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2025年9月15日 (月)

三宅香帆「なぜ働いていると 本が読めなくなるのか」 を読んで考えたこと。

71qjwlkdxcl_ac_ul640_ql65_ 「京都に行ってくる。」と娘が言うものだから、何事かと思ったが、「推し」の作家だか評論家の講演イベントがあるとのことだった。帰ってから感想を聞いたが、対談の相手に不満があったようだ。YouTubeでもやっているから見たら、といわれてたので、何日か後に見てみると、評論家にしてはかなり若い女性だった。
しゃべりは、思いついたことがそのまま速射砲のようにでてきて、まとまりがない。話しの中から論理的に何事かを受け止めようとしたが、無理と分かって、途中で諦めてしまった。YouTubeもいろいろとは言え、この年齢のものは見たことがなかったから、「いまどき」とはこんなものかと感心した。

 

その内に、「推しが新書を出しているから読んでみる?」と娘が机の上に置いていった。表紙に「集英社新書、30万部突破!2024年年間売上1位」とあった。しばらく新書など見たことがなかったが、「なぜ働いていると 本が読めなくなるのか」という、こんないい加減なタイトルでも本が売れることに驚いてしまった。

 

タイトルのことだが、まず、一般的に、この世の中「働いている」人だらけだから、まず自分のことかと思うに違いない。次ぎに、なぜ自分は「本が読めなくなる」のか、と言う疑問は、「本を読みたいが、読めなくなった」人にとっては、関心のある所かもしれない。
問題は、「本を読みたいが、読めなくなった」人がこの世にどれだけの数、存在するか?である。普通の人は、本を読みたいと思ったら、自由に読むことができるではないか。だから、「本を読みたいが、読めなくなった」人というのは、普通とは違う、ある意味病的で異常であり、何らかの(精神的)障害を抱えているのかもしれない。これはもう精神科の医者が担当する領域である。と同時に圧倒的に数は少ない。
こんなむずかしいことをいわなくても、「働いていても」本を読む人は多い。僕も勤め人だったが、本を読むことになんの支障もなかった。従って、「なぜ本が読めないか」といわれても、その経験がないから、理由を知りたいとは思わない。多くの人は、こんなくだらない謎解きに興味を示すはずはないと僕は思う。つまり、仕事が忙しくて本を読む暇がない(「そういう気分にならない」、も含めて)としても、本を読むかどうかは自分が決めれば済むことであり、それが「なぜだ?」と、それ以上のなにかを期待するのはよほどのことだろう。要するに、反応するターゲットが少ないと思われるタイトルは出版物として不利だと言っているのだ、ところがどっこい、それに反してベストセラーという。なにが受けたのかぼくには理解不能である。

 

そのタイトルの理由は、この後すぐに判明した。
この本の前書きに、著者は大学を卒業して就職したが、暇があればスマホを見てしまう生活で、気がつくと一年も本を読んでいなかった、と書いている。本をじっくり読む(そういう癖があるそうだ)ためには仕事がじゃまになり、三年半で会社を辞めた、とある。
「なぜ、働いていると、本が読めなくなるか」は、実に著者個人の経験そのものであり、本人にとってはそれなりに深刻な問題だったのだ。ほんとうは、タイトルの最前列に「わたしは」をつけるべきだった。(笑うしかないな。)
しかし、恐ろしいことに、この個人的な体験は、その後著者によって、社会現象に拡大され、「労働」と「文化」の対立という社会科学的テーマに発展させられていくのである。

 

著者は、ある時自分のブログで「仕事を続けていると、本が読めない」と書いた。すると、「私も、私も、私の場合バンド活動だけど」と、次々に同感の投稿が寄せられたという。なんのことはない、「仕事をしてると自分の好きなことが出来ない。」とわがまま言ってるだけだけどね。
ここで普通は、そういう意見を統計的にまとめた情報はないか探すものだが、同感の投稿にすっかり気を良くした著者は、数字の裏付けもないまま、私の悩みは社会全般の悩みに違いない、と思い込んだ。本を、じっくり読む癖があると書いている割りには、実に杜撰である。読んでいると、あれ、この根拠になる数字は?調査はしたのか?と気がつくものだが、じっくり、とはこのことも含まれるのだよ。

 

ここから先、この社会現象の原因は、社会を構成する根源的問題に通底するとばかりに、議論を発展させる。

 

つまり、この実に個人的な問題を、社会現象に仕立てた上で、突如として一般的な「労働」と「文化」の対立というコンセプトにアウフヘーベン(弁証法的に止揚)し、両者は同時に成立するかという議論に格上げしようする。たかが、「働いていると本が読めない」と言うことが労働と文化の対立だ、とは笑えるほど大げさではないか?

 

こうなると思い出すのは「社会主義リアリズム」である。国際共産主義のソビエトが唱えた芸術運動で、「文化」は「労働」に資する形で共存するというものだった。こういう理屈に従えば、勤め人は自分の仕事の役に立つ本を選択して精読に励むべしとなる。立派に共存しているではないか。「労働」と「文化」(=読書)の融合の理論を打ち立てる概念操作はのはそのように、結構骨の折れる作業だが、元が、文化と言いよう、自分の趣味、読書、ホビーということだから、それに高邁な理屈がいるものか!とするのが自然で、こんなこと考えるだに馬鹿馬鹿しいのである。

 

ところが著者は、いまを生きる多くの人が、「働きながら文化的な生活を送る」、つまり労働と文化の両立に困難を抱えているというのである。(憲法学者みたいことを言うなあと思いながら・・・。)その構造は、著者によると「文化」(=自分の趣味嗜好やホビーのような文化的活動)が「労働」(=会社勤め)によって搾取されているということになる。「労働」ときたから「搾取」という言葉が浮かんだかもしれないが、これを翻訳すると「趣味の時間がだいじなのに、会社に勤めているとそれが難しい」となる。しかし、この際搾取など関係ない。会社が優先なのは、馬鹿でも分かるあたりまえではないか?

 

労働者は、自分の労働力を売って資本家から対価を得て、消費をする。(その際「労働」から搾取しているのは資本家だ!「労働が搾取するのは難しい」我ながら、古典的!)労働には対価が、つまり収入があって、それを元手に労働者は家賃を払ったり衣服を整え食費を工面したり、自分の生活全般を維持するが、趣味趣向、ホビー一般を、「労働」と比較対抗させるのは勝手だが、それは何の収入も生まない。もし、収入を生むなら、それは労働の範疇であり、話しは違ってくる。
収入がなければ、趣味も読書もクソもない。だったら働くしかないではないか。財産や貯金がいっぱいあって、読書して暮らしていけるならそうすればいい。多くのひとは、読書よりも、自分の暮らしが成り立つことに第一義的な関心を持つものである。はっきり言えば、多くの人にとって、読書なんてどうでもいいものの筆頭ではないか。

 

それにもかかわらず著者は、「現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にすることで成立している。」と「24時間働けますか」的な意味不明なことを断言し、「労働と文化的生活の両立が出来ないことに皆が悩んでいる」と主張する。それは、困難で切実な悩みだと言うが、僕が見た所、政府が進めた働き方改革も定着し、映画館や、ゲーセン、カラオケ、サブスク映画その他楽しみはいくらでもあり、どこかの国のようにSNSが禁止されたり、スマホが制限されたり、禁書もない、その他見わたしても文化的側面で国民の多くが不満を持って悩んでいるようには見えない。
新宿歌舞伎町で、「あなたは、労働と文化的生活の両立が出来ないことに悩んでいますか?」とアンケートしたら、著者が根拠とする数値がとれるだろうか?
少なくとも「皆が悩んでいる」というフレーズは相当に怪しい、つまり、著者は根拠薄弱のまま我が田に水を引いていないか?と心配である。

 

しかし、我がジャンヌ・ダルクは、声高らかに、この本はまず、「私たちはなぜこんな悩みを抱えているのか」という問いに挑むと宣言する。
手がかりは、「我が国の近代以降の働き方と、読書の関係だ」と宣う。ここから急に分かりづらくなるのだがこの際、我がジャンヌ・ダルク閣下に従うほかあるまい。(論理的に考えると、こっちの頭がおかしくなるので、とりあえず、「おっしゃるとおり、読むしかない。)
彼女曰く。文化の中でも読書は歴史が長く、明治の昔から日本人は読書を楽しんできた。読書は人生を豊かにするほか、自己啓発の感覚とも結びついて(?)いる。だから労働と読書の関係の歴史を追いかけることによって「なんで現代は、こんなに労働と読書が両立しづらくなっているのか」の答えが導き出せるはずだというのである。これ、分かるかなあ。わかんねえだろうなあ。

 

どうやら昔は今ほど悩んでいなかったということらしいが、私めに言わせれば、近代化に伴って、本という情報源に加えて多様な媒体が出現することにより、書籍の役割が相対的に低くなるのは時代の流れだと思えば答えは自ずから出るはずだ、(つまり、出版は衰え、書店はなくなり、本も消えていく)と思うが。ついよけいなことを言った。
(前に進める前に、気になっていることについて一言。「労働と読書」をならべて書くのはやめてほしい。「労働」は翻訳言葉で、具体形ではなく概念を表す。一方「読書」は単に本を読むことを指している。この際「労働」は単に、会社勤めや働くこと働き方を指しているのだからそのように二つのレベルを揃えるべきだ。それは物書きのお作法である。)

 

進めよう。
そして、この本の最終的な狙いは、「どうすれば労働と読書が両立する社会を作れるか」という難題に挑むことだというのである。どっ天びっくりだあ!「働いていると本を読めない」という極めて個人的な悩みから出発して、途中いい加減にアウフヘーベンしたが、たどり着いた所は、「働きながら本を読める社会」を実現するという社会改造論であったとは。
しかし、これも変な話しだ。「働きながら本を読める社会」は実現していないかあ?共産党が本を読むなとでも言っているのか?それなら、革命だ!えっ、共産党に革命なの?時代だなあ。ああ、頭がおかしくなりそうだ。
ともかく世直しらしいから、政治家諸君には是非聞いてもらった方がいい。

 

そのあと、本書の本文は、日本の近代以降の労働史、読書史を並べて俯瞰し、歴史上どうやって働きながら本を読んできたのか、現代人はなぜそれに困難を感じているのか、という問題について考える、という。
「近代以降の労働史、読書史を並べ」とはさすがジャンヌ・ダルク。大胆にも日本労働史という爆弾抱えた危険なものに挑戦し(へたに書くとヤバイ)、「読書史」という誰が読書したというのかわからない「日本読書新聞」も真っ青の難題に挑戦、そのなれの果てである現代人の悩みを解決するとは!さすが、われらがジャンヌ・ダルク。行け行けジャンヌ!
ここで、ジャンヌ閣下の外せない言葉が「働きながら本を読む」だと確認しておこう。ところが、「本を読む」という行為に「働きながら」をくっつけたいのは成り行き上分からないでもないが、こんなものただ邪魔なだけだ。誰が読もうが本は本だ。勤め人だった自分が本を読めない、だから勤め人全体が本を読めないと拡大解釈するのは妄想が過ぎるのではないか。
この本全体が、自分のことを、他人や社会全体に拡大して、それが真実と思い込んだもはや誇大な「妄想」で出来上がっているものだといっても過言ではない。

 

本編は、約束通り、明治以降の労働史と読書史なるものを並べて俯瞰すると言うもので、つまり働いているものがどんな本を読んできたか調べて並べてある。こんなものは自分(僕の)の生きてきた歴史だから章のタイトルを見たら内容は想像できる。どうせ、どっかで調べて書いてあるのだろうからこの際、ちら読みであとは省略しても良かろう。

 

しかし、ここまで書いて、今度は、僕の方に深刻(でもないか)な疑問が生じて、夜も寝られなくなった。

 

昔、「私は、読書がやめられない。活字中毒なんです。」と言う人に会ったことがある。確かに鞄の中に数冊の本があって、暇さえあれば読んでいるようだった。活字を目に入れることが快感なのだろう。「本を持ってなければ、近くに落ちているスーパーのチラシの文字を読んでいる始末で、お恥ずかしい次第です。」と言っていた。どんな本を読んでいるのか聞いたら、「それはもう、多種多様、いろんな本です。ええ、小説もあればエッセイ、論文、歴史書、詩集などなどその時の気分に合わせて手当たり次第に選んでいます。」
読んだ内容を覚えているかと問うと、しばらくは記憶しているが、次第に薄れていくものらしい。
こういうのは一種の病気で、気の毒だったが、本なら何でもいいと言うのも「読書」の一形態であると認識せざるを得なかった。

 

我がジャンヌ・ダルクも「読書」「読書」とうるさいくらいだが、果たしてどんな本を読んでいる、あるいは読みたいと思っているのだろうか。と言うことが心配で夜も寝られない位になってしまった。
我が閣下のことだから、まさか活字中毒者のように本であればなんでもいいということではなかろう。
しかし、この本を通じて、ただの一度も、自分が読んでいる、あるいは読みたい本のタイトルを目にしたことはなかった。

 

「サラリーマンがどんな本を読んできたか」などという手垢にまみれたテーマで本を書くために、巻末に付けられた相当数の本は、必要があって、目的があって読んだものである。
いっておくが、「読書」では、すでに本を選び終わっている。肝心なのは書を読む前に、書を選んであり、書を手に取る動機である。書は、調べる、知る、味わう、楽しむ、感動するなどなど我々の欲望を満たしてくれる。最初に、本に対して兆す快楽の予感、それが本を読むことの最も重要な動機である。誰もが本を読むわけではない。では最初の予感がいつ訪れるのか?

 

昔、本の読み方として書いたものが、比較的よく読まれた。
この稿にまとめようと思ったのは、「読書」「読書」と本なら何でもいいという印象を受けまくってきたから、そのアンチテーゼとして、是非読んでもらいたいと思った。

 

 

 

 

 

Image_20200519044201_20250915175601 必読書150の時代錯誤

 

 

必読書150 著者:柄谷行人 浅田彰 岡崎乾ニ郎 奥泉光 島田雅彦 すが秀美 渡部直己
 
帯に「これを読まなければサルである!」とある。この本を本屋で見て、バカな連中がいるものだと思っていたらWeb上では話題になっていると分かった。必読と上げられているのは、プラトン、アリストテレスからマルクス、他に日本の思想家など人文科学50冊、海外文学と日本文学が50冊、加えて参考テクスト70冊が上げられている。(後ろにリストをつけておいた)
昔「世界の名著」という全集があってずいぶん売れた。小振りだが厚みがあって箱入り、立派なものだった。中央公論社の懐は大いに潤ったが、日本国民の教養レベルが上がったとはついぞ聞いた事がない。それもそのはず、あんな小難しいものを五十何巻も読めるはずがない。読んだところで中身が分かるものでもないし、分かったからそれがどうしたというものだ。売れたのは応接間の本棚を飾るのにちょうどよかったからだ。客に見せてこけおどしをやろうという悪しき教養主義がはびこった時代である。高度成長とは一面そういう事でもあった。

 

集めたものの大半は、岩波文庫に入っている。ほとんど古典となっているもので、読まないよりは読んだほうがいいに決まっているが、この連中の選び方の安易な事が露骨にでている。つまり、岩波教養主義といえばいいのか、「世界の名著」主義といえばいいのか、頭の構造は岩波茂雄あるいは文明開化の時代とたいした違いはないように思える。つまりこれは古典的なエリート養成の方法論に何の疑いも持たず従っただけの事である。昔の旧制高等学校の生徒なら喜んで丸暗記でもしただろう。後で自慢出来るからだ。しかし、自慢の種を教える事ならサルでもできる。
 
今ごろこんなことをやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。さすが、1991年の湾岸戦争が始まろうとしているときに、押っ取り刀でやってきて「戦争反対!」と叫んだ連中だけの事はある。何故反対かといえば、よく聞こえない声で、平和憲法があるからだとのたまったのである。古今東西の古典で頭が充満している日本の知識人のレベルとはこんなものだ。まあ、古典を勉強するよりは中東の歴史を勉強したほうがいいのではないか、とその時はあきれてしまったが・・・。
この連中は近畿大学の教師らしいが、学生相手に「これを読まなければサルだ」などと脅している。こういう浮世離れした連中に「サル」だと言われても、あまり気にしないほうがいいと学生諸君にはいっておきたい。しかし、聞き捨てならないのは、自分の教え子を取りあえずサルだと思っているらしいことだ。サルだと思われる節があるのかないのか、とりあえず、かわいそうに、教師にサルだと思われているとは。大学生の年ごろは、妙にませた若者もいるにはいるが、たかだか二十年かそこいらしか生きていないのだから、教師の年代から見たら無教養で、経験不足で使い物にならないと見えるのは当たり前である。そこを何とか引き上げるのが教師の責務だろう。
 

 

そこで、教師とはどんなことをするものかという見本みたいな話があるから、なるべく短く紹介しよう。呉智英の経験ばなしで、感動ものである。
呉智英先生は、某大学で三日間の集中講義を頼まれた。三日で一年分の単位を出そうというのであるから朝から夕方までぶっ続けである。しかも労力の割に報酬が少ない。悪条件である。しかし「マンガ論」だから義務感でやむなく引き受けた。もう一つ悪い条件があった。「大きな声ではいえないが、(ここから小文字で)そこの大学は偏差値が40台なのである。(小文字終わり)差別は正しい、学歴差別は特に正しいと公言する私としてはそんな大学で教えたくない。」しかし、引き受けた以上はやらざるを得ない。やる以上は水準を落としたくない。困った困った。とまあ、やる事になって教室に入ると悪い予感が的中した。四十人ほどの学生のうち、頭が黒いものは男女とも半分以下。スキンヘッドも二三見える。耳にピアスが男女とも半分で、ほぼ全員が机の上にウーロン茶。
えらい事になったと思いながら、ともかくはじめた。出来るだけメリハリを付けて。細かい論証は省いて面白いところだけ強調して。学生たちは無反応。彼らの常識を覆すような話をする。他の大学だったら学生がはっと驚いている様子が分かるのだが、ここでは無表情。しきりに面白い話をするがやはり無表情。居眠りするものがいないのがせめてもの救いだ。こうして一日目が終わった。

 

二日目は開き直って、今日のはもっと難しいぞと宣告した。マンガ論の講義だからといって諸君はチョロイと思ったか知れんが、漫画を読む事とそれを考察する事は同じではない。学生たちはえーっと声を上げた。始めて反応らしい反応。「フランス革命と最高存在の祭典だの、千年王国思想としての民衆運動だの、形相因と目的因だの、成島柳北のルサンチマンだの、そんな話ばかりなのだ。」(こういう講義なら僕も聴きたいね。)つまり、マンガ論といってもマンガをかみ砕いて講壇から話すのではなく、「そのマンガに何が読み取れるか、マンガを読み解くためには何を知っておかなければならないか、それを講義するのである。」

 

三日目、もっと難しい話になるといったら、学生はまたえーっと声を上げる。「徂徠学の出現が宣長の国学に強い影響を与え、それが近代的文芸批評の下準備をした、という事が分からないと、エロマンガを取り締まる事の是非も論じられないのだよ・・・」(いあヤーこれは難しそうだ。)という事をとうとうと論じたのである。
そして昼休み、出席カードを回収していて不思議な事に気がついた。一日目、受講者四十三人。二日目、受講者四十三人。三日目、受講者四十三人。三日間学生は一人も脱落していなかった。最終時間は、レポートの作成と感想を書く事に費やした。学生のほぼ全員がむつかしかったけれど面白かったと書いてきた。中学や高校で習った事と正反対の事を三日間聞かされたので驚いたけど、非常に有意義だったと書いて来た学生も多かった。中にこの講義を受けれて○○大学にきてよかったと書いたのもあった。バカ「受けれて」じゃなく「受けられて」だろうと悪態をつきながら呉智英先生は深く感動していた。

そして激しい義憤が湧き上がるのを覚えた。『彼らが三日間笑う事も表情を変える事もなかったのは、中学高校の六年間、彼らは学校の授業で、知的な興奮を覚えたり、笑ったりする習慣がなかったからなのだ。偏差値40台というのはそうした青春時代を送るという事なのである。彼らは始めて「知る」と言うことが面白い事なのだと知ったのだ。私は、しかし、この義憤をどこのだれにぶつけてよいものか、今に至るまでよく分からないのである。」(「四十台の青春」2001年12月「犬儒派だもの」に所収)
この学生たちの何人かは、フランス革命に興味を持ったかもしれない。そのうちの何人かは関連書籍を買いに走ったかもしれない。あるものは成島柳北について調べる気になったかもしれない。
 

 

読書とはそのようにして始まるものだ。「知る」と言うことが面白い事だと教える事が出来れば、いつかは古典にたどり着く事がありうるだろう。「サル」に対して教師が教えるべきはただ一つそのことだけである。
もっといいたい事はあるが、長くなったのでこの辺でやめる。(あっ、○○大学は近畿大学ではありませんよ。どっかの山の中にある大学らしい。)
一言追加。
この文明開化時代の西洋かぶれどもにリストに対する文句を言って置こう。
ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』を必読書に入れるのは間違い。「千のプラトー」もそうだが、こんなに長々とおしゃべりをしているからフランスは二度も戦争に負けたのです。
木田元「反哲学史」を入れないのは日本の哲学の現在を理解していない証拠。
むかついてきたので、ここでやめるわ!
(むかついて、やめたが、後日、「反哲学史」について説明した文章があるので、引き続き読んでいただきたいと思う。こちら)

 

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