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2013年8月23日 (金)

劇評「効率学のススメ」

Kouritu 何でも学問にしたがる風潮はいかがなものかと思っていたら、今度は「『効率』学」だそうだ。聞くからに怪しげな学問をススメられても困惑するだけだが、ふとタイトルの脇を見ると、「The Opportunity of Efficiency 」とあった。これはどうも翻訳が違っているのではないかとでかけたが、「学」もなにも、全編がかなり「危うい」お話だった。

2010年にオープンしたナショナルシアター・ウェールズの芸術監督、ジョン・E・マグラーを招聘し、同劇場のこけら落としも書いたアラン・ハリスの日本向けオリジナルをマグラーが演出した作品である。ハリスもまたウェールズ出身というから、これはもうウェールズ魂そのものを込めた物語といってもいいのだろう。

C・W・ニコル氏も自らの生まれ故郷を懐かしく回想する文章をパンフレットに寄せている。

ウェールズはUnited Kingdom を構成する四つの国(Country)のひとつで、グレートブリテン島の南西部に位置する。ローマ帝国はやってきたが、アングロ・サクソンには征服されなかった地域で、ケルト系独自の言語と文化を誇る人々三百万人が暮らしている。

大陸の端っこにあり、他民族や帝国の支配を受けなかったという意味では、我が国に似た古代―中世史を持っていて、それがあるいは、ウェールズ系日本人ニコル氏の日本に寄せるシンパシーの一因になっているのではないかと想像している。と言うことは、この作家と演出家の二人にも何か「近代」を受け入れがたいとするメンタリティがあって、その甘さが、ついこの劇の締めくくり方に出てしまった。それは、ほほ笑ましいともいえるが、「効率」などと振りかぶったものの大きさと深刻さに較べれば、拍子抜けするほど安易な結論だったのには、大方の失望を買ったのではないかと心配している。

そんなことになった原因は「効率」などという指標をあたかも「科学」(=普遍性)であると、社会の風潮に習って大いに「誤解」したことからはじまった一種のボタンの掛け違いである。効率=科学なんていう考えは「経済」イデオロギーの一つに過ぎないものだという認識があれば、そんなことにはならなかった。

これ以上のことは後述することにするとして、あえて言えば、素材はまあまあだったのに、調理法があまりに古典的だったのと、そもそも出された料理が生煮えであった。

Kouritu1 小劇場の舞台も客席も全部取っ払った床に、巾一メートル高さ十センチあまりの回廊を四角くいっぱいに廻らし、四方の壁の上の方はやはり巾一メートルほどの白い板で劇場全体を囲ってある。その床と壁のふたつの長細い白い板には、あとで様々な映像が映し出されるのだが、 驚いたことに、そんな長いスクリーンにつなぎ目のない連続的な映像や、舞台の動作をリアルタイムで映しだすという仕掛けがあったのだ。これをやるには、映像制作もさることながら多くのプロジェクターとその緻密な計算による調整が必要で、最新の技術を活用しようという制作者の張り切りようがよく分かった。

Kouritu2 その壁と回廊に囲まれた中の空間を蛍光管のパイプで三つに仕切ってある。真ん中がISバイオ社第七研究所のオフィス、モダンなデスクに椅子が数セットおかれているだけのシンプルな空間である。劇場入り口から見て奥は、この第七研究所の責任者グラント氏(中嶋しゅう)とその妻(田島令子)の家で、手前は、ビジネスコンサルタント、ケン・ローマックス(豊原功補)が滞在するホテルの部屋になっている。

この細長い舞台をぐるりと囲んで 客席が設えてある。

四方の壁のスクリーンに、様々なオブジェが投影され絡み合い、混沌とした世界が展開される中、ケン・ローマックスの演説がはじまる。彼が執筆中の「効率学のススメ」と題した著作の一節である。

この声が、天井から聞こえてくると思って見上げると、何と空中に浮かぶスーツ姿の男がライトに照らし出されているではないか。

子供のころの体験から、橋の料金所の徴収係だった父親が広口のネットでコインを受け取る自動開閉器を発明してくびになった話、現在は企業の効率化をすすめるコンサルタントとして、家庭も持たず無駄を排した効率的で定型的な(つまりロボットみたいな)日常を送っていることなどを述べ、最後に、効率こそはプレッシャーであり、行動であり、改革なのだとご託宣を読み上げて終わる。

効率学の権威、降臨!と言った具合のプロローグであったが、仕掛けが大げさの割に、内容が薄く無駄なおしゃべりが過ぎた。

オフィスに明かりが入ると、デスクの前で若い男がバスタオルで濡れた頭を拭いている。研究員のジャスパー・ハーディ25才(田島優成)である。

僕の席は、劇場入り口から入って左側の真ん中だったが、この席からみるとオフィスの手前右側にあたる。その反対、左側にはもう一人の研究員であるジェニファー・フィールド24才(渋谷はるか)のデスクがあって、彼女はまだ出社していない。その奥にはもう一つ、彼らの上司であるグループリーダーのイフィー・スコット39才(宮本裕子)のデスク、さらに仕切りがあってその奥、一段高いところに所長のグラント氏62才(中嶋しゅう)の部屋があるという配置になっている。

現在月曜日の朝七時、誰もいないオフィスで、ジャスパーが、机の下からボールとシリアルの箱をとりだし、朝食を忙しくかき込むと、今度はイフィーのデスクにいってパソコンから小さなハードディスクにデータをコピーしている。なにやら盗み出したのだ。

ジャスパーがラジオの大音響で踊っているところへジェニーが出社。自分がハンサムだと自認しているジャスパーが、 ジェニーをブスでデブだとからかい、その応酬がしばらく続いているところへイフィーが登場。パソコンの不正アクセスに気づく。

イフィーが、何か企業秘密に属する「新しい発見」をしたデータがそこにあったらしい。

グラント氏がオフィスにやってきて、イフィーに、その「発見」の実験データを持ってくるようにと伝える。本社の法務部から特許申請のために使用する全データの提出要請があったというのである。

イフィーは自分が発見した事実をさらに追求して研究を完成させたいと思っていたが、何故かグラントは今まで通り「タンパク質」のテーマを継続してくれという。イフィーの胸に不信が芽生える。イフィーは、会社に「発見」の概要を報告したが、実験データはまだ渡していない。

そして、グラント氏はついでのようにして、この職場のてこ入れに、ビジネスコンサルタントがやってくることを告げる。 効率化が目的だというが、研究員はくびにするつもりではないかと疑心暗鬼である。

ケン・ローマックスと聞いてジェニーには覚えがあった。まず研修プログラムをやらされるが、誰かが犠牲になるのははじめから決まっているというのである。彼女が前の会社をくびになったのは、ケン・ローマックスの効率化のおかげであった。

イフィーは、そうはいっても「自分の発見」は完成までこれから何年もかかるから組織の解体も解雇もないだろうと楽観的な見通しである。なにしろ、自分の「発見」を彼が知ったら、そんなことは出来ないはずだという。

ジェニーは、ローマックスにそれは通用しないと断言する。彼はまるで機械のように、会社を効率化し社員をくびにしながら町から町へホテルを渡り歩く生活だというのだ。イフィーは、「彼も所詮、男でしょ?」と自らの美貌で籠絡出来るといわんばかりである。

グラント氏が、ケン・ローマックスを連れてオフィスに現れる。

ケンは、一見して散らかっていると指摘。ペン一本探すのに30秒、一日に10回として5分、三人で15分、それが一年で・・・・・・、と無駄な時間とそれにかかる費用を計算してみせる。たしかに計算はあっているから誰も反論できない。ただし、僕にいわせるとそもそもこの仕事に(パソコンは欠かせないが)ペンは必要ない。ケンの論は、生産ラインなどの定型的な仕事にはあてはまるが、R&D(Research & Development) には必ずしも適合しない。整理整頓せよという意味なら、この男が新聞社や広告代理店や出版社に行ったら気が狂ってしてしまうに違いない。

ついでにいえば、バイオ研究なのだから、仮説―作業計画―細胞培養や動物実験―結果解析―新たな仮説あるいは修正―作業計画という連関で進行するはずだからこの生産性評価にあたっては、そもそもバイオ研究そのものに通暁している必要がある。したがって、この点で素人に過ぎないケン・ローマックスのコンサルティングに期待できるものはなにもないはずなのだが・・・・・・。いや、こんなことを言っていては前へ進めない。

グラント氏が再びイフィーにデータを催促して去ると、早速ケンの研修が始まる。

壁に模造紙(「ブラウンペーパー」といって彼の国ではさらしていない紙を使う。)を二三枚張りだしそこに「業務プロセスを図式化」していくようだ。この部署のあらゆる面、つまり、 生産性や業績をはじめISバイオ社全体の目標に寄与する能力など約二十もの項目について現状を書き出し、各自の意見や提案をポストイットで貼り付けていくのである。それを本日、月曜から水曜まで三日間行い、翌木曜日には結果と提案を発表するという日程である。

昼になって、グラント夫人が夫の弁当を届けにやってきた。

グラント氏によると、取締役会でイフィーの「発見」の話をしたとたんに、ローマックスが来ることになったらしい。その「発見」についてグラント氏は直接かかわっていなかった。したがって、会社は必要のなくなった自分を追い出す魂胆だろうというのである。この夫人というのは、かつてISバイオ社に秘書として勤めていたことから会社の事情に通じている。オフィスにフリーパスなのも警備担当に顔が知られていたからであった。

夫人は、夫の生き残りのために協力するといって、彼の置かれた状況を確認する。まず、グラント氏によるとイフィーの「発見」によって、画期的な新薬開発の可能性が高まったのだという。今後十年くらいはかかるとしても、彼女の方向は間違っていないというグラント氏の見立てである。ところが、会社は何故かその研究をこれ以上進めようとしない、ということらしい。理由はグラント氏にもわからない。

夫人は、必ずしも夫に落ち度があるわけでないことを知ると、ローマックスさえ味方につければこの難局を脱することが出来ると判断し、なにやら決意する。

午後になってローマックスによる本格的な聞き取りが開始される。

ISバイオ社第7研究所は、当初タンパク質が手術不可能な癌の治療にどう利用できるか調べるというものであった。

イフィーが説明する。

癌やその周辺の細胞は、普通なら放射線療法で攻撃するが、自分たちは、タンパク質HBCYT2が細胞を包み込み、身体の免疫システムを促進させることで癌を殺せると考えているというのである。

ジャスパーが研究しているのは、Toll様受容体がどのようにバクテリアのフラジェリンに結合するか、である。と言っても素人にはなんのこっちゃ、であるが・・・。

解説すると、Toll様受容体とは、動物の細胞表面にあるタンパク質の一種で様々の病原体を感知して免疫を作動させる機能を持っている。また、フラジェリンとは、細菌の鞭毛にある蛋白質の一種で、これをToll様受容体が感知して免疫反応が作動するのである。

どっちにしても分子生物学的な話で、その高度な研究を吹けば飛ぶようなこの若い男がやっているとは信じがたいことではある。

イフィーが説明するのはもっと複雑で一度聞いただけでは頭に何も残らない。

彼らがやっていることは簡単に言ってしまえば、ある遺伝子を組み換えたタンパク質が、Toll様受容体を作動させて抗癌免疫反応を引き起こし、しかも何の副作用も起きないことを実験で確かめる、という研究らしい。

しかし、これは部分的に成功しただけで、まだタンパク質HBCYT2を適切な細胞に結合させることは出来ていない。ある意味いま自分たちは壁にぶち当たっていることを正直に告げる。

ケンが理解したかどうかはかまわず、一通り説明を終えるとイフィーがケンのプライベートについて質問する。それによると、独身主義でホテル暮らし、食べ物はテイクアウトで済ませ、趣味もペットも家族もいらない、映画を見たのは20年前、おしゃべりは時間の無駄という「効率化一筋」の味も素っ気もない人生だとわかる。ただ、自分の著作である「効率化のススメ」の執筆だけは目下のところの関心事で、思いついたフレーズを録音機に向かってしゃべり、イフィーに感想を求めたりしている。

翌火曜日の朝、ジャスパーはやはり会社に泊まったらしい。ケンが模造紙の準備をはじめたところへ社員が次々に出社。全員が、書き入れたり張り込んだりして黙々と作業を続けるが、紙は増え続けてたちまち会議室も外へはみ出していく。昼食をはさんでも同じ作業。紙は長い廊下にもどんどん広がっていく。ケンはそれを見ながら腕を組み対策を検討している様子。

グラント氏がケンに近づいて「ただでいいですよ。」と語りかける。定年までただ働きでもいいという意味だ。ずいぶん思い切ったことをいうものである。

グラント氏が自分のデスクに戻るとジャスパーが待っていて、イフィーのパソコンからコピーした例のハードディスクを手渡す。ジャスパーがグラントに取り入ろうとしているらしい。

夕方になって、グラント夫人がオフィスに現れる。実はケン・ローマックスに手作りの夕食を届けたのであった。イフィーが部屋に入るとピクニックのような料理が並んでいる。ケンは仕事をしながらそれを口にしていた。グラント夫人は、ケンに別荘を提供すると申し出たのだが、賄賂は受け取れないとことわられていた。

イフィーの用事は、この研究所を閉鎖できない事情について折り入って話がしたいということだった。

イフィーによると、自分はHBCYT2の作用を研究しているうち、このタンパク質の今までになかった画期的な機能を発見したというのである。

それは、ラットに致死線量を照射し、その前後にHBCYT2を投与すると生存率が飛躍的に高まるというものだった。被曝してから25時間以内に薬剤投与された動物はすべて生存する。つまり、「放射線障害への対抗策」が見つかったのである。むろん、さらに研究は深化させなければならないが、すでに糸口はつかんでいる。

それが、イフィーのいう「閉鎖出来ない理由」であった。

ところが、会社はケン・ローマックスを送り込んで、「効率化」の名の下にこの研究組織を解体しようとしている。一体、何のために?

イフィーは会社の意向をケンから聞き出そうとする。しかし、効率学は研究内容がなんであれ、もっぱらそのプロセスを問題にするのだといってとりあわない。

さらなるイフィーの追求にケンは意外なことをいう。

その発見によって、癌は克服され放射線障害も取り除かれるのだから、人間はもっと新しいものを生産し、より多くの消費を望むようになる。しかし、そんなことで世界がこのまま続くはずがない。そのうちに、浪費によってこの世は滅んでしまうだろう。だから、いまあるものをもっと効率的に使わないといけない。効率化こそが唯一の幸福への道なのだというのである。

なるほど、作者のいう「効率学」の神髄がここにあったのかと得心するのだが、どう考えてもこれが会社の意向とは思えない。ところが、ケンは、第七研究所の効率化などよりも前に、その研究内容は世のため人のためにならないとすでに判定を下していたのである。ケン・ローマックス氏の道徳観、社会批評的思想が実は効率よりも優先されていたのだ。「効率学」は科学なりと宣言していたわりに、実はこっそり「成長は悪」という倫理を持ち込んでいたのである。

では、会社がこの研究にブレーキをかけようとしている理由は何か?

誰かがイフィーからその成果を奪おうとしているのか?

あるいは、背後に想像もつかない陰謀が存在するのか?

イフィーは、ケンがそれを知っていると思って、体当たりで、つまり身体を使って探ろうとするが、相手は反応しない。

ジェニーは、ケンが登場した以上、くびは確実と覚悟して辞表を出そうとしている。イフィーの新しい発見について彼女はなにも知らされていなかったが、研究所が閉鎖させる前に実験データを匿名でWebにアップしてしまったら?とイフィーに会社への意趣返しをすすめる。それは守秘義務があるからできないが、イフィーは公開とは別のある決断をすることになる。

翌水曜日の朝、ジャスパーは相変わらず会社に泊まったらしい。例の行事を終えると出社してきたジェニーといっしょに模造紙に取りかかる。紙はオフィスのキャビネットや引き出しにまで入り込み、廊下にあふれたものもアメーバのように増殖、いまにも建物全体を包み込む勢いである。二人はわき目もふらず作業を続け、ケンが登場して、その成果に目を見張る。

壁のスクリーンにも紙がどんどん増えて、波打ちのた打つ様子が映し出される。もはや「効率化」そのものが生きものになったようにこの世界を支配していく・・・・・・。

四十年前に、僕もこれと似たような作業をしたことがあるが、四、五人で三日間やってもせいぜい三、四枚作るのが精一杯のものである。 四十年経っても同じことをもっと盛大にやってるらしい。

たった三、四人のオフィスの「効率化」にこれほど手間がかかるとは、それ自身の効率化を考えた方がいいのでは?と半鐘をいれたくもなるが、そこは「白髪三千丈」ならぬ「模造紙三千枚」の表現と理解して納得するしかないだろう。

午後になって、ジェニーが紙の下のパソコンのスイッチを入れるが反応がない。ジャスパーはすでに知っていて、問い合わせたところサーバーが焼けたということだった。彼らの研究データはすべて消えた。ご丁寧に予備のサーバーも壊れてこれまでの成果は完全にこの世から消えてしまったのだ。

ジェニーは、もう辞表を出していたからデータがなくなっても平気だという。すると、ジャスパーが慌てだす。イフィーのパソコンからデータを抜き出してグラントに渡したのは、代わりにジェニーをくびにしないと言う約束を取り付けるためだった。この二人は互いに悪態をつく仲で、憎み合っていると思っていたら、どうやら好意を隠し持っていたということらしい。

そこへグラントが憤慨した様子で現れる。ジャスパーが、約束と違うと迫るとグラントは、ハードディスクを指してこんなものもう何の役にも立たないという。イフィーが勝手に特許申請をしてしまったのだ。(あら、まあ!Webで公開するより特許庁に送る方がよほど賢いか?)

そこへイフィーが戻り、自分のデータを返せとハードディスクを取り戻そうとする。すでに、特許庁にあるのだからいらないだろうというと、イフィーは夕べ家に泥棒が入って、すべて持ち去られてしまったというのだ。

つまりは特許申請も会社に監視されていたのである。

それでもイフィーは、会社に背いた自分だけがくびになって、あとのものは助かると信じている。むろんハードディスクはグラントが持ち去ることに。

ジェニーがジャスパーに中身は知っていたのかと聞くと、「たぶん、ない方がいいものじゃないかな」という。「最初は誰かの善意だったんだろうけど・・・。ダイナマイトも着色料も、サリンも枯れ葉剤だって・・・・・・。」と意外にも科学者らしくない。

グラントの部屋にケンが現れ、「すでに提案は出来た、あとはタイプするだけ。」と告げる。壁の帯状スクリーンで映像が大暴れする中、ジェニーが荷物をゴミ箱に捨ててオフィスを出て行く。グラントの部屋では、ハードディスクがゴミ箱行きに・・・。

ジャスパーは、ジェニーが去り、イフィーも自分もくびが確実と思って、たまりにたまった模造紙を破りはじめる。それを見ているイフィーに気がついて、絶望のそぶり。

ジャスパーの告白によれば、最初は会社に寝泊まりしていることをとがめられると思ったらしい。その理由を観客も知りたいところだったが、実はアパートの大家である四十女が言い寄ってきたので、それをことわると家賃を二倍にされた。やむなく部屋をでて、友達のところに居候していたが、そいつの恋人が来るたびに追い出されていたというのである。ハンサムを自認しているジャスパー君としては「色男はつらいよ」というのだが、なんだか小難しい研究をしているものとも思えない間抜けな話ではないか。

ふたりの部下をくびにしないよう頼むつもりで、イフィーが、ケンのホテルの部屋を訪ねる。ケンは取り合わずこの一件が片づいたらコーヒーでもどうかと誘う。ロボットのケン・ローマックスが、イフィーの魅力に少しばかり目覚めた様子である。

とはいえ、ロボットのケンらしく、あなたは勝手に指揮系統が機能しない組織を作ったあげく、部下を巻き添えにしたのだと言い、断固とした態度を示す。

それに腹を立てたイフィーが、ケンの「効率学のススメ」を、「幸福」の章も「人の心を動かす」章もなければ、言い古されたことばかりで独創的なアイディアもない役立たずのゴミだ、これは絶対に出版されないと罵る。おまけにケン・ローマックス自身、ビジネスが効率の名の下に不道徳なことや首切りのために利用するただの機械の部品に過ぎないと厳しく批難する。唖然とするケンを残してイフィーがホテルを去る。

ついで同じ頃、グラント氏の自宅に明かりが入ると、夫妻が話している。

「発見」が知れたらイフィーはたちまちヒーローではないかとグラント夫人。

しかし、反対する勢力も多い、とグラント氏。

グラント氏が思わせぶりに話す「反対勢力」とは、石油資本(原発が安全になる)とかのエネルギー関連に製薬企業(治癒するのでは商売が持続しない)のことである。

それらの反対勢力の圧力に、国益を損ねると判断した政府が、イフィーの「発見」に秘密保持命令を出したというのである。

つまり、提出した特許申請は「秘密保持命令」によって凍結され、公開されることはなくなってしまったのである。(やれやれ!)

翌木曜、最終日。ジャスパーの例の行事で朝が来る。

ケン・ローマックスが、マイクを仕掛けたところへ社員が出社。

ケンが話し出す。

この第七研究所は、スタッフ一名を除いて直ちに閉鎖する、それがこの三日間の作業の結論だという。続いて自分には使命が、新しいアイディアがあると大演説がはじまる。ジェニーが途中で出ていく。演説の内容は、どうやら「効率学のススメ」のようだが、あとでグラント氏が言うには「宇宙とかビッグバンとか、秩序とか新しい考え方」を何かに憑かれたように熱く語った、らしい。らしいというのは聞いていた僕としては、大演説の割に内容がない(理解不能)と感じていたからである。

ところが、このあと彼のオフィスを訪ねているグラント夫人に向かっていうグラント氏の台詞でケン・ローマックスの新しい使命とアイディアが明らかになる。

実は、「一人の社員を除いて」と言う一人は、グラント氏その人であった。

ケンが言うには、グラント氏の研究所運営の非効率性は明らかで、彼はいまの役職にとどまるべきではない。

しかし一方、彼の統率力の欠如は、かえってチームの新しい「発見」を促したのであり、彼のような非効率、つまり管理放棄のスタイルを続ける限り、彼の率いるチームの創造性が「促進される」ことは確実である。したがって出来るだけ多くの部下を彼の配下に置くこと、すなわちいまの地位よりはるかに上位に昇進させることを提案する。彼の非効率性こそ御社の育成すべきすばらしい資産であり、非効率性こそが新しい効率性でありそこに未来があるのだとケンは結論づけたのであった。

そして、執筆中の本を非効率性こそが新しい効率性というコンセプトに変更、タイトルも「非効率学のススメ」に変えると宣言したのである。

聞いていたグラント夫人が「狂っていた様子はなかったか?」と案じる。

グラント夫人ならずとも、大概は心配になるはずだ。

ともあれ、ふたりは昇進と昇給に胸をなで下ろしたのであった。

それから数日経って、ある公園でイフィーとジェニーが会っている。

ジェニーは新しい職場が決まっている。ジャスパーは、取りあえずバーテンのアルバイト。

イフィーが例のハードディスクをジェニーに渡そうとする。グラント氏が一旦ゴミ箱に捨てたのをイフィーに送ってきたらしい。今さらネットに上げても開発を望まないものが強すぎて無駄になるだろう。が、いつか役に立つときが来ると思ってジェニーに預けようというのであった。 ここでほかの人と会うというイフィーをおいてジェニーが帰る。

ケンが別のベンチに腰掛けて、会話の練習をしている。会話と言っても日常のあいさつとか簡単な言葉のやりとりのことである。

いままで効率的と思ってきた、決まり切ったロボットのような日常から普通の人々と同じようにふるまい、言葉を交わし映画も見る生活の方が数段「効率的」だとわかったかのようだ。

「あそこでコーヒーでも飲みませんか?ごちそうします。」とケンが独り言をいってふと振り向くと、そこにイフィーが立っている。

イフィーが、ここで会う約束の人というのはケン・ローマックスのことだった。

二人は、互いに気づいてイフィーが手を振り、そして、ケンがそれに応える。

この二人はどうなってるんだと思わせながら溶暗。

ケン・ローマックスの豊原功補は、数回見たことがある。もともと体格がよくてあまり表情豊かでもない役者だからロボットみたいな感情のないこの役は合っていたかも知れない。おしまいのところで、日常会話の練習をしなければならないほどのコミュニケーション失調症だったのがわかる。この、人の感情などただ邪魔なだけ、効率こそ命というヘンな人が、実はイフィーに恋心を抱いていたという「落ち」がもう少しなんとか出来なかったのかと、役者豊原の力量に不満が残った。

ジャスパー役の田島優成は、僕が見た何日かあとのことだが、舞台に穴を開けて話題になった。寝坊したのだと。

この若い男、一体何者? と思って調べたら蜷川がよく使っていて25才の割には舞台経験はあるほうだ。理由など詮索してもしようがない。新国立劇場は損害金を所属事務所に請求してけりを付けたらしい。いい薬になっただろう。

こんなことなら、ジャスパーがオフィスに寝泊まりしていたように楽屋に住み込んでいたらよかった。

宮本裕子と渋谷はるかについては何も言うことなし。

グラント氏の中嶋しゅうは、手をぬきすぎ。

グラント夫人の田島令子は、このいなくてもいい役に存在感を与えて、さすがだった。でも、こっちはやりすぎ。

さて、この劇はスタイリッシュでミステリー仕立てという表層部分を取り去ると、存外シンプルな骨組みでできあがっている。

事の発端は、イフィーが研究中のタンパク質に想定外の機能があるのを「発見」したことである。端的にいえば、被曝に効く薬ができるということで、それはどう考えてもノーベル賞ものだ。福島原発廃炉作業もずいぶんとはかどることだろう。

この「発見」を本社に報告すると、すぐに実験データを送るようにグラント氏は指令を受けた。とほぼ同時に、突然のことながら研究所効率化のためのコンサルタント派遣が決定される。

芝居の幕開けは月曜日で、この日ケン・ローマックスがやってきて、実験データもまだ本社法務部に送られていないのだから「発見」が報告されたのは先週の木曜とか金曜くらいの時期であろう。

効率化のコンサルタントは、解雇または閉鎖のための本社のいいわけに過ぎないというのは、ジェニーの証言でもイフィーが探りを入れたケンの応えでも明らかである。

すると本社は、先週「発見」の報告を受けると実験データも見ずに早々と「発見」を握りつぶす決定をしたことになる。

それは何故か?

原発の安全性が高まるのを嫌う石油資本や石炭輸出国(オーストラリアが実名で上げられている)あるいは放射線障害にかかわる医薬品を製造している巨大資本が政府に圧力をかけてくるという理由がグラント氏の台詞でほのめかされる。

「発見」を対外的に発表したわけではないから、この時点で社外にそれを知るものは皆無である。したがって、某国から圧力をかけられるなどは考えられない。すると、ただ単に「懸念」があるだけで木曜日か金曜日のうちにISバイオ社の幹部はすばやくこの重大な決断をしたことになる。「懸念」だけで、これほどの「発見」を短時日のうちに封印すると決定したのはその「圧力」がよほど強烈だと予測したのだろう。

もっとすごかったのは、 火曜日になって、イフィーが特許申請したとわかると、イフィーの家を襲ってデータを奪い、自社のサーバーをぶっ壊すことによって第七研究所の全データを消してしまうと言う暴挙に出たことだ。これまでの投資が全部おじゃんになった。やけのやんぱちである。株主にどう説明するのか心配である。

イフィーの特許申請も、政府によって凍結されてしまう。政府もまた化石燃料輸出国や医薬資本の圧力を怖れたというのであろう。戦力を保持しても集団自衛権を持たない国はここまで馬鹿にされるのだぞ!という警告を作者はしたかったのだろうか。

イフィーは、それで萎えてしまったのか恬淡としたもので、自分の「発見」をさらに追求しようとはしない。科学者とも思えない態度には驚くばかりである。これを日本語では「MOTTAINAI」という。

この「発見」騒ぎはこれで一件落着となった。

言うまでもなく第七研究所は予定通りめでたく閉鎖となって、話の骨格は完成と相成るのである。

と、ここまで来ればこの芝居に「効率学」などは何の関係もなかったことに気づく。ケン・ローマックスは、「コウリツダ、コウリツダ・・・・・・」と脇で念仏を唱える伝道師のようなもので、あの「白髪三千丈」ならぬ「模造紙三千枚」も効率学最大の敵である「壮大な無駄」にすぎなかった。

ただ、笑える結末としては、ケン・ローマックスがグラント氏こそひとり昇進昇給されるべきヒーローだという提言をしたことである。

彼のような非効率つまり管理放棄の態度こそ部下の創造性を促進するもので、この非効率こそ効率だというパラドックスを平然と示したことは見事というよりほかにない、

あの決断力あるISバイオ社の幹部なら「仰せの通り」と喜んで役員室に席を用意することだろう。

「おぬし、読者をバカにしとるのか?」といわれそうだが、僕だってその言葉がのどまで出かかっているのをがまんしているのだから、ちょっとの間待って欲しい。

せっかくのウェールズから遠来のアラン・ハリス氏である。さはさりながら、彼が言おうとして必ずしも言い切れなかったことに思いをはせる、くらいの礼を示しておかなければあとで後悔しそうである。

というのも昔、英国人の書き下ろし劇を「腑に落ちないことがある」と少しばかりケチを付けたことがあって、それがどうもひんしゅくを買った(らしい)。その反省からなるべくいいところを探して強調すべきだと考えるようになったからだ。

いきさつを説明するのも面倒だが、それは2007年4月「きれいな肌」(新国立劇場)のことである。( 劇評または劇評

ある劇評サイトに誘われて、批評を書き送ったのにいくら待っても掲載されない。これはどうも中身が気に入らなかったのだろうと思って、理由は確認しなかったが、しばらくたってから自分のサイトに上げた。

作者は、パキスタン系英国人のシャン・カーン。

英国北部の町でムスリム排斥の政治運動に参加している若い男が母親と暮らしているところへ数年前に姿をくらました姉がイスラム教徒の扮装で戻ってくる。当然、町は騒然となり、一家は窮地に追い込まれる。

物語は、栗山民也のダメ出しで何回も書き換えられたらしく、社会描写も謎解きも時を忘れるほどの第一級の出来であったが、この姉の帰ってきた理由が描かれていなかった。起承転結の「結」がないと指摘したのである。

この程度でも劇評でけなしては「お行儀が悪い」と拒絶にあうのかと、唖然としたが、大新聞の朦朧体様批評や宣伝惹句を並べたような劇評はいかなる拷問や甘言にあっても書けないたちなので、よそさまに出張っていくときは気をつけなければならないと思った次第である。

ついでに言えば、栗山が書き直させるにあたって、シャン・カーンはほとほと困ったらしい。ダメ出しをくらって何回もストーリーそのものをまったく別のものにせざるをえなかったと言うのである。しかし、そんなことは当たり前だ。僕だったら、辻褄が合わなかったり、くだらなかったら確実に灰皿を飛ばしているな。今回、宮田慶子はずいぶんおとなしかったとみえる。しかし、こんな「あまちゃん」ではお互いになんだか恥ずかしいぜ。

ついよけいなことをいったが、作者アラン・ハリスが言いたかったことは痛いほどよく分かったのでそのことについて少しポジティブに論じておこうと思う。

それは、劇の骨格とはほとんど関わりのなかった「効率」についての議論である。

ケン・ローマックスの「効率学のススメ」で語られる「効率」は、天地創造の混沌の中からある必然性に導かれて現れる絶対的価値、いいかえれば、企業社会だけでなくこの世界全体を支える思想原理である、という壮大なものであった。このイメージは、言葉だけでなく帯状のスクリーンを使って、いわば神話から進化をへて現代科学へといたる歴史絵巻のようにくりかえし映像表現された。

おそらく作者アラン・ハリスが、現代産業―資本主義の根本原理は「効率化」にあり、効率の追求こそがその究極の目標であると解釈している、ということであろう。そして、舞台をISバイオ研究所としたのは、現代科学産業の最先端であるタンパク質の分子生物学的研究を「効率化」の進化の涯てとして見せたかった。そのように解釈できる。

しかも、作者はそれに対して渾身の力を込めて「ノン」を言いたかったのである。効率化はそれ自体が人間をも対象として目的化し、世界に不幸をもたらすものであり、それくらいならば、現状に甘んじて「後退」もやむを得ないと彼は考えた。

この劇は、全体として産業―資本主義に対する「異議申し立て」として構想したものであることはほぼ確実である。

たしかに、ビジネス世界はあらゆる局面で「効率化」に追い立てられ、その究極である一切の無駄を排除しようとする緊張した力学におおわれているようにみえる。したがって、ビジネスの目的は「効率化」にある、とアラン・ハリス氏が考えたことは無理のないところである。しかし、残念なことにその認識はかなり違った。それは指摘しておいてしかるべきだろう。

なぜなら、資本主義の現局面に対する「異議申し立て」として、「効率化」批判は必ずしも有効とは言えないからだ。作者は、「効率化」をそれ自身完結した「自己運動」と捉えているが、効率は別の目的を達成するための手段に過ぎない。その先があったのだ。

効率は割り算である。分母と分子で出来ている。だから分母に何をおくか、分子に何が来るかは無限の組み合わせが可能で、それ自体は単なる算術に過ぎない。ではビジネスにおける効率とはなにか?

たとえば経営指標の一つに「ROI(Return on investments)」という言葉がある。これは、「投下資本」を分母として、分子に「利益」をおいたものである。企業活動および投資家の目的は投下した資本に対して最大の利益を追求することにある。この「利益」とは、売上からコストを引いたものである。コストを分解すると固定費と変動費に分けられる。固定費は、人件費・賃料など売上の如何にかかわらず必要な経費、変動費は、原材料やエネルギー広告あるいは為替など生産にかかわる可変的なコストである。

ここで、気がつくのは利益を最大にしようとするなら、固定費削減には限度があるから変動費を可能な限り切り詰める以外にない、ということである。

T型フォードは、ベルトコンベア方式と同一型式製品の大量生産/大量販売でコストを劇的に下げ、利益を最大にすることが出来た。しかし、世界的な競争激化によって、戦後の自動車業界はさらなるコスト削減が求められる。有名なトヨタカンバン方式は、原材料投下から仕掛品、製品化、さらに在庫というプロセスがすべてコストに反映されることから、それを効率化しようとして成功した事例である。同じようにコンビニエンスストアの在庫、配送システムもコスト削減のための効率化である。

そして、90年代のIT革命によって、これらの生産や流通システムはじめオフィスワークを含めた現業において、これ以上省力化できないほど究極の効率化が達成された。

つまり、ケン・ローマックスの「効率学のススメ」は、過去をなぞったものであり、結果として作者のビジネス界の認識は、いかにも時代錯誤的であったのだ。結局、ジェニーがいうとおり、効率化コンサルタントは表向きの肩書きで、実際は経営者の依頼を受けた解雇通知役にすぎなかった。

こういう解雇請負会社が我が国にあるとは訊いたことがないが、米国には実際にあるらしい。

この間見た「マイレージ、マイライフ」(2009年、米、原題”Up in the Air”「雲の上」?)と言う映画は、大手企業の人事部から依頼を受けて解雇通知を代行する会社の話であった。ジョージ・クルーニー扮するやり手の営業マンは、キャスター付きのトランクを引き、全米のホテルを泊まり歩いて、様々な企業の社員に解雇宣告を届けている。

個室に呼び出された社員は突然再就職支援マニュアルとわずかな退職手当、健康保険二週間延長保証のワンパッケージを渡されて、否応なくGet Out!を告げられる。泣いたりわめいたり、自殺したり暴力に訴える社員もいるが、同情に堪えないという顔を作ってその場をやり過ごす。たまに帰る自宅には家具もなく、自分の暮らしには何の関心もない。ただ、雲の上を飛び回っているうちに、たまっていくマイレージだけが楽しみという、なんだかケン・ローマックスを彷彿とさせるキャラクターである。

この男が、旅先のホテルで出会った同業者の女と意気投合し、互いに日程を合わせて逢瀬を楽しむようになる。相手役のベラ・ファーミガは、目の色から肌の色までいかにもコーカシアンの典型と思ったら案の定ウクライナ美人と言うことがわかった。ジョージ・クルーニー請負人は、そのうちにどうもこのウクライナ美人に恋心を抱くようになったらしい。名前を頼りに電話番号を調べまくって、苦労と苦悩のあげくとうとう家を訪ねていくと、ドアの向こうに子供と亭主がいたという悲恋のお話だった。

ケン・ローマックスが、淡き恋心を抱いたイフィー・スコットの家を訪ねると、子供がよちよち出てきて、ついで現れた亭主に一発くらうという落ちを用意するのを作者は、よくぞ思いとどまってくれた、と書いたら僕も一発くらうだろうか?

それにしても、米国の企業社会とは何と酷薄なものだろう? 日本人なら、きっとこんなことはできないだろう。おっと、そう思うのは早計だった。日本には、派遣社員というもっと便利なものがあった。いざとなったら、こっちは電話一本で、マイレージなどたまる暇もない。さっき、固定費の中に人件費を入れたが、いまや人件費は変動費の一部と化したのである。

いつの間にこんなことになっていたのか? 何年か前、もといた会社を訪ねる機会があって、そこもまた派遣と正社員が机を並べて仕事をしているらしい。「能力は同じなのに、かわいそうだ。」と管理職になった後輩が語っていた。企業ロイヤリティもモラルもあったものではないだろう。どうも日本中が味気ない職場になってしまったことが思いやられる。

労働者派遣法ができた 1986年( 昭和61年)には、対象がスチュワーデスやSEなど専門性を有する 13業種にかぎられていた。この時代はバブル景気のただ中で、かえって自由な働き方ができるとたいした抵抗もなかった。浅田彰の「逃走論―スキゾ・キッズの冒険―」が1984年だから若者も浮かれた世の中だったのだ。

これが1996年(平成8年)、バブル崩壊、長期低迷まっただ中になると26業種に拡大される。ほぼ全面解禁といった有様である。自動車や電器の生産ラインは非正規雇用者で満たされ、工場は別会社にされ、経理部や総務部、人事部の半分、営業の一部までが派遣になり、いよいよ人件費は変動費に組み込まれていったのである。

いまになって労働者派遣法は問題だと騒いでいるが、この法律はすべて当時の国会議員たちの討議をへて、民主主義的に決められたものである。言葉を換えれば、労働者の賃金が変動費に組み入れられることを国民が認めたことになるのだ。国家がいつの間にか資本に屈服させられていたのである。

一体なぜこんなことになったのか?

大急ぎでいえば、経済成長が困難になったからである。

日本経済は、マクロ的に言えば欧米に先駆けて、1975年あたりにピークを迎える。つまり、さっき上げた例で言えば、企業の投資効率ROI(Return on Asset でもいいが)がそれ以降緩やかに下降線をたどることになったのだ。実物経済ではそれ以上利潤を上げることが出来なくなった資本は、土地と株というバーチャルな金融空間を作ることによって、そこから利潤を上げようとする。土地や株の値上がりという神話が将来の利益を期待し、みせかけの投資効率をあげたのだ。

何故日本にバブルが発生したのか?

それは欧米に先んじて、最も早く我が国が近代資本主義の頂点に達したからである。

バブルが崩壊すると、このときの負債がどれだけ銀行に貯まっているのか不明であった。この信用不安による長期低迷は、税金投入とメガバンクの誕生という解決策が実行されるまで十年あまり続いた。この間、経済成長を優先する政治が人件費を変動費に繰り入れることを容認してまで企業に利益を確保させようとする。

また同じ頃、社会主義が崩壊して一人勝ちした米国の勝手なルール変更である経済グローバリズムが世界を席巻する中で、企業はそれに乗じて会社は株主のものなどという新自由主義的経済イデオロギーを振りまいて、労働分配率を操作したのである。

結果として、GDPが成長局面にあっても年収200万円以下、22%(貧困率は16%)という貧困層を生み、国民の四分の一が税金を納められず、モノも買えない、つまり経済活動に参加できないというある意味もったいない社会を招来したのである。

そこで、政府は今頃になって企業に社員の給料を上げてくれと頼んだら、いくつかの会社はそれに協力しようとしている。

これは何を意味するのか?

我が国の経済が、いよいよ成熟し、飽和点に達したことを表している。消費と供給がバランスしたのである。 つまり、労働分配率がうまく作動しないと企業はものが売れないし、消費者もものが買えないという状態が到来したことを資本の側が自覚したということである。

こういう状態で「経済成長」とは何か?

考えさせられることだ、のう。

なんだか、あらぬ方向へきてしまった感があるので修正しよう。

近代産業―資本主義の本質は「効率の追求」であると作者アラン・ハリス氏は誤解したと言った。

では、資本主義を発展させてきた原理とは何か?

言うまでもなく、資本主義の目的は、利潤を生み出し、資本を増大させ、さらに大きな利益をとめどもなく(自動機械)積み重ねる(収集する)ことである。

教会によって押さえつけられていた中世欧州の経済活動は、俗語による聖書印刷がはじまり(新教が誕生)、羅針盤による航海術や火器の発達とともに資本主義へと飛躍する。プロテスタンティズムが初期資本主義の発展に寄与したことはマックスウェーバーの言説でも明らかだが、唯一利息を取ることを許されていたユダヤ人たちの郷党的互助の精神もまた同じ機能を果たした。

そこでは、「より早く、より遠く」が利益を獲得するスローガンになった。時間差と空間差が莫大な利益を生み出すからだ。収奪―植民地獲得競争である大航海時代を経て最終勝利者となった英国が18世紀から19世紀にかけて動力革命すなわち産業革命を成し遂げると、「より早く、より遠く」に「より多く」が加わった。

我が国の初期資本主義的経済活動と言うべきものも実は、西欧とほぼ同じ時期、15~16世紀頃からはじまったとされる。この平行性については未だ解き明かされない謎であるが、彼我の決定的差異はその自然観にあって、西欧が科学と技術を一体化させ自然から徹底的に収奪しようとしたのに対して、我が国の経済活動は自然と調和してその本質を知り緩やかに進行してきたところにある。

およそ150年前、我が国先人たちはこれを捨て、脱亜入欧、英国=米国アングロサクソンが主導する経済活動に同調することにしたのであった。植民地獲得競争最終ランナーとして参加すると、いったんは成功するかに見えたが、維新の革命家とは比較にならないほど世界を見る目がなかった昭和のKYな政治家/官僚/軍人がしくじった。バカな連中としか言いようがない。この国民300万人の命と引き替えにして成し遂げられたのが戦後の経済発展である。

しかしそれも、バブル崩壊後の長期低迷期、さらに2000年以降の小泉―竹中路線による景気回復期を通じても、若者にとっては就職氷河期が続き、働くものにとってもどんな希望も高揚感もない虚脱感漂う世の中になってしまった。

また、2008年のリーマンショックは、日本のバブルと違ってIT革命によって国境を越えて拡大した電子―金融空間を最大限に利用した資本の利潤獲得戦略であった。つまり、米国経済もまた、満足のいくROIを稼ぎ出すことが出来なくなっていたのである。

この結果、自動車のビッグスリーのうち二つまでは実質倒産し、金融市場は回復不能なまでに信用力を失った。

近代産業―資本主義を牽引してきたのは、自動車と電器の二つである。自動車は、原油の枯渇と高騰という二つの要素によって未来は見えており、電器産業はもはや欲しいものをつくり出す想像力を失っている。製造業は人件費の安い途上国へ移行し、これもまたアフリカあたりまで到達したら終わるという見通しが、いまや誰にでも予想出来ることになった。

「より早く、より遠く、より多く」は、2003年にコンコルドが滑走路のゴミに蹴躓いて終焉を迎え、ジャンボジェットは非効率の代名詞になって消えゆく運命であるように、あるいは、放埒とも言うべき化石燃料や水の消費によって進行した環境悪化が地球の未来に暗雲を漂わせる事態を迎え、そのコンセプト自体に疑問符が投げかけられはじめた。

劇中、作者はケン・ローマックスに次のような台詞を言わせている。

イフィーの新しい「発見」に対するケンの見解である。

ケン:(イフィーに向かって)

あなたは目を見張るような「発見」をしたらしい。でも、増やすことにならないんですか・・・? 原子力発電所やエネルギー、食べ物や飲み物をです。たばこを吸っても平気、好きなものも食べられる。それで癌になっても、だからなに? もっと消費して、もっと新しいものを生産して・・・。

我々はこの世界にいる限り、ものを増やし続けるわけにはいかないんですよ。いま、あるものをもっと効率的に使わないと。あるものでベストを尽くすんです。

進歩は否定しません。長い目で見れば、いいことなんです。人でも企業でも国家でも、もっと効率化すれば必ず大きな利益につながります。経費の削減は副産物に過ぎません。でも、世界がこのまま続くはずがない・・・・・・。そのうち浪費で滅びますよ。幸せになる唯一の方法が、効率化なんです。

対人関係失調症あるいは失語症ぎみの男にしては突然の饒舌ぶりに驚くが、しかし、これは、かえって作家が感じたままの本音を吐露した台詞のようである。

むろん、新しい「発見」は浪費につながるから握りつぶした方がいいという論理にはならないが、このままではたいへんなことになるという現代文明批判の真情だけはびんびんと伝わってくるのである。

ここから先は、エコノミスト水野和夫さんの言説に寄りかかって書くのだが、現在はどうも近代産業―資本主義の革命が進行しつつある時代らしい。

中世から資本主義が飛翔するきっかけになったのも現在とよく似ている。有効な投資先がなくなって、ROI(またはROA)=資本効率が悪化、「利子率」が2.0%を切った状態が続いたというのである。この「利子率」がきっかけとなった急激な変化を「利子率革命」と呼んで、いまは文明史論的視点で言えば約500~600年ぶりに訪れた「利子率革命」の時期に当たる。


すなわち、資本が稼ぎ出す利潤の値は、その時期の「十年もの国債」の利息にほぼ一致する(のだそうだ)が、現在、先進国の国債の利子率は10年もので、どこも2.0%前後である。公定歩合に至っては各国ともほぼ0%である。これは、資本(資産)が稼ぎ出す利潤が臨界点を迎えていることを意味している。実物経済では、もう稼げなくなった資本が、金融空間を仮想してそこでかりそめの利潤を作る、この反革命が日本で言えば土地と株によるバブルであり、米国で言えばジャンク債を使った詐欺まがいのバブルである。こうした「利子率」反革命はこれからも起きないとはかぎらないが、そのたびに税金が投入され、格差と社会不安が増大していくばかりである。

近代産業―資本主義の原理である「より早く、より遠く、そしてより多く」というコンセプトそのものの是非が問われているのである。

してみると、若者の自動車運転免許の取得率がこのところかなりの勢いで低下しているらしい。男子の19才までの取得率は1980年に同世代の47.2%でピークだった。それが2010年には27.2%まで落ち込んでいる。資本主義の牽引車はすでに魅力を失いつつあるのだ。

また、若者の「あの世」を信じる割合は20歳代で、1958年に20%だったものが2008年にはなんと49%にも増えた。(統計数理研究所「国民性調査」による)近代の価値観とは、科学と合理性を信奉することだが、近頃では若者にかぎらず40歳代くらいまでは不合理な「あの世」を信じているらしい。

近代的価値観への疑問は、現在と未来の関係にも表れている。高度成長がピークを迎えたあたりから、人々は「未来」よりも「現在」を重視する傾向が強くなっていく。

このことは、

「人々の現在に対する≪未来≫の拘束力が弱まっていったと想定できる。

≪未来≫を準拠点にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値観であったわけだから、70年代以降に顕著になるこの変化は、戦後社会という枠を超えて、近代社会の地殻変動がはじまっていた」(吉見俊哉「シリーズ日本近現代史(9)ポスト戦後社会」岩波新書、2009年)ことを示している。

「≪近代≫とはすべての社会的価値を『未来』に向けて再構築していく思想の営みと言うことになる。いいかえれば、『進歩』の概念と結びつく知識のみが、真の知識であり、それはもっぱら自然の征服を目指す技術的知識である。」(松宮秀治「ミュージアムの思想」白水社、2009年)

水野さんは言う。

「いま、起きているのは、こうした価値観に対する若者の反乱であり、征服したつもりの自然からの逆襲である。」

「大人たちは、自動車免許を取らない、あるいは海外旅行に行かない若者を覇気がないなどと批難するが、そう考えるのは大人たちが近代的価値観に拘泥しているからであって、若者からすれば、近代的価値観に魅力を感じないだけのことなのである。」

そして、カール・シュミットの「陸と海と―世界史的一考察」から次のような引用をして芸術家を定義する。

「偉大な画家というものは、単に何か美しいものを描いてみせる人であるのではない。藝術は空間意識の歴史的な目盛りであって、真の画家とは人間や物事を他の人よりもより正しく見る人間、何よりも彼自身の属している時代の歴史的現実の意味においてより正しく見る人間のことである。」

このようにして、「時代の変化を最初にかぎ取るのは芸術家と若者である。彼らは過去の仕組みにおける過去の成功体験に縛られないが、成功した大人ほど過去にこだわるのである。」

(あっ、これは水野和夫著「終わりなき危機、きみはグローバリゼーションの真実を見たか」日本経済新聞社、2011年、という全部で536ページ、うち本文354ページ<残り182ページは注釈>という大冊のほんの一部から引用したもの)

作者アラン・ハリス氏は、「もうこの辺で≪近代≫は終わりにしてもいいのではないか」と感じている。

「 もっと消費して、もっと新しいものを生産して・・・そのうち浪費で滅びますよ。」と警告したかった。

そのためにはたった四人しかいないバイオ研究所があることも、その効率化のために大量の紙を消費することも不思議とは思わなかった。

いや、そんな皮肉を言っている場合ではない。

アラン・ハリス氏は、「時代の変化を最初にかぎ取る芸術家」である。かぎ取った時代の変化する先(方向)の見通しをたてるのは必ずしも芸術家の役割ではない。だから、彼がその先についての思慮を欠いていたからと言って責められるべきではないだろう。

ウェールズ人、アラン・ハリス氏に日本人である僕が、僭越ながら一つのヒントを贈っておこう。

150年前、日本があなた方西欧の文明を受け入れて「近代化」する以前、日本人は商売のことを「あきない」といっていた。「あきない」には長く継続するという意味がある。むさぼり、強欲にふるまえば必ず報いが来て破綻するという裏の意味もある。これは自然にたいしても同じことである。人は入会地という共有地から必要の分だけ薪を取り、キノコや木の実を採取し、またそこへ木を植えた。日本人は、自然を畏れ敬ってきた。しかも自然を形成している一部であるといまも思っている。

おそらく、ウェールズでも昔はそうだったという声が聞こえてきそうである。

僕は、そこへ帰ろうと言いたいのではない。

ケン・ローマックスは、これ以上生産も消費もいらない、「 いま、あるものをもっと効率的に使わないと。」と主張するが、これは倫理によって無理矢理欲望を規制しようとすることである。アラン・ハリス氏の「近代」からの脱出は「倫理」に寄りかかる以外にないとするところだが、これがいかにも「昔へもどろう」といっているようで説得力のないところなのだ。

僕はものごころついたころから経済学というものが成立するのを不思議だと思ってきた。いまでも占星術や錬金術の次くらいに怪しい学問だと思っている。ノーベル経済学賞などと言うものは眉につばを付けてから見るべきものである。

水野さんは、あの「劇的なるものをめぐって」学際的なサロンを主宰している鈴木忠志先生のお眼鏡にかなったエコノミストである。ぼくも文明史論を語れる希有な経済人として信頼してもいいと思っている。

話をわかりやすくするために、もう一人の「未来を予見する言論人」である田坂広志氏の言説(水野和夫/古川元久編著「新・資本主義宣言」のうち田坂広志『目に見えない資本を見つめる日本型資本主義の原点へ』毎日新聞社、2013年)をアラン・ハリス氏に紹介して終わりにしようと思う。

田坂氏によれば、経済学者やエコノミストが、いまほどの経済危機に直面しても、資本主義の未来を語れないかと言えば、従来の経済学が「貨幣経済」というパラダイムの中でしか、資本主義を見てこなかったからである。しかし、我々が見つめるべき「経済」の実体は「貨幣経済」だけではない。その固定観念から離れたとき、経済というものに大きなパラダイム転換が起きていることに気がつくはずである。

これから資本主義と経済に起こる、そのパラダイム転換とは、次の五つであると田坂氏は言う。


1.「操作主義経済」から「複雑系経済」へ


従来の経済学は、いかにして市場や経済を意図する方向に「操作」出来るかという発想に立脚したものだったが、これは、20世紀に機械文明が発達しその恩恵に浴した我々が世界を一つの巨大な機械と捉え、それを徹底的に分析解明すれば、世界を制御し管理し、操作できるという思い込みであった。しかし、リーマンショックが明らかに示しているとおり、操作不能な事態が現実であり、経済活動を「複雑系」として、端的に言えば「一つの生命システム」として捉える視点へとシフトしなければならなくなったというものである。

2.「知識経済」から「共感経済」へ


これまで、「知的所有権」や「博士号取得者」など目に見える指標でしか論じられて来なかった「知識経済」の背後には、目に見えない「知識資本」が隠されている。知識を借りたり共有したりする他者との「関係」やその間に生じる「信頼」、そこから発生する社会的な「評判」や互いに知識を共有するという文化や創造的文化をもつ企業が所有する「文化資本」など、その根底にあるのが「共感資本」である。この目に見えない計量化できない資本が大事になっていく、と言うことである。

3.「貨幣経済」から「自発経済」へ


「資本主義の未来」を考えるとき最大の落とし穴は「貨幣経済」だけが経済だと思い込むことだ。人類の歴史には「交換経済」があり「贈与経済」もある。「贈与経済」は「ボランタリー経済」(自発経済)といって、現在に至るも一貫して社会を支えてきた経済原理である。この「ボランタリー経済」がインターネット革命によって急速に影響力を増している。ネット革命によって生まれてきたビジネスの多くは、そのビジネスモデルの中に「ボランタリー経済」がうまく組み込まれ融合されている。このように目に見えなかった経済を顕在化する方向へ急速にシフトしていこうとしている

4.「享受型経済」から「参加型経済」へ


欧米のビジネス論はほとんどが「いかにして顧客に商品を買わせるか」という「操作主義である。これは企業と顧客との関係を二項対立的に捉える思想といえる。ところが、消費者参加型の仕組みがネット革命によって生まれ、これが広がって行くようになる。日本型経済では、お客を「売りつける相手」ではなく「主客一体」と捉えて、「ご縁で結ばれた、お客様に教えていただく」という思想がその根本にすでに存在している。

5.「無限成長経済」から「地球環境経済」へ


近年の地球環境問題は、人類全体に地球という空間の有限性、そしてエネルギーや天然資源の有限性を極めて深刻な形で教えている。しかるに、いまだ「際限なきGDP成長」「際限なき増収増益」を目指す論調があるのはこうしたことに鈍感といわざるを得ない。我々に求められているのは「有限性」を前提とした「成長」である。その際の指標は国内総生産ではなく、国内総幸福量ともいうべき「社会の豊かさ」であるべきである。


これから先が、田坂氏の真骨頂と言うべき箇所で、是非アラン・ハリス氏には読んでいただきたいところである。


「この『有限の成長』へのパラダイム転換を考えるとき、興味深いことは、日本という国は、昔からこの『有限』という問題に処する叡智を持った国であったと言うことです。この日本という国は、狭い国土とかぎられた資源を前提として、経済や文化を発展させてきた国です。そして、現代においても、日本は『小空間』や『省エネルギー』『省資源』の最先端技術を持っています。この日本という国の強みは、こうした最先端の技術と、昔から受け継がれてきた成熟した文化や精神、思想、例えば『縮み』の文化や『もったいない』の精神、『有り難い』という思想と結びつけることが出来るという点です。その点こそが、これからの時代において日本が世界に誇るべきものでしょう。」

以上の五つをまとめて田坂氏は次のように言う。

これらのパラダイム転換の結果求められる新たな価値観とは実は我々日本人にとって『懐かしい価値観』である。これから世界の資本主義と企業経営が向かうべき『新たな価値観』とは実は日本型資本主義や日本型経営と呼ばれるものが昔から大切にしてきた価値観に他ならない。

ただ、かつての日本型経営の非効率や因習的で封建的な面はただしていくべきだが、それが実現すれば経営や資本主義論にとどまらず、社会の価値観という意味でも日本が世界をリードしていくことになるだろう。

なぜならこれから世界が向かうべき新たな価値観とは日本という国が、かねて大切にしてきた価値観だからだ。

では、これから世界全体に起こる『価値観のパラダイム転換』とは何か。

それは田坂氏は次の五つであるという。

1.『無限』から『有限』への転換


日本の狭い国土と限られた資源の中で培われてきた英知が生かされる。

2.『不変』から『無常』への転換


西欧の「不変」や「不滅」を価値として追求する文化に対して、激しく変化していく世界には、すべては変転していくという日本の思想が対応できる。

3.『征服』から『自然』への転換


自然は征服されるべきという西欧の価値観は、征服どころか制御さえ出来ないという現実の前についえさった。日本では自然との共生ではなく、自らが自然の一部であるという思想を持っている。

4.『対立』から『包摂』への転換


欧米の文化は二項対立の思想を基盤としているが、これからの世界は「対立」をこえ、多様な価値観や文化、宗教を「包摂」していくことが求められる。日本には、「八百万の神」や「大乗」の思想があり、多様性をしなやかに受け入れていける文化がある。

5.『効率』から『意味』への転換


欧米には、速いこと、大きいこと、楽なことはよいことだという思想がある。これがいまに至って世界全体を閉鎖的な情況に陥れた根本原因である。これに対し、日本ではまったく逆の価値観が昔から言われてきた。「急がば回れ」や「大器晩成」という言葉が速いことのみを追求する姿勢に警鐘を鳴らしている。「一隅を照らす」や「足るを知る」は大きければよいという考えに、「苦労は買ってでもせよ」や「苦あれば楽あり」は楽なことばかりを求める考えを戒めている。

以上は、田坂広志氏の論文のごく一部を紹介したものだが、これにしたがえば、ケン・ローマックスが、いまあるものの効率を高めることが善であるとしたことは、未だ西欧の思想にとらわれていることになる。問題はあるものを数値に変換してその効率を高めることにあるのではない。あるものの「意味」を問うことの方が大事だと言うことである。

アラン・ハリス氏を日本に招聘したのは間違いでなかった。

毎日のようにTVから聞こえてくる「○○させていただいています。」という謙譲語を聞かされてさぞかし目を白黒させたことだろうと推察するが、このうるさいほどの「させていただく」のが日本の文化であることを知っていただいただけでも、「効率学のススメ」が日本人には向かなかったと確認出来たのではないかと思う。第一、「○○させていただいています。」と言う言葉こそ言葉として効率が悪いことおびただしいではないか?

そして、「急がば回れ」や「足るを知る」などと言う言葉を知っていただいたならこの国民を効率学で啓蒙しようとしても無理だと自覚したに違いない。

しかし、アラン・ハリス氏は芸術家である。時代の変化をだれよりも最初に感じ取ってそれを表現した。それが多少筋妻が合わなくても、設定がおかしくても芸術家の直感を鋭く読み取って、それを評価し正しく修正を迫るのも劇評の役割であろう。

大新聞の朦朧体様劇評も否定はしないが、たまにはこんな劇評があっても許されると思って長々と無駄話をした。

題名: 効率学のススメ

観劇日: 2013/04/12

劇場: 新国立劇場

主催: 新国立劇場

期間: 2013年4月9日 ~4月28日 

作: アラン・ハリス

翻訳: 長島確

演出:  ジョン・E・マグラー

美術: 二村周作

照明: 小川幾雄

衣装: 伊藤早苗

音楽・音響: 加藤温

出演者: 豊原功補 宮本裕子 田島優成 渋谷はるか 田島令子 中嶋しゅう

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コメント

もし、自分の国が必要であるならば、自分の国は自分自身で守れ。
虎の威を借る狐* になるな。 狐の根性が汚い。

力は正義である。(Might is right).
もしも、自分に正義が必要であるならば、自分自身の力を示すこともまた必要なことである。

仏法の守護神は、仁王である。国家の守護神は、自国の軍隊である。
主護神を置かずして、法を説く者はむなしい。得意な歌詠みも、ごまめの歯ぎしりとなるか。

自分の死に場所を探す兵士ばかりでは、戦に勝てない。戦場に屍をさらせば、敵の戦果の山となる。
兵卒は有能、参謀は無能。
お上の理不尽な要求には、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、南の島に雪が降る。

序列メンタリィティを日本語脳から除去することは難しい。
階称 (言葉づかい) は、日本人のリーズン (理性・理由・適当) をむしばむアヘンのようなものになっている。

現在の地球は、英米の世の中である。各国の主張にはリーズンが求められる。
理性判断 (rational judgment) のできない国民は、世界の中にあっても、世界に属さず。
だから、日本人は国際社会において指導性を発揮することが難しい。

*(他人の権勢をかさに着ていばる小人のたとえ。)

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2013年8月23日 (金) 20時46分

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