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2024年3月26日 (火)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その8、最終)

秋田空港は、昭和三十六年開港のときは、雄物川河口の海岸にあって、僕は一度降りたことがあったが、滑走路が短い上に、日本海からの強風の影響を受けやすかった。それで、1981年(昭和五十六年)、秋田市の中心から南東二十キロほど離れた山の中を切り抜いて新しくつくった。その少し北に雄物川の支流、岩見川が西に流れている。その川がつくったであろう北の河岸段丘に豊島城があった。いまは宅地の中の空き地で、痕跡は見られないが、戦国時代によくあった土塁をまわした典型的な山城であった。ここから雄物川を南東に遡上すれば、やがて大曲・横手盆地が拡がっている。角館の戸沢盛安や平鹿郡小野寺領、さらにその背後に南部の勢力が控える地域である。
湊上国安東氏は、雄物川河口の土崎湊や小鹿島の脇本城などの拠点を守備する前線として、今の秋田市南東二十キロのここに城を築いた。豊島城である。
この城は、後に安東氏の命運に関わる事件の舞台になった。

 

 

ところで、愛季は、織田信長の後押しもあって、戦国の世に勇猛の名声を示すことになっていく。
天正五年、愛季は、朝廷から「従五位下」の官位を贈られた。先祖に長髄彦という天皇家に反抗した者がいたのは承知の上であった。織田信長の配慮である。明らかに、信長に気に入られたのだ。
「信長公記」天正七年の条に、奥羽の諸将から続々と献上品が贈られていると記述があるが、それらの使者の接待役を愛季家臣南部宮内少輔がつとめたとあるらしい。翌天正八年(1582年)愛季は、「従五位上侍従」に任ぜられた。
こうしたなか、信長が、家臣にならないかと誘ったことがあった。愛季は、これまで我が家は、他家に仕えたことがない、といってことわったという。信長は、苦笑して済ましたらしい。

 

同じ頃、津軽との接触があった。
元亀二年(1571年)南部氏の一角を担っていた津軽鼻和の大浦為信が、南部氏への反旗を翻した。
石川城(弘前近郊)を襲い、南部高信(津軽総代官)を殺害し、津軽独立を宣言する。ついで、和徳城を落城させ、翌年三戸南部の牙城である平賀郡の大光寺城を攻めたが、これに苦戦していた。
南部氏を攻めている大浦勢に対して、愛季は、天正三年、鹿角の地侍大湯五兵衛昌光に為信への加勢を命じた。当時貴重な鉄砲隊まで派遣するという力の入れようだった。
ところが、南の出羽檜山安東氏の動きを警戒していた大浦為信は、庄内の大宝寺義氏と密約を取り交わし、背後から愛季の津軽侵攻を牽制しようとした。そうした中、天正七年七月、為信は、安東氏と縁の深い浪岡御所(藤崎の北)の公家武将北畠顕村を襲った。不意を突かれ、抵抗する間もなく浪岡は落ちて、北畠顕村とその正室(愛季の娘)は檜山に逃れた。
庄内勢との対応に追われた愛季は、その後、津軽と接触したが、押し返され、そのまま檜山の北進の意思は停止した。

 

この年、豊島城を守備していた愛季の弟、茂季(湊安東氏に養子にはいった)が病没した。茂季には通季という嫡男がいて、本来なら湊安東氏を継ぐべき存在だが、愛季は、自分の嫡男、業季を湊城主に据え、湊家の所領を桧山に吸収してしまう。本城の檜山城主には、二男の実季をあて、自らは男鹿の脇本城に入って両家の指揮を執るようになった。通季にしてみれば、叔父のこの措置に対する不満があったが、直ちに何事か起きる気配はなかった。

 

天正九年(1581年)になって、俄に比内の浅利勝頼が反旗を翻した。大浦為信にそそのかされたものであった。ただちに愛季自ら出陣し、勝頼は大館城を明け渡して和睦に応じた。
同じ年、庄内の大宝寺氏が由利郡の討伐を企てて、出陣するにあたり、大浦為信に背後から安東氏を牽制するよう出羽攻めを依頼する内容の手紙を出している。
由利郡は、安東氏と大宝寺領にはさまれた地域で、由利十二頭という豪族たちがいて、離合集散を繰り返していた。安東氏としてはこの緩衝地帯を失うわけに行かない。この由利攻めを聞きつけた蝦夷地の蠣崎季広守護職嫡男慶広(これが後に分かるが、なかなかのくせ者)が援軍を率いて愛季陣営に参加してきた。
戦は一進一退、決着がつかないまま過ぎた。愛季は、天下の情勢を俯瞰して、力のある武将と連合することを考え、これまでまったく縁のなかった、山形の最上義光に、ともに庄内の大宝寺を攻めることを提案する書状を送った。
これに対して、ようやく天正十一年春、最上義光から庄内を攻撃する旨の返書が来るが、その前に、大宝寺勢が、由利郡に攻め込んで、由利衆がこれを撃退する。すかさず安東勢の主力が由利郡になだれこむと、最上勢がこれに応え、さらに仙北郡の小野寺勢も加わり、大宝寺義氏を攻め立てた。このとき突然、大宝寺陣営に内乱が起きる。義氏重臣の前森蔵人が、義氏居城尾浦城を包囲したのである。突然のことで、義氏もなすすべなく、自害して果てる。このとき、愛季は、勢いのあまり、深く郡境を越えて酒田まで攻め込んでいる。

 

このとき、比内の浅利勝頼の動きが怪しいとの情報が入ったため、愛季は急ぎ檜山に戻った。愛季の優れたところは、四方に間者を放って、情報を集めていた形跡があり、そのあたりが並の戦国大名と違ったところとの評価がある。
天正十一年三月一夕、愛季は、勝頼を檜山に招いて酒宴を行った。座は和気藹々と進んだが、突然愛季の家臣が勝頼の首をはねる。一緒に居た嫡男は、慌てて津軽に逃げ込んだ。
庄内屋形の大宝寺義氏を自刃に追い込んだ愛季の名は、出羽南部の庄内にも轟いた。一方、北奥羽の雄、南部信直は、大浦為信による津軽独立、一族の九戸政実による宗家無視(南部氏にはこの類の内紛が絶えなかった)の動きなど南部氏衰退とみられはじめた。これに敏感に反応した陸奥の斯波一族や鹿角の毛馬内氏・花輪の地侍たちが愛季に近づいてきた。
「湊・檜山合戦覚書」という書物が残っているらしいが、そこには「・・・愛季公の時、南部領の内、斯波・雫石・鹿角・花輪伯耆守・毛馬内殿頭なり。これらを従え礼に来たり。仙北は淀川(大曲の北西部)を切り取り・・・」とあり、北奥の諸将は「斗星の北天にあるにさも似たり」と恐れ入っていたという。

 

年々歳々領土を拡大、武将をなびかせてきた愛季だが、天正十年、湊城主にしていた嫡男業季が十六才の若さで病没した。落胆している暇はない、すぐに二男の実季を跡目として湊城に配した。また、同年六月には京の本能寺で、愛季を厚遇していた織田信長が、明智光秀に討たれてしまった。これを山崎で討った羽柴秀吉から挨拶ともいうべき書状が届いている。

 

天正十五年(1587年)五月、角館城主の戸沢盛安が平鹿郡小野寺領の沼館を襲撃した。これは小野寺勢と最上勢が雄勝郡境の有家峠で合戦し、対峙している間隙をついたものであった。この動きがさらに近隣諸郷の六郷・本堂・前田などの国人小領主に独立の野心を抱かせて、出羽仙北は騒然とした様相を呈するようになった。同年、八月、戸沢盛安の動きに抑圧を加えるため、愛季は仙北の淀川に出陣した。盛安は刈和野に陣を構え、この地で三日の間、激烈な戦闘が繰り広げられた。世に言う「唐松野の合戦」である。両軍とも大きな損傷を負った。
この大合戦のさなかに愛季は発病した。密かに脇本城に帰ったが、祈りもむなしくこの城で息を引き取った。剛勇を誇った一方で、絵画をたしなみ歌を詠むという戦国武将には珍しい優雅で心にゆとりある側面を見せた人生だった。享年四十九。

 

愛季のあとを継いで安東惣領家の当主になったのは嫡子、湊城主安東実季である。このときまだ弱冠十三才であった。
唐松野の陣を守っているさなか、秀吉の天下統一を前にした九州攻めのとき、「関東奥羽惣無事令」が発令された。秀吉が天下人として私戦をやめさせる命令を出したのだ。戦国の世が終わろうとしていた。
この令は最上義光を通して奥羽諸将に伝えられたが、まだ徹底しなかった。そして、愛季の死が明らかになるとともに安東実季のまわりがざわめいてくる。
雪のために陣を解いて角館に帰っていた戸沢盛安勢が、愛季逝去の情報を得て、再び刈和野方面へ出陣してきた。明確に、「関東奥羽惣無事令」違反である。しかし、この最中に、秀吉の令が行き渡り、戸沢勢をはじめとする仙北勢が兵を引き上げた。
ところが、この戦場に近い豊島城にいる安東通季の動きが怪しいとみて、実季陣営は動けなかった。通季は、実季のいとこにあたり、本来であれば、父のあとを継いで湊安東家の棟梁になるはずだったが、叔父の愛季が強引に湊家を檜山安東家に吸収合併してしまった。むろん、これを通季およびその家臣は快く思っていなかった。裏で、角館の戸田盛安が通季と通じていて実季討伐を画策していたことが分かると、急ぎ湊城に帰るが、そこを通季の家臣らが包囲した。
実季に取っては、十四才の初戦であった。
湊城は通季らに奪われ、実季は、脇本城に後退した。しかし、脇本城は、まわりに旧湊家の勢力が多く、守りに十分ではないため、実季とその主力勢は、阿仁一帯など北側に味方が多い檜山に移り、ここで籠城することにした。南側は、羽後街道の潟渡(いまの鹿渡)と鵜川に砦を築いて守った。

 

通季と戸沢盛安が集めた軍勢は、南部信直や鹿角の大湯勢、毛馬内勢、五百を含む寄せ集めとは言え、檜山勢の十倍はあった。
実季は、なりふり構わず救援を求め、ようやく由利衆が応じて包囲網の背後から通季勢に襲いかかった。同時に、秀吉政権の重鎮、越後の上杉景勝が実季救援の姿勢に傾くという情報が拡散されると、もともと連携の薄い通季勢の小領主たちは、雪崩を打って、解散、帰郷してしまった。これらの状況を見ていた通季の弟が実季方に寝返る。これまでとみた主軸の戸沢盛安はさっさと陣をとき角館に帰還してしまう。通季は、檜山城外から潟渡と鵜川を経由して八郎潟を逃げたが、実季の家臣に追われ、ついには海路をたどって南部信直のもとに走って、この騒動は終わった。

 

この内紛は、太閤秀吉の通達違反であり、秀吉から実季に出頭命令が下って、所領召し上げ、存亡の危機が迫る。実季は、上杉景勝の縁で、石田三成に使者を送り、取りなしを依頼した。ちょうどこの頃、米沢の伊達政宗と会津の蘆名義広の争い、庄内における最上義光が抱える紛争があり、それに比較して、安東実季の内紛はものが小さいと判断され、豊臣政権の上杉・石田ラインの斡旋により、秋田本領安堵をされたのであった。
この上杉・石田ラインは、徳川政権になった世では、仇と成すのであるが・・・・・・。
実季は、これを機会として土崎湊を臨む高台に城を築いてそこを本拠とする。 この後、豊臣政権は実季に南部の一角、九戸討伐を命じ(これは短期間に終わる)、朝鮮出兵の間に名護屋城守備を命じたりしているが、これが終わり、檜山に帰還すると、浅利との確執が再燃する。

 

名護屋出陣の費用負担分に浅利の未払い分が見つかり、トラブルになった。浅利は湊家の支配下から独立を狙って中央工作を続けていたのだが、これもその一環であったと思われる。中央から仲裁が入り、不足分を実季が負担することで、いったんは収まった。ところが、津軽の大浦為信に後押しされていた頼平は、この問題を蒸し返して豊臣政権に訴え出た。檜山側に家臣扱されたくないというので、争いは絶えなく、何度も交戦したが、この騒ぎが豊臣中央政権の政治問題化することになってしまう。双方が呼ばれて、吟味された結果、浅利の未払い分が確認され、それにもかかわらず訴え出るとは不届き至極、と言う裁定がでる。ところが不思議なことに、この裁定が出る前に浅利頼平が、大阪城内で急死してしまうのである。
これにより、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定され、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。

 

そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名として、所領は減らされたが安堵の朱印状は秀吉の手から直接渡された。こうして大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築くことになった。
だが同時期に、松前の蠣崎慶広が秀吉に謁見していて、その巧みな工作により、鎌倉以来安東家の被官身分として松前守護職を任じている蠣崎氏(慶長四年=1599年、松前氏と改姓)に蝦夷ヶ島主を認める朱印状が発行され、安東家は四百年間維持してきた権利を誇りとともに取り上げられてしまった。

 

時代の変化を感じ取ったのか、実季は、太閤の奥州仕置後、安東の名をあらためて、古い官職名である秋田城介を号して(後に正式に付与される)秋田氏を名乗ることになった。

 

こうして、遠く11世紀に起源を持つ安倍氏を氏祖とする「安東氏」は「秋田」氏となって、歴史から消えていったのである。僕にとっての「安東氏という謎」もとけて、長かった謎解きの旅も終わった。

 

 

 

TVで司馬遼太郎の「北のまほろば」のドキュメンタリーを見ていたときに、大学時代、国史専攻の井手有記君からきいた「津軽といえば安東だろう」と言う言葉を思い出し、そういえば、安東氏は十三湊で消えたあとどうなったんだろうと思って、その謎を探しに出かけた旅だった。

 

結局、たどり着いたのは、なんと、僕の故郷だった。
井手君が謎だといったときは、そのことに、まったく気づいていなかった。
「猿の惑星」という映画があったが、あれは、たどり着いた惑星にN.Yの「自由の女神」の残骸があったという結末だった。まるで、あの惑星は地球だったというどんでん返しと似て、僕にとっての半世紀前の「安東氏という謎」の答えは、意外にも僕自身の足下にあったのだ。

 

檜山は、僕の生まれたところから十キロも離れていない。
昔から古い城跡(と言われる山)はあったが、その主が安東氏とは知らなかった。いまになって思えば、誰も教えてくれなかったのが不思議である。高校時代、たぶん多宝院というお寺だったのだろうと思うが、その住職の子息に一年先輩がいて、その友人だった先輩に誘われて訪ねたことがあった。訪ねることを母に言ったら、あの寺の廊下は「うぐいす張り」といって、歩くと鳥の鳴き声がするはずだと教えてくれた。「忍びのもの」対策である。古刹という趣で、半日居ても厭きなかったという記憶が残っている。

 

なぜ、檜山の城の主が安東氏であったことを知らなかったのか?
城の歴史さえ、誰も教えてくれなかった。何故なのか?
もちろん、僕の子供の頃は、戦後間もない頃で資料も乏しく、さほど研究が進んでいなかったのだろう。それにしても、我が生まれ故郷にとって、檜山の過去は、歴史の彼方に消え去った幻という印象であった。

 

そのもっとも大きな理由は、関ヶ原のあと、常陸の佐竹氏が秋田氏の所領にに移封され、おそらく玉突きのようにして、常陸の宍戸に転封されたことではないか。「国盗り物語」の時代の最後部を経験した実季にとって、これはかなり納得のいかない措置だったに違いない。しかし、もはや家康に異を唱えられる時代ではなかった。
宍戸に出立するとき同道した家臣はわずか百名ばかりであったという。残された秋田をはじめ県北部の家臣たちはほとんどが、帰農したのだろうという研究がある。時代が変化したと同時にやって来た新しい領主は、古い歴史に対して、自分の物語を上書きすることをはじめなければならない。
檜山には、佐竹氏の一族が入り、戦国の世の記憶は過去へ押しやられた。かくて、江戸期の無風時代が檜山の歴史をますます風化させたのかもしれない。
(ただし、佐竹氏の歴史などもトンと記憶がない)

 

戦国時代の風を色濃く残した性格の実季は、幕府への不満から、一時期遠い祖先の姓、伊駒を名乗ったり、戦国時代の気骨を示すことが多く、幕閣から突如として伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。
不仲であった嫡男の俊季は、あらためて、陸奥三春(福島県三春市)五万五千石に移封され、母親が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹(織田信長の妹の家系)にあたることも幸いして家督継承が認められ、大名、秋田氏として以後幕末、明治までと同地で存続した。
秋田実季は、寛永7年以降約三十年にわたり、伊勢朝熊の永松寺草庵で、長すぎた蟄居生活をおくったのち、万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年八十五。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されているという。

 

ところで、前に取り上げた「東日流外三郡誌」だが、これを書いたのは和田喜八郎の先祖で、和田長三郎吉次と三春藩主、秋田孝季という触れ込みであった。この秋田孝季は実季の子孫に当たる実在の人物で、この殿様が、先祖の家系図を調べ上げて幕府へ報告したのは事実である。『秋田家系図』といわれるものを編纂した人である。もっとも、和田長三郎吉次と共著というのはいかにも無理があり、和田喜八郎は、のちに秋田孝季とは土崎在住の別人だといっていたらしい。和田は、このあたりの事情にも通じていたというのは驚きである。

 

一方、佐竹氏は、土崎湊近くにあった秋田氏の居城には入らず、少し内陸に入った神明山(標高四十メートル)に久保田城を整備して居城とした。仙北地方は、角館の戸沢盛安が新庄に移封されたため、角館には横手とともに佐竹の一族が配される事になった。
また、深浦から須郷崎にかけての地域は昔から安東領であったが、そのとき比内から大館にかけての地域を大浦(津軽)為信が支配していたので、佐竹はこの土地を大浦との間で交換することにした。今の秋田—青森県境の通りになったのだ。
このことも僕は知らなかった。
僕の家族は昔から青森県境を越えて深浦辺りまでよくいっていた。海水浴やキャンプなどである。須郷崎とは白神山地の山脈が海へ落ち込む髙地の延長にあって、ここを越えるのは多少難儀である。それにもかかわらず、この五能線沿線は能代から深浦辺りまでどこか親和性を感じる土地柄であった。大間越という集落(青森県)から五能線で通っていた高校の同級生もいた。

 

ところで、秋田の竿灯祭りは有名だが、秋田市民の内、一部だろうが、あれは佐竹が持ち込んだものだからというので、そっぽを向いているものがいるという。
僕は、佐竹氏が移封されて後、秋田でどんな政治を行ったのか、噂すら聞いたことがなかった。木に竹を接いだようなもので、殿様に違いないが、典型的他国者と感じられながら江戸期を過ごしたのではないか?平賀源内が鉱山開発のことを佐竹の殿様に講じるために久保田城を尋ねたというエピソードが記憶にあるだけで、佐竹に関して知っていることは、ほぼない。
秋田の人は、佐竹家由縁の人をのぞけば、多かれ少なかれそんな調子ではないかと想像している。

 

昔、僕の家は、中村筑前守十八代の末裔だといっていた。十八代とは、佐竹氏移封より遥か以前のことになる。安東氏または、同時代の豪族の家臣だったのか。従兄弟が調べてみたら、仕事は右筆だったらしいということだった。
誰に聞いたのか記憶は定かではないが、明治十七年、大館近傍生まれの祖父は次男坊で、長男である十八代目が、明治新政府の呼び掛けに応じたのか、たぶん、祖父の成人前に夷島(渡島半島)の七重浜に移住することになった。偶然かもしれないが、安東氏由縁の土地である。長持ちに、刀や槍や武具がたくさん入っていて、それをごっそり持っていったらしい。次男坊は置き去りにされた。
その祖父が亡くなったとき、七重浜から十九代を継いだらしい中村筑前守憲忠がやってきて、神式から仏式に改宗した叔父の葬式に戸惑っているのを大学生の僕がみていたのを思い出す。

 

「安東氏 下国家四百年ものがたり」を書いた森山嘉蔵氏(昭和二年生まれ)は、深浦で、長年校長先生をやった郷土史家である。
この本は、国史学の研究論文とは違い、直接古文書などの資料にあたってはいるが、自治体のまとめた郷土史などを丹念に読み込んで、安東氏の全貌を浮きぼりにしようとした労作で、僕はこの原稿を書く上で、ほとんどの部分、この本を参照した。

 

その森山氏にしても、なんと、初めは『安藤氏という謎』だったようだ。
本の「あとがき」で安東氏研究の動機について、興味深い記述をしている。

 

「深浦・吾妻沢の六所の森に三基の板碑が建立されている。
小学生の頃から目にしている石碑だが、その古い苔むした石碑に『康永四年乙酉二月二十九日・・・』の紀年号の彫られているということを、『深浦町史』(昭和九年発刊)で知ったのは戦時中であった。この三基は深浦町(旧大戸瀬村)関集落・折曽乃関の板碑四十二基と同じ鎌倉後期から室町期にたてられた板碑で、その頃、津軽一帯を支配していた『安藤氏』一族などの供養塔であることを知ったのは、『西津軽郡史』編纂に参画していた昭和二十七年頃と思っている。
初めて耳にした『安藤氏』であったが、日常的な繁忙の中に忘れ去っていた。もっとも、『西津軽郡史』(昭和二十九年発刊)所載大山梓氏の安藤氏論述は一読したがよく分からなかった。・・・・・・」

 

康永四年といえば、1346年、鎌倉幕府が倒れて、南北朝時代のことである。深浦の在所にこんな古い碑があったとは驚きだが、それが安藤氏一族のものであることを知ったのは戦後十年もたった頃で、この時はじめて「安藤氏」を耳にしたというのである。

 

深浦は十三潟のかなり南にある古い湊だが、南北朝時代はまだ、十三湊安藤氏がここを支配していたであろう。その後、十五世紀半ばには葛西秀清が、この地を含む「河北千町」を支配していたが、1456年、南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が葛西秀清を破って桧山城を築いたときから、再び深浦に安藤氏が現れるのである。
そのことも含めて、安藤氏については知らなかったということなのだろう。
それ以降、この地方にも研究者がボチボチ増えてきて、森山氏もその仲間入りをすることになったが、いまでも、安東氏については確然としないものを感じると述懐している。
調べれば調べるほど謎は深くなるといった趣なのかもしれない。

 

十三湊の富山大学の発掘調査や戦国の世を駆け抜けた記録など、歴史の中に埋もれかかった『安東氏という謎』を掘り起こして、明らかにして行こうという人が増えていると森山さんは感じている。これからますます研究が進んで、安東氏のものがたりは輪郭があざやかになっていくに違いない。

 

そこで最後に提案がある。
僕はもう故郷には戻れない身(人工透析)になってしまったので、だれかに、戦国武将で、信長とも対等に渡り合った『安東愛季』の物語を語って、町おこしをしてもらいたい。簡潔にまとめたユーチューブがあったので、それを添付してこの稿を終わりにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

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