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2023年2月 2日 (木)

クロード・レヴィ=ストロースと「焼き海苔」のこと

81zetiy4l_ac_ul640_ql65_僕は学者になろうと思ったことは一度もない。その能力があるかどうかはともかく、一つ事にこだわるなどというのは性に合わないし、キザな言い方をすれば、学者になるには堪え性がなく、色気が多すぎた、と思う。
しかし、ものを考えるのは自分の習い性だと思ったから哲学を専攻した。後になって気がついたが、実はこれは将来がおぼつかない選択だった、それでも他の連中が気にしたように就職先があるかどうかなど一顧だにしなかった。
それと言うのも、中学生で大江健三郎と出会い、その延長でジャン=ポール・サルトルに共感する高校生となり、卒業する頃にはその主観主義に疑問を感じ、大学でモーリス・メルロー=ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。そして学生運動の渦に巻き込まれて消えてしまった芝居を除けば、他のことには気をとられず、その通りになったが、ただし、今でもサルトルに従って「他者は地獄だ」と思っている。僕は密かに今も実存主義者である。
僕らの時は、世の中が騒然としていた割に売り手市場だったから三年で就職先が決まっているものもいた。僕は、なんの見通しもなく、遅くまでぐずぐずしていたが、幸い外資系の食品メーカーに潜り込むことができた。
ここでも僕は変わらなかった。自分の思い通りの仕事をして、それを持続するために会社を辞めた。
何を専攻したかなどその後を決めるほどのものではない。しかし、人にもよるが、10代で何と出会い、何に共感したかは一生の問題となりうる。少なくとも、僕にとってはそうだった、と思う。

 

久しぶりに、ブログを更新しようと思ったのは、サルトルやメルロー=ポンティ、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールらと同世代で、のちに構造主義の祖といわれたレヴィ=ストロースの短いエッセイを集めた本の中の、ある小さなエピソードを思い出したからだ。

 

レヴィ=ストロースはサルトルの主観主義を批判していたから興味はあったが、神話や共同体の研究から数学的な構造論へと向かう世界についていけなかった。あの山口昌男が「フランス人ですら難解」だが「論理をたどっていけば解けてくる」というくらいだから、堪え性のない僕にとって当時「構造人類学」は歯が立たない代物だった。
もう少し言えば、あの小谷野敦がポストモダンを彩った思想家たちをインチキと喝破する中でレヴィ=ストロースを別格において評価しているのを書いたこともあった。
小谷野はこう言ったのだ。「ところで、私がラカンについて書いたことを読んでびっくりした人がいるかも知れないのでいっておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかでもてはやされた「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。その中では文化人類学者のレヴィ・ストロースくらいがまともな学者と言えるくらいだ。ラカンの他、ジル・ドゥルーズ、クリステヴァなどは、文章を論理的に読むことができない。ソーカルは、これら「思想家」の文章の中から、特に訳が分からない部分を抜き出して批判したが、浅田彰とか東浩紀とか、そういう思想家を持ち上げてきた日本の批評家たちは、この問題について何の総括もしていない。」(「日本文化のインチキ」幻冬舎新書)
ソーカル事件についてはもはや笑うしかないが、確かに、今どきポストモダンを引き合いに出して語るものはほぼ皆無である。全くあのばか騒ぎは何だったのか?

 

91ia3v4ksrl_ac_ul640_ql65_学生時代に「親族の基本構造」はダメだったが、「野生の思考」と「悲しき熱帯」は読んだ記憶がある。無論中身は忘れてしまっている。今、僕の本棚にある「野性の思考」(みすず書房)は2016年第40刷で、ボケたのか、なんでだったかすっかり忘れているが、最近読み直そうと思ったらしく、購入したものだ。
この本にはちょっとした思い出がある。
四十年も前のことだ。商品開発を担当していた時に、外部スタッフの若いコンセプトワーカーが米国に出張するので、機内で読むものを何か紹介して欲しいと言ってきた。空にいる時は酒を飲んで寝るに限ると思っているから、小難しい本がよかろうと「野性の思考」を紹介した。何故これだったのか詳細は忘れた。
何日かたって、帰ってきた彼は、感激の面持ちで語った。
「あの本を読んで、どうしても南の島に行きたくなり、米国の帰りに南太平洋行きの飛行機に乗ってしまった。夜、あかり一つない浜辺に寝転ぶと満天の星が降ってくるようだった。」
今になって思えば、失くした何かを探しに出かけたのだろうか。
多田智満子の詩の一節
  「⎯⎯かれは遡って遡って銀河までたどり着き 
  あの微細な星の一つになった 
  信じようと信じまいと 
  夜になれば川は満身に星を鏤める」(「源」より)
と同じ風景をみていたのかもしれない。あの川は、海のように広い岸辺の見えない河だから。
ともかく、命の洗濯をしたと言わんばかりで、僕の数少ない善行の一つと思って記憶している。

 

長々とレヴィ=ストロースについて書いてきたが、紹介したいのはほんの少しのことである。
ここに書いたのは、それを紹介するためだけの文に過ぎない。

 

そう思ったのは、最近、先崎影容の「真・富国強兵論」という文藝春秋(創刊100周年二月特大号)にしては比較的長い論文を読んだからかもしれない。
明治期になぜ富国強兵だったかを論じ、今またわが国独自の戦略としての富国強兵を唱えるというものだ。
プーチンは、欧州の価値観に対抗してかつて300年も続いたロシア帝国の誇りを取り戻すつもりの戦争を仕掛けた。習近平もまた、かつての帝国の威信を回復させようと欧州の価値観に与しないと主張している。帝国の記憶というものは、霧のように跡形もなく消えてしまったモンゴルのように、いつになれば人々の脳裏から消えてなくなるのであろうか。
明治期の富国強兵は、欧州の思想に学びその国家システムを引き写しに継ぎ足した。我が国には、しかしその根元があった。今、その国柄というものを忘れるべきではない。そして、この国が培ってきた国柄、いわば「思想」もまた国家戦略として有効ではないか、というのが先崎影容の主張のように見える。
自然科学ばかりに注目し予算を投入して、先崎のいる人文科学を蔑ろにしていると、こうした国家論などそのうち根元から腐っていくのではないかと心配である。

 

さて、レヴィ=ストロースの小さなエピソードというのは、彼が、晩年、「日本料理がすっかり好きになり、日常の食事に、海苔としかるべきやり方で炊いた米をとり入れた」(「月の隠れた面」エッセイ集「月の裏側 日本文化への視覚」所収)と言っていることである。
この部分、訳者の川田順造博士が「注」をつけている。
「フランス式に熱湯に米を入れて煮るのではなく、水から炊く日本式の「ご飯」に訳者の定期的に補給していた焼き海苔を添えたものは、著者の大好物だった。このシンポジウム(「フランスにおける日本研究」1979年10月)の17年後、著者の88歳「米寿」を祝って、次男マテューは日本製の電気炊飯器を贈り、以後満百歳で亡くなる直前まで日本式ご飯と日本製焼き海苔を食卓に欠かさなかったと、モニーク夫人も追想していた。」
ご飯が好きになったことに続いて述べている。
「日本で山菜料理から懐石料理にいたるあらゆる種類の料理を味わい、料理人と長時間にわたって実り多い対話をして、全く独創的な何かがあると思いました。日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛り付け、それをどう混ぜ合わせるかは食べる人の選択に任されています。これほど中華料理から遠く隔たっているものはありません。」
レヴィ=ストロースは、未開人が持っていた、有り合わせの材料を細かい差異を利用して、本来とは別の目的や用途に利用しようとする思考方法を近代人が失っていると考えた。この「ブリコラージュ」こそ、理性と感性を融合した「野生の思考」であり、日本料理の中にさりげなくそれを見ていたと思われる。

 

「美術と料理の間に、少なくとも二つの変わらぬ特徴を認めることができるように思います。まず簡潔さに表れた健康な道徳と精神で、独立主義、分離主義ということができます。純粋な日本の伝統的グラフィック・アートも純粋な日本料理も、混ぜ合わせることを拒否し、基本的な要素を強調するのです。当たっているかどうかわかりませんんが、中国の仏教と日本の仏教の違いの一つは、中国では同じ寺院の中に異なる宗派が共存しているのに対して、日本では九世紀から、ある寺院は天台宗だけ、ある寺院は真言宗だけという具合になりました。しかるべき分離を保とうとする努力が他の分野に現れた例です。しかしまた、日本人には並外れたやり方で手段を節約するという性質があります。これが日本の精神を本居宣長⎯⎯彼は今回のシンポジウムで何度も引用されました⎯⎯が言うところの「中国の仰々しい饒舌」に対立させています。この手段の並外れた節約によって一つ一つの要素が複数の意味を持つようになり、例えば料理では、一つの食品が季節感を出し、美しく盛り付けられ、味とは別に独特の食感を楽しませてくれるのです。」

 

さて、レヴィ=ストロースがご飯と焼き海苔が好きだったという話は、微笑ましいエピソードと受け止め、彼にいささかの関心を持っていただけたら幸いである。
新・富国強兵論に触れたついでに、同じエッセイの中に興味深い一節があったのでそれを紹介して、この短い文を締め括ろう。

 

レヴィ=ストロースは日本の鋸や鉋の使い方について。「私たちがやるのとは逆方向に、遠くから近くへと、対象から主体へ向かって使うという事実」に驚き、多様な分野で遠心的な動きに求心的な動きが対置され自分に戻るという驚くべき能力が発揮されて」といっている。
「・・・そして丸山眞男さんの名著「日本政治思想史研究」(1952年)を読んで、明治時代の初めに、日本が西洋と対等になろうとしたのは、西洋に同化するためではなく、西洋から自分をよりよく守るための手段を見出すためだったということがよく理解できました。」
「想像をたくましくすると、私は明治時代に日本で起こったことを、その一世紀前の1789年にフランスであったことに比較してみたくなります。なぜなら明治は、封建制(厳密な意味での封建制ではありません。この問題についてはこのシンポジウムで極めて的確な見解を聞かせていただきました)から資本主義への移行の時期でしたが、フランス革命は瀕死の封建制、そして有産階級の役人とわずかばかりの土地にしがみつく農民たちが生み出しつつあった資本主義、この両方を破壊したからです。もしもフランス革命が上から、王に対抗するのではなく王によって⎯⎯封建制の中で継承された特権を貴族から取り上げるが、富には手をつけないというやり方で⎯⎯行われたとしたら、貴族だけがあえて手を出していた大きな企て(資本主義)が飛躍的な発展を遂げていたかもしれません。十八世紀フランスと十九世紀日本は、国民を国家共同体に同化させるという同じ問題に直面していました。1789年の革命が明治維新のようなやり方で進行していたら、おそらく十八世紀フランスはヨーロッパにおける日本になっていたでしょう。」

 

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