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2022年12月 3日 (土)

劇評「チェックポイント黒点島」(2006年12月)

Kokuten 舞台の上に二坪(一間×二間)ほどの大きさの小屋がおいてある。ベルリンの壁があった頃、西側の検問所として使われたものを再現したのだという。チェックポイントチャーリーといった。とは言え舞台がこの検問所のあった時代のベルリンというわけではない。坂手洋二はあの時代に東ヨーロッパを公演で訪れており、その頃の体験を思いだしながら、どことはいえないが、どこか国境あるいは境界線のあるところという設定で、この劇を始める。

国境=ボーダーラインは日本にはない。だから日本人は国境に鈍感であると前口上の後、ヒロコ(竹下景子)、ツヨシ(猪熊恒和)の夫妻がこの小屋を挟んで最近自分の近所の通り道に検問所が出来たと少々驚くべきことをいう。なるほど、検問所というのは日常を切り裂く道具でもあったなあと感心する。

境界線を見張っているこの小屋が、ときには窓枠を上にはね上げ、腰板を前に広げて内部をあらわにし、さまざまな場所に設定を変えて、いわば狂言回しの役割をする。こういう大道具は、「屋根裏」の発想(アルミフレームで作った極く小さな三角形の空間を持つシェルター状の舞台)のを持ってきたものと思われるが、ときには脅迫的なイメージにもなってあの狭いザ・スズナリの舞台にはちょうどいい大きさだった。

物語は、ヒロコが、普通の主婦と南の島の黒点観測をする研究者の妻、それに昔大ヒット作を書いて、いまは活動を休止している漫画家という役で進行する。ただし、主筋に関係しないエピソードがスポット的に入ったり、過去の漫画の中の出来事なのか、現在の話なのか、目まぐるしく変化するので筋書きを追うのにはほとほと疲れてしまった。 

だからいうわけでもないが、この作品は坂手洋二が、現実政治にコミットしようとして「現代日本の政治状況あるいは政治・社会問題」を出来るだけ多く集めて、自らの見解を示そうとしたものといってもいい。少し意地悪な言い方だが、まず取り上げられるべき問題があって、それらを適当に置いた間を登場人物たちがつなぐというやり方で構成したようにも見える。しかも、それが漫画あるいは漫画家という設定にしたので、現実をデフォルメする効果と自身の見解をぼかす間接的批判という二重の効果を揚げることが出来た。 

若い頃、山崎哲のところにいただけあってなんとか現実にコミットしようとする指向は、よしとする。しかし、前回の「上演されなかった『三人姉妹』」(チェチェン紛争が関係する)もそうだったが、目の付け所はともかく、その見解は空回りして、説得力という点では到底及第点に達していなかった。

この作品において真ん中に据えられたのは「国境」という問題である。日本に国境はないが国境問題はあるというのが坂手の関心である。つまり、竹島を巡る韓国との摩擦は、島根県の議会が漁業をする上で具体的に障害になっていると主張して「竹島の日」を制定したことで再び加熱している。話題として今日的である。また、東シナ海の大陸棚の地下に油田あるいはガス田があると分かると、尖閣諸島の領有を巡って、中国と台湾がそれぞれ帰属を主張しはじめた。そして、対馬に韓国から観光客が大挙押しかけて、占拠する勢いだが、現地としては経済的に助かる反面マナーの悪さに悩まされているという報道もあったばかりだ。北方領土については、いうまでもなく戦後ソ連と国交回復して以来の交渉事であり、国民の悲願といっても言い。坂手としては、日本にボーダーラインはないが見えないところに国境はあると注意を喚起したいのである。 

この芝居では、石原慎太郎都知事が尋ねてダイビングなどのパフォーマンスを披露して有名になった沖ノ鳥島=実は岩礁を念頭において、太陽の黒点を観測するために夫婦が住んでいる極小の島というか岩礁を舞台に設定した。つまり黒点島である。太陽の黒点を観測することは、太陽活動の影響を受ける地球にとって気象を予測するだけでなく、経済や資源の問題など重要な役割を担っている。夫婦は障害物のない孤島という観測に適した環境を選んで住み着いたのだが、そのうち、夫のほうが岩の間に足を取られそのまま下半身が抜けなくなってしまった。つまり島というか岩礁に私有財産的意味の根が生えてしまったのだ。いうまでもなく黒点観測は、地球全体のためにしていることで、特定の国の利益にのみ供するものではない。少なくとも夫婦はそう思っているようだった。ところが、からだごと岩に捉えられた結果、そこはこの夫婦のものになった、かのように見えた。
やがて、日本を始め中国や台湾、アメリカ、韓国、北朝鮮の国旗を付けた小舟が四方から迫ってくる。排他的経済水域という利権があるから、ここは自分のものだとそれぞれ主張する。むろん尖閣諸島の資源問題も重なっている。しかし、夫のからだが岩から抜け出せないためにひとまずあきらめるしかない。これが、後でとんでもないことに発展して唖然とすることになるのだが・・・。 

いくつか脇筋として挿入されるエピソードがあった。一つは、世田谷一家殺人事件の犯人を韓国人の若者と示唆するものである。黒いジャージの上下に黒い毛糸の帽子を目深に被っている。二人の男が足踏みをしながらそれらしい会話を交わして闇の中に消える。犯罪が国境を越えてやってくるという今日的な問題を示唆しているのだろう。 

もう一つは、大学のロックアウトである。それまで必要のなかった学生証の提示を求める大学当局に、学生たちが抗議をしているというものだ。大学の職員が数人、門の前で、中へ入ろうとする学生たちを阻止している。暴力的にならないように気遣いをしているようだが、学生たちは次第に興奮してくる。キャンパスには警官隊の姿もみえる。ここにも境界線はあるというのだ。今や懐かしい全共闘運動時代の光景がよみがえる。 

そして、これは主筋に関係するが、北朝鮮の拉致事件あるいは冷戦時代の東西離散家族を思わせるエピソードである。 
ヒロコの弟、クニオ(大西孝洋)が長い不在の期間を経て、家族のもとへ帰ってくる。ところが、クニオは記憶が曖昧らしくどこにいて、何をしていたものやら分からない。ともかく帰ってきてめでたしめでたしと家族が一同喜ぶのだが・・・。 
話は前後するが、これより前、例の黒点観測の夫婦に再び話が及び、地震の後、ついに夫のからだが岩から離れると、いよいよ島を巡る争いが激しくなると予想された。ところが、地震は留まらず、島は浮き上がりどんどん陸地が広がっていく。広がって、とうとう中国日本台湾朝鮮、つまり島は大陸とつながって、誰のものか特定できなくなってしまうことになる。壮大な話といえばいえるが、どうも、やれやれの感じである。 

ざっとこれだけ手の込んだ話を繰り出した、坂手のサービス精神は十分理解できる。ただし、テーマは一貫しているが、時代が飛躍したり、関連性のうすい話を盛り込みすぎて、こっちは頭がお祭り騒ぎになってしまった。それはまあ、僕のほうの責任もあるから何ともいえないが、しかし、こういうことで、現実政治にコミットしようというのは、明らかに不毛である。 

ボーダーライン=境界線は、国と国だけではなく普段の暮らしの中にも、人間と人間の関係にも存在するというのは分かる。しかし、それらを一括して解決する何か魔法のような、黒点観測島のエピソードでいうなら、島が大陸とつながってめでたしめでたしという解決方法があると期待するのは全く間違っている。 

坂手は、イデオロギーのような理論というか理屈ではっきりとその差異が分かるような違いを前提にしてものを考えているように見える。かつては、マルクスーレーニン主義を標榜する国があり、対して資本主義経済システムで運営される国があって対立していた。また、かつて大学の自治と自由は保証するという暗黙の了解が社会の中にあった。しかし、あれほど排斥された産学協同は今日では当たり前のことになった。社会はむしろそれを奨励し、大学も自立的な運営が望ましいという価値観に変化したのである。 

だから、イデオロギーのような大きな差異ををはかる物差しで、政治的な問題を解決するという道筋は消えたのだ。今やそれぞれ個別の差異を具体的にどう折り合いをつけていけるか、それを問題にしなければならない時代になったのである。 
もし、沖ノ鳥島の問題を我が国国民に問うたら、誰のものでもないようにしようなどというものがいるはずはない。尖閣諸島も然りである。竹島についてはかつて李承晩ラインが解消された後の交渉で韓国の外務大臣がこんなにもめるのなら、いっそのこと爆破してしまったほうがいいといったとか。坂手の発想もこれを裏返したようなものだ。領土問題は、昔なら戦争の火種になったが、人類も多少は賢くなって、武力を使わない解決方法を考えるようになった。竹島を実効支配している韓国のやり方が、三等国以下の振る舞いだと世界中が見ていることを忘れてはならない。 

そもそも、日本は過去において国際的な許容範囲の水準が上がったことに気付かずに戦争に突入していった苦い経験を踏んでいる。第一次世界大戦で日本は南西太平洋に散らばるドイツ領の島々を植民地にするという漁夫の利を占めた。サイパン島には二万余の人々が移り住んで、後々万歳リーフなどという悲劇のもとになったのだが、この時欧州の厭戦気分は頂点に達しており、国際連盟の設立やパリ不戦条約の締結といった紛争や戦争を忌避する具体的な取り組みが進行していた。にもかかわらず、日本だけは満州事変から満州国独立、国際連盟脱退、中国への侵攻と孤立を深めていったのだが、これこそ国際関係を見誤った痛恨の振る舞いだったのである。いや、昭和十年代のいつでも戦争をやめる機会はあったにもかかわらず、「やめかた」の知恵が回らなかったのである。 

そして今や核兵器の時代である。国際紛争を武力で解決しようとすれば核兵器が使われるリスクを引き受けなければならない。これを避けるには国際世論を味方につけながら話し合いで解決する以外になくなった。 
つまり紛争は個別の、固有の歴史や固有の関係者及び周辺関係国が複雑にかかわるパワーバランスの上にあるもので高度に政治的なかけひき、つまり外交上のイッシューである。ある意味でウルトラリアリズムの世界であって、劇に描くのは勝手だが、結果を提案するなどは今日、愚の骨頂である。いや、提案したところでなるほどと納得のいくものにはならない。 
それにしても、拉致問題など本音を吐けば、今日にでもピンポイント爆弾で金王朝を爆撃粉砕したいと誰もが思っているに違いないし、人が住めるわけでもない竹島に軍隊を駐留して勝手に占拠している韓国に対しては、空から爆弾をまき散らしてやりたいと思うものである。尖閣諸島にしても、日の丸を掲げて上がり込んだ国会議員の振る舞いに、やんやの喝采を叫びたいところだ。 

しかし、それではなにも解決しない。 
坂手洋二のいう通り日本には紛争の火種としての境界線がいくつかある。世界中にそのようなボーダーラインは無数に存在する。それに関して人々が比較的はっきりした見解をもてたのは、せいぜいベトナム戦争までであった。あれは、ドミノ理論=途上国が民族主義と結びついた社会主義に次々取って代わられるのを防衛するという危機感で戦われた。進歩的知識人がベトナム戦争にはっきりとした態度を取れたのは、彼らが漠然と社会主義を正義だと考えていたからであった。 

91年の湾岸戦争は、クウェートという英国が作った世にも不思議な国をサダム・フセインが侵略した戦争だったが、当時の進歩的知識人の発言は、ほとんど世迷言に過ぎなかった。日本人が当事者意識など持てないことに気がついた最初の戦争だったのではなかったかと思う。
政治的な問題にコミットしようという気持ちは分かるが、複眼的な視点を持たなければ有効な発言にならないことを悟るべきである。竹下景子と渡辺美佐子を招聘し、下北沢ザ・スズナリ25周年記念公演として約一ヶ月続けたのは快挙というべきであろう。
しかし、漫画を持ち出して結論をバカに曖昧にしたのは禁じ手ではなかったのかね。

タイトル

チェックポイント黒点島

観劇日

06/12/1

劇場

ザ・スズナリ

主催

燐光群

期間

2006114日~123

坂手洋二

原作/翻訳

 

演出

坂手洋二

美術

二村周作

照明

竹林功

衣装

大野典子

音楽

島猛

出演

竹下景子 渡辺美佐子 中山マリ 鴨川てんし    川中健次郎 猪熊恒和        大西孝洋 江口恵美 樋尾麻衣子 内海常葉  裴優宇 久保島隆 小金井篤 桐畑理佳 阿諏訪麻子 安仁屋美峰 樋口史 高地寛 伊勢谷能宣 嚴樫佑介

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