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2021年8月11日 (水)

劇評「1911年」

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昔、大学の本部事務棟が封鎖されたというので、駆けつけると、教室から運び込まれた大量の机と椅子が、ロビーの天井まで積み上げられ、バリケードになっていた。わずかに人一人が身体を横にすれば何とか進めそうな隙間をみつけて、入ると、内部はジグザグに曲がりくねっていて、容易には向こうにたどり着けない構造になっている。
一体、こんなものを構築する技を、誰がどこで学んできたものか、あるいは外部から招き入れたものか、いずれにしても、ずいぶんと手慣れたものの仕業に違いないと思ったものだ。
中で演説の真似事をしていたら、一人の学生が突然ふざけているといって、長い竹竿の先で叩いてくる。理由もよく分からないから、その変なやつにはずいぶん閉口したことを覚えている。機動隊が導入される数ヶ月の間、本部は解放区になり大学は機能停止した。・・・・・・もう半世紀も前のことになった。

 

 

シアタートラムの舞台は、アーチ型の出入り口がついた袖が少し出張っていて、その間の空間が本舞台になっている。天井近くまでの高さで前側と後を分ける様に木机と椅子を積み上げ、あの大学本部のバリーケードよりは遥かにまばら(奥の方は見えている)な仕切りになっている。下手寄りに一人分の出入り口があり、これは彼岸と此岸をわずかに結ぶ隘路のようであり、木机と椅子は当時の法廷の雰囲気を想起させるものでもあり、時に全体が前方に迫り、時に後退して情動を象徴する。この美術の長田佳代子のもくろみは成功していると思った。

 

一人の老人が舞台に浮かび上がり、「私は人を殺した」という苦渋に満ちた独白から劇は始まる。
元東京地裁判事、田原巧(西尾友樹)で、自分は大逆事件で、多くの被告が冤罪であるという確信を抱きながら、1911年当時自らその中にいた司法のヒエラルキーに抵抗できなくて、12人の死刑執行を許してしまったと言う告白である。
我が国が敗戦を迎えるまで、大逆事件の全貌は、厚いベールに包まれていたが、この告白によって、ようやくその裁判の様子を明らかにする端緒が生まれたというのだろう。
続いて、編笠を被った十二人の死刑囚が舞台奥に浮かび上がると、次々に名前を呼び上げられ、下手の出入り口から舞台前に現れ、上手袖に消えていく。
1911年1月24日、死刑は執行されたという衝撃的な事実が告げられる。

 

田原巧がその上司である潮常太郎判事(佐藤弘幸)とともに、予審判事として事件の担当を命じられたとき、検察から受けた公訴提起の被告名簿の筆頭に幸徳傳次郎の名があったことに驚く。事件は、信州明科の製材工場で行われた爆裂弾の実験が明らかになり、これが天皇暗殺を企てるものたちの仕業であったと、田原たちは認識していたからだ。信州の事件に無政府主義者、幸徳秋水の関与があったとは聞いていなかった。
この予審判事という制度はいまはない。
予審判事とは、検察から提起があった被告事件について必要な事項を取り調べ、公判に付するか否か決定する権能である。(公判において、予審判事の調書は、検事調書と違って、絶対的な証拠と取り扱われるから極めて重要であったが、弁護人の立ち会いもない密室で行われたから問題は多かった。)
検察から送致された事件は、全国の社会主義者や無政府主義者らが共謀して天皇暗殺を企てたものとなっていたが、田原たち予審判事が調べても、被告が共謀した証拠は出てこなかった。
劇は、検事総長松室致(林隆三)のもとで取調を行う武富済検事(島田雅之)、小原直検事(近藤フク)が被告を恫喝し脅迫、自白を強要する凄まじい取調ベがあったことを描いていく。これを了解し、むしろ主導していたのは司法省刑事局長兼大審院次席検事、平沼騏一郎(浅井信治)である。平沼はのちに総理大臣になる政治家であり、大逆事件のシナリオに最も深く関わっていた一人であったと描かれている。
田原たちに加えられる圧力は、検事局からだけではなかった。事件を担当した大審院判事、末広厳石(岡本篤)は国家の意思を忖度するよう陰に迫り、裁判長、鶴丈一郎(吉田テツタ)、大審院長横田国臣(青木柳葉魚)も証拠に基づいた公平な裁判を行う気はさらさらなかった。
被告で唯一登場したのは幽月管野寿賀子(堀奈津実)で、天皇睦仁は人民にとって必要ない存在だと計画の一部を認めたが、本件全体の構図は検察のでっち上げだと主張した。
数人の有力弁護人も採用されているが、劇には事件のなりゆきに衝撃を受けた与謝野鉄幹が推薦した若い平出修(菊池豪)が登場し、熱弁をふるうも、影響はなく、粛々と裁判は進行する。これはもはや裁判とは言えず、あらかじめ設定されていた政策の一種、国家による政治ショーであった。
裁判が結審したところで、元老山県有朋(谷中恵輔)が登場し、この陰惨なイベントの黒幕であったと劇は明かす。「これは天皇のご意思であり」それを受けて自分が行ったことだという。
何故あなたはこれをやったかという天からの質問にはこう応える。
「それはワシが権力だからだ。」と。
自由と平等を掲げた明治維新を成し遂げたあなた方の精神に照らしてこれを恥ずかしいとは思わないかという批難にも、「権力というものは、手放してはならないものだ」といって、山県が天皇に名を借りて社会の支配にこだわったと言う印象が示される。
判決後すぐに、予審判事や検事からも恩赦による減刑が求められた。取調を行った司法官たちもこれはやり過ぎだと認識していたのだろう。しかし、半数が無期に減刑を認められ、半数の十二人に対してはそのままわずか六日後に執行された。十二人の氏名と執行時間が読み上げられ、最後に翌日執行になった菅野寿賀子が「われ主義のために死す、万歳」と叫んで、刑場に消える。
・・・・・・
舞台は開幕時に戻って、いまは老人となった田原巧元予審判事が、昔の裁判を悔いているところへ、一人の若い女性が現れる。新日本夫人同盟の女性解放運動家で、菅野の様な犠牲の上に、ようやくいま婦人の様々な権利が認められる様になったという明るい声に田原は、救われた様な表情になり、終幕を迎える。

 

 

この劇は、大逆事件を「裁判」と言う視点で捉え、予審判事の葛藤を通して、政治の司法への介入および蹂躙を描いたものと言える。
裁判は、信州明科の事件が、無政府主義者らの計画したものとされ、その逮捕者は、東京、和歌山県新宮、大阪、岡山、熊本など全国の数百名に及んでいるが、劇では死刑判決を受けた被告それぞれにどんな事情があり、その関連性がいかにでっち上げられたかを論証しようとしているわけではない。

 

結局、黒幕の元勲山県有朋に「わしが権力だからだ」と言わせたところを見ると、この裁判の欺瞞性は、司法組織を手足の様に使って、一人の権力者が一部の人間の思想活動を合法的に弾圧したところにあるといいたいようだ。
権力があれば何でも出来る。これは劇の主張だから、それはそれで成立する見解であろう。
そのように、大逆事件は権力側のでっち上げだった。いまは、新憲法下でああいう弾圧はできなくなった。めでたし、めでたし、というので歴史を描いたとするのは、半世紀後の1960年代になって行われた、被告の名誉を回復しようと言う訴えで、昔の特殊な環境の下で行われた裁判の是非を問うことは出来ないといういまの司法の見解とあまり変わらないことになる。

 

 

この劇が、大逆事件の歴史的意味を問おうとしているとして、それに足りないところがあるとすれば、何故権力側が明らかなでっち上げ(司法制度をゆがめてまでも)を行ってまで、無政府主義者や社会主義者たちを根絶に近い弾圧をする必要があったか、その背景が説明されていないことと、大逆事件はその後の知識層の政治的文化的活動に甚大な影響を与えたという点では、それが終わったと同時に始まったとも言えるが、その歴史的意義に触れていないことである。

 

劇中、山県有朋に代表されるような国家権力は必ず人民を弾圧するという前提が自明である(国家は暴力装置)とするならその理由を問うのはナンセンスである。事件が何かの終焉を告げるものならばその後がどうなろうとは問われまい。
しかし、近代国家として出発してから約半世紀、法治国家を標榜する身としては国民にその正当性について何の説明もなく権力を行使することは出来ないし、事件後の世間の空気が一変したならば、事件の意義を問うことは歴史を検討する作業として当然のことであろう。

 

もちろん、舞台劇としてそれを表現するには限界はあるが、歴史を扱う視点には両面から見る公平性とその歴史的意義の評価は欠かせないものである。
つまり、この劇の言う司法壟断事件は、何故起こったのか?という問いに、幽月菅野寿賀子らの「思想」を権力が弾圧したとみるだけでは、幕末の井伊直弼が攘夷論(思想)を唱えるものを片っ端から捕らえて死罪にした構図と同じ権力と見えるのである。

 

 

先日、香港で24才の若者が「香港を解放せよ」などと書いた旗を掲げて治安警察に突っ込んで逮捕された事件で、国家安全維持法違反の罪(テロリスト行為と国家分裂を扇動した罪)で禁固9年を言い渡された。
我が国はじめ欧米などの民主主義国家では、反政府的あるいは反社会的な何かを書いた旗をもって騒いでも逮捕されることはない。バイクで突っ込んだら暴力行為や傷害罪に問われることはあっても、九年も獄につながれることはまずない。我々の側では「香港解放の旗」で国家が分裂するとは誰も思わないからだ。分裂させようと思うものがいたとしても、旗を振る作戦でそれが実現できると思うものはいない。
ところが、中国共産党は旗を掲げただけでも国家分裂の扇動だと司法組織挙げてこれに対抗しようとする。
何故か?
いうまでもなく、不安だからである。
香港の自由と民主主義を認めれば、それが蟻の一穴となって、中国共産党員八千万人が君臨する国家組織は根底から崩れると思っているのだ。経済発展は遂げたが、沿岸部、内陸部の格差や一党独裁、特権階級の存在への不満は潜在し、その内部矛盾がいつか爆発すると言う不安が中国共産党内部にあるからだ。この力学は、国際社会からの圧力が強まれば強まるほど、あるいは外に対して自らその圧力を高めれば高めるだけ、内部に対する統制の圧力も上昇するという定式にあてはまる。
ひとの「思想」や「言論」を取り締まると言うことはすなわち恐怖の裏返しである。

 

 

さて大逆事件が起こった百年前、我が国はどうであったか?
その五年前、からくも日露戦争に勝利した我が国は、ようやく列強の仲間入りしたという高揚感から大衆運動も盛んになり、社会主義を標榜し普通選挙を要求する政治運動や労働組合結成の動きも見られる様になっていた。これを殖産興業の国是に反するものとして山県有朋内閣は1900年、治安警察法を制定し、ストライキを違法とするなど労働運動を徹底的に取り締まった。

 

このときの我が国の立ち位置はどうであったか。
時代は少し遡る。
この劇でも一言だけ触れられているが、大津事件のことである。ここでは、二つのことを述べておきたい。
まず、この事件は、1892年(明治24年)ロシア皇太子ニコライが来日中、琵琶湖の大津で警備中だった巡査に切りつけられ怪我を負った。これで、大国ロシアが攻めてくると大騒ぎになり、戦争になることを心配した政府は、ロシアの要求でもあった即刻犯人の巡査を死刑にすることで解決しようとした。それほど、有り体に言えば、ロシアが怖かったといえる。つまり、司馬遼太郎が「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」と書いたあの国が二十年ほど経ってようやく一人歩きできる様になった頃だった。ひとつめは、この日本の国力、立ち位置の認識。

 

これが江戸時代なら幕府が独断で死罪にすることはできたが、近代日本では行政が司法に介入することは出来ないとされていたから裁判にかけなければならない。罪状は殺人未遂あるいは傷害罪だが、その最高刑は無期懲役である。政府は、大逆罪を適用して、起訴せよと司法に迫ったが、裁判長、児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」という立場を貫き、刑法に外国皇族に関する規定はないとして、政府の圧力をはねのけた。
三権分立を貫こうとした司法官らの見識と、我が国で法治主義の確立がなったと言うことが二つ目。(大逆事件は、この法治主義を知りながら、それを蹂躙したという点でもいかに政府の社会主義・無政府主義に対する恐怖が大きかったかを物語る。)

 

かくして、大国の間でようやく認められる様になり、近代国家としての体裁も実質も備えられつつあるという時代であった。

 

そうした中で、新たに発生した工場労働者の待遇を巡る労使の対立が、国家経営のあり方を異にするイデオロギーの対立となったため資本側に立つ国家は労働運動が暴動や政府転覆に発展しない様、取り締まる必要に迫られた。
世界を見回しても、先進国は同じ事情を抱えていて、体制内で改善を目指す社会民主主義とは妥協の余地もあったが、無政府主義、暴力革命を目指すマルクス主義などとは厳しく対立した。
我が国では、1901年、幸徳秋水らを発起人とする初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが伊藤内閣はこれを禁止、1904年には社会主義協会も解散を命じられ政党運動は徹底的に弾圧された。1906年、西園寺公望内閣になると、はじめて合法的な社会主義政党「日本社会党」の結成が認められたが、これは暴力革命を目指す幸徳らの「直接行動派(硬派)」と議会を通じて政権を窺う「議会政策派(軟派)」に分裂、結局、暴力革命の直接行動派を警戒した政府によって、一年後には解散させられている。
また、世界を見ても、労働運動の政治への反映は大きくなり、これらの思想活動は国際的な組織を形成しつつあり、連携して内部崩壊を企てる危険も想定された。実際、日露戦争のさ中、ロシアで発生した労働者のストライキや戦艦ポチョムキンの反乱(軍隊の反乱)などロシア第一革命の混乱を目にして、暴動から革命に発展する危険性は大きいことを政府は確認している。
一方、欧州バルカン半島の諸国をめぐり各国の緊張関係が極度に高まっており、第一次大戦前夜のこの時期に国内の不安を取り除いておきたいという政府の考えは自然であったであろう。

 

マクロな視点はここまでにして、この時期、我が国の社会主義運動はどうだったのか。
政府による弾圧に次第に追い詰められて行く中で、1908年6月に「赤旗事件」がおこる。
これは、筆禍事件で獄中にいた同志が出獄するというので硬派、軟派が共同でひらいた歓迎会が終わろうとしているとき、硬派が突然「無政府共産」「社会革命」などと書かれた赤旗を取りだし軟派が止めるのも聞かず革命歌を歌いながら振り始めたので、警戒に当たっていた警官ともみ合う騒ぎになった事件で、山川均、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村ら(菅野寿賀子も逮捕者の中にいたが、のちに釈放)数名が逮捕された。この事件で、比較的社会主義に寛容だった西園寺内閣に批判が集まり、翌月にはこれがため辞任に追い込まれ、以後新内閣の弾圧はいっそう峻烈になっていった。

 

「寒村自伝」によるとこの事件は、「郷里の土佐に静養中、この事件の報に接した幸徳秋水氏は、市ヶ谷拘置監の私たちに慰問のハガキを寄せて「悲愴極まる無政府党の宣言式」と称した。・・・・・・実は大杉(栄)と私がいたずら半分に計画したことで、必ずしも意識して「悲愴極まる無政府党の宣言式」をやったわけではない。」
旗を振ってもみ合っただけだからせいぜい二三ヶ月の拘禁とふんでいた彼らであったが、懲役一年半から二年半という長期刑になったのは意外であった。
この裁判で判決を言い渡す裁判長の手が震えていたと、寒村は書いているが、旗を振っただけで、一年も二年も懲役というのは、司法に政府から圧力があったという意味であろう。香港の事件が九年というのはいかに長いかが分かる。

 

それはともかく、硬派は主要な活動家を失い、軟派も同様、演説は禁止、出版物は発禁、「警察の非常識極まる監視」(『寒村自伝』)と次第に活動の場を奪われ、「火の消えたような有様」(同上)で政府の厳しい迫害に、不満は鬱屈していった。

 

赤旗事件の後、大逆事件の序章ともとれるある文書が米国から送られる。
Photo_20210811113401「寒村自伝」から引用しよう。
「赤旗事件の直後、幸徳氏が在米中に組織したサン・フランシスコの日本社会革命党から、『睦仁足下に与う』と題する印刷物が密輸入され、その一部は当局の手にも入った。それは明治天皇に向かって同志を迫害する無道圧政を糾弾し、他日の復讐を宣言した大不敬の内容であったから、さなきだに反動的な桂内閣は、折りもあらば社会主義運動を殲滅しようとする決意を固め極力取り締まりを厳にしたのである。」(P202)

 

社会主義運動に対する「恐怖」に極限の「憎悪」が加わった瞬間であった。憲法で「神聖不可侵 の存在」と定められた天皇に復讐とは、もはや国家の敵以外の何ものでもない。社会主義者がこの理屈を知らないはずはなく、これは覚悟のうえだったのだろう。
このような状況になれば、どんな組織体でも跳ね上がりは出てくるもので、実際に天皇暗殺を実行しようとするものが現れた。
信州明科の事件である。時の政府はこれを千載一遇の機会と捉えて、国内の無政府主義・社会主義者を一掃しようと全国で数百名を逮捕し、そのうち二四人を起訴した。社会主義者側としては政府の挑発にまんまとのせられた形である。
裁判が終わると、残されたものは判決文だけであり、弁護人にも関係書類を返却せよと命じたと言うから、この裁判の内容は知られたくなかったのであり、海外からも思想弾圧と批難される中、法治国家であると言う面目はかろうじて保っていたかったのである。
書類が残っていない限り、真相は明らかとは言えないが、状況から数人の計画したことに、関係のない大部分の者が巻き込まれた事件であることはほぼ間違いない。
最も近くにいた荒畑寒村のみ立てでもそれである。
少し長いが、この劇では詳細が語られることがなかったので「寒村自伝」から引用する。
「・・・判決文によれば、被告らは社会主義者に対する政府累年の弾圧、なかんずく赤旗事件の被告に加えられた 過酷な刑罰、及び爾後の苛察竣厳な迫害に憤慨し、幸徳は郷里から上京の途次、各地の同志を歴訪して天皇の暗殺、暴力革命の必要を説いた。
四十二年六月、愛知県亀崎の製鉄所から長野県明科の大林区署製材所に 転職した宮下(太吉)は、上京して幸徳、管野、新村(忠)、古河らと天皇暗殺の陰謀を図り、幸徳は奥宮から爆弾の製法を得てこれを宮下に伝えた。 
宮下は紀州新宮の医師大石方に滞在中の新村に依頼して必要な薬品を入手し、新田、新村 (善)の協力を 得て爆弾を製造し、ひそかに山中でその効力を実験した結果、四十三年の天長節当日、天皇の行幸を期して大逆を企てるに決した。 
この陰謀が未前に発覚したのは、長野県の松本警察署が、要視察人の宮下が新田に依頼して使途不明のブリキ罐二十四個を製作し、且つ薬研を用いて薬品を粉末にした事実を内偵察知した一方、職工長宮下の部下で親交ある清水某が宮下から火薬の木箱を託された上、陰謀をうちあけられて驚いて製材所長に密告したためであった。一説によれば、宮下は清水の妻と情交があり、その女に秘密を明かしたのが発覚の端緒となっ たともいわれる。 
事件の辯護に当った今村力三郎氏は、後日に著わした『刀言』の中で、奥宮健之は幸徳に異志あることを知ってこれを当時、穏田の怪行者と称せられた飯野吉三郎に告げ、飯野はこの事実を内務当局に報告したと 推測せられ得る事情がある。」

 

ここにある「穏田の怪行者と称せられた飯野吉三郎」については少し説明が必要だろう。
飯野は、日本のラスプーチンと言われた祈祷師、宗教家で、(怪しげな香具師とも)皇室に近い、実践女子を創立した同郷の下田歌子を通じて、上流階級に食い込んでいた。この飯野の密告によって大逆事件の全容は発覚(?)したと寒村は推測しているが、これにどういう事情があったのか、昭和38年(1963年)6月の衆議院法務委員会での質疑応答の中にこういうのがあった。
社会党の猪俣浩三とは我々世代にはなじみの政治家だが、委員会で参考人の大逆事件研究家の神崎清にこう質問している。

 

「私はいま正確な年月日をはっきりしませんが、昭和の七、八年ごろからあと四、五年くらい、青山の穏田にあります飯野吉三郎という人物、穏田の神様といわれておって、新しい人はわかりませんが、古い政治家は知っておると思います。ある特別の事情があって、この人物と相当長い間つき合っておりました。そのときに、この飯野吉三郎なる人物が私に言うには、あの幸徳秋水の大逆事件というのは、ぼくが告発したのだ、あれによって日本の無政府社会主義者を一掃するチャンスをぼくが与えたのだ、それはぼくのところにいまおるそれがし――私はそのとき名前を覚えておったのですが、いま忘れてしまったのです。これは書生か執事かみたいになって飯野のうちに寄宿していた人物があるのです。どうも若く見えるけれども年は四十前後じゃないかと思うのです。これがスパイをやっておって、これが生きた証拠となってあの事件はできた。そうして明治天皇を救うて、日本の皇室を安泰にしたのだ、だからぼくは日本の皇室にとっては大忠臣なんだ。しかるに皇室がぼくに対する待遇ははなはだよろしくないというような気炎を上げておりましたが、幾らか御内帑金が来ておるようなことを言うて、紋章のついたキリの箱みたいなものを見せて、これが宮内省からくるのだというようなことを言うて見せた。自分に対する待遇がよろしくないというのは、金が少ないという意味であるか、もう少し自分を重く用いろという主張か、わかりませんが、そういう気炎をたびたび上げておりました。私も興味を持っていろいろ聞いたのですが、いま大半忘れておりますけれども、とにかくあの事件は自分があばいた、自分のところにおる人物が生き証人となってつくり上げられたということを言っておりましたことだけはっきり覚えている。こういうことに対して、大逆事件の歴史的な研究をなさっておる神崎さんに、その研究の中にこの飯野吉三郎なる人物が登場するかどうか、登場するとすれば一体どういう役割をしたように歴史的にはなっておるのであるか。いま実はあなたの説明を聞いて思い出したわけです。これをお尋ねいたします。」
これに対して神崎清は次のように応えている。
「飯野吉三郎は穏田の怪行者といわれ、ロシア皇室のラスプーチンと比較される男でございますが、この飯野は確かに大逆事件の黒幕に姿が出てくるのでございます。飯野は秋水を何とか手なづけるというようなことで、秋水がたずねて行ったりしておりますが、しかし一緒に伊勢神宮に参拝しようじゃないかというときには、私は伊勢には行かないといって、秋水は、はっきり断わっております。そうしてこの告発云々に関係があると思われますのは、秋水が、奥宮健之という自由民権運動の老壮士に、自由党時代の爆裂弾の製法について聞いたりしております。そうしますと、奥宮健之が飯野のところへ参りまして、この秋水がこういう不穏な計画をやっておる、自分に一万円金をよこせ、そうすれば秋水を下野外遊させる、そうして事件をうまくおさめるということで売り込みに行っております。そうしますと、この飯野は、すぐ内務省警保局長有松のところへ電話をかけて、奥宮はこういうことをネタに金を要求してきておるが、どうしたものであろうか。それに対して有松警保局長は、これは金をやる必要はない、しかし情報連絡をして情報だけはとっておけ、そういう指令をしておることが事件記録の中にも、参考人に呼ばれた飯野の供述の中に出ております。
それからもう一つ関係があるというのは、なくなった白柳秀湖という歴史家の説でありますが、これはあの事件をさかのぼっていくと、社会主義新聞で、「目白の花柳郷」という記事で、つまり下田歌子とこの飯野吉三郎のスキャンダルについていろいろあばき立てた。それで飯野は非常に恨みに思っていた。それで、あることないこと訴えてあの事件をつくり上げていったというようなことを話しておられるのを聞いたことがございます。しかし、これは大逆事件外伝というようなものであって、事件の本質にタッチしておるというふうには私どもは考えておりません。」

 

再び、「寒村自伝」の記述に戻る。
「そして内務当局は、長野県の警察から宮下らの爆弾実験の報を得、まだ関係者 の範囲や目的などがわからないで疑惑につつまれていたが、飯野の密告によってはじめて事件の全貌を知ることが出来、ここに逆徒を一網打尽し得たるものならんか、と書いた。奥宮は社会主義者以外の唯一の被告で、彼が真にスパイであったか、或いは幸徳の懐柔策を飯野に図って却ってその売るところとなったか、この事件にまっわる永久の謎であるが、これもまた事件発覚の端緒に関する一説である。いずれにせよ、以上のような経緯はあくまでも裁判所の解釈に過ぎない。然るにこの裁判は、今村氏が 『幸徳事件の回顧』の中で、 『私は今に至るもこの二十四名の被告人中には、多数の冤罪がふくまれていたと信じています。天下の耳目を錯動したあれ程の大事件に、辯護人の申請した証人は残らず却下して、全被告を死刑に処したのですから、裁判所は予断をいだき、公判は訴訟手続上の形式に過ぎなかったと、私は考えていました。厳刑酷罪を もって皇室に忠なるものとする固陋な裁判官には、辯護人の辯護など耳に入らないのであります』と痛憤し ているように、実に偏頗不公平を極めいた。従ってその判決が、事件の真相を伝えていたとはとうてい信ぜられない。
大逆事件は全然無根拠でないとしても、その陰謀はわずかに三、四人の計画にとどまり、他の約二十人は 政府がこれを奇貨として社会主義運動の活動分子を、一挙に殲滅しようとした奸策の犠牲に外ならないとい う意味では、たしかにフレーム・アップといわざるを得ないのである。 この事件は裁判所によって、幸徳秋水が首謀者とされているが、実際上の中心人物は宮下太吉、管野須賀子、新村忠雄、古河力作らで、殊に宮下は陰謀の発意者であった。彼については前にも記したが、天皇制に 対する国民の根ぶかい迷信を見て、天皇といえども同じ血の出る人間にすぎないことを国民に示し、その偏見謬想を打破するのでなければとうてい社会主義を実行することは出来ないと信じ、天皇暗殺を決意したといわれる。彼は明科におもむく途次、幸徳を訪うてまず管野に決心を語って同意を得、その推挙した新村、古河を加えて計画を謀議したことが大逆事件の発端であった。 
管野らが容易に宮下の説に賛同したのは、既記の如く赤旗事件以後、特に秘密出版『睦仁足下に与う』を 見て驚愕した政府が、社会主義者を一掃して危険思想を根本的に亡ぼそうとする、徹底的な弾圧政策に憤慨激昂した結果に外ならない。しかし今日のような大衆運動の全然存在せず、社会主義運動が少数の先駆者的 グループに限られ、しかも言論の自由を奪われていた当時の状況では、彼らが合法的、大衆的な反抗を組織する可能性は皆無であった。迫害に対する悩恨と無力の絶感が、彼らをして最後の一匹を個人的テロリスムに求めようとするに至ったのは、人間心理の当然の帰結といわねばならぬ。 
これは大逆事件が、二十数人のほとんど全国的な組織的陰謀といわれるにもかかわらず、その計画が何ら積極的な目的をもっていない事実を説明する。たとえば、新村忠雄の陳述によれば、彼は管野から天皇を斃 して人心の動揺に乗じ、『小革命』を起す計画を聞いて同意したがその小革命とは要するに、『先年東京にあ った電車の焼打ぐらいなことをやって、人心を新たにするつもりであった』に過ぎず、『もとより政府顛覆 の意志がない訳ではないが、到底その力がないから小革命を起すぐらいな考え』であったというに止まって いる。彼らが天皇個人の暗殺によって、ただちに天皇制を打倒し得るというような素朴な観念を有していたとは、もとより考えられない。だが、天皇の暗殺と電車の焼打とではまるで提灯と釣鐘のような矛盾で、む しろ自暴自棄的な計画の感をまぬがれないのである。 
主謀者と認められた幸徳と、事件の中心であった管野、宮下、新村らとの間にすらその観念に多大の相違 が存したことは、幸徳が磯部、花井、今村の三辯護士にあてた意見書によっても明らかである。彼は『検事 局及び予審廷の調べで、直接行動といふことは暴力革命とか爆弾を用ひる暴動とかいふことと、ほとんど同義に解せられてみる。......議会は欧米いたる処に腐敗してある。故に議会を相手にしないで、直接行動をや ろうといふのが今日の労働組合の説である。直接行動なら何でもやる、といふのではない。......故に真接行動をただちに暴力革命と解し、直接行動論者であるといふことを今回の事件の有力な原因に加へるのは、理 由なきことである。』 (『直接行動の意義の一節』」)と述べた。 それなら、彼の革命観は如何というに、革命とは旧来の制度組織が朽廃衰弊の極、崩壊し去って新しく社会組織が起り来る作用をいい、社会進化の大段落を表示する言葉である。故に厳密な意味では、革命は自然に起こり来るもので、一個人や一党派で起こし得るものではない、と述べている。 」(P212~P214) 

 

まことにその通りで、旗を振ったり手製の炸裂弾を爆発させたりするだけで、世の中が変わるほど、この世界は柔には出来ていないのである。
思想運動という得体の知れない力を過大評価した政府が、これに執拗に弾圧を加え消滅させようとしたのに対し、一部が自暴自棄的な計画をたていわば暴発して起きた悲劇と言うべきか。国家が、あるいは民主主義が未成熟な時代には起こりうることで、これ以降、言論にかけて物事を諮ろうとする風潮がおきて大正デモクラシーにつながるのだから、近代国家としての成長の一過程であったと言うことも出来る。(劇ではこの視点が欠けていた。)
しかし、それから先もこの国家は、相変わらず思想運動や労働運動を認めず、植民地を求めて、国際社会から孤立して、そしてついには力尽きた。
民主主義を学ぶにはあまりにも大きな代償であったと言うより他ない。

 

 

劇に登場した幽月管野壽賀子については、様々な言説があり、寒村が赤旗事件の入獄中に秋水の下に去った妻壽賀子への思いに懊悩するところやその人物評価など、また、裁判後の文化人や教育者に与えた事件の影響についても触れておきたいことがあるが、長くなったのでまた別の機会にしたい。
また、最初に述べた大学本部封鎖のあと、赤軍派に身を投じた友人がいたが、革命の機運などどこにもないと思って必死に止めた。あれもまた暴発ではなかったか?
いつの時代にもかけられた圧力と同じ力で反発しようと言うものは現れる。中国は、今のところそれに気づいているようには見えない。

 

最後に、昭和38年の衆議院報法務委員会での神崎清の発言を紹介して終わりにしよう。ただし、これは研究者としての神崎の総括とも言うべき長い発言なので、部分だけにする。全部の発言はこの後に付すので、興味のある人は読んで欲しい。大逆事件のあらましを理解できるはずだ。

 

「・・・・・・この十一月十九日の天皇暗殺の共同謀議が、こういうふうにメスを入れて空中分解いたしますと、もう大石誠之助の紀州グループ、それからそれにつながる大阪グループ、それから松尾が顔を出しておりますが、熊本グループ、坂本清馬、こういう人たちは一切無関係になってしまう。ただ残るのは、宮下太吉、管野スガ、新村それに古河、この四人にしぼられてまいりまして、秋水の関係は微妙ではございますが、どうも断定しにくい。秋水は天皇制を当時において批判をしておりました。天皇は大地主である。大資本家である。収奪をしておる。やがて民の怨府になるであろうということを言い、また軍国主義を非難し、軍備を全廃しなければならぬというふうに説いておりました。それが権力階級の忌諱に触れたようでございます。宮下にしても、管野にしても、天皇個人に恨みがあるわけではない。しかし、天皇は神であるという国民の迷信を打破しなければならぬ。天皇は神でなくて、人間であるということを示すためにということで、迷信打破から極端なテロリズムに走ったということでございますが、天皇は神でないというその主張は、終戦後の天皇みずからの人間宣言の中に生きておる。また新村忠雄は、親や君に踏まれる必要はないと言って、忠孝の道徳の強制を否認して、個人の自由、権利を主張いたしておりましたが、この新村の思想も、また新憲法の個人の尊厳、基本人権の中で生きてきているわけでございます。
 こうして大逆事件の被告十二人は絞首台に葬られましたけれども、歴史的に見ると、戦後に生まれた新憲法の捨て石になった人たちではないか。新憲法は外国の押しつけだと言う人もあるようですけれども、主権在民、基本人権、戦争放棄という民主主義思想の、この人たちは貴重な種であった。大逆事件以後、日本に何が起こったかといえば、言論出版の自由の弾圧、教育の反動化、日韓合併、大陸侵略、そうして太平洋戦争の破滅を迎えたわけでございまして、大逆事件の被告の人たちは先覚者、その犠牲者である。先覚者の悲劇であったと申し上げたい。
 私は、日本の為政者たるものは、この歴史の教訓をくみ取って、社会の進歩、国民の自由と人権を押えるような愚かなまねを再び繰り返してはならないというのが私の結論であり、希望でございます。」

 

 

 

 

《昭和38年の衆議院法務委員会での神崎清参考人の発言》

 

「事件は、明治四十三年五月二十五日信州明科の工場で爆裂弾をつくる材料、ブリキかんであるとか、塩酸カリであるとか、そういったものがばらばらに発見された。労働者の宮下太吉がまず逮捕されて取り調べるうちに自供が始まった。明治天皇暗殺計画に関する自供でございまして、事の重大に驚いた長野地検から、これは大審院の特別権限に属する事件であるというので松室検事総長に連絡したわけでございます。
それから大審院が取り上げて、五月三十一日大逆罪の七十三条を適用するその予審請求が行なわれたのでありますが、その予審請求の請求書の付属文書として「被告事件ノ摘示」という、これは裁判記録の中から出てまいったのでございますが、わずか五行くらいの簡単なものでございます。
「被告幸徳伝次郎外六名ハ、他ノ氏名不詳者数名ト共ニ、明治四十一年ヨリ至尊ニ対シ危害ヲ加ヘントノ陰謀ヲ為シ、且其実行ノ用ニ供スル為メ、爆裂弾ヲ製造シ、以テ陰謀実行ノ予備ヲ為シタルモノトス」ただそれだけの青写真でございました。このいきさつは、当時この事件の捜査主任をつとめていた小山松吉検事が昭和三年に当時の思想検事を集めて講演をしたその筆記の中に出てきておるのでありますが、秋水については、秋水ほどの人物がこの事件に関係のないはずはないという推定のもとにということをはっきり書いてございます。証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するようになったのでありますと書いてございます。
森近運平にしましても、邪推といえば邪推でありますが何ごとでもかかわりのある点は調べてみる必要があるから、それで起訴したということになっております。坂本清馬につきましても同様で、熊本において同地方の主義者の動静を知っておりましたから有力なる材料を得た、坂本清馬もまた共犯たる罪証ありとこれを起訴したのであります。ところが罪証については幾ら記録をさがしましても、それを裏づけるようなものがございませんし、御本人は罪状をあくまで最初からしまいまで否認したのでございます。ですからどうも推定の要素が非常に多くて、初めから予断を持って、政治的な目的を持って犯罪者を製造してかかったのじゃないかというような疑いが持たれるわけでございます。
当時は何か大きい事件があったということで、様子がわからなかったのでありますけれども、六月五日ごろになりまして内務省の有松警保局長が新聞発表をいたしまして、被告は大体七人以内である、これ以上拡大しないといってそこで線を引いた発表がございましたが、同時に小山検事のほうからは、日本においては一人の社会主義者の存在も許さない、撲滅するのだという、非常に強硬な声明が出まして、それ以来事件はぐんぐん拡大していった。実態的に見ますと、どうもその七名以内というところに大逆事件の実質的部分が含まれていて、あとはどうもふくらましていった、でっち上げていった要素が非常に多いわけでございます。
 当時この事件を指揮いたしました平沼騏一郎検事の回顧録がございますが、毎朝六時に、時の総理大臣柱公爵の私邸に行って、前日のできごとを報告していた。非常に連絡を密にして、法務大臣を乗り越えて検事自身が総理大臣の指揮を受けていた。どうも法律以上の力がこの捜査及び裁判に影響している。影響しているというよりも支配しているというか、食い込んでおる。どうも政治裁判のにおいがきわめて濃厚になっております。御承知のように桂内閣は元老山縣軍閥の内閣と言われ、社会主義鎮圧方針をとっておった。その走狗として、手足として検事局が使われていた、そういう印象を打ち消しがたいのでございます。
 そうして予審段階から公判に入ったわけでございますが、一ヵ月くらいの非常にスピード裁判でございまして、判決文はなかなかりっぱな名文でございます。しかしながら、私どもが判決を分析してまいりますと、重大な欠陥、致命的な欠陥が発見される。これは松川事件の骨法にならって、ここに出ている共同謀議というものを洗ってみると一体どういうことになるかというところからメスを入れてまいったのでございますが、この判決の骨子になるところ、この大逆事件の共同謀議の成立、これは判決も平沼論告も全く同じでございまして、四十一年の十一月十九日巣鴨の平民社の幸徳秋水それから大石誠之助、森近運平、これが相談をした。
そうして「赤旗事件連累者ノ出獄ヲ待チ、決死ノ士数十人ヲ募リテ、富豪ノ財ヲ奪ヒ、貧民ヲ賑シ、諸官衙ヲ焼燬シ、当路ノ顕官ヲ殺シ、且宮城ニ逼リテ大逆罪ヲ犯スノ意アルコトヲ説キ、予メ決死ノ士ヲ募ランコトヲ託シ、運平・誠之助ハ之ニ同意シタリ。同月中、被告松尾卯一太モ亦、事ヲ以テ出京シ、一日伝次郎ヲ訪問シテ、伝次郎ヨリ前記ノ計画アルコトヲ聴キ、均シク之ニ同意シタリ」ということで天皇暗殺の共同謀議が成立したというふうに事実認定をしておるのでありますが、しかしながら、幸徳秋水が公判廷で自由陳述に際して述べた陳述によりますと、そういう話は、内容は実はこうだった。
一場の革命夢物語、茶飲み話にすぎなかったということを明らかにしております。「大石・松尾・森近等ト話シタルハ、不景気カ二、三年来続キ、凶民ノ騒ギマデモ起リ、富豪ノ財ヲ貧民ノ手ニ収用シ、登記所ヲ焼キ、所有権ヲ解放ス。然レバ、権力階級モ遠慮シ、平民モ自覚スルデアラウ。其時ノ用意ニ確リシタルモノヲ選シ置ク必要ガアルデアラウ。官署焼払モ二重橋等ハ、興ニ乗ジテ話ガ出タリ。大石ノ如キ長老ニ、壮士ノ如キ命懸ノ仕事ヲ強フルノ意ナシ。森近ト坂木トハ同居セシモノ故、改メテ同意・不同意ヲ求ムベキ理ナシ。」そういう陳述をしております。この中で富豪の財を収用したり登記所を焼いたり貧民を扇動したり物騒なことを書いてございますが、これは法律的に申せば、どんな騒ぎがあっても強盗、殺人、放火から騒擾内乱に至るまでの各種の法律に触れるかもしれないけれども、七十三条とは全く関係がないわけでございます。七十三条の場合にはどうしても危害の意思があったかなかったかというところへしぼられてまいるわけでございます。
 そのときの状況は森近の聞き取り書き、これは無視された聞き取り書きの中にこんな記事が出ております。「幸徳ハ、其時吾々暴動者一同テ二重橋カラ押入リ、番兵ヲ追ヒノケ、宮中ニ入リテ仕舞ヘハ、軍隊カ来テモ、宮中ヘ向ッテ鉄砲ハ打ツマイカラ安全デアル、ト申シマシタ。私は其時、」私はというのは森近でありますが、「前以テ以後ハ無政府共産ニスルト云フ詔勅ヲ書イテ持参シ、天皇ニ談判シテ印ヲ押シテ貰ヘハ、日本歴史ハオ仕舞ニナリ、面白イテアラウ、ト申シマスト、幸徳ハ、唯左様ナ詔勅テハイカヌカラ、更ニ今日迄ノ政治ハ誤ッテ居ルカラ、以後ハ無政府共産トシ、一平民トナリテ衆ト共ニ楽ヲ倶ニスル、ト云フ天皇詔勅ヲ出サネハナラヌ、」と申しております。ですから、これは二重橋に押し入ってくる。それは穏やかでないかもしれませんけれども、天皇に対する危害の意思は全然なくて、せいぜい政治交渉である、ひざ詰め談判であったわけでございます。秋水はそのことを法廷で述べた。「計画トシテ話シタルニアラス。或ハ貧民カパンヲ呉レト言フテ、王宮に迫りタル事モアレハ、日本ニテモ二重橋ニ迫ルカモ知レヌト言ヒタルノミ。二重橋ニ迫ルトハ、危害ヲ意味セズ。示威運動モ請願モアルト云ヒシニ、是ハ書カス」と、取り上げられなかったということを訴えておる。私はここに一番大きな問題点がある。検事にしろ判事にしろ、二重橋ということとを、あくまで頭からこれは危険行動である、天皇暗殺であるというふうにきめてかかったものと思われます。
 この十一月十九日の天皇暗殺の共同謀議が、こういうふうにメスを入れて空中分解いたしますと、もう大石誠之助の紀州グループ、それからそれにつながる大阪グループ、それから松尾が顔を出しておりますが、熊本グループ、坂本清馬、こういう人たちは一切無関係になってしまう。ただ残るのは、宮下太吉、管野スガ、新村それに古河、この四人にしぼられてまいりまして、秋水の関係は微妙ではございますが、どうも断定しにくい。秋水は天皇制を当時において批判をしておりました。天皇は大地主である。大資本家である。収奪をしておる。やがて民の怨府になるであろうということを言い、また軍国主義を非難し、軍備を全廃しなければならぬというふうに説いておりました。それが権力階級の忌諱に触れたようでございます。宮下にしても、管野にしても、天皇個人に恨みがあるわけではない。しかし、天皇は神であるという国民の迷信を打破しなければならぬ。天皇は神でなくて、人間であるということを示すためにということで、迷信打破から極端なテロリズムに走ったということでございますが、天皇は神でないというその主張は、終戦後の天皇みずからの人間宣言の中に生きておる。また新村忠雄は、親や君に踏まれる必要はないと言って、忠孝の道徳の強制を否認して、個人の自由、権利を主張いたしておりましたが、この新村の思想も、また新憲法の個人の尊厳、基本人権の中で生きてきているわけでございます。
 こうして大逆事件の被告十二人は絞首台に葬られましたけれども、歴史的に見ると、戦後に生まれた新憲法の捨て石になった人たちではないか。新憲法は外国の押しつけだと言う人もあるようですけれども、主権在民、基本人権、戦争放棄という民主主義思想の、この人たちは貴重な種であった。大逆事件以後、日本に何が起こったかといえば、言論出版の自由の弾圧、教育の反動化、日韓合併、大陸侵略、そうして太平洋戦争の破滅を迎えたわけでございまして、大逆事件の被告の人たちは先覚者、その犠牲者である。先覚者の悲劇であったと申し上げたい。
 私は、日本の為政者たるものは、この歴史の教訓をくみ取って、社会の進歩、国民の自由と人権を押えるような愚かなまねを再び繰り返してはならないというのが私の結論であり、希望でございます。」

 

タイトル

1911

観劇日

2021716

劇場

シアタートラム

主催

劇団チョコレートケーキ

期間

2021年〜2021

古川健

原作/翻訳

 

演出

日澤雄介

美術

長田佳代子

照明

松本大介

衣装

藤田友

音楽

和田匡史

出演

浅井伸治 岡本 篤 西尾友樹 青木柳葉魚 菊池 豪 近藤フク 佐瀬弘幸 島田雅之 林 竜三 谷仲恵輔 吉田テツタ 堀 奈津美

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