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2022年12月 6日 (火)

「赤い鳥の居る風景」(2006年9月)

Akaitori 木山事務所の公演を見るのは「桜の園」(01年6月俳優座劇場)以来5年ぶりのことだ。だいぶ前に多少縁があって以来気になっていたが、見たいものもなくて足が向かなかった。どういう風の吹き回しか新国立劇場でやるというのでYが選んだ。
記憶をたどって並べてみれば、出し物にこれといった一貫性を感じない。チェーホフから川上音二郎、直近では「はだしのゲン」が当たっているようだ。幅が広いといえばそうでもあるが、老舗の割には印象が薄い。自前の劇団の俳優にも本田次布や林次樹などの達者なベテランもいるが、看板の広瀬彩がいつまでもお姫さまで、いまいち吹っ切れていない。たまにチラシを見ながら、いろいろな意味で歯がゆい思いをしていた。

 

そして今度は別役実である。これまでプロデューサーに徹していた木山潔自身が「満を持していた」かどうかは知らないが演出をする。しかも韓国まで持っていったらしい。自信作と見るべきだろう。しかしまあ、今ごろになって別役かねえ。終盤、なにもなかった舞台に刑務所の壁が立ち上がると、それをきっかけに考えていることが分からないでもなかったが、時代を捉え損なっている、つまりずれているという感じは否めなかった。

 

そもそもこの作品は、「マッチ売りの少女」と同時代に書かれているからすでに40年近くたっている。いかに不条理劇とはいえ、この劇は特にイデオロギーの対立という作家の心性の土台にあるものが消しがたく残っている。時代がほのかに立ち上って来ることから逃れられない。
40年前も「家族」は崩壊しつつあった。しかし、その家族は「戦前の」家族であった。40年前も権力は人々の上に不気味な影を落としていた。しかし、その権力はいまもっと複雑になって見えにくく、しかも「資本の猛威」となって質の転換を成し遂げてしまっている。何かを表現する者ならその「いま」と向き合ってもらいたいものだ。

 

それはともかく、とりあえず客席から傘を差した大勢の弔問客が現れ、舞台に整列するところから幕が開く。
中央に置かれた二つの物体から黒い布が取り去られるとそれは棺桶であった。正面に盲目の女(広瀬彩)とその弟(長谷川敦央)が立っている。脇に町長さん(内山森彦)がいて葬式を取り仕切る風である。雨が降っている。参列者はうなだれて声もない。いかにも寒々とした光景である。亡くなったのは姉弟の両親で、自殺したらしい。
町長が焼香の順番を学校の先生に(岩下まき子)に確かめ儀式は始まる。叔父夫婦(本田次布・橋本千佳子)、近所の雑貨屋の夫婦(林次樹・菊池真理子)と進んでいくうちに大きな旅行鞄を提げた男(吉野悠我)がやってくる。男はお参りをさせてくれと近づき、さりげなく両親に金を貸していたという。「ほんの僅か」といいながら返せというわけでもない。不気味な迫り方である。姉弟は警戒し始める。するとそこへ、向こう七か町村が合併してできた「委員会」からきた男(内田龍麿)が現れ、両親の死因を調べているという。はっきりしたことが分かるまで、旅行者の男の身柄を拘束するという。男は、両親の亡骸とともに委員会のもとへ連れ去られることになる。

 

姉は、かなり昔その男が訪ねてきたことを思い出した。両親は子供には隠しておきたい態度がありありだったことを記憶していた。何かの都合でお金が必要だったのだ。
町の人々は委員会が主催するカーニバルが行われている町へやって来る。捕まっている旅行者の男が姉のところへやってきて、自分の孤独な暮らしや、何故高利貸にならざるを得なかったかなどを話し、しまいには自分と結婚してほしいという。そうすれば金を返すこともなく、暮らしは楽になるはずだというのである。姉は、その申し出をことわり、借金は自分と弟で何とか返していくことを誓うのであった。

 

カーニバルで沸き立つ街の中を何故か死刑囚が看守に引かれていく。そのコントラストに人々は驚く。いったい「委員会」とは何なのか?
弟は会社に勤めることになった。姉に勤め先での出来事を話す弟はあくまでも快活に見える。ところが弟はもう十日も会社にいっていないことを姉は知っていた。そんなある日得体のしれない若い女(田中貴子)がやってきて、弟がどこか遠くに自分を連れて逃げてくれと頼んだという。
弟は会社に行く途中盗みを働き男に追いかけられる。そして追ってきた男をナイフで刺して捕まった。
町の人々は弟の人柄を知っているだけに同情し、減刑の嘆願運動を始める。しかし、姉は弟のために厳しい道を選択させるべきだとそれを断る。その一方で、弟を獄から脱出させる工作をしている。そして、若い女に金をやり弟といっしょに遠くへ逃げるように諭す。

 

そしてその日がやって来る。舞台中央に刑務所の塀が起き上がって空間が二つに分けられた。塀のこちら側に姉と若い女、叔父夫婦らが居て、弟が外へ出てくるのをいまかいまかと待っている。
やがて塀の向こう側から縄ばしごが下ろされ、弟の腕が見えて、よじ登ってくるのが分かった。ところが動きが緩慢でどこか様子が変である。ようやく越えてきたのを皆で抱きとめる。弟の背中は血にまみれていた。後ろから撃たれたのだ。弟は姉の腕の中で息絶える。若い女は去り、姉は一人残される。
借金で両親が自殺。残された子供にも不幸がおとずれ、姉は親の借金を背負って生きていこうとする。

 

「借金は返しきることが大切なんじゃなくて、返し続けることが大切なんだ・・・」これは姉のせりふだが、何か人生というものがあらかじめ返しきれない負債を背負っているものだという意味なのだろう。だからその負債=不幸のようなもの、と向き合って生きるしかないのが人生だと言いたそうなのだ。だから、返しきるとは死ぬことだと言っているのかも知れない。しかし、考えてみるとこのせりふはまるで高利貸が喜びそうな言葉である。現代においては日本人の三分の一が高利貸に文字通り借金を返し続け、儲けさせている。死んで「返しきる」というのが社会問題になっているが、高利貸が勝手にかけた生命保険のお陰で、彼らは痛くもかゆくもないのである。
この間のバブルは余りに余った金を企業に貸し付けた。いらぬといっても銀行屋はあの手この手で貸そうとした。貸した金が戻ってこないとなると、自分がつぶれたら恐慌だと脅して税金を入れてもらうは、金利で優遇されるは、やりたい放題だった。
今度は余った金が企業ではなく個人に向かっている。貸し過ぎだとか借りるほうに問題があるなんていったって、こんなものが止まるわけがない。もうすでにこっちもバブルだと識者は言う。いずれ自己破産が社会現象になってようやくやめるだろうが、そうなったらなったで、高利貸の裏で手を引いている銀行が(誰かを使って)騒ぎ出すに違いない。結局自分たちは損をしないで切り抜けるというわけである。銀行屋というものは株屋と厚生省とともに人非人どもの集団である。人を金の奴隷にして命まで奪おうとする。

 

話が変な方向へきてしまったが、たまたま両親が借金のために自殺した物語が、いま上限金利を下げようとしてもめている事案に重なっただけで、木山潔がこの劇で高利貸批判をやろうとしたなどと言いたいのではない。
いや、木山潔が考えていたことは別のところにあった。
刑務所の塀が立ち上がるとそこに何やら落書きが見える。WarとかNo more などの文字と、円の真ん中を通った縦の線が脇の二本の短い線に支えられたデザインのたぶんピースマークというものが書かれている。政治犯収容所でもあるまいに、こんなものがわざとらしく落書きされた刑務所を僕は見たことがない。いったいこの盲目の女と気弱な弟の物語に平和運動がどういうかかわりを持っているのであろうか?

 

あえて考えれば「委員会」と言うのがくせ者で、これが表面上は親切な顔をしてカーニバルをやったり、貧乏人を救済したり人々にサービスしているのだが、実は人民を管理する絶対権力なのだ。権力である以上は、死刑囚だっている。場合によっては人々を戦争に駆り立てることだってありうるはずだ。そういう権力に対して絶対平和を突きつけている。木山が作り出した光景は、そういうものとして解釈することもできる。
いずれにしろ、この落書きが主張する平和は、戦後左翼がよりどころにした感情的情緒的戦争反対論と一致する。
こんなものが屁の突っ張りにもならなかったことは、すでに歴史が証明するところだ。
不条理劇の寓意を詮索するほど暇ではないが、この程度の解釈と理由で別役を遠い過去から引っ張り出したとしたら「ずれている」といってあきれる他はない。
借金のために自殺する両親という話が今日を先取りしていたという偶然はなかなか興味深いが、木山が注目したところではあるまい。資本が猛威を振るっているというのに、昔の社会党見たく、平和運動で乗りきれるなどと考えるのは時代を呼吸していない証拠ではないか?
「赤い鳥の居る風景」とは夕暮れで影になった街の上空を多数の赤いカラスが飛んでいる絵からとったと別役実は書いている。恩師上原正三画伯の絵だそうだ。見たことはないがいかにも不気味な光景に違いない。これは物語全体のイメージを言ったもので具体的に鳥に象徴されるものが登場するわけではない。
赤い鳥は姉ではないかという説もあるらしいが、そうであっても不都合はないだろう。
僕には、弟を誘惑してどこか遠くの町に行こうとした若い女が真っ赤な口紅に肉感的な赤い洋服をまとっていたのが印象的だった。この役をやった田中貴子が蓮っ葉になりがちなところをきりりと締めて、ドライにハードボイルドにやってくれたおかげで、この劇は相当程度救われたのではなかったか?彼女のできを評価したい。

 

広瀬彩は、自信のなさは消えたが、存在感がうすい。もうそろそろいろんな役をこなしても言い年ごろのはずだ。
他の役どころは力を発揮する場がなくて気の毒みたいであるが、しかし底力は感じさせる。劇団がこれほどまでになってきたからは、ここは一つ当たり狂言を作らなければ。演出なんぞやってる場合じゃありませんよ、木山さん。

 

題名: 赤い鳥の居る風景
観劇日: 06/9/7
劇場: 新国立劇場
主催: 木山事務所
期間: 2006年9月6日〜9月8日
作: 別役実
演出: K. Kiyama
美術: 石井みつる
照明: 森脇清治
衣装: 樋口監
音楽・音響: 安藤由布樹・小山田昭
出演: 広瀬彩 長谷川敦央 森源次郎田中雅子 本田次布 橋本千佳子 内山森彦 岩下まき子 林次樹 菊池真理子 宮川知久吉野悠我 田中貴子 内田龍磨高柳さち子 清水小寿江

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