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2017年12月22日 (金)

「国家とはなにか」(萱野稔人)の続き 竹田青嗣 の「欲望論」がすごい!

9月に書いた『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」には続きがあるように書いてしまったが、あれからずいぶん間が開いてしまった。

ただ、もともと、あの論旨は飛躍しすぎでアップするのが不本意でもあった。と言うのも、本の批評になっていない上に、唐突にルソーから東浩紀の「一般意思2.0」を引っ張り出そうというのではいかにも乱暴に過ぎる。ドゥルーズ・ガタリの『哲学とはなにか』を引用して、あの『アンチ・オイディプス』の著者の意外に素朴で単純な一面を揶揄しているときだけ満足だったが、あとのことはほとんど上の空だった。

言い訳がましいが、半年以上前に加入した「囲碁・将棋チャネル」でしょっちゅう早碁棋戦を見ているなかで、書いたものだから、心ここにあらずで相当にせっかちなもの言いになってしまった。反省するコトしきりである。(いまや、囲碁番組は欠かせない習慣になっている。)

「一般意思2.0」に言及する前に、確かめておこうと彼のたぶん最初の論文「存在論的、郵便的」に目を通した。途中から恐ろしくややこしい論議になって読解するのに難儀したが、最終的にはジャック・デリダの「差異と反復」に同意しているわけではないことが分かって、さすが東のことだと思った。「差異と反復」ではただ袋小路に入り込むしかないではないか。デリダを取り上げるのは時代の趨勢ではあったが、その選択眼の勘の悪さは、指摘しておいてもいいだろう。ただし、ややこしい議論というのは、元になったデリダの書き方で、それに引きづられたのはやむを得ない。ドゥールーズとガタリもそうだが、むずかしく書けば有り難がると言う風潮は困ったもので、それもポストモダン思想の流行が沈静化すると同時におさまった。ついでに、「ものを考える」ということが世の中から消えてしまったような静けさで、聞こえてくるのは、先の見えない時代を前に周章狼狽しているささやきだけである。

「一般意思2.0」は、ルソーのそれをバージョンアップといっても、それほど厳密な議論をしているわけではない。が、考えるヒントにはなると思った。

ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念で、たとえば、国民投票の結果を「一般意思」とは言えないと言うのだから、果たして実体があるのかどうか。しかし、ともかくそんなことは問えないのである。

東はパソコンを持ち歩く世代らしく、これを「ビッグデータ」が実体あらしめるものにするかも知れないと発想したのだ。なるほどAIを利用することで様々な問題解決の糸口くらいは見つけられる、かもしれない。

あたりまえと言えば言えるが面白い着想だと思って、「その2」で紹介しようと思ったのだ。

ところが、それも日が経つにつれて怪しくなった。

よく考えると「AI」も実は得体の知れないものではないか?

確かに、機器の進歩にはめざましいものがある。

プロの囲碁棋士にコンピュタ―が勝つには百年かかると言われていたが、ついこの間グーグルが開発したソフトが世界最強の棋士に勝った。四百年前からこれまでに残っている棋譜を機械に読み込んで、必勝パターンを計算するがそれでは時間がかかりすぎるので、ショートカットする方法を編み出して、時間を短縮した。将棋はもっと前にプロ棋士を抜いていて、この世界だけでも想像以上のスピードでAIは人間の能力に近づいていることが実感できる。2045年にはAIが人間の知能を追い越し、その先がどうなるかが「45年問題」と言って人間にとって新たな課題になっているらしい。

この間、新国立劇場「プライムたちの夜」(11/24)を見たが、これはAIロボットすなわちアンドロイドの話であった。

このときの僕のツイッター。

――夕べ、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た。AIやアンドロイドは、所詮人間の慰みもの、おもちゃに過ぎないことを証明した馬鹿に甘い米国の戯曲。こんな高価な「おもちゃ」を持ったり高額な精神分析医にかかれない貧乏人の方がよほど幸福だと再認識させる。

「プライムたちの夜」(宮田慶子演出)。戯曲の「薄さ」に輪をかけた退屈な舞台。役者はそれぞれ頑張っていたが、なすすべもないと言った有様。もっとアンドロイドの薄気味悪さが強調されたら舞台に緊張感がただよってきたはず。演出が甘い。浅丘るり子は意外にうまい役者だった。香寿たつきの変わり身は見事。――

専門家に言わせると、現在のアンドロイドの知能は六歳程度らしいが、劇を見ていて、AI=機械に「感情」はあるのかとふと疑問に思った。ツイッターでいっている「薄気味悪さ」とは感情表現のことだが、感情は果たしてデータの集積と類推で外化出来る類のものか本源的な検証が必要ではないかと直感している。例えばさしあたりフロイト的な心理学を参照しながら感情表現を組み立てたとして、そんなものをまともに相手にはしたくないものだ。最近流行の脳科学にしても、感情を同じ位相でとらえたという話は聞いたことがない。

そもそも、AIがコンピュータ制御である以上、背後にプログラムあるいはアルゴリズムと言った言語、分節化した論理=疑似言語が存在する。それはどのようなコンセプトの元に書かれているのかが問われねばならないだろう。東も「翻訳機械が何故そのような翻訳をしたか説明できない」とかいって、AIの根本的な信憑性の問題を指摘しているようだが、「ビッグデータ」から取り出す「一般意思」の信頼性はともかく、トランプのようなあるいは金正恩のような政治家がおとなしくその結果に従うかは保証の限りではなかろう。

「45年問題」とスローガンばかりが先走りしていて、本当のところは明るみに出されていないのは「45年問題」の問題である。

いまさら「『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」に言及するのも妙な話とは思うが、あの構成は以下のようでなければならなかった。

*萱野は最初になんの前提もなく、「国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたって、国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である」と定義した。これは有名な「国家とは暴力装置である」というマックス・ヴェーバーの議論に全面的に依拠している。

*「国家」をめぐる議論をこれほど単純な「概念」に仕立てるのは勝手だが、結局のところ、これでは暴力を行使するものと行使されるもののの二項対立がいつまで経っても解消されない。行使される側にいる圧倒的多数のわれわれにとって、この「暴力」にどう立ち向かうのかあるいはどう制御するかは「国家は暴力装置だ」という「概念」をうち立てるよりもはるかに重要な議論である。

*つまり、萱野の議論は、万人が万人の敵、自然状態の人間と先人たちが言ったあの時点へ戻したことと同じなのだ。

*そこで、いきなり「一般意思2.0」へ行くのではなく、一度カントからヘーゲルを参照すべきであった。「国家とはなにか」と問うならば、むしろ近代的な国家や法や道徳の論理が生まれ出る過程をこそを論じるべきだった。

そんなことが気になっていたが「その2」を書く気にもなれず、早碁を見る日々を過ごしていた。

そうして、あの、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た日。早めに着いたのでオペラシティの本屋に立ち寄った。そこで、出版されたばかりの竹田青嗣 「欲望論」全二巻を発見したのだ。

二冊買ったら9,000円。高いし、持ち帰るには重い。そこで、持っていた図書カードに少し足して「欲望論 第一巻『意味の原理論』」を購入した。

翌日から読み出したらこれがとまらなくなった。まるで推理小説でも読むような勢いで700ページを一気に読んでしまった。

やったあ!

早くフランス語に翻訳してやったらいい。

木田元先生が「ハイデガーは人が悪い」と言っていた意味がよく分かるし、また、「反哲学史」は、反西欧哲学史のことだというのがここではそれが増幅されて確認できる。

竹田青嗣 、40年の集大成。これは、特にポストモダン思想に傾倒した比較的若いものたちにきっと読んでもらいたい一冊だ。

いま、「欲望論 第二巻『価値の原理論』」に取りかかっている。

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