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2021年7月19日 (月)

「ヒゲタ本膳」取材コピー


2013年に、昔(1994年~98年ごろまで)、書いたコピーを掘り出して載っける「広告コピーシリーズ」をいくつかアップした事があったが、興味のある人はそれほどいまいと思って忘れていた。いまになって、どう言う関心かは不明だが、これがそれなりに読まれている事が分かったので、調子にのってまた続けることにした。
前回は、「毎日グラフ」(のちに「アミューズ」)に隔週で掲載したヒゲタ「本膳」の広告で、日本料理の名店を取材して紹介するコピーだったが、実は同じ時期に週刊文春に掲載した取材広告もあった。こちらは、「関東実力派寿司店めぐり」で、寿司の名店を紹介するものである。
というわけで、この時分は毎週、料亭と寿司屋の取材で旨いものばかり食べていたが、ひとが羨む仕事とはいえ、それを表現しなければならない、腹一杯食べるわけにもいかない、というわけで、お客として行けたらこんな幸せはないが・・・という仕事だった。
近頃では、食べ物屋の取材番組がやたら多くなったが、その味の表現には皆一様に苦労しているらしい。中には、口に放り込んで目をつむり顔をねじ曲げて「言葉に出来ません」などと言うのもあって、困ったことである。
このコピーは、その点、細心の注意を払って表現している(つもり)と思うので、そういうことでは何かの参考になるかも知れない。

 

そうそう、いま思い出した。
「ミシュランガイド」と言うものをご存じだろう。
日本版の出始めの頃、あの食べ物屋の選択には文句のないところだったが、店の紹介文ときたら、まるで念仏でも唱えているようで、すぐにでも駆けつけたい「誘惑」なんてところからほど遠いものであった。一例を示しておこうと思ったが、営業妨害だと訴えられても困るからやめておく。
そう言っているのは僕だけじゃない。丸谷才一も「ありゃ、食い物屋の紹介としてちっとも面白くない」という意味のことをエッセーで書いていた。

 

丸谷先生も言っているのだからと、ある時、かのタイヤメーカーに「お宅のガイドの文章はひどい。僕はこういう実績があるものだが、使ってみないか」と、たくさんコピーをとって封書を送ったことがあった。日本人の言葉についての繊細な感覚などフランス人には理解出来なかったらしく、あるいは、ひどい文と酷評したのが気に食わなかったのか、せっかくあのガイドのレベルアップに貢献してやろうという好意をことわってきた。
「そういうことはしてません。」
紙っぺら一枚の、実に直裁で冷淡な返答であった。
それから、ミシュランガイドは東京版から京都だ大阪だ金沢だ・・・あるいは、食い物の種類もラーメンだの焼き肉だのと拡げ、権威もへったくれもない、ただのグルメ案内書になっているようだが、いまとなっては、どうなったかなど何の興味もなくなった。

 

この仕事をしているときに、日本橋のある寿司屋を再訪したことがあった。板場に女は入れないという(セクハラと批難しないでください)伝統の江戸前にこだわる頑固一徹の主人が、「この間の夕方、早い時間に週刊文春の広告記事を破りとったのを持って店に来た客がいた。」という。「国際線の機内で配られた週刊誌を見ていたらこの広告に出会い、是非行きたいと成田に着くなり直接ここに来た。」と言ったというのである。
こういう手応えがあると、ひとはますます精進するものである。

 

 

 

まず寿司店めぐりからはじめよう。
日本料理店は大阪、京都、沖縄と取材に行っており、それも順次掲載することにする。

 

東京 東池袋 的り矢寿司


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御殿医の末裔
戦後進駐軍に接収された巣鴨プリズンには大勢の米兵が駐留していて、その若者たちが時々近くの春日通りで、街頭の裸電球に石を投げて割るいたずらをしていた。ポンという破裂音が鉄砲を撃ったように聞こえるのが面白かったらしい。
「政情不安な折から、びっくりするやら困るやら、たいへんな時代でした」とご主人の村上正夫さんは学生の頃を語る。
その進駐軍が最初に認可した日本武道が弓道であった。早速、先代が自宅近くに本間(十五間)の矢場を作って営業し、それがのちに寿司店をはじめる際の屋号とマークの元になったのである。
代々南部藩の御殿医を務めた家柄で、自身も医業を志して当時椿山荘の隣にあった獨協で学んだが、戦後のどさくさで進路の変更を余儀なくされた。昭和二十八年に八丁堀で修行をはじめ、四年で戻って、家業を継いだ。持ち前の合理主義で作業をマニュアル化したり、弁当用の折り詰めを量産して観光会社に納めたり、商売は瞬く間に大きくなった。やがて、時とみて、アメリカのレストランに投資したり、時代の流れに抗しない、自然流の経営を続けてきたようである。
十年前に日本料理をやりたいというご子息の希望をニューヨークの有名店の板場に入れることで叶えてやり、この武者修行は全米を巡って西海岸で終わるまで八年ほど続いた。写真の美しいカリフォルニアロールはこの人の仕事である。「寿司屋は高くてもいいから値段を掲げるべき」で、それが信用を築く基という。現在「家族経営」の傍ら、全国を束ねる組合においても要職にある。

 

 

この店には後日譚がある。
ある時電通の友人が、トム・クルーズ(マイケル・ダグラスだったかも知れない)が来日して、寿司を食いたがってるが、適当なところを紹介してくれと連絡してきた。とっさに浮かんだのがこの店だった。カウンターで会話が出来るところ、場所も東池袋で都心に近い、ハリウッドスターにふさわしい設えで申し分ないと思った。あとで聞いたら、会話も弾んで俳優もご子息と肩を組んで写真を撮ったり、終始上機嫌で接待は大成功だったらしい。ご主人が亡くなったと耳にしてからすでに二十年以上たった。

 

 

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