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2022年12月 4日 (日)

劇評「嗤う女」(2006年11月)

Warauonna

山崎哲の芝居を見るのは、ちょうど一年前の「黙る女」以来である。「黙る女」は音羽のお受験殺人といわれた事件を扱ったもので、我々が知らない事実を盛り込んでなかなか説得力があった。犯罪というものは、子細に眺めると「人間」だけでなく世相が浮かび上がってくるという側面があって、ジャーナリズムは好んでそういう見方をしてきたが、果たして「お受験」熱に侵された主婦の犯行と決めつけていいかどうか、山崎哲は劇を通じて疑問を呈していた。

 

犯罪を扱うもう一つの手つきは、どうして事件は起きたのか?逆に言えば、どうすれば事件は防ぐことが出来たのか?といういわば教訓をひき出すことである。犯罪者の生い立ちや性格、心理分析などを経て、通常人との境界がどこにあったのかが判明すれば、社会の学習効果が期待出来る。

 

ところが、最近の犯罪はどう考えても動機が分からない、あるいは動機がないというものが増えて、こうした常識が通用しなくなっている。つまり、犯罪は社会に対して言い知れぬ不安や閉塞感を与えこそすれ、何の教訓ももたらしてはくれない時代になってしまったのだ。
にもかかわらず、山崎哲は懸命に事件を追及し、そこから普遍的な何かを発見しようとする。その情熱はジャーナリスティックというよりは、文学者の人間観察に近いように思われる。この芝居でも犯罪者が、明るい和歌山の高い空と降り注ぐ陽光に照らされるおだやかな海という風景の中で、成長しきれずに大人になってしまった女であると分析した。そして、舞台の中にその未熟な女の身勝手さをどんな感情も交えずに淡々としかも鮮やかに描き出したのであった。

 

昨今では、この山崎哲にとっては不幸なことに、犯罪について社会のほうがその動機を追及しようという気力が薄れてきた。男が女につきまとってあげくに刺してしまう、子供が突然親に襲いかかる、変質者が子供をいじって殺す、あるいは親が子供を虐待して死に至らしめるといった、普通の感覚ではおよそ想像もつかない犯罪者たちの暗い熱情について考えることに疲れてしまったのだ。そして、これまでは法的にも世間的にも蚊帳の外に置かれてきた犯罪被害者たちが声を上げるようになると、ジャーナリズムは一斉にそちらに関心を向けてしまったのである。

 

子供を殺された親にしてみれば犯罪者は憎んでも憎みきれない存在である。昔のように『仇討ち』が許されるならばやってしまいたいという親に同調するものではあるが、しかし、一方で山崎哲のように犯罪者及びそれを生み出した社会の病理を追及することもやめてはならない努力なのだ。

 

この芝居はいうまでもなく和歌山市で起きたカレーヒ素混入事件の林真須美を扱っている。
幕開け、最初に登場するのは意外にも林真須美(石川真希)ではない。松岡(千野宏)という男が妻夏子(渡邉裕来子)と暮らしている家に刑事三人(村山好文、神戸誠治、小堀明)がやって来る。カレー事件の証人として警察の取り調べに応じて欲しいというのである。しかし、三人の説得にもかかわらず松岡はそれを断固として拒否し続ける。事件から十年ほど前、彼は当時、真須美の夫林健二(杉祐三)が経営していたシロアリ駆除の会社の従業員であった。社長の家にあったプレハブのマージャン小屋で遊んでいるうちに倒れ、病院に運ばれた。原因は不明だったが一ヶ月入院して、半身が動かない後遺症が残ると、妻との間がぎくしゃくしてついには離婚することになった。それをきっかけに不運が続き紆余曲折を経て浮島という姓を捨て、現在の妻の松岡を名乗って世間から隠れるように生きてきた。忘れようとしてきた事件を今さら蒸し返す気は無い。林健二に対する義理もある。あの時、世間の耳目を集めることは得にならないことを徹底的に知らされたのである。

 

山崎哲は、この松岡、当時浮島の存在に注目した。まだ二十代だった林真須美は16才も年の離れた夫健二との感覚の違いを、従業員としてそばにいた同じ年代の浮島に対する感情でバランスを保っていたのだと推理する。この浮島が林真須美の前から姿を消したあとも、夫健二のいじめのような言動があるたびに、浮島を思い出して自分を慰めていたのだという。
山崎はまた、この夫妻の精神構造を何代か前の先祖にさかのぼって分析する。自分勝手で自己中心的だが力の強い独特の個性の男が孤立しながらその集落を生きていくエピソードが挿入され、特に林健二にうけつがれた遺伝的性格ということが示唆される。

 

林真須美は、看護婦をやめたあと、生命保険の外交員をやっている。この頃林健二と知りあって、ヒ素を使って人を殺すことを覚えたものと思われる。この方法で自分の母親を保険に入れ程なく亡くなったために金を受け取っている。むろん事件にはなっていない。

 

林健二は、シロアリ駆除の会社を浮島がやめたあたりに閉鎖している。自らもヒ素の毒で半身をやられてしまい、思うように体が利かなくなってしまった。自らの身体を使って中毒を引き起こし、保険金を詐取して豪邸を建てるという特異の感覚の持ち主である。林真須美の無邪気な態度と犯した犯罪の落差に関心が集まって、この男の半生をマスコミはあまり取り上げなかった。今でもよく分からないところがあるが、浮島に毒を盛ったあたりは確かにシロアリ駆除の会社をやっていた。この時もう一人の従業員は死んでいる。むろん保険がかけられていて金は林健二が受け取った。賭事はマージャンの他に競輪に金をつぎ込んでいたという話がある。それがいつのことだったのか、いずれにしてもこの男の周辺にはまともに働いて生活していた形跡が不思議と感じられない。林真須美が健二のどこかこわもてのする男ぶりに惚れたのだということは健二の顔を見ればすぐに理解できるが、この男と一緒になって暮らしが成り立つという見通しをどこで認めたのであろうか?

 

他人を殺して保険金をだまし取る犯罪はいくらでもあるが、一か八か自分の命を賭けてそれをやるというのは、覚悟のいる決断である。一種「すさまじい生き方」というべきであろう。こういう精神構造には大いに興味がそそられるところであるが、山崎哲は、そこにはなにも言及していない。この事件の社会性はむしろ林健二の犯罪が殺人事件として、あるいは自分に対する殺人未遂事件として取り扱われ「なかった」ことにある。そしてこのような犯罪が、どんな人格・心理構造のもとで行われたのか、それに真須美はどんなふうにかかわったのかが問われなければならなかった。

 

林真須美の犯罪動機は、直接的にはゴミの捨て方を町内の誰かに注意されたことに腹を立てたことになっている。遠因は、新参者のくせに傍若無人に振る舞ったことで住民に総すかんを食い孤立したことだ。深い恨みを持って、あるいは自分の命で罪をあがなうリスクを承知で行われた犯罪ではない。山崎哲がいうように、大人になりきれなかった未熟な女が偶発的に行ったもので、それ以上でもそれ以下でもないという見解には納得がいく。山崎が描いた和歌山の明るい空と海という背景の晴れ晴れとした印象が先に立って、亡くなった四人を始め多くの負傷者の側から見た「恨み」や憎しみがどこかむなしくなるような気さえする事件であった。これがどこかで、世間をあざ笑っているような真須美のイメージを作り出して、タイトルの『嗤う女』につながっていると思われる。

 

一方で、この事件は始めから証拠が乏しく立件が困難と言われてきた。カレーに混入されたヒ素が林真須美の周辺から見つからなかったのが第一点である。これは台所のプラスティック容器に僅かに付着していたものを発見して分析し、ようやく成分が一致すると認めたものであった。この分析には超高速で素粒子を衝突させて分子構造を解析する世界最先端の巨大施設を使った。
また、真須美が混入したという目撃証言は、証言したものが未成年であり、かつ途中で曖昧になったりしたために確たるものとはならなかった。そのため、検察は住民全員の同時刻の行動をつぶさに調べ上げて、真須美にしか混入の機会はないという状況証拠をまとめあげたのである。
決定的証拠はないが、状況が黒であることは間違いない。二審まで『死刑』判決であった。まだ裁判は続く。

 

ところで、小学生、中学生のいじめによる自殺が相次いでいる。いじめは昔からある問題なのは誰でも知っていることだが、自殺が一種の伝染病のようにはやるのはどこかおかしい。子供による親殺しや放火殺人などが一時流行った。こういうことを見ると、この伝染病の媒体はマスコミだと断じていいように思える。報道の仕方に工夫があってしかるべきところだが、このところ犯罪報道に関しては、被害者の立場に立とうという意識が全面にたって、動機を追及し、社会病理に言及するという大事な機能がマスコミからうしなわれているのは残念であり、問題である。
もう一度山崎哲をコメンテーターに復帰させるTV局があってもいいではないかと思う今日この頃である。

 

題名: 嗤う女
観劇日: 06/11/10
劇場: 中野光座
主催: 新転位21
期間: 2006年11月10日〜11月19日
作: 山崎哲
演出: 山崎哲
美術: 濃野壮一
照明: 海藤春樹
衣装: 蟹江杏
音楽・音響: 半田充
出演者: 石川真希 千野宏 村山好文 杉祐三 おかのみか 三浦秀典大畑早苗 神戸誠治 清水ひろみ 竹内泰子 藤本梓 南真里子 小畑明 浅山周 岩川藍 岩崎智紀 中島望美 山田剛久 渡邉裕来子 永岡沙江 佐藤駿榎杏子 笹本賀子 小堀明嗤う女

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