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2022年12月 2日 (金)

劇評「エンジョイ」(2006年12月)

Enjoy


 

平田オリザの芝居を見た時に、この岡田利規のような劇がやがて現れるだろうと思っていた。平田の特徴は、それまでの新劇から小劇場の時代、野田や鴻上の芝居に連なる劇の中の会話を、自分たちが普段使っている言葉遣いにしたことだ。リアリティという点で不満があったとどこかに書いている。確かに演劇の言葉は観念的で事大主義で現実からかけ離れていることがある。平田の仕事は、演劇のいわば「機能」をそのままにして、出来るだけ自分たちの日常に沿って平易に語ろうとする方法を編み出したことだ。演劇の機能とは、物語を伝えることであり、そのための構造を持つことである。その劇の基本構造は、当然と言えば当然だが、複数の登場人物たちによる「ダイアローグ」である。日常語であっても、Conversation になっている。(独り芝居は例外)

 

しかし、僕らがコンビニの外にたむろしている若者たちや、電車の中、レストランの隣席で出会う若者の会話とは少し違うように思っていた。それらに耳を澄ませば、現実の若者たちは、必ずしも平田オリザのスタイルで話をしていなかった。もっとも大きな特徴は、会話になっていない!という印象の会話である。それはまるでモノローグの応酬であった。文章にすると全く脈絡のないようなとんでもなく飛躍した話も含めて長々と、だらだらと発言するのを、相手は聞いているのかどうか分からない態度で聞いている。

 

岡田利規の方法は、この若者たちの話し方をそのまま劇に持ち込んだものである。平田オリザが若者の使用頻度が高い言葉遣いで若者の「現在」を描こうとしたのは確かに画期的だった。しかし、それは現実をいわば止揚した劇世界だった。それに対して、岡田はいま生きている若者を丸ごと舞台に上げなくては、自分の感じているあるいは考えている『リアリティ』を表現できないと思ったのだろう。そのまま見せることが、これまでの劇の常識に照らして十分な理解が得られないリスクを冒してもそれが自分の方法だと確信した。

 

つまり、これは確信犯的に書かれた『戯曲』なのである。したがって、一見だらだら、長々と続くモノローグの一言一言にアドリブはいっさいないという。そして、役者が発言しながら、あるいは話を聞きながら同時に腕を上げたり足を動かしたりする奇妙な動作もまた、稽古場で演出家との入念な議論と検討を経て、導き出された結果であった。これが、新手のダンスパフォーマンスのように見えて、横浜の片隅でこじんまりとやっていた岡田が最初に注目されたのは、このジャンルのジャーナリズムだったと聞いた。僕の見方からすれば、この動作は完全にせりふとシンクロしているもので、ダンスのように身振りで何かを表象するという指向は全くない。とんだ誤解だと思うが、何につけ、マスコミに取り上げられたのは僥倖であった。

 

この『エンジョイ』は新国立劇場の要請によって書き下ろされたものだが、これを見た数日後、岸田戯曲賞(2004年度)を受賞して話題になった『3月の五日間』(2006年三月収録)をBSTVでオンエアしたので録画しておいた。これは、イラク戦争が始まった三月のその日、ライブハウスであった友人の話に登場する若者たちがオムニバス的に自分の物語を語るという形式のもので、基本的に『エンジョイ』と全くといっていいほど同じ表現方法の劇である。

 

これについて、たまたまそばにいた18歳の娘に感想を聞いたら、第一声が「こんな退屈なの、ソッコウ寝ちゃうじゃない。」というものだった。確かに入り込めなかったら、寝るしかないようなもので、「エンジョイ」もいびきが聞こえて来ることがあった。

 

再び娘に「いや、君たちの会話ッてこうじゃないのか」というと、「そうだ」とあっさり認める。

 

「・・・みたいなのって・・・じゃないですか、・・・そうかなって・・・でもなんか余裕でやっててぇ・・・とかいって、そしたらぁ、結構幸せだったりしてぇ・・・、そういえば俺らバカみたいじゃないって、いってぇ。でもぉ、それってぇ、分かんないんですけどぉ・・・」

 

何故こうなるのかといえば娘によると、とりあえず言いたいことが山のようのに頭の中にあふれてくのだそうだ。それを言葉にして言おうと思っても順序立てて適当な言葉で表現することが出来ない。そうなると相手のことなど気づかっている暇は無く、とにかく頭の中にあることを一方的に外に吐き出したくなるのだという。

 

言葉よりもまず感情が沸き立ってきて、もともと語彙が豊富でないためにその感情をうまく表出出来ない。だからいろいろと言葉を繰り出しては感情にぴったりの表現を探り出すということなのだろう。腕を上げたり足を曲げたりする動作は、その感情を外へひき出すためのいわばポンプの役割を果たしている。ある感情をひき出すための動作は、我々も薄々感じているように、言葉に対応している。岡田はそれを誇張して見せることによって、演じているものの感情を見えやすくしたのである。

 

こういうものが成立するためには、3人以上同時に会話するようなシチュエーションでは難しい。したがって、岡田の劇は二人の会話、ないしはモノローグが多い。

 

この「エンジョイ」には九人の登場人物がいる。彼らは同時に登場することもあるが、基本的に二人の会話によって進行し、彼らの関係も物語もそれで十分に伝わるのである。内容から言って、青春群像劇なのであるが、それぞれが一種自閉的な空間に閉じこもっていて、これこそが現在の青春の在りようなのだと言われれば、そうかもしれないと思う。それに共感は出来ないが、この劇は「これが僕らの時代なのだ」と妙に説得してしまう不思議な力を持っていた。

 

矩形に掘り下げた舞台を三方から客席が囲んでいる。浅いプール状の空間だが、手前から奥に向かって深くなる緩い傾斜がついている。一番奥が一尺五寸くらいの深さで、二段の階段になっている。その奥に巨大なスクリーンが天上から下がっていて、左右の袖には人の頭が少し見える高さの木の塀のようなものが立っている。後で分かったが、この木の塀の裏側は、実は大きな書庫になっていて、芝居の舞台である新宿の「マンキツ」と言うシチュエーションを表していた。客席からは絶対に見えない仕掛けをビデオカメラでスクリーンに映し出したから分かったが、なんともぜいたくで意表をついた演出であった。

 

「マンキツ」とは漫画喫茶のことである。告白すると、僕は去年「眠り姫」(七里圭監督作品)の山本直樹の漫画を見たくて初めて地元の漫画喫茶に入った。時間単位の料金を払うと自由に書庫からとり出して読むことが出来る。フリードリンク制で食べ物も注文出来、シャワーも借りられる。こういうところに閉じこもってひたすら漫画を読んでいる者たちというのは僕の理解の外だった。用事を済ましてさっさと出たが、真っ昼間からこもっている人の多さに驚いた。

 

劇は、このマンキツで働く若者たちの話である。三十才を過ぎてもフリーターを続ける三人の男がいる。何とは無しにアルバイトを続けて生きてきたが、三十を過ぎてなお自分の将来が見えないという漠然とした不安を抱えている。そのちょっと後輩に当たる男は、三十才を一つの基準と見ているようで、自分のことは棚に上げて彼ら三十路のものたちが一生フリーターでやっていくしかないと決めつけている。その心情がマンキツの仕事のディテールを描く中に表現される。そこへ二十二歳の女子大生がアルバイトで入ってきたことにより、ちょっとした波紋が巻き起こる。

 

三人の男たちのプライベートな生活が描かれて、それぞれの恋愛事情なども明らかになり、女子大生に対する心理的な駆け引きが彼らの関係を微妙に変えていく。

 

途中、日本の雇用を巡る統計やフランスで起きた若者の氾濫、デモの様子がスクリーンに映し出されるが、劇の進行には直接関係するわけではない。

 

結局、女子大生は一人の男と恋愛関係になり、後の二人もまああたたかく見守るというめでたしめでたしの終焉を向かえることになる。

 

登場人物がビデオカメラを舞台に持ち込んで、俳優の動きを撮影し、直接スクリーンに映し出すという工夫が随所にあって、表情や、手足のアップなどをまじえて心理的な彩、微妙な感情の揺れなどを描いた。そしてこの方法は、舞台の見えない場所、例えば、木の塀の袖の裏あるいはスクリーンの裏で行われる演技なども映して、舞台の進行と重ねるといういかにも映像の時代を思わせる効果的なやり方であった。

 

出演者の表現の水準は、極めて高いと思った。混沌とした感情、言葉の渦の中から引き出された言葉をせりふとして出している感じは、かなり訓練しなければ出てこない。ワークショップのたまものなのだろう。マイクを持って「・・・今から・・・というのをやります・・・」といって「場」が始まるのだが、こういう違和感を一瞬にして切り変えるというのも一種の新しい型として評価したい。

 

途中挿入された雇用統計やフランスのデモの様子は、これらの若者たちがおかれている状況を作者がどのように捉えているかを示している。何よりも、劇を通じて社会にコミットしていることを伝えたいのであろう。この場合、非正規雇用の問題が「三十路のフリーター」の背景にあるといいたいのはわかる。しかし、取り上げる以上は、フリーターの立場から、日本の雇用問題がどう見えているか、あるいは自分のいまのミゼラブルな立場を変えるためにどう行動すべきか、あるいはまた具体的にどのような立法措置が必要なのか、について語られなければ無責任というべきだろう。語らないまでも作者の考えが奈辺にあるか何らかの形で表に出なければいけないと僕は思う。

 

フランスの若者たちのデモ、示威行為は若者の雇用について、雇用者側の試用期間を二年間として、その間は勝手に馘首していいという政府の法改定に反対したものであった。若者に仕事を与えようとした温情のつもりの政策だったが、雇用者が悪用することは目に見えている。このような事情が分からないものにとってはただ単にデモ行動をあおっているようにしか見えないことも確かだったようだ。

 

「3月の五日間」では、当時開戦直前であったイラク戦争が背景にあった。六本木から渋谷までのデモ行進に参加する場面が劇の中にあって、イラク戦争反対を唱える若者が実際に登場する。しかし何故反対なのかも語られていなければ、具体的にそれを阻止する方法などについても、当たり前だが言及されない。ファッション化した戦争反対デモである。こんなことで社会的にコミットしたつもりなら、何もしないほうがまだましだ。

 

イラクで劣化ウラン弾に被爆した子供が苦しんでいる時に、日本の若者は渋谷のラブホで三日間連泊のセックスに励んでいるという。それがどうして問題なのか?イラクの問題の背景には、アラブの貧困と米国が支援するイスラエルの存在がある。日本の若者は米国流消費社会の成熟した段階に特徴的である「動物化」が進行して、チンパンジーさながらの性行為にふける。この二つの間には何の関係もない。こういう偽善的な言辞が意味を成さないのは自明である。

 

フリーターが増えたメカニズムについては研究してみる価値がある。案外経済的な豊かさが背景にあるかもしれない。一方はっきりしていることだが、非正規雇用の問題は、グローバリゼーションという名のアメリカ化を目指した政策の一つ、規制緩和によって起きた。アメリカ化は我が国のあらゆる分野に広がり、かつて高度成長の原動力となった日本的なシステムを凌駕しようとしている。しかし、フランスのように若者に向かって政策的な暴力が加えられない限り、日本の若者の怒りは表に出てこないだろう。この点で日本の政治家は巧妙であることを肝に銘じておくべきだ。

 

岡田利規には、もっと冷静に自分たちを取り巻く状況を見て欲しい。そして、何をなすべきか考えて欲しい。

 

蛇足的に加えると、格差社会が進行していると警告するものは大勢いるが、格差社会がいけないことで、それを解消するための方法を具体的に提案するものがいないというのは実に不思議である。何故そうなるかといえば、警告するものはすでに上流にいるからまともに考える必要がない、下流にいるものはそのこと自体に気付いていない、そういう悲劇が存在するからである。しかも、考えてみると、その悲劇は人類始まって以来絶えることなく続いている。

 

「考える」という行為がいかに大事かということが教育基本法のテーゼであるべきで、為政者にとってのみ重要である「愛国心」など危険きわまりない思想である。「愛郷心」ならわざわざ紙に書かなくても自然に芽生える。

 

いや、古老のように振る舞っても、政談はやらないつもりだった。バカに飛躍したからこの辺でやめよう。

 

僕は正面の最前列で見たから観客の様子も目に入った。両サイドの客席でこっくりやっている中年以上の人たちが散見され、後ろの小田島雄志先生の席付近では時々盛大ないびきが聞こえた。この若さにはちょっと退屈したのだろうが、僕にとって岡田利規は、魅力ある俳優たちのせいもあって、いささか癖になりそうな面白さであった。

 


 


題名:

エンジョイ

観劇日:

06/12/8

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2006年12月7日~12月23日

作:

岡田利規

演出:

岡田利規

美術:

伊藤雅子

照明:

大平智己 

衣装:

koco 

音楽・音響:

福澤裕之

出演者:

岩本えり 下西啓正 田中寿直南波典子 松村翔子 村上聡一  山縣太一 山崎ルキノ 山中隆次郎 

 

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