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2023年12月15日 (金)

「北のまほろば」と「安東氏」という謎(その1)

津軽半島の西に十三湖という岩木川他数本の川が流れ込む汽水湖がある。昔、ここを拠点に北海道からオホーツク、沿海州にかけて交易で活躍した豪族「安東氏」がいたという。
だが、この「安東氏」、どこから現れたものか、また何故、忽然と消えたのか?
学生時代、国史専攻の友人が、研究テーマにすると言っていたので、覚えているが、この「安東氏」については、十三湊で繁栄した痕跡が途絶えたあとは、追いかけようもないと思って失念していた。

 

 

この間、TVをつけたら司馬遼太郎の「街道を行く」の新シリーズの中の「北のまほろば」(1994年1月取材旅行)をやっていた。
「街道を行く」は何年も前に全43巻を読んでいる。
この41巻目にあたる「北のまほろば」は、青森県を取り上げたもので、縄文時代の(本が書かれたのちに発見された三内丸山遺跡について番組は詳細を説明している)この辺りの人々の、主に狩猟採集で暮らす生活は豊かで、奈良朝の人々が大和を国の「まほろば」と呼んだものに匹敵する、いわば「北のまほろば」とも言うべき環境ではなかったかという話から始まって、この地方の歴史を下るのだが、TVをつけた時にはすでに中世に差し掛かっていた。

 

画面には、十三湊と蝦夷地、樺太に沿海州が描かれた地図が出ている。
津軽半島の真ん中あたりに日本海に面した大きな汽水湖があって、それと海を隔てる細長い陸地に十三湊はある。
ここを本拠地に、オホーツク海を取り囲む、いわば環日本海とも言える地図の界域を交易の場にして活躍した有力豪族に安東氏がいた。番組では安東氏の盛衰を物語る。

 

ところが、この安東氏はある時から先、忽然と歴史の表舞台から消えてしまうのである。いつだったか、津波に襲われ、一夜にして滅んでしまったという噂を聞いたことがあったが、これはかなり後になって進んだ十三潟周辺の入念な発掘調査によって、根拠がないことがわかったらしい。と言うことまでは何故か覚えていた。

 

僕がこの安東氏について知ったのは、今から五十年以上前のことだった。
大学の同じ学科に井手有記という国史専攻の友人がいた。
入学したての頃、ある事情があっていち早く仲良くなった友人である。井手君は長崎県五島列島のある島で生まれ育った。多分中学生ぐらいの頃だろう高校教師をしていた母親が病死、それで両親とも失った彼は、兄弟三人、親戚を頼って九州の西から北海道の最北、紋別に移住するというまるで山田洋次の映画のような少年時代を経験していた。
隠れキリシタンの土地柄なのだろう、彼はカソリック教会が運営する学生寮で暮らしていた。
余談だが、面倒を見ていたのはカナダ人のエノー神父で、エノーさんは大学でフランス語を教えていて、僕らもその教室の学生だった。その後僕は就職した会社で秋田市から東京に転勤したが、しばらく経って、神父が東京の教会にも出入りしていると教えてくれる人がいた。だが機会に恵まれず、
会えずじまいだった。

 

この井手君が、ある時、「津軽といえば安東だ。だが、この安東については、どこからやってきてどこへ消えたものか、さっぱりわかっていない。歴史の研究課題として、実に興味深い。」というのである。「北のまほろば」など影も形もないときである。おそらく自分でやってみようというつもりがあったのだろう。僕は津軽と言えば、この地を治めた十万石の津軽氏ぐらいしか思い浮かばなかったから、ほうそんなこともあるのかと、感心しているばかりだった。

 

井手君は、時代小説も好きだったようだ。ある時、自分が読んだばかりの「竜馬が行く」全五巻を持ってきて、「読んでみろよ、面白いぞ」と言っておいて行った。司馬遼太郎は、初めてだったが、読み出したらやめられない。三日間読み続け、終わってしまうのが惜しかった。余韻を味わっているうちに覚えた最後の一行はいまでも暗唱できる。

 

竜馬が京の宿で襲われ倒れた後、
「・・・この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」というのである。
他にも何冊か持ってきてくれたが、この時まで、時代小説には、家で定期購読していた「オール読物」の中の短編をたまに読むだけで、あまり縁がなかったのだが、山本周五郎や藤沢周平など何の抵抗もなく読み出したのもこの頃であった。

 

番組では、十三湊の後、話題は津軽藩がコメという南国の作物にこだわったために度々東北特有のケカチ(冷害)に襲われ困難を極めたことに変わった。安東氏の話題は変わったが、井手君の言っていたことを思い出したりして、その後安東氏はどうなったのか気になりだした。

 

「北のまほろば」では、安東氏の十三湊がどんなところだったかを次のように想像している。

 

「十三湖の南は、砂浜である。七里長浜が、鰺ケ沢までつづく。帆船で航海する者の側からいえば、十三湖は湾口が小さく、なかがひろい。投錨地として魅力的だったはずである。またこの湊の支配者からみると、海をへだてて北海道や沿海州に近いという利点がある。近世以前の日本は、北方世界からみれば鉄器を産する国として印象づけられていた。もし彼の地に縫い針や刀剣などを運び、彼の地から海獣の毛皮や鷹の羽などを入れれば、利があるはずである。さらには中国の陶磁器などを輸入すれば、日本の中央に──贅沢品ながら──大いによろこばれる。

 

つまりは、北方での海上王国を築くことができるのではないか。げんに、往古、十三湊にはそういう勢力が存在していたらしい。ただし文献が乏しい。
わずかに鎌倉末期ごろのことか、この湊について、「夷船京船群集し」(『十三往来』)と、表現したり、また室町時代の文明年間(一四六九~八七)のものかと思われる『廻船式目』に、津軽の十三湊が、「三津七湊」の一つである、とする文献がある程度である。

 

日本史は他のアジア諸地域にくらべ記録が多い。しかし十三湊は、記録の上では、ほとんど沈黙してきた。名としては、平安末期にあらわれる。栄えたのは、十四世紀から十五世紀が中心で、室町末期に衰退したらしい。この海港を栄えさせた勢力の名は、安藤(安東)氏ということは、たしかなようである。安藤氏がたしかに存在したことは、間接的な文献によってわかっている。やがてこの豪族は内訌によって衰え、室町末期に成長してきた南部氏にほろぼされる。同時に、十三湊の繁栄も、おわる。繁栄がおわったというのは、継承すべき新興の南部氏が海事にうとかったという側面も、想像できそうである。」(「北のまほろば」「十三湖」)

 

つまり、「北のまほろば」によれば、安東氏についてはほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたということだった。

 

僕は、十三湖には、もう何十年も前になるが、特段の目的もなく車で行ったことがある。
細長い砂の道に、風よけなのか幅の狭い背丈ほどの板を並べた塀が続いており、その風雨にさらされて白骨のように痩せ細った板の間から、向こうの砂丘が透けて見えるのが、心細く最果ての地に来たという気にさせたものだった。
民謡「十三の砂山」は「十三の砂山 米ならよかろな 西の弁財衆には ただ 積ましょ」と歌っている。米などとれるところではないと嘆いているのだろう。
むろん、その砂の下にかつての繁栄の遺構が埋まっていることなど気づきもしなかった。

 

安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」
と想像している。
むろん消滅したと言ってる以上安東氏についての記述はそこまでで、話題は変わってしまった。

 

安東氏の一族が移転したのは、「出羽の庄内か越前の敦賀」というのに何か根拠があったのだろうか?

 

司馬遼太郎が「北のまほろば」の取材旅行をしたのは1994年12月のことであった。あるいは、そこが日本海を往来する北前船の寄港地という関連を想像しただけのことだったかもしれない。
このことは、まだ、日本史の体系が個別地方の歴史を組み込んで編纂するには早すぎたと見えて(司馬遼太郎の耳に到達していなかったことがそれを物語る。)実は、このとき日本史としては、庄内でも敦賀でもなく、出羽の秋田に安東氏の裔が現れることを認知していなかったのであった。

 

 

その前に、そもそも安東氏はいつを起源として、何故十三湊を拠点としたのか? その出自は何処にあったのか?

それには、大和朝廷が畿内を中心に国を統一しようとしていた時代における東北地方の様相を知る必要がある。

 

「北のまほろば」で司馬遼太郎は、東北地方、つまり「陸の奥」について次のように記述している。

 

「七世紀の大化改新で、それまで諸豪族の私有だった土地・人民が、国家のものになり、公地・公民になった。同時に全国にはじめて国郡の制が設けられた。  大和政権にとってほんのそばの大阪湾にうかぶ小さな淡路島が「淡路国」という一国とされる一方で、不均衡にも、いまの福島・宮城・岩手・青森という四県が、広大な山河をもちながら、わずか一国の名でよばれるようになった。陸奥の語感の重々しさはその広大さにも由来している。」(「北のまほろば」)

 

律令国家が出来上がる頃、瀬戸内に浮かぶ淡路島は一国と見なされたが、それに比して福島から先の「道の奥」と呼ばれた広い東北の地域は実態もよく分からないままに一国とされたのである。そこは蝦夷と呼ばれるまつろわない民やアイヌ、その他の民族もいたに違いない。要するに、存在は確かだが誰もそれを詳細に報告するものはいなかったのだ。

 

以下は、僕が調べたことで、「北のまほろば」が縄文時代の北東北なら、この地域のそれに続く歴史の開明期である。
おそらく最初の記録が現れる「日本書紀」によると、景行天皇の時、その在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣して、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。
景行天皇とは、大和武尊(ヤマトタケル)の父親とされる人物だから、神話の中にいる。
実在したなら考古学上、四世紀(300年代)である。この天皇は九州地方にいた熊襲・土蜘蛛といった抵抗勢力を征伐したというから武人であっただろう。
武内宿禰の報告は、「東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国がある。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし」というものであった。

 

この時代区分で言うなら古墳時代にあったという日高見国については、存在したとすれば、少なくとも数百年の間、広大な地域で比較的豊かな暮らしをしている異質の人々がいたということになる。これは陸路をたどって得た見解であろう。

 

一方、日本海は、海が穏やかで、自然の良港も多く海路はおそらく先史時代から開けていたに違いない。
「日本書紀」には、武内宿禰から約三百年後の斉明天皇(七世紀、女帝、蘇我氏全盛の時)の時代に、越国(こしのくに:いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。
 「斉明天皇四年(658年)四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ)・淳代(ヌシロ)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラに入港し、上陸した」。
この顎田・淳代は、おそらく土着の名で、のちに発音しやすくあぎたはあきた=秋田に、ぬしろはのしろ=野代に変えたものであろう。(野代はのちに、津波に襲われ、土地が野に変わったため、能く代わることを願って、表記を変えた)
この二つの土地はのちのち安東氏の謎と交錯することになるが、いまはまだ古代の歴史の中にある。
エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民であったから、首長のオガは、比羅夫の前で、誓って言った。
 「自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神(古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう」と。
 阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロとツガルの二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。
日本書紀には、その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと記されている。
その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。
ところで、「古四王(古志王)」神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が海を渡って、日本に移り住んでいたという。その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。
この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本への移住者のことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶが、日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。
阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。
660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。
しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたといえる。
その後、ミシハセの子孫である靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島の高句麗に進入する。北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者はミシハセと呼ばれるが、高句麗に移住した者がはマツカツと呼ばれた。

 

「北のまほろば」の中に、面白い記述がある。
「ある日、津軽人の子の今東光さんをつかまえて、珍説をのべたことがある。奥州における金・今姓の由来についてである。  
ひょっとすると、遠いむかし、沿海州や吉林省・遼寧省などにいた騎乗の狩猟民族が、自民族のことを、誇らかに黄金とよんでいたことと無縁ではないのではないか、ということである。  
東光さんはしばらく我慢して聞いてくれていたが、やがて、 『エーエ、あたしゃ、どうせ靺鞨女真の徒でござんすよ』と、絶妙なまで話の腰を折ってしまった。“靺鞨女真の徒”というのは漢文の世界での一種のフレーズで、野蛮で未開の連中というひびきがある。」

 

この靺鞨のことである。
663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。
 渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞=粛慎(ミシハセ)がすでに移り住んでいたから、親しみと安心感を抱いたのであろう。
 このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアのツングース族をルーツとする者とが共存していた。
その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。
前にも述べたが、この日高見国の名は日本書紀の景行天皇(四世紀)の時代にすでに記されている。そののち平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏した(『日本紀略』)とあって、この国は少なくとも五百年の間続いたことになる。このとき、日高見国が独立宣言でもして抵抗運動を繰り広げてでもいたら、東北地方は、英国におけるスコットランドになっていただろう。ただし、こののちも、朝廷に対する抵抗は散発的に行われ、約二百年後にあった抵抗の戦が産み落としたものとして安東氏が登場するのである。

 

(続く)

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