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2021年9月 3日 (金)

劇評「反応工程」

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率直に言って、僕にはつまらない劇であった。劇評などしてもしょうがないと思っていたら、家人に何度も催促されるものだから、書くことにした。従って、以下はつまらない劇評である。

 

 

「宮本研は、天才である。」と昔、いまはもう亡くなった友人が言っていた。劇など見ない奴と思っていたのに驚いたのを覚えている。
「美しきものの伝説」「明治の柩」「夢-桃中軒牛右衛門の」と並べてみると、僕も同意する。特に「美しき・・・」は僕の大好きな戯曲だ。これは、大正ロマンを彩った人々の群像劇で、宮本研の傑作だと思っている。
この「反応工程」も群像劇だ。宮本研は、登場人物の多い劇を得意としているように見える。

 

 

 

話は変わるが、僕の生まれた街は人口六万五千程の地方都市で、ものごころついた昭和三十年代には、すでに勤労者劇団というものがあって、時々公演していた。学校の教員や電力会社の工員、銀行員や写真館、商店主、工場の職工など結構な人数で、照明や大道具も本格的なものであった。
いきさつは忘れてしまったが、ある時、たしか僕がいた高校の演劇部と合同公演があって、初出演の僕に、彼らの一人がメークアップを手伝ってくれた。このとき僕は悩める青年といった役柄だったが、いきなり顔をキャンバス代わりとばかりに様々な色に塗り重ねられた。この方が照明の下ではそれらしく見えるのだと言われて、なるほどプロ(?)は違うものだと感心したことを覚えている。

 

勤労者劇団は、労働運動とともに当時、どこの街にもあった。(と、思う。)
宮本研は、終戦後、九州大学の演劇部で活動したあと、国家公務員の傍ら東京でこの勤労者劇団に関わって、そのための戯曲の書き下ろしをはじめている。
そのあたりの事情を宮本研が書いている。
「わたし自身の演劇との関わりは、敗戦直後、九州のある大学に入り、ちょうどその頃活動を開始したばかりの学内の演劇サークルと接触し、入会し、その末端にぶら下がりながら、切符を売り、ポスターを貼り、公演の裏方や照明係をやったりと言う経験から始まっている。役者をやる気はなかったその頃すでに、小説を書いたり評論をやったり、それらが小さな雑誌や新聞に活字になったりもしていたから、やるとすれば、やはり、戯曲を書きたいということではなかったかと思うのだが、書くとすれば新劇だ。しかし、新劇などというものは見たことも聞いたこともなかった私としては、しばらくは大学演劇部の雑用係を務めつことしかなかったわけである。・・・・・・ 
東京に出てきたのは、一九五一年の頃で、上京した初っぱなに、血のメーデー事件というのがあった。東京もまた、と言うより、日本中がざわざわとしており、老いも若きも声高に叫び、走り回っていた。そんな時代であり時代の環境であった。・・・・・・
それから数年、東京の片隅に、働きながらコーラスなどを楽しんでいる小さなサークルがあり、それが今度お芝居をやろうと言うことになり、どうやったらいいか分からないのでめんどうを見て欲しいという話があり、それがのちに麦の会という名で呼ばれることになるグループとの出会いであった。・・・・・・」(エッセイ「そこからの出発、そこへの回路」より)
この麦の会のために戯曲を書いていたが、宮本研にとっては憂鬱であった。「今度は僕の書きたいことを書かせてくれるかい。」と言って生まれたのが、この「反応工程」であったという。
自分の書きたいものといっても、「麦の会」という集団を前提にしているという点では、やはり、群像劇だったのだ。これは「わたし自身の戦中戦後の体験を私なりに総括してみようと思って」書いたといっている。
つまりこの劇は、宮本研が、終戦間際に学徒勤労動員で働いた工場での体験を元に描いたものである。昭和二十年八月十五日に向かう数日間(8/5〜8/10)が空襲で幕を閉じると、続く終幕が、いきなりその七ヶ月後の昭和二十一年三月なのは、その間の彼の「精神の空白期間」を物語るもので、「老いも若きも声高に叫び、走り回っていた」戦後の喧噪とは彼一人別の地点にいたことを窺わせるという点で、この世代の「八月十五日」とは若干異質なものを感じさせるところだ。
これにはあとでまた触れる。

 

さて、学徒勤労動員で派遣された工場とはどんなところだったのか、劇はその説明から始まる。
会社の勤労課員、太宰(内藤栄一)が動員学徒の中学生、木戸(河原翔太)にこの会社は、三池炭鉱からでる石炭を原料に各種化学工業製品を生産する三井石炭化学コンビナートに属する会社であることを説明する。
舞台は、五階建ての工場の四階の一隅にある反応工程の現場。奥、下手寄りにやかんや湯飲みが置かれた木机と長椅子の休憩所、畳の小あがりがあってここが仮眠室となっている。手前下手には上の回廊に通じる鉄パイプの階段があり、下から登ってくる出入り口になっている。上手には大きな機械設備、反応釜の一部が見えていて、その手前に階下に通じる階段があり、設備の後方にも上下に連動した設備を行き来する階段があるらしい。
太宰の説明によると、「コークス炉にぶち込まれた石炭は乾留装置にかけられてガスとコークスとコールタールの三つに分離される。これが何百という種類の染料、薬品、爆薬に化ける。」
この現場は、反応工程といって、ジ・エチレングリコール(様々の製品に変わる汎用性の高いポリエチレン樹脂の原料)部門の最初の工程で、ここを終わった中間製品が下の蒸溜工程に落とされ、さらにその下の精留工程に流されて、化学変化しながらさまざまな薬品や製品になっていくのである。
木戸がこの工程でつくっているのはロケット砲の発射薬だときいているというと、ひとには言わない方がいいと窘められる。ここは軍需指定工場なのだ。
そこへ見習い工の矢部(八頭司悠友)がやって来て、七時から工程開始と告げる。
しかし、この工程は連続九回も失敗しているということで、確立した技術ではないらしい。それもそのはずドイツからもらった図面だけでこれをやっているのだから手探りなのだろう。
以前、他の劇評で書いたことがあったが、ドイツは、戦時中すでに石炭から石油をつくり出す技術を確立していて、必要量の10%程度を生産していたようだ。日本は生産できても1%にも満たなかったから、さらに高度に精製されたロケット燃料を工場生産するなどは望むべくもなかったのであろう。
軍需工場だから空襲で破壊される恐れはあった。数日前、八幡製鉄所がやられたばかりだ。しかし、この職場の日常にはまだ緊迫感は感じられない。
登場人物をスケッチ風に説明しておこう。
ベテランの責任工、荒尾(有福正志)は、この工場で三十年以上のキャリアがあり、大正時代にあった大きな労働争議(ストライキ)にも参加している。黙々と仕事をこなす職場の重鎮といった職人である。
その娘の正枝(天野はな)が「見張り」つまり現場事務所で働いている。
荒尾の下には、見習い工の矢部の他に少し年かさの徴用工、柳川(若杉宏二)がいる。
木戸は中学生だが、他に高等学校からの動員学徒が三人、この劇のいわば狂言回しの役割を与えられている。
田宮(久保田響介)は、職場でも評価が高い優等生で学徒動員のリーダー格である。資本主義や労働運動についての太宰の考えに感化されつつあり、太宰から借りたレーニンの著作を密かに職場の自分の棚に隠し持っている。田宮には妹、節子がいて、時々兄を訪ねて工場にやってくる。
影山(奈良原大泰)は田宮と同郷で、小学校からいっしょだった。影山に、ついに赤紙が来た。戦争が終わろうとしているこの時期に、である。職場では「おめでとう」と言われてそのまま入隊すると思っていたら、躊躇している。田宮が止めるのも聞かず、行方不明になってしまう。兵役拒否をしたのだ。
田宮たちの高等学校の助教授、清原(神農直隆)が行方不明の影山の捜索をしている憲兵(神保良介)をともなって、職場にやってくる。憲兵の求めに応じ、寮の捜索の結果、田宮の部屋から問題の思想書が二三冊見つかったというので、田宮に質に来たのだ。田宮は私物だと言い張るが、他に関係者がいるとにらんだ憲兵が誰から借りたものかいえばそれ以上追求しないという。しかし、田宮は学生が本を読んではいけないのかと清原に迫り、権力に阿るのは教師の態度とも思えないと清原を追求する。このままでは進学に支障が出るから持ち主を言った方がいいと誰彼に言われるが、田宮は太宰の名を明かすことはしなかった。
彼らのもう一人の同級生、林(清水優)は、清原から問題を起こした田宮に代わって班長をやるようにいわれるが、それは困ると田宮に文句を言うようなごく普通の男である。
他に、この会社の係長、牟田(高橋ひろし)と反応工程職長、猿渡(平尾仁)が時々現れ、現場がこれら会社側の人々によって監督されていることがわかる。猿渡は、いまは遊んでいるインディゴ染料の設備を動くように整備しておくようにいうが、軍需品でもない染料の生産を何故しようとするのか。
こうした職場の日常は、体験したものにしか書けない細々としたやりとりの集積であるが、この一見のどかな風景の背後に広島の新型爆弾やB29による爆撃など深刻な現実が迫っていた。
影山の故郷では、母親が息子の逃亡を恥じて縊死し、父親は市役所を辞めたという。影山はまだこれを知らない。
林が工場の敷地で影山と会うと、しばらく隠れていたが、明日会社に出てきて召集に応じると言った。
その日、清原が田宮、林にも召集令状が来たと言って憲兵をともなってやってくる。
その時、空襲警報が鳴り響き、機銃掃射が工場の壁を貫き、爆弾の響きが聞こえてきたと思ったら空襲が始まった。
田宮の問題の本は、自分が貸したと太宰が申告してきたので逮捕したと憲兵。姿を現した影山を憲兵が連行しようとしたたかに殴打。その中で影山が「見張り」で自分がやっていた仕事は、戦争が終わったあとの計画だったと明かす。つまり、影山は少しの間、隠れていれば戦争に行かなくてすむことを知っていたのであった。
田宮は清原助教授が持ってきた赤紙を目の前で破り捨て、影山を憲兵に売ったと清原の態度を厳しく詰る。しかし、憲兵に影山が現れると告げたのは林であった。
この騒ぎのなか、現場事務所からあがってきた正枝が、防空壕から田宮に用事があるといって飛び出た林の背中に機銃掃射があびせられ、また、憲兵にひかれていった影山が三階から飛び降りて死んだ、と告げる。
空襲の大音響の中、正枝と田宮はひしと抱き合って離れない。

 

この第三幕の終盤は、怒濤のような進行で、一個のセリフに一個の重い現実が対応しているにもかかわらず、それらがまるで夢の中の出来事のような感覚で展開する。それが、作者、宮本研の意図だったのか、あるいは演出の凡庸さなのかはわからなかったが、何か大急ぎでものがたりを終えたいという性急さを感じたところだった。
続く終幕は、前に書いたように翌年、昭和二十一年三月に飛んでいる。

 

復員姿の田宮が久しぶりに職場を訪ねてきていた。
GHQの指令で各企業に労働組合が結成され、この職場でも近く役員選挙があるというので太宰が立候補の準備をしている。
大学へ進学したかと思った太宰が訊ねると、田宮はいま、故郷へ戻って百姓をしている、何かをするという気分になれないという。

 

「どうしてって訳じゃないないんですが、なにかこう・・・まわりが霞んでしまって、自分がどこにいるんだか、どっちを向いているんだか、何をしたいんだか・・・さっぱり見当がつかないんです。いままで、なにか、積み木細工のうえにあぐらをかいてたみたいで、それがグヮラグヮラ壊れてみると、何からどう手をつけていったらいいのか、どこをどう歩いていったらいいのか、さっぱり見当がつかないという感じ。・・・」

 

見習い工の矢部が、いきいきと組合活動に取り組もうとしている。
荒尾がやってきて、何もなかったら今夜泊まりに来いという。
その前に、「『見張り』に寄ってみるか?」
田宮が頷く。
「ばってん、前の『見張り』は焼けて無うなった。」
田宮がここを去った明くる日、『見張り』は直撃弾を受けていた。
荒尾が、ぽつりとつぶやく。
「正枝は死んだたい。」
・・・・・・立ちすくむ田宮。
かすかな歌声と工場からサイレンの音が鳴り響いている中、溶暗。

 

 

 

終戦と言う現実が、田宮に生きる方向感覚を失わせてしまっている。労働運動や社会主義の理念は、太宰とひそひそ話す話題であった。その本もひとに隠れて読むものだった。
しかし、いま目の前にあるのはその理念が宿った生きた身体であり、その目的に力強く歩み始めたひとびとのエネルギーである。
田宮の実感は、これでいいのだろうか?この現実を、オレは受け止めて肯定的に生きていけるのだろうか、と言う戸惑いである。
これこそ作者の真情を投影したものであり、宮本研の戦後の出発点であったということができる。

 

宮本研は「8・15と私の原理」という短いエッセーの中で、こう書いている。
劇の中にあった、会社が染料の生産設備を動かす準備をしていたことを引いて、

 

「戦争の大義はすでに残骸と化していた。タテマエの世界は瓦解し、ホンネが白昼を横行しはじめていた。国家の原理が死に、私の原理が顔を見せ始めていたのである。
天皇の放送。誰も泣かなかったはずである。泣きようがないのだ。途方もない徒労感。何百万の同胞を失ったのは悲しいけれど、でもこれでよかった。これしかなかったのだというのが、それぞれの世代の、それぞれの場所での「八・一五」であっただろう。人々は黙々と生活の中に帰っていき、その日から、私たちの「戦後」が始まるのだ。
『民主主義』と『日本国憲法』の時代である。占領軍がいた。オールマイティである。彼らはこの二つのものを私たちの前に提示した。有無は言わせぬ勢いである。戦争に負けるというのはこういうことなのかという思いが胸をよぎったりする。しかし、人々は何のためらいもなく、この二つのものを受け入れてしまう私たちは無節操だったのだろうか。軽薄だったのだろうか。」

 

このエッセイの中には、劇の最終幕そのもののような心境の吐露があり、この劇が間違いなく宮本研の体験であり実感であったことが分かる。

 

「・・・しばらくして、私は戦争中の動員工場を訪れてみた。工場がどうなっているか、いっしょに働いていた職長や責任工、見習い工の人たちはどうしているか、会ってみたかったのである。工場は操業を開始していた。いつかの遊休設備も整備を終わり、操業開始の直前であった。働いていた職場に顔を出してみると、みんながいて、歓迎してくれたのだが、私を驚かせたのは、工場に「労働組合」というものができ責任工や見習い工それに職長までが「組合員」であり「労働者」であることだった。みんないきいきとしていた。戦争中の思い出話がでた。みんなよく笑った。私だけがなんとなくしょんぼりとしていて、その理由を聞かれたりした。理由は言えなかった。自分でもよく分からなかったからである。」

 

宮本は、
「途方もない徒労感。でも、これしかなかったのだというのが、それぞれの世代の、それぞれの場所での「八・一五」であっただろう。」と書いているが、このとき「オレは「遅れてきた」と認識した皇国少年もいた。戦争に参加できなかったことを嘆いたのである。
大江健三郎の『遅れてきた青年』は、兵隊として散華することを夢見ていた少年が、戦後になってそれ故に喪失感や焦燥感に駆られるというものがたりを書いて自分の世代のある種、憂鬱をえがいた。
この差は微妙である。
1926年生まれの宮本研は、終戦時、二十歳前後で、すでに大人であった。しかも、この年代は最も戦死者の多い世代である。一方、大江は1935年(昭和10年)生まれで、終戦時はまだ小学生だ。
大江健三郎は、宮本研の世代が経験した運命の過酷さと社会の劇的変化、それが精神に突きつけた試練を一種の羨望を持ってながめていたのである。
まさに宮本が言うように『それぞれの世代の』終戦であった。
宮本は書いていないが、この世代にはもうひとつ言い分があるはずだ。と、僕は思っている。
「この戦争は、俺たちがはじめたわけじゃない。」
彼らは満州事変のとき、まだ六歳である。
大人が始めた戦争の始末は自分たちで付けろ、とは言わないが、いい加減ものごころついたときは心の片隅でそう思わなかったはずはない。それが、最も戦死者の多い世代になってしまった。
「天皇の放送。誰も泣かなかったはずである。泣きようがないのだ。途方もない徒労感。」
この言葉には、より年少だった大江の世代とは違って、当時の大人たちに対する批判がこもっているように僕には思える。
(A級戦犯については議論のあるところだろうが、戦争を始めた世代なりの責任はとったかたちだろう。)

 

 

 

さて、この劇評の最初に「僕にはつまらない劇であった。」と書いた。
思想書狩り、兵役拒否、赤紙、憲兵の乱暴狼藉、企業の狡猾さ、ここには戦前の典型的な理不尽がある。現代から見れば、とても容認できない出来事ばかりである。大江健三郎は、そこにある種の郷愁を覚える程のかすかな経験を持っていたが、戦争が終わったばかりの日本に生まれた僕たちの世代はそれを全く持っていない。
「天皇を神だと思え」といわれたらその時代をいくらかでも経験したものならば、どういうことか分かると思うが、僕たちの世代は「天皇=神」を実感として受け止めることができない。従ってどうすればいいのか戸惑うばかりである。
同様に、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったことを「よかった」とか「押しつけられた」とか「戦前が正しい」とかの議論ができない。なぜなら、生まれたときすでに、日本国憲法の下で生きていたのだから。
登場人物に感情移入して「神皇正統記」を講じていた口で「デモクラシー」を教えようとする助教授に怒りを覚えても、すぐに分かるのは、それを「嘘つき」とか「背徳」と正義感だけで批判するのは子供じみたふるまいだ、ということである。
憲兵が一般人に乱暴を働くというのも、召集令状もいまはない。おとぎ話のように馬鹿馬鹿しくもいまとは裏返った世界である。それらは歴史的出来事として評価すべきものであり、それではそもそもこの劇全体が、僕にとっては歴史的出来事なのであって、しかも生きた時代の違う他人が経験した出来事なのだ。
これをどう、思えばいいのだろう。
僕らは、「途方もない徒労感」を味わったこともなく、「遅れてきた」実感もなく、つまり、人生の出発点で誰しもが否応なく考えざるを得ない「何か」を持たない、のっぺらぼうのつまらない人生だった、と言うことを際立たせるという意味で、僕にとっては二重につまらない劇だったのだ。

 

 

 

戦後、長い間、問題だったのは、宮本たちの世代が提起した「戦争は二度とごめんだ」という護憲論とそれに対する「押しつけられた憲法」論であった。
以前、同世代の加藤典洋が、日本国憲法は「押しつけられた」感じがするという議論をしていたことを、経験したことでもないのにどうして言えるのか?と批判したことがあった。(「取り残されたものたちへ 加藤典洋「戦後入門」の無残(準備編)
加藤は僕らの世代に共通のある種の典型であったが、それは、自分が経験したことのように宮本らの世代が提起した「戦後的議論」に自ら加わっていたことで、その視点は借り物にすぎなかった。
加藤は、立ち位置から言って、彼らに巻き込まれたと言うこともできるが、それでは、加藤とともにこの世代は何を主張すべきだったのか?
「原点」に学生運動がある、ということは言えるかも知れない。
しかし、60年安保は、大江の世代たちのエリート学生がリードした観念的革命論で、どこにもリアリティはなかった。選挙では圧倒的に自民党が多数派だったのである。68年〜70年の学生運動も様々な議論はあるが、どこにも革命の機運などないのに観念的世直し論にただ酔いしれただけであった。
これを、エマニュエル・トッドは「ユース・バルジ」と言って若年層の人口比が30%程度になると社会は不安定になると言ったが、世界中のベビーブーマーが暴れたこの危機も、世界は空前の経済成長を持って難なく切り抜けた。実際、我が国の経済成長は1975年にピークを迎え、そこからなだらかな下降線をたどるのである。
僕は以前、英国の同世代の作家サー・デヴィット・ヘアが書いた「The Breath of Life」の劇評でこんなことを書いた。
「マデリンは、60年代をアラバマとUCバークリーで過ごし、一度は世界の変革を夢見たたインテリである。・・・マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」といった。我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。5年の抗議、黙従の30年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。
あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。」(劇評「ブレス オブ ライフ~女の肖像」)
我々の原点には異議申し立て、抵抗という疑似革命運動があった。しかし、それも五年ほど続いてあとは黙りこむしかなかった、結局、後世の歴史家はこの世代は空前の豊かさと繁栄を連れてきた、ということはそれを享受したものだと記すに違いないというのである。
「原点」。そこへ行こうと向かってもそこだと思う地点には、何もない。探しても探しても何もない。それが僕たちの世代である。

 

 

タイトル 反応工程
観劇日 2021/7/22
劇場 新国立劇場
主催 新国立劇場
期間 2021年7月12日〜25日
作 宮本 研
原作/翻訳
演出 千葉哲也
美術 伊藤雅子
照明 中川隆一
衣装 中村洋一
音楽 藤平美保子
出演 "天野はな 有福正志 神農直隆
河原翔太 久保田響介 清水 優
神保良介 高橋ひろし 田尻咲良
内藤栄一 奈良原大泰 平尾 仁
八頭司悠友 若杉宏二

 

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