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2020年11月25日 (水)

中房温泉「山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」

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「常念岳」登山の記録でプロローグのようにして、直接関係ない二つのことに言及している。一つは、安曇野に関する映画のシナリオを準備したこと、もうひとつは燕岳登山口にあたる中房温泉に興味があったことである。
そのうち、中房温泉に関わるものを抜き出して多少手を加え。再掲する。

 

 
数年前、泉康子の「ドキュメント(宝島社)を読んだ。偶然本屋で見つけたのだが、ドキュメンタリーでありながら一編の推理小説を読むような面白さであった。

 


 昭和61年12月28日、信州安曇野から燕岳、大天井岳、喜作新道を経由、槍ケ岳を目ざして縦走(北アルプス表銀座縦走ルート)に出かけた「のらくろ岳友会」の三人のパーティが、1月4日の予備日を過ぎても予定していた上高地方面に下山してこなかった。彼らは昭和62年元旦のご来光を槍ケ岳の上で仰ごうという数年来の目的を果たそうとしていたのだが、登山開始の日から悪天候が続いていたため、あるいは遭難したのではないかと懸念された。
その予定は、 次のようなものであった。



Photo_20201125161101 12月28日、大糸線有明駅から宮城までタクシーで入り、中房温泉を経て日本三大急登の一つ合戦尾根に取り付き、尾根の中間地点にある合戦小屋(2,380m)前で幕営。
翌29日には合戦小屋から燕山荘(2,680m)に登り、縦走路を南に大天井岳(2,922m)を目ざし、頂上直下の大天荘で幕営。
30日は大天井岳を登り返し頂上から喜作新道を西にたどって「ヒュッテ西岳」(2,680m)前に幕営。
翌31日は西岳(2,758m)から東鎌尾根(槍ケ岳から伸びる)にとりつき槍ケ岳に登り、槍の冬期小屋で幕営。
明けて1日、槍から南へ(穂高連峰の主稜線上にある)大喰岳(3,101m)そして南岳(3,033m)と通り、そこから主稜線を離れて横尾尾根を梓川まで下り横尾で幕営。
翌2日、梓川沿いに上高地を経て沢渡へ下山する。

 






 3_20201126160701 こう書かれても北アルプスに不案内な人には何が何だか分からないかもしれない。北アルプスのこのあたりの山域を分かりやすく言うと、穂高岳(3,190m)から槍が岳(3,180m)につながる山脈は長野と岐阜をわける飛騨山脈の主脈であるが、上高地に流れ下る梓川を挟んで長野県側にもう一つの山脈が向かい合って走っている。それが常念山脈である。主峰は無論常念岳であるが、南から北へ蝶ケ岳(2,664m)、常念、横通岳(2,767m)、東大天井岳(2,814m)、大天井岳(最高峰)、燕岳、北燕岳(2,756)、東沢岳(2,497m)、餓鬼岳(2,647m)と稜線をたどる。この山脈と飛騨山脈の槍ケ岳をつないでいるのが、大天井岳から南西に延びている喜作新道である。喜作新道からは西岳(2,758m)に至り、槍から伸びている四つの尾根の一つ、東鎌尾根を通って槍ケ岳に登るのである。
彼らがたどろうとしているルートは、表銀座コースといって中房温泉ー燕山荘から槍ケ岳方面を目ざすもっともポピュラーな縦走路である。
三人の内二人は日産自動車、一人は本田技研の若い社員である。1月5日、ただちに「のらくろ岳友会」の仲間は捜索隊を組んで下山ルートの上高地に入ると、冬期間も開いている木村小屋に陣取った。小屋の主人は「今年の天候はくるくる変わった。三十日は晴れたがその夜から元旦まで大荒れの天気で、ベテランでも行動には迷ったかもしれない。」冬山の経験は十分あったと聞いて、「よし、まだ生きている可能性は十分ある」と捜索隊にむかって力強くいった。
木村小屋と共にその捜索の前線基地になったのが彼らの出発点である中房温泉だった。長野県警のヘリに加えて本田技研が自社の所有する双発のヘリコプターを飛ばして新雪が積もった縦走ルートをくまなく捜索する。
1月6日午前十時頃、河童橋の方から小柄な下山者が一人現れた。彼の証言によると、1月3日午前十時頃、自分が槍を目指して大喰岳(おおばみだけ)を下り始めたとき三人のパーティにあった。彼らは東鎌尾根から槍ヶ岳をやってきたと言って、大喰岳を登っていった。風雪がひどく三人の風貌については覚えていない、ということであった。このパーティが『のらくろ岳友会」の三人だったのか?

 

しかし、その後は何の手がかりも得られずに数日がむなしく過ぎ、彼らの遭難は明らかとなった。捜索隊のメンバーたちはまもなく現地の拠点を一旦解散するが、それから遺体回収に向けて執念の捜索が始まる。
中房温泉から槍ヶ岳を目指したパーティ、逆に上高地側から槍に登って中房温泉に下山する登山届けを提出したパーティを調べ上げ、全国に飛んで証言を集める。それによると、この山域は日本海から東進してきた低気圧が居座り、彼らが出発した日からすでに気温マイナス30度、強風が吹き荒れ視界がきかない中をラッセルしながら、やっとの思いで進む状態であった。
大天井岳から喜作新道に入るか否か躊躇しながら、大天荘で停滞していたパーティがいくつかあった。その先のルートは、岩に張り付いた雪が氷になっている険悪な岩峰が続くのだ。
天候の変わり目を読んで運よく槍に到達したパーティが四隊、中房へ引き返したのが七隊、常念にエスケープしたのが六パーティということがわかった。
彼らの情報を突き合わせると、のらくろの三人は喜作新道へは足を踏み入れていないと推量された。ということは、彼らは燕山荘から常念岳に至る稜線上のどこかで遭難し、遺体は雪に埋もれている。
三月になって、「のらくろ岳友会」の有志が再び中房温泉に集まり、捜索を開始した。山はまだ冬山の装いである。彼らが急いだのは雪が解けて、沢に流されると岩と水にもまれてまともな姿では出てこないことが分かっていたからだ。・・・・・・

 

燕山荘から大天井岳にいたる稜線のどこかで足を踏み外し、あるいは強風にあおられて滑落したか? しかし、三人が同時に落ちてそのまま遭難とは考えにくい。
なんとか大天井岳直下の小屋にたどり着いたとすれば、他のパーティと同じように天候の回復を諦めてエスケープすることにしたのではないか? すると、そこから常念岳へいたる東大天井岳から横通岳頂上を通る稜線が捜索対象となる。さらに、常念方面へ進んだとして、どこへ下山しようとしたのか?
横通岳を降りていくと常念に上り返す鞍部に大きな小屋がある。しかし、ここは冬期間閉鎖だ。ここから常念頂上までは約四百メートルを上り返すことになるが、この常念乗越には安曇野方面へ下山する一の沢ルートが交わっている。ところが、この鞍部は穂高-槍の飛騨山脈方面からくる風の通り道であり、下山ルート側へ大量の雪が吹きだまって雪崩の巣を形成する最悪の場所なのだ。
ここを避けるとすれば、常念頂上に登り、本沢を下るか、前常念岳を経由して二の沢を下るか、いずれにしても雪崩の危険は軽減する。
果たして遺体は出てくるのか?
中房温泉を基点にした捜索が続く・・・・・・。

 

 

泉康子の簡潔で乾いた文体が、冬山の緊迫した様子を描き出し、その構成は刑事顔負けともいえる情報収集と推理を重ねて間然するところがない。非常に面白いドキュメンタリーであった。後半の捜索拠点となった中房温泉へ行ってみたいと思ったのは、それがあったからである。

20190610

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