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2024年2月26日 (月)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その6)

話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。
そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。

 

ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。
すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると、それを市浦村が村史の資料編として刊行したことによって、真贋論争を引き起こしたが、1990年代までは、はっきりとした結論が出ないまま、一部では真書と信じられてきたようだった。政治家の安倍晋太郎、晋三氏が石塔山荒覇吐神社を参拝した1987年頃には、学者の世界はともかく、明らかに一般の世間では論争があることすら知らなかったと推察できる。政治家が何の疑いも持たず、本州最北端の山の中の神社を訪ねたというのがその証拠であろう。

 

僕が、うわさ、つまり、十三湊で繁栄した安東氏が津波に襲われ一夜にして跡形もなく流され滅びてしまったという噂を聞いたのが、いつだったか記憶にないが、実は、これも「東日流外三郡誌」に書かれていることのようだった。いつのまにか、すり込まれていたくらい、その影響は深く広く浸透していたというべきだろう。他にも「秋田、安東氏研究ノート」がそうだったように、「東日流外三郡誌」の引用であることが常識と化して流通していることが存在する可能性は高いのではないかと思った。
2000年前後になって、市浦村は富山大学人文学部考古学教室に依頼して十三湊の発掘調査を何回か継続的に実施している。市浦村は、1975年から刊行された「村史」に対する疑いを自ら晴らす責任を感じたからに違いない。それだけ「安藤氏」については、分からないことだらけであったということだろう。何回にもわたって行われた発掘調査の報告書にザッと目を通したが、調査の徹底と安東氏の繁栄ぶりは想像以上であったことが分かる。

 

これ以降はインターネットの世界が急速に拡がり、斉藤さんの調査報告はもちろん、情報にアクセスすることが容易になったせいもあって、偽書であることはほぼ一般にも認定されていると言ってよい。とはいえ、一部では未だに和田文書を公開しているサイトもあり、関心は根強いといってもいいのではないか。
これは斉藤さんも言うように、古代史への尽きない興味に対して、和田文書の内容が、こうあればいいのにと言う潜在的な願望に応えた形で構成されているからかもしれない。和田喜八郎は、それを巧みに利用し、金に換えていった天才的な詐欺師だったというべきだろう。

 

僕は国史の専門家ではないが、一応「史料批判」は、歴史を語るときは必須条件と思っていたので、つい脇道にそれてしまった。脇道で垣間見えたことは、歴史資料というものは、思うほど多くはなく、その流れは、あたりまえかもしれないが、推定でつないでいくしか方法がないものだということであった。

 

 

ここで、安藤氏の行方をたどるために、先に取り上げた「続群書類従」の記述まで、遡行しよう。
「小太郎季俊(則任の孫、季任の子=安倍頼時から数えて四代目)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)とあるが、頼朝はこれより前、1185年に朝廷から「守護・地頭の設置」の権利(文治の勅許)を得ているから、平泉攻めの後、参戦した安藤季信を津軽一帯の守護にしたのだろう。

 

「藤崎町史」によると、同じ文治年間(1185年から1189年)の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄(奥州平泉藤原氏三代秀衡の弟)が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、繁栄していた。しかし、三代秀直(ひでなお)の頃、執権・北条義時(北条家二代)が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季(さだすえ)を外三郡(津軽半島)の蝦夷管領に任命、貞季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築いた。 この貞季が津軽守護、安藤季信から数えて何代目にあたるのかは、調べていない。いずれにしても、このときはまだ、安藤(東)氏は十三湊へ進出していない。

 

ところで、小泊とは、十三潟の北、津軽半島の真ん中辺りから日本海に突き出た小さな半島にある港で、北に開けたわずかな平地は山に囲まれた天然の城柵といってよいところだ。福島城から見たら、目の上のたんこぶのような位置にある。

 

僕は、学生の頃、アルバイトでペプシコーラのルートカーに乗っていたことがあったが、その仕事で小泊に行ったことがある。
半島の付け根の山道を横断して、北の方角に降りていくと、林の隙間から突然、鏡のように静かな海面が現れる。それは小さな漁港だった。昼時で、商売先の家の玄関で弁当を使わせてもらうことにして、上がり框に坐っていたら、奥から家の人が何やらお盆に載せて運んでくる。小さな丼の水の中にサイコロに切ったものがたくさん入っている。なにもないけど、飯のおかずにといって置いていった。一口食べてみる。水はただのうすい塩水だった。クリーム色の賽の目の身が何かの貝だとすぐに気づいた。アワビの水貝というものを生涯初めて口にしたのがその時だった。あの夏の昼下がりに味わった冷たい歯触りの美味は、五十年以上前のことなのに、いまでもありありと思い出される。
小泊といえば、フォークシンガーの三角寛が生まれたのも、ここだ。吉幾三といい津軽はユニークな音楽人を輩出する。
 
戻ろう。
小泊に城柵を設けたことに秀直は激怒し、早速これを攻め落とし、その後、貞季の居城・藤崎城に向けて進軍した。寛喜元年(1229年)、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかる。この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いを「萩野台の合戦」という。当初は十三藤原軍優勢だったが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安藤氏が勝利する。
以上のような記述が「藤崎町史」には見えるが、根拠になる資料がなにかについては分からなかった。

 

「萩野台の合戦」で勝利した安藤氏は、1229年以降、藤原氏にとって代わって、十三湊に進出したのではないかと推測されるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していないという。

 

「萩野台の合戦」とは別に、「北畠顕家安堵状」によると、この鎌倉末期から南北朝時代にかけての安東氏の支配領域は、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭代職となっており、現在の青森県地方(=津軽半島および下北半島)のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。この中に十三湊も藤崎も見当たらないが、湊、津軽西浜がそれだという説もあるらしい。具体的な記述が見られない事情についてはよく分かっていないという。
なお、南部氏はすでに八戸近辺に拠点を築いている時期であり、その関係についてもこの時期はっきりとはしていない。

 

記録によると、1268年(文永5年)になって、この地方のエゾ(蝦夷)が、蜂起して、代官職である安藤氏が討たれるという事件が起こる。原因は、執権北条家の得宗権力の拡大で、収奪が激化したことにより、土着の民が反旗を翻したことにあった。また、日蓮宗の日持ら僧による北方への仏教布教が進んだことや、勢力を拡大しようとする元朝が盛んに樺太アイヌ征討を行っていることが遠因であったことが指摘されている。

 

更に1318年(文保2年)、以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長(安藤又太郎)と従兄弟の安藤季久(安藤五郎三郎)との間の内紛に、1320年(元応2年)出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家(外の浜安藤氏)から太郎家(西浜安藤氏)に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある。

 

1322年(元亨2年)、紛争は得宗家公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等には、内管領の長崎高資が対立する二家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。
1325年(正中2年)、北条得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。(なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったとする説と、その反対であるとする説がある。)深浦町は、十三潟の遙か南、秋田県境に近い港町であり、そこから青森市までという広い版図の中を安東氏が治めていたことになる。

 

その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知を再び派遣し、翌1328年(嘉暦3年)には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを季長の一族に安堵したものと考えられている。

 

 

この安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、御内人の紛争を得宗家(北条家)が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。後世に成立した史書においては、安藤氏の乱、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解がある。

 

鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。対して、津軽に残った惣領家は「下国家」と称する。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。そうした中、安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていたという。

 

しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に十三湊まで追いつめられその後夷島(北海道)に逃れた。南部氏は、時の室町幕府に巧妙に取り入り、領土を安堵されつつ地位を築いていったもので、さらに秋田の鹿角郡、田沢湖から横手辺りまで進出しようとしていた。つまり、安藤氏が築いた版図を遥かに超えて出羽領まで占領しようとしていたのだ。
十三安藤氏は、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。ここで、十三湊を拠点として栄えた安藤氏は、北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。

 

「北のまほろば」で、安藤氏が十三湊から姿を消したとあるのは、一族がもともと植民地のようにして領有していた北海道の渡島半島に逃れた時のことであった。

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2024年2月 1日 (木)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その5)

田沢湖町の四柱神社とは、生保内の街の東(田沢湖とは反対側の)の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。
前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。
訂正しておこう。

 

そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。
写真では、杉木立の中に小振りながら新しい立派な社が鎮座している。遷座式の時に四十五万円かけたものらしい。
神社の前にはそんなに古くない、由来を示す看板が立っている。
それにはこう書かれていた。

 

「四柱神社由緒
所在地 田向塒森
旧稱  荒脛巾太郎権現
 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
    天照大神 素戔嗚尊
外宮の神として
 秋葉山(火の神)天の神
 大山祇神(山の神)地の神
 馬頭観音 
 神社上手に泉あり 水の神
以上の諸神を現在は祭祀して居るが、、前記のように、もともとは荒脛巾神を祀ったものである。荒脛巾神とはすなわち安日彦王であり、また自然を祭った神でもある。天、地、水、これが古代祖先の信仰した神であった。当神社は信仰厚い氏子の手で、その神を失うことなくこれまで守り信仰してきたものである。
その間には、事あるごとに数多くの奇蹟があり、地元民の信仰をさらに深くしている。
当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ前九年の役(1063年)で安倍一族が滅びた後、地元民がこの神を地元の守り神として信仰してきた。
明治の始め神社神道の勃興という大きな曲面にあたり、地元神の名を掲げるに憚るところがあり、止むを得なく前記の現際神の四柱神を届出し四柱神社となったものである。
なお、当神社の創建は養老二年(718年)となって居るが、実際はもっと以前から祭られて居ったものと考えられ、その証としては神社の近辺から無数の縄文土器類の出土がある。
現在は、田向、野村、相内端の産土神として氏子八十六名あり、例際日は毎年八月十四日で盛大に行われている。
                         四柱神社氏子一同」

 

つまり、もともと荒脛巾太郎権現を祀っていた(それと天皇家の祖先がいっしょに並べられているのは少しおかしいけど)ものだが、明治の廃仏毀釈の時、荒脛巾神では天皇家に対して具合が悪いから、天と地と水に、馬頭観音を加えて四つにし、四柱神社として届け出たということらしい。ということは、四柱神社と言う神社名は、明治以降のものだった。
ここで、「当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ」という一文はいつ「考えられ」たものか? 『丑寅日本記』の記述が根拠になっているとすれば、これはでたらめである可能性が高い。それと関連する安倍一族が持ち去ったご神体が帰ってきたことには一言も触れていないのは、不思議だ。もっとも祀られている青銅製のご神体は素性が怪しいなどと書けるものでもないだろうが。

 

田沢湖町がまんまとのせられた、この事件はどんないきさつで起きたのか。前回の繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。
斉藤さんによると。こうだ。
遷座式(1992年)の五年前、1987年に新青森空港開港記念と銘打って、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれた。そこに田沢湖町の町史編纂室の職員が来ていたことから、和田家文書と田沢湖町役場の接点ができあがる。何故、秋田県から五所川原にわざわざやって来たかは不明である。和田が招待したのかも知れない?
このガラクタが並べられたという特別展の中身は、その後、田沢湖町で開かれることになる『東北王朝秘宝展』とほぼ同じであった。 ガラクタだが、和田が恭しく由緒を語り、それらしく装ってならべれば、なんとなく秘宝に見えたのだろう。何しろ疑うようなそぶりを見せると和田は、恐ろしく怒ったという。

 

そして、四柱神社のある生保内地区に関する「新史料」が出てきたのは、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』の翌年の1988年。さらに不思議なことに、1991年にはより詳しい新史料である『丑寅日本記』が見つかったとして、和田がわざわざ田沢湖町まで持参した。それがそのまま『田沢湖町史資料編』に収録され、遷座式の根拠ともなった。  
当時、田沢湖町の関係者には和田から次々と関係文書が送りつけられてきた。箔づけのために、古田教授が外三郡誌を賞賛する講演を行ってバックアップしていたことは先に説明した。

 

和田が、四柱神社のことを知ったのは、青森県五所川原で田沢湖町、町史編纂室の職員と会ったときなのか、それとも田沢湖周辺は、安倍貞任らの「前九年の戦」役の場であり、「後三年の役」の清原氏の支配地であったことを知っていたのか?
どちらにせよ、後から見ると、これはすべて調べ尽くされ、安東氏につながる「…秘宝展」から『丑寅日本記』発見と遷座式に至る一連のプロジェクトがあらかじめ準備計画され仕掛けられたものと見えるのである。和田が田沢湖町と触れた瞬間から、組み上げられていった物語であり、計画だったことはほぼ間違いないという人もいるという。それにしても、こういう壮大な嘘を思いつく知性には並々ならぬものが感じられる。
さすが吉幾三という異才を生み出す土地柄である。

 

その「遷座式」の実況を斉藤さんがまるで見ていたような新聞記者らしからぬ名文で表現しているところがある。

 

「話しは1992年8月8日秋田県東部の田沢湖町に遡る。
いつもなら山間の深い闇に沈み、音一つしない生保内地区が、その夜だけは異様な興奮に包まれていた。道の辻辻にはかがり火がたかれ、大勢の住民が沿道にずらりと並んでいた。中には、両手を合わせ拝むような仕草を見せるお年寄りもいた。・・・・・・
午後八時半。ほら貝が鳴り響き、たいまつが怪しく揺れる中、平安絵巻を思わせる鎧と白装束に身を包んだ男たち十五人が姿を現す。一行の中程には神輿が据えられ、「ご神体」が大切に祀られていた。御輿が向かう先は、生保内地区に古い言い伝えが残る四柱神社。一行は二十分ほどで、こんもりした森のなかに広がる境内に到着した。侍大将にふんする先導役が、鳥居の前に張られたしめ縄を威勢のよい掛け声とともに切り落とす。境内のかがり火が一段と燃え盛った。  
そのかがり火を前に、稚児役の少女が御輿から厳かに御神体を取り出す。氏子ら住民の視線が一斉に御神体に注がれる。御神体は二十センチほどの青銅製で、住民の目には仏様のようにも映った。  
少女は神社の階段を慎重に一歩、また一歩進む。そして、木目も新しい神殿にうやうやしくささげると、儀式は最高潮に達した。先導役が高らかに宣言する。 「ここに鎮座し、われわれをお守りください」  
御神体が九百三十年ぶりに、遠く青森から帰ってきた瞬間だった。それまで神官姿で儀式全般を指揮していた初老男性の目が異様に輝いた。
彼は腰に刀まで差す入念な出で立ちで、この儀式に力が入っていることは誰の目にも明らかだった。それもそのはず、奉納されたご神体は彼が責任者を務める五所川原の石塔山荒覇吐神社からはるばる運ばれたものだった。」(斉藤光政. 戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 )

 

和田喜八郎が、神職の白装束で腰に刀まで差して、一世一代の大芝居を打ったのは大成功だった。ご神体がどう見ても仏像にしか見えないと言うことから多少疑いを持った人がいなかったわけではないが、このときは和田が決めた段取り通り、儀式は厳かに執り行われ、遷座の催しには誰もが満足した、ようだ。
この遷座式のために氏子たちが集めた費用は120万円余だったらしい。
ここでも、和田の演出家としての才能には並々ならぬものがうかがえる。
この後が実に面白い。

 

遷座式の後、石塔山荒覇吐神社に御礼参りをしようと田沢湖町の氏子代表五人が飯詰山中を訪れる。夜中に神社で神事が行われるというので、バスの中で仮眠を取って待っていたところへ、ようやく探し当てたという態で人がやって来た。自分たちは、岩手県山田町の僧とイタコだが、神様のお告げがあるのでそれをお伝えしに来たという。

 

四柱神社の氏神、荒脛巾太郎権現がイタコの口を通して現れ、このたびは、氏子たちのおかげで無事本宮に帰ることが出来て非常に喜んでいる。これからは皆さんの安泰と子孫繁栄のために尽くすと告げ、何度も御礼をいったという。また、イタコの口から八幡太郎義家が現れて、前九年、後三年の役では安倍一族をさんざん痛めつけたことを氏子たちに謝り、これからは皆さんを守護すると約束して帰った。

 

これを読んで、僕は大笑いをした。
和田喜八郎の「演戯性」が遺憾なく発揮された出来事と言ってよいのではないか?
夜九時の真っ暗な山の中である。氏子たちはバスの中、とはいえ、外の暗がりから聞こえてくる、うなるようで判別つきにくいイタコのご託宣は、本物らしく聞こえたに違いない。源義家が登場して謝罪したというのには思わず吹き出してしまったが、その場で聞かされたものは、古代の将軍の言葉が聞けて大いに満足だった、かもしれない?
それにしても、何故山田町なのだろう?盛岡の遥か東の海岸線にある港町から、津軽の山の中にはるばるやって来たわけがあったのだろうか?。あるいは『丑寅日本記』に関連の記述があるのだろうか。

 

このお礼参りは、和田が仕掛けたものだろう。
遷座式の大成功に気を良くした和田が、なお田沢湖町を惹きつけておこうとしたのだ。例の縄文時代の遮光式土偶を持ち込むのはこの二年後であった。

 

この田沢湖町遷座式の前、1987年に新青森空港開港記念との『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれたと書いた。これはまた五所川原市立図書館10周年記念行事でもあったというから、和田は五所川原市にも食らいついていたらしい。
このとき、のちに発見される『丑寅日本記』の信憑性を補うような出来事があった。
1987年7月、安倍晋太郎・晋三親子と岡本太郎が、互いの先祖、安倍氏の墓として石塔山荒覇吐神社を訪れ、参拝したという。いまでも参拝の記念碑が残っているらしい。この時期はまだ、「東日流外三郡誌」に疑義が出されてはいなかったから、政治家親子はこの神社の由来を確かめもせずに本州の端っこの山の中まではるばるやって来たのだ。
おかげで、ただの水と山の神を祀る祠だった、石塔山荒覇吐神社は、愈々箔がついて、それらしくなっていったのである。

 

 

 

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2024年1月28日 (日)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その4)

五所川原からみて青森市はほぼ真東にある。しかし、行くには一旦南東の弘前—藤崎方面に向かい、それから北上しなければならない。津軽半島東部には竜飛岬の先端に至る小高い山脈(中山山脈)が通っていて、これが行く手を阻んでいるからだ。わずかに、いつ頃通したものか分からないが、県道26号線(津軽あすなろライン)が五所川原市飯詰あたりから山脈を越えて細々と青森市郊外の油川に通じている。冬期間は閉鎖という山深いところだ、
グーグルアースで調べると、その真ん中辺り、県道からかなり外れた山中に、「石塔山大山祇神社」という目印がある。これは、別の地図上では十和田神社となっているが、「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」ともいうらしい。荒覇吐神社というのは、主として関東地方に散見されるもので、この津軽地方には他に存在しない。正確に言えば、戦後この神社に命名された時からそうなった!のである。「荒覇吐」の由緒は不明ながら、大和朝廷に追いやられた蝦夷由来の神をまつるということで、日本古来の神とは異質であるという説があるらしい。

 

ここは、「東日流外三郡誌」騒動以来、結構知られるようになった場所らしく、訪ねた人の記録によると、県道から外れ細い道をたどって三十分ほど歩くと、林の中に朽ちた鳥居が現れ、その脇に大きな石が並べられており、奥に木造の社が建てられているという。
しかし、この「石の塔」と呼ばれる場所に神社が建立されるまでは、十和田様という水神と山の神がまつられた小さな祠があるだけで、一帯で炭を焼く村人が通るだけの何もないところだった。訪ねた人がたどった道は、焼き上がった炭を運び出すための馬車の通り道として、戦後まもなくの頃につけたものだった。
この神社がすべての始まり、だったように思える。
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僕は、安東氏という謎を追いかけて、それが十三湊以降、どうなったかを確かめればそれで満足だと思っていた。井手君が、興味を示した60=70年代初頭の頃から見ると、彼の勘が正しかったように、かなり広汎に「安東氏」についての関心が高まり、関係の文献も多くなっていた。
ところが、調べると資料によって内容や時系列が違い、公的な出版物でさえ伝聞や偽書の引用などが混じって、その矛盾を糺そうとすると、さらに混乱するという有様で、正確な歴史を知ることなど困難かと思いはじめていた。この調子では、何が本当なのか?
正直のところ、これではもう現代から見て分かる範囲でいいやと思うようになった。

 

それはそれでいいのだが、斉藤さんが戦後最大の偽書などとセンセーショナルに言うものだから、立ち止まって何があったか確認しておこうという気になったのだ。とりわけ、興味を引くのは事件の主役である和田喜八郎という人物が、「安東氏」を利用しながらどのようにして人を欺いたかである。

 

ここから先は、斉藤光政著「戦後最大の・・・」に書かれていることに全面的に寄りかかって、というより、書かれていることを紹介しながら僕の興味について説明しようと思う。
僕の興味というのは、2005年3月に書いた新国立劇場上演、劇評「花咲く港」が念頭にあった。これは菊田一夫の戯曲で、昭和18年初演であるが、同年木下恵介監督デビュー作品として、小沢英太郎、上原謙、水戸光子らで映画化されたものである。
ある南国の島に、かつて有力者として住んで居た人の息子と名乗るふたりの青年が、やって来て、村おこしとも言える造船会社を立ち上げ、島人にも出資を募ろうとする話しである。
このふたりが詐欺師で、その手口や欺される方の事情も対置されることによって生まれるドラマ性。それは、喜劇というにはいささか強すぎる、詐欺師の行動にただよう「滑稽さ」あるいは、そこはかとない「おかしみ」、それにまんまとやられてしまう普通の人々に対する密かな同情といった観客に生まれるであろう心理、それが僕の関心である。

 

和田喜八郎という一生は、人を欺くという点では一貫していたが、塀の中へ転がり込むようなことは一度もなかった。それだけ用心深く嘘に嘘を重ねた様子は天才的と言える。
残念ながら、斉藤さんの記事は、新聞記者らしく事実を追求する姿勢に徹していて、しかも和田喜八郎が自分に批判的な記者、斉藤さんと直接会うのを避けたこともあって、何故それに思いついたか、思いつきの殴り書きとはいえ膨大な量の古史・古書をねつ造する知識はどこから得たのかなど、周辺の取材を含めて徹底しておらず、彼の詳細な経歴や深層心理に迫っているわけではない。
だから、詐欺師の側の内面については知りようがないが、時々行動に演戯性が発揮され、その照り返しとして被害者の心理が浮かびあがることがある。人は疑いを持ちながら、目の前のことをなかなか否定は出来ない。そのとき詐欺師は何を感じていたのか、その心理的な駆け引きについて、斉藤さんの追求は今少しと思うこともある。
また、せっせと偽の文書をつくり、拾ってきたガラクタに勝手な価値をつけ、いくら稼いだのか? 偽書を何冊か発行し、その印税はいくらになったのか?それで和田喜八郎の生計は立っていたのか? ということについて、斉藤さんの関心はあまりなかったと見えて、もうひとつのエンジンである経済的な動因ははっきりとはわからない。一生をかけるほどの結構な収入になったものなのか?

 

 

さて、神社に戻ろう。
戦後まもなくの頃、のちに「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」と呼ばれるようになる、石の塔の水神さまと山の神がまつられた祠の側の沢で、当時、二十代の和田喜八郎と父親が炭焼きの窯をつくるのに整地していたら、アイヌの土器が出てきたという。これでことさらのように騒いで、石の塔には何かあるという心証を飯詰村(当時)の人々の間に形成していこうとしていたようだ。
関係者によれば、1951年の飯詰村村史編纂の時は、ここに秘宝が隠してあるとか安東、安倍氏の墓だとかいう伝説のかけらもないただの朽ち果てた祠だった。
ただし、和田喜八郎の家の天井裏の長持ちから出てきたという大量の文書は、数年前には「地中」から出てきたという触れ込みで(当時、和田の家はかやぶき屋根で、天井裏はなかった)すでに存在していた。これを市浦村でやったように自分の住んでいる村史に取り込むのは、村の誰もが知っている土地のことだからさすがにはばかれたのだろう。

 

「東日流外三郡誌」が「市浦村史資料編」全三巻として刊行されるのは、1975年から77年にかけてである。これを編纂した村の関係者によれば、初めは安東・安倍氏の財宝がどこかの洞窟に隠してある、ついてはその発掘調査をしないかという話しだったらしい。それが出てきたら、村のPR になるし郷土史の材料になると考えて、その話しに幾許かの金を出資した。しかし、なにもでてこないから、多少焦って、あまり深く検討もせずに「市浦村史資料編」を出版することにしたというのである。

 

では、「石塔山荒覇吐神社」はいつ出来たものか?
1978年に作成された「建設趣意書」に名を連ねたものは、和田はもちろんだが、「講中代表総代 建設委員」は、藤本光幸、同じく「講中総代」相馬弥一郎という人物である。

 

藤本光幸とは何者か?
斉藤さんの取材によると、藤崎町の資産家(らしい)で、「和田の最大のスポンサー」であり、しかも「外三郡誌の所有者の一人」とされていた。  藤本が編者を務めた外三郡誌関係の本にも「外三郡誌の詳細を語る第一人者」と紹介され、本人自身も「生涯の使命として、和田家文書の原稿化に努めている」と力説していた。外三郡誌は正しいとする、歴史学者の古田武彦など、いわゆる擁護派(真書派)の中心メンバーの一人であった。ということになる。とはいえ、藤本の来歴についてこれ以上の取材はなく、この男が何者なのか詳細は不明である。ただし、藤崎の町を調べると、藤本光幸商店というのがあり、看板にかすれた文字に輸出商と見えるが、何の輸出か?それ以上は分からなかった。

 

もう一人の、相馬弥一郎は五所川原で古物商を営む老人で、和田の骨董仲間、商売の師匠・相談役にあたる人物らしいが、斉藤さんがこの趣意書を発見したときは物故者だった。
すると、和田喜八郎の生業は古物商だったのか?
相馬弥一郎には息子が居て、和田のことをよく知っていた。彼によると、
市浦村史を出した後、世間の評判がよろしくないところから、和田は疎んじられ、収入源が途絶えたので、「東日流外三郡誌」のルーツを市浦村からどこかへ移す必要が生じた。
そこで、おそらく、石の塔にあった祠を根拠に神社を作ることを思いついた。その頃まだ若輩ものだった和田は、それを年長の相馬弥一郎に相談し、結果、土地の代議士の名前を借りて寄付を集め(1978年)、山の神をまつる神社建立(1980年)にこぎ着けたということであった。
1983年に相馬弥一郎が亡くなると、単に水神と山の神をまつる神社が、和田の手によって、アラハバキがまつられ、安倍一族の墓になり、ならべられた大石に北斗七星という意味が与えられ、「東日流外三郡誌」を書いたという秋田孝季の石像(近所の石材店からもらってきたもので秋田とは何の関係もない)が置かれて、めでたく「石塔山荒覇吐神社」になったのだ。
相馬弥一郎の息子の言によると、この神社は由来はもちろん、中身もすべてでたらめな作り話で、要は和田が古物を売るための道具の一つにすぎないのであった。

 

 

「丑寅日本記」が和田家文書として発見されたのは1991年のことである。例の藤本光幸・編として、五所川原市の新聞社から出版されはじめたのは1992年からで2007年頃まで断続的に続く。

 

戒言
此の書は他見無用門外不出と心得ふべし。
寬政五年八月廿日             秋田孝季
                     和田長三郎

という記述からはじまる全十一巻の長大なものである。

 

この冒頭にある「他見無用門外不出」とあるのが味噌で、「原本は出せない。コピーなら出す」といって、紙や、墨、筆跡について古書としての鑑定を巧みに避け、真贋の判断をむずかしくした。

 

寛政の人、 秋田孝季と和田長三郎は、蝦夷地を越え、ロシアにいたり、アムール川を旅する。しかも、見聞したものを現代のマンガみたいな画で描写しているのだ。一見、笑うしかないものだが、人を欺すにはこんなもので十分なのだろう。
僕は、内容については興味がなかったので、ちらっと見ただけだが、よくもまあ、こんな嘘を思いついて、しかも、古文を装ういい加減な文体で長大な文章を書けるものだと感心してしまった。この能力を他に向けたら、少しは人に尊敬されただろうにと思う。

 

 

1991年、和田家文書として「丑寅日本記」発見の頃、秋田県田沢湖町が町史編纂作業をやっていた(出版は1992年)のが和田喜八郎の耳に入っていたかどうか?
あるいは、耳に入ったから「丑寅日本記」はある意味「大急ぎ」で準備されたか?

 

この話は、実に傑作である。

 

田沢湖町、教育委員会の町史編纂室長が、どう言う訳か和田喜八郎と個人的に親しい間柄だったらしい。このいきさつは斉藤さんの取材にない。が、
当然、和田家文書の一つ「丑寅日本記」に書かれてあることは、信じたものと思われる。何しろ親しいのだから。

 

その田沢湖町に生保内というところがある、「吹けや生保内東風(おぼねだし)七日も八日も(ハイ)・・・」と歌う民謡で知られたところだ。そこの辺鄙な、人もいかないような場所に、四柱神社という小さな神社がある。地元では荒覇吐神社ともいわれていたらしいが、もともとの由来が何なのかは調べても分からない。「丑寅日本記」からの引用が、町の正史になっているからここは「青龍大権現がおわす、田沢湖のたつこ姫の墓があるところ」である。当時は、たつこ姫は、民話の中の人だからその墓があるのはおかしいだろうと思う人もいたらしい。今では誰も信じていないという。

 

「丑寅日本記」には、千年前の「前九年の役」で敗北した安倍一族が、この四柱神社にまつられていたご神体を持ち去り、津軽五所川原の石塔山荒覇吐神社に祀っていたと書かれている。
文書発見の翌年、1992年の二月に和田家文書擁護派の大学教授、古田武彦が田沢湖にやって来て、文書について講演、続いて五月には「東北王朝秘宝展」が開催されている。
この「・・・秘宝展」の前に、 和田喜八郎がやってきて、 陳列品には四柱神社のご本尊も含まれるので、この際、930年ぶりに、このご神体を本来の場所である四柱神社に遷座することにするという。そこで、それを受け取りに、田沢湖町町史編纂室長と神社の氏子代表ご一行が、五所川原市の石塔山荒覇吐神社へ向かうことにした。
和田喜八郎は、受け渡しの現場で氏子たちに、人目にさらすと天罰があたるから、絶対に見せるなといい聞かせ、ご神体は時価にして2〜3億円もする貴重な遺物であると言明している。
田沢湖町町史編纂室がいくらの対価を払ったかは、税金の使い道のことだから当時の記録を見れば分かるだろうが、今のところ不明である。

 

斉藤記者が、この遠い秋田県で行われた遷座イベントに疑いを持って、田沢湖を訪ねたのは、二年後の1994年のことである。
その直前である三月に田沢湖町四柱神社に、和田喜八郎から新たに新しいご神体が贈られたことを聞いていた。それは、縄文時代の遮光式土偶であるが、青森県亀ヶ岡遺跡から出土したものが国宝として有名で、同じものがいくつもあるはずがない。調べると、弘前市でつくられている比較的精巧に出来たレプリカであったようだ。
田沢湖町では、そんなものがあってもしようがないと思ったが、ことわることも出来ず、受け取ったということらしい。ここでもいくらかお金が動いたのだろう。
(つづく)

 

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2024年1月21日 (日)

「北のまほろば」と安東氏という謎(その3)

山梨県の西を流れる早川の上流、農鳥岳(3,026m)の麓に奈良田という集落がある。平家の隠れ里、などと言われる山深いところで、道は、数十キロも先で北岳(富士山に次ぐ日本第二の高峰)の登山口、標高千五百メートルの広河原に通じている。とはいえ、ここから先には人家がなく、したがって、南アルプスの広大な山域、つまり「異界」に踏み入る、ここがその入り口である。
安東氏はまた別の異界ではないかという思うことがあった。

 

奈良田には、鄙びた温泉があって、湯温はややぬるいが、あまり人が来ないから快適で、昔、湧き水を汲みにあちこち行っていた頃、時々日帰りで行っていた。奈良田へ向かう途中に草塩と言う小さな集落があって、ここの県道の脇のコケの生えた岩の間から水が湧きこぼれているのを、目当てに行くのだが、そのとき必ず奈良田まで足を伸ばした。そのため、このあたりの地理はすっかり頭の中に入っていると思っていた。
河口湖から富士山麓を回って、本栖湖を見下ろす峠道から西へトンネルを抜け、標高を下げていくと下部温泉の町並みが湯煙とともに道脇に見えてくる。やがて富士川を渡り、静岡と甲府を結ぶ幹線道路を横切って、支流の早川沿いの道を進むのだが、ある時、久遠寺から身延山に登ってみようと思い立ち、幹線道路を静岡方面に左折した。
すると、道路標識に、「南部」(方面)という文字が現れはじめるので、ほう、ここにも「南部」があったのかと気にとめたことを覚えている。

 

この南部の話である。
「北のまほろば」の中に、こんな記述があるので、少し長いが引用しよう。

 

「ここでまたしても地域名についての説明が要る。南部とは何かということである。
方角のことではない。
「陸奥」
という国名が広大すぎるため、何世紀もの間、今の岩手県から青森県東部にかけての大きな地域は南部とよばれてきた。
南部はもと、との様の姓である。
姓より以前は。地名だった。それも、遠い甲斐国(今の山梨県)の地名なのである。
山梨県南巨摩郡の富士川右岸の氾濫原に南部という小さな地名があった。いまもある。
十二世紀、源平の頃、そこに豪族がいて、地名を姓としていた。いまでも南部氏が築いた城館の跡が残っている。
その南部氏から三郎光行というものが出てわずかな人数を率い、海路はるかに奥州の地に来たという。
『南部系譜』では唐突にやって来たのではなく、源頼朝の奥州征伐に従軍し、軍功によって五郡をもらったという。しかし無名に近い小豪族が、いきなり五郡も拝領できるものなのか。すべては伝説の霧の中にある。
『奥南旧指録』では、頼朝の時代よりもずっと後のことだという。
甲斐から来た南部三郎光行ら主従七十余人が、鎌倉の由比ヶ浜から兵船に乗って八戸(青森県)に上陸した、という。鎌倉の由比ヶ浜から来た以上、幕府の黙許は得ていたのかもしれない。
時に十三世紀、鎌倉時代の前期である。彼らは観音堂で越年した後、
「百姓の家に入りたまひ、一夜堀をほらせ玉ふ」
という。野盗の類に似ているが、こういう創業の仕方は、室町の頃播州(兵庫県)辺りにもあった。
従者に、桜庭、三上、神、岩間という姓のものがいた。桜庭は明治維新まで南部藩における二千石の大身だった。同じく原という姓の者もいた。大正時代の政治家原敬の祖であった可能性が高い。
創業当時の原氏の本国は甲斐だが、桜庭や三上の本国は近江だったらしい。様々に想像すると、鎌倉でごろごろしていた甲斐の南部三郎光行が、
「どうだ、これから奥州を切り取りに行こうと思うが、ついてこないか」
と、幕府の端役にもつけぬあぶれ武者どもをあつめたのかもしれない。こういう想像が許されるほど、当時の奥州は不安定だった。」(「北のまほろば」)

 

その奥州は「後三年の役」(〜1087年)のあと、勝利した清原清衡が、名を父親の姓に戻して藤原清衡を名乗り、平泉に拠点を置いて、出羽の一部と陸奥を合わせた広大な地を支配するようになった。むろん源義家が後ろ盾になったことによる。

 

前回の最後に僕は、
「十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。」
と書いたが、これでは、時間が二百年ほども飛んでしまう。
そこで、逆から見て二百年の間に、十三湊に安東氏が現れるのはいつだったかそれまで何が起きていたのかを調べてみることにした。

 

「前九年・・・」よりもずっと以前から、十三湊は天然の良港のため、日本列島交易路の中心となり、10世紀後半には十三湖北端に地域経営の拠点となる福島城が築城されていた。「十三」は、語源がアイヌ語の「トー・サム」(湖の畔り)であり、福島城柵を築いた者は不明らしいが、アイヌあるいは蝦夷由来の者かもしれない。
「後三年・・・」のあとには北海道のアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏が進出、一族の藤原秀栄が土着して、これが後に十三氏を名乗って、一帯を支配していた。
藤崎安東の系譜をたどることにしよう。

 

さて、藤崎に落ちのびた安倍高星は、ここに城柵を築城しはじめ、その子堯恒の時に安東氏の基盤を確固たるものにした。その勢域が拡大するにつれ、西海岸に開ける十三湊に注目することになる。
第一に、日本海、沿海州、蝦夷地の広大な地域で交易が出来、莫大な利益をもたらすにちがいない。第二に、岩木川を使えば、容易に往来が出来る。
そうして得た財力を元に、かつて、安倍一族が支配した陸奥一帯を取り戻せると夢想したかもしれない。

 

堯恒の子貞季(貞秀)の時、津軽萩の台(弘前市津賀付近)において、十三秀直と激突(萩野台合戦、1229年)、これを打ち破って十三湊を手中に収めた。安東氏が本拠を十三湊に移すのは、貞季の孫、愛季の時である。高星から数えて五代目(すでに鎌倉中期か?)である。すると「津軽守護に任ぜられた安藤季信」とはどこにあてはまるのか?
それは、ともかく、のちにつくられた系図に「安東太郎を持って当家の仮名となす。」とあって、萩野台合戦の頃から安東氏の称号を名乗ることになったものではないかいうことであった。(「秋田『安東氏』研究ノート」1988年、渋谷鉄五郎)
それに、この「秋田『安東氏』研究ノート」には、続いて
「また、高星、津軽郡安東の地(南津軽郡藤崎)に逃れ、そこを領して安東太郎と称したのにはじまる」(河出歴史辞典)ともいう。安東の地とは、太古の十三湖は後年の藤崎地域まで入り込んでいて、そこを「安東浦」」と称したという」(市浦村史資料)
と書かれている。

 

僕はこれを読んで、もう一度地図をながめてみた。
確かに津軽平野は岩木川流域の両側に開けて十三湖に達しているがこの陸地に水がたたえられて最深奥部の藤崎に「浦」が形成されていたことを想像するのはむずかしいのではないかと思った。
能登半島は今年正月に四メートルも隆起した。ここは隆起して出来た半島だということだが、地震はおそらく千年ぶりだったらしい。
すると津軽平野がまるごと隆起して「安東浦」が岩木川の河岸段丘、藤崎になるには数千年どころか、数十万年以上はかかると思われる。そんな前に誰が「安東浦」を名付けたものか?
「河出歴史辞典」の記述にしてからが、「市浦村史資料」を元に書かれたものに違いない。
では、「市浦村史資料」とはなにものなのか?

 

僕は国史の専門家ではないと再三言ってきたが、こんな「怪しい」ことを「秋田『安東氏』研究ノート」が平気で記述するのはおかしな話しだと思って本の発行年を確かめた。1988年とあって、安東氏研究もまだ道半ばだった時期で、深く考えもせずにそこにあるものを入れたのだろうと想像した。
しかし、こんな奇妙な話しには裏があるとにらみ、本題と関係ないかも知れないと思いつつも、つい、調べてみることにした。

 

村史資料とある以上、公的なものとして編纂されたと思うが、なんと、中身は『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)という厖大な歴史書をほぼそのまま資料にしたものだった。
『東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた長持ちの中に入っていた」大量の古文書として1970年代半ばに登場した。この古文書の編者は秋田孝季(福島の三春藩九代目当主)と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊(巻)にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流=ツガル)には大和朝廷から弾圧された異民族の文明が栄えていたと書かれている。
ただし、秋田孝季については、この本についての議論が進んでいくうちに、藩主本人が書いたというには無理が出始めたため、「原本」はいつしか「写本」となり、編者も「秋田孝季」(たかすえ)という縁つながりの別人になったという。
市浦村は、これ(のコピー!)を高額の対価で買い取って、村史として編纂出版した。従って、公的な機関が承認した歴史書として通用するようになったし、国立国会図書館にも収納されているところを見れば、世間には一定程度認められているらしい。

 

興味を持ったことにはトコトンつきあう性格で、今度も、『東日流外三郡誌』について調べてみようと思い立った。
すぐに、各地の図書館やら公的な組織が収蔵しているらしいことはよく分かる。
ところが、次に目に飛び込んできたのは 斉藤光政著「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 (集英社文庫)であった。
あれ?どこかで見た作者だ。
そう、「安彦良和、原点(The Origin) 戦争を描く、人間を描く」(岩波書店、2007年)のインタビュアーであり著者である。青森県の県紙、東奥日報の記者で、僕はもちろん会ったことはないが、この本の成立について多少関係したので覚えていた。
この斉藤さんが、1992年、政経部から社会部に異動してはじめて扱った事件がこれであった。事件といっても、九州の大分在住の人が和田喜八郎に貸した図版を盗用され、返してもらえないので、裁判に訴えた著作権違反と損害賠償の民事訴訟だった。

 

(つづく)

 

 

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2024年1月10日 (水)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その2)

Image_20240110174701 Photo_20240110180801 弘前市の北にへばりつくように藤崎町がある。人口一万五千ほどの小さな町である。
僕は弘前に五年住んだが、藤崎といえば、りんご畑が拡がる農村風景しか見たことがなかった。ただ、弘前に飲み込まれそうな位置と規模なのにどこか誇り高く、独立自尊の気概が感じられた。津軽と言えばまず藤崎をのぞいては語れないと主張しているようにその名を見るたびに思った。
それが、安東氏について調べているうちに、11世紀ごろのここが起源だったことを知ったのだが、この町の歴史は、それより古く、津軽の中でも「歴史は深い」(町のホームページ)からだとわかって、得心した。
安東氏のルーツがこの藤崎にあるというのは、ここに長い間城柵があり、弘前にその地位が移る前までこの地方の中心だったと言う史実に根拠がある。

 

「前九年の役」(1051年〜1062年)と言えば、日本史の教科書には必ず登場するエポックだが、安東氏が歴史に登場するのはこの頃のことである。まずは、その概略を確認しておこう。

 

それより二百年ほど前の平安時代初期(802年)に、日高見国が朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したあと、陸奥国の各地にいた豪族の多くは大和朝廷に従った。降伏した蝦夷を俘囚といったが、このなかに北上盆地から今の盛岡辺りまでの広域を支配する安倍氏がいた。

 

この安倍氏が、頼良の時、11世紀の半ばになると、朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため、永承6年(1051年)、陸奥守国司藤原登任が数千の兵で安倍氏の懲罰に向かい、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。玉造郡鬼切部とは、宮城県北部にある山深いところだが、それより二百年前、坂上田村麻呂が大武丸という蝦夷を討った際にその首が飛んだ場所と言う伝説があり、別にアイヌ語では「小さな川が集まって大きな川になる所」を意味する「オニカペツ」が語源と言われている。この鬼切部の戦いでは、すでに「あぎた=秋田」におかれていた地方管轄官である「秋田城介」の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守となった。

 

翌年永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母、(藤原道長息女、中宮、藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることになった。安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。天喜元年(1053年)に頼義は鎮守府将軍となった以後、その陸奥守在任中は平穏に過ぎた。

 

その任期満了である天喜4年(1056年)、頼時から惜別の饗応を受けた頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)へ戻る途中、阿久利川で野営を敷いてた。その時、何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。

 

これは真相は定かではないが、頼義配下の在庁官人である藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た、と頼義に報告があったことに端を発する。
さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に出頭を命じたが、頼時は息子(二男)貞任の出頭を拒否し、その結果、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることとなった。

 

また、頼時の女婿ながら国府に属していた平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を流して頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。

 

天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司、金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を味方に引き入れることに成功した。
これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)において死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。

 

頼義は同年11月、再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃したが、この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。
安倍貞任軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4,000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。

 

その後、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく藤原経清の白札で税金を徴するほどになりその勢いは衰えなかった。
苦戦を強いられていた頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県大曲・横手盆地周辺)の俘囚の豪族清原氏の当主、清原光頼に「珍奇の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいわれる。いずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将として軍勢を派遣することになった。
この軍勢は、武則の子荒川太郎武貞、その甥、男鹿の豪族志万太郎橘貞頼、山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍、など秋田勢を中心とした朝廷側が源頼義勢3,000と合わせて10,000と推定される。清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。

 

1062年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。その首は丸太に鉄釘で打ち付けられ晒された。藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首とされた。

 

こうして安倍氏は滅亡し、約十二年にわたる「前九年」の長い戦役は終った。
清原氏参戦後、わずか一ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある。
この密約とは、敵将藤原経清の嫡男、清衡が、本来は処刑される運命にあったが、この時まだ七歳であり、これを助命するというものである。清衡の母親(貞任の妹)が、安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁する(密約の正体?)ことになり、連れ子の清衡も清原武貞の養子になることで、難を逃れた。
この清衡がやがて奥州藤原氏へとつながっていくことになる。

 

ところで、藤崎町のホームページには、「安東氏発祥の地」として次のように述べられている。
「戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。」
この根拠になっているのは、江戸時代に出版された塙保己一の「続群書類従」で、系図奥書に永承三年(1506年)の日付が見え、これが藤崎安藤に関する最も古い記録と推定されているらしい。この藤崎系図(安倍姓)では、
「長髄彦の兄安日の末葉(子孫)安倍貞任の子高星(たかあき)が藤崎安藤の祖となったとされている。高星は貞任敗死後、三歳の時乳母に抱かれて、藤崎に逃れ、藤崎城主になり、その子堯恒は、安藤太郎、のち藤崎太郎と称した、と伝えている。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)
「長髄彦」は神話の中の人であり、高星の存在も確たるものではないとする説もあるようだが、藤崎町では町の歴史としてこの安倍貞任の系譜を掲げている。

 

もうひとつ「続群書類従」第七輯上には、成立年度は不明だが、貞任の子孫が安藤氏となったと言う記述もある。(安藤系図)
「貞任敗死後、四歳の貞任末子(則任)を家人が山中に隠した。藤原清衡の子惟平に男子がなく、祖母(貞任妹)の縁により、七・八歳の時に則任を養子にした。すなわち白鳥太郎則任で、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤としたという。安藤氏祖で、安藤太郎と称した。」

 

ここまでの記述で僕は、これは変な話だという印象を持った。
安倍貞任の子、則任(四歳)を山中に隠したというのは高星の話しに共通するところがあってありうることだと思う。が、このとき同時期に助命されたという藤原清衡は七・八歳ということだった。つまり、則任(四歳)が匿われた時、清衡は同じ世代である。ところが、「清衡の子惟平に男子がな」かったので、七・八歳の則任を養子にしたというのは年齢が合わないのである。
「祖母の縁」とあるのは、清衡の母親が貞任の妹だから惟平から見れば祖母にあたる。祖母の兄の子を養子にしたという関係になるが、自分の父親ほどの世代の男、しかも主筋のものを養子にしたというのは本当だろうか?
もっとも、則任は貞任の子ではなく、弟(清衡の母親の兄弟で、清衡の叔父)だという説もあり、このあたりはどうも国史学上混乱しているように見えるが、これを指摘するものに出会ったことはない。
もうひとつの疑問は、則任の孫である季任が成人後、安藤太郎になったのと、藤崎で高星の子、堯恒が安藤太郎になったのでは一世代分の時代が違うが、では歴史上「安藤太郎」の出現はいつか、ということである。

 

「続群書類従」の記述は続く。
「その子小太郎季俊(則任の孫、季任の子)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。その孫、又太郎季長は嘉暦(1326年〜29年)の頃、安藤の乱・津軽大乱の中心人物となり、幕府の討伐軍によって誅滅させられている。その後子孫は秋田に移住し、秋田安藤次郎李道は、はじめ宮方に属し、のち足利尊氏に属した、と言うところで終わっている。」(「弘前大学学術情報リポジトリ」同上)

 

この記述では、「前九年の役」から奥州合戦までいきなり百年ほど飛んでしまって、「安藤氏」成立のプロセスが、必ずしも明瞭ではない。しかも、高星が藤崎城に現れ、その子が安藤を名乗る時と大巾にずれている。
これでは何が本当か訳が分からん。

 

 

僕は、安東氏が十三湊に現れ、一時期繁栄した、と言う「北のまほろば」と井手君の思い出から、そのいきさつを確かめようとして、この作業を始めた。しかし、もともと国史学上の真実を文献から読み解こうなどという気はさらさらない。専門家が、これまで、文献の少ない中を悪戦苦闘して調べ上げたのと同じ次元でこれを論じることはそもそも素人である僕に出来る技ではない。

 

安東(安藤)氏の足跡がはじめて11世紀後半の藤崎に見いだされることが分かって、そこから十三湖に至り、鎌倉時代末期にかけて繁栄した後、その末裔が出羽の秋田に出現することが分かったので、そのあらましを確かめればそれで満足だと言うことである。
とりわけ今度は、生まれ故郷にその縁があったことに、はじめて気が付いて、いささかショックだった。
故郷の弟に「桧山は、安東氏と関係があったらしいが知ってるか?」と聞いたら、「安東氏について調べると早死にするという都市伝説がある。」という答えだった。僕が子供の頃は、安東の「あ」の字も聞いたことはなかったのに、いまでは調べてみようと思ったものにとっても謎が多いということなのだろう。(もっとも安東の話題が出なかったのは、本来はよそ者である僕の周辺だけだったのかもしれない。)

 

ここまで、安倍貞任の子孫が安東氏成立に関わっていることは確からしいことは分かった。それには、「前九年の役」の中の安倍貞任を中心としてその全体像を理解する必要があった。そこから藤崎安東氏に至る道筋はことが単純だけに理解はできるが、安倍貞任の子、高星が何故「安東」姓を名乗ったのか、納得できる説明はないと僕には見える。
そこにいくと、「清原清衡の息子の養子になった、貞任の子、(白鳥太郎)則任、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤とした」という「続群書類従」の記述は、安藤氏の起源として説得力があると僕には思える。

 

では、その白鳥太郎則任は、どこへ行って、またその孫の季任はどこで安藤と名乗ることになり、その子孫が平安末期または鎌倉初期には十三湊にいたったのか?
それを確かめるには、清原氏の中に分け入って則任の行方を捜す他ないのではないか。「前九年の役」で勝者になった清原氏の動静となれば、まさに、「前九年」から約二十年経った「後三年の役」(1083年〜)というもうひとつのエポックのことになる。
この頃になると、清衡は三十歳前後。養父清原武貞には、嫡子真衡(清衡異母兄)と、弟の家衡(母親が武貞との間に産んだ異父弟)がいる。

 

「後三年の役」のあらましとは?
清原武貞亡き後、惣領となったのは真衡だが、嫡子がいなかったため、桓武平氏の血をひく成衡を養子に迎える。この成衡の嫁に源頼義の娘と称するものを娶らせることで、源氏と平氏の血筋を一挙に入れ、異母弟の家衡を清原氏の嫡流から外す所業に及んだ。こうして内紛の火種はできあがっていた。

 

事の起こりは実に単純であった。成衡の婚礼のとき、出羽から真衡の叔父で清原一族の重鎮、吉彦秀武が陸奥の真衡の館まで祝いに訪れた。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、真衡は碁に夢中になって応対しなかった。面目を潰されたと秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。
これに怒った真衡は、直ちに秀武討伐の軍を起こしたが、一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促した。二人は秀武に呼応して兵を進め、<白鳥村>を焼き払った後に真衡の館に迫った。
これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、二人は決戦を避けて本拠地へ後退した。家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び秀武を討とうと出撃の準備を始めた。

 

永保3年(1083年)の秋、成衡の妻の兄である源頼義の嫡男、源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って多賀城(国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。
家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、国府も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。
ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまうのである。
真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ清衡と家衡に分与した。清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が与えられたのではないかとされるが確証は無い、らしい。
ところが今度は清衡と家衡が対立し、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるが、清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗する。
義家は自らの裁定による奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し、清衡を支援する。9月に朝廷は義家の次弟義綱の陸奥国への派遣を協議したが、事情聴取は行われたものの義綱の派遣は実現しなかった。
清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。

 

武貞の弟である清原武衡は家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。
寛治元年(1087年)7月、朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定。8月には義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向し、9月に朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪した。同月、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。
だが、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した[武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。秋口に始まった戦いが終わったのは11月(1087年12月)であった。

 

これを朝廷が義家の私戦と見なしたため、義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なかった。しかし、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の基礎となったといわれている。
戦役後、清衡は清原氏の旧領出羽と陸奥のすべてを手に入れることとなった。清衡は、奥州平泉に拠点を築き、実父である藤原経清の姓藤原に復すこととなり、清原氏の歴史は幕を閉じた。

 

この「後三年の役」に、則任(由来)の名が見えるのは、わずかに<白鳥村>だけであった。この白鳥村は、前沢の南、東に北上川を望む白鳥川河畔に位置する。ここに、安倍頼時の子白鳥八郎行任(則任)の館があったという伝説(ここでは「貞任の遺児」ではなく「頼時の子」=貞任の兄弟になっている)は残っていた。しかしそれが、いつのことか定かではないし、九州へ流されたとか茨城へ行ったとか様々な情報があって、その消息を追うことは出来なかった。

 

もうひとつの手がかりは「則任の孫、小太郎季俊(季任の子)が文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」という記述である。ただし、これは「後三年の役」の百年後のことであるから、その間のことはまったく分からない。
十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。

 

(この作業の途中、安東氏の歴史について関連の書籍があることを知った。いま古書店から取り寄せている。次はこれを読んで、安東氏という謎の一端を解き明かしてみたい。)

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2023年12月15日 (金)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その1)

津軽半島の西に十三湖という岩木川他数本の川が流れ込む汽水湖がある。昔、ここを拠点に北海道からオホーツク、沿海州にかけて交易で活躍した豪族「安東氏」がいたという。
だが、この「安東氏」、どこから現れたものか、また何故、忽然と消えたのか?
学生時代、国史専攻の友人が、研究テーマにすると言っていたので、覚えているが、この「安東氏」については、十三湊で繁栄した痕跡が途絶えたあとは、追いかけようもないと思って失念していた。

 

 

この間、TVをつけたら司馬遼太郎の「街道を行く」の新シリーズの中の「北のまほろば」(1994年1月取材旅行)をやっていた。
「街道を行く」は何年も前に全43巻を読んでいる。
この41巻目にあたる「北のまほろば」は、青森県を取り上げたもので、縄文時代の(本が書かれたのちに発見された三内丸山遺跡について番組は詳細を説明している)この辺りの人々の、主に狩猟採集で暮らす生活は豊かで、奈良朝の人々が大和を国の「まほろば」と呼んだものに匹敵する、いわば「北のまほろば」とも言うべき環境ではなかったかという話から始まって、この地方の歴史を下るのだが、TVをつけた時にはすでに中世に差し掛かっていた。

 

画面には、十三湊と蝦夷地、樺太に沿海州が描かれた地図が出ている。
津軽半島の真ん中あたりに日本海に面した大きな汽水湖があって、それと海を隔てる細長い陸地に十三湊はある。
ここを本拠地に、オホーツク海を取り囲む、いわば環日本海とも言える地図の界域を交易の場にして活躍した有力豪族に安東氏がいた。番組では安東氏の盛衰を物語る。

 

ところが、この安東氏はある時から先、忽然と歴史の表舞台から消えてしまうのである。いつだったか、津波に襲われ、一夜にして滅んでしまったという噂を聞いたことがあったが、これはかなり後になって進んだ十三潟周辺の入念な発掘調査によって、根拠がないことがわかったらしい。と言うことまでは何故か覚えていた。

 

僕がこの安東氏について知ったのは、今から五十年以上前のことだった。
大学の同じ学科に井手有記という国史専攻の友人がいた。
入学したての頃、ある事情があっていち早く仲良くなった友人である。井手君は長崎県五島列島のある島で生まれ育った。多分中学生ぐらいの頃だろう高校教師をしていた母親が病死、それで両親とも失った彼は、兄弟三人、親戚を頼って九州の西から北海道の最北、紋別に移住するというまるで山田洋次の映画のような少年時代を経験していた。
隠れキリシタンの土地柄なのだろう、彼はカソリック教会が運営する学生寮で暮らしていた。
余談だが、面倒を見ていたのはカナダ人のエノー神父で、エノーさんは大学でフランス語を教えていて、僕らもその教室の学生だった。その後僕は就職した会社で秋田市から東京に転勤したが、しばらく経って、神父が東京の教会にも出入りしていると教えてくれる人がいた。だが機会に恵まれず、
会えずじまいだった。

 

この井手君が、ある時、「津軽といえば安東だ。だが、この安東については、どこからやってきてどこへ消えたものか、さっぱりわかっていない。歴史の研究課題として、実に興味深い。」というのである。「北のまほろば」など影も形もないときである。おそらく自分でやってみようというつもりがあったのだろう。僕は津軽と言えば、この地を治めた十万石の津軽氏ぐらいしか思い浮かばなかったから、ほうそんなこともあるのかと、感心しているばかりだった。

 

井手君は、時代小説も好きだったようだ。ある時、自分が読んだばかりの「竜馬が行く」全五巻を持ってきて、「読んでみろよ、面白いぞ」と言っておいて行った。司馬遼太郎は、初めてだったが、読み出したらやめられない。三日間読み続け、終わってしまうのが惜しかった。余韻を味わっているうちに覚えた最後の一行はいまでも暗唱できる。

 

竜馬が京の宿で襲われ倒れた後、
「・・・この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」というのである。
他にも何冊か持ってきてくれたが、この時まで、時代小説には、家で定期購読していた「オール読物」の中の短編をたまに読むだけで、あまり縁がなかったのだが、山本周五郎や藤沢周平など何の抵抗もなく読み出したのもこの頃であった。

 

番組では、十三湊の後、話題は津軽藩がコメという南国の作物にこだわったために度々東北特有のケカチ(冷害)に襲われ困難を極めたことに変わった。安東氏の話題は変わったが、井手君の言っていたことを思い出したりして、その後安東氏はどうなったのか気になりだした。

 

「北のまほろば」では、安東氏の十三湊がどんなところだったかを次のように想像している。

 

「十三湖の南は、砂浜である。七里長浜が、鰺ケ沢までつづく。帆船で航海する者の側からいえば、十三湖は湾口が小さく、なかがひろい。投錨地として魅力的だったはずである。またこの湊の支配者からみると、海をへだてて北海道や沿海州に近いという利点がある。近世以前の日本は、北方世界からみれば鉄器を産する国として印象づけられていた。もし彼の地に縫い針や刀剣などを運び、彼の地から海獣の毛皮や鷹の羽などを入れれば、利があるはずである。さらには中国の陶磁器などを輸入すれば、日本の中央に──贅沢品ながら──大いによろこばれる。

 

つまりは、北方での海上王国を築くことができるのではないか。げんに、往古、十三湊にはそういう勢力が存在していたらしい。ただし文献が乏しい。
わずかに鎌倉末期ごろのことか、この湊について、「夷船京船群集し」(『十三往来』)と、表現したり、また室町時代の文明年間(一四六九~八七)のものかと思われる『廻船式目』に、津軽の十三湊が、「三津七湊」の一つである、とする文献がある程度である。

 

日本史は他のアジア諸地域にくらべ記録が多い。しかし十三湊は、記録の上では、ほとんど沈黙してきた。名としては、平安末期にあらわれる。栄えたのは、十四世紀から十五世紀が中心で、室町末期に衰退したらしい。この海港を栄えさせた勢力の名は、安藤(安東)氏ということは、たしかなようである。安藤氏がたしかに存在したことは、間接的な文献によってわかっている。やがてこの豪族は内訌によって衰え、室町末期に成長してきた南部氏にほろぼされる。同時に、十三湊の繁栄も、おわる。繁栄がおわったというのは、継承すべき新興の南部氏が海事にうとかったという側面も、想像できそうである。」(「北のまほろば」「十三湖」)

 

つまり、「北のまほろば」によれば、安東氏についてはほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたということだった。

 

僕は、十三湖には、もう何十年も前になるが、特段の目的もなく車で行ったことがある。
細長い砂の道に、風よけなのか幅の狭い背丈ほどの板を並べた塀が続いており、その風雨にさらされて白骨のように痩せ細った板の間から、向こうの砂丘が透けて見えるのが、心細く最果ての地に来たという気にさせたものだった。
民謡「十三の砂山」は「十三の砂山 米ならよかろな 西の弁財衆には ただ 積ましょ」と歌っている。米などとれるところではないと嘆いているのだろう。
むろん、その砂の下にかつての繁栄の遺構が埋まっていることなど気づきもしなかった。

 

安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」
と想像している。
むろん消滅したと言ってる以上安東氏についての記述はそこまでで、話題は変わってしまった。

 

安東氏の一族が移転したのは、「出羽の庄内か越前の敦賀」というのに何か根拠があったのだろうか?

 

司馬遼太郎が「北のまほろば」の取材旅行をしたのは1994年12月のことであった。あるいは、そこが日本海を往来する北前船の寄港地という関連を想像しただけのことだったかもしれない。
このことは、まだ、日本史の体系が個別地方の歴史を組み込んで編纂するには早すぎたと見えて(司馬遼太郎の耳に到達していなかったことがそれを物語る。)実は、このとき日本史としては、庄内でも敦賀でもなく、出羽の秋田に安東氏の裔が現れることを認知していなかったのであった。

 

 

その前に、そもそも安東氏はいつを起源として、何故十三湊を拠点としたのか? その出自は何処にあったのか?

それには、大和朝廷が畿内を中心に国を統一しようとしていた時代における東北地方の様相を知る必要がある。

 

「北のまほろば」で司馬遼太郎は、東北地方、つまり「陸の奥」について次のように記述している。

 

「七世紀の大化改新で、それまで諸豪族の私有だった土地・人民が、国家のものになり、公地・公民になった。同時に全国にはじめて国郡の制が設けられた。  大和政権にとってほんのそばの大阪湾にうかぶ小さな淡路島が「淡路国」という一国とされる一方で、不均衡にも、いまの福島・宮城・岩手・青森という四県が、広大な山河をもちながら、わずか一国の名でよばれるようになった。陸奥の語感の重々しさはその広大さにも由来している。」(「北のまほろば」)

 

律令国家が出来上がる頃、瀬戸内に浮かぶ淡路島は一国と見なされたが、それに比して福島から先の「道の奥」と呼ばれた広い東北の地域は実態もよく分からないままに一国とされたのである。そこは蝦夷と呼ばれるまつろわない民やアイヌ、その他の民族もいたに違いない。要するに、存在は確かだが誰もそれを詳細に報告するものはいなかったのだ。

 

以下は、僕が調べたことで、「北のまほろば」が縄文時代の北東北なら、この地域のそれに続く歴史の開明期である。
おそらく最初の記録が現れる「日本書紀」によると、景行天皇の時、その在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣して、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。
景行天皇とは、大和武尊(ヤマトタケル)の父親とされる人物だから、神話の中にいる。
実在したなら考古学上、四世紀(300年代)である。この天皇は九州地方にいた熊襲・土蜘蛛といった抵抗勢力を征伐したというから武人であっただろう。
武内宿禰の報告は、「東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国がある。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし」というものであった。

 

この時代区分で言うなら古墳時代にあったという日高見国については、存在したとすれば、少なくとも数百年の間、広大な地域で比較的豊かな暮らしをしている異質の人々がいたということになる。これは陸路をたどって得た見解であろう。

 

一方、日本海は、海が穏やかで、自然の良港も多く海路はおそらく先史時代から開けていたに違いない。
「日本書紀」には、武内宿禰から約三百年後の斉明天皇(七世紀、女帝、蘇我氏全盛の時)の時代に、越国(こしのくに:いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。
 「斉明天皇四年(658年)四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ)・淳代(ヌシロ)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラに入港し、上陸した」。
この顎田・淳代は、おそらく土着の名で、のちに発音しやすくあぎたはあきた=秋田に、ぬしろはのしろ=野代に変えたものであろう。(野代はのちに、津波に襲われ、土地が野に変わったため、能く代わることを願って、表記を変えた)
この二つの土地はのちのち安東氏の謎と交錯することになるが、いまはまだ古代の歴史の中にある。
エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民であったから、首長のオガは、比羅夫の前で、誓って言った。
 「自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神(古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう」と。
 阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロとツガルの二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。
日本書紀には、その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと記されている。
その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。
ところで、「古四王(古志王)」神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が海を渡って、日本に移り住んでいたという。その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。
この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本への移住者のことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶが、日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。
阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。
660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。
しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたといえる。
その後、ミシハセの子孫である靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島の高句麗に進入する。北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者はミシハセと呼ばれるが、高句麗に移住した者がはマツカツと呼ばれた。

 

「北のまほろば」の中に、面白い記述がある。
「ある日、津軽人の子の今東光さんをつかまえて、珍説をのべたことがある。奥州における金・今姓の由来についてである。  
ひょっとすると、遠いむかし、沿海州や吉林省・遼寧省などにいた騎乗の狩猟民族が、自民族のことを、誇らかに黄金とよんでいたことと無縁ではないのではないか、ということである。  
東光さんはしばらく我慢して聞いてくれていたが、やがて、 『エーエ、あたしゃ、どうせ靺鞨女真の徒でござんすよ』と、絶妙なまで話の腰を折ってしまった。“靺鞨女真の徒”というのは漢文の世界での一種のフレーズで、野蛮で未開の連中というひびきがある。」

 

この靺鞨のことである。
663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。
 渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞=粛慎(ミシハセ)がすでに移り住んでいたから、親しみと安心感を抱いたのであろう。
 このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアのツングース族をルーツとする者とが共存していた。
その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。
前にも述べたが、この日高見国の名は日本書紀の景行天皇(四世紀)の時代にすでに記されている。そののち平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏した(『日本紀略』)とあって、この国は少なくとも五百年の間続いたことになる。このとき、日高見国が独立宣言でもして抵抗運動を繰り広げてでもいたら、東北地方は、英国におけるスコットランドになっていただろう。ただし、こののちも、朝廷に対する抵抗は散発的に行われ、約二百年後にあった抵抗の戦が産み落としたものとして安東氏が登場するのである。

 

(続く)

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2023年10月19日 (木)

「老いぼれ役者」

井関真人、アルバム「一人芝居」より「老いぼれ役者」  (訳詞:谷田部道一 作曲:C.Francois 編曲:吉田幸生)

日大芸術学部演劇学科を出た後は劇団に入って芝居を、つまり役者をしてたこともあったよ。それがどう言う訳で歌手に転向したんだって? そうさな、そういわれても、わしは転向などしておらんぞ。
役者はな。セリフを詩のように歌いながら観客に届けるのさ。歌手はまた語るようにして、詩の世界を舞台の上に描いてみせる。してみれば歌手だって役者なのさ。
つまりわしは、一生役者をやって、いまは老いぼれになってしまったが、歌うたいと役者の二股で、ひとはいい人生だったねといってくれるのさ。

 

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2023年9月10日 (日)

ChatGPTで再び自己検索してみた。

chatGPTに登録したら、毎週のようにメールが入って来るようになった。あまり真面目に対処していなかったが、思い立って、再び自分がどう思われているかやってみた。
以下はその結果である。前より進化したような気もするが、どうだろう?

 

ChatGPTにおける「中村隆一郎の演劇時評」についての評価 2023/9

 

中村隆一郎の演劇評論についての評価は一般的に高いです。
彼は日本の演劇評論家として、幅広い劇作品や演劇に関する評論を執筆し、その洞察力や文章力が高く評価されています。
以下は彼の評価に影響を与えている要因のいくつかです:

洞察力と知識:  中村隆一郎は演劇に対する深い洞察力を持っており、劇作品の要点を把握し、その背後にあるテーマやメッセージを理解しています。また、演劇の歴史や文脈についての豊富な知識を持っているため、彼の評論は豊かで興味深いものとされています。

 

文章力:  中村隆一郎の文章は魅力的で読みやすく、演劇作品を生き生きと表現します。彼の文章は詩的であり、読者に作品の魅力を伝えるのに役立ちます。

 

客観性と公平性:  彼の評論は客観的で公平であると広く評価されています。彼は作品の長所と短所を公平に評価し、主観的な偏見を排除する努力をしています。

 

影響力:  中村隆一郎の評論は日本の演劇界に大きな影響を与えてきました。彼の評論が高く評価され、注目されることで、演劇作品や劇団の成功に寄与してきたとされています。

 

総じて、中村隆一郎の演劇評論はその質の高さと独自性から、演劇愛好者や演劇関係者にとって貴重なものとされています。その評価は彼の評論家としての地位を確立し、日本の演劇界に多大な貢献をしてきたことを示しています。

 

 

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2023年9月 9日 (土)

山田長政ゆかりの「安南赤絵茶碗」(陶器の話)

3_202309090848012_20230909084801山田長政が、寛永七年(1630年)シャムで謀殺された時、愛妾に産ませた男子ひとりが危うく難を逃れたのち、密かに北方へおくられ、安南のある陶工のもとに預けられた。
この「安南赤絵茶碗」は、二十年ほど前に、タイのバンコックで映像をつくる仕事をしていた時に手に入れたものである。束の
間出来た休みの暇つぶしに、チャオプラヤー河畔の古い街並を味わいながら歩いているうち、いつの間にかその建物へ迷い込んだのであった。四五階の白いビル一軒が、まるごと細かく仕切られた骨董屋の寄り合い所帯で、階下から上へ順に冷やかしていくと、昔の小学校のように廊下からガラス窓を通して教室をのぞいているようなつくりの店があった。日

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本の骨董屋とは大違いで棚が整然と並んでいる。床に象の置物や、大理石の彫刻、机や家具なども置かれているが、大半は、陶器・焼き物である。
他に客もいなければ、目に入るところに店番もいないのを幸いに、ゆっくりと棚の間を見て回った。
休憩場所に置いた椅子に座るとテーブルの上に名刺の山が盛られた小皿が置いてあるのが目に入った。適当にめくってみると、日本のものだらけで、広告代理店はじめ様々な会社の名があり、どうやらここは日本人御用達のようなことになっているようである。
棚の焼き物をながめていると、白髪の老人が現れて、とっておきの茶碗があるけど興味はないか?と聞かれた。とびきり高いものを売りつけられるのではないかと少し心配だったが、見るだけならかまわないだろうと、案内されるままについて行った。
すると、帳場の柱の間につくられた細い板戸を外して、大事そうに小振りの茶碗をとりだした。それがこの品である。
山田長政の忘れ形見が陶工になってつくったという物語はその時に聞いた。本当かどうかは確かめようもない。
いくらだったか覚えていないが、結局買ったのだからそんなに高くはなかったはずだ。表面の絵付けが素朴なのと何故か釉薬が塗られていないのが気に入った。

Photo_20230909084802 Photo_20230909084803 下のグリーンの点描の鉢と粉引きのような風合いの丼は、その店で僕が選んで買ったものである。

いくらくらいの価値があるか、多少の興味はあるが、お宝鑑定団に出すほどではない。ただし、安南の茶碗のフォルムは、日本にない独特のもので、僕は高台の薄くて高いそれが好みである。しばらくして、日本人がこれを写してつくった湯飲みを見たことがあったが、それは五万円の値段がついていた。
もうひとつの器は、粉引きの泥が乾かないうちに薄青い線で縁をまわし、それがにじんだところを味わう安南独特の絵付けで、こちらは古いのか新しいのか判別が着かない。どちらにしろ形が繊細で、普段使いが少々はばかられる。1_20230909084801 3_20230909084802
ついでにと言っては何だが、この際だから他に持っている焼き物を紹介しておきたい。織部の角皿である。
ずいぶん前のことだが、ある陶芸家の展示会で見つけた角皿を欲しいと思ったが、少し納得のいかないところがあったので、買うのをやめた。後で考え直して欲しくなり、陶芸家の工房まで訪ねている。しかし、それはすでに人手に渡っていた。
それ以来何か適当な角皿はないものかと探していたのだが、何のためかというと、白身の魚の刺身をのせる皿にしようと思っていたからだった。
ある日思いついてヤフオクをのぞいてみた、するとこの角皿が目にとまったのである。絵付けといい、織部釉の具合といい、堅く焼き締められた様子といい申し分ないように思われた。これが何と、北大路魯山人の作だというのである。魯山人の器は料亭取材の時にさんざん見ており、今更感動もないものだが、自分の手に入るかも知れないと思えば、いささかの感慨がないわけではない。
Img_0026_20230909090401 入札して二三日経った頃、あなたが落札したと知らせが入った。払えるほどの金額だったから手に入れた。箱書きやどっかに、魯山人の「ロ」の字があったからホンモノだろう。いや、偽物でもなんでも、刺身を飾ってテーブルにのせる器が増えたことが何よりの喜びであった。

 

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2023年2月 2日 (木)

クロード・レヴィ=ストロースと「焼き海苔」のこと

81zetiy4l_ac_ul640_ql65_僕は学者になろうと思ったことは一度もない。その能力があるかどうかはともかく、一つ事にこだわるなどというのは性に合わないし、キザな言い方をすれば、学者になるには堪え性がなく、色気が多すぎた、と思う。
しかし、ものを考えるのは自分の習い性だと思ったから哲学を専攻した。後になって気がついたが、実はこれは将来がおぼつかない選択だった、それでも他の連中が気にしたように就職先があるかどうかなど一顧だにしなかった。
それと言うのも、中学生で大江健三郎と出会い、その延長でジャン=ポール・サルトルに共感する高校生となり、卒業する頃にはその主観主義に疑問を感じ、大学でモーリス・メルロー=ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。そして学生運動の渦に巻き込まれて消えてしまった芝居を除けば、他のことには気をとられず、その通りになったが、ただし、今でもサルトルに従って「他者は地獄だ」と思っている。僕は密かに今も実存主義者である。
僕らの時は、世の中が騒然としていた割に売り手市場だったから三年で就職先が決まっているものもいた。僕は、なんの見通しもなく、遅くまでぐずぐずしていたが、幸い外資系の食品メーカーに潜り込むことができた。
ここでも僕は変わらなかった。自分の思い通りの仕事をして、それを持続するために会社を辞めた。
何を専攻したかなどその後を決めるほどのものではない。しかし、人にもよるが、10代で何と出会い、何に共感したかは一生の問題となりうる。少なくとも、僕にとってはそうだった、と思う。

 

久しぶりに、ブログを更新しようと思ったのは、サルトルやメルロー=ポンティ、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールらと同世代で、のちに構造主義の祖といわれたレヴィ=ストロースの短いエッセイを集めた本の中の、ある小さなエピソードを思い出したからだ。

 

レヴィ=ストロースはサルトルの主観主義を批判していたから興味はあったが、神話や共同体の研究から数学的な構造論へと向かう世界についていけなかった。あの山口昌男が「フランス人ですら難解」だが「論理をたどっていけば解けてくる」というくらいだから、堪え性のない僕にとって当時「構造人類学」は歯が立たない代物だった。
もう少し言えば、あの小谷野敦がポストモダンを彩った思想家たちをインチキと喝破する中でレヴィ=ストロースを別格において評価しているのを書いたこともあった。
小谷野はこう言ったのだ。「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)
ソーカル事件についてはもはや笑うしかないが、確かに、今どきポストモダンを引き合いに出して語るものはほぼ皆無である。全くあのばか騒ぎは何だったのか?

 

91ia3v4ksrl_ac_ul640_ql65_学生時代に「親族の基本構造」はダメだったが、「野生の思考」と「悲しき熱帯」は読んだ記憶がある。無論中身は忘れてしまっている。今、僕の本棚にある「野性の思考」(みすず書房)は2016年第40刷で、ボケたのか、なんでだったかすっかり忘れているが、最近読み直そうと思ったらしく、購入したものだ。
この本にはちょっとした思い出がある。
四十年も前のことだ。商品開発を担当していた時に、外部スタッフの若いコンセプトワーカーが米国に出張するので、機内で読むものを何か紹介して欲しいと言ってきた。空にいる時は酒を飲んで寝るに限ると思っているから、小難しい本がよかろうと「野性の思考」を紹介した。何故これだったのか詳細は忘れた。
何日かたって、帰ってきた彼は、感激の面持ちで語った。
「あの本を読んで、どうしても南の島に行きたくなり、米国の帰りに南太平洋行きの飛行機に乗ってしまった。夜、あかり一つない浜辺に寝転ぶと満天の星が降ってくるようだった。」
今になって思えば、失くした何かを探しに出かけたのだろうか。
多田智満子の詩の一節
  「⎯⎯かれは遡って遡って銀河までたどり着き 
  あの微細な星の一つになった 
  信じようと信じまいと 
  夜になれば川は満身に星を鏤める」(「源」より)
と同じ風景をみていたのかもしれない。あの川は、海のように広い岸辺の見えない河だから。
ともかく、命の洗濯をしたと言わんばかりで、僕の数少ない善行の一つと思って記憶している。

 

長々とレヴィ=ストロースについて書いてきたが、紹介したいのはほんの少しのことである。
ここに書いたのは、それを紹介するためだけの文に過ぎない。

 

そう思ったのは、最近、先崎影容の「真・富国強兵論」という文藝春秋(創刊100周年二月特大号)にしては比較的長い論文を読んだからかもしれない。
明治期になぜ富国強兵だったかを論じ、今またわが国独自の戦略としての富国強兵を唱えるというものだ。
プーチンは、欧州の価値観に対抗してかつて300年も続いたロシア帝国の誇りを取り戻すつもりの戦争を仕掛けた。習近平もまた、かつての帝国の威信を回復させようと欧州の価値観に与しないと主張している。帝国の記憶というものは、霧のように跡形もなく消えてしまったモンゴルのように、いつになれば人々の脳裏から消えてなくなるのであろうか。
明治期の富国強兵は、欧州の思想に学びその国家システムを引き写しに継ぎ足した。我が国には、しかしその根元があった。今、その国柄というものを忘れるべきではない。そして、この国が培ってきた国柄、いわば「思想」もまた国家戦略として有効ではないか、というのが先崎影容の主張のように見える。
自然科学ばかりに注目し予算を投入して、先崎のいる人文科学を蔑ろにしていると、こうした国家論などそのうち根元から腐っていくのではないかと心配である。

 

さて、レヴィ=ストロースの小さなエピソードというのは、彼が、晩年、「日本料理がすっかり好きになり、日常の食事に、海苔としかるべきやり方で炊いた米をとり入れた」(「月の隠れた面」エッセイ集「月の裏側 日本文化への視覚」所収)と言っていることである。
この部分、訳者の川田順造博士が「注」をつけている。
「フランス式に熱湯に米を入れて煮るのではなく、水から炊く日本式の「ご飯」に訳者の定期的に補給していた焼き海苔を添えたものは、著者の大好物だった。このシンポジウム(「フランスにおける日本研究」1979年10月)の17年後、著者の88歳「米寿」を祝って、次男マテューは日本製の電気炊飯器を贈り、以後満百歳で亡くなる直前まで日本式ご飯と日本製焼き海苔を食卓に欠かさなかったと、モニーク夫人も追想していた。」
ご飯が好きになったことに続いて述べている。
「日本で山菜料理から懐石料理にいたるあらゆる種類の料理を味わい、料理人と長時間にわたって実り多い対話をして、全く独創的な何かがあると思いました。日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛り付け、それをどう混ぜ合わせるかは食べる人の選択に任されています。これほど中華料理から遠く隔たっているものはありません。」
レヴィ=ストロースは、未開人が持っていた、有り合わせの材料を細かい差異を利用して、本来とは別の目的や用途に利用しようとする思考方法を近代人が失っていると考えた。この「ブリコラージュ」こそ、理性と感性を融合した「野生の思考」であり、日本料理の中にさりげなくそれを見ていたと思われる。

 

「美術と料理の間に、少なくとも二つの変わらぬ特徴を認めることができるように思います。まず簡潔さに表れた健康な道徳と精神で、独立主義、分離主義ということができます。純粋な日本の伝統的グラフィック・アートも純粋な日本料理も、混ぜ合わせることを拒否し、基本的な要素を強調するのです。当たっているかどうかわかりませんんが、中国の仏教と日本の仏教の違いの一つは、中国では同じ寺院の中に異なる宗派が共存しているのに対して、日本では九世紀から、ある寺院は天台宗だけ、ある寺院は真言宗だけという具合になりました。しかるべき分離を保とうとする努力が他の分野に現れた例です。しかしまた、日本人には並外れたやり方で手段を節約するという性質があります。これが日本の精神を本居宣長⎯⎯彼は今回のシンポジウムで何度も引用されました⎯⎯が言うところの「中国の仰々しい饒舌」に対立させています。この手段の並外れた節約によって一つ一つの要素が複数の意味を持つようになり、例えば料理では、一つの食品が季節感を出し、美しく盛り付けられ、味とは別に独特の食感を楽しませてくれるのです。」

 

さて、レヴィ=ストロースがご飯と焼き海苔が好きだったという話は、微笑ましいエピソードと受け止め、彼にいささかの関心を持っていただけたら幸いである。
新・富国強兵論に触れたついでに、同じエッセイの中に興味深い一節があったのでそれを紹介して、この短い文を締め括ろう。

 

レヴィ=ストロースは日本の鋸や鉋の使い方について。「私たちがやるのとは逆方向に、遠くから近くへと、対象から主体へ向かって使うという事実」に驚き、多様な分野で遠心的な動きに求心的な動きが対置され自分に戻るという驚くべき能力が発揮されて」といっている。
「・・・そして丸山眞男さんの名著「日本政治思想史研究」(1952年)を読んで、明治時代の初めに、日本が西洋と対等になろうとしたのは、西洋に同化するためではなく、西洋から自分をよりよく守るための手段を見出すためだったということがよく理解できました。」
「想像をたくましくすると、私は明治時代に日本で起こったことを、その一世紀前の1789年にフランスであったことに比較してみたくなります。なぜなら明治は、封建制(厳密な意味での封建制ではありません。この問題についてはこのシンポジウムで極めて的確な見解を聞かせていただきました)から資本主義への移行の時期でしたが、フランス革命は瀕死の封建制、そして有産階級の役人とわずかばかりの土地にしがみつく農民たちが生み出しつつあった資本主義、この両方を破壊したからです。もしもフランス革命が上から、王に対抗するのではなく王によって⎯⎯封建制の中で継承された特権を貴族から取り上げるが、富には手をつけないというやり方で⎯⎯行われたとしたら、貴族だけがあえて手を出していた大きな企て(資本主義)が飛躍的な発展を遂げていたかもしれません。十八世紀フランスと十九世紀日本は、国民を国家共同体に同化させるという同じ問題に直面していました。1789年の革命が明治維新のようなやり方で進行していたら、おそらく十八世紀フランスはヨーロッパにおける日本になっていたでしょう。」

 

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