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2013年2月 8日 (金)

呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その7=最終)

「吉本隆明の世界(中央公論特別編集)」(2012/6/25)は、吉本が亡くなって三ヶ月後に出版されたいわば「追悼号」である。当然生前からある程度は企画されていたものだと思うが、内容は寄稿された追悼文あり、吉本自身の短いエセーと過去の対談がいくつか、吉本を追悼する対談がいくつか集められた雑多なものである。

めずらしいのは「共同幻想論」出版当時、唯一のまとまった批判として提出された山口昌男の「幻想・構造・始原、吉本隆明『共同幻想論』をめぐって」(日本読書新聞、1969年1月13日~3月17日号)が収録されていることである。

その存在については、呉智英も言及しているが詳しい内容には触れていない。

一読して、これもまた苦笑を禁じ得なかった。余談ながら、少し紹介しておくと、冒頭、すでにこう書いている

「ひとあたり読んでみて、よく分からないのにまず驚いた。私にとってこれは最近めずらしい体験である。」

この次が笑いを誘うのである。

「これは昔前、田舎の中学生として小林秀雄の文章にはじめて接したときの驚き、慌てふためきようにも似てないとは言えなかろうと、と思われるのである。」

あの饒舌で博学の山口昌男をしてかく言わせるのだから、吉本と小林秀雄はいよいよ『わからなさ』の二大巨頭であることがはっきりした。

山口は、「共同幻想論」を読んで、自分が本を読む上で決定的な感受性のようなものを欠いているかと思ったが、フランス人ですら難解というレヴィ=ストロースさえも論理をたどっていけば解けてくるといった体験に照らしても、このわからなさは異質だと思うのだ、といっている。

「そう思いつつ序文を読み直してみると、なんといっても、これは本書の中ではもっとも分かりやすい部分であると言える。(例の「上部構造」=「共同幻想」といったところ)この大部分はいまはなき「言葉の宇宙」という言葉の雑誌の蛇ににらまれた蛙のごとき編集者によるインタヴューの再録からなっているが、全体の雰囲気は熊公相手に世間話をしている隠居の風貌がうかがえて、なかなか愉快に構成されている。一寸分かるとすぐ調子にのるのは私の悪いくせであると思うが、哲学青年的真面目さが吉本という人の真骨頂であろうか、と遠くからながめて感じ取っていた私なんぞには、この人はなかなかの演戯者であると改めて感心させられる次第である。」

吉本隆明を「演『戯』者」だといっているところなど大いに笑えるが、このあとの内容は、後々何人もの人によって書かれた「共同幻想論」を論じる文に一部取りこまれている。1969年の時点で、山口昌男によって指摘されたことは、時を経ても色あせていなかった。つまり、この批評が発表された当時、これがまともに読まれていたら「共同幻想論」の評価があれほど高くなっていたかどうか、例えば、高橋順一のような研究者や山本哲士のような(おっちょこちょいともいうべき=失礼!)エピゴーネンを生んでいたかどうか、かなり結果は違ったのでないかと思われる。

呉智英は、このことに触れて次のように記している。

「出版後、人類学者山口昌男によって批判された意外、論壇でもアカデミズムでも「まともな批評の対象とされたことがほとんどなかった」。そういうのは、私と同世代の評論家の小浜逸郎である。

小浜逸郎は、私と違って、学生時代から吉本隆明を愛読し尊敬し続け、1990年代に入ってから吉本への違和感を表明するようになった。とりわけ1995年のオウム真理教事件に関する吉本の妄言とも評すべき発言で、小浜の吉本批判は厳しくなった。しかし、小浜の吉本批判は掌を返したような罵倒ではなく、かつて自分が魅了された意味をも捉え返す誠実なものであり、小浜の吉本論はいずれも丁寧な労作である。その一つ「吉本隆明ーー思想の普遍性とは何か」(筑摩書房、1999)で、こう言う。

要するに、この書物(「共同幻想論」)はこれまで、アカデミズムにおいてはむろんのこと、思想ジャーナリズムにおいてすら、一種の異物として、「敬して遠ざけ」られてきたのだ。

そのことは、吉本隆明というカリスマ的イメージを不必要に肥大させた。もちろん、それは思想にとってよくないことである。

そのとおりである。判断力に乏しい学生や教養の欠如した左翼論壇人たちは、吉本隆明への批判が出ないことを、あまりに吉本が偉大であるがゆえに、既製の学者や言論人は手も足も出ず、自らの頭の悪さを恥じて顔を伏せていると、都合よく誤解したのである。それこそまさしく「共同幻想」であった。」(呉智英、同書)

山口昌男の批判は、「日本読書新聞」連載という媒体にもかかわらず、 序文から、1禁制論、2憑人論、3起源論、4母性論、5対幻想論、6祭儀論 とつづく各項目について本格的に論じたものである。

むろん、呉智英のこの本の中にも、その批判の内容は一部取り込まれている。

僕は、あの学生の頃の四十年前、三分の二あたりの「対幻想論」に到達するあたりで、「共同幻想論」に現実感、何のリアリティも感じなくなって、以来ぱったり吉本隆明を読まなくなった。国家が共同幻想だからと言って、人生観が変わったり、何事か起こるわけでもないと思ったからである。

山口昌男は、「共同幻想」と言うもので捉えようとしている枠組みを、吉本が説明するのに「政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいい、のちに<種族の父>も<種族の母>も<トーテム>も単なる<習俗>や<神話>も・・・と付け加えている」かなり幅広いものであるらしいと認識する。

「この問題の立て方の新鮮な点はそれが「幻想の共同体としての国家」と言い切ることから出されたようである。それは日常性の中に埋没していた意識を揺さぶるに大きな効果を持ったことは疑う余地がない。」(広告のキャッチフレーズみたいなものか?)

これが「共同幻想としての宗教」という形で問題が出されていたら、「当たり前だ、宗教はアヘンだというじゃないか」と誰も取り合わなかったに違いない。

「吉本氏の斬新さは、・・・体制の如何を問わず、我々の意識の外にも内側にもべったりはり付いてしまった「国家」を宗教、神話、習俗と併置することによって「国家」という我々の存在の規定的要素として聖域化しているものの過渡性を発いて見せたところにあるのであろう。」

しかし、吉本がこの編集者のインタビューで構成された「序」の中で、「わたしの前にわたし以外の人物によってこのような試みがなされたことはなかった」と発言していることに対して、それはないだろうといっている。

「氏が一流の演戯性を発揮しつつ断言するほど「世界思想というような分野」で「十年くらいは先に言っている」かはいささか疑問に思わざるをえない。」といい、1924年のデュルケームの「個人表象と集団表象」をあげ、既に同じような概念が取り上げられていたことを指摘している。

僕にとっては、今さらどうでもいいのだが、山口昌男の批判はかなり詳細にわたっているもので、興味のあるむきは読んでも損にはならないだろう。

ところで、山口昌男ですら小林秀雄と吉本隆明を「並置」したことにいささか感銘を受けたのであるが、一体なぜこんなことになるのか気になることであった。

ここで脱線につぐ脱線ついでに、両者の「わかりにくさ」、一種の悪文という共通項以外になにかふたりに相通じるものがないか考えてみようと思った。(我ながらバカだねえ!)

先に「吉本隆明という謎が解けたかのような気がした。」と書いたことへの回答である。 したがって、単に閑談と思っていただきたい。

このような「異様」な文章が世に出回るについては、当然のことながら出版社という関門を通り抜けたからに他ならない。その前に出版社には編集者というフィルターが存在していて、そこでふるいにかけられてしまったら著書が印刷すらされることはない。通常書き手にとって編集者は自らをプロデュースしてくれる一応偉い存在である。

山口昌男がかなり皮肉っぽく書いているように、吉本隆明のフィルターは「蛇ににらまれた蛙のごとき編集者」であるから「もっと分かりやすく書け」なぞとは口が裂けても言えるものではなかったろう。あるいは編集者自身が、論文にあれこれ注文をつけたら、かえってお前は理解が悪いと軽蔑されると思ったかもしれない。

そういえば、小林秀雄も編集者にはずいぶんと高飛車な態度であったという。自身も一時出版社を預かったことがあったらしいが、たぶんこのとき酒席で、編集者を一度ならずぶん殴ったといううわさがある。小林の酒癖の悪さは知る人ぞ知るで、編集者は皆警戒していたという。そういうことだから、「小林先生、ここのところをもう少し説明したらどうでしょう」などというものなら。鉄拳制裁を食らうこと必定であった。

仲間の作家、「百名山」の深田久弥など山登りの案内人くらいにしか思っていなかったというほどの人柄の悪さもあって、注文をつけるべき編集者には、触らぬ神にたたり無しとばかり敬して遠ざけられていたことは容易に想像がつく。

小林秀雄は1902年、東京神田の生まれ、吉本隆明はそれより一世代若い1924年東京月島の生まれである。世代こそ違うが、両者とも東京下町の出、江戸っ子というところが共通している。もう一つ、両者とも在野の知識人である。

ここからかなり大胆不埒な推理になるのだが、江戸っ子で在野という立場は、明治新政府に逆らった幕臣の位置にあるといってもいい。

それぞれ帝国大学、官立大学を出たが、アカデミズムの中にはとどまらなかった。アカデミズムとは、明治政府が推し進めた西欧化・近代化の総本山で、それに与することは西洋の頭と論理と文脈で、つまり西欧が開発した道具でものを考えることになる。

ご一新からそれぞれ五十年ないし七十年ぐらいのことで、やすやすと西洋人に頭の中身を絡め取られるのは野暮な田舎者、田舎の秀才の所業である。帝大出で偉そうに大衆を啓蒙するなど、根無し草の田舎者のどこにその資格があるものか。(こちとら江戸っ子だい!)

「俺は、同じことを自分の国の言葉で語ってやる」と思い、意地でも近代的に「分かる」言葉と文脈では語らないぞと独自の道を探した。

その結果、言葉は作り変えられ語り口もまた独自の(悪文)スタイルになった。

こういう気分は、ご一新に近い世代にはもっと濃厚にあった形跡がある。

山本夏彦翁に教わった話だが、ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」を抄訳した中江兆民が「俺なら、同じことをこの三分の一の文量で書ける」といったとか・・・。

ともかく、呉智英が取り上げている花田清輝のように、左翼を取り締まる官憲の目を欺くために、一読して何を言いたいのか意味不明の文章を書き、その中に読むものが読んだらあのことか、とようやく分かる仕掛けをしたというバカな話とはわけがちがう。

「近代化」の違和感をとことん避けて道なき道を進もうとした結果、小林も吉本も読み手をジャングルに導いてしまったようなものだ。

そういう吉本に何か共通点があると誤解したおっちょこちょいがいて、フーコーだかラカンだかガタリだかフランスの思想家を引き合わせたことがあったらしい。

「俺のはそう言うのじゃないから・・・」と口には出さなかっただろうが、お互いにさぞかし気まずかったのではないかと、勝手に心配している。

吉本についていえば、この違和感が後年<アジア的>ということこだわる態度としてあらわになった。そして最晩年には<アフリカ的>と言うことを言っていた。(背景に、マルクスの言葉があるのは明らかだが)マルクスが何を言ったか、マルクス主義がどうであれ、「非西欧」という概念がはじめから頭の中にあったせいではないかという気がしている。

「近代を創始しリードしてきた欧米の人口は二十一世紀の現代でせいぜい全人口の二割弱ですね、残りの八割強の人間の基本的枠組みは非西洋近代の経験だということになります。

非西洋における近代の経験とは、やはり「遅れ」というか、外来の情報・文化と土着の情報・文化のせめぎ合いの経験で、情報化世界の環境のもとでそれは、リテラル(明視)とイリテラル(盲目)の対立ともなるでしょう。

そういう世界にとって近代や近代の解体がどういう意味を持つのか。日本が経験したように、非西洋が西洋近代に同化したり失敗したりという経験は今後も世界的規模で繰り返されるはずですね。・・・・・・

その意味では、西洋近代より非西洋近代の経験の方が、いまや広く、普遍的なのではないか、西洋近代の本質は非西洋近代の経験として生き延びるのだと思えます。」

これは、山口昌男の論文が再録されている「吉本隆明の世界(中央公論特別編集)」の冒頭に掲載されている追悼対談ともいうべき見田宗介と加藤典洋の対談「吉本隆明を未来へつなぐ」の内、加藤典洋の発言から抜粋したものである。

要約すると、おおよそ次のようである。

「近代を創った欧米は世界的に見れば少数派になった。大多数を形成する非西洋世界が今後近代化するプロセスは、それぞれの国や地域の事情にしたがって(日本が経験したように同化したり反発したりしながら)多様な様相を見せると思う。その大多数の多様な経験こそむしろ世界の「あたりまえ」であり、その中で西洋近代の本質は継承されるであろう。」

つまりこうした局面を、吉本が「超近代」と呼んで、その先に<アジア的>さらに先に<前アジア的>という意味で<アフリカ的>という「予感」をおいたことに説明を加えているのだが、吉本はもうこの世にいないからそれでいいとしよう。

この発言は、僕が言った戯れ言(日本が経験した西欧近代とのせめぎ合い)の証拠めいたものになっているともいえるが、しかし、加藤典洋の言い方もかなりいい加減で、こういう発言を一言で言えば、(皆勝手にやるのだから未来がどうなるかなど知ったことではない)曰く「混沌」である。

確かに世界は多様である。

今時のアラブ―イスラム世界をみれば、西洋近代が勝手気ままに線引きした国境と民族や部族や宗教とその宗派や原理主義等々が絡んで、その将来を考えたら頭がくらくらするくらいのものである。それでも「西欧近代の本質は継承される」のだから、安心してみていろとでもいうのだろうか?

この程度のオプティミストが日本の知識人というのもなんだか気恥ずかしいことである。

いっぺんアラブの沙漠へ出かけてみたらいいのに。

ソーシャルネットワークが「アラブの春」を生んだと、どこに行くにもPC片手の東浩紀などは喜んだが、春のあとにはとんでもない嵐がやってきた。ネットワークといっても所詮、烏合の衆に過ぎないものを一体どうする気だといいたい。

「アジア的」という言葉もかなり怪しげな響きを持っている。

戦前の「大アジア主義」というのは、辛亥革命を身を粉にして支援した梅屋床吉、宮崎滔天ら、インド独立運動を助けた相馬黒光ら、黒幕として活躍した頭山満ら、など「アジア」は一つと思い込んだ素朴な人々などかわいいもので、帝国陸軍が「大東亜共栄圏」の概念規定をしようとしてどうしても矛盾を解けなかったくらい「アジア」のコンセプトは実像を結ばないものだった。実際は植民地解放に名を借りた侵略思想であったことをあげつらう気はない。それは確かに存在した。しかし、軍が曲がりなりにも世間に対して説明するためには、かなり真面目に「共栄圏」の成立を検討したのである。昨今の鳩山首相のような思いつきとは少し次元が違った。おそらくこの問題をもっとも深く研究したのは大川周明であったはずだが、いま一顧だにされないことはそれはそれとして惜しいことである。

マルクスのいう「アジア的」とは、19世紀半ばつまりいまから150年も前の「アジア的発展段階」のことであり、はっきり言えば「未開社会」同然のことである。

欧米人が「アジア的混沌」といったのは、彼らが想像もつかなかったはげしい無秩序がそこに存在したからであった。しかし、現地の人々がそれを「混沌」と意識したとはかぎらない。むしろ、あの目がくらむような暑さとまとわりつく湿気によって、欧米人自身の頭が混沌とした可能性の方が高いのではないかと思うこともある。

僕は90年代半ば、タイのバンコクで秋から冬にかけて三ヶ月ほど仕事をしたことがあったが、確かに昼間外に出れば三十度を超える暑さで汗だくになった。しかし、オフィスの周辺は掃除が行き届いており、中に入れば効き過ぎるぐらいの冷房で快適であった。

貧富の差によってスラムなどの「混沌」あるいは都市と農村の差は存在しても、ただいま現在いわゆる19世紀的「アジア的」という言葉に対応する実態などどこにもない。あえて「アジア」といえば、そこにあるのは西欧的概念でいう「近代国家」群だけである。

小林、吉本「江戸っ子」説などという脱線もこれくらいにして、この加藤典洋・見田宗介対談の中で最重要と思われる部分について取り上げ、長かったこの文をとじることにしよう。

この対談は、むろん吉本追悼として行われたものだ。ところが、亡くなって一月程度の時期だったせいか、吉本と出会ったいきさつやら「共同幻想論」には感激したとか尊敬する先輩だったとかまるで通夜の席で交わされる通り一遍のお話でしかない。

橋爪大三郎のような、吉本の功罪相半ばする業績を端的に総括する中身の濃い追悼を期待したら拍子抜けするものである。

そのかわり、加藤典洋の興味がもっぱら見田宗介と吉本の関係に向いていて、話題の中心はむしろそちらにあった。

というのも、見田宗介が1996年に著した「現代社会の理論」について、吉本がどのような反応を示したのかを知ることが、実は晩年の吉本を知る上で、かなり重要な問題だったからだ。

この「現代社会の理論」は、何年にも渡って今も続く、くそ面白くもない編集(呉智英もそう言っていた)を繰り返す岩波新書がめずらしく放ったクリーンヒットだった。もっともそう言っているのは僕ぐらいのもので、内容のすごさに較べるとあまり話題にはならなかったと記憶する。

僕はこれを読んで長年心にわだかまっていたものが氷解するという貴重な経験を味わった。

対談の中に、この本の内容を加藤がまとめた部分があるのでそれを引用しよう。

加藤:・・・見田さんは、「現実」の対になる言葉として、一九五〇年代を「理想の時代」、六〇年代を「夢の時代」、八〇年代を「虚構の時代」という広く知られるようになる区分を提示されました。この区分は「戦後」に沿っていますが、実は「戦後」という枠を内側から解体しています。社会学的な方法を援用しながら、自分たちが経験してきた「戦後」をその中に新しい視座を導入していわば脱構築している。・・・・・・見田さんはそこで、はっきりと、資本主義を否定しないと述べられ、これを前提に、国家への批判的スタンスを外したまったく新しい問題提起をされています。そのことに、人々は戸惑った。困惑したのでしょう。その結果、黙殺された、ということだったと思います。」

戦後半世紀にわたって続いた保守、革新あるいはサヨク・ウヨクの対立という不毛な議論に、まったく新しい視点を提供し、それによってようやく我が邦未来をも論じられるような風穴を開けた画期的労作なのである。

そして、到来した情報化・消費化社会とは、マルクスが考えてもいなかった資本主義社会の高度に発達した到達点だったという見解を示した。しかも、国家はそうした社会を支える根拠として存在し、それを否定する必要もないと論じたのである。

しかし、それが黙殺された。一体我が邦の知識人と言われているものたちの神経はどうなっていたのか?

僕は、営業を三年やったあと25才から会社を辞める40才まで15年間、マーケティング部門(最後の二三年は経営企画室でM&A)で働いた。

マーケティングは、消費者意識を研究し、社会動向を見据えて(市場調査)商品開発を行い、商品の利益計画および販売促進計画を担当する部署である。土台には社会学と統計学がある。

八〇年代に入って、ポストモダン思想のひとつである「記号論」マーケティングが先端とされた。モノそのものよりも、人々はデザインや情報、モード(流行)を購買しているという理論である。ところが、マーケティングは、例えば「T型フォードが売れなくなった」昔から、そんなことは知っていた。 しかし、企業もまた流行に弱いもので、当時は、大学の先生まで動員し、それを解説したり応用する講座が盛んに行われ、おかげで、ポストモダン(思想)とはどんなものか会社の経費で大いに学ぶことが出来た。

ここで肝心なことは、デザインやモード、つまり広い意味で「情報」を付加することによってモノは無限にその意味を変換していける、ということである。

僕らは、商品の寿命を可能な限り長く維持する技術を磨き、さらに消費者ニーズを探り当て新しい商品を開発して新たな市場を創造することが出来ると信じた。

「資本の自己運動」のただ中に放り込まれたようであったが、それは「労働者」のくせに快感だった。

ちょうどこの頃、 僕はあるとき上とは正反対に、「欲しいモノは何にもなくなった」と感じたことがあった。懐に余裕が出来たからではない。むしろ家のローンはあったし、安月給でかすかすの暮らしであった。なのに、買いたいものが思いつかないのである。

ここで僕が考えたことは、資本家と労働者はいつのまにか階級闘争という対立関係ではなくなったのではないかと言うことであった。

つまり僕がものを買わなくなれば資本家は困るはずである。資本家は労働者を相変わらず搾取するが、労働者がモノを買えなくなるほど搾取し過ぎれば、巡りめぐって資本家は自分の首を絞めることになる。労働者が同時に消費者でもあることによって、少なくとも階級対立という構造は変容してしまっている。

この時ふと気づいたら、19世紀の半ばにマルクスが社会の矛盾と言ったものの大部分が、解決されていたことになるのではないか、と考えた。

ところが、何の根拠もないくせに、資本主義そのもの矛盾は未だ解決されず、いずれ克服されるだろうし、「国家」もまたいずれ揚棄されるべきものという漠然たる思いは残っていた。

ここで対談に戻って、引用する。

加藤:・・・日本人はある時点までは、戦後の遺産をどう生かすかというように、「戦後」を基軸に考えてきました。ところが、ある時期から「ポストモダン」の枠組みに移行していった。若い人は自然にその吸引力に引き寄せられたでしょうし、戦後的な主題を緩めずに持ち続けた人は少しづつ時代遅れだといわれるようになりました。                         ただ、面白いことに戦後からポストモダンへと枠組みが変わる中でも、生き延びたものがあります。                        それは、一つは資本主義の否定で、もう一つは国家に対する否定です。この二つが戦後のマルクス主義、そしてある意味ではそれに批判的だったポストモダンの中でも、不思議な形で、否定の対象として命脈を保ってきた。

まるで、僕のことをいわれたようなものである。

リオタールが「ポストモダンの条件」(ジャン=フランソワ・リオタール、小林康夫訳、1989年、水声社)でいった「大きな物語の終焉」は、実践的な「自由な主体」や「人間の解放」といった物語、さらにいえば「精神の弁証法」とそれが生み出す「知の体系」という物語が、二つの大戦を通じて無効になってしまったことを指摘したのであるが、これは直接共産主義を否定したものではなかったにもかかわらず、気分としては革命のあとに人間の理想としてきた自由と平等の世界が実現するであろうと考える世界観=大きな物語が物事を図る基準ではなくなっている、つまりマルクス主義は思想の世界ではもうだめなんだといっているように思われた。

しかし、だからといってリオタールは資本主義的経済システムが正しいとは一言も言っていない。

また、同時期に書かれたボードリア―ル「象徴交換と死」では「シミュレーション」と「シミュラークル」が戯れる「ハイパーリアル」な世界といって、マルクスが言った人間の労働の本質がまったく別のものに取って代わろうとしていることを暗に指摘した。

このために、ポストモダンは何となくマルクス主義には批判的だという空気があったが、はっきりとマルクス主義はもうダメなんだと理論立てていうものはいなかった。

「ポストモダン」はリオタールの著作ではじめて使われたのだが、一つの時代区分を表すのにふさわしい言葉であった。僕はこうした気分の発端は、1968年五月革命の敗北にあったのではないかと思っている。

ここから様々な人々が様々な方向に思索の道を拡げていった結果が「ポストモダン」という時代だったのではないかと僕は考えている。

したがって中には、マルクス主義的な世界観の再構築を目指した者がいてもまったく不思議ではない。

対談における加藤の発言の続きを見よう。

加藤:・・・吉本さんは、1980年代の末のガタリやリオタールといったポストモダンの思想家との対談の中で「資本主義を否定してマルクス主義の可能性を広げているけれど、それは違うのではないか、その広げ方の中には倫理が密輸入されているのではないか」ということを強調して語っています。いま読むと、吉本さんがポストモダンとは距離をとりながら、戦後的な言説が弱まった時代の中で、独自の基軸を探していることがとても明確に分かります。

「広げ方の中には倫理が密輸入されている」という指摘が具体的にどういうことなのか知るよしもないが、吉本隆明はポストモダンの思想家たちとの近似性が取りざたされていたにもかかわらず、それとは一線を画していたことがわかる。

「倫理が密輸入」云々は、あるいは、人間の欲望を抑制する契機が含まれているとすれば、その可能性の広げ方はきっと挫折するだろうと言うことかも知れない。

この頃の吉本をまったく知らない僕としてはこれ以上深入りはしない。

では、見田宗介は「現代社会の理論」でどんな風に資本主義を「否定しなかった」のかその核心部分について引用する。

需要と供給のインバランスが「恐慌」を生むという資本主義の基本矛盾を、

「資本のシステム自体により需要の無限の自己創出という仕方で解決し、乗り越えてしまう形式が、<情報化・消費化社会>に他ならなかった。

このようにして<情報化・消費化社会>は、はじめて自己を完成した資本制システムである。

自己の運動の自由を保証する空間としての市場自体を、自ら創出する資本主義。人間たちの欲望をつくり出す資本のシステム。資本制システムはここにはじめて、人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性という、システムにとって外部の前提への依存から脱出し、前提を自ら創出する「自己準拠的」なシステム、自律するシステムとして完成する。」(「定本見田宗介著作集Ⅰ」岩波書店、2011年、P32)

「人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性」とは、人間が「自然」あるいは「共同体」に縛り付けられている状態のことをいい、そこから解放されたものが「市場」という回路を通して欲望の充足を図る(れる)ようになったことをいう。

さらに続けて、

「<情報化・消費化社会>は、誤解されているように、「純粋な資本主義」からの逸脱とか変容ではなく、<情報化・消費化社会>こそが初めての純粋な資本主義である。

マルクスはこの純粋な資本主義、資本制システムの自立と完成の形式を見ないで死んだ。そして資本主義の形成途上の形態、労働の抽象化された自由の形式のみを前提とし、欲望の抽象化された自由の形式を未だ前提することの出来ない資本主義の形態を、このシステムの純粋な完成態と見てその理論のモデルを作った。」(同、P33)

資本主義は、19世紀のマルクスが考えた矛盾(その解決は絶望的だった)をどうやら自己準拠型のシステムを作り出すことで乗り越えたのである。

僕はこれを読んだときに、自分の実感をなんと巧みに得心のいく論理で言い当てているかと思って感激した。マルクスの射程はここまで届いていなかったのか・・・

このあとの展開も、僕は何度も目から鱗が落ちる思いをした。何故途上国の人口は爆発するのかという問題をインドの事例を引いて説くくだりなどはフィールドワークの重要性を端的に示すものであった。「アジア的」と口で言うばかりではちっともアジアを語っていない。

人口問題の答えは、社会保障のないところでは子供が唯一の老齢保険であり、その幼児死亡率は先進国の数倍もあるといういわれてみれば納得の事実であった。

見田宗介は、こうした資本主義の新たな問題は、大きく二つあるとこのあと論じている。

一つは、これまで見て見ぬふりをしてきた生産前、つまり資源と生産後、つまり廃棄が枯渇や環境問題として無視できなくなっていることである。

もう一つは、南北問題、つまり貧困と格差ひいては地球全体の富の分配の問題である。

こうした現実を前にすると、資本主義かマルクス主義かという議論がいかにむなしいものかと思って、僕は以来そのような問題の立て方をしないようにしている。しかし、世の中はそう簡単にいかない。

この本が出てまもなく見田宗介と吉本隆明は対談していて、それは、同じ追悼号に収録されている。

加藤典洋の興味は吉本の反応であった。

対談は穏やかに友好的に行われている。吉本は、否定も肯定もしなかった。・・・・・・

さて、否定されずに残ったもう一つのテーマが「国家は揚棄されるべき」であった。

国家は「共同幻想」にすぎなくて国家がなくてもわれわれはやっていけると説いたのが「共同幻想論」であった。しかし、山口昌男が皮肉を交えていったように「我々の意識の外にも内側にもべったりはり付いてしまった「国家」、「国家」という我々の存在の規定的要素として聖域化しているもの」という現実が「幻想」として消えてなくなるわけではない。

「国家」の起源がどこにあろうと「いまそこにある」リアルな国家が「世界国家」のようなものに揚棄されるというならそのプロセスを説明しなければならない。しかし、今のところ千年経っても実現できるかどうかその手がかりさえ見つからない。

僕は国家についてはこのブログの別のところで、どう考えたかを書いた。(今さらながらNAMのこと(続)」)長くなるのでそれは省略しよう。

この文の冒頭で、僕はベランダで外に向かってなんだかコン畜生という気持ちで哄笑したと言った。

それは、「こんなざまになってしまった」と「共同幻想論」を読んでいた四十年前の僕や僕たちの世代に対する呪詛のようなものだった。

多くのものたちは、「現代社会の理論」に、戸惑い困惑し、その結果、黙殺したのである。

ということは、いまでも資本主義は克服されるべきで、国家はいずれ揚棄されるべきという漠然とした思いが生き残っている可能性が高いということである。

それは、言葉を換えれば、戦後的保守革新の対立の構図を何の現実感もないままひそかに継承しているに過ぎないのだ。

市民派リベラルの代表格菅直人は、危機管理も自身の感情管理も出来なかった。東大全共闘の一員だった仙谷由人は、尖閣問題を合理性のないまったく説明不能な処理をした。いずれも団塊の世代である。国家とは揚棄されるべき「暴力装置」(仙谷は「暴力装置」といって物議を醸した)と考えていたかどうかは知らないが、少なくとも、「国家」を戦後的議論から脱却した場所で何であるか考えた気配は感じられない。

猪瀬直樹を唯一の例外として、総じてこの世代はふぬけの腰砕けである。

橋爪大三郎にいわせれば、それが吉本隆明の及ぼした強力な影響力であった。

呉智英の「吉本隆明という『共同幻想』」を読んで、僕は自分の青春を笑い飛ばそうとしたが、まだ青春を総括していないむきもあるということに気がついて、途中で声がこわばった。

呉智英は、吉本隆明を偉いと持ち上げた言論人たちの責任を追及してこの本を締めくくっているが、ことの本質はそこにはないと僕は思っている。

僕は幸か不幸か吉本隆明には巻き込まれなかった。そのテクストが読み込めないものであり、理解したとしても、自分の問題とは感じなかった。それがいまある世界の問題とは関係しないのではないかと思った。

そんな個人的なことはどうでもいいが(いや、若い人たちにはテクストそのものへ肉薄しろ!といっておきたい)、問題は、吉本を偉いといって持ち上げてきた言論人なり団塊の世代なりが、「現代社会の理論」を『無視』したことにある。

現実世界がこんなにも変化したのに、「いつか来るはず」の世界を漠然と待っているだけの人生。それこそが吉本隆明という「共同幻想」にとりつかれてきた人々である。

いい加減に、自分たちの青春を総括すべきだろう。

と、そう呉智英には言って欲しかった。そうしなければほんとうに「戦後」の幕引きが出来ないからだ。

封建主義者、呉智英は吉本を持ち上げてきた言論人の欺瞞を指摘して一応は満足だろうが、自分は寺子屋の塾頭然として「論語」を講じるなどいかにも隠棲を図ろうとしているのは許せないぞ!

書き始めたときは、どうなることかと思っていたが、どうにか終わることが出来た。

明日からは、専門の劇評に戻ろう。「るつぼ」が書きかけのままだと言って、これを書き始めたのを今頃思い出した。

書きなぐりで気がひけるがこれでアップしよう。

最後に一言。おまえら、真面目に総括しろ!

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