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2020年12月26日 (土)

安曇野・相馬愛蔵・黒光のことなど

「常念岳」登山前後

 

最後に登った山は確か「常念岳」であった。それが2009年のことだったから、もう10年以上山に行っていない。
東日本の震災があった年、2011年の六月に身体が動かなくなって、生涯初めて入院した。それまでの二年くらいの間に近傍の山に行ったかも知れないが、記憶がないので、あれが最後だったろう。また、登ってみたい気はするけど、あのとき心臓がいかれてしまったから、たぶん、行ったら人様に迷惑をかけるだけだ。
コロナのせいで、劇場に足が向かないのはもちろん、出かけるのもおっくうになって、日々の食糧調達以外は家で本を読んだりTVをみたりしている。NHKを見ていると夜中でも何でも内外の山の映像を目にすることが多く、嫌でも山行きのことに気が行ってしまうものだ。

 

「常念岳」登山の様子は、すでに書いているが、その時プロローグのようにして直接関係のない二つのことに言及している。
一つは、この間書いたとおり、泉康子の「ドキュメント山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」(宝島社)にあった中房温泉に興味があったことである。
もうひとつは、映画のシナリオを依頼されて、ロケハンのために安曇野を走り回ったとき、常念岳を遠望したことだ。
このときの記事に多少手を加えて、再掲したいと思う。

 

 

二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。
確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとそのプロジェクトにかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。

 

安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは分からなかった。とりあえず、映画監督が撮りたいと思ったものに合わせてシナリオを書くという主体性のないまま、ロケハンをするのに同行して何度か安曇野に足を運んだ。
監督は、映画も撮っていたが、CF撮影の世界で評価が高く実績もあった。このときは安曇野という土地柄を紹介するという目的だったから、とりあえず美しい映像を撮ることを考えていて、構成に注文をつける気配はなかった。だからこちらから何か提案しなければとシナリオハンティングのつもりであちこち見て回った。

 

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 安曇野一帯を俯瞰するために犀川を渡って池田町の高台を走り、また穂高に戻って美術館や記念館や忠魂碑や遺跡などを見学した。街道沿いになんと鄙には稀な古書店(さすがは信州)を見つけていくつか資料を購入した。広大なワサビ田も見どころは多かった。その側には黒沢明が『夢』を撮影した時に作った三連の水車小屋がそのまま残されている。他にも絵になるところはいくつもあったが、しかし、それだけなら観光映画になってしまう。何か人が織りなす物語の中に、おのずから安曇野の風景が浮かび上がる映像詩のような映画になれば訪れる人にとって印象深いものになる、そう思ったのは、碌山美術館を訪れた時だった。

 

 

Image_20201226160301 石積みの小さな教会のような建物の中に、萩原守衛(碌山)の残した彫刻とデッサンが展示してあり、狭い庭にもなにか作品がおいてあったような気がする。僕は日本の近代彫刻の代表作とも言える作品『女』をいつか写真で見たことはあったが、それが新宿中村屋の相馬良(黒光)と深くかかわっていたことを知らなかった。二人の話はドラマ化されたこともあったそうで、監督もそれは承知のようだったが、おそらく安曇野の風景を描こうというこの映画と直接関係することとは思っていなかったようだ。

 

明治三十一年春、後に新宿中村屋を創業する相馬愛蔵と良は東京牛込の教会で結婚式を挙げると愛蔵の故郷、穂高に戻ってくる。愛蔵は代々庄屋をつとめた相馬家の跡継ぎである。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中に内村鑑三らのキリスト教に強い影響を受け、故郷でも近所の若者を集めて東穂高禁酒会なるものを主宰している。
禁酒会とは妙なものをつくったと思ったが、これは当時のDV対策のようなものだった。どこの田舎も似たようなものだが、農作業がないときの男どもは、酒を飲むことしか大方やることがない。飲んで酔って、仕舞いには家族やまわりのものに暴力沙汰に及んだり、始末に負えなくなることが多かった。これをやめようという誘いに布教活動を絡めた運動が禁酒会で、維新後の社会性に目覚めた青年たちが興味を抱いて参加した。

 

ところで、相馬愛蔵が新妻をともなって故郷へ帰るとき、身体が弱かった妻は、松本平を見下ろす保福寺峠の温泉で一ヶ月ほど滞留している。なぜ、東京から近い南の塩尻側から入らずに、遠回りになる東側の険しい峠を越えようとしたのか不思議に思ったのだが、このとき、全国の鉄道網は整備の真っ最中で、中央本線はまだ全線がつながっていなかった。東京から穂高に帰るには、まず高崎方面に向かう汽車に乗り、碓氷峠で上信国境を越え、官営鉄道中山道線(後の信越本線)上田駅で下車、そこから馬で標高千三百五十メートルの峠を西へ越えるのである。

 

臼井吉見「安曇野」によると、高崎からいまでは「峠の釜めし」で知られた横川まで汽車で来ると、夫妻は馬で碓氷峠を越えたことになっている。
碓氷峠は標高九百六十メートルで、横川から信州側の軽井沢まで約十キロメートルの区間を上り下りする。横川の標高は三百八十七メートル、一方の軽井沢は約九百メートルと上州側から五百メートル強の高さを、しかも最大勾配66.7%(距離1000mで高さ66.7m)という急坂を蒸気機関車で登らねばならない。信越本線は、この難所が障害になってしばらくつながらなかった。欧州高山鉄道などを参考にアプト式(車軸に歯車を付け、線路側に歯形のついたラックレールを敷いて、かみ合わせながら走る。)を採用、トンネルや橋梁を多用して山間を通し、機関車を二連結して引き、押し上げるなど工夫を凝らすことで、明治二十六年、ようやく開通したのである。一年半という異例の速さで完成させたが、その間に五百人もの犠牲者を出した難工事であった。
しかし、開通したのはいいが、機関車の煤煙がトンネル内に充満、乗務員はもちろん乗客までその被害を訴えることが多く、しばしば中継駅である熊ノ平で立ち往生するなど運行には問題が多かった。
明治三十一年、相馬夫妻が横川から馬を使って峠を越えたのは、そういう事情があったからかも知れない。

 

 

話を戻そう。
良はもともと仙台藩士の娘であるが、さまざまな苦境を乗り越えて、フェリス女学校から島崎藤村や北村透谷のいる明治女学校で学んだ、当時の田舎には珍しいインテリ女性であった。
その穂高禁酒会に通って来る十代の若者たちの中に絵が上手な男の子がいた。この萩原守衛は、東京からやってきた相馬家の美貌の嫁を遠くからあこがれをもって仰ぎ見ていた。
あるとき、彼が万水(よろずい)川を背に田の畔に腰を下ろしてまだ雪を抱いている春の常念岳をスケッチしていると、後ろから『こんにちわ』と声をかけるものがいる。振り向くとえび茶のパラソルを差した相馬良であった。萩原守衛は、突然の出来事に狼狽し胸が高鳴り、頬が赤くなるのを感じた。
それが二人の出会いであった。

 

手がかりをつかんだ僕は、事務所の机の正面に安曇野の五万分の一の地図とその横に常念岳を含む北アルプス登山地図を貼った。それから資料集めをしているうちに、小説は参考にならないと思ったが一通り当たっておこうと、臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、全五巻)を手にした。

 

結婚した相馬愛蔵と良が上田の停車場に降り立ち、そこから保福寺峠を馬で越えて松本盆地に入るところから始まる大河小説で、作者自身がそこで生まれ育ったという安曇野の情景が生き生きと描かれている。
愛蔵は友人の井口喜源治と共に禁酒会を一種の私塾のような教育活動に発展させ、参加した若者は英語や国際情勢を学び社会制度についてあつい議論を交わした。
開巻早々、日清戦争の戦死者を弔う長い葬列が白い旗をなびかせてあぜ道を行くのを、東京専門学校を終えて故郷へ帰ってきたばかりの木下尚江が見送るという場面がある。初めての外国との戦争に勝利し、徴兵した戦争の死者を手厚く葬るとともに、忠魂碑などを建立して彼らを顕彰するという余裕に明治新政府の自信が表れている。
つまりこの小説は、日本が本格的に西欧化に踏み出した時代の一地方における青春群像を追いながら、昭和の戦争そして戦後にかけての激動の時代に自身の人生を重ね合わせ、日本の近代化とは何であったかを問うたものである。僕はその面白さに、本来の目的を忘れて夢中で読みふけった。

 

しかし、まさかこんな大作を作るわけにはいかない。むろん依頼されているのは劇映画などではなくて、安曇野とはどんなところかを紹介する映像である。さりながら、何らかの方法で。例えば人の気配がする、あるいはナレーションかテロップを流す、いづれにしても百年前に新しい時代を迎えて自分たちのどんな未来を作るかを語り合ったその「話し声」がこの地から聞こえてくるような映像にしなければ、安曇野を描いたことにはならないと思った。

 

 

ところが、相馬愛藏夫妻は、程なくして安曇野を離れる。
良は長女俊子を生んだあと、稼業である養蚕や農業を手伝っていたが、健康を害して、東京で療養することになったのである。そのことを相馬愛蔵が書いている。

 

「良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒いえた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。」(「一商人として――所信と体験――」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

夫妻は、本郷赤門前にあったパン販売店中村屋を経営者の中村萬一から従業員ごと譲り受け、この経営をはじめる。
高等教育を受けたもの同士が商売をするというのは当時としてはよほどめずらしかったのだろう、「書生パン屋」と呼ばれて繁盛した。
九年後、業容を拡大する必要が生じ、新宿駅の近くに土地を得て、支店をつくることになった。
この当時のことを愛蔵は次のように書き付けている。

 

「明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒すさんだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。」(「一商人として」相馬愛蔵、相馬黒光)

 

愛蔵夫妻は、あたらしい店を拠点に、菓子製造やレストラン経営を加えて業務の幅を拡げる。この間愛蔵は、一年のうち三ヶ月は帰郷して、稼業の蚕種製造の仕事や農業に気配りし、安曇野から心が離れることはなかった。

 

 

余談だが、紹介した「一商人として」は、いわば経営者が持つべき商人道として、渋沢栄一の「論語と算盤」とともにもっとも広汎に、世界中で読まれるべきものではないかと僕は考えている。

 

 

やがて、新宿の店は拡張され、住まいとともにアトリエが増設される。欧米留学からかえってきた萩原守衛(碌山)が寄宿し、他に中村彝(洋画)、高村光太郎、戸張弧雁(彫刻)、木下尚江、松井須磨子、秋田雨雀、会津八一らの文化人が集い、アトリエは相馬黒光を世話人とする中村屋サロンと呼ばれるグループの拠点となり、芸術家たちの活動を支援した。
このブログで、俳優、佐々木孝丸について書いたことがあったが、この中にも新劇草創期の佐々木たちと愛蔵・黒光夫妻との関係が出てくる。


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僕にとっては面白いエピソードなので、繰り返しになってしまうが、少し長い引用をする。詳細は、「佐々木孝丸と大山公園の話」と
「その第二節」をご覧ください。

 

「佐々木は、しばしば戯曲を創作しては秋田雨雀に見せており、もともと演劇に関心はあったが、秋田から有島武郎らとの講演旅行の旅先で、戯曲の朗読会に立ちあったことを聞いて、自分たちもやろうと提案し、新宿中村屋の相馬黒光のもとに有志が集まって定期的にそれを催していた。とはいえ、実際の舞台活動には至らず、 このときはまだ、俳優、演出家、佐々木孝丸は誕生していない。
・・・・・・ 中村屋サロンの中で、フランス(仏語)にゆかりのあるものが集まってつくった「フランス同好会(Amis de France)」で、佐々木は、初めて小牧近江と村松正俊に会っている。村松は、東大の美学を出た博学、新進気鋭の評論家で、三人は同好会が主催する「ヴェルレーヌ二十五年祭」の準備のために連れ立って行動していたが、そのときはまだ他人行儀のところがあった。
このイベントの中で、ヴェルレーヌの劇詩(二人の対話劇)の朗読会をやることになり、佐々木は自分で翻訳した詩の相手役に当時まだ十五、六歳の少女にすぎなかったが、関係者の間で評判の高かった水谷八重子を選んだという。天才はこの頃からすでに注目されていたのである。このとき佐々木は初めて洋服というものを身につけたといっている。小牧が貸してくれたものだった。」

 

「小牧近江の経歴がユニークである。明治二十七年生まれだから佐々木より四歳年長 。東京の暁星中学を中退して、明治四十三年(1910年)土崎(秋田市)の有力者にして代議士だった父親の洋行についてフランスに渡り、そのままパリ大学法学部に入学、苦学して大正七年(1918年)に卒業した。その間、ロマン・ロランに傾倒、小説家アンリ・バルビュスの提唱する反戦運動=クラルテ運動に参加した。大正八年帰国。「種まく人」は、クラルテ運動の種を日本でまくという趣旨に基づいて、ロシア革命救援、非軍国主義、国際主義などを基調とする論文、特集記事を掲載、なおかつ「行動と批判」をスローガンに掲げる雑誌である。このスローガンにある「行動」のひとつがなんと演劇活動だったのである。」

 

・・・・・・創刊号の保証金は高利貸しから借りて済ませた。ところが、印刷も出来、製本も上がった段階で、印刷屋に払う金がない。工面したが明日発売という段になって、二百円ばかり足りない。「えい、あたって砕けろ」とばかり、夜半に中村屋を訪ねて借金を申し込んだ。
売上金はすでに銀行に預けてあり、明日か明後日に来てくれと言われたが、そこのところをなんとかとねばった。すると、なんと相馬愛蔵は、明朝わたす従業員の給料がとってあるからそれを融通しようと二百円ポンと貸してくれた。
今どきの事業家にこんな人物がいるだろうか?あるいは、大正という時代がそうさせたのか? あとで話そうと思っている現代の事業家には、相馬愛蔵や黒光、梅屋庄吉など社会運動を支援した人々の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。」

 

 

話が安曇野から離れてしまった。
「常念岳」にもどろう。

 

Pixta_53632944_m695x460 あのロケハンの日、安曇野を一望できる高台にたって、山すその耕地が途切れるあたりからいきなり天を衝く高さに立ち上がって黒々と続く屏風のような山並みを見ると、畏れのようなものが沸いてきて、そこに人が登ることなど考えもしなかった。重疊として連なる山の名前を同定することもできなかったが、しかし常念だけはよくわかった。頂上から左右同形に弧を描いておりてくる美しい稜線が空を切り取って他の山々とはくっきりとわけられている。

 

萩原守衛は画家を目ざして欧米に学んだが、外国にいていつも思い出すのは常念であったといっている。また深田久弥は、臼井吉見のエッセイにある彼の小学校時代の校長がいつも教室の窓から外を差して「常念を見よ」といっていたことを引いて「松本平から見た常念岳を知っている人にはその気持ちが分かるだろう」と書いている。(『日本百名山』)

 

安曇野の人々にとって常念岳は格別の山なのである。

 

まもなく、映像を作る話は頓挫してしまった。アミューズメントパークの計画がなくなったのだ。
風景が人をはぐくみ、人が風景の中を過去から未来へ生きていく、そんな映像ができたら安曇野を訪れる人たちの旅情がいっそう深くなるのではないか。あれが相馬愛蔵の家、ここが相馬黒光と萩原碌山が出会った場所などとめぐり歩く人たちも出てくるのではないかと思ったりもした。しかし、中止になったのは内心安堵したことでもあった。

 

一体、安曇野の豊かな自然の中にそんなにぎやかな娯楽施設が必要だろうか?確かに観光客は格段に増えるだろう。この地方に落ちるお金もかなりのものになるはずだ。経済的に豊かにはなるだろうが、失うものも多かったのではないかと思う。安曇野の人たちは賢明だった。

 

 

僕はこの話を忘れることにした。集めた資料も今ではちりじりになった。ただ一枚、あの時机の前に貼った北アルプス登山地図だけがどういうわけか手元に残っていた。しかも、今日までその地図にあるどの山の頂上も一度も踏んだことはなかったのだ。まっさらな地図をたまに見ることはあったが、そこへ行こうという気にはならなかった。
理由は、まず東京からは遠いことであった。長い間、原則日帰り登山を続けたが、北アルプスでそれはおそらく無理だった。 それに、あれは山のベテランが行くところと思って臆するところがあった。岩峰が多くて危険。ザイルの結び方も知らない素人である。足を踏み外したらおそらく一巻の終わり。あこがれはあったが本気で行こうとは思っていなかった。

 

 

しかし、いろいろ考えた末に、「常念岳」を登ろうときめた。
その次第は「山登り」の項に書いたので、興味のある方は、のぞいてみて欲しい。
朝早く登り初めて、昼少し前、胸突き八丁と呼ばれる急坂の崖道を下山者と身体が触れあうくらいにすれ違いながら登ったことをいまでも覚えている。あえぎながら登り切って森林限界に飛び出ると、そこが常念乗越の鞍部であった。

 

 

 

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