カテゴリー「文化・芸術」の19件の記事

2026年4月11日 (土)

懐かしき恋人の歌(ジャック・ブレル 1967年 )

懐かしき恋人の歌(曲:ジャック・ブレル 訳詞: 矢田部道一 1967年 )

 

ゆるやかな月日が 僕を包んでいる
しあわせに囲まれ 僕は暮らしている
だけどふと気がつくと 
二十歳の日々をふり返っている
あれからもう長い月日が過ぎ去っているのに
Oh mon amour
限りない優しさで 君を愛しんだ日々
Je t’aime 今でも君が好きだ

 

愛し合う二人が なぜ別れたんだろう
諍いの嵐が 吹き荒れた日もある
何もかも捨てて 僕は飛び出し また
また帰ってきた 君もまた 幾度荷物をまとめ
飛びだしただろう
mon amour
限りない優しさで 君を愛しんだ日々
Je t’aime 今でも君が好きだ

 

仕合わせな月日を君は過ごしている
仕合わせな月日を僕は過ごしている
なのにどうして 
二十歳の日々をなつかしむのだろう 
優しさにあふれ おそらく君も思い出すだろう
Oh mon amour
限りない優しさで 君を愛しんだ日々
Je t’aime 今でも君が好きだ

 

La chanson des vieux amants (懐かしき恋人たちの歌)

Bien sûr, nous eûmes des orages
Vingt ans d'amour, c'est l'amour fol
Mille fois tu pris ton bagage
Mille fois je pris mon envol
Et chaque meuble se souvient
Dans cette chambre sans berceau
Des éclats des vieilles tempêtes
Plus rien ne ressemblait à rien
Tu avais perdu le goût de l'eau
Et moi celui de la conquête

 

Mais mon amour
Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour
De l'aube claire jusqu'à la fin du jour
Je t'aime encore tu sais
Je t'aime

 

Moi, je sais tous tes sortilèges
Tu sais tous mes envoûtements
Tu m'as gardé de pièges en pièges
Je t'ai perdue de temps en temps
Bien sûr tu pris quelques amants
Il fallait bien passer le temps
Il faut bien que le corps exulte
Finalement, finalement
Il nous fallut bien du talent
Pour être vieux sans être adultes

 

Oh, mon amour
Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour
De l'aube claire jusqu'à la fin du jour
Je t'aime encore, tu sais
Je t'aime

 

Et plus le temps nous fait cortège
Et plus le temps nous fait tourment
Mais n'est-ce pas le pire piège
Que vivre en paix pour des amants
Bien sûr tu pleures un peu moins tôt
Je me déchire un peu plus tard
Nous protégeons moins nos mystères
On laisse moins faire le hasard
On se méfie du fil de l'eau
Mais c'est toujours la tendre guerre

 

Oh, mon amour
Mon doux, mon tendre, mon merveilleux amour
De l'aube claire jusqu'à la fin du jour
Je t'aime encore tu sais
Je t'aime

| | | コメント (0)

2025年10月 2日 (木)

村上春樹の立ち位置

41z6b4xhtjl_ac_ul640_ql65_ 僕がかつて書いた「『井上ひさしさん、お別れの会』(丸谷才一)の近代文学史」 と言う文章の中に村上春樹について書いた部分があるが、なぜ彼はノーベル賞に遠いのかがわかるかもしれないので、今回はそこを抜き書きして紹介しようと思う。

 

丸谷才一が、「お別れの会」で読んだ追悼文の中で、井上ひさしの日本文学史における立ち位置を確かめようとして、平野謙の見解を参照している。
平野謙は、1930年代初頭の日本文学について芸術派と私小説とプロレタリア文学が並び立っていると見ている。丸谷才一は、この図式は現在にもあてはまるのではないかと考えた。

 

「芸術派にあたるのはモダニズム文学で、代表は村上春樹の、アメリカ批評の用語で言えばロマンスでしょう。私小説は、作者身辺の事情に好んで材を取るという 意味で大江健三郎ではないか。そしてプロレタリア文学を受け継ぐ最上の文学者は、井上ひさしに他ならない。その志は一貫して権力に対する反逆であり、常に 弱い者の味方だった。」

 

僕はこの見解に違和感を覚えたので、多少の異を唱えたのであるが、その主な理由は以下のようなことであった。
大江健三郎は『個人的な体験』以来確かに『作者身辺の事情に材をとる」ようになったが、それには個人的なものを普遍へと昇華させようという意思が見られ、それ杖私小説の枠には入りきれない、と言ったのである。また、プロレタリア文学の要件は、イデオロギーにあるが、井上ひさしの作品に、それはまったく見られない。従って、『反権力』だからと言って、プロ文の系譜に入れるには無理があるといったのだ。
そして、芸術派であるが、平野謙は、これをイデオロギーに囚われない、いわばプロ文には反対の作家たちをまとめる名称として提示した。それがモダニズム文学として現代に継承されていると丸谷は指摘したのである。その代表が、村上春樹だと言ったのだが、では、モダニズム作家にはほかに誰がいるのかといえば、思い当たる節がない。村上春樹はだれも仲間のいない孤高の作家ではないか?では、モダニズム文学とは何か?「アメリカ批評の用語で言えばロマンス」だというがなにを意味するのか、もはや理解不能である。

 

そして、以下が、芸術派とモダニズム文学、そして、村上春樹に対する僕の見解である。

 

ところで、言おうか言うまいか迷っていたことがあったが、ここまで書いた以上思い切って述べることにする。
私小説とプロレタリア文学について「現在に当てはめる」のは無理があると言った。では残る「芸術派」についてはどうかと言うことである。

村上春樹についてはあまりまともに読んでいないので、書くのをやめようと思ったのだが、村上春樹と芸術派が対応関係にあるのかということなら一言言っておこうと思った。つまり、それで「平野謙が見た戦前の図式」が「現在にはあてはまらない」という僕のささやかな仮説の証明にとって必要十分条件を満たすというわけである。

(以下は、閑談と思っていただきたい。)
村上春樹の出発点にあるのは、明らかに現代の米国文学である。それもフォークナーやジョン・スタインベックなどの正統的米国文学あるいはヘミングウエイらのロストジェネレーションと呼ばれる作家たちの伝統とは一線を画すと言ってもいいマイナーなジャンルの小説の影響を受けて小説を書き始めたのだ。

典型的には、「ニューヨーカー」に短編を寄稿していた作家たちの作品、たとえばサリンジャー、カート・ヴォネガット、ジョン・アービング、ジョン・アップダイク、アーウイン・ショーといった一連の都会派小説といわれるものである。最近レイモンド・チャンドラーの翻訳をしたところを見ると、米国ミステリーやハードボイルドにも関心があることをうかがわせる。

おそらく村上春樹は、こういう小説がなぜ日本にないのだろうかと疑問に思い、それなら一つ俺が書いてみようと思ったに違いない。その気持ちは、実はアーウイン・ショーを耽読した時に僕が感じたことでもあった。いや、むろん本気ではなかったけれど、米国大陸の乾いた風土でなら可能かも知れないが、我が国のような高温多湿の気候では成立しないかなどと考えていた。

こういうものを戦前の日本文学に見つけ出そうにも皆無である。無理矢理こじつければ井伏鱒二か太宰かと言うことになるが、潮流と言うにはあまりに心細い流れである。つまり、芸術派すなわちモダニズムと言ったところで、所詮私小説にもプロ文にも分類できないものを集めてまとめてみせただけで、何が本流なのかわかりにくいのである。

わかりにくいが、逆に追いかけて現在の(といってもすでに二、三十年は経過してしまったが)米国の都会派小説は、平野謙が見ていた三十年代のモダニズムのどこにつながるのか考えてみてもいい。

あの当時の日本文学の、いや平野謙当人のと言ってもいい、視野の中に欧州文学はあっても米国文学があったとは思えない。日本文学史は、米国文学に関心がなかったのである。

少しせっかちなまとめ方をすると、日本において、米国文学のしかもそのマイナーな部分を面白がって、その影響のもとに創業して成功したのは村上春樹が最初で、それは日本文学史の伝統にはないオリジナルの位置にある。

 

ところで、日本文学史が米国文学に関心がなかったのは、日本に「芥川賞」と「直木賞」があったからだ。この二つの賞は、希代のマーケティング・プランナーである菊池寛の発明だが、もう役割はとっくにすんでいるどころか我が国小説界に悪しき毒素を振りまいている。

かつて、ある出版社が現代日本文学全集を編むことになって人選をはじめたら、三島由紀夫がいいだした。松本清張を入れるなら俺は降りる。そこを何とかと言っても断固たる態度で聞き入れてくれない。大衆小説と純文学を一緒くたにされたくないという三島の考えだろうが、少なくとも清張は芥川賞作家である。柴練や五味耕祐(受賞しているが、あとで剣豪小説と占いに転向?した)とは違うのだ。結末は確か清張が苦笑しながら降りることを承知したのであった。

米国文学にはこんなくだらない分類はない。しかし、日本文学史は、大胆なことを言いますと、米国文学を全体としてなんとなく「直木賞」のジャンルにみていた。有り難くなかったのである。だから相手にしていなかった。村上春樹だって最初は遠巻きに見られていたし、芥川賞だってくれてやらなかったではないか。

 

文芸誌の衰退ぶりについてはすでに述べたが、三十年代の文学地図を片手に現代文学の案内をしているようでは回復の兆しは見えないと言うべきだろう。何でも衰退しているものの処方箋を考えるくせがあるもので、考えてみたのだが、文芸誌にとって必要なことは、ジャンルはあまり気にしないで、面白がる第三者をたくさん育成することだろう。つまり、小難しい文学談義はやめにして、批評家を育てることだ。もうひとつは、哲学、思想界にすんでいる人々との交流を盛んにして、作家と批評家の思想を鍛錬することである。
そして、もはや影も形もない文壇なるものにとらわれない広い視野で文学史を編み直した方がいいと思う。(当事者でもないのに余計なことを言ってしまった。)

 

村上春樹の言動にたいして関心はなかったが、最近、エルサルム賞を受賞したことをニュースで知った。これはイスラエルが与えるものだから、イスラム圏を敵に回すおそれがあって、考えどころだったが熟慮の末に受けることにしたと言うことらしい。
そこでの挨拶が見事であった。

 

<挨拶文>
 「受賞の知らせを受けたとき、ガザで戦闘が続いていたこともあり、この地を訪れることを警告されていました。私は自問しました。イスラエルを訪れることは適切なのだろうか?どちらか一方の側に味方する行為にならないだろうか?
 じっくり考えました。そして、来ることにしたのです。多くの作家がそうであるように、私も他人に言われたことと反対のことをするのが好きなのです。これは、作家としての習性なのです。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を信用することができません。だから私は見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。私が話したかったのはこういうことです。
 もし、硬くて高い壁があって、そこに卵が投げつけられていたら、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。
 なぜか?なぜなら、我々はみな卵だからです。かけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。我々は、誰もが高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一人の人間としてやるべきではないと思うようなことまでやらせようとするシステムのことです。
 
私が小説を書く目的は一つしかありません。それは、個人の中の無二の神性を描き出すことです。唯一無二であることを祝うためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから、私は生きること、愛することの物語を書くのです。人々を笑ったり泣いたりさせるように。
 我々はみな同じ人類であり、独立した人間であり、壊れやすい卵です。壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて、あまりに冷たいのです。壁と戦うには、我々は魂を一つにし、温めあい、力を合わせなければなりません。システムに主導権を握らせてはいけません-システムに我々がどんな人間かを規定させてはいけません。我々がシステムを規定するのです。
 あなた方に感謝します。イスラエルの皆さん、私の本を読んでくれてありがとう。何か意義深いことを分かち合えたら、と思います。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。」

 

井上ひさしの作品が「一貫して権力に対する反逆であり、常に弱い者の味方だった。」という評価に一脈通じるものがあると思いませんか。
この一点で、村上春樹をプロレタリア作家の裔と言ってもいいくらいだ。(いや、これは冗談!)

 

ここまでが、僕の「『井上ひさしさん、お別れの会』(丸谷才一)の近代文学史」の中の文章である。
ところで、村上春樹がノーベル賞を取るのではないかと長年期待されてきたが、一向にその気配がない。そのうちに、ボブ・ディランが受賞するという椿事が起きていったい何事か?と思われたが、その後平静さは取り戻された。
で、村上春樹の受賞だが、なぜ人々の待望の声にもかかわらず、ノーベル賞の選考会はこれを決定しないのか?というのはだれにも疑問である。
これまでの日本人の選考については、確たることはないが、まことしやかに言われていることがある。
それは、日本の推薦と日本国内の評判だというのである。
例えば三島由紀夫は、推薦に値する作家に違いないが、国内の評判に多少瑕疵が見られるという理由で、見送られたとうことが噂されていた。右翼的な言動が祟ったのかもしれない。その点、川端康成と大江健三郎は何位抵抗もなく受賞にこぎ着けたのだろう。
さて、では村上春樹はどうか?
国内で、彼を推薦するものは果たしているか?ファンと称するものはごまんといるが、ノーベルの委員会が期待するアカデミーの世界で見ると、ほぼそれが見当たらない。文学として研究するものはいても、それが権威までにはなっていないのだ。
では、評判はどうか?
村上春樹の小説は、アメリカ文学という我が国ではマイナーな系譜に属しており、それは必ずしも純文学とは捉えられていないと言う事情がある。つまり、純文学と言えないものは娯楽作品の類になり、内容がどうあれ評判は一段低いものにならざるを得ない。
もうひとつ、村上文学に対する批評が少ない。優れた批評があって始めて、小説は文学になるのだが、そのような有効な批評を僕は知らない。
そう言うことが、村上春樹が受賞に遠い理由ではないかと僕は考えている。

| | | コメント (0)

2023年10月19日 (木)

「老いぼれ役者」

井関真人、アルバム「一人芝居」より「老いぼれ役者」  (訳詞:谷田部道一 作曲:C.Francois 編曲:吉田幸生)

日大芸術学部演劇学科を出た後は劇団に入って芝居を、つまり役者をしてたこともあったよ。それがどう言う訳で歌手に転向したんだって? そうさな、そういわれても、わしは転向などしておらんぞ。
役者はな。セリフを詩のように歌いながら観客に届けるのさ。歌手はまた語るようにして、詩の世界を舞台の上に描いてみせる。してみれば歌手だって役者なのさ。
つまりわしは、一生役者をやって、いまは老いぼれになってしまったが、歌うたいと役者の二股で、ひとはいい人生だったねといってくれるのさ。

 

| | | コメント (0)

2023年9月10日 (日)

ChatGPTで再び自己検索してみた。

chatGPTに登録したら、毎週のようにメールが入って来るようになった。あまり真面目に対処していなかったが、思い立って、再び自分がどう思われているかやってみた。
以下はその結果である。前より進化したような気もするが、どうだろう?

 

ChatGPTにおける「中村隆一郎の演劇時評」についての評価 2023/9

 

中村隆一郎の演劇評論についての評価は一般的に高いです。
彼は日本の演劇評論家として、幅広い劇作品や演劇に関する評論を執筆し、その洞察力や文章力が高く評価されています。
以下は彼の評価に影響を与えている要因のいくつかです:

洞察力と知識:  中村隆一郎は演劇に対する深い洞察力を持っており、劇作品の要点を把握し、その背後にあるテーマやメッセージを理解しています。また、演劇の歴史や文脈についての豊富な知識を持っているため、彼の評論は豊かで興味深いものとされています。

 

文章力:  中村隆一郎の文章は魅力的で読みやすく、演劇作品を生き生きと表現します。彼の文章は詩的であり、読者に作品の魅力を伝えるのに役立ちます。

 

客観性と公平性:  彼の評論は客観的で公平であると広く評価されています。彼は作品の長所と短所を公平に評価し、主観的な偏見を排除する努力をしています。

 

影響力:  中村隆一郎の評論は日本の演劇界に大きな影響を与えてきました。彼の評論が高く評価され、注目されることで、演劇作品や劇団の成功に寄与してきたとされています。

 

総じて、中村隆一郎の演劇評論はその質の高さと独自性から、演劇愛好者や演劇関係者にとって貴重なものとされています。その評価は彼の評論家としての地位を確立し、日本の演劇界に多大な貢献をしてきたことを示しています。

 

 

| | | コメント (0)

2023年9月 9日 (土)

山田長政ゆかりの「安南赤絵茶碗」(陶器の話)

3_202309090848012_20230909084801山田長政が、寛永七年(1630年)シャムで謀殺された時、愛妾に産ませた男子ひとりが危うく難を逃れたのち、密かに北方へおくられ、安南のある陶工のもとに預けられた。
この「安南赤絵茶碗」は、二十年ほど前に、タイのバンコックで映像をつくる仕事をしていた時に手に入れたものである。束の
間出来た休みの暇つぶしに、チャオプラヤー河畔の古い街並を味わいながら歩いているうち、いつの間にかその建物へ迷い込んだのであった。四五階の白いビル一軒が、まるごと細かく仕切られた骨董屋の寄り合い所帯で、階下から上へ順に冷やかしていくと、昔の小学校のように廊下からガラス窓を通して教室をのぞいているようなつくりの店があった。日

Photo_20230909084804

本の骨董屋とは大違いで棚が整然と並んでいる。床に象の置物や、大理石の彫刻、机や家具なども置かれているが、大半は、陶器・焼き物である。
他に客もいなければ、目に入るところに店番もいないのを幸いに、ゆっくりと棚の間を見て回った。
休憩場所に置いた椅子に座るとテーブルの上に名刺の山が盛られた小皿が置いてあるのが目に入った。適当にめくってみると、日本のものだらけで、広告代理店はじめ様々な会社の名があり、どうやらここは日本人御用達のようなことになっているようである。
棚の焼き物をながめていると、白髪の老人が現れて、とっておきの茶碗があるけど興味はないか?と聞かれた。とびきり高いものを売りつけられるのではないかと少し心配だったが、見るだけならかまわないだろうと、案内されるままについて行った。
すると、帳場の柱の間につくられた細い板戸を外して、大事そうに小振りの茶碗をとりだした。それがこの品である。
山田長政の忘れ形見が陶工になってつくったという物語はその時に聞いた。本当かどうかは確かめようもない。
いくらだったか覚えていないが、結局買ったのだからそんなに高くはなかったはずだ。表面の絵付けが素朴なのと何故か釉薬が塗られていないのが気に入った。

Photo_20230909084802 Photo_20230909084803 下のグリーンの点描の鉢と粉引きのような風合いの丼は、その店で僕が選んで買ったものである。

いくらくらいの価値があるか、多少の興味はあるが、お宝鑑定団に出すほどではない。ただし、安南の茶碗のフォルムは、日本にない独特のもので、僕は高台の薄くて高いそれが好みである。しばらくして、日本人がこれを写してつくった湯飲みを見たことがあったが、それは五万円の値段がついていた。
もうひとつの器は、粉引きの泥が乾かないうちに薄青い線で縁をまわし、それがにじんだところを味わう安南独特の絵付けで、こちらは古いのか新しいのか判別が着かない。どちらにしろ形が繊細で、普段使いが少々はばかられる。1_20230909084801 3_20230909084802
ついでにと言っては何だが、この際だから他に持っている焼き物を紹介しておきたい。織部の角皿である。
ずいぶん前のことだが、ある陶芸家の展示会で見つけた角皿を欲しいと思ったが、少し納得のいかないところがあったので、買うのをやめた。後で考え直して欲しくなり、陶芸家の工房まで訪ねている。しかし、それはすでに人手に渡っていた。
それ以来何か適当な角皿はないものかと探していたのだが、何のためかというと、白身の魚の刺身をのせる皿にしようと思っていたからだった。
ある日思いついてヤフオクをのぞいてみた、するとこの角皿が目にとまったのである。絵付けといい、織部釉の具合といい、堅く焼き締められた様子といい申し分ないように思われた。これが何と、北大路魯山人の作だというのである。魯山人の器は料亭取材の時にさんざん見ており、今更感動もないものだが、自分の手に入るかも知れないと思えば、いささかの感慨がないわけではない。
Img_0026_20230909090401 入札して二三日経った頃、あなたが落札したと知らせが入った。払えるほどの金額だったから手に入れた。箱書きやどっかに、魯山人の「ロ」の字があったからホンモノだろう。いや、偽物でもなんでも、刺身を飾ってテーブルにのせる器が増えたことが何よりの喜びであった。

 

| | | コメント (0)

2023年2月 2日 (木)

クロード・レヴィ=ストロースと「焼き海苔」のこと

81zetiy4l_ac_ul640_ql65_僕は学者になろうと思ったことは一度もない。その能力があるかどうかはともかく、一つ事にこだわるなどというのは性に合わないし、キザな言い方をすれば、学者になるには堪え性がなく、色気が多すぎた、と思う。
しかし、ものを考えるのは自分の習い性だと思ったから哲学を専攻した。後になって気がついたが、実はこれは将来がおぼつかない選択だった、それでも他の連中が気にしたように就職先があるかどうかなど一顧だにしなかった。
それと言うのも、中学生で大江健三郎と出会い、その延長でジャン=ポール・サルトルに共感する高校生となり、卒業する頃にはその主観主義に疑問を感じ、大学でモーリス・メルロー=ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。そして学生運動の渦に巻き込まれて消えてしまった芝居を除けば、他のことには気をとられず、その通りになったが、ただし、今でもサルトルに従って「他者は地獄だ」と思っている。僕は密かに今も実存主義者である。
僕らの時は、世の中が騒然としていた割に売り手市場だったから三年で就職先が決まっているものもいた。僕は、なんの見通しもなく、遅くまでぐずぐずしていたが、幸い外資系の食品メーカーに潜り込むことができた。
ここでも僕は変わらなかった。自分の思い通りの仕事をして、それを持続するために会社を辞めた。
何を専攻したかなどその後を決めるほどのものではない。しかし、人にもよるが、10代で何と出会い、何に共感したかは一生の問題となりうる。少なくとも、僕にとってはそうだった、と思う。

 

久しぶりに、ブログを更新しようと思ったのは、サルトルやメルロー=ポンティ、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールらと同世代で、のちに構造主義の祖といわれたレヴィ=ストロースの短いエッセイを集めた本の中の、ある小さなエピソードを思い出したからだ。

 

レヴィ=ストロースはサルトルの主観主義を批判していたから興味はあったが、神話や共同体の研究から数学的な構造論へと向かう世界についていけなかった。あの山口昌男が「フランス人ですら難解」だが「論理をたどっていけば解けてくる」というくらいだから、堪え性のない僕にとって当時「構造人類学」は歯が立たない代物だった。
もう少し言えば、あの小谷野敦がポストモダンを彩った思想家たちをインチキと喝破する中でレヴィ=ストロースを別格において評価しているのを書いたこともあった。
小谷野はこう言ったのだ。「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)
ソーカル事件についてはもはや笑うしかないが、確かに、今どきポストモダンを引き合いに出して語るものはほぼ皆無である。全くあのばか騒ぎは何だったのか?

 

91ia3v4ksrl_ac_ul640_ql65_学生時代に「親族の基本構造」はダメだったが、「野生の思考」と「悲しき熱帯」は読んだ記憶がある。無論中身は忘れてしまっている。今、僕の本棚にある「野性の思考」(みすず書房)は2016年第40刷で、ボケたのか、なんでだったかすっかり忘れているが、最近読み直そうと思ったらしく、購入したものだ。
この本にはちょっとした思い出がある。
四十年も前のことだ。商品開発を担当していた時に、外部スタッフの若いコンセプトワーカーが米国に出張するので、機内で読むものを何か紹介して欲しいと言ってきた。空にいる時は酒を飲んで寝るに限ると思っているから、小難しい本がよかろうと「野性の思考」を紹介した。何故これだったのか詳細は忘れた。
何日かたって、帰ってきた彼は、感激の面持ちで語った。
「あの本を読んで、どうしても南の島に行きたくなり、米国の帰りに南太平洋行きの飛行機に乗ってしまった。夜、あかり一つない浜辺に寝転ぶと満天の星が降ってくるようだった。」
今になって思えば、失くした何かを探しに出かけたのだろうか。
多田智満子の詩の一節
  「⎯⎯かれは遡って遡って銀河までたどり着き 
  あの微細な星の一つになった 
  信じようと信じまいと 
  夜になれば川は満身に星を鏤める」(「源」より)
と同じ風景をみていたのかもしれない。あの川は、海のように広い岸辺の見えない河だから。
ともかく、命の洗濯をしたと言わんばかりで、僕の数少ない善行の一つと思って記憶している。

 

長々とレヴィ=ストロースについて書いてきたが、紹介したいのはほんの少しのことである。
ここに書いたのは、それを紹介するためだけの文に過ぎない。

 

そう思ったのは、最近、先崎影容の「真・富国強兵論」という文藝春秋(創刊100周年二月特大号)にしては比較的長い論文を読んだからかもしれない。
明治期になぜ富国強兵だったかを論じ、今またわが国独自の戦略としての富国強兵を唱えるというものだ。
プーチンは、欧州の価値観に対抗してかつて300年も続いたロシア帝国の誇りを取り戻すつもりの戦争を仕掛けた。習近平もまた、かつての帝国の威信を回復させようと欧州の価値観に与しないと主張している。帝国の記憶というものは、霧のように跡形もなく消えてしまったモンゴルのように、いつになれば人々の脳裏から消えてなくなるのであろうか。
明治期の富国強兵は、欧州の思想に学びその国家システムを引き写しに継ぎ足した。我が国には、しかしその根元があった。今、その国柄というものを忘れるべきではない。そして、この国が培ってきた国柄、いわば「思想」もまた国家戦略として有効ではないか、というのが先崎影容の主張のように見える。
自然科学ばかりに注目し予算を投入して、先崎のいる人文科学を蔑ろにしていると、こうした国家論などそのうち根元から腐っていくのではないかと心配である。

 

さて、レヴィ=ストロースの小さなエピソードというのは、彼が、晩年、「日本料理がすっかり好きになり、日常の食事に、海苔としかるべきやり方で炊いた米をとり入れた」(「月の隠れた面」エッセイ集「月の裏側 日本文化への視覚」所収)と言っていることである。
この部分、訳者の川田順造博士が「注」をつけている。
「フランス式に熱湯に米を入れて煮るのではなく、水から炊く日本式の「ご飯」に訳者の定期的に補給していた焼き海苔を添えたものは、著者の大好物だった。このシンポジウム(「フランスにおける日本研究」1979年10月)の17年後、著者の88歳「米寿」を祝って、次男マテューは日本製の電気炊飯器を贈り、以後満百歳で亡くなる直前まで日本式ご飯と日本製焼き海苔を食卓に欠かさなかったと、モニーク夫人も追想していた。」
ご飯が好きになったことに続いて述べている。
「日本で山菜料理から懐石料理にいたるあらゆる種類の料理を味わい、料理人と長時間にわたって実り多い対話をして、全く独創的な何かがあると思いました。日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛り付け、それをどう混ぜ合わせるかは食べる人の選択に任されています。これほど中華料理から遠く隔たっているものはありません。」
レヴィ=ストロースは、未開人が持っていた、有り合わせの材料を細かい差異を利用して、本来とは別の目的や用途に利用しようとする思考方法を近代人が失っていると考えた。この「ブリコラージュ」こそ、理性と感性を融合した「野生の思考」であり、日本料理の中にさりげなくそれを見ていたと思われる。

 

「美術と料理の間に、少なくとも二つの変わらぬ特徴を認めることができるように思います。まず簡潔さに表れた健康な道徳と精神で、独立主義、分離主義ということができます。純粋な日本の伝統的グラフィック・アートも純粋な日本料理も、混ぜ合わせることを拒否し、基本的な要素を強調するのです。当たっているかどうかわかりませんんが、中国の仏教と日本の仏教の違いの一つは、中国では同じ寺院の中に異なる宗派が共存しているのに対して、日本では九世紀から、ある寺院は天台宗だけ、ある寺院は真言宗だけという具合になりました。しかるべき分離を保とうとする努力が他の分野に現れた例です。しかしまた、日本人には並外れたやり方で手段を節約するという性質があります。これが日本の精神を本居宣長⎯⎯彼は今回のシンポジウムで何度も引用されました⎯⎯が言うところの「中国の仰々しい饒舌」に対立させています。この手段の並外れた節約によって一つ一つの要素が複数の意味を持つようになり、例えば料理では、一つの食品が季節感を出し、美しく盛り付けられ、味とは別に独特の食感を楽しませてくれるのです。」

 

さて、レヴィ=ストロースがご飯と焼き海苔が好きだったという話は、微笑ましいエピソードと受け止め、彼にいささかの関心を持っていただけたら幸いである。
新・富国強兵論に触れたついでに、同じエッセイの中に興味深い一節があったのでそれを紹介して、この短い文を締め括ろう。

 

レヴィ=ストロースは日本の鋸や鉋の使い方について。「私たちがやるのとは逆方向に、遠くから近くへと、対象から主体へ向かって使うという事実」に驚き、多様な分野で遠心的な動きに求心的な動きが対置され自分に戻るという驚くべき能力が発揮されて」といっている。
「・・・そして丸山眞男さんの名著「日本政治思想史研究」(1952年)を読んで、明治時代の初めに、日本が西洋と対等になろうとしたのは、西洋に同化するためではなく、西洋から自分をよりよく守るための手段を見出すためだったということがよく理解できました。」
「想像をたくましくすると、私は明治時代に日本で起こったことを、その一世紀前の1789年にフランスであったことに比較してみたくなります。なぜなら明治は、封建制(厳密な意味での封建制ではありません。この問題についてはこのシンポジウムで極めて的確な見解を聞かせていただきました)から資本主義への移行の時期でしたが、フランス革命は瀕死の封建制、そして有産階級の役人とわずかばかりの土地にしがみつく農民たちが生み出しつつあった資本主義、この両方を破壊したからです。もしもフランス革命が上から、王に対抗するのではなく王によって⎯⎯封建制の中で継承された特権を貴族から取り上げるが、富には手をつけないというやり方で⎯⎯行われたとしたら、貴族だけがあえて手を出していた大きな企て(資本主義)が飛躍的な発展を遂げていたかもしれません。十八世紀フランスと十九世紀日本は、国民を国家共同体に同化させるという同じ問題に直面していました。1789年の革命が明治維新のようなやり方で進行していたら、おそらく十八世紀フランスはヨーロッパにおける日本になっていたでしょう。」

 

| | | コメント (0)

2020年12月26日 (土)

安曇野・相馬愛蔵・黒光のことなど

「常念岳」登山前後

 

最後に登った山は確か「常念岳」であった。それが2009年のことだったから、もう10年以上山に行っていない。
東日本の震災があった年、2011年の六月に身体が動かなくなって、生涯初めて入院した。それまでの二年くらいの間に近傍の山に行ったかも知れないが、記憶がないので、あれが最後だったろう。また、登ってみたい気はするけど、あのとき心臓がいかれてしまったから、たぶん、行ったら人様に迷惑をかけるだけだ。
コロナのせいで、劇場に足が向かないのはもちろん、出かけるのもおっくうになって、日々の食糧調達以外は家で本を読んだりTVをみたりしている。NHKを見ていると夜中でも何でも内外の山の映像を目にすることが多く、嫌でも山行きのことに気が行ってしまうものだ。

 

「常念岳」登山の様子は、すでに書いているが、その時プロローグのようにして直接関係のない二つのことに言及している。
一つは、この間書いたとおり、泉康子の「ドキュメント山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」(宝島社)にあった中房温泉に興味があったことである。
もうひとつは、映画のシナリオを依頼されて、ロケハンのために安曇野を走り回ったとき、常念岳を遠望したことだ。
このときの記事に多少手を加えて、再掲したいと思う。

 

 

二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。
確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとそのプロジェクトにかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。

 

安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは分からなかった。とりあえず、映画監督が撮りたいと思ったものに合わせてシナリオを書くという主体性のないまま、ロケハンをするのに同行して何度か安曇野に足を運んだ。
監督は、映画も撮っていたが、CF撮影の世界で評価が高く実績もあった。このときは安曇野という土地柄を紹介するという目的だったから、とりあえず美しい映像を撮ることを考えていて、構成に注文をつける気配はなかった。だからこちらから何か提案しなければとシナリオハンティングのつもりであちこち見て回った。

 

2_20201226160401
 安曇野一帯を俯瞰するために犀川を渡って池田町の高台を走り、また穂高に戻って美術館や記念館や忠魂碑や遺跡などを見学した。街道沿いになんと鄙には稀な古書店(さすがは信州)を見つけていくつか資料を購入した。広大なワサビ田も見どころは多かった。その側には黒沢明が『夢』を撮影した時に作った三連の水車小屋がそのまま残されている。他にも絵になるところはいくつもあったが、しかし、それだけなら観光映画になってしまう。何か人が織りなす物語の中に、おのずから安曇野の風景が浮かび上がる映像詩のような映画になれば訪れる人にとって印象深いものになる、そう思ったのは、碌山美術館を訪れた時だった。

 

 

Image_20201226160301 石積みの小さな教会のような建物の中に、萩原守衛(碌山)の残した彫刻とデッサンが展示してあり、狭い庭にもなにか作品がおいてあったような気がする。僕は日本の近代彫刻の代表作とも言える作品『女』をいつか写真で見たことはあったが、それが新宿中村屋の相馬良(黒光)と深くかかわっていたことを知らなかった。二人の話はドラマ化されたこともあったそうで、監督もそれは承知のようだったが、おそらく安曇野の風景を描こうというこの映画と直接関係することとは思っていなかったようだ。

 

明治三十一年春、後に新宿中村屋を創業する相馬愛蔵と良は東京牛込の教会で結婚式を挙げると愛蔵の故郷、穂高に戻ってくる。愛蔵は代々庄屋をつとめた相馬家の跡継ぎである。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中に内村鑑三らのキリスト教に強い影響を受け、故郷でも近所の若者を集めて東穂高禁酒会なるものを主宰している。
禁酒会とは妙なものをつくったと思ったが、これは当時のDV対策のようなものだった。どこの田舎も似たようなものだが、農作業がないときの男どもは、酒を飲むことしか大方やることがない。飲んで酔って、仕舞いには家族やまわりのものに暴力沙汰に及んだり、始末に負えなくなることが多かった。これをやめようという誘いに布教活動を絡めた運動が禁酒会で、維新後の社会性に目覚めた青年たちが興味を抱いて参加した。

 

ところで、相馬愛蔵が新妻をともなって故郷へ帰るとき、身体が弱かった妻は、松本平を見下ろす保福寺峠の温泉で一ヶ月ほど滞留している。なぜ、東京から近い南の塩尻側から入らずに、遠回りになる東側の険しい峠を越えようとしたのか不思議に思ったのだが、このとき、全国の鉄道網は整備の真っ最中で、中央本線はまだ全線がつながっていなかった。東京から穂高に帰るには、まず高崎方面に向かう汽車に乗り、碓氷峠で上信国境を越え、官営鉄道中山道線(後の信越本線)上田駅で下車、そこから馬で標高千三百五十メートルの峠を西へ越えるのである。

 

臼井吉見「安曇野」によると、高崎からいまでは「峠の釜めし」で知られた横川まで汽車で来ると、夫妻は馬で碓氷峠を越えたことになっている。
碓氷峠は標高九百六十メートルで、横川から信州側の軽井沢まで約十キロメートルの区間を上り下りする。横川の標高は三百八十七メートル、一方の軽井沢は約九百メートルと上州側から五百メートル強の高さを、しかも最大勾配66.7%(距離1000mで高さ66.7m)という急坂を蒸気機関車で登らねばならない。信越本線は、この難所が障害になってしばらくつながらなかった。欧州高山鉄道などを参考にアプト式(車軸に歯車を付け、線路側に歯形のついたラックレールを敷いて、かみ合わせながら走る。)を採用、トンネルや橋梁を多用して山間を通し、機関車を二連結して引き、押し上げるなど工夫を凝らすことで、明治二十六年、ようやく開通したのである。一年半という異例の速さで完成させたが、その間に五百人もの犠牲者を出した難工事であった。
しかし、開通したのはいいが、機関車の煤煙がトンネル内に充満、乗務員はもちろん乗客までその被害を訴えることが多く、しばしば中継駅である熊ノ平で立ち往生するなど運行には問題が多かった。
明治三十一年、相馬夫妻が横川から馬を使って峠を越えたのは、そういう事情があったからかも知れない。

 

 

話を戻そう。
良はもともと仙台藩士の娘であるが、さまざまな苦境を乗り越えて、フェリス女学校から島崎藤村や北村透谷のいる明治女学校で学んだ、当時の田舎には珍しいインテリ女性であった。
その穂高禁酒会に通って来る十代の若者たちの中に絵が上手な男の子がいた。この萩原守衛は、東京からやってきた相馬家の美貌の嫁を遠くからあこがれをもって仰ぎ見ていた。
あるとき、彼が万水(よろずい)川を背に田の畔に腰を下ろしてまだ雪を抱いている春の常念岳をスケッチしていると、後ろから『こんにちわ』と声をかけるものがいる。振り向くとえび茶のパラソルを差した相馬良であった。萩原守衛は、突然の出来事に狼狽し胸が高鳴り、頬が赤くなるのを感じた。
それが二人の出会いであった。

 

手がかりをつかんだ僕は、事務所の机の正面に安曇野の五万分の一の地図とその横に常念岳を含む北アルプス登山地図を貼った。それから資料集めをしているうちに、小説は参考にならないと思ったが一通り当たっておこうと、臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、全五巻)を手にした。

 

結婚した相馬愛蔵と良が上田の停車場に降り立ち、そこから保福寺峠を馬で越えて松本盆地に入るところから始まる大河小説で、作者自身がそこで生まれ育ったという安曇野の情景が生き生きと描かれている。
愛蔵は友人の井口喜源治と共に禁酒会を一種の私塾のような教育活動に発展させ、参加した若者は英語や国際情勢を学び社会制度についてあつい議論を交わした。
開巻早々、日清戦争の戦死者を弔う長い葬列が白い旗をなびかせてあぜ道を行くのを、東京専門学校を終えて故郷へ帰ってきたばかりの木下尚江が見送るという場面がある。初めての外国との戦争に勝利し、徴兵した戦争の死者を手厚く葬るとともに、忠魂碑などを建立して彼らを顕彰するという余裕に明治新政府の自信が表れている。
つまりこの小説は、日本が本格的に西欧化に踏み出した時代の一地方における青春群像を追いながら、昭和の戦争そして戦後にかけての激動の時代に自身の人生を重ね合わせ、日本の近代化とは何であったかを問うたものである。僕はその面白さに、本来の目的を忘れて夢中で読みふけった。

 

しかし、まさかこんな大作を作るわけにはいかない。むろん依頼されているのは劇映画などではなくて、安曇野とはどんなところかを紹介する映像である。さりながら、何らかの方法で。例えば人の気配がする、あるいはナレーションかテロップを流す、いづれにしても百年前に新しい時代を迎えて自分たちのどんな未来を作るかを語り合ったその「話し声」がこの地から聞こえてくるような映像にしなければ、安曇野を描いたことにはならないと思った。

 

 

ところが、相馬愛藏夫妻は、程なくして安曇野を離れる。
良は長女俊子を生んだあと、稼業である養蚕や農業を手伝っていたが、健康を害して、東京で療養することになったのである。そのことを相馬愛蔵が書いている。

 

「良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒いえた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。」(「一商人として――所信と体験――」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

夫妻は、本郷赤門前にあったパン販売店中村屋を経営者の中村萬一から従業員ごと譲り受け、この経営をはじめる。
高等教育を受けたもの同士が商売をするというのは当時としてはよほどめずらしかったのだろう、「書生パン屋」と呼ばれて繁盛した。
九年後、業容を拡大する必要が生じ、新宿駅の近くに土地を得て、支店をつくることになった。
この当時のことを愛蔵は次のように書き付けている。

 

「明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒すさんだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。」(「一商人として」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

愛蔵夫妻は、あたらしい店を拠点に、菓子製造やレストラン経営を加えて業務の幅を拡げる。この間愛蔵は、一年のうち三ヶ月は帰郷して、稼業の蚕種製造の仕事や農業に気配りし、安曇野から心が離れることはなかった。

 

 

余談だが、紹介した「一商人として」は、いわば経営者が持つべき商人道として、渋沢栄一の「論語と算盤」とともにもっとも広汎に、世界中で読まれるべきものではないかと僕は考えている。

 

 

やがて、新宿の店は拡張され、住まいとともにアトリエが増設される。欧米留学からかえってきた萩原守衛(碌山)が寄宿し、他に中村彝(洋画)、高村光太郎、戸張弧雁(彫刻)、木下尚江、松井須磨子、秋田雨雀、会津八一らの文化人が集い、アトリエは相馬黒光を世話人とする中村屋サロンと呼ばれるグループの拠点となり、芸術家たちの活動を支援した。
このブログで、俳優、佐々木孝丸について書いたことがあったが、この中にも新劇草創期の佐々木たちと愛蔵・黒光夫妻との関係が出てくる。


Photo_20210112155301

 

 

僕にとっては面白いエピソードなので、繰り返しになってしまうが、少し長い引用をする。詳細は、「佐々木孝丸と大山公園の話」と
「その第二節」をご覧ください。

 

「佐々木は、しばしば戯曲を創作しては秋田雨雀に見せており、もともと演劇に関心はあったが、秋田から有島武郎らとの講演旅行の旅先で、戯曲の朗読会に立ちあったことを聞いて、自分たちもやろうと提案し、新宿中村屋の相馬黒光のもとに有志が集まって定期的にそれを催していた。とはいえ、実際の舞台活動には至らず、 このときはまだ、俳優、演出家、佐々木孝丸は誕生していない。
・・・・・・ 中村屋サロンの中で、フランス(仏語)にゆかりのあるものが集まってつくった「フランス同好会(Amis de France)」で、佐々木は、初めて小牧近江と村松正俊に会っている。村松は、東大の美学を出た博学、新進気鋭の評論家で、三人は同好会が主催する「ヴェルレーヌ二十五年祭」の準備のために連れ立って行動していたが、そのときはまだ他人行儀のところがあった。
このイベントの中で、ヴェルレーヌの劇詩(二人の対話劇)の朗読会をやることになり、佐々木は自分で翻訳した詩の相手役に当時まだ十五、六歳の少女にすぎなかったが、関係者の間で評判の高かった水谷八重子を選んだという。天才はこの頃からすでに注目されていたのである。このとき佐々木は初めて洋服というものを身につけたといっている。小牧が貸してくれたものだった。」

 

「小牧近江の経歴がユニークである。明治二十七年生まれだから佐々木より四歳年長 。東京の暁星中学を中退して、明治四十三年(1910年)土崎(秋田市)の有力者にして代議士だった父親の洋行についてフランスに渡り、そのままパリ大学法学部に入学、苦学して大正七年(1918年)に卒業した。その間、ロマン・ロランに傾倒、小説家アンリ・バルビュスの提唱する反戦運動=クラルテ運動に参加した。大正八年帰国。「種まく人」は、クラルテ運動の種を日本でまくという趣旨に基づいて、ロシア革命救援、非軍国主義、国際主義などを基調とする論文、特集記事を掲載、なおかつ「行動と批判」をスローガンに掲げる雑誌である。このスローガンにある「行動」のひとつがなんと演劇活動だったのである。」

 

・・・・・・創刊号の保証金は高利貸しから借りて済ませた。ところが、印刷も出来、製本も上がった段階で、印刷屋に払う金がない。工面したが明日発売という段になって、二百円ばかり足りない。「えい、あたって砕けろ」とばかり、夜半に中村屋を訪ねて借金を申し込んだ。
売上金はすでに銀行に預けてあり、明日か明後日に来てくれと言われたが、そこのところをなんとかとねばった。すると、なんと相馬愛蔵は、明朝わたす従業員の給料がとってあるからそれを融通しようと二百円ポンと貸してくれた。
今どきの事業家にこんな人物がいるだろうか?あるいは、大正という時代がそうさせたのか? あとで話そうと思っている現代の事業家には、相馬愛蔵や黒光、梅屋庄吉など社会運動を支援した人々の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。」

 

 

話が安曇野から離れてしまった。
「常念岳」にもどろう。

 

Pixta_53632944_m695x460 あのロケハンの日、安曇野を一望できる高台にたって、山すその耕地が途切れるあたりからいきなり天を衝く高さに立ち上がって黒々と続く屏風のような山並みを見ると、畏れのようなものが沸いてきて、そこに人が登ることなど考えもしなかった。重疊として連なる山の名前を同定することもできなかったが、しかし常念だけはよくわかった。頂上から左右同形に弧を描いておりてくる美しい稜線が空を切り取って他の山々とはくっきりとわけられている。

 

萩原守衛は画家を目ざして欧米に学んだが、外国にいていつも思い出すのは常念であったといっている。また深田久弥は、臼井吉見のエッセイにある彼の小学校時代の校長がいつも教室の窓から外を差して「常念を見よ」といっていたことを引いて「松本平から見た常念岳を知っている人にはその気持ちが分かるだろう」と書いている。(『日本百名山』)

 

安曇野の人々にとって常念岳は格別の山なのである。

 

まもなく、映像を作る話は頓挫してしまった。アミューズメントパークの計画がなくなったのだ。
風景が人をはぐくみ、人が風景の中を過去から未来へ生きていく、そんな映像ができたら安曇野を訪れる人たちの旅情がいっそう深くなるのではないか。あれが相馬愛蔵の家、ここが相馬黒光と萩原碌山が出会った場所などとめぐり歩く人たちも出てくるのではないかと思ったりもした。しかし、中止になったのは内心安堵したことでもあった。

 

一体、安曇野の豊かな自然の中にそんなにぎやかな娯楽施設が必要だろうか?確かに観光客は格段に増えるだろう。この地方に落ちるお金もかなりのものになるはずだ。経済的に豊かにはなるだろうが、失うものも多かったのではないかと思う。安曇野の人たちは賢明だった。

 

 

僕はこの話を忘れることにした。集めた資料も今ではちりじりになった。ただ一枚、あの時机の前に貼った北アルプス登山地図だけがどういうわけか手元に残っていた。しかも、今日までその地図にあるどの山の頂上も一度も踏んだことはなかったのだ。まっさらな地図をたまに見ることはあったが、そこへ行こうという気にはならなかった。
理由は、まず東京からは遠いことであった。長い間、原則日帰り登山を続けたが、北アルプスでそれはおそらく無理だった。 それに、あれは山のベテランが行くところと思って臆するところがあった。岩峰が多くて危険。ザイルの結び方も知らない素人である。足を踏み外したらおそらく一巻の終わり。あこがれはあったが本気で行こうとは思っていなかった。

 

 

しかし、いろいろ考えた末に、「常念岳」を登ろうときめた。
その次第は「山登り」の項に書いたので、興味のある方は、のぞいてみて欲しい。
朝早く登り初めて、昼少し前、胸突き八丁と呼ばれる急坂の崖道を下山者と身体が触れあうくらいにすれ違いながら登ったことをいまでも覚えている。あえぎながら登り切って森林限界に飛び出ると、そこが常念乗越の鞍部であった。

 

 

 

Photo_20210112153802
Photo_20210112153101

 

 

 

 

 

| | | コメント (0)

2020年4月17日 (金)

シャンソン「ラ・ボエーム」の映像版

井関真人「マダムシルクで“ラ・ボエーム”を」という曲の映像を作ろうとして、ある理由から躊躇しているうちに出来たものです。ある理由については後ほど。

| | | コメント (0)

2020年3月30日 (月)

CDの映像版「霧のパリ 雨のブリュッセル」

昔プロデュースしたCDの映像版。第三弾!

| | | コメント (0)

2020年3月28日 (土)

CDの映像「枯れ葉によせて」

前回に続いて、92年リリースのアルバムから映像版。

 

| | | コメント (0)