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2022年12月 7日 (水)

劇評「エルドラド」(2006年9月)

Condors

客席を眺めてみると、とびきり若いというわけでもなく、あえていえば団塊ジュニアといった年代、30歳代が中心のように見える。女性が多いのはどんな劇場も同じだが、不思議なのはその年ごろとおぼしき男が単独で坐っているのが散見されることだ。そして僕の後ろには小学生の女の子がいた。こういう構成の客席には出会ったことがない。悪い予感がした。
シアターアプルの幕のあいだから金色のテープが何本も客席に固定されていて、これが舞台にたぐり寄せられて開幕する。繊細さを欠いた仕掛けに半ばあきれる。薄暗がりで学生服の男が何人も乱舞し始める。なかに二三人、身体のきれが非常にいい踊り手がいて、これがまるで武闘と紙一重のような動きを見せる。神戸女子学院大学教授の村上直之が書いた新聞評に目を通していったのだったが、それによるとこれは「コンテンポラリー・ダンス」というものらしい。

Kondo

 

昔、米国の黒人の少年たちが飛んだりはねたり逆立ちしたり頭を下にして回転するという踊りなのかパフォーマンスなのかを見たことがある。スネークダンスといったか?身体性だけで見せるダンスというものがあるのかと思ったが、あんなものはいくら見たって「それがどうした」というものだった。これもほぼそれに近い。しかも、十人以上も舞台で動き回っているが、ほとんどは踊りになっていない。出来の悪い体操を見せられているようだ。
神戸女学院教授の村上直之はこう書いている。
「この5,6年コンテンポラリー・ダンス人口は急激に増加している。年来の友人の舞踏家によれば、ワークショップはどこも盛況だ。けれど、主宰者は参加者から精神的な悩み事の相談を受けることが多く、最近のダンスブームは<癒しブーム>や<健康ブーム>の延長線上にしかないという。
確かにこれまでわたしが見てきたダンス公演はどこも満席だったが、そこには一種独特な重い空気がただよっていた。身体への関心が内向的な観客に支えられた舞台に、舞台表現としての成果を期待するのは無理なのかも知れない。」
なるほど、客席を眺めて不思議に思った光景は、このようなものとしてコンテンポラリー・ダンスを見ればきれいに理解出来るというものだ。要するにもともと他人様に見せるようなものではなかった。
ところが、村上は驚いて見せる。
「12人のメンバー紹介の映像がスクリーンに映し出される。すると、客席はたちまち拍手と笑いの渦に巻き込まれる。笑いで始まるダンスの舞台は前代未聞だ。」と。
広島ではそうだったかも知れないが、しかし、東京ではこの笑いはちょっと乾いている。拍手も「渦」と言うことはなく疎らである。ファンならではの、いやおうない好意の表象というのとは少し違って、突き放した笑いである。もともとお笑いタレントでもない素人同然の彼らがいうほどの興奮をかき立てるはずもない。
村上はこの後、
「リーダー近藤良平の、舞台空間を縦横に駆使したハイテンポでしなやかなソロが始まると、550の客席は早くも興奮状態に包まれる。世界的なバレリーナ森下洋子を生んだ広島の観客は熱い。」と書く。
確かに近藤の踊りがなければ、高校生の文化祭で見るパフォーマンスと大して変わりはない。そういうレベルの代物だ。バレリーナ森下洋子と並べて書くのにはあきれて笑うしかないが、村上のサービス精神とは言え、こんなものといっしょにされたら森下洋子も迷惑だろう。
この村上の記事は、村上が注目したことと僕が印象に残ったことがほぼ重なっていて、しかし、感想は全く逆のものだが、批評を書くのに好都合なので、しばらく引用させてもらう。
「・・・中に肥満体形の大柄なダンサーがいて、彼のテンポがちょっと鈍い。隣席の友人の音楽家に、そのことを耳打ちすると、即座に『あのオクダサトシが面白いんです』といわれた。『そういうものかな』と見続けていると、確かに彼の踊りは柔軟で奇妙な味がある。ダンスは揃っていなければならないという固定観念を、このグループは覆してしまったのだ。」
このオクダサトシなる「でぶ」が何者かHPでみたら、映像作家とある。どこを探しても彼の経歴のなかで「ダンス」など出てこない。ついでに他のメンバーも調べたら、もともと『ダンサー』としての経歴のあるものなど二三人だけだ。ダンスは揃っていなければならいという固定観念を「覆してしまったの」ではなく、ユニゾンダンスを揃えたくてもその技術が始めからなかったのである。彼らが能動的に「覆した」ように村上が書いているのは真っ赤な嘘といわざるを得ない。
また、彼らがダンスだけでなくテレビのバラエティ番組のような、つまらぬ出し物を繰り出すことについてもやけに褒めている。
「コント芝居、アニメ映像、和太鼓やピアニカ、ギター演奏、動物の人形劇、そしてまたダンスというように、さまざまなパフォーマンスがハイスピードかつ濃密に展開する・・・これはもうコンテンポラリー・ダンスという分野の枠を越えた、さまざまな舞台表現の婆娑羅的な蕩尽といってよい。」
まあ、「婆娑羅的な蕩尽」とはよくいってくれたが、とりあえずはベタ褒めだと解釈してもよいのだろう。
ところが、コント芝居は演じているものがもともと素人だからせりふもまともに出てこないし、話題も下ネタが入って下品この上ない。アニメ映像は、袖のスピーカーの上に小さい白い板をぶら下げ、舞台中央に何だかだらしなくスクリーンをおいてそこにビデオ投影機で映し出すのであるが、この仕掛けはピントが合わないからさっぱり見栄えがしない。こういう貧乏臭いやり方ならそれに合わせたアニメもあるが、ちっとも面白くならないまま幕になってしまう。
和太鼓ときたら、「鬼太鼓」のように大小取り混ぜた太鼓の集団が勇壮な音を聞かせてくれるものと期待する。しかし、幕が開いたらたった一つ太鼓がおかれて、短躯短足の半裸の男が一人それらしくたたいているだけだ。太鼓は太鼓に違いないが、寂しい太鼓である。ピアニカやギターの演奏といっても、一曲たっぷりと聞かせてくれるのかと思ったら、まるでそんなに長くひいたらへたさ加減がバレてしまうといわんばかりに、ジャンと奏でて終わってしまった。また、動物の人形劇といえば聞こえはいいが、リンゴ箱の上に動物のフィギュアを何個か並べて幼稚な劇を見せるという代物で、内容は、「おかあさんといっしょ」に出てきそうなものである。子供が客席にいる理由が分かった。
「とりわけ異色なのは・・・ホルンを吹きながら現れる褌一丁のダンサー・石渕聡だ。・・・このシーンに限らず、石渕の狂気みなぎる、それでいて底抜けに明るい舞台は、我が国が世界に誇る暗黒舞踏にも見られないユニークさだ。あとで知ったのだが、彼はロックギタリストであり、また「冒険する身体」(春風社)という現象学的舞踏論の著者でもあるという。」
この石渕こそあの短躯短足半裸の太鼓奏者なのだが、この男よほど裸が好きなのか、確かに客席から褌一丁で現れる。ホルンは、どこか南洋の土(着)人のペニスサックのように抱えるという怪しげな格好で、しかしそれを「吹きながら現れる」というのは嘘である。ブーと息を吹き込むだけで、演奏が出来るわけではない。こんなもののどこが面白いのか。
石渕はロック・ギターひきだということだが、踊りを習う暇など無かっただろうからおそらく見様見まねなのだろう。そのくせ、舞踏論を書いているのも不思議なことだ。この本がどんなものか調べてみた。
サブタイトルが「現象学的舞踏論の試み」とある。サルトルの「存在と無」のパロディか?と思わせる。(「存在と無」はサブタイトルが「現象学的存在論の試み」)
ある解説によると「現象学的見地から「踊ること」を読み解き、「ダンサーの道具としての身体」を解放する。舞踊の意味と身体の問題を考察し、観客が舞踊を受容するあり方、また舞踊の意味が生成する様相を構造化する。」
こういう文章を書いたものの頭をかち割ってやりたいが、我慢して、分かったことだけいうと「観客が舞踏を受容するあり方」を石渕が気にしているらしいことだ。ならば、自分の「舞踏?」が客に受容されるかどうか現象学を駆使して、じっくり考えてみたらどうか?身体を動かしただけで舞踏だなどと強弁する気ではないだろうな。
ロックギターをやって舞踏を論じる、ついでに裸と踊りらしきものを見せる、いったいどうなっているのだ。まあ、勝っ手にせい!というしかないか。
村上はこの集団をよほど気に入ったのか最後に、こう結んでいる。
「誰か野心的なテレビプロデューサーが現れて、全国の子供たちに自由な精神と元気を与える彼らの番組を制作しないだろうか。コンドルズの世界は、マルチアングルなハイビジョン時代にこそふさわしい。」
この村上も近ごろの風潮に染まっていて「自由な精神」はともかく「元気」が与えられたり、与えたり出来るものと思っている。もともと、どちらも主観的な「態度」のことであって、もののようにやり取りするものではない。いや、これは主要な問題ではなく、「全国の子供たちに」といっているところがそもそも怪しいのだ。
「何故学生服かという質問に、放課後自由に遊んでいるイメージ」と応えている。確かに学園ドラマ「金八先生」のパロディ風のコントもあったりして、始終、客席のアチコチで子供らの笑いが絶えないのが印象的だった。もしも彼らの舞台を系譜づけるとすれば、かつて劇場中継で夜八時台のテレビ視聴率を独占したドリフターズの世界を継承するものといえよう。」
だからテレビ局に取り上げたらどうかといっているのだ。確かにお子様向けの番組としてかつての代表的俗悪番組をつくったドリフターズの後釜になるかも知れない。しかし、考えてみれば現在のテレビ局はそこを通過して今に至ったのである。善人ぶった連中や芸無し芸人の能タリンが占拠するとは言え、このタレント大消費時代に再びドリフターズの夢を見るのは時代錯誤もいいところである。
それよりも、コンドルズの連中がやっていることは、彼らが育ったあのドリフターズの時代のつまらぬコントや楽器を使った出し物をノスタルジックにやっているだけではないか?
くしくも村上がいっている通り、お子様向けなら何とか通用しても、大人の観賞にとてもじゃないが耐えられるものではない。
外国へ持っていくのは、日本の恥をさらすようなものだ。
日本は経済大国と聞いていたが、この「シャビいな舞台」はなんだ、といわれるのが落ちである。
「婆娑羅的蕩尽」の婆娑羅は安土桃山時代の豪奢で華やかで奔放な様をいったものだ。それを思いっきり大量に一時に使いきるのが蕩尽である。
マジックで体操着に番号を書き、ピントの合わない映像を見せ、リンゴ箱の上にビニール製の動物人形を並べる貧乏臭い舞台のどこが婆娑羅なんだ。中途半端な芸をいくら見せてもそれを「蕩尽」というか?村上教授は言葉を知らないな。
この言葉にふさわしいパフォーマンスが日本に一つだけ、いや世界に一つだけある。
そういうものを知ってからコンドルズを見ると、なんといういい加減なものを舞台にかけるものだと腹が立ってくる。ガキの遊びだ。
彼らは、ダンス、歌、コント、ドラマ、映像、太鼓、バンド(楽器)、マリオネット、ベル音楽etc.どれもすべて本格的に演じることができる。集団で活動する以外の時は、それぞれ専門の舞台で多くの観客を集める実力の持ち主であり、ときには舞台俳優であり教師であり振付師である。彼らのダンスはぴったりと揃っている。彼らの太鼓はそれだけで大人の観賞に耐える。3時間に及ぶパフォーマンスをたっぷりと楽しませてくれる。
婆娑羅的蕩尽というなら村上さん、「ザ・コンボイショウ」のことでしょう。

 

題名:エルドラド
観劇日:06/9/1
劇場:新宿シアターアプル
主催:コンドルズ
期間:2006年8月30日~9月3日
作:近藤良平
演出:近藤良平
美術:近藤良平
照明:坂本明浩
衣装:高松浩子
音楽・音響:原嶋紘平
出演者:青田潤一 石渕聡 オクダサトシ 勝山康晴 鎌倉道彦 古賀剛 小林顕作 高橋裕行 橋爪利博 藤田善宏 山本光二郎 近藤良平 

 

 

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