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2019年4月24日 (水)

取り残されたものたちへ③

Image_3_1 民青の呪縛 

安彦良和「革命とサブカル」をめぐって

 

前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。

その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。 この空虚の在りようについて、いかにもこの世代に共通の「時代に取り残された」精神構造が見えると思ったので、 最近若い世代が書いた「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)などを参照しながら三つ目の指摘というか提言(よけいなことかもしれないが)をしようと考えた。

 

 

Photo 彼は、ソ連崩壊を何年も前から予測していたが、その事態が90年代初頭に現実のものになると「・・・出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」と書いている。つまり、ソ連崩壊についてどう受け止めればいいのか分からなかったという空白の部分と学生時代に経験した「空っぽの寂寞感」という空虚である。ソ連崩壊についてはともかく、後者に対する思いは狂おしいまでに切実である。

『諸兄へ』の中で彼はこう書いている。「病死した同学年の活動家氏の遺稿集、追悼文集を出したときに、追悼だけでいいのかと言う座りの悪い思いをした。追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」彼は「あの時代」には(流されてしまいそうな、聞こえなくなりそうな)「巨きな意味」があったと思っている。

しかし、その「意味」とは何だと自問したとき、どうやらそこには「空っぽの寂寞感」という「巨きな空虚」だけが見つかったのである。彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?自分がしたことは何であったのか?あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

果たして、この聞き書きの旅で、その「巨きな意味」は見つかったのか?インタビュアーである安彦には、それが何か分かるかも知れないという漠とした目的はあったであろう。

彼の建てた前提は、こうである。ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。その出来事を「現在」から見ると、それは「何らかの因果関係」を持ちながら「いま」につながっているはずである。なぜならそれが「歴史」というものであり、人生はその中に位置づけられるのだから。つまり、「あの時代にあった(はずの)巨きな意味」を了解できれば、「いま」がどういう時代か、自分がどこにいるか、何よりも自分の人生とはなんだったのか分かるかも知れない、と言う思いである。

この聞き書きの旅で、何が分かったかは、安彦にあらためて聞くしかないだろう。編集者にその気があれば、ロングインタビューもいいかもしれない。

僕としては、個別の聞き書きについてそれぞれに多様な人生模様が垣間見えるといった感想はあるが、この稿は、それに言及することが目的ではない。(一言だけいうなら、インタビュー記事としては蟻塚亮二のが、最も面白く出来ていた。)あえていうなら、安彦の思いと聞き書きの相手との間にある微妙なズレがいったいどこからやってくるのか、そのことを明示しようと思っている。

とりあえず、全体的な印象を言えば、聞き書の相手は、安彦の意図に気づいてない訳でないことはわかっている。ただ、いかんせん四十年という年月は、それぞれの人生をまったく違うところに運んでしまっていた。

工藤敏幸は、「過去は置いてきた」といい、西田洋文は「あれは個人的なことだった」ととまどいながら応えている。安彦は「出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。」といったが、四十年という歳月は、その「一定の時間」には、おそらくそれぞれの人生にとって十分すぎるほど長かったのである。

つまり、当時は見えていなかったものが、今ではすでに了解可能なものになっているのだが、しかし、安彦は「この『巨きな時代』は、当時あった戦争や『革命』、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだった」といって、そこに格別に「巨きな意味」を求めるのである。

 

 

「当時あった戦争」とはベトナム戦争のことであろう。この戦争には世界中で反対運動が起こり、我が国でも政党から市民運動まで長い間米国の軍事介入に抗議が続いた。むろん、こうしたアピールが米国に届き、政策決定に影響を及ぼすことを期待してのことであったが、この世界中で費やされたのべ何百万いや何千万人ものエネルギーは、驚くほどのこともないが、全くの無意味、無駄であった。

この広汎な長期にわたる抗議の声を米国政府が一顧だにしなかったことは明らかである。1971年に国防長官マクナマラが辞表を出したとき、米国はすでに二万七千の戦死者を出していた。統計学の専門家として第二次大戦を戦った冷徹な政治家は、南ヴェトナムがこの戦争に勝利することはないという確信を抱いたのである。米国は直ちに収束に向けて手を打つべきだったが、テキサスのカウボーイ、ジョンソンは意地になって北爆を開始、勝つことのない戦争の負ける方法を探るために、さらに三万の戦死者と五年の歳月を費やしてしまったのである。

これらの事実は2004年のドキュメンタリー、最近の映画「ペンタゴン文書」で描かれたものによったが、まことに出来事というものは、一定の時を経ないとその意味は見えないものである。当時「ベ平連」に参加したものは、安彦のように、「それでもあれには巨きな意味があったはずだ」と思えるのだろうか。そのヴェトナムはいま西側からの投資を受け、経済成長率で中国を抜く発展を遂げている。

 

 

僕が海外に行き始めた八十年代半ばにはまだ、成田空港三キロメートル手前に検問所があった。バスや自家用車を止めて荷物検査をするためである。それほど、当時この空港は攻撃される危険があったということだ。羽田に変わる国際空港を首都圏につくるにあたって、数軒の農家が土地を譲らずこの地権者に革新政党や労働組合、新左翼学生が加わって激しい建設反対運動がおきた。いわゆる三里塚闘争である。

これも多数の死者を出しながら長く続いた闘争であったが、部分開港からしだいに沈静化して、いまでは国際空港の地位をかつて奪った羽田と争うに至り、そうした過去の影すら見えるところはない。

政治の傲慢さは問題だったが、公共のためにわずかに「譲る」という気持ちがあれば、あれだけの「無駄な」エネルギーを消費することはなかったのではないかと、いまにして思えるのだが、「三里塚」に参加したという日角健一は、いまでも成田空港を目の前にして、その存在を爆破したいほど苦々しく思うのであろうか。

 

 

六十年安保闘争を率いたブント全学連は昭和十年代の生まれの、東大、東北大、京大、など旧帝国大学系の学生が多くを占めていた。首相、岸信介が自衛隊出動まで考えるほど連日の激しい示威行動だったが、強行採決、自然成立の後はまるで潮が引いたように静かになった。この選良たちは「アカシアの雨に打たれて死んでしまいたい」とばかりにどこかへ雲散霧消してしまったのである。後にその中心にいた西部邁は「当時、安保条約の条項なぞ読んだこともなかった」といっている。

大学改革の運動は、僕の知る限り、六十年代半ば、欧州のある古い大学で一人の女子学生が取得単位のことで教授に抗議したことを嚆矢とする。それをきっかけに学生の抵抗はまず欧州全体に、そして米国、日本へと広がったのである。この背景には、第二次大戦後の平和への期待によって世界中で起きたベビーブームがあった。「一族で初めての大学生」(鹿島茂の言)が多数生まれ、高等教育の大衆化がはじまると当然のように旧態依然たる大学の権威主義や形式主義は批難の的になった。私立大学の授業料値上げ反対や大学経営者の不正糾弾、東大医学部医局問題など学内の改革に向けた学生の運動はそれなりの成果を見せたが、後半、新左翼各派の草刈り場になって突出した一部は暴力革命をめざすものへと過激化した。まもなく政治的イシュウがなくなり、空前の経済成長ということもあって学生運動は沈静化していく。

連合赤軍」については聞き書きの中で関係者が詳細に語っているからここでいうことはない。あえていうなら、情勢分析も目的も戦略もない児戯に等しい「革命ごっこ」の代償がいかに高くついたか、ため息が出るばかりである。当時、警視庁広報課長だった國松孝次はあさま山荘事件をふり返って「警察官は撃たれても犯人の学生は無傷で逮捕という方針」だったことを若干の悔しさをにじませて語った。世界とは異なるいかにも日本的な対応であったが、つまり彼らは自らが望んだ「革命家」とはほど遠い『子供』とみられていたのである。

 

 

「全世界的な若者運動」の一つに米国の公民権運動があった。人種差別に反対する黒人たちを全米の、最終的には世界中の学生や著名人が参集して支援した運動である。それを率いたキング牧師は暗殺されるが、長い戦いをへて公民権を認める法律が成立する。ただし、この問題が法と理性で解決できるものでなかったことはその後を見れば明らかである。

 

英国の劇作家、サー・デヴィット・ヘアは僕らと同じ年齢である。戯曲「Breath of life 女の肖像」(新国立劇場、劇評)に登場した女性は、若い頃英国人の留学生としてこの運動に参加し、カリフォルニア大学バークレー校では、おそらくコミュニズムの影響下で世界の変革を夢み、フラワーチルドレンやヒッピーとも接触している。

劇評の終わりに僕は、次のように書いた。「・・・・・・僕は、翻訳を試みながらこの戯曲に通奏低音のようにして聞こえてくるある音が、それは時々ボケタ古い映像をともなっているのだが、気になっていた。

燃えているスクールバス・・・・・・警官の振り回す棍棒に逃げ惑う群衆・・・・・・その向こうから次第に大きく聞こえてくる演説の声・・・ I have a dream that one day this nation will rise up and・・・・・・学生が叫んでいる・・・ハンドマイクの声・・・・・・B52爆撃機の姿・・・ナパーム弾が炸裂するジャングル・・・・・・戦争反対!闘争勝利!というシュプレヒコール・・・・・・火炎瓶と放水車の衝突・・・・・・

100%永遠でなければ価値がない。

100%手に入れられずば、それはいらない・・・・・・

100%勝利するまでは、絶対にやめない・・・・・・

100%骨の髄まで革命戦士ならずば、与えられるのは死、死、死。遺体の山。

 

マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」と言った。我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。5年の抗議、黙従の30年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。

あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。

サー・デヴィット・ヘアが生まれたのは、ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)生誕の100年後である。不肖、僕も同じ世代だ。これは、Life being what it is, one dreams of revenge.      Gauguin

人は、生きながらえてなお復讐を夢見るものだ。 ゴーギャン  〔中村訳〕という、この戯曲につけられたエピグラフに由来する。)

我々は、昨日は20世紀にいたが、今日は21世紀にいる。だが、われわれが互いに22世紀を見ないことは確かである。我々は無理にでも長らえて復讐を夢みるが、せいぜい夢みるだけのことだ。しかし、その夢もどこかへ飛んでいってしまう。例の「ハト、ハト飛んだ」の遊戯のように・・・・・・」(ゴーギャン” Avent et Après”より ただし、ゴーギャンのフレーズを百年ずらした。 )

この劇は、デヴィット・ヘアの『Breath of life 生命の息吹』には違いないが、そのうらに、彼と僕らの長く深い『ため息』が隠されていたのである。」

 

「5年の抗議、黙従の30年」とは、いいかえれば「変革を夢見て行動した日々とそれを封じて生きた長い年月」をいうのであろう。しかし、われわれは、世間的には「豊かな時代を連れてきた世代」と見られている。後世の歴史家は、そのようにとらえるに違いない、事実、当時の先進諸国のなかでも特に我が国経済は、この世代の壮年期の中核期間を含んで、90年代初頭のバブル崩壊まで空前の好景気を続けるのである。安彦がいう「追悼では、あの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」という言葉は、おそらくこのことを指している。

つまり、「われわれが目指したものは『変革』であり、『豊かさ』ではない。変革を夢見て行動した日々にこそ真実があり、いまここにあるのは偽りの豊かさなのだ。『世界の変革』こそ、いまもなお生き続けているはずの『巨きな意味』の源泉であり、「黙従の30年」とは「偽りの」豊かさに耐えてきた年月ではなかったのか。」という問いである。

「病死した活動家氏」の追悼だけでおわるのでは、「わたしたちの世代の死亡通知」を天下に告知するようなものではないか?そう思って、彼は『諸兄へ』で、『世界の変革』に意味はあったのだと言う発語を同世代のものたちに促したのである。「『革命』とサブカル」というタイトルを今頃になっても、つまりあえて『革命』を持ち出し、なお平然と冠した理由であろう。

 

 

思春期というものは、社会性に目覚める時期である。これから船出する社会というものはどんなものか。いま目の前にある出来事をどう考えればいいのか。社会のとらえ方、様々な思想や幅広い情報の中で何と出会い、何を選び取るかは一生を決めかねない重大事である。全共闘運動に関わった学生の考え方は様々だが、一つの共通項があった。それは、「反日共」である。日本共産党は相容れない仇敵である。

ところが、日共によってはじめて、われわれの生きる社会が矛盾に満ちていることを気づかされ、共感を持ったものは意外に多い。民主青年同盟は、世界中の共産党が抱えている党員への登竜門で、ここが十代の対象をオルグ(組織化=活動に引き込む)するのだが、当時共産主義への入り口は、ほぼここ一つであった。民青のメンバーは日本共産党の指導の下、その綱領と政策を学習し忠実に従わねばならない。「革命とサブカル」の聞き書きには、安彦をはじめ青砥、植垣など民青をやめたものが多数登場する。つまり、この社会の矛盾を解決するためには変革=革命が必要だとする思想に出会い、それに魅了され、それが唯一の真理と思った。しかし、その後日本共産党の方針に反対あるいは違和感を覚え、別のやり方でそれをめざすために離反したのである。

安彦の「置いてきた寂寥感」の正体は、自らの思想の原点にあるこの「革命」である。世界は変革されねばならない。資本と労働の階級対立を解消し、平等で自由な社会を実現するためであり、それが歴史的必然であるのは、史的唯物論が「科学」だからである。(聞き書きの中に、マルクス思想が科学だという安彦の発言が散見される。)

この思春期に自分の心に根付いた確信は、「社会主義側の完全敗北による冷戦終結」にもかかわらず、「しかし、マルクスは正しい」といういわばマルクス原理主義となって、いまなお有効だと思われているのである。以下に引用する「聞き書き」のある部分に「ソ連邦」の敗北はその発端であるボルシュイズムにあったという発言などをみれば、革命はいまでも再度やり直されるべき社会科学的命題だといわんばかりなのはそれを思わせる。そうではないかも知れないという疑念がどこかにありながらそれを捨てきれない。それ以外の思考方法を知らないからだ。

 

人が何をどう考えようと自由だが、マルクスが生きた十九世紀半ばに解決されねばならなかった問題のほとんどは、いまではほぼ克服されている。(あとでとりあげる「サピエンス全史」でも述べられているが、飢えや戦争よりもいまや甘い「砂糖」(糖尿病)が死因の一位である。)むしろ、いま人類は、これから迎える成長なき時代(利潤を生み出すフロンティア喪失の時代)を生きる、これまで経験したことのない新たな生き方を模索する必要に迫られている。「マルクスは正しい」という原理主義、すなわち「宗教」を捨てるのは容易には出来るものではない。が、しかし、それに身を預けていてもむなしいだけではないか。

 

 

革命が、宗教か否かで議論する場面が「聞き書き」の中に現れる。普通、立ち会いの編集者は、出席者の議論を方向付けるとか発言を促すとか黒子の役に徹して自身の意見を表明するなどないものだが、この文は、「編集部」が出席者に議論を挑むというこの種の対談にはあまりみられないかたちで進行する。ここで「編集部」といっているのは杉山尚次のことだと思われるが、杉山は明らかに出席者たちとは対立している。しかも、話の流れを自分に引き寄せていて、それが意図的だったかどうかはわからないが文脈が乱れて少し異様に映る。編集者としてはちょっとした瑕疵になったが、「マルクス信仰」を引き出したのは怪我の功名であった。

 

「革命とサブカル」P89より

安彦 この間のインタビューの印象的な最後の言葉が、「共産党が悪いんですよ」。いいフレーズで終わったなと思って、それで締めにしているんだけど、考えてみれば、ずいぶん投げやりなフレーズなんだよね。

青砥 つまり自分たちは失敗した。その失敗の元凶は何処にあるかというと、自分たちの資質の問題もあるけれど、唯一の左翼としての共産党がしっかりしてくれなかったから、俺らがこんなことをしなきゃ行けなかったんじゃないか、そう言う気持ちは、ちょっとあるよ。

安彦 どこから期待外れになったのかな?

青砥 根を深く掘れば、やっぱりロシア革命からはじまったと言うことが、そもそもダメなんだろうね。ロシア革命自体は必然的で、時代の希望ではあったけどな。

安彦 そこは一致するね。だから俺はボルシュビキ(ロシア革命時、レーニンが率いていた革命党、共産党)はだめ。レーニンから駄目になったと思う。

青砥 ボルシュビズムが駄目なんだって、僕は思います。ボルシュビズムのどこが駄目なのか、いろいろ考えるけど、この前中澤はいいことを言った。デモクラシーは人類の財産だ、と。それはそう思う。いろんなフェーズがあるけどな。

安彦 そもそもトロツキーはボルシュビキじゃないでしょ。もともとは。それでよかった。

―(編集部)前衛が領導していく先は、理想の共産社会を実現するんだってビジョンがあるわけですね。その段取りは、政治権力を握って、独裁的になるけれどもプロレタリアートの権力をつくって、そこで社会関係を全部改革する仕組みを作り、しかる後国家を死滅させる、共産社会に移行するというようなシェーマがあるわけです。その過程で、「分かっている人」が「分かっていないやつ」を教えていくってことになりますよね。その構造って、ほとんど宗教にならないですか?

中澤 それは宗教という社会的な一部の構造と、社会全体を構成する生産諸関係等の中で起こってくる社会革命との違いがまずあるね。革命は国民国家的にも世界的にもすべての階級階層を巻き込むから、そのプロセスは数百万数千万の政治的力で、実例の力で説得し、教えていくことになる。宗教ではない。

―でも「信じる力」といいかえたって、あまり変わらない。

青砥 そこは悩ましいところ何だよ。宗教と違うのは、革命は社会関係を変えれば人間は成長して、それに応じた新しい人間関係をつくるのが基本だよね。宗教はそうじゃない。宗教は、要するに教えがあって、魂の救済があれば、それでみんな幸せになるという考えでしょ。社会関係なんて関係ないんです。

―ただ、目覚めていない人間をして、組織化していくわけじゃないですか、宗教は。

中澤 組織化していくのは、それはそうです。社会主義はこの概念に含まれている解放のエネルギー、人間解放の問題を軸に組織化してゆく。

オルグする側、される側、いずれも人間の交通形態としてある。オルグする側はもちろん主体的な意識的な活動であり、人間性をかけたたたかいでもある。オルグされる側もそこで人間としての立脚点を要求される。この人間の問題こそが、社会―資本主義経済諸関係の中で非人間化され。阻碍されていたことからの自己回復の戦いとなっていく出発点になる。だから宗教ではない。

―その構造は同じじゃないですか?

青砥 社会主義の運動の中で目覚めてないのをオルグするというのは必要だけど、もっと大事なのは、社会環境を変えていくということだ。

中澤 社会環境を変えるというのは、目覚めていない人たちに何をもたらすかってこと。金であったり物質的なものを含めて、すべてをもたらす。そういう意味で、実例の力。

青砥 権力奪取の過程ではいろいろあるんですよ。で、社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。でも誰一人として、それの解答を出せてない。だから社会環境を変える運動と、社会環境を変えたら実際にその人間が成長していくのかと言うことのについては、何も関係ないといった方がいいと思う。

安彦 社会主義について、あるいは共産主義について、マルクスは非常に理想主義的に提示していた。

青砥 もともとコミュニズムというのは、あるいはコミューン主義というのはプルードン主義(フランスに思想家プルードンのアナーキズム的な思想)でも考えていた。でもプルードン主義が失敗したから、共産党、前衛党をつくってやんなきゃ行けない、そのために経済分析もしなきゃ行けないって言う、そう言う考えでしょ、基本的には。

中澤 プルードン主義に対する反発。

青砥 だからプルードン主義で世の中が変われば、こんないいことはない。でもそれは無理だと。

安彦 マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。そこに前衛党なんて概念はない。それをレーニンが持ち込んだわけだから。そこから「外部注入」とか戦略論とか、人為的な要素が入ってくる。そうするとそれはもう科学じゃないわけだ。「思想」がどんどん方法論化していく。

 

 

三人三様、編集部の杉山を入れれば四人と言うことになるが、いまや「革命」ということに対してそれぞれ微妙な距離をとって向き合っていることが分かる。

杉山の言い分は、前衛が領導するという共産党のあり方は、宗教の勧誘活動とおなじで、マルクス信仰の内部へ囲い込もうとするだけのものではないかと言うことだが、それに対して中澤は革命原理が正しいことを実証することによって社会全体を説得できるという。

青砥は、社会環境を変えれば、人間も成長し変わると考えるのは楽観的で、むしろ人間の内面に注目すべきだと今は考えているといって、マルクスとは距離を取っているように見える。

これに対して安彦だが、マルクスの思想は科学であり、実践論で間違いを犯したというある種典型的なマルクス原理主義を表明しているところは注目に値する。つまり、「革命」という実践には留保を与え、原理は有効としているのである。

いずれにしても杉山は宗教だといい、一方は原理の正しさを「科学」だからとしている。しかし、マルクスの唱えた原理ははたして「科学」といえるのだろうか。

 

ユヴァル・ノア・ハラリは1978年生まれの若い学者である。

彼のユニークな視点は、われわれ人間を動物の進化の過程で現れたいわば霊長類のひとつの亜種「サピエンス」であり、並行的に存在したネアンデルタール人が三万年前に絶滅したあと地球をおよそ七万年にわたって支配している存在、と捉えているところである。

つまり、他の動物に比べて異様に発達した脳が特徴的で、集団を形成して生活する動物がわれわれサピエンスなのだ。

彼のベストセラー「サピエンス全史」に以下のような記述が見つかる。

 

「人間の崇拝

過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことをいっているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代と言うことになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。

 

イスラム教はもちろん共産主義とは違う。イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は、神の存在を信じていなかったからだ。だが、仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。仏教徒はその自然の法則がゴータマ・シッダールタによって発見されたと信じているのに対して、共産主義者はその法則がカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・イリイチ・レーニンによって発見されたと信じていた。両者の類似性はこれにとどまらない。共産主義にも他の宗教と同じで、プロレタリアートの必然的勝利でまもなく階級闘争の歴史は幕を閉じると預言するマルクスの『資本論』のような、聖典や預言の書がある。共産主義にも、五月一日や十月革命の記念日のような祝祭日があった。マルクス理論に精通した神学者がいたし、ソ連軍のどの部隊にも、コミッサールと呼ばれる従軍牧師がいて、将兵の敬虔さに目を光らせていた。共産主義にも殉教者や聖戦、トロッキズムのような異端説もあった。ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒に離れず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた。」(「サピエンス全史」下、P32)

 

 

これでは、一見ソ連の共産主義は外形的に宗教と同じと皮肉られているように見えるが、批判の核心は「共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。」という部分である。

「信じている」ことを外から「それは、真実でない」と否定するのは簡単だが、それは本人にとっては、ただ単に悪魔が耳元で囁いている声にすぎない。信仰を捨てる道は、信じてきた論理体系=人間的秩序が何らかの欠陥をもっている、あるいはすでに無効であるなどという内なる声に導かれて得心する他にない。マルクス主義は「科学」である(から真実)、と信じている以上、それが「科学」でないことを自ら証明することはむずかしい。

 

しかし、今日「科学」といえるものは、「相対性原理」や「量子力学」のような言語も地域も宗教も思想も超えた万人が肯定せざるを得ない数式で表される原理以外にない。たとえマルクスが、人間の歴史を階級闘争と見なし、資本と労働の階級対立はやがて革命的に解消され、共産社会が実現するといったとしても、それを数式で表すことは出来ない。いや、卓越したマルクス主義数学者がその「科学」を数式に表現できたとしても、それはあまりに変数が多いゆえに数学的に意味をなさないものになるはずだ。なぜなら、歴史というものは、われわれの人生がそうであるように偶然に満ちているものであり、未来もまた偶然によってできあがっていないとは言えないからである。

 

 

安彦は、「聞き書き」の中で「マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。」と発言しているが、これは、信仰からまだ抜けきらないでいることを表している。

それに対して青砥は、やはり「聞き書き」の中で次のようにのべており、マルクス信仰から抜け出したことを示唆している。

「社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。」

安彦が、青砥の翻意の過程に興味を示さなかったのは、信仰から抜け出せないでいるのだから仕方ないが、杉山尚次がこれを見逃したのは編集者として痛恨の失態ではなかったか?

杉山は、自ら「マルクス主義=宗教論」を仕掛けておいて、その結論を導く場所について無自覚であった。

つまり、「それは宗教ではないか?」という問いは「あなた方はマルクス信仰に冒されている。従って、普通の市民として生きていくには、そこから脱する必要がある。どのようなプロセスで信仰から抜け出すことができるか、それが問題だ。」という考えを内在させている。

その応えの有力な方法の一つは、「某はこのようにして、信仰を捨てたという事例」を示すことであろう。

杉山は、青砥がどのように「足をすくわれ」て、「いまはそうじゃない」と考えるにいたったのかを追求し語らせることによって、自らが仕掛けた問いに対する答えの場所を示すことが出来たはずであった。

もっとも、安彦がこのことにまるで気づいていないのでは、踏み込みが足りなかった杉山を責める訳にもいかない。

 

 

僕は、先のブログで「学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。」と書いた。そのことについて、ほんの少しばかり述べて終わりにしようと思う。

僕が高校生の頃、六歳上の姉は、まもなく初の最年少、女性市会議員になりそれからおよそ三十年続けた日本共産党員であった。そのため社会問題研究会(実は民青)から入会は当然と言わんばかりの執拗な勧誘を受けた。

その頃、社会主義に関心がなかったわけではないが、むしろ僕には「自分とは何か」と言うことが問題で、自分のまつろわない性格もあって、彼らと接触することはなかった。最も親和性を感じたのは、大江健三郎を通じて出会ったフランスの実存主義で、高校の三年のうちに、ジャン・ポール・サルトルは主観主義的にすぎると結論づけて、大学の哲学科でモーリス・メルロー・ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。

学生運動に関わったのは、権威に対する異議申し立てであって、革命を目指したわけではなかったが、唯物史観は否定出来ないものと感じていた。

マルクス主義がおかしいと実感しはじめたのは、僕がマーケティングの仕事をしていたときのことだった。需要を創造し続ける技術によって資本の矛盾は解決されるのであった。マルクスの射程は現代にまで及んでいなかったというこのあたりの考えは、別にまとめた(「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」)ので、ここでは言及しない。

 

 

学生の頃、たまに青砥が僕のアパートにやってくることがあった。彼は本棚に背中を預けてこたつに入った。何を話したかまるで覚えていないが、はっきりと言えることがある。あの本棚には、人文書院のサルトル全集の何冊かとジョルジュ・ルカーチ「歴史と階級意識」が入っていた。

杉山尚次は、全国に数え切れないほどいるはずの「安彦良和」たちのために青砥幹夫のロングインタビューをするべきだろう。青砥の苦悩の軌跡を世に問う責任が杉山にあるといっておく。

もっともそれを青砥が受けてくれるという見込みはないが・・・・・・。

 

 

 

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