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2009年9月 7日 (月)

『常念岳』(2,867m)に登る

1,安曇野Zyounen2


二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。
確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとその話にかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。
シナリオライターでもない僕が巻き込まれたのは、才能の問題ではなく、たとえ途中でこの話がつぶれてもギャラは発生しないという暗黙の了解からである。こっちも勤め人はとっくに辞めているし、時間は自由になったからつきあうことにしたのであった。

安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは分からなかった。とりあえず、映画監督が撮りたいと思ったものに合わせてシナリオを書くという主体性のないまま、ロケハンをするのに同行して何度か安曇野に足を運んだ。
監督は主として美しい映像を撮ることを考えていて、構成に注文をつける気配はなかったから、何か提案しなければとシナリオハンティングのつもりであちこち見て回った。
安曇野一帯を俯瞰するために犀川を渡って池田町の高台を走り、また穂高に戻って美術館や記念館や忠魂碑や遺跡などを見学した。街道沿いになんと鄙には稀な古書店(さすがは信州)を見つけていくつか資料を購入した。広大なワサビ田も見どころは多かった。その側には黒沢明が『夢』を撮影した時に作った三連の水車小屋がそのまま残されている。他にも絵になるところはいくつもあったが、しかし、それだけなら観光映画になってしまう。何か人が織りなす物語の中に、おのずから安曇野の風景が浮かび上がる映像詩のような映画になれば訪れる人にとって印象深いものになる、そう思ったのは、碌山美術館を訪れた時だった。Rokuzan06
石積みの小さな教会のような建物の中に、萩原守衛(碌山)の残した彫刻とデッサンが展示してあり、狭い庭にもなにか作品がおいてあったような気がする。僕は日本の近代彫刻の代表作とも言える作品『女』をいつか写真で見たことはあったが、それが新宿中村屋の相馬良(黒光)と深くかかわっていたことを知らなかった。二人の話はドラマ化されたこともあったそうで、監督もそれは承知のようだったが、おそらく安曇野の風景を描こうというこの映画と直接関係することとは思っていなかった。

明治三十年春、相馬愛蔵と良は東京牛込の教会で結婚式を挙げると愛蔵の故郷穂高に戻ってくる。愛蔵は代々庄屋をつとめた相馬家の跡継ぎである。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中に内村鑑三らのキリスト教に強い影響を受け、故郷でも近所の若者を集めて東穂高禁酒会なるものを主宰している。良はもともと仙台藩士の娘であるが、さまざまな苦境を乗り越えて、フェリス女学校から島崎藤村や北村透谷のいる東京女学校で学んだ、当時の田舎には珍しいインテリ女性であった。その禁酒会に通って来る十代の若者たちの中に絵が上手な男の子がいた。この萩原守衛は、東京からやってきた相馬家の美貌の嫁を遠くからあこがれをもって仰ぎ見ていた。
あるとき、彼が万水(よろずい)川を背に田の畔に腰を下ろしてまだ雪を抱いている春の常念岳をスケッチしていると、後ろから『こんにちわ』と声をかけるものがいる。振り向くとえび茶のパラソルを差した相馬良であった。萩原守衛は、突然の出来事に狼狽し胸が高鳴り、頬が赤くなるのを感じた。
それが二人の出会いであった。

手がかりをつかんだ僕は、事務所の机の正面に安曇野の五万分の一の地図とその横に常念岳を含む北アルプス登山地図を貼った。それから資料集めをしているうちに、小説は参考にならないと思ったが一通り当たっておこうと、臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、全五巻)を手にした。
結婚した相馬愛蔵と良が上田の停車場に降り立ち、そこから保福寺峠を馬で越えて松本盆地に入るところから始まる大河小説で、作者自身がそこで生まれ育ったという安曇野の情景が生き生きと描かれている。
愛蔵は友人の井口喜源治と共に禁酒会を一種の私塾のような教育活動に発展させ、参加した若者は英語や国際情勢を学び社会制度についてあつい議論を交わした。
開巻早々、日清戦争の戦死者を弔う長い葬列が白い旗をなびかせてあぜ道を行くのを、東京専門学校を終えて故郷へ帰ってきたばかりの木下尚江が見送るという場面がある。初めての外国との戦争に勝利し、徴兵した戦争の死者を手厚く葬るという明治新政府の自信が表れている。つまりこの小説は、日本が本格的に西欧化に踏み出した時代の一地方における青春群像を追いながら、昭和の戦争そして戦後にかけての激動の時代に自身の人生を重ね合わせ、日本の近代化とは何であったかを問うたものである。僕はその面白さに目的を忘れて夢中で読みふけった。
しかし、まさかこんな大作を作るわけにはいかない。むろん依頼されているのは劇映画などではなくて、安曇野とはどんなところかを紹介する映像である。さりながら、何らかの方法で。例えば人の気配がする、あるいはナレーションかテロップを流す、いづれにしても百年前に新しい時代を迎えて自分たちのどんな未来を作るかを語り合ったその「話し声」がこの地から聞こえてくるような映像にしなければ、安曇野を描いたことにはならないと思った。

その頃、僕は人に誘われてぼちぼち丹沢辺りの山に日帰りで出かけてはいたが、三千メートルもの山に登ることなど思いも及ばなかった。あの日、安曇野を一望できる高台にたって、山すその耕地が途切れるあたりからいきなり天を衝く高さに立ち上がって黒々と続く屏風のような山並みを見ると、畏れのようなものが沸いてきて、そこに人が登ることなど考えもしなかった。重疊として連なる山の名前を同定することもできなかったが、しかし常念だけはよくわかった。頂上から左右同形に弧を描いておりてくる美しい稜線が空を切り取って他の山々とはくっきりとわけられている。
萩原守衛は画家を目ざして欧米に学んだが、外国にいていつも思い出すのは常念であったといっている。また深田久弥は、臼井吉見のエッセイにある彼の小学校時代の校長がいつも教室の窓から外を差して「常念を見よ」といっていたことを引いて「松本平から見た常念岳を知っている人にはその気持ちが分かるだろう」と書いている。(『日本百名山』)
安曇野の人々にとって常念岳は格別の山なのである。

まもなく、映像を作る話は頓挫してしまった。アミューズメントパークの計画がなくなったのだ。風景が人をはぐくみ、人が風景の中を過去から未来へ生きていく、そんな映像ができたら安曇野を訪れる人たちの旅情がいっそう深くなるのではないか。あれが相馬愛蔵の家、ここが相馬黒光と萩原碌山が出会った場所などとめぐり歩く人たちも出てくるのではないかと思ったりもした。しかし、中止になったのは内心安堵したことでもあった。
一体、安曇野の豊かな自然の中にそんなにぎやかな娯楽施設が必要だろうか?確かに観光客は格段に増えるだろう。この地方に落ちるお金もかなりのものになるはずだ。経済的に豊かにはなるだろうが、失うものも多かったのではないかと思う。安曇野の人たちは賢明だった。

僕はこの話を忘れることにした。集めた資料も今ではちりじりになった。ただ一枚、あの時机の前に貼った北アルプス登山地図だけがどういうわけか手元に残っていた。しかも、今日までその地図にあるどの山の頂上も一度も踏んだことはなかったのだ。まっさらな地図をたまに見ることはあったが、そこへ行こうという気にはならなかった。
理由は、まず東京からは遠いことであった。長い間、原則日帰り登山を続けたが、北アルプスでそれはおそらく無理だった。 それに、あれは山のベテランが行くところと思って臆するところがあった。岩峰が多くて危険。ザイルの結び方も知らない素人である。足を踏み外したらおそらく一巻の終わり。あこがれはあったが本気で行こうとは思っていなかった。
十二年前、初めてYを誘って北岳(3,193m)を登った時も下山の途中で日が暮れて道を失いビバークしたのだが、もともと日帰りのつもりだった。
仙丈ヶ岳(3,033m)のときは、どうしても北沢峠で 一泊しなければ帰れなかったので、二人用のテントと寝袋を背負って登った。また、鳳凰山の地蔵が岳(2,764m)では、頂上直下の鳳凰小屋(2,400m)にテントを張った。 本音を言えば、なにしろ山小屋へ泊るのがひたすらいやだったのだ。
初めて泊ったのは、甲斐駒ケ岳の下山時に雨にあったときである。頂上で少し降り始めて、駒津峰(2,752m)から仙水峠(2,269m)に下りてきた時は本降りになっていた。テントを担いでいたが、仙水小屋(2,130m)の前で人がくつろいでいるのを見ると途端に心が萎えてしまった。どしゃぶりの雨の中で、テントを張って食事を作ることが頭に浮かんだからだ。すでに午後五時を回っており、北沢峠につく頃にはもう暗くなり始めているだろう。この時が、初めての山小屋体験である。夕食に刺し身とスイカがついていたのには驚いた。畳二畳に三人強という具合で混みあっているわけでもなかったが、案の定物音が気になってなかなか寝つけなかった。
その後は次第にテントと寝袋が重くなって、泊まりが必要な山には行かなくなった。体力も衰えて、高い山は敬遠していたのだが、去年北岳再訪を果たしたらまだいけるという気がしてきた。この時のことは前に書いたが、時間がかかりすぎて肩の小屋に泊らなければ到底登れなかった。二十年も山へ行っていて小屋泊は二回目である。このときはさほど混んでいないこともあったが、案外平気であった。上で泊ることを前提にするならいろいろ考えられると思って、去年から折りに触れて次の山行きを検討し始めた。
関東周辺の山はあらかた登ってしまった。南アルプス南部の山は登るにも道中が長すぎる。中央アルプス空木岳もいいがきついらしい。中学生の時に登った磐梯山に行って見るのもいいか、いやそれなら安達太良山だろうなどと東北地方も考慮した。
こうしていよいよ北アルプスが候補に上がってきたのであった。行くなら中央道を走って安曇野側から登れるのがいいと思う。そこで例の登山地図を取り出して眺めてみたら、もっとも分かりやすい登山口は二つあった。安曇野から一の沢を遡行する常念岳、中房温泉から登る燕岳(2,763m)である。後者は北アルプス三大急登の一つ合戦尾根をかけ上がる健脚向けコースであまり自信がなかった。前者も、標高差約千六百メートルは広河原から登る北岳に匹敵する高い山である。とはいえやはり、北アルプスを最初に登る山は常念だろうと思ったのは、最初に書いた安曇野を駆けめぐった思い出があったからだ。燕岳の奇岩が林立する花崗岩の白ざれた頂上も魅力的だったが、あとまわしにしよう。ただ、中房温泉(1,426m)にはどんなところか行ってみたいと思った。この名を目にすると思い出すことがあるからだ。

2,中房温泉

数年前、泉康子の「ドキュメント山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」(宝島社)を読んだ。偶然本屋で見つけたのだが、ドキュメンタリーでありながら一編の推理小説を読むような面白さであった。
昭和61年12月28日、槍ケ岳を目ざして縦走に出かけた「のらくろ岳友会」の三人のパーティが1月4日の予備日を過ぎても下山せず、遭難が懸念された。彼らは槍ケ岳の上で昭和62年元旦のご来光を仰ごうという数年来の目的を果たそうとしていた。その予定は、 次のようなものであった。
12月28日、大糸線有明駅から宮城までタクシーで入り、中房温泉を経て合戦尾根に取り付き、尾根の中間地点にある合戦小屋(2,380m)前で幕営。
翌29日には合戦小屋から燕山荘(2,680m)に登り、縦走路を南に大天井岳(2,922m)を目ざし、頂上直下の大天荘で幕営。
30日は大天井岳を登り返し頂上から喜作新道を西にたどって「ヒュッテ西岳」(2,680m)前に幕営。
翌31日は西岳(2,758m)から東鎌尾根(槍ケ岳から伸びる)にとりつき槍ケ岳に登り、槍の冬期小屋で幕営。
明けて1日、槍から南へ(穂高連峰の主稜線上にある)大喰岳(3,101m)そして南岳(3,033m)と通り、そこから主稜線を離れて横尾尾根を梓川まで下り横尾で幕営。
翌2日、梓川沿いに上高地を経て沢渡へ下山する。

こう書かれても北アルプスに不案内な人には何が何だか分からないかもしれない。北アルプスのこのあたりの山域を分かりやすく言うと、穂高岳(3,190m)から槍が岳(3,180m)につながる山脈は長野と岐阜をわける飛騨山脈の主脈であるが、上高地に流れ下る梓川を挟んで長野県側にもう一つの山脈が向かい合って走っている。それが常念山脈である。主峰は無論常念岳であるが、南から北へ蝶ケ岳(2,664m)、常念、横通岳(2,767m)、東大天井岳(2,814m)、大天井岳(最高峰)、燕岳、北燕岳(2,756)、東沢岳(2,497m)、餓鬼岳(2,647m)と稜線をたどる。この山脈と飛騨山脈の槍ケ岳をつないでいるのが、大天井岳から南西に延びている喜作新道である。喜作新道からは西岳(2,758m)に至り、槍から伸びている四つの尾根の一つ、東鎌尾根を通って槍ケ岳に登るのである。
彼らがたどろうとしているルートは、表銀座コースといって中房温泉ー燕山荘から槍ケ岳方面を目ざすもっともポピュラーな縦走路である。

三人の内二人は日産自動車、一人は本田技研の若い社員である。1月5日、ただちに「のらくろ岳友会」の仲間は捜索隊を組んで下山ルートの上高地に入ると、冬期間も開いている木村小屋に陣取った。小屋の主人は「今年の天候はくるくる変わった。三十日は晴れたがその夜から元旦まで大荒れの天気で、ベテランでも行動には迷ったかもしれない。」冬山の経験は十分あったと聞いて、「よし、まだ生きている可能性は十分ある」と捜索隊にむかって力強くいった。
木村小屋と共にその捜索の前線基地になったのが彼らの出発点である中房温泉だった。長野県警のヘリに加えて本田技研が自社の所有する双発のヘリコプターを飛ばして新雪が積もった縦走ルートをくまなく捜索する。
1月6日午前十時頃、河童橋の方から小柄な下山者が一人現れた。彼の証言によると、1月3日午前十時頃、自分が槍を目指して大喰岳(おおばみだけ)を下り始めたとき三人のパーティにあった。彼らは東鎌尾根から槍ヶ岳をやってきたと言って、大喰岳を登っていった。風雪がひどく三人の風貌については覚えていない、ということであった。このパーティが『のらくろ岳友会」の三人だったのか?
しかしその後は何の手がかりも得られずに数日がむなしく過ぎ、彼らの遭難は明らかとなった。捜索隊のメンバーたちはまもなく現地の拠点を一旦解散するが、それから遺体回収に向けて執念の捜索が始まる。
中房温泉から槍ヶ岳を目指したパーティ、逆に上高地側から槍に登って中房温泉に下山する登山届けを提出したパーティを調べ上げ、全国に飛んで証言を集める。それによると、この山域は日本海から東進してきた低気圧が居座り、彼らが出発した日からすでに気温マイナス30度、強風が吹き荒れ視界がきかない中をラッセルしながら、やっとの思いで進む状態であった。大天井岳から喜作新道に入るか否か躊躇しながら、大天荘で停滞していたパーティがいくつかあった。その先のルートは、岩に張り付いた雪が氷になっている険悪な岩峰が続くのだ。
天候の変わり目を読んで運よく槍に到達したパーティが四隊、中房へ引き返したのが七隊、常念にエスケープしたのが六パーティということがわかった。彼らの情報を突き合わせると、のらくろの三人は喜作新道へは足を踏み入れていないと推量された。ということは、彼らは燕山荘から常念岳に至る稜線上のどこかで遭難し、遺体は雪に埋もれている。
三月になって、「のらくろ岳友会」の有志が再び中房温泉に集まり、捜索を開始した。山はまだ冬山の装いである。彼らが急いだのは雪が解けて、沢に流されると岩と水にもまれてまともな姿では出てこないことが分かっていたからだ。・・・・・・
泉康子の簡潔で乾いた文体が、冬山の緊迫した様子を描き出し、その構成は刑事顔負けともいえる情報収集と推理を重ねて間然するところがない。非常に面白いドキュメンタリーであった。後半の捜索拠点となった中房温泉へ行ってみたいと思ったのは、それがあったからである。

3.一の沢

常念に登ることにして、調べたらさすがに人気のある山で、イラストマップやルートの要所要所の解説と写真が出てきて地図を作るのに苦労はまったくなかった。登山口は二つあった。まず、常念と蝶ケ岳の間から流れ落ちる本沢ぞいにある三股から前常念経由で登るルート、これは最初からかなりの急登になる。蝶ケ岳から常念山脈を縦走する起点で人気もあるというが、僕らにはたいへんそうだ。次に、常念と北隣にある横通岳の鞍部から流れる一の沢に沿って登る道。登山口から稜線の常念乗越まで約6Kmという長い道のりだが、その間の標高差が1,200m、平均斜度約11度は比較的楽である。特に最近は、からだが慣れないうちに急登になると体調が悪くなるのでそれが心配だった。一の沢林道から常念乗越までは4時間40分、そこから標高差400mの頂上往復が2時間半というのが標準時間である。(「山と渓谷社」)暗いうちに登山口に着けば、日帰りも出来そうだと思ったが、両神山のときのように下山途中で日が暮れたらえらいことになる。一の沢を遡行して常念乗越に到達したあとは、どうするか成り行き任せということにしようと考えた。

8月7日午前二時半に家を出る。途中小淵沢のあたりから降り出し、まもなく前が見えないくらいの土砂降りになってしまった。諏訪湖サービスエリアに逃げ込んで暫時休憩。再び走り出して程なく雨があがり、豊科インターを出る頃には空が白々としてきた。あとはカーナビまかせで山道を進む。
家並が途切れるあたりでようやく明るくなって周囲が見渡せるようになった。駐車場があると聞いていたが、それが見つからないままどんどん前へ行く。やがて大勢の登山者がたむろし、間にタクシーが数台停っている場所に出た。写真で見覚えの有る建物があった。そこがヒエ平の登山口とわかったが、駐車禁止である。かなり戻って駐車場を探したけれど、見つからないので仕方なく路肩の広く開いているところへ車を置いた。
身支度をして再び登山口へ。大勢の登山者がたまっている。何台もタクシーとすれ違ったからそれを利用してここまできたのだろう。トイレを済ませ、登山補導所に登山届けを出して林道に足を踏み入れたのはちょうど午前6時であった。Tozanguti
最初は、ほとんど平坦で歩きやすい道である。左に一の沢の激しい水音を聴きながら、うっそうとした広葉樹の林の中を歩く。曇り空だが、空は明るい。程なく右側に人の背丈より少し高いくらいの鳥居があらわれる。山の神を祭っている小さな社で、脇に樹齢四五百年の栃の大木が立っていた。ここまで25分かかっていたが、ルートマップによると10分とある。十数人の団体一組に道を譲ったとは言え、それほどゆっくりきたわけでもない。どこか変だ。変といえば、高度計がちょうど百メートル低く表示されている。アジャストの方法を忘れてしまったからそのままいくしかしようがない。
実は、この山の神からが本格的な山道になる。とりあえず1.5km先の王滝ベンチを目ざすが、そこまでは標高差200m、平均斜度7.5程度のものである。緩やかな登りなので、次第にからだが慣れてきて、苦しさは感じない。登りのリズムをつかむと汗がシャツに染みだして、しきりに水を飲むようになる。頭を空っぽにしてひたすら歩いた。Ootaki
右の斜面から下りてくる沢に短い丸太橋が架かっているところにでた、そこをわたるとすぐに道を挟んで二つのベンチがおいてある。王滝ベンチに着いたようだ。うっそうとした広葉樹の葉が天を覆い、足下には水たまりがいくつも出来ている。湿気が充満していて三本の丸太で作ったベンチは朽ちかけ、コケが生えていた。リュックを下ろして休憩、おにぎりを食べたが半分でいっぱいになった。ここまで、2.1kmを一時間半もかかっている。
考えてみれば、一年間ろくに運動もせず急にからだを動かしているのである。あちこちの筋肉と相談しながら無理のないように登るのだから時間がかかるのはしかたがない。自分では快調のつもりでも、実はのろのろ登っている。どうもそういう年になってしまったみたいだ。Yはもっと早く行けるのだが、歩調をあわせてくれている。
王滝からは烏帽子沢をめざす。距離700m程ほどなのに、小一時間かかってようやくたどり着いた。ここはちょうど中間地点で、常念小屋まで2.9kmと標識にある。登山口からは500mほど登ってきた。烏帽子沢は涸れ沢といっていいくらい水が少ない。しかし雨になったら、渡してある丸太の橋が役に立ちそうだ。
地図には烏帽子沢から500mも行けば笠原橋とあるが、わざわざ橋というくらいだから、さぞ頑丈に作ったものだろうと思っていた。一の沢から少し高くまいた道を行くと、周りは岳樺の林に潅木の茂みが頭上を覆って暗い。急な斜面をうつむきかげんに上っていると不意に明るいところにでて驚いた。右から流れ落ちる川幅の大きな涸れた沢である。かなり上まで一直線に延びていて、今にも石が転がり落ちてくるのでないかという高度感がある。丸太を何本か並べているところをたどって通過するが、これが笠原橋かと思うとなんだか拍子抜けした。
ところが、そこを通過してすぐに行く手を阻まむ大きな岩に対岸に向かう矢印がある。一の沢にかかった橋は、五六メートルはある比較的長い橋で手すりも何もない。さてはこれが笠原橋か? 通り過ぎたところは「笠原沢出会い」だったらしい。
対岸にわたって、しばらく沢水で靴底を洗うような道を行って、再び徒渉して斜面を高巻くように登っていく。胸突き八丁に至るまでは、登ってきた斜度と変わらないのでペースは同じだった。このあたりになると、電車でやってきた団体の登山者が僕らに追いついて来る。それが後ろにつながるたびに、何度か道を譲った。皆一様に中高年のグループで、半分は女性である。あのスピードでは、よほど山慣れた人たちなのだろう。後ろに迫られるとせかされているようで、つい立ち止まってしまう。これが時間を要する原因だとYは責めるが、僕にはいい休憩になっている。せかされてペースを乱されたら、必ずどこかに負担がかかる。
道が一旦沢まで下って、登り返すところに胸突き八丁の標識があった。ペースが遅いのと休憩が多いのが重なって、ここまで倍近い時間がかかっていた。標高1,900m、頂上あたりに雲がかかっているものの、常念の山体が見えてきた。時々日差しが強くなる。腕の皮膚が赤くなり始めていたが、上空の雲がとれる気配はなかった。
胸突き八丁は、崖に刻まれた細い道である。はしごやロープが何度も出てくる上に、人がすれ違うのもままならない狭いところがいくつもある。転落事故が多発するこのコース中最大の難所だ。しかも、「最後の水場」まで標高差約300m、これまでの倍の勾配を一気に登っていく。
足下を見ると五、六十メートル下に一の沢が流れ下っている。足を踏み外したらけがではすまない高さで、緊張感が走る。この間にも続々と登山者が現れ、追い越していった。幸いだったのは、下りてくるものが少なく危険なすれ違いがあまりなかったことだ。しかし一方で、初めて出くわしたきつい勾配に息が切れ、しばしば立ち止まってしまう。こういう場合は無心で登ることだ。雑念が浮かぶとそれが疲労を倍加させる。
やがて沢音が近づいくると、不意に空が開け一の沢の河原にでる。河原といってもごろごろした石が積み重なっているだけで、 源流に近いここでは水量はだいぶ少なくなっている。とは言え、この高さでこれほどまでの水量があるとは意外であった。千曲川の源流近く(甲武信岳)では、岩の上をなめるような水量しかなかったが、ここでは石の下を水音も高くしぶきをあげて流れ落ちていた。「最後の水場」に到達した。
胸突き八丁を登りきった安心からか大勢が石の上に腰を下ろしていた。遥か下にゆっくりと動いている人影が小さく見える。ここまで約1,000mの高度差を登ってきたことになる。残り200mだ。僕らも、最後の一踏ん張りのために休憩した。恒例の果物の入れ物をとりだしてほうばる。前日Yが買い出しにいって、一口大に切っておいてくれたもの。スイカ、ぶどう、桃、メロン、梨、オレンジといったところだ。水分と甘味補給だが、気分がさわやかになるのも効用のひとつである。
対岸に渡る手前に樋が一本引かれていて、そこから落ちる水が、道中最後の水であった。空になったペットボトルを満たして出発する。
今回は、かなり詳しい地図を作ったので気分的にずいぶん助かった。二万五千分の一の地図を拡大して一の沢部分を切り取り、イラストレーターA4版のファイルに貼り付けると、通過点の要所と高度、距離、時間、それに注意事項を書き込んだ。プリントアウトしてジッパー付きのビニール袋にいれ、二つ折りにしてウエストポーチに突っ込んであるからいつでも取り出せる。次の目標と大体の地形がわかるので、一歩一歩着実に進んでいる気がするのだ。自分が今どこにいるか知っていれば、それ以上の安心はない。
最後の水場から常念小屋へはあと800mである。ここも斜度20度を超える急勾配で、道はジグザグに登っている。程なく第一のベンチが道の脇に現れる。細い丸太を三本並べただけで、Yが言わなければ気付かずにいたかもしれない。第二のベンチ、第三のベンチと等間隔で現れ、最後のベンチからは小屋まで300mである。僕にとってはここが一番きつかった。ひざとふくらはぎの筋肉がかなり疲労して、痛みを感じていた。しかし、あとほんの少しで稜線にでる。どのくらいがまんしたら?そのとき、300mなら歩幅で数えることが出来る、と気がついた。一歩を50cmとして百歩で50m。それが二回で100m。百歩づつ数えていく。するとあと何メートルかがわかる。
そうして数えながら登っていくと、頭の中の300mに達しないうちに左の斜面に植物が無くなり、常念の頂上に続く斜面が全容を現した。二人の老人が砂地に座っているのが、潅木の間から見える。そこから五、六歩歩いたところでなにもない広々としたところに飛び出した。午後0時50分、常念乗越に到達。6時間50分は、少し不思議な気がする、途中では完全に二倍の時間がかかっていたのだ。

4.常念乗越と常念小屋

ベージュの丸石がしかれた広大な広場の真ん中に、三方をさす方向指示板が少し傾いてぽつんと立っている。左は常念頂上に続く広い斜面で、ジグザグに登っていく登山者が小さく見える。遥か上方、曇り空に突き出している岩峰はまだ八合目で、真の頂上はその奥に隠れていると聞いていた。右手は横通岳だけに続く稜線で這松の緑が濃い。目で追っていくといくつかピークがあったが、大天井岳まで見えるかどうか上方には薄い雲がかかって確認できなかった。
正面に常念小屋の赤い屋根が少しだけ見える。この小屋は、常念乗越のピークよりも向こう側に少し下ったところに立てられているのだ。それは、ここが風の通り道だからである。三千メートルを少し欠く高さで連なる常念山脈を、西側の槍ケ岳からみると、常念頂上から400m下り横通岳に350mほど登り返す鞍部だけが半円形に切れ落ちている。風は、年中ビル風のようにこの低い通り道に集まってくるのだ。冬の季節風のすさまじさは想像を超えるものがある。西側の雪はほとんどが吹き飛ばされ、東側の一の沢などは十メートルを越える積雪になるという。風は、常念乗越にある一切のものを吹き飛ばして広々とした空間を作った。Koya1
そこから少し下った小屋の周りとテント場はシラビソなどの緑に囲まれている。左側の手前に二三本の岳樺の木があったが、なんとこれは風になびくように完全に横になっている。奇妙な光景であるが、それでも生きようとする姿は感動的でさえある。今日は風もなく、向こう側の谷から上には厚い雲があって、そこにどんな景色があるのか想像もつかなかった。Zyounentyozyo_2
小屋の入り口は階段の下にある。足を下ろそうとすると痛くて曲げられない。腰が弱ってふらふらするので、手前におかれているテーブルと一緒になったベンチに座り込んで動けなくなった。隣では、早くも缶ビールを飲んでいる中年男三人がくつろいでいる。とりあえず僕らは最後の水場で汲んできた水を沸かし、コーヒーをいれた。ハムとチーズにレタスでサンドイッチを作り、目玉焼きにソーセージという昼食を終える頃、にわかに日が影ってぽつぽつと降ってきた。頂上を目ざすのはもう明日にしよう。
階段をそろそろと下りて小屋の前に立つと入り口の上に「90周年」の看板がでている。先代、山田利一によって建てられたのが大正八年(1919年)、燕山荘と共に北アルプスでもっとも古い小屋のひとつである。深田久弥は、「三年おくれて私はその小屋に泊った。」と書いている。「小屋には二晩泊ったのでその様子は今も記憶にある。広いただの一部屋で、その隅の方で小屋番が炊事をしていた。」
それが今では収容人数三百人、ピーク時は四百人が押し掛けるという発展ぶりである。僕らが申し込んだ時は、午後二時頃だったからそれほど混み合ってはいなかった。二階に上がると廊下を挟んで、小部屋がいくつも並んでいる。25番という部屋には入れということだったので、部屋の前にある靴箱のまわりに荷物を置いて三尺あまりの引き戸を開けると六畳間であった。Yは定員九人だといわれたらしい。敷布団と寝袋がいくつか畳んで置いてある。正面の二重サッシの窓からはまばらに針葉樹が見えるだけで、深いガスが覆っていた。僕らは出入りのことを考えて、手前の壁際に敷布団を二枚敷いて、入り口に足を向けるように寝床を作った。ふと、窓の外に目をやるとサッシのおかげで音はしなかったが、土砂降りの雨になっていた。
夕飯は6時半からということだったので、一寝入りしようと横になる。疲れもあったのでウトウトしていたが、三時を過ぎたら騒々しくなってきた。グループ登山のご一行様が到着する時間帯である。
そのうちに僕らに続く第二番目の客が入ってきた。中年の夫婦で二人とも痩身、細君の方は背が高い。部屋を見渡して「あなた、どうしようか?どっちを頭にする?」とかしきりに迷った揚げ句、僕らの横に敷布団を引くと平行に寝床を作った。。何か妙な了見を起こしてポリフォームパズルのような敷き方をしたら困ると思っていたが、理性的な判断をしてくれて安堵した。細君の声ははっきりしているが、亭主の方はぼそぼそとおとなしい。そのうちに二人ともどこかに出ていってしまった。
それからまもなく第三番目の客、男女一組が現れた。男性の方は、年のころ四十才台後半、背は低いが太いがっしりとした胴体の上に、岩のような大きな禿頭がのっている。色黒の顔に太い眉とぎょろ目、はっきりした顔立ちで陰惨ではないが残念なことに愛敬に欠ける。女性の方は三十前後?細身で色白、背は男と同じくらいでからだは半分である。雰囲気からどうやら夫婦でないことはわかる。小声で寝床をどうするか相談していたが、すぐに決まった。余っている空間は奥の壁際しかないから僕らと平行に作るしかない。
かくてこの六畳間は男女三組が、畳み四枚分相当の壁際に枕を並べて寝ることになった。
寝床を作るとすぐに「私、着替える」と女が言い出した。「○○さんはどうするの?」とか何とかいっている。男はくぐもった声でもごもご言っているが聞こえない。一体この二人の関係はどうなっているのだろう。
男は、困惑しているようだったが、そのうちにごそごそ衣擦れの音がするからそっと覗くと、二人供立ち上がって、男が風呂敷のようなもので女の首から下を覆っている。中で下着を着替えしているらしい。してみると、リュックに山小屋用の着替えを詰め込んで運んできたものだろう。汗まみれのからだに新しい下着を付けてどうしようというのか。 着の身着のままで横になっている僕はそれが常識かと思っていたが、近ごろの山小屋は寝巻き持参に変わったらしい。当節、むさくるしい山男など流行らないのだろう。そのうちに「風呂があったらもっといいのに」などと言い出しかねない様子である。出て行こうとするのを横目で見たら、部屋着のようなものを着ている。ホテルにでも来たつもりなのか?
二人が出ていっている間に、第四番目の客がやってきた。六十才台の夫婦で、亭主は大柄の赤ら顔、細君は地味な顔立ちで背が低い。先客が壁際を占拠しているのを見て、途端に亭主は不機嫌になった。入り口に仁王立ちになって、部屋中をねめ回しながら腕を組み動かない。細君が「どう敷いたらいい?」と聞いても「ああ、うーむ」と生返事。なにしろ入り口から奥まで幅二尺ほどの細長い空間しか残っていないのだから、どう考えても二人は縦になって寝るしかない。細君が余っている空間に二枚の布団を敷くとちょうどぴったりおさまった。「これでいいでしょう?」というと、黙って見ていた亭主が「ふん」と鼻を鳴らして不満そうである。
細君が奥の方に陣取ったのを見て取ると、亭主がいきなり入り口の方に頭を置いてあおむけになった。まだ夜には早い。部屋の連中はなんだかんだやることがあるから盛んに出入りしている。その出入り口のど真ん中に、赤ら顔のとても小さいとは言えない頭がでんとあるのははなはだ迷惑である。細君が「あなた、頭をこっちにしたら」と小声で言うが、寝たふりをして動こうとしない。
これは嫌みなのだ。自分が今日この山小屋で、必ずしも快適とは言えない環境に置かれたのは、先客であるお前達のせいである。しょうがないから我慢してやるが、かわりに顔と頭で出入り口を塞いでやるから少しは気を使え!という怒りのメッセージなのである。彼は、出入りするものの裾が巻き起こす風や埃をかぶるとか、他の客の足が自分の顔を踏んづけるリスクよりも怒りの表現の方をとったのだ。何と云う憤怒。何と云う蛮勇。僕としてはここは一つ、夜中にトイレに立つ折りにでも踏みつけてやらねばなるまいと思って、内心ほくそ笑んでいた。

三番目の客の若い女が、時々サッシ窓についた露を指で拭いて外の雨を確かめているのは目に入っていた。四番目の亭主が軽いいびきを立てて寝始めたと思った頃である。若い女が、突然窓をがらりと開けて「何、あれ?」といっている。太い男の方はあいにく不在。雨は上がっていた。ひょっとしたらと飛び起きて窓に駆け寄った。水蒸気がもやもやとあちこちで一塊になって消えていく。そのもやもやの向こうに黒々とした三角形が浮かび上がっている。「槍だ!」と思わず叫んでしまった。虚をついて大きい。若い女が「ええ?あれ、槍ケ岳ですか?」と驚いている。確かにこれほど大きく見えるとは思っていなかったのだろう。
常念乗越から見る槍の写真はもっと遠くにもっと小さく写っている。いうまでもなく、山脈の全貌を見せようとして焦点距離の短いレンズで撮影しているからだ。大概の山岳写真は、実際にその場に行って見ると傾斜にしても大きさや存在感にしてもずいぶん違う印象に見えるものだが、そのあたりに平面として風景を切り取る写真の限界あるいは難しさがあるのだろう。Yari1

槍の向こうの空にはおぼろな夕日があって、次第に明るくなっていく気配である。晴れる!と直感して、僕はYを誘って外へ出た。
石はすっかり乾いていて雨の痕跡はどこにもなかった。谷に固まっていた雲がどんどん消えていく。なんと、あれだけ痛んだひざも腰もまったく自由に動かせるではないか。普段と同じ、この回復力には実に驚いた。
横通岳の方に少し登るとかなり展望が得られる。
槍ケ岳から左に稜線をたどると、南岳の辺りにカールが見え、そこからややあって、いわゆる大キレットのくぼみから荒々しく立ち上がる北穂高がある。涸沢カールを挟んで奥穂までは見えるが、常念の裾で遮られて穂高の全容を見ることは出来なかった。大キレットの間からは、遥か遠くに笠ケ岳の優美な姿が独立峰のように見えている。
しばらく歩き回って景色を楽しんでいるうちに夕食の時間が近づいてきた。
部屋には戻らずに直接食堂に入った。五十人ほどがテーブルについている。小屋の若い衆から口上があって90周年記念のお酒が猪口に一杯、振る舞われた。分厚く切った煮豚が三枚、それが主菜の食事で見かけに似あわず十分満足できた。
さっさと寝た方がいいと思って部屋に戻ったら、なんと入り口に足がある。むろん四番目の亭主の足だ。怒りが収まったのか、閉口したのかともかく宗旨替えしてくれたのは有り難かった。
寝袋に潜り込んだが、暑くて寝られない。いくら8月でも山の夜だからこんなに暑いわけがない。暖房の効き過ぎだろう。と思ってがまんしていたら、第三番目の若い女が外へ出ようと立った。引き戸が開かない。何かが引っかかったらしい。ひょっとしたら僕らのストックかもしれないとピンと来た。責任を感じて飛び起きると、うるさいのは承知で引き戸を外しにかかった。案の定ストックがつっかえ棒になっている。Yも起きだして、外れかかった戸のすき間から手を伸ばしてストックを取り除いた。二人がかりで責任を果たしてほっとした。一件落着だが、こっちはもう寝る気は無い。からだを冷やそうと部屋を出て、玄関から外の様子をのぞくと、ガスが入口まで漂っている。山の夜の景色は格別のものだが、うーむ残念。実に残念だった。
食堂の前にテーブルと長イスが並んだ休憩所のようなところがあって、二三人がたむろしてビールなどを飲んでいる。その外にはテント泊の人が利用できる水道、テーブルなどがあって、喫煙者が何人かいるようだった。テレビがついているのでなんとはなしに見ていると、そのうちにどんどん人がいなくなって、僕だけになった。側の本棚に写真集やら、常念に関する本があるのに気付いて手に取ったが、明かりが弱くて長く読んでいられない。九時を回るとテレビも消された。いよいよ寝るしかなくなった。
部屋に戻ると、四番目の亭主の寝袋がはだけていて、パンツが丸見えである。やれやれ、いやなものを見せられた。あとで聞いたらYもあきれたと云って笑っていた。標高2,400mの山の上にいると云う緊張感がまるでない。僕らは、山小屋泊りはこれで三度目に過ぎないからどんなルールになっているのかよくは知らないが、パンツ一丁で寝るのはどんなものか?

5.頂上

寝所に入ったらまもなく寝入ったらしいが、突然大きな話し声で起こされた。向かいの部屋の連中がどうやら出発の支度をしている。午前三時であった。そうかその手があった、と思った。ご来光のことである。寝ぼけた頭が急速にはっきりしてくる。Yも起きていた。「これから登ろう」というと、すぐに同意した。朝食の八時まで間に合えば大丈夫ということだった。
荷物は小屋において頂上を往復することにしていたので、Yが小さなバックパックを用意していた。僕は、ペットボトル一本だけ持って登るから気が楽である。玄関にでてみると気温はそれほど低くないが、少し風があるので、用心のためにゴアテックスの雨具の上だけを羽織ることにした。フリースを持ってでるほどのことはない。
この七月北海道の山で起きた遭難事故だが、聞くところによると、気温が低く激しい風雨の中を長時間歩いたらしい。ほんとかどうか信じられないことに、レインコートはビニール製の粗末なものだったという。僕らは、夏山でもフリースが必要なほどの寒さを経験しているから、ずいぶん用心深くなっている。
午前三時半真っ暗な中、曇り空の下をヘッドランプの明かりでルートを探しながら出発した。ごろごろした岩の中につけられたジグザグの道を登っていく。見上げると先行している人たちの明かりがきらきら瞬いている。ガスはないが雲が低く、時々湿った風が頬にあたった。 これでは、ご来光は期待できないだろう。
足場はガレているとはいえ踏み跡を追えば難儀なところはない。しかし、標高差400m斜度は約24度と一の沢の胸突き八丁から上部に匹敵する急勾配である。持ち上げるものは自分のからだだけだが、それが思うように動かない。時々休んで下を見るとランプの光が続々と登ってくる。小屋の赤い屋根が小さくなって、かなりの高度感である。
200m程登った辺りで空が白々としてきた。ここまでのぼると常念乗越から見える見かけ上のピークがかなり近くなってくる。とりあえず、あそこまでと思うが遅々として進まない。何組にも追い越されて、そこへたどり着くと、大きな岩に八合目の文字が書かれていた。標高2,750m地点、残り100mを登る。ここまで来て初めて頂上を含む常念岳の稜線が明らかになる。頂上は、正面やや右の大岩が突起のように積み重なったところで、道はそこから左へ回り込むようについている。勾配がやや緩やかになったので、スピードを上げる。(つもりになっただけ?)
午前6時、岩の間を抜けて頂上に到達した。晴れていれば正面に穂高連峰、そして槍に続く山並みがあったはずだ。南側の細い稜線を下降して蝶ケ岳へ向かう道が途中で雲に隠れている。東のやや下方には這松がまるで芝生でも敷いたようにみえる前常念岳(2,661m)の広い頂があって、その向こうは急な谷に切れ落ちたように黒々と消えている。あの先に三股の登山口があるのだろう。Tyouzyou

記念写真を撮って、早々に頂上を引き上げた。意外に時間がかかったから朝食にありつくためには急がなければならない。しかし、行動食は昨日のおにぎりの残りとあめ玉のようなものだったから、急速に体力が消耗して来ていた。寝不足もあったのだろう、200m程下りたところで吐き気が始まった。次第に勾配が緩くなるので、何とかごまかしながら午前八時に十分ほど前、ようやく小屋にたどりついた。
朝食は僕らだけだった。しかし、食欲がまったくない。食べたら吐くのではないかと心配した。頭がもうろうとしているのは、急に起きたせいに違いない。しかし、これから一の沢の約6kmを下山しなければならない。この調子では途中でおかしくなる。そう思って、みそ汁から少しづつ食べ始めると気分は劇的に変わった。身体は正直なものである。鮎の甘露煮は少し残ったのでYにお願いしたが、ご飯は完食できた。
しかし、まだ眠気がとれないので、ほんの少し休もうと25番の部屋にいって見ると、若い男が掃除をしているところだった。ちょっとのあいだ横になりたいと云ったら掃除中と取りつく島もない。向かいの部屋は誰もいないので、そっちにしようと思ったが「具合が悪いなら診療所へ行ってください」と断固拒否する態度である。玄関を出て右に行くと夏の間だけ信州大学医学部が臨時の診療所を開いている。医者にかかるほどの状態でないことは、見たら分かりそうなものだが、この手の若い男は生まれつき物分かりが悪い。誰に迷惑をかけると言うのか。片隅で横になるだけのことを拒絶するもっともな理由を相手が欲している、ということに気付かない。つまり空気が読めない。こういう手合は、押し問答でもしようものなら突然切れるタイプである。ばからしいから無駄な抵抗はやめた。
テレビのあるところに戻って、幅30cm程もないベンチにかろうじて仰向けになった。そのままじっとしていると、身体も頭も微睡んだ状態になる。陽が射しているから、雲がとれているかもしれないなどと思いながらウトウトしていたら、梓川の谷の方からヘリコプターの爆音が近づいてきた。小屋の真上でしばらくホバリングしているので、飛び出して見てみたいと思いながら、身体が動かない。そのうちに安曇野の方面へ遠ざかっていった。ややしばらくあって、再びヘリがやってきた。その大音響にも身体は反応しなかった。
そうして三十分も横になっていたら、すっかり回復した。身支度をしていよいよ帰路につく。頭上は晴れていたが、谷には雲がいっぱいで何も見えない。残念だが山の天気はままならないものだ。

6.下山

午前十時少し前に、常念乗越から一の沢を目ざしてシラビソの緑の中に身を乗り入れた。
胸突き八丁まで降りてくると、続々と団体が登ってくる。すれ違うのがやっとの狭い道で交錯するのには閉口した。朝一番でのぼり始めるとちょうど今ごろここに達するので、運が悪かった。ようやく胸突き八丁を抜け出すとあとは勾配が緩やかになる。
笠原橋でお昼になったので、橋の手前の小さな沢が流れ込んでいる平坦なところを選んで、昼食にした。コーヒーとチーズ、カップ麺だけの簡単な食事である。あとからやってきた中高年男女四五人のグループが、橋の向こう側に陣取っておにぎりを食べはじめた。僕らが盛大?にお湯を沸かしてカップ麺なぞを食べているので、しきりにこっちを見ていた。食事は温かいに限る。
日差しが強い。小一時間休んで再び出発。その時手袋がないのに気付いた。薄い革の手袋でずいぶん昔から使ってきたものだが、探しても見つからない。大岩の上に置いた気もするが、どこに忘れたものやら。
橋を渡ってすぐに「笠原沢出会い」の丸石が堆積した涸れ沢を越える。ここに大勢の大学生らしい若者が腰を下ろして休んでいた。女性もちらほら交じっている。大きなやかんを持っている若者に聞いたら、常念乗越でキャンプするものと小屋に泊るものが半々だという。それにしてもやかんを持って山登りとは面白い。あれをぶら下げて縦走するのだろうか。
そこから中間地点の烏帽子沢まではすぐである。そろそろ膝にきていたのはいつものことだが、今度はかなり腰が痛い。笠原橋でも腰に負担がきていることはわかっていた。烏帽子沢を越えた辺りで、ようやく気がついた。ストックの長さが短いのだ。下りの場合は長めに調節する。足の位置よりも下にストックの先がいくので当たり前のことなのだが、これが短いと前のめりになって腰が曲がる。腰に負担がくるのは当然のことであった。ストックを思いっきり長くしてみたら、背筋が伸びて腰が楽になった。
それでも、どんどん追い越された。常念小屋からタクシーの予約をいれる人たちもいるので、約束した時間に間に合わせようと急いでいることもある。中にはまるで走っているような速さで下っていく若いものもいた。中高年女性でも速い人がいる。単独行で山慣れた人だろう。この辺では傾斜も緩いので、むしろ僕らの方が遅すぎるのである。
王滝ベンチで休憩。午後二時を回ったところだ。登山口まで2.1kmである。陽が陰ってきて、道はやや暗くなった。所々ぬかるんだ道を緩やかに下っていく。ここで、例の歩幅を数えて距離を測る方法をやってみることにした。数えている間は無心でいられるから焦りも感じない。300m、500m、1kmと数えて、最初に戻る。途中踏み跡を間違えて薮の中に入り込んで困っていたら、他の登山者の頭が下を通りすぎていくので助かった。この時手袋のない手のひらを傷つけてしまう。
1kmと数えてまもなく意外にも「山の神」が現れた。実際の距離はもっとあったらしい。あとは残り500m、道はほとんど平坦になった。
午後四時少し前、登山口に到着。こうして常念岳登山、北アルプス初訪問は終わった。

下山後、かねて予定の公共の温泉施設「ほりでーゆ〜四季の郷」に向かった。

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2008年10月20日 (月)

両神山(1,723m)2008年秋

一昨年(2006年)の夏、両神山にいったが、頂上まであと一時間半という清滝小屋(1,300m)で引き返してきた。このときは七時頃から登り始めて清滝小屋についたのが十時、 かなりばててはいたがそれほど遅いペースではない。ただ、この日はいつもより体が登りに慣れてくれなくて、たまに吐き気がするなど体調が悪かった。
小屋まではあと少しだろうという地点で休憩していると、中年の男性がひとり追いついてきた。年格好は僕と同じくらいだろう。彼も立ち止まって汗を拭きながら話しかけてくる。自分は両神山が好きで、もう百回くらいは登っているという。小屋の管理人ともなじみで、今日は野菜のみやげを持ってきたといってリュックの中身を見せてくれる。ずいぶんな話し好きで、なかなかやめてくれそうもない。黙って聞いていると、僕らがぐずぐずして立ち上がらないのは、かなり体調が悪いからではないかと思い出したようだ。間もなく彼は先に行ってしまった。
僕らが清滝小屋に到着したときには、彼は小屋の外から管理人となにやら親しげに声を掛け合っていた。とりあえずベンチに座り込んだ。Yが何かの用事で小屋に入って帰ると、ここで引き返したらどうかという。この先はこれまでよりも急登になる。頂上まで二時間以上はかかるだろう。 体調が悪いのに耐えられるか? 登った場合、午後一時に頂上を出発するとして、登山口まで四時間、いや五時間くらいか?すると下山が午後六時、それから帰宅するのではあまりに遅くなるではないか、そういう理由であった。
実は、先に小屋についたあの男が、あとから登ってくる夫婦のうち亭主の方がかなりばてていて顔色も悪い、ここは一つ下山させた方がいいのではないかと小屋の管理人に話していたらしい。僕としては、ゆっくり登れば多分いけるという見通しはあったが、時間が気になった。「ゆっくり」だと結局子供らの夕飯が遅くなる。そこで、やむなく引き返すことにしたのである。
こういうことはままあることで、残念ではあるが、いつかもう一度という思いもあるからあまり後を引くこともない。思い出すと、友人と甲斐駒に行ったとき、雨にふられて双児山(2,649m)の途中から引き返したこと、Yと行った会津駒ヶ岳(2,132)で頂上直前の湿原でギブアップしたこと(後日再訪して達成)、単独で行った谷川岳(1,977m)、秩父の武甲山(1,304m)など何度も経験している。

今年は、八月に北岳に登ることができたので、俄然やる気が起きてきた。実は北岳の帰りに、やり残している両神山を再訪しようと密かに決心したのである。Yは、こういうところは案外恬淡としていて両神山などにはこだわっていなかった。北岳に対する執着に比べればあっさりしたものである。九月の連休を一日それにあててつきあうということになった。

家をでたのは午前三時過ぎ。小雨が降っている。秩父地方は曇りの予報となっていたが、行ってみなければわからない。大降りならやめようと思っていた。
前回も雲が厚くこの山の全容を見ることはできなかった。
武甲山は秩父盆地のどこからも見える。南の端にいきなり1,300mの高さで立ち上がっているからだ。この山の北側半分は石灰岩でできているために明治期からセメントの材料として掘られてきた。削り取られて灰色になった頂上は無惨ともいえるが、秩父の盟主といわれるだけの偉容は未だ保っている。
一方、両神山は奥秩父といっても群馬県境に近い最深奥部に位置し、麓から見るのは容易ではないらしい。実は何度か秩父へ行っているが一度も目にしたことがない。 地元で二三人にどの辺りに行けば見えるか聞いてみたこともあった。遠くを指差してあのあたりまで?などといわれるが、大概要領が得なかった。それほど山が深いからなのだろう。あるいは武甲山ほどの親しみを持っていないということかもしれない。いずれにしても、いろいろな角度から撮った写真や立体地図を見ても、一体全体がどんな風に見えるのか見当がつけにくい山である。
深田久弥の「日本百名山」によると、
「それは秩父の前山のうしろに岩乗な岩の砦のさまで立っている。おおよその山は、三角形であったり屋根型であったりしても、左右に稜線を引いて山の体裁を作っているものだが、両神山は異風である。それはギザギザした頂稜の一線を引いているが、左右はブッ切れている。あたかも巨大な四角い岩のブロックが空中に突き立っているような、一種怪異なさまを呈している。古くから名山として尊崇されているのも、この威圧的な山容からであろう。それはどんな山岳重畳の中にあっても、一目ですぐそれと分かる強烈な個性を持っている。」
手持ちの写真で見る限り、確かに峨々たる稜線に違いないが「左右はブッ切れている」ようには見えない。一度「巨大な四角い岩のブロックが空中に突き立っている」という様子を確かめたいと思うけれど、そばの山にでも登って、天気に恵まれなければかなわないだろう。これから登るあるいは登った山をこの目で見ることができなかったのは両神山をおいて他にない。奇妙なことではあるが、この山を選んだのは秩父という東京からの近さと修験者の山らしい適当な厳しさがあるという理由で、山の形にまで気はいかなかった。(あとで調べてみると、何のことはない、秩父市街の高いところから望むとそのように見えるらしいとわかった。)
深田久弥は、「秩父の町から納宮までバス、そこから楢尾沢峠を越えて、日向大谷にある両神山の社務所に泊まった。」と書いている。交通の便が悪くてなかなか登る機会がなかったが、バスが通って東京から一泊で行けるようになったのででかけたということであった。その納宮というのは秩父盆地を東西に貫く国道299号線沿いにある。国道はそのまま西に向かい、志賀坂峠をトンネルで越えて群馬県に入る。現在ではこの国道の南、尾根を一つ隔てた薄川に沿って県道ができ、直接日向大谷に入れるようになった。地図を見ると、確かに納宮から徐々に高くなり、峠から急坂を日向大谷に向かって下りる山道が通っている。深田久弥が登ったときはこの道しかなかったのであろう。

秩父の町を通過する地点で白々と夜が明けた。こぬか雨が霧にかわり、盆地の北、小鹿野の町から登山口に向かう県道279号線に入る頃には、前を覆っていた霧が、そこかしこで白い水蒸気の塊に変わり空中に消えていく気配になった。空はまだどんよりと低い。
県道は小さな集落を縫うようにして長々と続いていた。その道も高度を上げると同時に次第に狭くなり、やがて車一台がやっと通れるほどの山道になって、退避スペースが次々に現れる。右側から山が迫り、木の葉が道の上を覆って暗い。しばらく行くと不意に空が開けて道が広くなる。左は大きく張り出した駐車場、右はコンクリートで固めた高い土止めが続く。その上方三十メートルくらいのところに建物の屋根が見えている。道は駐車場の向こうで右に折れて登り返し、建物の前で行き止まりとなる。この建物、民宿両神山荘は登山者しか泊まらないから山小屋といってもいい。深田久弥は「両神山の社務所に泊まった」と書いているが、地図で確認すると民宿の奥に神社があり、その手前が社務所になっている。とすれば、深田がここに来た頃はこの山小屋はまだない。無人の社務所を宿にする他なかったのだ。
山小屋の前の駐車場は泊まり客用なので、いったん荷物を降ろして車は下の駐車場におくことにした。僕らの他は一台もない。小屋の前のトイレのベンチに座って二日前に買ったばかりの登山靴に足を入れる。堅い感触だが地面をしっかりとつかんでいるような気がする。Yの靴も北岳から帰って点検するとソールがはげそうだったので、この際トレッキング用から本格的なスリーシーズン用に変えた。 身支度を整えて、出発。体調もいい。気分も上々。

登山道は、山小屋のうしろに迫ってくる山塊の斜面にへばりつくように左の森の中に向かっている。入り口に登山届けのポストがあるので、そこに書類を投入して暗い木立の中に入る。 午前六時、雨は上がったが曇っている。
二年前より少し早い時刻か。あのときは小屋の主人ともう一人登山客が連れ立って僕らと一緒に出発した。彼らは清滝小屋に用があると言って少し先を行く。白い中型犬が足下にまとわりついていた。どこまで行くのかと見ていると、時々僕らの方に戻ってきて一緒に歩いたりする。しばらくの間そうして行ったり来たりしながら結局は清滝小屋までついていくようであった。つい先日の読売新聞第二社会面に「『登山案内犬』ポチ、日本百名山の両神山で大活躍」という記事が載っているのを見て驚いた。あれは主人についていったのではなくて、むしろ僕らを案内していたのである。少し変わった犬だと思ったが、気に入った登山客だと頂上まで案内するというから、僕の場合は敬遠されたのかもしれない。

この日は、人の気配はない。針葉樹の林に入ると靴底を濡らす程度の流れを横切り、すぐ右に小振りの鳥居が現れ、奥に小さな祠が見える。そこから先は山の中腹に作られた幅三尺ほどの登山道を行く。右から杉山が迫り、左は鋭く落ちて底が見えない。その木立の遥か下方からは水量の多そうな沢音が登ってくる。足を踏み外せばむろん転がり落ちてただではすまない高さである。
日向大谷は標高が約650m、1.8km先の会所という分岐まで高度がほとんど変わらない。最初はむしろ下っているのではないかと思うくらいである。アップダウンの繰り返しで、攀じ登る岩が現れたり木の根が複雑に露出して歩きにくいところもあるが、おおむねよくある遊歩道のおもむきである。
「……さすがに古くから信仰登山の山だけあって、途中には碑や石像などがいくつも立っており、由緒ある名前が随所についていた。」と深田久弥が書いている通り、時々足下にかなり風化した石碑や道標らしきものも現れる。
三十分ほどで会所に着いたが、これは標準の時間。とりあえず順調である。会所は頂上に至るいくつもの尾根筋の一つである産泰尾根の付け根にあたる。日向大谷から進んできた登山道はこの尾根に突き当たって、まっすぐには進まず谷筋を選んで二手に分かれる。会所から右にいけば七滝沢という渓流を逆登り、やがて産泰尾根の上に出る。薄川沿いに登るルートは清滝小屋の上方で尾根に登りその道と合流する。一昨年のときは、七滝沢は荒れているという情報を得ていたから当然避けた。ところがあのとき僕らに追いついた十人ばかりの中高年パーティが、迷うこともなくその道を行ったので、あえてつらい思いをするのかと感心した。
会所からいったん急坂を下るとすぐに渓流が見える。その沢と合流する地点まで下りきったところで左に振り返ると、川岸に張り出すように整地された場所がありテーブルとベンチがおかれている。ここで休憩。濡れたベンチが乾き始めている。いったん休むとつい時間を忘れてしまう。
ここから清滝小屋までは約2.5kmとコース上距離が最も長い。薄川沿いに標高差600mを登ることになる。ベンチで十分ほど休んで再び歩き出す。沢沿いに進むと、ほどなく鬱蒼とした森に阻まれ、細い流れにかかった三メートルほどの木の橋を渡る。二本の丸太の間に板を張った白木の立派な橋だが、濡れて少し傾いでいるから慎重になる。渡りきると右手から迫る山の斜面を一気に登っていく。
このとき渡った沢は薄川だったと思い込んでいた。それまでは左の遥か下に薄川の沢音を聞きながら歩いてきた。その沢がもし薄川だったら対岸に渡ったのだから、今度は薄川を右に見て山は左手から迫ってくるはずだった。ところが、道は右手の斜面を駆け上がっていく。登っていくときにはこの矛盾に全く気がついていなかった。つまり、渡った沢は薄川とばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。どの沢を渡ったかなどは、普段なら何の問題にもならない些末なことなのだが、この勘違いがあとでパニックを呼ぶことになる。
道は、山の斜面を緩やかに上がっていく。沢音は左の遥か下に聞こえる。やがて100mほど高度を稼いだと思われるところで薄川に出会い、大きな岩にペンキで赤く書かれた矢印に従って対岸へ徒渉する。滑らないように岩を選んで、しかも買ったばかりの靴を濡らさないように慎重に渡る。ここから100mくらい進むごとにあと三回徒渉を繰り返して、川の右側に渡ると、今度は林の中の急登が始まる。このあたりが、清滝小屋への中間地点か?既に標準の時間に三十分ほど遅れている。
沢をうしろに林の中をジグザグに登っていくと登山道の脇に「八海山」と書かれた立派な柱が現れる。標柱の足下には小さな石像が祀ってあるけれど、そっちの教養はまるでないから何かはわからない。前に来たときにはここで休憩したような気もするが、由来についてはそれほど気にならなかった。「八海山」と言えば越後三山の一つとしてよく知られた山(最高峰の入道岳1,778m)で、僕も関越道を通るたびに見とれてハンドルを誤りそうになる山だが、それは関係ありそうもない。ここは修験道の山だから密教呪術に由来するものか、あるいは極楽浄土の中心、須弥山を取り巻く八山八海に関係するものか?あたりを見ても日向大谷から3.1km、頂上まで2.6kmと書かれた標識だけで、他に手がかりになるようなものは何もない。山の中に「山」とは不思議な光景である。標識には清滝小屋まで0.8kmともあって、少し元気になった。
やや緩やかになった斜面を登っていくと再び沢の音が聞こえ出した。雑木の林が右から迫り、左は沢に切れ落ちている。広葉樹の葉が黄色くなりかかって、標高千メートルを越えるここでは秋が深まりつつあった。その道がそこだけ少し濡れている場所がある。脇に「弘法之井戸」と書かれた小さな標柱があった。その柱のこじんまりとした風情に似合う細い樋から清水が流れ出している。しゃがんで手袋を取り、片手ですくって口に含む。甘露。
デジャブである。前に来たときもこうしてしゃがんだような気がする。少し違うのは、あのときは体調が悪かったせいで、かなりくたびれていた。だから顔に冷たい水をかけて気を取り直そうとしたと思う。しかし、今はもうすぐに小屋だとわかっているからすぐに立ち上がった。白藤の滝へという矢印のある道標を見送り、整備された道を登っていくと上方に屋根が見える。清滝小屋に到着した。午前十時、奇しくも一昨年と同じ時刻である。
小屋は二階建てログハウスのようなしゃれた建物で、左が宿泊施設、右が管理棟である。真ん中の出入り口に張り紙があって、この日は休みと書いていた。宿泊の棟の方は非難小屋として使ってもかまわないとあった。前庭に屋根のかかったテーブルと椅子のセットをおいた場所があり、とりあえずそこに腰掛けた。向かいのテーブルを四五人の学生が囲んで食事の準備をしていた。僕らは昼までに頂上に着いて、そこで食事にしようと思っていたから、水を補給しただけで、そそくさと小屋をあとにした。
小屋のうしろから急登が始まる。頂上まで1.8km、標高差約400mを登るのである。体が慣れてきたせいか、苦しいが順調な登りである。急斜面とはいえ、黒土で岩が少なく歩きやすい。ほどなく七滝沢から来る道と合流し、産泰尾根の上に出た。ここで、晴れていれば木立の向こうに樹木に隠れた頂上が見えるはずだった。
尾根道は次第に痩せてくる。ごつごつした岩の上を歩くことが多くなった。そしてとうとう鎖場に出会う。ここは痩せ尾根にむき出しになった大岩の上を攀じ登って越えていくという道なのだ。いかにも行者の荒行をそのまま残したという風情で、両脇は樹木で見えないが、切れ落ちていることは地形を見ればわかる。一歩目はどうにか岩に取り付いたが、それから先は手がかりも足がかりもない。身の丈の三倍はありそうな高さの大岩である。張り付くようにしてわずかな手がかりを探し足をかけ、左手でつかんだ鎖をたぐり体を持ち上げる。これまでも鎖場はずいぶん経験した。垂直に近い岩場も登ったことがある。しかし、これほど難儀な鎖場は初めてである。鎖と両手両足のうちの二つを固定する三点確保の原則を守ろうと思ってもこれが思うように行かず、両手で鎖にぶら下がるような有様である。それでも若ければ体を支えられるだろうが、横に振られて落ちそうになる。Yがうまく登れるか心配だったが、今はそれどころではない。普段使ったことのない筋肉を総動員してどうにか乗り越えられた。幸いなことに続いてYも登ってくる。
モノの本には、鎖場がいくつか現れるとあるだけで、これほどとは想像していなかった。明らかに他の山と比べても格段に困難と思った。この山の登山ルートはどれ一つとっても頂上付近にさしかかると鎖場があるらしい。特に、ちょうど反対側の八丁尾根を登ってくる道は、西岳東岳の二つの急峻な岩峰を乗り越えるあたりから頂上まで鎖場の連続だという。埼玉県でも滑落事故が最も多い山として知られているのは宜なるかなである。
さて最初の鎖場を通過すると、まもなく同じような大岩が現れ、これも修験者のごとき態でとりつき、どうにか攀じ登る。そうして、しばらく岩がゴロゴロしたやせ尾根を登っていくと、やがて大きな鳥居が現れる。その向こうに木造の建物、神社なのだが雨戸で四方を囲って拝殿も何も見えない。一対の狛犬の間を通り境内に入ると樹齢400年くらいの檜の大木が生えている。道は大木と神社を右に見て奥に進むが、すぐ隣にもう一つ小振りの建物が建っている。これもまた神社らしい。何故、二つ並んでいるのかはわからない。
僕らは、とりあえず大木と道を挟んで反対側にしつらえてあるテーブルと椅子で休憩を取った。午前11時半であった。この先時間がかかったとしても四五十分で頂上だ。ちょうどお昼、食事をどうしようかと思った。頂上は狭いと聞いていたからだ。そこで、ここまで戻ってから昼食にしようと決め、リュックの中のペットボトル三本を檜の根元に隠して出発した。
神社からは、暗い樹木の中をいったん下りるようにして進む。足下の土が崩れて歩きにくい。かなり下りたと思ったところで登り返すと、下りてきたものが「あと一息」と声をかけてくれる。道は尾根筋のすぐ下を巻くようにしてついているが、ところどころロープが張ってあり尾根には出られないようになっている。ところが間もなくその尾根のてっぺんを立派な歩きやすい比較的平坦な道が通っていることに気がついた。してみると今僕らが登っているのは、俄に思いついたような、計画性もなければ整備もされていないガタガタの道だ。どうやらこの道は、後からつけたものらしい。元々存在する立派な道をわざわざ通行止めにしている。理不尽なことだが、山の道のことだから文句のいいようもない。

さて、どうやら頂上は近いらしい。いよいよ尾根は狭くなり岩場の登りが続くと思っていたら、再び鎖場が現れる。一枚岩の大きな岩盤に取り付いて悪戦苦闘しながら攀じ登ると、次から次に同じような鎖場が登場する。ようやくその難所を乗り越えると上方から話し声が聞こえてくる。岩場を登りきると両側が切れ落ちた狭いところにテーブルとベンチがあり、若い者が二人休んでいた。そこから大きな岩が折り重なっているところを登っていくと、あっけないような幕切れであった。頂上に着いた。岩を積み上げてあるような狭い頂上である。真ん中に祠があって、それを囲むように三角点や展望を示す方向盤、標柱などがおかれている。二十人ばかりの老若男女がいた。展望はない。とりあえず、両神山の標柱を挟んで写真を撮ってもらう。十二時三十分であった。
そばにいた中年の男性が、こっちに下りて行こうか迷っているといって八丁尾根の方をさした。すると隣の若者が地図を取り出して、このルートだと示している。僕は、八丁尾根はかなりきついと聞いているといった。するともう一つルートがあったはずという。どうやらこの人はどうしても別の道を下りたいらしい。若者がそれなら白井差に下りる道だろうと指差した。ただし、その道は通れないのではないかというと中年単独行氏はウームと困った顔をしていた。僕らはそこまで聞いて、十二時四十分、頂上に別れを告げた。
白井差というのは産泰尾根の薄川を挟んで反対側の大きな尾根を下りた谷筋にある登山口である。日向大谷は両神神社の里宮があってそこを起点とするこのルートは昔からの表参道だが、白井差から登るのは距離がやや短く、昇竜の滝などの景勝地もあって、古くから人気の登山道だったという。ところが詳細はよく知らないが、この道は廃道になったらしい。というのも驚いたことに、両神山は頂上を含むこの登山道一帯が私有地だったのだ。それが昭和25年、国立公園(大幅な制限を受ける)に組み込まれることになって、地主が相続税免除を条件に承諾したのだが、どうも国が約束を破ったらしい。また、いつどんな事故があったのか知らないが訴訟にまでなったことがあったらしく、それならというので地主が道を閉ざしてしまった。私有地につき立ち入り無用というわけだ。
これらはすべてWebで得た情報だが、すでにトラブルはすべて解決したらしい。今は登山口に住む地主が新たに自力で登山道をつくったので登れるようになっている。ただし、予約届け出制で頂上往復、ストック禁止、犬禁止、危険行為禁止などの条件を課せられ、無事に帰還すると一人千円の協力金を払うことになっている。このうち『ストック禁止』さえなければ、僕らも白井差に向かっていたのに、と思わないでもない。どんなルートか二万五千分の一の地図で見ようとしてもでていない。あくまでも私道というということなのだろうが、道はあるのだから表記方法はともかく記載すべきではないか?
それにしても、さすが秩父困民党の土地柄である。政府だの県庁の役人を敵に回して一人で奮戦し、山登りのことで訴えられると受けて立つ。明治の自由民権運動を戦った気骨が今に残ると感心する。とはいえ、なんだかややこしい話である。
その込み入った事情が、頂上付近の立派な旧道とひどい新道が交差する姿に表れていると推測されるのだが、ロープで行く手を阻み倒木で邪魔をするというのはどうにも不自然で、理不尽である。人間の最も俗なところがこんなところに持ち込まれている。これも、元はと言えば木っ端役人の権力志向のなせるところかと思えば腹が立つ。というわけで、僕はロープを跨いでどんどん歩きやすい旧道に入った。Yは律儀に新道を歩いている。何とその姿は、常に僕の横を平行して移動しているのである。このばかばかしさは一体なんだ。役人に見せてやりたいが、どうせ「法」というのはそんなものだと言われるのが落ちか?
もう一つ腹が立ったのは、帰りの鎖場だった。登りの岩場では無我夢中で鎖場を攀じ登ったが、むしろ下りは取りつく島もないと言った態で時間ばかりかかった。Yは手がかりがないと言って滑り台に乗るような前向きの体勢で下りようとする。危険きわまりない。なんとかやめさせたが、途中岩に指を打ってけがをした。翌日紫色に腫上がったのであわてて病院に行ったら指の骨が欠けてどこかに飛んでいってしまったらしい、といっても指の中だろうが。ともかくこの程度ですんだからよかったものの、あの有様ではどんなけがをしても不思議ではない。
他の山ではこういう場所では、普通梯子がかかっている。ここはかけられないような地形でもない。ほんの三メートルほどの梯子で難なく越えられる岩だ。例えば北岳の八本歯のコルではもっと長い梯子が連続して出てくる。それに大概の山の鎖場は、手足だけで攀じ登ろうと思えばできなくはない。鎖はあくまでも補助的なものにすぎないのである。ここでは鎖しか頼るものがない。
修験道の山だからそれなりの厳しさを保っているなどというのならとんでもない勘違いである。この山は百名山のひとつである。初心者から経験者、若年も中高年もやってくるきわめてポピュラーな山だ。梯子を四五本かけるだけで、けがの危険を大幅に減じられるのにやろうともしない。管轄する行政機関に強く要請する。直ちに梯子をかけろ!道路特定財源で自分らの遊び道具を買うくらいなら、こっちに金を使ってもらいたい。
こうして大いに時間がかかったが、再び神社に戻ってきた。早速、隠していたペットボトルを取り出し、お湯を沸かして食事にした。 恒例の果物にパンとスープにコーヒー。その間にも頂上から何組も下りてきて目の前を通過していく。こっちは不思議に急ごうという気にならなかった。頂上まで行けたことで気分がうきうきしていたこともあった。 神社の建物の裏に回ってみたり、狛犬が妙な形だと思って写真に収めたりした。妙だというのは、顔が狐みたいに長くて、尖って犬らしくないことだ。あとで調べたら、これは狼なのだそうだ。込み入った由来があるらしい。
ぐずぐずしているうちに午後二時になった。神社を出発してまもなく鎖場を通過する。これにも手間取った。林の急斜面を下りていくが清滝小屋の屋根はなかなか見えてこない。結局、小屋まで小一時間かかってしまった。前庭に数人みえたがすぐに小屋をあとにする。弘法之井戸を通過するときにはわずかに日が射していた。
日向大谷までおよそ4km、ひたすら下りるしかない。 八海山の標識を横目で見ながらほとんど休憩なしに、とりあえず最初の徒渉個所に向かう。沢音が近づいてきた。そして道は河原に続き、大きな岩に矢印が見える。対岸に渡り沢を高く巻いて砂と岩まじりの道をしばらく行くと再び沢まで下りて徒渉する。もう一度対岸に渡る頃には日が陰ってきて、矢印が見えにくくなっていた。さらに渡り返すときには矢印を見失ってしまった。気のせいか急速に暗くなったような気がする。しかし、見上げるとまだ四時半頃の空だ。おそらく、目が悪くなったせいだろう。この春に仕事でパソコンばかり見てきたから、目の感度ががくんと衰えた。少し歩き回ってようやく矢印が見つかった。これが最後の徒渉で、この先薄川を右に見てしばらく行けば会所に着くはずだと思ってやや安堵した。沢音は右手遥か下から上がってくる。
しばらくその産泰尾根の中腹に刻まれた道を緩やかに下る。ここは同じような景色が会所まで1kmほどだらだらと続く。いずれベンチの場所に出るだろう。しかし、林の中に差し込む明かりが弱くなり、次第に日暮れの時間が近づいていた。
そろそろベンチかと思われる頃、突然道がなくなった。足下の岩の先で道がこつ然と消えている。おかしい。どこで間違えたのか。頭の中で逆にルートをたどってみたが、思い当たるところはない。果たして徒渉場所を間違えたか?俄に不安が怒濤のように襲ってきた。
Yがあそこじゃない?と下の方を指した。三十メートルほど下に白木の橋がかかっている。しかし、橋はまるで梯子のように異常に傾いていた。あんな向こうに攀じ登るような橋は見た覚えがない。しかも、もう一度沢を渡ると薄川の向こう側に出てしまう。帰るには薄川を右に見るルートでなければならない。頭がパニックになった。
Yが後ろで、あった!という。岩の上で探していた僕のうしろを指差している。振り返るとV字型に折り返して沢に下る道がついている。とりあえず半信半疑で下りていった。すると、橋は水平に近い角度でかかっている。なんのことはない、高いところから見た目の錯覚だった。しかし、既に周りの景色が見えなくなるほど暗くなっていて、見覚えのある風景かどうか確信できなくてまだ納得したわけではかった。
実は、ここで渡った沢は薄川ではなかった。薄川は僕らが最後に徒渉したあと登山道から右の方に次第に離れていった。そして、道がここにやってくる遥か以前に、ずっと右の方に流れ下っていったのである。では、この沢はなにか?
産泰尾根の向こう側の沢沿いに登るルートを七滝沢コースといって、僕らが選んだ道とは会所で別れるといったが、この最後に徒渉した沢は、その滝沢(七滝沢)だったのである。滝沢はここから少し流れ下って薄川に合流する。僕らはここでその滝沢を渡り、さらにしばらくいって右からやってくる薄川の沢音をはるか下に聞きながら下ることになるのである。
そのことにはまだ気づいていない。沢から少し登って、ようやく見たことのある道だと確信し、胸を撫で下ろした。ほどなくベンチが現れた。
ここまで緩やかな下りといっても、ブレーキをかけながらの歩行だからかなり膝に負担がかかっている。崖を落ちるような下りならとっくに膝が笑っているが、ここは傾斜が緩いから助かった。休みなく下りてきて、緊張から解かれたばかりだったのでベンチで休憩することにした。肌着は汗を発散するタイプだが、北岳で破けた上着の代わりに着た木綿のシャツは触るとぐっしょり濡れて冷たい。気温がそれほど低くなかったからよかった。喉がからからだった。水を飲むのも忘れるくらい急いで下りてきたのに気がついた。時間が気になる。五時半を少し回ったところだ。小屋から二時間半もかかってしまった。薄暗くなってきた。日が暮れるまでと登山口に着くまでと両方ともに、あと三十分だ。
まだ夕暮れの明かりは残っていたが、出発前にヘッドライトをつけることにした。僕のはLEDランプで比較的明るいが、Yのは電球式で光が赤い。僕が前を行くことにした。午後五時四十分、ベンチの場所から一気に駆け上がると会所の分岐である。標識に日向大谷まで1.8kmとあった。反対側に『山道』とあるのは多分七滝沢の方を指しているのか?わかってはいたが、そんなにあるのかとやや落胆の思いであった。ここからはアップダウンが続く。登りになるとかえってスピードが出るくらいだ。ストック二本は下り用に長くしてある。それを駕篭かきのように左右に振り出してエイホーとかけ声をかけながら歩いた。会所からいくらも行かないうちに、日が暮れてしまった。真っ暗な中をヘッドライトが照らし出す道をいく。林の影だけが目の前にボゥっと浮かんでその下に灰色の道がある。右は切れ落ちて漆黒の闇だ。月明かりもない真っ暗な夜である。
ヘッドライトは意外なほど明るい。Yのライトはなんだか弱々しかったので、僕が前を歩いて、道を照らした。ところどころ木の根が複雑に段差を作っていたり、岩が突き出しているところなどが現れると、僕のライトで照らし出して慎重に足を運んだ。そうして、おおむね順調に距離を稼いでいく。登山地図によると、この間の下りの所要時間は25分である。(登りは30分)六時過ぎには着くはずだ。
ほぼ半分くらいまで来たと思われるところで足が止まった。左側が岩壁、右の崖下から太い幹の木がのびている。足下の岩から下がすっぱりと切れ落ちている。下は真っ暗で何も見えない、えっ!こんな場所があったっけ?一瞬、道を間違えていたのかと思って戦慄した。引き返すか?いや、どこにいるのかわからないまま動いたらかえって危険だ。では野営か?と悲嘆と絶望、無力感が頭を駆け巡った。(若い頃はこういうときこそやる気が出たものだったが、俺も衰えたものだ、とは後からの言い分)
Yに道がなくなった、というと「そんなばかな」という。僕の脇から大木の横のあたりに回り込んできて、岩の下を照らしている。こっちは、こんなところで滑落事故でも起こしたらどうしようと思案しているのに、落ち着いたものだ。しゃがんで岩の下の方を覗き込んでいたYが「あった!」という。何が?「こんなところに鎖があるじゃない」えっ、今朝の登りで、この鎖場を越えたという記憶は完全に抜け落ちていた。
あらためてライトを当ててみると、確かに鎖とロープが一本下がっていた。しかし、鎖があるくらいだから岩の下はかなり落ちているはずだ。それが確認できない。それにしても、そこから続く先の道が何故見えないのか?冷静になって前方にライトを当ててみると、見えないのも道理だった。道はこの岩の下で10mばかり、ガクっと下がるとその先で左に曲がり一旦見えなくなる。次に見えるのは、もっと下の方だった。左に行った道が下りながら右に折り返し、ずっと向こうのかなり下に見えていた。道は思ったよりもはるか下方に下っていたのだ。
ともかく鎖場を下りなければならない。ようやく足がかりを見つけてそろそろと下りる。かなりの高さである。しかも岩はむきだしのまま崖下に切れ込んでいる。足を滑らせながらもなんとか下りた。次にライトで照らしてYが下りてくるのを待つ。記憶がないのはどうしたことだ、などと思いながらもとりあえずホッとした。
人は一つの対象に意識を向けたときは多分鮮明に覚えているのだが、そうでないときは全体の印象、形象を記憶しているものだ。だから、この場合のように部分だけ切り離して取り出しても記憶の全体が構成されないのだろう。やむを得ず夜になってしまったが、実に危険な体験だった。今でも思い出すと身震いする思いだ。
この後は駈けるようにして進んだ。植林したと思われる針葉樹の斜面を横切っていく。いよいよ真っ暗になった。ライトにあたる木々だけが闇に浮かぶ。いけどもいけどもこの行程はなかなか終わってくれない。 息がはずんで自然に喉から声が出るのは魔除けのつもり。やがて、周囲の植生の感じが少し変化したような気がした。林の中に広葉樹あるいは灌木のようなものが混じりだしたと思ったのだ。近い!闇がいっそう黒々としだした。ほどなく下の方に何やら小さな明かりが見えてきた。どうやら着いたらしい。鳥居と祠がどこからかもれてくる明かりに照らされてボゥっと浮かんで見える。細い水の流れを渡った。そして、暗い森の中から日向大谷の街灯の中に飛び出した。
小雨が降っていた。ほんの少し顔にかかるほどの雨だった。
午後六時二十分、約12km累計高低差2,200mを十二時間かけてとうとう踏破した。朝身支度を整えたベンチに腰掛けてしばし呆然としていた。


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2008年9月20日 (土)

北岳(3,193m)2008年夏

昨年( 07年)は、Yが山登りを始めて十周年であった。Yはこれを記念して、一年前(06年)から初めて登った北岳を十年ぶりに再訪すると勝手に決めていた。ところがこっちは両神山(1,723m)を途中で敗退したばかりですっかり自信を失っていたから、三千メートルもの山岳登山など、とてもだめだと思い込んでいる。おまけに昨年はなんだか気力も萎えていて、動きまわるのがおっくうであった。しかし、一度こうと決めたら変更はきかない性格である。あまりブウブウいわれるので、どうにか近場で選んだ千メール前後の山を二つ(扇山と百蔵山)登ることでお茶を濁してしまった。低い山といっても楽ではないが、何しろアプローチが短いからあっけない。Yは「えっ、これだけ!」と明らかに不満顔であった。
あのスリル満点の岩場や雪渓歩き、ビバークまでした思い出深い北岳に比べれば、街の高台にある公園程度の山では釣り合いが取れないのである。それでますます「北岳十周年記念登山」に執念を燃やした。十一周年目になってしまうがかまうものか、来年こそは!とひとりで張り切っていた。しかし、僕としては四十九歳だった頃に比べれば、既に老人の域に達している。来年になれば体力が回復するなんていうことはさらさらない。そのときはまたなにかいいわけを考えようと思っていたら、その来年はあっという間にきてしまった。
四月から六月にかけて忙しい日々が続いたが、ほとんどパソコンの前に座りっぱなしの仕事だから運動不足も甚だしかった。たまに下北沢まで歩くくらいのことはするものの体力作りに役立つなんてことはまるでない。足のしびれもとれる気配がなかった。そういう状態でも、いよいよ日程が迫ってくると、いろんなことがあったせいか今年は逃げを打つ気にならなかった。断固やるべし。途中で心臓が破裂しようと脳内血管が破けようと這いつくばっても登ってやると密かに誓ったのである。

覚悟を決めたら、後は楽になった。二三日前から酒をひかえて睡眠も十分取るようにして、八月二十日早朝、車で芦安に向かった。
笹子峠から甲府盆地に入るのは久しぶりだったので、道を間違えたりして午前五時半頃、ようやく明るくなった芦安の集落に入った。夜叉神峠に向かう薄暗い道に若いガードマンが立っている。 少し下ったところにある駐車場に誘導しているのであった。こんな早朝からいるところを見ると、夜中も見張っていたのではなかろうか?ご苦労なことだ。数年前から南アルプススーパー林道は夜叉神峠から先、マイカー規制がしかれて入れなくなっている。芦安の駐車場に車を置いてバスか乗り合いタクシーで広河原までいくのである。突然、環境問題に目覚めた南アルプス市が新たな税源と雇用を確保できたことは実にご同慶の至りである。ここ旧芦安村はたった二百人の人口に数億円の地方交付税がつぎ込まれていたので一部で知られるようになった。村営の温泉レジャー施設が三つもあって結構なものだと思っていたが、合併によってかえって自活しなければならなくなったのであろう。環境問題にかこつけて稼ぎの種にしたことは疑いようがない。まあ、こっちも遊びで来ているのだから、マイカー規制くらい仕方がないというべきか。
Yが周到に調べ上げていた予定通り、五時四十五分発のバスに乗ることができた。広河原までは約三十キロメートル、三百メートル下に野呂川が流れる切り立った崖の上を一時間の道のりである。

北沢峠(長野県との県境)に向かう道に出会うT字路にくると、向かいに北岳が見える。以前はその角にロッジ風の建物があって、立体地図を買ったことがあったが、移転したのか跡形もなくなっていた。バス停は野呂川沿いに少し下ったところにある。身支度を整えて、さっきのT字路まで引き返し、その先のゲートを越えると野呂川を渡る狭い吊り橋がある。正面遥か奥に北岳頂上を右に見て一本の稜線が左に向かってのびている。その池山尾根が左へ登り返す鞍部を八本歯のコルというが、そこから一直線にこちらに向かって流れ下っているのが大樺沢である。吊り橋からは沢の上流に雪渓が残っているのがはっきりと見える。
天気は悪くないが、この日はあいにく頂上にガスがかかっていた。
吊り橋を渡ると市営の広河原山荘がある。早朝にもかかわらずキャンプや渓流釣りの客、学生の合宿などで賑わっていた。登山道はこの山小屋の左脇から始まる。
時刻は午前七時五分。上空に少し雲があるが、おおむね晴れている。高度を確かめておこうと「プロトレック」のモード変更ボタンを押すと、気温は出るが高度がエラーになっている。通常は気圧センサーによって計測されたおおよその現在高度が五メートル単位で表示され、高度変化を示す棒グラフが点滅し始める。さては、寿命がつきていかれたか?発売されてすぐに購入したから十五年くらいはたっている。普段は机の上に放りっぱなし、使っていないのが悪かったのか?しかし、なんどやってみてもおなじこと、どうしようもない。出かける前に確かめておかねばならなかったのだ。まあ、時計の機能だけでも働いているのをよしとしなければなるまい。そう思って高度はあきらめた。
はじめは針葉樹の林の中を左に沢音を聞きながらゆっくりと登っていく。いくつかの堰があってそこだけは水の音が激しい。間もなく白根御池小屋に向かう道を右に分けて沢沿いに進む。右の道は視界のきかない暗い林の中をいくというので嫌った。ただ白根小池がどんなところか興味があったので帰路に使う予定である。ちなみに前回は八本歯のコルを経由して大樺沢を下りたのだが、これが崖にかけられたはしごの連続で沢の付け根に下りてくるまで生きた心地がしなかった。ここだけは避けようと思ったのはいいとして、白根御池コースという選択もまた大変なことになるとはまだ気づいていない。
しばらくは、沢に流れ込む小さな流れに靴底を洗われながらよく整備された道を緩やかに登る。水にぬれた岩に足を取られないように慎重に進むと、やがて砂まじりの道になり、突然小山のような土砂によって阻まれるところにさしかかる。石ころだらけでほとんど水のなくなった沢に板を渡し、その先にはパイプで組んだ橋をかけてある。対岸に渡り今度は沢を右に見て登るのだ。古い地図を見ると登山道はまっすぐついていて沢を徒渉するところはない。おそらく山が崩れて、道が埋まったために迂回路を造ったものであろう。そんなことをどこかで読んだ記憶がある。
忘れもしない、この場所は十一年前に、午後八時頃ヘッドランプをつけて下りてきたとき、対岸に渡ったとたんに道を見失ったところである。登りは矢印が目立つようにつけられているが、下りは徒渉してすぐ砂の上に踏み跡がいくつもあって暗い中ではルートを見つけにくいのだ。雨は降っていなかったが時々空が光る。雷が近いと思って大いに焦った。実は夜でも夜中でも広河原に入ってくる車の明かりだというのに気づいていなかった。いまなら午後六時以降の通行は禁止されているからこういうことはないはずだ。このときは下手に動くと遭難の危険があると思って、道を登り返し、木立にかくれるようなところで朝がくるのを待ったのである。Yにとっては、初めての山登りでビバークというとんでもないが得難い経験であった。夏とはいえ山の夜は寒い。雨具を着てコンロの火に手をかざして寒さをしのいだ。
この沢沿いの道は緩やかで歩きやすいから順調かといえばそうでもない。三十分登って一度の小休止のつもりが息が切れてその間隔がだんだん短くなってくる。さすがに一年間何も運動していない体で急に全身運動だから、足腰の筋肉が痛んで休まないと続かない。
ちょうどビバークしたあたりだと思うが、リュックをおろして傍らの岩に腰を下ろした。ふと足下を見ると青い粉状のものがこぼれている。何かと思ったら両方の靴底のかかとの方が三分の二ほどはがれて、中の崩れたウレタンがこぼれだしているのであった。つま先がまだくっついている上にスパッツのゴムを靴底にひっかけて持ち上げてあるからかろうじてはげ落ちなかったのだ。道理でなんだかブニョブニョすると思っていた。手入れもしないで放っておいたからソウルとアッパーをつないでいるゴムが劣化したのであろう。こういう場合直ちに登山を中止するべきなのだろうが、そんなことには思いも及ばなかった。弱ったことになったが、上の山小屋で相談したらなんとかなると、そのまま登り続けることにした。
小休止のたびに振り返ると、正面に高嶺(2,779m)のやや丸みを帯びた頂上から左右対称に降りてくる優美な稜線が見える。以前ビバークしたときにこれが中空にシルエットとなって浮かび上がり、気のせいか重低音のBGMを伴って圧倒してきた。山が覆いかぶさってくるようだった。古代の人々の山への恐れとはむしろこういう闇と一体になったところから来たのかもしれないなどと思ったものだ。この高嶺が自分の登った高さの指標になった。ここからみると、まだその中腹までも達していない。
やがて、沢の音がどこかに吸い込まれたような静寂が訪れる。灌木の枝越しに時々覗く沢には一抱えもある白くて丸い石がごろごろ積み重なっているばかりである。水はこの石の遥か下を流れているのであろう。

不意に空が開けて道は再び対岸へ渡る。前に来たときには雪渓の端がここにあって、大勢が雪の上で休んでいた。氷から滴り落ちる水を水筒に補給しているものもいた。この日は、前回よりも二十日も遅かったから、雪渓はかなり後退していて黒く汚れていた。ここが二股といって、まっすぐに八本歯のコルを目指す道と頂上直下を右に巻いて急斜面を登っていくルートの交差点になる。標高約二千二百メートル、広河原から七百メートルの高さを登ってきた。(後で計算すると、ここまで地図上の距離が二千六百メートル、傾斜角度は十五度であった。)
何か鉄パイプと木でできた建物が場違いにも道から少し外れて灌木の中に立っている。発電機のような音もしているが、山小屋というほどの大きさはない。近づいてすぐにトイレだとわかった。雪が積もるのを考えて床を高く組んである。辻にあたるから気を利かしたつもりだろうが、やたらに目立って景色が台無しである。
ここから右股は標高差約五百メートルの急勾配を登る。喘ぎながら自分の体を持ち上げては一歩登るたびに休む。左に沢筋が一本降りていて雪渓が消えずに残っている。それを見ながら高度を確認してはまた一歩あがるという具合で、速度はがっくりと落ちてしまった。はげたソールも気にかかる。しかし、灌木だけの道だから見晴らしがきくのはありがたい。大概の山は林の中の急斜面で苦しいだけ、気を紛らわすものがないもない。前回もこのルートを登った。途中に一瞬だけなだらかで氷河が削った跡つまりカールの底のように見える場所がある。急な階段の狭い踊り場のようなものだ。そこだけは木のかわりにたくさんの種類の高山植物が咲く、お花畑と呼ばれているところである。残念だが、花の盛りはすぎていた。高山に咲く花は、いわれてみればけなげで可憐だと思うが、これを愛でて歩く山旅なんてことにはどういうわけか興味がわかない。小さな花に感情移入するほど繊細な神経を持ち合わせていないことを嘆くべきかもしれないが、どうも女の趣味のようで、潔しとしない。しようがない、早い話無粋なたちなのである。
ここで丁度十二時。朝握り飯一個を食べただけであったが、食欲はあまりない。しかし、何か口に入れないと体が動かないような気がしていた。若い頃は、体がどこかにエネルギーを溜め込んでいて、多少食わなくても動き回れたと思うが、近頃では直接きいてくる。例えば、歩いていて眠気がわいてくるとか頭がはっきりしないときにあめ玉ひとつでしゃっきりする。カステラのようなものをほんの一口食べただけで急に力が出るなどということはよくある。文字通りためがきかなくなったのだ。老いるということがそういうことだったとは若いときには気がつかないものである。
草むらにへたり込んでソールの具合を確かめた。相変わらず青い粉状のウレタンがポロポロこぼれている。しかし、幸いまだつま先の方へは広がっていなかった。それから、恒例になったフルーツのタッパーをあける。一口大に切った桃、なし、スイカ、オレンジそれに巨峰。むさぼるように口に入れる。ぶどうだけはまだハシリだから少々酸っぱかったがあとは甘くて果汁も十分だった。急に食欲が出てきた。そこで、パンにハムとチーズにレタスを挟んだものを口にした。
僕らの他にも二三組が腰を下ろしている。ここは右俣ルートのちょうど中間にあたり、登りにも下りにも休憩地としては誠に都合の良い位置にある。少し離れた灌木の茂みから若い女性が現れた。そこが登山道であった。不思議なことに小さなリュックで軽装である。まるで散歩にでも来たような風情であった。ぶらぶらこちらに歩いてくる。すると後ろから同じような格好の若者がやってきた。腰にヘルメットを二つぶら下げている。そこで気がついた。この二人はロッククライミングをやってきたのだ。
北岳バットレスは頂上の直下にある岩壁である。約六百メートルの断崖絶壁は、穂高の滝谷、谷川岳の一の倉沢(ここが最も死者が多く七百人以上にのぼる)、甲斐駒ケ岳の赤石沢奥壁などと並んで多くのクライマーが集まるところである。登りきったところが頂上というのは北岳だけの魅力だろう。彼らは八本場のコルの手前からこの壁に取り付き、三四時間で頂上に達する。身の軽さはうらやましいと思うが、たとえ若かったとしても決してやる気にはならなかっただろう。人間には、どうしても激しく体を動かしたいという欲求を生理として持つタイプがいるものだ。
腹ごしらえをすませて再び登りだした。 三十分ほど休憩していたことになる。同じ急傾斜だが、今度は沢筋からはなれて背丈の低い灌木の中をいく。景色は見えないが空が開けているので気分は楽だ。相変わらず休み休みしながらそろそろと登る。ここを登りきるとおよそ二千八百メートルの森林限界を超えた尾根筋に出る。ときどき上を確かめると木がまばらになったような気がして、そろそろ急登も終わりかと期待するのだが、そんなに甘いものではない。ああ、あそこまでだと思って体を持ち上げるのだが、そこまで登れば、次のあそこが現れるといった具合である。
十一年前、山登りの足の運び方も知らないYは、常に僕から十歩くらい後ろになった。ややもすると姿を見失うほど遅れてしまう。そのときは、立ち止まってやってくるのを待つ。ところがほどなく立場は逆転した。僕の方がハアハアいいながら登ってくるのを上に立って待っているというのが常態になった。しかし、今回はもっと早く登れるのに、僕のペースに合わせてくれている。実際、待たれると思えば、どうしても心に焦りが生じて、これが疲れを増すことになる。この気遣いはありがたいことである。
疲労困憊、太ももから膝、ふくらはぎにいたるまでもはや力が残っていない、ふらふらの状態でうなだれたままどうにか足を運んでいる。よくしたもので、ちょうどそのとき足下から植物が消えて土が現れた。ついに急登は終わった。頂上から西の小太郎山(2,725m)を結ぶ尾根の上に出たのだ。元気がよみがえってきた。
前に来たときはここでちょうどお昼になった。頂上で昼飯という予定だったが、まだ先は長いということで、この土の上に腰を下ろした。大勢の登山者が数珠つながりに尾根道に座っているので、場所を探すのに苦労したと記憶しているが、誰もいない今はこんなに広かったのかと意外な思いである。もう午後二時を回っていた。
振り返ると、高嶺の頂上とほぼ同じ高さにいる。その右奥に見えるのは特徴あるオベリスクの地蔵岳(2,764m)、少し離れて右に雪をかぶったような白いピークが二つある。観音岳(2,874m)と薬師岳(2,780m)の風化した花崗岩が白くざれた頂上である。この鳳凰三山の十キロメートルにも及ぶ長い稜線と野呂川から一気に千五百メートルの高さで立ち上がっている山塊はまるで屏風を立てたように見える。
高嶺から左に目を転じると、アサヨ峰(2,799m)をピークに、鳳凰三山級の高さで連なる早川尾根の山々が見える。それが栗沢山(2,719m)を最後に切れ落ちると、その向こうに白く摩利支天の岩峰がこちらに向けて立ち上がり、それを抱えるようにひときわ高い甲斐駒ケ岳(2,966m)の灰色がかった頂上が少しかすんで見えている。この位置から甲斐駒を見ることができたことは何よりもうれしかった。さらに左に回ると、そこには雄大な仙丈ヶ岳(3,002m)の山体が横たわっている。特徴であるカールは確認できたが、頂上には雲がかかっていた。ひとしきり眺めを楽しんで、ほどなく出発した。
この日泊まる予定の肩の小屋(3,000m)までは約八百メートル、標高差百五十メートルを登る。尾根道はおおむね土に覆われているが、ところどころに岩をよじ上る小さなピークがあって楽をさせてくれない。既に足は限界に達していて、ストックにすがってようやく前進するという有様であった。
最初に目に入ったのは何か青いものであった。あっ、やっと着いたと思った。少し高いところで小屋の主人が登山道の方を見ていた。予約客を迎えているのである。とにかく平らな地面に足を置けてほっとした。午後三時であった。Yがこれから頂上を目指すという。いやはや元気なことだ。明日のご来光を拝む手はずではないのかといって、勘弁してもらった。何しろ一刻も早く横になりたかったのだ。靴を脱ぐとソールがとれかかってぶら下がっている。それも後回しにして、二階にあがり、割り当てられた番号の位置を確かめて寝転がった。山小屋に入る時刻であったから先客が何組か既に布団をひいて横になっている。
Yが靴底のことを相談したといって上がってきた。手に針金四本とペンチを持っている。「よくあることだが、小屋としてできることはせいぜいそんなことぐらいだ」といわれたらしい。えっ!「よくあること」なの?瞬間的に靴のメーカーはずいぶん無責任ではないかと思った。僕一人の問題、手入れを怠ったとか保管方法を知らなかったとか自分の不注意なのかと思っていたが、誰にも起こりうることだという。そんなことならばきちんと警告を発するなり、対処方法を啓蒙するなり、対策を講じるべきではないか。とまあ悲憤慷慨しても始まらないか。とりあえず明日、この針金を使ってどのようにソールを固定するか考えておかねばならない。
そうしているうちに、次々に泊まり客が入ってくる。団体は一組ぐらいで、幸いうるさいということもない。見ていると、ウイークデーだからかもしれないが、中年の夫婦連れが最も多いようだ。ありがたいことに混み合っていないので、一組で柱と柱一間分を使えることになった。布団や毛布も五六人分を独占できる。夕飯は四時半から順番にというおふれが回ってきた。それまでまだ少し間がある。
先に到着していた四十代と見える夫婦が隣で既に寝床をこしらえ、横になろうとしていた。余った寝具を積み重ねて、僕らとの間に垣根を築いてくれている。とりあえず仰向けになって毛布をかぶった。汗はひいていたが寒い。次第に体の芯から冷えてきた。あとで高熱が出るような悪寒である。あわててリュックからフリースを引っ張りだして着込むともう一枚毛布を重ねてくるまった。それでどうにか寒さは収まって、緊張から解放されると筋肉がほぐれていくような気がする。とにかく体を休めようと目をつぶった。
なんとなく明日針金をどう巻き付けようかなどと、考えながらひと眠りしようとしていると、まもなく隣で盛大ないびきが始まった。あとにも先にも聞いたことがないような大音響である。自分のいびきに驚いて目を覚ましてくれないかと思ったが、いっこうにやむ気配がない。はじめは我慢していたが、いらいらしてきて嫌みたらしく垣根に布団を積み上げたり、枕元の柱をたたいて注意を喚起するとか、いくつか抵抗を試みた。細君が気づいてなんとかしてくれても良さそうなものだが、覗いてみると亭主の脇ですがるように体を丸めて寝ている。この音でも平気というのは、なれているのだろう。長年我慢を続けていると怒りがあきらめに代わりついには無神経になってしまう現象なのではないか?
他の客が気づいてくれることを願ったが、夕飯前だから大概荷物の整理や、洗面、寝床の準備やらで忙しく出入りしている。つまづいたふりして足でも蹴飛ばしてくれたらいいのになどと思いながら、ひたすら耐えた。
そのうちに夕飯だというので、さっさと起き上がって階下の列に並んだ。 液晶テレビが柱に取り付けてあって、地デジ放送が北京オリンピックの模様を映している 。さすがにここまで来て熱心に見ているものはない。狭い空間に並べられた小さなテーブルに八人座ることになるが、先客の中年男がでかいあぐらをかいて遠慮もないから窮屈この上ない。名前も知らない白身の魚を甘辛く煮付けたものとサラダに飯とみそ汁だった。数年前、甲斐駒の帰りに雨にふられ仙水小屋に泊まったのが山小屋初体験だったが、このときは刺身に揚げ物、デザートにスイカが出たのでびっくりした。山の中で刺身を食おうとは思わなかった。それに比べればさすがに人里離れた三千メートル、どうやって荷物をあげているのか知らないが万事質素にということなのだろう。それで量も十分だった。

夕飯が終わった後外で出て洗面、寝る支度をした。薄いガスが出て視界はきかない。幸い筋肉痛は歩けないほどの痛さではなかった。
午後七時前、さて寝ようと思ったら隣のいびき男夫妻は既に床に入っている。先に寝た方が勝ちと思っていたが遅れを取ったようだ。まずいなと警戒しているうちに間もなく始まった。他のものはまだ寝床を作るやら何やらごちゃごちゃやっている。階下のストーブの周りに集まって話し込んでいるものもいる。
その人々も三々五々自分の布団に入り始めた。大音響は、八時の消灯の後も続いているので、これで一晩中やられたらたまらんが、他の連中も「あの野郎」と思っているのがわかるからその仲間意識で僕のイライラも多少は緩和される。苦労は皆で分かち合うのである。二階客だけでなく階下で寝ているもの全員を敵に回している。それを察知したのか、さすがに細君が何かしたような様子が垣根の向こうから伝わってくる。ややトーンが変わるが、期待に反して音量が若干弱くなっただけである。そのうちに正面を向いて仰向けに寝ていたのを少し横向きにしたらしい。それで「グァァー」と「スゥー」の中間ぐらいに変化した。変化が兆したというのはなんであれいいことである。起きているかいびきをかいているか二つに一つなんて人間はいないはずと自分をなぐさめて、ひたすら待ち続けていると、時間はかかったが驚いたことに階段状に音が低くなっていく。そして、ついに寝息が聞こえなくなってご臨終、のはずだったが、その前に疲労の極にあった僕の方が眠りに入っていた。
夜半に目が覚めた。プロトレックのスイッチを押して時刻を見ようとするが電池が弱くてよく見えない。高度計がいかれているのは電池切れのせいかもしれない。どうやら午後十一時三十八分であった。膀胱がパンパンである。真っ暗な中を、手探りでリュックからヘッドランプを取り出し、外へ出ようとしたが鉄の扉が開かない。ぐずぐずしているとYが心配してやってきた。要領が悪かったらしく、Yがやると難なく開いた。
外は晴れている。時々湿気を帯びた風が吹いてくるが、寒くはない。用を足して、しばらくベンチの横にたって景色を見ることにした。東の正面にはほぼ満月に近い月が少し赤みを帯びて煌煌と輝いている。星はところどころに見えるが、湿った空気の層が満天の星空を隠しているらしい。月は鳳凰三山のすぐ上空にある。特徴ある白い三つのピークが月に浮かび上がっている。その向こうに富士山が見えるはずだったが影もない。高嶺の稜線が左に落ちて、再び早川尾根に立ち上がる鞍部、白凰峠の向こうに街灯りがわずかに覗いている。山梨県韮崎辺りであろう。大きな自然と人工的なものの対比を見せつける情景に何かが違うという違和感を覚えた。
西をみれば仙丈ヶ岳の二つのカールが照らし出されている。その大らかな山が左に切れ、重畳と重なる山影との間にできた小さな隙間から長野県飯田あるいは高遠辺りの灯がもれている。南は北岳頂上の方向だが岩嶺に阻まれてみることはできない。その遥か向こう、大きな櫛形山の右脇からもれている明かりは山梨県市川大門町あたりか。何年も前、真冬にそこを通ったときにあれが北岳だと聞いて双眼鏡で覗いたことがある。前哨の山々に阻まれて遥か頂上しか見えなかったが、厳冬の北岳は寒々とした青空を背景に、白く氷に覆われ時折頂上付近で雪煙を巻いていた。
今その山に立っている。この光景の雄大さは、どんな写真もTVカメラの映像も表現することはできないと初めて実感できる、そこにいるものだけが味わえる大きさである。考えてみればこの山は、麓の街から見ようと思えばこのわずか三カ所からしか見えないのだ。しかも、それは平面で構成されている。その街から見た山を想像する。いま自分は確かにその上にいるはずだが、実はそこにはいない。攀じ登るという行為のどこか途中で別の世界に入ってしまったのだ。ここから見えるあの明かりの世界といま自分が立っている場所は、いわば全く次元を異にする空間といってもいい。だから彼らから僕は絶対に見えない。できれば僕も彼らを見たくはなかった。山に登るということは異世界に分け入るという行為なのだ。よくは知らないが、山伏の行為がそれを表しているように思える。俗を出て、魔物が棲むという世界に身を置いて自らを浄化しようとする。山をご神体とあがめて暮らしてきた我らが先祖、僕も役小角の子孫につながるものであることをこの夜しみじみ知らされたような気がする。よけいなことを言うようだが、山は畏れるものであって、征服されるべきものでは決してない。また征服できるものでもない。
三十分ほどそんなことを考えながら真夜中の山々を眺めていた。寝床に入るとすぐに眠ったらしい。目が覚めたのは午前四時、ご来光を仰ごうというものがいたら動きだしている時刻である。すでに起きているものは二三組いるようだが、身支度をしている気配はない。風が強くなっているような気がした。さては雨であったか?夜中の湿気が雨を呼んだのかもしれない。じっとうかがっていると階下で「雨」という言葉が聞こえる。仕方がない、午前五時半の朝食を済ませてから、頂上に向かうことにしてぎりぎりまで布団の中にいた。
朝食は煮物にのり、納豆、梅干しといった定番、愛想も何もない。外に出てみると、煙雨とでもいうのか、霧のような細かい雨が白い蒸気と入り交じって西から流れていた。視界はほんの十メートルぐらいである。小屋を出発しようとするものでごった返していたので、ソールを縛り付ける作業がひかえている僕らは最後にしようと雨具を着込んで待っていた。リュックは小屋に置いて頂上を往復するつもりである。ようやく針金を巻き終わって外に出ると十数人のパーティが準備運動をしているところだった。その連中を後にして、小屋の脇についた登山道をいく。背中にリュックがなくても体の負担は同じに感じる。これから標高差二百メートル、岩だらけのルートを一時間あまりかけて頂上を目指すことになる。時々鎖場が現れるが、岩に手をかけて登れば難しいことはない。ただ、一つ岩山を越せば霧の中にボォーッと次が現れ、それを乗り越そうと脇を見れば片側がすぱっと切れ落ちていて、薄気味悪いことこの上ない。バットレスに落ち込む崖の縁を登っているのである。十一年前の時は晴れて視界を遮るものはなかった。ほとんど切れ目なく登山者がつながっていて、その後を追いかけるだけで楽に頂上に到達した記憶がある。しかし、今度は体が重くて、息が切れる。休みながら登るしかない。霧の中から現れた登山者が追い越して、再び霧に消えていく。その中で一人、僕の足下に目を向けるひとがいた。歳の頃は僕と同年配、大きなリュックを背負っていて、山になれているふうである。
「ああ、やりましたね。どういうわけか北岳にくると多いのですよ。」といいながら、リュックをおろして白いテープをとりだした。スポーツ選手がテーピングと称して使っているもののようだ。ルートから少し脇に寄って岩に腰掛けるようにいう。「あくまでも応急処置ですよ。」と手慣れた様子で靴に巻き付けてくれる。針金は太くてなかなかいうことを聞いてくれず、いかにもゆるゆるであった。そこを心配してくれたのだ。終わると力強く岩を踏みしめながら、さっさと霧の中に姿を隠した。
しばらく登って、やがて少し先を行っていたYが「あれが頂上じゃない?」と指すのでその方角を見ると、霧の中の高いところに島のように浮かんだ岩山がかすんでいる。くぐもった話し声のようなものが聞こえてくる。とうとう登りきったようだ。
頂上には十数人いたと思うが、もやっていてよく見えない。そばにタオルで顔を拭いているひとがいる。先ほどテープを巻いてくれたひとに違いないと思って、お礼を言ったら「いや、わたしじゃありませんよ。」という。靴のことを知っていたらしい。さて、あの人はどこへ行ったやら。
そばにいた人に頼んで、標識の前に二人で並んで写真を撮ってもらった。この看板には「3,193m」と書いたプレートがビスで止めてある。前にきたときは「3,192.4m」とあったはずだ。四年前に三角点より八十センチ高い岩盤が計測されて正確には「3,193.2m」となった。それでなくともこの山はいまだに年々高くなっているという。穂高よりもこっちが高いことを悔しがる御仁がいるそうだが、こうなったらいよいよ敵うまい。この看板の他は霧が隠して何も見えなかった。
Yは帰りのバスの時刻を心配していた。さあ、肩の小屋まで引き返そうと振り返り頂上から岩を一段降りかかったとき、Yが「よくやったね。」といって顔をくしゃくしゃにした。自信のなかった僕を無理に引っ張ってきて、二年越しの思いがかなった。僕もいろいろあったから「よかった、よかった」といって二人で肩を抱き合って少し泣いた。

下りは雨が弱くなり、ルートも通ったばかりの道だから順調だった。朝八時頃というのは登ってくるもの、降りるものどちらも多い。僕らは体があまり利かないからどんどん追い越されていく。小屋につくと、先ほど追い越していった若者がいて、腹ごしらえをしようとしている。大きなリュックなので縦走してきたのだろう。どこから?と聞くと、聖岳(3,013m)からだという。静岡県の椹島登山口からまず聖岳に登り、赤石岳(3,120m)、荒川三山(悪沢岳が最高峰で3,141m)、塩見岳(3,052m)そして間ノ岳(3,189m)に北岳という三千メートル峰をつなぐ全長約四十キロメートルのコースである。塩見岳まで一緒だった父親は、仕事の都合で先に長野県側に降りたのだそうだ。何日かかったかは聞かなかったが、歩きづめだったろう。若いとはいえ親子で健脚なものである。

午前八時半、小屋を後にした。この頃になると霧が晴れて視界が開けてきた。間もなくさっきの若者が追い越していく。くさすべりを白根小池小屋に降りるというから僕らと同じコースだ。小太郎尾根の分岐にさしかかる頃には薄日が射してきた。これからきつい下りに入る。右俣コースの沢筋を一本隔てた左の道だから傾斜は同じはずなのにこちらの方が急に感じる。中間に踊り場もなく一方的に下るだけだからかもしれない。脇を見ると、木のない右斜面に大きな百合の花が咲いている。大きすぎて少し不気味である。
この急斜面は、長めにしたストックを前に出し、つっかえ棒にして一歩一歩ブレーキをかけながら足を運んでいく。 足の置き場所がよく整備されていて、歩きにくいところはないが、登りと違って前屈みになるので膝の周りの筋肉、それに腰と背中が疲労する。俗にいう膝が笑うという状態である。これも休み休み、疲労して熱くなった筋肉を冷やしながら降りていかなければならない。急峻な下りだから慎重に足を運ぶ。真下に御池小屋が見えてくるはずだが、いつまでたっても同じ景色が続く。
同じ足の運びを続けると、筋肉が痛くなってくるので、たまに足を横にしてがに股歩きをしたり、横歩きのようなことをしながら変化を付けなければならない。そのうち、右足を岩において、左足を下におろそうとした瞬間、右の靴に巻いていた針金がほどけて上に輪っかができていたのに気づいたときは既に遅かった。おろそうとした左足が針金に引っかかり右足の上に乗ってしまった。上体がバランスを失って、そのままドゥーッと前のめりに倒れた。無意識にストックを前に差し出して体を支えようとしたような気がするが、その瞬間目をつぶってしまったようだ。どんな姿勢で倒れたか記憶が抜け落ちてない。土が露出していて、大きな岩などない場所であったことがさいわいであった。その土の上にたまたま転がっていた板状の浮き石に右肩から落ちたらしい。肩甲骨の下あたりを石のエッジにしたたか打ってそのまま一緒に斜面を滑った。骨までいったか!と思ったが、冷静に考えるとそこまでの痛みではない。左の肩も痛んでいるがこちらは打ち身程度、右手首の上あたりに擦過傷、他に首の辺りが痛むが頭や顔は無事である。しかし土ぼこりで顔半分がざらざらする。両手を伸ばし、その間に顔を挟んだ状態でとまった。精神的なショックでしばし呆然、我を忘れて倒れ込んだままだった。
Yが点検した所によると、着ていた夏用のウエアの肩の部分が切れていた。下着の方はもっと丈夫な繊維でできているから無事である。その下の皮膚が直線上に五センチばかり切れて血がにじんでいるらしい。それにしても、石が浮き石でそれに乗って滑ったというのはなんといっても幸運だった。そうでもなければと想像するとぞっとする。
針金は危ないと思ったが、テープもこの頃になるともはやぼろぼろになっていて、あてにならないので、もう一度巻き直して使うことにした。
ショックから立ち直り、再び慎重に足を運び降り始める。幸い自然にできた階段状の斜面でむずかしいことはない。大事なことは右足と左足を決して近づけないことである。しばらく降りていくと斜面の底が見えた。狭いが平らな場所に小さな水たまりのようなものが見える。もうすぐだ、そう思って心は焦るが、膝が笑っている足がなかなか前に進まない。見えるものは水たまりだけで、小屋など影も形もない。その目の前の水たまりがいっこうに近づいてくれないのだ。「見えている魚は釣れない」という言葉を思い出した。
しかし、何にでも終わりというものはある。斜面の底には草がぼうぼうと生えているのが見えて、ちょっとした湿原らしい様子がうかがえる。最後はその草を分けて進み、ようやく平らな地面に立つことができた。白根御池はただの水たまりだったが、そこまで進むとかなり広い平地が広がり、左手に立派な山小屋が建っているのが見えた。南アルプス市営である。その前庭においてあるいくつかのベンチのうちの一つを借りて座った。ちょうどお昼であった。あの斜面と三時間格闘したことになる。予定を一時間オーバーしてYは再びバスの時刻を心配し始めた。午後三時には広河原に到達していたい。
他に二十人近い中高年男女混合パーティが一組、数組の夫婦連れや若者が食事をしたり、休憩している。ここは、二股と同じ標高二千二百メートルである。あと高度差七百メートルを下ることになるのだが、このときは二時間もあればいけるだろうと楽観していた。
朝食以来まともなものは食べていないので、お湯を沸かしてカップ麺を作った。その間にコーヒーを入れ、小さなパンをのどに流し込む。向こうでにぎやかにやっている団体から聞こえてくるのは長崎弁だと気がついた。あんなに大勢で長崎から北岳までやってくるとは日本の登山熱もたいしたものと思う。僕なら九州の山に出かけようなどという気にはならない。比べるのも変な話だが。
休憩するともう動きたくない。ぐずぐずしているうちに一時間近く過ごしてしまった。水洗トイレで用を足し、身支度を整えて出発した。
しばらくは暗い森の中のほぼ平坦な道を多少のアップダウンを繰り返しながら三十分ほど進む。何人か登ってくるひととすれ違った。やがて「ここで急登終わり」と書かれた標識の前に立つと、そこから鋭く切れ落ちた急坂が始まる。下からどんどんひとが登ってくる。電車とバスを乗り継いでやってきたパーティが宿泊先の白根御池小屋に向かって登ってくる時刻なのだ。
降り始めて気がついたが、目の前の道は見えるが少し先に目をやると針葉樹の林に隠れて道が見えない。登ってくるものも初めて目に入るものは頭だけである。つまり、木を取り除いたらほとんど崖になってしまうようなところをジグザグに降りているのだ。
木の根が複雑な段差を作って足の置き場に困るようなところや大きな岩が露出して足がかりもないような場所が次々に現れ、さっき白根御池に降りてきたくさすべりよりは一段と足腰に応える険しい道である。長崎弁の一行がにぎやかに追い越していくと下から登ってきた大阪弁のパーティと何やら大声で声を掛け合っている。
足がもう限界だと思った頃に「第二のベンチ」というところに到達した。狭いベンチに座って休憩していると、下から中高年というよりは老年に近い婦人がやや軽装で登ってきた。ほとんど息が切れていないのはたいしたものである。「第一のベンチ」まではどのくらいあるかと聞いたら、それには応えないで僕の足下ばかり見つめている。「ああ、やったのね。」という。ぼろぼろのテープに針金を巻いた靴を見て「こういうのよくあるみたいね。どっか山小屋で靴を売ってたとこがあったわよ、針ノ木岳にいったときだっけ。」と独り言のようのつぶやくのである。その言葉で、歳の割にはずいぶん健脚、かなりの登山経験者であることがわかる。しかし、ものの言い方に浮世離れしたところがあってやや不気味。そう思っていたら下からどんどんひとが上がってきてたちまち「第二のベンチ」は一杯になってしまった。老婦人はこの一団の先鋒だったようだ。とにかく押し出される形で、僕らは再び降り始めた。
上から三人の中年男性が話しながら降りてくる。会社の同僚らしい。後輩が先輩に「…何しろ千メートルで七百メートルですからね。そりゃあきついですよ。」と話している。えっ!そんなにあったのか、と驚いた。地図をよく見ていなかったのが悔やまれた。つまりこの急坂は、平面(地図)上の距離が千メートルで高低差が七百メートルあるといっているのである。後で計算してわかったが、傾斜角約三十五度、斜面の距離は千二百二十メートルとなる。スキーで斜度三十度というのはほぼ崖を降りるのに近いと聞いていたが、ここはそれ以上に険しい急坂だったのだ。そんなことがわかっていれば、小太郎尾根から右俣コースに降りて、距離は長いが傾斜十五度の大樺沢を下りた方が足腰の負担も軽減できたにちがいない。休憩もそんなにいらないはずだから、時間を短縮できたかもしれないのだ。
この下山ルートがよい選択ではなかった知っても後の祭りで、逃げるわけにいかない。時間ばかりかかって、次第に登ってくるものも、下りで追い越すものもいなくなった。いったいいつになれば、大樺沢との分岐に出会えるのであろうか?標識はなかなか現れてはくれなかった。
そして、とうとう沢音が聞こえるまでに近づいた。傾斜は少し緩やかになったような気がするが、分岐の看板はまだ先らしい。変だと思いながら進むと堰が現れて大樺沢と平行して降りている。ますますおかしいと思いながら歩いているとまもなく傾斜は劇的に緩くなった。やや先をいくYの足が速くなっている。僕の方は足から力が抜けて、段差があるのに気づかなかったために足を滑らせて尻餅をつくと、そのまましばらく動けなかった。先でYが何かいっている。急いで追いかけると、着いたといっているらしい。そんなばかな!と思ったが、すぐ左手の下に黒々とした屋根の一部が見えてきた。本当に着いたのだ。 看板は見逃したらしいがそんなことはどうでもいい。ともかく終わった。午後四時をまわっていた。
昨日出発した広河原山荘の前には、下山してきた大勢の登山者がいた。ベンチの周りに集まって談笑している。少し離れて僕らも腰掛けた。疲労困憊であるが気持ちは軽い。そのうちに寒くなってきた。上半身裸になって、フリースに着替え、バス停のある対岸に向かう。吊り橋で振り返ると、朝霧雨だった頂上が晴れやかに見えている。あんなに高いところに立っていたなんて信じられない気持ちだ。やはり、あれは今ここにいる僕ではなかったのかもしれない。
乗り合いタクシーに呼び止められて、バスよりは早くたつというのでそれにした。同乗したのは若い夫婦に小学生くらいの男の子であったが、青年は僕の足を見て「ああ、それ、僕もやったことがあります。突然そうなるから困りますね。」とかなり同情するような表情であった。夜叉神峠のトンネルをくぐる前にタクシーが止まって、運転手が西の方を指差した。北岳と間の岳をつなぐ三千メートルの鞍部に夕陽が落ちるのを見られるのはこの時期だけ、ということだった。まぶしくて楽しむどころではない。
芦安に着いたのは六時過ぎ。すぐに市営の金山沢温泉に向かった。ここは比較的新しくてきれいだ。露天風呂もあって湯が熱い。客は僕らの他は誰もいない。なんという贅沢だろう。北岳でかいた汗を流しながら、なんとかここまでやれたのだから、一昨年敗退して悔しい思いが残っている両神山にもう一度挑戦してみてもいいのではないかという考えがふつふつと頭に浮かんできた。


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