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2013年2月 8日 (金)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その7=最終)

「吉本隆明の世界(中央公論特別編集)」(2012/6/25)は、吉本が亡くなって三ヶ月後に出版されたいわば「追悼号」である。当然生前からある程度は企画されていたものだと思うが、内容は寄稿された追悼文あり、吉本自身の短いエセーと過去の対談がいくつか、吉本を追悼する対談がいくつか集められた雑多なものである。

めずらしいのは「共同幻想論」出版当時、唯一のまとまった批判として提出された山口昌男の「幻想・構造・始原、吉本隆明『共同幻想論』をめぐって」(日本読書新聞、1969年1月13日~3月17日号)が収録されていることである。

その存在については、呉智英も言及しているが詳しい内容には触れていない。

一読して、これもまた苦笑を禁じ得なかった。余談ながら、少し紹介しておくと、冒頭、すでにこう書いている

「ひとあたり読んでみて、よく分からないのにまず驚いた。私にとってこれは最近めずらしい体験である。」

この次が笑いを誘うのである。

「これは昔前、田舎の中学生として小林秀雄の文章にはじめて接したときの驚き、慌てふためきようにも似てないとは言えなかろうと、と思われるのである。」

あの饒舌で博学の山口昌男をしてかく言わせるのだから、吉本と小林秀雄はいよいよ『わからなさ』の二大巨頭であることがはっきりした。

山口は、「共同幻想論」を読んで、自分が本を読む上で決定的な感受性のようなものを欠いているかと思ったが、フランス人ですら難解というレヴィ=ストロースさえも論理をたどっていけば解けてくるといった体験に照らしても、このわからなさは異質だと思うのだ、といっている。

「そう思いつつ序文を読み直してみると、なんといっても、これは本書の中ではもっとも分かりやすい部分であると言える。(例の「上部構造」=「共同幻想」といったところ)この大部分はいまはなき「言葉の宇宙」という言葉の雑誌の蛇ににらまれた蛙のごとき編集者によるインタヴューの再録からなっているが、全体の雰囲気は熊公相手に世間話をしている隠居の風貌がうかがえて、なかなか愉快に構成されている。一寸分かるとすぐ調子にのるのは私の悪いくせであると思うが、哲学青年的真面目さが吉本という人の真骨頂であろうか、と遠くからながめて感じ取っていた私なんぞには、この人はなかなかの演戯者であると改めて感心させられる次第である。」

吉本隆明を「演『戯』者」だといっているところなど大いに笑えるが、このあとの内容は、後々何人もの人によって書かれた「共同幻想論」を論じる文に一部取りこまれている。1969年の時点で、山口昌男によって指摘されたことは、時を経ても色あせていなかった。つまり、この批評が発表された当時、これがまともに読まれていたら「共同幻想論」の評価があれほど高くなっていたかどうか、例えば、高橋順一のような研究者や山本哲士のような(おっちょこちょいともいうべき=失礼!)エピゴーネンを生んでいたかどうか、かなり結果は違ったのでないかと思われる。

呉智英は、このことに触れて次のように記している。

「出版後、人類学者山口昌男によって批判された意外、論壇でもアカデミズムでも「まともな批評の対象とされたことがほとんどなかった」。そういうのは、私と同世代の評論家の小浜逸郎である。

小浜逸郎は、私と違って、学生時代から吉本隆明を愛読し尊敬し続け、1990年代に入ってから吉本への違和感を表明するようになった。とりわけ1995年のオウム真理教事件に関する吉本の妄言とも評すべき発言で、小浜の吉本批判は厳しくなった。しかし、小浜の吉本批判は掌を返したような罵倒ではなく、かつて自分が魅了された意味をも捉え返す誠実なものであり、小浜の吉本論はいずれも丁寧な労作である。その一つ「吉本隆明ーー思想の普遍性とは何か」(筑摩書房、1999)で、こう言う。

要するに、この書物(「共同幻想論」)はこれまで、アカデミズムにおいてはむろんのこと、思想ジャーナリズムにおいてすら、一種の異物として、「敬して遠ざけ」られてきたのだ。

そのことは、吉本隆明というカリスマ的イメージを不必要に肥大させた。もちろん、それは思想にとってよくないことである。

そのとおりである。判断力に乏しい学生や教養の欠如した左翼論壇人たちは、吉本隆明への批判が出ないことを、あまりに吉本が偉大であるがゆえに、既製の学者や言論人は手も足も出ず、自らの頭の悪さを恥じて顔を伏せていると、都合よく誤解したのである。それこそまさしく「共同幻想」であった。」(呉智英、同書)

山口昌男の批判は、「日本読書新聞」連載という媒体にもかかわらず、 序文から、1禁制論、2憑人論、3起源論、4母性論、5対幻想論、6祭儀論 とつづく各項目について本格的に論じたものである。

むろん、呉智英のこの本の中にも、その批判の内容は一部取り込まれている。

僕は、あの学生の頃の四十年前、三分の二あたりの「対幻想論」に到達するあたりで、「共同幻想論」に現実感、何のリアリティも感じなくなって、以来ぱったり吉本隆明を読まなくなった。国家が共同幻想だからと言って、人生観が変わったり、何事か起こるわけでもないと思ったからである。

山口昌男は、「共同幻想」と言うもので捉えようとしている枠組みを、吉本が説明するのに「政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいい、のちに<種族の父>も<種族の母>も<トーテム>も単なる<習俗>や<神話>も・・・と付け加えている」かなり幅広いものであるらしいと認識する。

「この問題の立て方の新鮮な点はそれが「幻想の共同体としての国家」と言い切ることから出されたようである。それは日常性の中に埋没していた意識を揺さぶるに大きな効果を持ったことは疑う余地がない。」(広告のキャッチフレーズみたいなものか?)

これが「共同幻想としての宗教」という形で問題が出されていたら、「当たり前だ、宗教はアヘンだというじゃないか」と誰も取り合わなかったに違いない。

「吉本氏の斬新さは、・・・体制の如何を問わず、我々の意識の外にも内側にもべったりはり付いてしまった「国家」を宗教、神話、習俗と併置することによって「国家」という我々の存在の規定的要素として聖域化しているものの過渡性を発いて見せたところにあるのであろう。」

しかし、吉本がこの編集者のインタビューで構成された「序」の中で、「わたしの前にわたし以外の人物によってこのような試みがなされたことはなかった」と発言していることに対して、それはないだろうといっている。

「氏が一流の演戯性を発揮しつつ断言するほど「世界思想というような分野」で「十年くらいは先に言っている」かはいささか疑問に思わざるをえない。」といい、1924年のデュルケームの「個人表象と集団表象」をあげ、既に同じような概念が取り上げられていたことを指摘している。

僕にとっては、今さらどうでもいいのだが、山口昌男の批判はかなり詳細にわたっているもので、興味のあるむきは読んでも損にはならないだろう。

ところで、山口昌男ですら小林秀雄と吉本隆明を「並置」したことにいささか感銘を受けたのであるが、一体なぜこんなことになるのか気になることであった。

ここで脱線につぐ脱線ついでに、両者の「わかりにくさ」、一種の悪文という共通項以外になにかふたりに相通じるものがないか考えてみようと思った。(我ながらバカだねえ!)

先に「吉本隆明という謎が解けたかのような気がした。」と書いたことへの回答である。 したがって、単に閑談と思っていただきたい。

このような「異様」な文章が世に出回るについては、当然のことながら出版社という関門を通り抜けたからに他ならない。その前に出版社には編集者というフィルターが存在していて、そこでふるいにかけられてしまったら著書が印刷すらされることはない。通常書き手にとって編集者は自らをプロデュースしてくれる一応偉い存在である。

山口昌男がかなり皮肉っぽく書いているように、吉本隆明のフィルターは「蛇ににらまれた蛙のごとき編集者」であるから「もっと分かりやすく書け」なぞとは口が裂けても言えるものではなかったろう。あるいは編集者自身が、論文にあれこれ注文をつけたら、かえってお前は理解が悪いと軽蔑されると思ったかもしれない。

そういえば、小林秀雄も編集者にはずいぶんと高飛車な態度であったという。自身も一時出版社を預かったことがあったらしいが、たぶんこのとき酒席で、編集者を一度ならずぶん殴ったといううわさがある。小林の酒癖の悪さは知る人ぞ知るで、編集者は皆警戒していたという。そういうことだから、「小林先生、ここのところをもう少し説明したらどうでしょう」などというものなら。鉄拳制裁を食らうこと必定であった。

仲間の作家、「百名山」の深田久弥など山登りの案内人くらいにしか思っていなかったというほどの人柄の悪さもあって、注文をつけるべき編集者には、触らぬ神にたたり無しとばかり敬して遠ざけられていたことは容易に想像がつく。

小林秀雄は1902年、東京神田の生まれ、吉本隆明はそれより一世代若い1924年東京月島の生まれである。世代こそ違うが、両者とも東京下町の出、江戸っ子というところが共通している。もう一つ、両者とも在野の知識人である。

ここからかなり大胆不埒な推理になるのだが、江戸っ子で在野という立場は、明治新政府に逆らった幕臣の位置にあるといってもいい。

それぞれ帝国大学、官立大学を出たが、アカデミズムの中にはとどまらなかった。アカデミズムとは、明治政府が推し進めた西欧化・近代化の総本山で、それに与することは西洋の頭と論理と文脈で、つまり西欧が開発した道具でものを考えることになる。

ご一新からそれぞれ五十年ないし七十年ぐらいのことで、やすやすと西洋人に頭の中身を絡め取られるのは野暮な田舎者、田舎の秀才の所業である。帝大出で偉そうに大衆を啓蒙するなど、根無し草の田舎者のどこにその資格があるものか。(こちとら江戸っ子だい!)

「俺は、同じことを自分の国の言葉で語ってやる」と思い、意地でも近代的に「分かる」言葉と文脈では語らないぞと独自の道を探した。

その結果、言葉は作り変えられ語り口もまた独自の(悪文)スタイルになった。

こういう気分は、ご一新に近い世代にはもっと濃厚にあった形跡がある。

山本夏彦翁に教わった話だが、ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」を抄訳した中江兆民が「俺なら、同じことをこの三分の一の文量で書ける」といったとか・・・。

ともかく、呉智英が取り上げている花田清輝のように、左翼を取り締まる官憲の目を欺くために、一読して何を言いたいのか意味不明の文章を書き、その中に読むものが読んだらあのことか、とようやく分かる仕掛けをしたというバカな話とはわけがちがう。

「近代化」の違和感をとことん避けて道なき道を進もうとした結果、小林も吉本も読み手をジャングルに導いてしまったようなものだ。

そういう吉本に何か共通点があると誤解したおっちょこちょいがいて、フーコーだかラカンだかガタリだかフランスの思想家を引き合わせたことがあったらしい。

「俺のはそう言うのじゃないから・・・」と口には出さなかっただろうが、お互いにさぞかし気まずかったのではないかと、勝手に心配している。

吉本についていえば、この違和感が後年<アジア的>ということこだわる態度としてあらわになった。そして最晩年には<アフリカ的>と言うことを言っていた。(背景に、マルクスの言葉があるのは明らかだが)マルクスが何を言ったか、マルクス主義がどうであれ、「非西欧」という概念がはじめから頭の中にあったせいではないかという気がしている。

「近代を創始しリードしてきた欧米の人口は二十一世紀の現代でせいぜい全人口の二割弱ですね、残りの八割強の人間の基本的枠組みは非西洋近代の経験だということになります。

非西洋における近代の経験とは、やはり「遅れ」というか、外来の情報・文化と土着の情報・文化のせめぎ合いの経験で、情報化世界の環境のもとでそれは、リテラル(明視)とイリテラル(盲目)の対立ともなるでしょう。

そういう世界にとって近代や近代の解体がどういう意味を持つのか。日本が経験したように、非西洋が西洋近代に同化したり失敗したりという経験は今後も世界的規模で繰り返されるはずですね。・・・・・・

その意味では、西洋近代より非西洋近代の経験の方が、いまや広く、普遍的なのではないか、西洋近代の本質は非西洋近代の経験として生き延びるのだと思えます。」

これは、山口昌男の論文が再録されている「吉本隆明の世界(中央公論特別編集)」の冒頭に掲載されている追悼対談ともいうべき見田宗介と加藤典洋の対談「吉本隆明を未来へつなぐ」の内、加藤典洋の発言から抜粋したものである。

要約すると、おおよそ次のようである。

「近代を創った欧米は世界的に見れば少数派になった。大多数を形成する非西洋世界が今後近代化するプロセスは、それぞれの国や地域の事情にしたがって(日本が経験したように同化したり反発したりしながら)多様な様相を見せると思う。その大多数の多様な経験こそむしろ世界の「あたりまえ」であり、その中で西洋近代の本質は継承されるであろう。」

つまりこうした局面を、吉本が「超近代」と呼んで、その先に<アジア的>さらに先に<前アジア的>という意味で<アフリカ的>という「予感」をおいたことに説明を加えているのだが、吉本はもうこの世にいないからそれでいいとしよう。

この発言は、僕が言った戯れ言(日本が経験した西欧近代とのせめぎ合い)の証拠めいたものになっているともいえるが、しかし、加藤典洋の言い方もかなりいい加減で、こういう発言を一言で言えば、(皆勝手にやるのだから未来がどうなるかなど知ったことではない)曰く「混沌」である。

確かに世界は多様である。

今時のアラブ―イスラム世界をみれば、西洋近代が勝手気ままに線引きした国境と民族や部族や宗教とその宗派や原理主義等々が絡んで、その将来を考えたら頭がくらくらするくらいのものである。それでも「西欧近代の本質は継承される」のだから、安心してみていろとでもいうのだろうか?

この程度のオプティミストが日本の知識人というのもなんだか気恥ずかしいことである。

いっぺんアラブの沙漠へ出かけてみたらいいのに。

ソーシャルネットワークが「アラブの春」を生んだと、どこに行くにもPC片手の東浩紀などは喜んだが、春のあとにはとんでもない嵐がやってきた。ネットワークといっても所詮、烏合の衆に過ぎないものを一体どうする気だといいたい。

「アジア的」という言葉もかなり怪しげな響きを持っている。

戦前の「大アジア主義」というのは、辛亥革命を身を粉にして支援した梅屋床吉、宮崎滔天ら、インド独立運動を助けた相馬黒光ら、黒幕として活躍した頭山満ら、など「アジア」は一つと思い込んだ素朴な人々などかわいいもので、帝国陸軍が「大東亜共栄圏」の概念規定をしようとしてどうしても矛盾を解けなかったくらい「アジア」のコンセプトは実像を結ばないものだった。実際は植民地解放に名を借りた侵略思想であったことをあげつらう気はない。それは確かに存在した。しかし、軍が曲がりなりにも世間に対して説明するためには、かなり真面目に「共栄圏」の成立を検討したのである。昨今の鳩山首相のような思いつきとは少し次元が違った。おそらくこの問題をもっとも深く研究したのは大川周明であったはずだが、いま一顧だにされないことはそれはそれとして惜しいことである。

マルクスのいう「アジア的」とは、19世紀半ばつまりいまから150年も前の「アジア的発展段階」のことであり、はっきり言えば「未開社会」同然のことである。

欧米人が「アジア的混沌」といったのは、彼らが想像もつかなかったはげしい無秩序がそこに存在したからであった。しかし、現地の人々がそれを「混沌」と意識したとはかぎらない。むしろ、あの目がくらむような暑さとまとわりつく湿気によって、欧米人自身の頭が混沌とした可能性の方が高いのではないかと思うこともある。

僕は90年代半ば、タイのバンコクで秋から冬にかけて三ヶ月ほど仕事をしたことがあったが、確かに昼間外に出れば三十度を超える暑さで汗だくになった。しかし、オフィスの周辺は掃除が行き届いており、中に入れば効き過ぎるぐらいの冷房で快適であった。

貧富の差によってスラムなどの「混沌」あるいは都市と農村の差は存在しても、ただいま現在いわゆる19世紀的「アジア的」という言葉に対応する実態などどこにもない。あえて「アジア」といえば、そこにあるのは西欧的概念でいう「近代国家」群だけである。

小林、吉本「江戸っ子」説などという脱線もこれくらいにして、この加藤典洋・見田宗介対談の中で最重要と思われる部分について取り上げ、長かったこの文をとじることにしよう。

この対談は、むろん吉本追悼として行われたものだ。ところが、亡くなって一月程度の時期だったせいか、吉本と出会ったいきさつやら「共同幻想論」には感激したとか尊敬する先輩だったとかまるで通夜の席で交わされる通り一遍のお話でしかない。

橋爪大三郎のような、吉本の功罪相半ばする業績を端的に総括する中身の濃い追悼を期待したら拍子抜けするものである。

そのかわり、加藤典洋の興味がもっぱら見田宗介と吉本の関係に向いていて、話題の中心はむしろそちらにあった。

というのも、見田宗介が1996年に著した「現代社会の理論」について、吉本がどのような反応を示したのかを知ることが、実は晩年の吉本を知る上で、かなり重要な問題だったからだ。

この「現代社会の理論」は、何年にも渡って今も続く、くそ面白くもない編集(呉智英もそう言っていた)を繰り返す岩波新書がめずらしく放ったクリーンヒットだった。もっともそう言っているのは僕ぐらいのもので、内容のすごさに較べるとあまり話題にはならなかったと記憶する。

僕はこれを読んで長年心にわだかまっていたものが氷解するという貴重な経験を味わった。

対談の中に、この本の内容を加藤がまとめた部分があるのでそれを引用しよう。

加藤:・・・見田さんは、「現実」の対になる言葉として、一九五〇年代を「理想の時代」、六〇年代を「夢の時代」、八〇年代を「虚構の時代」という広く知られるようになる区分を提示されました。この区分は「戦後」に沿っていますが、実は「戦後」という枠を内側から解体しています。社会学的な方法を援用しながら、自分たちが経験してきた「戦後」をその中に新しい視座を導入していわば脱構築している。・・・・・・見田さんはそこで、はっきりと、資本主義を否定しないと述べられ、これを前提に、国家への批判的スタンスを外したまったく新しい問題提起をされています。そのことに、人々は戸惑った。困惑したのでしょう。その結果、黙殺された、ということだったと思います。」

戦後半世紀にわたって続いた保守、革新あるいはサヨク・ウヨクの対立という不毛な議論に、まったく新しい視点を提供し、それによってようやく我が邦未来をも論じられるような風穴を開けた画期的労作なのである。

そして、到来した情報化・消費化社会とは、マルクスが考えてもいなかった資本主義社会の高度に発達した到達点だったという見解を示した。しかも、国家はそうした社会を支える根拠として存在し、それを否定する必要もないと論じたのである。

しかし、それが黙殺された。一体我が邦の知識人と言われているものたちの神経はどうなっていたのか?

僕は、営業を三年やったあと25才から会社を辞める40才まで15年間、マーケティング部門(最後の二三年は経営企画室でM&A)で働いた。

マーケティングは、消費者意識を研究し、社会動向を見据えて(市場調査)商品開発を行い、商品の利益計画および販売促進計画を担当する部署である。土台には社会学と統計学がある。

八〇年代に入って、ポストモダン思想のひとつである「記号論」マーケティングが先端とされた。モノそのものよりも、人々はデザインや情報、モード(流行)を購買しているという理論である。ところが、マーケティングは、例えば「T型フォードが売れなくなった」昔から、そんなことは知っていた。 しかし、企業もまた流行に弱いもので、当時は、大学の先生まで動員し、それを解説したり応用する講座が盛んに行われ、おかげで、ポストモダン(思想)とはどんなものか会社の経費で大いに学ぶことが出来た。

ここで肝心なことは、デザインやモード、つまり広い意味で「情報」を付加することによってモノは無限にその意味を変換していける、ということである。

僕らは、商品の寿命を可能な限り長く維持する技術を磨き、さらに消費者ニーズを探り当て新しい商品を開発して新たな市場を創造することが出来ると信じた。

「資本の自己運動」のただ中に放り込まれたようであったが、それは「労働者」のくせに快感だった。

ちょうどこの頃、 僕はあるとき上とは正反対に、「欲しいモノは何にもなくなった」と感じたことがあった。懐に余裕が出来たからではない。むしろ家のローンはあったし、安月給でかすかすの暮らしであった。なのに、買いたいものが思いつかないのである。

ここで僕が考えたことは、資本家と労働者はいつのまにか階級闘争という対立関係ではなくなったのではないかと言うことであった。

つまり僕がものを買わなくなれば資本家は困るはずである。資本家は労働者を相変わらず搾取するが、労働者がモノを買えなくなるほど搾取し過ぎれば、巡りめぐって資本家は自分の首を絞めることになる。労働者が同時に消費者でもあることによって、少なくとも階級対立という構造は変容してしまっている。

この時ふと気づいたら、19世紀の半ばにマルクスが社会の矛盾と言ったものの大部分が、解決されていたことになるのではないか、と考えた。

ところが、何の根拠もないくせに、資本主義そのもの矛盾は未だ解決されず、いずれ克服されるだろうし、「国家」もまたいずれ揚棄されるべきものという漠然たる思いは残っていた。

ここで対談に戻って、引用する。

加藤:・・・日本人はある時点までは、戦後の遺産をどう生かすかというように、「戦後」を基軸に考えてきました。ところが、ある時期から「ポストモダン」の枠組みに移行していった。若い人は自然にその吸引力に引き寄せられたでしょうし、戦後的な主題を緩めずに持ち続けた人は少しづつ時代遅れだといわれるようになりました。                         ただ、面白いことに戦後からポストモダンへと枠組みが変わる中でも、生き延びたものがあります。                        それは、一つは資本主義の否定で、もう一つは国家に対する否定です。この二つが戦後のマルクス主義、そしてある意味ではそれに批判的だったポストモダンの中でも、不思議な形で、否定の対象として命脈を保ってきた。

まるで、僕のことをいわれたようなものである。

リオタールが「ポストモダンの条件」(ジャン=フランソワ・リオタール、小林康夫訳、1989年、水声社)でいった「大きな物語の終焉」は、実践的な「自由な主体」や「人間の解放」といった物語、さらにいえば「精神の弁証法」とそれが生み出す「知の体系」という物語が、二つの大戦を通じて無効になってしまったことを指摘したのであるが、これは直接共産主義を否定したものではなかったにもかかわらず、気分としては革命のあとに人間の理想としてきた自由と平等の世界が実現するであろうと考える世界観=大きな物語が物事を図る基準ではなくなっている、つまりマルクス主義は思想の世界ではもうだめなんだといっているように思われた。

しかし、だからといってリオタールは資本主義的経済システムが正しいとは一言も言っていない。

また、同時期に書かれたボードリア―ル「象徴交換と死」では「シミュレーション」と「シミュラークル」が戯れる「ハイパーリアル」な世界といって、マルクスが言った人間の労働の本質がまったく別のものに取って代わろうとしていることを暗に指摘した。

このために、ポストモダンは何となくマルクス主義には批判的だという空気があったが、はっきりとマルクス主義はもうダメなんだと理論立てていうものはいなかった。

「ポストモダン」はリオタールの著作ではじめて使われたのだが、一つの時代区分を表すのにふさわしい言葉であった。僕はこうした気分の発端は、1968年五月革命の敗北にあったのではないかと思っている。

ここから様々な人々が様々な方向に思索の道を拡げていった結果が「ポストモダン」という時代だったのではないかと僕は考えている。

したがって中には、マルクス主義的な世界観の再構築を目指した者がいてもまったく不思議ではない。

対談における加藤の発言の続きを見よう。

加藤:・・・吉本さんは、1980年代の末のガタリやリオタールといったポストモダンの思想家との対談の中で「資本主義を否定してマルクス主義の可能性を広げているけれど、それは違うのではないか、その広げ方の中には倫理が密輸入されているのではないか」ということを強調して語っています。いま読むと、吉本さんがポストモダンとは距離をとりながら、戦後的な言説が弱まった時代の中で、独自の基軸を探していることがとても明確に分かります。

「広げ方の中には倫理が密輸入されている」という指摘が具体的にどういうことなのか知るよしもないが、吉本隆明はポストモダンの思想家たちとの近似性が取りざたされていたにもかかわらず、それとは一線を画していたことがわかる。

「倫理が密輸入」云々は、あるいは、人間の欲望を抑制する契機が含まれているとすれば、その可能性の広げ方はきっと挫折するだろうと言うことかも知れない。

この頃の吉本をまったく知らない僕としてはこれ以上深入りはしない。

では、見田宗介は「現代社会の理論」でどんな風に資本主義を「否定しなかった」のかその核心部分について引用する。

需要と供給のインバランスが「恐慌」を生むという資本主義の基本矛盾を、

「資本のシステム自体により需要の無限の自己創出という仕方で解決し、乗り越えてしまう形式が、<情報化・消費化社会>に他ならなかった。

このようにして<情報化・消費化社会>は、はじめて自己を完成した資本制システムである。

自己の運動の自由を保証する空間としての市場自体を、自ら創出する資本主義。人間たちの欲望をつくり出す資本のシステム。資本制システムはここにはじめて、人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性という、システムにとって外部の前提への依存から脱出し、前提を自ら創出する「自己準拠的」なシステム、自律するシステムとして完成する。」(「定本見田宗介著作集Ⅰ」岩波書店、2011年、P32)

「人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性」とは、人間が「自然」あるいは「共同体」に縛り付けられている状態のことをいい、そこから解放されたものが「市場」という回路を通して欲望の充足を図る(れる)ようになったことをいう。

さらに続けて、

「<情報化・消費化社会>は、誤解されているように、「純粋な資本主義」からの逸脱とか変容ではなく、<情報化・消費化社会>こそが初めての純粋な資本主義である。

マルクスはこの純粋な資本主義、資本制システムの自立と完成の形式を見ないで死んだ。そして資本主義の形成途上の形態、労働の抽象化された自由の形式のみを前提とし、欲望の抽象化された自由の形式を未だ前提することの出来ない資本主義の形態を、このシステムの純粋な完成態と見てその理論のモデルを作った。」(同、P33)

資本主義は、19世紀のマルクスが考えた矛盾(その解決は絶望的だった)をどうやら自己準拠型のシステムを作り出すことで乗り越えたのである。

僕はこれを読んだときに、自分の実感をなんと巧みに得心のいく論理で言い当てているかと思って感激した。マルクスの射程はここまで届いていなかったのか・・・

このあとの展開も、僕は何度も目から鱗が落ちる思いをした。何故途上国の人口は爆発するのかという問題をインドの事例を引いて説くくだりなどはフィールドワークの重要性を端的に示すものであった。「アジア的」と口で言うばかりではちっともアジアを語っていない。

人口問題の答えは、社会保障のないところでは子供が唯一の老齢保険であり、その幼児死亡率は先進国の数倍もあるといういわれてみれば納得の事実であった。

見田宗介は、こうした資本主義の新たな問題は、大きく二つあるとこのあと論じている。

一つは、これまで見て見ぬふりをしてきた生産前、つまり資源と生産後、つまり廃棄が枯渇や環境問題として無視できなくなっていることである。

もう一つは、南北問題、つまり貧困と格差ひいては地球全体の富の分配の問題である。

こうした現実を前にすると、資本主義かマルクス主義かという議論がいかにむなしいものかと思って、僕は以来そのような問題の立て方をしないようにしている。しかし、世の中はそう簡単にいかない。

この本が出てまもなく見田宗介と吉本隆明は対談していて、それは、同じ追悼号に収録されている。

加藤典洋の興味は吉本の反応であった。

対談は穏やかに友好的に行われている。吉本は、否定も肯定もしなかった。・・・・・・

さて、否定されずに残ったもう一つのテーマが「国家は揚棄されるべき」であった。

国家は「共同幻想」にすぎなくて国家がなくてもわれわれはやっていけると説いたのが「共同幻想論」であった。しかし、山口昌男が皮肉を交えていったように「我々の意識の外にも内側にもべったりはり付いてしまった「国家」、「国家」という我々の存在の規定的要素として聖域化しているもの」という現実が「幻想」として消えてなくなるわけではない。

「国家」の起源がどこにあろうと「いまそこにある」リアルな国家が「世界国家」のようなものに揚棄されるというならそのプロセスを説明しなければならない。しかし、今のところ千年経っても実現できるかどうかその手がかりさえ見つからない。

僕は国家についてはこのブログの別のところで、どう考えたかを書いた。(今さらながらNAMのこと(続)」)長くなるのでそれは省略しよう。

この文の冒頭で、僕はベランダで外に向かってなんだかコン畜生という気持ちで哄笑したと言った。

それは、「こんなざまになってしまった」と「共同幻想論」を読んでいた四十年前の僕や僕たちの世代に対する呪詛のようなものだった。

多くのものたちは、「現代社会の理論」に、戸惑い困惑し、その結果、黙殺したのである。

ということは、いまでも資本主義は克服されるべきで、国家はいずれ揚棄されるべきという漠然とした思いが生き残っている可能性が高いということである。

それは、言葉を換えれば、戦後的保守革新の対立の構図を何の現実感もないままひそかに継承しているに過ぎないのだ。

市民派リベラルの代表格菅直人は、危機管理も自身の感情管理も出来なかった。東大全共闘の一員だった仙谷由人は、尖閣問題を合理性のないまったく説明不能な処理をした。いずれも団塊の世代である。国家とは揚棄されるべき「暴力装置」(仙谷は「暴力装置」といって物議を醸した)と考えていたかどうかは知らないが、少なくとも、「国家」を戦後的議論から脱却した場所で何であるか考えた気配は感じられない。

猪瀬直樹を唯一の例外として、総じてこの世代はふぬけの腰砕けである。

橋爪大三郎にいわせれば、それが吉本隆明の及ぼした強力な影響力であった。

呉智英の「吉本隆明という『共同幻想』」を読んで、僕は自分の青春を笑い飛ばそうとしたが、まだ青春を総括していないむきもあるということに気がついて、途中で声がこわばった。

呉智英は、吉本隆明を偉いと持ち上げた言論人たちの責任を追及してこの本を締めくくっているが、ことの本質はそこにはないと僕は思っている。

僕は幸か不幸か吉本隆明には巻き込まれなかった。そのテクストが読み込めないものであり、理解したとしても、自分の問題とは感じなかった。それがいまある世界の問題とは関係しないのではないかと思った。

そんな個人的なことはどうでもいいが(いや、若い人たちにはテクストそのものへ肉薄しろ!といっておきたい)、問題は、吉本を偉いといって持ち上げてきた言論人なり団塊の世代なりが、「現代社会の理論」を『無視』したことにある。

現実世界がこんなにも変化したのに、「いつか来るはず」の世界を漠然と待っているだけの人生。それこそが吉本隆明という「共同幻想」にとりつかれてきた人々である。

いい加減に、自分たちの青春を総括すべきだろう。

と、そう呉智英には言って欲しかった。そうしなければほんとうに「戦後」の幕引きが出来ないからだ。

封建主義者、呉智英は吉本を持ち上げてきた言論人の欺瞞を指摘して一応は満足だろうが、自分は寺子屋の塾頭然として「論語」を講じるなどいかにも隠棲を図ろうとしているのは許せないぞ!

書き始めたときは、どうなることかと思っていたが、どうにか終わることが出来た。

明日からは、専門の劇評に戻ろう。「るつぼ」が書きかけのままだと言って、これを書き始めたのを今頃思い出した。

書きなぐりで気がひけるがこれでアップしよう。

最後に一言。おまえら、真面目に総括しろ!

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2013年1月26日 (土)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その6)

(暮れから正月にかけて微熱と咳が続き、それがおさまったかと思ったら今度は両足の腱がいかれて歩けなくなってしまった。そのときは気づかなかったが妙な姿勢を何時間も続けたせいであった。いまようやく立つことだけは出来るようになったが、常時痛みを感じ、すっかり気持ちが萎えてしまった。とはいっても、横になっている間頭だけは動いていたから何とか書きつないでおきたいと思っている。)

高橋順一の「吉本隆明と共同幻想」は、高橋と同世代の小林敏明の書評によって、その言わんとするところがほぼ明らかになった。(省エネで申し訳ない)ただし、共同幻想=国家論といってもそれは社会科学と言うより文学の範疇に属するもののようであった。哲学を専門とする学者が吉本の「共同幻想論」はきわめて情緒的な「国家論」だと結論づけたのは意外といえば意外だった。

それはそれとして、脇道もこれくらいにして元へ戻そう。

さて、呉智英が「共同幻想論」を手にしたとき(大学生の時)、その書名を誤読し、誤解していたという。

その頃愛読していた「少年マガジン」や「少年サンデー」でしばしば、超心理学、空飛ぶ円盤、なぞの古代史、神秘主義などがグラビアページで特集された。これらは、五、六年後の1970年代全般には、それぞれ、超能力、UFO、超古代史、オカルトと、名前を新たにして爆発的ブームになるのだが、当時はその準備段階であった。

自分としてはそんなものを信じていたわけではないが、そうした現象があることに興味があったし、それを信じ込む人々がいることも不思議であった。よく読んだのはむしろ、その事実の解明と盲信の心理を知りたかったからである。

呉智英にとって「共同幻想」とは、いわば、有りもしないことを事実と思い込む人たちの集団心理のことであり、「共同幻想論」とはその集団幻想を論じたものと思ったのだ。

ところが、「共同幻想」とはれっきとした吉本隆明の新造語であった。

それを、呉智英は「共同幻想論」につけられた冗長な「序」を引用しながら次のように整理する。

この論は、「これまでばらばらに考えてきた文学、政治、経済、思想、藝術を統一的に見る試みをしたい」というのが動機であった。

続けて「序」はこう言う。

「その統一する視点は何かと言いますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。なぜそれでは上部構造というように言わないのか。上部構造と言ってもいいんだけれども、上部構造という言葉には既製のいろいろな概念が付着していますから、つまり手あかがついていますから、あまり使いたくない。」

「上部構造」というのは、僕らの世代にはなじみの言葉で、いうまでもなく唯物論的史観でいう下部構造たる経済が、文学、政治、経済、思想、藝術など上部構造を規定するという考え方のことを指している。

それを吉本としては「幻想領域」と呼んでみたい、というのである。「上部構造」といってもいいが、それは、これまでマルクス主義者の間でさんざん議論され様々な先入主がすでに形成されていて自分の考えがそのワンノブゼムにされることを避けたいという意向が働いてたのだろう、と推測できる。

「ともかく、吉本隆明は、従来、社会の上部構造だと呼ばれていた、吉本用語でいう「全幻想領域」の構造を解明したい。それには、幻想を次の三種類に区分するのがよい、という。

第一が「共同幻想」、国家、法などである。

第二がペアの「対幻想」。すなわち性を核とした一対の男女関係の「幻想」で、家族を形成する。

第三が、「自己幻想」。自己、個体の「幻想」で藝術理論、文学理論、文学分野である。

もし、この通りだとしたら、「共同幻想」は先に言った「有りもしないことを事実と思い込む人たちの集団心理のこと」と誤解される可能性があり、「対幻想」もまた、恋愛における双方の勝手な妄想ととられかねない。また「自己幻想」というのも通常それは自意識過剰者の美化された自己のことであろう。これを「個人の観念」という意味に使うにしても、その説明に「藝術理論、文学理論、文学分野」と並べるのは不適切であり、あえて言えば、表出された評論なり小説なり詩歌なりの作品というべきである。

にもかかわらず「共同幻想」の「幻想」という言葉が文字通りに受け止められなかったことは幸いだった。

これには当時の世相というか吉本流の言い方をすれば「情況」がおおいに貢献した。「共同主観」は前にもいったとおり、メルローポンティや廣松涉はじめ実存主義や現象学の分野ではすでに一般的な言葉であったし、ジャン=ポール・サルトルの「即自」と「対自」の対概念は広く知られていた。つまり、「共同幻想」も「対幻想」も一見して有り得るという錯覚によって、幻惑されるに十分だった。かくいう僕もまた幻惑された口であったことはいうまでもない。

吉本隆明がこのあたりの事情を知らないわけがない。「幻想」によって「幻惑」を誘うことは織り込み済みだったに違いない。

呉智英は、そのことには触れず、例によって悪文を分かりやすく日本語訳する。

「このあたり全部を大まけにまけて、吉本隆明の意に沿って解釈すると、次のようになる。

人間は、物質または経済制度を下部構造とする幻想(観念)の体系を持っている。それは社会全体を束ねる国家や法になる場合がある。これは、社会構成員が共有する「共同体観念」のことなのだが、自分は「共同幻想」と名付けたい。また、男女・家族について考察すると、物質基盤だけではない幻想(観念)がそこに共有されており、これは「家族観念」と呼んでもいいのだが、「対幻想」と呼んでみたい。さらに一人ひとりの個人も幻想(観念)を持っており、小説や詩歌などの文学作品として結実する。これは「自意識」とか「自己表現」と呼んでもいいのだが、「自己幻想」と呼んでみたい。このようにすれば社会の上部構造と呼ばれてきたものは統一的に説明がつく。

と、こういうことなのである。」(P183)

そのような材料をそろえた上で、一体吉本隆明は何をしようとしたのか?

その「後記」から引用する。

「本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想のあり方からはじまって、<国家>の起源の形態となった共同の幻想にまでたどり着いたところで考察は終わっている。」

吉本隆明は、共同幻想(共同体概念)である国家の原初形を考察した、というのである。

では、何のためにそれが必要だったのか?

(読みにくい文章をそれでも我慢してなんとか読み続けていくと)

「次の二つが、吉本の主張なのだと分かってくる。

第一は、個と全、個人と国家、という問題への回答である。

つまり、個人としての人間と社会の一員としての人間、個人と世界という葛藤である。何故これを論じなければならないのかというと、

「国家とか法は共同幻想(共同体観念)の典型的なものである。それはしばしば個人を圧殺するけれど、それでも個人はそれを支持したりつくり出したりする。そこでは個人の存在目的は存在目的たり得ず、その意味で、個人と共同体は対立する構造を持っている。

この対立構造をどのように考えたらいいか?

「国家、政治などの共同幻想とは別に成立しうる個人幻想(自己幻想)としての文学・藝術、それらは本質的に個人性を持っており、制度としての表現の自由を論じるのではなく、文学表現が本質的に自由としてしかあらわれない」ということである。

その意味で、個人幻想は共同幻想に対して「逆立ち」(対立)していると言うことが出来る。

第二の主張は、男女二人の個人を基本として形成される家族と多数の人によって形成される国家という対比にかかわる。ここでは家族という人間のありようとその意味が強調される。

「吉本隆明が国家などの共同幻想に逆立ちするとしたもう一つの幻想(観念)が男女・家族の観念すなわち「対幻想」である。対幻想は、男女のペアとそこから広がった家族集団の幻想だから、一人の個人幻想と多数の共同幻想の中間に位置する。一面で個人幻想に近く、一面で共同幻想に近い。」

「要するに「二」は「一」と「多」の中間だから、一から多への移行形としてあるか、もしくは一と他に引き裂かれてそれぞれの方に収斂する、ということである。」

以下、引用と要約を試みる。

古来から少なくとも東洋では、家族を国家への移行形と捉えてきた。古く易経にも出てくる「国家」という言葉の構成法に、既にそれが読み取れる。

「修身、斉家、治国、平天下」

つまり、個人が自分の身を修め、次ぎに家族を整え、国を治め、世界を平安にする、という意味である。ここでは家が国へのステップであると考えられている。

一方西洋では、とりわけマルクス主義に代表される進歩史観では、家族や国家の原形を歴史の中に探り、またその到達目標を想定する。

マルクスの盟友エンゲルスは、そうした歴史観から「家族・私有財産・国家の起源」を著した。これは人間の社会を規定する三つの主要な制度の起源を論じたものである。

この著作は、十九世紀当時盛んになった人類学の研究者、アメリカのモルガンが著した「古代社会」に依拠したものである。

エンゲルスは、ここに取り上げられたアメリカインディアンの社会に「原始共産制」と「乱婚」を見たのである。そして、人類史の原初の時期に、私有財産もなく抑圧的な家族制度(道徳主義的な一夫一婦制、家父長制、因習婚など)もない、貧しくはあるが、素朴で満ち足りたユートピアを「自己幻想」したのである。この原初の理想郷が、豊かで便利で文明的なユートピアとして歴史の彼方に再臨する、というのが共産主義である。そのときこそ、フランス革命の目標であり、人権思想の中核である自由と平等は完全な形で実現し、人間性の全面開放となってあらわれる、とする。(これに一理や二理はあるが八理も九理もあるとは思わない。)

エンゲルスにおいては、家族と私有財産と国家はいずれ解体されるべきものである。吉本隆明の言い方では「自分という存在を圧殺する負担」だからである。しかし、吉本はこの三者をひっくるめて「負担」とする考えを否定する。国家は自分という存在に「逆立ち」する「負担」である。だからその負担を解体する方向で「共同幻想論」は書かれている。しかし、私有財産については吉本の判断ははっきりしていない。

(ここで、埴谷雄高とのよく知られた論争を思い出してみよう。著作が売れて印税が入るようになった吉本が、家を建て、コム・デ・ギャルソン=流行のファッションに身を包みマスコミに登場するようになったのを資本主義のぶったくり商法に荷担していると埴谷が批判したのに対して、自分でかせいだ金で何をしようと勝手だと反論したところを見ると、「私有財産」を否定しているわけでないことが読み取れる。と、呉智英は判断している。)

もう一つ決定的にエンゲルスと違うところは、家族論である。

先に見たように、「対幻想」の「二」は「一」と「多」の中間だから、一から多への移行形としてあるか、もしくは一と他に引き裂かれてそれぞれの方に収斂する、という性格を備えていた。

家族観念が部落の共同体観念に一致するためには、家族意識の空間的拡大が必要である。(つまり、「多」の方向に向かうための契機のこと=先に見た高橋順一の「夫婦というペア」ではなく『兄弟姉妹』の対幻想こそが「共同幻想」へ向かう結節点であるとする点のことである。)

しかし、家族観念といっても、これが夫婦のままでは空間的拡大は難しい。一対の男女である夫婦は内閉的観念空間を形成する、夫婦も共同体であるが、そこに見られる共同性とは別個の共同性である。

ここから吉本は、国家という共同体に収斂されない「対幻想」」に注目しこれを重視する。

このようにして吉本隆明は「共同幻想論」で、エンゲルスばりに「家族。文学、国家の起源」を論じた。そのうち文学は本質からいって、国家に対して「逆立ち」する。そして、家族は男女のペアという面に着目すれば国家に合体しない。それ故、この二つは国家という怪物に拮抗しうる障壁になる。これが吉本の主張であった。

こうした論が六〇年代後半の若者に理論的にではなく感覚的に好まれたのは、吉本の主張は民主主義そのものであり、自分たちの生き方を肯定的にとらえているという実感めいたものがあった。そこには繁栄があり、私生活があり、進歩があり、しかも人間性解放という理想までがあった。

そして、呉智英はつぎのような疑問を呈して、「共同幻想論」の項を終える。

だが、文明論的に考えてみれば、これはただ「個」という欲望、「男女」という欲望に無限の期待をかけただけではないか。欲望はまちがいなく社会を豊かにする。欲望こそが豊かさの原動力である。しかし、その果てにユートピアが来るのか、荒廃と破壊が来るのかは、容易に答えは出せないのである。

呉智英も悪文と格闘してお疲れの様子で、歯切れの悪い結論にしてしまったようだ。

そこで、僕が吉本関連では名著だと前にいった橋爪大三郎「永遠の吉本隆明」(洋泉社新書、2008年、吉本存命中)から少し長い引用をしよう。

「ヘーゲルの弁証法は、まず意識からはじまります。対象意識があり、自己意識が生まれ、欲望の主体となって市民になる。そこでは、みんな、自分のことしか考えない。しかし、そういう市民が集まると市民同士の利害が矛盾し、その矛盾から、意識はさらに高次の段階に進んでーーここではホッブスに似ていますがーー国家というものが出てきます。国家も、やはり意識のかたち、その高次なかたちなのです。

どうして市民の集まりから国家が出てくるのか。ここは自己幻想と対幻想から共同幻想が出てくるという論理とよく似ています。そして、吉本さんのロジックは弁証法なのです。そういう意味でもヘーゲルと似ているんですが、でもヘーゲルは、逆立ちとはいっていないのです。

吉本さんが逆立ちということには共同幻想などなくても、自己幻想と対幻想さえあれば人間はやっていけるという楽天的なオプティミズムがある。これが「大衆」だと思うのです。一人ひとりの生活者が、自分のことだけを考えていけば社会は成り立つんだよ、というメッセージなのです。権力をなくすには、これしかないわけです。このように「共同幻想論」は、権力をなくしても人間は生きてゆける、社会は成り立つということを、理論化した著作だと、私は思うのです。」(P59~60)

「大衆の原像」をうまくあしらって、国家権力をなきものとしたい吉本の意図を解説したものとしてわかりやすい。

僕なりに付言すれば、

共同幻想=上部構造だといっているのだから素直に読めば「共同幻想論」は「上部構造論」ということである。

「上部構造」はその時代の「下部構造」すなわち経済活動の様相によって規定されるというのだから、それは常に「個人」と「家族」から出発して「上部構造」に至るという道筋を通るわけではない。「個人」にしても「家族」という考え方も既に、上部構造の一部だからである。

エンゲルスのいうように、アメリカインディアンの暮らし方を一つの理想とするなら、それを実現していない現実社会すなわち上部構造は個人や家族と対立すると言ってもいい。しかし、現実の国や法=上部構造が、常に個人と家族と対立するという仕方で存在するだろうか。確かに何かをしようとして国家や法が立ちはだかることはあるとしても、逆に個人の自由や家族の権利を守るのも国であり法である。どちらにしろ国や法の存在を自らが認めているからに他ならない。

また、「個人」や「家族」が常にフロイト的欲望のもとで生きているというのは全くの迷信で、その時代を生きる人々によって「個人」や「家族」の概念は相対的流動的に変化している。戦前と戦後の民法がまるで違ったのを見れば明らかである。

どうもドグマにとりつかれたような印象なのである。

さて、橋爪大三郎によれば、吉本隆明は「無教会派の祭司」である。

(スターリン主義などの)マルクス主義の正当性をめぐる争いをカソリックとプロテスタントの分派活動にたとえて、教会はなくても信仰は可能だとした無教会派に似ているというのである。聖書と祈りさえあれば個人の信仰は神に近づく道の一つとした 内村鑑三らで有名な無教会派である。

「キリスト教のそれまでの常識は、悪魔とか国家とかあるわけだから、教会を作らなければ信仰を守ることが出来ない。しかし個人に立脚するならば、個人と思想があれば、理想を追求するのに何の問題があるだろうか。社会主義・共産主義にとって、権力は究極的に否定されるのですが、しかし、それを手段として認めないということになると無教会派にならざるをえず、テキストと祈りという形式になる。」

吉本のそうした態度が、当時の知識学生に与えた大きな影響は二つあるとしている。

「一つは、万能の批判知識が手に入ることです。」

現実の共産党や新左翼党派は、権力を手に入れようとして必ず失敗する。だから個々人はそれに加わらないことで、彼らに対して優位に立つことが出来る。しかも自分はテキストと祈りの生活をするのだから自分の知的活動を肯定できる。かくして、非政治的なことが政治的に正しい態度であるということになる。

もう一つ、同時にこの裏返しとして、まったく無能力の状態に陥ってしまう。現実との接点をもてなくなるわけだ。しかし、いずれにしても生活者として生きて行かざるをえなくなる。そうすると、信仰と祈りの生活ではなく世俗の生活が待っている。

しかし、それでもいいんだという最初の自己肯定があったために、それが一種の「転向」であったことは忘れて図々しくふるまう。それが団塊の世代が嫌われる要因であった。ぶうぶう文句を言いながら、現実を肯定する態度の鈍感さは、吉本の影響力の帰結するところであったというのである。

「社会主義・共産主義思想を、個人の資質から考えて個人化し、権力という概念を問題化し、それを否定的に位置づけ、そして破壊してしまった。革命を現実の課題としなくなった。」そういう点が吉本隆明の画期的なところだと橋爪大三郎はやや皮肉を込めて評価する。

これは、かつて呉智英が、吉本隆明は、共産主義に片足を突っ込んだふりをしながら、それ自身を批判するという絶妙な立ち位置にいるといったことと相通ずるところがある。それは自分は絶対に批判を浴びないという絶妙なポジションだからであった。

さて、つぎは、見田宗介と加藤典明の対話を引用して、短く僕の言いたいことを言って終わりにしようと思う。ここまで一気に書いたので、不備があったかもしれないが、病み上がりでいささか疲れてしまった。次回はなるべく早くしようと思う。


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2013年1月 2日 (水)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その5)

吉本隆明=ラカン説、精神分析=ペテン師説にまで発展してくると、いよいよこの稿のテーマから遠ざかってしまうのだが、もう少し言いたいことを言ってもとに戻しますから・・・・・・。

次ぎに書棚に見つけたのは、高橋順一著「吉本隆明と共同幻想」(2011年9月、社会評論社)であった。高橋は1950年生まれで早稲田大学教授。吉本の影響をもろに受けたと思われる世代である。

高橋はアカデミズムの人らしく、まず吉本の生きた時代を概観し、 その思想の必然性をくっきりと浮かびあがらせる。

思想とは、どんなに普遍的な価値を持つといえども、時代から切り離しては語れないものである。その意味では、番付をつけるというような乱暴な態度に対して、実に順当な前提で論をはじめる。

1923年生まれの吉本と高橋は27才と親子ほどの違いがあり、吉本が、軍国少年を体験したのに対して、高橋が60年安保を迎えるのはわずか10歳の時である。

この10歳が物心のつく頃、吉本隆明は新左翼の理論的支柱(ただし、そう思われていただけ)であった。

この支柱は、なぜか軍国少年であった過去を語らず、それ故にというかそのかわりに「自立の思想的拠点」を強調した。

高橋は、それなら俺にも分かると思ったであろう。

「言語にとって美とは何か」が、当時のスターリン主義文学理論に対するアンチテーゼであることを宣言「しなかった」ために、それは絶対的ともいうべき独自の地位を築いた。

同じようにして、「共同幻想論」が、象徴的な言い方をすればレーニンの国家論に対するアンチテーゼであることを宣言「しなかった」ために、それを世間が、いわば時代から屹立した独自の理論として奉ってしまった。

つまり普通は、「何々はこうだ」が、それに対して「俺はこう考える」、とするところを、論の構造から言えば動機あるいは前提となる「何々はこうだ」を省いてしまったのだ。(そのために意味がよく読み取れない論旨になり、晦渋な悪文がさらにわかりにくさを助長させた。)「俺はこう考える」だけが一人歩きしたために「言語美」も「共同幻想」も時代から屹立しているように見えた。

したがってそれは、絶対的価値ではないかもしれないが、追求するに足る真実に違いないと誤解するのはやむを得なかった。吉本隆明がカリスマとなっていく過程がどうもそれであるらしい。

高橋順一が、吉本との年齢差と経験した時代のあまりの違いに気づいたときは、遅かった。そのようにしてすでに「共同幻想」に巻き込まれたあとだったのだ。

この本の書評を、高橋をよく知る友人の小林敏明(ドイツ・ライプツイヒ大学教授)が書いている。

「ここであつかわれる対象はそのまま彼の代替不可能な一生を左右した事柄であり、それゆえに彼はいやおうなく肉声で告白気味にも語らなければならなくなっているからである。」

小林は、吉本教信者、高橋順一を「いたわる」ようにして続ける。

「初期吉本のキーワードとも言うべき『関係の絶対性』という概念をめぐって・・・・・・私にはこの概念はかつてから一貫してわかりにくかったし、今でも相変わらずわかりにくい。あっさり言うと、なぜ吉本はこれをたんに「客観的現実」と表現しなかったのか、その「意図」が本人からも、また彼を解釈する者たちからも明確に説明されてこなかったからである。それは廣松渉の一見よく似たテーゼ『関係の一時性』に当初から著者による綿密な理由づけがなされていたのと対照的でさえある。本書のなかでも高橋はこの概念が自明であるかのようにあつかっているが、それは吉本ワールドの読者にしか通用しない『黙契』にすぎない。」

また、高橋の著作の注目点として、次のように評価している。少し長いが引用する。

「吉本の有名な個体幻想、対幻想、共同幻想の幻想トリアーデは、もともとヘーゲルの家族、市民社会、国家に着想を得たものであろうことは、これまでにもよく指摘されてきた(ちなみにエンゲルスの家族、私有財産、国家も同列に加えてよい)。しかし日本には彼よりずっと以前に同じところから着想を得た者に『種の弁証法』を唱えた田辺元がいる。だからこの吉本のトリアーデが田辺の個、種、類を連想させるのは不思議ではない。つまり、吉本の共同幻想論の骨格は思われているほど特異なものではないということだ。

特異だったのは、吉本がこのトリアーデのもつダイナミズムの源泉を対幻想に求めたところにある。言い換えると、高橋も強調しているように、国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところにある。それは当時画期的だった。とはいえ、この対幻想はたんなる男と女のペアないし夫婦をモデルにした対幻想ではない。吉本=高橋によれば、なかでも『兄弟姉妹』の対幻想こそがそのポイントになるという。この対幻想は『起源としての共同幻想』に外部に向けた空間的拡大をもたらすがゆえに、そこから『国家としての共同幻想』への移行を可能にする結節点となる。だから高橋はこの結節点に着眼して共同幻想の解体と無化の戦略的ポイントは原理的には、この「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想のベクトルを逆向きにすることにあると言う。」

高橋順一の営為が、吉本の『共同幻想論』をどうにかアカデミックなタームで西欧哲学の文脈の中に取り込んだうえで、議論を普遍化しようとしたものであるらしい。

山本哲士の著作についても同じことはいえる。

山本や絓が吉本とラカンの関連性に言及するのは、この小林の文の中にある「国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところ」だという点に根拠があるのだろう。

重要な点は、「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想(すなわち人間の意識下にある情動のようなもの=フロイト的なもの)のベクトルを逆向き(逆立ち)にすることによって生じるのが『国家としての共同幻想』だとする点である。

そして、小林はこのパラグラフを次ぎのような一見して異質なものを持ち出して、締めくくる。

「これまで吉本のなかにこういう視点を読み込みえ、それをさらに展開しえたのは、おそらく小説家の中上健次ただひとりだけであっただろう(『枯木灘』『風景の向こうへ』参照)。」

つまり、小林によると、『国家としての共同幻想』とは、中上健次の小説の中で展開されるようなものであった。それでは『国家としての共同幻想』は、具体的には現実に存在するわれわれの知るところの「国家」ではなく、フィクションで表現されるより他ない「国家」と言うことになりはしないか?

つまり、イリュージョン=幻想としての国家、たとえ話の中の国家。それを論じたのが「共同幻想論」だとするなら、もはやなにをかいわんや、である。

僕は、少し性急に結論を求めすぎているようだ。

この点は、最後に呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」の中で確かめようと思う。

つづく

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2012年12月28日 (金)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その4)

「吉本思想」は、

「『ものの考え方』の≪表現≫水準が、いままでにない独自なものとして、ヘーゲルやマルクスの先に切り開かれている。サルトルやデリダなどの二流の思想とは明らかに隔たった一流の思想である。

私が、一流の思想と評定しているのは、フーコー、ラカン、吉本隆明、そしてそれに比しうるものになっているのが、アルチュセール、プルデューであり、二流がデリダ、ドゥルーズ、ハーバーマスなどであり、それに比するのがガダマー、リクール、廣松涉など、三流が、サルトル、バルト、レヴィ=ストロースであり、あとはポストモダニズムなど有象無象の雑魚である。ただ、研究者の質としてはミシェル・ド・セルトー、ロジェ・シャルチエ、リュック・ポルタンスキー、ジョン・アーリ、スコット、ラッシュ、アルマンド・アッテラール、等々たくさんいる。だがそれは『思想』とは違う。『思想』とは自己表出がなされえていることであって、世界が領有されていることだ。したがって、二流とは言えたいへんなことであって、それなりの評価をした上で、格付けている。思想の格付けは、自らに対してなしていることであるだけではない、他者に対して自分がいかにあるかを表明することでもある。」

僕はこれを読んで、思わず声を上げて笑いそうになった。浪花節を思い出したのである。

先代の広沢虎三「清水次郎長伝」、「石松三十石船」の段。例の「寿司食いねえ。神田の生まれよ」の場面である。

「一番は、槍の使い手、大政よ。二番は、居合抜きの小政。三番は、増川の仙右衛門。四番は大瀬の半五郎。五番は法印大五郎、六番は小松村の七五郎・・・・・・・うるせえな、あとは一山いくらのガリガリ亡者だあ。」

「吉本隆明の思想」(2008年、三交社)序論の冒頭部分にある文章である。この番付表の勧進元ともいうべき御仁は、山本哲士、元信州大学教授で現在、ホスピタリティ環境学専門家である。

僕が三十代半ばの頃、家族のことで深刻な問題を抱えて悩んだとき、つまり男と女の性差について「思想を自己表出」しようとしたとき、「ヴァナキュラーなジェンダー」という概念を一種の補助線にして、山本哲士流の言い方にすると「新たな地平を拓いた」ことがあった。

イヴァン・イリイチが「学校化、病院化」(社会を権力システムに編成すること)に異を唱えていることは、以前から知っていたが、その頃になると「シャドウ・ワーク」を書いて女性というジェンダーに独自の光を当てるフェミニズムの議論を展開していた。

このイヴァン・イリイチに関していろいろ漁っていたときに、当時メキシコにいたイリイチのもとに遊学・研究していたのが山本哲士で、この僕とほぼ同世代のバガボンは、その思想のいい意味での広報マン的役割を果たしていた。

この頃から、彼独特の言葉遣いで読みにくさはあったが、この本でも最初にことわっているようにアカデミズム、すなわち報酬をもらって研究するのはホンモノとは言えないと思っているようで、はなはだ迷惑なことに新語造語を説明もなく乱用するところなど自らの異端性を誇りにしているところが見える。

確かに、思想家や研究者の番付を作るような所業は、アカデミックな立場ではやれないものだ。だから、この冗談めいた仕業もホスピタリティ(おもてなし)の一環としては面白いと思ったが、これで、存外本人は真剣なのである。

「二流とは言え、それなりの評価をした上で、格付けている。」のである。

世の中に格付け会社というものはあると聞いているが、これは金を出して格付け(番付)を買う者がいるから成り立っている。

一体、山本哲士は誰に頼まれて思想を評定などしたのであろうか?

そして、つぎの「 思想の格付けは、自らに対してなしていることであるだけではない、他者に対して自分がいかにあるかを表明することでもある。」

というのも意味がよく分からないながら、自分の立場はこうだ、ドーダ!とやや自慢しているようにもとれる。

すなわち、俺にかかったら、吉本隆明は。ヘーゲルやマルクスの次ぎに来る偉い先生で、それに較べりゃデリダなどは二流、サルトルに至っては三流、ポストモダンの有象無象など番付にも入らない雑魚どもと言うことになるのだぞ!ドーダ!、といっているのである。

つまり、ひとり自慢の番付表。

ここにもやはりドーダの先生がいた。

「吉本隆明の思想は、二十世紀に日本が世界へ向けて表出した最大の、重要な思想であったと二十一世紀には評され、検証され新たな地平で継承されるであろうと1986年の時点において私は記した。」

山本センセは予言者でもあったが、この言い方、吉本をジェジュに変えたらマチウいや間違えたヨハネでも言いそうな言葉と思いませんか?

以下少々苦痛かも分かりませんが、引用。

「フーコーのディスクール論は、『すでに語られてあること」のエノンセの集積体を明らかにするものであったが、吉本の幻想論・表出論・心的疎外論は。表出、生成の初源を探り当てていくもので、語られていく以前、書かれていく以前、イメージされる以前、等、が解説される、人間・歴史の初源を明かすものだ。フーコーがディスクール的プラチックの域を切り開いたことに対応する位置を、吉本は、<言理>として切り拓いたというように概念をあてたい。言説でも言述でもなく、この、言理の理論を吉本思想の基本としたい。吉本の言理は、幻想をめぐる幻想理と、言語表出をめぐる表出理と、心的疎外からなっている、『理』のディスクールである。この<理>のディスク―ルとは、実存主義・構造主義・マルクス主義をこえ。内へ向けた『論理』、外へ向けた『理論』となっているのも『主体と構造』の対比をこえているためである。・・・・・・・」

大体全編がこの調子で続く、全500ページの吉本思想解説礼賛本である。

けなしているわけではない証拠に、目次くらいは付け加えておこう。

はじめに

序論 吉本思想の全貌

0 思想の基準

Ⅰ 吉本思想の三つの本質論

Ⅱ 「ハイ・イメージ」論

Ⅲ <アジア的ということ>の位置

Ⅳ ナショナリズム論と天皇制論

Ⅴ 吉本隆明とフーコー

Ⅵ 文学と詩への境位

終章

最初に言い切っているように、山本哲士は、吉本隆明を、ヘーゲル、マルクスに続く偉大な思想家だということを渾身の力を込めていいたいのである。

しかし、山本が思想家番付の勧進元だと自ら任じても、一体誰にそれを認めさせようとしているのか?

少なくとも英語くらいには翻訳しないとせっかく作った番付もあまり役には立たないのはないか。

もちろんその前に、吉本隆明そのものが翻訳されてないと話にならない。

誰かが、吉本本人にそのことをいったら「俺のは、そういうんじゃないから・・・・・・」といったとか・・・・・・。

(それを聞いて僕は、吉本隆明という謎が解けたかのような気がした。それは、後で触れる橋爪大三郎の小篇にして名著「永遠の吉本隆明」によって触発されたことであったが・・・・・・。)

ともかく、この世代の書くものは、他人が読んで理解出来るかどうかなどお構いなしに、勝手に書きなぐって、いい気になっている場合が多い。おおかたは学生運動のアジビラの延長でいいと思っているふしがある。

ザッと、見ただけだが、山本の学問が進んだせいか、イヴァン・イリイチの頃よりは症状が一段と進んでいるようにお見受けした。

関心のある方は、3800円出して是非読んでいただきたい。

次ぎに手にとったのは、やはり2008年に出た絓秀美著「吉本隆明の時代」(作品社)であった。「思想」と「時代」がワンセットになってちょうどよかろうと思ったが、こちらは必ずしも吉本礼賛本というわけではなかった。

序 章 「普遍的」知識人の誕生

第一章 一九五〇年代のヘゲモニー

第二章 ドレフェス事件としての六〇年安保

第三章 六〇年安保後の知識人界

第四章 市民社会と大学の解体

終 章 「六八年」へ

と、目次を見たら、吉本隆明を中心に据えて、戦後左翼論壇史を概観したような趣である。

絓の経歴(元日本読書新聞編集長で、関西大学教授)を見たら、この程度の内容なら手持ちの古い在庫をはき出した在庫一掃セールのようなもので、吉本教信者には不満かもしれない。

そもそも吉本信者でもない絓がこの本を書いた理由は、最近亡くなった学生運動の頃からの友人が吉本ファンだったせいだというのである。吉本に傾倒していたこの友人が残した蔵書を形見としてゆずり受けたことがきっかけで、いまはなき彼(ら)との討論のためのレジュメのつもりで書いたのがこの本だというのである。(「あとがき」より)

なあんだ。だから古証文を引っ張り出したみたいなことになったのか・・・

ところがこのあとが面白い。

さらに、絓はためらいながら、亡くなった友人が、70年代に難病を患い故郷に帰還せざるをえなくなった際に、昭和天皇と吉本隆明に手紙(葉書)を出したことを差し出した。手紙が届いたものかどうかはわからないが、この本を書いているうちに、友人がそんなことをした理由が分かるような気になったというのだ。

つまり、吉本隆明とは、この友人がそのような状態になったときに何か手紙(葉書)を出したくなるような存在ではないかと思ったらしい。(この本のきっかけになった出来事だから、ここは重要ですよ、皆さん!)

そう思うようになったのは、「ガタリ派の精神科医で美術評論家でもある三脇康生からの示唆である。」

どんな示唆を受けたか

「詳述ははぶくが、吉本隆明はラカンのごとき優れた精神分析家だと思われる。それは、吉本の『心的現象論』がラカン理論に近いということではない。存在自体がラカン的なのだ。事実吉本のまわりには、本書でも繰り返し登場する島成郎をはじめ、60年代日本の精神医療を担う医師が蝟集していたし、精神を病んだ活動家が吉本宅を訊ねるということもしばしばあった様子である。・・・

ラカンは、精神分析治療とは分析主体(被分析者)をあれこれ分析することではなく、分析主体の話すことに句読点をつけてやることだといったが、『聞き上手』として知られる吉本も、そのような分析を行うことで来訪者の精神を治癒していたのではないだろうか。」

このあと、「そして、そのようなこと自体が、ラカンにも似て強力にオイディプス化する。・・・・・・本書は精神分析家・吉本に対する『アンチ・オイディプス』として、(この友人)のために書かれている。」と突然訳が分からなくなる。

それは、ドゥルーズ・ガタリを知っているものたちとの共犯関係を強要するようなもので不愉快であるが、ともかく、ここで絓秀美は吉本隆明=精神分析医として神格化するという意味では、立派に吉本信者ということが出来る。

つまり、隠れ吉本教信者。

ここで、山本哲士の作った番付を思い出してもらいたい。

何と、ラカンさんは山本勧進元によれば吉本隆明とともに第一流に上げられている御仁なのである。

ラカンといい、ガタリ派の精神分析医といい、精神に変調を来したものを治癒する行為といえば、米国映画(近頃仏映画でも見るからあれは世界中に蔓延しているのだろう)などでよく目にする光景を思い出す。

長椅子にくつろいだ患者が際限なくしゃべるのを聞いているだけで一回400ドルもふんだくるという医者である。あれは患者の話に句読点をつけてやるだけの行為だというのか。

道理で、占い師よりもたちの悪いペテンだと思っていた。

ガタリもラカンもユングも、元はといえばフロイトだろう。「アンチ・オイディプス」などどうでもいいが、フロイトなら若い頃ずいぶん読んだ。あの陽性の書き方が面白くて当時翻訳されていたものはほとんど読んだような気がする。大半は忘れたが。

フロイトは、それまでなかった学説を一人で作りあげた。しかもその中身はかなり文学的であった。「オイディプス・コンプレクス」など典型的に文の学である。しかし、その原理に据えたリビドーは(あたりまえのことだが)、あくまでも仮説だといった。仮説だってないよりはいい。しかし、その原理に「仮説」を抱えているものが、複雑な論理操作の果てにさも絶対であるかごとく語るのは詐欺である。

こういう詐欺師と吉本隆明をいっしょにするのはひいきの引き倒しというものだろう。

吉本は印税で食えたから暇だった。暇で俠気もあり人の良さそうなおっさんのところへ相談に行けば親切に話を聞いてくれそうな気がした。しかも、ガタリ派の精神科医がどんなペテンを使ったかどうか知らないが、本人ではなく友人がそう思ったに違いないと確信したというのである。ただそれだけのことで教祖に祭り上げる神経はどういうものか?いっぺん精神分析医にかかってみたらどうかと思う。

フロイトがとりだした「自我」とは、毎日肉を食って生きている、しかも生まれたときから唯一絶対の神の存在を感じながら生きてきたものの「自我」である。人間は神によって他の動物とは違う存在として選ばれしものである。したがって、人間はサルから進化したといえば、異端審問を受けそうになる。

しかし、進化論というのは実にキリスト教教理と似ている。神の国へ近づくという時間感覚がすり込まれていると、何か一方向にしか時間が流れないという気になるものだ。「では、なぜただいまサルから人間に進化する現場を目撃できないのか?」という有名な冗談めいたパラドクスに進化論は応えようがない。

これに対して、エコロジー=生態学は進化ではなく遷移だという。遷移とは生物が環境に適応しようとして形態を変化させることだ。

生態学的に言おうとすれば、人間は、ある種のサルが、環境に適応しようとして遷移を繰り返した結果だということが出来る。

それが進化ではないかと言うだろう。

それではもう一つのアナロジーをとりだそう。

原始共産制→(矛盾)封建制→(矛盾)資本主義社会→(矛盾)共産主義社会(完成)

進化論とよく似た過程をたどるのである。ひが目かもしれないが、汎神論的においがぷんぷん漂っている。

これを生態学的に読み替えたら、かなり精神は健康になると僕はひそかに思っている。

フロイトとはまったく別に「自我」の発生学とも言うべきものに果敢に挑戦した事例がある。動物としてのサル=人間の中に「利他」的感情がどのようにして生まれたのかというきわめて困難な課題である。

大沢真幸をして「我が師ながらその手があったか」と感心させた真木悠介「自我の起源」(岩波現代文庫)である。

もちろん、性急に答えを求められる主題ではない。真木悠介(実は見田宗介で、これもあとで言及する)が切り拓こうとした「地平」は、僕の知る限り(といってもたいしたことはないが)、その後誰によっても引き次がれていない。

日本の大学教授もフランス人ばかり有り難がっていないで、こういう我が邦人が提起した困難な課題に挑戦すべきではないのか。

一回400ドルのペテン師に腹が立つのは、それだけではない。

我が邦自殺者は毎年三万人を超えている。そのうちの大半は鬱病だという。鬱病を「治癒」させるのは精神科の仕事だろう。精神科と精神分析は違うとは言わせない。

患者の話に句読点をつけるなど誰も頼んではいやしないから、三万人の内せめて十人でもいいから精神的な地獄から救いだしてやってもらいたい。のんびり美術評論なんぞやってる場合じゃないだろう、ええ、ガタリ派の精神分析医さんよ!

腹が立ってきたから、かく言う僕自身の立場を説明しようとしたが、今日はこの辺でやめる。

またまたつづく。




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2012年12月25日 (火)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その3)

吉本隆明で唯一苦労しながら読んだのは「共同幻想論」であった。

というのも、モーリス・メルロ―ポンティの「共同主観性」(間主観性ともいう)を勉強していた時期であり、そのタイトルに興味を持ったからである。

むろん、共同幻想とは「国家」論であり、現象学や実存主義とは縁遠いものであった。

その書き方は、詩的な言語で満たされていたが、学問的な緻密さに欠け、結局結論は、難解、晦渋な文章の霧の彼方に消え去っていると言った印象を持った。

同時期、岩波の「思想」に連載されていた廣松涉の「世界の共同主観的存在構造」を読んでいたが、「国家という共同幻想」に至る議論の道筋として、その「認識の四肢的構造連関」のほうがはるかに精緻で、学問的にも意義深いと思っていた。

要するに、「共同幻想論」は在野の思想家の議論として耳に入れておく程度のものと僕は思っていた。

こう書くと怒るものも出そうだからいっておくが、「在野」が必ずしも程度が低いとはいわない。

もしもほんとうにそれが「すごい」というなら、それはあらゆる批判にさらされて、それでもなお評価すべき点があると確認されなければならない。

ところが、当時「共同幻想論」が「すごい」というものはごまんといたが、まともに読んで正当に評価したものはほとんどいなかった。まして、呉智英もいっているが、外国語に翻訳されたことも(英語でさえ)一度もなかったのである。

だからといって、アカデミズムが正当かといえばそんなことはない。

ついこの間までアカデミズムの中にいた作家の小谷野敦が書いているが、一時期日本の思想業界を席巻していたポストモダンについてもっともな批判をしている。

「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。
ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)

僕も、一時ドゥルーズ&ガタリについて言及するエセーに遭遇することが多くなって、一体どんなことを書いているのか「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」を手に取ったことがあった。この大冊を家の裏にあった図書館から一年あまりの間、かりては戻しを繰り返して読んでみたが、理解できなかった。翻訳の悪さもあったのか文章の論理構造が見えないのである。悔しいから、解説本やら新書版やらを片っ端から手に入れてみたが、この本に書いてあることは生きていく上で、ほとんど何の役にも立たない代物だと断じざるを得なかった。

これを大学生の必読書に入れるのは間違っていると書いたら、読んでもいないのに、そういうのは無責任ではないか、などなどの批判を浴びることになった。

ソーカル事件が、明らかな証拠である。こういう、新しいものに飛びつくのは思想業界で食っている大人がやることで、若いものには勧められないことである。

この文章では、最後に「共同幻想論」について呉智英がどのようなことをいっているか紹介して終わりにしようと考えていた。

ところが、事態は思いがけない方向に展開してしまおうとしている。(変な言い方!)

前回、「共同幻想論」に行きかけて途中で止めたのは、学生時代の友人たちと打ち合わせがあったので、出かけたせいであった。

少し時間があったので、池袋のリブロに行ってみた。

書棚に「吉本隆明」とあったのは、最近亡くなったせいかもしれないが棚に命名するほど相変わらず盛況なのである。

そこで、何冊かぺらぺらやっていたら、思いがけなく書きたい衝動がむらむらわいてきた。

いや、書評をしようと大胆なことを考えたわけではない。

「吉本教」信者とはどういうものか少しばかり紹介して、呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」に花を添えようと思ったのである。

次回はそれをしようと思う。

つづく。



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2012年12月20日 (木)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その2)

「マチウ」や「ジェジュ」というあまり意味のない工夫を凝らした上で、「マチウ書試論」のほぼ九割をマタイ伝の成立に、つまりこの論文の90%は「マタイ伝とイエス像の成立についてキリスト教教理の外側で蓄積された当時の主要な研究をまとめたに過ぎな」かった。

このあと最後の三ページあまりでようやく吉本が言いたかった主要なテーマである「関係の絶対性」 について述べられる。このあまりにも「延々と論じられたキリスト教の話は、実はその全体が、「関係の絶対性」を導き出すための、あしびきの山鳥の尾のしだり尾のように長々しい一種の序」だったのである。

「関係の絶対性」もまた奇妙な日本語である。関係というものは一個では成立しないのだからもともと相対的なものである。しかし、あるものとあるものの関係は、様々な条件によって縛られているということは出来る。それは必然的にそうなる関係にあったと言う意味で相対的であるが絶対的でもある。

どうも、それを「関係の絶対性」といったらしい。

具体的にいえば、社会運動に参加するしないで個人の倫理は問えない。個人と社会の関係のあり方がその行動を決定すると考えるべきだ、ということだ。

戦後間もないこの時期の問題意識としては必然性があったとはいえ、なんだか言わずもがなのことである。

こんな結論、「関係の絶対性」とやらをいうために60何ページも使ったなんて、ああ僕は何と幸運だったことか、こんなものに無駄な時間を費やさずにすんだのだ。

大体こんな単純なことを、一読しても分からないような書き方をしなければならないのか?実になぞである。

しかし、この難解さこそ一種の「ありがたさ」を生む主な原因である。

むろん、現象学のように複雑な観念操作を単純に記述できないものもあるにはあるが、「関係の絶対性」などという造語までしてわざわざ分かりづらくしているところが「吉本教」たる由縁なのだろう。

この「分かりづらさーありがた」教の元祖に小林秀雄がいると、ついでにこの本は指摘する。吉本がめずらしく評価しているのが小林秀雄で、ひょっとしたら影響を受けたのかもしれないと、暗に皮肉をいっている。

鹿島茂の「小林秀雄が書いたもので分かったと思った経験は一度もない」という話を引いて、吉本との類似性を指摘しているのだが、この鹿島茂の文章を紹介しているところが面白い。

「鹿島茂は朝日新聞社のPR誌『一冊の本』に『ドーダの文学史』を2008年から連載している。『ドーダ』というのは、自らの優越性を誇示して、さあどうだとまわりを威圧する態度のことだ。つまり、マウンティングの一種と言える。このドーダで文学史を読み解こうというわけである。」

「この『ドーダの文学史』2011年6月号からは、ドーダの真打ち小林秀雄の登場である。語のすべての意味でドーダの人である小林秀雄。これを論ぜずして文学的ドーダを論ずることは出来ないのである。」

呉智英は真打ち小林秀雄について、鹿島茂ののべることから、目を洗われようなことを何度も経験したそうだ。

その一つを紹介すると、僕ら団塊の世代にはなじみのアルチュール・ランボオ『地獄の季節」小林秀雄訳である。

夭折した詩人の破天荒な生き方と相まって、そのタイトルがまた魅力的だった。むろん僕も小型版箱入り宇野亜喜良(?)装幀本をもっていて、一部を暗唱できた。

地獄のような季節、つまりは時代の気分を象徴するような官能的、退廃的フレーズと感じて、手のひらサイズの詩集を持ち歩くことが得意であった。

ところがこれは正確には「地獄における一季節」という言葉で、本物の地獄にいたワンシーズンのことだった。こんなことではぶちこわしのインチキである。小林訳のは誤解や誤訳があると鹿島は指摘、仏文の篠沢秀夫も同じことをもっと詳しく言っているようだ。

鹿島茂と同じ世代の僕も、(鹿島のように)東大は出ていないけど「小林秀雄を分かったと思った経験が一度もない。」(ドーダ!)

高校の教科書に、小林秀雄の「歴史について」という短い文章が載っていた。予習のつもりで読んだが、これがサッパリ分からない。何度も繰り返し読んでいるうちにおぼろげながら、これはどうやら唯物史観とは違うことをいっていると「発見」した。

当時、歴史といえばマルクス―エンゲルスである。

わけしりでやや「ドーダ」気味のある友達に、小林秀雄というのはひょっとしたら右翼ではないか?といったら、バカじゃなかろかという顔で、そんなことも知らないのと、マウンティングされてしまった。

高校の教科書や大学入試というのは、どうせ文章を切り刻んで、課題に合った部品のようなものにしてしまうのだから、小林秀雄は小と林と秀と雄になり、小林が何もので、全体として何を言いたいのかは問わない。

だから、僕が読んでも分からなかったことは、現代国語の成績に何の影響も関係もなかったのは幸いだった。

その後、左翼シンパの姉の本棚に、箱入りやや大型本の「考えるヒント」を見つけて、おかしいと思いながら手に取ったことがあった。あとで、知り合いの男のプレゼントであったことが分かって物好きの男もいるものだと感心した。

ともかく読んでみたが、三行で挫折してしまった。考えるヒントどころか、こんなことでは俺は頭が悪いのではないかと考えるヒントになってしまった。

それからこんなこともあった。

同じ頃、演劇部の一年後輩でG君がいた。Gの家は学校の近くにあって、僕は下校の途中によく誘われて彼の家に行った。部屋にはレコードがたくさんあって、話をするよりは主にクラシックを聴いて過ごした。

このGが、なぜかモーツアルトの交響曲第四十番を十数枚持っているのだ。指揮者が違えば、演奏がどれほど違うものかを聞き比べるのである。

おかげで、四つの楽章すべてをこのとき覚えてしまった。

これは、明らかに小林秀雄「モーツアルト」の影響であった。ある日街を歩いていたら、四十番の旋律が頭の中に聞こえてきたというあのエセーである。

Gが、ベートーベン交響曲第五番を十数枚持っていたのはその発展系であり、小林秀雄はこのような啓発も世に残した証拠として、ここにかいておこう。

Gは、早稲田をでて就職したらしいがその後会ったことは(確か)ない。後藤君、元気か?

何年か前に「モーツアルト」を読もうとしたことがあったが、やはり三ページも進むことが出来なかった。

しかし、この頃になると、わが丸谷才一先生の「啖呵と脅しの小林評」を知っていたから痛くも痒くもなかったけれど。

つづく



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2012年12月18日 (火)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」が面白い(その1)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」を読んだ。41ugsdjeoil_aa160_

呉智英さんが本を出したと聞いたので、取りあえず本屋に走った。「吉本・・・」といっしょに「つぎはぎ仏教入門」という新刊もあったので、ついでに買った。評論家の宮崎哲弥との対談本もあったが、対談というのはいままでさんざんな目にあって金を出して買うものではないと思っているからこちらはやめにした。

アーサー・ミラーの「るつぼ」(11/2観劇、新国立劇場)の劇評を「アメリカという国はない、といわれたことがある・・・・・・・」と書き出した途中で、年老いた我が身にはつらすぎる物語の説明をつい先延ばしにしていたのだが、取りあえずこっちの方が面白いやと「吉本隆明という『共同幻想』」(筑摩書房)にとりかかった。

とりかかったと大げさに言ってしまったが、そういう本でもない。いたって気楽に、座卓に腰掛けたり(?)座布団枕に読んだだけである。

読み始めてそうそうに吹き出してしまった。あまりのおかしさに腹を抱えて大笑いした。久しぶりに誰に気兼ねすることもなく思いっきり声を張り上げて憂さ晴らしをするように、ベランダから外に向かってなんだかコン畜生という気持ちで哄笑した。

気がついたら側になかなか大学を卒業しない娘が妙な顔してたっている。うるさいし、「キモイ」といわれた。

読んでる途中で足のしびれがひどくなったので、近所に適当な医者はないかと探してみたが、都心から十五キロも離れると血液検査をその場でやる病院など滅多にあるものではない。足がしびれたといっても座りすぎのわけではなく、病的にしびれているのだ。原因は、推測するに高カリウム血症である。

一年半前の入院時から高いといわれていたのが検査のたびに次第に進行していたのである。病気の話などするつもりはなかったがつい思い出したので、書き出してしまった。

先週、半年ぶりの眼科の検査で異常はないといわれて一安心したのだが、ついでに「目が疲れやすいのは、カリウム値が高いからか?」と訊ねた。血液成分の生理作用が目に影響することは有り得る、かもしれないと自信なさそうに学会で不在の担当医に替わって若い代理の医者が言う。データを見せたら、驚いた様子でこれはすぐに主治医のところへ行った方がいいと親切である。親切ついでに、「あのね、安楽死ってあるでしょう。あれはカリウムを注射するんですよね。」とおしえてくれた。そうか、いわれてみれば探偵小説で読んだことがある。すると僕の場合、安楽死の材料を自らの身体が生産しているというわけだ。これは安楽でいいや。とも思うが、足がしびれていては歩くにも不便である。それに突然時と場所をかまわず安楽になるのも多少は困る。

そこで、その足で同じ階にある循環器内科の予約外受付にいった。心不全で入院したのだからその担当医が主治医ということになるだろう。診察室に電話をして都合を聞いているらしい。予約もないのにのこのこ来た理由は何だと聞くから足がしびれるといったら、なんと、形成外科に行けというのである。なるほど足なら外科である。電話に出たのが担当医かどうかはわからないが、こりゃあダメだと思った。心臓の医者のところで足の話なんか聞いていられないというのあろう。当たり前だ。いや、足は足だが、そもそも高カリウム・・・・・・といいかけて途中で言葉を飲み込んだ。心臓の医者のところで、血液成分の話をしてもお門違いなのに気がついたからだ。

申し込み理由を書いて提出してくれと紙を渡されたが、急に腹が立って、「うるせい、もういらね―や。バカにするんじゃねえ。」と叫んだ。全共闘時代に覚えた言葉遣いを思い出して、である。唖然としている看護婦だかクラークだかに診察券を返せと奪い取り、申込用紙を投げつけてその場をあとにした。居合わせたザッと百人くらいの視線を背中に感じながら、ざまあみろという気分であった。みんな!病院なんてところはこんなバカの集まりだ、・・・・・・とは思ってくれないよね。

よーし、こんな病院二度と来るものかと思って、家の近くで血液検査をやってくれる医者を捜したのである。

近所ではなかなか見つからないし、医者を変えても面倒なことになると思って、今度は同じ病院の内分泌内科の担当医のところへ電話した。名簿で探したが、名前が載っていないところをみると派遣医かもしれない。ところが意に相違して、診察日でもないのにいるらしい。すぐに来いといわれるかと思ったら、自分の外来担当日である四日先に予約を入れてやるというのである。ついでに俺は忙しいのだといっていると電話口の女はぬかした。患者が自己診断するのが気に入らなかったのかもしれない。

この医者は、野菜を食うときはすべて水洗いしろ、果物は食うな、その他カリウムの多い食品を口にするなとか、インスリンは身体にたまるとか、薬を変えると心臓に悪いとか毎回いろいろ脅しながら役にも立たないことを指導する。おかげで、野菜や果物を食うときはなんだか後ろめたい気持ちにさせられている。(しかし、平気で食っているが・・・)

診察は、体重と血圧を測るが、脈を取るわけでも触診することもなく、データを見ながらながながとおしゃべりをするだけである。そのおしゃべりも、途中で「これはなんといえばいいのかな・・・」と表現および言葉選びにしばしば頓挫する傾向がある。(誰にたいしてもこんなことだろう。いつも予約時間を大幅に超えてしまう。)糖尿病および内分泌内科医に文学はあまり必要ないと思うが、患者に説明する職業用の言葉くらいはすらすら出てくるべきだろう。

卒業するまでにザッと三千万円は必要な大学だからといって町医者の息子とも見えないし、苦学から這い上がり、医者という崇高な職業に誇りと威厳をもって取り組んでいるという気配も感じない。もったいをつけようとして失敗しているのか、単に記憶力に問題があるのか、「これならオレにも出来るわい」と思わせる、よくいえば信頼をみずから拒絶しているような損な人格の方である。

そもそも、かつてこの医者に、カリウム値が高いからといって、心臓の薬を変えてもらうよう循環器内科の担当医にいえといわれたことがあった。僕は人がいいからわざわざ循環器の医者に行って、そういっているがどうしてくれる?と聞いた。すると、苦笑しながら、一つを別の薬に変えてくれた。

内分泌医が直接循環器の医者に電話したら、専門家同士のことであり、事はすぐに済んだはずなのに、なぜ僕のような素人を介していわせるのか大いに疑問であった。先輩だからといって、遠慮しているのではないだろうな。体育会系の医者というのもこまりものである。

今度行ったらなんといわれるか?

食べ物という食べ物からカリウムだけ抜き取って食べるように・・・。シャイロックじゃあるまいし、そんなことできやしない。薬を変えてもらえといわれたら、今度こそ自分で電話しろといってやろう。

足のしびれの話を長々やったのは、「吉本隆明という『共同幻想』」に関係がなくもない。

僕は、「医は仁術である」ということを幼い頃すり込まれたせいもあるが、いまでもそうだと思い込んでいる。

若い頃は、病気とも病院とも無縁であったから「医」と接触する機会がなかった。だから、去年生まれて初めて入院して、医は必ずしも仁術ではないことを身をもって知ったのである。

「医は算術である。」とは、社会の常識と幼い頃から知っていたから、そんなことをいいたいのではない。

仁とは、仁愛とか仁徳とかいうように他人を思いやる倫理のことを指している。僕はこれを「医」に対して拡大解釈する。理屈っぽくいえば、医術が他人を思いやるとは、他人を人格として認め、自分の持つ知識と技術を持ってそのひとの心身の健康に寄与するよう働きかけることだと思っている。

外科と内科の違い位はあってしかるべきだが、病気というものは身体にかぎらず精神も関与して様々の原因が複合的にかかわって起きるもので、医者はこうした全体についてある見通しを持っていなければならない。微細な専門的知識はなくても、人間というものの精神と身体に対する自分なりの構えというか見通しのことである。見通しとは、関係性の深度のことをいう。

僕が実際に経験したことを書いてもいいが、それはこの文の主旨からますますずれることになるから、いずれやるとして、とりあえず「医」の現状には、まったく不満であった。

それは端的に言えば、焼き肉屋のメニューのようなものになっていたからである。

僕は「ハツ」の「コリコリ」の不具合で入院することになったが、「シビレ」に欠陥があり、その治療のために「マメ」に問題が生じ、「ミノ」を守る薬を処方されている。いまのところ「レバー」に問題はないが、この先何か生じたらその専門店に行かねばならない。しかも、それぞれ独立した店舗で営業しており、束ねるといっても我が邦官庁のように組織も縦割りだから「ハツ」と「レバー」に「ミノ」が関与していると思われる症状が出たら行き場を失い、もうお手上げなのである。

それで、僕が万歳してしまったら、いよいよ僕の「ハツ」や「マメ」やその他食っても大丈夫そうなところはバラバラにされ各専門店に配達されることになるのだ。安楽になってから何をされてもこっちの知ったことではないからどうでもいいが・・・・・・。

そんなことで、現実がどうあろうとも僕はあくまで「医は仁術」原理主義者であり続ける。「医は仁術」原理主義者である僕は、医は一貫して僕であるところの全体性に関心を持つべきだと考える。予約外受付で全共闘時代を思い出し誰にも理解されないと分かっていながらプロテストしたわけは、以上でよくお分かりいただいたと思う。(こういう無駄なエネルギーを費やすところが、あの虐殺された作家と同郷の由縁か・・・・・・)

ところで、この本によると、吉本隆明は同じ原理主義者といっても民主主義原理主義者であった。通常民主主義とは市民民主主義をいうのだが、吉本の頭の中にある民主主義にはこの「市民」がない。市民の代表格であるインテリ、知識人、有り体に言ってしまえば偉そうに大衆を啓蒙しようとする奴は含まないらしい。むしろこういう輩こそ吉本のよく批判攻撃するところのものたちであった。

先だって亡くなった小沢昭一は「おれは貧主主義だ」といっていたが、これは貧乏だってそこそこ暮らしていけりゃいいじゃないかという意味で、思想と言うほどのことでもないがすこぶる健全である。しかし、市民が主体でない民主主義というのは不健康で、危険な香りがする。じゃあ何なのだという問いの答えが見あたらないからである。

見あたらないはずである。それは吉本にとって「大衆の原像」というものだが、僕らにとっては「幻像」としての大衆だからだ。

レーニンは「国家と革命」の中でこんなことを書いている。

「ひとたび人民の多数者自身が、自分の抑圧者を抑圧することになると、抑圧のための「特殊な力」はもはや不必要となる。つまり「国家権力の諸機能の遂行そのものが全人民的なものになればなるほど、ますます国家権力の必要度は少なくなり、したがって「国家は死滅し始める」

革命が成就し、権力をふるう統治機構もなくなって誰もが平等で自由な生き方が可能となった共産社会における「大衆」こそ、ほんとうの大衆、つまり吉本はそこを基点に「大衆の原像」をイメージしていたのである。しかも、この「原像」という言葉は吉本オリジナルで、当時の辞書にも載っていない。

しかし、その概念は吉本にとって 証明不要の「公理」であった。

これを民主主義原理主義とすれば、市民の代表格であるインテリがああだこうだ言うことはみな修正主義になってしまう。修正主義はスターリンと同じ人民の敵である。

これを称して、この本は、「吉本大衆神学」と揶揄している。

大衆の原像とは現実には存在しない、遠い未来の大衆の姿を夢想している、いわば幻像だったのである。

原理主義つながりで、妙なところから話を始めてしまったが、例によってこれは書評のつもりはない。書評などという偉そうなものを書く資格も能力もないことはお立ち会い周知のところ。個人的感慨とでも思っていただきたい。

個人的感慨ならば、すでにこのブログで「吉本隆明」と題して書いている。これも呉智英先生の批判をきっかけにしたものだが、今度またこの本で、目から鱗が何枚もはがれ落ちる思いをしたので、そのことを書き記しておこうと思ったのである。

呉智英さん(以下敬称略)が吉本隆明を読むきっかけになったのは、「お前、吉本も読んでないのか」と他人からマウンティングされたくなかったからだという。「マウンティングとは、サルの群れの中で上位者が下位者に自分の優位性を誇示確認するために交尾類似行動をとることである。俺の方がお前より上位なんだぞ、分かったか、というわけである。学生はこの世に生まれてまだ日が浅いので、サルからあまり進化していないのかもしれない。」(P13)

確かにあの時代は、同級生や仲間からバカにされるというのは恐怖であった。だから、興味のあろうがなかろうが、理解できるかどうかはともかく、他人の知るところのものは「読んだ実績」を示すだけのために片っ端から読んだ。「吉本隆明を知ってるか?」「ああ、○○を読んだよ。」といえば、とりあえずマウンティングを避けられた。それでも突っ込む奴はいる。「それで、俺はこう思うが、君は?」というのはかなりサル度の高い奴で、応え方次第ではマウンティングされる。

なるほど、あれはサルと同じ行為だったということにあらためて思い至った。

してみれば、昨今話題の「いじめ」問題も、これで解釈できるのではないか。小中学生は、高校生や大学生よりもまだ「進化」していないから余計にその行為が本能的というか理屈をこえたものになる。西欧は長い時間をかけて「理性」というものを作りあげたが、僕らはもともとサルだという前提でもう一度考え直した方がいいのではないかとも思う。いじめもパワハラもDVも僕らがうすうす気づいていることだけれど、サル度の高いものの行為であると解釈したら、新たな対策の芽も出てくるような気がする。

ところで、「言語にとって美とは何か」を目にしたのは確か高校時代だった。目にしたと書いたのは、何が書いてあったか記憶がほとんどないからだ。取りあえずタイトルの意味だけでもと思ったが、歯が立たなかった。当時の友人たちも、その話題を避けていたところを見ると、理解したものなんていなかったのではないかと思う。しかし、 世の中には、あれでマウンティングされたものも多くて、 「言語美」(と省略されている)は難解で、テーマも何か玄妙なものに違いないという印象だけは定着した。これは彼のもっとも初期の作品であり、この本が吉本隆明の評価を決定的にしたのである。

どういうわけか、僕の本棚に古ぼけた「言語美」第一巻が紛れ込んでいるが、これを手にして呉智英の解説を読むと、吉本が言いたかったことが非常によくわかった。一言で言えば、社会主義リアリズムに支配されていたプロレタリア文学はくだらん、ということを言語論を土台にして説いたものということができる。

今さらプロ文でもなかろう、といっても当時の文学界の最重要テーマであったことは間違いない。二巻本合計600ページ以上も使って、政治から力ずくでも文学を引きはがさねばならなかった時代であった。「なんとまあ」という感慨がわいてくる。プロ文は、こんなに力説しなくともこのあとあっけなく姿形もなくなったのである。そして、あれから長い時間が経ったが、僕はこの間、「言語美」が重要文書であるとして、それから幾ばくかでも引用したという文章に出会ったことがない。

この長大な著作に圧倒されて、短いものなら何とかなるのではないかと、やはり初期の作品「藝術的抵抗と挫折」を手に取ったことがあった。(分からないものに金を払うのは我慢がならないたちだから立ち読みだったかもしれない。)

この本の巻頭には「マチウ書試論―反逆の倫理」というエセーが収録されていたことはよく覚えている。

それはこのような文章からはじまる。

「マチウ書の作者は、メシヤ・ジェジュをヘブライ聖書の中のたくさんの予約から、つくりあげている。この予約は、もともと予約としてあったわけではなく、作者がヘブライ聖書を予約としてひきしぼることによって、原始キリスト教の象徴的な教祖であるメシヤ・ジェジュの人物を作りあげたと考えることが出来る。」

まだ大学生だった僕は、大急ぎでこの本をとじ、自分が必要としている勉強に戻るべきだと思った。

呉智英は、マウンティングされまいと、この晦渋きわまる悪文を必死に読んだらしい。そしてついに解読した。

僕が大笑いしたのは、この解説を読んだときのことだ。

聖書のことらしいが聞いたこともないと思っていた「マチウ書」は、なんと「マタイ伝=マタイによる福音書」のことだったのである。(ここで、まず最初の大笑い!)

そして、メシア・ジェジュとは何か新手のメシアがあらわれるのかと解釈していたが、じつは救世主イエスのことだった。(二度目の笑い!)

また頻繁に出てくる「予約」という言葉も「預言(あるいは)予言」とすればすっきり意味がとれるという代物で、この書き出しの文章を呉智英は、読みやすく意味がとおるように書き直してくれている。

実は、「マチウ」も「ジェジュ」もフランス語版聖書を使ったためにフランス語読みしたというのである。英語版の日本語訳が荘厳すぎるから、フランス語版を使ったという理解不能な理由であった。してみれば、仏語マタイにあたる名前は、mathieu (hは発音しない)であり、仏語 Jésus の読みはジェジュ(母音に挟まれたSは濁って発音される)である。怖れ入谷の鬼子母神、僕は言葉を失って、ただひたすら笑いをこらえた。(この直前、娘が現れて「キモイ」といいやがったからだ。)

つづく

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2010年11月30日 (火)

新崎智のこと(2006年ごろに書いたもの)

当ブログの「『必読書150』の時代錯誤」が比較的よく読まれていることがわかったが、これは教育というものの本質について、呉智英の挿話を紹介して書いたものだった。読むべき本を何百冊紹介したところで、教育にも何にもならないことをもっと強調してもよかったが、説教くさくなるのでそれはよした。

それで、読んでいただいた方たちにはきっと呉智英氏に興味を抱いたひとがいたのではないかと思って、以前ホームページに書いたものを掲載します。

 

「犬儒派だもの」
先日調べものがあって本屋に行った。何しろ半径二百メートルのところにやや大型の書店が二つと区立図書館があるので便利この上ない。日に一度は新刊本を確かめに行く。
新書コーナーで「団塊ひとりぼっち」(山口文憲)のタイトルに惹かれて、立ち読みを始めるとまもなく面白い箇所に出会った。この本は団塊世代の退職問題という話題に則して全共闘とは何であったかを論じているもののようだ。(この手の本は自分のことが書いてあるようで、気恥ずかしくてとても最後まで読めない。)
団塊ー全共闘といっても当時の大学進学率は16%に過ぎないし、そのうちのせいぜい10~20%がかかわったとしてその数は知れたものだ。にもかかわらず全共闘世代と呼ぶのはなぜか?というような論が展開されていた。(今日図書館に行ったら貸し出し中で予約が三人も入っていたから、そのうち読んで報告します。)
その全共闘に参加していた人物像がどんなものだったかをいくつか紹介する中に、例の「きつね目の男」宮崎学がいた。周知のように京都のやくざの親分の家の末子として生まれた宮崎は、当時早稲田大学法学部の学生で、意外にも民青系自治会の役員だった。
山口は宮崎の文章を引用してその話を紹介していたが、正確を期すために宮崎の本に直接当たってみた。
それは「突破者」(96年)の中に見つかった。「日韓闘争では 早大の他党派の連中や、東大を初めとする他大学の日共系学生とも知り合いになったが、そのなかでも傑出してユニークだったのは新崎智である。
・・・ある総会で執行部が運動方針を発表した。・・・その方針を執行部が発表した途端、新崎が猛然とかみついてきた。論旨は、理念や指導性不在の大衆迎合主義的政治主義であるということだったと思う。執行部を散々批判したあとで、こういった。
『それじゃあなにか。学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃(ほうはい)として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ』」
当時の民青の『諸要求運動』を思い出して、これほどの面白い反論は聞いたことがないなあと思った。この新崎智がまもなく呉智英と名乗る男である。
そこを読んで、はっとした。数日前立ち読みして面白かった呉智英の「犬儒派だもの」をやっぱり買おうと、もう一軒の本屋へとってかえした。ところが、売れたのか期限がきて返本したのかあったはずの本棚から消えていた。これはアマゾンにでも頼むかと思って調べたらすでに文庫本になっている。こうなったらもう執念である。急ぎ本屋の文庫本コーナーを探しまくると双葉文庫というマイナーな棚になんと見つかったのである。
早速ビルの外のベンチで読み出したら止まらなくなった。おまけに、あまりにおかしくて吹き出してしまうのを誰かに見られないかと心配しながら読んでいた。さっき引用した文の前に呉智英当時新崎智がいかにユニークだったかを示す逸話があるのでそれを紹介しよう。
「・・・新崎は新左翼系の連中にずいぶん人気があった。その支持で第一法学部のスト決議学生大会の主演説を何回かやっている。それがまた次のような、後年の呉智英を彷彿とさせる一風変わった中身だった。『『自己否定』とは『自己肯定』のことである。出世のためということで学問すればするほど学問の本義から遠ざかっている自分を発見する。それが自己否定である。自己否定は目指してするものではない。自己肯定の結果、現出するものだ。それはあたかも、徹底した防火が実現すれば失業するのに、防火に力を尽くす消防士のようなものである。」
分かったような分からないような・・・。ともかく呉智英はいまでもかなりユニークである。これまでは文章の切れっぱしや「BSマンガ夜話」でしか、お目にかかっていなかったが、民主主義は大いに問題があるなどという発言にも興味があるのでこの先、大急ぎでこれまでの文章を読んでみたいと思っている。

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2007年7月19日 (木)

吉本隆明

僕は吉本隆明のいい読み手ではない。少年時代「言語にとって美とはなにか」を読もうとしたが歯が立たなかった。その後学生時代だったか「共同幻想論」の連載を読んで(なにか雑誌に載っていたと思う)彼が何を考えているか分かった、ような気がした。その後、「心的現象論」を書いたが僕は読んでいるうちにどうでもよくなって途中で投げ出した。いくつか論争をしているものを読んで、歯切れのよさと胸がすくような啖呵は、清水幾太郎と双璧だと思った。僕は「荒地」派の詩人たちの中でも吉本の生硬な言葉遣いはあまり好きになれなかった。むしろ、鮎川信夫、田村隆一の詩に親しんだ。熱狂的なファンが多いことは知っている。
後年ある時、ビール会社の広告に関わっていて、起用タレントの候補を提案するように言われたことがある。すでに、業界では百人を超えるタレント・著名人が出ていてかなりユニークなキャラクターでなければ目立たない。僕は吉本隆明がいいだろうと提案した。その時の広告代理店の部長の顔が忘れられない。一瞬後ずさりして顔の前に手をかざしそれを左右に振って「それは勘弁」といったのだ。どういう意味かは俄には判然としなかったが、余程嫌がられているのかと改めて思った。僕が担当者なら居酒屋で若い者を相手にジョッキをかざしてうまそうに飲んでいる姿を出してやるのにと思った。それで、吉本ファンは雪崩を打ってブランドスイッチだ。と思ったのだがそう甘くはない。まともな世間が吉本隆明をどう思っているか、思い知らされたわけである。ついでに広告屋としての僕の感覚も疑われるはめになって、まもなくビールの仕事を失ってしまった。
その後も本屋に行くたびに彼の新刊本が並んでいて随分旺盛なものだと感心していたが、立ち読みしてすぐにやめた。テーマが面白くない、いっていることが難解、この時代においてどうでもよいことを難しく言っているだけという印象だった。それでもあれだけ書く時間があり、それを読む読者も継続的に存在するというのは驚異ではある。
彼が戦後思想の評論家として活躍したのはせいぜい70年代までで、その後どんな影響力があったか、僕は知らない。この稿を書く気になったのは、呉智英先生が「吉本隆明は老残をさらしている」と書いているのが目に入ったからだ。本当は吉本が老残をさらしていることは十年くらい前から感じていたから、今さらどうでもよかったが、それを老残とはしないで、持ち上げている者たちが周辺にいることが奇異に思えてどういう連中かこれもさらしておいた方がいいだろうと思ったのだ。以下は、呉智英の文「『吉本の幻像』の罪」(産経新聞05年4月)。
「週刊朝日」の書評欄で高橋源一郎が絶賛しているので、吉本隆明の新刊「中学生のための社会科」を読んで見た。年寄り笑うないく道じゃと古諺には言うものの、老残もここまできたかとあきれた。
劈頭、詩の話である。宮沢賢治、伊東静雄らの詩が引用される。おや社会科のはずだったのにと思うが、まあよしとしよう。さてその解説だ。例えば伊東静雄の詩について「アジア内陸語と似ても似つかぬ大洋州の島々の言葉をクレオール化している日本語の特徴」とある。これ、中学生にわかるか。大学生だってこの一節を理解させるのに一時間の講義が必要だ。その一方で伊東静雄がどういう詩人なのかについては全然説明がない。
第二章が老齢の話。糖尿病だの、前立腺肥大だの、自分の体験が語られているが、これらの病気について何の解説もない。第三章でやっと国家と社会だが、例によって「ロシア革命の理念哲学はレーニンの『唯物論と経験批判論』だ」てな調子だ。ロシア革命が何年にどういう経緯で起きたということから書かなきゃ中学生に分からんだろう。
丁度十年前オウム真理教事件が日本中を震撼させた時、吉本隆明は本紙産経新聞で麻原彰晃を高く評価すると発言し、その現実感覚の欠如を露呈させた。同時に吉本思想の中核たる「大衆の原像』が「大衆の幻像』にすぎないことも明白になったのだが、「中学生の原像』まで「中学生の幻像』だったわけだ。
この本の帯では加藤典洋、長谷川宏がまた絶賛。こういう取り巻きたちの振りまく「吉本の幻像』が思想界の退廃に拍車をかけているのだ。ここまで呉智英の文。
出てくる取り巻き(持ち上げている連中)は長谷川宏、加藤典洋、高橋源一郎である。このうち加藤と高橋は団塊の世代、全共闘世代である。吉本なら何でもオーケーという信奉者が多いのはこの世代である。つまらないものは始めから読まない主義だから「中学生のための社会科』など読む気にもならないが、呉智英の怒りは非常によく理解出来る。僕が読んだら同じように感じただろう。それを持ち上げる連中のファン意識はどうだ。少しは頭を使え。

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2007年2月 8日 (木)

死に際(2006/6)

自分が凝り性だとは不惑の年まで気付かなかった。ハマると底が見えるまで出てこられない。ライフワークというのも変だが基本的な関心事である思想書の類いは別として、ある時期興味の対象が一塊になって現れる。最初は「照葉樹林文化」、百冊以上の本を集めた。「石原莞爾」は数十冊の本を古本屋から仕入れて読んだ。不思議なことに最近になってもこの軍人を書いた本が出版される。篆刻に夢中になったこともあった。そして、「文明の生態史観」、梅竿忠夫から民俗学まで。文系だけではない。量子論、超ヒモ理論、分子生物学、動物行動学・・・。いまはまっているのは、「呉智英」。


なぜかというのは前に書いたが、本屋で立ち読みした本の中に宮崎学の「突破者」から引用した文があって、その中に若き日の呉智英の抱腹絶倒な姿があったからだ。彼は学者でも研究者でもないから、著作といっても短い文を集めた本が何冊かあるだけだ。だからコルといってもそんなに長く続くものでもない。ただ、考え方は同意することが多く、読んでいて非常に参考になる。しかも、面白くおかしい。ユーモアの質が知的で上品だ。波長が合っているといえる。
その呉智英が「岩波新書が面白くない。」と書いている。勿論編集方針のことだ。そのうち誰かそういうだろうと思っていたから心の中で快哉を叫んだ。ここ二十年ほど広告を見るたびに読みたくなるものが一つもないと思ってきた。ずれている。つまり時代の関心がどこにあるのか分かっていないのである。


そう思っていた矢先、岩波新書が装丁をいじった。(紙質を変えただけだが)いじったついでなのか、編集方針も変えたように見える。僕は何十年ぶりかで岩波新書=「世界共和国へ」(柄谷行人)を買った。読み始めてすぐに分かったことは、これは柄谷行人が最近大田出版を中心に出してきた本の焼き直しだと気がついた。編集者は恥ずかしくないのか。岩波もいよいよおしまいだなあ。
昔はどうだったかといえば、多少はためになったのもあった。ロングセラーもいくつかある。そのロングセラーのひとつについて呉智英が書いている。古在吉重「思想とはなにか」である。彼はそのころ(80年前後)思想と宗教というようなことを考えていて、あるとき本屋の棚でこの本を発見し、それが60年の初版だったことに驚いて不明を恥じた。古在といえば岩波哲学辞典の編者にして左翼系の哲学者、これは読まずにおられないと早速買って読んだ。


「読み進むにつれ、私は痛憤を覚えた。何という馬鹿げた本だろう。何という馬鹿げた哲学者だろう。この本には書名に反して最初から最後まで思想とはなにかという問いに対する応えなど一つも出てこない。あるのは安っぽい政治的アジテーションだけである。」
僕はこの本を大学の生協で見ていたが、古在吉重といえば日本共産党のシンパだったから、書くこともその周辺に違いないと敬遠していた。読んだ呉智英にいわせるとこういうことになる。「哲学者は、実に二十余年間、思想とはなにかについて、何一つ考えていなかったのである。
読後、私は三十九度の高熱を発した。医者は原因不明だといったが、私には原因は分かっている。」この新書はタイトルが魅力的なだけで、中身は期待した分、頭痛というか悪寒というか高熱が出るような代物だったのだ。
しかしこの頃の編集者にはタイトルの名人がいたらしく、ロングセラーには「知的生産の技術」「実存主義とは何か」「日本政治思想史」など思わず手にしたくなるような魅力あるものが多い。レベルはそれぞれだが、せいぜいだまされないようにしなければ、高熱にうなされることになるかも知れない。


古在吉重で思い出したが、あの頃日本共産党のシンパで「資本論」の翻訳者、向坂逸郎がいた。新書とは関係はないが、やはり呉智英が向坂に関連する逸話を書いている。「反骨と知性の人のように扱われてきた革新派の旗頭向坂逸郎が、実は権威と権力と金が好きな俗物で・・・」という話である。これには驚いた。あの向坂逸郎がねえ。
それは「マルクスに凭れて六十年」(青土社)という自伝の中にあるらしい。岡崎次郎という人が来年八十才を迎えるという時におそらく人生の区切りとして書いた。この人は明治三十六年生まれ。旧制一高、東京帝国大学文学部、経済学部を出た。学生時代にマルクスに出会い、戦前は一年ほど拘置所に入った。思想上も人脈上も労農派に近いが、自分はマルクス主義者ではないという。なぜなら自分には社会主義者としての実践がない。意志薄弱にして遊び好きの自分が、大きく人の道を踏み外すこともなく生きてこられたのも、まともな勤め口もないのになんとか糊口をしのいでこられたのも皆マルクス様のおかげだ、というのである。主として翻訳の仕事を続けてきたものであろう。
その間に向坂逸郎の下訳という触れ込みで受けた仕事が、いざでき上がってみると、自分の翻訳がそのまま使われていたり、翻訳料の支払いも悪く踏み倒されるようなこともあった。


呉智英にいわせると、「硬骨というのともちがい洒脱というのともちがい飄逸というのともちがい、しかもその全部である当時のエリート秀才の実像を目の当たりにするようで、誠に面白い読み物となっている。」というのだから岡崎次郎が「ためにしよう」とそんなことを書いたのではない。向坂の逸話は自分の人生の点景として自嘲気味にスケッチしたものだろう。
向坂の吝嗇ぶりはいい。僕が触れたかったのは実はこの岡崎次郎の話の方だった。彼は自伝の終わりにこう書いているという。「いま私にとって問題なのは、いかに生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」「せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ」。この自伝は遺書のつもりで書いたのだろう。本がでた後さりげなくお別れのパーティを開いた。家財を売ると「これから西の方へいく」と告げて夫婦は旅立った。1984年のことである。それ以来、行方はようとして知れない。
人がどのようにして自分の人生に始末をつけるか。これは自分にとっても大きな問題だ。この文は別冊宝島「自殺したい人々」にのせられているが(「犬儒派だもの」に収録)、他に藤村操、円谷幸吉、詩人松永伍一が著書の中で紹介した信州の無名の農婦の遺書が紹介されている。この文を何回か読んだが、呉智英の不思議に乾いた文体の奥に何かが噴出するのを押さえているようなものを感じて、読むたびに目頭を熱くした。

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