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2014年11月11日 (火)

「必読書150」に「反哲学史」を入れろといった理由

私の演劇時評

中村 隆一郎

2014年11月6日

「必読書150」に「反哲学史」を入れろといった理由

木田元さん追悼

去る、八月十六日に木田元さんが亡くなった。昭和三年生まれ(終戦時十八才)だから満八十五才だった。

僕は、直接会ったこともなければ教えを受けたこともないが、卒論でテーマにした本など(この「など」には少々因縁があるのだが、詳細は「劇評(のようなもの)「僕のハーモニカ昭和史」の書き込み、Dr. Mark Waterman とのやりとりを見ていただきたい。)の翻訳者のひとりであったから、そういう縁でかなり間接的とはいえお世話になった人だといえる。以来、何かと気になる存在だったが、特に、中央大学教授を定年退職する前後から、哲学や身辺にかかわるエッセーを多く出版したので、我が本棚にもいつの間にかそれが増え一読者として、より身近に感じられるようになった。

「闇屋になりそこねた哲学者」というタイトルに満州育ちが重なって、なんとなく木田さんは、戦後になって大陸から引き上げたものとイメージしていたが、実は、海軍兵学校第七十七期(昭和二十年四月入学)出身であった。満州の中学時代に、ひとり家族から離れて帰国し、江田島にいたのだ。そこで、八月六日の朝、広島の上にキノコ雲が上がるのを見ていた。

最近、本屋に行ったら、「哲学散歩」(2014年10月、文藝春秋社)というエッセーを目にしたので、おやっと思って、奥付を見たら、亡くなられたあとの出版で、遺作ともいうべき本であった。

読み始めたばかりだが、「ディオゲネス・ララエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』(加来彰俊訳、岩波文庫)」の記述が目にとまって、そういえば、加来先生はどうしているかなぁとふと思ったりした。

ところで、昔このブログに書いた「必読書150の時代錯誤」という記事は、比較的興味を持った人が多かったようだが、反論めいた書き込みもいくつかあった。

この記事の最後を僕はこう締めくくっている。

『・・・この文明開化時代の西洋かぶれどもにリストに対する文句を言って置こう。

ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』を必読書に入れるのは間違い。「千のプラトー」もそうだが、こんなに長々とおしゃべりをしているからフランスは二度も戦争に負けたのです。

木田元「反哲学史」を入れないのは日本の哲学の現在を理解していない証拠。

むかついてきたので、ここでやめるわ!』

むかついて、つい、「『反哲学史』をいれないのは日本の哲学の現在を理解していない証拠」と書いた肝心の理由を書くのを失念していた。

そのためででもなかろうが、書き込みの中にはこんな断定的な言い方をするものもいた。

「・・・ちなみに、木田元の『反哲学史』はハイデガーの哲学史観を一般向けに分かりやすく説明している本であって、哲学史上独自の意義を持つものではありません。」

この書き込みをした御仁は残念ながらまるで誤解をしている。『反哲学史』(1995年)を「ハイデガーの哲学史観」の本だと思えば、独自の意義など持ちようのない本で、この本は、あえていえば、そもそも哲学史を語ろうとした本でもハイデガーの解説本でもない。

この本のほんとうの意義は、比喩的に言えば、「必読書150」の中に詰め込まれた西欧の知識・思想、哲学を、ユーラシア大陸の西の端のいわば辺境に発生・発展したものとして、相対化する視点をおそらく我が国ではじめて大ピらに表明したことだった。

むろんそうした考えがすでに指摘されていたことは認めてもよい。しかし、ここまであっけらかんとあれは西欧に特有な考え方で、そのような特殊なものと認識すべきだといったものはかつてなかった。

我が国は明治維新以来、西欧思想を輸入して国のあり方を再構築してきた。輸入した当初は確かに舶来ものと認識していた(福沢諭吉、中江兆民・・・などなど)が、いつの間にかそれが普遍的真理だと思い込んでしまっていた。

特に左翼は、西欧思想史の出口であるマルクスこそ人類共通の絶対的真理としてきたから、西欧思想の普遍性に疑いを持つ余地はなかった。したがって、左翼全盛の時代に、それを含む全体が西欧辺境に特有の思想に過ぎないといったら、それでは何を「信心」したらいいのかと怒り狂ったに違いない。攻撃の対象となるかあるいは無視されるか、いずれにしても大ピらには言えなかったのである。

「反哲学史」が出版されたのは、冷戦が終わって一呼吸置いた頃である。これは絶好のタイミングであった。(と思ったのは僕だけか?)

僕が、「必読書150」に「反哲学史」を入れないのは「日本の哲学の現在」をわかっていない、と書いたのはこの点にあった。つまり、「必読書150」を編んだ人々にとって、おそらく西欧思想の普遍性を疑うという視点はなかった。もしも、その視点があったら、「反哲学史」という画期的な仕事を見逃すことはなかったはずだからである。

そもそも、この稿を書くきっかけになったのには、何を隠そうIKEAがかかわっている。僕のところでは北欧風の朝食を安く食べられるというので、そのためだけに年に何回かIKEAを訪ねる。帰りに、出口のコーナーで彼の地の食品を多少仕入れて帰るのだが、買い物袋をくれないからレジを通り過ぎて途方に暮れる。ばらばらの品物をどうやって持って帰るのか?

いくらスウェーデンのことといってもこれではサービスが悪すぎるではないか。と思うのは早計で、荷物を整理する台の上にはどういうわけか大量の朝日新聞が置かれているのである。なぜ「朝日」かは不明である。むろん二三週間前の日付だが、これで買った品物を包めば小脇に抱えられるほどの大きさになる。さすが、スウェーデン、捨てられる運命の配達されなかった朝日新聞を包装紙として再利用している。我が国もかつてはそうだった。おおいに反省し、見習うべきところだろう。

それはともかく、この間も、買い物袋を持参しなかったから、北欧のソーセージやミートボール、パンやジャム・チョコレートを朝日新聞でくるむはめになった。

適当に拡げた紙面に品物を置くと、目の端に飛び込んできたのが「■木田元さんと原爆」(10月5日)という三浦雅士さんによる追悼文であった。見出しは「『西洋的理性の極限』を目撃」である。思わず読みふけることになってしまった。

「西洋的理性の極限」とは、ハイデガーを意識した言葉で、言い得て妙であるなと思う。江田島で原爆を目撃したことを「・・・これが木田さんの原点なのだ。鮮明な光景が根源的な不安となって伝わってくる。」と三浦さんは書いている。「哲学を特殊なものとせずに、誰にでも分かる文章で、しかも水準を落とさずに語ること。普通の人間だからこそ人間存在の不安の仕組みを解明したかったのだ。」と続く。

そして、最後に次のような文章で、木田さんの仕事を評価した。

「木田さんは日本の哲学の文章を変えた。『私の哲学入門』の最終章は『<哲学>と<反哲学>』だが、その『反哲学』はニーチェ、ハイデガー、デリダの延長上にありながら、少し違う。西洋哲学では理性は神に分配されたものと考えられているのであって、それは西洋に特殊な考え方だというのだ。とすれば西洋哲学も特殊な、つまり偏った考え方であると言うことになる。代表作『反哲学入門』では、今後の思想展開においては日本人のものの考え方の方が役立つかも知れないと示唆している。この木田哲学の核心に、西洋的原爆を目撃した体験が潜むと、私は今思う。」

木田さんが原爆をそのように意識していたかはともかく、むしろ、最も重要な点は、「今後の思想展開においては日本人のものの考え方の方が役立つかも知れないと示唆」したところにあると、ぼくは思っている。

とりわけ、木田さんは、西欧思想史に流れる『自然観』と日本のそれの違いについて、意識していた。

遺作となった『哲学散歩』の最初の項でも、このことが語られる。

現実の事物を超えたところにそれらの本来的な「理想=イデア」がある、というのがギリシャ哲学の基本的な考え方だと僕らは習った。

「自然の生成消滅をまぬがれた、永遠に変わることのない事物の真の姿・形、例えば幾何学で対象にされる純粋な二次元の平面に幅のない線で描かれた三角形のような超自然的な存在であり、これを拠点にして考えていく」のがプラトンのイデア論である。

ところが、木田さんは「これは嘘だ。」というのだ。

ソクラテス以前のギリシャの思想家たちが考えていた『自然』は、「自然科学の対象にされるような一部の存在者、いわゆる外的・物質的自然を差すのではなく、日本語の『自然(じねん・しぜん)にもあるような『自ずからあるがままのあり方』『本来のあり方』という意味での自然(フェシス)を指しているらしい。」とある。 ソクラテス以前のギリシャ思想は、日本のものの考え方とよく似ていたというのである。

「そこに、まったく異質なものの考え方、いわば超自然的な原理を設定し、それを拠点にしてすべてを考えていく超自然的な思考様式を持ち込んだのがプラトンなのだ。」

いうまでもなく、西欧思想の底流にプラトンとキリスト教の親和性があるという前提である。

ではなぜ、プラトンは、ソクラテス以前の思想家たちの「自然観」をあらためる必要があったのか?

そしてまた、どこからプラトンは「イデア論」というアイディアを獲得してきたのか?

この「なぜ?」という部分の回答は、僕が劇評でも歯切れのよさでは随一と思っている加藤弘一氏(文芸評論家)が、歯切れよくまとめているのでそれから引用しよう。

「著者はプラトンがギリシア本来の考え方に逆らって「哲学」を編みださなければならなかった事情をアテネの没落とソクラテスの刑死という時代状況から説明している。自然の内なる生命力を肯定するギリシア土着の考え方にしたがう限り、ポリスのコントロールはできない。ポリスをコントロールし、ソクラテスの刑死のような衆愚政治に歯止めをかけるには世界を被造物ととらえるセム系の考え方に切り替える必要がある。」(KINOKUNIYA 書評空間「反哲学史」書評より)

そして、「どこから?」の回答が、この「哲学散歩」の第一回タイトルに表れている。

「エジプトを旅するプラトン」

プラトンが「旧約聖書」に出会った場所である。

僕は木田さんの指摘が、若い人の間に徐々に浸透しつつあるのではないかという気がしている。

確か「里山資本主義」の藻谷浩介氏も書いていたが、日本は外国の影響を受けても必ずもとへ戻ってくる。そういうスパイラルの運動をしているのが日本という国柄なんだということなのだろう。

それにつけても特に、近頃気になることは「経済」である。西欧の考え方にしたがっているだけでは、息苦しくなるだけではないか。

たとえば「派遣労働」などという人をモノ扱いする思想は本来我が国の「自然観」にはなじまない発想であるはずだ。こんなことを続けているとひどい国になってしまいそうだ。

資本との対抗策についていつか書いてみようと思っているが、今日はこれまでで力尽きた。

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コメント

加来彰俊は十年前に念願の『ソクラテスはなぜ死んだのか』岩波書店を出したので買って読みました。
たぶん存命です。90歳か91歳。

投稿: 尾和夜叉丸 | 2014年11月17日 (月) 12時33分

真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。

我々の世界は質感。

また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。

《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。

《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』

然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)

【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。

【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。

《抑止力, 育維》

【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。


【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。


真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

投稿: 雷鳥 | 2015年1月 8日 (木) 11時31分

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