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2024年2月26日 (月)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その6)

話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。
そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。

 

ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。
すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると、それを市浦村が村史の資料編として刊行したことによって、真贋論争を引き起こしたが、1990年代までは、はっきりとした結論が出ないまま、一部では真書と信じられてきたようだった。政治家の安倍晋太郎、晋三氏が石塔山荒覇吐神社を参拝した1987年頃には、学者の世界はともかく、明らかに一般の世間では論争があることすら知らなかったと推察できる。政治家が何の疑いも持たず、本州最北端の山の中の神社を訪ねたというのがその証拠であろう。

 

僕が、うわさ、つまり、十三湊で繁栄した安東氏が津波に襲われ一夜にして跡形もなく流され滅びてしまったという噂を聞いたのが、いつだったか記憶にないが、実は、これも「東日流外三郡誌」に書かれていることのようだった。いつのまにか、すり込まれていたくらい、その影響は深く広く浸透していたというべきだろう。他にも「秋田、安東氏研究ノート」がそうだったように、「東日流外三郡誌」の引用であることが常識と化して流通していることが存在する可能性は高いのではないかと思った。
2000年前後になって、市浦村は富山大学人文学部考古学教室に依頼して十三湊の発掘調査を何回か継続的に実施している。市浦村は、1975年から刊行された「村史」に対する疑いを自ら晴らす責任を感じたからに違いない。それだけ「安藤氏」については、分からないことだらけであったということだろう。何回にもわたって行われた発掘調査の報告書にザッと目を通したが、調査の徹底と安東氏の繁栄ぶりは想像以上であったことが分かる。

 

これ以降はインターネットの世界が急速に拡がり、斉藤さんの調査報告はもちろん、情報にアクセスすることが容易になったせいもあって、偽書であることはほぼ一般にも認定されていると言ってよい。とはいえ、一部では未だに和田文書を公開しているサイトもあり、関心は根強いといってもいいのではないか。
これは斉藤さんも言うように、古代史への尽きない興味に対して、和田文書の内容が、こうあればいいのにと言う潜在的な願望に応えた形で構成されているからかもしれない。和田喜八郎は、それを巧みに利用し、金に換えていった天才的な詐欺師だったというべきだろう。

 

僕は国史の専門家ではないが、一応「史料批判」は、歴史を語るときは必須条件と思っていたので、つい脇道にそれてしまった。脇道で垣間見えたことは、歴史資料というものは、思うほど多くはなく、その流れは、あたりまえかもしれないが、推定でつないでいくしか方法がないものだということであった。

 

 

ここで、安藤氏の行方をたどるために、先に取り上げた「続群書類従」の記述まで、遡行しよう。
「小太郎季俊(則任の孫、季任の子=安倍頼時から数えて四代目)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)とあるが、頼朝はこれより前、1185年に朝廷から「守護・地頭の設置」の権利(文治の勅許)を得ているから、平泉攻めの後、参戦した安藤季信を津軽一帯の守護にしたのだろう。

 

「藤崎町史」によると、同じ文治年間(1185年から1189年)の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄(奥州平泉藤原氏三代秀衡の弟)が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、繁栄していた。しかし、三代秀直(ひでなお)の頃、執権・北条義時(北条家二代)が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季(さだすえ)を外三郡(津軽半島)の蝦夷管領に任命、貞季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築いた。 この貞季が津軽守護、安藤季信から数えて何代目にあたるのかは、調べていない。いずれにしても、このときはまだ、安藤(東)氏は十三湊へ進出していない。

 

ところで、小泊とは、十三潟の北、津軽半島の真ん中辺りから日本海に突き出た小さな半島にある港で、北に開けたわずかな平地は山に囲まれた天然の城柵といってよいところだ。福島城から見たら、目の上のたんこぶのような位置にある。

 

僕は、学生の頃、アルバイトでペプシコーラのルートカーに乗っていたことがあったが、その仕事で小泊に行ったことがある。
半島の付け根の山道を横断して、北の方角に降りていくと、林の隙間から突然、鏡のように静かな海面が現れる。それは小さな漁港だった。昼時で、商売先の家の玄関で弁当を使わせてもらうことにして、上がり框に坐っていたら、奥から家の人が何やらお盆に載せて運んでくる。小さな丼の水の中にサイコロに切ったものがたくさん入っている。なにもないけど、飯のおかずにといって置いていった。一口食べてみる。水はただのうすい塩水だった。クリーム色の賽の目の身が何かの貝だとすぐに気づいた。アワビの水貝というものを生涯初めて口にしたのがその時だった。あの夏の昼下がりに味わった冷たい歯触りの美味は、五十年以上前のことなのに、いまでもありありと思い出される。
小泊といえば、フォークシンガーの三角寛が生まれたのも、ここだ。吉幾三といい津軽はユニークな音楽人を輩出する。
 
戻ろう。
小泊に城柵を設けたことに秀直は激怒し、早速これを攻め落とし、その後、貞季の居城・藤崎城に向けて進軍した。寛喜元年(1229年)、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかる。この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いを「萩野台の合戦」という。当初は十三藤原軍優勢だったが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安藤氏が勝利する。
以上のような記述が「藤崎町史」には見えるが、根拠になる資料がなにかについては分からなかった。

 

「萩野台の合戦」で勝利した安藤氏は、1229年以降、藤原氏にとって代わって、十三湊に進出したのではないかと推測されるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していないという。

 

「萩野台の合戦」とは別に、「北畠顕家安堵状」によると、この鎌倉末期から南北朝時代にかけての安東氏の支配領域は、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭代職となっており、現在の青森県地方(=津軽半島および下北半島)のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。この中に十三湊も藤崎も見当たらないが、湊、津軽西浜がそれだという説もあるらしい。具体的な記述が見られない事情についてはよく分かっていないという。
なお、南部氏はすでに八戸近辺に拠点を築いている時期であり、その関係についてもこの時期はっきりとはしていない。

 

記録によると、1268年(文永5年)になって、この地方のエゾ(蝦夷)が、蜂起して、代官職である安藤氏が討たれるという事件が起こる。原因は、執権北条家の得宗権力の拡大で、収奪が激化したことにより、土着の民が反旗を翻したことにあった。また、日蓮宗の日持ら僧による北方への仏教布教が進んだことや、勢力を拡大しようとする元朝が盛んに樺太アイヌ征討を行っていることが遠因であったことが指摘されている。

 

更に1318年(文保2年)、以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長(安藤又太郎)と従兄弟の安藤季久(安藤五郎三郎)との間の内紛に、1320年(元応2年)出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家(外の浜安藤氏)から太郎家(西浜安藤氏)に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある。

 

1322年(元亨2年)、紛争は得宗家公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等には、内管領の長崎高資が対立する二家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。
1325年(正中2年)、北条得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。(なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったとする説と、その反対であるとする説がある。)深浦町は、十三潟の遙か南、秋田県境に近い港町であり、そこから青森市までという広い版図の中を安東氏が治めていたことになる。

 

その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知を再び派遣し、翌1328年(嘉暦3年)には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを季長の一族に安堵したものと考えられている。

 

 

この安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、御内人の紛争を得宗家(北条家)が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。後世に成立した史書においては、安藤氏の乱、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解がある。

 

鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。対して、津軽に残った惣領家は「下国家」と称する。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。そうした中、安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていたという。

 

しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に十三湊まで追いつめられその後夷島(北海道)に逃れた。南部氏は、時の室町幕府に巧妙に取り入り、領土を安堵されつつ地位を築いていったもので、さらに秋田の鹿角郡、田沢湖から横手辺りまで進出しようとしていた。つまり、安藤氏が築いた版図を遥かに超えて出羽領まで占領しようとしていたのだ。
十三安藤氏は、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。ここで、十三湊を拠点として栄えた安藤氏は、北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。

 

「北のまほろば」で、安藤氏が十三湊から姿を消したとあるのは、一族がもともと植民地のようにして領有していた北海道の渡島半島に逃れた時のことであった。

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