映画「蟻の兵隊」を見た(2007年2月の再掲)
私の演劇時評 2015年7月30日
「戦後70年」の声が巷に囂しい。しかし、「戦後70年」なんてものにこだわっているのは、「歴史」を政治的に利用しようとする中国や朝鮮半島の政治家と日本のマスコミ・政治家ぐらいのもので、僕らにとっては、たいした意味を持ってはいない。
「過去の侵略を認め、痛切なる反省」を表明するのは結構だが、今の若者にとって「痛切な」反省をするためには、例えば夫が妻の出産を疑似体験してうんうんうなるというやうな、よほどの想像力を駆使し、アドレナリン総動員で感情の量を増やし「歴史的人間」たろうとがんばったって出来るかどうか怪しいものだ。
70年も経った過去は伝承されるより記録されることによってしか「歴史」にならないものなのである。
その「崇高な」目的のために、愚劣な消耗を強いる総力戦のばかばかしさや、他民族を600万人もせっせと抹殺することができる人間の摩訶不思議、核爆弾の悲惨にたいする恐怖、それらを十分に拡散して、少なくとも文明国にとって、「戦争の世紀」20世紀はすでに過去のものなったのである。
つまり、それの本質は「反省」にあるのではない。得体の知れない恐怖の連鎖、その懐疑ともたれ合いというパワーバランスによってとりあえず、かろうじて未来はぼんやり見えているという具合なのだ。
その証拠に、世界各地で未だに絶えない小競り合いで、ジェノサイドの思想はあったものの総力戦や核の使用については、かろうじて思いとどまるという「理性」が働いていたではないか。とはいえこの先も、「反省」と「理性」が機能すると考えるのは人がよすぎるというもので、、ひと皮むけば、人間てぇものは恐ろしいことをするものだと考えておいた方が、身の安全のためにはいいと、僕なぞは考えておる。こういえば、仲良くしようと努めることが戦争を回避する唯一の道だと、のたまう輩がいるが、そんなことはあたりまえだ。誰も争いを好むものなどいない。こういう子供じみたことを真面目に言うやつほど、腹に一物もっていると考えるのがわれわれおとなの態度というものだ。
僕らが高校生の頃は、戦争帰りの教師が多かった。年齢の構成上ほとんどそうだったと言っていい。
倫理・社会の教師は、天皇を「てんちゃん」と呼んで揶揄した。自分を戦場に駆り立てた憎むべき責任者という意味だ。日教組でやっていることはおくびにも出さなかったが。地学の教師は、フィリピンのジャングルを飢えて逃げ回っているとき、顔が半分欠けた死体を見つけてしばし見つめているうちに大笑いしたという話を時々した。いまでいうPTSDだったかも知れない。この教師は、母の戦死した弟と旧制中学の同級生であった。
社会(だったと思う)の教師は、中国大陸で将校だったらしい。授業中、突如「君ら、人の首をはねるには、どうするかわかるか?」と刀を構える恰好をして見せた。これにはさすがに、教室がしらけた。誰かが「ひとごろし〜!」と叫ぶと、教師は苦笑しながら、軍刀を収めるふりをした。
保健の教師は、中国大陸の奥地で諜報活動をしていた。日干し煉瓦で作った家に寄宿したが、その家では粘土質の土地を庭ほどの大きさに掘り下げ、その空間で家畜を飼っていた。トイレは、穴の隅に斜めに二枚の板を渡し、その上においた二枚の板のあいだにしゃがんで落とした、下には豚がいて、落としたものは直ちに彼らのえさになったと笑った。いかにもスパイらしいはしっこそうな教師であった。
彼らは、「痛切な反省」をしただろうか?
逆に、自分たちの行為は正しかったと思っていたか?
この二つに一つとする硬直した価値観を僕は憎む。
以下は、十分書き切れていると言いがたいが、映画批評である。見る機会があったら是非ご覧になったらいいと思って再掲した。(二回に分けて掲示したものを今回、一つにつなげてある。)
映画「蟻の兵隊」を見た
2007年2月14日
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を見た。
終戦時、中国山西省にいた北支那派遣軍第一軍59,000名のうち約2,600人が軍の命令でそのまま現地に残された。「天皇制護持。祖国復興。」がその理由であった。つまり、日本は一旦はポツダム宣言を受諾するが後日必ず復興する、その日まで兵力をこの地に温存しておく必要があるというものであった。
前年の11月、20歳で召集された早稲田専門学校生、奥村和一もその中にいた。彼らは、蒋介石国民党軍の一翼を担っていた現地の軍閥、閻錫山(えんしゃくざん)の軍に編入させられ八路軍(中国共産党人民解放軍)と戦った。
この国共内戦は四年におよんだ。その間、残留日本兵は550名が戦死、約700名が捕虜となった。奥村和一は迫撃砲弾を受けて重傷を負い人民解放軍の捕虜となって野戦病院で終戦を迎えるが、その後の党の「学習(思想改造のための教育)」を拒んだために水路工事、炭坑など重労働に従事させられ、ようやく帰国出来たのは5年後の昭和29年のことだった。
「中共帰り」はうさんくさく見られたため日雇いなどの仕事を転々、やがて早稲田大学第二商学部に編入した。同大を中退し、業界紙の記者、「中国展」開催の会社に勤務しているうち、自分たちは「現地除隊」となっていることに疑問を感じ、日本政府にこれを質した。帝国陸軍の命令で残留したと思っていたが、政府の記録は昭和二十一年三月除隊になっていた。しかもこれでは軍人恩給の対象とならない。そこで、名誉回復の是正を求めて、当時の戦友を集め軍人恩給訴訟を起こすことにした。
そしてこれを機に山西省残留兵問題として史料探しに取り組む。奥村は防衛庁史料閲覧室、都立日比谷図書館など各地の図書館で関係資料を収集した。さらに現地・山西省各地の公文書館や検察関係庁に出向き、真相の究明に挑んだ。
奥村には「残留命令」の証明の他にもう一つどうしても確かめたいことがあった。入隊まもなくの45年2月。「肝試し」と称する初年兵教育仕上げの刺突訓練があった。罪人とされた中国人を立たせ、銃剣で刺殺する。「怖くてたまらない。目をつむったまま当てずっぽうに刺す。古年兵に怒鳴られながら何度も刺突くうちに心臓に入った。『合格』」の声。」
罪人は何人もいて、中には将校によって首を刎ねられるものもいた。しかし、奥田はそれらをまともに見ることも出来ず、彼らがどんな罪に問われたのかさえ分からなかった。
この「人を殺した」ことが奥村の脳裏から離れない。あの時何が起きていたのか?奥村はそれを知りたいと思っていた。「現地除隊」の真相は防衛庁の資料からおおよそのことが推測されたが、現地に赴いて山西省の公文書館で資料をくくっているうちに軍閥閻錫山と北支那派遣軍司令官・澄田來四郎中将との間でかわされた「密約」を証明する文書が見つかった。
当時、澄田中将は降伏の相手である閻錫山に戦犯として捕らえられておりいつでも処刑の恐れがあった。共産軍との戦いに手を焼いていた閻錫山が日本軍を利用しようとして澄田に助命と引き換えに残留を持ちかける。澄田は全軍というわけに行かないが、一部ならかまわないと妥協した。こうして残留特務団が編成されることになったのである。
この部隊に対しては、第一軍によって軍務の細則まで決めた文書とともに「軍令」として正式に発令されている。これに対抗して共産軍が鉄道などを破壊したために、引き上げについては混乱を極めていた。この異常事態を察知したものがいる。
支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は昭和21年3月9日、南京から北京経由で空路山西省省都太原に入り、澄田将軍以下北支那派遣軍第一軍の中枢と会った。総司令部の命令に違反する特務団編成を二日間に渡って難詰し、直ちに全軍を内地に引き上げるよう伝えるが全く聞き入る気配がない。ここで宮崎中佐はむなしく帰還した。断腸の思いだったことが後に判明する。
澄田らは閻錫山に軟禁状態にされていたが、共産軍の勝利が決まった途端に残留特務団を置いたままさっさと内地に引き上げている。澄田は満州の利権に深くかかわっていたようで、これを知った米国が戦犯として訴追しなかったといわれている。
一方、奥村のもう一つの気掛かりであるが、乏しい記憶をたどってようやくあの処刑現場に 立つことが出来た。当時のことを知っている人々に会って話を聞くが、自分がその兵士であることを隠そうとしない。支那の人々もすでに代替わりになっている。あの時処刑されそうになって逃げた人の息子が現れ極めて冷静に状況を説明する。
ここには鉱山があって日本軍の守備隊が駐留していた。あるとき八路軍の夜襲があって、矢倉の上で見張りをしていた現地徴用の支那人が対応したが、八路軍に同胞同士戦うことはないと説得されて持ち場を離れたらしい。朝になって帰ってきたらスパイ容疑で捕まったというのである。奥村はあきれて開いた口がふさがらなかった。何故のこのこ帰ってきたのか?!
そして、他にも何人かの戦争体験者にあって話を聞く。当時16歳の少女だった女性は日本兵に親の目の前から連れ去られ、十数人に強姦された。父親が身代金を要求されて家を売って金を作った、と淡々と語る。しかしもう過ぎ去ったことだ、私たちは未来のことを考えていかなければならないと言う穏やかな表情が印象的だ。
また、現地の検察院に残された日本兵自身が残虐行為を告白した手書きの文書にも目を通す。戦友のものもあった。奥村はそれらの文書をコピーして持ち帰り、書いた本人に渡すのだが、あるものは全部記憶していると受け取ることを拒否し、あるものは読みふけってため息をつく。認知症の妻を介護する元将校、優しい老人である。戦争とは何か?兵士とは何か?それ以上に戦場とは何か?を考えさせる場面である。
ところで、訴訟はどうなったかといえば、最高裁までいって敗訴になった。不思議なことに判決文に判事の署名がなかった。どういうわけかと電話で訪ねると事務の若い女性が言うには「物理的に出来なかった」と言う応えであった。物理的とは転勤か何かで「いない」という意味かと問うと、「そんなところだ」という極めて曖昧な返事に奥村はそれ以上追求することに萎えてしまった。
当時を知る元将校の家を訪ねるが会うことを拒否され、雨の中を帰る「蟻」にされた元兵士。その目に一滴の涙も見せなかったのが、実に印象的だった。
この映画が作られたきっかけは、ドキュメンタリー作家、池谷薫が「戦後60年」をテーマにした映像の素材を探していて、前・日中友好協会事務局長酒井誠からこの山西省残留兵士の話を紹介されたことによる。
訴訟の判決は平成17年でごく最近のことであるが、奥村和一が真相究明に動き出したのは1990年ごろからであり、防衛庁資料にはその以前に接触していたものと思われる。
現地の档安館(公文書館)で残留部隊である「暫編独立第十総隊」の「総隊長訓」と「総隊部服務規定」を発見するのは平成12年のことであり、この映画が撮影された平成14年には「再訪」ということになる。ここのところが惜しいなあと思う。この話が現地訪問の前にあったら、映画は俄然ドラマティックな展開になったはずである。
原一男の「ゆきゆきて神軍」は4年にわたる密着取材だったからあれだけの「発見」「驚き」があったが、これは話を「発見」するタイミングがよくなかった。ドキュメンタリー作家の 嗅覚に差があることは残念だが歴然である。だからといって、このあまり知られていない山西省残留部隊問題に世間の耳目を集めた手柄は十分評価していい。
さらに言えばこの映画の成功には偶然だったと思うが、奥村和一のキャラクターが幸いした。奥村は真相を追及することにおのれの実存を賭けた。
あの若い日の自分を追い込んだものは何だったのか?そこに80歳を超えた「現在」との落差はない。奥村にとってはあの日から一直線に現在があるのだ。そこに感傷が入る余地は無い。あるのは「俺は何ものか?」と言う空を切るような問い掛けだけである。
にもかかわらず、池谷薫の視点は甘い。それは動機が不純だったことに起因する。最初に「戦後60年」というテーマがあった。
現地取材中に、あまり脈絡なく日本兵に強姦されたという老女が登場する。「恨みはない。」と穏やかに話すのが支那人の大きさと感じたが、これは意図的に挿入したと思われる。「蟻の兵隊」は被害者であったが、加害者でもあったという紋切り型の図式を見せようとしたのである。「戦後60年」にふさわしいテーマだと思ったのだろう。
しかし、昔から被害者意識と加害者意識という議論はあった。こんなものが不毛なことは明らかである。どういう立場で見ようが侵略戦争とはそういうものだからだ。
奥村はじっと聴いていたが、謝罪の言葉も涙もなかった。池谷にとっては意外でもあり、意図に反した結果だったに違いない。奥村にはこの被害女性もまた同じように苛烈な現実に投げ込まれた言わば時代の子であった。
謝罪?いったいどこの誰に対して?そんなものは政治家に預けておけばいい。奥村は、検察院に残されていた日本兵の告白書の写しをもって帰った。あまりにも酷薄で残虐な内容が書かれていた。書いた本人に渡すが、奥村の表情は変らない。あえて言えば「これがお前のやったことで、おれたちは皆こんなことやったのだ。」といっているようである。ここでも池谷は旧日本軍を告発することに失敗した。
やった本人が過去を持て余しているのは明らかだった。一方で、図らずも人間の執念のすさまじさを見せた場面があった。
支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は、昭和50年に国会でこの事件に関して証言を求められている。奥村は当然旧知である。訴訟の前後に95才でかくしゃくとした宮崎元中佐は画面に現れる。
あるとき宮崎入院の知らせを受けた奥村が新幹線で病院に向かうとすでに意識はなく死の床にいた。時々意識が戻ると付添の長女が言う。奥村は僅かに動いたところへ名乗って訴訟のことを報告しようとする。すると突然宮崎中佐がエビぞりになって起き上がろうとしながら、のどの奥底から「ウォーウォー」と叫ぶのである。おそらくあの太原での会見を思い出して必死に奥村に何かを伝えようとしているのだ。宮崎もまた、あの日、澄田将軍を説得出来なかったという「重い現実」を抱えて戦後の日々を生きてきたのであった。
この作品には山西省残留日本兵問題にかかわった人々は描かれているが、肝心の背景についてはほとんど説明がない。何故あんな奥地にまで陸軍は展開していたのか?あるいはその必要があったのか?処刑場となった鉱山はなんだったのか?閻錫山とは何ものか?についても知らないものには不親切であり、それがなければ蒋介石の国民党軍とはどんな性格のものだったかもわからない。
澄田将軍が戦犯として閻錫山に軟禁されていた事実についても説明がなければ不公平であろう。彼が我が国の軍隊を敵に売ったことは、軍人として命ごいをした卑怯千万の振るまいとともに許しがたいとしても。
戦争の記憶は風化していく。体験したものが亡くなっていくのだからそれに抗うことなど出来ない。つまりあの戦争は急速に歴史になっていくのである。歴史にいいも悪いもない。肝心なことはかくも人間とは愚かであることを知ること、そして、再び愚かなことを繰り返さないために歴史に学ぶこと、我々に出来ることはせいぜいそれだけである。
2007年2月 8日 (木)
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