映画評「ホッテントットエプロン・スケッチ」(2006年)
昨年5月に見た「眠り姫」と同じスタッフによる音楽演奏+映画の公演である。「眠り姫」は漫画の山本直樹の原作を監督の七里圭が翻案したもので、筋書きを追うというよりは一種の気分、イメージを味わう映像作品であった。本作品は原案(新柵未成)があって、それを映像化したものらしいが、基本的には七里圭の映像文法とも言うべき手法で描かれている。「眠り姫」の方は原作との距離感が今一つはっきりしないところがあって、山本直樹に触発されたといっても、後半次第に思想的な緊張感を欠いて、終いには類型的な映像(グラフィックとしては完成されているが・・・)に逃げてしまっていた。
それに比べると「ホッテントットエプロン」とは実に直截な表現ではあるが、その主題を終始一貫追及するという点では、前作を上回る出来栄えだったと思っている。 里香(阿久根祐子)は、ステーキレストランでアルバイトをしている。アパートでは彼氏と暮らしているようだが、かいがいしく夕飯の支度をしても相手が帰ってこない日もある。女の子らしくビスケットのパッケージがおいてある。一人「森永マリー」を噛む音はぽりぽりと乾いている。あれは油っ気を極力押さえた焼き菓子で、ややもすると粉っぽさが砂漠の砂を連想させるものである。(偶然だが最近僕はこのビスケットを景品欲しさでよく買っている)クッキーではないところが、何かもの言いたげであった。それが現実の里香の生活である。 彼氏との関係は微妙であり、さらに里香は見えないところ=下腹部に大きな痣があることが気になっている。この痣は里香の心理的な瑕疵になっていて、目下のところ、彼女にとってはそのことが重いのだ。何故そんなところに・・・?という問いとそこから逃げ出したいという思いがあふれ出てくる。その切実な思いを交錯させながら里香の心に浮かんだ幻想を映像が追いかける。 山の中の誰もいない朽ちかけた別荘のような建物。白と黒の斑模様からカメラがひくとそこには立派な体躯のホルスタインがいる。自分の身体の痣がこの斑の一つによく似ていてそれを移したものだというのだろう。
里香は家具のない別荘の青暗い部屋の中に閉じこもる。ふすまを外した押し入れの中に自分とそっくりに作られた等身大の裸の人形(関節で折れ曲がる)がすわっている。始めはこの人形を抱きしめ、いとおしいものとして扱っている。それは自分の中にあり自分と一体である。人形と一緒に薄暗い部屋の中に閉じこもっていれば、そこは唯一里香の安心できる世界なのだ。 ところが、人形は自分の問い掛けに応えてくれない。里香は外へ出ようと段ボールで出来た壁をはがしはじめる。繭を破って羽化する蝶のようだ。どんよりと曇った空から雨が落ちている。庭へでてどこかへ行こうとするが、うっそうと茂った木々が行く手を阻んでいた。絹の下着が濡れて身体にはり付いている。濡れたまま再び部屋の中に戻ると真っ赤な毛糸がクモの巣か何かのように下がっていた。それを刈り取り濡れた身体を暖めるようにまといつかせ、ころげまわる。それでも自分がその痣から解放されないと分かると、一転して今度は人形が次第に疎ましくなっていく。もはや人形との戦いである。 戦いに疲れ、ぼう然としているとザクロが転がっているのが目に入る。ザクロにかみつき赤い汁を滴らせ、吐き散らす。ザクロは人間の血肉の分かりやすいモンタージュである。まるで居直っているみたいだ。 気がつくと壁に粘土で出来た斑模様がいくつもはり付いていて、自分が抱えている奇妙な格好にひしゃげた人形の顔にも腹にもべっとりと斑模様が付いている。 夜、段ボールの残骸やら木片を庭で燃やす。人形はもはや生命を失ったかのように片隅に転がっている。朝になって、とんがり帽子のマントを羽織った男が吹いている笛に誘われて、建物を後にする。霧の中をどんどんついていくと、水辺にでた。川岸なのか、沼なのか杭が一本水からでている。何かがゆっくりと動いている重そうな水の中に次第に沈んでいく・・・。
映像は前後するかもしれないがおおよそこのような流れであった。開幕してすぐに「昨日、彼が私のからだを見た」「かくせない痣に怯えてしまった」「母の夢を見た」などのせりふが声とともに字幕(英語も併記)で示されるが、基本的には無声映画である。 思春期の男でも女でも、この種の悩みを持つことは存外普通のことであり、大概はどうにか精神的にやりくりして始末をつけるものだ。自分の顔が気に入らないといってもそのうちに慣れてくるのと同じで、結局身体は自我と分化出来ない、一体となって自らのアイデンティティを形成しているとやがては悟るのである。それは何よりも『彼氏』という他者との関係があって初めて了解できる事柄で、「怯え」とはその関係の始まりに過ぎない。それがどのように展開するかは分からないが、要は時間が解決する。そう言ってしまっては身もふたもないが、我々はそうして生きている。 ところが、この映画の主題はその「怯え」つまり他者と向き合うという関係が「始まらない」場合の、いわば関係性以前の問題なのだ。「彼氏」つまり他者は画面の外にいる。したがって、これは里香の内面の出来事であり、その中で、なによりも里香はひたすら自分の身体が重いのである。痣は一つの契機になっているのだろうが、それがあってもなくても里香は自分の身体を(妙な言い方だが)自分の中から排除(push out)したいと感じている。その第一段階が映像の中の里香であり、第二段階がそこから排除されて完全に外にでた、あの等身大の人形である。映像はこの捨ててしまいたいおのれの身体とはなにかをひたすら問い続ける過程だといってもいい。
現実の里香は、どのみちどこかで「隠れたところの痣」と折り合いをつけて生きていかねばならないが、彼女が迷い込んだ幻想の世界とは一体どのような現実の反映なのか気になるところである。 映像は里香の肉体を、ときには雨に濡れて肌にはり付いた絹布の上からなめるように写し出す。しかし、その映像は乾いている。大人になりかけた若い女の弾力のある肌が見えるといってもその視線は無機的である。この場合、阿久根祐子の身体が健康でなによりも「過剰でない」ところがよかった。エロティシズムを極力排するという作り方は「眠り姫」でも一貫していた七里圭の方法論で、相対する誰かがいたとしてもそれを単に「気配」として描き「関係性」としては捉えないという頑なな意志がある。関係性のないところにエロスは発生しない。 エロスとは相互関係である。相手に対する欲望の際限のない連鎖である。エロスもアガペーもギリシャ以来人間が生きていく上で重要な駆動力である。その大事なものが欠落した世界とはどういうものか。自閉症である。病の一種といえばきつくなるというなら自閉的である。
こういえば、一時期流行った「オタク」の存在を思い出すのだが、「オタク」の精神構造は自我を防御するあまりコミュニケーション失調症に陥ったものといえる。上映された場所が秋葉原だったからといって、この映画がそれだといいたいわけではない。「オタク」は倒錯的で猟奇的な事件がきっかけで大きく取り上げられたが背後には漫画・アニメ愛好者というマイノリティながら社会現象があった。これが何故この時期に生まれ、どんな意味を持っていたかという問題を取り上げた本がいくつかあって、実は僕はこの映画を観ながらそれを思い出していた。 そのなかのひとり東浩紀に従えば、イデオロギーをはじめ経済、社会システムなど近代世界を支えてきたあらゆる領域の社会規範が、70年代以降(ポストモダンと一般的に言っている)急速に有効性を失って(=「大きな物語の凋落」ジャン・フランソワ・リオタール)、その空白を手近にあるサブカルチャー=漫画やアニメの世界、その価値観(=「小さな物語」大塚英志)で補うようにやや神経症的に自我の殻を作って閉じこもる行動様式がオタクである。「小さな物語」とは具体的に「コミケ」で作品が流通するのを見ればわかるが、どこにオリジナルがあるか分からないほど無数のコピー(=物語)が作られることだ。ジャン・ボードリヤールの「シュミラークル」が充満する世界である。つまりオリジナルの権威は失墜し、そこからさらに超越的なものはその信頼を失ってしまう。 このように、オタクはポストモダンの社会状況を背景にしてある意味では必然的に生まれたものであった。 少し飛躍するが、こうした超越性の観念が凋落するポストモダンにおいて、人間性はどうなるのかということについて東浩紀は、ヘーゲル哲学に独特の見解を示したコジェーヴの考えを参照する。
ヘーゲルは欧州が近代に到達した時に「歴史は終わった」と言った。なぜならヘーゲルによると、「『人間』はまず自己意識を持つ存在であり、同じく自己意識を持つ『他者』との闘争によって、絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在だと規定される。ヘーゲルはこの闘争の過程を『歴史』と呼んだ。」したがってヘーゲルにとっては19世紀にこれを規定した時すでに「歴史」は終わっていたのである。これを引き継いでコジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終わった後人間には二つの生存様式しか残されていないという。一つは「アメリカ的な生活様式の追及」、彼の言う「動物への回帰」であり、一つは「日本的スノビズム」である。後者はコジェーヴが日本を訪問したことが契機となって生まれた概念で、興味深いのだが、この際急ぎたいのでそれはさておいて,僕がここで言いたいのは前者の方である。 コジェーヴは、「人間」は欲望を持つが、対して「動物」は欲求しか持たないという。腹がへった動物は食うことによって欲求が完全に満たされる。欠乏-満足の回路が欲求の特徴であるが、人間には加えて別種の渇望である、欲望がある。この欲望は僕が先に述べたエロスやアガペーといったもので、それこそが自己意識を生み、他者との関係性を築く原動力、すなわち人間の社会活動の基礎になるものである。動物の欲求は他者の介在なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。 したがって「動物になる」とは各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまうという状況の到来を意味する。コジェーヴは戦後の米国型消費社会を指して「動物的」と称したのだが、その論理はマニュアル化、メディア化、極限まで合理化された流通システムなど広範に、グローバリゼーションによってさらに世界を巻き込みながら行き渡り、かつてはコミュニケーションなしには手に入れられなかった日常の食事や性的なパートナーまで、実に簡単に他者の介在なしに即座に入手可能になったのである。こうした社会では、人はなにも考える必要がなくなる。「蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散する」世界になると、コジューヴはシニカルに述べている。(以上は東浩紀「動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会」講談社現代新書に全面的に依拠た)
さて、このような時代認識を下敷きにしてこの映画を観たとき、映画の作り手は、いわゆる「アメリカ型消費社会」がもたらした「動物化」が我が国にも十分行き渡っていることを実感しながら作っているという気がした。 里香は彼氏の存在をひとまず括弧に入れて、痣がある-痣がない「つるんとした」完全な身体という自分の中で生まれた欲求(「小さな物語」といってもいい。)の間を往復している。完全な身体という幻想がある限り、それに比較して不完全な身体は重い、いらないものになってしまう。そうして自分の中からけり出した人形に痣が移るが、人形はまた自分であるということによって、永遠に満たされない欲求を追いかけているのである。これは無意味ではないか。いや、この無意味こそ我々の時代ではないのかといっているのである。
「ホッテントットエプロン」とはアフリカで首に輪を巻いて異様なまでに延ばしたり、下唇に木のへらを入れる風習と同列のものだと思うが、身体の一部を傷つけ外観をかえるというのは我々の価値観からいえば異常である。むろんそれぞれ呪術的な意味とか由来はあるのだろう。では「つるんとした」完全な身体に対して「痣」のようにそれは身体の瑕疵なのであろうか? そうではないと言いたげな実に挑戦的なタイトルではある。 ところで、前回たいへんな才能だと書いた侘美秀俊の音楽だが、この作品では効果音に多く使われてまとまった楽曲を聴かせてもらえなかった。せっかく実演と映画と銘打っているのだから、もう少し出番を作ってくれてもよかった。 新柵未成の書いたシノプシスは、非常に長いもので、この作品に使われたのは始めのホンの少しの部分だったと聞いた。僕が感じたことはさておいて、若い才能が、この時代をどのように捉え生きていこうとしているのか、いつかその先を見てみたい。
タイトル ホッテントットエプロン・スケッチ
観劇日 2006/11/16
劇場 秋葉原UDX
主催 愛知県文化情報センター
期間 2006年11月16日~18日
作 新柵未成
原作/翻訳 七里圭
演出 高橋哲也
美術 生瀬愛子
照明
衣装
音楽 侘美秀俊
出演 阿久根祐子 ただてっぺい 大川高広 井川耕一郎
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