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2022年12月 4日 (日)

劇評「奇跡の人」(2006年10月)ー石原さとみ

Kiseki_hito

三年前に大竹しのぶと鈴木杏で見た。大竹しのぶの当たり役で、何度も再演を繰り返した名作である。この時の劇評は感ずるところ多かったと見えて、いま読み返してもかなり力が入っている。
装置はそのままだったが、その時と全体の印象がかなり変ったような気がした。キャスティングはむろん一部を除いて交代している。田端智子についてはあとで書くことにして、とりあえず石原さとみには感心した。初舞台ということだったが、小さな身体が良く動いてあれだけの表現が出来るなら舞台でも十分やっていけると思わせる。少し遠かったので表情まではっきり見えなかったが、鈴木杏と比較しても遜色はない。典型的な美人顔のわりに、芸域は案外広くなるかもしれないと感じた。これだけは期待していなかったので正直なところ拾い物だと思った。
それはそうと、見ているうちに雑な演出、説得力のないせりふまわしに驚いて、第一幕が終わったところで、思わず今回はパスしようと思っていたパンフレットを買いに走った。なるべく前回と比較しないように、それ自身を虚心坦懐で見ようと思っていたが、いったい何が代わったのかを確かめたいと思ったのだ。この時スタッフもキャストも二人を除いて何も知らなかった。
演出は鈴木裕美で代わっていない。なのにこの変りようはなんだ。サイズ(舞台の)が一回り大きくなったことは割り引いても、(シアターコクーンと青山劇場の違い)舞台の回転がのろのろと遅い。しかも、中途半端な位置で止まる。場面の転換、照明にメリハリがない。見ていていらいらが募ってくる。これらは演出の責任だが、すべて演出家に押し付けていいともいえない。
代わっていたのは翻訳だった。
せりふの説得力や切れ味が前回よりも落ちていると感じたのは、翻訳の違いにあるのではないか?そしてそれが舞台転換にも現れたのではないか?と思った。原典や額田やえ子の本と今度の常田景子訳を比較したわけでもないから、断言出来ないが、せりふの説得力という点で、全体の印象がしまりのないものに感じた。
小説でも何でも文章にはパラグラフというものがある。芝居すべてに当てはまるとは言わないが、劇の進行はこういう小さな部分がつながって前にいく。それが分かりやすく納得のいくものなら劇に同化していけるというものである。そして、いくつかのパラグラフがまとまって場の転換となるが、その最後の締めくくりのせりふに「切れ味」があるかどうかが重要である。これと一体なのが照明や舞台装置で、その「切れ味」がなければ、揃って印象はだらしのないものになってしまう。
アニー・サリバン役を大竹しのぶから田端智子に代えるのを機会に、翻訳を若い常田景子にまかせようとしたのだろう。額田やえ子の翻訳に不満があったのかどうか?それは分からないが、結果から見れば、代えようとした目的がはっきり見えなかった。ひょっとしたら単なる思いつきに過ぎなかったのではないかと思う。長年、定番とされてきた本を代える時には、明確な目的(コンセプト)を掲げて、十分考慮の上なされるべきだ。(シェイクスピアにおける福田恆存、小田島雄志の違いを見ればわかると思う。)
第一幕は、幼いヘレン・ケラー(石原さとみ)が高熱を発したあと、聾唖で盲目という後遺症が残ったことを母親のケイト(小島聖)が発見するところから始まる。父親のアーサー・ケラー(梨本謙二郎)は新聞社主で、典型的な南部人。五歳になって傍若無人に振る舞う娘を何とか教育しようとして、アナグノス医師(大鷹明良)に相談、北部の盲学校から家庭教師としてアニー・サリバン(田端智子)を迎えることになる。アニーは自身が盲目で、手術を繰り返した結果ようやく視力を取り戻した経験を持っている。長旅のアニーを迎えに出たケラー氏とヘレンの異母兄ジェームス(山崎裕太)はその二十歳という若さに驚いて、不安を覚える。アニーは、ヘレンと会ってこの小さな暴君が、並々ならぬ知能を持っていることを見抜いて、どうにか言葉を覚えさせようとする。
アーサー・ケラー役は、辻萬長から梨本謙二郎に代わった。辻萬長のしぐさは大きい。しばしば舞台の大きさに合わせてそれを変えているといってもいい。二千人の観客の誰もが分かるように表現する。200人の小屋ではオーバーアクションにならないように押さえる。長年舞台で生きていると身につくものかもしれないが、しかしそんなものは基本中の基本である。これが分かっていない俳優が多すぎる。
辻萬長は、南部の元軍人らしい謹厳さを終いには娘への情愛に変えた。今度の梨本ケラー氏は謹厳さを保つあまり情愛が希薄だった。
異母兄ジェームスは、前回は長塚圭史だった。父親への屈折した感情、継母を敬遠しながらヘレンに対する同情と愛情をうまく表現していた。ただし、座りの悪い役柄で、多分に演出のせいだが浮いた存在になった。人となりを説明する場面を付け足しでもしないとこの役はいつまでも中途半端に感じてしまうだろう。今回は斉藤裕太に代わった。悪ガキみたいに見えたのは若さのせいだけではなかったと思う。立派に浮いてしまった。
二幕目は、家族がわがままでやりたい放題のヘレンを放置していたが、それをアニーがきちんとしつけしようとする場面である。
朝食の席で、手で食べたり他の皿に手を出し、そこらを歩き回るのを捕まえて席に戻す。ヘレンはそれに腹を立ててますます抵抗する。しばしば取っ組み合いになるのをアーサーは見かねて、乱暴な扱いを続けるなら、北部へ帰ってもらうとまでいいはじめた。アニーは、ものには「言葉」があることをこの子に教えなければと思っている。手のひらにアルファベットを押し付けてそれを伝えようとするが相手はまだ理解出来ない。甘えられる家族のそばで教えるのは無理と判断したアニーは、ケラー家の敷地に離れがあるのを発見し、そこでヘレンと二人っきりで過ごすことを提案する。ケラー夫妻は心配するが二週間だけならと認める。
母親のケイト役はキムラ緑子から小島聖に代わった。これには特に違和感はなかったが、小島聖が細身で長身のため他と少しバランスが悪かったかと思う。それにしても、モデルをしていた彼女が母親役をやるようになるとは・・・。
三幕目。他に頼るものもなくヘレンはアニーの言うことに従った。朝食のテーブルでは自分の皿からフォークを使って食べ、終わるとナプキンを畳んだ。アルファベットを手のひらに打ち込むのは忘れなかった。しかし、その意味しているものにヘレンはまだ気付いていない。あっという間に二週間は過ぎた。待ちかねたケラー夫妻が迎えに来る。もう少し二人で置いてくれるように懇願するが、これだけしつけてくれたのだから十分感謝しているとついに夫妻は聞き届けてはくれなかった。
家に帰ったヘレンは、おとなしく歓迎のディナーの席に着いたかと思うや、またもとの暴君と化してそこいら中をかき回す大暴れを始める。アニーがどうするか試しているのだ。家族がぼう然と見ているうちに、アニーは散らかした食べ物をもとへ戻させる。水差しをひっくり返して抵抗するヘレン。アニーは自分で水を汲んでくるようにと井戸のところへヘレンを引っ張っていく。ポンプからほとばしる水。水差しを差し伸べるヘレンの手に冷たい液体のさらさらした気持ちのいいものが降り注ぐ。その途端に、不意に、突然彼女はそれを理解したのだ。・・・奇跡が起きたのである。
この戯曲は、初演がアン・バンクロフトとパティー・デュークで、確かトニー賞をとっている。後にアーサー・ペンが同じキャストで映画化し、二人の女優がオスカーに輝いた。名演だったのである。
さて、田端智子である。
一幕目は何とかなった。二幕目はかなりよれよれになって、三幕目は完全に息切れしてしまった。
つまり体力の問題である。いや、体力が続かないような印象を受けたという話である。辻萬長の例を出したが、舞台の場合テレビや映画と違って全身が常に観客にさらされている。したがっていつでも全身で「あるもの」を表現していなければならない。しかも小屋の大きさを考えて加減する。今度のアニー・サリバンはほとんど舞台に出ずっぱりだから絶えずその緊張感の中にいることになる。実は田端智子はそのことに次第に負けていったのである。
よれよれになるとは、身体の心張り棒が無くなってふらふらする(印象)ことである。そうならないために役者は腰に重心をおいて動き回る。洋の東西を問わず、劇だろうが踊りだろうが、腰をから舞台へ直角に落とした線を身体の心張り棒として動く。そうすればどんな姿勢でも無理なく発声出来、手足を使ってどんな表現でもできる。こういう基本が身についていないと必ずどこかに無理がかかって、終いには息切れするのだ。
3時間40分の芝居である。前回見た時はこんなに長い芝居だったとは思わなかった。あっという間に終わったような気がしたのに、今回は異常に長く感じた。田端智子の疲れが乗り移ったのである。
こういう基本的なことを教えられる機会があるかないかは知らない。しかし、それがなければ、天才、大竹しのぶと比較して何かをいう価値はないというべきだろう。まして、19世紀末の米国で、アーサー・ケラー氏のような典型的南部の保守派が持っているヤンキーへの格別な複合感情に対して、アイルランド気質を色濃く持っているアニー・サリバンがどんな感情で、どんなせりふを吐くかなんて高度なことを要求しても始まらない。
カーテンコールの拍手は田端智子がもっとも高かった。人気におぼれないで次は成長したところを見せてもらいたい。

タイトル 奇跡の人
観劇日 06/10/20
劇場 青山劇場
主催 ホリプロ・テレビ朝日
期間 2006年10月4日〜10月22日
作 ウィリアム・ギブソン
原作/翻訳 常田景子
演出 鈴木裕美
美術 堀尾幸男
照明 小川幾雄
衣装 前田文子
音楽 横川理彦・井上正弘
出演 石原さとみ 田畑智子 小島 聖 山崎裕太 歌川椎子 大鷹明良 鷲尾真知子 梨本謙次郎 田鍋謙一郎 武藤晃子 犬養淳治 他

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