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2024年1月21日 (日)

「北のまほろば」と安東氏という謎(その3)

山梨県の西を流れる早川の上流、農鳥岳(3,026m)の麓に奈良田という集落がある。平家の隠れ里、などと言われる山深いところで、道は、数十キロも先で北岳(富士山に次ぐ日本第二の高峰)の登山口、標高千五百メートルの広河原に通じている。とはいえ、ここから先には人家がなく、したがって、南アルプスの広大な山域、つまり「異界」に踏み入る、ここがその入り口である。
安東氏はまた別の異界ではないかという思うことがあった。

 

奈良田には、鄙びた温泉があって、湯温はややぬるいが、あまり人が来ないから快適で、昔、湧き水を汲みにあちこち行っていた頃、時々日帰りで行っていた。奈良田へ向かう途中に草塩と言う小さな集落があって、ここの県道の脇のコケの生えた岩の間から水が湧きこぼれているのを、目当てに行くのだが、そのとき必ず奈良田まで足を伸ばした。そのため、このあたりの地理はすっかり頭の中に入っていると思っていた。
河口湖から富士山麓を回って、本栖湖を見下ろす峠道から西へトンネルを抜け、標高を下げていくと下部温泉の町並みが湯煙とともに道脇に見えてくる。やがて富士川を渡り、静岡と甲府を結ぶ幹線道路を横切って、支流の早川沿いの道を進むのだが、ある時、久遠寺から身延山に登ってみようと思い立ち、幹線道路を静岡方面に左折した。
すると、道路標識に、「南部」(方面)という文字が現れはじめるので、ほう、ここにも「南部」があったのかと気にとめたことを覚えている。

 

この南部の話である。
「北のまほろば」の中に、こんな記述があるので、少し長いが引用しよう。

 

「ここでまたしても地域名についての説明が要る。南部とは何かということである。
方角のことではない。
「陸奥」
という国名が広大すぎるため、何世紀もの間、今の岩手県から青森県東部にかけての大きな地域は南部とよばれてきた。
南部はもと、との様の姓である。
姓より以前は。地名だった。それも、遠い甲斐国(今の山梨県)の地名なのである。
山梨県南巨摩郡の富士川右岸の氾濫原に南部という小さな地名があった。いまもある。
十二世紀、源平の頃、そこに豪族がいて、地名を姓としていた。いまでも南部氏が築いた城館の跡が残っている。
その南部氏から三郎光行というものが出てわずかな人数を率い、海路はるかに奥州の地に来たという。
『南部系譜』では唐突にやって来たのではなく、源頼朝の奥州征伐に従軍し、軍功によって五郡をもらったという。しかし無名に近い小豪族が、いきなり五郡も拝領できるものなのか。すべては伝説の霧の中にある。
『奥南旧指録』では、頼朝の時代よりもずっと後のことだという。
甲斐から来た南部三郎光行ら主従七十余人が、鎌倉の由比ヶ浜から兵船に乗って八戸(青森県)に上陸した、という。鎌倉の由比ヶ浜から来た以上、幕府の黙許は得ていたのかもしれない。
時に十三世紀、鎌倉時代の前期である。彼らは観音堂で越年した後、
「百姓の家に入りたまひ、一夜堀をほらせ玉ふ」
という。野盗の類に似ているが、こういう創業の仕方は、室町の頃播州(兵庫県)辺りにもあった。
従者に、桜庭、三上、神、岩間という姓のものがいた。桜庭は明治維新まで南部藩における二千石の大身だった。同じく原という姓の者もいた。大正時代の政治家原敬の祖であった可能性が高い。
創業当時の原氏の本国は甲斐だが、桜庭や三上の本国は近江だったらしい。様々に想像すると、鎌倉でごろごろしていた甲斐の南部三郎光行が、
「どうだ、これから奥州を切り取りに行こうと思うが、ついてこないか」
と、幕府の端役にもつけぬあぶれ武者どもをあつめたのかもしれない。こういう想像が許されるほど、当時の奥州は不安定だった。」(「北のまほろば」)

 

その奥州は「後三年の役」(〜1087年)のあと、勝利した清原清衡が、名を父親の姓に戻して藤原清衡を名乗り、平泉に拠点を置いて、出羽の一部と陸奥を合わせた広大な地を支配するようになった。むろん源義家が後ろ盾になったことによる。

 

前回の最後に僕は、
「十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。」
と書いたが、これでは、時間が二百年ほども飛んでしまう。
そこで、逆から見て二百年の間に、十三湊に安東氏が現れるのはいつだったかそれまで何が起きていたのかを調べてみることにした。

 

「前九年・・・」よりもずっと以前から、十三湊は天然の良港のため、日本列島交易路の中心となり、10世紀後半には十三湖北端に地域経営の拠点となる福島城が築城されていた。「十三」は、語源がアイヌ語の「トー・サム」(湖の畔り)であり、福島城柵を築いた者は不明らしいが、アイヌあるいは蝦夷由来の者かもしれない。
「後三年・・・」のあとには北海道のアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏が進出、一族の藤原秀栄が土着して、これが後に十三氏を名乗って、一帯を支配していた。
藤崎安東の系譜をたどることにしよう。

 

さて、藤崎に落ちのびた安倍高星は、ここに城柵を築城しはじめ、その子堯恒の時に安東氏の基盤を確固たるものにした。その勢域が拡大するにつれ、西海岸に開ける十三湊に注目することになる。
第一に、日本海、沿海州、蝦夷地の広大な地域で交易が出来、莫大な利益をもたらすにちがいない。第二に、岩木川を使えば、容易に往来が出来る。
そうして得た財力を元に、かつて、安倍一族が支配した陸奥一帯を取り戻せると夢想したかもしれない。

 

堯恒の子貞季(貞秀)の時、津軽萩の台(弘前市津賀付近)において、十三秀直と激突(萩野台合戦、1229年)、これを打ち破って十三湊を手中に収めた。安東氏が本拠を十三湊に移すのは、貞季の孫、愛季の時である。高星から数えて五代目(すでに鎌倉中期か?)である。すると「津軽守護に任ぜられた安藤季信」とはどこにあてはまるのか?
それは、ともかく、のちにつくられた系図に「安東太郎を持って当家の仮名となす。」とあって、萩野台合戦の頃から安東氏の称号を名乗ることになったものではないかいうことであった。(「秋田『安東氏』研究ノート」1988年、渋谷鉄五郎)
それに、この「秋田『安東氏』研究ノート」には、続いて
「また、高星、津軽郡安東の地(南津軽郡藤崎)に逃れ、そこを領して安東太郎と称したのにはじまる」(河出歴史辞典)ともいう。安東の地とは、太古の十三湖は後年の藤崎地域まで入り込んでいて、そこを「安東浦」」と称したという」(市浦村史資料)
と書かれている。

 

僕はこれを読んで、もう一度地図をながめてみた。
確かに津軽平野は岩木川流域の両側に開けて十三湖に達しているがこの陸地に水がたたえられて最深奥部の藤崎に「浦」が形成されていたことを想像するのはむずかしいのではないかと思った。
能登半島は今年正月に四メートルも隆起した。ここは隆起して出来た半島だということだが、地震はおそらく千年ぶりだったらしい。
すると津軽平野がまるごと隆起して「安東浦」が岩木川の河岸段丘、藤崎になるには数千年どころか、数十万年以上はかかると思われる。そんな前に誰が「安東浦」を名付けたものか?
「河出歴史辞典」の記述にしてからが、「市浦村史資料」を元に書かれたものに違いない。
では、「市浦村史資料」とはなにものなのか?

 

僕は国史の専門家ではないと再三言ってきたが、こんな「怪しい」ことを「秋田『安東氏』研究ノート」が平気で記述するのはおかしな話しだと思って本の発行年を確かめた。1988年とあって、安東氏研究もまだ道半ばだった時期で、深く考えもせずにそこにあるものを入れたのだろうと想像した。
しかし、こんな奇妙な話しには裏があるとにらみ、本題と関係ないかも知れないと思いつつも、つい、調べてみることにした。

 

村史資料とある以上、公的なものとして編纂されたと思うが、なんと、中身は『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)という厖大な歴史書をほぼそのまま資料にしたものだった。
『東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた長持ちの中に入っていた」大量の古文書として1970年代半ばに登場した。この古文書の編者は秋田孝季(福島の三春藩九代目当主)と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊(巻)にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流=ツガル)には大和朝廷から弾圧された異民族の文明が栄えていたと書かれている。
ただし、秋田孝季については、この本についての議論が進んでいくうちに、藩主本人が書いたというには無理が出始めたため、「原本」はいつしか「写本」となり、編者も「秋田孝季」(たかすえ)という縁つながりの別人になったという。
市浦村は、これ(のコピー!)を高額の対価で買い取って、村史として編纂出版した。従って、公的な機関が承認した歴史書として通用するようになったし、国立国会図書館にも収納されているところを見れば、世間には一定程度認められているらしい。

 

興味を持ったことにはトコトンつきあう性格で、今度も、『東日流外三郡誌』について調べてみようと思い立った。
すぐに、各地の図書館やら公的な組織が収蔵しているらしいことはよく分かる。
ところが、次に目に飛び込んできたのは 斉藤光政著「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 (集英社文庫)であった。
あれ?どこかで見た作者だ。
そう、「安彦良和、原点(The Origin) 戦争を描く、人間を描く」(岩波書店、2007年)のインタビュアーであり著者である。青森県の県紙、東奥日報の記者で、僕はもちろん会ったことはないが、この本の成立について多少関係したので覚えていた。
この斉藤さんが、1992年、政経部から社会部に異動してはじめて扱った事件がこれであった。事件といっても、九州の大分在住の人が和田喜八郎に貸した図版を盗用され、返してもらえないので、裁判に訴えた著作権違反と損害賠償の民事訴訟だった。

 

(つづく)

 

 

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