« // 取り残されたものたちへ ① | トップページ | 再掲「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」要約 »

2019年1月29日 (火)

// 取り残されたものたちへ ②

20190125_132924 安彦良和「革命とサブカル」の空虚

前回は、加藤典洋は「戦後」にとらわれるあまり、絶対平和などというフィクションの世界へ迷い込んで、時代からおおいに取り残されたことをいった。それはこの世代が自分の過去に縛られ、現実の変化と向き合うことをしなかった結果の、いまとなってはなんとも無残な姿であった。

今度取り上げるのは「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)である。

ただし、今回はごく一部に言及するだけで、全体の批評は差し控えている。

実はこの本の成立過程を少しばかり知っているので、こういうものを書くのにはいささか複雑なものがあるのだが、ある必要があってあえて書くことにした。

この本の「はじめに」の中にこういう記述がある。

「数年前、病死した同学年の活動家氏を追悼して、有志が文集を出すと言うことになった。

その時、「追悼」というかたちに僕は違和感を持った。「追悼」、というだけで良いのかという、座りの悪い思いだった。

追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。人生を終えていく者に、よけいなざわめきはいらないという気持ちが、当然送る側の身には宿るからだ。しかし、それではあの時代の意味は聞こえない。

『諸兄へ』という所収の文章を僕が書いたのはそういう事情からだった。」

つまり、 この『諸兄へ』という文章は、追悼というだけでは満足できなかったので、あらためて、自分たちの思いを綴った「回想」を本としてだそうと、追悼文集に参加した者を含む学生時代の友人たちに呼びかけたものである。

実は、僕はくだんの「追悼の文集」を出そうと誘った有志の中の一人だった。

従って、「回想」を書こうと呼びかけられた一人ということになる。ただ、学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。だから最初からギブアップし、「追悼の文集」でもそうしたように編集ソフトで制作だけ手伝う事にしたのである。

(この後、この本の成立に関係することなので2011年にデジタル出版された「追悼の文集」について説明しておきたかったのだが、関係者の了解を得ていないので、割愛することにする。)

ことわっておかねばならないが、この文は『諸兄へ』という呼び掛けの内容を検討するだけのもので、他のことは一切関係が無い。

まず、『諸兄へ』の全文を紹介しておこう。

諸兄ヘ

安彦良和

今年、二〇一四年の夏も過ぎた。

夏は戦争の語られる季節である。今年の短い夏も例外ではなかった。年老いた戦中派たちは、まるで往く夏を惜しむように彼等の戦争体験を語り、彼等の生きた時代を語り、語り部としての一夏を終ろうとしている。

もちろん、戦中派は夏にのみ昔日を語っているわけではない。それがあたかも夏の風物詩であるかのようなのはメディアがそう仕立てあげるからだ。が、そうであるにせよ、彼等世代の声を聴く季節はやはり夏がふさわしい。例えば、この文を書いている今日、九月十五日の新聞は李香蘭の死を告げている。老いた語り部達の年齢層に見合う九十四才という歳で、彼女は夏に死んだ。感慨を覚えざるを得ない。

いつたい、戦中派達はいつごろから時代体験を語りだしたのだろう。

戦中派、といえば我々の父・母の世代である。当然、我々とは濃い接触があつたし、父母ならずとも、子供時分から我々の周りには、戦争期をくぐってきた大人達が多勢いた。しかし、我々は果して彼等から大量の体験情報が発せられるのを聞いてきただろうか。

そうだつた、とは言えない。圧倒的な数の体験者たちと、過去のどのような時代をも圧倒する、まさに、世界と国家との存亡を左右するような過酷な時代情況を考えるならば、彼等世代の子供であつた我々が見聞きしてきた情報は信じがたいほどに少量だったと言い得るのではないか。

間違いなく、我々の父母は、戦中派は寡黙だったのだ。その寡黙な殻を破って、もはや少数になって老いた体験者たちが多弁になっている。老いてやっと今、語り部の任をかつて出ようとしている。僕にはそう思える。

時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。むしろ、一定以上の時を経てこそ体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になるのではないか。そう思っている。

近い例を引く。

三年前の災害は記憶に新しいが、新しいなりに早くも「風化」が懸念されている。確かに記憶の鮮度は相当に落ちたが、それは「風化」とは違うものだ。外傷の痛みが失せて傷口にかさぶたが出来るようなもので、それは人間の持つ、謂わば自衛本能の一種の顕れではないのか。

逆に、話題の『吉田調書』の一端などから、大津波の惹き起したあの原発事故が、実は「東日本の壊滅」をも招きかねない規模のものであつたことを、今、我々は知り得ている。知り得て、あらためて体験の重大さにおののくのである。「歴史」とは、そのようにして生き残り、選択され、重みを増した事々の堆積物を言うのではないか。

再び、体験者や当事者達が間もなく消え行こうとしている「戦争」に話を戻す。

我々世代はかつて『戦争を知らない子供達』と呼ばれ、そう自称もした。が、そのことにひけ目を感じてはいなかつた。我々の生まれる直前に終結し、従って我々が直接には知らない「戦争」は父母の世代や、それよりさらに以前の祖父母の世代が犯した間違いの産物であり、それにかかわりを持たない自分達は父母や、祖父母たちよりも純な優越性をすら持っている一一―そう思っていたのではないか。

「戦争を知らない子供達サ」という無邪気な自称と開き直りには、そういう自惚れがこめられていた。そういう「子供達」の一人であつた僕自身にも、はっきりそういう自惚れがあつた。父母とは違う、祖父母のように蒙味でもない。そういう、今にして思えば思いあがった確信のもとに、僕は思春期を終えて「社会的に生きる」青春期を選んだ。諸兄も多くそのようであつたのではないか。

なんのことはない。戦後、わずか二十数年という経年では戦後史は熟成し得る筈もなかったのだ。それだけの話だ。

父母は依然として口をつぐむか、余りにも巨きかつた体験の重さに呆然としており、戦後という時代の層は、いまだ時代と呼べる厚みを獲得していなかった。しかし、我々は戦争以前という忌まわしい過去と幸いにも切れている自分たちの時代をいかにも過信していた。『戦後民主主義』という旧左翼的にリベラルな物言いに生理的な違和感は覚えつつも、やはり自分達には旧い世代を凌駕し得る能力があると思い込んでいた、のではないか。

そういう思い込みの是非を問おうとは思わない。元来若気とは思いあがりと表裏一体だし、青臭さを気にし過ぎているような若者は若者ですらないからだ。

だが、当時そういう若者であつた我々も、それから四十数年を生きた。薄かつた戦後史にも厚みが加わり、ようやくそれは歴史と呼びうる質量に達し、熟成に似た経年変化を示しつつあるように思える。

我々もまた、語るべきことを語り始めるべきではないのか。いや、それよりも以前に、語るべきなにものを我々が持っているか、そのことについて考え、来し方をふり返ってみる時が来ているのではないか。そう思って僕は数年前から或る提案をし、今こうして、甚だ遅きに失したような文章を書いている。

思えば、我々の世代も寡黙だった。

我々に名づけられた様々な世代名の中から『全共闘世代』というひとつを取り出して今後自称するなら、それに対応し、先行した「六十年安保世代」に比しても、我々はほとんど何らの発言もせずにここまで来たと言っていい。この沈黙は何を意味するのか。

もちろん、無邪気な若者を相手に「オジサンも昔は一」などと他愛のない与太話をする必要はない。そういう「告白」を好み、既に散々口を汚してきたような人たちは、もともとこれを書いている相手として念頭にない。

僕なりの結論を言ってしまうなら、『全共闘世代』の沈黙を、僕は概ね肯定的に考えている。それは、我々の体験の空疎さではなく、むしろ、重さ、巨きさの証しだと考えている。

もちろん、先に述べた父母の世代、『戦中派世代』の体験の実体的な重さには、それは比すべくもない。実体的、ということでいえば、戦中派に続く所謂『焼け跡・闇市派』の体験の重さにも、それは遠く及ばないだろう。何しろ我々は空腹を記憶していない。空襲の恐怖も、死と隣り合わせの引き揚げ体験もない。それらの痛切な体験を持たぬことを、『戦争を知らない』という居直りで以って「引け目なし」と清算したのが、先に言ったように我々世代のアイデンティティそのものであるからだ。

父母や小父、小母の世代を『戦中派』として区別し、兄や姉達の世代を『60年安保世代』として「もう古いのだ」と切って捨てた我々は、では何を見、何を希み、何を目指して生きていこうとしていたのか。そして、そういう志向がその後、どういう事情でどうなった

のか。僕は僕自身の人生の中で、切れ切れにではあれそれを僕なりに考えてきた。僕が今これを書きつつ念頭に置いている諸兄も、それは同様であると思う。

諸兄と僕の人生は弘前での四年間でのみ交わる。60余年の人生のうちでの、わずか四年間、である。しかし、僕はそれを短い、限定されたものとは思わない。すでに我々の世代の呼び名を『全共闘世代』として選びとつた時点で、僕は同世代のイメージの核に、数十人の弘前の群像を据えてしまっている。「諸兄」とは、その中の、僕ごときの提案に対して聞く耳を持ってくれる人を指している。

更に私的な結論を云う。

諸兄と僕の人生が交わった弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。弘前には無論空襲もなく、飢餓もなく、殺し合いも激しい争いもなかったが、世界には戦争があり、「革命」があり、史上空前といっていい全世界的な若者運動があった。

そうした大きなうねりとの一体感こそが、言ってしまえば『60年安保闘争』との根本的な違いとして無条件に我々が是認した要素だった。しかし、巨大な時代の、巨大なうねりの中に位置づけたにしては、我々の運動と呼べるものはなんと小さなものだったことか。

個別『弘大闘争』なるもののみをイメージして言っているのではない。我々をも翻弄した東大闘争や全国全共闘運動、ベトナム反戦運動や成田。三沢闘争の反基地闘争、青砥。植垣氏をはじめとする数名を巻き込んだ『連合赤軍事件』等々、あの時代の、諸々の運動や事件のすべてを統合したとしても、過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

はたして「巨大な時代」は、当時すでに予感することが可能だった大変化を20数年後に全世界にもたらす。言うまでもない。社会主義側の完全敗北による冷戦終結、である。

過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。

先の『革命』の方は見間できなかったが、のちの大事件『崩壊』の様は世界中にテレビ配信され、僕もそれを連日お茶の間のテレビで観た。

意外、ではなかつた。『ベルリンの壁崩壊』でさえ予想外ではなかつた。「巨きな時代」の中での「小さな闘争」を通じて、既に一つの時代の終わりは予想出来ていたからだ。出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。

私見に走りすぎたかもしれない。が、僕は諸兄の反論や異論を期待しつつ敢えて結論めいた発言をしている。要するに、諸兄を挑発している。

寡黙であつた諸兄に発語を促したいからだ。現役世代から徐々に降りつつあるとはいえまだまだ若い我々が「老いた語り部」を気取る必要はない。が、しかし、「語りJは一朝一夕でなるものでもない。二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも、今、この時点での語りは、多種多様、かつ広範であった方がいい。

人は皆一回きりの人生を生きるしかない。しかも、その生きる時期や場所を、誰も、長い歴史や広い世界の中から好きに選び取ることはできない。ならばその一回きりの人生の後処理をおろそかにしてはなるまい。ふり返り、位置づけ、時代とともに検証してみてはどうか。

僣越を承知で、敢えて諸兄に問うものである。

< 2014年 9月15日>

この文の大半は、安彦良和の大げさに言えば歴史観である。

しかも、それはあまり重要ではない。

ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからないものだということを繰り返し述べている。

「時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。」「体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になる」などという俗諺にも感情的で問題はあるが、殆ど意味の無い戦前と戦後の世代間の違いをいうなど、同じことを全体の四分の三も費やして執拗にくりかえす必要があったのだろうか。

この点、一言だけ言っておくが、歴史とは記憶と記録である。記憶は一代限りで消えていくものだ。これを比喩的に言って、風化という。風化させない方法は物語として伝承するしかない。最も重要なのは「記録」することである。デモクラシーを維持し守護する根幹はアーカイブにある。これは、主としてソーシャルサイエンスに分類される歴史。

百歩譲って、発酵して酒や味噌や醤油になる歴史があるとすれば、それは歴史小説や叙事詩のようなヒューマンアーツに属する歴史と言うことだろう。

またこうも言える。

出来事は時が経つにつれ、その周辺が視野に入り、周辺との関係が明らかになるかどうかは別にして、次第にそのパースペクティブの中に収まっていくものだ。歴史は過去に遡行すればするほど視野が広がるが、細部は見えなくなっていくものでもある。

この文の前半は、そのようにして、自分が経験したことの意味を問い、いまとの関係を確認しようと言う呼び掛けだと受け止めることができる。

そして次に、個人的な心境を語る。

安彦良和にとって、そのパースペクティブに収まっている風景はロシア革命とソ連の崩壊だという。

「過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。」

加藤典洋は、自分の経験したこともない「戦前」を土台に、いわば砂上の楼閣を築いたが、「戦前」よりも遥かに縁遠い「ロシア革命」を自己の思想の原点とするのは一種異様な風景とも言える。

この「巨きな時代」は、当時あった戦争や「革命」、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだったという。

「巨きな時代」は、あるいはポストモダン思想が「大きな物語」が有効だった時代といったことを指しているのかも知れない。

そのことと「弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。」というフレーズがどういう関係なのか少し論理的にあやしいところもあるが、とりあえず彼にとってソ連の崩壊は直近の大事件だったことが分かる。

ただし、これは20年も前から予測が出来たことだという。

ところが、次のフレーズはこの文の中でも最も不思議な記述として目にとまる。

「出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」

予測したら、予測通りになった場合にどう対処するかをあらかじめ考えるのはごく普通の態度ではないか。これは予測通りになったらうろたえていることを意味している。

あるいは「社会主義側の完全敗北」を認めたくないということなのか。

ここでは「心の準備」がどういうことか、うかがい知ることは出来ない。

しかし、そんなことよりも、「大事件」と強調しているソ連の崩壊に較べて「弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感」のほうが、自分の経験としてはるかに強く心に残っているというのである。

恐ろしく感情の量の多い饒舌な文章であるが、そんな中にたったひとこと、ここに本音がこぼれていたのである。

彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。

あの時代は、自分にとって何であったのか?

自分がしたことは何であったのか?

あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

一方、ソ連崩壊後すでに三十年になるが、それについての言及はない。あたかも時間がそこで止まっているかのように見えるのである。

安彦には、二つの空虚があるらしい。

さて、これは「寡黙であつた諸兄に発語を促したいから」書いたものである。

しかし、「二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも」とか「ふり返り、位置づけ、時代とともに検証」とか、この文を読んで何を書けば「回想」文集にふさわしい「回想」になるのかは、結構むずかしい。

そこで、かくいう呼び掛け人自身が自分の人生を語ろうとするとき、欠かせないと思われることはどんなものになるか、項目にしてみよう。

1,「ロシア革命」を知ったのはいつだったか。それについてどう思ったか。

2.その根拠であるマルクス主義のどこに魅了されたのか。

3.学生運動にはどういうきっかけとスタンスでかかわったか。

4.それはどんな結果に終わり、その総括をするとすれば?

5.社会人になって、政治的なことへの関心はどうなったか。

6.ソ連邦の崩壊に際して「事態を受け入れる準備がなかった」とはどういうことか。

7.そのとき、マルクス―レーニン主義(そのイデオロギー)についてどう思ったか。

8.ソ連崩壊後の世界をどう受け止め、何をめざしていくべきと考えたか。

おおよそこのようなことについて押さえることになるだろう。

「革命とサブカル」がその応えであるというには、それができあがったいきさつを知っているものとしてはかなり酷なことだといっておこう。

しかし、ソ連崩壊の後にやって来たのは「サブカル」の時代だといっているように見えるのは、あまりに安易でいただけない。

最後にもう一度ことわっておかねばならないが、これは、「革命とサブカル」の批評ではない。「回想」本が出来るようにと思って、よけいなお世話をした。

いっぱい書いていっぱい削ったから、何が何だか分からなくなったけれど、とりあえずアップしよう。

文句があったら書き込みでもメールでもしてくれ!

| |

« // 取り残されたものたちへ ① | トップページ | 再掲「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」要約 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« // 取り残されたものたちへ ① | トップページ | 再掲「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」要約 »