呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」(その5)
吉本隆明=ラカン説、精神分析=ペテン師説にまで発展してくると、いよいよこの稿のテーマから遠ざかってしまうのだが、もう少し言いたいことを言ってもとに戻しますから・・・・・・。
次ぎに書棚に見つけたのは、高橋順一著「吉本隆明と共同幻想」(2011年9月、社会評論社)であった。高橋は1950年生まれで早稲田大学教授。吉本の影響をもろに受けたと思われる世代である。
高橋はアカデミズムの人らしく、まず吉本の生きた時代を概観し、 その思想の必然性をくっきりと浮かびあがらせる。
思想とは、どんなに普遍的な価値を持つといえども、時代から切り離しては語れないものである。その意味では、番付をつけるというような乱暴な態度に対して、実に順当な前提で論をはじめる。
1923年生まれの吉本と高橋は27才と親子ほどの違いがあり、吉本が、軍国少年を体験したのに対して、高橋が60年安保を迎えるのはわずか10歳の時である。
この10歳が物心のつく頃、吉本隆明は新左翼の理論的支柱(ただし、そう思われていただけ)であった。
この支柱は、なぜか軍国少年であった過去を語らず、それ故にというかそのかわりに「自立の思想的拠点」を強調した。
高橋は、それなら俺にも分かると思ったであろう。
「言語にとって美とは何か」が、当時のスターリン主義文学理論に対するアンチテーゼであることを宣言「しなかった」ために、それは絶対的ともいうべき独自の地位を築いた。
同じようにして、「共同幻想論」が、象徴的な言い方をすればレーニンの国家論に対するアンチテーゼであることを宣言「しなかった」ために、それを世間が、いわば時代から屹立した独自の理論として奉ってしまった。
つまり普通は、「何々はこうだ」が、それに対して「俺はこう考える」、とするところを、論の構造から言えば動機あるいは前提となる「何々はこうだ」を省いてしまったのだ。(そのために意味がよく読み取れない論旨になり、晦渋な悪文がさらにわかりにくさを助長させた。)「俺はこう考える」だけが一人歩きしたために「言語美」も「共同幻想」も時代から屹立しているように見えた。
したがってそれは、絶対的価値ではないかもしれないが、追求するに足る真実に違いないと誤解するのはやむを得なかった。吉本隆明がカリスマとなっていく過程がどうもそれであるらしい。
高橋順一が、吉本との年齢差と経験した時代のあまりの違いに気づいたときは、遅かった。そのようにしてすでに「共同幻想」に巻き込まれたあとだったのだ。
この本の書評を、高橋をよく知る友人の小林敏明(ドイツ・ライプツイヒ大学教授)が書いている。
「ここであつかわれる対象はそのまま彼の代替不可能な一生を左右した事柄であり、それゆえに彼はいやおうなく肉声で告白気味にも語らなければならなくなっているからである。」
小林は、吉本教信者、高橋順一を「いたわる」ようにして続ける。
「初期吉本のキーワードとも言うべき『関係の絶対性』という概念をめぐって・・・・・・私にはこの概念はかつてから一貫してわかりにくかったし、今でも相変わらずわかりにくい。あっさり言うと、なぜ吉本はこれをたんに「客観的現実」と表現しなかったのか、その「意図」が本人からも、また彼を解釈する者たちからも明確に説明されてこなかったからである。それは廣松渉の一見よく似たテーゼ『関係の一時性』に当初から著者による綿密な理由づけがなされていたのと対照的でさえある。本書のなかでも高橋はこの概念が自明であるかのようにあつかっているが、それは吉本ワールドの読者にしか通用しない『黙契』にすぎない。」
また、高橋の著作の注目点として、次のように評価している。少し長いが引用する。
「吉本の有名な個体幻想、対幻想、共同幻想の幻想トリアーデは、もともとヘーゲルの家族、市民社会、国家に着想を得たものであろうことは、これまでにもよく指摘されてきた(ちなみにエンゲルスの家族、私有財産、国家も同列に加えてよい)。しかし日本には彼よりずっと以前に同じところから着想を得た者に『種の弁証法』を唱えた田辺元がいる。だからこの吉本のトリアーデが田辺の個、種、類を連想させるのは不思議ではない。つまり、吉本の共同幻想論の骨格は思われているほど特異なものではないということだ。
特異だったのは、吉本がこのトリアーデのもつダイナミズムの源泉を対幻想に求めたところにある。言い換えると、高橋も強調しているように、国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところにある。それは当時画期的だった。とはいえ、この対幻想はたんなる男と女のペアないし夫婦をモデルにした対幻想ではない。吉本=高橋によれば、なかでも『兄弟姉妹』の対幻想こそがそのポイントになるという。この対幻想は『起源としての共同幻想』に外部に向けた空間的拡大をもたらすがゆえに、そこから『国家としての共同幻想』への移行を可能にする結節点となる。だから高橋はこの結節点に着眼して共同幻想の解体と無化の戦略的ポイントは原理的には、この「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想のベクトルを逆向きにすることにあると言う。」
高橋順一の営為が、吉本の『共同幻想論』をどうにかアカデミックなタームで西欧哲学の文脈の中に取り込んだうえで、議論を普遍化しようとしたものであるらしい。
山本哲士の著作についても同じことはいえる。
山本や絓が吉本とラカンの関連性に言及するのは、この小林の文の中にある「国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところ」だという点に根拠があるのだろう。
重要な点は、「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想(すなわち人間の意識下にある情動のようなもの=フロイト的なもの)のベクトルを逆向き(逆立ち)にすることによって生じるのが『国家としての共同幻想』だとする点である。
そして、小林はこのパラグラフを次ぎのような一見して異質なものを持ち出して、締めくくる。
「これまで吉本のなかにこういう視点を読み込みえ、それをさらに展開しえたのは、おそらく小説家の中上健次ただひとりだけであっただろう(『枯木灘』『風景の向こうへ』参照)。」
つまり、小林によると、『国家としての共同幻想』とは、中上健次の小説の中で展開されるようなものであった。それでは『国家としての共同幻想』は、具体的には現実に存在するわれわれの知るところの「国家」ではなく、フィクションで表現されるより他ない「国家」と言うことになりはしないか?
つまり、イリュージョン=幻想としての国家、たとえ話の中の国家。それを論じたのが「共同幻想論」だとするなら、もはやなにをかいわんや、である。
僕は、少し性急に結論を求めすぎているようだ。
この点は、最後に呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」の中で確かめようと思う。
つづく
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コメント
興味深いです。
また遊びにきます。
投稿: starfield | 2013年1月 5日 (土) 21時28分