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2024年1月28日 (日)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その4)

五所川原からみて青森市はほぼ真東にある。しかし、行くには一旦南東の弘前—藤崎方面に向かい、それから北上しなければならない。津軽半島東部には竜飛岬の先端に至る小高い山脈(中山山脈)が通っていて、これが行く手を阻んでいるからだ。わずかに、いつ頃通したものか分からないが、県道26号線(津軽あすなろライン)が五所川原市飯詰あたりから山脈を越えて細々と青森市郊外の油川に通じている。冬期間は閉鎖という山深いところだ、
グーグルアースで調べると、その真ん中辺り、県道からかなり外れた山中に、「石塔山大山祇神社」という目印がある。これは、別の地図上では十和田神社となっているが、「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」ともいうらしい。荒覇吐神社というのは、主として関東地方に散見されるもので、この津軽地方には他に存在しない。正確に言えば、戦後この神社に命名された時からそうなった!のである。「荒覇吐」の由緒は不明ながら、大和朝廷に追いやられた蝦夷由来の神をまつるということで、日本古来の神とは異質であるという説があるらしい。

 

ここは、「東日流外三郡誌」騒動以来、結構知られるようになった場所らしく、訪ねた人の記録によると、県道から外れ細い道をたどって三十分ほど歩くと、林の中に朽ちた鳥居が現れ、その脇に大きな石が並べられており、奥に木造の社が建てられているという。
しかし、この「石の塔」と呼ばれる場所に神社が建立されるまでは、十和田様という水神と山の神がまつられた小さな祠があるだけで、一帯で炭を焼く村人が通るだけの何もないところだった。訪ねた人がたどった道は、焼き上がった炭を運び出すための馬車の通り道として、戦後まもなくの頃につけたものだった。
この神社がすべての始まり、だったように思える。
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僕は、安東氏という謎を追いかけて、それが十三湊以降、どうなったかを確かめればそれで満足だと思っていた。井手君が、興味を示した60=70年代初頭の頃から見ると、彼の勘が正しかったように、かなり広汎に「安東氏」についての関心が高まり、関係の文献も多くなっていた。
ところが、調べると資料によって内容や時系列が違い、公的な出版物でさえ伝聞や偽書の引用などが混じって、その矛盾を糺そうとすると、さらに混乱するという有様で、正確な歴史を知ることなど困難かと思いはじめていた。この調子では、何が本当なのか?
正直のところ、これではもう現代から見て分かる範囲でいいやと思うようになった。

 

それはそれでいいのだが、斉藤さんが戦後最大の偽書などとセンセーショナルに言うものだから、立ち止まって何があったか確認しておこうという気になったのだ。とりわけ、興味を引くのは事件の主役である和田喜八郎という人物が、「安東氏」を利用しながらどのようにして人を欺いたかである。

 

ここから先は、斉藤光政著「戦後最大の・・・」に書かれていることに全面的に寄りかかって、というより、書かれていることを紹介しながら僕の興味について説明しようと思う。
僕の興味というのは、2005年3月に書いた新国立劇場上演、劇評「花咲く港」が念頭にあった。これは菊田一夫の戯曲で、昭和18年初演であるが、同年木下恵介監督デビュー作品として、小沢英太郎、上原謙、水戸光子らで映画化されたものである。
ある南国の島に、かつて有力者として住んで居た人の息子と名乗るふたりの青年が、やって来て、村おこしとも言える造船会社を立ち上げ、島人にも出資を募ろうとする話しである。
このふたりが詐欺師で、その手口や欺される方の事情も対置されることによって生まれるドラマ性。それは、喜劇というにはいささか強すぎる、詐欺師の行動にただよう「滑稽さ」あるいは、そこはかとない「おかしみ」、それにまんまとやられてしまう普通の人々に対する密かな同情といった観客に生まれるであろう心理、それが僕の関心である。

 

和田喜八郎という一生は、人を欺くという点では一貫していたが、塀の中へ転がり込むようなことは一度もなかった。それだけ用心深く嘘に嘘を重ねた様子は天才的と言える。
残念ながら、斉藤さんの記事は、新聞記者らしく事実を追求する姿勢に徹していて、しかも和田喜八郎が自分に批判的な記者、斉藤さんと直接会うのを避けたこともあって、何故それに思いついたか、思いつきの殴り書きとはいえ膨大な量の古史・古書をねつ造する知識はどこから得たのかなど、周辺の取材を含めて徹底しておらず、彼の詳細な経歴や深層心理に迫っているわけではない。
だから、詐欺師の側の内面については知りようがないが、時々行動に演戯性が発揮され、その照り返しとして被害者の心理が浮かびあがることがある。人は疑いを持ちながら、目の前のことをなかなか否定は出来ない。そのとき詐欺師は何を感じていたのか、その心理的な駆け引きについて、斉藤さんの追求は今少しと思うこともある。
また、せっせと偽の文書をつくり、拾ってきたガラクタに勝手な価値をつけ、いくら稼いだのか? 偽書を何冊か発行し、その印税はいくらになったのか?それで和田喜八郎の生計は立っていたのか? ということについて、斉藤さんの関心はあまりなかったと見えて、もうひとつのエンジンである経済的な動因ははっきりとはわからない。一生をかけるほどの結構な収入になったものなのか?

 

 

さて、神社に戻ろう。
戦後まもなくの頃、のちに「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」と呼ばれるようになる、石の塔の水神さまと山の神がまつられた祠の側の沢で、当時、二十代の和田喜八郎と父親が炭焼きの窯をつくるのに整地していたら、アイヌの土器が出てきたという。これでことさらのように騒いで、石の塔には何かあるという心証を飯詰村(当時)の人々の間に形成していこうとしていたようだ。
関係者によれば、1951年の飯詰村村史編纂の時は、ここに秘宝が隠してあるとか安東、安倍氏の墓だとかいう伝説のかけらもないただの朽ち果てた祠だった。
ただし、和田喜八郎の家の天井裏の長持ちから出てきたという大量の文書は、数年前には「地中」から出てきたという触れ込みで(当時、和田の家はかやぶき屋根で、天井裏はなかった)すでに存在していた。これを市浦村でやったように自分の住んでいる村史に取り込むのは、村の誰もが知っている土地のことだからさすがにはばかれたのだろう。

 

「東日流外三郡誌」が「市浦村史資料編」全三巻として刊行されるのは、1975年から77年にかけてである。これを編纂した村の関係者によれば、初めは安東・安倍氏の財宝がどこかの洞窟に隠してある、ついてはその発掘調査をしないかという話しだったらしい。それが出てきたら、村のPR になるし郷土史の材料になると考えて、その話しに幾許かの金を出資した。しかし、なにもでてこないから、多少焦って、あまり深く検討もせずに「市浦村史資料編」を出版することにしたというのである。

 

では、「石塔山荒覇吐神社」はいつ出来たものか?
1978年に作成された「建設趣意書」に名を連ねたものは、和田はもちろんだが、「講中代表総代 建設委員」は、藤本光幸、同じく「講中総代」相馬弥一郎という人物である。

 

藤本光幸とは何者か?
斉藤さんの取材によると、藤崎町の資産家(らしい)で、「和田の最大のスポンサー」であり、しかも「外三郡誌の所有者の一人」とされていた。  藤本が編者を務めた外三郡誌関係の本にも「外三郡誌の詳細を語る第一人者」と紹介され、本人自身も「生涯の使命として、和田家文書の原稿化に努めている」と力説していた。外三郡誌は正しいとする、歴史学者の古田武彦など、いわゆる擁護派(真書派)の中心メンバーの一人であった。ということになる。とはいえ、藤本の来歴についてこれ以上の取材はなく、この男が何者なのか詳細は不明である。ただし、藤崎の町を調べると、藤本光幸商店というのがあり、看板にかすれた文字に輸出商と見えるが、何の輸出か?それ以上は分からなかった。

 

もう一人の、相馬弥一郎は五所川原で古物商を営む老人で、和田の骨董仲間、商売の師匠・相談役にあたる人物らしいが、斉藤さんがこの趣意書を発見したときは物故者だった。
すると、和田喜八郎の生業は古物商だったのか?
相馬弥一郎には息子が居て、和田のことをよく知っていた。彼によると、
市浦村史を出した後、世間の評判がよろしくないところから、和田は疎んじられ、収入源が途絶えたので、「東日流外三郡誌」のルーツを市浦村からどこかへ移す必要が生じた。
そこで、おそらく、石の塔にあった祠を根拠に神社を作ることを思いついた。その頃まだ若輩ものだった和田は、それを年長の相馬弥一郎に相談し、結果、土地の代議士の名前を借りて寄付を集め(1978年)、山の神をまつる神社建立(1980年)にこぎ着けたということであった。
1983年に相馬弥一郎が亡くなると、単に水神と山の神をまつる神社が、和田の手によって、アラハバキがまつられ、安倍一族の墓になり、ならべられた大石に北斗七星という意味が与えられ、「東日流外三郡誌」を書いたという秋田孝季の石像(近所の石材店からもらってきたもので秋田とは何の関係もない)が置かれて、めでたく「石塔山荒覇吐神社」になったのだ。
相馬弥一郎の息子の言によると、この神社は由来はもちろん、中身もすべてでたらめな作り話で、要は和田が古物を売るための道具の一つにすぎないのであった。

 

 

「丑寅日本記」が和田家文書として発見されたのは1991年のことである。例の藤本光幸・編として、五所川原市の新聞社から出版されはじめたのは1992年からで2007年頃まで断続的に続く。

 

戒言
此の書は他見無用門外不出と心得ふべし。
寬政五年八月廿日             秋田孝季
                     和田長三郎

という記述からはじまる全十一巻の長大なものである。

 

この冒頭にある「他見無用門外不出」とあるのが味噌で、「原本は出せない。コピーなら出す」といって、紙や、墨、筆跡について古書としての鑑定を巧みに避け、真贋の判断をむずかしくした。

 

寛政の人、 秋田孝季と和田長三郎は、蝦夷地を越え、ロシアにいたり、アムール川を旅する。しかも、見聞したものを現代のマンガみたいな画で描写しているのだ。一見、笑うしかないものだが、人を欺すにはこんなもので十分なのだろう。
僕は、内容については興味がなかったので、ちらっと見ただけだが、よくもまあ、こんな嘘を思いついて、しかも、古文を装ういい加減な文体で長大な文章を書けるものだと感心してしまった。この能力を他に向けたら、少しは人に尊敬されただろうにと思う。

 

 

1991年、和田家文書として「丑寅日本記」発見の頃、秋田県田沢湖町が町史編纂作業をやっていた(出版は1992年)のが和田喜八郎の耳に入っていたかどうか?
あるいは、耳に入ったから「丑寅日本記」はある意味「大急ぎ」で準備されたか?

 

この話は、実に傑作である。

 

田沢湖町、教育委員会の町史編纂室長が、どう言う訳か和田喜八郎と個人的に親しい間柄だったらしい。このいきさつは斉藤さんの取材にない。が、
当然、和田家文書の一つ「丑寅日本記」に書かれてあることは、信じたものと思われる。何しろ親しいのだから。

 

その田沢湖町に生保内というところがある、「吹けや生保内東風(おぼねだし)七日も八日も(ハイ)・・・」と歌う民謡で知られたところだ。そこの辺鄙な、人もいかないような場所に、四柱神社という小さな神社がある。地元では荒覇吐神社ともいわれていたらしいが、もともとの由来が何なのかは調べても分からない。「丑寅日本記」からの引用が、町の正史になっているからここは「青龍大権現がおわす、田沢湖のたつこ姫の墓があるところ」である。当時は、たつこ姫は、民話の中の人だからその墓があるのはおかしいだろうと思う人もいたらしい。今では誰も信じていないという。

 

「丑寅日本記」には、千年前の「前九年の役」で敗北した安倍一族が、この四柱神社にまつられていたご神体を持ち去り、津軽五所川原の石塔山荒覇吐神社に祀っていたと書かれている。
文書発見の翌年、1992年の二月に和田家文書擁護派の大学教授、古田武彦が田沢湖にやって来て、文書について講演、続いて五月には「東北王朝秘宝展」が開催されている。
この「・・・秘宝展」の前に、 和田喜八郎がやってきて、 陳列品には四柱神社のご本尊も含まれるので、この際、930年ぶりに、このご神体を本来の場所である四柱神社に遷座することにするという。そこで、それを受け取りに、田沢湖町町史編纂室長と神社の氏子代表ご一行が、五所川原市の石塔山荒覇吐神社へ向かうことにした。
和田喜八郎は、受け渡しの現場で氏子たちに、人目にさらすと天罰があたるから、絶対に見せるなといい聞かせ、ご神体は時価にして2〜3億円もする貴重な遺物であると言明している。
田沢湖町町史編纂室がいくらの対価を払ったかは、税金の使い道のことだから当時の記録を見れば分かるだろうが、今のところ不明である。

 

斉藤記者が、この遠い秋田県で行われた遷座イベントに疑いを持って、田沢湖を訪ねたのは、二年後の1994年のことである。
その直前である三月に田沢湖町四柱神社に、和田喜八郎から新たに新しいご神体が贈られたことを聞いていた。それは、縄文時代の遮光式土偶であるが、青森県亀ヶ岡遺跡から出土したものが国宝として有名で、同じものがいくつもあるはずがない。調べると、弘前市でつくられている比較的精巧に出来たレプリカであったようだ。
田沢湖町では、そんなものがあってもしようがないと思ったが、ことわることも出来ず、受け取ったということらしい。ここでもいくらかお金が動いたのだろう。
(つづく)

 

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