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2025年8月21日 (木)

「白神」旅情ー五能線と菅江真澄 その①

71g7fgl4cds_ac_ul640_ql65__20250821121201今頃になってコロナに感染した。
熱が出ているのは承知していたが、たいしたことはあるまいと思って、いつもどおり透析の医院にいった。検温したら相当高い。念のためと言って、細い棒を鼻に突っ込まれた。結果はすぐにでた。「コロナです。」院長の若い女医は呆れた表情だった。
ワクチンなど一度も打たなかったことを幸いだったと思っていたが、ここに来て感染とは・・・。いよいよ運もつきるか?
もうコロナのウイルスは弱くなっているからだろう、ついたてで囲われただけだったが、当の本人は、その後高熱が出て、寒さに震えるようになった。全身に力が入り、緊張しひたすら耐えた。このとき太ももの筋肉を痛めたのに気が付かなかった。ようやく帰れる時間になったが足が動かない。タクシーには、車椅子で運ばれてようやく乗った。ところが車は動き出しているのに行き先を言えない。どうしても思い出せないのだ。あぁ、とうとう脳までイカれたか、と思っても、その交差点を直進したら別の方角へいってしまう。と、寸前の所で誰でも知っているTVのスタジオの名を思い出した。そこをめがけて走れば、何とかなるという目印だ。
そのあとのことはほぼ覚えていない。気が付いたら布団の上に転がっていた。足が・・・足が・・・痛くて動けない。
その後は、熱も下がって、足の痛みも徐々に取れていったが、ひどい後遺症に悩まされている。全身がだるくて、食欲もない。いつまで続くのか。数キロ痩せてしまった。
それにしても、どこでコロナを拾ってしまったのだ?

 

「安東氏という謎」余話

 

司馬遼太郎は、「北のまほろば」で、中世、津軽十三湊で活躍したという安東(藤)氏のその後については、分からないと言っている。
それには、ほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたと書いた。 安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」
と想像している。

 

僕は、大学時代、国史専攻の井手有記が「津軽といえば安藤氏だ。しかし、安藤氏がどこからやって来て、いつ頃十三湊に定着し、そして消えたのかがわからん。」と言っていたのを思い出した。長崎生まれ、北海道育ちが何故安東氏に関心があったか聞きそびれてしまったが、この友人は自分の研究テーマにでもしようとしていたのだろう。この当時は、司馬遼太郎にしてもあの通りだったことからも、安東氏に関心も少なく資料もそれほど集まっていなかったから雲を掴むようなものだったかもしれない。

 

謎だったその後の消息を追いかけて、たどり着いた所が、出羽の庄内でも越前の敦賀でもなく、思いもよらなかった僕の生まれ故郷であったことは 「『北のまほろば』と「安東氏」という謎」に詳しく書いた。
このときは、資料として現れた「外津軽三郡史」の、世間にもたらした騒動が面白くて、思わず脱線してしまうこともあったが、「安東氏」のその後については、戦国時代、秋田の北半分の地域で活躍し、以降その家系は大名として明治まで続いたことを書いた。(続く)

 

 

 

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