「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その7)
前回、「北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。」と書いたが、実際は、北海道に逃れたあと、十三湊、安藤康季・義季父子が捲土重来とばかり、北海道渡島半島において軍勢を調え、津軽西浜に上陸、南部氏に戦いを挑んでいる。
しかし、そのさ中、岩木山麓で康季が病死し、義季もまた攻め込まれて自刃して果て、義季に子がなかったため、十三湊下国安藤氏嫡流の血が途絶えたのであった。時に、1453年(「応仁の乱」の十年ほど前になる)、およそ200年にわたる十三湊を中心とする安藤氏の繁栄に一旦終止符が打たれることになった。
安藤氏には、さらに、この続きがあった。
つまり、下国家が北海道に逃れる前に、安藤氏の版図が拡大した時期に、すでに安藤氏の一部が秋田地方に入っていたと言うのである。また、「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著)によると、当時、出羽国においては群雄割拠の騒乱状態にあり、手を焼いた時の室町幕府が十三湊安藤氏の一族、安藤鹿季に出羽を治めるよう命じた。安藤鹿季は二百騎を連れて小鹿島に、あるいは雄物川河口、又は土崎湊に拠点を築いて上国湊安藤氏を名乗ったというが、上述の「秋田『安東氏』研究ノート」(渋谷鉄五郎)によると、其れ以前に安藤氏の気配は小鹿島やその周辺にあり、鹿季が拠点とした場所もはっきりしないらしい。いずれにしても上国家の氏祖は鹿季となっており、このころ、南部の勢力の攻勢が激しく、孫惟季の代になっても止まなかった。
この上国湊安藤氏が土崎湊に拠点を置いたのはいつ頃のことか分からないが、のちに、男鹿半島の付け根、水戸口付近の脇本という小高い丘に大きな城を構えて居たのは、戦国時代の名城として城跡が残っていることをみれば、平地の海辺で守りにくい土崎に長くいたとは考えにくい。
蝦夷にいて、南部と渡り合おうにも直接海路で軍勢を運ぶのは不利である。すでに秋田で南部と戦っている一族といっしょに陸路南部へ押し上げれば勝機がないわけではない。と、考えたかもしれない。
夷島におけるアイヌの反乱、コシャマインの戦い(1457年)である。(二百年後に書かれた文献にあるという。)
僕が小学生ぐらいのときに、鉛筆など細木を削る道具をマキリといった。二つ折りの刃渡り10センチほどの小刀で、今の言葉でいえばナイフである。
マキリがアイヌ語だったことは今回初めて知った。(ただし、語源は日本語らしい)アイヌ語のマキリは、もう少し用途が広く「短刀」を意味するようだ。
ある時、アイヌの青年が、今の函館付近にあった倭人の鍛冶屋に、このマキリを買いに来た。安いの高いの品質がどうのと言い合っている内に、倭人がこのマキリを使ってアイヌの青年を刺し殺してしまうという事件が起こる。
この殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に、両者の間にくすぶっていた敵対関係があらわになり、アイヌはコシャマインを首領に、安藤氏および室町幕府の軍勢と戦争状態に入る。
胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内十までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁(安藤家の重臣、上ノ国守護職)によって派遣された家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後(安藤氏の痕跡はこのような形で残った)もアイヌの大規模な蜂起は起こっている。
この小鹿島から『後三年の役』に参戦した豪族がいたことは前に書いたとおりで、早くからここを拠点にした者がいた。
おそらく、雄物川河口から八郎潟の汽水域、小鹿島にかけての領域に拠点を置いていた上国家に対して、安藤政季は、それより北、南部と手を組んでいた葛西秀清が盤踞する地域を狙った。北は深浦から白神山地、米代川河口、八郎潟にかけて、河北千町(河北郡の千町歩という意味か?)と言われる広大で豊かな土地である。
米代川河口から十キロほど入ったところの支流、檜山川を遡上すると標高百五十メートルほどの小高い丘があらわれる。
安藤政季はここ桧山を拠点と決めた。
このころから、理由はよく分かっていないらしいが、政季は、安藤を安東とあらためたという。
この安東政季は、毀誉褒貶の多い人物で、葛西秀清との死闘のさ中、冬の白神山地を越えて、南部に奪われた氏祖の地、藤崎奪還を目指して同族を攻撃する無理をしたり(桧山に敗退)、部下を理由もなく処刑するなど安東氏棟梁としての「信」を問われる行動があり、ついには白神山地を流れ下る藤琴川が米代川と合流する辺りで家臣の長木大和守の謀反にあって倒れる。
あとを継いだのは、嫡男、安東忠季である。それから七年の戦いを経て、葛西秀清を滅ぼし、桧山の霧山に城郭などを築いて城としての形を整えはじめる。世は戦国時代の始めであり、日本中が血で血を洗う国盗り物語で溢れていた。そうした中、忠季は、河北千町という広大な領地を治めるようになったのである。こうして、領地が安定したので、桧山安東家の菩提寺として1504年頃、日照山国清寺(いまは廃寺、その時期は明らかでない)を建立している。
舜季は、蝦夷地で起きた紛争を解決し、松前守護職である蠣崎氏を臣下として、この地の支配権を間接的ながら確立している。蝦夷地の統御態勢を固めた舜季は、1553年桧山城で没する。
舜季のあと継いだのは、嫡男で、その時十五才の愛季(ちかすえ)であった。
継承して三年後の弘治二年(1556年)、愛季は海に乗り出すことにして、まず手始めに、家臣の清水治郎兵衞に命じて能代の湊づくり、町づくりに手をつける。能代の湊は米代川の河口にあったものと思われるが、一定程度の大きさの船が寄港するには、おそらく浚渫工事が必要だっただろう。
桧山から見て北東の米代川中流域から上流域にかけて拡がる「比内千町」といわれる沃野、さらには米代川、長木川の秋田杉、そして多様な鉱物資源を産出する北部比内地方がある。それを手に入れるにはここを支配している比内郡主、浅利則祐を排除する必要がある。
安東愛季は、浅利則祐と不仲で領主の座を奪おうと考えていた弟の勝頼を手懐け、永禄十年、勝頼の手引きで、則祐を襲った。この攻撃で、則祐を自害に追い込むと、浅利家の当主に勝頼を据え、次いで臣下にした。こうして、愛季は比内郡の統括権を手に入れ、事実上この地域(大館を中心とする)を桧山安東家の領有としたのである。
愛季は、比内郡扇田城(大館の南)に入って鹿角攻めの戦略を構築しはじめる。まず、鹿角郡内の地侍、土豪に浸透し、密かに反南部氏の同盟を結ばせる。さらに、比内の浅利勢、阿仁地方の嘉成右馬守勢と図って、南部領侵攻の準備を調える。
そうして永禄九年(1566年)八月、鹿角郡境の巻山峠を越えたところに、鹿角の芝内勢が合流、出羽の大軍が南部領になだれ込んだ。
年明けの永禄十年二月、愛季が率いる桧山軍六千の大軍は、積雪を侵して長牛城を攻撃。これを見た南部晴政は一族一門の南部北氏、南部東氏などのすべてを動員し、大援軍を繰り出して反抗する。それを見た、安東勢は直ちに全軍の兵を引いた。この素早い対応も戦術の内であった。
こうして、この年の十月、三度目の攻撃によって、ついに長牛城を陥落させ、鎌倉末期・南北朝期以来の南部領鹿角郡を安東領とした。これによって愛季は、先祖康季の屈辱を晴らし、戦国武将として近隣にその武威を示したのである。
大南部の面目を傷つけられた南部晴政は、翌永禄十一年三月、継嗣の田子信直、その父で剛勇の誉れ高い石川高信、一族の勇将九戸政実を副将とし、南部の総力を挙げた一大軍勢を整えて鹿角に攻め入った。この大軍を前にしては、安東勢力に荷担した鹿角の土豪地侍も防戦のしようも無く、次から次へと降伏し、鹿角郡は一年にして取り戻されたのである。
せっかく占拠した鹿角郡を一年で取り戻されたとはいえ、三度にわたっての永禄の鹿角合戦こそ、北奥の雌雄と目される糠部の南部晴政、出羽安東愛季が、一族の面目をかけての大激戦であった。
永禄十二年、愛季は浪岡北畠家の権威を借りて、家臣の南部弥左衛門を上洛させ、山科言継に近づけさせた。こうして、権威の中心である京都で、北奥に位置する桧山屋形安東愛季の名が公家の間に知られていった。
このような事情で、湊家の危殆を感じてきた家臣の一部が、永禄十三年、豊島城主の畠山刑部将補重村(畠山重忠の末裔)を先方にして、当主茂季(愛季の実弟)への謀反を起こした。
この報を受けた愛季は、急遽して豊島城の畠山重村を攻めた。桧山精兵の襲撃に一蹴された重村は、妻の実家である由利郡の仁賀保氏を頼って逃げ込んだ。湊家の桧山攻撃抑制もあって、愛季は、弟でもある湊家当主の茂季を豊島城に移して、南方面からの攻撃の守備とし、自らが湊城にはいって湊安東家の実権を掌握した。桧山安東氏が湊安東家を吸収する形での統一ということであった。
天正二年、愛季は北方産の駿馬と弟鷹(だい、大鷹の雌)を献上した。日本海は出羽と都を繋ぎ、情報伝達と物品運搬の道でもあった。使者に立つのは、愛季の外交役南部弥左衛門である。
その二年後の天正四年、「去々年弟鷹十聯、同去年ニ居到来、誠ニ御遼遠ノ懇志悦斜ナラス候」とあり、さらに添え書きに「御太刀一腰紀新太夫相送り候」とある。信長の満足した感情の表れた返書と、名刀紀新太夫を送られた愛季は、丁寧な御礼書きと北の梅の珍品である上等な海獺の皮を十枚送り届けている。天守閣を備えた居城の安土城を琵琶湖畔に築造して、天下布武を自認している覇者信長への返書は、「去々年御鷹師サシ下サレソノ意ニ及候トコロ御祝着ノ由、今度御書ノ過分に預リ、忝存ジ候。殊ニ太刀紀新太夫之ヲ給リ、末代マデ重宝致スベク候、ナオ羽柴筑前守上聞ニ達スベク候」とある。
つまり、安東愛季は、織田信長と昵懇の仲になっていた。
しかし、そのさ中、岩木山麓で康季が病死し、義季もまた攻め込まれて自刃して果て、義季に子がなかったため、十三湊下国安藤氏嫡流の血が途絶えたのであった。時に、1453年(「応仁の乱」の十年ほど前になる)、およそ200年にわたる十三湊を中心とする安藤氏の繁栄に一旦終止符が打たれることになった。
「北のまほろば」が書かれたとき、安藤氏嫡流がこのようにして滅んでいたことを司馬遼太郎は認識していなかった。
安藤氏には、さらに、この続きがあった。
「新羅之記録」(江戸時代に松前藩が編纂した自藩の歴史書)によれば、それより少し前、安藤一族の内、南部に攻め込まれて敗退し捕虜となった安藤政季は、母親が南部と縁続きだったことにより、下北半島の田名部に土地を与えられて、留まった。南部の人質、または傀儡である。南部の狙いは、岩木山麓で討ち死にした康季・義季父子に代わって政季を十三湊下国安藤家惣領として、これを支配下に置くことで、安藤氏が足利氏より獲得している地頭領の代官職および、蝦夷沙汰職代官の名誉と大きな利権を(間接的に)手に入れることが出来るというものである。
ところが、安藤政季は、安藤宗家の安藤康季・義季父子の死を伝え聞くと、南部の支配から逃れ、安藤氏再興を祈して、1454年、蠣崎蔵人など少数の重臣を連れて密かに田名部(宇曽利)を脱出、対岸の夷島へ渡った。「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著2006年、無明舎出版)によると、夷島の沿岸部約十カ所に館を構えて守っていた、かねて安藤氏由縁の守護豪族に安藤宗家の継承を宣言する。そして、夷島の支配拠点を調えて、対立するアイヌなどへ備えることになった。
ところで、まえに「鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。』と書いたが、それは、応永初期(1400年頃)のことで、夷島(渡島半島)でアイヌの反乱(度々起きていた)を鎮圧した安藤氏の一族、下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を室町幕府から委ねられ、湊家=上国家を興したとしている。
つまり、下国家が北海道に逃れる前に、安藤氏の版図が拡大した時期に、すでに安藤氏の一部が秋田地方に入っていたと言うのである。また、「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著)によると、当時、出羽国においては群雄割拠の騒乱状態にあり、手を焼いた時の室町幕府が十三湊安藤氏の一族、安藤鹿季に出羽を治めるよう命じた。安藤鹿季は二百騎を連れて小鹿島に、あるいは雄物川河口、又は土崎湊に拠点を築いて上国湊安藤氏を名乗ったというが、上述の「秋田『安東氏』研究ノート」(渋谷鉄五郎)によると、其れ以前に安藤氏の気配は小鹿島やその周辺にあり、鹿季が拠点とした場所もはっきりしないらしい。いずれにしても上国家の氏祖は鹿季となっており、このころ、南部の勢力の攻勢が激しく、孫惟季の代になっても止まなかった。
「秋田『安東氏』研究ノート」には、例の『市浦村史」から取ったらしい小鹿島を中心に深浦から雄物川河口までの地図を引用して場所を特定しようとしたり、著者の故郷である土崎に対するやや過剰な思い入れなどにより、冷静さを欠いているきらいがある。結局、安藤鹿季が土崎湊安藤氏を開いたということだけは、事実らしい。
この上国湊安藤氏が土崎湊に拠点を置いたのはいつ頃のことか分からないが、のちに、男鹿半島の付け根、水戸口付近の脇本という小高い丘に大きな城を構えて居たのは、戦国時代の名城として城跡が残っていることをみれば、平地の海辺で守りにくい土崎に長くいたとは考えにくい。
ともかく、南部の攻勢に手を焼いた鹿季、そしてその孫、惟季は、十三湊安藤氏の惣領をつなぎ、いまは夷島に逃れている安藤政季に書状を送り、出羽に来て宿敵南部と戦い恨みを晴らそうではないかと誘った。(「安藤氏 下国家四百年ものがたり」)
蝦夷にいて、南部と渡り合おうにも直接海路で軍勢を運ぶのは不利である。すでに秋田で南部と戦っている一族といっしょに陸路南部へ押し上げれば勝機がないわけではない。と、考えたかもしれない。
安藤政季は、自らの重臣(代表的な人物、蠣崎蔵人、武田信宏、河野政通、相原政胤、いずれも後に、蝦夷で大成)にはかり、出羽移住を決断するが、その時事件が起こる。
夷島におけるアイヌの反乱、コシャマインの戦い(1457年)である。(二百年後に書かれた文献にあるという。)
アイヌは、鉄を持たない民であった。鉄器を手に入れるには倭人と取引をしなければならならない。
僕が小学生ぐらいのときに、鉛筆など細木を削る道具をマキリといった。二つ折りの刃渡り10センチほどの小刀で、今の言葉でいえばナイフである。
マキリがアイヌ語だったことは今回初めて知った。(ただし、語源は日本語らしい)アイヌ語のマキリは、もう少し用途が広く「短刀」を意味するようだ。
ある時、アイヌの青年が、今の函館付近にあった倭人の鍛冶屋に、このマキリを買いに来た。安いの高いの品質がどうのと言い合っている内に、倭人がこのマキリを使ってアイヌの青年を刺し殺してしまうという事件が起こる。
この殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に、両者の間にくすぶっていた敵対関係があらわになり、アイヌはコシャマインを首領に、安藤氏および室町幕府の軍勢と戦争状態に入る。
胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内十までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁(安藤家の重臣、上ノ国守護職)によって派遣された家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後(安藤氏の痕跡はこのような形で残った)もアイヌの大規模な蜂起は起こっている。
この騒動が一段落したのを見て、安藤政季は、出羽転住を決め、軍勢を連れて、出羽の国、小鹿島へ上陸する。(政季の転出はこの一年前に行われたという記録もあるらしい。)
△
男鹿半島の先端部分には噴火口のあとがいくつもあり、ここは地下からマグマが噴出して日本海の沿岸にできた島なのだということが分かる。その後、北の米代川から流れ下った砂が、海流の関係なのだろう、島と陸地の間に堆積し長い砂州でつながることになった。一方、南側は雄物川からのびた砂州が、海流が弱く完全にはつながらなかったため、わずかな開口部をもって島と陸地の間の海が残った。そこへ河川が流入してできたのが、広大な汽水湖、八郎潟で、戦後悪化していた食糧事情解決のためにこれを干拓して農地にするまでは、琵琶湖に次ぐ我が国第二の大きさを誇る湖だった。
昔、このあたりを小鹿島といった。
この小鹿島から『後三年の役』に参戦した豪族がいたことは前に書いたとおりで、早くからここを拠点にした者がいた。
おそらく、雄物川河口から八郎潟の汽水域、小鹿島にかけての領域に拠点を置いていた上国家に対して、安藤政季は、それより北、南部と手を組んでいた葛西秀清が盤踞する地域を狙った。北は深浦から白神山地、米代川河口、八郎潟にかけて、河北千町(河北郡の千町歩という意味か?)と言われる広大で豊かな土地である。
米代川河口から十キロほど入ったところの支流、檜山川を遡上すると標高百五十メートルほどの小高い丘があらわれる。
安藤政季はここ桧山を拠点と決めた。
このころから、理由はよく分かっていないらしいが、政季は、安藤を安東とあらためたという。
「安東氏 下国家四百年ものがたり」によると、
この安東政季は、毀誉褒貶の多い人物で、葛西秀清との死闘のさ中、冬の白神山地を越えて、南部に奪われた氏祖の地、藤崎奪還を目指して同族を攻撃する無理をしたり(桧山に敗退)、部下を理由もなく処刑するなど安東氏棟梁としての「信」を問われる行動があり、ついには白神山地を流れ下る藤琴川が米代川と合流する辺りで家臣の長木大和守の謀反にあって倒れる。
あとを継いだのは、嫡男、安東忠季である。それから七年の戦いを経て、葛西秀清を滅ぼし、桧山の霧山に城郭などを築いて城としての形を整えはじめる。世は戦国時代の始めであり、日本中が血で血を洗う国盗り物語で溢れていた。そうした中、忠季は、河北千町という広大な領地を治めるようになったのである。こうして、領地が安定したので、桧山安東家の菩提寺として1504年頃、日照山国清寺(いまは廃寺、その時期は明らかでない)を建立している。
その後、下国桧山家四代は、尋季の嫡男、舜季(きよすえ)が継いでいる。ここに、湊上国安東鹿季九代の孫堯季の娘が嫁いできたとの記録がある。これは、時代を経るに従って、桧山家の勢力が小鹿島付近で、上国湊家の所領を侵すなど小競り合いがあった状態を解消し、両家融和を図るために取られた措置であった、と考えられている。
舜季は、蝦夷地で起きた紛争を解決し、松前守護職である蠣崎氏を臣下として、この地の支配権を間接的ながら確立している。蝦夷地の統御態勢を固めた舜季は、1553年桧山城で没する。
舜季のあと継いだのは、嫡男で、その時十五才の愛季(ちかすえ)であった。
その頃、一方の湊安東堯季は、足利将軍の御扶持衆で、左衛門佐に任官する国人大名であった。(中央政権に一目置かれる存在?)堯季は、足利幕府管領の細川家から数多い奥羽の諸将のうち、七人だけの「謹上書衆」(書状の最初に「謹上」を付ける礼儀)に遇されてもいた。堯季には嫡子がなく、下国桧山家から養子として愛季の弟を迎えている。
安東愛季は、戦国の世も最盛の頃に、桧山屋形を継いだことになる。
継承して三年後の弘治二年(1556年)、愛季は海に乗り出すことにして、まず手始めに、家臣の清水治郎兵衞に命じて能代の湊づくり、町づくりに手をつける。能代の湊は米代川の河口にあったものと思われるが、一定程度の大きさの船が寄港するには、おそらく浚渫工事が必要だっただろう。
そして、能代湊の整備を終えると日本海に進出した。庄内の「大宝寺屋形」の武藤氏の一族、砂越入道也息軒の娘を正室に迎え、永禄五年(1562)には也息軒を通して、越後の上杉謙信と親交した。また、越前の守護大名朝倉義景にも使者を出し、日本海交易の道筋を付ける。このことにより、小鹿島、能代沖を航海する庄内、越後、越前の商船の安全と海上の交通交易を水軍力を持って保障するようになり、土崎湊、能代湊に商船の出入りが頻繁になったのである。
材を蓄え戦力の充実を図った愛季が、次に企てたのは領土を拡張することである。
桧山から見て北東の米代川中流域から上流域にかけて拡がる「比内千町」といわれる沃野、さらには米代川、長木川の秋田杉、そして多様な鉱物資源を産出する北部比内地方がある。それを手に入れるにはここを支配している比内郡主、浅利則祐を排除する必要がある。
安東愛季は、浅利則祐と不仲で領主の座を奪おうと考えていた弟の勝頼を手懐け、永禄十年、勝頼の手引きで、則祐を襲った。この攻撃で、則祐を自害に追い込むと、浅利家の当主に勝頼を据え、次いで臣下にした。こうして、愛季は比内郡の統括権を手に入れ、事実上この地域(大館を中心とする)を桧山安東家の領有としたのである。
愛季が次ぎに目指したのが、比内郡の東に隣接する鹿角郡攻略である。ここは、南部領であった。先祖以来、執拗に南部氏の攻撃を受けてきた安東氏にようやく訪れた復讐の機会である。
愛季は、比内郡扇田城(大館の南)に入って鹿角攻めの戦略を構築しはじめる。まず、鹿角郡内の地侍、土豪に浸透し、密かに反南部氏の同盟を結ばせる。さらに、比内の浅利勢、阿仁地方の嘉成右馬守勢と図って、南部領侵攻の準備を調える。
そうして永禄九年(1566年)八月、鹿角郡境の巻山峠を越えたところに、鹿角の芝内勢が合流、出羽の大軍が南部領になだれ込んだ。
南部領を守備する鹿角郡の各城館勢の救援に、三戸南部晴政は岩手郡内の国人領主に出陣の檄を飛ばす。激しい攻防合戦の中で、南部方は石鳥谷城、長峰城が落城、ようやく残った長牛城に立てこもり、ここで越年した。
年明けの永禄十年二月、愛季が率いる桧山軍六千の大軍は、積雪を侵して長牛城を攻撃。これを見た南部晴政は一族一門の南部北氏、南部東氏などのすべてを動員し、大援軍を繰り出して反抗する。それを見た、安東勢は直ちに全軍の兵を引いた。この素早い対応も戦術の内であった。
こうして、この年の十月、三度目の攻撃によって、ついに長牛城を陥落させ、鎌倉末期・南北朝期以来の南部領鹿角郡を安東領とした。これによって愛季は、先祖康季の屈辱を晴らし、戦国武将として近隣にその武威を示したのである。
大南部の面目を傷つけられた南部晴政は、翌永禄十一年三月、継嗣の田子信直、その父で剛勇の誉れ高い石川高信、一族の勇将九戸政実を副将とし、南部の総力を挙げた一大軍勢を整えて鹿角に攻め入った。この大軍を前にしては、安東勢力に荷担した鹿角の土豪地侍も防戦のしようも無く、次から次へと降伏し、鹿角郡は一年にして取り戻されたのである。
せっかく占拠した鹿角郡を一年で取り戻されたとはいえ、三度にわたっての永禄の鹿角合戦こそ、北奥の雌雄と目される糠部の南部晴政、出羽安東愛季が、一族の面目をかけての大激戦であった。
ところで、戦国武将として評価されるには朝廷から下されるそれなりの官位が重要であったが、京都での公家工作は、室町時代以来「京都後扶持衆」である湊安東家の任務であった。「言継卿記」(戦国期公家研究の重要資料)の山科言継は、戦乱で凋落している朝廷のために、地方武将からの献上品の進貢に働き、その代償として地方の人たちの欲しがる官位を与えることに走り回っていた公家である。
永禄十二年、愛季は浪岡北畠家の権威を借りて、家臣の南部弥左衛門を上洛させ、山科言継に近づけさせた。こうして、権威の中心である京都で、北奥に位置する桧山屋形安東愛季の名が公家の間に知られていった。
京都での愛季の評判は湊家の家臣に大きな動揺を与えずにおかなかった。また愛季の兄弟がふたりも続いて湊家の当主の座(養子)についていることも不安要素であった。
このような事情で、湊家の危殆を感じてきた家臣の一部が、永禄十三年、豊島城主の畠山刑部将補重村(畠山重忠の末裔)を先方にして、当主茂季(愛季の実弟)への謀反を起こした。
この報を受けた愛季は、急遽して豊島城の畠山重村を攻めた。桧山精兵の襲撃に一蹴された重村は、妻の実家である由利郡の仁賀保氏を頼って逃げ込んだ。湊家の桧山攻撃抑制もあって、愛季は、弟でもある湊家当主の茂季を豊島城に移して、南方面からの攻撃の守備とし、自らが湊城にはいって湊安東家の実権を掌握した。桧山安東氏が湊安東家を吸収する形での統一ということであった。
元亀四年(1572年)七月十九日、織田信長は自ら将軍位に付けた十五代足利義昭を京都から追放した。天下の政権は名実ともに信長の掌中に握られようとしていた。全国の武将は、いまや信長の一足一投から目が離せない時代になっていた。(元亀四年七月天正に改元)
天正二年、愛季は北方産の駿馬と弟鷹(だい、大鷹の雌)を献上した。日本海は出羽と都を繋ぎ、情報伝達と物品運搬の道でもあった。使者に立つのは、愛季の外交役南部弥左衛門である。
その二年後の天正四年、「去々年弟鷹十聯、同去年ニ居到来、誠ニ御遼遠ノ懇志悦斜ナラス候」とあり、さらに添え書きに「御太刀一腰紀新太夫相送り候」とある。信長の満足した感情の表れた返書と、名刀紀新太夫を送られた愛季は、丁寧な御礼書きと北の梅の珍品である上等な海獺の皮を十枚送り届けている。天守閣を備えた居城の安土城を琵琶湖畔に築造して、天下布武を自認している覇者信長への返書は、「去々年御鷹師サシ下サレソノ意ニ及候トコロ御祝着ノ由、今度御書ノ過分に預リ、忝存ジ候。殊ニ太刀紀新太夫之ヲ給リ、末代マデ重宝致スベク候、ナオ羽柴筑前守上聞ニ達スベク候」とある。
つまり、安東愛季は、織田信長と昵懇の仲になっていた。
(続く)
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