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2022年12月 6日 (火)

劇評「カナリア」(2006年9月)

Kanaria 作者のしゅう史奈の名が、劇作家新人賞の候補に上がっていたのを記憶していたYが見ようといった。他のことは「海市−工房」と言う劇団も演出や俳優もまるで知らない。パンフレットはもらったが、劇のことはろくに書いていない。俳優がつまらぬ「お題」につまらぬ回答をするのが流行っているのか、ここもそれだ。こんな無関係なものを読ませる前に劇団や俳優の紹介ぐらいしろといいたい。
劇のほうは、しゅう史奈が今どき珍しい正義漢ぶりを発揮して書いた、まじめな物語である。久し振りにこの手の権力を告発する劇を見たような気がする。
カナリアというのは、炭坑で・・・いや、記憶に新しいのは、上九一色村のサティアンに麻原彰晃逮捕に向かった機動隊員が掲げていた鳥カゴに入っていた、あの鳥のことである。炭坑でもどこでも危険なガスが充満していないかどうかこの鳥がいち早く感知して死んでくれるから人間は助かるというわけだ。なかなか古典的で素朴な方法だが可憐な鳥だけに、他にいい手は無いのかと思ってしまう。
「大きな敵が立ちはだかった時、私ならカナリアのように鳴くことができるだろうか。かすれた小さな声でもいい、真実のために闘える人間でありたいと思いながらこの作品を書きました。」としゅう史奈は書いている。自分でカナリアになるつもりらしい。「近ごろ殊勝な心がけ」見上げた覚悟である。
物語は実際の事件に取材したという。「突然の逮捕から25年後に彼女は夫殺しの犯人のまま死亡、逆転無罪の判決が出たのは4年後のことでした。」せんじ詰めて言えばそういう話なのだが、関係するさまざまな人間模様が盛りだくさんに描かれていて、事件および権力との対峙という主脈とのバランスが少しくずれている感があったのは残念だった。
関西の海辺の町(たぶん)にあるかまぼこ製造工場の休憩所。パイプを曲げて作った粗末なテーブルと椅子が置かれ、奥の階段下には流しがある。下手に家の上がり框があって、正面には娘たちの部屋へ上がる階段が少し見えている。
この工場の主がある夏の日の未明に、休憩所の入り口付近で殺されているのが見つかった。明け方、工場の門の脇の潜り戸から血のついたシャツを着た男が転がりでるようにして走り去ったという証言があったようだが、どういうわけか捜査は難航した。そのうち、かまぼこ工場の従業員塚原一雄(小松幸作)と安藤光春(荒野哲朗)が逮捕拘留され、なかなか帰ってこない。
工場は主人を失ったが、後妻の山名志津子(藤原美紀)が義理の甥、村井忠志(橋本拓也)の妻、晴美(奈良井志摩)の助けを得て、上野紘子(境ゆう子)ら他の従業員ともども切り盛りしていた。
犯人が見つからないまま八ヶ月が過ぎたその朝、司直は突然やってきた。
山名志津子の身柄がもっていかれたその直後から劇は始まる。小学生の珠子(加藤亜衣)は夫とのあいだに産まれた子で、姉のみどり(森山静香)は前妻の子、いまはまだ学生である。すぐ帰ってくるという晴美の声に励まされるが、珠子は恐ろしさに声も出ない。この時の衝撃が後遺症となって成長してからも残った。
志津子が逮捕されてからまもなく、塚原と安藤が疲れ果てたようにして帰ってくる。帰るとすぐにそそくさとかまぼこ工場をやめていった。志津子はそのまま起訴されるが、塚原と安藤が不利な証言をしたことは明らかである。
村井忠志は勤め人だが、志津子を支援できる唯一の男手で、弁護人との打ち合わせや本人との接見で忙しく動き回っている。
そうした中、マスコミにあおられた人々が鬼女とか魔女とかののしって、かまぼこ工場にも石を投げ入れるような危険が迫った。次第に得意先につきあいを断られ、商いが細くなって、ついに工場の火を落とす日がくるのである。
その間裁判は続き、一審でも二審でも有罪、証拠といえば唯一自白だけでの裁判である。自白は検事の船川(中岡耕)に脅され強要されたものだった。それに塚原、安藤の嘘の証言が不利に働いた。凶器の刃物は彼らがあの朝志津子に頼まれて近所を流れる川に捨てたことになっている。職場に行く途中で、犯人が逃走するのを見たという市場の山本(佐藤徹)も記憶違いと証言を覆した。
殺人事件といえば死体と凶器、それに動機である。山名志津子にはどんな動機があったのか?
そもそもこの家に入ったのは、町の飲み屋で働いていた時にかまぼこ工場の村井と知りあったのがきっかけで、それまで志津子は故郷に近い温泉場で仲居をやっていた。村井といっしょになる前に二回の離婚経験があった。いわゆる流れ者である。珠子という娘をもうけたが、近ごろでは村井が家業をそっちのけに飲み歩いて、あげく新しい女ができたという噂も耳にしていた。
ほうっておかれて志津子は淋しい思いをしていた、とは塚原一雄の証言に違いない。ある夜、夫がでかけたあと休憩所に和服姿の志津子と塚原がいる。実はこの二人は中学の同級生で、一時期同じ温泉街で働いていたことがあった。宿が火事になって故郷をあとにしたが、かまぼこ屋に嫁いだ志津子が今の仕事に誘ったのだ。
志津子は酔っている。自分の部屋に戻ろうとする塚原一雄を引き止め、茶碗酒を勧めるが塚原は応じない。志津子は飲み屋で男の酒の相手をしていた。しなだれかかる術を知っている。昔話をしながら、塚原を誘惑しようとしたが、結局、塚原の自制によって何事もなく終わった。
塚原は、故郷にいる妹に、いい縁談が進行中で、これを検事に利用された。兄のために破談になると脅されたのだ。
そして、判決は懲役十三年。志津子は上告をしないと言い出した。これ以上裁判を続けても証言がくつがえる見込みはないというのである。それを待って争っても裁判費用がかさんで皆に迷惑をかけるだけだと志津子はきっぱりという。確かに裁判にかかる金のあてはなくなっていた。かくて刑は決まったのである。
月日は流れ、珠子は高校生になっていた。上の娘のみどりは保育士になっていたが、密かに故郷をでようとしている。そのみどりの恋人だった神崎(鈴木達也)を誘って出奔した上野紘子が歌手となって帰ってくる。
そのころ、村井忠志たちの再審請求運動がマスコミに取り上げられ、大きく報道されるようになった。嘘の証言をした塚原、安藤が現れ再審では真実をいうと約束する。市場の山本も今度はほんとうのことをいうと謝った。そんな中、検事の船川がかまぼこ屋に現れて、再審請求をしないように圧力をかけてくる。自分のキャリアに傷がつくという理由で。
逮捕から十三年、志津子は戻ってきた。再審請求も受理された。誇らしげに挨拶する志津子。しかし、無罪を勝ち取るまでまだ何年もかかるのであった。
いかにも取材したことを余さず書き込まねばといった盛りだくさんのエピソードであった。サービス精神はいいのだが、このような権力の横暴を許さない、そのためにカナリアの役割を担ってもいいというのだから、何故こんな理不尽なことが起きたのか、今後起きないようにするにはどうしたらいいのか、という視点がしっかりと描かれていなければならない。
この裁判は、犯人はすぐ挙がるという安易な検察の見通しに反して半年以上も捜査が難航し、焦りがでていたという背景がある。(と僕は見た。) そこで、見込み捜査をやって、志津子犯人説に都合のいい証言を集め、その過程で自白を強要したものだろう。同じ例は、戦後まもなくになるが、弘前大学医学部教授夫人殺人事件がある。この事件も何ヶ月も経って、突然那須某が逮捕され裁判で有罪になった。15年の刑期を終えて出てきてから真犯人が名乗り出て、再審請求を繰り返し行ったあげく、事件から28年も経って無罪が確定した。他にも同じような警察のでっちあげ事件などはいくらもあった。
極く最近、鹿児島県志布志市で起きた公職選挙法違反事件もでっち上げの疑いが濃厚である。買収の金をもらったとして一つの集落の十数人が逮捕され、自白したとして十三人が起訴された。今も係争中らしい。ところが、自殺未遂した人がでて、事情を聴くと検事に自白を強要されたもので、みんなに迷惑をかけたというのである。報道によると若い検事補の取り調べは、机をたたいてどなりつけるは椅子を蹴飛ばすは、闇金の取り立てもかくやと思わせるすさまじさであったという。普通に暮らしている善男善女なら恐ろしくて調書に署名してしまうだろう。それが明るみに出ると検事は辞表を出して今度は弁護士を開業したという。これでわかるように検事、警察、弁護士など一皮むけばやくざまがいのものだと心得たほうがいい。
しゅう史奈が志津子の事件を知って憤ったのはわかる。だから自分がこのような事件に出会ったらカナリアになって警鐘を鳴らすというのだろう。しかし、警察はこういうことをするものだ。自分がカナリアになるのは近ごろ殊勝な心がけだといったが、それでは命がいくらあっても足るものではない。
米国という国は、フェアであることにこだわること異常ともいえる。それを世界中に押し付けることが正義だと考えていることは、はなはだ迷惑な話だが、警察の取調室をガラス張りにしてテレビカメラを入れるというのは、フェア精神の極致というべきだろう。テレビの「CSI科学捜査官」を見ていると、検死はビデオで記録を撮る、DNA鑑定室、拳銃・弾痕調査、その他の調査室がすべてガラス張りである。弘前事件では、わざわざ警察があとから那須某のシャツに血痕をつけたということがあった。だからこれででっちあげがなくなるとはいわないが、警察だの検事だのやくざまがいの人間と対峙するにはそれくらいでようやく対等な立場になるというものだ。
司法試験の合格者を増やせという米国の押し付けは、彼らが食っていくための訴訟を増やすことにつながるからいやな予感のするところだが、このガラス張りとテレビカメラの導入はさっさとやるべきだろう。
韓国という国は戦前の日本のやり方しかしらないから、ずいぶんと警察は威張っていた。ところが、テレビカメラ導入は日本よりも早く実行に移したようである。
しゅう史奈は、権力はひどいことをすると昔の左翼みたいに嘆いているだけではなくて、こういう自白でっちあげなどが密室で行われていることを告発し、そうした不正をなくす具体的な提案をすべきだろう。
劇は、志津子が捕らえられてからの留守宅の様子を描くことになったが、本来は、志津子の逮捕から刑を受け入れるまでの心境の変化を中心に見せるべきだった。何故彼女は逮捕されたのか?何故自白したのか?うその証言をした男たちをどう思っているか?何故上告をしなかったのか?
その志津子の心の動きによって、周辺の人物たちが反応する。その反応をエピソードとして拾っていく。そのような構造になっていれば劇はもっと求心力をまして、冤罪というものが多数の人間の運命を狂わしていくという悲劇性が浮き彫りになったはずだ。
長女みどりの恋人神崎を奪うようにして出奔した上野江紘子が歌手になって戻ってきてながながと歌を披露する場面がある。歌は本格的に習った形跡があって、聞けないこともないが、こんなところはなくてもいい。
また、みどりが町から出て行こうとするエピソードも志津子との関連性が乏しい。
殺された夫村井についても、従業員、家族ともいっさい言及しないというのも不自然なことである。
志津子と同郷の嘘の証言をした塚原とのあの酔っていた夜のエピソードは、志津子の人となりを知るために必然性があった。作家もかなり力を入れて書き込んでいて、志津子がひょっとしたら男好きのする女ではなかったかという過去を想像させる場面であった。その割に、相手の塚原にはどんな背景があったのか説明不足で、何故誘惑を拒んだのかよく分からなかった。(こっちが理解不足だったのかも知れないが)
それにしてもこの場面の志津子、藤原美紀は若すぎる。酔ってやや蓮っ葉なところを見せるが、身体の動きがついていってない。男のほうへ身体を寄せるしぐさの時、和服の下半身がテーブルの下で浮いている。大人の女はこんなおきゃんな体勢をとらないものだ。見ているほうも危なっかしくて心配になる。ここは、夫に不満があって、それがいつか殺意に変っていたのではないかと観客に思わせる大事な場面である。毒婦だ魔女だといわれるには、残念ながら力不足であった。
塚原をやった小松幸作は演出も兼ねているが、こちらは茫洋としてとらえどころのない男である。無口で何を考えているのか分からない。それも一つの性格作りではあっただろう。独特の味わいがある役ではある。
演出は、あっさりとしていて好感が持てた。
これは、海市—工房第十六回公演とあるからかなり続いているようだ。その割には皆ずいぶん若く見える。本の完成度がもう少しというところがあって残念だが、この劇団、いまは「清新」という印象があって、これからどんなふうに成熟していくのか楽しみである。

題名:

カナリア

観劇日:

06/9/15

劇場:

「劇」小劇場

主催:

海市工房

期間:

2006913日〜919

作:

しゅう史奈

演出:

小松幸作

美術:

田中敏恵

照明:

村上秀樹

衣装:

 

音楽・音響:

熊野大輔

出演者:

藤原美紀 中岡耕 境ゆう子 加藤亜衣 橋本拓也 佐藤徹

鈴木達也 ながえき未和 柳沢麻杜花 森山静香 菅野江津子 奈良井志摩 荒野哲朗

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