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2024年1月10日 (水)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その2)

Image_20240110174701 Photo_20240110180801 弘前市の北にへばりつくように藤崎町がある。人口一万五千ほどの小さな町である。
僕は弘前に五年住んだが、藤崎といえば、りんご畑が拡がる農村風景しか見たことがなかった。ただ、弘前に飲み込まれそうな位置と規模なのにどこか誇り高く、独立自尊の気概が感じられた。津軽と言えばまず藤崎をのぞいては語れないと主張しているようにその名を見るたびに思った。
それが、安東氏について調べているうちに、11世紀ごろのここが起源だったことを知ったのだが、この町の歴史は、それより古く、津軽の中でも「歴史は深い」(町のホームページ)からだとわかって、得心した。
安東氏のルーツがこの藤崎にあるというのは、ここに長い間城柵があり、弘前にその地位が移る前までこの地方の中心だったと言う史実に根拠がある。

 

「前九年の役」(1051年〜1062年)と言えば、日本史の教科書には必ず登場するエポックだが、安東氏が歴史に登場するのはこの頃のことである。まずは、その概略を確認しておこう。

 

それより二百年ほど前の平安時代初期(802年)に、日高見国が朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したあと、陸奥国の各地にいた豪族の多くは大和朝廷に従った。降伏した蝦夷を俘囚といったが、このなかに北上盆地から今の盛岡辺りまでの広域を支配する安倍氏がいた。

 

この安倍氏が、頼良の時、11世紀の半ばになると、朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため、永承6年(1051年)、陸奥守国司藤原登任が数千の兵で安倍氏の懲罰に向かい、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。玉造郡鬼切部とは、宮城県北部にある山深いところだが、それより二百年前、坂上田村麻呂が大武丸という蝦夷を討った際にその首が飛んだ場所と言う伝説があり、別にアイヌ語では「小さな川が集まって大きな川になる所」を意味する「オニカペツ」が語源と言われている。この鬼切部の戦いでは、すでに「あぎた=秋田」におかれていた地方管轄官である「秋田城介」の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守となった。

 

翌年永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母、(藤原道長息女、中宮、藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることになった。安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。天喜元年(1053年)に頼義は鎮守府将軍となった以後、その陸奥守在任中は平穏に過ぎた。

 

その任期満了である天喜4年(1056年)、頼時から惜別の饗応を受けた頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)へ戻る途中、阿久利川で野営を敷いてた。その時、何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。

 

これは真相は定かではないが、頼義配下の在庁官人である藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た、と頼義に報告があったことに端を発する。
さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に出頭を命じたが、頼時は息子(二男)貞任の出頭を拒否し、その結果、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることとなった。

 

また、頼時の女婿ながら国府に属していた平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を流して頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。

 

天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司、金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を味方に引き入れることに成功した。
これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)において死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。

 

頼義は同年11月、再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃したが、この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。
安倍貞任軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4,000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。

 

その後、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく藤原経清の白札で税金を徴するほどになりその勢いは衰えなかった。
苦戦を強いられていた頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県大曲・横手盆地周辺)の俘囚の豪族清原氏の当主、清原光頼に「珍奇の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいわれる。いずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将として軍勢を派遣することになった。
この軍勢は、武則の子荒川太郎武貞、その甥、男鹿の豪族志万太郎橘貞頼、山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍、など秋田勢を中心とした朝廷側が源頼義勢3,000と合わせて10,000と推定される。清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。

 

1062年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。その首は丸太に鉄釘で打ち付けられ晒された。藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首とされた。

 

こうして安倍氏は滅亡し、約十二年にわたる「前九年」の長い戦役は終った。
清原氏参戦後、わずか一ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある。
この密約とは、敵将藤原経清の嫡男、清衡が、本来は処刑される運命にあったが、この時まだ七歳であり、これを助命するというものである。清衡の母親(貞任の妹)が、安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁する(密約の正体?)ことになり、連れ子の清衡も清原武貞の養子になることで、難を逃れた。
この清衡がやがて奥州藤原氏へとつながっていくことになる。

 

ところで、藤崎町のホームページには、「安東氏発祥の地」として次のように述べられている。
「戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。」
この根拠になっているのは、江戸時代に出版された塙保己一の「続群書類従」で、系図奥書に永承三年(1506年)の日付が見え、これが藤崎安藤に関する最も古い記録と推定されているらしい。この藤崎系図(安倍姓)では、
「長髄彦の兄安日の末葉(子孫)安倍貞任の子高星(たかあき)が藤崎安藤の祖となったとされている。高星は貞任敗死後、三歳の時乳母に抱かれて、藤崎に逃れ、藤崎城主になり、その子堯恒は、安藤太郎、のち藤崎太郎と称した、と伝えている。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)
「長髄彦」は神話の中の人であり、高星の存在も確たるものではないとする説もあるようだが、藤崎町では町の歴史としてこの安倍貞任の系譜を掲げている。

 

もうひとつ「続群書類従」第七輯上には、成立年度は不明だが、貞任の子孫が安藤氏となったと言う記述もある。(安藤系図)
「貞任敗死後、四歳の貞任末子(則任)を家人が山中に隠した。藤原清衡の子惟平に男子がなく、祖母(貞任妹)の縁により、七・八歳の時に則任を養子にした。すなわち白鳥太郎則任で、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤としたという。安藤氏祖で、安藤太郎と称した。」

 

ここまでの記述で僕は、これは変な話だという印象を持った。
安倍貞任の子、則任(四歳)を山中に隠したというのは高星の話しに共通するところがあってありうることだと思う。が、このとき同時期に助命されたという藤原清衡は七・八歳ということだった。つまり、則任(四歳)が匿われた時、清衡は同じ世代である。ところが、「清衡の子惟平に男子がな」かったので、七・八歳の則任を養子にしたというのは年齢が合わないのである。
「祖母の縁」とあるのは、清衡の母親が貞任の妹だから惟平から見れば祖母にあたる。祖母の兄の子を養子にしたという関係になるが、自分の父親ほどの世代の男、しかも主筋のものを養子にしたというのは本当だろうか?
もっとも、則任は貞任の子ではなく、弟(清衡の母親の兄弟で、清衡の叔父)だという説もあり、このあたりはどうも国史学上混乱しているように見えるが、これを指摘するものに出会ったことはない。
もうひとつの疑問は、則任の孫である季任が成人後、安藤太郎になったのと、藤崎で高星の子、堯恒が安藤太郎になったのでは一世代分の時代が違うが、では歴史上「安藤太郎」の出現はいつか、ということである。

 

「続群書類従」の記述は続く。
「その子小太郎季俊(則任の孫、季任の子)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。その孫、又太郎季長は嘉暦(1326年〜29年)の頃、安藤の乱・津軽大乱の中心人物となり、幕府の討伐軍によって誅滅させられている。その後子孫は秋田に移住し、秋田安藤次郎李道は、はじめ宮方に属し、のち足利尊氏に属した、と言うところで終わっている。」(「弘前大学学術情報リポジトリ」同上)

 

この記述では、「前九年の役」から奥州合戦までいきなり百年ほど飛んでしまって、「安藤氏」成立のプロセスが、必ずしも明瞭ではない。しかも、高星が藤崎城に現れ、その子が安藤を名乗る時と大巾にずれている。
これでは何が本当か訳が分からん。

 

 

僕は、安東氏が十三湊に現れ、一時期繁栄した、と言う「北のまほろば」と井手君の思い出から、そのいきさつを確かめようとして、この作業を始めた。しかし、もともと国史学上の真実を文献から読み解こうなどという気はさらさらない。専門家が、これまで、文献の少ない中を悪戦苦闘して調べ上げたのと同じ次元でこれを論じることはそもそも素人である僕に出来る技ではない。

 

安東(安藤)氏の足跡がはじめて11世紀後半の藤崎に見いだされることが分かって、そこから十三湖に至り、鎌倉時代末期にかけて繁栄した後、その末裔が出羽の秋田に出現することが分かったので、そのあらましを確かめればそれで満足だと言うことである。
とりわけ今度は、生まれ故郷にその縁があったことに、はじめて気が付いて、いささかショックだった。
故郷の弟に「桧山は、安東氏と関係があったらしいが知ってるか?」と聞いたら、「安東氏について調べると早死にするという都市伝説がある。」という答えだった。僕が子供の頃は、安東の「あ」の字も聞いたことはなかったのに、いまでは調べてみようと思ったものにとっても謎が多いということなのだろう。(もっとも安東の話題が出なかったのは、本来はよそ者である僕の周辺だけだったのかもしれない。)

 

ここまで、安倍貞任の子孫が安東氏成立に関わっていることは確からしいことは分かった。それには、「前九年の役」の中の安倍貞任を中心としてその全体像を理解する必要があった。そこから藤崎安東氏に至る道筋はことが単純だけに理解はできるが、安倍貞任の子、高星が何故「安東」姓を名乗ったのか、納得できる説明はないと僕には見える。
そこにいくと、「清原清衡の息子の養子になった、貞任の子、(白鳥太郎)則任、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤とした」という「続群書類従」の記述は、安藤氏の起源として説得力があると僕には思える。

 

では、その白鳥太郎則任は、どこへ行って、またその孫の季任はどこで安藤と名乗ることになり、その子孫が平安末期または鎌倉初期には十三湊にいたったのか?
それを確かめるには、清原氏の中に分け入って則任の行方を捜す他ないのではないか。「前九年の役」で勝者になった清原氏の動静となれば、まさに、「前九年」から約二十年経った「後三年の役」(1083年〜)というもうひとつのエポックのことになる。
この頃になると、清衡は三十歳前後。養父清原武貞には、嫡子真衡(清衡異母兄)と、弟の家衡(母親が武貞との間に産んだ異父弟)がいる。

 

「後三年の役」のあらましとは?
清原武貞亡き後、惣領となったのは真衡だが、嫡子がいなかったため、桓武平氏の血をひく成衡を養子に迎える。この成衡の嫁に源頼義の娘と称するものを娶らせることで、源氏と平氏の血筋を一挙に入れ、異母弟の家衡を清原氏の嫡流から外す所業に及んだ。こうして内紛の火種はできあがっていた。

 

事の起こりは実に単純であった。成衡の婚礼のとき、出羽から真衡の叔父で清原一族の重鎮、吉彦秀武が陸奥の真衡の館まで祝いに訪れた。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、真衡は碁に夢中になって応対しなかった。面目を潰されたと秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。
これに怒った真衡は、直ちに秀武討伐の軍を起こしたが、一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促した。二人は秀武に呼応して兵を進め、<白鳥村>を焼き払った後に真衡の館に迫った。
これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、二人は決戦を避けて本拠地へ後退した。家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び秀武を討とうと出撃の準備を始めた。

 

永保3年(1083年)の秋、成衡の妻の兄である源頼義の嫡男、源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って多賀城(国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。
家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、国府も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。
ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまうのである。
真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ清衡と家衡に分与した。清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が与えられたのではないかとされるが確証は無い、らしい。
ところが今度は清衡と家衡が対立し、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるが、清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗する。
義家は自らの裁定による奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し、清衡を支援する。9月に朝廷は義家の次弟義綱の陸奥国への派遣を協議したが、事情聴取は行われたものの義綱の派遣は実現しなかった。
清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。

 

武貞の弟である清原武衡は家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。
寛治元年(1087年)7月、朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定。8月には義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向し、9月に朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪した。同月、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。
だが、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した[武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。秋口に始まった戦いが終わったのは11月(1087年12月)であった。

 

これを朝廷が義家の私戦と見なしたため、義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なかった。しかし、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の基礎となったといわれている。
戦役後、清衡は清原氏の旧領出羽と陸奥のすべてを手に入れることとなった。清衡は、奥州平泉に拠点を築き、実父である藤原経清の姓藤原に復すこととなり、清原氏の歴史は幕を閉じた。

 

この「後三年の役」に、則任(由来)の名が見えるのは、わずかに<白鳥村>だけであった。この白鳥村は、前沢の南、東に北上川を望む白鳥川河畔に位置する。ここに、安倍頼時の子白鳥八郎行任(則任)の館があったという伝説(ここでは「貞任の遺児」ではなく「頼時の子」=貞任の兄弟になっている)は残っていた。しかしそれが、いつのことか定かではないし、九州へ流されたとか茨城へ行ったとか様々な情報があって、その消息を追うことは出来なかった。

 

もうひとつの手がかりは「則任の孫、小太郎季俊(季任の子)が文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏と源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」という記述である。ただし、これは「後三年の役」の百年後のことであるから、その間のことはまったく分からない。
十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。

 

(この作業の途中、安東氏の歴史について関連の書籍があることを知った。いま古書店から取り寄せている。次はこれを読んで、安東氏という謎の一端を解き明かしてみたい。)

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