたっている。

話を分かりやすくするために、「三目並べ」と言うゲームをコンピュータがその内部でどのようにゲームに仕立て上げているのか、を見てみよう。

「三目並べ」は、縦横三個、合計9個のマス目に白黒交互に一目ずつ置いていき、縦横斜めどちらの方向でも先に三個並べた方が勝ち、と言うゲームである。

一手目から九手目までのすべての進行局面を記憶させておけば、対戦相手がどんな手を打っても、その局面を呼び出し、予想されるその後の進行と照らして勝てそうな次の一手を選択することができる。

つまり、「ゲームのあらゆる局面をあらかじめ覚えておく」ことこそが必勝(あるいは最低でも引き分け)方法なのだ。

第一手目は、九つのマス目の内何処に打ってもかまわない。だから局面は九個現れる。二手目は、残り八個のうちのどこかに打つことになるから、局面は合計9×8=72個になるはずだ。三手目は残り七個のうちどこかに打つことになる。ここまでで出てくる局面は合計9×8×7=504個、これを単純に9手目まで計算すると9×8×7×6×5×4×3×2×1=362,880と、なんとゲームの局面の数は全部で36万個も現れることになる。

どんなゲームでも一手目、二手目と進むにつれて、展開する可能な局面の数は増えていく。この一手目から二手三手四手と順番に下りていくたびに出てくる局面が増えていくのを逆に見ると「木」の枝が伸びていくように見えることからこれを「ゲームのツリー」と呼んでいる。チェスも将棋も囲碁も基本的には、この「ゲームのツリー」をコンピュータが記憶して、「木の探索」といって、現局面から進行するはずの手順を予想し、勝てそうな次の一手を呼び出すという作業をやっていることになる。

「三目並べ」の場合は、36万個といっても、中には相似形もあるから出てくる局面の数は3の9乗=19,683個が計算値である。さらに、「三目並べ」のルールに従って合法的な局面だけを選び出すと、ゲームが途中で終わることも多く、対称性も考慮すると異なる局面の数は765個、最終局面に至るまでの数は138個だそうである。ツリーの深さは9段階なのに、これだけの局面を記憶する必要がある。それも、一旦データ化してしまえばゲームの最終局面までの変化を読むことができるということだ。

この程度なら「三目並べ」の「ゲームツリー」を記憶することはコンピュータにとってむずかしいことではない。

では、「三目並べ」が「四目」「五目」と増えていくとどうなるか?

つまり「ツリーの深さ」が増えていくと、局面の数は幾何級数的に増えていくのである。

その「ゲーム木」の大きさの理論値は、チェスで10の125乗、将棋で10の226乗、囲碁で10の350乗である。

そのうち合法的な盤面の数はチェスが10の47乗、将棋が10の75乗、囲碁が10の170乗ということだが、ふーん、そんなものだろうと言っても実はその数値はとんでもない数なのだ。

例えば、囲碁の10の350乗という数値だが、日本が誇るスーパーコンピュータ「京」もってしても、各局面の処理には一秒以上はかかると思われるが、そこを一秒、一局面を一回だけ訪れるものとして計算すると10の36乗秒かかることになる。

宇宙の年齢は136億年くらいだが、これを秒に換算するとおよそ10の18乗秒である。「京」一台を136億年動かし続けたとしても10の33乗局面をなめる程度で、全体には到底追いつかない数値なのだ。

宇宙の大きさも136億光年四方と分かっていて、その体積は3×10の80乗m³である。この空間に水素原子を一杯に詰め込むと10の123乗個になるのだが、それでも囲碁の10の350乗あるいは170乗個という局面の数には遠く及ばないのである。

とはいえ、「石の上にも三年」で、すでに解かれたゲームが存在する。

「チェッカー」が最終的に先手必勝か後手必勝かそれとも引き分けかを見極めようとしてゲームツリーを完成させた研究である。このゲームの局面は、「オセロ」よりやや少ない10の20乗くらいだが、このために、彼らは18年間にわたって50台ものコンピュータを動かし続けたという。このゲームは互いに最善を尽くせば結局「引き分け」に終わることが分かった、らしい。

つまり、囲碁のゲームツリーを完成させることは、ほぼ不可能といってよい。

ではどうしたかといえば、実際のゲーム、プロ同士およびアマ高段者の対局を30万局集めてコンピュータに記憶させ、これを分析して、いわば部分的「ゲームツリー」を作りあげた。

これにどのぐらいの期間と資金(マシンだけでも30~60億円くらい?)を投じたか不明だが、グーグルには囲碁だけではないAI全体に対する応用戦略があった。ロスアラモスで「マンハッタン計画」をやり遂げたことを思えば、この程度の物量作戦は米国人の常識の範囲内なのだろう。(これを日本人がやろうともしないのは貧乏性のせいか?なんなのか?)

ともかく勝敗が分かっている対局のビッグデータを元に「ゲーム木の探索」をすれば、有効な(勝ちに繋がる)「次の一手」を発見することが出来る。

と、いってもたった一局面を判断するのでも、人間なら一目で分かるところを、例えば、石の死活の判断やシチョウの読み、地の計算など囲碁のルールに基づいた検証事項をいちいち確かめなければならない。これには一局面を48ものレイヤーに分けて別々に計算するらしいが、この厖大な情報処理に時間がかかりすぎて強いソフトなど望むべくもなかった。

そこで、ディープラーニングなどのプログラミング手法をあみ出してこれを徹底的に改良したソフトと世界最強の囲碁棋士が対局となったのだ。

このとき使ったマシンパワーがすごい。

中央演算装置(CPU)に換算して3000、つまりコンピュータ3000台分をつないだビッグマシンだったという。人間がかなわないわけだ。

さて、AI囲碁は確かに人間に勝ったが、それはコンピュータが人間と同じように思考して人間の認知能力を上回ったのかと言えば、まったくそんなことはない。

コンピュータがやったことは、厖大な実践データから勝てそうな一手を選び出すという作業である。なぜそこに打ったのか、という思考回路を追跡しようにも、そのように「思考」しているわけではないから答えようがないのである。

ここで思い出すのは、東浩紀が「なぜそのように翻訳したのかコンピュータには答えられない」と書いていたことだ。

翻訳ソフトもまた、実際に存在する厖大な翻訳データをマシンに取り込んで、対訳としてもっとも頻度の高い言葉を選択しているに過ぎず、人間が判断しているように認知し、翻訳しているわけではない、ということだ。

自動車の自動運転が、明日にでも実現できそうだと世間ではいっているが、僕は頗る怪しいとにらんでいる。

これも、自動車に組み込まれたコンピュータが、人間が状況判断するように、運転しているようなイメージで考えていたらとんでもない。位置情報把握や対象識別の機能がかなり高度になっている感じはあるが、しかし何しろ動いているものである。変数は囲碁どころの騒ぎではないはずだ。これが一旦暴走をはじめると人間の命に関わるのである。

あんなものに楽観的になってるなんておかしな連中だと思っていたら、ついこの間、実験中の自動運転車が人をひき殺してしまった。

おかげで、自動車メーカーは若干引き始めているが、「完全自動運転」など誰も望んでいないことをやる必要もない、ということにようやく気づいてきたらしい。

くれぐれも言っておくが、囲碁のプロが負けたのはAI(人工知能)に、ではない。大量のデータを処理する化け物のような計算能力の器械を、うまく動かすコンピュータソフトを開発したプログラマーの能力が勝った結果である。

というわけで、2045年になると、AIが人間の知能を超えて、人をあごで使い出すかも知れないという「シンギュラリティ」など、信じるに値しないものだと言うことが分かると思う。

そんなことをいわずに、AIというものはIAつまりIntelligence Amplifier=人間の知能を増幅する器械と考えれば、本当の姿に最も近いし、どう発展しようともう少し気が楽につきあえるのではないかと思う。

僕がシンギュラリティまで生きる可能性は皆無だが、もしそこにいて、アンドロイドに出会ったらたぶんこうするはずだ。

奴の電源を探して、それを切ってやる。

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2017年9月 7日 (木)

萱野稔人「国家とはなにか」を読んで考えたこと(その1)

Photo 冒頭の記述は、こうである。

「国家というのは、いかにもとらえがたいもののように見える。」

我々老人にとって「国家」が捉えがたいものに見えると言う感覚は、いかにも理解しがたいものに思える。

というのも、戦後、繰り返してきた不毛な議論の中核にあったのは、結局この「国家」および「国家と個人」との関係をめぐる見解の相違だったからだ。

かなりおおざっぱに言えば、まず、天皇とその臣民で構成される共同体こそ日本国家であり、その中で個人は国家のために殉じるべきであるとする考え方は、幼児に教育勅語を暗唱させる幼稚園が存在することに驚いたむきもあるが、しかし、いまでもこれに心を寄せる国会議員はじめ支持者が少なからずいることは確かである。

それに対して、主権は個人である国民にあるとする日本国憲法こそ国家の根拠だとする考え方で、これはいわゆる民主的な護憲派と言われる一群の人々に代表される。

これらに対してマルクス主義者の見解は、国家というものは 資本主義を維持する中心装置として、いずれは克服または止揚されるべきものになる。

コンセンサスが見いだせないという意味では「いかにもとらえがたい」ものといってもいいが、そういう近代化以来の「国家とはなにか」という議論がまるでなかったかのように、この若者にとっては「あっけらかん」と「国家」はとらえがたいのである。

この本は、かなり前に新進気鋭の哲学学者が現れたという噂を耳にして、長い間気になっていたが、ついこの間ラッキーなことに通りがかった古本屋の前の平台の上で見つけて手に入れたものだ。

以前、「国家」について我々のそれまでの認識をあらためるべきだと書いたことがあって、最近それを人に説明する必要が生じたので、ついでに、若い人はどう考えているのか確かめておこうと思い、本棚から取りだしたのだ。

まずその感想からはじめよう。

次に、別の本の感想も加えて、あらためて僕の「国家とはなにか」を考えてみたいと思う。

とりあえず先へ進もう。

「国家と呼ばれる対象が、目の前に転がっているわけではない。目に見えるものとしてあるのは、せいぜい政府の建物とか、国家を象徴する旗とか、地図の上に書かれた国境線とか、そういったものだ。国家そのものの概念があるわけではない。」

著者は、国家とはなにか?国家などいうものが何故存在しているのか。そもそも国家というものが存在しているのはどういうことなのか、それを考えたいといっている。

ここで僕などは思ってしまうのだが、そうはいっても、すでに国家が存在している以上はその存在理由を追及すべきではないか、そこから帰納法的に「国家」が何故存在するに至ったかが明らかになるのでは?と思うが、それでは答えにならないらしい。そういう経験科学的アプローチでは「国家」そのものをとらえることが出来ない。国家を概念的に考察し、その根本にまで遡って、統一的な視座から理論化することがこの本のめざすところという。

ただし、不思議なことだが、何故彼が「国家」について考察する必要性を痛感したかについては一言も触れられていない。例えば、「国家」に痛烈にいじめられた経験をあきらかにするとか、あるいは戦前・戦後的「国家」論に終止符を打つとか、あるいはマルクス主義の国家観に有効な反論を唱えるなんてことはないのである。

動機は不明ながら「国家とはなにかをトータルに把握しようとするならば、そこにはやはり「概念(たぶんその後の文脈から仏語の”Conception”のことだろう)」の働きが不可欠だ、という。

その根拠は、ドゥルーズ=ガタリにあるという。

「概念に携わるのはまさに哲学の仕事であり哲学とは概念の創造にほかならない。より厳密に言うなら、哲学は、概念を創造することを本領とする学問分野である。・・・・・・

哲学とは、いくつかの概念を形成したり、考案したり、製作したりする技術である」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『哲学とはなにか』財津理訳、河出書房新社10頁)

なるほど、哲学は「概念を創造する」ことだから「国家とはなにか」をテーマに自分が概念を創造するのは一つの哲学行為だ、と言うのである。

つまり、ドゥルーズ=ガタリが、こうした方法の保証人になっているといいたいのであろう。あるいは概念を『創造』するのは哲学者だけが出来る特権だというのか、いずれにしても、ここでは「哲学とは・・・・・・技術である。」という認識が土台になっていることを宣言しているのである。

そしてまた唐突になんの根拠も引用もなしにこう続けられる。

「国家についていえば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも人々の間にうち立てられる関係なのか、と。

しかし、国家は実体でもなければ関係でもない。ではなんなのか。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である、と。」

こういう言い方をされると、思わず反論が頭に浮かぶ。

「運動」と言う概念が「実体」でないなら、では、何なのか? 暴力はふるうものとふるわれるものとの「関係」が前提ではないのか?

そんな「哲学的な」半畳を入れたくもなる。

いくらドゥルーズ=ガタリ先生が、哲学は概念を扱う職人みたいなものといわれたからといって、こう、杜撰なもの言いになっては如何と思うのだが。

ところで「哲学は概念を扱う学問」なのは、とりあえず、否定できない事実である。だが、しかし、ドゥルーズ=ガタリが書いている『哲学とは、いくつかの概念を形成したり、考案したり、製作したりする技術である』という言葉はかなりの程度、違和感を覚えるものだ。その承服しかねる感覚がどういうことか、「国家とはなにか」の本論に入る前に、寄り道になるが、いくつか確認しておこうと思う・・・・・・。

違和感というのは、もしも哲学がある種の概念を製作する技術だいうのなら、哲学とは、画家や彫刻家や音楽家、小説家その他大勢の表現者の表象=芸術作品と同じようなものになりはしないか、ということである。(ドゥルーズ=ガタリは、事実そのようなものとの近似性を認めている。)

デカルトの製作した概念≪コギト≫、ライプニッツの製作した概念≪モナド≫、ベルクソンの≪持続≫、古くはアリストテレスの≪実体≫は、あるいは・・・・・・の概念は、広く鑑賞に耐えうる芸術作品として認められ、その価値と普遍性は確保できていると言う具合である。そのような静態的な作品として、例えばヘーゲルの創成した『概念』の体系は美しい、などと、哲学を鑑賞する態度があっても一向にかまわないが、たとえ哲学者と芸術家の営為はおなじだといっても、しかし、哲学はそのような場所、美術館や博物館に鎮座してペダンティック趣味の観客を待っているわけではない。

哲学が生み出す概念には、人々を突き動かし、現実に働きかけて世界の仕組みを変えうるという芸術作品を遙かに超えた現実的な力がある。

なぜか?

人には、そのようなものとして期待できるのが哲学以外にないからである。

人は何故哲学を求めるのか、と言う問いにいいかえてもいい。

それには、どうにでも応えられそうだが、とりあえずドゥルーズ=ガタリの周辺で目につくミシェル・フーコーから引用しよう。

「啓蒙とはなにか?」(カント)という問いを発したとき、カントが言わんとしたのは、「たった今進行しつつあることは何なのか、我々の身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、我々が生きているまさにこの瞬間は、一体何であるのか?」と言うことであった。我々は何者なのか・・・・・・歴史の特定の瞬間において。(フーコー、「主体と権力」)

また、ポール・ゴーギャンが、タヒチで描いた大作につけたタイトル、≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫ を例に挙げてもいい。生涯不遇であったにもかかわらず、この腹の足しにもならない主題が、まもなく異郷で終焉を迎える画家の心の重要な場所を占めていたのである。

また、ついこの間、トマ・ピケティの高級レストランの一皿分の値段もする、食べたら大してうまくもなかった大冊があれほどの勢いで売れたのも、いま黄昏を迎えているはずの資本主義が、やがてどんな暗い夜とまたどんな輝かしい夜明けを迎えるべきなのか知りたかった人々が想像以上の数存在したからに他ならない。

哲学は、こうしたいつの時代にも誰にでも生じる、ある根源的な問いに答えを求めようとする人の営為であり、数学や物理学、他の芸術と違って、それが言葉でなされるために概念的にならざるを得ないのである。

しかし、こんなあたりまえのことをドゥルーズ=ガタリが知らないはずはない。

一体、何故彼ら二人は、人が生きることの本源的な問いに哲学の動因があることを差し置いて、『概念を創作する技術』などという「手段」が哲学の本領だというのだろうか。

想像するに、二つのことが考えられる。

まず一つは、ギリシャからはじまる哲学の歴史が、ここに至って、やるべきことをやり尽くしたと感じていることである。

ポストモダンを貫く一つの気分、「大きな物語の終焉」とは、おおまかにいえば、ある言説の普遍性は誰も保証できないし、その言説すらも絶えず再―構築を迫られ、結果、正しいことはなくなり、人は常に決断から逃走し続ける他ないということを意味した。これが我が国バブル時代の風潮とシンクロしたことに記憶のあるムキもいるに違いない。

哲学など何の役に立つものか? 

つまり、「哲学? あんなものはただの屁理屈に過ぎない。」

ということで、目的を見失った以上、その手段だけを磨くはめになった。

なんのために「国家」の概念を構築するかはもはやどうでもよくて、「国家」の概念を構築する技を磨くと言う思弁の職人になることが哲学に残された役割になってしまったのだ。

もうひとつは、『概念を創作する技術』が他にもあって、それと哲学の扱う「概念」を峻別し、哲学の役割と領域を確保する必要があった、と言うことである。

僕が感じた「違和感」というのは、実はもうひとつあって、『概念=Conception』と言う言葉が「哲学」と並列に表現されていることにあった。『概念=Conception』は、哲学にとって重要な部分であるが、それは一つの静態的な枠組み(つまり、○○の概念規定など)を表現しているに過ぎない。概念は哲学の部分であるが、思想の運動としての全体がその中に矮小化されるべきものではない。つまり、ベルクソンの<持続>は結果として概念なのであって、それを導き出し構築する思想の運動にこそ哲学の本質的価値があるのであって、『哲学』とコンセプトが併記されることには、実に居心地が悪い思いがするのである。

ここで、僕は、はじめて『概念=Conception』を「コンセプト」と表記したが、この二つは外来語のカタカナ表記とその翻訳だからそこになんの問題もない。ところが、この「コンセプト」と言う言葉は、コピーライターやアートディレクターはじめカタカナ職業が大繁盛したバブルのころから、哲学とは関係のない実業の世界で使われてきたものだ。つまり、「コンセプト」はむしろ商品やサービスを販売する技術に関係するマーケティング(僕が人生の大半をかかわってきた)用語であった。

なんと、ドゥルーズ=ガタリは、このことを気にしていたのである。

「国家とはなにか」の著者が引用した部分のあとに、ドゥルーズ=ガタリが感じている資本主義の侵食に曝される哲学への危機感が存分に表現されている。

「・・・・・・さらにわたしたちの時代に近くなると、哲学は多くの新しい対抗者と交差するようになった。何よりもまず哲学に取って代わろうとした人間諸科学であり、とりわけ社会学であった。ところが哲学は、概念を創造するという己の使命を次第に理解出来なくなり、<普遍>の中に逃避してしまったので、何が問われるべきか、もはやよく分からなくなっていたのである。・・・・・・次に対抗者になるのは、科学認識論(Épistémologie)の番であった。そればかりでなく、言語学に、あるいは精神分析にさえ番が回り―――さらには論理分析にも番が回ってきたのである。

最期には、情報科学、マーケティング、デザイン、広告など、コミュニケーションのすべての分野が、「概念=コンセプト」という言葉そのものを奪い取って、『それは、われわれの問題だ、創造的人間とはわれわれのことだ、われわれこそコンセプトゥール(Concepteur=概念立案者)だ!』と言いだし、恥辱はどん底ににまで達したのである。」

この呪詛のような文脈は、さらに続く。

「われわれが概念をわれわれのコンピュータにインプットしてやる。情報と創造性、概念と企業、そうした問題に関してはすでに詳しい文献目録がある・・・・・・。マーケティングは、(もちろん哲学の場合とは異なる)概念(コンセプト)と出来事(イベント、催し)とのある種の関係の理念を保持することにはなった。しかし、その場合、見よ、概念は、(歴史、科学、芸術、セックス、実際的用途などに関する)産物や製品の紹介の総体に成り下がってしまい、出来事は、そうした様々な紹介を演出する展示会や、その展示会で発生すると見なされている「アイディア交換」に成り下がってしまったのである。

出来事は展示会でしかなく、概念は売ることの出来る製品でしかない。<批判>をセールスプロモーションに置き換える一般的な運動は、哲学に悪影響を及ぼさずにおかなかった。一束の麺類の模造(シミュラークル)あるいはそのシミュレーションが、真の概念になってしまい、製品や商品や芸術作品の紹介者―展示者が、哲学者や概念的人物や芸術家になってしまったのである。」(「哲学とはなにか」財津理訳、P19 )

シミュレーションとシミュラークルは、われわれの消費社会ではあらゆる商品が情報メディアのネットワーク上で意味を漂白され記号と化し、その結果、現実との関係が逆転して、現実世界自体が記号化されてしまったという認識である。これは周知のようにジャン・ボードリアールの「製作した概念」であるが、ここにさりげなく取り上げているのは、おそらくその象徴である「ハイパーリアル」な世界を半ば肯定しながら、この一種のニヒリズムと対抗していこうとする姿勢がうかがえる。

何故ニヒリズムかといえば、労働者が自然に働きかけて生産する商品が単なる模造であるという、この思想はマルクスの労働疎外論を(デリダの口まねをして言えば)「脱―構築」してしまうからである。

それでなくても、マーケティングにおけるコンセプトが、新しい需要を際限なくつくり出し永遠に成長を続けるのでは、資本主義は終わらないことを意味しているではないか。

「国家とはなにか」の著者が引用した「哲学は概念を創作する技術」と言うドゥーズ=ガタリの言葉には、現代社会における哲学の意味と役割をもう一度哲学固有の場所に復権させるという決意がこめられていたのである。

とはいえ、商品や芸術作品の紹介者が、哲学者や芸術家になってしまったからといって、彼ら Concepteur が現代の哲学的課題を解決できるわけではない。哲学的課題とは、「概念=コンセプト」を創作するなどと言う「たわごと」とは実は無縁である。

たとえ資本主義は永遠だろうが、それがまき散らす害毒まで永遠だというのでは地球上で安眠できる人間などいなくなるのは必定である。

「何故分配はうまくいかないのか」という課題一つ取ってみても、経済学者の誰がその答えを用意してくれるだろうか。それどころではない。今日、経済学を専攻するものの40%は、経済学に欺されないためにそれを学ぶと言う冗談が真顔で飛び交う時代である。また社会学者は見事な社会分析から病状を推量してみせてはくれるが、処方箋を書こうとまではしないものだ。

哲学には、だれもなにも期待してないからと言って、隠れてごそごそ「概念」を創っている場合ではないのではないかと僕などには思えるのである。

ドゥルーズ=ガタリの「哲学とはなにか」が扱うものは、最終的には知覚と脳の関係にまで及んでいるが、これ以上うんざりするほどのおしゃべり好きなフランス人につきあうのは本題から離れるのでここでやめる。

ただ、脳の話をするのであれば、これほど脳科学が発展し、脳科学者を自称する頭の良さそうな男女が増えた時代に「なぜ女の哲学者はいないのか?」という哲学史最大の謎に、この方面の知見を生かした「哲学」があったほうがなにかと社会の役に立つのではないかと密かに思っている。

この問題に取り組んだのは、僕の知る限り、偏屈を自称する中島義道ひとりだが、偏屈ゆえにどうも顰蹙を買って無視されているようなのは頗る残念である。

本題に戻ろう。著者にとって、「国家とはなにか。」と言うテーマは、「国家のコンセプトを創ること」においてのみ重要なのだということを確認した。つまり、著者は、マーケティング屋が「ある商品のコンセプトは○○だ。」と定義するような仕方で、国家のコンセプトを創造しようとしている「だけ」なのだ。

そして、いきなりその手がかりを提示する。

著者は「国家をどのように定義すべきか。」を考える上でまず参考になるのはマックス・ヴェーバーの仕事だという。

「近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能になる。」(「職業としての政治」ウェーバー)

ヴェーバーの社会学では「近代国家」に特徴的なものは「物理的暴力の行使」だという。

「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」(同書)

はじめから著者が「国家」はとらえがたく「概念」でとらえると盛んにいっているのは、実は、このマックス・ヴェーバーの説を取りだしてこれに検討を加えたかったからなのだ。

それなら分かる。

なにしろ、マックス・ヴェーバーと言う人は、現象つまり対象の属性あるいは表層をふるい落としてその本質に迫るという社会学的な方法論を確立しようとしていたわけだから「近代国家」の本質とはなにかを考える理由も動機もあったのだ。

西欧において近代資本主義が発達した理由を「概念」的に考え、その「本質」部分にカルバン派のプロテスタンティズムの禁欲的で勤勉な合理主義があったことを解き明かして、学問の方法論に新境地を開いたことは広く知られているが、それには顕在化しつつあった疎外の問題に臨むオルタナティブ(マルクス主義とは別の倫理的契機の関与)を用意するという意味があった。

ただし、我が国の初期資本主義の発展に何らかの宗教倫理が関わっているとはいえないように、それを資本主義の真理だとするには無理がある。それは一定の地域の経済活動や社会的事象のある側面を強調して、(あまりにもあざやかな手つきで)説明して見せたに過ぎない。この手法は、国家とは何かというテーマにも及ぶ。

二十世紀初頭の欧州の状況を見ると、ヴェーバーが、近代国家における「政治団体」や「職業政治家」「官僚」など国家を運営する機関について言及せざるを得なかった理由が明らかである。

1914年、サラエボ事件に端を発して欧州全体を巻き込んだ戦争は周知の通り史上最悪の殺戮と破壊と、絶望をもたらした。ヴェーバーのドイツは敗戦国として多大の賠償を背負い込むことになり、1917年のロシア帝国崩壊後の東欧の混乱にもにも巻き込まれ、ブレスト=リトフスク条約に見られるように、条約が守られる保証もなければ国家そのものが継続するかどうかも不明という政治的大混乱の時代を迎えていた。

近代国家の枠組みである憲法ができあがっていれば、「正当」な「権力=ドイツ語でゲヴァルト(暴力)」が何処に属しているか法律や裁判所が判定することが出来る。

ところが、そういう枠組み自体が崩壊し「暴力」装置を備えた様々な集団が「権力」を争っている状態にあってはどの集団が「暴力」への正当性をもっているのか分からない。当時のドイツ国内は、議会制民主主義こそが正当な権力形態だと主張する集団と、党組織と労働組合を基盤とする社会主義(革命をめざしている)こそが正当な権力形態だと主張する集団が実力で衝突していたほか、後にナチスとなる右翼系の集団(クーデターを計画)も台頭していた。

つまり、こうした状況では、より強力な暴力=ゲヴァルトによって相手を圧倒した側が、自ら獲得した「権力=ゲヴァルト」を正当化するために、自分に都合のいい「正当性」の基準を作り、それに従うことを他の集団に要求することになる。

近代国家という枠組みはあっても、実質は国家の内外でいわば戦国時代のような主導権争いがあり、そこには常に言論を超えた「暴力」への志向が存在し、しばしばそれは戦争へと発展した。

ヴェーバーが当時の「国家」の本質部分に、自己に「正当性」を与える「暴力」という契機を見いだしたのも無理からぬ状況だったということができよう。

こうしてヴェーバーは「ある一定の領域において、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」と国家を定義したのである。

暴力は社会の到る所に存在する。マフィアも日本の暴力団も暴力を行使する集団だ。しかし、それらの間で唯一暴力行使の独占を要求する集団が国家の中枢を形成し、他の集団を暴力の下に制する、それが国家だというのである。つまり、国家とは、他を圧倒する暴力によって自らの暴力を合法化し、それを一定の領域の人間に認めさせ、それを認める人々とでつくる共同体だと考えたのだ。

ところが、著者は、この認識では不十分だとして、もっと徹底的に議論を深化させる。

国家の暴力は「一定の領域内」で成立するのではなく、他の共同体にもその承認を要求することがある(国家間戦争)ことから「暴力の独占」そのものが「国家」の本質だとするのである。

さらに、その「暴力」は国家が自らの正当性を認証させるために脅しとして使う、つまり権力を行使する「手段」ではなく「暴力」そのものが国家の目的になると考え、国家とは「暴力」を中枢に抱える運動体だと議論を発展させるのである。

著者にとって「国家とは人間共同体がもつ政治機構である」というわれわれが通常理解している基本原理は建前に過ぎない。暴力を独占するものが他のものを「暴力」で支配していると言う構図が国家のほんとうの姿なのである。

一端ヴェーバーの定義を受け入れてから、古今の言説、アーレント批判やフーコーその他の議論を多数援用して説明するその徹底ぶりは、一冊の半分を使うほどに国家と暴力の関係を示して間然するところがない。

このような認識から、実際に現実世界をながめた場合、思い当たる節はあって、説得力は十分あるといってよい。

昭和八年二月二十日、東京築地警察の取調室で拷問を受けていた青年に国家とは何か、と訊ねたら、おそらく「国家とは暴力そのものである」と応えたに違いない。青年は殺されるが、下手人の毛利基や山県為三らはその罪で告発されることはなかった。国家は間違いなく合法的に人を殺せる機関あるいは装置あるいは権力であり、その意味では暴力を独占していたし、いま、その構図が変わったなどと安心していられる場合でもない。国家は、民に対していつでも牙をむくものなのだ。

大日本帝国は、治安維持法に基づいて共産主義者を弾圧したが、共産主義のソ連や中共、その他の東欧諸国、加えてポルポトなどが主導権争いで殺したのは膨大な数に上り、国家は確実に暴力を行使し、恐怖で人々を支配してきた。

また、ナチスがやったことやボスニア紛争のさ中に起きた虐殺をみれば、支配し統治する対象を消滅させると言う意味で、暴力が統治の手段ではなく、暴力自体が国家の目的になることさえあるともいえる。

こうして、国家は暴力を独占するものが暴力によって共同体を支配する一つの運動体だと結論づける著者の議論は、極論めいてはいるが否定すべきところはみつからない。これは「国家」のコンセプトを規定、いやもとい、製作すると言う意味において一つの見識だといってよい。

しかし、だからどうだというのか?

この「国家=暴力装置」というヴェーバーを徹底進化させた新論=コンセプトが製作されたからと言って、いまある「国家」の何が影響を受け、何が変わるというのか?

せいぜいマルクス主義における国家の止揚などは無意味だと言うくらいのものかも知れない。

これが一体、ホッブスの「万人による万人の闘争」=普遍闘争の概念、あるいはルソーの言う「自然状態」とまったく違うものというのであろうか。

ホッブスやルソーの近代国家を基礎づける政治原理こそ、まさに暴力が渦巻く、この万人の闘争状態あるいは自然状態を克服する方法論だったのではないか。

つまり、国家の概念を製作するという著者の営為は、単に、「近代国家論」成立の手前まで議論を戻したことになるのではないか。

人間の社会にはたしかに常に暴力が充ち満ちている。

動物の社会をみれば、その原理的な存在様態は、ある程度理解は出来る。

動物よりは多少ましな人間が、これを緩和するための知恵をめぐらしたのが「近代国家」であり、もしも「国家とはなにか」という哲学的な問いがあるとすれば、それは、概念を製作することではなく、まさに「近代国家」とは何かと問うことに他ならない。

41wx2y3fsrl_ac_us160_ 近代国家の政治原理は、ルソーの「社会契約」その中の「一般意思」にその基礎がある。

著者が「国家とはなにか」というテーゼに答えを用意するべきはそこだったのである。

ただし、ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念でもある。

各人の自然権を、一挙に一般意志を代表する政治権力へ委譲することによってのみそれは可能となる。またこの『原始契約』の想定だけが、実力を伴う政治権限、つまり政治権力の『正当性』を根拠づける。それが「一般意思」の概念である。

現実に存在するかどうかはともかく、それが存在することを前提として「近代国家」は原理的に成立している、そういうものが「一般意思」である。

この17世紀のルソーの「一般意思」を今に至ってようやくバージョンアップさせようという若い哲学者が現れた。

41jmtweuqll_ac_us160_ 続いて、「一般意思2.0」を書いた東浩紀の仕事について紹介しながら哲学の可能性について考えてみたい。

つづく。

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2015年4月17日 (金)

「観客」っておれのこと?

68 2015年4月11日

「観客」っておれのこと?

ランシエールの「解放された観客」

”フランス人、イギリス人、ドイツ人の三人がラクダについて研究をものするようにと依頼を受けた。

フランス人は植物園に出かけ、そこで三十分ばかり過ごした。番人に質問し、ラクダにパンを投げ与え、持っていた傘の先でラクダを少しばかり突っついた。家に戻ると新聞向けの、ワサビのき

いたエスプリたっぷりの読み物を、さっさとでっち上げた。

イギリス人は、紅茶用具と、素晴らしい野営道具一式を携えて、東洋の諸国へとキャンピングに出かけた。三年ほど滞在し、現地で観察した事実を、秩序も結論もなく詰め込んだ、資料としては第一級の大冊を抱えて帰ってきた。

ドイツ人は、軽薄なフランス人、全体を見通すことのできないイギリス人のどちらをも軽蔑して、何巻にものぼる著作を執筆すべく自室に閉じこもった。著作の題名は次の通り。『自我の概念から導き出されるラクダの観念』。

(『巡礼者』1929年9月1日号、13頁)”

これは、『68年の思想—現代の反−人間主義への批判』(リュック・フェリー/アラン・ルノー、小野 潮 訳)の扉に掲示された文章である。

どうです? なかなか面白いでしょう。めずらしくフランス人が自嘲気味じゃないか。

ここにアメリカ人がいないのは、1929年の時点で彼らは未だ世界の田舎者と思われていたからだろう。いまなら確実に一枚加わっていた違いない。

「アメリカ人は、見たこともない沙漠を想像した。そこで、歩道の一角に煉瓦で小さな台を積み上げ、上に砂をまいた。家のトイレから便器を運び、逆さまにして台に乗せると、懐から恭しく黒塗りのプレートを取りだして前に掲示した。そこには金色の美しい文字で「『駱駝』金50,000ドル」と書かれていた。」

さしずめこんな具合だったろう。

実は、僕はこの本を未だ全部読んでいないので、「68年五月革命」がフランスの知識人に与えた影響の大きさを多少は知っているが、赤の他人に「読んでもいないのに」と文句を言われるのは業腹だからここで語ることはしない。いつか語る日が来るかも知れないが、それが生きているうちかどうか・・・・・・確かではない。

何故この本を読む気になったか、簡単に説明しておこう。

僕は、実存主義とマルクス主義がまき散らしたバイ菌に脳を冒

されたまま社会に出たもので、構造主義批判からポスト構造主義、ポストモダンがまき散らしたバイ菌には感染・罹災する暇はなかった。だから、幸いなことにいまでも『谷崎のテクスト』とか『三島が表したエクリチュール』とかどうしても書くことができないし、『スキゾ、パラノ、ノマド、オイディプス、欲望や器械だの、ついでにサイ(これには「妻」ではなく「差異」と言う字があてられる)』とかは口に出すのもおぞましいと思っている。

ところが、それらのいまでは『フレンチセオリー』とかいわれるものに特有のタームが頑強に根を張ったせいで、日本の若い諸君がそれを使用するのにいちいち気障りな思いをしている。それがあたかも当然の真理のような顔をしてまかり通っているのは大きな間違いだと指摘するには、冒頭に掲げたたとえ話における「ラクダの研究を依頼された」ような「研究の動因=きっかけ」があったことを示すのがわかりいいと考えた。

時代の「要請」ともいうべき『問い』があり、その応えが一個の思想である。したがって『自我の概念から導き出されるラクダの観念』を絶対だというドイツ人のように、思想が時代から屹立し時間を超越しているなんてことは絶対にないのである。

つまり、おおざっぱに言えば『68年五月』というきっかけがあってはじめて、いまでは『フレンチセオリー』と言われるまでなった思想のムーブメントが起きたことをすでにあれから何年も経ったのにほとんど誰も意識していないというのは実に奇妙なことである。

『68年五月以後』の研究依頼を受けたフランス人の思想家が、持っていた傘の先でそれをつついて、誰彼に二三の質問をした上、大急ぎで家に戻ってワサビのきいたエスプリたっぷりの読み物をものにしたのが『フレンチセオリー』だとはいわないが、彼らのエスプリという料理の皿にはバターとクリームをたっぷり使った濃厚なソースの上にフォアグラとトリュフがのっており、ラングとパロールという糸で編んだテクスチャーというナプキンが添えられているのを忘れてもらっては困るのである。

ついでにいえば、この間、話題に乗り遅れてはいけないとばかりに慌ててみすず書房社員の臨時ボーナスにいささかの協力をしてしまったが、しかし、半分も読んだところで頓挫、経済学なんていかにずさんな学問か、よくもまあ貧乏人の懐から大枚をふんだくってくれたものだと言う悔しい思いをしてしまった。あの厖大な無駄話もまたフランス人だった。

僕と同じ思いをした人が大勢いるだろうからいっておこう。枕にちょうどいいから、あれを頭の下に置いて、水野和夫の「終わりなき危機、君はグローバリゼーションの真実を見たか」(2011年、日本経済新聞出版社)を読んだらいい。同じくらいの厚みにかかわらず、中身は数段濃いし「21世紀の資本」いやさ「資本主義のゆくへ」を考えるにはあの無駄話が裸足で逃げ出すほど「ため」になる。しかも、半値以下で、寝っ転がって読めば腕の筋肉も鍛えられる!

てなわけで、『68年の思想』をザッとおさらいしておこうと思い、

この本を手にとったという次第なのだ。

さて、本題に入ろう。

(えっ?未だ入ってなかったの? ええ、すみません。)

この間『ブレスオブライフ』の劇評をアップしようとしたら、Web上の劇評サイト『ワンダーランド』が三月で休止するという知らせが入った。『ブレス・・・・・・」の英国における劇評をいくつか紹介して、我が国のそれといかに違うか論じようと思っていたところだったが、大急ぎでそれは別項を立てることに変更した。

唯一の劇評サイトがなくなってしまうのでは劇評そのものの元気がなくなってしまう。特に、同サイトは『劇評を書くセミナー』を主催しており書き手の養成に尽力してきたことを少しは知っている。それがなくなるのでは『劇評業界』が寂しくなるではないか?

それで、『ブレス・・・・・・』の英国と米国における劇評だけでは内容が偏ると思い、もっと一般的な劇評の意味を考えようと思ったのである。北島さんの仕事に敬意を表し、慰労することになるかも知れないと勝手に考えたことでもあった。

(ずいぶん前のことになるが、確か僕は三回投稿したが、採用されたのは一回だけ、しかも、稿料を払ってくれるという厳しくも権威ある媒体だった。応援もしないで言うのは気がひけるが、休止は実に惜しい。)

そもそもジャンルを問わず批評が今日のよう低調なのは、フレンチセオリーのせいでもある。連中は、脱構築するといって、物事の意味を解体し、ばらばらの記号にしてなにがなんだか訳が分からないようにしてしまった。

おかげで、批評家という存在の意味も解体されて、世の中に批評家と称するものがいなくなった。この場合自称批評家はあてはまらない。批評家とは、批評を書いてその原稿料だけで生活しているもののことである。

このちょうど反対側に芸術家一般がいる。今日芸術家とは、ほんの一部を除いて、ほぼ慢性の失業者のことを言うのであるが、批評が低調なら芸術もまた低調である。なぜなら、両者は車の両輪であり、互いに鏡に映った対象だからだ。根性入れて批評をしなければ芸術はへたるのである。

ところが、すぐに、「ワンダーランド」の関係者を中心に「観客の立場」から劇を批評するというムーブメントを企画していることが分かって、ひとまずやめることにした。今さら僕が劇評一般を論じるよりも、ここは若い衆にまかせるのが古老の立場というものだ。

それで「観客の立場」というのはどういう立場かと思って、知らせを見てみたら、取りあえず、ジャック・ランシエールの「解放された観客」を読む会

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の呼び掛けをやっている。ランシエールの名ははじめて聞いた。もちろん、この老人に参加する気はない。人見知りで引っ込み思案で徒党を組むのが嫌いで頑固で協調性がないとくるから他人に迷惑をかけるだけだ。

しかし、「俺は一人の観客に違いないが、ひょっとして何かに束縛されていたのか、あるいは解放される必要があるのか」と気になったから取り寄せて読んでみた。

ランシエール(1940年〜)というのは、アルチュセールの弟子で、のちに共産党に対する見解の相違から袂を分かった(1973年ごろというから、68年五月が直接・間接に関係しているに違いない)思想家・学者ということらしい。

40頁程度だから読むのはそれほどたいへんじゃないと言っている。

一読して実に、このぉ、驚嘆した。

日本語が書いてあることだけは分かったが、どういう文脈か手がかりすらつかめないのである。どうやらフランス語の直訳らしい。こんなことなら翻訳なぞしなかったらよかったのに。

二度目が終わったとき、僕は頭が悪いのだと思った。

悔しいから三度目に挑戦すると、今度は現像液の中の印画紙に少しばかり濃淡が出てきたように感じた。

少しはましになるかと思って四度目にとりかかったが、大して変わらない。

仕方がないから、訳者後書きを読んで参考にしようと思ったら、これがまたできの悪い学生の卒論みたく、原書をなぞったような日本語とも思えないテクストで、何の助けにもならない。『一であること』と『二であること』とは何のことだ?

五度目は途中で眠くなった。だからそのまま小一時間眠った。

もう今日は無理だ。また明日読んでみよう。明日なら頭がよくなっているかも知れない・・・・・・。

そんなこんなで二日ばかり読んで、ようやくここに書けるだけの「テクスト」を用意できた。頭の悪い老人の言うことだから間違っているかも知れませんよ。バカめ!と読み捨ててもらって一向にかまわない。

「解放された観客」というエセーは、ランシエールが以前書いた「無知な教師」という本のモチーフを下敷きにしているらしい。

それによれば、無知なものは学ぶことによって、自分が無知であることを知る。一方、教師は、教えるだけのものであり、自分が無知であることを知らない。無知の知は向上心を養うものだから、自分の無知を知らない教師には成長というものがない。知性を獲得することにおいて無知の知が必然とすれば、教師と無知なものの立場は同等である。教師と無知なものはともに無知の知を知らねばならないという点で平等なのだ。したがって、知性は無知なものに対して解放されており、教育および学校制度は民主的に運営されるべきだ。

とまあ大体こんなことになるらしい。

盛んにプラトンを持ち出すところを見れば、「無知の知」はソクラテスのことなのだろう。

こんなことだとすれば、我が国の寺子屋でも松下村塾でも昔から教師は教えるものだが、生徒から学ぶものでもあるという相互関係は常識であった。知識は貴族の独占物であった西洋ではギリシャの教育倫理まで遡らないと知性の平等は説けないものらしい。

ランシエールは、19世紀の労働者が書いたパンフレットに刺激を受けて着想したらしいが、これを前衛党とその指導を仰ぐ労働者一般の関係に当てはめてみると、暗に党の無謬性を批判しているともいえる。党は、貴族で労働者は無知な大衆だとする独善性に「大衆の原像」を対置して批判した吉本隆明のような人物が欧州にもいたのだなぁ・・・・・・。

それはともかく、ランシエールは、この論理を演劇やパフォーマンスの観客に応用しない手はないと言うことを実に回りくどく言ったうえで、問題を次のように措定する。

「観客をめぐる議論の大半に、ポストモダンの装いをまとってさえ今なお通底している理論的かつ政治的な前提に対して、根本的に距離を取る」ことが必要である。取りあえず反対する理由はないから拍手!

『ポストモダンの装いをまとってさえ』今なおこんなことがあるのは驚きだが、『演劇がその歴史を通じてさらされてきた数多くの批判は、一つの主要な公式、に帰着させることができる』といっているのだから、観客に関して理論的政治的な議論という前提があるのは歴史的に当たり前だったらしい。

確かにマルクス主義者にとって、社会主義リアリズムは揺るぎない前提だったからなぁ。

要するに観客は、だまって席に座って何も考えずに受動的に見ているだけだから悪なのだという議論があるようだ。つまり『無知な教師』における教えられるべき無知な存在である。この野次馬の愚鈍さから観客を抜け出させるのが演劇に求められる機能で、その方法として、ひとつは考える契機を与えること、ひとつはその暇も与えずに感情的に巻き込むことが考えられる。

それが、ブレヒトとアントナン・アルトーの芝居だというのである。

事ここに至っては、もはや何も言うことはない。

ここで言う『観客』とは一般的に観客といわれている存在のことで、この一般的観客は、現実の芝居を見ているわけではなく、一般的な演劇やパフォーマンスを見物している、あのドイツ人が言いそうな観念的演劇に対する観客の観念のことなのだ。

どうです。原文に近い言い回しになってきたでしょう。

歴史的に理論的政治的に無知で愚鈍な存在が観客ならば、僕は、未だかつて観客であったためしがない。と、思う。お前の知らない間に前衛党がおまえのことを無知で愚鈍な観客に分類していたのだぞ、というなら、僕は直ちにこう言うだろう。

クソでもくらえ!

今日我が国において観客と言われるものは、大枚数千円をはたいて劇場に足を運び、一人一個の座席を確保し二時間の芝居見物を楽しむものことをいう。しかも、その八割方は、休憩時間に男便所になだれ込んで平気なご婦人方で、しかもですぞ、いいたくはないが、その何割かは確実に大学を出ているという有様ではないか?何処が無知で愚鈍だというのか。

この方々がいなくなったら演劇どころではなかろう。

劇評家が存在するとしたらこういう情況を包括した広い視点と表現力豊かな文体をもったものだけだろう。

もっとも演劇と観客の関係を論じる空論を楽しむことには何の問題もなかろうが。

解放されるべきは観客ではなくて、空論とも知らずに空論を楽しむ頭脳の方ではないかという疑問がふつふつと湧いてきた。

ここまで言ったらあとは30頁分くらい省略してもよかろう。

大急ぎで結論を言っておく。

観客とひとくくりにできるものは実際には存在しない。存在するのは大枚払って座席を確保し、そこに坐って芝居見物を楽しんでいる個人だけだ。この個人をまた脱構築して無にしようとしても無駄なことである。だって、俺はいるんだから。

その個人が、ひいきの役者を見るために、あるいは新聞の劇評を朦朧体文で書かねばならないために、あるいは批評家の目で見てやろうと野心満々の態度で観客席に座ろうが、それぞれ勝手で、どんな感想文や劇評を書こうとやっぱりそれぞれ勝手で、世の中にルフするのだってそれぞれ勝手で他人の指図するところではない。それで糊口をしのいでいるものだというなら、それぞれ自分の利益にかなった方法でやればいいだけのことだ。

ランシエールの言うように、劇の中にある政治的意味や社会的文化的意義に感じて行動を起こさねば観客ではないというのは全くの迷信である。劇評がそれをいちいちほじくり出して、偉そうに啓蒙的な態度に出ても、劇の方はただ疲弊するだけだ。

しかし、これは一種の比喩を含んでいる。僕という観客は劇を対象としてみている。ジャン・ポール・サルトルのまねをして言えば、僕は劇の全体を観照しているが、実は意識の向かうところ、すなわち僕は劇を対自的にしかみていない。ということは、劇に対応しておのれの中のおのれ自身と劇に感応したあるものを「現前化」している。

劇評を書くとは、結局は劇と対峙して感応するおのれ自身を作品(テキストではなく署名入りの)として書くことであり、それは演劇という作品のもう一方にそれを支え前に転がすために必ず必要な車輪である。

劇評とは、わたし自身を劇に対応する一個の作品として差し出す行為なのである。それをどこかにさらけ出すのは一種の自虐行為なのだ。

自虐だろうが何だろうが、劇をつくり出しているものたちよ、頑張ってくれ!人生を棒に振っても芝居をつくることに賭けたものたちよ、見ているものがここにいるぞ!というシグナルを送るものがひとりやふたりいたって世の中の邪魔になることはあるまい。

ランシエールの晦渋な文章に刺激されて、ついよけいなことを書いた。老人のことだから許していただきたい。

 

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2014年7月 1日 (火)

寺田寅彦の妻、夏子のこと

だいぶ前に書いた「『フユヒコ』に登場しなかった夏子のこと」だが、最近夏子の写真が他にもあると教えてくれる人があった。劇評「フユヒコ」

教えられた以上、探索しなくては気が済まなくなって、やってみたらドツボにはまってしまった。

こういうトリビアルにこだわる気持ちは、他人様には、あまり面白いものではなかろうが、以下はその顛末である。

 

その前に、何故、夏子にこだわったか? 自省してみると、おおよそ次のような次第であった。

 

(1)若くして結婚、満十九歳で一児を残して亡くなった夏子に対する哀切の想い。

(2)すらりと背が高い細面の美人(僕の好み)であった。美人薄命は(1)に通ずる。

(3)寺田寅彦の随筆「どんぐり」にただよう、女を想う男の「つらさ」に共感した。

(4)寺田寅彦の日記、遠く離れて療養していた夏子危篤の知らせが届いた前後の記述に、「虫の知らせ」があるものだと自分でも思い当たることがあった。

 

「午前四時、夏危篤の報あり。次いで六時絶息の報あり。十二時新橋発急行。阪井両上送り来る。昨夜会より帰りて床に就かんとする頃、胸騒ぎひとしきりしたるが恰も夏の臨終の刻なりしと思合わされたり。この朝、第二の電報いまだ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり。」(寅彦の日記)

 

マキノノゾミの「フユヒコ」は寺田寅彦の晩年、三番目の妻しんと子供たちとのエピソードを描いたものだった。このとき僕は、しんの癇癪持ちというかわがままな悪妻ぶりにいささか驚いて、それなら死別したふたりの前妻はどうだったのかと博士の業績とは無関係のまったく方向違いの興味をもったのがはじまりであった。

 

物理学や随筆の寺田寅彦にファンが多いことは、すぐに分かった。そういう人たちには申し訳ないが、僕はむしろ、なんという女運の悪い男だったかと、むろんいささかの同情をもってのことだが、いつのまにかまったく別の入り口から寺田寅彦を通俗の眼鏡で覗くことになっていた。

 

例えば、劇作家別役実は、寅彦の長姉につながる家系の出であり、作家安岡章太郎もまた次姉の嫁ぎ先の家系であることを知って驚いた。いささか飛躍するが龍馬はいうまでもないが寺田の父親はじめ、妻の両親たち上士、下士、板垣や兆民はじめ自由民権運動家等々、幕末から明治期にかけて土佐の高知はなんと多くの「人物」を輩出していたものかあらためて感心したのもこの機会であった。

 

調べているうちに最初の妻、夏子が評判の美人であったことを知って、どこかに写真はないか探したらAsahi.comで一枚見つかったので、それは劇評にいれておいた。若い妻女ぶりでなるほど目立った美人だが、気のせいか少しばかりはかなげな目元である。Photo

 

 

 

劇評には以下の様なことを述べている。

 

夏子の容姿については「寺田寅彦ー妻たちの歳月」(山田一郎、岩波書店、2006)で触れられている。

「器量のよい方で、目の大きな、ぱっちりした黒い目で、背のすらっと高い人で、評判の美人でした。」(女学校時代の同級生の談)また、「夏子さんがいれば夜中に明かりはいらぬ。目が良う光るから。」(親類の子の談) などともいわれた。

さらに、山田一郎は漱石の「趣味の遺伝」という短編のなかに夏子をモデルにしたとおぼしき女性が取り上げられると書いている。

 

(親友の墓参りをしている見知らぬ若い女を見つけて、声をかけようか)

「・・・どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪で寒いほど緑りの色が茂っている。その滴たるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬の緊った領(えり)の長い女である。」

この『趣味の遺伝』の続きは「『フユヒコ』に登場しなかった夏子のこと」に書いてあるので興味のある方はそちらを読んでいただきたい。この短編の主人公は、今まで出会った女の中でこれほどの美女はいなかったといっているのだが、山田はその書きぶりから夏子の印象を書き付けた漱石の実感だったのではないかといっている。

Photo_20200302184101 ただし、いまになって、僕は山田一郎の推測に少し疑問を感じている。

というのも、漱石が夏子と接触する機会は極めて少なかったはずだということに、あとになって気づいたからだ。

漱石は、明治29年四月に松山中学の教師から、熊本の第五高等学校講師として赴任している。寺田寅彦が五高に入学するのもこの年であった。
 寅彦は、翌、明治30年七月帰郷の折に高知で夏子と結婚式を挙げている。寅彦十九才、夏子十四才であった。父利正が、熊本の気風を慮って夏子を連れ帰るのを承知しなかったため、幼妻は一人婚家で過ごすことになった。むろん、寅彦が卒業するまで夏子は一度も熊本を訪ねていない。ということは、この間、漱石が夏子を見る機会はなかったのだ。

寅彦は、明治32年九月に東京帝国大学理科大学物理学科に入学、はじめは単身でまかないつきの下宿住まいだったが大学二年になって高知から夏子を呼び寄せ、本郷西片町ではじめて夫婦ふたりきりの生活に入る。

一方、漱石は五高教授のまま翌、明治33年五月、イギリス留学を命じられ、七月に結婚三年目の鏡子夫人とともに熊本をあとにする。横浜を出港するのは九月八日だから一ヶ月余は東京にいたことになるので、夏子を見たとすれば、わずかにこの間しかなかったと言うことになる。
 寅彦が夏子をともなって、漱石を訪ねたことがあったかもしれないが、留学準備の忙しいときに、一瞬ともいえるほどの間にそれほど印象深く夏子の姿を心に刻みつけることが出来ただろうか?
 それが、少々気に掛かるのである。

そのことは漱石の「恋愛」について調べるとますます疑念になってくる。

それはともかく、Asahi.comの写真は目元がすこし不鮮明であったが、むろん美女といわれるだけの面差しは感じられた。

 

他に写真があるというのは「寺田寅彦の生涯」(小林惟司、東京図書、1977)の中で何枚か紹介されているというものだった。

古書で手に入れてもよかったが、寅彦の「生涯」に格別の思い入れもなかったので取りあえず図書館で探してみることにした。

このタイトル『……の生涯』はいかにも「図書館好み」(そういう言葉があるとすればだが)のするものだから容易に見つかった。ただし、古い上にけっこう人気があったせいか、本の状態はかなりよれている。

 

そこにあったのは、不鮮明な活版印刷ながら結婚式の紋付き正装の全身姿だっPhoto_2

 

 

た。

背がすらりとしている。明治時代の芸者の写真など残っているのを見るとまるで子供と大差ない体躯が多いのに、この時代にあって、これほどの背丈はたしかに目立っただろう。五尺三寸から四寸はあったのではなかろうか。

また、この写真は目がはっきりしている。『目がよう光る』といわれていただけのことはある。

 

Asahi.comの写真は、良家の若奥様が訪問着でも着ている上半身かと思ってみていたから、すぐには気づかなかったが、しかし、よくみるとポーズも着ているものも似ている。較べると、Asahi.comの方が少し細面で、目が切れ長に見えるが、これは同じ写真かもしれないと思って、パソコンに取り込んでやってみたら果たしてこの二枚はぴったり重なった。

 

そこで、二つの写真を合成してみたのが、この写真である。

うーむ、やはり美人だなあ。しかし、これが満十四才の夏子である。昔のひとは大人びていたのだな、と思う。考えてみれば、僕の祖母と同じ年の生まれであった。夏子が長生きしてたら、僕が目にしていた可能性があったわけだ。

Photo_3

 

 

「寺田寅彦の生涯」には、何枚かあるといっていたが、写真はこれ一枚であった。

一枚だけというのは不思議に思って、あちこちページを括ってみたが、他には見つからない。

僕が夏子に入れ込んでいるあまり、この本でも夏子について一項を設けているものとばかり思っていたら、とんでもない勘違いであった。

その写真が挿入されているエッセイの小タイトルは「女性の好み」というもので、寅彦が幼い頃に親しんだ女中や近所の子供のはなしからどんな女性が好みだったか類推するなかに、ついでのようにして夏子に言及しているのであった。

 

しかし、寅彦の「好み」として夏子を取り上げるのは、いかにも変である。縁談は、親同士が決めたことであり、仮に夏子がへちゃむくれだったとしても寅彦にはいいも悪いもなかった。だから、「女のこのみ」の項で寅彦の「好み」とは関係のない夏子を取り上げるのはお門違いもいいところなのである。

たぶん、夏子が若くしてなくなったあと、その後の寅彦の「好み」に影響したといいたいのだろうが、しかし、寅彦が色好みで芸者遊びでもしたのなら別だが、「好み」が寅彦の実人生に如実に反映した形跡などないし、それである以上その詮索も意味がない。

実際、最も長く一緒に暮らした三番目の妻シンは「好み」からいえばもっとも遠い存在だっただろう。

 

大体、自分のことを振り返ればわかりそうなものだ。

僕にだって、これこれしかじかの容姿と気っ風がなんとなく好きだというものはある。しかし、それはなすとトマトは好物だが胡瓜はいけません、ということと同じようなもので、一種の個人的属人的嗜好だから、思想信条などと違って余人の知るところではなかろう、というものだ。

 

そう思うと、この本の著者、小林惟司氏が寅彦幼少期の「女のこのみ」などというどうでもいいことを書くついでに夏子に言及しているのは、夏子を不当に貶めていると感じ始めた。そこで、最初は写真だけ見たらそれでおしまいにしようと思っていたが、一体この本はどういう構成になっているのか、あらためる気になった。

 

Photo_20200302184203 すると、真っ先に気がついたのは、奇妙なことにこの本は、まず最初に「寺田寅彦の足取り」と称して年譜を一ページに圧縮して掲載していることである。これでは、寺田寅彦の伝記を読もうとしている読者に、いきなり種明かしをしているようなものである。伝記は、その生涯について縷々述べたあと、最後にまとめとして詳しい年譜を付けるのが普通のやり方で、いくら何でも巻頭に置いた一ページで人の一生を済ますわけにはいかないものだ。

どうも、この本は、僕が思っているような目的で編まれたものではないらしい。

 

それで、大急ぎで目次を探した。

大見出しだけを拾うと、次のような構成になっている。

 

・生涯ゆかりの地 (生誕の地から五高時代、ベルリン留学など寅彦の足跡をめぐる)

・寅彦の系族 (両親と子供、甥たちについて)

・寅彦をめぐる女性たち (悪妻、女性の好み、女中たちについて)

・宗教・芸術・人のこと自分のこと

・理化学研究所および寺田物理学

・運命と死

 

評伝としては、ほぼその生涯を網羅していると言えるが、しかし、恣意的に選ばれた個別のテーマをとりとめもなく並べただけで、これでは年代記としての寺田寅彦の人生が見えてこない。

 

これはひょっとしたら、別々の媒体にそれぞれ異なった時期に書かれたエッセイを集めてまとめたものではないか知らんと思って、巻末の初出の欄を覗いてみた。

案の定、「佐久新聞」「信濃公論」「現代日本文学大系月報」などに書かれた文章と「楡の木」という雑誌に連載された「寅彦こぼれ話」というエッセー七本によって構成されたものだった。

 

最初の項「生涯ゆかりの地―生誕地と誕生の家」の冒頭は、次のようにはじまる。

 

「大久保利通が死んだ年に、寺田寅彦は生まれた。大久保は創造主義の政治家だった。日々夜よ、一刻のゆるみもなく、自己の周囲を自己化してこれに新たなる生命を与えた。彼は唯黙々として創造し又創造した。彼が天寿を全うしたら、おそらく日本の近代化は別の道をたどっていたろうと思われるくらい彼の存在は大きかった。大久保が天下を統一して明治政府の基礎を固めようとした努力は実にすごかった。寺田寅彦も又創造主義の学者であった。既製科学の殿堂を守るだけの学者ではなかった。極めて日本的な物理学の樹立に全身全霊を傾注し尽くして死んだ。彼は大久保のような組織者ではなかったが、彼の人格を慕って多くの俊秀が群がった。その群落は近代科学のあらゆる方面に及ぶ美しい花園の感があった。死後に、彼の遺産は引き継がれて見事に開花した。」

 

寺田寅彦の業績は、大久保利通の「すごかった」それと同等だと力説したい気持ちは分かるが、いきなりその共通項を「創造主義」とか「自己の周囲を自己化」などという難解な(というより意味不明の)言葉で説明しようとする強引な書き方から類推するに、小林惟司氏は寺田寅彦のファンではあるが、アカデミズムに近い研究者ではないのではないか?そういういかにも素人ぽい印象を受けるのである。

 

それに、続く東京の麹町にあったという生誕の地とその家を特定しようとする記述は、やや常軌を逸している。

 

僕は母の葬式で、「生まれたところで生を全うするのはある意味幸福なことではないか」とあいさつしたら、あとで、母は50kmも離れた町で生まれたと親戚に指摘されるという恥をかいた。丸谷才一の「挨拶はむつかしい」のパクリで、気が利いていると思ってやってしまったが、剽窃はとんだところでしっぺいがえしがくるものだ。

 

これとは違って、軽輩の武家屋敷が並ぶごく狭い範囲のことである。取材と推理に費やした情熱は理解出来るが、何故そのことにこだわるのか動機が見あたらないのである。説明がないまま、読者を麹町の向こう三軒両隣を引きずり回して最後はわからんとポイである。

いくつかのエッセーをまとめたものだとしても、いずれにせよ編集者がまともな頭を持っていたら手を入れたはずのことだろう。

 

そも小林氏何者ぞ?

と思って調べてみたら、昭和28年に慶応を卒業して明治生命に入り、30年勤務の後昭和58年に千葉商科大学助教授に転じ、六年後教授、平成12年退官、現在名誉教授。生命保険の研究が専門だったようだ。

この本は、昭和52年出版だから、小林氏がまだ明治生命在職中の仕事であった。サラリーマンが、余技として書いた本だった。

 

だからどうだといわれると、困ってしまうが、研究者という立場にない一ファンのことだから、夏子については存外関心の外だったと思えば、憤慨してもはじまらないと思った次第である。

それにしても、何故寺田寅彦に関するエッセーを書くようになったのかまったく不明だったので、もっとも多くの原稿を依頼した「楡の木」とはどういう雑誌なのかわかれば手がかりがあるのかも知れないと思って調べてみた。

 

雑誌「楡の木」は、社団法人「楡の木会」の機関誌ということらしい。

ホームページによると、この社団法人は、昭和34年に政治、経済、思想等に関する調査研究を行い、わが国の民主政治の堅実な発展に資することを目的として、内閣総理大臣(時の岸信介内閣総理大臣)の許可により設立された。初代理事長は、政治家の赤城宗徳である。60年安保の時の防衛庁長官であり、岸信介に治安出動を諫めたことで知られる。

政界引退後、農林官僚であった孫に議員バッジを譲ったが、これが顔に絆創膏事件で顰蹙を買った赤城徳彦である。

 

早い話が、当時岸派だった赤城宗徳が政治資金集めにつくった社団法人であろう。現在は、たいした活動もしていないようだが、ないよりはあった方がよいという類の法人らしく、引退した経済人や官僚が交代で理事長に就任している。

面白いことに、平成21年、総務省が社団法人「楡の木会」が行っている「わさび臭気火災警報器の個人負担分の補助事業」について一般に注意喚起を促し、この法人に「業務改善命令」を出している。何があったか詳しく調べる動機も興味もないので、これ以上は詮索しない。

いずれ、財閥系の明治生命のことだから、こういう政治家がらみの団体のスポンサーだったかもしれないし、その縁で「機関誌」に寄稿を依頼されることがあったのかも知れない。ザッと目を通しただけだが、関係者へのインタビューもかなりの頻度で行われており、「寺田寅彦の生涯」というタイトルに恥じない労作であることは間違いない。ただ、上の事情もあってか、文章に折り込まれた感情の量が多い上に、視点が定まっていないため、評伝としてまとまりがないのは惜しいことだ。

 

「明治生命の小林さんが寺田寅彦に詳しいらしい」という噂を聞いた職員から、「一つ寅彦にまつわる話でも書いてもらおうか」という依頼にこたえて、とりとめもなく一話完結のこぼれ話エセーを連載したというのではあるまいか?

勝手にそう考えて、この話はこれでおしまいにしようと思った。

 

ところが、何か物足りない。

この本には写真が一枚しかなかったからだ。ブログに書き込んでくれた人は、何枚かあるといっていた。これは妙である。わざわざ書き込んでくれた人が嘘を言うはずはない。

もしかしたら、この本とは別のものを指しているのかも知れない。

 

年をとって、しつこくなったみたいで、この疑問を解決すべくまたまた張り切った。

本を調べているうちに、何版か出ているようだということに気がついていたが、どうせ内容は同じものだろうと思っていた。ところが、今一度見直してみると「改訂新版」とわざわざ銘打って初版の18年後(平成7年)に最新版が出ているのを確認した。

 

Photo_20200302184201 そこでまたまた図書館の蔵書を調べてみるが、「寺田寅彦の生涯(改訂新版)」など置いているわけはない。図書館の司書に何版目の何処が改訂してあるか調べて、追加して置くことを要求する方が無理だ。ところがそれで古書を調べると、この新しい版が結構な数、ヒットするのである。

 

Amazonは日本国にまともな税金を払っていないというので、最近は送料が高くても古書店を利用している。それで、ただ写真を二三枚確認したい一念でしようがないから身銭を切って「改訂新版」を手に入れましたよ!ありました。なんと写真が、何枚か増えている。

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例の結婚式の写真は、活版印刷ながら元の版より遥かに鮮明で、状態もよい。左目の下に少し影があったのは、おそらく印刷の加減だろうと思って修正したのがこれである。

Asahi.comもはじめから、この版を使用していたらよかったのに思ったが、いずれにせよ僕としてはこれで満足であった。

他の写真というのは、二枚、髪の具合から見て結婚前のものとあとのものだろう。

 

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さて、話はこれでおしまいにしてもいいのだが、果たして漱石は夏子を見ているかという疑問が残っている。

 

前に書いたように、漱石と夏子が直接会ったとすれば、その機会は漱石が英国へ出発する直前一ヶ月の間だけである。漱石が帰朝したとき、夏子はすでに東京にいない。

 

山田一郎は「寺田寅彦―妻たちの歳月」で、漱石の「趣味の遺伝」に登場する女は、夏子をモデルにしたものに違いないと書いている。ところが、この短編の女についての作家の記述は詳細を極めていて、しかも、これまで出会ったどの女よりも美しいと感嘆し、漢文を駆使しながら描写しているところは、一度見た女の印象だけで書けるものとは僕には思えなかった。

 

それで、山田一郎のもう一つある評伝「寺田寅彦覚書」(2006年、岩波書店)の方に漱石が夏子と会った証拠があるのではないかと思って、今度はこれを図書館から借りだして調べてみた。

すると、山田は、実にあっさりと漱石は夏子の写真を見ていたに違いないと書いている。なんだ、写真の中の夏子を見てあれを書いたというのか?

これはいくら何でも、山田一郎の言い過ぎではなかろうか?

 

では、漱石の方に、他にモデルにするような女は居なかったのか?

これにはあまり深入りする気はないが、まず第一に、大塚楠緒子がいる。名門の一人娘で、東京女子師範出の才媛、当時の帝大の学生、あこがれのマドンナであった。

漱石とひとりの友人に婿養子の話が来て、楠緒子の方は漱石に気があったというが、うまくはこばなかった。友人に譲る形で漱石は身を引いたが、これをあとあとまで引きづったらしい。楠緒子が、三十五歳で病死したときの漱石の句。

 

有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中

 

また、もうひとりについては、漱石が松山に赴任するきっかけになったという女である。

漱石はこれを夫人に語っていたようで、「漱石の思い出」(夏目鏡子)のなかにこういう文章がある。

 

「当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女で・・・そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました--そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察宝へ連れて行ったり、いろいろなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。いずれ大学を出て、当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。そんなことからあの女ならもらってもいいと、こう思いつめて独りぎめをしていたものと見えます。

ところがそのひとの母というのが芸者あがりの性悪の見栄坊で、・・・どうしてそれがわかったのか、そのところは私にはわかりませんが--始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動をさぐらせた上で、娘をやるのはいいが、そんなに欲しいんなら、頭を下げてもらいに来るがいいというふうに言わせます。そこで夏目も、俺も男だ、そうのしかかって来るのなら、こっちも意地づくで頭を下げてまで呉れとは言わぬといったあんばいで、それで一思いに東京がいやになって松山へ行く気になったのだとも言われております。」

このほかにも数々の失恋をしたことがあったというが、ただ、この時期、漱石は精神的に不安定であり、すべて妄想でかたづける研究者も居るらしい。

こういうことを考え合わせると、「趣味の遺伝」の女が夏子だとする山田一郎の推測はかなり怪しいことになってしまった。

すると、写真以外に夏子の容姿を知る手立てはないか?

以前から、安倍能成が故郷松山の中学生だった頃、夏子を見ているという話はちらほら網にかかっていた。安倍の初恋の相手ではなかったかというものまでいるらしい。

それで、何処にその記事があるのか探してみることにした。
 どうも、複数有るらしいが、有力なのは「我が生ひ立ち」(昭和41年、岩波書店)という回想録だと見当を付けて図書館を探った。
 例によって、県立図書館にしかなかったので、またまた大雨の中を桜木町駅から紅葉ガ丘をえっちらおっちら登ることになってしまった。

安倍能成の記述は、それほど多くはない。

「日清戦争当時の立見(尚文)旅団長のあとに、阪井(重季)といふ土佐人の旅団長が来て、一番町の旧御殿医天岸氏の旧邸に住んで居た。寺田寅彦さんの最初の奥さんで、肺病にかかって高知近くの海岸に療養の末なくなった夏子さんといふのは、この少将の娘で、その兄の戒爾といふのは中学で私の同級であったが、後に東京美術学校に入って洋画をやった。長身の温和な少年だったが、同級生が戒爾、戒爾といってたかっていたやうだけれども、わたしは別に近づかなかった。婚約が出来たときかに、寺田さんが松山へやってきて、阪井のうちに泊まったことがあるといふのも、寺田さんの文章か話かで覚えているが、私はこのお嬢さんをちらと見た記憶がある。戒爾もそうであったが丈の割合に顔の小さい貴族的な顔であり、緋縮緬か緋鹿の子かの帯揚げをして、昔風のその黒い大きな門の前に、そのお嬢さんの立っていた姿が、今もなほ目に浮かぶのである。」(昭和45年、岩波書店、P121)

「門の前に、そのお嬢さんの立っていた姿が、今もなほ目に浮かぶ」といっているのには、好意がこもっているとしても、これの何処が初恋の人といえるのか理解に苦しむところである。
 しかし、夏子の容姿ははっきりと書かれていて、「丈の割合に顔の小さい貴族的な顔」とは今風にいえばちょっと見、モデルのような印象だったのではないか?

ここまで来て僕はようやく満足した。しかし、これで終わったのではない。夏子にこだわったいくつかの次第は、なにも消えてなくなったわけではないからだ。

 

どうあれ、何処まで行っても「男はつらい」のである。

 

 

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2013年12月20日 (金)

ドイツと日本の共通点

ドイツと日本の共通点

「ドイツとスウェーデンと日本には共通項がある」らしい。

この間書いた劇評「つく、きえる」(新国立劇場)は、ドイツの劇作家、ローランド・シンメルプフェニヒの本であったが、共通項どころかその感覚のあまりの違いに驚いて、日独伊三国同盟なんてやっぱり無理があったか、いや、少なくとも日独相互理解など、よほど時間をかけて言葉を尽くさないといけないのではないかと思うばかりであった。それで、そのことについて劇評では、引用する場所もなかったのだが、この珍説ともいうべきものを確かめておくのも無駄にはなるまいと思った次第である。

ともかくそういっているのは、ソ連邦の崩壊を十年も前に予言したことで知られるフランスの学者、エマニュエル・トッドである。歴史人口学者にして、家族人類学者という聞き慣れない学問の専門家で、フランス人口統計学研究所に所属している。要するに、人口動態学の基礎である家族形態の類型と識字率の変化によって、社会がどのように変容を遂げていくかを考えるというものらしい。

日本とドイツの共通項というのは、伝統的家族システムのことで、「直系・兄弟間不平等」の権威主義家族という点で、三国は同じ類型に属していることになる。

日本は、長男が家を相続してその父親と暮らし、長男以下の兄弟は成人すると家を出て行く、という意味で不平等であり、父親の権威が家の中で保持されるという点で、権威主義的だというのである。

疲れたから続く。

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