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2021年6月17日 (木)

劇評「斬られの仙太」余波

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劇評「斬られの仙太」は、少し書き足りないと思ったが、長くなりそうなので、いい加減なところでアップしてしまった。
幕末のイデオロギーをリードした水戸藩の『尊皇攘夷』思想と藩内の天狗党、諸生党の内部対立などの背景について、僕の知る限りのことを記しておこうと思ったのである。もちろん、よけいなお世話でもあるからやめてしまったのであるが・・・・・・。

 

しばらくして、他の人の劇評はどうなっているか見ているうちにこんな記述に出会った。

 

「この戯曲が持つ政治組織批判は、今回の舞台でも表面に出たが、武士たちの演者が少々重みに欠けるために浮ついた政治組織に見えなくもない。

 

一つ新たな発見があった。それは愚かさの恐ろしさである。
仙太は天狗党の中で利用されて、最後には彼らの身を、名誉を守るために斬られるのだが・・・
仙太が無知故に利用されていることが前景化した。
もちろんその後、また仙太は殺人に協力するから、結局彼の思考に浮かんだ疑問はかき消されてしまう。
この辺りが三好作品の弱点であろうが、今回の舞台でその仙太の疑念が舞台上に浮かび上がったのは、よかったと思った。

 

今、わたくしたちの国はがけっぷちにいる。どこへ向かうかは選挙民に掛かっている。
しかしネックは、国民の愚かさだ! これはなかなか変わらない。
そして仙太のようにわが身の周りにしか生きる道を見出さなくなってしまうのだ。」   (「井上理恵の演劇時評」4/10/21)

 

これを読んで、僕は思わずのけぞった。
面白い劇評に出会うことなど何年に一度もないくらいだが、これほど奇天烈な批評にもなかなかお目にかかれないものである。

 

要約すると、
「仙太は無知で愚かゆえに利用された。しかし、この舞台では状況に疑問を持っていたことも少しは表現されたからよかった。ところでいま、我が国は、一つ間違えば崖下に落ちてしまう危うい状態にある。しかし、国民は(仙太のように)愚かだからこれに気が付かない。自分のことしか考えられないのである。」
つまるところ、「我が国民は、無知で愚かであり、それ故政治的に利用されている。」ということになる。また、「どこへ向かうかは選挙民に掛かっている。」と言っているところを見ると、選挙民は、ご自分の選択肢とは違う、あるいは反対の選択肢に投票すると嘆いている風にもみえる。
これは村山知義が「ファッショ的、アナーキズム的な傾向。卑俗劇、リアリズムの探求と正反対、新国劇のジャンルに属する。」とこの劇を批評したのと立場を同じくするものだろうか?

 

これは危険思想ではないか。
突き詰めていけば、愚かでないわたし以外の愚かな国民は死んでもかまわないという極論に向かうベクトルを持っている。
そう、邪魔になった博徒は殺してもいいと考える、天狗党のイデオロギーをあなた自身が体現しそうである。天に唾する如き思想を内在させた奇妙奇天烈な批評の構造といわざるを得ない。

 

それはともかく、この批評家は「仙太は無知だったために、利用された。」と考えているようだが、それは正しておかねばならないと思った。
なぜなら、天狗党の中には、仙太の他にも大勢の「仙太」つまり、腕の立つ博徒が参加していたと言う事実があるからだ。他にも、百姓、商人など武士以外のものが多数「自主的に」参加していたのであり、彼らが皆無知だったと言えるのか?

 

話は横道にそれるが、NHKの大河ドラマのことである。
ここ数年好みのテーマでなかったから見なかったが、今年は「渋沢栄一」なので欠かさず見ている。以前から、渋沢のマーケティング精神は、世界最高水準と考えていたからだ。ウォール街の強欲どもに「論語と算盤」を翻訳して配ったらいい、と思うくらいである。

 

渋沢は、水戸藩とは何の関係もない利根川中流域近くの武蔵国血洗島で生まれ育った。親の仕事を手伝ううちに、封建社会の本質に触れ、これを糺す必要を痛感する。折しも、黒船が江戸前に現れ武力を背景に開国を迫ると言う時世である。「外国に侵略される」という恐怖と不安が日本中に蔓延している。「夷狄は攘ち払うべし(攘夷)」と思うのはごく自然の成り行きであるが、では、誰がどうやって、誰のために攘夷を行うのか、という点では答えが見いだしにくいのである。つまり、血洗島は幕府直轄の天領であったから、渋沢たちの攘夷は幕府とともに行うというのがこの時代の原則であった。
この時勢の変化に敏感だった島津や鍋島などの藩主は、我が藩を夷狄から守るため、それぞれ備えをはじめるが、それらはあくまで藩を単位とする防備であった。
水戸の第九代藩主、徳川斉昭(水戸烈公)も、長大な海岸線を持つ自藩の防御を固めるために、砲台を建設したり、大砲や銃を鋳造するための製鉄炉を建設し、洋装した軍隊を編成して軍事訓練するなど攘夷に備え、幕府の重役としても急進的な攘夷を主張する一人であった。
渋沢たちが攘夷に貢献しようとすれば水戸藩に参加すればいい、と現代ではなるが、封建社会ではそうはいかない。
全国には、こうした恐怖と不安を解消するためには攘夷しかないと考える青年が無数にいる。農村といえども商品経済の発展とともに豊かになりつつあり、渋沢の少年時代に見るごとく、教育程度も高く、社会意識にも目覚めたものたちである。
この持って行き場のない「思い」に横串を刺したのが、水戸学の「尊皇」であった。
「尊皇」という思想の下に「攘夷」があれば、天領の渋沢も水戸の百姓も肩を組んで夷狄を撃退できるのである。
渋沢たちは、高崎藩の城を奪うとか。横浜の異人居留地を襲撃するとかの計画を立てるが、これは、尊皇というイデオロギーのもとで自らを正当化することによってできたことである。
尊皇と攘夷を一体化した思想、この発見が我が国近代化のはじまりとは大概の歴史書にあるとおりで、その輸出元として水戸藩は全国の志あるものに尊敬された。
このようにして強固だった封建社会を突き破る地下のマグマが、尊皇攘夷という一点に集中して吹き出したことを鹿島茂は、これこそ一点突破全面展開という、昔の社靑同解放派のスローガンの示唆するところだ言っている。(「ドーダの近代史」朝日新聞社)

 

共鳴した長州の桂小五郎が、烈公の墓参と称して水戸に来て、筑波挙兵を企てていた藤田小四郎に千両の軍資金を提供すると約束し、その半分の五百両を置いて帰ったのは、この同盟の証であった。劇の中で、甚伍左と水戸浪士、長州藩士が議論していたのはこの同盟が空手形になっているということにあった。

 

藤田小四郎はわずか二十二歳の若者である。
ドラマの中では筑波挙兵前の鬱々とした日々、渋沢たちと酒場で出会ったことになっていた。(のちに渋沢が、小四郎の人となりを語っているところを見れば、接触があったことは事実だろう。)
小四郎は、水戸学のイデオローグとして尊敬を集め、水戸烈公の信頼厚いブレーンであった藤田東湖の妾腹の子である。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にこの妾というのが変わった女だったという記述があって、面白い。(劇評「私たちは何もしらない」で「簡潔かつ論理的で頭の良さがにじみ出ている」と書いた山川女史は、水戸藩の学者、青山家の出である。)

 

「東湖の正妻はいたって温厚な女性で、三人の男子を産んだ中で長男は夭折、二男の健二郎、三男の大三郎はいずれも母親似の目立たない存在だった。大三郎と同年の生まれで妾腹の小四郎は、その母が恐ろしく気の利いた役に立つ女ではあったが知り合いの中ではきちがいだと言われたくらい、気の強い出過ぎもので、気が向かなければ昼時までも布団を被って起き出さず、うっかり起こそうものなら、とんだ口をきいて、人前で主人に赤恥をかかせるようなことも希でなく、持て余した東湖が、妾の分際で贅沢をするとか言う口実をつけて暇を出した女だった。」
(「幕末の水戸藩」山川菊栄、岩波文庫)

 

東湖の戸惑う姿を想像するとおかしいが、妾のことは置いて、藤田小四郎はじめ天狗党とはどんな連中が立ち上げたものかである。

 

実は、この文の冒頭で「少し書き足りないと思った」と書いたが、藤田らが挙兵した天狗党と68年から72年の連合赤軍で終わるあのムーブメントが僕の中で一瞬同期(synchronise)したことがあって、と言うのも、「尊皇」というイデオロギーは水戸藩のルーツに関わる特殊性を持ちながら、世直しの「檄」としては十分であり、学生が唱えた革命の檄としての「反帝、反スタ、世界同時革命」などのスローガンといい、それを主導した世代も共通するという点で、歴史は繰り返すという感慨を抱いたということを書いておこうと思ったのだ。

 

 

山川菊栄の記述は続く。
「小四郎が母親に似て目から鼻へ抜けるような、抜けすぎるほど利口で、才走った子ではあったが、早熟で調子外れのところもあり、あの調子で果たして大成するものかしらと頭をかしげるものも多く、東湖は自分が早く死ぬようではあの子は周囲のものの手に余るだろうと心配していたという。小四郎は十四歳で父に死別したが、家禄五百石を長兄が継ぎ、母は実子と同様に扱ってくれ肩身の狭い思いはせずに済んだ。体格は立派だったが、色の黒いおかめのような顔なので、あだ名をおかめと呼ばれていたが、原一之進の塾でも弘道館でも小山の大将でハバをきかせていた。文武ともに優秀だったからでもあろう。同じ門下に小四郎より二三歳年下の田中愿藏があり、これは郷医猿田玄碩の子。一之進は天狗党檄派だったが、才人で、広く人気を呼び塾生も百人を超し、藩内第一の勢いだと延光(青山菊栄の外祖父の兄で学者)が息子への手紙に書いているくらいである。」

 

小四郎は、烈公引退後を継いだ藩主慶篤の上洛の際に、原一之進、田中愿藏も、ともに随行したことがあり、京の尊皇攘夷運動に直接触れ、自分が志士たちの尊敬を集める東湖の倅であることを誇らしく思って帰った。原一之進は、そのまま京にいて、やがて一橋慶喜に仕えるから、大河ドラマにも登場することになるだろう。
この天狗党檄派というのは、これより前、孝明天皇から水戸藩に下されたという(攘夷の)密勅の返還を巡って、天狗党内部で激しい対立があり、そのまま有効と主張したのが檄派、返還すべきとしたのを鎮派と呼んだものである。他の原因でもしばしば分裂・合従を繰り返しており、筑波挙兵は、檄派が行ったことだが、のちに鎮派も合流するので、細かくみれば時期によってその構成は変わる。
「斬られの仙太」が関わるのは、天狗党の筑波挙兵からだが、途中、水戸藩門閥派の諸生党が実権を握り、尊攘派を弾圧しはじめたため天狗党は諸生党と軍事的に対峙せざるを得なくなる。これを機に、参加していた多くの脱藩浪人や百姓町人が水戸藩の内紛には関わらないとして、天狗党から去ったが、仙太は内戦のさなかに檄派に呼び戻され仕舞いには京を目指す進軍に加わるのである。

 

天狗党がひろく人々の耳目を集めたきっかけは、他でもない、元治元年(1864年)三月の筑波山における挙兵である。
藤田小四郎は、若輩であることから奉行の田丸稻之衛門に首領を頼んで、はじめ六十二人が筑波山神社に集まり、幕府に攘夷を迫るために挙兵すると宣言した。この中に田中愿藏もいる。たちまちこれに賛同した農家や街場の若者たちが続々と集まりピークには千人以上の大集団になった。

 

この若者たちは、あの劇評家が言うように仙太と同様「無知」であったのか。そうではあるまい。尊皇攘夷という理屈はともかく、「斬られの仙太」開幕の場面にあるような理不尽な身分制度を打ち壊して世の中を変えたい、つまり、一点突破全面展開を狙って、それが出来る千載一遇の機会と思って参加したのではないのか。仙太が江戸に出て剣術を習ったのも世直しの助けになることを意識したに違いない。まさに「世直し」は時代のテーマだったのだ。

 

しかし、若い藤田らには誤算があった。
関東一円をまわって遊説した藤田に応えた多くの商人や豪農が浄財を喜捨したが、それでこの集団を養う金をまかなうと言っても限度がある。たちまちこれが問題になった。

 

山川菊栄が、田中愿藏の名を特に上げたのは、この若者が軍資金を調達するために行った数々の無謀な行為が、天狗党の名を貶め、幕府の怒りを買ったばかりか、彼らの旗揚げに肯定的だった民衆の気持ちを恐怖と憎悪に変えた張本人だったからである。

 

藤田ら一行は旗揚げの直後、烈公の位牌を担いで、日光東照宮を目指した。攘夷は家康の遺訓であると主張し、東照宮を占拠すれば幕府の追討軍といえども容易に手出しできまいという読みであったが、先回りした日光奉行が警備を固め拒否したため参拝だけしてここを去り、下野太平山(ここには神社があり宿所も確保できる)に滞留した。ほどなく筑波山に帰るが、そのころから近辺の村々や宿場に出没して恫喝まがいの軍資金の調達が盛んになる。
特に、六月五日の田中愿藏らによる栃木宿の襲撃は凄惨を極め、民衆の怒りを買った。
田中愿藏が指揮する隊は、他国の十代の若者も多く、服装も華美で、身分によって髪型が違うことに反発し皆漸ばら髪にした一見異様な不良集団のように見えた。

 

その宿場襲撃の模様を記録文学の吉村昭が活写している。

 

「その日は、朝のうち雨が降っていたが、やがて雨脚が細くなってやみ、薄日がさしてきた。栃木町では、雨があがるとともに人馬や駕籠の往来がしきりになった。・・・・・・
八ツ(午後二時)頃、町の東にある木戸口あたりで、突然、陣鉦と陣太鼓をはげしく打ち鳴らす音が起こった。その音に、歩いていた町の者や旅人は足をとめ、家々から人が路上に飛び出した。法螺貝を吹く音もきこえ、それは近龍寺裏門の前の道から、町の中を南北に通じる街道に近づいてくる。人々の眼に、行列の先端が街道にあらわれるのが映った。行列は、街道を南にむかって進んでくる。町の者たちは、馬にまたがっている男の顔を眼にして、顔色を変えた。それは田中愿蔵で、立烏帽子に華麗な陣羽織を身につけ、紅栗毛の馬上で身をゆらせている。馬の両側には、半弓を手にした小姓がつきしたがっていた。総勢八十名ほどで、槍を手にし鉄砲をかつぎ、旗差し物をひるがえし、二つ巴の紋のついた長持ちをかついだ者もいる。いずれも十代から二十歳ぐらいまでの若者ばかりであった。「ザン切り組だ」というささやきが、町の者たちの間で起こった。
・・・・・・
前方の道の中央に、下駄をはいた男が一人立っているのが見えた。男は、道の端に身を寄せることもなく、放心したような眼をこちらにむけている。・・・・・・
かれは、かたわらを歩く隊員に、「行く手をさえぎる無礼者がいる。あの者を斬れ」と、叫んだ。うなずいた若い隊員が刀をひきぬき、男にむかって走り出した。うつろな眼をして立っていた男は、刀をふりかざして突き進んでくる隊員の姿に驚き、道ぞいにある酒造業の住吉屋勘兵衛の家に走りこんだ。・・・・・・隊員は、酒蔵の中を探しまわり、うずくまっている男を見いだした。「立てい」という声に立ちあがった男の左腕に、隊員の刀がふりおろされた。腕が土間に鈍い音を立てて落ち、悲鳴をあげて立ちすくむ男の右腕に、さらに刀がたたきつけられた。男は、土間に倒れた。隊員の顔は青白く、眼が異様に光り、息は荒かった。体がふるえていた。血刀をさげて酒蔵を出た隊員の眼に、座敷から台所におりようとしているその家の娘ゑい十四歳の姿が映った。初めて人を斬ったその隊員の感情ははげしくたかぶっていて、錯乱したかれはゑいに走り寄ると、二太刀斬りつけ、肩をいからせて家の外に出た。
・・・・・・突然の血なまぐさい変事に、住吉屋の前には人がむらがり、医師も駈けつけた。両腕を斬り落とされた男は、激しい呻き声をあげていた。医師も手をつけられず、そのうちに声が低くなり、息絶えた。ゑいは、肩と背にかなり深い斬り傷を負わされていた。両親が座敷にはこんだが、すでに意識はうすれていた。医師は必死になって治療をほどこしたが、その甲斐もなく息が間遠になり、やがて絶えた。両親は、ゑいの顔を抱き、腕をつかんで泣き叫んだ。二人の町民が斬殺されたことに、栃木町は騒然となった。・・・・・・」

 

この後、田中は軍用金二万両を要求するが、拒否されると、

 

「・・・・・・隊員たちは家の中にも入って火をつけ、杉皮でふいた屋根にも松明を投げあげる。たちまち街道の両側にならぶ家々から炎がふき出し、物のはじけるすさまじい音がひびき、街道に黒煙が充満した。田中は、馬を走らせながら、「火を消そうとする者は殺せ」と、叫んだ。
・・・・・・田中は、町の北部にある上町と中央の中町が炎につつまれると、部下に命じて引太鼓を打たせた。その引きあげ合図に、隊員たちは町の南部の下町に集まった。田中は、道の両側にならぶ下町の家々にも火をはなたせ、それらが火炎をあげるのを見とどけて南の木戸をぬけ、川にかかった素杉橋を落として追っ手のくる道を断った。栃木町をはなれた田中は、南下する途中、沼和田村川間(栃木市河合町)の街道ぞいの民家約五十軒にも火をはなたせ、隊員は小山宿の方向にむかって夜の闇の中に消えていった。」(吉村昭. 「天狗争乱 」)

 

栃木宿ではこの襲撃で230余りの家屋が焼失する甚大な被害を受けた。その後も、彼らは、真壁、足利、桐生などの宿場でも商家や陣屋を恫喝し、ことわられると金品を強奪し町家に火を放った。

 

この報告を受けた筑波山の田丸稻之衛門は怒りに震え、田中をいったんは謹慎処分とするが、田中は不満で、以後単独行動をとるようになる。
しかし、これによって天狗党に対する世間の風向きは完全に変わってしまった。田丸らは協議の上、田中を除名したことを公表するが、民衆の天狗勢への批判と反感が変わることはなかった。
一方、幕府が諸藩に追討を命じると、それまで尊攘派の武田耕雲斎らをかばう姿勢だった藩主慶篤が、門閥派の圧力に屈し、諸生党に追討を命じることによって、水戸藩内の内戦の様相を呈してきたのである。武士だけではない。天狗党に対する自衛の為の鄕士や農民らの組織が各地に出来、天狗党に資金提供した商家や豪農の打ち壊しがおこなわれ、諸生党に荷担する民衆も現れて、水戸藩領全体が、夏空の下で沸騰するような有様になった。

 

いつの時代にも田中愿藏のような跳ね上がりはいるもので、これが人心を離れさせ、運動も急速にエネルギーを失っていくのは連合赤軍の事件にも似ている。

 

 

さて、この文は「仙太は無知だから利用された。国民も愚かで無知だ。選挙に利用されている。」という劇評について書き始めた。
このムーブメントに参加した多くの「仙太たち」も武州の渋沢栄一たちも、外国から侵略を受ける事態を憂慮した、というのが動機であることはいうまでもない。幕府がそれを断行しないために、もはや侍などあてに出来ない、自ら身体を張って実行すべきと考えたのだ。

 

とはいえ、攘夷を実行するにも、実際には戦力に圧倒的な差があることを認識していたとは言えないし、諸生党との戦争のさなかに、いわゆる尊攘派が失脚する七卿落ちがあって、京の大勢は薩摩など公武合体派がとってかわる状況になっていたことを知らなかったと言う意味では無知で、愚かだったともいえるだろう。
しかし、それは天狗党の行動全体に言えることで、多くの民衆が参加した動機は、そんな政治状況よりも外国に侵略される「不安と恐怖」にあり、その解消である。

 

三好十郎が、「越前、木ノ芽峠」の場で、実際の天狗党にはなかった、武士たちの裏切り(武士の延命のために百姓町人を犠牲にした)をわざわざ設定したのは、「指導層」は大衆運動のエネルギーを利用して、それがいらなくなればいつでも平気で大衆を裏切るものだ、ということを示したかったのだろう。あの当時、スターリンがカーテンの向こうで何をしていたかどれだけ知っていたかは分からない。共産党は反革命と称してこれを粛清するが、そんなものは「指導層」の勝手な言い分で、それならこっちはこっちで自分の身を守る、それには自分で物事を考えて判断するしかないと言いたかったのが、最終の「真壁在田んぼ」の場だったのだ。
「斬られの仙太」は無知どころか、権力の構造と弱点を突いて、民衆が生きる知恵を伝えようとしていたのである。

 

 

この後、「尊皇」というイデオロギーは水戸藩のルーツに関わる特殊性、と書いたことについて言及するつもりであったが、またの機会にする。
いささか焦点惚けの文章になってしまったが、容赦を請う。

 

 

 

 

 

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