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2023年11月21日 (火)

劇評「蜘蛛女のキス」(05年)

Kumoonna 

ウイリアム・ハートがアカデミー賞(主演男優)をとった映画で知っていた。20年以上も前の作品だ。たまにテレビで彼がそれらしい格好ででているのを見かけて、なるほど当時いろいろあった賞を総なめにした「演技」だわいと感心した。感心しただけで、まともに見てはいない。同性愛ものは嫌いだからだ。

これだけ長い年月のうちに、たくさん情報が入ってきたからだいたいの話は知っている。マヌエル・プレグの原作も評判だった。南米といえばガルシア・マルケスに代表される幻想的な小説を思い出すが(ほこりっぽくて嫌いだ。) 全編会話体で読みやすく、主人公がゲイであることも気にならないという人が多い。小説を読むほうがいいらしい。ゲイの何であるかよりも、ラテンアメリカというものがわかるかもしれない。いや、ますます理解できなくなるか。ただし暇だったら。


 

なぜ、嫌いなものを見る気になったかというと、今村ねずみである。「ザ・コンボイショウ」で驚いて、以来Yがひいきにしている。今村は若い頃「夢の遊眠社」にいたが、野田秀樹に見る目が無かったせいで、一度も舞台に立つことなく二年で劇団から去った。ビートたけし(なぜかヨーロッパだけで評判の)映画監督)僕は一本だけ見て、こいつは才能ないやと見限ったが)兼(日本では一応)コメディアン兼大学教授(!)が、芸人たるもの一度は見るべきと絶賛した舞台を創り出した偉才であった。野田なんかのところでぐずぐずしてなくてほんとによかった。それからずっとストレートプレイには縁がなかった。ようだ。

 

「コンボイショウ」を見たらわかるが、あれは体力がいる。企画力も、メンバーを束ねる統率力も、(二十年続けてきた)持続力も必要だ。上大岡の化粧品店の二階で出演者より少ない観客の前で「コンボイ」を始めた二十歳代の今村も、いまや50歳を目の前に迎えている。そろそろ新しいことを考えても誰も文句は言わないだろう。

というわけで、今村ねずみのストレートプレイデビューを見に行ったのであった。
結論から言えば、はじめからこんな難しい役どころをやろうとしたのは最悪の選択だった。むろん今村だけが悪いわけではない。この芝居をまったく理解していなかった演出の松本祐子がA級戦犯だろう。あの役は、ほうっておけば「泣き」芝居になるに決まっている。素人同然の(少し大げさに言えばだ)役者に台本を渡して、書いてある通りに読ませた。演出は、ゲイとはこんなものだろうと当たりをつけていたのだろうが、今村もそれに応えてその「こんなものだろう。」という表現を作り出した。

 

結果、作り声に一本調子の泣き芝居の平板退屈えせゲイ役者が出来てしまったのだ。松本祐子もいっぱしの演出家だというなら、横面ひっぱたいて作り声はやめろというべきだった。ウイリアム・ハートのアカデミー賞演技を見せて、振り付けしてでももっと人間としての奥行きを見せなければいけなかった。ゲイは特別の人間ではない。そしてとりわけ女ではない。
最後まで見る気になったのは、二つの理由からである。
一つは何といっても、原作のストーリーテリングの面白さである。演出は、何もしないでこの話の展開に寄り掛かった。
冒頭、モリーナ(今村ねずみ)がバレンティン(山口馬木也)に一方的に語り始める映画の感想が興味深い。最初は今村の語り口にうんざりしていたが、どうもしゃべっている内容は筋がいいらしい。何本か話題にしたが映画の批評として的を得ていることは、その映画を見たこともない僕にもわかるのだ。モリーナの鑑賞眼を見るとその知性が、ゲイであることと関係なく、意外に高いことに気付かされる。

 

政治犯バレンティンと少年に手出しをした罪で8年の刑を食らったゲイが同じ獄房で送っているという不思議は、まあ、そこがラテンアメリカとあいまいに理解した上で、その理由である、権力がバレンティンの反政府組織の情報をモリーナを通じて手に入れようと画策しているらしいことが次第にわかってくる。
最初はゲイを拒絶したバレンティンがモリーナとことごとく対立する。しかし映画の話を聞くともなしに聞き、生い立ちや母親の話に耳を傾けているうち、バレンティンはゲイのおしゃべりに耳を傾け始める。

あるときバレンティンが猛烈な発熱と下痢に襲われ、止まらなくなる。当局の陰謀であった。ついに失禁したところをモリーナに見られるが、モリーナは献身的にバレンティンの世話をする。熱は下がらず、食欲もないままベッドに横たわっているバレンティンを慰め、母親からの差し入れの果物やスープを与えて看病を続けるモリーナ。バレンティンはこの根源的な優しさに触れて、急速にモリーナに心を開いてゆく。


 

権力側は、親しくなったモリーナが、バレンティンたち反政府組織に協力を誓い、バレンティンがその申し出を受け入れてくれることを望んでいる。
病気から立ち直ったあたりで、ついに二人はベッドをともにする。
この後はいつモリーナを釈放することにするか、タイミングは微妙である。バレンティンが外の仲間と連絡をとりたいとモリーナに頼めば、それをたどって仲間を一網打尽に出来る。果たして釈放寸前になってバレンティンは仲間との連絡方法を耳打ちするのである。

こういう話の流れが起伏に富んでいてスムースであり、裏にある権力の意図も透けて見える緊張感が厭きさせない。それだけを考えれば、なぜモリーナはゲイでなければならなかったかという必然性が疑わしい。女であることは常識的にあり得ない。男であったなら、こういう友情が成立しやすいことは想像できる。しかし、マヌエル・プレグはあえてモリーナをゲイに仕立てた。モリーナの中にゲイの本質があるといわんばかりに。


 

僕の持続力を支えたもう一つの理由は、山口馬木也である。この俳優はどこから出てきたものか、はじめて見たが、第一声を聞いて「うまい!」と思った。モリーナに比べれば遥かに楽な役どころだが、それにしても僕にとっては無名の若い役者がこれほどやれるとは驚きだった。声がいい。せりふを十分咀嚼した上で吐かれる低音の声が良く響いた。松本祐子の演出がここで働いていたかどうかはわからない。ぼくには彼が勝手に作り出したバレンティン像のように見えたが。背が高くて筋肉質の体格がいい。いかにも男っぽい体つきで、今村ねずみとは対称的のところが芝居の内容にあっている。頬からあごにかけての筋肉のつき方が悲劇的で雰囲気がある。こういう顔はゲイにとってもほおっておけない存在であろう。
この芝居は僕にはバレンティンが山口馬木也だったから、見続けていられたといっても過言ではない。

ところで、最初に同性愛ものは嫌いだと書いた。嫌いだから見ないようにしているのは事実だが、何か偏見があるのか、差別しているのかと思われても心外だから書いておこうと思う。

性愛あるいはゲイの存在については否定の仕様がないと思っている。それを装う、あるいは演技としてゲイを演ずるものを見るのがいやだといっているだけのことである。
この小説は、物語の構造だけを考えればモリーナがゲイでなければならない、ことはない。なぜゲイにしたかといえば、マヌエル・プレグがゲイを書きたかったからに違いない。何よりも彼が精神においてゲイだったからだろう。
だから文学者の責務として同性愛は犯罪でないことを声を大にして訴えたかったのだ。

 

なぜそんな必要があるのか?
カソリックでは同性愛は神を冒涜するものだから、罪悪視され、迫害された。ここのところは僕ら日本人には理解が及ばない。ロバートメープルソープが「ゲイは美しい」と叫んでいたのもこの時期である。エイズが彼らの間にまん延し始めていたことも無縁ではあるまい。つまり、彼らは時を同じくして同性愛の宗教的禁忌からの開放を訴えたのだ。
これには僕らも驚いた。日本でもないわけではないが迫害されるほどのことはない。見て見ぬふりをされるだけのことだ。こういうものに日本は昔から実に寛容な社会で、ことさらのように声を荒げる必要などはない。

信長にとっての蘭丸、南洲にとっての月照、上げればきりがない。日本人は人間には同性を慕う気持ちがあることを十分知っていた。その延長に性愛の問題はあるがそこは霧の中として踏み込まない暗黙の了解があった。女性にしてからが、いまの宝塚を見たら一目瞭然だが、観客の9割5分まで同性である。こんな劇団、世界広といえども日本にしかないだろう。男女のことだって、江戸初期の浮世風呂は混浴だった。日本社会がなぜ倫理においてこれほど特殊なのかは学者にでも聞いたほうが早いと思うが、とりあえず同性愛だからといって監獄にぶち込まれるようなことはないのは幸である。「処女懐胎」といい、キリスト教がいかに妙な考え方をその中に持ち込んでいるかわかるというものだ。

 

僕にとっては、誰がゲイであろうとどうでもいい話で、日常的なつきあいに支障がなければ関心の外である。しかし、そういうものを誰かが演じる、うそにつき合わされるのはごめんなだけのことである。
セクシャリテの現れ方(社会的に編制されたジェンダーと排除の問題)、フィジカル=メンタルな性の問題について、もう少し踏み込んで書きたいこともあったが、この芝居に関連させるのは無理なので、またの機会にしよう。
今村ねずみのストレートプレイデビューを称賛したかったが、どうにも役が難しすぎた。こういうものを企画したプロデューサーにいっておくが、デビュー作は喜劇の方が圧倒的に成功確率が高い。今村は、もともと少し静的で、ともすれば暗くなりがち、やや線が細い。大勢でわいわいやれるコメディを選んで、もう一度やり直したらどうか?


 

(2005年10月14日)

題名: 蜘蛛女のキス
観劇日: 05/9/2
劇場: アートスフィア
主催: FTV・アートスフィア
期間: 2005年9月2日~9月11日
作: アラン・ベーカー (原作)マヌエル・プレグ
翻訳: 常田景子
演出: 松本祐子
美術: 二村周作
照明: 小笠原純
衣装: 北村道子
音楽: 井上正弘
出演者: 今村ねずみ 山口馬木也

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