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2025年12月 7日 (日)

「煮干し」ラーメン、ほめてる奴は馬鹿野郎だ。

近頃、老若男女を問わず、そこいら中、食い物についてあれこれ言う奴ばかりになって、他に考えることはないのかと、かなりうんざりしている所だが・・・。
大体昔から男は、食い物について旨いの不味いのと語ることはなかった。暇なのか忙しいのかはともかく、あちこちの料理屋に通う連中でも「あそこのあれは旨い」など、関心も薄いし、まして自慢げに聞こえることは口が裂けてもいうものではなかった。料理屋がものを食うためだけの場所ではなかったからでもある。
女も、はしたないと言って、食い物の話はしなかった。つまり、ついこの間まで、公の場で誰も食い物のことは恥ずかしくて言わなかったのである。
なぜか?つまり、これまでは(いつまで、というのはおいおい述べるが)、食い物についておしゃべりするのは「卑しい」事だったからだ。

 

ところで、女の美食家というものに出会ったことがないのは偶然ではない。女は自分の「旨い」という感覚は百万語費やしても伝わらないことを知っていて、はしたないと言い訳をしながら賢く言葉を節約してきたのである。諸君!気を付けたまえ!女はこれほどまでに賢い。もうひとつの理由は、日本の料理は本質的に酒との相関関係を暗黙の了解とした存在なので、ますます、女にとってはしたないのである。大酒飲みの女は嫌われるのが落ちだろ。

 

食道楽を自ら喧伝するような奴は、「飲む打つ買う」の次ぎに「食う」が来るようなやくざ(役に立たないという意味)な連中の所業であると自嘲する文豪だって、昔はいた。(谷崎のこと)食のことを書くのは、この文士らがほとんどで、これほどやくざな連中はいない。たしか、梅原猛が書いていたと思うが、ある時、自分の兄妹に文士との結婚話が持ち上がったことがあって、家族は言うに及ばず、自分が率先して猛烈に反対したことを苦々しく回想していた。食のことを口にする(?)のは、へたをすると世間を敵に回すほどに恐ろしく卑しいのであった。

 

ところで、なぜ、こんなことを書き始めたか不思議に思っている人がいるかもしれない。
理由は、少し込み入っている。
Noteにブログを移す作業にとらわれて、(すでにブログで発表した文だから)これが読まれているのか、いないのか関心の外だったのが、最近「フォロー」に少しばかり数値が出るようになった。そこで、物好きにもどんな人が「フォロー」してくれたか見たら、そのひとは、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」という見出しを付けたYouTubeをやっている。
小説家の食に関する表現に興味がある僕としては、見逃せないと思ったので、とりあえずのぞいてみた。
村上春樹の小説の一部分でも引用し、それを批評するのを期待してみていたが、待てど暮らせど出てこない。その内に、青森で食った「煮干しラーメン」がうまかったという下りがあったので、「あれっ?!」と思ったのだ。

 

僕は五十年ほど前に弘前で五年暮らしたが、煮干しというものに出会ったことがなかった。それより以前、僕は、東北のある街で生まれ育ったのだが、物心ついた頃に、「煮干し」という言葉が存在することに強い違和感を感じたことを覚えている。たぶんこの地方には鰯の加工方法としてそれが存在していなかったのだろう。煮干しを見たことはないが、その言葉を聞いて、鰯を煮て干したものとはすぐに理解出来る。違和感とは、落語にあったような話(勝節で出しを取り、汁を捨てる)で、魚を煮たら、うま味も何も汁の方に流れて、残りかすを乾燥したものが出しになるのか?と言う疑問である。鰯が捕れすぎて始末に困った漁師が、並べて焼く手間を省いた、つまりずるした結果に違いないと感じた。東北地方の真面目な漁師(と僕たち)にとっては許しがたい所業である。僕は、鰯の焼き干し以外に見たことがなかった上に、煮干しが道理として「出し」であるはずがないと、思い込んでしまっていた。

 

焼き干しを作る工程は簡単である。網の上にきちんと並べて炭火で焦げない程度まで焼く。すると鰯の内臓はやわらかいから脂肪とともに溶け落ち、首の骨は肉が落ちて折れ易くなり、乾けば自然と落ちる。肉は焼かれて水分が抜け濃縮され香ばしさが加わる。焼き干しはそれぞれがくっついて、つまり、めざしのように並んで出来上がるから一本ずつ外して使う。勝節と違ってこの程度の手間の代物が高いはずはないではないか。
弘前では、これを毎朝二三本使い味噌汁にしているのを見ていた。

 

それから何年かして東京で暮らしはじめたが、「出し」の材料はいろいろ使った。築地で買った「本枯れ節」を一食ごとに削って、しばらく使っていた。あごだしは、舌がだらけるのですぐやめた。利尻昆布を十センチばかり水から煮だして削り鰹を加えるというのもやっていた。煮干しの存在にも馴れてそれを1キロずつ買って使ったこともあった。一度に十匹くらい使うから、その都度黒く固まった内臓と頭を取るのはめんどうだというので、初めに1キロ分、その作業をやっておくのが手間だった。今では、すっかり根気をなくしたので、いろんな出しをブレンドしたパックもの(結構な値段!)を便利に使っている。

 

かなり前のことになるが、ある時、そういえば焼き干しは見かけないと思い、築地で聞いてみたら、店の奥から取りだしたビニール袋に入った十連二棹ぐらいのわずかなものが1000円もした。びっくり仰天して、これじゃあ、いくら何でも出しとしては使えないなあと思った。
ただし、出しとしてどうかといえば、まず使う量は煮干しの三分の一ですむ。味はと言えば、煮干しの方はなにか大事なものが抜け落ちていると言う究極的な物足りなさを感じるが、焼き干しはのどごしが清んでおり、しかもどこか重厚である。気のせいかどうかは自分で試してみるのが一番だ。焼き干しの方が、出しとして格段に上等だと分かるはずである。

 

さて、「なぜ村上春樹の食事は不味そうなのか」の方だが、肝心の村上春樹が出てこないまま「あそこのラーメンはどうだ」「量が凄まじい」とか「胃にもたれる」などと言う話ばかりで、見ているうちに意識が遠くなった所に「青森のラーメン」という言葉が飛び込んできた。それで少しばかり覚醒したのだが、昔よく食べてたものだから潜在していた思い出を刺激されたのだろう。

 

しかし、「煮干し」ラーメンとは何だ?青森では「焼き干し」ではないのか?確かに「煮干しラーメン」は近頃の流行なのか看板はよく見かけるようになった。はたして、青森まで「煮干し」になったのか!僕はほぼ憤っていた!
青森のラーメンは「煮干し」ではなく「焼き干し」であるべきだ、と言う想念が膨らんで、この論者たちは何も分かっちゃいない、馬鹿野郎だと思ったのであった。
いったい青森の焼き干しはどうなっているのか?
はたして鰯がとれなくなってしまったのか。また、築地で買おうとした時のことから類推するに、焼き干しは高くて使えないのかもしれない。あるいは、ただ単に東京で流行っているから「煮干しラーメン」にしたのかもしれない。
そこで少し調べてみたが、焼き干しは、陸奥湾でとれる鰯の加工品として相変わらず青森の名物であった。築地で売られているのも青森県産だったが、それは今も健在であった。

 

この論者たちは、青森には焼き干しという文化(名物)があるのに、なぜ敢えて「煮干し」なのか?とラーメン屋に訊ねてくれなかったのか?
出しなど何でもいいじゃないかというのなら、そもそも食い物の話を他人にしてもしょうがない。
最初に、女は自分の味覚を伝える事は出来ないと自覚しているから無駄なことは言わないと指摘した。味覚とは、個人の舌に依っているものだからである。映像や音声は再現も共有も可能だが、食い物の味だけは百万遍言葉を尽くしても他人が追体験できるものではない。
しかし、そうはいっても、人には、自分が体験して感じた感動や驚嘆を他人に伝えたい欲があるのも事実である。はしたないとはいえ、うまいものはうまいと言いたいのである。
ただしこの体験は、食べたものの味を、そのものが持つありとある情報のすべてを動員してでも言葉で伝えるほか手立てがないものだ。

 

ここいらで気づくことだが、食い物とは、もともと内側に文化を抱えているものだ。「煮干しラーメン」は今ここで、降って湧いて出たものではない。その味がいかに玄妙に出来ているか(そうだと仮定して)には理由があり、文化的背景があり、歴史があるかも知れない。
つまり、「オレが今、一杯のラーメンの味に感動している」のは、味覚に訴えるものの中に、たくさんの文化的な要素が含まれているという感覚が潜在していたはずなのである。
青森で、なぜ「煮干しラーメン」なのか?
なぜ「焼き干し」ラーメンでないのか?
その理由は?またその違いは?
人様に食い物のことをしゃべるなら、それくらいは調べておけ!
だから馬鹿野郎なのである。

 

「村上春樹の食事は不味そう」というタイトルのYouTubeで対談をやってる若者は少なくても他人の食事を批評するだけの「意識の高い」人たちだろう。しかし、YouTubeをなんとなく見ていて、これは評論なんて上等なものではなく、ただの雑談に過ぎないではないかと思った。いや、つくった人には申し訳ない言い方になってしまったが・・・。

 

僕は村上春樹について、端的に言って、米国大衆小説の流儀を日本で実現しようとしたが、高温多湿の気候風土にそれが合わなかったために、彼の野望は失敗したと評価していて、それ以上興味はない。食い物の表現がうまい作家はそれなりにいるが、だからどうだというものだ。

 

食い物のことで何かしようとするなら、僕が読んだ中でも必読書を並べておくので参考にしたらと思っている。(ああぁ、またよけいなお節介をしてしまう!)

 

食道楽  村井弦斎 1901年
美味求真 木下謙次郎· 1925年
美食倶楽部 谷崎潤一郎 1919年
食は広州に在り 邱永漢 1957年
食味歳時記 獅子文六 1964年
私の食物誌 吉田健一 1971年
美味方丈記 陳舜臣/陳錦墩共著 1973年
魯山人味道 平野正章編 1974年
散歩のとき何か食べたくなって 池波正太郎 1977年
月の裏側  クロード・レヴィ=ストロース 2014年

 

 

ところで、僕はコピーライターをやっていた。

 

四年以上も、料亭と寿司店の取材コピーを毎週一本づつ書いていた。
前にも紹介したが、Noteにはまだ移していないから、おいおい移しておこうと思う。
スポンサーはヒゲタ醤油「本膳」で、料亭で使用される高級醤油であることや、店のたたずまい、料理長と料理などを紹介して広汎な使用を促進と言う目的であった。こんなに長く広告シリーズが続いたのは珍しいという。

 

とりあえず、二つ三つ。

 

なだ万(シェラトンホテル)
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遥か水平線の上にかすかに都会のシルエットを刻んで、かたむきかけた冬の陽が空を染めている。このもの憂い時刻、加州の探偵が酒には早すぎるといったことを思いだしたが、海浜リゾートとはいえ棕櫚の並木が寒そうで、別の感興がわいてくる。
広々とあけたロビーを左に進むと庭につきだしたようにお店があった。暖簾の先が、この大きなホテルの中でわずかに作られた日本的な空間で、お座敷にテーブル席、寿司、天ぷら、鉄板焼きのカウンターという構成が、アーバンリゾートを楽しむ宿泊客に全方位で対応している。
五年前から厨房を率いてきたのは、内山勉調理長。なだ万は十五年になるが、大阪の名門を皮切りに各地で修行、ドイツにいたこともあるというユニークなキャリアの持ち主である。日本料理の基本はしっかりと守るが、相手や環境の変化に応じて素材や調理法を柔軟に変えるという態度は、こうした経験の中で自然に身についたものであろう。
例えば、写真の料理の中でも、菜の花とマスカットの辛子和えという不思議な取り合わせ、ホワイトソースを和風にアレンジし、それをベースにした柚釜などに端的にあらわれている。かと思えば、湯引きして甘味を出した車海老や肝を添えたおこぜなど基本的な鱠も用意する。デザートやベーカリーなど興味が向かうところは広く、それというのも、増えてくる若い世代の味覚に応えていくには、伝統の上に重ねるべき一工夫が必要だという考えからである。若者と日本料理、新たなテーマを教えられた。
最後に、笹でまいたものが気になる人のために。やがらという頭が竜の落とし子で胴が鱧のような魚の寿司である。昆布締めした透明感のある白身は、平目よりも歯ごたえがあって品良く美味である。Photo_20251207231301

 

 

銀座ろくさん亭」

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「・・・すると万吉は穏やかな口ぶりで、彼には板前になる素質がないと言った。この仕事は勘のものだ。いくら教えても勘のないものは一人前の職人にはなれない。そいつは諦めた方がいい。」(山本周五郎「つゆのひぬま」より)

 

料理人の腕が天性のものか、それとも血のにじむような修行の結果であるか、いずれとも断定するわけにいかないが、こちらのご主人ほどその議論から超然として我が道を行くひとはいない。若いころから反逆の料理人といわれてきたが、それには二つの意味合いがあったであろう。戦後の闇市の殺伐とした中に身を置いて生き抜いてきた向こう気の強さ、そして伝統を何よりも大事にする日本料理の世界にあって、いち早く中華風、洋風を取り入れた感覚の新しさである。

 

例えば写真は、崩し豆富中華風五味八珍というが、木の実や洋菜の間からのぞいている飴色の刺身は、鱠に切って冷水であらった城下鰈であり、季節感を胡麻風味の醤油でいただく感性はやはり和というべきであろう。
昔気質がまだ色濃く残っていた修業時代、何十人もの料理を短時間に、高下駄で頭を張られながら作らされたつらい経験は、いまでは習い性になってしまった。「早く、美しく、旨く」ということを体で覚えさせてくれた。一方で、生来の器用さ勘の良さではじめたことも、これまでいくつかの失敗を生んでいるという。才気煥発といえどもすべて順風満帆とはいかないのが人生なのだ。

 

しかし、時代感覚は常に鋭く「素材を十分生かして旨いものをつくるなら調理法にはこだわらない」のが流儀で、それをいまの人々が求めていると見ている。

 

道場六三郎さん、六十三歳。料理の鉄人といえばうなずく人も多いだろう。
開店から二十二年。名前からとったという、ろくさん亭にはその新しい和の世界を慕うファンが夜ごと押しかけている。

 

 

なべ家(南大塚)

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この鮎は旨い。東京で鮎はどうも、という食通は多いと聞くが、この鮎は希有な例外である。食べ頃の大きさを揃えて、飾りの塩も打たず皮目もこんがりと素っ気なく焼いてある。頭からがぶりといきたくなるような風情だ。
ほんの少しだけ蓼酢を付けて口に入れると、骨があたることもなく、弾力のある身から香気が口中に拡がる。その奥に、ほのかに特有の苦さが現れ、次の瞬間にはそれが爽やかに消えていく。
清涼の流れを力強く泳ぐさまが浮かんできて、一瞬自分がいまその山里に遊んでいるのではという錯覚にとらわれる。東京の鮎のイメージが変わった。大塚駅前の三業地の看板に案内されて道を行くとすぐ右手に、粋なたたずまいのお店があって、玄関先に郡上鮎とだけ書かれた小さな提灯が下がっている。
ここで包丁を握るご主人の福田浩さんは二代目。冬は鍋、春は川鱒、初夏から晩秋にかけてはこの鮎という決まりである。郡上八幡中流の、姿を調えた天然鮎を運ぶという難しい段取りを付けてはじめたのが三十年ほど前、いまと変わらぬやり方だが、しかしよく知られるようになるまで五年も辛抱したという。
若いころはジャーナリストを目指したこともあったが、江戸前料理の看板通り、江戸期の料理研究家として著作も多く、その志は別の形で実現したと言える。
鮎のコースは、まず江戸前に作った卵焼きを肴に、冷やした酒でのどを潤すという序章にはじまる。献立にはどこと明確に言えないが粋でいなせな趣向が続き、終章が極めつけ鮎茶漬けである。鮎は昔から日本人の愛でる魚であった。近年川が衰え、鮎は育てるものになって形骸化した。ひょっとしたらこの旨い鮎は自然と向き合う料理人の批判精神かも知れない。

 

 

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