カテゴリー「広告コピーシリーズ」の21件の記事

2021年7月31日 (土)

広告コピーシリーズ「日本料理店」京懐石 京とみ(京都)

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 京懐石 京とみ

窓から見える木々の葉が秋雨に濡れて粛々たる翆に沈んでいる。
カウンターと小座敷だけのこぢんまりとしたお店であるが、よく手入れの行き届いた庭木や石畳、白壁が美しい瓦屋根の塀などが見下ろせる眺めのいいところである。
「借景ですよ」とご主人の富田勝雄さんは苦笑する。
ここは祇園のビルの二階、道一つ隔てて円山公園があり、八坂神社の参道口なのだ。一年前に長い間勤めた名門割烹旅館を辞して、ここにはじめて独立開店した。京で生まれ、京料理の老舗を皮切りに京都で修行を続けた生粋の京都人である。
茶懐石をベースにおいてはいるが、「あまりこだわらずに楽な気分で食事の時間を過ごしていただけたら」という意味で「遊食」の二文字をスローガンのように屋号にあしらってある。
なるほど、これなら若い人からも共感が得られそうだ。
「遊」のもうひとつの意味は、自分のペースを守りながら、自分なりのおもてなしの心を表したいと言うことらしい。
だからお客さんへの気配りにしても、カウンターからひと目で分かる、このくらいの広さが適当なのだという。
器に関しても修行中には魯山人をはじめ数々のの名品をふんだんに使わせていただいたようで、それから受けた影響は、収集にとどまらず、自ら創作するまでに至った。
写真の奥、京の漬物(これ自体意表を突いた品である)をのせた鉢がそれである。
すこしづつ集めているという器は、さすがに独特の雰囲気の、いいものが揃っていて、それが惜しみなく登場するから楽しい。
器の扱いも慎重になるが、「洗うのも修行のうち」と板場の若い衆には教えているそうである。
一見さんお断りが結構多い京都だが、こちらに限ってはそんなこともないので、祇園に行ったら、是非寄ってみることをおすすめする。

 

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広告コピーシリーズ「日本料理店」割烹 まえだ(大阪)

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割烹 まえだ 

頭に被った烏帽子の紐を顎の下できりりと結んで、白い直垂の袖を括り、左手には真魚箸、右手には柄のついた包丁刀を握って斜め前方に突き出す緊迫の一瞬。包丁式のクライマックスを捉えた写真が一枚、さりげなく掲げてある。
ご主人の前田富夫さんは四条流の高弟師範なのだ。
お店はカウンターとテーブル席だけのこぢんまりした広さで、白木を多用した明るい内装が割烹にふさわしいすがすがしさを感じさせる。二年ほど前に隣から移転してきたが、前の場所はすべてお座敷に改装して、現在も予約客のために使っている。「大阪の料理はお客さんの食べたいものをお出しするのが基本」だからカウンター越しに会話をしながら、時には食欲とか体調に気遣いしながらつくるのが理にかなっているという。
大阪は昔から瀬戸内の新鮮な魚が入ってきたし、野菜も豊富なところで、「食べることには非常にシビアで、気を抜くとそっぽを向かれることになる」らしい。商家という極めて合理的実質的な環境できたえられたのがなにわ料理であり、素材に恵まれない地理的条件下で、公家の伝統の上に成立した京料理や武家を代表する江戸の関東料理などと比べると、形式にとらわれない分、自由で実際的だという。
ここは北の新地、料理人には厳しいが誇りを持って仕事が出来る。大阪の中でも最もお客さんのレベルが高いところである。
いつも十人前後の若い衆が板場に入っていて、「贔屓にしてくれるお客がいてはじめてお店が成り立つ、そう言う努力をするものにチャンスが訪れる」と教えているそうだ。
調理師の様々の団体で重責を担う立場であり、また講師としても各地に招かれることが多い。こちらに伺うにはどなたかの紹介が必要で、これも「皆さんに楽しいひとときを過ごしていただくため」の気遣いである。

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広告コピーシリーズ「日本料理店」日本料理 茂里 船場店

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日本料理 茂里 船場店

関西料理とか京料理とは言うが大阪料理という言葉はあまり聞いたことがない。「これといった特徴はいえまへんが、相手さんに合わせるのがこちらの料理、それでいながら飽きの来ないというか、大阪の味やなあと実感できる独特の世界があります」と女将さんの森公環さんは言う。
そういえば俗に「食い倒れ」とも言うくらいだから、大阪のひとの食に対する関心には並々ならぬものがあるに違いない。その料理を一言で説明する適当な文句がないのは少々残念な気もするが「誰の口にも合わせる」というのは味覚にしろ、料理の腕にしろ相当に自信がなくてはいえないことである。いきおい、「今の日本料理のルーツは大阪にあるのと違いますか?」となる。うーむ、そういわれるとそんな気もしてくるが。
こちらは曾根崎新地の「茂里」が一年半前につくった出店である。
繊維関係の会社がひしめき合う船場のど真ん中、そのオフィス街の新しいビルの地下に出来た百二十坪の店内は、ゆったりとした造りでそれぞれ独立したお座敷で落ち着いて食事が出来る。
いくつかある支店を含めて、すべての板場を指揮しているのが常務で総料理長の廣坂進三さん。五年前に和歌山の料亭から、こちらに請われてやって来た。
献立は一週間ごとに変化を持たせるが、状況次第でとっさにお客さんの好みに合わせることもあるという。
「食べる方も作る方も心にゆとりがあってはじめておいしく食べられるもの、料理には多少の遊び心がないと」と例えば、枇杷の種を六十日もかけて軟らかく煮る(そんなの見たことない)とかにゅうめんの具を麺の下に隠しておいて、食べるあとからあとからどんどん出てくるからびっくりするやら楽しいやら、などとユーモアたっぷりに話してくれる。むろんそれは余興で、もともと「家では出来ないはんなりとした料理」が身上という「なにわの名工」である。

 

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2021年7月27日 (火)

広告コピーシリーズ「日本料理店」懐石料理 つきじ田村

懐石料理 つきじ田村

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つきじ田村のお正月は「波」で明ける。
といっても何のことやらさっぱり分からない。
それもそのはず「波」というのはこのたびの歌会始の勅題で、こちらでは毎年そのテーマを拝借して、料理をつくる際のモチーフにしているというのである。波形に盛り付けられたお造りとか、青海波模様の器、波しぶきを模したあしらいなどのように、料理人の想像力を駆使していろいろのところに、しかもさりげなくその主題を表現するのだ。そう思って料理をいただくと、また別の味わいが出てくるもので、食事がいっそう楽しくなる。
つきじ田村は文字通り筑地という東京の台所にほど近く、親子三代にわたる料理人一家で有名だが、意外にもそのルーツは関西にある。初代の平時現会長が、京、大坂で修行ののち、東京へ来たのが昭和の初期、震災後の東京が大きく変わろうとしている時期であった。そして戦後まもなく現在の地で開業したのだからお店の歴史はすでに半世紀にも及ぶ。
「いまでも京都大阪とは交流がありますよ」と自身も時々出張するという取締役料理長の乗附英明さん。
例えば、写真の吸い物の椀種はゴボウを海老のしんじょで巻いて上から上新粉で包んだものであるが、昔宮中で供されたものと言うことで、お正月とはいえ、やはり京風が感じられる。
乗附さんが板場に入ったのは、昭和三十八年のことで、その頃は営業時間に制限がなかったので、夜遅くまで忙しかったようである。
「料理をたっぷり召し上がっていただくというのがうちのポリシーです。だからお酒の量は意外なほど少ないんです」
お酒の誘惑を料理の方で覆ってしまうというわけではないだろうが、こういう気取りのない率直な考え方には大賛成である。

 

 

 


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広告コピーシリーズ「日本料理店」日本料理あしび

日本料理 あしび
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濃い色に塗られた梁と柱が直線を構成する美しい模様を描きながら天井まで組み上がっている。古い日本の民家を模したというインテリアは、高層ホテルの中には珍しい拵えに違いない。強い民芸調ではないが、海外からの宿泊客にも旅情を誘うのに十分な情趣がある。十三年前にホテル直営のレストランの一つとしてオープンした当時は全国の郷土料理を提供しようというはっきりしたテーマがあったが、その後自然に懐石のコース料理が主体になって、今日に至った。
ただ、全国の地酒のメニューが豊富なことと、いまでも年に何回か期間を区切って行われるイベントとして、そのテーマは生きている。
「地方へ出かけて調理方法を研究したり、食材の手配をしたり、テーマが決まると、忙しくなります」と調理長の八住英雄さん。開店間もないホテルの厨房に入って、すでに二十年、その間西ドイツで行われた料理オリンピックに日本代表で出場するなどの活躍をしてきた実力派の料理人である。
食材で器を作り、それに盛り込むというのが得意とする料理の一つで、写真左の木の葉皿がそれである。焼売の皮を器の形に整えて、それに沢蟹と小茗荷、子鮎に蓼、しらうをに華穂の揚げ物をのせてある。子蛸のゼラチン質を利用した煮こごりは珍しい料理で、添えてある空豆と蕨がいっそう春らしい雰囲気を醸している。いっしょに煮込んだ大根を敷いてあるが、繊維が見えるまでに透明な仕上がりに、作った人の繊細な人柄が表れているように見えた。
二十人以上の若い人たちを率いているが、やはり大切にすべきは季節感であり、自分で様々に工夫することだと教えているという。また封建的言われるこの世界にあっても「実力は評価する姿勢が大事」という後輩思いの一面も見せてくれた。

 

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2021年7月22日 (木)

広告コピーシリーズ「日本料理店」割烹 多かぎ

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前菜がすばらしい。
春を告げる魚、白魚を調味液にほんの数分つけて風干しにして、あぶったものに、菜の花の先を微塵に切ってふりかけた菜種干し。
わさびの茎をくらげで巻いた粕漬けは、ほのかな香りと辛さに不思議な歯触りの珍しい酒肴である。
卵黄を鰹の塩から、酒盗とあえたソースをかけながら焼いた蛤。竹の子の薄切りを巻いて揚げた海老に、湯葉で束ねた黄味そーめんなどいずれも凝りに凝った佳品と言える。
霞町から渋谷に向かうとおりに面した建物の地下、桜材の寄せ木でつくったカウンターに、お座敷が三つのこぢんまりしたお店である。
二十年前に開店した暖簾であるが、調理長の田中利夫さんを迎えるにあたって、現在のような形に変えた。
常連の方が多いようだが、「結婚記念日という若いご夫婦などお見えになることもありますよ」と女将さんの安倍奈津子さん。東京調友会倶楽部の会長でもある田中調理長の招請に半年通い詰めであったという。
田中さんは、浅草の生まれ、戦後間もない昭和二十四年、銀座の料亭(器を焼く窯まで調理場にあった)に入り、四年半の修行を終えたときには「あんな厳しいところでよく続いたものだ」と言われた。
しかし、料理人にとって大事という「生い立ち(修行の過程)」のよさであろう。各地で腕を磨いたあと、二十代半ばという当時としては異例の早さで板長になった。最も長くつとめたのが本郷の料亭で、それは二十年近くに及んだ。その間調理場から出ることはなかったが、今度はお客さんと相対で仕事をするようになったので、最初は戸惑いもあったそうである。
「お客さんは、私の毒舌をよく聞いてくれますよ」と笑うが、四十三年の経験談は、時を忘れるほど面白い。
平成五年、「江戸の名工」授賞。

 

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広告コピーシリーズ「寿司店めぐり」6

東京 三ノ輪 かっぱ寿司
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三ノ輪の感覚主義

 

さっきまで生け簀の底で活きていた平目である。四五十センチの天然物で、俎板にのっている野性味溢れる姿がつややかでいかにも美しい。
その肌をなでるように腕を小刻みに動かして少しずつ鱗を引く。そして中骨に沿って包丁を入れ丁寧に骨を切り離し・・・やがて、肉厚の薄飴色をした見事な白身が現れる。
「新橋で店を開いていた親父が、小学生時分になくなって、母の実家のある浅草にほど近いここ三ノ輪に移ってきたのがかれこれ三十年前、十四五の頃には、当時叔父がやってた店を手伝っていました」学校から帰ると板場に入っていたというのである。
この少年はまもなく筑地で修行を積み叔父さんが別に店を開いたのをしおに、戻ってきた。ご主人の宮内昭治さんである。
あまり詳しく言わないが、素材を見る目は厳しく、徹底的に吟味されている。
「江戸前のしんこというのは親指の先ぐらいのを言うんでね、うちではだから二尾使わないと握れないんです」。
漬けなども、まわりを霜降りにしたきれいな赤身で、脂がのったおいしい握りである。厳選された全国の地酒も専用冷蔵庫に保管されている。地元の人はもちろんだが、遠くから通う常連さんも多いという。皆、口コミで知るらしい。
特別のメニューに鯛鍋がある。刺身用の天然鯛をまるごと使う豪勢な鍋だが、一人の時はカウンターで小鍋立ての鯛シャブも出来るという。それらの素材に対する鋭い感覚はおそらく血筋であろう。

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2021年7月21日 (水)

広告コピーシリーズ「寿司店めぐり」5

千葉・市川 寿司会館 林屋
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真間の煮蛤

明治七年、市川の海辺に続く松林の中で創業したと言うから、その暖簾はすでに一世紀を超えている。この辺りは、万葉に歌われた美女、真間手児奈の伝説があるように、古くから開けたところである。江戸の頃は裕福な商人が別宅を構えた粋な土地柄で、高い樹木や黒板塀に見越しの松というしっとりと落ち着いた町並みが、往時の風情をほのかに感じさせてくれる。
お店は千葉街道から少し入った静かな一角にあるのだが、元々成田詣での往来に面して間口十七間と言う大店で寿司割烹を商っていたところ、戦時中に戦車を通す拡張工事で移転を強制されたものという。
西山栄一さんは四代目の当主である。「長男ですから、いやも応もないですよ。気が付いたら包丁を握っていました」以来、そのキャリアは四十年を超える。毎朝筑地と船橋の両方の市場に目配りをしていいものを仕込む。地元であがったものを大事にと考えているが、特に蛤は江戸前に限るそうで、この煮蛤の握りをあてに遠くからもお馴染みさんがやってくるという。見慣れているものよりは少し小振りの蛤だが、その柔らかさ、淡く香気立つ秀麗な味わいは、包丁さばきや下ごしらえがむずかしいネタだけに、その素材選びの眼識や煮含ませの技術の高さをうかがわせる。
蛤に限らず手間を惜しまないで丁寧にこしらえると言うのがこちらの身上で、酒を飲む間もないくらい、とにかく寿司が旨い。やはり、目には見えないが、百年の伝統を握り込んでいるのであろうか?

 

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広告コピーシリーズ「寿司店めぐり」4

東京 三ノ輪 かっぱ寿司


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三ノ輪の感覚主義


さっきまで生け簀の底で活きていた平目である。四五十センチの天然物で、俎板にのっている野性味溢れる姿がつややかでいかにも美しい。
その肌をなでるように腕を小刻みに動かして少しずつ鱗を引く。そして中骨に沿って包丁を入れ丁寧に骨を切り離し・・・やがて、肉厚の薄飴色をした見事な白身が現れる。
「新橋で店を開いていた親父が、小学生時分になくなって、母の実家のある浅草にほど近いここ三ノ輪に移ってきたのがかれこれ三十年前、十四五の頃には、当時叔父がやってた店を手伝っていました」学校から帰ると板場に入っていたというのである。
この少年はまもなく筑地で修行を積み叔父さんが別に店を開いたのをしおに、戻ってきた。ご主人の宮内昭治さんである。
あまり詳しく言わないが、素材を見る目は厳しく、徹底的に吟味されている。
「江戸前のしんこというのは親指の先ぐらいのを言うんでね、うちではだから二尾使わないと握れないんです」。
漬けなども、まわりを霜降りにしたきれいな赤身で、脂がのったおいしい握りである。厳選された全国の地酒も専用冷蔵庫に保管されている。地元の人はもちろんだが、遠くから通う常連さんも多いという。皆、口コミで知るらしい。
特別のメニューに鯛鍋がある。刺身用の天然鯛をまるごと使う豪勢な鍋だが、一人の時はカウンターで小鍋立ての鯛シャブも出来るという。それらの素材に対する鋭い感覚はおそらく血筋であろう。

 

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2021年7月20日 (火)

広告コピーシリーズ「寿司店めぐり」3歌舞伎町 球寿司

東京 歌舞伎町 球寿司
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歌舞伎町の良心

新宿大木戸の外、南豊島郡角筈村の一角が、盛り場になったのは、大正の震災後のことである。いったんは昭和二十年四月の空襲で灰燼に帰したにもめげず、地元民が復興協会を組織、歌舞伎劇場菊座を建設してそれを中心に町おこしを図ったのが町名の由来である。結局歌舞伎はやってこなかったが、街は見事に甦った。その見果てぬ夢を追い求めるように、人の世の現身も幻も飲み込む狂おしいばかりの活力がこの町には存在する。お店は新宿コマの一ブロック隣、歌舞伎町の心棒と言うべき中心にあった。文字通り野球のボールを意識した屋号である。ご主人の北田親さんは戦中の早稲田の応援団にいた縁で、「昭和三十三年の開業の時に仲間がみんなでつけてくれた」ものという。予科練から海軍へ、そして復員して十年ほど修行ののち、現在の地で独立したのだから、この盛り場ですでに三十五年を過ごしてきた。いまでは、ご自身は毎朝の仕入れを担当し、板場はふたりのご子息にまかせている。野球の関係者もよく見えるようで、壁には大きなプロ野球のスコアボードが掛かっている。
秋はからすみの季節という。薄く切って少しあぶったのを肴に飲むのがいい。出始めの新鮮な秋刀魚は刺身でも握りでも旨い。「寿司は庶民の食べ物、季節の素材を成るべき安く」というのがモットーで「自宅で、しかも身内でやってるから出来ることかも」と言うが、この町でこんなに家族的で安心できるお店に出会えたのは望外の幸せである。

 

 

取材から数日後、ご主人が亡くなったと聞いて驚いた。元応援団らしく体育会系そのものといった元気のいいひとだったが、卒中だったと聞いた。

 

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