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2022年12月18日 (日)

劇評「歌わせたい男たち」(2005年10月)

Utawasetai

奇妙なタイトルだと思っていたが、あれは「卒業式で君が代を」と言う言葉を前につけて読むのだとわかった。
つまり高校の社会科教師、拝島則彦(近藤芳正)が卒業式で「君が代」を歌うべしという教育委員会の方針に対し、これを断固拒否するといっているのを、校長の与田是昭(大谷亮介)はじめ教師たちが説得しようと試みる話である。
拝島が「起立」の上国歌斉唱しなかった場合は、ひとり拝島だけが処分の対象になるだけではない。管理者としての校長はもちろん累は何人かの関係者にも及ぶ。拝島さえ、ここで我慢してくれたら万事丸く収まるのだが、この社会科の教師は心の問題だからこれだけは曲げられないとがんばる。そこに悲喜劇が生まれるというわけで、これはまともに書けば結構深刻な問題なのだが、そこは永井愛、難しいことはさておいて、こんな人たちもいるのですよ、おかしいでしょ、滑稽でしょ、といっているのである。

 

そういう問題に遭遇したこともなかった音楽の講師で、もとシャンソン歌手仲ミチル(戸田恵子)がこの騒ぎに巻き込まれる。シャンソンでは食っていけないと思っていたところへピアノが出来ることで高校の音楽教師の口が回ってきたので飛びついた。前任者が昨年「君が代」伴奏拒否で首になったらしい。ところが、かなりの近眼の上に、ミス・タッチと陰口をささやかれるほどの腕前で、本人も相当程度自信がないときている。
卒業式当日、そこつ者の仲ミチルはコーヒーをこぼして式用のドレスを汚してしまい、乾かすために下着姿で保健室のベッドに隠れている。この保健室が舞台。そこへ校長がやってきて、歌手だったことやら、ごちゃごちゃしゃべっているうちに片方のコンタクトを落としてしまう。これではまともに楽譜が見えないから伴奏はおぼつかない。青くなった校長が眼鏡を調達しようとすると、ミチルは拝島先生の眼鏡が自分には最もあっているといいだす。乾いたドレスを持って保健室に戻ってきた養護教諭、按部真由子(小山萌子)に頼んで、拝島先生から借りきてもらおうということになって一安心するが、帰ってきた真由子がいうには、「君が代」伴奏のために自分の眼鏡が使われるのは不本意だ、だから貸せないといっているというのである。仲ミチルは、何か自分が理解できないややこしいトラブルがあって、自分のどじのせいでどうもそれに巻き込まれそうだという予感がする。
保健室に拝島が現れ、ミチルの前で校長はこれに眼鏡のことを懇願するが、「君が代」にはいろいろ思うところがあってこの卒業式で、自分は歌うつもりがないことを主張する。

 

それに対して、校長はもし拒否したら三ヶ月の停職、いや首だってありうる、そうなったら収入もなくなり家族に迷惑がかかるではないか、そればかりではない、学校管理者としての自分も処罰を受けることになり、君一人のために大勢が迷惑するではないかという。まるで泣き落としである。
そこへ英語教師の若い片桐学(中上雅巳)が飛び込んできて、自分のクラスの在日コリアの生徒も「君が代」斉唱を拒否すると言い出していると校長に訴える。社会科教師の指導宜しきを得て、とんでもない生徒がでてきたと拝島をにらみつける。卒業式が荒れることを心配しているのだ。

 

片桐が保健室の窓から校門で起きている事件を発見して慌てて飛び出していく。昨年本校を定年退職した拝島の先輩教師が、校門でビラをまき出したのだ。窓から様子を眺めていた校長が、突然悲鳴を上げる。警察の車とおぼしき車両があって、私服が事情聴取を始めているように見える。しまった!片桐が警察を呼んだのか?ことを穏便に済まそうと思っていたのに、警察沙汰にしてしまったのは失敗だった。逮捕されるのかと、固唾を呑んで見守っているとやがてビラ巻きをやめ、元教師はいなくなってくれた。
この当たりから校長も実は、日の丸、君が代問題については批判運動をしていた時期があったらしいとわかる。思想信条を曲げてまで決められたルールに従わねばならないのはおかしいのではないか?という主張を書いたこともあった。
だからこの校長は、拝島の気持ちもわからないわけではない。管理者になった自分の翻意についても十分傷ついている。
一方、なんの興味もなかったミチルだったが、拝島とは同郷とわかって愛知県の方言で話をしているうちにうちとけてきた。拝島のいっている内面を偽って行動することはむずかしいということも理解できる。しかしそうはいっても、校長がいっている大勢に災厄が及ぶことも心配だ。自分にはどうしたらいいかわからない。

 

拝島が断固拒否の態度を変えないのを見て、校長は卒業式を無事執り行うためには全校生徒教職員に直接訴える他ないと覚悟して、屋上に上がりマイクで叫ぶ。かつて自分も反対運動に加わっていたことを告白してまで、卒業式の意義を説きこれを台無しにすべきではないと訴えるのである。拝島は進退窮まっている。じっと聞いていた社会科教師はミチルにシャンソンを聴きたいと言い出す。「聞かせてよ。愛の言葉を」ミチルが選んだのは恋人に甘い愛の言葉をせがむシャンソンであった。
そして歌っている間に拝島は自分の眼鏡をテーブルにおいて出て行く。今日拝島は起立して歌うのだろうか?
 
今年はシャンソンの当たり年だとひとりで騒いでいたら、この芝居でそれが全面的に証明された。最後の戸田恵子の歌はよく稽古したと見えて、フルコーラスをなかなかに聞かせてくれた。しかし、いうまでもなく音程が正しいというだけでは歌ではない。シャンソンは情感を表現するのが大事だ。金子由香利とまでは行かぬだろうが、もう少し役者らしく歌を演じてもらいたかった。
さて、この芝居は拝島の頑張りと、彼がかたくなに頑張るほど周囲は困るという話になっていて、喜劇としての基本的な構造を備えている。したがって、おかしくてやがて悲しい物語ということになる。人間とはかくもつまらぬ意地を張り、それに翻弄されてうろたえるおかしな生き物だということか?拝島が、わかった!それでは「口パク」で行きましょう、と歌っているふりをしてくれたら、仲ミチルのピアノが多少怪しくてもことは無事に済んだに違いない。拝島が、日の丸に向かって深々とお辞儀をするのを見て、何という愛国心かと感心するものがいたとしても、拝島は自覚的な愛国者であるとは限らないのである。

 

しかし、それを見ていて、君は歌ったではないか、君は日の丸に最敬礼したではないかと責めるものがいたら・・・。とここまで考えて、そうか拝島はそのようなもう一つの目を恐れて、あれだけ踏ん張らなければならなかったのだ。とも思えるのである。もちろん第一義的に彼を責めるのは彼自身の中の自分である。一方彼以外の第三者がこれを由としないという場合もありうる。誰かが彼を許さんと監視しているのだ。

 

永井愛は、そのもう一つの目を書かなかった。つまり、拝島が「君が代」を歌わない理由について、天皇の世を寿ぐ歌だからという通り一遍の話に集約してしまったから、拝島が命を、いや収入を賭けても「歌わない」という彼にとっては深刻な「動機」をあいまいにした。
こう考えるのも、日の丸君が代問題には長い歴史が有って、拝島がいったいどの位置から、どういう理由で反対しているのか気になるのである。戦後まもなくは、戦地から帰還した人々のように、文字通り命を預けて戦った象徴を忌避する感情が強かったことは理解しやすい。戦争と直結したイメージだったのだ。やがて、民主主義とマルクス主義べったりの時代になると天皇制を否定して、革命を成就するという思想のターゲットになった。つまり反対の根拠はイデオロギーである。学校関係では日教組がこれを実践した。冷戦の時代はこのような対立緊張関係の中で過ぎたが、ソ連が崩壊して、社会主義を叫ぶものもいなくなってからは、「愛国心」を理由に保守政党がこんどはまきかえしを図っている。とはいえ、保守政治家の唱える「愛国心」には戦前の教育勅語や修身道徳教育のようなイメージがあるだけで具体的な国の形が示されなくて極めて説得力に乏しい。ために、せいぜいが「国歌国旗法」を定めるにとどまっている。日の丸君が代はつい最近まで単なる慣習で正式なものではなかったのだ。ことほどさようにこの問題は日教組が保守政治に対して強硬に守り続けてきたものだった。しかし、その日教組も今や組織率31%である。組合員が平均三人にひとりというマイナーな存在になってしまった。にもかかわらず、現在もこの問題で板挟みに合いノイローゼはおろか自殺者までだす騒ぎになることは周知のことである。その原因はこの組織率が、たとえば三重県においては98%という極端な高さに見られるように、一様ではないことがある。一般に西日本が高い。その分、国家、学校管理職と日教組の対立は深いというべきだろう。

 

平成11年に起きた広島県立世羅高校の校長自殺の背景には、日教組に加えて同和関係の組織がからんだ。後者はすさまじい抗議行動で有名だが、特に広島は代議士を送り込むほどの力の有る組織である。国つまり文部省と教育委員会は中間管理職たる校長に圧力をかけ、校長は何度も組合説得を試みるが聞き入れてもらえない。泣く子も黙る、ブン屋もTV局も恐れをなす「おどし」がやくざ以上だったことは想像に難くない。校長は行き場を失った。
拝島が何歳かは明らかでないが、40歳前後だとすればちょうどバブルの頃に成人していることになる。金あまりの世の中で、拝島の国家観が社会主義を目指すという思想の上に築かれているとは考えにくい。では、国が個人の国家観に干渉すべきではないという一連の文科省通達への抵抗か?だとすれば公務員たる教師が法律に従わないのはおかしいといわれれば反論しにくいのではないか?これが民間なら規則に従わないものとして即刻首になる。要するに「象徴天皇制」は民主主義に反するといいたいのであれば、いっそのことはっきりしていた。しかし、これもまた現在の天皇家の存在を前提にしたら感覚的に考えにくいことではある。いったいなぜこの男は柄でもない(はずな)のに何に抵抗しているのか?
それがわからないところが芝居ではないかといわれそうだが、確かにあからさまになってしまったら途端に面白くなくなるかもしれない。ただ、この年齢のものが今どきこんなくだらないことにこだわっているのが不思議に思えたのである。

 

最近読んだ本の中でなるほどと思うことがあった。戦時下の言論統制に関して、戦争反対を唱える勇気というのも評価されていいが、統制が厳しければ直ちに投獄、あるいは惨殺されて言論が封じ込められてしまい、戦争反対という言論の政治目的は果たせなくなる。それでは働き掛けた大衆に対して言論人としてまるで無責任ではないか。そういう状況下でも抵抗の方法は有るとこの本は実例(戦後短い間首相をやった石橋湛山と大教養人、林達夫)を紹介するのである。(加藤典洋「僕が批評家になったわけ」岩波書店)

 

拝島も不起立不参加で首になったら、自分の言い分を述べる場所を失う。しかも生活の基盤さえなくなってしまうのだ。大人のやることではない。
そもそも、戦争に負けてからの日本と戦前の日本では違うのだというけじめをつけてこなかったから、今になって「日本」とは何かがよく見えてない。帝国憲法の時代にしても天皇は「君臨すれども統治せず」という立場であったが、支那事変当たりから統帥権の侵犯といって軍部がのさばり、負けそうになると「国体護持」と叫んで「天皇=国家」という図式を強調してしまった。戦後、国体は護持されたような格好(象徴天皇)であいまいに戦前を受け継いだから、国家あるいは日本国とは何かが(僕にとっても)よくわからない存在になっている。僕らが小さい頃のことは忘れてしまったが、今学校の行事に出かけると、正面に大きな日の丸が掲げてあり、校長も、来賓もこれに深々と一礼してから演壇の前に立つのを見て、非常に強い違和感を覚える。彼らは日本国人民に頭を垂れているのか、日本国の象徴たる万世一系の天皇を思っているのか、それとも日本国政府なのか?不明である。なぜ異様に映るかといえば、こんなことは学校行事以外で見ることはほとんどないからである。昭和三十年代までは旗日には各家で玄関に国旗を掲げた。今はあまり見ることがない。国家、国など意識しなくていい時代になった証拠である。無理やり意識せよというなら、国家、日本国とは何かを定義し直して示すべきだ。その上で、国家を守るために軍隊は必要だ。軍隊を維持するには徴兵制を敷くべきだ。などということになったら、いくら「ヨン様」追っかけのご婦人方でも一票投じるのはやめにするだろう。

 

昨年だったか、皇居の園遊会に招かれた将棋の米長邦雄が「すべての学校で国旗掲揚、国歌斉唱をするように働き掛ける仕事をしている」というと天皇陛下は「あまり強制にならないように・・・」と述べられた。国旗国歌法を作った保守党の政治家たちは「ぎゃふん」だったろう。
拝島がどんな理由で不服従だったかは知らないが、せいぜいマルクス主義のイデオロギーを背景にした年長者の理屈を受け継いだものに違いない。四十にもなったら、不惑という言葉があるくらいだから、自分の思想と現実に始末をつけておくものだ。

 

ちなみに僕は、子供の行事で学校に行くときは、何も考えていない。君が代は口パクである。お辞儀は格好だけやる。つまらぬ挨拶の間は他のことを考える。我が国の弥栄を願うものであるが、徒党を組んで同じ歌など歌えるものか。今はそんな時代ではない。
拝島が、相手にしたのは善良な校長と、無関心な同僚くらいのものだったからよかったが、本来この問題は広島の校長自殺事件のような深くくらい背景を持っていると考えたほうがいい。もっともそんなものなら誰も見たくないだろうが。

 

この芝居は書かれる前にロンドンでもやることになっていたそうだ。本が出来て向こうに送ったら、この内容をロンドン市民は理解できないだろうと沙汰止みになった。「日本では先生が国歌を歌わないと罰を受ける」という話はあちらでは仰天ニュースなのだそうだ。
これもまた妙な因縁をつけるものである。日本は近代化を進めるに当たって欧州を、後半は特に英国をモデルにした。同盟さえ結んだ。モデルにしたのは植民地主義の英国である。他に方法を知らないから満州国をつくって五族協和をやろうとした。石油がないから東南アジアに攻め込んだ。その前に英国が、ヨーロッパが東南アジアにやったことをまねしたわけだ。オランダもイギリスも一敗地にまみれて退散した。植民地主義の極致をやってあっという間に日本は負けた。植民地主義そのものが破産したというべきである。

 

ところが、英国もヨーロッパも勝利したから国の形を考え直す必要がなかった。日本は植民地主義はダメだとわかったが、今度はモデルが無くなった。モデルがないまま日本はどうにかこうにか戦後60年をやってきたのである。国とはなにか、国家とはどういうものか、この国に暮らす人々、我々にとってふさわしい国のあり方はなにか、それを探るのに悪戦苦闘してきたといっていいかもしれない。つまり国家のあり方を巡っては、日本はまったくオリジナルな議論を展開せざるを得なくなっていると考えるべきだ。最先端である。極端な言い方をすれば欧州こそすでに古いのである。
その最先端で、もっとも普通の感覚でいえば、国とか国家とかは「・・・あまり強制的にならないよう・・・」なところに置いておくべきではないかという実にニュートラルで、良識ある主張が、永井愛の国家観でありヒューマニズムだと理解したら、ロンドン市民が小ばかにしたような狭量さを示すこともなかっただろう。

 

題名: 歌わせたい男たち
観劇日: 05/10/21
劇場: ベニサンピット
主催: 二兎社
期間: 2005年10月8日~11月13日
作: 永井 愛
演出: 永井 愛
美術: 大田 創
照明: 中川隆一
衣装: 竹原典子
音楽・音響: 市来邦比古
出演者: 戸田恵子 大谷亮介 小山萌子 中上雅巳 近藤芳正

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