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2018年7月 7日 (土)

劇評「ザ・空気 ver.2」

Ver2 暴力団担当の刑事が、その風貌に於いて鏡をあてたように相手に似てくるということに気づいている人なら、大新聞・大放送局の政治部ベテラン記者の態度風体が保守系政党派閥の親分連中に通ずる空気を醸していることも先刻承知のことだろう。相反するものでありながら、つきあいが濃厚になるとしばしばこのような化学反応が起きるのは人間も究極は物質の一つである以上致し方のないことである。

化学反応には触媒がつきものだ。

彼らが生きる「業界」を流れている「空気」がそれで、それはたいてい淀んでいるものだから「自分は染まるものか」と力んでみても、そのような唯心論的態度は、山ほどある理由から、たやすく唯物論に敗北することになる。

かくて人は誰もが何らかの「業界人」となるのである。

百貨店の周辺を歩いている外商の営業マンを見分けるのは存外たやすい、・・・僕にとっては。銀座あたりでA4角封筒を顔の高さに抱えて歩いている明らかに青木のじゃないスーツのお兄さんを見かけたら、たいがい広告代理店の走り使いである。夕方その脇を通る髪を盛った和服のお姉さんならいうまでもない。

なにかの理由で業界を離れることになっても、一旦染み付いた「空気」はなかなか抜けないのが化学反応たる由縁で、これが歳を取ると様々な悲喜劇を産むことになる。

人も羨む新聞記者業界というのも、名刺から新聞社の看板が外れたとたん、「空気」だけそのままに、ごく希に私立大学に教授の席を得る幸運に恵まれるか「ただ」の人になるか、まったくつぶしのきかない職業にみえるのはひがめのせいか。

昔マーケティング部門で働いていたときのことだが、こんなことがあった。

新製品を発表する時に、メーカー側がそのまま新聞に載せてもいいようにプレスリリースを用意する。記者の手間を省くためで、記事は、5W1Hを押さえ、新製品の特徴を魅力的にしかも新聞らしく簡潔に伝えている必要がある。

当時の担当部長は、名門・高校時代に文芸部という文章にかけてはおそろしくややこしい感情の人であった。

その時は、どういうわけか製造部門から企画に異動してきたひとにお鉢が回って、この工学部出の十年選手はおそらく生涯初めての新聞記事製造で目を白黒させていたのだが、それまで書いたものは設計図の説明書きぐらいだから当然うまくいくはずがない。何度出しても突き換えされるばかりで、毎日机の上は消しゴムのかすで一杯になった。十日ほどもかかりっきりで苦吟したあげく「今度で23回目」というあたりまでくるとさすがに締め切りが気になりだした部長もとうとうこのパワハラを諦めて、次の手を打った。

元新聞社の論説委員という退役記者をいづこからか見つけてきたので、これなら一発で、と僕らも思ったのだがこれが大間違い。

昨日見た顔が今日もいて、部長と一緒の昼飯から戻っても書いている。次の日も時々見かける顔は赤かったり青かったり僅か400字程度の原稿に大汗かいている様子である。

四日目以降顔が見えないと思っていたら、いつのまにか記事が出来ていたが、退役記者の手でないことは次の一言で明らかになった。文士(崩れ)気取りが憤慨して曰く。「まったく新聞記者なんてのは使えないしろものだ」。

その言葉が、若かった僕にはなんだか人生の悲哀というかわびしさを感じさせて、妙に耳に残っているのである。

前作「ザ・空気」は、TV局の番組制作が、政府の意向を忖度する局内部の空気によってゆがめられるというテーマで、背景に高市総務相(当時)の恫喝ともとれる失言問題とそれに反応したジャーナリストの抗議活動があった。

仄聞するに、この作品は好評で賞もいくつか取ったらしいが、僕には「空気を醸成した張本人であるTV局幹部」については何一つ追求していないことが実に不満であった。TV局幹部が政府の恫喝の対象でありそれに抵抗できる、あるいはすべき唯一の存在なのに、その「報道機関のあるべき姿」が「空気」によってなし崩しになっていった過程こそを作家は問題にすべきであった。本当は、彼らは政府批判の何が怖かったのか、あるいは別の力学が働いたのか? それを、らしくもなく見逃してやっている。

僕は、抗議したジャーナリストたちもこの点を追求しないのはおかしいと指摘した。(劇評

ただし、ジャーナリストがTV局幹部を露骨に批難したら、自分たちも活動の場を失う危険がある。だから妙に持って回った言い方でこれを表現することになった。

「現在のテレビ報道を取り巻く環境が著しく「息苦しさ」を増していないか。私たち自身もそれがなぜなのかを自らに問い続けている。「外から」の放送への介入・干渉によってもたらされた「息苦しさ」ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度、萎縮が放送現場の「内部から」拡がることになっては、危機は一層深刻である。」(「声明」の結語)

TV局の幹部よ、総理と一緒にゴルフなどするんじゃないと、はっきり言えばいいのに、職場を失う危機からそうはいえないもどかしさ、なのである。

こういう甘ったれた作品に賞などやるべきではない。

と、怒ってみたところで、賞をやる方も、もらう方も同じ演劇業界の「空気」の中の住人では、「外野席、うるさい!だまれ!」といわれるのが落ちか。

とは、まあ、いってみたものの、安倍内閣の強権的態度とそれに阿るマスコミ幹部を批判するという視点は、「大衆を良導する」という意味で社会的意義も高く、これをあまり深刻になり過ぎずに描いて見せた手腕はさすがであった。と褒めても置こう。

その続編というか今風に言ってVersion2が、この作品なのだが、こんどのは総理大臣と報道機関の癒着を風刺するもので「大衆を良導する」というよりは、政治漫談を「一緒に笑ってやろうじゃないか」という芝居、つまり「命懸け」にやや力んで見せた前作よりも格段に軽いタッチの喜劇(こっちの方が好きだなぁ)に仕上がっている。

ただし、我が国の報道機関の「記者クラブ制度」という他国から見ればけったいな仕組みが「国民の知る権利」を阻碍しているという批判を背景においたところはさすがにぬかりない。

舞台は、鉄筋コンクリートの古い建物の屋上。なぜかビーチパラソルにデッキチェアが二脚置いてある。

ここは国会記者会館という実際に永田町に存在するビルで、政治部を持つ放送局・新聞各社、157で構成される「国会記者会」に所属する各社がオフィスを構え、衆議院から委託されたこの「国会記者会」が、管理運営をしている。家賃はタダ。つまり報道機関とは言え私企業の社員が使っている建物の管理費用その他が国民の税金でまかなわれているのだ。


実際、2012年にこの屋上をめぐって問題が発生した。

原発デモを撮影する絶好の場所としてインターネットメディアはじめフリーランス数人がこの屋上の使用許可を国会記者会に求めたところ、拒否されたのである。国有財産を私物化しているのはおかしいと持ち主の衆議院に申し入れても拒絶にあったため、やむなく裁判に訴え出たのである。

結局、原告敗訴になったが、国会記者会の既得権益(国家が公然と工作費を渡しているようなもの)にしがみつくという態度は、報道機関として「国民の知る権利」を守ることに資すると言えるか、大いに疑問のところである、と永井先生は怒っているのである。

我が国には、国会記者会のように主立った役所や警察などの行政機関に指定の報道各社が詰める「記者クラブ」なるものが存在する。同居していればなにかと便利でいいが、当局発表に誘導(これが記事の90%だと!)されるおそれがあり、ひろく取材の公平を期する意味でも問題があると指摘する向きは多い。

上杉隆の名を記憶している人がいたら、彼こそが二十年近くにわたってこの制度に異議を唱えてきた一人であることを承知しているに違いない。近頃、見かけないのは当然ながら既存メディアには不都合な人物だからであろう。では、今メディアに登場しているジャーナリストたちは「都合のいい人」ということになるが、そこはそれ(あとは)ムニャムニャムニャムニャムニャ・・・・・・。

それはともかく、作者は、この批判精神を体現した人物を芝居に配した。

インターネットニュース配信サイト「アワタイムズ」の記者、井原まひる(安田成美)で、彼女は今、屋上に三脚とカメラを持ち込んで、国会方面を撮影しようとしているのである。むろん無許可だ。スニーカーにGパンTシャツで、娘と携帯でやりとりしているところは、記者とは言え、なんだか所帯じみた印象だ。もともとTVのワイドシューに関係する制作会社でADをしていたというから、小世帯のネットニュースはぴったりの仕事場なのだろう。国会と同じくちっとも垢抜けないマスコミに対して、メディアの新興勢力で、逞しく働くお母さん記者を新しいタイプの女性として登場させたところに作者の意図が感じられる。

そこへ、リベラル系全国紙の官邸キャップ、及川悠紀夫(眞島秀和)が現れ、井原まひるを見とがめるが、「タイムズ」からきたといわれて追い出すのを躊躇する。外国メディアを拒絶したら何を書かれるか知れたものではないと思ったからだが、これが後にかえって話をややこしくしてしまうのである。

及川を追いかけるようにして若い小林司(柳下大)記者が屋上にやってくる。

小林は保守系全国紙の官邸総理番で及川になにか相談がある様子。

及川が迷惑そうに取りだしたのはA4一枚の紙である。会館共用のコピー機のカバー下に取り忘れてあったのを、小林が発見したものだ。内容は何と、総理宛の「記者会見用想定問答集」だったのである。

誰がつくったものかは不明だが、若い小林記者にとっては「国会記者会」内部から政府との癒着の証拠が挙がったのは驚天動地のことで、幹事社の信頼できる先輩及川にこの扱いを相談したのであった。

及川は公にするのを迷ったが、結局、見つかった事実を記者会内部に報告した。

えーと、物語はそれ以上でもそれ以下でもない。

犯人を明らかにして事実を大々的に報道しても、傷つくのは自分たちだ。ついでに新聞記者風情を当てにしなければならない首相の知性が白日の下にさらされ、そんなことはとっくに承知のわれわれ大衆はタダ、しらけるばかりだろう。他にやることもない野党がそら見たことかと騒ぎだし、証人喚問要求や審議拒否やらが続くという不毛の日々が訪れるのは容易に想像がつく。その間に本当に大事なことが置き去りにされることを考えれば、だまって蓋をするのもおとなの態度ではないか・・・・・・と、いったら、たぶん怒られるだろうなあ。

そうはいっても、話を元に戻して・・・・・・。

総理にアドバイスできる立場の記者がそうたくさんいるわけではない。

小林記者の大先輩、論説委員の飯塚敏郎(松尾貴史)がそのひとりで、普段から総理の飯友(めしとも)を自慢する御仁のくせに、自分を陥れる「誰かの陰謀だろう」と取り合ってくれない。

某公共放送、政治部記者で解説委員、秋月友子(馬渕英里何)は、いかにも高級官僚と密会取材しそうなくノ一タイプで、密かに飯塚と善後策を練る間も「自分だったらもう少しましなQ&Aを用意できる」とうそぶく始末。

永井先生によると某公共放送政治部幹部まで首相のお仲間だということらしいが、へえ、そうだったのかと、おどろくことはない。いつ寝首をかかれるか知れやしないので下に同類を置くのは常識ではないか。上から下まで脳味噌の一部が筋肉と化している経営陣を揃えた教育機関もあるくらいで、いい悪いは関係なくそれが組織運営の要諦と心得よ、である。つまり、下を見ただけで全体が見えるのですぞ、諸君、と先生は示しているのである。

さあ、小林記者はこれを告発できるのか?

これを書いている時点で、公演は地方含めてだいぶ先まで続くようなので、ストーリーの詳細を書くことは止めておこうと思う。

というのは嘘で、ネタバレとか今まで気にしたことなどないのに、そんなことをいうのは、実はたいしたストーリーでもないから書くこともない、のである。

是非、この政治漫談のような舞台を楽しんでいただきたいとだけいっておこう。


タイトル

ザ・空気 ver.2

観劇日

2018629

劇場

東京芸術劇場

主催

二兎社

期間

6月23日~7月16日

永井愛

原作/翻訳

演出

永井愛

美術

大田 創

照明

中川隆一

衣装

竹原典子

音楽

市来邦比古

出演

安田成美 眞島秀和 馬渕英里何 柳下大 松尾貴史

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