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2023年10月23日 (月)

劇評「友達」(04年)安部公房

Tomodati この作品は、昭和四十二年青年座初演である。僕はこの奇妙な芝居の評判を新聞で見たのを覚えている。
ある日突然独り者のアパートへ八人もの家族が訪ねてきて居座ってしまう話ときいた。そのころ、田舎の高校生(浪人か?)だった僕には、都会とはそんな闖入者があっても不思議ではないところというイメージがあった。
東京オリンピックが終わり高度成長が始まっていた。翌年出た羽仁五郎の「都市の論理」が何故か売れに売れた。「都市ゲリラ」という言葉もあった。「都市」はその当時の思潮を表すメタファのひとつだったのだ。背景には、産業構造の変化による暮らし方の急激な変化があった。隣同志が名前も職業も知らないのが都会ではあたりまえになった。農村型の顔の見える共同体が解体し、孤立した個人の出現という新しい時代を迎える空気は存在した。戦後の民主主義は法的な個人を保証し、文学や思想に強い影響を与えた実存主義は自他を峻別する主体論を掲げた。

 

しかし、この個人という言い方にはどこか居心地の悪さがあって、頭で分かっていても実感に乏しかった。何故居心地が悪いのかといえば、個人の自由を束縛する「世間」というものが僕らの周囲にも心の中にもあったからだ。実態は名も知らぬ他人の集まりでその中心は雲をつかむようなものだが厳然として存在する共同幻想である。
「世間」は「個人」と対峙した。個人とは時代を変えようとする意志であり世間はそれを阻止しようという旧勢力の喩えであり、その対立の象徴が「都市」のイメージであった。個人は自分の中にある世間とさえ闘ってこれを追いださなくてはいけなかったのである。

 

僕らは今日、不祥事を起こした会社や病院や警察、行政府の責任者がテレビカメラに向かって深々と頭を下げる様子を大変よく眼にする。あれは被害者ではなくて「世間」に対して謝っているとの暗黙の了解がある。世間の代表のような顔をして撮っているマスコミも、しかし代表づらなどしようものなら世間から逆襲をくらうということになっていて、一体誰が「世間」なのかまことに分かりづらい。
とりあえず「世間」に向かって「お騒がせした」事を謝罪する。するとそれはおさまるというわけである。
こんなことは日本だけのことだ。外国なら被害者に謝ればそれでおしまい。「世間をお騒わがせする」という考え方は恐らく理解できないだろう。あの頃から既に、というよりずっと昔から日本にはこの「世間」という摩訶不思議なものがあって、遠くから見つめていたり時には寄り添って、幽霊のように取り憑いたり襲いかかってくる存在だったのだ。

 

この劇の冒頭に歌われる唄は「世間」と「個人」の関係を端的に示している。
「夜の都会は  糸がちぎれた首飾り  あちらこちらに  とび散って  あたためてくれたあの胸は  どこへ行ってしまった  迷いっ子  迷いっ子 」

 

個人は独りぼっちのはぐれものだから、その孤独を癒すために愛と友情を届けるのだと八人の家族が、ある男のアパートを訪ねる。男は婚約者と電話で話しているところだった。コートを来てトランクを下げたこの大所帯の家族は止めるのも聞かず強引に上がり込んだ。
父親(嶋崎伸夫)は宗教家タイプの紳士、母親(宮寺智子)は妙な髪形、祖母(東恵美子)は屈託なく穏やかである。長男(桐本琢也)は「頭は切れるが、病身で陰性。元私立探偵。」次男(蟹江一平)は「アマチュアボクサーで新人賞、ギターを抱え」ている。長女(田中茉紗子)は「三十才、男に襲われる夢を持ち続けているオールドミス」次女(森脇由紀)二十四才は「善意を結晶させた様な、清楚で可憐」末娘(山本美也子)は「見かけによらぬ小悪魔」である。
男(横堀悦夫)は商事会社の課長代理、三十一才。出ていけと怒鳴るが父親は善意で来てあげたのだからと平然とトランクの荷物をだし始め、家族も部屋を割り当て食事を作るなど居座わる構えである。手品を見せながら巧妙に財布まで取り上げた。
男は警察を呼ぶことにした。管理人(徳永街子)と一緒にやってきた二人の警官(福田信昭、山口晃)は、実害がないのだから関係者でうまく話し合ってくれといって帰ってしまう。この二人の警官は本物のようなリアリティがあって驚いた。

 

男はアパートで何かが起きていると疑う婚約者(小柳洋子)に事の成り行きを説明しようとするが、後をつけ回す長男に先回りされ結婚について男が逡巡していると吹き込まれる。事情を理解できない婚約者は知り合いのトップ屋に頼んで家族の意図を確かめてもらうことにする。ところがトップ屋は孤独な人々を救済する都会の隣人愛という父親の説明に感動し、自分も参加したいと言い出す始末。
長女が薄暗い部屋で酒をのみながら男に近づき婚約者は長男の手に落ちたかもしれないとほのめかす。そして男を誘惑しようとして上半身裸になったところで突然明りが灯り、次女が現れる。次女は姉の魂胆を見透かして家族を起こすと男が逃げようとしたと告げる。ハンモックに縛りつけていたのだから逃げようがなかったのだが。それ以上に給料は袋ごと取り上げ、退職金の前借りまでさせていたのだから、男に逃走資金はなかった。

 

父親は檻をもってこさして男を閉じこめる。立つ事も寝ることも出来ない。食事は次女が運んだ。しかし、男の病気はよくならない、あなたは謀反人だと言って責める。婚約指輪が長男の手を経て帰ってきた。男にはもはや関心もなければ状況にあらがう気力もない。次女はついに牛乳に仕込んだ薬で男を殺してしまう。
「逆らいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にしか過ぎなかったのに・・・」
終幕、家族がやって来たときのように身支度を整えて、トランクを持ちアパートを去ろうと打ち揃っている。父親が今日の朝刊を広げ主だった記事の見出しや広告を読み上げる。「・・・世界は広い、広くて複雑だ。さあ、元気を出して。みんなが我々を待っているのです。さようなら・・・」
あたかも寄生虫が宿主を食い殺し、新しい寄生先を探して出発するように不気味な笑い声を響かせながら「ただの世間」は去っていくのであった。

 

「劇」小劇場は初めてだった。外観はこんな狭いところで?と思うが膝つきあわせて見るのもたまにはいいものだ。大野泰の装置は幅三尺、高さは足下から天井まであるブラインドで四角い舞台を取り囲むというアイディア賞モノだった。これが自動的に上がったり下がったり、下がったまま開閉したりする。狭い空間で幕のような役割を果たし、さらに瞬時に開閉する機能はそれ以上のことを表現した。広い舞台ではこうは行かない。机の上のノートパソコンも映像を映し出してブラインドの機能性とともにデジタル時代の「友達」とでも言えばいいか、おもしろい効果を上げた。

 

闖入者ということでは同時代の別役実「マッチ売りの少女」を思い出すが、この劇の方が世間というはっきりしたテーマがあってわかりやすいかもしれない。ただ両方とも理不尽なことが起こるという点で不条理劇といっていいだろう。要するにこの時代は日本人の伝統的な暮らし方に実質的な変化が訪れた時期であり、作家の感性の根底には未来に対するさまざまな形の「不安」があった。世代の差以外にあえて二人の違いを言えば、別役が日本共産党の早稲田大学における細胞のひとつに属していたのに、安部公房は文学的発想の根拠をハイデッガーに置いて出発し左翼とは無縁であったことである。
もう一つ違いを言えば、別役の描く世界では「状況」は迫ってくるが中の人間関係は淡泊である。一方、この劇にしても「砂の女」や「燃え尽きた地図」などの小説でも描かれた世界は異常だが印象は案外乾いている。しかし中の人間と人間の関係は濃密で執拗である。若くしてハイデッガーに関心を抱いたという安部公房の感性が作品の中で自己と他者の関係性にこだわり続ける原動力になっていたのであろう。

 

演出の越光照文はこの「関係性」について必ずしも丁寧に描こうとはしていない。父親および母親と祖母は世間の善意の象徴と考えていいが、五人の子供たちの男に向き合う態度はそれぞれ全く違う。知的で狡猾そうな長男、暴力的で酒飲み、ボクサー上がりの次男、屈折していて直情型の長女、禁欲的で清心とみえる次女、早熟な三女と並べれば、作家が何故このようにはっきりと違うキャラクターを用意したのか考えてみたくなる。しかもそれは兄妹という設定である。「ただの世間にしかすぎない私たち」は世間のどんな側面をそれぞれ分担したのだろうか?

 

寓意を詮索するのは作品を狭い世界に閉じこめる俗流という言い方もある。しかしそれは戯曲として読むのなら正しいかもしれないが、舞台では具体的に役者が向きあうのだから関係性の基本設計だけでもあるべきだ。みたところ、戯曲に忠実なのは分かったが彼らが男に示したむしろ「悪意」の理由について得心のいくシグナルが示されることはなかった。
この印象を作ったのは「男」の横堀悦夫が最初とほとんど同じテンションで最後まで通したということが大きい。
大家族の闖入にはもっと怒るべきだった。警官の対応にも同様である。この後いったん状況を受け入れ、次ぎに婚約者とのやり取りで救いがあると考えた心理状態の起伏がもっと大きく表現されていい。

 

トップ屋が家族の善意にシンパシーを感じ、婚約者も去っていくところでタイミングよく、しかし唐突に長女の誘惑があるが、このふたりのかみ合っていない場面もよく分からない。(本自体が中途半端な書き方になってはいるが)次女が入ってきて「逃げようとした。」と言いがかりをつけ、姉の魂胆をけん制するから、どこかよそでも同じことがあったのだろうと思わせる。ところが男の態度はここでもはっきりしない。次第に抵抗を諦め無気力になるなら、そのように表現するべきだ。
こう言う視点は、演出家が始めから男の「告発不可能性」を意識しているからである。男の側から見たら必死に抵抗するはずである。つまり男は告発可能性を信じている。だから男の抵抗が激しければ激しいほどこの劇の「黒い喜劇」と言っている悲劇性が増幅するのではないか?

 

初演当時は石川淳、埴谷雄高、長谷川四郎、三島由紀夫というそうそうたる面々が推薦文を寄せたようだが、これははじめて書かれた本格的な不条理劇という話の構造を称賛したものだと思う。
巨匠夷斎石川淳は「この舞台の世界に起こる事件は地球上の問題だ。」と評したようだが、この大仰なものいいは仲のよい後輩に対する敬意の表現でそれ以上でも以下でもなかろう。
この舞台を見ると、筋書きはいいが、ディテールの表現には問題がないわけではない。例えば唐突に現れる長女と男のからみの部分はもっと書き込まれていなければならない。婚約者との終わり方も曖昧である。また、後半の展開が急で不条理とは言え薬を盛られる理由があまり合理的でない。そんなところに、なんとなく演劇好きの小説家が書いた戯曲という気配を感じる。

 

書くほうは観客などハナから意識していないのだから、演出がしっかりしなければならない。横光照文の演出には上のような不満が残った。
横堀悦夫については既に書いたが、彼はボオとしたところが持ち味で、はじめからこの役には向かなかったのではないか?他に長女をやった田村茉紗子が目に付いた。ただし、メークとかヘアスタイルはあれでいいとは思はない。美人だけに一人浮いて見えた。
この芝居を観て少し立ったある日新聞の死亡欄を見て驚いた。徳永街子が亡くなったとある。プロレタリア作家の徳永直の長女だった。あの日目の前で管理人役の長い口上を聞いたその人は顔色も悪く生気もなかった。よほど悪かったのか。とにかく冥福を祈る。

 

この芝居は青年座の五十周年記念として下北沢の五つの劇場でそれぞれ別の演目を同時に上演したもののひとつである。他は見ていないが、こんなことが出来る劇団が今どきあるだろうか。快挙である。
この機会に青年座のHPをのぞいてみたら、研究生の公演があるというので12月のはじめに行ってみた。演目は永井愛の「萩家の三姉妹」。若い俳優のどこがよくて何が悪いかわかった。いつか感想を書こうと思う。
        
      (2004.12.17)
 

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