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2024年2月 1日 (木)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その5)

田沢湖町の四柱神社とは、生保内の街の東(田沢湖とは反対側の)の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。
前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。
訂正しておこう。

 

そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。
写真では、杉木立の中に小振りながら新しい立派な社が鎮座している。遷座式の時に四十五万円かけたものらしい。
神社の前にはそんなに古くない、由来を示す看板が立っている。
それにはこう書かれていた。

 

「四柱神社由緒
所在地 田向塒森
旧稱  荒脛巾太郎権現
 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
    天照大神 素戔嗚尊
外宮の神として
 秋葉山(火の神)天の神
 大山祇神(山の神)地の神
 馬頭観音 
 神社上手に泉あり 水の神
以上の諸神を現在は祭祀して居るが、、前記のように、もともとは荒脛巾神を祀ったものである。荒脛巾神とはすなわち安日彦王であり、また自然を祭った神でもある。天、地、水、これが古代祖先の信仰した神であった。当神社は信仰厚い氏子の手で、その神を失うことなくこれまで守り信仰してきたものである。
その間には、事あるごとに数多くの奇蹟があり、地元民の信仰をさらに深くしている。
当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ前九年の役(1063年)で安倍一族が滅びた後、地元民がこの神を地元の守り神として信仰してきた。
明治の始め神社神道の勃興という大きな曲面にあたり、地元神の名を掲げるに憚るところがあり、止むを得なく前記の現際神の四柱神を届出し四柱神社となったものである。
なお、当神社の創建は養老二年(718年)となって居るが、実際はもっと以前から祭られて居ったものと考えられ、その証としては神社の近辺から無数の縄文土器類の出土がある。
現在は、田向、野村、相内端の産土神として氏子八十六名あり、例際日は毎年八月十四日で盛大に行われている。
                         四柱神社氏子一同」

 

つまり、もともと荒脛巾太郎権現を祀っていた(それと天皇家の祖先がいっしょに並べられているのは少しおかしいけど)ものだが、明治の廃仏毀釈の時、荒脛巾神では天皇家に対して具合が悪いから、天と地と水に、馬頭観音を加えて四つにし、四柱神社として届け出たということらしい。ということは、四柱神社と言う神社名は、明治以降のものだった。
ここで、「当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ」という一文はいつ「考えられ」たものか? 『丑寅日本記』の記述が根拠になっているとすれば、これはでたらめである可能性が高い。それと関連する安倍一族が持ち去ったご神体が帰ってきたことには一言も触れていないのは、不思議だ。もっとも祀られている青銅製のご神体は素性が怪しいなどと書けるものでもないだろうが。

 

田沢湖町がまんまとのせられた、この事件はどんないきさつで起きたのか。前回の繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。
斉藤さんによると。こうだ。
遷座式(1992年)の五年前、1987年に新青森空港開港記念と銘打って、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれた。そこに田沢湖町の町史編纂室の職員が来ていたことから、和田家文書と田沢湖町役場の接点ができあがる。何故、秋田県から五所川原にわざわざやって来たかは不明である。和田が招待したのかも知れない?
このガラクタが並べられたという特別展の中身は、その後、田沢湖町で開かれることになる『東北王朝秘宝展』とほぼ同じであった。 ガラクタだが、和田が恭しく由緒を語り、それらしく装ってならべれば、なんとなく秘宝に見えたのだろう。何しろ疑うようなそぶりを見せると和田は、恐ろしく怒ったという。

 

そして、四柱神社のある生保内地区に関する「新史料」が出てきたのは、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』の翌年の1988年。さらに不思議なことに、1991年にはより詳しい新史料である『丑寅日本記』が見つかったとして、和田がわざわざ田沢湖町まで持参した。それがそのまま『田沢湖町史資料編』に収録され、遷座式の根拠ともなった。  
当時、田沢湖町の関係者には和田から次々と関係文書が送りつけられてきた。箔づけのために、古田教授が外三郡誌を賞賛する講演を行ってバックアップしていたことは先に説明した。

 

和田が、四柱神社のことを知ったのは、青森県五所川原で田沢湖町、町史編纂室の職員と会ったときなのか、それとも田沢湖周辺は、安倍貞任らの「前九年の戦」役の場であり、「後三年の役」の清原氏の支配地であったことを知っていたのか?
どちらにせよ、後から見ると、これはすべて調べ尽くされ、安東氏につながる「…秘宝展」から『丑寅日本記』発見と遷座式に至る一連のプロジェクトがあらかじめ準備計画され仕掛けられたものと見えるのである。和田が田沢湖町と触れた瞬間から、組み上げられていった物語であり、計画だったことはほぼ間違いないという人もいるという。それにしても、こういう壮大な嘘を思いつく知性には並々ならぬものが感じられる。
さすが吉幾三という異才を生み出す土地柄である。

 

その「遷座式」の実況を斉藤さんがまるで見ていたような新聞記者らしからぬ名文で表現しているところがある。

 

「話しは1992年8月8日秋田県東部の田沢湖町に遡る。
いつもなら山間の深い闇に沈み、音一つしない生保内地区が、その夜だけは異様な興奮に包まれていた。道の辻辻にはかがり火がたかれ、大勢の住民が沿道にずらりと並んでいた。中には、両手を合わせ拝むような仕草を見せるお年寄りもいた。・・・・・・
午後八時半。ほら貝が鳴り響き、たいまつが怪しく揺れる中、平安絵巻を思わせる鎧と白装束に身を包んだ男たち十五人が姿を現す。一行の中程には神輿が据えられ、「ご神体」が大切に祀られていた。御輿が向かう先は、生保内地区に古い言い伝えが残る四柱神社。一行は二十分ほどで、こんもりした森のなかに広がる境内に到着した。侍大将にふんする先導役が、鳥居の前に張られたしめ縄を威勢のよい掛け声とともに切り落とす。境内のかがり火が一段と燃え盛った。  
そのかがり火を前に、稚児役の少女が御輿から厳かに御神体を取り出す。氏子ら住民の視線が一斉に御神体に注がれる。御神体は二十センチほどの青銅製で、住民の目には仏様のようにも映った。  
少女は神社の階段を慎重に一歩、また一歩進む。そして、木目も新しい神殿にうやうやしくささげると、儀式は最高潮に達した。先導役が高らかに宣言する。 「ここに鎮座し、われわれをお守りください」  
御神体が九百三十年ぶりに、遠く青森から帰ってきた瞬間だった。それまで神官姿で儀式全般を指揮していた初老男性の目が異様に輝いた。
彼は腰に刀まで差す入念な出で立ちで、この儀式に力が入っていることは誰の目にも明らかだった。それもそのはず、奉納されたご神体は彼が責任者を務める五所川原の石塔山荒覇吐神社からはるばる運ばれたものだった。」(斉藤光政. 戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 )

 

和田喜八郎が、神職の白装束で腰に刀まで差して、一世一代の大芝居を打ったのは大成功だった。ご神体がどう見ても仏像にしか見えないと言うことから多少疑いを持った人がいなかったわけではないが、このときは和田が決めた段取り通り、儀式は厳かに執り行われ、遷座の催しには誰もが満足した、ようだ。
この遷座式のために氏子たちが集めた費用は120万円余だったらしい。
ここでも、和田の演出家としての才能には並々ならぬものがうかがえる。
この後が実に面白い。

 

遷座式の後、石塔山荒覇吐神社に御礼参りをしようと田沢湖町の氏子代表五人が飯詰山中を訪れる。夜中に神社で神事が行われるというので、バスの中で仮眠を取って待っていたところへ、ようやく探し当てたという態で人がやって来た。自分たちは、岩手県山田町の僧とイタコだが、神様のお告げがあるのでそれをお伝えしに来たという。

 

四柱神社の氏神、荒脛巾太郎権現がイタコの口を通して現れ、このたびは、氏子たちのおかげで無事本宮に帰ることが出来て非常に喜んでいる。これからは皆さんの安泰と子孫繁栄のために尽くすと告げ、何度も御礼をいったという。また、イタコの口から八幡太郎義家が現れて、前九年、後三年の役では安倍一族をさんざん痛めつけたことを氏子たちに謝り、これからは皆さんを守護すると約束して帰った。

 

これを読んで、僕は大笑いをした。
和田喜八郎の「演戯性」が遺憾なく発揮された出来事と言ってよいのではないか?
夜九時の真っ暗な山の中である。氏子たちはバスの中、とはいえ、外の暗がりから聞こえてくる、うなるようで判別つきにくいイタコのご託宣は、本物らしく聞こえたに違いない。源義家が登場して謝罪したというのには思わず吹き出してしまったが、その場で聞かされたものは、古代の将軍の言葉が聞けて大いに満足だった、かもしれない?
それにしても、何故山田町なのだろう?盛岡の遥か東の海岸線にある港町から、津軽の山の中にはるばるやって来たわけがあったのだろうか?。あるいは『丑寅日本記』に関連の記述があるのだろうか。

 

このお礼参りは、和田が仕掛けたものだろう。
遷座式の大成功に気を良くした和田が、なお田沢湖町を惹きつけておこうとしたのだ。例の縄文時代の遮光式土偶を持ち込むのはこの二年後であった。

 

この田沢湖町遷座式の前、1987年に新青森空港開港記念との『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれたと書いた。これはまた五所川原市立図書館10周年記念行事でもあったというから、和田は五所川原市にも食らいついていたらしい。
このとき、のちに発見される『丑寅日本記』の信憑性を補うような出来事があった。
1987年7月、安倍晋太郎・晋三親子と岡本太郎が、互いの先祖、安倍氏の墓として石塔山荒覇吐神社を訪れ、参拝したという。いまでも参拝の記念碑が残っているらしい。この時期はまだ、「東日流外三郡誌」に疑義が出されてはいなかったから、政治家親子はこの神社の由来を確かめもせずに本州の端っこの山の中まではるばるやって来たのだ。
おかげで、ただの水と山の神を祀る祠だった、石塔山荒覇吐神社は、愈々箔がついて、それらしくなっていったのである。

 

 

 

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