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2013年7月 8日 (月)

劇評「音のいない世界で」

Otonoinai 飲み屋話の思いつきは、かくも無残な結果を生むという舞台の好例である。

以前「僕たちの好きだった革命」(2007年3月、ザ・サードステージ公演、シアターアップル)の劇評(劇評再論)で 、鴻上尚史と堤幸彦の飲み屋話からできたその芝居が、評価に値しない天下の愚作だといった。

劇作家と映画監督はいいお友達であった。つまり関係性に緊張感がないところにアルコールが入って、普通ならその場限り忘れるべき話がイカれた頭にはとてもすてきな物語に思えてしまった。恐ろしいのはそのいい加減な話に盛大な金をかけて実現させてしまうことだが、もっと恐ろしいのは不運にもそれを見てしまうことであった。

長塚: 二年前、都内のバーで首藤さんと思いついた話が、すべての始まりだった。

首藤: そのバーには蓄音機があり、「音が盗まれるっていう芝居があったら白いよね」っていう話になって。

長塚: 良平さんや松さんと一緒に作れたらいいなと思って声をかけたら、二人ともアイディアを気に入ってくれたわけだけど、どこから子供向けの芝居という流れになったか、記憶が曖昧で・・・・・・。

上はパンフレットにある出演者四人による座談会の記事の「臆面もない」冒頭である。

これでは我が身の不運を嘆く以外にないではないか。トホホ・・・・・・である。

「音のいない世界」というちょっと気取ったタイトルも「音が盗まれる」というダンサーの特異な思いつきを劇作家の長塚が詩人のふりをして飾ってみただけだったのだ。

「音が盗まれる」でも「音のいない世界」でもいいが、このフレーズが語りかけるイメージを観客なり読者なりと共有するにはおそらく何万語を費やしても困難だろう。抽象的だからというのではない。直感的になにものも生まない無意味な言葉だからだ。まして、この「音」が蓄音機であり、Discだというのだから、そんなものが盗まれて、なくなっても、音はこの世に充ち満ちている。

「音の『ない』世界」なら耳が聞こえないのか、あるいは「夜の静寂」や「沙漠の月」とか景色や情況の喩えになるが「音が『いない』」とは何だ?

「臭いが『いない』」も「味が『いない』」もない。「光の『いない』世界」なら田中祐二にとってあるかもしれないが、光がなければそれはただの闇である。

よく見ると、タイトルの脇に”In The Silence” とルビが振ってあった。さすがに英訳は難しいと見えて、大いに日和ったようだ。なんだ、「静寂の中で」と素直に言えば言いものを。

こんなのは、ヘボ詩人と言うのも、もったいないくらいの悪質な思わせぶりにすぎぬ。よい子は絶対にまねしてはいけないといっておく。

薄暗い舞台の奥いっぱいに、くもり硝子がはまった一尺画ほどの格子板が立っていて、左右にせまいドアが開いている。回り舞台がまわってそのドアから俳優や道具が出入りするという工夫が施してある。舞台が回るのはこれがレコード盤の喩えになっていて、そこから音が出るはずだということらしい。

明かりが入ると、下手の端を歩いて長塚圭史が、上手の端から近藤良平が舞台前面に進み、前口上をはじめる。

身体がゆらゆらして落ち着きがなく大いに照れていて、「ようこそ・・・・・・楽しんでください」と挨拶したあと、「昔、あるところに貧しい夫婦がおりました・・・」と前振りを述べてさがる。なんだか見ている方が不安になるような態度である。これはどうもよほど自信がないのだなと、悪い予感がした。

Otonobutai

暗がりの中にセイと言う女(松たか子)とその夫の旦那さん(首藤康之)がテーブルを前にくつろいでいる様子が見える。貧しいけれどふたりは幸せに暮らしているという天の声が聞こえる。

箱をとりだして開けるとそれがびっくり箱で、セイは明るい笑い声を上げる。大事にしているというカバンを開けるとそれは蓄音機であった。彼らはそれを鳴らして時々音楽を楽しんでいるという。

夫婦が寝静まっている間に、兄弟の泥棒、兄は近藤良平、弟が長塚圭史が泥棒らしい格好で忍び込み、蓄音機らしいカバンを盗んで消える。

盗まれたことに気がついただけでなく、どうも世界中から音がなくなったらしいと感じる。セイは、カバンと音を取り戻そうと泥棒のあとを追いかける。

セイがいなくなったことに気づいた旦那さんもセイのあとを追いかける。

物語は、音というのか、カバンというのかそれを取り戻す旅の途中を描いたもので、構造的にはロードムービーもののようだ。ただし、発端となった蓄音機=カバン?の盗難が何故「音を盗んだこと」になったのか説明はなし。

「旦那さん」の首藤康之はダンサーだから台詞はない。旦那が無口で妻がしゃべるというのは子供が見たら不自然だろう。近藤良平もダンサーだから、そこで、全編これパントマイムにナレーション、たまにせりふということになる。ダンサーがその筋肉を自慢する跳んだりはねたりのシーンは最後までなかった。

そのあと舞台で何があったのか説明しようと思うのだが、どうもうまくいかない。

短めのエピソードは次々に繰り出される。しかし、それぞれが途切れては脈略なくまたつながるので、話を伝えきれるかどうか自信がない。

おおよそのところをいえば、音がなくなったので、楽器もレコードも人々はそれが何かわからなくなり、鳥も虫も鳴くことが出来なくなって、死んでしまおうとしたり、 指揮棒がなんなのか忘れた指揮者や笛が吹けない羊飼い、めくらの老夫婦、墓穴を掘る男等々が次々登場し、結局のところ大切なものをなくしたら困ったことになるというおとぎ話をしたかったらしい。

らしい、とは無責任ではないかと言われるかも知れないが、正直のところ大切なものは大切だと納得するしかないし、そんな自明のことに何の感動も覚えなかったからしようがない。

むしろ、挿話のひとつひとつに既視感(デジャブ)があってチンプ、西洋おとぎ話オンパレードと言う印象が劇を薄っぺらいものにしてがっかりであった。長塚の頭の中にあるシェイクスピアはじめキャロルやピーターパンの芝居やのその他の童話(はたまたデヴィット・リンチの奇妙な映画=あれは「シランス=Silence」を多用する、など)にちょいとひねりを利かせただけの省エネものと感じたのは、こっちの感性が子供心の純真さを失ってはや長い時間が経ったせいかも知れない。ただ、幼かったころに見た「森は生きている」の舞台をありありと覚えている、その記憶に照らして思えば、この舞台がそれだけの水準にあるとは到底考えられなかった。子供もさぞ退屈したろう。もっとも僕のまわりに幸い子供の姿はなかったが。

だから、説明するのも面倒だと思っていたところ、幸いなことに、パンフレットに、そのシノプシスらしいものが載っている。

気がつかなかったが、この舞台は全部で十六景もあったらしい。

以下に書き写しておこう。

どういうわけかそれにはたいへん丁寧なことに、英訳が施してある。しかし、”In The Silence” のように英語の方が理解しやすいと思ったら大間違いで、何のための英訳か苦笑する以外にない。内容の薄いのを饒舌でごまかすというのはよくやる手だからな。

1.物語がはじまる夜( Night when the Story Unfolds)

2.びっくり箱と、なくしたもののかけら(Jack-in-the Box and Fragments of something Lost)

3.円盤を持った旦那さん、家をとびだす(Husband with a Disc in Hand Runs Out of the House)

4.電動扉と、工夫をなくしためくらの夫婦(Electric Door and A Blind Couple Running Out of Ideas)

5.わからないものを抱いてしまった泥棒と、そうでない泥棒と(A Thief who Held Onto Something Unknown and A Thief who Didn’t)

6.腹ぺことたたかう旦那さん(Husband Holds Back His Empty Stomach)

7.穴掘る人とおしゃべりの嫌いな小鳥たち(Hole Digger and Birds Do Not Like Conversation)

8.呑みすぎた羊飼いは、太陽にふられる(Drunken Shepherd Ditched by the Sun)

9.泥棒と人形と不思議なカバンの反抗と(A Thief, A Doll and Rebellon of A Mysterious Bag)

10.棒のかなしみと、やぶからぼうの愛の告白(Sorrow of a Stick and Unexpected Confession of Love)

11.円盤は戦争の気をそぐ(The Disc Distracts War)

12.泥棒もまたなくしものをする(A Thief also Ends Up Losing Something)

13.月も星も音もいない夜に、フクロウの森でふたり(During the Night with No Moon, No Stars and No sound, They Find Themselves in the Middle of the Woods with an Owl)

14.ある勝負のゆくえ(Corse of Events)

15.ぽろぽろになっちゃうから(Because Tears Fall in Drops)

16.静寂の夜明ける(Dawn of Silence)

どうです。立派に飲み屋の思いつきでしょう。酔っ払っている。

Fragments と言っているように、このひとつひとつが思いつきの切れっ端なのだ。

酔っているといっているのは僕の悪口ではない。

「あいさつ」のなかで、長塚本人がそう白状している。

首藤と近藤がいるならダンスだろうと思って来た人には悪いがこれは演劇だといったあとで、演劇とダンスのジャンルわけがよく分からなくなってきていることを説明しているのだが・・・・・・。

「このお芝居は台詞とト書きで構成されています。しかし、もちろん俳優の肉体を通して(今回はダンサーの肉体も大いに通します)台詞は発せられのですし、またその肉体は動き続けるのです。この肉体に近藤良平的視点が加えられます。加えられるのは松たか子とという希代の現代女優、さらに世界を股にかけて活躍するバレエダンサー首藤康之、小劇場からやってきた酔っ払いの私。そして良平さん自身です。」

台詞とト書きを書いたのは自分だが、身体を動かすのは近藤にまかせたといっているがこれは、演劇とダンスのコラボレーションがひとつの必然によって結ばれて「いない」ことのいいわけだと断じてよい。なぜ、この舞台にダンサーの肉体が必要だったか?その答えは、長塚が二年前に都内のバーで隣り合って座っていたのがダンサーだった、ただ単にそのことだけだったということである。

「ダンサーの肉体も大いに通します」というが、暗がりをただうろうろするだけで、ジャズセッションのソロパートみたいな踊りの場面を作るというサービスには思い至らなかったと見える。

近藤良平は、コンドルズという演劇に近いダンスパフォーマンスグループを率いているからそれを称して「近藤良平的視点」と言っているのだろう。一度コンドルズを見た印象では、その下品さにおいて2008年8月に見たつかこうへいの「幕末純情伝」(劇評)と双璧をなすものであった。近藤は「こんなものに何故俺が?」と思ったろうが、長塚に演出家として同業者とされたのが運の尽きであった。「世界を股にかけるダンサー」と演劇のつなぎ役に使われただけではなかったか?と劇中におけるその存在感のなさには驚いた。

首藤は、言い出しっぺだから逃げるわけにいかなかったのだろう。松たか子の「旦那さん」役を振られて満足したかも知れないが、自分が出演する必然性もないのにのこのこ出るのはプロらしくないではないか?

「演劇とダンスのジャンルわけがよく分からなくなってきている」という長塚の言葉に幻惑されて役者のまねごとをしてみたが、その違和感に気づいたのはかえって幸いだった。二度とこういうバカなまねはしないだろう。

ダンスは、言葉の代わりに肉体を使う演劇だが、ダンサーが踊りすなわち肉体を究極まで極めようとするのは自然な志向である。首藤には役者ではなくそっちの方向を向いてもらいたいと思って、暗黒舞踏の土方巽が残した言葉を贈っておこう。

2005年「眠り姫」(映像パフォーマンス、七里圭演出)僕の劇評から引用する。

「僕は土方巽がどんなときだったか忘れたが「自分の中にはしご段を下ろして、そこにある水を飲んでみる。」といったことを覚えている。あたかも自分の身体の中に暗闇の空洞があってその底に下りていくイメージが鮮やかに浮かんで、舞踏という表現が思想と直結していることを思わせた。この自分の身体を突き抜けた暗闇から「他者」が立ち現れ、その向こうに「世界」が回復するのだと僕は今でも信じている。」

実は、この飲み屋話の思いつきが実現してしまったのは、必ずしも長塚と首藤のせいばかりではないことに言及しなければ、不公平といわれそうなことがまだ残っていた。

芸術監督の宮田慶子は、「やわらかい場所」と題したパンフレットのあいさつの中でこう書いている。

「念願であった大人と子供が揃って楽しめる企画がついに実現します。『子供に合わせようとした平明な台詞回し』や『大げさな肉体表現』や『善悪などの価値基準を教示』するものではなく、何か新しい試みによって、新国立劇場ならではの、子供に向けた作品作りが出来ないだろうか・・・・・・」

そう考えて、英国留学で新しいことを学んでいた長塚に相談したというのである。

それで、「『戯曲のわくにとらわれずに稽古場で直接俳優たちと創造力を共有し合いながら作りあげる』子供と大人向けの舞台」と言う企画が浮かんできた。

どうすれば「創造力を共有し合」うことができるのか僕のようなぼんくら頭には理解不能だが、どうやら参加者がわいわい言ってアイディアを出し合う作業をしたということらしい。つまりみんなの思いつきを長塚が適当にまとめたというのだろう。

その結果、「誰もが心の奥底に持っている『やわらかい場所』_大人はそれを守るために隠そうとし、子供はその存在をどう扱ったらいいのかを戸惑う__・・・・・・そんな『やわらかい場所』の扉をコンコンと叩くような舞台」になったらいい、とあいさつは締めくくられている。

僕はこれを読んで、志ん生の「火焔太鼓」ではないが、あきれかえって、ひっくり返って座りションベンしそうになった。

まず、子供向けの作品が「平明な台詞」や「大げさな表現」や「勧善懲悪」でできあがっているという演劇人にあるまじき「価値基準を教示」している点には、唖然とするしかない。宮田のような大学教育まで受けたものと違って、子供は「平明」も「おおげさ」も「勧善懲悪」も知らない。そんなことは自分の子供時代を思い出したらわかることだ。もしも、子供向け作品を「言葉が幼稚」とか「大仰な仕草」とか「悪が栄えることだってある」と批判する子供がいたら、それは子供の範疇をはみ出している。相手にしなくていい。これらは意地の悪い大人の視点であり、子供心をなくしてしまったかはいそうなこどもの言い分である。

今まで、子供も大人もともに見てたのしいと言う作品はたくさんあった。それらは、宮田のいう基準で書かれているものもあっただろうが、そんなものばかりでないことは、誰だって知っていることだ。

言うまでもなく、子供と大人の違いは、身体にある。その成長過程で、第一次性徴、第二次性徴と現れ、もともと人間はサルだからサルと同じように成長し大人になっていく。 サルと違うのは、その身体に心という厄介なものがついて離れないことだ。

心における子供と大人の違いは、教育と経験である。この教育と経験の度合いによって、子供には受容仕切れないことがある。受容できないことは、子供の心にダメージを与える可能性があるのを大人は自分の経験から知っている。

子供向けというのは、ただ一点、そこに気遣いをするということ以外にない。つまり、言葉や身振りや単純な価値観といった表現の表層的な要素は属性であって、本質ではない。そこでえがかれたものを子供が受容しきれるかどうか、その判断のほうが大事なのだ。

さらにそのうえで、大人が楽しめるか否かは、その人が(人生をより豊かにしてくれるであろう)子供の心を持ち続けているかどうかにかかっているのはいうまでもない。だから、幼稚だろうが、大げさだろうが、勧善懲悪だろうがたのしいものはたのしいのだ。

新国立劇場が、新しい試みを企てるのに反対はしない。しかし、「子供向け」をこのような価値観で捉えて『それとは違うもの』を求めるのは本末転倒であり、かえって害悪になるというものだ。

(こんなバカなことを考えてるとは思いもよらなかった。血税だぞ!なんてマスゴミと同じケチなことを言う気はない。これだって国民がより賢くなるための「学習」という立派な公共事業なのだからな。)

それに「誰もが心の奥底に持っている『やわらかい場所』」とは何だ?

「大人はそれを守るために隠そうとし、子供はその存在をどう扱ったらいいのかを戸惑う」と言えば、真っ先に浮かぶのセックスのことだと誰もが心の奥底で思うだろう。

そこを「コンコンと叩く」とは、禁断のドアが開くかどうか試そうというのか?

実際何のことか理解不能なのだが、僕の直感では、その『やわらかい場所』はきっと叩いてはいけない場所だと思う。

こんなことをいつまで言ってもはじまらない。新国立劇場にはかつて大人も子供も楽しめる劇が、あったではないか。宮田がやりたい世界を考えるための見本ともいうべきものが過去にあった。

2006年3月に小劇場で上演された、山崎清介演出による、シェイクスピア「十二夜」である。山崎は、たしか1995年ごろから「子供のためのシェイクスピア」と称して、東京グローブ座他で公演していたが、おそらく栗山民也が新国立劇場にカンパニーを招聘したのだろう、これを見て山崎の仕事を尊敬するようになった。(また、他の機会に俳優、山崎清介の芝居をみるにつけ、うまい役者だなあといつも感心している。)

もちろん以前にも、「子供・・・シェイクスピア」は見たことがあったが、何しろシェイクスピアを有り難がる連中が大嫌いだったので、偏見が先に立った。

しかし、本音のところでは、面白いなあ、たのしいなあと思っていた。

あのクラックとかいう手を打ち鳴らす転換のやり方や、指人形に腹話術、パントマイムをからませて、しかも小田島雄志訳で見せて子供も僕もが退屈しないのだから、すごい技である。

山崎清介は、はじめに見たころよりも「ポンキッキ」で長い経験を積んだあとだったからこの2006年公演はこどもの扱いにはすでに円熟の域に達していた。

ともかく機会があったらまた見たいと思っている舞台である。

こういうものが、新国立劇場にとって何の蓄積にもなっていないとは驚きである。宮田にも長塚にも是非参考にしてもらいたい。

くさしてばかりいて、書いている本人がいやになってきたから、少し褒めておこう。

まず、伊藤佐智子の衣装が、なかなかいい。どこともいつの時代とも見当がつかないところは、子供向けという作家兼演出家の注文に応えたものだろう。洋風メルヘン調といったところは、この舞台に無難に合っていた。(褒めたつもり!)

「希代の現代女優」松たか子。(形容詞が本気で酔っ払っているなあ。)

困ったときの「松」頼み、である。

松たか子は、こういうわけのわからないものによく起用される。そして、けなげにも一生懸命演じようとして、何とかしてしまう得がたい才能の持ち主である。演出家がお手上げでも俳優の本能が舞台を破綻から救うのである。ある巨匠は、松たか子の演技を見て「俺が作ったのはこういう芝居だったのか」と気づいて大きな嘆息をついた。ある演出家は、本の解釈を考えあぐねて彼女にすべて託した。その演技を見て演出家は「あっ、そうだったのか」と納得した。

おそらく、長塚はこういう伝説を聞きつけていたのだろう。

いい加減な思いつきで書き始めた芝居が、大人の鑑賞に耐えられないと心配になったために急遽子供向けの話に切り替えた。が、子供にも大人にも「いけて」しかも舞台を牽引する女優がいなかった。困ったときの松たか子、登場である。

今度も一生懸命意味不明のものに取り組んで、その一生懸命さで舞台を支えた。キャリアは十分すぎるほどあるが、何故か「希代の」大姉御にほど遠いのは好ましいことである。しかし、器用なだけではこんなヘンな連中に利用されるだけだからそろそろ代表作を作る戦略に切り替えたらいいと思う。

それにしても、長塚はこの芝居で何をしたかったのだろう。

宮田の注文は、「『子供に合わせようとした平明な台詞回し』や『大げさな肉体表現』や『善悪などの価値基準を教示』するものではな」い子供向けでもある芝居と言うことだった。

プロデューサーが、言うことだから何が何でもその三点だけは避けねばならない。子供がわかる簡単な言葉は使わない。大げさな身振りはしない。(ここですでにダンサーの必然性が失われている。)単純な価値基準は示さない。

実は、これが逆だった場合も有り得る。長塚の書いたものを宮田が追認するために三点のいいわけをつくった。かもしれない。しかし、現れたのはこの作品だから、それはこのさいどっちでもかまわない。

長塚は、たぶん詩人になろうとした。

『音のいない』という少し変わったフレーズがそのまま『現代詩』であると錯覚した。音楽に『交響詩』というのがあるように、思いつきの切れっ端を集めて都合十六連の詩を書いたつもりだったのだろう。

この芝居は、四人が声を合わせて歌う場面で幕が下りる。

そこで歌われた詩は、何のことかサッパリわからなかったが、他のいろいろの舞台と同じように雰囲気からして、芝居全体を総括するエンディング曲のようであった。

この芝居を理解する手がかりになるのではないかと思っていたら、幸いなことに、プログラムに載せられていた。と言うことはよほどの自信作なのだろう。それは、記憶をトキと読ませる、次のような歌詞であった。

記憶(とき)のうた         詩:長塚圭史

過ぎ去りし日々は

すでに遠く

かすかな影さえ

もう消えゆく

たしかな道へと

歩みを決め

きみのぬくもりを

夢にとかす

針の回転は

弱く鈍く

瞳凝らせども

霞ゆく

静かに目を閉じ

振り返り

耳に済ませしは

きみのこえ

僕は、何とかわかろうとして何十回も読んでみた。

一体、この『きみ』とは誰のことなのか? わからん。

どうも、記憶というものは薄れていくと歌っているようだが、それがどうしたというのか?(漢字にルビを振ってあるが、これこそ英語訳をつけるべきであった。)

『針の回転』とはひょっとしてレコード盤の回転の間違いではないのか?それが『弱く鈍く』とはどういうイメージなのか?

『耳に済ませしは』ということばは日本語として正しいのか?ここは『耳をすませば/きみのこえ」ではないのか?宮田慶子は、これを許したのか、あるいは見逃したのか?

「子供に詩を作らせるな」と言ったのは、丸谷才一である。

「詩は言葉の魔法である。『力をも入れずして天地を動かす』技術である。さういふ玄妙なものを書ける子供が滅多にいるはずがないのは、明らかではないか。それなのに詩を書けとあらゆる子供に強制するとは、幼児虐待もいいところではないか。そして彼らがやむを得ず書いた、ほんとうは詩でも何でもないものを詩として扱ふのは、詩についての間違った概念を教へ込みたたき込む。まさに犯罪的行為ではないか。私はこのことを日本の教育のために悲しみ、日本の詩のために憂へるものである。・・・・・・

詩を読ませることはすこぶる有意義だらう。詩において言葉は最も魅惑的に用ゐられているはずだからである。

詩の重要性は、まづ何よりも、日本語がこれほど力強く、鋭く、匂やかで、豊かで、一言にして言えば美しい言葉であることを、意識的無意識的に関知させるといふ点にあらう。」(「完本日本語のために」新潮文庫、2011年3月、ただし、初版本は『日本語のために』1974年)

僕は、中高を通じていくつもの詩に親しんだ。

朔太郎、中也、光太郎、藤村、少し大人になって鮎川信夫や田村隆一、富岡多恵子、吉増剛造、入沢康夫、ギヨーム・アポリネール、ボードレール、ランボー、アレン・ギンズバーグ・・・・・・手当たり次第というわけでもないが、好きな詩は暗唱できた。

しかし、高校時代に四行詩二十何連だったかの詩を書いた恐るべき友人がいて、そのできばえにとどめを刺されて以来、自分で詩を作ろうとは思わなかった。

希代の現代劇作家が書いた詩を「やむを得ず書いた、ほんとうは詩でも何でもないもの」といいたいのではない。この芝居がエンディングも含めて一篇の詩作になっているとしてもやぶさかではない。

詩は、心に浮かんだ自分の感興をもっとも適切な(と言うことは、自分が納得できる)言葉にのせて歌うことであり、語ることだ。劇はそれに身振りが加わる。その作業は、あくまでも詩人個人の内省的行為であり、他人がかかわるべきものではない。はじめは思いつきに過ぎないもの、ちょっとしたひらめきにすぎないものでも、それが増殖してゆき形をなしていく間にそれ自身の辻褄を合わせていける(構築)のは詩人本人しかいない。

その最もデリケートな部分を「俳優の創造力と共有」したために、丸谷がいっている本来「力強く、鋭く、匂やかで、豊かで、一言にして言えば美しい言葉(劇だから身振りや物語)」で表現されるべきものが、ピントがずれて、曖昧で、美しいとは思えないものになってしまったのではないか。

いや、それでは劇評としては甘い。

やはり、あのエンディングの詩が示しているように、この劇は子供に見せるべき詩の水準に達していないと言うべきだ。

では、お前の言う詩とはどんなものかといわれそうだ。

僕がとやかく言うよりも、やはり丸谷才一の言を借りよう。

いつか、どこかで丸谷才一へのオマージュを表しておこうと考えていたから、いい機会である。この面白くもない劇評の口直しのために、締めくくりに掲げておこうと思う。

書評に取り上げられた多田智満子の詩の紹介とその鑑賞である。

多田智満子の「長い川のある國」(2000年、書肆山田)は、「一冊まるごとエジプトに捧げて、古代と現代、永遠と人間とのかかわりあひを扱う詩集」と丸谷は評している。

「例えばこんな作品がある。『刻』といふ題の詩。

まだ物象の形をとどめ

きっかりと石に刻まれた

神聖文字(ヒエログリフ)から

少し省略された祭司文字(ヒエラテイク)へ

もっと書きやすい民衆文字(デモテイク)へ

五千年も立てば坐り疲れて

文字だってもじもじと身をよじり

膝を崩したりもするのだ

エジプト文字の変遷をあつかふ。学問と言葉のしゃれで出来ている。この二つは昔から詩の重要な成分だった。杜甫もT・S・エリオットも学問をあしらった。・・・・・・学殖を前提にした詩、冗談を言う詩は由緒正しいもので、そして多田智満子は今の日本ではめずらしく正統的な詩を書くのである。

もう一篇。『空』という題。

あまりに空が虚ろなので

わたしはカバンを置き忘れた

たぶん四千年昔の神殿の裏手に

パスポートを紛失したが

かまうものか

帰るべき国はとっくに忘れて

しまっている

起承転結の妙を極めた詩である。思想史のようでしかもライトヴァース仕立て。帰るべき故国を思い出せないことと帰るべき現世を失ったことを二重に焼き付けて、人類史という厖大な時間の流れの果てに生きる現代人の寂しさを歌ふ。切々と、しかしちょっとおどけて。

かういふ奇想と機知による詩法が、叙情性ともっともよく結びついたのは、五連十行の詩『源』の中の四行か。

(ここでは、僕が勝手に五連十行すべてを紹介する。四行とは「――かれは」から星を鏤(ちりば)める」まで。)

この大河の源はどこか

見ようとして旅立った者は遂に帰らなかった

彼を探しに出かけた者は数年の後

おぼろげな消息をたずさえてもどってきた

――かれは遡って遡って銀河までたどりつき

  あの微細な星の一つになった

信じようと信じまいと

夜になれば川は満身に星を鏤(ちりば)める

水が源郷を恋うているのだ と

感傷的な人たちは語り合う

ほんとうはもう一篇『血』を引きたい。これは・・・・・・時間といふ主題、歴史といふ主題を優雅に歌った詩。 一冊まるごとエジプトに捧げて、古代と現代、永遠と人間とのかかわりあひをあつかふこの詩集を、あざやかに代表する作品で、この詩人の特色をもっともよく示すものだが二十行もあって長すぎるし、何しろ構成が厳密なので、抄出したのでは面白さが伝はりにくい。割愛するしかなかろう。」

と丸谷はいっているが、このブログは書評と違って枚数制限がないからその『血』を以下に引いておく。

一書に曰く

世界は砂時計として創られた

朝から夕べにかけて

白い砂がサアサアとくびれた漏斗の中を駆けおりる

それから時計はひっくり返され

黒い砂が夜通し漏れて落ちるのである

砂が世界であって

砂が時間であって

何度ひっくり返しても

夜は昼の裏側 昼は夜の裏側

すべてサアサアと透けて見える

砂ばかりで

砂が走るばかりで

砂のほかには

やはり砂のように乾いた甲虫が這いまわるばかり

そのほかには何の生物もなく

むろんヒトの影もない

それなのに(これも一書に記されたことだが)

時たま銃声がひびいて

砂が真っ赤に染まる瞬間があるのだ

続けて、多田智満子の随筆集『十五才の桃源郷』(2000年、人文書院)について言及しているが、こちらは割愛せざるをえない。しかし、僕が読んでも詩人の感性とその言葉がいかにあざやかに世界を切り取ってみせるか感心する。

長塚圭史にも、あの土方巽の言葉を贈ってこの劇評を終わりにしよう。

『自分の中にはしご段を下ろしてそこにある水を飲んでみる』

その暗闇で、身をよじるようにして紡ぎ出す言葉しか詩にはならないものだ。





題名: 音のいない世界で

観劇日: 2013/01/11

劇場: 新国立劇場

主催: 新国立劇場

期間: 2012年12月23日 ~ 2013年1月20日 

作: 長塚圭史

演出:  長塚圭史

美術: 乗峯雅寛

照明: 笠原俊幸

衣装: 伊藤佐智子

音楽・音響: 加藤温

出演者: 近藤良平 首藤康之 長塚圭史 松たか子

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