« 劇評「アジア温泉」 | トップページ | 「かすべ」と「押し切り」の話(2005年に書いたもの) »

2013年10月12日 (土)

映画「山猫」を見た(2004年に書いたもの)

Theleopardo_ 映画「山猫」を見た。ヴィスコンティの名作である。1963年のカンヌグランプリだからもう四十年前の作品だ。なんで今ごろと思うかもしれないが、イタリア政府が金を出して完全復刻したものを公開するのだという。あの頃の技術では退色を防ぐことが出来なかったのだ。国家事業でやるとは感心なことだ。朝日新聞がマリオンにあるホールで公開していたことは知っていたが、この日は新宿高島屋の上にあるテアトル系の映画館だった。こんな興行ならイタリア国家の収入はおぼつかないことだろう。

Yが何故か見たいと言いだし前売り券まで買っていた。休日前夜ということで112日にした。早めについて入ろうとすると番号札を貰ってそこいらで待っててくれという。そんなに超人気の映画とも思えない。しかもロビーなど見当たらないしベンチが用意されているわけでもない。ようはヘアサロンやハンバーガーバーの前にたむろしていろと言うのである。店も迷惑なことだ。こう言う不埒な客あしらいに文句を言わない方が悪いのかもしれない。その番号札やらを貰おうと前売り券を見せると、あと五百円出せという。

説明はこうだ。本日はヴィスコンティ氏の誕生日記念(本人は25年前に死去)で華道家の仮屋崎某の講演会があり、帰りにイタリアのチョコレート屋から「山猫」特別バージョンのウエハーチョコをプレゼントするというのである。僕は客を整理している黒服の男に「イベントをやるならかってにしたらいい。しかし僕はそのトークショーに興味はないしチョコレート屋の宣伝サンプリングも欲しくない。だから1500円の前売り券でみる。」といった。

本日の窓口料金は2000(普段は1800円か?)である。あと500円追加したら前売り券を買った意味がなくなる。はやい話がトークショーとチョコレートを500円で買えということではないか。いらないものの押し売りである。こう言う簡単な道理と算術についてテアトロという興行主はわかっていない。はやい話が馬鹿である。

すると黒服がイベントは映画の前にやると木で鼻をくくったような顔でいう。ただでさえ3時間という大作である。終了の時間は11時ではないか。トークショーは終わった後でやるのが常識だろう。僕は腹が立ったので今夜は止めようとYに電話をした。話し始めると目の前にYの顔があった。まあまあ、折角来たのだし、日程もとれないのだからとなだめられてしぶしぶ見る事にしたという次第。

映画館は新しくて広くて快適だ。階段状の座席が二階分くらい、スクリーンに向かって幅広に置かれていてどこからも見やすい。少し普通と違うのは最前列のしたがもう一階分下がっていてスクリーンはその下から来ている壁に設置されている。これなら最前列でも適当な距離があり十分全体が見えるはずだ。しかしその下は無駄といえば無駄な空間である。

客は200人位はいっていたと思う。がらがらだ。整理券はなんのためにあったのだ。この無意味。無神経! 

 程なく女の司会者が現れ大仰な掛け声で「假屋崎先生をご紹介します。」と叫ぶと、なんと、この下の空間から先生がちょっとした舞台にのってせり上がってきたのである。

本人は実にまともな人間らしく、この阿呆臭い演出に照れて困惑して平謝りである。映画を見に来たのに自分のような関係のないものの話につきあわせて。ごめんなさい。三十分で引っ込むので我慢して下さいねと言うわけである。この先生見かけによらずなかなかわかっていらっしゃる。気になるのは舞台の袖に突っ立っている三四人の男女である。うち一人が台本のようなものをもってインカムをつけているところを見るとこの連中、広告代理店の関係者だろう。イベントを監視しているかあるいはクライアントに対してアリバイ作りをしてる。明らかに観客にたいして関心はない。この程度のモヨウシに大袈裟に自己主張してるのを見るのは実に不愉快だ。こんなときは隠れているべきである。ディズニーランドでスーツ姿の社員がうろうろしてたら白けるだろう。

トークショーは、假屋崎本人の苦労話が少々とビスコンティの貴族ぶりに驚嘆するのが少々と目黒でやっているフラワーアレンジメントの展示会の話で終わった。(この展示会の招待券千円なりを気前よくプレゼントするというので、おそらく人のいい假屋崎の罪滅ぼしだろうと思った。)

 

さて映画の話である。

イタリアが国を挙げて復刻したというが開幕の音にはがっかりした。雑音と音程のフレがひどく、先が思いやられる。地中海のど真ん中にあるシシリー島は乾燥している。ほこりっぽい風景の中にざらざらした音というのは合うといえば合うがイタリアの技術には多少疑問を感じた。ところがそれは不思議なことに進行していくうちに次第に気にならなくなった。退色した色を復活する具合も控えめ、人物のフォーカスもごく自然で好感が持てる。それはあの時代のカラー映画の風合いを残して復刻するというコンセプトを忠実に実行したことを思わせた。米国映画のデジタル復刻版などはコントラストが強調されすぎて、キレイに見えるがかえってチープになる事が多い。アナログで仕上げたものかどうか確かめたわけでないがなかなか雰囲気はでていたと思う。サウンドトラックはそのままだったかもしれない。当時の録音技術では音源が残っていたとしても雑音を除くのは期待できなかっただろう。

物語は、何代も続いてきた貴族の一家が時代の変化を泰然として迎え入れるというもの。1860年といえば日本は万延元年、江戸末期である。イタリアも腐敗した貴族の支配にたいして祖国統一の気運が高まりガリバルディの抵抗運動がシシリーにまで及んできた。独逸もそうだが、奇しくも日独伊三国はちょうど同じころ統一戦争を経験した、つまりもっとも遅く近代化を果たした国だったのだ。欧州が日本のはるか前方を走っていたというのが大きな誤解であることを知るのは重要である。

「山猫」は随分間が開いたので、感想を書くのも気恥ずかしい。結論を言うと、ノーカット版ということでどんなものか期待していたが、いやあ、これが長かった。「山猫」家は毎年田舎の別荘に家族で避暑に出かけるのだが、騒然とした社会の動きにもかかわらず、この年もまた何事もなかったかのように出発する。ほこりっぽい山道をえんえんたどるのは景色が見えるからいいとして、最後の別の貴族の屋敷で行われた舞踏会がいつ果てるともなく長い。ここに登場するのは二百人以上はいたと思うが大部分が本物の貴族で、身に付けている正装も勲章も宝石も本物という触れ込みだ。風体、立ち居振る舞いまでなるほどと思う。テーブルに並んだ料理は豪華だが手作りの味わいがある。ひたすら食べて、その後は踊るもの、酒を飲むもの、おしゃべりするものとわかれてどれだけあるかわからない部屋の中や庭にたむろする。

珍しいのはトイレだった。さまざまな形の陶器の壺や器がそこら中に置かれていて、そのなかにするものらしい。なるほど、下水など無いのだからこうするより他ない。においを消すための工夫は当然あるものと見た。バート・ランカスターふんする主人公、公爵が貴族の時代がたそがれていく、その時の移り変わりに身をゆだねようと決意し誰もいない部屋で鏡に向かって涙する場面が自身もまた北イタリアの貴族出身であるビスコンティのメッセージであったろう。

もう一つ欠かせなかったのは、クラウディア・カルディナーレとの舞踏の場面だった。もっと若い男と踊るように言うが、ダンスの名手として名をはせたことを知っている人々に促されて彼女の手を取る。それは音楽に乗った流麗な身のこなしで、一同呆然と見とれるしかない。そのあたりで「FIN」かと思ったら、だんだんと踊るもの、飲むもの談笑するものに分かれてグループが小さくなっていく様をカメラが追いかけ、しかし終わりの無い享楽といったアンニュイな空気を写し取る。

とうとう空がしらじらとしてくる頃公爵は屋敷を去ることにした。馬車を断って徒歩で道を歩く公爵の前に一匹の猫が現れる。まだ、明りが灯った家の戸口から朝早い庶民の暮らしが覗いている。「Party's over.」である。このシーンに突然音楽がかぶって「fin」となる。納得のいく終わり方だ。しかし、ノーカット版とは実に大変なものである。見る方が。




| |

« 劇評「アジア温泉」 | トップページ | 「かすべ」と「押し切り」の話(2005年に書いたもの) »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 劇評「アジア温泉」 | トップページ | 「かすべ」と「押し切り」の話(2005年に書いたもの) »